橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(9) 昭和九(一九三四)年 十九句
昭和九(一九三四)年
暖房や我が船募笛吹きつゞく
暖房や汽罐のひゞきすこしあり
傳書鳩雌はおくれつゝ秋の湖を
吾子いねしよりひたさびし煖爐もゆ
夜をかさね留守もる妻の繪雙六
暖房や花粉まみれとなりし百合
春日御祭后宴の能
ひとゝきの風おそひたる薪能
[やぶちゃん注:「后宴の能」は「ごえんののう」と読む。前に示した春日大社の摂社若宮神社「春日若宮おん祭(かすがわかみやおんまつり)」の内、十二月十八日の午後二時よりお旅所の芝舞台にて行われる後宴(ごえん)能。能が二番、狂言が一番行われる。]
冬茨病める遊女は破璃のうち
ひねもすの藪鶯や産籠り
繪屛風にかこまれゐるや産籠り
サドル島沖にて霧のため停船
海燕まつはり飛べり霧鐘うつ
[やぶちゃん注:「サドル島」「海燕」の「昭和十一年 霧の停船」に既注であるが再掲すると、戦前の中国に於いて欧米列強が幅を利かせていた頃に付けられた島名と思われ、英文サイト“American Merchant Marine at
War”(戦争中の米国商戦の資料サイト)のこちらのページに載る上海の地図(右手)で(当該ページは教え子が“saddle island shanghai”の検索で発見して呉れた)、上海の中心から西南西へ凡そ百キロメートル、長江河口左岸南東尖端の巨大な砂嘴の先から七十キロメートルほどの位置に、東シナ海に浮ぶ“Saddle Island”を認めることが出来る。海上の島の形が馬の鞍に似てでもいたのであろう。ここは現在の地図で確認すると彩旗島という島に相当する。ただ、問題なのは何故、この句が昭和九(一九三四)年の句であるのかが分からぬ。どう見ても、「海燕」の句と同時制の句としか読めないからである。底本年譜にはこの年に上海に多佳子が向かったという記載はなく、夫豊次郎と上海・杭州方面へ旅行するのは昭和十年の五月のことで、「海燕」の句はその体験に基づいたものを翌昭和十一年の句として掲げたとすれば問題はない。しかしもし、昭和九年の『ホトトギス』にこれらが句が載っているとするなら、昭和九年以前に多佳子が霧のサドル島の近くを同じように船で通ったことがあるということになる。どうも分からない。]
甲板や燕も我も霧に濡れ
霧げむり警鐘うてる人を消す
北四川路戰趾二句
夏草や廢墟の階は殘れども
燕や廢墟の柱空へ立つ
[やぶちゃん注:「北四川路戰趾」これは第一次上海事変(昭和七(一九三二)年一月から三月に中華民国の上海共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突事件)の上海租界の戦跡地である。当時の上海市の北四川路及び虹江周辺には凡そ二万七千の在留邦人が住んでいた。年譜には記載がないものの、やはり多佳子はこの事変後の昭和七年から九年孰れかの夏に上海周辺を訪問していると考えないとおかしいのである。]
櫓山にて
馬刀賣りの彼の婆來たり馬刀買はな
[やぶちゃん注:「馬刀」は「まて」で、斧足綱異歯亜綱マテガイ上科マテガイ科マテガイ属 Solen の仲間と考えられる。美味い。]
劉氏別業
燕とぶ留守の閨房並ぶなり
[やぶちゃん注:「劉氏別業」不詳。]
角伐りや紅葉かざせし人もゐき
角伐りや老の髮透く立烏帽子
[やぶちゃん注:以上、『ホトトギス』掲載分。多佳子、三十五歳。]
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