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2015/10/13

橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(5) 昭和五(一九三〇)年 三十五句

  昭和五(一九三〇)年

 

   櫓山を去る

 

かたむきし夕顏垣もそのまゝに

 

[やぶちゃん注:前年の十一月の夫豊次郎父橋本料左衛門の死去により大阪帝塚山(てづかやま)に移転した際の句であろう。但し、櫓山荘はそのまま豊次郎の持ち分としてあって、別荘としてその後も豊次郎・多佳子一家はたびたび用いている。後の昭和一四(一九三九)年に橋本家の所有を離れた。]

 

夕されば春の炬燵によりにけり

 

石蹴のをとめもすなるふところ手

 

   あしべ踊り

 

軒々の紙の櫻に春の雨

 

[やぶちゃん注:「あしべ踊り」蘆辺踊り。昔の大阪の花街踊りで、大阪市南地五花街の芸妓が総出で難波新地の演舞場で演じた舞踊。明治二一(一八八八)年に始まり、現在は四月一日から十日間、道頓堀中座で行われる「大阪踊り」がその後身である。明治二十一年はじまる。毎年四月、大阪市演じられる。最初、「浪花風流蘆辺踊」として上演されたのでこの名がある。春(三春)の季語でもある。]

 

顏見せや京に降りれば京ことば

 

鶯や駕に先きだつ大原女

 

水草の花のあけくれ渡し守

 

道の邊の小さき祠も藤を垂れ

 

[やぶちゃん注:以上、『ホトトギス』掲載分。]

 

 

秋の灯やピアノの上の人形達

 

[やぶちゃん注:「灯」そのままとした。]

 

烏瓜吹きあらはれてま靑なる

 

住吉の宮の映りて蓮枯るゝ

 

[やぶちゃん注:「住吉の宮」現在の大阪市住吉区住吉にある住吉大社であろう。多佳子が移った帝塚山は大阪市阿倍野区南西部から同市住吉区北西部にかけての広域名称でもあって住吉神社は直近。参照したウィキの「帝塚山」によれば、『大正時代までは住吉郡(のち東成郡)住吉村に属していた。かつて一帯は原野だったが、明治時代に開発され大正時代初頭から住吉第一耕地整理組合等による耕地の区画整理が行われ、そこが住宅地として次々転用されていった』経緯があるから、次句の如く、彼女の住まう場所を「住吉の里」と表現しても何ら不自然でない。なお、同ウィキは前の引用に続けて、『ただ、帝塚山は住宅街となったものの、近隣に適当な教育施設がなく、新規居住者の子女が教育を受けられない状況にあった。そこで、地元の教育関係者や開発業者、地主らが資金を捻出して、東京の学習院をモデルに』大正六(一九一七)年に帝塚山学院小学部を開校したとあるが、底本年譜のこの前年、昭和四(一九二九)年の十一月の条によれば(というより、この年は十一月の条しかない)、豊次郎多佳子の長女淳子(当時、私立明治専門学校(明専/現在の国立九州工業大学の前身)附属小学校三年)と次女国子(同二年)は、この帝塚山学院小学部に転校している。]

 

住吉の里の時雨に移り來し

 

かゞまれば草にかくれぬ秋の海

 

秋雨や潮にさびたる門の鍵

 

[やぶちゃん注:少なくとも以上の二句は櫓山荘哀別の嘱目吟であろう。]

 

大籠に落葉もて來て焚きそへぬ

 

焚かれある落葉に遠く掃きゐたり

 

病人のあつかひうけて日南ぼこ

 

葛城の今日はかすみて日南ぼこ

 

[やぶちゃん注:「葛城」奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境にある大和葛城山(やまとかつらぎさん)であろう。帝塚山の二十四、五キロメートル南東に位置する。]

 

土筆摘土師の里輪はとのぐもり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「つくしつみ/はじのさとわは/とのぐもり」と読む。「土師の里」は現在の大阪府藤井寺市道明寺附近の古い呼称で、古墳時代の豪族土師氏にその名の由来を持つものの、ウィキの同市道明寺一丁目にある近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線「土師ノ里駅」(はじのさとえき)によれば、『土師ノ里という名は駅と交差点のみ(交差点名は土師の里)で、地名は存在しない』とある。「里輪」とは「里回」「里廻」「里曲」とも書き、「その里の辺り」の謂い。上代語では「さとみ」とも読む。]

 

   當麻寺

 

夕櫻當麻の塔は暮れてあり

 

春晝を灯れる御厨子拜みけり

 

[やぶちゃん注:「灯」そのままとした。次句も同じ。]

 

   當麻曼荼羅

 

春灯や佛の國をまのあたり

 

[やぶちゃん注:「當麻曼荼羅」「たいままんだら」と読む。奈良県葛城市当麻にある二上山当麻寺の現在の信仰の主体となっている本堂の西方極楽浄土の様子を表わした当麻曼荼羅(創建時の本尊は金堂の弥勒菩薩)で長谷観音のお告げによりこれを織って誠実に祈念し、目出度く西方浄土に向ったとされる中将姫(法名は法如)伝説でも知られる。国宝指定の名称は「綴織(つづれおり)当麻曼荼羅図」。原本(「根本曼荼羅」と呼称する)は損傷度が深刻なほどひどく、現在は通常では非公開である(但し、多佳子が見たものが原本であったか、その後に複製された転写本の一つであったかは不明)。なお、原本は二度の調査の結果、本邦で織られたものではなく、中国(大陸)製と推定されている(概ね、ウィキの「當麻寺」の記載に拠った)。]

 

人々の聲かへし來ぬ谷櫻

 

涅槃像柱まはりてまみえけり

 

[やぶちゃん注:「涅槃像」何処の涅槃像かは不詳。当麻寺には涅槃像はないように思われる。識者の御教授を乞う。]

 

夫婦して遊べるごとく種蒔ける

 

  文樂座樂屋にて

 

魂ぬけの人形達や春灯

 

[やぶちゃん注:「春灯」は「はるともし」と訓じておく。大坂松島新地の「文楽座」はこの前年の昭和四(一九二六)年の火災によって消失(この時、名品の頭(かしら)の多くが失われてしまった)、翌昭和五(一九二七)年一月に経営権者である松竹が四ツ橋近辺の佐野屋橋南詰にあった旧近松座を買収、その跡地に近代的な洋風建築の四ツ橋文楽座を再建したから、この「文樂座」は新装後のそれである(この劇場も昭和二〇(一九四五)年三月の戦災で焼失した。現在の大阪日本橋の国立文楽劇場の開場はずっと後の昭和五九(一九八四)年三月のことである。以上は概ねウィキの「文楽座」に拠ったが、私は文楽のフリークである)。]

 

春の燈のとゞかぬ人形ありにけり

 

ゆく春の夜の人形をとひにけり

 

   比叡山根本中堂

 

晝の虫消えずの燈のほとりより

 

[やぶちゃん注:迷ったが、「虫」はそのままとした。]

 

晝寢する客や主や草の庵

 

あぢさゐに霧の流れのひまありぬ

 

   長門峽より萩町へ舟行一句

 

壺坂の爪先きあがり這おしへ

 

[やぶちゃん注:「長門峽」は「ちやうもんきやう(ちょうもんきょう)」と読む。私は行ったことがないので、ウィキ長門峡より引く。阿武川上流の山口県山口市阿東及び萩市川上に位置する峡谷である。全長十二キロメートル。『奇岩や滝、深淵など変化を織りなす奇勝として知られ、国の名勝や長門峡県立自然公園にも指定されている』。『中生代白亜紀の流紋岩質凝灰岩やデイサイト溶岩から形成されており、断崖を形成する』。『命名者は郷土の画家、高島北海であり、また詩人中原中也もこの地を絶賛した。景勝地は個性的な名前で、洗心橋や龍宮淵、獺淵、暗がり淵などの名所がある。洗心橋には中原中也の詩碑が立つ。この洗心橋から龍宮淵まで』五・五キロメートルの『観光遊歩道が設置されており、ハイキングやトレッキングのメッカとなっている』。『長門峡は、春は桜、夏は避暑地、秋は紅葉と四季を通じて楽しむことができ』、年間六十万人以上の『観光客が訪れる観光スポットでもある』。『山口市側の入り口はJR山口線長門峡駅の前にある道の駅長門峡、萩市側の入り口は阿武川ダム上流の竜宮淵であり、双方とも駐車場が完備してあるが、国道』九号線に『面している山口市側の方が年間を通じての来客が多い』とあるから、多佳子はそこから入って萩へ川下りしたものらしい。]

 

粟筵塔をめぐりて干されけり

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「粟筵」は「あはむしろ(あわむしろ)」でアワを干してある莚(むしろ)のことである。「塔」不詳。ロケーションのお分かりになる方は、御教授を乞う。]

 

まのあたりころがり鳴れる鳴子かな

 

[やぶちゃん注:俳誌『天の川』掲載分。多佳子、三十一歳。]

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