『風俗畫報』臨時增刊「鎌倉江の島名所圖會」 稻村崎〔附靈山崎〕
●稻村崎〔附靈山崎〕
稻村崎(いなむらがさき)は。極樂寺切通より出る左方の海角をいふ。其の狀(じやう)稻(いね)を積たる如き山なれはなり。村は叢と同義なり。卽ち元弘三年新田義貞鎌倉を攻むる時。金裝刀(きんさうたう)を投せし所。苛も歷史を讀みし者は知らさるはなし。實に有名の地なり。此の海邊(かいへん)を橫手原といふ。太平記に。新田義貞甘一日の夜半に。此處へ打蒞(のぞ)み明行(あけゆく)月に敵の陣を見紛へは。北は切通〔極樂寺也〕まで山高く路嶮(けはし)きに。木戶を構へ垣楯(かきだて)を搔て。數萬の兵陣を双べて並居たり。南は稻村崎まで。沙頭路狹きに浪打涯(なみうちきは)まで逆木(さかき)をしげく引懸て。澳四五町が程に。大船(おほふね)共を並べて矢倉(やぐら)をかき。橫矢(よこや)射させん號と構ヘたり。誠にも此(この)陣の寄手(よせて)叶はで引ぬらんも理り也と見給へは。義貞馬より下給ひ。海上を遙々(はるばる)と伏拜み。龍神に向て祈誓し。黃金造りの太刀を投入給ひけれは其夜の月の入方に。前々(ぜんぜん)更に干(ひ)る事もなかりける稻村崎。俄に二十餘町干上て。平沙(へいさ)渺々たり。橫矢射んと搆(かまへ)たる數千の兵船(へいせん)も。落行(おちゆく)潮(しほ)にさそはれて。遙の澳に漂へりとあり。故に橫手原とは名くるなりといふ。小學生徒なそは。遠足の途次(とじ)必らす一覽すべき所ならむ。
東面海濱に突出せし山を靈仙山(れいせんさん)といふ。高六十間餘。其の山麓を靈山崎(れいさんさき)といふ。昔は極樂寺の境内なり。忍性日蓮嘗(かつ)て此處に於て雨を祈りし事ありとぞ。
[やぶちゃん注:「元弘三年」一三三三年。
「垣楯(かきだて)」「搔楯」とも書き、イ音便化して「かいだて」とも読む。原義は垣根のように楯を立て並べることであるが、小形の持ち楯(手楯)に対して大形の楯をもいう。普通は厚板二枚を縦に並べて接(は)いで表に紋を描き、裏に支柱をつけて地面に立てるようにするものをいう。
「逆木(さかき)」逆茂木(さかもぎ)のこと。敵の侵入を防ぐために先端を鋭く尖らせた木の枝を外に向けて並べ、結び合わせた柵を指す。「さかもがり」「鹿砦(ろくさい」「鹿角砦(ろっかくさい)」などとも呼ぶ。
「澳四五町」「澳」は「沖」。「四五町」は四百三十七~五百四十六メートル。
「矢倉(やぐら)」原義は矢などの武具を納めておく倉の意であるが、ここは大型和船の上部構造物の総称で軍用船の上部構造物で、主に物見や敵に矢を放つのための櫓を言っている。
「橫矢(よこや)」敵を側面から射る矢。
「理り也」老婆心乍ら、「ことわりなり」と読む。
「二十餘町」凡そ二・一八キロメートル。大潮ではあったが、この数字は誇張であり、波打ち際が激しく後退し、軍船自体は都合二キロ近くも沖へ退いてしまったという謂いである。弓矢の実戦での有効射程距離は六十メートルから百メートルが限界とされている。
「靈仙山(れいせんさん)」「靈山崎(れいさんさき)」現行では「りょうせん」と読んでいる。先の「極樂寺」の山号では「靈山(りやうせん)山と稱」すとしている(但し、山号と実際の山の名をわざと変えることはあるにはある)。
「六十間餘」一一〇メートルほど。現行の公称標高は八十四・一メートル。
「忍性日蓮嘗て此處に於て雨を祈りし事あり」「新編鎌倉志卷之六」の「靈山」には、
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〇靈山崎 靈山崎(りやうぜんがさき)は、稻村(いなむら)東南の出崎(でさき)也。昔は極樂寺の境内なり。極樂寺を靈山と號す。故に此崎(さき)をも名く。亦此處に佛法寺とて、忍性住せし寺ありしとなり。忍性、御教書を承て雨を祈りしも此の所也。日蓮も此所にて雨を祈る。法華の經文を板に書て流す。今其板往々に藏(かく)す者ありと云ふ。
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とある。「佛法寺」は「極楽寺絵図」にも描かれている極楽寺の支院の一つで、霊山ヶ崎の頂上東側、由比ヶ浜を見下ろす景勝地にあった。現在、仏法寺跡とされる平地は凡そ東西に三十メートル、南北に七十メートルほどあり、本文に現れる忍性と日蓮の雨乞いの場と伝えられる池塘の痕跡もある。霊山ヶ崎には霊山寺と呼ばれる寺院があったとも伝えられるが、これはこの仏法寺と同一のものと思われる。なお、この雨乞いは日蓮が勝っている。]
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