『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 海藏寺
●海藏寺
海藏寺は扇谷山と號す。建長寺の塔頭に屬す。開山を源翁と云ふ。翁初は洞家なりしか。後建長寺の大覺禪師に嗣法して濟派(さいは)となり。當寺を創立すと云ふ永享の亂に。海老名上野介戰利なくして當寺に引籠り自殺せし事東亂記に見えたり。
佛殿 本尊藥師を安す。里俗是を啼藥師(なきやくし)
鐘樓 元は應永二年の鑄鐘あり。其鐘は建長寺中西來庵に在りと云ふ。今貞享五年新鑄の鐘を懸く。
辨天社 方丈の西方(さいほう)岩窟にあり。雨寳殿と號す。
開山塔頭 佛超庵と號せしが今廢せり。
道智塚 或は阿古耶尼の塚とも云ふ。來由(らいゆ)詳(つまびらか)ならす。
寂外庵蹟 寂外は當寺の第二世にて源翁の法嗣なる。木像は本寺にあり。此邊を寂外谷とも蛇居谷(じやくがや)とも稱す。昔賴朝此處を切通(きりとほ)さんとて半は掘けるに。蛇の栖む石有て。血流るゝ故。其事を果さす。故に此稱ありと傳ふ。
十六井 境内の左山麓の巖窟の中にあり。深五六寸。徑二尺許の瀦水十六箇並列す。弘法大師加治の水と稱すれど疑ふべし且つ鎌倉志相摸風土記等にも載せざれば。或は是より後に土人の作爲して人を誑(あざむ)けるものならんか。
[やぶちゃん注:「扇谷山」これは「せんこくざん」と読む。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の附図をここに示して参考に供しておく。
「建長寺の塔頭に屬す」「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条に、
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昔は別山なり。天正の比(ころ)より建長寺の塔頭(たつちう)に屬す。建長寺領の内一貫二百文附す。
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とあるのを無批判に引いたもの。海蔵寺は古くは真言宗であったが、建長五(一二五三)年に第六代将軍宗尊の命で藤原仲能が禅宗に改宗させて伽藍を再建したとも言われる。但し、鎌倉幕府滅亡に際に悉く焼失、その後の応永元(一三九四)年に、鎌倉公方足利氏満の命で上杉氏定が大覚禪師五世の孫とされる心昭空外を招いて再び開山したと伝えられる。以後は扇ヶ谷上杉氏の保護で栄え、天正五(一五七七)年に臨済宗建長寺に属した。現在も建長寺派であるが、ここでは「塔頭」と記しているのが特異で、白井永二編の「鎌倉事典」(東京堂出版昭和五十一(一九七六)年刊)にも『寺は五山・十刹・諸山のどれにも列せず、はやくから建長寺の塔頭のようになっていた』とある。現在でも臨済宗建長寺派ではある。次注も参照。
「翁初は洞家なりしか。後建長寺の大覺禪師に嗣法して濟派となり。當寺を創立すと云ふ」同じく「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条にも、
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開山は源翁禪師なり。源翁、初めは曹洞宗なり。後に大覺禪師に嗣法して、臨濟宗となる。
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とあり、これがひいては本寺が建長寺の塔頭扱いにされてしまう遠因とも思われる。但し、禅宗では曹洞宗の僧が臨済宗の寺院の塔頭に庵を組むのは勿論、住持にさえなることは決して稀ではなかった。例えば私藪野家の菩提寺である臨済宗円覚寺白雲庵は渡来僧で円覚寺第十世となった東明慧日(とうみんえにち)の塔所で彼は同じく臨済宗の寿福寺・建長寺の住持も歴任しているが、慧日は元々曹洞宗の禅僧である。因みに現行、鎌倉市内で曹洞宗の寺院は少なく、私の知る限りでは、新井白石の玉縄学校で知られる大船の龍宝寺(玉縄城主北条綱成(永正一二(一五一五)年~天正一五(一五八七)年)が城域の東向かいの植木村小名山居(さんきょ)、現在の栄光学園附近に前身を創建、天正三(一五七五)年に彼の孫北条氏勝(永禄二(一五五九)年~慶長一六(一六一一)年)が麓の現在地に移した龍宝寺及び大船駅西口の大船観音を管理する黙仙寺(明治四二(一九〇九)年に静岡より移転)があるばかりである。
「海老名上野介」足利持氏の側近上杉憲直の家臣。
「東亂記」小田原北条氏の台頭から滅亡に至る五代の歴史を鎌倉幕府滅亡(元弘三(一三三三)年)頃から天正八(一五九〇)年まで東国隣接諸大名との関係を中心に記述した軍記物「北条記」(「小田原記」)の異本中の内題。
「應永二年」一三九五年。
「建長寺中西來庵に在り」「西來庵」は「せいらいあん」と読む。入って三門の右手にある嵩山(すうざん)門が入口であるが、現在は修行道場たる僧堂とされているため、通常は非公開で入れない。但し、鐘が移された経緯も不明で、そもそもがこの鐘、最早、現存しない。辛うじて「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条に、
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鐘樓跡 當寺の鐘は、今西來菴にあり。其銘に、大檀那常繼(じやうけい)とあり。常繼は上杉彈正少弼氏定(うぢさだ)が法名なり。氏定は、禪秀亂の時、藤澤道場にて、應永廿三年十月八日に自害す。普恩院常繼仙嚴と號す。當寺の檀那なりと云ふ。鐘の銘、左のごとし。
海藏寺鐘銘
相州扇谷山海藏寺常住鑄鐘、勸進聖正南上座、大檀那沙彌常繼、應永念二年十一月念二日、
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鐘銘を以下、影印本の訓点に従って書き下したものを示す。
※
相州、扇谷山海藏寺の常住、鐘を鑄る。勸進の聖、正南上座、大檀那、沙彌常繼、應永念二年十一月念二日
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銘の中の「念」は「廿」のこと。「念」と「廿」の中国音は共に“niàn”で音通することに依る。応永二十二年は西暦一四一五年。上杉氏定(文中三・応安七(一三七四)年~応永二十三(一四一六)年)は扇谷上杉家当主。関東管領上杉顕定の養子で、実父は小山田上杉家の上杉頼顕。鎌倉公方足利氏満・満兼・足利持氏三代に仕えた。
「貞享五年」一六八八年。老婆心乍ら、「貞享」は「じょうきょう」と読む。
「道智塚」「阿古耶尼の塚」「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条に、
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道智塚(だうちつか)
蛇居谷(じやくがや)の西南にあり。或は阿古耶尼(あこやのあま)の塚とも云ふ。共に未だ考へず。
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とある。一般に「道智塚」というと、養老年間の千日修行(七一七年から七二〇年とされる)で城崎温泉を開いたことで知られる、地蔵菩薩の化身と呼ばれた道智上人の遺徳を顕彰する塚を意味し、各地に見られる。「阿古耶尼」は阿古耶の松に纏わる伝説上の女性。右大臣藤原豊成の娘とも陸奥信夫領主藤原豊充の娘ともされ、詩歌管弦に優れ、松の精との悲恋で知られる。但し、現在の葛原岡神社の鳥居の傍に建つ鎌倉青年団の「藤原仲能之墓」の碑によれば、本海蔵寺の伝によって道智禅師藤原仲能の墓所と推察されている(則ち「道智」は同法名異人である)。仲能は鎌倉幕府評定衆、後に海蔵寺中興の檀家長となっている。位牌が海蔵寺に現存する。
「寂外庵蹟」「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の条の、
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寂外菴の跡 寺の西南にあり。寂外(じやくぐはい)は當寺の弟二世にて源翁の法嗣なり。木像、寺に有。此邊を寂外が谷と云ふ。又は蛇居谷(じやくがや)と云ふ。賴朝、此の處を切り通(とを)さんとて、半ば掘りけるに、蛇のすむ石有て、血流る。故に止(やめ)られけると也。之に因て蛇居谷(じやくがや)と云と也。其の跡今あり。其の外、棲雲菴・照用菴・崇德菴・翠藤菴・龍雲菴・龍溪菴・福田菴・龍隠菴等の塔頭の跡あり。
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とある。私は何を隠そう、この「蛇居谷(じゃくがや)」という字と呼称が何とも言えず好きなのである。
「十六井」ウィキの「海蔵寺」には、『「十六井戸」とも。薬師堂裏手の岩窟内にある。岩窟の床面に縦横』各四列・計十六の丸い穴がありており、『水が湧き出している。井戸ではなく、納骨穴とも、十六菩薩になぞらえたものとも言うが、正確なことは不詳である。岩窟の正面奥壁には観音菩薩像と弘法大師像を祀る』。他に嘉元四(一三〇六)年銘の『阿弥陀三尊像板碑が壁面に安置されていたが、鎌倉国宝館に寄託されている』とあるが、私は原形は明らかにやぐらであると考えている。但し、大三輪竜彦氏も支持される有力な説の一つであるやぐらの納骨穴に水が溜まったに過ぎないという説(白井永二編「鎌倉事典」の解説でも大三輪氏はそう記しておられる)であるが、まず、私はこうした形で掘られた納骨穴を持つやぐら(再掲するが、「やぐら」は鎌倉御府内及び鎌倉御府内の寺領のみで見られる特殊な墳墓形態である)を他に見たことがなく、四度ばかり実見した感じでは特殊な真言の呪法を行うために加持祈禱を修するための護摩壇のように見えた。しかし普段、「新編鎌倉志」や「新編相模国風土記稿」の剽窃ばかりしているいい加減な『風俗画報』の記者が(似たようにネット上で私の電子テクストを自分が作ったように剽窃して知らん顔している鎌倉の「記者」、ジャーナリストを詐称するとんでもない輩が今も現にいるのだが)、珍しく素顔を出して「弘法大師加治の水と稱すれど疑ふべし且つ鎌倉志相摸風土記等にも載せざれば。或は是より後に土人の作爲して人を誑けるものならんか」(「加治」はママである)という肉声を聴くと、何だか、そうかも! と思ってしまう私がいるのである。
「五六寸」十五・二~十八・二センチメートル。
「二尺」六十・六センチメートル。
「瀦水」音「チヨスイ(チョスイ)」、訓ずれば「たまりみづ(たまりみず)」(溜まり水)。]
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