物語 Ⅲ 月のめえるへん 立原道造
Ⅲ 月のめえるへん
そのころ、僕の魂は、十分に優しく詩人の生と死に就て、色淡いひとつの寓話を持つてゐた、月の光にことよせて嘆きをうたふあはれな文章をつづりをへたとき、彼の生を失つたといふ、淸らかな果敢さと詩人の冒險をそこに僕は描いてゐた。これだけのおもひに形や姿は寓話らしいやうすで添へられ聞くときごとに少女の耳にさまざまにささやかれた。あり得ないほど僕の切ない哀憐と淸らかな詩人の生とはかたく抱擁してゐた、狹く美しく。言葉はとりどりのしらべとなつて、そのまはりをまはつた。
[やぶちゃん注:以下の一段全体は、底本では全体が上部二字下げで、下部が三字空きとなっている。ブログのブラウザ表示の関係上、無視した。]
――月の光が窓の細い隙からさしこんでゐた。その一筋は音もなく室内を滑つて行つた、やがてそれは机の上にうつぶせに眠つた詩人の肩にとどいたとき、詩人は夢のなかで美しい薄明のなかを飛ぶ箭が自分の熱い心臟を引き裂くのを見た、詩人はそのとき月の光の奇妙な運命を知つた、眠りは斷たれた、室内には蒼ざめた月の光がちやうど硝子のペン皿の上に結晶のやうにきらめいてゐた。詩人はあらあらしくペンをとりあげ、ペンは異常な速さで白い紙の上を走つた、多くの文字がながれるやうに埋めつくした、終りは信じられなかつた、しかし終りはあつた、力が盡きたのであらうか、詩人はふたたびあらあらしく面を伏せた、眠りに落ちる人の動作としてはあまりに不意に……月の光はこの部屋を立ち去り、屋根を滑り、夜のなかをさすらひつづけた――と言ふやうに。
そして結びには、その詩人の死が語られるのであつた。奇妙な月の光の殺人が、或るときはむごたらしい繪のやうに、また或るときはしつかな鎭魂曲のなかでのやうに。詩人の死が語られるころには、長い美しい物語のあとで聞いてゐる少女も語つてゐる僕もすつかり退屈してゐるのであつた。
そのころ、僕はそのやうな色淡い寓話にたよつて、ただ何か言葉の別のはたらきを信じてゐたのだ、それがひとに傳へることの出來ないおもひを傳へられるとでもいふやうに。しかし今、僕はただそのやうな月のめえるへんばかりを心にはつきりとのこしてゐる、何も遺して行かなかつた少女のたつたひとつの形見のやうに。その傷痕に手を觸れるとき、僕は痛い悔いにみちた不思議なこころよさを知る。ながいこと僕はそのあとたつたひとり誰にもささやかずとりとめもない夢を自分の掌に語りつづけた。きのふの哀しげな戀の歌も白々しく、けふはもう僕を泣かさない。水晶の籠は透明に光つてゐるが水はたたへられてゐない。美しい世界の人工といふ果敢ない冒險が神と奪ひ爭ふ分け前のことなどおもつてゐる。そのやうな世界をみたす色淡い月の光など、そして淸らかなあこがれなど、僕にはすでにあちらの方にゐる。僕の日々はあたらしい僕の汚れにさいなまれる、しかもスケルツオのしらべで何のイロニイでもなく。