小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (二)
二
狐の神の俗稱である稻荷は、『稻の荷』といふ意味であるが、この神の太古の名は『食物の尊い靈』卽ち古事記にある、宇賀御魂命【註一】である。この神が狐の崇拜との關係を示す、三毛津神、卽ち三匹の狐の神といふ名を帶びるに至つたのは、極めて近代のことなのだ。實際、狐を超自然的のものと見倣す考へは、十世紀乃至十一世紀までは、日本にまだ入つてゐないやうだ。して、狐の澤山の像を有する狐の神の祠が、多くの大きな神社の境內に見出されるのであるが、日本最古の社殿――杵築――の廣い境域中に、狐の像を發見し得ないのは、注目に價する。また稻荷が白狐【註二】に乘れる髯の生えた人として、表現されてゐるのは、たゞ近世の藝術――豐國などの――に於てである。
註一。豐受姬ノ神又は宇賀ノ御魂命
(この神には他にまだ八つの名があ
る)は古事記及びその註釋者による
と、女神である。且つ神道の最大學
者平田篤胤に、サトウ氏の引用する
處に據れば、稻荷といふ神は決して
實際に存在しないで、その名さへも
誤りであると云つてゐる。しかし坊
間で稻荷といふ神を創造してゐるか
ら、存在してゐるものと假定せざる
を得ない――單に民俗學者のために
でも。して、私は彼を男の神として
述べてゐるが、それは繪畫彫刻にか
く現してあるからだ。彼の神話的存
在については、京都に於ける彼の大
きな、富裕な社祠は、目醒しい證據
である。
註二。白狐に日本の藝術家の得意と
する題材だ。一八九〇年の東京大博
覽會に、白狐を畫いた數幅の美しい
畫が出品してあつた。燈火を帶びた
狐が、今日世界的名聲を博すること
となつた、畫家達のかいた、非常に
稀で高價な、古い錦繪に屢〻見える。
往々夜間、頭の上に淡い光を放つ火
――孤火――を有つて、ぶらついて
ゐる狐が畫かれてゐる。狐の尾の先
端は、彫刻に於ても畫に於いても、
普通古い佛敎藝術の象徴的の玉で飾
つてある。私は尾に輝ける玉をつけ
た白狐の掛物を藏してゐる。松江の
御城山の稻荷社で買つたのだ。その
掛物の藝術は拙いが、その著想には
妙味がある。
祠荷はたゞ米の神として崇拜されるばかりではない。實際、多くの稻荷がある。恰も上古希臘にハーミーズ、ジユウス、アセィナ、ポサイドンの諸神があつて、學者の知識上では同一でも、一般人民の想像に於ては、全く異つてゐたやうなものである。稻荷はそのさまざまの性質のため數を增した。例へば松江に神谷樣の稻荷さんといふのがある。出雲地方で最も普通で、また特に烈しい咳と風邪の神である。田町に小祠があつて、俗に風の神樣と呼んでゐる。して、こ〻へ祈つた後、咳や風邪の癒つた人々は、御禮として豆腐を捧げる。
また大庭村に有名な特殊の稻荷さんがある。その祠の壁には、粘土製の小狐の滿てる大きな箱が掛けてある。祈願をする人は、その一つの小狐を袂に入れて家へ持つて行つて、祈願の叶ふまで、大切に保護して尊敬する。その後、また祠へ持つて行つて、箱の中へ返へし、出來るならば、祠へ幾分の寄附を献げるのである。
稻荷は屢〻病氣を癒すものとして、更に一層富を與へる神として拜まれる。(恐らくは舊日本のすべての富は、米の石高で計られたからだらう)だから、稻荷の狐は、時として口に鍵を含むものとして現してある。して、富を與へる神であるため、或る地方では女郞階級の特別な神となつてゐる。例へば橫濱の遊廓附近に、遊覽の價値ある稻荷がある。それは辨天の社と同一の境內にあつて、稻荷の祠としては、並外づれて大きい。參道には鳥居が連續して、其高さは祠に近づくに隨つて低くなり、又高さの低くなるに比例して、ますますその間隔は密になる。鳥居每に、左右に奇異なる一對の狐が坐つてゐる。最初の一對は、獵犬の如く大きい。第二番はもつと小さい。して、他のものは鳥居の小さくなるに從つて小さくなる。祠の木造の階段の下に、一對の頗る優美な石彫りの狐がある。黑褐色で、頸の回はりに赤い布片が卷いてある。階段の左右にも木彫りの白狐が一匹づ〻ゐて、階段を上るに從つて、順次に小さくなつてゐる。して、戶の敷居の處には高さ三寸にも達しない、極く小さな二匹の狐が、碧空色の臺に坐してゐる。是等の狐の尾は、金で尖端を飾つてある。それから、祠內を覗いて見ると、左方の長い低い卓子の如きものの上に、幾百の小さな狐の像が乘つてゐる。それはたゞ白い尾を有つてゐて、戶口のものよりも小さい。稻荷の神像は無い。實際私はまだ稻荷神社で、稻荷の姿を見たことはない。神壇の上には、普通の神道の象徴が見える。して、戶口と相對して、壇前には一種の燈籠が立つてゐる。その四側は玻璃で、木造の底には奉納の蠟燭を立てる釘の尖頭が散在してゐる。
して、若し讀者がこ〻に見張つてゐると、折々恐らくは一人や二人でなく、綺麗な娘が階段の下へ來るのを見るだらう。彼女の唇には華かな紅が施され、またいかなる少女も妻も着ないやうな美しい古風な服裝をしてゐて、一個の貨幣を戶口の賽錢箱に擲り込み、それから、『お蠟燭』と呼び上げる。直ぐに奧の室から、點火せる蠟燭を携へた老人が現れ、それを燈籠の釘の尖頭に立てて退く。かやうな蠟燭の奉納には、いつも幸運に對する祕密の祈願が伴つてゐる。しかし、この稻荷は女郎社會以外の人々からも、大いに崇敬を受けてゐる。
狐の頸の回りの赤い布片も、また奉納品である。
[やぶちゃん注:「三毛津神」これは、ここでのハーンの記載では、一見、三匹の毛を持った獣の神のように読んでしまうのであるが、それは全くの誤認であって、もともと、偶然に、狐の古名が「けつ」であり、狐信仰が神道と混淆した結果、そこで稲荷神の一柱に擬えられたところの、穀物や食物の神である「御饌津神(みけつのかみ)」(前条の「稻荷」のウィキの引用注を参照)に当て字して、そのような「三匹の狐の神」と読み違え、実際に三つに分身してしまったものである。
「狐を超自然的のものと見倣す考へは、十世紀乃至十一世紀までは、日本にまだ入つてゐないやうだ」この考え方は、現在の知見上では誤りである。前条の「稻荷」のウィキの引用注を見て頂ければ分かる通り、『狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅四年(七一一年)には最初の稲荷神が文献に登場する』とあり、それ以前の渡来系・帰化系氏族で稲荷神を祀ったのが秦氏とすれば、雄略天皇の御代(一応、西暦四五七年から四七九年に比定)には既に移入されていた(渡来信仰とすれば、の話である)はずであるから、稲荷信仰は、本邦では既に五世紀から八世紀に最初の定着をし初めていたと考えるべきであろう。無論、広範な民間への流布はそれ以降であろうとは思われる。
「日本最古の社殿――杵築――の廣い境域中に、狐の像を發見し得ないのは、注目に價する」【二〇二五年三月八日新規注】とあるが、確かに、出雲大社の狭義の敷地内には稲荷神社はない。しかし、先年の十二月に山陰を旅し、念願の出雲大社を参拝したが、実は、大社の西直近のここ(グーグル・マップ・データ)に、「都稻荷神社」(みやこのいなりのやしろ)が存在する。しかも、この道を隔てた東北は出雲大社宮司である千家家の邸宅であったのである。この稲荷の南東に「手水舎」があることを考えれば、ここは、広義の大社の境内(参道内)とするのが自然である。しかも、同稲荷のサイド・パネルの説明板の画像に、『この社は江戶時代末期、第七十六代千家俊秀國造の弟、千家俊信(としざね)により京都の伏見稲荷大社より御分霊をお迎えして、お祀りされ』たとあったのである。入り口に開閉式の扉になっているのが、やや奇異に感じられはしたが、ハーンは、ここを通らなかっただけで、実は大社には狐の像があるのである(二対四体)。連れ合いが撮った写真を以下に掲げておく。
「稻荷が白狐に乘れる髯の生えた人として、表現されてゐるの」この絵、確かに見た記憶があるのであるが、今、誰のどの絵であるかを指示出来ない。識者の御教授を乞う。なお、東京都墨田区向島にある宇迦御魂之命を祭る三囲神社(みめぐりじんじゃ)のウィキの記載の中に、『倉稲魂命=宇迦之御魂神を祀る。旧村社(現在はかつての小梅村にあたる地区にあるが、旧地は須崎村にあったと推測されている)。元、田中稲荷と称した。創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを』三度『回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという』とある(下線やぶちゃん。この話は「新編武藏國風土記稿」にも載る)。こちらの三囲神社に関するブログ記事の一番下に図像が載る。
「豐國など」浮世絵師歌川豊国派(平井呈一氏は『豊国一派』と訳しておられる)の活躍した頃の意であろうから、他の浮世絵師を語り出すと面倒なので、一応、初代歌川豊国(明和六(一七六九)年~文政八(一八二五)年)に始まり、二代目豊国(安永六(一七七七)年?~天保六(一八三五)年)、三代目豊国(初代豊国門下の初代歌川国貞(天明六(一七八六)年~元治元(一八六五)年が弘化元(一八四四)年に豊国を称したが弟弟子であった二代目豊国を認めず、自らは二代目を名乗った)及び四代目豊国(文政六(一八二三)年~明治一三(一八八〇)年 国貞の門下。初めは二代目歌川国政、後に娘婿になって二代目国貞を名乗った。彼の「豊国」襲名は明治三(一八七〇)年であるが、これは勝手に自分で名乗り出したもので、騒動となった。しかし、確かに豊国一派ではあるし、幕末の浮世絵師でもある)辺りまでとしておく。
「豐受姬ノ神又宇賀ノ御魂命(この神には他にまだ八つの名がある)」調べてみると、大気津比売神(おおげつひめのかみ)・保食神(うけもちのかみ)・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)・御饌津神(みけつかみ)・大物忌神(おおものいみのかみ)・厳稲魂女(いつのうかのめ/いずうかのめ)・稲荷神(いなりのかみ)・三狐神(みけつかみ)などがある。
「平田篤胤に、サトウ氏の引用する處に據れば、稻荷といふ神は決して實際に存在しないで、その名さへも誤りであると云つてゐる」既注のアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow)が一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形となった“The revival of pure Shin-tau”(純粋神道の復活)辺りからの引用か。私はサトウの著作を読んでいないので、これ以上の注は控える。それらしいことを述べていそうな平田篤胤の著作は所持するが、すぐに指摘出来ない。そのうち、見つけたらお示しする。
「私は彼を男の神として述べてゐるが、それは繪畫彫刻にかく現してあるからだ」この神は「古事記」(「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」・「日本書紀」(「倉稻魂命(ウカノミタマノミコト」)ともに性別が判然とするような記述にはなっていないものの、古くから女神とされてきたし、私も、ずっと、女神と信じてきた。ハーンの言う男神として描いた絵図も現認出来ない。識者の御教授を乞う。
「京都に於ける彼の大きな、富裕な社祠」京都市伏見区深草藪之内町の主祭神を宇迦之御魂大神とする伏見稲荷大社のこと。
「一八九〇年の東京大博覽會」底本では、実は「東京」は「京都」となっているが、特異的に訂した。原文を確認されれば分かる通り、これは「東京」の誤訳である。そもそもこの明治二十三年に行われた政府主催の「第三回內國勸業博覽会」は東京の上野公園が会場であって、京都では行われていない。
「白狐を畫いた數幅の美しい畫」絵も絵師も不詳。識者の御教授を乞う。
「松江の御城山の稻荷社」既注である小泉八雲の好んで訪れたお気に入りの城山稲荷神社である。松江城の西北端に位置する。以前にリンクさせて戴いたサイト「松江城と周辺観光地案内」の中の、「城山稲荷神社」を参照されたい。
「ハーミーズ、ジユウス、アセィナ、ポサイドン」原文の“Hermes, Zeus, Athena, Poseidon”を見て貰った方が判りが早い。「ハーミーズ」はヘルメス、「ジユウス」はゼウス、「アセィナ」はアテナ、「ポサイドン」は無論、ポセイドンで、注は不要であろう。
「神谷樣の稻荷さん」不詳。この「神谷」とは「第十二章 日ノ御崎にて(四)」の家老神谷氏と関係があるか? 識者の御教授を乞う。
「田町」現在、松江城の東に松江市北田町や南田町の地名を見出せる。
「風の神樣」不詳。識者の御教授を乞う。
「豆腐」狐とくれば「油揚げ」であるが、もとが穀物神であるから、豆腐も供え物となる(但し、肉食に近い雑食性であるキツネは、油揚げならまだしも、豆腐を好むとは、実際には、思われない。ネット上のQ&Aサイトの回答に『古来より狐の好物は鼠の油揚げとされ、狐を捕まえときも、鼠の油揚げが使われました。そこから、お稲荷さんには豆腐の油揚げを供えるようになったのです』とあった。食性からは問題ないが、わざわざ貴重な油で揚げて供えるといったことを、近世以前の貧しい民草がやったかどうか? 甚だ、信じ難い。参考までに載せておく。
「大庭村に有名な特殊の稻荷さんがある」既注の神魂(かもす)神社の境内に配されてある貴布禰(きふね)・稲荷両神社或いは秋葉社のことか? それとも別な稲荷社か? 識者の御教授を乞う。
※
「横濱の遊廓附近に、遊覽の價値ある稻荷がある」以下、非常に細かな描写が連続するが、このような素敵に魔界的な稲荷が横浜に現存するということを私は聴いたことがない。ヒントは、
◎遊廓のごく直近にあること
◎弁天社の境内にあること
◎通常の稲荷に比して遙かに大きいこと(敷地面積が広い)
◎行くほどに鳥居と狐像のサイズが縮小して行く眩暈的な参道の造りになっていること(参道が異様に長いか、錯覚で長く見えるように造られてある)
◎一般庶民も普通に崇敬しお参りする場所であること
である。
そこでまず、当時の最も中心的な横浜の遊廓はどこかを調べた。
すると桃猫氏のブログ「桃猫温泉三昧」の「戸部界隈~岩亀横丁(がんきよこちょう)を歩く」から、幕末から明治初期の最も大きな横浜の遊廓区域は「港崎(みよざき)遊郭」で、これは横浜公園一帯から横浜スタジアムに相当する方形の区域であったことが判明、しかもその遊廓内で最も大きかった遊廓で「岩亀楼(がんきろう)」というのがあったが、その敷地内に岩亀楼の寮なるものが別にあり、そこに「岩亀稲荷」という稲荷があった、とある。これは瘡守(かさもり)稲荷、即ち、梅毒などの性病除けの神として崇められ、『花街や岡場所などで特別に扱われ、みんなの心の寄りどころとされた』ものだったのであろう、また『岩亀楼の寮といっても、実際は、一時の待避所として、遊郭で働かされるうちに、子供が生まれてしまったり、精神に不調をきたしてしまった、あるいは、身体に異常が認められて働けなくなった遊女たちが、預けられたような場所であったと思われ』ると推測されておられる(この稲荷は今も「岩亀稲荷講」として横浜市西区戸部町内の路地「岩亀横丁」にひっそりと残っていることがリンク先で判る。ここ。グーグル・マップ・データ)。
次に弁天社であるが、現在の横浜市中区羽衣町にある厳島神社のウィキの記載を見ると、この厳島神社は『元来は洲干島(しゅうかんじま)とも呼ばれる入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり、洲干弁天社と称した』。『浜辺の松林で覆われた境内は対岸の神奈川宿台町からの眺望十五景の一つ(「洲干雪」)にも数えられるほどの景勝地であった。また境内には瓢箪池があり、清水が湧き出たため「清水弁天」とも、また所在地から「横浜弁天」とも呼ばれた。敷地は南は太田5丁目、北は南仲通5丁目、東は弁天通5丁目、西は海岸で寄州になっており』、一万二千坪という『広々とした場所であった。今の神奈川県立歴史博物館(横浜正金銀行本店跡)のあたりに一の鳥居があった。鳥居は四の鳥居まで存在していたとされる。開港後、門前が弁天通として整備された』。『秀閑寺という別当寺を有したが廃絶、慶安年間以降は元町1丁目の増徳院が別当になった。元禄年中この元町の増徳院境内に仮殿を造営し、上之宮杉山弁天と唱え、平日はご神体をここに奉安して置き、本社には前立のご神体のみを置いて下之宮清水弁天と呼んだ』。昭和四四(一八六九)年に『街区拡張のため、現在地の羽衣町に移転して厳島神社と改称』したとあるのが、目に止まった(以上総ての下線はやぶちゃん)
この現在の厳島神社の旧称の「洲干弁天社」「清水弁天」「横浜弁天」という通称が一致する。さらにこの弁天社の一の鳥居のあった場所が関内の中区南仲通神奈川県立歴史博物館で、鳥居は、さらに四つもあったこと、加えて、同弁天の『東は弁天通5丁目』とあることに着目されたい。ここは実に旧港崎(みよざき)遊郭、現在の横浜公園とは直線で五百メートルほどしか離れていない位置にあるのである。「岩亀楼の寮」なるものが、この附近にあったと考えても、何ら不自然ではないと私は思う。ともかくもこの同定が正しいか誤っているか、大方の御批判を俟つものである。
※
「三寸」九センチメートル。但し、原文は三インチ(七・六センチメートル)。]
Sec. 2.
Inari the name by which the Fox-God is generally known, signifies 'Load- of-Rice.' But the antique name of the Deity is the August-Spirit-of- Food: he is the Uka-no-mi-tama-no-mikoto of the Kojiki. [1] In much more recent times only has he borne the name that indicates his connection with the fox-cult, Miketsu-no-Kami, or the Three-Fox-God. Indeed, the conception of the fox as a supernatural being does not seem to have been introduced into Japan before the tenth or eleventh century; and although a shrine of the deity, with statues of foxes, may be found in the court of most of the large Shinto temples, it is worthy of note that in all the vast domains of the oldest Shinto shrine in Japan—Kitzuki—you cannot find the image of a fox. And it is only in modern art—the art of Toyokuni and others—that Inari is represented as a bearded man riding a white fox. [2]
Inari is not worshipped as the God of Rice only; indeed, there are many Inari just as in antique Greece there were many deities called Hermes, Zeus, Athena, Poseidon—one in the knowledge of the learned, but essentially different in the imagination of the common people. Inari has been multiplied by reason of his different attributes. For instance, Matsue has a Kamiya-San-no-Inari-San, who is the God of Coughs and Bad Colds—afflictions extremely common and remarkably severe in the Land of Izumo. He has a temple in the Kamachi at which he is worshipped under the vulgar appellation of Kaze-no-Kami and the politer one of Kamiya-San-no-Inari. And those who are cured of their coughs and colds after having prayed to him, bring to his temple offerings of tofu.
At Oba, likewise, there is a particular Inari, of great fame. Fastened to the wall of his shrine is a large box full of small clay foxes. The pilgrim who has a prayer to make puts one of these little foxes in his sleeve and carries it home, He must keep it, and pay it all due honour, until such time as his petition has been granted. Then he must take it back to the temple, and restore it to the box, and, if he be able, make some small gift to the shrine.
Inari is often worshipped as a healer; and still more frequently as a deity having power to give wealth. (Perhaps because all the wealth of Old Japan was reckoned in koku of rice.) Therefore his foxes are sometimes represented holding keys in their mouths. And from being the deity who gives wealth, Inari has also become in some localities the special divinity of the joro class. There is, for example, an Inari temple worth visiting in the neighbourhood of the Yoshiwara at Yokohama. It stands in the same court with a temple of Benten, and is more than usually large for a shrine of Inari. You approach it through a succession of torii one behind the other: they are of different heights, diminishing in size as they are placed nearer to the temple, and planted more and more closely in proportion to their smallness. Before each torii sit a pair of weird foxes—one to the right and one to the left. The first pair are large as greyhounds; the second two are much smaller; and the sizes of the rest lessen as the dimensions of the torii lessen. At the foot of the wooden steps of the temple there is a pair of very graceful foxes of dark grey stone, wearing pieces of red cloth about their necks. Upon the steps themselves are white wooden foxes—one at each end of each step—each successive pair being smaller than the pair below; and at the threshold of the doorway are two very little foxes, not more than three inches high, sitting on sky-blue pedestals. These have the tips of their tails gilded. Then, if you look into the temple you will see on the left something like a long low table on which are placed thousands of tiny fox-images, even smaller than those in the doorway, having only plain white tails. There is no image of Inari; indeed, I have never seen an image of Inari as yet in any Inari temple. On the altar appear the usual emblems of Shinto; and before it, just opposite the doorway, stands a sort of lantern, having glass sides and a wooden bottom studded with nail-points on which to fix votive candles. [3]
And here, from time to time, if you will watch, you will probably see more than one handsome girl, with brightly painted lips and the beautiful antique attire that no maiden or wife may wear, come to the foot of the steps, toss a coin into the money-box at the door, and call out: 'O-rosoku!' which means 'an honourable candle.' Immediately, from an inner chamber, some old man will enter the shrine-room with a lighted candle, stick it upon a nail-point in the lantern, and then retire. Such candle-offerings are always accompanied by secret prayers for good- fortune. But this Inari is worshipped by many besides members of the joro class.
The pieces of coloured cloth about the necks of the foxes are also votive offerings.
1
Toyo-uke-bime-no-Kami, or Uka-no-mi-tana ('who has also eight other names), is a female divinity, according to the Kojiki and its commentators. Moreover, the greatest of all Shinto scholars, Hirata, as cited by Satow, says there is really no such god as Inari-San at all— that the very name is an error. But the common people have created the God Inari: therefore he must be presumed to exist—if only for folklorists; and I speak of him as a male deity because I see him so represented in pictures and carvings. As to his mythological existence, his great and wealthy temple at Kyoto is impressive testimony.
2
The white fox is a favourite subject with Japanese artists. Some very beautiful kakemono representing white foxes were on display at the Tokyo exhibition of 1890. Phosphorescent foxes often appear in the old coloured prints, now so rare and precious, made by artists whose names have become world-famous.
Occasionally foxes are represented wandering about at night, with lambent tongues of dim fire—kitsune-bi—above their heads. The end of the fox's tail,both in sculpture and drawing, is ordinarily decorated with the symbolic jewel (tama) of old Buddhist art. I have in my possession one kakemono representing a white fox with a luminous jewel in its tail. I purchased it at the Matsue temple of Inari—'O-Shiroyama-no-Inari-Sama.' The art of the kakemono is clumsy; but the conception possesses curious interest.
3
The Japanese candle has a large hollow paper wick. It is usually placed upon an iron point which enters into the orifice of the wick at the flat end.
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