小さな墓の上に 立原道造
小さな墓の上に
失ふといふことがはじめて人にその意味をほんたうに知らせたなら。
その頃、僕には死と朝とがいちばんかがやかしかつた。そのどれも贋の姿をしか見せなかつたから。朝は飽いた水蒸氣のかげに、死は飾られた花たちの柩(ひつぎ)のなかに、しづまりかへつてめいめいの時間を生きてゐたから。
すなほな物語をとざしたきり、たつたひとりの讀む人もなく。骨に曆を彫りつけて。
なくなつた明るい歌と、その上にはてないばかりの空と。ことづけ。
墓の上にはかういふ言葉があつた――
たのしかつた日曜日をさがしに行つた
木枯しと粉雪と僧院に捕へられた
それきりもう歸らなかつた。一生默つて
生きてゐた人、ここに眠る。
[やぶちゃん注:底本は中公文庫版「日本の詩歌」第二十四巻を用いたが、恣意的に漢字を正字化した。第四連の後の二行空けはママである。同底本の脚注(注釈阪本越郎)では以下の評釈箇所が眼を引く。
《引用開始》
朝と死が、「しづまりかへつてめいめいの時間を生きてゐた」というこの詩の主題から、私は道造と散歩した追分の朝を思いだす。
暮の街道筋からちょっと入ったところに寺の墓地があって、並んだ石塔はどれも乳緑色の石苔におおわれた古いものだった。その一番はずれに数基の小さな墓が並んでいた。何々童子之墓と書いてあるがよく読めない。
「これはお女郎の生んだ子の墓だそうですと彼は私に説明した。私はしばらくその前に佇(たたず)んでいたが、馴れない霧のために、一層不安になっていた。すると彼は細い指先で墓石を撫(な)でながら、『わびしいな、わびしいでしょう』と二三度云った。さびしいといわず、わびしいという所に彼らしい感じがある」(阪本越郎、昭和十四年『四季』七月号)
『四季』発表の「村ぐらし」には、「泡雪幻夢童女の墓」という一行があった。これは恐らく、その時私たちが見た小さな墓の墓碑銘ででもあったのだろうか。
《引用終了》
「村ぐらし」は前に出した。但し、この阪本氏の引く『「泡雪幻夢童女の墓」という一行があった』の箇所は、「泡雲幻夢童女の墓」(戒名は「はううんげんむどうぢよ(ほううんげんむどうじょ)」と読む)の誤りである(本詩の「粉雪」に引かれた誤記憶か)。
私は失礼乍ら、阪本氏の如何にも文献主義の独文学者然とした、インキ臭い底本の脚注群があまり好きになれない(序でに言うと、これは氏の瑕疵ではないが、こうした形で横長に紫色のだらだらした脚注を配するという選詩集のレイアウトは私が生理的に最も嫌悪する組版で、恐らくはこの中公文庫版の元版である大型版箱入のシリーズがおぞましき元凶の一つあると記憶している)のだが、この印用箇所はとても好きだ。なお、阪本氏の指摘(引用箇所の直前にある)を待つまでもなく、この詩篇の中に出る墓碑銘を持つ墓は、立原道造自身のそれである。則ち、本篇は生前の立原道造自身が死者となって詠んだあの世からの詩人の詩篇なのである。
【2026年3月24日追記修正】国立国会図書館デジタルコレクションの「立原道造全集」の「第一卷 詩集I」(一九七一年角川書店刊)の当該詩篇を視認したところ、最終聯に重大な違いが見出せたので、修正した。前底本の最終聯は(恣意的正字化)、
墓の上にはかういふ言葉があつた――
たのしかつた日曜日をさがしに行つた
木枯しと粉雪と僧院に捕へられた
それきりもう歸らなかつた。
一生默つて生きてゐた人、ここに眠る。
となっていた。編者が、最後の行の一字下げになっているのを、違和感を持ち、勝手にとんでもない書き換えをしまったとしか思われない。]
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