生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(5) 五 背骨の出來ること / 第十四章~了
五 背骨の出來ること
人間を始めすべて獸類・鳥類・龜・蛇・蛙など所謂脊椎動物の特徴は身體の中軸に背骨を有することであるが、この背骨なるものは勿論、初から已にあるわけではなく、發生の進むに隨うて次第に出來て行くものである。しかもその出來始めは決して硬骨ではなく、軟骨よりもさらに軟い一種特別の組織から造られ、背骨に見る如き節は一つもなくて、單に一本の索に過ぎぬ。これが後に至つて軟骨となり、更に硬骨となつて、終に成長し終つた姿の背骨となるのであるが、今了解を容易くするため、まづ「なめくぢうを」に就いて背骨の出來始まる具合を説明し、續いて人間の背骨の發生を極めて簡單に述べて見よう。骨格の發生などといふことは、實は一般の讀者には無味乾燥で、定めて讀み苦しいことであらうとは思ふが、背骨は人間をも含む最高動物類の著しい特徴であるから、その始め如何にして生ずるかを知つて置くことは、考へやうによつてはやはり人生を觀る時の重要な參考とならぬとも限らぬ。
[「なめくぢうを」の脊索の發生]
こゝに掲げた圖は、いづれも「なめくぢうを」の發生中の幼魚の横斷面を示したものである。鯉や「ふな」を輪切にした切口に比べて考へたならば、およその見當は附くであらうが、圖の上部は魚の背面、圖の下部は魚の腹面、圖の横側は魚の側面に當る。小さな幼魚の斷面を四百倍以上に廓大した圖であるから、一個一個の細胞の境が明に見えて居る。この四個の横斷面は各々少しづ生長の程度の異なつた幼魚から取つたもので、㈠は卵から孵つたばかりのもの、㈡はそれより稍々後のもの、㈢はなほ少しく後のもの、㈣は更に發生の進んだものであるから、この四圖を順々に比べて見れば、その間に起る構造上の變化が一目して知れる。體の表面を包む細胞の層は皮膚であるが、圖ではこれが黑く畫いてある。背側の皮膚の下に同じく黑い細胞の列があるが、これは脊髓の出來掛りで、後に神經系の中央部となるベきものである。また腹側の皮膚の直下にあつて、體内の大部分を占めて居るのは腸の切口である。これだけは四圖ともにほゞ同樣であるが、脊髓と腸との間に當る處が圖によつて少しづつ違ふ。その中、體の中央線のところに起る變化が、今より説かうとする背骨の出來始まりであつて、その左右兩側に見える變化は前の節に述べた體腔の出來始まるところである。體腔の出來方は簡單ながら既に述べたからこゝには略して、背骨の出來始まる具合だけを見るに、初め何もなかつた腸の背側にまづ細い縱溝が生じ、次に溝の空隙は消えて溝の兩側にあつた細胞の竝び方が少しく變り、後にはこれらの細胞だけで獨立の棒となり、腸とは別れて脊髓と腸との間に位するやうになる。いふまでもなく、横斷部ではすべて切口だけが現はれるから、溝は凹みの如くに見え、棒は圓形に見える。即ち㈡の圖で腸の背部に下より上に向つて割れ目の見えるのは縱溝である。㈢の圖ではこの溝が已になくなり、㈣の圖では脊髓と腸の間に楕円形のものが見えるが、これは腸から別れて獨立した棒の切口である。この棒は「なめくぢうを」では生涯身體の中軸を成し、他の動物の背骨に相當するが、骨にもならず軟骨にもならぬから、たゞ脊索と名づける。
[やぶちゃん注:「四百倍以上」講談社学術文庫版では「三百二十倍以上」となっている。ここではよく観察出来る後者の図を用いたが、当該図を実際の講談社版の図よりも、二倍近くにしてあるので、六百四十倍以上で読み換えて戴きたい。また、図中の丸括弧数字は講談社の編集権を阻害しないようにするために、私が新たに配したものであることをお断りしておく。]
人間の胎兒に於ても背骨は發生の途中に突然背骨として生ずるわけではなく、まづ始は、脊索が出來る。そしてその出來始まる具合は、「なめくぢうを」に就いて述べた所と同じく、腸壁の中央線に當る細胞が腸から別れ、獨立して一本の棒となるのである。第十三日位の胎兒では腸の壁はまだ平で、脊索の出來掛りも見えぬが、その頃から追々出來始めて忽ち身體の中軸を貫いた一本の棒となり、この棒の周圍に軟骨が生じ、背骨の發育が進むに隨うて内なる棒即ち脊索は次第次第にその量が減ずる。脊索は單に紐狀のもので節は全くないが、これを包む軟骨には初から多くの節があつて背骨と同じ形に出來る。一箇月半頃までは胎兒の骨骼は全部軟骨のみからなつて居るが、七週位になると背骨の軟骨各片の中央に一つづつ小さな點が現れ、この處から漸々硬い骨に變化し始める。軟骨は葛餅程に透明なものであるが、硬骨は石灰質を含んだ白色不透明なもの故、軟骨内に化骨した處が出來れば頗る明瞭に知れる。特に近來のエックス光線で寫眞にでも取れば硬骨だけは明に暗い影となつて寫る。一旦化骨し始めると、段々硬骨の部が大きくなり軟骨の部はそれだけ減ずるから、その割合を見て胎兒の月齡を鑑定することも出來る。生まれる頃になつても、なほ軟骨のまゝに殘つて居る處は幾らもある。
かくの如く人間の胎兒ではまづ脊索が出來、次に脊索が軟骨の背骨と入れ代り、次に軟骨が漸々硬骨化して成人に見る如き硬い背骨が出來上がるのであるが、脊椎動物を見渡すと、これらの階段に相當する種類がそれぞれある。即ち「なめくぢうを」は一生涯脊索を有するだけでそれ以上に進まず、「やつめうなぎ」は一生涯脊索を具へて居るが、その外に少しく軟骨の部分があり、「さめ」・「あかえひ」の類は全身の骨骼が一生涯軟骨で止まるから、この類を特に軟骨魚類と名づける。「あかえひ」の骨は日本でも肉と共に食ふが、「さめ」の軟骨は「明骨」と稱へて支那料理では上等の御馳走に使ふ。その他の脊椎動物では骨骼は必ず硬骨と軟骨との兩方から成り立つて居る。
[やぶちゃん注:「明骨」「めいこつ」と読み、「名骨」とも書く。国語辞典にちゃんとサメ・エイやマンボウなどの軟骨を煮て干した食品で中国料理の材料、と記されてある。講談社学術文庫版では『「明骨」と稱へて』の部分が何故か、カットされており、言わずもがなであるが、『支那料理』は『中国料理』に書き換えられてある。]
以上本章に於て述べた所を振り返つて見ると、人間の個體としての發生の始は極めて微細な簡單なもので、まづ最初には「アメーバ」の如き單細胞の時代があり、次に同じ細胞の集まつた原始蟲類の群體の如き時代があり、次に「ヒドラ」・珊瑚などの如き時代があり、次に「みみず」の如き時代があり、それから「なめくぢうを」の如き時代、「やつめうなぎ」の如き時代、「さめ」の如き時代などを順々に經過して、終に獸らしい形狀・構造を有するに至るのである。これだけは實物に就いて調べれば直接に目の前に見られる事實で、決して疑を挿み得べき性質のものでない。しかし母の體に硝子の如き透明な窓があつたならば、これだけのことは何人の發生にも見えた筈のことで、王樣でも乞食でも西洋人でも黑奴でもこの點は少しも相違はない。およそ何ものでもその眞の性質・價値等を正當に了解するには、初めて生じた時から今日に至るまでの經過を參考することが極めて必要で、もしもこれを怠り、たゞ出來上がつた姿のみに就いて判斷すると隨分誤つた考を生ぜぬとも限らぬ。近頃は「生」を論ずることが頗る流行するやうに見受けるが、人間に就いても、その出來上がつたもののみを見るに止めず、その單細胞であつた頃までも考に入れて、「みみず」時代には如何、「なめくぢうを」時代には如何といふやうな問を設けて見たならば、或は議論の立て方にも感情の程度にも、大に變はることもあるであらう。
[やぶちゃん注:丘先生のヒューマニズムが炸裂している感じがして、思わず、私は呻ってしまったところである。素晴らしい。なお、学術文庫版では『黑奴』は『黒人』に書き換えられている。]
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