旅人の夜の歌 立原道造
旅人の夜の歌
Fräulein A. Murohu gewidmet
降りすさむでゐるのは つめたい雨
私の手にした提灯はやうやく
昏く足もとをてらしてゐる
歩けば歩けば夜は限りなくとほい
私はなぜ歩いて行くのだらう
私はもう捨てたのに 私を包む寢床も
あつたかい話も燭火も――それだけれども
なぜ私は歩いてゐるのだらう
朝が來てしまつたら 眠らないうちに
私はどこまで行かう‥‥かうして
何をしてゐるのであらう
私はすつかり濡れとほつたのだ 濡れながら
悦ばしい追憶を なほそれだけをさぐりつづけ‥‥
母の あの街の方へ いやいや闇をただふかく
[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの昭和二二(一九四七)年角川書店刊立原道造「詩集 優しき歌」の画像を視認した。
「その二」の第三連一行目の「ざはめき」はママ。
「Fräulein A. Murohu gewidmet」の「Fräulein」(フロライン)はドイツ語で未婚女性に敬意をこめて呼びかける際の敬称「~嬢」。「A. Murohu」は室生犀星の長女で後に随筆家となった室生朝子(大正一二(一九二三)年~平成一四(二〇〇二)年)のことである(角川文庫版「立原道造詩集」中村真一郎氏注に拠る)。後の犀星の小説「杏っ子」(昭和三一(一九五六)年十一月十九日から翌昭和三二(一九五七)年八月十八日の『東京新聞』(夕刊)に連載)の主人公としても知られるが、本篇の推定創作年時(後述)前後と思われる昭和九(一九三四)年から一〇(一九三五)年頃は未だ満十から十二歳ほどであった(初出発表時点(後出)では満十二歳(彼女は八月二十七日生まれ)。「gewidmet」(ゲヴィッドメット)は既出既注。全体で可憐な乙女「室生朝子孃に捧げたる」の意となる。
中公文庫「日本の詩歌」第二十四巻の脚注によれば、本詩篇は昭和一一(一九三六)年『四季』六月号に初出とするが、その前文で処女詩集「萱草に寄す」に載る詩群(詩集自体は昭和一二(一九三七)年七月刊行であるが、その詩篇創作は昭和九(一九三四)年夏(この時、犀星や堀辰雄のいた軽井沢に滞在)から翌一〇(一九三五)年(この夏も大学が夏季休暇となるやすぐに軽井沢へ向かった)に『続くころに作られたものと推定され』る詩篇とし、さらに初出を示した後文では、敢えて『昭和十年ごろの道造は、軽井沢の犀星宅によく泊めてもらっていた』と記し、この献辞も『室生家への感謝の気持がこめられていることは明らかである』と断じていることから、私は詩篇のイメージから推して創作年は昭和一〇(一九三五)年夏以降の秋か冬のように思う。とすれば、朝子はやはり満十二歳である。]