橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(4) 昭和四(一九二九)年 四十三句
昭和四(一九二九)年
露けさや伏してひらかぬねむの事
實葛はむ瑠璃の小鳥の名を知らず
[やぶちゃん注:「實葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ Pueraria lobata は秋の開花後、剛毛に被われた枝豆に似た扁平な実を結ぶ。
「瑠璃の小鳥」seni_seviyorum氏の「【野鳥】日本の野山にいる青い鳥写真集」の中にいるか?]
落椿そびら合せに二つかな
赤間宮平家の夢
額づけばまた水無月の落葉かな
[やぶちゃん注:「赤間宮」山口県下関市阿弥陀寺町にある安徳天皇を祀る赤間神宮であろう。]
手花火の子等に浦波よするなり
裏門や舟蟲這ひてとざされず
[やぶちゃん注:以上、『ホトトギス』掲載分。]
百合見えて肩をかはしぬ山の駕
庭下駄のこだまのありぬ夕紅葉
庭下駄の鼻緒かたさよ石蕗の花
返り咲くたんぽゝの畦あるやなし
この里の手毬のうたもうろおぼえ
うぐひすや藪のひまなる海の色
落椿まわりとまりし藁の堰
囀や一羽おりたる芝生かな
囀や嶋山かけて虹の景
山莊や春の暖爐を焚きしまゝ
みどり藻の磯のうす雪とけやらず
やどかりのよろばひいでぬ若布籠
落椿この一波にさらはれん
磯の香や椿の籔をぬけしより
門川や落つる椿も籬ぞひ
馬醉木川はぐれし鹿をうつしたる
馬醉木野や鹿よぶ聲のうしろより
[やぶちゃん注:「馬醉木川」も「馬醉木野」も固有名詞としては存在しないと思う。奈良公園辺りを漠然と私的に幻想化したものか?]
白木蓮散りし光りをまのあたり
久保邸にて
こぼれ生ふ罌粟そのまゝに苑の徑
[やぶちゃん注:「久保」不詳。可能性としては、俳人で歌人でもあった久保より江(明治一七(一八八四)年~昭和一六(一九四一)年)か? 郷里の愛媛県松山で夏目漱石・正岡子規に接して句作を始め、上京後、府立第三高女を卒業、久保猪之吉と結婚、福岡に住み、高浜虚子に俳句を、服部躬治(もとはる)に和歌を学び、柳原白蓮らとも交友があった。著作に「嫁ぬすみ」「より江句文集」など(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。彼女とは同じ福岡に住んでいたこと(但し、この昭和四(一九二九)年十一月に大阪帝塚山へ転居している)、同じく同時期に虚子の傘下にあったこと、また、後の昭和七(一九三二)年に、多佳子も寄稿している旧師(多佳子は彼女を「師」と呼ぶことを嫌うであろうが)杉田久女の俳誌『花衣』には彼女の寄稿もある点で接点は大いにあるが、誤っているとまずいので識者の御教授を乞う。]
しみいづる草の淸水や春龍胆
草むらに囮の鳥の高音かな
落椿よりつ離れつ波のまゝ
再びの提灯おそふ花吹雪
[やぶちゃん注:「灯」はママとした。]
日向靑島
春光や蒲葵(びろう)樹林の御幸道
[やぶちゃん注:「蒲葵(びろう)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビロウ Livistona chinensis。別名の「ホキ」はこの「蒲葵」の音読み。蒲宮崎市日南海岸青島はこのビロウで覆われている。]
ばりばりと蒲葵落葉をふみ出る
塵籠の塵おほかたは落椿
旅衣螢の欄にかけられし
機織女梧桐の風をほしいまゝ
靑簾漁火見えそめてまかれけり
下ノ關安德陵にて
此の陵や春も早く暮れぬべし
[やぶちゃん注:「安德陵」山口県下関市阿弥陀寺町にある阿彌陀寺陵に治定されている安徳天皇陵。ここにはかつて安徳天皇の怨霊を鎮めるために源頼朝の命により建てられた阿彌陀寺があったが、明治のおぞましき廃仏毀釈により廃され、先に出た安徳天皇を祀る赤間神宮となった。参照したウィキの「安徳天皇」によれば、現代になって『新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下に五輪塔の存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされ阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)とされた』『赤間神宮は安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院の見た夢(『平家物語』「六道之沙汰」)にちなみ、竜宮城を再現した竜宮造りとなっている』とある。]
日向鵜戸神社にて
山藤や此處より沓を許されず
[やぶちゃん注:「鵜戸神社」宮崎県日南市大字宮浦の日向灘に面した断崖の中腹、東西三十八メートル/南北二十九メートル/高さ八・五メートルの自然の海食洞内に本殿を鎮座させてあり、参拝するには崖を石段で降りる神社としては珍しい「下り宮」である。参照したウィキの「鵜戸神宮」によれば、『「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名の「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている。古くは「鵜戸権現」とも称された』とあり、『創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に』『「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える』。また、延暦元年(七八二年)には『光喜坊快久という天台僧が桓武天皇の勅命を蒙って別当となり、神殿を再建するとともに、別当寺院を建立し、天皇より「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺(うどさんだいごんげんあびらさんにんのうごこくじ)」の勅号を賜わったとも伝える』。『平安時代以来、海中に聳える奇岩怪礁とも相俟って、修験道の一大道場として「西の高野」とも呼ばれる両部神道の霊地として栄えた。中世以後、伊東氏や島津氏などの在地領主の崇敬を受け』たとある。ここで多佳子が詠んでいるのは、境内にある玉橋のことである。同ウィキに(アラビア数字を漢数字に代えた)『「神橋」とも呼ばれ、釘を一切用いない橋板三十六枚からなる反橋で、金剛界三十七尊を現す(三十六枚の橋板が三十六尊を、橋を渡る本人が一尊を現す)と伝える。宝暦十年(一七六〇年)に別当隆岳が撰述した『鵜戸玄深記』に、往古よりこの橋を境に不浄の履き物を禁じているとの記述があり、ここから先は裸足で参詣する習いであったが、戦後にその風習は廃止された』とある。そうだろうと思った。ここは珍しく私も十九の時に行ったことがあるが、靴を脱いだ記憶がないからである。]
すゐすゐと小魚のかげや冷し瓜
日向景淸陵人麿塚にて
手折り持つ薊そのまゝ手向花
[やぶちゃん注:「日向景淸陵人麿塚」これは宮崎市下北方町にある平家の猛将悪七兵衛景清を祀る景清廟と同所に並ぶ景清の娘人丸(ひとまる)の塚(墓)の誤りであろう。私の訳注附電子テキスト「耳嚢 巻之四 景淸塚の事」を参照されたい。]
抱へ行く藤の花房うちかふり
あぢさゐのまだ珠ちさき薄黃かな
誘蛾灯ともす童に從ひぬ
[やぶちゃん注:「灯」はママとした。]
ぬぎすてし衣にとび來し靑蛾かな
[やぶちゃん注:俳誌『天の川』掲載分。多佳子、三十歳。]

