『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 畠山重保石塔
●畠山重保石塔
畠山重保石塔は由井濱大鳥居の傍にある五輪塔を云、明德第四癸酉霜月日大願主道友と刻む、年號重保より遙後なり、按するに東鑑に元久二年六月廿二日、軍兵由比濱に競走て謀叛(ばうはん)の輩(はい)、畠山六郞重保を誅すとあり、或は後人重保か爲に建(たて)たるか。里俗咳の呪(まじな)ひにとて祈願する者多し、願滿(いち)ぬれば、細き竹筒に煎茶の煑端(にばな)を入れて奉納む。
[やぶちゃん注:記者がそのつもりならこちもそのつもりで「新編鎌倉志卷之七」から私の注ごと引く。
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〇畠山重保石塔 畠山重保(はたけやましげやす)が石塔は、由比の濵にある五輪を云ふ。明德第四、癸酉霜月日、大願主道友と切り付けてあり。年號、重保より遙か後(のち)なり。按ずるに【東鑑】に、元久二年六月廿二日、軍兵由比の濵に競ひ走つて、謀叛の軰(ともがら)畠山六郎重保を誅すとあり。或は後人重保が爲(ため)に建てたるか。萬里居士【無盡藏】に、壽福寺に入りて、人丸家(ひとまるづか)を山顚より望み、六郎が五輪を路傍に指すとあり。又此の石塔の西の方を畠山屋敷と云イふ。是も重保が舊宅ならん。里俗、或いは畠山重忠が石塔と指し示し、又重忠が屋敷なりと云傳ふ。恐らくは非(ひ)ならん。重忠が屋敷は、筋替橋の西北にあり。重忠は、重保と同日に、武藏國二俣川(二股かは)にて誅せらるとあり。父子なり。
[やぶちゃん注:「明德第四」は西暦一三九三年。畠山重保の誅殺(享年未詳。実際には謀反人征伐の報で出陣した彼を騙し討ちにするという謀殺以外の何ものでもない)は元久二(一二〇五)年六月二十二日であるから、実に百八十八年後の建立である。銘は正確には「明德第四癸酉霜月三日大願主比丘道友」で、この施主については不詳。現在のところは畠山重保との血族関係はない人物と考えられており、墓と伝えられるこの宝篋印塔も供養塔と考えるべきである。畠山重保は武勇に長けた人物であったが、この由比ヶ浜での戦闘中、持病の喘息の発作が起こったために本意ならず討たれたとされることから、後にこの塔は咳の神「六郎様」(重保の通称)と呼ばれて呼吸器の病気平癒を願う人々の信仰の対象となった。父重忠は重保謀殺の知らせを受け、是非に及ばずと同日、武蔵国二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区二俣川及び鶴ケ峰付近)で幕府軍と交戦、討死にした。享年四十二歳。]
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「煑端」「にばな」と読む。「煮花」とも書く。煎じたばかりの香りの高い茶をいう。]