日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(4) 茸そっくりの和菓子/京の三十三間堂のこと
先日午餐の時、蕈にそっくり真似た砂糖菓子が出た。死白色の柄や菌褶(きんしゅう)、半透明で黄灰色な菌傘は、事実、それ等の特性を示していた。
[やぶちゃん注:「死白色」原文は“dead-white”。青白く少し透き通ったような白か。それとも死蠟のような色か。
「菌褶」茸の傘の裏にある放射状の襞のこと。
「菌傘」「キンサン」と音読みしておく。]
京都には一一三二年に建てられた建造物の遺趾の上に立つ、六百年を越す建物がある。これは三十三間堂といい、二つの巨大な屋根梁が長さ三十三間(一間は六フィートに近い)あるところからこの名が来ている。この建物は長さ四百フィートに近く、幅は五十三フィートで、一つの後に一つという風な方陣に並べた女神、観音の像が無数に納めてある。その数は三万三千三百三十三であるという【*】。
* これ等の事実を私は案内記から引用した。
[やぶちゃん注:「一一三二年」天承二年。但し、三十三間堂及び前身の法住寺殿の歴史のクレジットにはこの年号はない、鳥羽上皇の建てた得長寿院三十三間堂(現在の左京区岡崎徳成町にあったが、寿永四(一一八五)年に発生した地震で倒壊し再建されなかったので現存しない。規模は現存の三十三間堂と同規模であったとされる)がこの年の建立である。しかし、「国際日本文化研究センター」のデータベース内の「外像」の写真「京都の三十三間堂.1132年に建てられた.それは慈悲の女神である観音の33333の真鍮像を入れている」のキャブションにはご覧の通り、一一三二年のクレジットが入っている。これは何だ? 次注の太字下線部も参照されたい。
「三十三間堂」京都市東山区三十三間堂廻り町(ちょう)にある仏堂。正しくは蓮華王院本堂。現在は東北凡そ四百メートルの場所にある京都市東山区妙法院前側町の天台宗妙法院境外仏堂として同院によって所有管理されている。元は平安中期に太政大臣藤原為光によって創建された天台宗の法住寺(現在も三十三間堂東直近に現存)で、その後の院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の離宮法住寺殿の仏堂があった。ウィキの「三十三間堂」によると、永延二(九八八)年に、為光が法住寺落慶法要を営んだことが「日本紀略」「扶桑略記」などに見え、長元五(一〇三二)年に九条邸を出火元とする火災延焼によって焼亡してしまい、その後の約百二十年間には『大規模な再建などの記録はみられない』とあるから、やはり「一一三二年」は本三十三間堂沿革史のエポックには存在しないクレジットであることが判る。永暦二(一一六一)年より『為光が建立した法住寺を中心とした地域に、為光の寺院を包摂するかたちで後白河上皇の御所がいとなまれる。これが法住寺殿である。その敷地は十余町、平家をうしろだてにした上皇の権威で、周囲の建物はとりこわされ、広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられた。狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。南殿には上皇のすまいとともに、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、広大な池もあった』。長寛元(一一六三)年には、『蓮華王院(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立された』。現在のものは文永三(一二六六)年に完成したもので国宝である。
「六百年を越す」本書刊行(一九一七年)からなら、一三一七年以前となり、今度は遡り方がやや不足している。現在の建物の文永三(一二六六)年は六百五十一年前である。但し、実見当時の明治一五(一八八二)年からならば「六百年」前は一二八二年、それ「を越」えて古いとあるのであるから全く問題はない。やはり謎は「一一三二年」天承二年というクレジットである。
「二つの巨大な屋根梁が長さ三十三間(一間は六フィートに近い)ある」「一間」は百八十一センチ八ミリ、「六フィート」は百八十二センチ八ミリ、「三十三間」は六十メートルであるが、実際に三十三間堂をご覧になられた方はその倍はあることに気づかれるであろう(この叙述が実見直後であったならモースもおかしいことに気づいたと思われるが、実見から三十年以上が経過した後のアメリカでの著作であるからあまり責められないし、参照したという英語版(推定)の案内書のデータ自体が杜撰なものであった可能性も極めて高いと思われる)。実は三十三間堂の「間(けん)」は単なる距離単位の「間(けん)」ではなく、社寺建築に於いて柱と柱の間の数を表す、しかも現在とは異なる昔の建築用語単位なのである。しかも面倒なことに、ウィキの「三十三間堂」によると、『三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく』、『その柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当』せず、もっと悪いことに本堂の説明としてまことしやかに、
「三十三間堂の一間(柱の間)は今日の二間(一二尺。三メートル六十三センチ六ミリ)に相当する」として堂の全長を33×2×1・818≒120メートルと『説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである』
(但し、実際の本堂の外縁の本堂本体の長さ約百二十メートルとは殆ど一致する)とある(下線やぶちゃん)。同ウィキのデータでは、
桁行は三十五間、梁間は五間、実長は桁行が118・2メートル、梁間が16・4メートル
とある。これが最も信用出来る数値である。ウィキペディアを信用しないアカデミストに言っておくが、三十三間堂公式サイトの「本堂」の解説では、
地上16メートル、奥行22メートル、南北120メートル
となっている。因みに、モースの記述する「建物は長さ四百フィートに近く、幅は五十三フィート」を換算すると、「四百フィート」弱なら百二十一メートルほど、「五十三フィート」は十六・二メートルである。
「一つの後に一つという風な方陣に並べた女神、観音の像が無数に納めてある。その数は三万三千三百三十三であるという」本尊は千手観音坐像。像の実数はそんなにない。そんなにあったら入り切れない。やはりウィキの「三十三間堂」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。その左右には長大な階段状の仏壇があり、千体の千手観音立像が各十段五十列に並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にも一体あり、計千一体である。内陣の左右両端には向かって左(南端)に風神像、右(北端)に雷神像を安置。千体仏の手前には二十八部衆像が横一列に並ぶ。ただし、二十八部衆像のうち四天王像四体は本尊の周囲に配置されている』とある。実は「三十三」自体が観音に縁のある数であって「法華経」等に観音菩薩は三十三種の姿に変じて衆生を救うと説かれてあることに依拠している。モースの謂いもガセではなく、実際に俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」と称えるのは、本尊と脇仏の一千一体総てがそれぞれに三十三種に化身するという計算に基づく数値なのである。]
図―702
それをめぐる廊下は幅六フィートで、それを歩いて行くと一方側には厳重な棒で保護された戸口があり、その内にはこの聖人の林が、まるで観兵式の時の一連隊みたいに、密接した列をなして立っているのが見える。屋根は廊下から約十八フィート上に、廊下より外につき出し、そして桁や横木のこみ入った連鎖によって支持される。封建時代には、この長い廊下の一端に標的を置き、それを弓矢で射る習慣があった。弓は恐しく強力のものであらゎばならず、射手もまた、十八フィートという限られた抛射弾道で四百フィート近くまで矢を射るためには、極めて強くなければならなかった。射手が何度となく失敗した証拠は、上方のこみ入った組立に、いまだに折れた矢がぎっしりつまってつき立っていることに見られる。人は第一印象として、大きな鳥が巣をかけようとしたのだなと考える。図702はこれ等の折れた矢をざっと写生したもので、それは桁を被う銅板の中につきささっている。この建物の横の原の一隅には小さな小屋があり、一セントで弓と十本の矢とを貸す。標的は原の中途のところにある。私は矢を三十本借り、非常に暑熱が激しかったにもかかわらず、数回標的にあてることに成功したので、弓をかす爺さんは吃驚して了った。私は弓籠手(ごて)を持っていず、また矢が絃を離れる時日本風に弓をひねることができないので、その後二週間も手首が赤くすりむけていた。書き加えるが、距離は半分であったが、私の抛射弾道は建物の、棟木ほど高かった。
[やぶちゃん注:「六フィート」一メートル八二センチ八ミリメートル。
「屋根は廊下から約十八フィート上」「十八フィート」五メートル四十八センチ六ミリメートル。廊下面から廂までの平均高度である。
「封建時代には、この長い廊下の一端に標的を置き、それを弓矢で射る習慣があった」またまたウィキの「三十三間堂」によれば、『江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下』『で矢を射る「通し矢」の舞台となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである』(引用元には十八世紀後半の歌川豊春の描いた浮世絵画像がある)。『「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったのである。その伝統に因み、現在は』一月中旬に本堂西側の「遠し矢」の半分、射程六十メートルの『特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる』。但し、これ、『一般的には「通し矢」と呼ばれているが』、六十メートルは『弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものである』とある。
「四百フィート」くどいが百二十一メートル。
「図702はこれ等の折れた矢をざっと写生したもので、それは桁を被う銅板の中につきささっている」私は三十三間堂は遠い昔に一度だけ訪れたが、西縁は見なかったので、現行がそどうなっているかは知らない。そこで検索した結果、「株式会社神戸製鋼所」の機関誌『アイル』の「三十三間堂の通し矢」に以下の記載を見出した。『柱や壁には矢による傷が多くあり、庇には外れた矢が刺さって今も残っている。特に西側の柱は片面が鉄板で覆われており、これは大量の射損じた矢が当たるため、補強として徳川家光が作らせたものである』。今も矢の断片を見ることが出来るらしい。今度行ったらきっと見よう。]
« 日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(3) 犂いろいろ | トップページ | 橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(10) 昭和十(一九三五)年 二十一句 »