「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 山崎村
○山崎村〔也麻左幾牟良〕 江戶より十二里半餘小坂鄕に屬す、當村の地形山の出さきに在を以て地名となれりと云ふ、土人は傳へて【空華集】に載する村内天神社貞治中再興の祭文中に神代鄕〔今も天神社、所在の地を、小名神代と唱ふ、〕とあるをもて當村の舊名とし又【鎌倉志】に據て元弘の頃は洲崎と唱へしと云ヘど、【志】に云所も正しく當村を斥るにあらず、但し【北條役帳】に須崎あたみとあるに據るにあたみは現に村内の小名に在て此地なる事論なければ洲崎と云ふも當村の舊名と云べきなれど【同役帳】に別に東郡山崎とあるもの正しく當村を云へるなればおぼつかなし、今按ずるに【鎌倉志】に洲崎村山ノ内の西なり、此村の東を寺分村と云ひ西を町屋村と云ふとあるに村内小名あたみの地村の西南に倚て寺分・上町谷二村地に接したるをもて考ふるに、寺分・上町谷の二村卽洲崎鄕に屬したれば、熱海の地も永祿の頃は彼地に屬し後村内に併入せしにや、亦接地たる故彼鄕名のおのづから波及せしものなる歟。今に於ては詳に辨別し難し、又村内天神碑銘に城州山崎の寶寺を模して村内に寶積寺〔今廢跡あり、〕を創建せしより地名も彼處に擬して舊名洲崎を改め、山崎と唱ふる由見えたれど寬永山崎譜に據れば往昔賴朝に仕へし山崎六郞憲家始當所に住して在名を稱せしと覺ゆ、然るに彼寶積寺は夫より遙の曆應中夢窓國師の創建なれば是を地名の權輿と云ふはおぼつかなし猶明證を得るを俟つ、貞治六年僧義堂管領基氏の請を避け、當所に匿れしこと【日工集】に見えたり〔是は村内寶積寺を斥るなり、彼廢寺跡の條併せ見るべし、〕康正・長祿の頃は圓覺寺塔頭黃梅院の領知たりし事彼院所藏の文書に見ゆ〔黃梅院の條、併せ見るべし、〕小田原北條氏分國の頃は北條幻菴知行す、〔【役帳】曰、幻庵殿知行、二百一貫三百五十四文東郡山崎、〕今大久保佐渡守忠保〔慶安の頃迄は、闔村宗高院の粧田たりしと傳ふ、院は奥平氏の女とのみ口碑に殘り、未慥なる所見なし、後御料となり、元祿五年、柳澤出羽守吉保に賜ひ、程なく御料に復し同十一年三分して、菅谷平八郞に賜ひ、文化八年大久保氏に賜ふ、〕・根岸九郞左衝門〔元祿十一年、三分の時、小濱半左衞門利隆に賜ひ、文化八年、根岸肥前守鎭衞拜賜す、〕松前彥之丞〔元祿十一年、三分の時、松前氏に賜ふ、〕等知る所なり、東西三町餘南北十四町餘〔東、山之内、臺二村、南、梶尾村、西、寺分・上町谷二村、及び村岡鄕五村、北、岡本村、〕民戶四十一、鎌倉の古道、村南山上にあり〔村岡鄕宮前より、上町谷を經當村十三坊塚邊より梶原村に至り、六本松より化粧坂に登れり、これ【太平記】に載する所、義貞の官軍山之内に欄入せし道なるべし、〕、檢地は慶安三年成瀨五左衞門重治貞享元年國領半兵衞重次改む、飛地戶部川を隔村岡鄕五村犬牙の地にあり〔五所に分る、白田合九段許、字川向と唱ふ文化十一年水路を修造せし時、飛地となれり、〕
[やぶちゃん注:「東、山之内、臺二村、南、梶尾村、西、寺分・上町谷二村、及び村岡鄕五村、北、岡本村」の内、「梶原村」は底本では「梶尾村」であるが、おかしい。鳥跡蟹行社刊「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」で確認、訂した。
「山崎村」現在の鎌倉市山崎一帯。現行の行政地域としては大船の南西に当たり、湘南モノレールの富士見町駅と湘南町屋駅の間を、北西から南東にかけて広がる。北西は天神山一帯であるが、一部で現在の柏尾川(後に出る戸部川)右岸を少し含み、南東は山の内配水池(鎌倉市梶原三丁目。JR北鎌倉駅南約西八百八十メートルに位置する)直近まで達する。最後に、ウィキに「山崎(鎌倉市)」があるのに気づいたので、ここを読み解くのに非常に都合が良いので全文を引用させていただく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『山崎(やまざき)は神奈川県鎌倉市深沢地域にある大字。旧名は洲崎(風土記稿)で鎌倉の戦いにおける「洲崎古戦場」はこの地を指す』。『地名の由来は山丘の先端に基づく(風土記稿)ほか、京都の山崎を擬えたものとされる。初見は義堂周信の『空華日用工夫略集』で、貞治六年(一三六七年)の「密かに山崎に匿る」である。鎌倉公方足利基氏の万寿寺住持就任を謝絶し山崎に隠棲した。応安七年(一三七四年)十一月二十三日に円覚寺大火のため、長老大法大闡』(だいほうだいせん)『が「山崎宝積寺」に移っている。この宝積寺は京都の宝積寺を模して創建されたという(現在は廃寺)。康正三年(一四五七年)二月の「今川範忠禁制」に「相州山崎村」の記述がある。明応三年(一四九四年)四月十九日の「玉井院檀那本銭返売券」において「山崎泉蔵坊」は熊野詣の先達職を持つ坊であったことが記されている。永正一七年(一五二〇年)三月二十五日の資料でも「鎌倉山崎泉蔵坊祐秀」と記録され、江戸時代に続く熊野信仰の拠点となっていた』。『後北条氏の時代には東郡に属したが江戸時代には鎌倉郡に属し、正保元年(一六四四年)の正保国絵図にも「山嵜村」と記録されている。江戸時代は幕府領であった』。『皇国地誌によると明治一二年(一八七九年)の戸数五十二、人口二百八十四人であった。明治二二年(一八八九年)四月の町村制施行により、梶原、上町屋、手広、寺分、常盤、笛田と合併して深沢村が誕生し大字となった』。『昭和二三年(一九四八年)一月、深沢村が鎌倉市と合併した際に鎌倉市の大字となる。昭和四二年(一九六七年)二月、住居表示により山崎の一部が台一丁目、二丁目となった』とある。
「十二里半餘」凡そ五十一キロメートル強。
「空華集」瑞泉寺住持でもあった鎌倉禅林の指導者義堂周信(正中二(一三二五)年~元中五・嘉慶二(一三八八)年)の漢詩集。ウィキの「義堂周信」によれば、土佐国高岡(現在の高知県高岡郡津野町)の生まれで、当初、台密を学んだが後に禅宗に改宗し、夢窓疎石の門弟となった(「周信」はその際の改名)。延文四(一三五九)年に鎌倉公方足利基氏に招かれて鎌倉へ下向、康暦二(一三八〇)年まで在鎌した。『基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務め』、この間、多くの禅宗内の勢力関係に端を発する諸問題の解決に尽力、『の公明正大、厳正中立な態度で各方面に感銘を与えた。帰京後』は第三代将軍足利義満の庇護の下で、相国寺(現在の京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町にある臨済宗寺院)の建立を進言、建仁寺・南禅寺等の住職を務めた。春屋妙葩(しゅんおくみょうは)や絶海中津(ぜっかいちゅうしん)と『並ぶ、中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧』である。
「村内天神社」現在の天神山山頂にある北野神社。後出。
「貞治」北朝元号で一三六二年から一三六八年。
「神代鄕」後に出る「小名」の読みから、これで「みよしろ」と訓じていることが判る。
「【鋒倉志】に據て元弘の頃は洲崎と唱へしと云ヘど、【志】に云所も正しく當村を斥るにあらず」「斥る」は「させる」(指せる)と訓ずる。これは後の「洲崎村山ノ内の西なり、此村の東を寺分村と云ひ西を町屋村と云ふ」という叙述から見ても、「新編鎌倉志卷之三」の、
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○洲崎村〔附寺分村 町屋村〕 山内の西なり。【太平記】に、義貞、鎌倉合戰の時、赤橋(あかはし)相模の守守時を大將として、洲崎(すさき)の敵に向けらるとあるは此所なり。赤橋腹を切りければ、十八日の晩程(くれほど)に、洲崎一番に破れて、義貞の官軍は、山の内まで入りにけりとあり。山の内は東方なり。皆此の道筋也。【鎌倉年中行事】に、藤澤炎上の時、公方〔成氏。〕洲崎まで御出、それより御使(つかひ)を遣はさるとあり。此の村の東を寺分村(てらわけむら)と云ふ。西を町屋村(まちやむら)と云ふ、町屋村は、金澤にも此の名あり。
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に基づく謂いであろう(下線やぶちゃん)。但し、ご覧の通り、「新編鎌倉志」では山崎という地名そのものは出てこない。なお現在、地名としては「寺分」は「てらぶん」と呼称している。
「北條役帳」恐らくは「小田原衆所領役帳」のことと思われる。北条氏康が作らせた一族家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳であるが、原題は不明で「北条家分限帳」「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。『原本は伝存せず、江戸時代の写本が知られ』、氏康期にあたる永禄二(一五五九)年の奥書をもつ。後北条氏は永正一七(一五二〇)年から弘治元(一五五五)年にかけて領国内(ここ一帯も北条領であった)に於いて、数度の検地を実施しており、それに基づいて分限帳が作成されたものと考えられている(以上はウィキの「小田原衆所領役帳」に拠る)。
「倚て」「よりて」と訓辞じておく。
「城州山崎の寶寺」京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派宝積寺(ほうしゃくじ)のこと。ウィキの「宝積寺」に、『聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があ』る、とある(下線やぶちゃん)。
「寶積寺」後掲。
「寬永山崎譜」江戸幕府により寛永十八(一六四一)年から二十年にかけて編纂された、諸大名と旗本以上の諸士の系譜集「寛永諸家系図伝」の山崎氏のパートの謂いであろう。
「權輿」「けんよ」と読む。物事の初め・始まり・起こり・濫觴の意で、「詩経」秦の「権輿」に基づく。
「貞治六年」一三六七年。
「日工集」「につくしふ(にっくしゅう)」と読む。義堂の日記「空華日用工夫略集」のこと。これは先の漢詩集「空華集」とは別書である。
「康正」「こうしやう(こうしょう)」と読み、一四五五年から一四五七年まで。
「長祿」康正の次で、一四五七年から一四六一年まで。
「圓覺寺塔頭黃梅院の領知たりし事彼院所藏の文書に見ゆ」「鎌倉市史 史料編第三第四」の「黃梅院文書」の長禄二(一四五八)年のクレジットを持つ「九一 板倉賴資禁制」の冒頭に、『制札 黃梅院領山崎村』と出る。
「北條幻菴」北条長綱(幻庵)(明応二(一四九三)年~天正一七(一五八九)年)は北条早雲と駿河の有力豪族葛山氏の娘との間に生まれた三男。ウィキの「北条幻庵」によれば、箱根権現社別当で同社別当寺金剛王院の院主であったが、後北条氏一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を持っており、領地も破格で、永禄二(一五五九)年二月作成の「北条家所領役帳」によると、家中で最大の五千四百五十七貫八十六文の所領を領有している。これは直臣約三百九十名の所領高合計六万四千二百五十貫文の一割弱に及ぶ。なお、彼は表記した生年からは享年九十七という当時としては驚異的な長寿となるが、これは「北条五代記」の記載によるもので、『現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正』(えいしょう)年間(一五〇四年~一五二〇年)と推定されている。また、彼の死から九ヶ月後の天正一八(一五九〇)年七月、後北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐によって敗北、戦国大名としての後北条家は滅亡している、とある。
「大久保佐渡守忠保」(寛政三(一七九一)年~嘉永元(一八四八)年)は下野烏山藩第六代藩主。
「慶安」一六四八年から一六五一年。第三代将軍徳川家光と第四代家綱の頃。
「闔村」「こうそん」と読み、村中・全村の意。固有名詞ではないので注意。
「宗高院」ここに書かれた通り、奥平家の娘で山崎の領主であったとされる口碑でのみ伝えられる女性。後の「小袋谷村」に出る、現在の鎌倉市小袋谷にある浄土真宗本願寺派成福(じょうふく)寺に所縁の人物とされる。
「粧田」「しやうでん(しょうでん)」と読むものと思われる。女性が所有する領地を言うらしい。
「元祿五年」一六九二年。
「菅谷平八郞」不詳であるが旗本である。昭和一四(一九三九)年刊横浜史料調査会編「横濱町名沿革誌」のこちらのデータの「中野町」の項に、『元祿十一年九月に至り旗下小濱半左衛門、菅谷平八郎に頒ち、同十四年半左衛門の一族十郎左衛門を加へ三給となりし』とあるのと時代的にも直近で、しかも地理的にも近い。さらに、後に出る「小濱半左衞門」と同名の人物まで出るからである。
「文化八年」一八一一年。
「根岸九郞左衝門」「根岸肥前守鎭衞」まさか、私の住んで居るこんな近くに、彼の知行所があったとは驚き桃の木山椒の木とはこのことだ! 根岸鎭衞(しづもり(しずもり) 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)は江戸の旗本。下級旗本の安生(あんじょう)家の三男として生まれ、宝暦八(一七五八)年二十二歳の時、根岸家の養子となり、その家督を相続した。同年中に勘定所御勘定として出仕後、評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)・勘定組頭・勘定吟味役を歴任した。また、彼は河川の改修・普請に才覚を揮い、浅間大噴火後の天明三(一七八三)年の四十七歳の年には浅間復興の巡検役となった。その功績によって翌天明四(一七八四)年に佐渡奉行として現地に在任、天明七(一七八七)年には勘定奉行に抜擢されて帰参、同年十二月には従五位下肥後守に叙任、寛政一〇(一七九八)年に南町奉行となり、文化一二(一八一五)年まで終身、在職した。何でそんなに詳しいのかってか?! 私は彼とは親しいんだ。彼の永年の口ぶりや癖や持病まで知っている。何故かってか? だって彼の書いた「耳嚢」全十巻全千話を電子化訳注したからさ!
「小濱半左衞門利隆」不詳であるが旗本である。前の「菅谷平八郎」の注を参照されたい。
「松前彥之丞」不詳。松前藩の松前氏の庶流の旗本か。
「三町」三百二十七・二七メートル。
「十四町」千五百二十七メートル。
「村岡鄕五村」小塚(こつか)・弥勒寺(みろくじ)・高谷(たかや)・渡内(わたうち)・宮前(みやまえ)の各村を指す。ここは古くは鎌倉郡に属した(昭和一六(一九四一)年に藤沢市に合併)。現在の藤沢市内の柏尾川の右岸の一帯丘陵地帯で、各地名がそのまま残る。今、私の住んで居る場所のごくごく直近である。
「十三坊塚」この名称は死者供養・境界指標・修法壇として築かれた塚として全国的に見られるが、山崎のそれが現在の何処に当たるのかはよく私には分からない。「梅松論」に『武藏路は相模守守時、州崎千代塚におひて合戰をいたしけるが、是も討負て一足も退ず自害す』(一九七五年現代思潮社刊「梅松論・源威集」による)とある、もし『千代塚』というのがこの「十三坊塚」と同じであるとすれば、洲崎合戦の位置から考えて、現在の鎌倉市の梶原の北の寺分や深沢の何処かであろう(但し、とすればこの小名を持つとする山崎村の範囲は現行よりも南西方向に遙かに広いことになる)。因みに元弘の乱の洲崎合戦で亡くなった者を供養する旧東日本旅客鉄道大船工場敷地脇に建つ、文和元(一三五六)年建立銘の宝篋印塔、通称、泣塔(なきとう)辺りもその一つの同定候補地とはなろう。ここで官軍新田軍分軍の一つであった化粧坂方面からの寄せ手のルートを今一度見てみよう。すると「村岡郷宮前より、上町谷を經」て「當村十三坊塚邊より梶原村に至り、六本松より化粧坂に登」ったとあるから、現在残っている地名を参考に考えると、藤沢市宮前附近(ここは柏尾川を蛇行させるほどに南から尾根が迫出していた)で柏尾川を渡渉して上町屋辺附近(上町屋は柏尾川左岸直近までせり出した尾根であった)で左岸に上り、そこから南へ少し下るようにしながら、現行の寺分を回り込み、梶原を抜けて化粧坂を攻めたということになる。現在のモノレールの湘南深沢駅から西方は広大な低湿地となっていたと考えられるから、このやや北の有意な台地部分を迂回するように動くのは実は頗る納得のゆくことなのである。とすれば、やはり「十三坊塚」というのは、現在のモノレールの湘南町屋から下っていく尾根の途中の何処かか、下り切った湿地直近の高みであったと考えられ、俄然、泣塔のような場所か、その近くであった可能性が高まるのである。また、個人ブログ「中高年の山旅三昧(その2)」の「残暑厳しい鎌倉;低山歩き;十王堂裏山」を見ると、まさにこの近辺で「坊主墓」や「清水塚」というのを見出せる。特に「坊主墓」についてブログ主は『十王堂を開山した興宗鏡考』のそれとしつつ、『墓地の一番奥に坊主墓と思われる石塔が幾つも並んでいる』ものの、『どの石塔が興宗鏡考の墓か』分からないと記しておられ、ここにはまさに「十三坊塚」を髣髴とさせるような墓石群が現存していることが判る(これらはブログを読む限り、現在は後掲される昌清院所有の墓地であるらしい)。但し、この付近(特に泣塔周辺)は近代以降の激しい平地造成によって地形が全く変化してしまっており、残念ながら最早、その「十三坊塚」の形跡を別に捜すことは不可能と思われる。
「六本松」不詳。但し、現在、鎌倉市梶原五丁目四番地内に「梶原六本松公園」という公園はある。ここはまさしく源氏山の西方山麓であり、化粧坂への直球コースとなる。
「欄入」防衛柵=欄=囲いを破って侵入するという謂いか。
「慶安三年」一六五〇年
「成瀨五左衞門重治」「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官(但し、代官所はなかった)を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。
「貞享元年」一六八四年。第五代将軍徳川綱吉の治世。
「國領半兵衞重次」前掲の「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、成瀬重治の次期の藤沢宿代官で、天和三(一六八三)年から貞享四(一六八七)年までの五年間を勤めている。
「飛地」これは現在の藤沢市内である、柏尾川を隔てた川向う村岡五ヶ村の中に、山崎村の飛地があることを意味している。現在、現に村岡地区内に旧五ヶ村分の飛地が今も複雑に散在しているのは、この時の名残なのであろう。
「隔」「へだて」と訓じておく。
「犬牙の地」犬の牙(きば)の如くに入り組んだ険阻で荒蕪な地。
「白田」「はくでん」で畑のこと。「白」は乾いているの意。国字である「畠」はこの「白田」を一字にしたものである。
「九段」「段」は田の面積単位で「反(たん)」に同じい。一段(反)は三百歩(ぶ)で、所謂、一石(こく)に当たるから九石。一反は現在の九百九十一・七三六平方メートルに換算され、この換算値は十アールに極めて近いから、一応、九十アール相当となる。
「字川向」「あざ「かはむかう(かわむこう)」と読んでおく。
「文化十一年」一八一四年。]
○高札場三
〇小名 △熱海〔阿多美〇此地の田間より温泉沸騰す、されど常は冷にして、澡浴すべからず、冬日に至れば少しく温熱を帶ぶ、土人手足を暖むるの料にのみに充つ、永祿の頃は此地、川瀨某の知行なり、【役帳】に、六十五貫文東郡須崎あたみ、川瀨、此度改而知行役可申付とみえたり、〕 △湯之本〔此地にも温湯あり、熱海に同じ、〕 △神代〔美余志路〇【空華集】に載する、貞治元年、天神の祭文に、神代郷天神廟と見えしは、即此地なり、〕 △禰宜崎〔昔天神の覡、住せし跡と云、〕 △寶積寺谷 △大谷 △柿原 △西谷 △十三坊塚 △大下 △稻荷山 △池ノ谷 △藥師堂免
[やぶちゃん注:「澡浴」「さうよく(そうよく)」。底本は「藻浴」であるが、おかしい。鳥跡蟹行社刊「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」で確認、訂した。「澡」は洗うの意でる。
「温泉沸騰す」私自身、小さな頃、父から天神山には「頼朝の隠し湯」があったと教わった。事実、岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の、天神山の南の直下にある「妙法寺」(日蓮宗であるが、ここは大町のそれとは同名異寺なので注意。昭和三(一九二八)年に山梨県に在った由緒ある妙法寺を移建する形で開かれた)の記載によれば、この寺の西には『戦前まで「山崎園」という鉱泉旅館があって「源頼朝のかくし湯」と呼ばれて賑わっていたという』とあり、同じサイトの「北野神社」にも同じ記載があり、さらに『そもそも、田んぼの水で足の治療をしていた雁がいたことから、傷を治してくれる水として広まったようで』、『源頼朝が「この水が傷に効く」というので「お忍びで訪れた」という話や、「傷ついた武将に治療をさせた」という言い伝えから、「頼朝のかくし湯」と呼ばれたらしい』と記す。
「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。室町時代。
「六十五貫文東郡須崎あたみ、川瀨、此度改而知行役可申付」書き下しておく。
六十五貫文、東郡(ひがしのこほり)須崎(すさき)あたみ、川瀨、此の度(たび)、改めて知行の役(やく)、申し付くべし。
「貞治元年」北朝元号で一三六二年。
「禰宜崎」「ねぎざき」か。以下の小名は残念なことに、殆んど消失している模様である。こういう現象こそが、地に着いた正しい歴史認識・郷土感覚を喪失させる元凶であると私考えている。
「覡」「かむなぎ/かんなぎ」と訓じておくが、音(慣用)で「ゲキ」と読んでかも知れない。「巫」に同じい。「神(かむ)和(な)ぎ」の意で、元来は、実際の神降ろしを行う神聖な神職を広く指したが、後には祝(はふり(ほうり))とともに禰宜(ねぎ)よりも下のの下級神職を指す語となった。
「藥師堂免」「藥師堂」は後出。「免」というのは除地(じょち/よけち:領主により年貢免除の特権を与えられた土地)で、その薬師堂の保守に関連して年貢が免除された地区であったと考えられる。]
○戸部川 乾方を流る〔巾八間餘〕、
[やぶちゃん注:現行の柏尾川のこと。玉繩方面から鎌倉に抜ける東海道線の開かずの踏切に通ずる柏尾川に架かる首塚近くの橋は、私が物心ついた頃からずっと今まで「戸部橋」と呼ばれている。
「乾方」「いぬゐのかた」で北西。]
○溜井二 一は昌淸院境内にあり〔濶六畝十六歩許、〕、一は小名池ノ谷にあり〔濶一段五歩、〕
[やぶちゃん注:「溜井」とは、やや大規模に水を溜めておくための井戸を指し、ご覧の通り、所謂、田圃のための農業用水である。
「昌淸院」後出。
「濶」「ひろさ」と訓じておく。最大で常時、水を供給出来る面積を示している。
「六畝十六歩」一畝(ほ/せ)は三十歩(ぶ)で十畝が先に述べた一反(段)である。「六畝」は百八十坪、凡そ六アール相当である。「一段」の換算は前掲注を見られたい。]
○天神社 字天神山にあり、山麓を小名神代と唱ふ、束帶の像〔長一尺五寸餘〕を安ず、曆應中夢窓國師北野天神を模して勸請すと云、當時は神田等數頃を附し松尾の社人を迎へ祭祀に奉ぜしめしとなり〔文祿元年三月、鶴岡の巫となれり今雪下村に住る、八乙女山崎守王是なり、〕十一面觀音の木像〔長四尺餘春日作、〕一軀あり、此像は寶積廢寺の本尊なりしと傳ふ〔土人の傳に、古佛は寶曆の頃、圓覺寺へ移し、當今の像は其模像なりとも云ふ、〕貞治元年十二月圓覺寺塔頭黃梅院主當社を再建せしこと義堂が撰せし祭文に見えたり〔【空華集】曰、祭天神文、維貞治元年、歳次壬寅十二月二十五日、相州路神代榔、天神之廟、正室欹傾、幾毀神位、在郷黃梅院主、沙門某、預命梓人、倍功督役革去舊制、哲成新規、爰卜吉日、爰安神棲、敢用粢盛之奠、昭祭于天神之靈、曰、伏以天滿大自在天神、天生間出、惟德不孤、※1※2九流[やぶちゃん字注:「※1=(上)「匈」+(下)「月」。「※2」=(へん)「氵」+(つくり)「亟」。]、氣空群儒、吐詞爽拔、人莫得俱、風騷爲僕、屈釆是奴、際乎延喜康政之樞、位于台斗弼帝之譽、爲麟爲鳳、翔鳴天衢道峻多妬、才高見誣、市虎三告、迁于海遇、讒言莫雪、寃氣莫蘇、忠義之志、誓死弗渝、精誠上感、昊天降誅、六丁奮擊、百靈暗鳴、侫夫以斃幽憤以※3[やぶちゃん字注:「※3」=「扌」+「慮」。]、皎日外矣、殄氣豁如、帝意乃解、察之旡辜、配食于廟饗于璉瑚、自天賚諡、爲天之徒、威靈既顯神化旁敷、松于北野、梅于西都、感而遂通、于夏于區、睠茲僻陋、廟貌漂蕪、顧吾佛法賴神冥扶、豈不慨焉以崇厥居、柴橡土階、上古規模是楹是桷、弗彫弗塗維、參稷、匪精、聰明精直、維道攸慮、道德仁義、維豆及俎、禮菲詞朴、神其歆諸〕、例祭九月廿五日〔山崎守王を始め、覡祝來りて神樂を奏す、〕相殿に牛頭天王を祀る〔昔は岩瀨村、五社明神に合祀せしを、延寶中、山之内村に假屋に迁せし時、洪水の災を避、當所に捧持し、當社の庭中に安置せしが、神託により、當社に合祀すと云ふ、〕六月七日祭事あり〔山之内村の假屋に渡輿す、假屋の處を天王屋鋪と唱へ、除地とす、同十四日、鶴岡の伶人來て樂を奏し、建長寺邊より、小袋谷村迄、巡行して、歸輿あり、當村、及山之内・臺・小袋谷・大船・岩瀨・笠間・今泉・小菅谷・飯島等十町の鎭神とす〕社地に古松あり、文殊松と呼ぶ〔大船村常樂寺、文殊堂に向て枝葉茂れり、故に此名ありとぞ、〕 △古碑一基 應永十一年寶積寺の僧教音の建る所と云ふ、文字磨滅して讀べからず〔僅に本□山□寺天長 八月□ 敬白の數字を殘せり、蓋供養塔なるべし、〕 △山崎天滿宮再造碑 文化八年九月里正九左衞門尋庸〔梅澤氏、〕の建る所なり、 △末社 神明
[やぶちゃん注:現在の天神山山頂にある北野神社。南北朝の暦応(北朝元号)年間(一三三八年から一三四一年)に夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したものと伝え、以下に見るように貞治元(一三六二)年十二月には円覚寺塔頭黄院の院主が当社を再建している。また、やはり書かれている通り、岩瀬村の五所明神に合祀されていた相殿の牛頭天王は延宝年間(一六七三年~一六八一年)に神託により当社に合祀されたと、「神奈川県神社庁」の本社の公式記載にある。
……小学校の六年生の時だったか、この山腹の防空壕に友達と懐中電灯を持って三人で入ったことがあった。「何てことはない!」「怖くないぞ!」と皆して笑っていたところ、ふと友が天井を照らした。そこには掌大もあろうかという飴色にギラついた無数のゲジゲジがライトに光っていた。「ぎゃああ!!」と叫ぬぶと、韋駄天の如く三人とも走り出たことは言うまでもない。これは実は私の恐怖体験の中では、そのフラッシュ・バックに於いて実はピカ一だと、今でも密かに思っている。……あのゲジゲジ(節足動物門多足亜門唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha)の無量大数と鮮烈な姿はこれ生涯忘れないであろう……
……好んで脱線しよう。私の世代は防空壕が日常的に通行可能な異界とのアクセス圏であった殆んど最後の世代である。浦沢直樹の「二十世紀少年」は確かに面白かったが、しかし一番不満だったのは、僕らの秘密基地は草っ原のチャすいすぐ毀されるような藁小屋みたようなものではなかったということだ。僕らのそれは血や妖しい秘密組織の隠れ家を思わせる戦中の遺物であった防空壕だったのだ。ドキドキしながら駄菓子屋で「マッチとローソク――下さい」と言い、婆さんの怪訝な顔を尻目に走り出ると、一散にあの暗い湿った隠微な穴倉の秘密基地に向かったのだった(今も覚えているが、そうしたとある朝の朝礼で生徒指導の先生が「マッチを買いに来るうち(玉繩小学校)の生徒がいる!」と叫んで全校生徒に脅しと禁止を促したのを今も忘れない。それは間違いなく、前日に学校のそばの駄菓子屋でマッチを買った僕らのことを指していたからである)。――そこ――防空壕――は時々、嫌らしい雑誌が隠すように捨ててあったりする、まさにそこは妖しい淫靡な饐えた大人の臭いが実際にしたのだった。――ところがそのうち、そうした防空壕には扉と鍵が掛けられた。――でなければ、宅地造成のブルトーザーが何もかも突き崩してしまった。……僕の好きな諸星大二郎の作品の中でも、僕がいっとう、偏愛する作品の一つに「ぼくとフリオと校庭で」(一九八三年初出)がある。あれは意図的な素材の齟齬操作があるが、僕はあれを最初に読んだ時、涙が止まらなくなった。転校――孤独――数少ない心の友だち――その別れ……そうして何よりその無言のうちの不思議な友との微妙な心の交感が、まさに隠微な防空壕で描出される……僕は実はどこかで――あんな時代に戻りたい――と――密かに感じている……
「一尺五寸」四十五・四五センチメートル。
「神田」これは「しんでん」で、その収穫を祭事・造営などの供物及び費用に当てるための神社に付属した田圃のことを言う。
「數頃」「すうけい」で、「頃」は田圃の面積単位。一頃は百畝で、現行の三千坪、一アールに相当する。
「松尾の社人」賀茂神社と並び京都最古とされる、現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社のことか。
「文祿元年」一五九二年。豊臣政権下。
「八乙女山崎守王」「鶴岡八幡宮年表」に載る記載を見る限り、これは巫女舞を舞うことを専門職とした人物(女性か)と思われる。
「四尺」一・二メートル。
「春日」伝説上の名仏師とされる人物。詳細不詳。
「寶曆」一七五一年から一七六三年まで。第九代将軍徳川家重と次代の家治の治世。
「貞治元年」北朝の年号で一三六二年。
「【空華集】曰、祭天神文……」この義堂周信の祭文はとても私の野狐禪レベルでは訓読不能である。悪しからず。
「岩瀨村、五社明神」現在の鎌倉市岩瀬の鎌倉女子大学の裏手にある岩瀬の鎮守である五社稲荷神社。名は保食神(うけもちのかみ)・大己貴神(おおなむちのかみ)・太田神(おおたのかみ)・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)・大宮姫神(おおみやひめのかみ)の五柱を祀ることに由来する。参照した岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」の「五社稲荷神社」に拠れば、建久年間(一一九〇年~一一九九年)に、『岩瀬を治めていた岩瀬与一太郎が創建した神社と伝えられ』る。『与一太郎は、常陸国の佐竹氏の家臣で、佐竹征伐の折に捕らえらたが、源頼朝に許されて御家人となり、岩瀬に屋敷を構えて治めたという』とある。私は実はこの直ぐ近くに三年余りも下宿していたのだが、実は行ったことがない。
「六月七日祭事あり」現行の北野神社の例祭は二月二十五日の祈年祭、七月十五日の夏季例祭としての天王祭、七月二十二日の夏季例祭として行き合い祭、九月二十五日の例祭と鎌倉神楽を行っているとサイト「鎌倉旅行
クチコミガイド」の「北野神社(鎌倉市山崎)」にはあるが、この岩瀬の五社神社との大規模な合同祭礼はこれらと時日も内容も一致しないから、廃絶した模様である。但し、「行き合い祭」「鎌倉神楽」の部分にはその名残を感じさせるものがある。
「大船村常樂寺、文殊堂」現在の鎌倉市大船にある臨済宗建長寺派粟船山(ぞくせんざん)常楽寺境内にある蘭渓道隆所縁の秘仏である文殊菩薩坐像を安置する文殊堂。但し、現地を知らない方のために言っておくが、ここは天神山から東北に一・六キロメートルも離れている。この松は現存しない。
「應永十一年」一四〇四年。室町幕府将軍は第四代足利義持。応永の平和の時代の最初期である。
「教音」不詳。
「文化八年」一八一一年。
「里正」「りせい」で、村長の唐名標記と思われる。
「九左衞門尋庸〔梅澤氏、〕」せめて名前の読み方ぐらいはと思って検索したところ、何と、本人が出現した! 神奈川県立図書館公式サイト内の「かながわ資料室ニュースレター第26号(2011年10月発行)」の「コラム・かながわ
あの人・この人」に梅沢梅豊(うめざわばいほう 宝暦七(一七五七)年~文化九(一八一二)年)なる人物を挙げ、以下のようにある!
《引用開始》
江戸中期の俳人。
宝暦7年(1757)鎌倉郡山崎村(現鎌倉市山崎)生まれ。梅沢九左衛門尋庸(ひろつね)。山崎村柿原に住んだので柿原舎と号し、俳号を梅豊としました。通称山崎の大梅沢家の分家で、「隠居」とよばれている梅沢家の五代目です。
九左衛門の頃の山崎村は3人の旗本に分級され、九左衛門は松前氏の領地に属し、名主役を務めていました。当時の「隠居」梅沢家は豪勢を極めており、江戸遊学当時の友人である水戸藩士加藤曳尾庵の紀行文『我衣』のなかに、家の構は横十六間、奥行十二間、(約二百坪)で表門の長屋門は長さ十間もあり、さながら浅草の観音堂のようであったと記述があるそうです。
九左衛門は江戸に遊学し、詩文、漢学、書道を修めて帰村後は俳句を春秋庵雄門の倉田 葛三を師としたと伝えられています。
文化9年(1812)歿。墓所は山崎池ノ谷共同墓所梅沢家墓地。
鎌倉の山崎天神境内に梅豊の碑文があります。また、江ノ島道の道標には「是従江のし満」と書かれ、梅沢尋庸(梅豊)が建立した記録が刻まれています。
《引用終了》
調べてみるもんじゃて!!!]
○稻荷社 字三府にあり、昔は村中の鎭神にして社領等もありしと云ふ、今は小社なり、寺分村東光寺持、
[やぶちゃん注:旧鎌倉郡手広村、現在の鎌倉市手広一四一二に稲荷神社はあるが、ここかどうかは不明。位置的には寺分の東光寺にかなり近いが、明治の合祀政策で沢山あった稲荷は十把一絡げにされたから分からぬ。それでも三つあったという内の一つであった可能性はあるか。但し、「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。
「府」単にその地区の意である。
「東光寺」鎌倉市寺分にある古義真言宗高野山派天照山薬王院東光寺。永享三(一四三一)年に高野山慈眼院の法印霊範が隠居所として中興したと伝える。参照した白井永二編「鎌倉事典」では『中興というからには前身がある』はずで『案外、古い寺かも知れない』(大三輪竜彦氏筆)と推定されてある。]
○白山社 村民持下同、
[やぶちゃん注:表記通り、以下の「神明宮」「山王社」「子神社」とともに四社とも村管理の社祠である。孰れも合祀されたか、今も何処かに路傍か何処かにあるのかも知れないが、不詳である(但し、私の住む狭い植木の見捨てられたような場所にも、複数個所、稲荷社(嘗ては屋敷内祭祀のそれであったものと思われるが)が隠れるように残存しており、それは実際、私の管見出来る地域研究の公的準公的な民俗資料にさえ記されていないものがままあるから、これらも未だ原所在地に残存している可能性はある)。但し、「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。]
○神明宮
[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。]
○山王社
[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。]
○子神社
[やぶちゃん注:「子」は「ねの」神社か。一般に大国主の使いを子(鼠)とし、それを甲子(きのえね)の日に祀り、「子の神様」と通称されて神社の名称とされたものが現在でも横浜市内に二箇所、認められる(ウィキの「子神社」を参照)。:「鎌倉廃寺事典」の「その他」では廃されたものとしてリストに挙がってはいる。]
○昌淸院 長崎山と號す、臨濟宗〔圓覺寺塔頭如意庵末、〕本尊釋迦開山以足德滿〔慶長二年三月三日寂す〕 △諏訪社
[やぶちゃん注:鎌倉市山崎一四八二にある臨済宗円覚寺派というより、現行諸本やネット情報でも現在も円覚寺塔頭如意庵末寺として記載されている(如意庵は仏日庵の向かい西南にある塔頭で武蔵出身の円覚寺三十六世無礙妙謙(むげみょうけん ?~応安二/正平二四(一三六九)年)の塔所である。彼は元に渡り、中峰明本に師事、帰国後、高峰顕日(こうほうけんにち 仁治二(一二四一)~正和五(一三一六)年):後嵯峨天皇第二皇子で、兀庵(ごったん)普寧・無学祖元に師事、執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、下野国那須雲巌寺開山、鎌倉の万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任、門下に夢窓疎石などの俊英の名僧を輩出、関東禅林の主流を形成した高僧)の法を嗣ぎ、寿福寺から円覚寺住持となった。後に上杉憲顕に招かれて伊豆韮山の国清(こくしょう)寺の開山(律宗であった奈古屋寺からの改宗開山)となった。示寂の翌年に弟子や信者らによって創建されたのが、この塔頭如意庵である)。白井永二編「鎌倉事典」によれば、まさにこの「新編相模國風土記稿」で「開山以足德滿」『が開山と伝える。しかし当院には天保三年(一八三二)造立の木造無礙妙謙座像がまつられており、胎内納入銘札に、「当院開山」と記す』として開山は無礙と推定している。因みにその以足も、その如意庵の『第八世をつとめている』とあるから、ここの中興ででもあったものがすり替えられたのかも知れない。『本尊は木造釈迦如来坐像。また地蔵菩薩・十王・俱生神・奪衣婆等の各木造像や銅像十一面観音菩薩立像をも安置』し、『前者はもと近くにあった十王堂の諸像で、後者は山崎天神社』(現在の北野神社)『の本地仏であったという』(三山進氏筆)とある(十王堂は次項参照)。天神山には天神社の往時の規模から考えて附属する別当寺があった可能性をも示唆するものと私には思われる。]
○十王堂 地藏をも安ず、江戸白金瑞聖寺の持にして同寺の末派と稱す中興の僧を興宗鏡考と云ふ〔寶曆七年十二月寂す、〕傍に當寺の寮あり
[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」を見ると、「その他」の項に山崎に東京都港区白金台に現存する黄檗宗紫雲山瑞聖(ずいしょう)寺の持ちで傍らに堂守の寮を備えた十王堂があったとあるのと一致し、その所在地は先に示した個人ブログ「中高年の山旅三昧(その2)」の「残暑厳しい鎌倉;低山歩き;十王堂裏山」で前の昌清院の北北東百八十メートル弱の位置にあったことが確認出来る。]
○藥師堂 十二神將をも置く〔各長一尺一寸許、運慶作、本尊は鎌倉十藥師の一なり、〕村持にて、高野山坊中慈眼院末派に屬せり〔古は寺分村、東光寺の持なりと云ふ〕傍に堂守の寮あり、△第六天社
[やぶちゃん注:廃絶。先に示した個人ブログ「中高年の山旅三昧(その2)」の「残暑厳しい鎌倉;低山歩き;十王堂裏山」で廃跡位置が確認出来る。
「一尺一寸」三十三・三三センチメートル。「鎌倉十藥師の一」とあるのに、この有り難い「運慶作」(以前にも述べたが鎌倉には運慶作と確定される仏像は一体もないが)の「十二神將」像は何処へ消えてしまったものか?
「高野山坊中慈眼院」高野山金剛峯寺の一つで、修学寺院として隆盛を誇っていたが、ここもおぞましい明治の廃仏毀釈によって高野山内の寺院統廃合が進行して衰退、それでも昭和初期までは存立していた。ではなくなったかと言うと、実はこの寺、昭和一六(一九四一)年に高野山から別格本山の称を受けて高崎へ移転した。御存じの高崎白衣大観音のある群馬県高崎市石原町観音山の慈眼院がそれなのである(以上は慈眼院公式サイトの「歴史と沿革」の記載に拠った)。]
○寶積寺蹟 村西にあり、小名寶積寺谷と唱へ村民の宅地となれり、池を鋤てまゝ五輪の頽碑を得となり、曆應中夢窓國師山城國寶寺に擬し、創建せし禪刹なりと云ふ〔按ずるに、【鹿山略記】には僧方外當寺を開建すとあり、圓覺寺塔頭黃梅院文書に、山崎寶積寺自方外和尚、附屬心翁和尚云々とも見へたり、方外は貞治二年に寂しければ、當寺の開山と云んも、時代において違はず、夢窓を開山とするは、却て傳への訛れるならんか、〕 貞治六年三月僧義堂鎌倉萬壽寺住職補任の事管領基氏の命ありしを避、須臾當寺に匿れし事【日工集】に見えたり〔曰、三月五日府君袖出萬壽公文、而面附予堅辭不受、翌日重以萬壽爲請余不應、十日、就正續院會議以請余不出十一日、出寺潜匿於山崎、蓋以避三命也、按ずるに府君は、管領基氏を指るなり、〕抑當寺域は世々愛甲氏〔事蹟未考へず〕の廟所なり、應安元年八月五日、愛甲氏の室を爰に埋葬せし時義堂來會して導師を勤めしこと所見あり〔又曰、八月五日、赴愛甲三品夫人之葬事、於郡之寶積寺、寺乃愛甲世廟也、夫人甞受先國師衣、年五十八病革、今月二日、忽夢見余來問夫人就求浴髪、既而夢覺、命侍者請余而不及臨卒、侍者告曰、汝平生提撕、國師所示即心即佛、公案即今能透得否、夫人頷而卒、是以秉炬佛事及之、按ずるに先國師と記せるは、即夢窓國師を謂るならんか、されば國師創建の時愛甲氏蓋開基の任に當りしにや、〕同月圓覺寺祝融に罹る、長老大闡〔字大方佛範宗通禪師と諡す〕是を歎し、跡を當寺に匿す、圓覺寺の僧徒等相儀し、義堂をして和會せしめ、強て還往のことを謀り、推て歸寺せしむ〔【日工集】曰、十一月廿三日、臨夜忽報圓覺寺、失火、余從諸子、往山内、長老大法潜出匿于山崎寶積矣、時白雲菴、方春二首坐、左右捉余手、引過寶積、與大法、相見、懇言再往之意言未畢、諸衲推住持、上擧而歸寺矣、〕 又某年當寺の事等閑にせざる由、長尾修理亮忠景が示せし書今黃梅院所藏にあり〔曰、就山崎寶積寺事、年々如何樣於忠景、不可等閑候恐々敬白、五月十二日、謹上慈光院修理亮忠景花押〕廢せし年代は傳へず、
[やぶちゃん注:「寶積寺」は「ほうしやくじ(ほうしゃくじ)」と読む。個人サイト「鎌倉史跡・寺社データベース」の「北野神社」の解説に、『近くには愛甲氏の菩提寺の宝積寺があったことから、宝積寺の鎮守であったとする説もある。なお、山崎という地名は、この宝積寺があったため、京都にある宝積寺(宝寺)のあった山崎にちなんでつけられたとされている。宝積寺は明治の神仏分離令で廃寺になり、仏像は同じ山崎の昌清院に移された』とある。「鎌倉廃寺事典」では「宝積寺ケ谷にあった」とするが、現在、この谷戸名は伝わらず、廃跡位置も不確かであるが、酔石亭主氏のブログ「水石の美を求めて」の「天神山の怪」ではこれを同定しておられ、天神山の北の谷戸附近(山崎交差点の北西部分)が旧跡であろうと推定されておられる。肯んずることの出来る位置である。
「鹿山略記」江戸中期に書かれた円覚寺史。「本山縁由記」とも言い、現在、瑞泉寺が写本を所蔵する。
「方外」円覚寺第十五世夢窓疎石の弟子である方外宏遠。疎石の塔所である円覚寺塔頭黄梅院の二世を務めている。
「圓覺寺塔頭黃梅院文書に、山崎寶積寺自方外和尚、附屬心翁和尚云々」「鎌倉市史 史料編第三第四」の「黃梅院文書」の「九三 德翁中佐書狀」の冒頭である。同書には「心翁和尚」『(中樹)』と傍注する。この書状は、方外が心翁に宝積寺を附与したのだが、この寺を門徒の某が勝手に他宗に売却して逐電してしまったので、徳翁中佐なる人物が、長尾但馬守(底本本文に『(景人カ)』と傍注)に頼り、管領(底本に『(上杉房顯カ)』と傍注)にお願いして、どうか心翁の門徒らに寺を還付して貰えるよう取り計らって欲しいと言っている嘆願書である。なお、「鎌倉廃寺事典」によれば、寺は後に無事に還付されている。
「貞治二年」北朝元号で一三六三年。
「萬壽寺」長谷にあった寺。廃寺。
「避」「さけ」。
「須臾」「しゆう(しゅゆ)」。暫くの間。
「三月五日府君袖出萬壽公文、而面附予堅辭不受、翌日重以萬壽爲請余不應、十日、就正續院會議以請余不出十一日、出寺潜匿於山崎、蓋以避三命也」我流で書き下す。「袖」は何となくおかしく感じるので、「補」と読み換えた。大方の御批判を俟つ。
三月五日、府君、補(ふ)して、萬壽の公文を出ださる。面して予に附せらるるも堅辭して受ず。翌日、重ねて萬壽を以つて請ひ爲(な)さるるも、余、應ぜず。十日、正續院會議に就きて以つて余を請ふも出でず。十一日、寺を出で、潜かに山崎に匿る。蓋し以つて三命を避くるなり。
義堂の反骨の気骨を伝えて面白いではないか。
「指る」「させる」。
「愛甲氏〔事蹟未考へず〕」不詳。相模国を本拠とした愛甲氏は建暦三(一二一三)年の和田合戦で和田方に味方して敗れて以降、没落してしまった。ウィキの「愛甲氏」によれば、末裔は十四世紀末まで『地方豪族として存在していることが確認される』とあるから、その一族か。
「應安元年」北朝元号で一三六八年。
「八月五日、赴愛甲三品夫人之葬事、於郡之寶積寺、寺乃愛甲世廟也、夫人甞受先國師衣、年五十八病革、今月二日、忽夢見余來問夫人就求浴髪、既而夢覺、命侍者請余而不及臨卒、侍者告曰、汝平生提撕、國師所示即心即佛、公案即今能透得否、夫人頷而卒、是以秉炬佛事及之」我流で書き下す。
八月五日、愛甲三品(さんぼん)夫人の葬ひに赴く事、郡の寶積寺に於いてなり。寺は乃ち愛甲が世廟なり。夫人、甞て先の國師の衣(え)を受け、年五十八、病ひ、革(あらた)まる。今月二日、忽(こつ)として夢みる。余、夫人を來問して就くに、浴髪を求めらる。既にして、夢、覺(さ)む。侍者に命じて、余を請ふも臨に及ばずして卒(しゆつ)さる。侍者、告げて曰く、「汝、平生、提撕(ていぜい)さる。國師、示す所は、『即ち、心、即(そく)佛』となり。公案、即ち今、能く透得(たうとく)せんや否や。」と。夫人、頷きて卒す。是れを以つて炬(きよ)を秉(と)る。佛事、之れに及べり。
この「提撕」は「ていせい」とも読み、師が弟子を奮起させて導くこと。特に禅宗に於いて師が語録や公案などを講義して導くことを言う。一部、訓読に自信のない箇所はあるものの、しみじみとした全体のシークエンスは髣髴として伝わるものと思う。この愛甲夫人の臨終に立ち会っている(義堂も間に合わなかったのに、である)錯覚を覚えるほどである。いい。
「蓋」「けだし」。
「祝融」「しゆくゆう(しゅくゆう)」で、中国神話の神の名で、炎帝の子孫とされ、火を司るとされることから、火災に遇うことを「祝融に遇ふ」などと言う。
「長老大闡」(徳治元(一三〇六)年~至徳元/元中元(一三八四)年)は武蔵出身の臨済僧で俗姓は山名。京の天竜寺で夢窓疎石に、建仁寺で嵩山居中(すうざんこちゅう)に師事し、疎石の法を嗣いだ。応安元/正平二三(一三六八)年に浄智寺住持、後に円覚寺、序で天竜寺の住持を勤めた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
「跡を當寺に匿す」「跡」底本は「辨」であるが意味が通じない。鳥跡蟹行社刊「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」で確認、「跡」に訂した。円覚寺が焼亡したために、愕然として密かにこの宝積寺に姿を隠したというのである。この寺、名僧が姿を隠すのに余程都合が良かったものらしい。それだけ実は由緒があるということでもある。
「和會」単に「会見」の意である。
「推て」「おして」。
「十一月廿三日、臨夜忽報圓覺寺、失火、余從諸子、往山内、長老大法潜出匿于山崎寶積矣、時白雲菴、方春二首坐、左右捉余手、引過寶積、與大法、相見、懇言再往之意言未畢、諸衲推住持、上擧而歸寺矣」我流で書き下す。
十一月廿三日、夜に臨んで、忽(こつ)として圓覺寺より報あり。失火たり。余、諸子を從へ、山内(やまのうち)へ往く。長老大法、潜かに出でて山崎が寶積に匿る。時に、白雲菴と方春の二首坐、左右にして余が手を捉へ、寶積へ引過(いんくわ)す。大法と相ひ見(まみ)え、懇ろに再往の意を言ふ。言(げん)、未だ畢らざるに、諸衲(しよなふ)、住持を推して、擧(こ)して上げて、寺に歸れり。
この「諸衲」の「衲」は「納衣(のうえ)」と同じく、禅宗で僧のことを指し(原義は人が捨てた襤褸を縫って作った袈裟の意)、義堂について行った僧たちの意。最後の「擧(こ)して上げて」の訓読は正しいかどうかは分からぬが、禅問答の「挙(こ)す」(私はかく考える)の意の応答の発語で読んだ。
「當寺の事等閑にせざる由、長尾修理亮忠景が示せし書今黃梅院所藏にあり」「就山崎寶積寺事、年々如何樣於忠景、不可等閑候恐々敬白、五月十二日、謹上慈光院修理亮忠景花押」これは「鎌倉市史 史料編第三第四」の「黃梅院文書」の「九四 長尾忠景書狀」の全文である。我流で書き下す(同書の字配を参考にした)。
山崎寶積寺の事に就き、年々、忠景には如何樣(さま)にも、等閑(なほざり)にせざるべからず候ふ。恐々敬白。
修理亮忠景(花押)
五月十二日
謹上 慈光院
長尾忠景(?~文亀元(一五〇一)年)は戦国武将。ウィキの「長尾忠景」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『系譜上では長尾景棟あるいは弟の良済(ともに早世)の養子とされているが、「長林寺本長尾系図」には忠景を「芳伝名代」と記している。また、文明五年(一四七三年)~同八年(一四七六年)頃に忠景が所領における地子徴収に関するトラブルに関して述べた書状において、芳伝から所領を継承して卅ヶ年経ったと述べている(「雲頂庵文書」所収長尾忠景書状)。芳伝とは景棟・良済の父で山内上杉家の家宰を務めていた長尾忠政の法号であり、系図からは忠景は芳伝(忠政)の名代(家督)を継承し、書状の内容から宝徳二年(一四五〇年)のこととされる忠政の生前の文安年間(一四四四年~一四四八年)には忠景が既に総社長尾家を継承していたことになる。従って、実子二人に先立たれて後継者を失った忠政が忠景を養子に迎えたとみられる。その後、養父が務めた武蔵国守護代など、山内上杉家の要職を務めた。一方、実家の白井長尾家では、景仲が山内上杉家の家宰に就任し、父の後は兄の景信が家宰となっていた』。『文明五年(一四七三年)に景信が死去すると、白井長尾家の力を恐れた上杉顕定は景信の子である景春を登用せず忠景を家宰としたため、景春は反乱を起こした(長尾景春の乱)。もっとも、総社長尾氏と白井長尾氏は同格で両家の中から選ぶ場合には年長者が家宰に就任したとする説もあり、この説に従えば、家宰を務めた忠政の養嗣子でありながら忠景が長く家宰に就任できず、反対に景春が景信の嫡男でありながら家宰に就任できなかった説明が可能にはなる』。『忠景は顕定方の将として甥の景春の反乱の鎮圧に転戦するも、五十子の戦いで敗北し上野に逃れるなど苦戦を強いられた』。『反乱が終息した後も長享の乱が勃発すると、それまで協調してきた主家の山内上杉家と扇谷上杉家が対立関係となり、忠景の本拠である上野においては長野氏ら上州一揆の国人勢力が台頭するなど晩年まで戦いの人生を送った』。『鎌倉にある雲頂庵は、忠景が再興したとされている』とある。
「應安元年」一三六八年。足利義満の治世。]
○深禪寺蹟 今其跡詳ならざれど宇堂手坊の下など唱ふる地あれば果して其邊なるべし、應安二年九月義堂當寺の住侶と對話せしこと【日工集】に見えたり〔曰、九月十日、山崎深禪寺律師來詣、詔及天台教、余云、法華以何爲體、曰、以中爲體、余云、中以何爲體、律師無語、〕されば其頃は正しく存在せしなり、其後廢せし年代詳ならず、
[やぶちゃん注:「宇堂手坊の下」は「宇堂手」(「うだうて(うどうて)」と読むか)「坊の下」という地名であるが、現在に伝わらないのでさらに位置を確認出来ない。「鎌倉廃寺事典」の「深禅寺(しんぜんじ)」の項は本条を概説するのみで、他のデータが載らない。
「應安二年」一三六九年。
「九月十日、山崎深禪寺律師來詣、詔及天台教、余云、法華以何爲體、曰、以中爲體、余云、中以何爲體、律師無語」勝手野狐禪で書き下してみる。
九月十日、山崎深禪寺律師、來詣(らいけい)、詔(のりご)つに天台の教へに及ぶ。余、云く、「法華、以つて何の體(てい)たるや。」と。曰く、「中(ちう)を以つて體たりとす。」と。余、云く、「中は以つて何の體たるや。」と。律師、語ること無し。]
○館跡 坤方にあり、今白田となる、古領主宗高院〔土俗傳て、奥平氏の女といへど、家系傳記等に所見なければ、考ふるに由なし、〕の館跡なりと云ふ、南方少許を隔て山腹に櫻樹あり〔古木は枯槁して、後世植つぎし物なり、〕 里民御墓山の櫻と呼り、是宗高院墳墓の印にして、中古迄は石碑もありしと傳ふ、
[やぶちゃん注:「館跡」「やかたあと」と訓じておく。現行の特定位置は不詳。PDFファイルの「成福寺の山門と宗高院」(成福(じょうふく)寺は後の「小袋谷村」に出る)によれば、現在この伝承を示すもので山崎に『残っているのは、山崎集会所の脇道の奥にあるお塔さまと呼ばれ祀られている五輪塔です。これが宗高院の墓ではないかと言われています』とある。位置的には先の十王堂の直ぐ西に当たる。
「坤方」「ひつじさるのかた」と訓じておく。南西。
「宗高院」既注。]
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