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2015/09/26

生物學講話 丘淺次郎 第十四章 身體の始め(3) 三 體の延びること

     三 體の延びること

 

 單一の細胞が分裂してまづ細胞の塊となり、次いで二重の細胞層よりなる胃狀の時代に達するまでは、變化が比較的に簡單であるが、これより先は構造が段々複雜になつて、詳しく書けばそれだけでも頗る大部な書物となる程であるから、こゝには素よりその一斑をも充分に述べることは出來ぬ。しかしながら、その中には人生を考へる人々のためによい參考となるであらうと思はれる點が幾らもあるから、その二三を擇んで要點だけを次に略述する。

[やぶちゃん注:ここまでの桑実胚が更に細胞分裂を行なって細胞数を増加させ、見ための胚の表面が滑らかになり、細胞数が数千から数万になる胞胚期までを初学者でも良く理解出来るように、実に易しく説明しておられる。所謂、小難しくなる「原口陥入」などの語は用いずに、以下原腸胚から神経胚の時期を語られてゆく。]

Kaerusinkeihai

[蛙の發生]

[やぶちゃん注:本図のみ国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。同じく言わずもがな乍ら、左から右の順である。]

 

 胃狀の時代に達するまでは、子供の身體は茶碗・湯呑・壺等と同じく、たゞ裏と表があるばかりで前後左右の差別はないが、この時代を過ぎると、身體が追々前後に延びて頭と尾との區別が現れる。この變化は、蛙の卵で最も容易に見ることが出來るから、まづその圖を掲げてこれに人間の子供を比較して見よう。蛙の卵が分裂して桑實期を過ぎ、胃狀の時代に達するまでは外形は常に球の如くで、前後もなければ左右もないが、この時代を過ぎると、球形の上面に細長い溝が生じ、溝の兩側は恰も土手の如くに高まるから、溝が一層明になる。この溝の出來る場處は後に身體の背となる側で、溝の兩端の向つて居る方角は身體の前端と後端とに當る。溝の兩側の土手は、溝の一端を圍んで相連絡し、特に大きな土手をなして居るが、これが後に頭となる部分である。これらの土手は後に腦・脊髓となるもの故、神經の土手と名づけ、その間の土手を神經の溝と名づける。發生が進むに隨ひ、神經の土手は高くなり、神經の溝は深くなり、終に閉ぢて管となれば、體内に隱れて表面からは見えなくなる。神經の土手が現れてからは、今まで球形の蛙の子の身體に前後の方角が明に知れるが、それよりは身體が追々前後の方向に延びて長くなり、球形は變じて卵形となり、卵形が變じて瓜形となり、その内には、頭は頭、尾は尾として形が判然するやうになり、いつとはなしに「おたまじやくし」の形に似て來るのである。

[やぶちゃん注:「神經の土手」現行では、両側の「土手」と溝が形成される中央部分をひっくるめて神経板(ばん)と呼称する。

「神經の溝」神経溝(こう)のこと。

『「おたまじやくし」の形』現行では、特にここまで発達した段階を「尾芽胚(びがはい)」と呼び、丘先生が述べられているように体軸の前後及び上下方向が形成されてくるのである。]

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[第二週の胎兒]

[やぶちゃん注:本図のみ国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した(講談社学術文庫版の図は白く飛んで見難い)。]

 

 人間の子も桑實期や胃狀の時代には、「ヒドラ」や珊瑚などと同樣で、いまだ身體に前後の區別がないが、第二週の終わり頃には既に著しく前後に延びて、恰も草履の如き形となる。前にも述べた通り、人間では他の獸類・鳥類・「とかげ」などと同じく、早くから胎兒を包む膜嚢が出來るから、蛙に比べると發生の模樣が幾分か複雜になるを免れぬが、これらの點を除いて身體だけを互に比べて見ると、第二週の人間の胎兒は、稍々長くなりかかつた蛙の子に頗るよく似て居る。即ち圖に示した通り、體の背面の中央には一本の縱溝があるが、これが神經の溝である。またその下に小さな穴が見えるのは、神經腸孔と名づけるもので、後に一時腦脊髓内の空處と腸内の空處とを連絡する管である。この管は蛙にもあれば鳥にも獸にもある。高尚な思想を産み出す腦髓の内の空處と、大便の溜り場處である大腸とが、發生中たとひ一時なりとも管によつて直接に連絡して居ることは、初めて聞く人には定めし奇怪な感じを與へるであらう。

[やぶちゃん注:「神經腸孔」現代の生物学でもこう呼称するようだが、高校の生物学ではこの名称は習った記憶がない。

「高尚な思想を産み出す腦髓の内の空處と、大便の溜り場處である大腸とが、發生中たとひ一時なりとも管によつて直接に連絡して居ることは、初めて聞く人には定めし奇怪な感じを與へるであらう」前章の末尾でピリッと利かした言い回しがここでも実に効果的に語られる、まさに「生物学的人生観」(本作が講談社学術文庫化される際に改題された書名)、丘流生物哲学の快刀乱麻と言える箇所である。]

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