生物學講話 丘淺次郎 第十六章 長幼の別(1) プロローグ / 一 變態
第十六章 長幼の別
親から産まれたばかりの幼兒や卵から孵つたばかりの幼兒が、親に比べて小さかるべきはいふまでもないが、たゞ大きさの相違のみならず形狀までが著しく違ふやうな種類も隨分ある。例へば人間の赤子や雞の雛はの大體に於て體形が親と同じであるが、蝶の卵から孵つた毛蟲は親の蝶に比べると、體形も習性もまるで違うて殆ど似た所はない。生まれたとき親に似て居るものは、生長するにはたゞ大きくなりさへすれば宜しいが、初め親と形の違ふ種類では、生長する間に體形が著しく變わらねばならぬ。親と異なつた形をして獨立生活を始め、生長するに隨ひ體形が變じて、終に親と同じ姿に達することを變態と名づける。變態をする動物では、同一種類に屬する個體にも長幼によつて甚しい相違があり、素性を知らぬ者には到底同一種のものと思はれぬものが多い。
前にも述べた通り、大概の動物は發生の始に單細胞の時代があり、次に桑の實の如き時代があり、次に胃囊の如き時代があり、それから複雜な變化を經て成長した形までに達するのであるから、發生の始まで遡れば、如何なる動物でも大變化を經ぬものはない。されば變態をする動物とか變態をせぬ動物とかいふのは、たゞ著しい體形の變化を生まれる前にすませるか、または生まれてから後に變化するかといふ相違に過ぎぬ。人間でも胎内の發生までを見れば、毛蟲が蛹になり蛹が蝶になるよりも甚だしい變化を經過して居るのである。獸類や鳥類に變態するものの一種もないのは、一は長く胎内に留まつて親から滋養分の供給を受け、一は卵内に含まれた多量の滋養分を費して親と同じ形に達するまでの變化を、生まれ出る前に濟ませ得るからであろう。
一 變態
[アメリカ熱帶地方産のヤルチニック蛙の發生]
動物の變態で最もよく人に知られた例は、恐らく蛙と昆蟲類とであらう。蛙の變態は全く今述べた如き性質のもので、もしも卵が大きくあつたならば、孵化する前に濟ませ得べき筈の變化を卵が小さくて滋養分が足らぬために、止むを得ず孵化した後にするやうに見える。その證據には外國産の蛙で大きな卵を産む種類では、變態は全くなくて、孵り立てから、すでに四肢を具へた親と同じ形の小さな蛙が出來る。我が國の普通の蛙は、春先に池や沼に各々千何百という澤山の黑い卵を産み卵からはまづ「おたまじやくし」が孵つて出て水中を泳ぎ廻り、水垢などを食うて、餘程大きくなつてから初めて陸上に匐ひ上る。「おたまじやくし」は最初は前足も後足もなく尾を振つて泳ぎ、鰓で水を呼吸して少しも魚類と違はぬが、生長が進むとまづ後足が生じ、つぎに前足が現はれる。しかし水中に居る間は、足は小さくて運動には何の役にも立たぬ。しかるに一旦陸上へ出ると、足は忽ち大きくなり、尾は次第に縮み、かくて小さな蛙の形が出來上る。五六月頃に道行く人に蹈み潰される程、澤山に池の近邊の路上に飛び歩いて居る蛙の子は、みなこれだけの變態を經過したものである。大概の蛙はこの通りの變態をするが、アメリカ熱帶地方の島に廣く産する一種の雨蛙では、卵の中で蛙の形まで發育し、陸上で孵化して直ちに陸上を跳ね廻る。尤も卵から出たときには、體の後端に短い尾の徴が附いて居るが、これは半日も經たぬ間に取れて落ちる。かやうにこの蛙は普通の蛙と違うて變態をせぬが、その代り卵は非常に大きくて、その生まれる數も甚だ少い。即ち親は普通の雨蛙位の大きさでありながら、卵は直径が四・五粍以上もあり、數は僅に十五か二十より産まれぬ。變態をせぬ蛙はこの外にもなほ幾種類もあるが、いづれも大きな卵を數少なく産むものばかりである。
[やぶちゃん注:「アメリカ熱帶地方産のヤルチニック蛙」不詳。個人ブログ「美味しい知識の収集屋」の「カエルの2割はオタマジャクシにならずに大人になる!」に、『世界には、オタマジャクシにならず、直接成体になってしまうカエルが少なからず』おり、『その代表がコヤスガエル属とその仲間である。このうち、キューバコヤスガエルは、体長1センチ程度と、世界最小のカエルで』もあるのだが、通常ならば『カエルは水辺に卵を産むが、コヤスガエルらは湿地に卵を産む。湿地ではオタマジャクシの状態では生きられないから、成体とおなじ姿で孵化』をするのである。『オタマジャクシにならないカエルは、けっして例外的なカエルではない。じつはカエル800種のうち、20%はオタマジャクシを経ない、直接発生型のカエルなの』であると断じ、『ただ日本では、コヤスガエルのような直接発生型のカエルは存在しない。彼らは日本の生態系を乱すとみなされ、環境省は外来生物の規制対象に指定している』と記しておられる。この両生綱無尾目アマガエル上科コヤスガエル科 Eleutherodactylidae の仲間か? 因みに、引用中に出るキューバコヤスガエルの学名は Eleutherodactylus limbatus である(科をユビナガガエル科 Leptodactylidae とする記載もある)。さらに実は講談社学術文庫版のキャプションではこの名前が「マルチニック蛙」となっているのである。さてもそこでマルチニック諸島由来かなあ、と見当をつけて調べてみるとサイト「カエル動画図鑑」内に「マルチニークコヤスガエル」がいた。学名は Eleutherodactylus martinicensis で、英名は Martinique Robber Frog 。分布も西インド諸島。ハワイとあるから「アメリカ熱帶地方産」である。全長は四十七ミリメートルとあるから確かに小さい。まずはこれと思われるが両生類は私の守備範囲でない。識者の御教授を安全のために乞うものである。]
昆蟲類には變態をするものとせぬものとがあるが、これは必ずしも卵の大きなものならば、卵の内で經過すべき變化を、卵の小さいものでは止むを得ず孵化後に行ふといふわけではない。蝶・蛾や蜂・蠅などに見る著しい變態は、寧ろい一生涯の仕事を前後の二期にに分ち、各々その期の働に適する體形を有するために、次第に生じたものの如くに思はれる。前にも述べた通り、動物の生涯の仕事は食うて産むにあるが、昆蟲類の或るものでは一生涯を前後の二期に分かち、前期には專ら食ふことばかりを務め、後期には主として産むことに力を盡し、これが濟めば生活の役目を終つたものとして死んでしまふ。例へば蝶・蛾の類でいへば、芋蟲・毛蟲などの幼蟲時代には體形・構造ともに專ら食ふことに適し、翅が生えて空中を飛び廻る成蟲時代には、體形・構造ともに全く産むことに適して居る。これは恐らく一生涯を通じて同一の體形を有し、同一の構造を以て食ふことと産むことを兼ね行ふよりは遙に有利であるために、一歩一歩幼蟲と成蟲の相違の程度が進み來つた結果であらう。されば昆蟲類では「ばつた」・「いなご」の如くに卵から孵化したとき既に親に似た形を呈し、著しい變態なしに生長し終るものは、進化の程度の最も低いものであつて、蝶・蛾の類や蜂・蠅の如き幼蟲と成蟲との相違の頗る著しいものは、もと變態をせぬ先祖から起こり、一歩一歩進化して今日の狀態に達したものと考へねばならぬ。そして幼蟲と成蟲との體形や構造が餘り著しく相違する類では、昨日まで幼蟲であつたものが、今日は皮を脱いで直に成蟲になるといふわけに行かぬから、その間に構造變更のために若干の時期を要する。通常蛹と稱するのは即ちこの期間のものである。多くは靜止して動かぬから、外から見ては最も活動の少い時期の如くに思はれるが、體内の組織を調べると實に一生涯中の最大變動の時期で、幼蟲時代の諸器官は殆ど全部消滅し、その僅に殘つて居る部から新に成蟲の諸器官が生じ、暫くの間に殆ど別物かと思はれる程の成蟲の體が出來上るのである。
かやうに、變態といふ中には、卵が小さく滋養分が足らぬため、親と同じ形までに達せぬ間に生まれ出るにより起る場合と、一生涯に行ふべき仕事を、前後に分けて務めるために起る場合とがある。蛙の變態は前の場合の例であつて、この方の變態は卵が大きくなるか、または胎生にでもなれば、せずに濟むべきものである。現にアメリカ熱帶の雨蛙の一種では、「おたまじやくし」時代を卵の内で經過する。しかも生まれ出た蛙は、且食ひ且産み得る構造を具へて居るから、個體の生存にも種族の維持にも何らの差支が生ぜぬ。これに反して、蝶や蛾の變態は後の場合の例であつて、この方は如何に體を大きくしても、幼蟲時代をその内で過させ、直に成蟲の姿で生まれ出しめることは出來ぬ。なぜといふに、幼蟲と成蟲とでは、一生涯の仕事なる食ふことと産むことを各々專門として分擔して居るから、いづれの一方を缺いても、種族の生存を續けることが出來ぬからである。實際にはこの兩方の中間に位するやうな場合も澤山にあるが、いづれにしても、幼者は幼者として特別の任務があつて、單に生長するための階梯とのみ見做すことの出來ぬものが多い。人間の如きは特に變態といふことはないが、やはり幼者にはまた幼年のときでなければ出來ぬやうな自然の務があつて、決して成人の小さなものとして取り扱ふべきものでなかろう。
[やぶちゃん注:「人間の如きは特に變態といふことはないが、やはり幼者にはまた幼者のときでなければ出來ぬやうな自然の務があつて、決して成人の小さなものとして取り扱ふべきものでなかろう」この丘先生の最後の呟きは意味深長である。さて。幼いヒトが幼い時でなければ出来ぬ自然を自然たらしめる「自然の務」とは何か?――たまには静かにじっくりと考えてみる必要があろう。それが丘先生の投げかける「生物的人生観」であり「生物哲学」なのである。]