橋本多佳子句集「命終」 昭和三十七年(全) / 橋本多佳子句集「命終」 了
昭和三十八年
大和美し
大和美(うるは)しみぞれ耕馬を眼にせずば
日向にゐて影がまつくら手毯つく
竹馬を御す手胸辺にやすみなし
羽子つよくほじきし音よ薄羽子板
勝ち勝ちて天に残りし孤つ凧
*
神楽ひよつとこ神楽おかめの惚れ手振り
神楽の世をんなおかめの妬(や)き手振り
泣きじやくる神楽おかめの笑ひ面
年迎ふ櫛の歯ふかく髪硫きて
除夜の鐘打ちつぎ百を越えんとす
除夜の鐘大切なこの歳を病み
火を恋ふは焰恋ふなり落葉焚き
熟柿つつく鴉が腐肉つつくかに
書を曝す中に紅惨戦絵図
*
猟銃音わが山何を失ひし
銃音圏逃げる真の生きる翼
雉子置きしところにその香とどこほる
雉予科るつめたき水に刃をぬらし
つよき香の雉子食ふいのち延ばすとて
雉子食ふや外の暗黒締切つて
暮れ土に雉子の羽毛の一羽分
天と遊ぶわが凧の絲のばしきつて
湯気ガラス外(と)より見られず外を見ざる
湯気ガラス夜は樺色の燈を芯に
新薬師寺
またたくは燃え尽きる燭凍神将
少年の冒険獲もの一氷片
氷塊の深部の傷が日を反す
[やぶちゃん注:以上の二句は――今の私が――多佳子の晩年句群で認めるところの偏愛句である。]
寒燈を当つ神将の咽喉ぼとけ
[やぶちゃん注:底本年譜の昭和三八(一九六三)年の一月の条に、『十三日、奈良の薬師寺にて「七曜」初句会に出席、句帳に「参会者四十余名。なごやかなり。楽し。」と。これが多佳子最後の吟行となる』とある。]
*
低き凧おもしろたえず風ぐるひ
天知らぬ凧を揚げむと野に抱き来
雪降る中髪洗ひたる顔あげる
オリオンが方形結ぶ野火余燼
山焼きし余塩もなしや天狼下
荒ラ凧の絲がわが手に刃なす
万燈籠
なんといふ暗さ万燈顧る
万燈道けものの匂ひかたまり過ぐ
木下利玄に歌あり。
万燈会廻套利玄とすれちがふ
[やぶちゃん注:「廻套」は恐らく「まはし(まわし)」と訓じてよう。「二重廻し」が元の謂いで、紳士向けの和装用コート、「トンビ」とも言った。
和歌嫌いの私は、珍しく何故だか分からぬが、若い頃から木下利玄(明治一九(一八八六)年~大正一四(一九二五)年)の短歌に惹かれてきた。この多佳子の言う「木下利玄に歌あり」というと、幾つかの歌が浮かびはする。しかし、それはもしかするととんでもない誤りであるかもしれない(それらは実はことごとく彼女の好きな実際の春日大社の中元万燈籠とは実は無縁なものである)。だから私は多佳子が言う「歌」は何かは指し示し得ない。しかしこの一首は――いい。多佳子は確かに――すれ違ったのだ――振り返ったら――その「廻套」の後ろ姿は――人ごみへ――万燈の彼方へ――消えて行ったのである……]
K病院再び
入院車ゆきて深々雪轍
病院のガラス春雲後続なし
春の河夜半に大阪ネオン消す
雪はげし化粧はむとする真顔して
雪映えの髪梳くいのちいのりつつ
ガラス透く春月創が痛み出す
暁春やベツドの谷に附添婦
一羽鳩春日を二羽となり帰る
風に乗る揚羽の蝶の静止して
[やぶちゃん注:「K病院」多佳子は昭和三八(一九六三)年二月、大阪回生病院に入院(年譜には『再入院』とある)した。底本年譜には『開腹の結果、肝臓癌及び胆嚢癌』で、既に周囲のリンパ腺に転移しており、『右半身の麻痺障害増加』が見られ、『手遅れなので、切除せずに閉じ』た。事実は知らされず(叙述からの推定)、『多佳子は手術により悪い物が除去されたと喜ぶ』とある。]
*
雪の日の浴身一指一趾愛し
[やぶちゃん注:――その最期の最後まで多佳子は――慄っとするほど――確かに――美しい――]
雪はげし書き遺すこと何ぞ多き
[やぶちゃん注:橋本多佳子は昭和三八(一九六三)年五月二十九日午前零時五十一分に逝去した。満六十四歳であった。
なお、底本ではこの後に『昭和四十年三月』のクレジットで、『橋本多佳子』という署名を最後に記す「あとがき」があるが、その内容は全文が明らかに四女で俳人の橋本美代子の筆になるものであるので、電子化しない。
彼女の最後の句集「命終」の本文はこの句で終わっている。「雪はげし」――それは――俳人多佳子の熱情の――オリジナルな「絶対」の語であった――]
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