橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(16) 昭和十六(一九四一)年 十五句
昭和十六(一九四一)年
鯖雲舷梯のぼるときわする
鯖雲峽の一船として繫る
[やぶちゃん注:「峽」は「かひ(かい)」、「繫る」は「かかる」と訓じておく。]
鰯雲峽港にごる日を一輪
雲疾くとぶ秋蝶を遲らしめ
靴の音わが家にとまらず塞柝も過ぐ
[やぶちゃん注:「塞柝」は不詳。これ、底本か初出誌のそれかは不詳乍ら、「寒柝」の誤字か誤植ではあるまいか? 「寒柝(かんたく)」なら、冬の夜に打ち鳴らす夜回りの拍子木の音で意味も腑に落ちるのである。]
月光に鐵路といはず地に滿つ霜
ひとの面に萬燈くらくくらくとぎれず
落穗蕊なまなまと指よごす
燈を負ひし兒沈丁の香とわすれず
[やぶちゃん注:「沈丁」「ぢんちやう(じんちょう)」で沈丁花(じんちょうげ)の略。フトモモ目ジンチョウゲ科ジンチョウゲ Daphne odora 。]
吾子遠き信濃の櫻咲き撓む
[やぶちゃん注:「信濃」年譜にこの年の五月の条に、別荘を『探しに、多佳子と国子』(次女)『は信州野尻湖へ行』き、翌六月からは『一家にて、野尻湖畔の』「神山山荘八十七番」で『十月まで滞在』している。]
霧の中ひぐらし啼くを曉とする
玫瑰に信濃はひるも霧が零る
[やぶちゃん注:「玫瑰」は「はまなし」又は「はまなす」と読む。バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa。和名は「ハマナス」であるが、元来は「はまなし」が正しい。果実がナシに似た形をしていることが和名由来で、それが「はまなす」と訛ったものであるからである。ハマナスは一般に砂地の海浜に植生するが、内陸でも普通に育ち、花を咲かせる。「零る」は「こぼる」で零れるの意。]
ゆけどゆけど夜の乾草ひろかりき
甥
征でたたす子ろと一夜の蚊帳つらむ
[やぶちゃん注:「子ろ」「ころ」で女性や子供を親しんで呼ぶ上代語である。]
雁わたる吾子鉛筆の音を斷たず
[やぶちゃん注:以上、『馬醉木』掲載分。多佳子、四十二歳。]
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