生物學講話 丘淺次郎 第十五章 胎兒の發育(2) 二 顏
二 顏
[二十八九日ごろの胎兒]
[やぶちゃん注:底本には『(七倍半大)』と添書があるが、倍率を合わせると図版が小さくなってしまうので外した。]
およそ人間の身體中で一番人間らしい處、即ち他の獸類に比べて一番違うた感じを起す處はどこかといへば、誰でも必ず顏と答へるであらう。顏はたゞに人間と獸類とで違ふのみならず、一人一人に違うて、如何によく似て居ても、竝べて見れば必ずどこか相違がある。されば、顔はその人の商標の如きもので、腹や背中や腕や腿を見たのでは誰であるか容易にわからぬが、顏さへ見れば決して他と間違へることはない。昔から肖像といへば必ず顏の畫のことで、今日入學試驗に替へ玉を防ぐために調べるものも顏の寫眞である。顏はかく重要な體部であるから、こゝに少しくその發生の模樣を述べて見よう。
單細胞時代、細胞の塊の時代、「ヒドラ」、珊瑚の如き時代、「みみず」の如き時代には、無論まだ顏と名づくべき部分はないが、その後になると追々顏といふ部分が明になつてくる。即ち第四週頃にはそろそろ頭の側面や腹面に、眼鼻の如き感覺器官が生じ、その間に大きなな口が開いて、頗る不恰好ながら一種の顏が出來る。この圖は第二十八九日頃の胎兒であるが、これを見ると眼はまだ頭の側面にあり、口は大きく「へ」の字形に横に延びて、上顎はまだ完全に出來上がらず、鼻の孔は兩眼の間に位して左右相遠ざかり、且各々口と連絡して居るから「さめ」や「あかえひ」の鼻によほどよく似ている。鼻に餘程よく似て居る。絶世の美人でも非凡な豪傑でも一度はかならずこのやうな顏をして居たので、これから成長して眼の鋭い掏摸の顏になるか、それとも間の拔けた善人の顏になるかは、前以て知ることは到底出來ぬ。
[第五週の終頃の胎兒]
[やぶちゃん注:底本には『(五倍大)』と添書があるが、倍率を合わせると図版が小さくなってしまうので外した。]
この圖は第五週の終頃の胎兒の顏である。大體に於ては前の圖とよく似て居るが、上顎の發達が稍々進み、鼻の孔と口との間の連絡の溝が大分細くなり、且口も閉ぢて居る。眼はやはり頭の側面にあり、鼻はたゞ穴があるだけで、まだ左右に離れて居る。人間では鼻といへば顏の前面へ突出した山の如き形のものと思ふが、かく突出するのは餘程後のことであつて、三箇月位の胎兒でも鼻は殆ど扁平である。また上顎は左右兩側の部と、中央にある部とが後に相連なつて出來上がるものであるが、その結果として鼻の孔と口とは表面では緣が切れる。但し、その裏の處では相變らず連絡して居て、この連絡は成長の後まで殘つて居る。鼻の孔から通した紙撚を口のほうへ引き出すことの出來るのはそのためである。また上顎の中央部と、左右いづれかの側部との間が完全に繫がらず、その間に多少凹んだ處が殘ると、所謂「三口」の兒が出來る。
[やぶちゃん注:「紙撚」老婆心乍ら「こより」と読む。「紙縒」「紙捻」とも書く。
「「三口」老婆心乍ら「みつくち」と読む。先天性異常の一つである「口唇口蓋裂」のこと。硬口蓋(口蓋の前方にある上顎骨口蓋突起と口蓋骨水平版によって骨で支持されている口蓋粘膜に覆われた硬い部分)或いは軟口蓋(口蓋のうち硬口蓋後方の柔らかい粘膜状になった襞部分)又はその両方が閉鎖しない症状を指す「口蓋裂」と、口唇の一部に裂け目が現われる症状を指す「口唇裂(唇裂)」の総称である。一般には症状によって「口唇裂」「兎唇(上唇裂)」「口蓋裂」などと呼ぶ(以上は主にウィキの「口唇口蓋裂」及び「口蓋」に拠った)。]
[第七週の終頃の胎兒]
[やぶちゃん注:底本には『(五倍大)』と添書があるが、倍率を合わせると図版が小さくなってしまうので外した。]
[二箇月の終頃の胎兒]
[やぶちゃん注:底本には『(三倍大)』と添書があるが、倍率を合わせると図版が小さくなってしまうので外した。]
前圖は第七週の終の胎兒、上圖は第二カ月の終わりの胎兒の顏である。この位まで進むと、已に幾分か人間の顏らしくなる。但し眼はまだ餘程左右に向ひ、鼻は全く扁平で下を向くべき鼻の孔は眞正面を向いて居る。特に違うて見えるのは、耳の孔の位置で、殆ど下顎の下にある。これより後の顏面の發育はたゞ一歩一歩赤子の顏に似て來るだけで、最早著しい變化はない。耳は初め孔ばかりであつたのが、二箇月の頃少しづつ耳殼の形が出來掛り、三箇月には餘程形も整つて來る。眼は最初は圓く開いたまゝであるが、四箇月頃に眼瞼が出來上り、その後は閉ぢて居て七箇月から開くやうになる。八箇月では下顎が稍々大きく頤が明になり、九箇月では頭の髮が濃く長くなる。
[二箇月の終頃の胎兒]
[やぶちゃん注:底本には『(三倍大)』と添書があるが、倍率を合わせると図版が小さくなってしまうので外した。]
人間の胎兒の顏は如何なる動物の顏に最もよく似て居るかといふに、最初の間はただ他の獸類の胎兒に似て居るといふだけで、成長した動物でこれに似たものはないが、二箇月以後のものは餘程猿類に似て居る。とくに猿類の胎兒と竝べたならば殆ど取り換へてもわからぬ程によく似て居る。こゝに掲げた手長猿の胎兒の如きは、これを三箇月の終の人間の胎兒に比べたら、どこが違ふか寧ろ相違の點を見出すのに苦しむ位であらう。
[手長猿の胎兒]
[やぶちゃん注:これは学術文庫版が白く飛んでリアリズムに乏しいため、国立国会図書館蔵の原本からトリミングし、補正を加えたものである。]
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