譚海 卷之一 安永五年長壽のもの御尋の事
安永五年長壽のもの御尋の事
○安永五年の春、日光御社參の比(ころ)、高壽(かうじゆ)の者御尋有(あり)しに、都(すべ)て書上(かきあげ)たるもの十人餘りに及べり。みな江戸の内の人也。百歳已上にて九十六歳を最下の數(かず)と聞(きき)たり。大抵は御家人の内に壽考(じゆかう)の人多しと聞へたり。神田お玉が池の大工喜兵衞といふものの祖母百廿一歳に成(なり)たり。八百屋お七が帶ときの小袖を裁縫せし由を物語りしとぞ。
[やぶちゃん注:「安永五年」一七七六年。第十代将軍徳川家治の御代。
「壽考」前の「高壽」と同義。長寿・長命のこと。「考」の字は形声で、もともとは腰の曲がった老人の意で、使用例は少ないがこの「考」は「老いる」「長生きする」「老」の意で「考える」の意ではない。
「神田お玉が池」現在の東京都千代田区岩本町附近にあった於玉ヶ池(おたまがいけ)。ウィキの「於玉ヶ池」から引く。『伝承によると、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」からとされる』。「江戸名所図会」によると、『あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られたとある。人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池』『と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷』『を建立して彼女の霊を慰めたという』とある。『江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて』しまい、弘化二(一八四五)年の時点で既に池自体も存在してないとある。
「百廿一歳」明暦二(一六五六)年生まれということになる。当時は第四代将軍徳川家綱の御代。
「八百屋お七」(やおやおしち 寛文八(一六六八)年~天和三年三月二十八日(一六八三年四月二十四日:但し、生年や命日に関しては諸説有るが、この通りなら、処刑時は満十五か十四歳である)は井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られるようになった、江戸本郷の八百屋の娘で、恋仲の寺小姓と逢いたさ一心から放火事件を起こし、火刑に処されたとされる少女。参照したウィキの「八百屋お七」によれば、『比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は』天和二年十二月二十八日(一六八三年一月二十五日)の「天和の大火」で『焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介』『と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された』とする。
「帶ときの小袖」帯解きは着物の付け紐(子供の長着などの襟端の帯を締める位置に直接縫い付けた紐)を取り去り、初めて普通の帯を締める祝い。中世末頃から男女とも五歳、のちに女児七歳の十一月吉日に行う行事となったが、江戸中期頃からは十一月十五日の七五三の行事に移行した。「ひもとき」「おびなおし」などとも呼ぶ。この老祖母の言が確かで先のお七の生没年を信ずるとすれば、お七数え七歳は延宝三(一六七五)年で、この婦人は当時、数え丁度二十となり、違和感がない。]