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2015/10/25

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (七)

 

        

 

 北側の第二の庭は自分の好きな庭である。大きな草木は何一つ無い。靑い小石が敷いてあつて、小池が一つ――珍奇な植物がその緣にあり、小さな島が一つその中に在つて、その島には小さな山が幾つかあり高さは殆んど一尺にも足らぬが、恐らくは一世紀以上の年を經たのも、その中にはある一寸法師的な、桃と松と躑躅がある小型の湖水が一つその中心を占めて居る。ではあるがこの作品はさう見せようと計畫されて居たやうにして見ると、眼に少しも小型なものとは見えぬ。それを見渡す客間の或る一角から見ると、石を投げれば屆くほどの遠さに、向うに眞の島のある、眞の湖岸の景である。この庭園全部を立案した、月照寺の杉の下に眠つてから一百年を經て居る、その古昔の庭師の技巧は如何にも巧妙なので、そのイリウジヨンは、その島の上にイシドウロウ、卽ち石の燈籠が在るので座敷からだけ見破られるのである。その石燈籠の大いさが、その僞りの遠景を裏切るが爲めで、この庭を造つた時には、其處に置いて無かつたものと自分は考へる。

 この池の綠の其處此處に、そして殆んど水と水平に、その上に立つことも坐ることも出來、その湖沼住者を窺ふことも、その水中植物を世話することも出來る、扁たい大きな石が置いてある。池には、その輝かしい綠の葉面が、水の表に油の如く浮いて居る美しい睡蓮(ヌフアル・ヂヤポニカ)があり、また二種類の、一つは淡紅い花をつけるもの、一つは純白の花をつけるものと、多くの蓮がある。岸に沿ふて、三稜鏡的菫色の花を咲かす菖蒲が生えて居り、それからまた裝飾的な種々な、草や羊齒や苔がある。が、この池は蓮池で、蓮がその最も大なる妙趣となつて居るのである。葉が始めて解(ほぐ)れる時から最後の花が落つる時まで、その驚くべき生長の一々の相(すがた)を見るのは樂しみである。殊に雨降りの日には蓮は觀察に値する。その盃形の大きな葉が、池の上高く搖れつゝ雨を受けて暫くの間それを保つ。が、葉の中の水が或る一定の水平に達すると、屹度莖が曲つてボチヤリと高い音を立てて水を零す。そしてまた眞直ぐになる。蓮の葉の上の雨水は日本の金屬細工人の得意の題目で、その油氣のある綠の表面に動く水の運動と、色とは正(まさ)しく水銀のそれであるから、金屬細工のみがその感銘を再現し得るのである。

[やぶちゃん注:「月照寺の杉の下に眠つてから一百年を經て居る」「月照寺」は既注。「杉の下に眠つてから一百年を經て居る」書かれた明治二四(一八九一)年から単純逆算すると、一七九一年は寛政三年で当時の松江藩は第七代藩主、まさに稀代の茶人大名松平不昧治郷の治世であった。

「睡蓮(ヌフアル・ヂヤポニカ)」原文はそれぞれ“water-lilies”“(Nuphar Japonica)”“water-lilies”は確かに、

スイレン目 Nymphaeales スイレン科 Nymphaeaceae スイレン属 Nymphaea

の漢名「睡蓮」の仲間を総称する英名ではある(因みに、このタクソンの文字列のなんと美しいことか!)。しかしハーンが添えたこのNuphar Japonicaという学名はスイレン属ではない、

スイレン科コウホネ属 Nuphar コウホネ(河骨)Nuphar japonicum

のシノニムなのである。因みに、ウィキの「コウホネ」には、『コウホネ属は北半球の温帯を中心に』二十種『ほどが知られ、日本では』四種及び『いくつかの変種が知られる。しかし変異の幅も広く、その区別はなかなか難しい。分類上の扱いにも問題があるようである。ひとつの区別にコウホネは水上葉を水面から抽出するが、他の種は水上葉を水面に浮かべる、というのがあるが、コウホネも水面に葉を浮かべることがあり、条件によっては水上に出ない例もある』とある。また、花の色は圧倒的に黄色いが、ネットで調べると他にも紅色・赤紫色など数種類があるとあった。

 さて、ところが、ハーンは、この直後、その「池」を描写するに、「二種類の、一つは淡紅い花をつけるもの、一つは純白の花をつける」「多くの蓮がある」とする。ここでハーンは “many lotus”と言い、訳者も「多くの蓮」と表現している

のであるが……さて?……

以下、最後までハーンも訳者も、睡蓮でも河骨でもない、それらとは全く異なった分類群に属するところの、正真正銘のロータス、蓮、

ヤマモガシ目 Proteales ハス科 Nelumbonaceae ハス属 Nelumbo ハスNelumbo nucifera

を描いているのだ、ということを、本訳書を読んでおられるあなたは、気づいておられるか? 無論、訳者は、

 「睡蓮」≠異属の河骨の学名「ヌフアル・ヂヤポニカ」 ≠「蓮」

で歴然と区別していると言えば、確かに言える。けれども、植物に疎い(私もその一人たるを免れない)多くの人々(失礼乍ら、私の知人の中には「睡蓮」と「蓮」を同じものだと思い込んでいる人物が、多数、おり、睡蓮(スイレン)と蓮(ハス)が、分類学上は上記の通り、全く異なった縁遠い種であることを知る者はmさらに少ないと思われるは、ぼんやりとここを読んでいくうち、思わず知らず、

 「睡蓮」=「ヌフアル・ヂヤポニカ」=「蓮」

という誤った等式命題の沼に、はまり込んでしまうのではあるまいか? と私は危惧するのである(少なくとも私は今回、最初に読んだ時、その過ちを冒しそうになったことを告白する。だからこそ、この事大主義的にさえ見える長々しい事実を自分なりに調べてみたのである)。無論、何方もそのような馬鹿げた誤読をされず、以上が全くの杞憂であると申されるのなら、私の注は分かり切った下らぬ屋上屋であったことになり、さても、これといって、論争や混乱を招く訳でもなく、私の不明を恥じるだけのことである。いつもの「老婆心乍ら」の注として無視して頂いて結構である。

「三稜鏡的菫色」原文“prismatic violet”。「三稜鏡」は「プリズム」である。わざわざ注で挙げたのは、平井呈一氏は、この一文“There are iris plants growing along the bank, whose blossoms are prismatic violet, and there are various ornamental grasses and ferns and mosses.”を、『池の縁には、三角の形をした紫の花の咲くショウブが植わっているほか、シダだの、苔だの、いろいろの下草が植えこんであう。』と訳しておられるからである。例によって平易な訳文なのであるが、しかし、“prismatic violet”は『三角の形をした紫の』の意なのであろうか? 確かに花菖蒲の花は独特の形を成しては、いる。

   *

【脱線注】因みに、ここに出る「菖蒲」とは、美しい紫の花を咲かしているわけであって、これは正しく言うなら「ショウブ」ではなく「ハナショウブ」である。前者「ショウブ」は、

単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属 Acorus ショウブAcorus calamus変種 Acorus calamus var. angustatus

で、これは花とも思えない地味な穗状の花しかつけないのに対し(端午の節句の菖蒲湯に使うのはこちらの葉)、私たちが普通に「菖蒲」と呼んでいる、美しい花をつけるのは全く別種である後者の「ハナショウブ」即ち、

単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属 Iris ノハナショウブIris ensata 変種ハナショウブ Iris ensata Thunb. var. ensata

である。おまけに老婆心乍ら言っておくと、我々が花と思っている垂れ下がった大きな三枚は、萼片であって、本当の花弁は、内側に立ち上がる三枚だけである。さらに言い添えておくと、

単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata

アヤメ属アヤメ Iris sanguinea(綾目)

アヤメ属ハナショウブ(花菖蒲)Iris ensata var. ensata

の三種の識別法については、既に第三章 お地藏さま(八)の私の注で記しておいた。未見の方は是非読まれたい。非常に簡単である。

   *

閑話休題。花菖蒲の花を確かに『三角の形をした』とは言うかも知れない(私なら、決してそうは形容しないけれども)。ここでの訳者の「三稜鏡的菫色」という詰屈な謂いも、三枚の萼片が垂れている花菖蒲の形を、「三稜玻璃」=「プリズム」の形をしていて、菫色を呈した、という意味で用いているようには思われる。

しかし……どうも、英語に冥い私には“prismatic violet”は言葉通り――プリズマティクに分光された――スペクトル分光された――プリズムによって鮮やかに引き出されたような不思議な青みがかった紫色――の謂いではあるまいか?

と妄想してしまうのである。大方の御叱責を俟つものである。] 

 

Sec. 7

   The second garden, on the north side, is my favourite, It contains no large growths. It is paved with blue pebbles, and its centre is occupied by a pondlet—a miniature lake fringed with rare plants, and containing a tiny island, with tiny mountains and dwarf peach-trees and pines and azaleas, some of which are perhaps more than a century old, though scarcely more than a foot high. Nevertheless, this work, seen as it was intended to be seen, does not appear to the eye in miniature at all. From a certain angle of the guest-room looking out upon it, the appearance is that of a real lake shore with a real island beyond it, a stone's throw away. So cunning the art of the ancient gardener who contrived all this, and who has been sleeping for a hundred years under the cedars of Gesshoji, that the illusion can be detected only from the zashiki by the presence of an ishidoro or stone lamp, upon the island. The size of the ishidoro betrays the false perspective, and I do not think it was placed there when the garden was made.

   Here and there at the edge of the pond, and almost level with the water, are placed large flat stones, on which one may either stand or squat, to watch the lacustrine population or to tend the water-plants. There are beautiful water-lilies, whose bright green leaf-disks float oilily upon the surface (Nuphar Japonica), and many lotus plants of two kinds, those which bear pink and those which bear pure white flowers. There are iris plants growing along the bank, whose blossoms are prismatic violet, and there are various ornamental grasses and ferns and mosses. But the pond is essentially a lotus pond; the lotus plants make its greatest charm. It is a delight to watch every phase of their marvellous growth, from the first unrolling of the leaf to the fall of the last flower. On rainy days, especially, the lotus plants are worth observing. Their great cup- shaped leaves, swaying high above the pond, catch the rain and hold it a while; but always after the water in the leaf reaches a certain level the stem bends, and empties the leaf with a loud plash, and then straightens again. Rain-water upon a lotus-leaf is a favourite subject with Japanese metal-workers, and metalwork only can reproduce the effect, for the motion and colour of water moving upon the green oleaginous surface are exactly those of quicksilver.

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