『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 江島/旅舘 『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」完結!
●江島
江島(えのしま)は。相摸國鎌倉都川口村の海中に在り。周圍二十町三十八間(けん)。面積十八町百八十三步。最近陸地。卽ち片瀨に至る十町。鎌倉雪之下に至る二里。川口村より藤澤大坂町に至る。三十二町三十九間とす。近年陸地より棧橋を架し。徃來に便す。〔徴錢三錢〕むかしは潮(しほ)來れは之に舟(ふね)し。潮ひれは渉る厲掲宜きに隨ひ。又壯夫の肩に駄する者ありしといふ。〔海涯の小名に。鵜ケ鼻、小新たれ、大黑の鼻、不動鼻、泣面ケ鼻、等と名くるあり。聖天島、鵜島と稱するは共に東岸に在り、〕島上江島神社あり。多記理毘殼(たきりひこの)命、市寸島比賣(いちきしまひめの)命、田寸津比殻(たすつひこの)命を祀る。國幣中社にして。今分て三社とす。曰く邊津(へつ)神社曰く。中津(なかつ)神社曰く。奧津(おくつ)神社是なり。境内千八百一步(ほ)あり。東海道名所圖會に。江島大艸紙を引て云。夫當社の神體(しんたい)は。大巳貴(おほなむち)命と久延彥(くゑひこ)命と仰事ありて。天照大神を尊み。其和魂(にきたま)を祀て富主媛(ふぬしひめ)命と號け給ふ。此(この)神(かみ)天降(あまくだ)り給ひて辨財天女といふ事。江島の神祕とす。之を神(かみ)系圖或は和漢三才圖會に相州江島の神は素盞烏尊(すさのをのみこと)の御女倉稻魂神と書す。是れ謬りなりと。舊傳此の如し。今神奈川縣廰の調査に從ふ。由緖詳らす。諸書載(の)する所荒唐信するに足らず。仁壽二年の鎭起(ちんき)にして元久元年五月征夷大將軍源實朝社殿を改造せりといふ。鴨長明の歌に云
江の島やさしてしは路にあとたるゝ
神はちかひの深きなるべし
島口に鳥居あり。左右を漁家と爲す。直ちに山路(やまぢ)に上れは。店肆櫛比一市街を成せり。是を茶屋町(ちやゝまち)と稱す。各自客を呼ぶこと喧し。山腰(やまこし)に祠(ほこら)あり。卽ち邊津神社なり。江島神社の額を掲(かゝ)く。もと下の宮と稱す。右に社務所あり。石壇を攀(よ)ちて此に至る。石燈籠(いしとうろう)多し。
蝦蟆石崖際(がけきは)にあり。僧良眞〔慈悲上人〕の故事を傳ふ。信するに足らず。江島建寺の古碑。社側にあり。相傳ふ良眞に宋に如き。慶仁禪寺に謁し。此(これ)を獲(え)て以て歸ると。高さ五尺ばかり。廣さ二尺七寸。厚さ四寸。篆額(てんがく)猶ほ存す。曰く大日本江島靈跡建寺之記と。兩邊雲龍を鐫す。記文漫漶僅かに數字を見る。碑身亦橫破惜むベし。學者は必らず一覽すべき者とす。導者を賃(ちん)するも指示こゝに至らす[やぶちゃん注:ママ。]。東野嘗て此事を記して云。處々問二建寺之碑一。皆曰無ㇾ有矣。島之勝當ㇾ盡焉。乃揖二視篆僧一。問ㇾ諸。亦曰く無ㇾ有矣。餘乃曰。得ㇾ亡ㇾ有下如二墓表一而隳者上耶。僧乃啞然大笑曰。有矣。公等爲二蠻夷之語一。使二人不一ㇾ可ㇾ解耳。乃指二示其處一。不文の人の多き今猶ほ然り。
福石阪左に在り一大靑石(あをいし)なり。參詣の輩此の邊に於て錢貨若くは貝類(かいるい)を拾へは。必らす富を得るといふ。俗人は聞て眉を伸ふべし。
石磴(いしだん)を降(くだ)りて東行し。又右折して更に石磴數十級を攀(よぢ)れは。此所に祠あり。中津神社是なり。もと上之宮と稱す。江島不老門再造記と題する碑あり。文久紀元辛酉夏四月建(たつ)る所。門今はなし。蓋し樓寶門なりしといふ。江島辨財天女上宮碑もあり。
是より西南嶺を度りて行く。斷崖絕壁。畠山兩斷せるが如き處に出つ。稱して山二つといふ。此の崖腹(がいふく)に一遍上人成就水と唱ふるあり。茶亭(さてい)に憩ひ。眼を放ては相摸洋三十六里。收めて寸眸の中に入る。海風(かいふう)髮を吹き爽快いふべからず。
進めは則ち庚申塔あり。鳥居を過る二所。又祠に遇ふ。卽ち奧津神社なり。龍宮本社若くは御旗所と稱す。白木作り組上けにて。回欄を施せり。拜殿の天井には享和三年夏四月抱一の畫(ゑが)きし八方睨みの龜あり。仰(あふい)て之を瞻(み)るべし。
是よち西の方石磴を降れは。兒か淵[やぶちゃん注:ママ。]出つ[やぶちゃん注:ママ。]。淵に臨み俯して之をを窺へは。壁立千仭(へきりつせんじん)。亂石(らんせき)其の下に立つ。晴日は則ち烏帽子岩指點(してん)すべく。富士山、大山、高麗寺山等皆目睫の間に歷々たり。服部南廓の詩碑あり。
[やぶちゃん注:以下、底本は続いているが、詩句毎に読み易くするために改行した。]
風濤石岸鬪二鳴雷一。
直撼二樓臺一萬丈廻。
被髮釣ㇾ鼈滄海客。
三山到底蹴ㇾ波開
佐羽淡齋の詩碑剥落惜むべし。兒(ちこ)か淵(ふち)と名けし由來は左の如し。
[やぶちゃん注:以下、「故に兒か淵と名くとなり。」まで、底本では全体が一字下げ。読み易くするために和歌は下句を恣意的に改行字下げで、漢詩も句毎に恣意的に改行した。]
鎌倉志に云。昔建長寺の廣德菴(くわうとくあん)に自休藏主と云僧あり。奧州志信(しのぶ)の人なり。江島へ百日參詣しけるに。雪下相承院の白菊と云兒。是も江島へ參詣しけるに。自休藏主邂逅してけり。いかにもして忍(しのび)よるべき便(たより)を云けれども。絕て其返事だになし。猶さまさま云聞すれは。白菊せんかたなくて。或夜まぎれ出て。又江島へ行。扇子に歌を書(かい)て渡守を賴み我を尋る人あらは見せよとてかくなん。
白菊ぞ忍ふの里に人とはゝ
思ひ入江の島とこたへよ
うき事を思ひ入江の島かけに
拾る命は波の下草
と詠て。此(この)淵に身を投たり。自休尋賴來て此事を聞。かく思ひつゝけける。
懸崖嶮處二生涯一。
十有餘霜在二刹那一。
花質紅顏碎二岩石一。
蛾眉翠黛接二塵沙一。
衣襟只濕千行淚。
扇子空留二首歌。
相對無ㇾ言愁思切。
暮鐘爲ㇾ孰促二歸家一。
白菊の花のなさけの深き海に
ともに入江の島そ嬉しき
と詠て。其まゝ海に沈(しづむ)となん。故に兒か淵と名くとなり。
巖頭にに龍燈松あり。現在の者は老樹にあらす。左旋石角を擇て之を躡み。漸く水涯(すゐがい)に下れは[やぶちゃん字注:「水涯」のルビは底本では「ゐすがい」。誤植と断じて訂した。]。岩石亂立。歩して其の間を昇降すれは。一大石牀の橫るに會す。是れを俎岩と名く。此處に澇夫十數人赤裸にして羣集し。客に賃せられて魚貝を撈得せむことを請ふ。客許せは則ち身を跳らして海に沒す。須臾にして魚貝を手にして出つ。潑剌として岩上に躍(をど)る。或ひといふ。豫め魚貝を海底(かいてい)に籠置(らうち)し。賃金に隨て撈出するなりと。或は然らむ。此處には醉後(すゐご)には游さるこそ宜しからむ。記者の如き醉(ゑい)を帶(おび)て岩頭に立ち。撈夫を指揮し。興に乘して魚貝の走るを逐ふ。全身雪濤を被り。既にして顚倒し脛を傷けて人の笑ふ所となれり。
龍穴は南面して開く。洞口(だうこう)甚た擴(ひろ)し。海水其の口に灑(そゝ)く。棧橋を蹈(ふん)て入るべし。岩根(かんこん)皆紫色を帶びて。而して水色紺碧。其の美言ふべからす。前面に祠あり。守者(しゆしや)燭(しよく)を獻(けん)せむことを請ふ。傍に水あり淸洌掬(きく)すべし。導者(だうしや)燈器(たうき)を秉(と)り。人を導く。洞内深黝(しんえう)左右分れて二となる。左を胎藏界といひ。右を金剛界といふ。佛者の命する所なり。洞漸く狹隘(けふあひ)滴泉頭に點す。其の窮(きはま)る處格子あり。内に天照大神(てんせうだいじん)を祀る。洞中弘法大師の臥石(ぐわせき)あり。左右傍像數多あり。導者一々燭して之を示す。厭(いと)ふへし。蓋し洞探きこと百二十二間といふ。昔は洞中鴿多し。喜(このん)て人を汚すと。今は一羽を見ず。湘中紀行に云。抑此龍穴傳道。昔者有ㇾ龍出焉。而島故爲三天女所二棲止一。自三弘法祀二天女於一ㇾ此。後人遂以爲二天女窟宅一。鎌倉盛時。雩必於ㇾ是。事見二東鑑一。余嘗聞ㇾ之。凡瀕海諸州山根徃々有ㇾ穴。皆上世因ㇾ劚二金鐡一而成者也。則此穴亦焉知二其獨不一ㇾ然哉。但□神ㇾ之而神。人異ㇾ之而異。神異可二以巳一矣。又以爲二石佛之肆一。何哉。此の說何如。宜しく考索すべし。
[やぶちゃん字注:「皆上世因ㇾ劚二金鐡一而成者也」の二点は底本では「一」であるが、誤植と断じて訂した。]
龍穴の東に回る第二第三の窟を白龍窟。第四の窟中に在る池を龍池第五の窟を瀑の窟といふ。其の他島の周圍には十二の窟ありと傳ふ。容易に探ること能はされは。其の詳細を知らず。
旅館感館には江戶屋。讃岐屋。堺屋。惠此壽樓。岩本樓。〔舊別當岩本院の跡なり〕金龜樓あり。風景何れも絕佳。夏日暑を避け凉を納るゝに足れり。而して金龜樓最高處に在るを以て。最も奇觀を極むと稱す。記者因て此に投す。金龜は江島の山號に取るなり。本樓は明治二十一年四月新築せしに。其の翌年八月回祿の災(さい)に罹り。十二月再建せしものにして。客室二十を有す。主人壬生昌延君餘輩を引て樓上に至る。欄に倚て眺望すれは。稻村崎七里濱呼へは將さに應へむとす。豆人寸馬歷々算(さん)すべく而して奔潮雪を捲き。激浪花を碎く。宛然たる一幅の名畫んり。浴後杯を呼ふ。饌甚た美(び)。時に海風凉を送り浴衣(よくい)水(みづ)の如し。爽快言ふべからず。
[やぶちゃん注:既に電子化した後続の『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 3「●江の島」以下の『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」の「江の島の部」で注した事項は、原則、省き(半端ないリキで注してあるからで、この前の『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」江の島の部1「藤澤停車場」片瀨川及び2「桟橋」の注も含む)、概ね、それらに注しなかったもの、及び、私にとって不審或いはここだけで読むには難解と判断した語句に限って新たに注した。
「厲掲」「れいけい」と読み、「深厲淺掲(しんれいせんけい)」の略。これは「深ければ厲(れい)し、淺ければ掲(けい)す」で、「厲」はここでは「高く掲げる」の意。川や潟及び水場を渡る際、深ければ着物を高くたくし上げ、浅ければ裾を絡(から)げて渡る、の意。転じて比喩として、場面・状況に応じて適切な処置をする意ともなった。元は「詩経」「邶風(はいふう)」の「匏有苦葉(ほうゆうこよう)」一節に基づく。
「鵜ケ鼻」不詳。失われた鵜島の方向に突き出た岩鼻か?
「小新たれ」不詳。現在の江の島の地名としてはない。
「大黑の鼻」不詳。現在の江の島の地名としてはない。
「不動鼻」不詳。現在の江の島の地名としてはない。以上の四つの岩場はヨット・ハーバー建設によって失われた部分にあったものか? ただ、不思議なことに後続の『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」の江の島の部にも載っていない点である。識者の御教授を乞う。
「境内千八百一步(ほ)」「ほ」とあるから正式な面積単位の「ぶ」ではなく、大まかな距離を歩数で示したものか(単純換算すると距離単位としての一歩(ぶ)は六尺で一・八メートルであるから、三キロ二百四十一・八メートルに相当するがこんなにはなく、地図上の平面距離では鳥居から奥津宮まで測っても多く見積もって一キロメートルほどである)。
「江島大艸紙」は「えのしまおほざうし(おえのしまおおぞうし)」と読み、「江島大草紙」或いは「江島大草子」とも書く、江戸時代(私が確認出来たのは宝暦九(一七五九)年写本)に釈因静なる僧(?)によって編せられた江の島の地誌。
「久延彥(くゑひこ)命」久延毘古(くえびこ)。ウィキの「久延毘古」より引く。『大国主の国づくりの説話において登場する。『古事記』によると大国主の元に海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった。そこでヒキガエルの多邇具久が「この世界のことなら何でも知っている久延毘古なら、きっと知っているだろう」と言うので久延毘古を呼ぼうとするが、久延毘古は歩くことが出来ないという』。『大国主らが久延毘古の元へ行くと、それは山田のそほど(かかしの古名)であった。久延毘古に訊くと、「その神は神産巣日神の子の少彦名神である」と答えた』。『久延毘古はかかしを神格化したものであり、田の神、農業の神、土地の神である。かかしはその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった』。『神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられる』。『田の神、また、学業・知恵の神として信仰されて』いる。
「富主媛(ふぬしひめ)命」聴いたことのない神名であるが、富主姫神社なるものは実在し、細かいことは省くが、これはどうも竹生島弁財天の神号(或いは逆本地)であるようだ(鈴木小太郎氏のブログ「学問空間」の「富主姫は竹生島弁財天」などに拠った)。
「素盞烏尊の御女倉稻魂神」「倉稻魂神」は「うかのみたまのかみ」と読む。「古事記」では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、「日本書紀」では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と書く。ウィキの「ウカノミタマ」によれば、「古事記」では、『スサノオの系譜において登場し、スサノオがクシナダヒメの次に娶ったカムオオイチヒメとの間に生まれている。同母の兄に大年神(オオトシ)がいる。大年神は一年の収穫を表す年穀の神である』とし、「日本書紀」では『本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。飢時、食を要することから穀物の神が生じたと考えられている』「古事記」「日本書紀」ともに、『名前が出て来るだけで事績の記述はない』とある。
「仁壽二年」八五二年
「元久元年」一二〇四年。
「導者を賃するも指示こゝに至らす」江ノ島のガイドを金を払って雇っても、この碑まで案内して呉れない(というより、知らない或いは知っているが得体の知れえない妖しいものと認識しているのでツアーには入れないが正しそう)というのである。ただこれ、次の安藤東野(あんどうとうや)の漢文を受けたのが見え見えの記者の言葉で、何だかな、という気がする。
「東野嘗て此事を記して云」「東野」は安藤東野(天和三(一六八三)年~享保四(一七一九)年)は儒者。荻生徂徠の初期の弟子。詩文に優れた。以下に出る以下の漢文は、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 9 江島建寺碑で訓読しておいたが、しかし良く分からない箇所が未だにある。識者の御教授を乞うものである。なお、この七年前にこの日を見た外国人(当時)がいる。ラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲である。彼はその時のことを書き残している。私の電子テクスト『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第四章 江ノ島巡禮(一七)』を是非、お読みあれかし。
「眉を伸ふべし」ほっとして思わず嬉しくなること間違いない。
「文久紀元辛酉」文久元(一八六一)年のこと。
「樓寶門」不詳。二階建の楼を持った装飾性の強いずんぐりとした中国風の門のことか。
「三十六里」百四十一・三八キロメートル。誇張。ここからその距離では神津島の先まで見えることになる。
「庚申塔」私の大好きな四面に三十六匹の猿が浮き彫りされた群猿奉賽像庚申塔(ぐんえんほうさいぞうこうしんとう)である。
「享和三年」一八〇三年。
「高麗寺山」大磯丘陵の東端神奈川県中郡大磯町高麗と平塚市に跨る山。標高百六十八メートル。
「服部南廓の詩」『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 8 江島案内の注で訓読しておいた。
「佐羽淡齋」江戸後期の商人で漢詩人でもあった二代目佐羽吉右衛門(さばきちえもん 明和九(一七七二)年~文政八(一八二五)年)のことと思われる。上野の人で、初代吉右衛門の養子となり、文化七(一八一〇)年に二代目を継いで絹仲買商を発展させ、上州三富豪の一つに成し上げた。学を好み、漢詩をよくした。淡斎は号(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「兒か淵」以下の漢詩は『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 12 兒が淵で訓読しを示した。
「躡み」「ふみ」(踏み)。
「或ひといふ。豫め魚貝を海底(かいてい)に籠置(らうち)し。賃金に隨て撈出するなりと。或は然らむ。此處には醉後(すゐご)には游さるこそ宜しからむ。記者の如き醉(ゑい)を帶(おび)て岩頭に立ち。撈夫を指揮し。興に乘して魚貝の走るを逐ふ。全身雪濤を被り。既にして顚倒し脛を傷けて人の笑ふ所となれり」最後の最後になって、『風俗画報』の記者殿! よくやった! 褒めて遣わす!
「深黝(しんえう)」の「黝」は青みを帯びた黒色のこと。江の島の深く奥深く冥い海食洞の雰囲気を、よく伝える語を選んでいると言える。
「厭ふへし」いい加減飽きて厭になるの謂いであろう。ほんに最後になってオリジナリティのよう、出とる。いいね!
「百二十二間」二百二十一・八メートル。
「鴿」鳩。
「湘中紀行に云……」以下は、『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 7 龍窟の私の注を参照されたい。
「明治二十一年」一八六六年。
「其の翌年八月回祿の災(さい)に罹り。十二月再建せしもの」本誌の刊行は明治三〇(一八九七)年八月であるから、新築後未だ八年目であった。短いが宣伝効果、これ、グンバツである。記者殿、最後に相当、いい思いしましたな? うん?! ♪ふふふ♪]
●旅館
草枕旅衣、路傍の斷碣(だんかつ)を抱て眠むる。吊古の客は知らず、鎌倉停車場を辭しては西も東も山林田畠草深し、罪なき都人に、端なくも今宵(こよい)何所に、宿(しゆく)すべきの嘆(たん)あらしむるは本意なし、左に著るしき旅舘を載すべし。
角屋正左衞門 雪下八幡門前にあり。
丸屋富藏 同上裏門前にあり。
三橋與八 長谷觀音前にあり。
三橋主張 雪下八幡前にあり。
砂井亭 大町原にあり。
稻勢屋 長谷にあり。
柳都亭 停車山場前にあり。
次に江の島中旅館の繁盛なるものを擧くれば。
惠比壽屋茂八 岩本樓
讃岐屋八鹿右衛門 江戸屋忠五郞
金龜樓壬生昌延 北村屋忠右衛門
さかゐや平十郞
[やぶちゃん注:これを以って『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」は終わる。
「斷碣」「碣」は丸い石碑のこと。それこそ卒塔婆小町よろしく無縁仏の墓石か供養塔の破片ということか。
「吊古」は「てうこ(ちょうこ)」と読む。前にも注したが、「吊」は「弔」の俗字であるから、古えを忍び懐古の思い耽ることをいう。]
【2016年1月12日追加:本挿絵画家山本松谷/山本昇雲、本名・茂三郎は、明治三(一八七〇)年生まれで、昭和四〇(一九六五)年没であるので著作権は満了した。】
山本松谷「鎌倉江島名所圖會」挿絵 江の島の図(三枚)
[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行の雑誌『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江島名所圖會」(第百四十七号)のラストの挿絵十枚目。
上部右から逆L字型に「江の嶋稚児か淵の圖」(「児」はママ)
上部左上に小さく横長に「同弁天の圖」
下半分に「同上金亀樓の圖」(「亀」はママ。記事本文は「金龜樓」)と手書き文字でキャプションが欄外に記されてある。記事と同様、しょぼい。しかしそれは、明治三一(一八九八)年八月 二十日発行の雑誌『風俗畫報』臨時增刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」(第百七十一号)で補填される。そちらの絵は暫くお待ちあれかし。]
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