初冬 立原道造
初冬
身動きの出來ない程の花のなかで、少年は死んでゐた。その形のまま柩(ひつぎ)は町を運ばれて行つた。寒い朝であつた。
〈天に行つて よそ見ばかりしてゐる
天の先生に叱られてばかりゐる
何度もくりかへし葬列(さうれつ)はうたつてゐた
そのはてを、花びらが幾すぢのあたらしい道を引いた。
〈かなしみはしづかであれ
うたのとほくをゆけ
*
トマは佛蘭西(フランス)の小説の描いた一人の少年のことだつた。彼はいつも友だちからその人に似てゐるといはれた。これはいけないぞと考へながら、ときどきはもう諦(あきら)めて滿足しながら。
その佛蘭西の少年の最後の言葉。
――ひよつとしたら死ぬかも知れない。
*
彼は詩を作るのがうまかつた。小さな聲で呟(つぶや)くためのものであつたが或る人はそれを愛した。
*
裸(はだか)の小鳥と月あかり
郵便切手とうろこ雲
引出しの中にかたつむり
影の上にはふうりんさう
太陽とその帆前船(ほまへせん)
黑ん坊とその洋燈(ランプ)
昔の繪の中に薔薇(ばら)の花
僕は ひとりで
夜が ひろがる
*
〈郵便局で 日が暮れる
〈果物屋の店で 灯がともる
*
風が時間を知らせて歩く 方々に
しよつちゆう自分をいけないものにきめてしまつた。それからあとで考へる。
だから彼は叱られてばかりゐた。
そのことを思ひ出すので、彼の歌は下手(へた)になつた。母のそばに寢ころんで、母の顏を見てゐると、歌なんか下手でもよいと思つた。彼はいつでも色紙(いろがみ)に赤やエビ茶や綠の鉛筆で詩を書いた。十七歳であつた。
*
――イワンのばか!
*
生涯の終りになつたらかなしい歌を一つだけ書いてみたいと思つた。叱つた人は皆かなしい氣持の人だつたので、彼には絶望が人生の理想に近かつた。
*
秋 靑い空の向うに
かなしみは行き かへらず
それらはしづかになつた
*
病室にあかりのまだつかない夕暮れ、母の顏の上に西洋の繪の女が映つた。母が見知らない人に盜(ぬす)まれる。その不思議を彼はどうしたらよいかわからなかつた。
*
黑い森にはつぐみがゐた
小徑(こみち)に百合(ゆり)の日が待つてゐた
枝のひとりがうたつてゐた
〈何と世の中はたのしいのだらう
ちひさな花がきらきらしてる
子供はだれも足踏(あしぶ)みしてゐた
鰯(いわし)の雲と野鳩の雲と それを見てゐた
村では泉がうたつてゐた
〈何と世の中はたのしいのらだう
ちいさな花がきらきらしてる
家を通つて向うに行くと 空のあぶくが光つてゐた
野原と畑と川があつた
それから世界中の人がうたつてゐた
〈何と世の中はたのしいのらだう
ちいさな花がきらきらしてる
死ぬ朝は、母が彼のためにうたつてきかせた。目をとぢてきいてゐた、古びたうたを。これは病氣になるすこし前に出來た歌だつたが、その繰返し(ルフラン)を彼はいちばんすきだつたのだらうか。
母が、うたひやめたとき、窓かけが風に搖れてゐた。少年は死んでゐた。
*
ガラス窓に灯がはいる、乾いた靄(もや)の夕方。
*
墓に花がすくなくなり、粉雪(こなゆき)が降つた。時をり訪れる母は、しづかな顏をして、祈つた。
[やぶちゃん注:底本は昭和六一(一九八六)年改版三十版角川文庫刊中村真一郎編「立原道造詩集」を用いた。第十一章目の最終第四連の最初の文中の「繰返し(ルフラン)」は、底本では「繰返し」の三字に「ルフラン」のルビが配されてある。
さて……例えば「トマは佛蘭西の小説の描いた一人の少年のことだつた」とはジャン・コクトー
(Jean Cocteau 一八八九年~一九六三年)の“Thomas
l'Imposteur”(「山師トマ」一九二三年)の主人公トマに違いない……しかし僕は二十になる前に読んだその筋書きさえ、もう思い出せない……読み直そうにも……もうかの本は売り払って手元にはないのだった……この背景を解析した立原道造論も手に入れて読んではみたけれど……正直、ぴんとくる感じもなかった……しかし、この一篇はどうしても公開したい気がする……されば……何の注も附さずに示そうと思う。それが僕の自慰行為であるにしても……]
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