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2015/09/29

追憶   立原道造

   追憶

 ――野村英夫に――

 

誘ふやうに ひとりぼつちの木の實は

雨に濡れて 一日 甘くにほつてゐた

ふかい茂みにかくされて たれさがつて‥‥しかし

夜が來て 闇がそれを奪つてしまふ

 

ほのぐらい 皿數のすくない食卓で

少年は 母の耳に 母の心に それを告げる

――そして 梟 夜のあけないうちに

あれを啄んでしまふだらう‥‥と

 

‥‥忘られたまま 樹は 大きな

うつろをのこして 靑空に 吹かれてゐる

傷みもなく 悔いもなく あらはに

 

そして病む日の熱い濃い空氣に包まれ

幾たびそれは少年の夢にはかなしくおもへたか

――もし僕が意地のわるい梟であつたなら――

 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。底本の第二部、堀辰雄らが抄出した初期詩篇二十七篇の中の一篇。中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注によれば、『四季』昭和一二(一九三七)年五月号に初出とある。私は個人的にこの詩がひどく切なく好きである。

「野村英夫」は道造より三つ下の(大正六(一九一七)年~昭和二三(一九四八)年)は詩人(但し、この詩を道造が献じた頃には試作を行っていない)。しばしばお世話になっている「名詩の林」の野村英夫」には「日本詩人全集 第八巻」(創元社一九五三年刊)よりとして、以下のような事蹟を載せる(一部に追加をした。リンク先で彼の詩十七篇が読める)。

   *

東京青山に生まれた。父は農林省官吏。祖父は吉田松蔭の門弟であった。早稲田大学仏法科に学んだ。受験勉強の無理から発病し早稲田高等学院の頃から毎年夏には追分、軽井沢などに転地療養した。その追分で堀辰雄、室生犀星、津村信夫、立原道造、中村眞一郎などを知った。「野村少年」と愛称されたが、特に文学に関心を持っていたわけではなかった。立原道造の死後(昭和一四(一九三九)年)、「立原道造全集」の編集に参加し、昭和一八(一九四三)年頃から塚山勇三、鈴木享、小山正孝らと『四季』を編集し、この頃から熱心に詩作を始めた。昭和二一(一九四六)年、小詩集「司祭館」を自分で筆写して数部つくり数編の小説や評論を書いた。またフランシス・ジャムを愛読し、影響を受け翻訳したり、小伝を書いた。

   *

中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻脚注には、昭和一一(一八三六)年八月十四日附の追分からの道造の『野村君という少年といつしょです』と書かれた書簡を示した上、彼はその頃、『堀辰雄に師事し、『四季』の詩人たちから野村少年と愛称されていたが、まだ詩を書いていなかった。道造の死後、昭和十五年ごろから詩を書き出し、カトリシズムの信仰の深まるとともに『四季』詩人中特異な存在となったが、宿痾(しゅくあ)のため三十一歳で死去した』と記す。]

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