『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 英勝寺
●英勝寺
英勝寺は壽福寺の北隣なり。東光山と號す。淨土宗尼寺なり。寺域は太田道灌の舊址にして。水戸中納言賴房卿の母堂英勝院禪尼〔太田新六郎康資の女なり寛永十九年八月廿三日逝す〕の創立なり。禪尼初東照公に仕へ。恩寵を蒙る。薨御の後薙髮して尼となり。寛永十一年六月。此地を賜はり。禪尼自菩提の爲に念佛の道塲を創し。賴房卿の息女を染薙せしめ。開山第一祖とす〔玉峰淸因と號す〕同二十年八月。大猷公執奏し給ひて勅額を下し。且常紫衣の宣旨を賜ふ。
佛殿 寳珠殿の額を扁す〔良恕法親王筆〕本尊阿彌陀〔運慶作〕左右に善導。法然の像を置く。梁牌の銘を掲く。
鐘樓 寛永二十年鑄造の鐘を懸く。
石盤 方丈の前にあり。澤庵宗彭の銘あり。
英勝院太夫人墓幷祠堂 佛殿の西にあり、墓後(ぼご)の岩に三尊を彫刻す。碑面に英勝院長譽淸春とあり。裏に墓誌を刻す。
阿佛尼塔跡 境内北の方にあり。阿佛は藤原爲相か母なり。極樂寺村月影谷は阿佛此地(このち)に下らし時住ける地なり。
總門 東光山の額を掛く。寛永廿年良恕法親王の書する所なり
山門 額は英勝寺と題す〔後水尾天皇宸筆なり〕裏に寛永二十一甲申年八月日臨寫之とあり
[やぶちゃん注:本寺については所縁の水戸光圀が生涯唯一の旅であった鎌倉来訪の際の拠点とし(その時の「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」はこちらで私が電子化している)、それが後に最初の鎌倉地誌「新編鎌倉志」と成った。されば「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺〔附太田道灌舊跡〕」の項は異様に細かく、力が入っている。必見。この寺は現在最後の鎌倉の尼寺で、私は二十代の頃より、何度も足を運んだものの、遂に一般の立ち入れる場所以外には入ることが出来ず、実見に基づく注が殆んど附せない数少ない鎌倉市街の寺の一つである。
「水戸中納言賴房」常陸水戸藩初代藩主で水戸徳川家祖である徳川家康十一男の徳川頼房(慶長八(一六〇三)年~寛文元(一六六一)年)。
「母堂英勝院禪尼」お梶の方(天正五(一五七八)年~寛永一九(一六四二)年)。徳川家康の側室。英勝院は法号。「母堂」とあるが実母ではなく養母である(頼房の実母は家康側室の萬(まん 天正八(一五八〇)年~承応二(一六五三)年)で彼女の方の法号は養珠院。日蓮宗の信者となり、夫家康からは後年、煙たがられた)。
「太田新六郎康資」ウィキの「英勝院」によれば、彼女の『父は里見氏の旧臣で太田道灌の曾孫にあたる太田康資とする説と、江戸城代の遠山直景(遠山政景の子)とする説、常陸国の戦国大名で豊臣秀吉により支配地を失い、結城氏の元に身をよせていた江戸重通の娘が太田康資の養女になったという説などがある』とある。
「寛永十九年」一六四二年。
「東照公」徳川家康の諡号。
「大猷公」第三代将軍で、家康三男秀忠の次男家光の諡号。]
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