ブログ730000アクセス突破記念 火野葦平 皿
つい一時間程前、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが730000アクセスを突破した。例の通り、記念テクストを以下に公開する。
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皿 火野葦平
[やぶちゃん注:從來通り、火野葦平(明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)がライフ・ワークとした河童を主人公とした原稿用紙千枚を越える四十三篇からなる四季社より昭和三二(一九五七)年に刊行されたものを昭和五九(一九八四)年に国書刊行會が復刻し、平成一一(一九九九)年に新装版として再刊された正字正仮名版を底本として用いた。傍点「ヽ」は太字に代えた。
女の肌へを「靑蠟」(「せいろう」と読んでおく)と表現するが、聴いたことがない単語で、調べてみると、これはどうも京料理の「青蠟焼き」のことを指しているように思われる。通常の「蠟焼き」というのは白身魚などの素材に卵黄を塗って焼くものであるが、この「青蠟焼き」は青菜磨ったものや寄せ菜(青菜の葉を磨り潰して水を加えて煮た上でそこに浮いてくる緑の色素を掬い取った「青寄(あおよ)せ」のこと)を白身を塗って燒ものを指す。鱧、や海老に用いる。私も京の茶寮で何度か食したことがある。
河童が「水分のなかに隱れて」とあり、これも河童生態学の新知見で、河童は完全に意識を持ちながら、しかも人間に姿を認知されないように水と一体化することが出来ることをここで学んでおこう。但し、後でそれを周りにいる「鼠や、蟹や、蠣幅や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、ゐもりや、蚯蚓などが、河童の作業を不審さうに見てゐた」とあるから、人間を除く生物にはその秘術は効かないことも言い添えておこう。
登場する「色鍋島」の皿というのは、十七世紀から十九世紀にかけて佐賀鍋島藩に於いて藩直営の窯で製造された高級磁器の一種。これらは専ら藩主の所用品及び将軍家や諸大名への贈答品などに用いられた稀少なものであった。藍色の呉須(ごす:染付け磁器の模様を描く青藍色の顔料)で下絵を描いて本焼きをした後、赤・黄・緑の三色で上絵(うわえ)を附けたもので、限られた色数でありながら絢爛さを持ち、特に上絵の下に描かれた藍色の輪郭線を特徴の一つとするものである(以上はウィキの「鍋島焼」及び複数の伊万里焼サイト等を参考にした)。
老婆心乍ら、「容喙(ようかい)」とは、嘴(くちばし)を差し入れ挾むという原義から、横から口出しをすること、差し出口、の意を表わす。
「ロハ」は、代金や料金などが要らないこと・無料・ただ、の意。これを意味する漢字「只(ただ)」が片仮名の「ロ」と「ハ」を続けたような形に見えることによる。但し、この漢字は象形文字で、「口」は発声器官としての「くち」である、「ハ」の部分は言葉を言い終って語気が空中へ分散してゆく形に象ったものとする(他にも指事文字とする説もある)。
これ以外にも注したいのだが、ネタバレになると面白くないので、最後に回した注もある。読後にお読みあれ。
本テクストは本日、2015年10月23日に2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログが730000アクセスを突破した記念として公開する。 藪野直史]
皿
河童は立ちすくんだ。背の甲羅がひきしめられて枯葉のやうに軋(きし)み、膝小僧が金屬板のやうに鳴る。自分の眼がつりあがつて行くのが自分でもわかる。こんなおそろしいものを見たことがない。
苔のついたしめつた石垣が上部からの光線に、圓筒形に鈍(にぶ)く光つてゐる。昔はまんまんと水がたたへられてゐたのであらうが、今はほとんど乾いてしまつて、古井戸の底にはわづかに點と水たまりがあるきりだ。その水も腐つて靑いどろどろの糊になつてゐる。しかし、路上の馬の足あとにたまつた水たまりにさへ三千匹も棲息することのできる河童は、かういふ腐水であつても、水分さへあれば姿をかくすに充分だ。相手に氣づかれずにどんな觀察でもすることができる。河童をこんなにおどろかせたのは、一人のうら若い女性であつた。
黄昏(たそがれ)、河童はさわやかに吹く春風のこころよさに、浮かれ心地で山の沼を出て散策してゐると、一匹の蛙を見つけた。冬眠からきめて地上に這ひ出たばかりらしく、まだ充分に手足の運動ができない樣子で、きよとんとした顏つきで置物のやうに柳の木の根もとにうづくまつてゐた。河童は食慾をかんじてその蛙をつかまうとした。すると意外にも蛙は飛躍したのである。自由がきかないと思ひこんで、油斷をしてゐたので逃がした。蛙はかたはらにあつた古井戸のなかに飛びこんだ。河童もすぐ彼を追つた。そして、河童は蛙どころではなくなつたのである。
暗黑の井戸の底に、その娘の姿だけぼうと浮きあがつてゐる。年のころは十八九であらうか頭髮はみだれ、そのほつれ毛が顏中にたれさがつてゐるが、その頭の結びかたは當節では見られない古風なものだ。河童はまだ城があり、御殿があり、そこに大名やたくさんの腰元のゐた時代のことを思ひだした。さういへばその顏形も古典的で、このごろ銀座などを横行潤歩してゐるパンパン・ガールのやうな文明的な顏形とはおよそ對蹠的である。衣裳も振袖だし、窮屈さうな幅びろい帶はうしろで太鼓にむすばれ、古足袋のこはぜはまだ錆びてゐず、金色に光つてゐる。一口にいへば、繪草紙から拔けでて來たやうな女だ。しかし、その瓜實顏のととのつた顏は嫩葉(わかば)いろに靑ざめてゐて、唇は葡萄色(ぶうだういろ)をしてゐる。
(幽靈だ)
河童にはそのことはすぐわかつた。しかし、河童が恐怖に立ちすくんだのは、彼女が亡靈あつたからではない。河童とて妖怪變化(えうかいへんげ)の一族であるから、幽靈くらゐにはおどろかない。おどろいたのはその亡靈の動作であつた。若い女はしきりに皿の勘定してゐる。じめじめした古井戸の底にやや横坐りになつた娘は、膝のまへに積みかさねられた幾枚かの皿を、なんどもなんども計算してゐるのである。女は一枚一枚を丁寧にかたはらへ移しながら、一枚ごとに數を讀む。
「一枚、……二枚、……三枚、……四枚、……」
その弱々しい低い聲が河童の心を冷えさせる。こんなにも陰鬱で消え入るやうな聲音といふもの聞いたことがない。それはただ弱々しいだけではなくて、そのなかに含まれてゐる悲しみや恨みやがたしかに永劫のものであることを感じさせるやうな、絶望的なひびきを持つてゐる。その聲を聞いてゐるだけで奈落へでも引きこまれて行くやうに氣が滅入る。
「五枚、……六枚……七枚、……」
ゆつくりゆつくり一枚づつたしかめながら讀んで行く聲は、七枚目あたりからなにかの期待と不安とにかすかに調子づくが、
「……八枚、……九故」
九枚目でぽつんと切れると、まるでこれまで點(とも)つてゐたかすかな灯がふつと消えたやうな、終末的な表情が女の美しい顏を掩ひつくす。女は暗澹とした顏つきになつて、肩で大きなためいきをつく。うなだれる。唇を嚙む。涙をながす。すすり泣く。
「やつぱり、九枚しかないわ」
と、呟(つぶや)く。
しかし、まもなく、きつと頭をあげ、意を決した希望のいろを靑ざめた顏にただよはせて、また皿を數へはじめる。細く骨ばつた靑蠟のやうな手で、直徑五寸ほどの皿は一枚づつもとの位置へ返される。
「一枚、……二枚、三枚、……四枚、……五枚、……」
河童は皿が九枚あることを知つた。その模樣は九枚とも同じである。紅葉の林を數匹の鹿がさまよひ、淸流にかけられた土橋のうへで、神仙のやうな老人が二人ならんで釣をしてゐる繪がかいてある。空に紫雲がたなびいてゐる。色どりはあざやかで、陶器の肌はつややかだ。しかし、そんな皿の美しさに氣をとられてゐるどころではない。
「九枚」
といふ最後の聲とともに、死に絶えるやうな女の失意の姿が河童をふるへあがらせ、ほとんど發狂しさうな恐怖へおとし入れる。河童の胸にいひやうもない女の孤獨が氷の鏝(こて)をあてるやうにしみわたつてきて、全身戰慄で硬直しさうになるのだつた。
亡靈は三尺とは離れてゐない自分のかたはらに、自分をのこるくまなく觀察してゐる河童のゐることなど、氣づく樣子もない。いや彼女には皿の計算以外、いかなるものも關心をよばないもののやうだつた。さつき井戸のてつぺんから飛びこんだ蛙は、一度彼女の右肩にあたつて下に落ちたのだが、亡靈は眉ひとつ動かさなかつた。時代を經た古井戸には、蟲や、螢(ほたる)や、蝙蝠(かうもり)や、蛞蝓(なめくぢ)や、蜘蛛(くも)や、蛭(ひる)や、蜥蜴(とかげ)や、ゐもりや、蚯蚓(みみず)など、いろいろな生物が同棲してゐて、ときどき出沒したり騷いだりもするのであつたが、なにひとつ彼女の注意を喚起するものはなかつた。天井のない井戸のうへからは、雨や雪が降りこみ、風が花びらや木の葉を散らしこんでゐることだらうが、恐らくさういふものも彼女から皿への執心を反(そ)らさせることはできないにちがひない。河童はこんなにも頑固一徹な情熱といふものを見たことも聞いたこともなく、このほとんど頑迷といつてよい計算のくりかへしに、甲羅の破れる思ひを味はつたのであつた。
河童は女に話しかけたい衝動を感じた。沈默に耐へられなくなつた。それには好奇心も手つだつてゐたことは否定できないが、主としてあまりの息苦しさに負けたのである。
どろどろした靑い糊の水をゆるがせて、河童は姿をあらはした。若い女も、あまりに唐突に、自分のすぐ横から異樣な形のものが出現したので、さすがにはつとした面持で、皿を數へる手を休めた。もつとも、河童は、女が九枚を數へ終つたときに名乘りをあげるだけの注意はしてゐた。この悲しみに打ちひしがれてゐる女を恐れさせることを避けたのだ。河童の措置(そち)は適切であつた。河童が計算の途中で姿をあらはしたならば、女はおどろきで皿を取りおとし、幾枚か割つてゐたかも知れない。
「失禮しました」
無言で凝視する淑女にたいして、禮儀正しい河童は鄭重に頭を下げた。しかし、女は答へようとはせず、凝結したまま、ただ闖入(ちんにふ)者を見まもつてゐるだけである。冷い眼である。狼狼した河童は追つかけられるやうに、どぎまぎしながら、
「いつたい、どうなさつたのですか」
と、とりとめのない質問をした。こんな問ひかたにはなにも答へられまい。河童もそれを知らなくはなかつたけれど、咄嗟(とつさ)には上等の言葉が出なかつた。冷汗が出て來た。
すると、思つたとほり、女はなほも無言で河童を睨みはじめた。最初のおどろきの表情は消え、女がしだいに不機嫌になつて行くことがわかつた。河童はさらに狼狼した。そしてつまらない言葉を吐いた。
「わけを聞かせて下さいませんか」
今度返事がなかつたら、河童は窒息(ちつそく)したかも知れない。しかし、幸なことに、女は口をひらいた。
「あたくしは悲しいのでございます」
さういつた聲の悲しさと、たつたそれだけでぽつんと切れた言葉の餘韻の恐しさとに、河童はもはや亡靈と對決してゐる忍耐をうしなひ、脱兎よりも早く、井戸の外へ飛びだした。
河童の俄(にはか)勉強がはじまつた。
(歴史を知らなくてはならぬ)
河童は唐突な情熱をたぎらせて、古典を漁(あさ)り、史書や、小説や、口碑や、傳承のたぐひを探つた。山の沼にゐる仲間たちは彼の奇妙な變化に氣づいて、そのわけを聞きたがつたが、彼はなにごとも語らなかつた。他の者であつたならば、古井戸の底で女に出あつたことを得意げに吹聽してまはつたかも知れないが、彼はこれを祕密にした。この經驗を自分のなにかの發見や生長に役立たせたいといふ氣持があり、謎は人の智慧を借りずに一人で解きたいといふ願ひもあつたからである。そして、いつか心の一隅で芽生えてゐるひとつの感情、彼はそれを意識はしても意味づけることに昏迷して、はじめのうち、それこそは人間を救ふ正義感のあらはれだと信じてゐた。祕密のこころよさや、誇りのやうなものさへ感じてゐた。
河童は大して時日を要せずして、謎を知ることができた。それは彼の熱心さに負ふところが大であつたことは勿論だが、それ以上に、この古井戸をめるぐ怪談があまりにも有名な歷史的事件であつたためである。
(あの井戸の底の女は、お菊といふ名だ)
と、まつききにそれを憶(おぼ)えた。そして、お菊が數へてゐる皿の數が九枚あつて、それを幾度となく計算してゐるのは、もとは十枚あつたからだといふことを知つた。お菊はその足りない一枚の皿のために殺されたのである。昔、德川時代、音川家に淺山鐡山といふ惡道な執權があつて、お家横領を企てた。鐡山は兄の將監(しやうげん)と結託して着々と陰謀をすすめてゐたところ、ふとした横合にその祕密を腰元お菊に知られた。そこで、一策を案じ、音川家のまたなき家寶として大切にされてゐた色鍋島十枚揃ひの皿をお菊にあづけ、その一枚をこつそり隱したのである。お菊はたしかに十枚あつた皿がなん度數へても九枚しかないのに仰天した。
「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、大枚、七枚、入枚、九枚、……一枚、二枚、三枚、四枚、……」何十ぺん數へても、十枚はない。そして、鐡山に殺されて、井戸の中に投げこまれてしまつたが、お菊の怨靈(をんりやう)はその時以來、井戸の底で皿の計算をつづけてゐるのであつた。そのときから、何十年、何百年と歳月がすぎたけれども、お菊の努力は撓(たゆ)むことがなく、今はからずも偶然の機會から、河童の知るところとなつたのである。時代の變遷は目まぐるしく、德川、明治、大正、昭和となつて、皿屋敷は跡かたもなくなり、荒野と化した一角に水も涸れてしまつた古井戸だけが殘つてゐるけれども、お菊の皿の計算だけは數百年間、一貫していささかも變ることがなかつたのであつた。
(なんといふ哀れな女だらう)
河童は一切を知ると、お菊の運命に涙がながれた。井戸の底では恐怖にをののいたが、事情がわかつてみると、幾千萬べん、幾億べん數へても、絶對に、十枚にはならない皿をお菊があきらめもせず數へてゐることの氣の毒さに、深い同情心がわいた。そして、河童は大決心をしたのである。
(お菊のために、皿を探しだしてやらう)
河童は俄勉強をして唐突に歷史家となつたやうに、今度は突如として探偵に早變りした。
またも河童の活躍がはじまる。津山鐡山が隱した一枚の皿はどこにあるであらうか。河童は搜索をはじめるまへに、その皿をあやまりなく認識するために、ふたたび、古井戸の底へ潛入した。お菊に氣づかれぬやうに、水分のなかに隱れて、綿密に皿を調べた。
お菊の動作は前に見たときと寸分ちがつてゐない。靑い顏にたれたほつれ毛や、葡萄色の唇や、瘦せ細つた手や、消え入るやうに陰氣くさい聲や、絶望的なため息や、悲しげな眼や、頰をつたふ口惜し涙などはなにひとつ最初見たときと變らないけれども、河童の心の方は正反對になつてゐた。恐怖心は沿え去り、いまは女をいぢらしく思ふ同情心が胸一杯だ。そして、早くお菊をこの悲しみと不幸とから解放してやりたい氣持で、すでに焦躁をおぼえてゐるのだつた。
(お菊を救ふ方法はたつた一つだ。なくなつた一枚の皿を探しだし、ここへ持つて來てやればよい)
そして、そのときのお菊のよろこびを考へると、自分までわくわくする思ひになつて、河童はどんな困難をも冒險をも恐れぬ勇氣が身内にわいてるくのであつた。たしかに、もはや河童はお菊を愛するやうになつてゐたといへる。彼が最初のとき、恐怖にをののきながらも逃走しなかつたことのなかに、その萌芽があつたといふべきであつた。彼がどろどろした靑い糊の水のなかで、ふるへながらも、不氣味なお菊の動作をいつまでも見つめ、遂には聲をかけずには居られなかつたのも、愛情の最初の兆候といつてよい、お菊がお岩か累(かさね)かのやうに醜惡むざんの亡靈であつたならば、河童はその姿を瞥見(べつけん)しただけで逃げだしたであらう。河童を古井戸の底に釘づけにしたのは、お菊の美しさに外ならなかつた。河童はここに淑女(レデイ)のために犧牲をいとはぬ騎士(ナイト)となつたのである。
(きつと探しだしてみせる)
その成功の日の豫感は、河童をすばらしい幸福感で有頂天にさせた。
お菊が數を讀みながら移動させる皿を、河童は寫生した。同じ皿を探しだすためには見本が要(い)る。九枚とも同じであるし、お菊の動作も單調で緩慢なので、この色鍋島の皿をそつくりうつしとることはそんなに困難な仕事ではなかつた。おまけに、河童はそのスケッチが妙に樂しくてならなかつた。それが繪を描くことよりもお菊のそばにゐることの方に原因があることは、もはや彼にも明瞭に自覺された。河童はいつか模寫の手を休めて、うつとりとお菊に見とれてゐる自分に氣づく。はじめのときは奈落へ引きこまれるやうに陰慘にひびいたお菊の聲も、今は音樂のやうにこころよく鼓膜をくすぐるのであつた。
河童は心のなかで、お菊に聲をかける。
――お菊さん、もうすこしの辛抱ですよ。私があなたの欲しがつてゐる十枚目の皿を見つけて來てあげる。さうしたら、あなたはさういふ永遠に到達する可能性のない企圖や、馬鹿げた絶望の計算から解放されるんだ。何百年間もつづけてきた奴隷(どれい)のやうな重勞働が停止されて、あなたは自由になるんだ。一週間とは待たせません。あと五日ほど御辛抱なさい。
一度はお菊にそのことを打ちあけてしまはうかと思つたが止めた。打ちあければ、お菊はよろこんで、いきいきと眼をかがやかし、
「ぜひお願ひしますわ。五日などといはず、三日のうちに、いや、今日中にでも……」
といふであらうが、河童はそんな目前の小さなよろこびを捨てた。よろこびは意外で突然であるほど大きい。皿を見つけだし、いきなりそれを持參した方が效果的だ。この忍耐もまた樂しいものといへなくはなかつた。
古井戸のなかに棲息してゐる鼠や、蟹や、蠣幅や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、ゐもりや、蚯蚓などが、河童の作業を不審さうに見てゐた。けれども、だれ一人、聲をかける者はなかつた。彼等はこの狹い井戸のなかでおたがひに生きてゆくためには、爭ひをおこさないこと、他人へ無用なおせつかいをしないこと、自分の意見を述べないこと、沈默してゐるにかぎることなどを悟りきつてゐたので、河童の行動を不思議には思つても、これに容喙(ようかい)したり、まして妨害したりする者は一人もなかつた。
皿の模寫が終ると、河童は勇躍して井戸から出て行き、十枚目の皿の探索にとりかかつた。
「このごろすこし君は變だなあ」
これが仲間のうちでの定評である。原因不明の行動をしてゐる者は變に見える。正しい立派な理由があつても、他人は理由などは問題にせず、外部にあらはれた行動だけを批判する。祕密を一人だけの胸にをさめ、血眼になつて皿をさがし歩く河童は馬鹿のやうにも狂人のやうにも見えた。彼が獨身であつたのが不幸中の幸だ。女房がゐたら、そはそはしてゐる彼はいくたびとなく折檻(せつかん)にあつたことであらう。しかし、内心に期するところのある河童は仲間のどんな惡評にも耐へ、今にみてゐろと考へてゐた。さらに、
(おれがどんなに美しい目的のために働いてゐるか、おまへたらのやうなうすよごれた精神の者たちにわかるものか)
昂然と胸を張つて、仲間たちの低級と無智とを嘲笑ひ、蔑(さげす)んでさへゐたのである。
ところが、日が經つうちに、河童はすこしづつ狼狽し焦躁しはじめた。あてが外れたのである。皿の搜索は彼の考へてゐたやうな簡單なことではなかつた。意外の困難だ。三日、五日、一週間と經つても、ほんのちよつぴりした手がかりも得られない。またたく間に、十日間がむだにすぎた。
(お菊に打ちあけて、約束などしなくてよかつた)
河童は自信を喪失しかけると、今はせめてそのことだけでも氣休めであつた。
文獻のあらゆる頁に鋭い眼光をみなぎらせ、幾度も皿の行方をつきとめ得たと確信したのに、その場所に行つてみると、皿はないのだつた。河童は歷史の記述がいかにまちまちで當てにならぬものかを知つた。津山鐡山が皿を隱したといふ點は一致してゐるが、その方法や場所にいたつては千差萬別に記錄されてゐる。まるで正反對に書かれてゐるのもある。十五日、二十日と經つてもなんの片鱗も發見することができないので、河童は出たらめな記錄をしたりげな筆致で書いてゐる歷史家や作家にはげしい憤りをおぼえた。しかし、彼が今ごろになつていかに切齒扼腕(せつしやくわん)してみたところで、問題はすこしも解決しないし進展もしない。
二十五日、三十日と徒勞の日がすぎると、河童はへとへとに疲れた。食慾もなくなつて瘦せ細り、見るかげもなく憔悴してしまつて、彼の方が亡靈に近くなつた。古井戸の底にときどき行つてみると、悲しげに皿を數へてゐるお菊の顏は、靑ざめてゐるけれどもふつくらと丸味があり、頰から顎にかけての豐かな線には、内部になにか充實してゐるためから來るいきいきとしたものさへ感じられるのだつた。三百年近くも絶望的な計算をつづけてゐるのにお菊はすこしの衰へも見せず、わづか三十日の搜索で河童は疲弊困憊(こんぱい)の極に達し、氣息奄々(きそくえんえん)としてゐるのである。河童はとまどひし錯亂して、
「こんな變なことがあるものだらうか」
と、呟かざるを得なかつた。
しかし、河童は勇氣をうしなひはしなかつた。いつたん定めた偉大な目的を放棄はしなかつた。
(かうなつたら、意地だ)
ただ、方法はすこし變へたのである。もはや肉體的にこの搜索を自分一人でやることは不可能といつてよかつた。あくまでも獨力でやりとげるといふ最初の決意を變更し、心ならずも仲間に協力を求めることにした。しかしながら、なほ最後の部分だけはあくまでも祕密にした。お菊のことは絶對に打ちあけたくない。皿さへ出て來ればよいのだ。彼は仲間に集まつてもらふと、模寫してきた皿の繪をみんなに示して、
「かういふ皿を探しだすのに、諸君の力が借りたいのだが……」
と、いくらか殘念さうな口調でいつた。
そこは山の沼の土堤(どて)で、柳の木がならび、蓮華の花がマットをひろげたやうにはてしなくつづいてゐた。もうすつかり冬眠を終つた蛙たらが沼の岸や芭蕉葉のうへに三々五々たむろして、聞くともなしに河童の合議の模樣に耳をかたむけてゐる。空は靑く、まだ陽は高い。
「それはなんといふ燒物だ?」
と、一匹の河童がきく。
「色鍋島だ。天下の名器だよ」
「ははァン」と、他の一匹が鼻を鳴らして、「君はその皿が欲しいばつかりに、こなひだうちからきよろきよろして、そんなに瘦せてしまつたんだな」
「そのとはりだ」
「その皿を見つけだして、どうするんぢやね?」
皮肉な口ぶりでさうたづねたのは老河童である。
「どうといふことはないんです。ただ欲しいんです」
「ただ欲しいだけで一ケ月も血眼になつて、瘦せてしまふんかね。その皿はよつぽど珍奇で高價なものとみえるなう。どんな手間をかけても手に入れさへすれば、いつペんで身代のできるやうな寶物らしい。骨董屋に賣るのかい」
「とんでもない。そんな下品なことはいはないで下さい」
「下品も上品もねえや」と、意地惡で有名な黑河童がせせら笑つた。「取引で行かう。お前さんがその皿を是が非でも手に入れたい氣持はよくわかつた。だけど、おれたらが、お前さんの大儲けの片棒をロハでかつがねばならん理由はねえ。たんまりとお禮をもらひてえものだな」
「それはいふまでもないことだ」
「いつたい、その皿はどこにあるんです?」
圓陣の隅つこから、狡猾(かうくわつ)と敏捷できこえてゐるいなせな若い河童がどなつた。爪先立ちしてゐて、これからでもすぐ搜索に駈けだしさうな姿勢である。
「どこにあるかがわかつてゐるなら、君たちに相談しやしない」
「方角の見當をきいてゐるんですよ」
「日本のどこかにあるんだ」
この言葉に河童たちはどつと笑つた。しかし實際はあまりにも茫漠とした探し物にいささか當惑して、笑ひにまぎらしたにすぎなかつたのである。よい儲け口らしいけれども、結局は代償と努力との比例にあるのだから、不精な者たちの中にはこの寶さがしを斷念するものもあつたのである。圓陣はしばらく騷然となつた。やがて、
「お願ひします」
頭を下げながらさういつた彼の言葉で、解散された。彼が日ごろ輕蔑してゐる仲間の前でへりくだつたのはいふまでもなくお菊のためであつた。
それから三日、五日、七日と、また日がながれた。成果はなかなかあがらなかつた。數百匹の仲間を動員したにもかかはらず、こんなにも混沌としてゐるとすれば、彼が一人でやらうと考へたことは無謀といつてよかつた。獨力であくまでやることは死を意味したかも知れない。慾と二人づれの河童たちはもう記錄やあやふやな文獻などは相手にせず、自分たちのかんや運をたよりに日本中を彷徨した。
さらに、十日、十五日、二十日と日がながれる。
河童は衰弱のためもう動くことができず、山の沼底の棲家に横たはつて、ただいらいらしながら吉報を待つてゐた。あたりが靜謐(せいひつ)で孤獨になると新しい思想が生まれる。藻がゆらめいてゐる間を、口から吐く眞珠の玉をつながらせながら、編隊になつて鮒の一群が通りすぎる。車えびが透明な身體を屈折させて岩の穴から出たり入つたりする。さういふものをうつろな眸でながめてゐた河童の心に、これまでは想像もしなかつた一つの疑念が浮かんだ。
(十枚目の皿はもうないのではあるまいか?)
靑天の霹靂(へきれき)よりもつとはげしい衝擊(シヨツク)であつた。背の甲羅が枯葉のやうに軋み、膝小僧が金屬板のやうに鳴りはじめた。自分の眼がつりあがつて行くのがわかる。その疑念のおそろしさに河童は悶絶しさうであつた。しかし、その惑亂のなかで、彼の腦髓だけは冷靜に殘忍な思考をすすめる。
(たしかに、皿は津山鐡山によつて隱されたと記述されてゐる。しかし、歷史は噓だらけだ。權謀術數の大家であつた鐡山は、皿を隱したものとみせかけて碎いてしまつたのではないか。鐡山が碎かなかつたとしても、どこかに隱された皿は三百年の時間の暴力によつて破壞されたのかも知れない。でなければ、これだけ探しても行方の片鱗だにも知れないといふわけがない)
また、別の考へが河童を愕然ときせる。
(皿はもう、日本にはないのぢやないかしらん?)
割れてはゐなかつたとしても、美術品として外國に持ちだされることが想像される。そんな例はたくさんある。もし海をわたつて西洋にでも渡つてゐるとしたら、いかに河童の神通力をもつてしてももはや絶對に發見の可能性はない。河童は人間よりは數十倍の能力を持つてはゐるけれども、名探偵をもつてしてもその力は地球全體には及ばない。日本だけでも持てあますほどだ。限界の自覺は悲しいことであるが、希望も冒險も自己の圈内だけの語にすぎないのである。河童はこの突然わいた疑念の恐しさに耐へかねて、ぶるぶると濡れ犬のやうに頭をふりまはし、この惡魔の想念を追つぱらはうとしたが、一度生まれた思想はいかに努力しても消え去りはしなかつた。しかしながら、もともとはじめからこの疑念をいだかなかつた河童の方が魯鈍(ろどん)といふべきであらう。三百年といふ歳月を無視してゐたとはをかしな話だ。ただ考へられることは、河童が古井戸の底で三百年の歳月にすこしも影響されてゐないお菊の姿を見たために、錯覺をおこしたのかも知れないといふことだ。
(さうだ。たしかにお菊のせゐだ)
溺れる者が藁(わら)をつかむやうに、河童はやけくそに心中で叫んだ。
ところが、皿はあつたのである。
或る日、一匹の仲間の手から、彼はその皿を受けとつた。それは彼が古井戸の底で見た色鍋島と寸分ちがはぬものであつて、お菊の死の原因となつたあの皿であることに疑ひはなかつた。骨董品には僞物の多いことを彼も知らなくはない。しかし、仲間が探して來てくれたその皿は僞物とは思へなかつた。彼が隨喜の涙をながして、その友人に感謝したことはいふまでもない。
「ありがたう、ありがたう。君は命の恩人だ」
そんな平凡なことしかいへなかつたが、彼はまつたく蘇生の思ひがしたのである。大願成就のよろこびのため、衰弱し憔悴しきつてゐた河童はたちまち元氣を快復し、宙をとんでお菊のところへ駈けつけたい思ひであつた。
しかし、實はこの一枚の皿を得るまでに河童はすでに破滅に瀕してゐたのである。仲間が皿を探して來てくれたのは友情でもなんでもなかつた。その皿を持つて來たのは、沼の土堤で合議を召集したとき、嫌味な啖呵(たんか)を切つて、取引で行かうといひだした張本人の黑河童である。黑河童は徹頭徹尾慾と道づれであつたから、二人の會見はまつたくの商談であつた。彼がどんなにこの皿を欲しがつてゐるかをよく知つてゐる黑河童は足元を見こんで、搾(さく)油機のやうに彼をしぼらうとする。しかし彼はすでに皿を手にするまでに、多くの仲間たちから搾られつくしてゐた。搜索のためには旅に出なければならない。そのためには旅費が要る。心あたりがあるとまことしやかにいはれれば一縷の望みをつないで、そこへ行つてもらふ。旅費、日當、酒代、前借り、はては恐喝(きようかつ)に類する強談で、金をまきあげられる。あまりの失費に彼は仲間へ依賴したことを後悔しはじめたくらゐだ。しかし、皿を探す手段はもはやこれ以外に考へられなかつたので、沼の繩張り、食餌圈、茄子や胡瓜の耕地、漁場、山林、貯藏庫等、財産の大部分を仲間に提供してしまつたけれども、最後の希望をうしなはなかつた。
今、その望みが達せられたのである。しかし相手が商賣人であつたために、皿の代償として、わづかに殘つてゐた財産の一切をまきあげられ、彼は裸一貫になつて一枚の皿を得たのである。しかし、彼は滿足であつた。彼は涙を浮かべて心に呟く。
(この一枚の皿は、地球全體くらゐ價値があるんだ)
三百年間も陰慘であつた古井戸の底に、はじめて明るい笑ひ聲が滿ちた。
「これだわ、この皿にちがひないわ。まあ、うれしい」
お菊の歡喜の表情を見て、河童も自分の獻身と犧牲とが報いられたことをよろこんだ。お菊は最初の邂逅(かいこう)のとき、失禮な態度をとつたことを詫び、河童の持つて來てくれた十枚目の皿を手にとつて、いく度もいく度も裏表をかへして感慨ぶかげに眺めるのだつた。それから、河童にちよつと、といふやうに會釋しておいて、重ねた皿を數へはじめる。
「一枚、二枚、三枚、四枚、……」
それは前の陰鬱な聲ではなくて、明るく彈んだ調子だ。數を讀むテンポも早い。靑蠟に似た女の手はせかせかと動き、皿は迅速にぞんざいに移動させられて、がちやがちやと音を立てる。
「五枚、六枚、七枚、八故、九枚、十枚、……ああ、十枚あるわ」
お菊の計算はもはや澁滯することがなく、三百年目にはじめていつた「十枚」といふ言葉に、フッフと氣恥かしげな微笑を洩らす。
「よかつたですなあ」
河童もお菊のよろこびに釣りこまれて、身體をゆするやうにして笑つた。笑ふとは妙なことである。なぜ笑ふのであらうか。滑稽なことはひとつもなく嚴肅な勝利の悲しみがあるだけではないか。實際に胸が迫つてゐるのである。一人だつたらわつと泣きだしたかも知れない。しかし顏を見あはせると、二人は笑つてしまふのであつた。二百年目にはじめてお菊の顏にあらはれた笑ひは、しかし河童をとまどひさせる。悲しみにうちひしがれてゐたとき、お菊の顏いつぱいにあらはれてゐた靜かで沈んだ美しさはどこかに消えてしまつた。昔のお菊の高貴な顏は、たわいもない、痴呆のやうな賤しい笑顏の面ととりかへられてゐる。そして河童はその新しいお菊の樂天的な顏を見ると、わけもなくげらげらと笑ひだしてしまふ。
古井戸の生活者である鼠や、蟹や、蝙蝠や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、ゐもりや、蚯蚓などはこの笑劇を呆氣にとられてながめてゐた。かれらはこの靜かで住み心地のよい古井戸の世界の空氣が、俄に變つて、生存をおびやかされるにいたるのではないかといふ不安を、一樣に感じてゐるらしく思はれた。空氣の震動だけでも大變である。お菊が笑ひ、河童が笑ふたびに細長い固筒形の井戸の中はわんわんと鳴りひびく、革命的な現象といはなければならなかつた。
ところが、腑拔けのやうに笑ひころげてゐた河童は、ふとなにかに氣づいたやうに緊張した顏つきになると立ちあがつた。突然、河童の顏に不思議な苦痛の表情が浮かんだ。彼は井戸の世界いつぱいに鳴りひびく笑ひ聲の谺(こだま)に、われに返つたのである。そのだらしのない愚劣な音響が自分の聲だと知ると、この眞摯な河童の心に俄かに狼狽と反省の思ひがひらめいた。
河童は羞恥でまつ赤になると、ものもいはず、地底を蹴つて、井戸の外へをどり出た。
「待つて、……待つて頂戴」
深い井戸の底でお菊のさう呼ぶ聲が聞えたが、耳をふさぎ一散に逃げた。
(墮落してはならぬ)
河童の心を領したのはそのことであつた。河童はお菊へ待望の皿をとどけたけれども、目的と現實との不可解な混淆(こんかう)を、古井戸の底に行つてみるまで氣づかなかつた。河童は犧牲の美しさといふものをつねづね無償の行爲のなかに求めたいと考へてゐた。ところが、皿をとどけてお菊のよろこぶ姿を見たとき、なにかの代償を求めようといふ不純の氣持が、ふつと胸の一隅に兆(きざ)したのにおどろいた。心中にどんな妖怪が棲んでゐるか、自分でもわからない經驗は前にもあつた。しかし、こんな妖怪が頭をもたげたことは生眞面目な河童を恥ぢさせた。お菊になにを求めようといふのか。その恐しいみづからの詰問に逢つた途端、圓筒のなかにひびきわたつただらしのない笑ひ聲の谺が、河童を羞恥で赧(あか)らめさせた。同時に、罪の意識が電氣のやうに彼の胸をかすめた。また、仲間への裏切者となることの恐れがそれに重なつた。
(墮落してはならぬ)
河童はさうして古井戸からあわてふためいて脱出をしたのであつた。
それから、數日がすぎた。
沼の仲間たちは、彼が皿をどこにやつたのか不思議がつた。あんなに欲しがつてゐた皿を手にした途端、もう持つてゐない。仲間たちの間では、その皿を彼がいくらの金に換(か)へ、いくら儲け、そしてどんな大金持になるかが問題であつたのに、彼は皿をなくしただけで相かはらず尾羽うち枯らしてゐる。そして、ただ身一つを入れるだけになつたうすよごれた穴のなかに横たはつたきり、まつたく出て來ない。仲間とのつきあひも忘れたやうだ。しかし彼のそんな不精たらしい蟄居(ちつきよ)の樣子を偵察しに行つた者の一人は、彼はさびしさうではあるが、どこかに樂しげな滿ち足りた樣子も見られると、不思議さうに報告するのであつた。
また、數日がすぎた。
河童は忍耐をうしなつた。もう二度と古井戸の底には行くまいと決心してゐたのに、お菊に逢ひたい氣持をどうしてもおさへることができなくなつたのである。河童はこの自然の情をやたらに抑壓する必要はないと考へた。自分は死ぬかも知れない。そのまへにもう一度お菊に逢ひたい。お菊へなにかを求めようといふ不純な氣持などはまつたくなかつた。皿を渡した日、彼が一散に逃げだすとお菊はうしろから呼びとめた。そのお菊のやさしい聲は耳にこびりついてゐる。彼はそれだけでも滿足であつた。そこで、もう一度逢ひ、あんな風な奇妙な別れかたでなく、きれいに納得づくでもう二度と逢はないことを約束しようと思つた。お菊は悲しむかも知れない。
(しかし、それがおたがひのためだ)
と、河童はせつなくなる胸をおきへて、強くひとりでうなづいた。
河童は輕い足どりで、古井戸に行つた。初夏の嫩葉のうつくしい朝である。蟬が鳴いてゐる。もうこつそりと忍ぶ必要はないので、河童の姿で堂々と、井戸の圓筒形の石壁を降つた。苔むした垣の間から顏を出してゐた鼠や蟹や蜥蜴が、闖入者に驚いてひつこんだ。
地底に降り立つた河童は、つよい親しみを含んだなれなれしい語調で、
「お菊さん」
と、聲をかけた。
靑いどろどろの糊水のなかに蹲(うづくま)つてゐたお菊は、顏をあげた。
河童は仰天した。河童はお菊が彼の來訪を待望し、井戸の口からのぞいただけで、もうよろこびの聲をあげて迎へてくれるものと思つてゐた。ところが、お菊は彼が底に着くまで一口もきかず、聲をかけると顏をあげたが、その眸は歡迎どころか、憎惡の光に滿ち滿ちてゐた。きらに河童の膽(きも)を冷えあがらせたのは變りはてたお菊のむざんな姿であつた。これがあのお菊であらうか。まるで骸骨(がいこつ)である。お岩や累(かさね)よりもつと醜惡だ。ふつくらと丸味のあつた頰や顎の線は鉈(なた)でこそいだやうに削りとられ、二つの眼は眼窩(がんくわ)の奧に落ちくぼんでゐる。葡萄色の唇は腐つた茄子の色になつて、蟇(がま)のやうに齒をその間にむきださせ、亂れ放題の頭髮は全身に棕櫚(しゆろ)をかぶせたやうだ。瘦せて針金のやうになつたお菊の膝のまへに、十枚の皿が積まれてゐる。
河童は茫然となつて、そこへへたばりこんでしまつた。甲羅が枯葉のやうに軋み、膝小僧が金屬板のやうに鳴りはじめる。その河童の耳に、お菊のすさまじい怨讐が憎々しげにひびきわたつた。
「なにをしに來やがつたんだ。惡魔、この皿を持つて、とつとと歸りやがれ」
河童は耳を疑つた。しかし、それはお菊の口から出た言葉にちがひなかつた。動轉してしまつた河童はもうなにを考へる餘裕もなく、お菊がつきだした一枚の皿をつかみとると、一散に井戸から飛びだした。
(なんたることか)
錯亂は極に達した。どう考へてもなんのことやらわからない。河童は皿をかかへて山の沼に歸ると、やけつぱちに寢ころがつて呻吟(しんぎん)した。河童の頭のところに皿が置かれてある。紫雲たなびく空の下、紅葉の林をさまよふ鹿と、釣をする二人の白髮老人を配した色鍋島の皿は絢爛(けんらん)としてゐる。
古井戸の底で、お菊はしだいに終焉(しゆうえん)に近づきつつあつた。現在のお菊の絶望は、十枚目の皿の見つからなかつた前の絶望にくらべて、さらに絶望的であつた。お菊は九放しかない皿を數へながら、十枚あるかも知れない、なくともいつかはきつと十枚目が見つかるといふ希望だけで、わづかに生命を支へてゐたのである。河童はそれを永遠に到達の可能性のない企圖として、彼女の不幸を哀れみ、その絶望へ光をもたらさうと考へたが、お菊はその絶望の計算への情熱だけで、いきいきと内部を充足されてゐたのであつた。しかしながら、彼女は自分ではそのことを氣づいてゐなかつた。だから、河童が皿を見つけて來てくれたときは本心からよろこんだのであつた。三百年の絶望に終止符が打たれたと思つた。ところが、それはもつと恐ろしい絶望への出發點であつたのだ。
「一枚、……二枚、三枚、……四枚、……」
十枚あればよいがと祈りつつ、期待と不安とにおびえ數へて行くときの充實感と、やつぱり九枚しかないと知つたときの、悲しいとはいへ次に望みを托し得る生活の持續感とは、お菊にとつては魂の火花であつた。それなのに、皿が十枚揃つたとき、一切の情熱も充足感も、それから來る美しさも生命力も消え去つてしまつた。お菊はなにもすることがなくなつたのである。彼女はただ退屈になつただけだ。皿を數へて行つても十枚あるとわかつて居れれば、全然無意味だ。はじめは河童の親切をよろこんだのに、もう翌日には河童のおせつかいが恨めしくなつた。二日目には憎くなつた。三日目には呪はしくなつた。お菊は内部を支へるものをうしなつて、急速に憔悴し委縮し死へ近づいた。そこへ河童が得々としてやつて來たので、思はずどなりつけたのである。それはお菊の魂の叫びであつた。
「やつと一枚減つた」
さう思つて、また昔のやうに、一枚、二枚、三枚、と數へてみても、もはや挽回することのできない空洞(くうどう)がお菊の心のなかにぽかんと倦怠の口をひらいてゐる。なんらの情熱も希望もわいて來ない。十枚目の皿が河童のところにあるといふ事實を、突如としてお菊が忘れ去つてしまはないかぎり、事態は復舊しないのだつた。
お菊は絶望して、九枚の皿を石垣にたたきつけた。その散亂した缺片のなかに横たはり、しづかに眼をとぢた。
山の沼で、錯亂から容易に脱することのできなかつた河童は、お菊を忘恩の徒だと斷定することによつて、やうやくなにをすべきかに思ひあたつた。
(向かふが向かふなら、こつちにも考へがあるんだ)
河童は山の沼を出た。人間に化けて大都會にあらはれた。一軒の骨董屋に入つた。持參した色鍋島の皿を賣つた。鑑定のできる骨董屋の主人はそれが天下の珍品であることを知つて、客のいひなりに莫大な現金を拂つた。客は皿をわたし、金をふところに入れて店を出た。骨董屋の裏口から、眼つきのわるい屈強の若者が四五人、そつと拔け出た。慘劇はどこで行はれたかわからない。目的をはたした若者たちが店にひきかへしたとき、骨董屋の主人は粉微塵になつた皿のまへで、茫然と立ちつくしてゐた。
[やぶちゃん注:『昔、德川時代、音川家に淺山鐡山といふ惡道な執權があつて、お家横領を企てた。鐡山は兄の將監(しやうげん)と結託して着々と陰謀をすすめてゐたところ、ふとした横合にその祕密を腰元お菊に知られた。そこで、一策を案じ、音川家のまたなき家寶として大切にされてゐた色鍋島十枚揃ひの皿をお菊にあづけ、その一枚をこつそり隱したのである。お菊はたしかに十枚あつた皿がなん度數へても九枚しかないのに仰天した。/「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、大枚、七枚、入枚、九枚、……一枚、二枚、三枚、四枚、……」何十ぺん數へても、十枚はない。そして、鐡山に殺されて、井戸の中に投げこまれてしまつた』この部分は人名にやや手が加えられているものの、皿屋敷の話で芝居として最も人口に膾炙している浄瑠璃「播州皿屋敷」のそれを元にしている。ウィキの「皿屋敷」から引くと、為永太郎兵衛・浅田一鳥作の「播州皿屋敷」寛保元(一七四一)年に大阪の豊竹座で初演されたもので、例の通り、幕府の咎めを回避するため、室町時代の細川家のお家騒動を背景として組んであって、『一般に知られる皿屋敷伝説に相当する部分は、この劇の下の巻「鉄山館」に仕込まれている、次のようなあらすじである』。『細川家の国家老、青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。そんなおり、細川家の当主、巴之介が家宝の唐絵の皿を盗まれ、足利将軍の不興を買って、流浪の憂き目にあう。鉄山は、細川家の宿敵、山名宗全と結託して、細川の若殿を毒殺しようと談義中に、委細をお菊に聞かれてしまい、お菊を抹殺にかかる。お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて井戸に投じた。とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。現場に駆けつけたお菊の夫、舟瀬三平に亡霊は入れ知恵をし、皿を取り戻す』というものである。因みに、このウィキの「皿屋敷」の出典の四十二番には私の電子テクスト「耳嚢 巻之五 菊蟲の事」が引かれてある(言っておくが、私はウィキの執筆に関係しているが、ウィキは記載者自身がウィキ外に別に作った自己テキストや記載へのリンクを張ることは、中立性を欠くために出来ないことになっている。これも私の全く知らない人が知らない間にリンクを張ったものであって、私がしたことではないことを附言しておく。因みにウィキペディアを愛する私としてはこの仕儀をすこぶる光栄なことと思っている)。]
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