『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 小坪村
●小坪村
小坪〔坪或作壷〕村は飯島の東の漁村なり、此浦を鷺(さぎ)が浦とも云となむ片濱(かたはま)にて多景の地なり、東鑑に、壽永元年六月、賴朝の愛妾龜前を小中太光家が小窪の宅に招置(めしおき)、此所御濱出(おはまで)の便宜の地りとあり。按するに小窪は小坪なり、後に光家が小坪の宅と出たり。又建久四年七月十日、海濱涼風に屬(ぞく)す、將軍家小坪の邊に出給(いでたま)ふとあり、又正治二年九月二日、將軍賴家小坪の海邊を歷覽し給ふ、海上に船を粧、盃酒を獻ず、而るに朝夷名三郞義秀水練の聞(きこえ)あり、此次てに其藝を顯すべきよし御命あらければ、義秀潮船より下(を)り海上に浮(うか)み、往還數十度、結句波の底に入暫不ㇾ見諸人恠(あやし)みをなす所に、生たる鮫三喉を提(さ)けて御船の前に浮み上、滿座感せすと云事なしとあり、其外代々の將軍遊覽の地なり、又盛衰記に三浦義盛、畠山重忠と此(この)小坪坂にて、相戰ふ事みへたり。
[やぶちゃん注:「坪或作壷」は『「坪」、或いは「壷」に作る。』と読む。
「壽永元年」一一八二年。
「建久四年」一一九三年。
「正治二年九月二日、將軍賴家小坪の海邊を歷覽し給ふ、海上に船を粧、盃酒を獻ず、而るに朝夷名三郞義秀水練の聞あり、此次てに其藝を顯すべきよし御命あらければ、義秀潮船より下り海上に浮み、往還數十度、結句波の底に入暫不ㇾ見諸人恠(あやし)みをなす所に、生たる鮫三喉を提けて御船の前に浮み上、滿座感せすと云事なしとあり」これは私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之一」の「小坪」を見るに若くはなし! この場面の後、怪力無双の義秀に兄和田常盛が相撲を挑むのだが……「和田新左衞門尉常盛ト舎弟義秀ト角觝」「和田義盛ハ弟義秀に賜ひし龍蹄に打跨り飛が如クに馳歸る」という挿絵も楽しい。是非、ご覧あれ!
「三浦義盛、畠山重忠と此小坪坂にて、相戰ふ事みへたり」これは所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもので、三浦義盛は和田義盛のことである。治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこにこの和田義盛及び弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現・酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にしたのであった。]
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