一日 立原道造
一日
私をささへて 黑い花があつた
私は それを 摘みとつた
祕密な白い液の重い滴りが
莖の色を 蒼ざめさせた
私の眼ざしは 枯れはじめた
私の饒舌は 息切れはじめた
黄昏は あちらの方で 一日を
心にもなく美しく化粧する と 私にはおもはれた
それが なぜ なのだらう?
窓の内側に燈がともつてゐて
ひそかな聲が呼んでゐるとき
多くの人が家もなく 急いでゐるのは!
私らが ひとつの橋で 明日
あり得ること 空しい問ひは
いつまでものこり そのままにそれは
問ひただしてやまないのだ
贋貨が通用しない日々はない
凋んだ花が 夜のうちに 生きかへるだらう
しかし 私は それを摘みとつた
私をささへて 黑い花があつた‥‥
*
雪が霽れて――空には 鳩らが低く
飛んでゐる 曇つた空に‥‥風景よ
ときに おまへは 忘却であり
おまへは 美しい追憶である
おまへの灰色は 鳩らと共に
灰色であり むしろ 慰め! だ
ためらひながら ひとつの情緒の
こころよく 訪れるときに――
おまへとの一日が たとひ無限を
あこがれないものであらうとも
僕らのフーゲが むしろくらく低く
寂寥のみの場所の あらうとも
風景よ おまへは自らの光をねがふ
雪のあとの夕べのしづかさに住んで
*
かつて私は Lyra をとり奏で
一日を 黄昏まで
うたひくらした日があつた
みづからの歌に聞き恍れながら
私の咽喉は金屬の
笛のやうに澄んでゐた
夢多かつた むなしい弱年の一日よ
私はいまは 夢で夢を描かうとする
身ぶりにまで 高まつたこの界ひに
しつかりと土の上に 私はいまは
架けようとする もつと大きなものを
怒りと一層激しい諦めで
眺められる あのひとつのものを
私が 靜かな測定器であるやうに
[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。第三部に配された未発表の未定稿詩篇五篇の最後に置かれたやや長い一篇である。途中の二箇所に配した「*」記号は底本では小さな「*」が三角状に配されたものである。
第三連二行目「燈」新潮社「日本詩人全集」第二十八巻は「あかり」とルビを振る。留保する。
第五連一行目「贋貨」後続の諸詩集は「にせがね」とルビする。私もそれを採る。
第七連三行目「情緒」中村真一郎編「立原道造詩集」(角川文庫)は「じょうちょ」とルビする。留保する。
第八連三行目「フーゲ」音楽用語の「フーガ」(英語“fugue”或いは。元はラテン語由来のイタリア語“fuga”で「遁走」の意)のドイツ語“Fuge”の音写「フーゲ」であろう。複数の声部に於いてある主題の反復及び模倣(応答)が交互に現れる対位法による多声音楽の書法形式で、特定の調に転調しながら展開される。
第十連一行目「Lyra」頭が大文字になっているところから、これもドイツ語と採る。音写は「リューラ」で、狭義には古代ギリシャに於いて用いられた竪琴(通常は七弦)のことである。共鳴胴に立てた二本の支柱に横木を渡して弦を張ったものである。リラ。同語が星座の琴座を指すことからもわかるように、あの、竪琴である。
同四行目「恍れながら」は「ほれながら」と訓じていよう。
第十二連一行目「界ひ」は老婆心乍ら、「さかひ」と訓じる。]
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