『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 飯島
●飯島
飯島は光明寺より南方、海中に突出して風景絶美なり、東鑑に壽永元年十一月十日、賴朝寵愛妾龜前、伏見冠者廣綱(ふしみくわんじやひろつな)か飯島の家に住す。しかるに此事隱密の所に、北條殿の室家牧御方、賴朝御臺所へ申されしかば憤り給ひて、牧三郎宗親が家を破却せしめらるとあり。
[やぶちゃん注:現在の鎌倉市と逗子市の堺、材木座海岸東南隅の岬を言う。この海に張り出した港和賀江ノ島ある浜は鎌倉時代には西浜とも呼称しており、関所が存在した。これは後の室町期まで続き、またこの徴税管理監督権を極楽寺が握っていた。日蓮が「聖愚問答抄」で忍性を批判する中に現れる『飯嶋の津にて六浦の關米を取る』というのがそれである。
「壽永元年」一一八二年。頼朝・政子の鎌倉入城(治承四年十月初旬)から二年後のこの年の八月十二日(一一八二年九月十一日)には頼家が誕生したばかりであった。
「賴朝寵愛妾龜前、伏見冠者廣綱か飯島の家に住す。しかるに此事隱密の所に、北條殿の室家牧御方、賴朝御臺所へ申されしかば憤り給ひて、牧三郎宗親が家を破却せしめらるとあり」この新興鎌倉幕府あわや転覆という女好きの頼朝の不倫スキャンダルの「事故の顛末」は、以前に「新編鎌倉志卷之七」の「飯島〔附六角井〕」で、「吾妻鏡」の関連記事を日を追って順に見つつ書いた渾身の注があるので、再掲しておく。
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《「もう、やってられないワ!」――頼朝不倫発覚! マタニティ・ブルーの政子大ギレ!――十一月十日附》
〇原文
十日丁丑。此間。御寵女〔龜前。〕住于伏見冠者廣綱飯嶋家也。而此事露顯。御臺所殊令憤給。是北條殿室家牧方密々令申之給故也。仍今日。仰牧三郎宗親。破却廣綱之宅。頗及耻辱。廣綱奉相伴彼人。希有而遁出。到于大多和五郎義久鐙摺宅云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁丑。此の間、御寵女〔龜の前。〕伏見の冠者廣綱が飯嶋の家に住むなり。而るに此の事露顯して、御臺所殊に憤らしめ給ふ。是れ、北條殿室家の牧の御方、密々に之を申さしめ給ふの故なり。仍りて今日、牧の三郎宗親に仰せて、廣綱の宅(いへ)を破却し、頗る耻辱に及ぶ。廣綱、彼の人を相ひ伴ひ奉り、希有にして遁れ出で、大多和五郎義久の鐙摺(あぶずり)の宅に到ると云々。
〇やぶちゃん注
「龜の前」は頼朝の伊豆蛭ヶ小島での流人暮らしの頃からの女房の一人。頼朝はこの年の六月一日、後の頼家を妊娠中の政子には内密に(「吾妻鏡」に「外聞の憚りあるによつて」とある)亀の前を小窪(こくぼ:現在の小坪(こつぼ)で、飯島ヶ崎の逗子市側に当たる)の中原小忠太光家(頼朝側近の文官で後に政所知家事となる)の宅に呼び寄せていたが、通うのに不便なため、飯島(現在の逗子市小坪五丁目で飯島ヶ崎の鎌倉側)の「伏見冠者廣綱」(頼朝右筆)邸に移したのである(この頃の三浦方面へのルートは海路が主で、小坪への間道は不便であった)。「北條殿室牧の御方」時政の後妻、政子の継母。「牧の三郎宗親」姓でお分かりの通り、牧の方の父で時政の舅(一説には牧の方の兄とも)。出自は下級の貴族という。後の事蹟は不明であるが、彼の子の時親は元久二(一二〇五)年の牧氏事件(時政と牧の方が実朝を廃して娘婿平賀朝雅の新将軍擁立を企てたもので、政子と義時によって朝雅は誅殺、時政は執権を廃されて牧の方と共に出家させられた上、伊豆に幽閉)の際に出家しているから、一族、運には恵まれなかったというべきであろう。「大多和五郎義久」の「五郎」は誤りで「三郎」三浦義明三男。義澄の弟。現在の横須賀市大田和とここ鐙摺に城砦を持っていた。「鐙摺」現在の葉山町鐙摺。
《「やってやろうじゃネエか!」――頼朝逆ギレ! 宗親の髻がキられて宙に飛んだ!――十一月十二日附》
〇原文
十二日己卯。武衞寄事於御遊興。渡御義久鐙摺家。召出牧三郎宗親被具御共。於彼所召廣綱。被尋仰一昨日勝事。廣綱具令言上其次第。仍被召決宗親之處。陳謝卷舌。垂面於泥沙。武衞御欝念之餘。手自令切宗親之髻給。此間被仰含云。於奉重御臺所事者。尤神妙。但雖順彼御命。如此事者。内々盍告申哉。忽以與耻辱之條。所存企甚以奇恠云々。宗親泣逃亡。武衞今夜止宿給。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日己卯。武衞、事を御遊興に寄せ、義久の鐙摺の家へ渡御す。牧の三郎宗親を召し出し、御共に具せらる。彼の所に於て廣綱を召し、一昨日の勝事(しようし)を尋ね仰せらる。廣綱、具に其の次第を言上せしむ。仍りて宗親召し決せらるるの處、陳謝舌を卷き、面を泥沙に垂る。武衞御欝念の餘り、手づから宗親の髻(もとどり)を切らしめ給ふ。此の間、仰せ含め含められて云く、「御臺所を重く奉る事に於ては、尤も神妙なり。但し、彼の御命に順ふと雖も、此の如き事は、内々に盍ぞ告げ申さざるや。忽ち以て耻辱を與ふるの條、所存の企(くはだて)て甚だ以て奇恠なり。」と云々。宗親泣きて逃亡す。武衞、今夜止宿し給ふ。
〇やぶちゃん注
「事を御遊興に寄せ」義久の手の者が宗親による破却と鐙摺避難についての一報を内々に頼朝に知らせたものであろう。遊覧にこと寄せて破砕実行者宗親を有無を言わさず引き連れて真相を確かめんとしている。「勝事」珍事。とんでもない怪事件。通常は「快挙」の意であるが逆の忌み言葉として用いた。「舌を卷き」通常は現在と同じく感嘆・賛辞を示すが、激しい恐怖を感じた際にも用い、ここはそれ。
《「ワシゃ、もう、やってられんね!」――温帯もキレた! 時政、無許可で伊豆へ進発!――十一月十四日附》
〇原文
十四日辛巳。晩景。武衞令還鎌倉給。而今晩。北條殿俄進發豆州給。是依被欝陶宗親御勘發事也。武衞令聞此事給。太有御氣色。召梶原源太。江間者有隱便存念。父縱插不義之恨。不申身暇雖下國。江間者不相從歟。在鎌倉哉否。慥可相尋之云々。片時之間。景季歸參。申江間不下國之由。仍重遣景季召江間。江間殿參給。以判官代邦通被仰云。宗親依現奇恠。加勘發之處。北條住欝念下國之條。殆所違御本意也。汝察吾命。不相從于彼下向。殊感思食者也。定可爲子孫之護歟。今賞追可被仰者。江間殿不被申是非。啓畏奉之由。退出給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十四日辛巳。晩景、武衞鎌倉へ還らしめ給ふ。而るに今晩、北條殿俄かに豆州へ進發し給ふ。是れ、宗親御勘發(かんぼつ)の事を鬱陶せらるるに依てなり。武衞此の事を聞かしめ給ひ、太(はなはだ)だ御氣色有り。梶原源太を召し、「江間は穩便の存念有り。父縱ひ不義の恨を插(さしはさ)み、身の暇を申さずして下國すと雖も、江間は相ひ從はざるか。鎌倉に在るや、慥に之を相尋ぬるべし。」と云々。片時(へんし)の間に、景季歸參し、江間下國せざるの由を申す。仍りて重ねて景季を遣はして江間を召す。江間殿參り給ふ。判官代邦通を以て、仰せられて云く、「宗親、奇恠を現はすに依りて勘發を加へるの處、北條欝念を住(とど)めて下國の條、殆んど御本意に違ふ所なり。汝、吾が命を察し、彼の下向に相ひ從ざること、殊に感じ思し食(め)す者なり。定めて子孫の護りたるべきか。今の賞、追つて仰らるべし。」と。江間殿是非を申されず、畏れ奉るの由を啓して退出し給ふと云々。
〇やぶちゃん注
「勘發」命令の不履行を上位者が叱ること。譴責。「江間」は北条義時。この頃には伊豆北条の近隣である現在の静岡県伊豆の国市南江間を領していたことから、かく呼ぶ。「穩便の存念有り」事を荒立てることを好まぬ気性なれば、の意。「不義の」は頼朝に対する不義の、意である。
《「アンタ! 懲りないわね!」――亀ちゃん戦々恐々! されど強気の頼朝、再び小坪の愛の巣へトンボ返りを命ず――十二月十日附》
〇原文
十日丙午。御寵女遷住于小中太光家小坪之宅。頻雖被恐申御臺所御氣色。御寵愛追日興盛之間。憖以順仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丙午。御寵女、小忠太光家が小坪の宅に遷り住む。頻りに御臺所の御氣色を恐れ申さると雖も、御寵愛、日を追ひて興盛の間、憖(なまじ)ひを以て仰せに順ふと云々。
〇やぶちゃん注
政子の嫉妬心への強迫的恐怖、「憖ひを以て仰せに順ふ」の部分も亀の前の心境に立って叙述している。筆者のドラマティクな創りが光る。
《「あたしだって、ヤルときゃヤルわよ!」――急展開! 伏見の冠者流罪さる!――十二月十六日附》
〇原文
十六日壬子。伏見冠者廣綱配遠江國。是依御臺所御憤也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日壬子。伏見の冠者廣綱を遠江國に配す。是れ、御臺所の御憤りに依りてなり。
〇やぶちゃん注
伏見の冠者広綱こそいい面の皮であるが、彼はこれ以前から頼朝の右筆として不倫のラブレターの代筆などもしていたらしく、何はともあれ、上司のスキャンダルの責任をとって断罪された気の弱い哀れな男ではある。……もう少し、どうなるか見たいよね……ところが、だ……実はこの記事が「吾妻鏡」亀の前スキャンダルの最後の記事なのである。翌年は野木宮合戦から木曾義仲の入京、平家都落、十月には後白河法皇の東国支配権を認める宣旨があって、義仲追討(後に平家追討)の範頼・義経両軍の鎌倉出陣、と……もうそれどころの騒ぎではなくなっちゃうんだな……というよりも、私の「新編鎌倉志」をここまでお読みになってこられたほどの方なら御存知の通り、翌寿永二(一一八三)年というのは「吾妻鏡」から脱落している(一部が二年前の養和元年閏二月に錯入)……それにしても、美貌で控えめな女性とされた亀の前……鈴木しづ子のように、その後の行方は遙として知れないのであります……ちょっと淋しいね……
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