花散る里 立原道造
花散る里 立原道造
[やぶちゃん注:底本は鎌倉文庫昭和二一(一九四六)年刊「鮎の歌」の国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像を視認した。「*」の箇所は底本では正三角形の頂点に小さな「*」を三つ配した記号である。表題に添えられた副題「FRAU R. KITA GEWIDMET」はドイツ語の献辞で、“FRAU”(フラウ)は「夫人」の意(但し、ドイツ語では既婚婦人のみならず、未婚女性や未婚・既婚の不明な場合の女性敬称としても普通に用いる)、「GEWIDMET」(ゲヴィッドメット)は“widmen”(ヴィトメン)の過去分詞形で「~に捧げる」(厳密には「捧げたる」)の意)であるから、これは “R”のイニシャルの名を持つ「北」或いは「喜多」「木田」「喜田」などの姓を持つところの「夫人へ捧げる(捧げたる)」という意という風に普通は読めると思う。ろくな立原道造の評論を読んだこともない私には、この女性が誰なのかはこれ以上、分からない。識者の御教授を乞うものではあるが、実際、誰なのかは分かっていないのかも知れない。この献辞は詩篇「黃昏に」に全く同じものが附されてある。
先に電子化した「鮎の歌」の最終章に登場するため、ここに電子化した。]
花散る里
FRAU R. KITA GEWIDMET
それは霧のふかい村はづれであつた。馬車が一臺もう發つばかりに駐つてゐた。夏に近かつたのに、つめたいしめりがそこに佇む人たちの心から季節を奪つてゐた。
馬車の窓を隔てて靑年と少女が顏を見合はせてゐた。彼たちの間には交される言葉はもうなにもなかつた。少女は考へてゐた、その前の夜、靑年の口を不用意に洩れた一言を。――あの娘も秋になるとお嫁に行つてしまふのだ、と。少女はそれがうぶかしかつた、私(わたくし)はこの季節のはじめの明日、お嫁に行くのに、と。しかし、その意味を悟つたときに、少女の姿はふたつにたちきられたやうだつた。少女はその酷い言葉を今も窓の外に見つめてゐた。どこにあるとも知れず、村中に咲いてゐる林檎の花のにほひがつめたくこめてゐた。そんなことは私にはどうでもよい。それは私ではなかつた。しかしたとひ私が裏切られてゐたとしても……それはうつくしいはかない思ひであつた。つめたい五月雨の空に、しきりにほととぎすが啼きしきつた。そんなことはどうでもよい。……
馭者は笛を鳴らした。それを合圖に苦しい時間が滑りはじめた。少女は胸に懸けてゐたちひさな水晶の十字架ををはづした、それは掌の上にしばらくためらはれたあと、靑年の眼の前にさし出された。靑年はそれを自分の掌に受けた、少女の胸のあたたかさが透きとほつた十字架に不思議な血のやうにまだ通つてゐた。
馭者は再び笛を鳴らした。鞭がめぐつた。靑年は一歩踏み出した。今までに一度も交されなかつた彼たちのくちづけがはじめて許された、しかしそれは痛い程の切なさで、はげしい視線で。瞳と瞳との、それだけのくちづけだつた。彼たちは別れた。
*
靑年はぼんやりした考へに耽つてゐた。霧を含むつめたさが絶えず林檎の花のにほひとしのびよる窓に凭れて。――いろいろな思ひ出がある、しかしそれだけだ。靑年はこの考へた言葉の酷さには氣づかなかつた。失はれた時の痛みがあまりに悲しい、己はあの少女を愛してゐなかつたから、と。しかし彼の掌にはあの十字架がつめたく載せられてゐた、靑年はそれに見いつてゐた、恰も彼にはそれだけが見えてゐるかのやうに。それがこのたそがれのうすやみに。
靑年は少女とこの村に暮した日いつも美しい戀物語をきかせた、少女はうつとりと聞いてゐた――黃色のすきな娘、薊の花のすきな娘、草の上のたのしい一とき、月の光、それはみんな自分のことだ、と。しかしそれは他の娘のためにうたはれてゐた。靑年は少女にそれを言はなかつた。自分だけの戀のよろこびを、それを欲しがつてゐる少女には分け與へることなしに、しかも一しよによろこぶやうに強ひてゐた。少女はそれを知らなかつた、そして靑年は自分のわがままに氣づかなかつた――彼は知らなかつた、自分がたびたびその少女の姿に誘はれながら何もすることが出來なかつたのは、それを許さなかつたのは彼のこの罪のひそかな意識だとは。
今すべてがはつきりとわかつてゐた、しかし靑年はそれをぼんやりした考へにのこしておいた、いろいろな思ひ出がある、それだけだ、もう時はをはつた、美しく! と。
*
少女をのせた馬車は幾つかの村をこえ夜に走りいつた。おなじ窓に身を凭せたまま、少女はうつとりしてゐた。もう時はをはつた、私が美しかつたから、このうつし世に許されないほど美しく! と。さうしてあの人は私の胸を傷つけないために、あんなうそをついたのだ、私にあの人を裏切つてよそに行く罪を犯させないために、私を裏切るふりをなさつたのだ、と。少女は掌を膝の上二しづかに組み合はせてゐた、掌とそれをおさへてゐる掌とぢつと見てゐる自分と、何もかもがかの女には美しかつた。馬車の窓の外では林檎の花が散つてゐた、そんな村がつづいてゐた。やみのなかに、あるかなきかに。林檎の花の白いにほひが、さうしていつまでも追つて來るやうに、この旅がいつまでもつづくやうに、と。少女の胸は祈りながら、みな忘れてゐた。とほいとほい孤獨の日の、あこがれられた物語のやうに。
*
やがて來た眞夏の影と光の中に、思ひ出は花咲いた、しかし悲しくちひさく。村にのこされた靑年は、旅の渇きに、とほく靑空のあちらを見つづけた。《汝(なれ)委(ゆだ)ぬ、み空の鍵は!》時は靜かに滑るのを忘れた、すべては淸く澄んで行つた。
« 生物學講話 丘淺次郎 第十六章 長幼の別(6) 四 幼時生殖(3) クシクラゲの例 / 四 幼時生殖~了 | トップページ | 橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(7) 昭和七(一九三二)年 二十五句 »