橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(3) 昭和三(一九二八)年 四十六句
昭和三(一九二八)年
萩の風葉うらかへして渡りけり
裏門の石段しづむ秋の潮
裏門を入り來し海女の祭髮
柴漬の舟あらはれぬ窓の景
窓の海今日も荒れゐる煖爐かな
裏門や潮ひくあとの花芥
箒目のまだ濡れやらず黄楊の雨
春蟬や窓の松風つよからず
花葛のひきおろされてあらけなや
濃き淡き霧の流れや日のあたり
乘捨てし駕まだ見ゆれ霧の中
[やぶちゃん注:「乘捨てし駕」時代詠? 或いは後の方に出る普賢岳登山用の駕籠か?
以上、『ホトトギス』掲載分。総てではないが、主なロケーションは明らかに海浜の櫓山荘と見てよい。底本年譜によって、「裏門の石段しづむ秋の潮」が同誌の三月刊号に、「窓の海今日も荒れゐる煖爐かな」が六月刊号に載ることが判った。]
新涼の沼にうつりて流れ雲
山霧の下りて色濃き野菊かな
よみがへる野菊の色よ片手桶
谷橋に湯けむりのぼる野菊かな
深々と磐石しつむや革もみじ
月光にこぎ入る舟の影ありぬ
野菊折るや地獄温泉けむりながれくる
[やぶちゃん注:かなり思い切った破調である。
「地獄温泉」現在の熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽(旧長陽村)にある温泉か。]
初雪や椋鳥あそぶ廣芝生
慈善鍋みかんの皮のふかれゆく
蓬來丸にて
早鞆の風おさまりし暖爐かな
[やぶちゃん注:「蓬莱丸」大阪商船所属九千百九十二トンで、台湾航路(神戸―基隆(キールン)線)として大正一三(一九二四)年六月より就航した貨客船に「蓬莱丸」(漢字が違うのに注意)があるが、それか? ほかにも同名の舟はあるが貨物船であったりする。識者の御教授を乞う。]
木彫雛灯ゆるゝ御衣のひだ深き
[やぶちゃん注:「灯」はママとした。]
裏門や夕潮よする落椿
咲きみちし寂しさありぬ寒牡丹
春めける雨垂をきく火桶かな
おほわだへ日向うつりぬ冬の山
春寒や砂にくひゐる櫻貝
まゆ玉の散るをくべたる暖爐かな
春寒や砂をかみたる櫻貝
春寒の雨となりたる暖爐かな
春寒の葉もれ日ありぬ藪椿
松内の俥ゆききや雪の町
春月や今宵の客に暖爐たく
こゝかしこ散りつぐ花の小龍卷
夜振火の松間がくれにあらはれぬ
[やぶちゃん注:「夜振火」「よぶりび」とは一般には川漁の一種である(但し、河口付近や岩礁性海岸域などでも行う)。単に「夜振」とも呼ぶ。主に夏場に於いて(必ずしも夏に限る訳ではない)闇夜に松明などの明りを灯してそれを大きく振ってその火影を目指して寄ってくる正の走光性を持つ川魚や甲殻類及び沿岸性海棲生物を、網で掬い獲ったり、ヤスで突いたりして捕える古くからある漁法である。わざわざかく妙な補足(一般には「夜振」漁は夏の川漁とされる)を注に施したのは、これは並びから見ても春の句であり、しかも海浜の櫓山荘からの嘱目であるとあると私は考えたからである。但し、「夜振火」は厳然とした夏の季語ではある。ただ、以下の句柄を見ても、季節は実は順列になっていないようである。]
夜振火の礁かげにもゐたりけり
谷藤の昏さにありぬ蝌蚪の水
八重櫻土に崩れて大いなる
春めきし雨音をきく火桶かな
藤椅子や窓の芒の暮れやらず
夜振火のむきをかへたる火くづかな
瑠璃壺にうつり鳴き出しきりぎりす
[やぶちゃん注:「きりぎりす」の「ぎり」は底本では踊り字「〲」。]
門川やあけぼのすでに鯊つる子
駕の戸や霧晴れそめし普賢嶽
[やぶちゃん注:「駕の戸」この駕籠は次の句を見ても、実際に当時、山で営業していた登山用の実際の駕籠搔きの、戸が附いた駕籠としか思われない。]
霧雨や下り路速き山の駕
瑠璃草の岩根ぞ暗き霧しぐれ
[やぶちゃん注:「瑠璃草」キク亜綱シソ目ムラサキ科ルリソウ属 Omphalodes で本邦に分布するのは日本固有種四種である。前の句と「岩根」の語彙からみて普賢岳登山で嘱目したものと考えるなら、これはその中のルリソウ属ヤマルリソウ Omphalodes japonica と同定してよいであろう。ロゼット状になる根出葉が大きく、多数つく。茎は多数あり、茎の基部は倒れて上部が斜上し、花序は分枝しない。分果は縁が滑らか。本種は本州の福島県以南、四国・九州に分布し、他の三種は九州には分布しないと思われる(ウィキの「ルリソウ」を参照されたい)からである。ウィキの「ヤマルリソウ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『和名は山に生育し瑠璃色の花をつけることに由来し、別名が「ヤガラ」、「ヤマウグイス(山鶯)」。属名のOmphalodesは、中央が凹となる分果であることに由来し、「へその形をした」という意味』であるとあり、『日本の固有種で、福島県以西の本州、四国、九州に分布する』。『湿り気のある山地や道端、半日陰となる木陰に生育する』。『根生葉は倒披針形(長さ七~二十センチメートル、幅二~五センチメートル)でロゼット状に広がる。茎葉は根生葉よりも小さく、基部が茎を抱き、上部のものほど小さく、まばらに互生する。茎の高さは七~二〇センチメートルで数本が斜めに立ち枝分かれせず、開出した白い毛が多く、先端に直径一~一・五センチメートルの淡青紫色の総状花序をつける。花期は四~五月で、五枚ある花弁の色が薄桃色から薄青色へと変化する。花序は分岐せず、八~十七ミリメートルの小花柄があり、花が終わると下に垂れる。萼は長さ五~八ミリメートルに大きく伸びる』とある。また、この花はシソ目ムラサキ科ワスレナグサ属
Myosotis に似ているとあり、実際に画像を見ると確かに似ている。グーグル画像検索「Omphalodes japonica」と「Myosotis」を見比べて見られよ。
以上、俳誌『天の川』掲載分。多佳子、二十九歳。]
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