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2015/10/12

小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (三)

 

        

 

 出雲では、他國より狐の像の數が、多いやうに思はれる。して、出雲では、少くとも一般百姓の間では、米の神としての崇拜以外のあるものを象徴してゐる。實際狐の田の神といふ古い觀念は、下等社會では純然たる神道の精神とは、全然異れる奇怪な崇拜――狐の崇拜――によつて、蔽ひ隱され、殆ど消されて了つてゐる。家來の崇拜が、殆ど主人たる神の崇拜に取つて代つてゐる。始め狐が稻荷に取つで神聖であつたのは、たゞ現在猶、龜が金比羅に對し、鹿が春日大明神に對し、鼠が大黑に對し、鯛が惠比壽に對し、白蛇が辨天に對し、百足が戰鬪の神なる昆沙門に對して、それぞれ神聖であると同じことに過ぎなかつた。しかし世紀の數を重ねる內に、狐の方が神を橫領したのであつた。また狐の石像が、狐の崇拜の唯一の外形的證據ではない。殆どあらゆる稻荷の背後に、社祠の壁の地上一二尺の邊に、直徑約八寸の圓い穴が見出される。往々それは引き板によつて、自在に閉められるやうに作つてある。この圓孔は狐の穴で、その中を覗いて見ると、恐らくは豆腐又は狐が好むと想像される、他の食物が献げてあるだらう。また穴の下又は附近に突出せる板の上に、或は穴の緣に、多分米粒が撒き散らしてあるだらう。して、百姓が穴の前で手を拍つて、小さな祈を述べ、その米を一粒乃至二粒嚥み込むのを見受けることがある。その米粒が病氣を癒やし、又は豫防すると信じてゐるからだ。かやうな穴を備へてある狐は、見えない狐、幻ろしの狐で、百姓はお狐樣とあがめて呼んでゐる。若しその狐が自からを人の目に現すときには、その色は雲の如く白いと云はれてゐる。

 さまざまの靈狐の種類があると、唱へる人もあれば、また狐は唯だお稻荷樣と野狐の二種のみだといふ人もある。また或人は優劣の二つに分けて、優等に四種――白狐、黑狐、善狐、靈狐――の存することを主張する。或る他の人々は唯だ三種の狐――野狐、人狐、稻荷狐――を數へるが、野狐を人狐と混じたり、稻荷狐と人狐と同一視したりするものが多い。是等の信仰の混亂を解くことはなかなか出來ない。特に百姓の間ではさうだ。加之、信仰は地方によつて異る。私はこの迷信が特に强く、且つ一種無比な特色を有する出雲に十四ケ月滯在の後、狐の迷信について、次のやうな甚だ散漫なる槪說を作ることを得たのに過ぎない――

 すべての狐は超自然力を有する。善惡の兩種があつて、稻荷狐は善い方で、惡るい狐はそれを怖れる。一番惡るいのは、人狐で、これが特別に惡靈憑依の狐だ。大いさは鼬鼠位で、尾の外は恰好もや〻似てゐる。尾は他の狐と同じい、その狐が屬してゐる人の外には、いつも姿を見せない。人家の內に棲んで、養はれることが好きで、よく待遇をする家を繁昌させ、田には水の乏しくならぬやう、釜には米の缺けないやうにする。しかし、若しその感情を害すると、家族に災を與へ、作物を損める。野孤もまた惡るい。これも人に憑くことがあるが、これは特に魔法師で、人を魅惑して欺くことを欲する。どんな形にでも化け、且つ自からを見えないやうにする力を有つてゐる。しかし、犬はいつでも、それを見ることが出來るので、非常に犬を怖がつてゐる。それから、他の形に化けてゐるとき、水にその形の影が落ちると、水はたゞ狐の影を映すに止まる。百姓共がそれを殺すと、その狐の親類のもの、又は狐の靈氣によつて迷はされる。たゞし狐の肉を食べるならば、後には迷はされない。野狐もまた家屋へ入る。家族がその家屋內に狐を有つてゐる場合、小さな種類、卽ち人狐を有つてゐるのが多い。しかし折々兩種が同じ屋根の下に棲むこともある。野狐が百年間生きると、眞白になつて、稻荷の位に列すると云ふ人もある。

 是等の信仰の中には、珍らしい矛盾が含まれてゐる。また更に他の矛盾が、本章の後頁に發見されるだらう。狐の迷信を幾分でも明白にすることは六づかしい。信者自身の間に於て、此問題に關する思想の混淆のためばかりでなく、またその思想の作られた要素の雜多なるにも因つてゐる。その起原は支那である。が、日本では妙に神道の一つの神の崇拜と交り合つて、それからまた佛敎の藝術的思想によつて、變化され、また擴張された。一般人民だけについて云へば、彼等が狐を崇敬するのは、狐を怖がつてゐるからだと云ふのが恐らくは安全だ。百姓は今猶、彼の怖れてゐるものを拜んでゐる。

[やぶちゃん注:「田の神」ウィキの「田の神」より引く(記号の一部を省略した)。田の神は『日本の農耕民の間で、稲作の豊凶を見守り、あるいは、稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神である。農神、百姓神と呼ばれることもある』。『穀霊神・水神・守護神の諸神の性格も併せもつが、とくに山の神信仰や祖霊信仰との深い関連で知られる農耕神である』。『日本では古来、農耕神をまつる習俗のあったことが知られており、『日本書紀』や『古事記』にも稲霊(いなだま)すなわち「倉稲魂」(うかのみたま)、「豊受媛神」(とようけびめのかみ)、穀霊神の大歳神(おおとしのかみ)の名がみえる』。『このうち、豊受媛神は『延喜式』「大殿祭祝詞」に、稲霊であり、俗にウカノミタマ(宇賀能美多麻)と呼ぶと称するという註があり、このことについて柳田國男は、稲の霊を祭った巫女が神と融合して祭られるようになり、それゆえ農神は女神と考えられるようになったのではないかとしている』。『民間では、こうした農耕神を一般に田の神と呼称してきたが、東北地方では「農神」(のうがみ)、甲信地方(山梨県・長野県)では「作神」(さくがみ)、近畿地方では「作り神」、但馬(兵庫県)や因幡(鳥取県)では「亥(い)の神」、中国・四国地方では「サンバイ(様)」また瀬戸内海沿岸では「地神」などとも呼ばれる。また、起源の異なる他の信仰と結びついて、東日本ではえびす、西日本では大黒を田の神と考える地方が多く、さらに土地の神(地神)や稲荷神と同一視されることもあり、その一方で漁業神や福徳神とは明確に区別される神である』。『山の神信仰は、古くより、狩猟や焼畑耕作、炭焼、杣(木材の伐採)や木挽(製材)、木地師(木器製作)、鉱山関係者など、おもに山で暮らす人々によって、それぞれの生業に応じた独特の信仰や宗教的な行為が形成され伝承されてきた』一方、『稲作農耕民の間には山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ下って田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらすとする信仰があった。これを、田の神・山の神の春秋去来の伝承といい、全国各地に広くみられる。ただし、去来する神が山の神や田の神として明確に特定されないケースも多い』(リンク先には以下具体例が示されているが省略する)。『大国主の国づくりの説話に登場する「久延毘古」(クエビコ)は、かかしが神格化されたものであるが、これもまた田の神(農耕神)であり、地神である。かかしはその形状から神の依代とされ、地方によっては山の神信仰と結びつき、収獲祭や小正月行事のおりに「かかしあげ」の祭礼をともなうことがある。また、かかしそのものを「田の神」と呼称する地域もある』。『さらに、春秋去来の伝承は屋敷神の成立に深いかかわりをもっているとみられる。屋敷神の成立自体は比較的新しいが、神格としては農耕神・祖霊神との関係が強いとされ、特に祖霊信仰との深い関連が指摘される。日本では、古来、死んだ祖先の魂は山に住むと考えられてきたため、その信仰を基底として、屋敷近くの山林に祖先をまつる祭場を設けたのが屋敷神の端緒ではないかと説明されることが多い。古代にあっては一般に、神霊は一箇所に留まらず、特定の時期に特定の場所に来臨し、祭りを受けたのちは再び還るものと信じられていた。屋敷神の祭祀の時期も、一般に春と秋に集中し、後述するように農耕神(田の神)のそれと重なっている。その一方で農耕神もまた祖霊信仰のなかで重要な位置を占めるようになった。こうして屋敷神・農耕神・祖霊神の三神は、穀霊神(年神)を中心に、互いに密接なかかわりをもつこととなったのである』。以下、特別項である「鹿児島県・宮崎県の田の神」の記載。『田の神の具体的な像は不明なことが多い。水口にさした木の枝やそれを束ねたもの、花、石などが依代とされることが多く、常設の祠堂をもたないのが全国的な傾向である。しかし、そうしたなかにあって田の神の石像が九州地方南部の薩摩、大隅、日向の一部(都城周辺)に限って分布することは注目に値する。ここでは、集落ごとに杓子やすりこぎを持ったタノカンサァ(田の神さま)と称する石像を田の岸にまつる風習がみられる』。(中略)但し、『「田神」「田ノ神」「田の神」の文字の彫られた石碑は南九州に限らず、全国の路傍などに広汎に分布している』。最後に短いが、本編に関わる「狐塚と稲荷信仰」項があり、『全国に狐塚の地名は多いが、これは民間信仰において、狐が田の神の使いだと考えられていたことに由来する。元は田の近くに塚(狐塚)を築いて祭場としたものが、のちに稲荷神を勧請して祠としたことが、稲荷信仰が全国的に広がる契機となったものと考えられている』とある。

「龜が金比羅に對し、鹿が春日大明神に對し、鼠が大黑に對し、鯛が惠比壽に對し、白蛇が辨天に對し、百足が戰鬪の神なる昆沙門に對して、それぞれ神聖である」各個、注する。

・《亀と金比羅》海上交通の守護神金比羅は、もとインド神話の怪魚クンビーラ(マカラ)で、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神とされ(日本では蛇型とされる)、本来はこのクンビーラの上にガンジス川を支配する女神ガンガーが乗るとされたが、洒落のようだがインドの石窟寺院では亀の上にそのクンビーラが、そのまた上にガンガーが乗った形象を作るという記載をネット上で見かけたことから考えると、伝来過程でクンビーラが亀と一体化してしまったものと思われる。

・《鹿と春日大明神》春日権現を祭る春日大社は武甕槌命(たけみかづちのみこと 建雷命)を祭神の一柱とするが、この神は白い鹿に乗って奈良の御蓋山(みかさやま 春日山)の頂上に舞い降りたと伝えられることから、鹿は、その神使とされ、御承知の如く奈良では、かく保護されている。

・《鼠と大黒》大黒天の「黒」は陰陽五行説で北を意味することから北方の神とされ、北が十二支では「子(ね)」に相当することから、大黒天の神使は鼠とされたようである。

・《鯛と恵比須》これは一見、簡単そうで難しい。本邦では恵比須は江戸時代になって、事代主神と同一視されるようになったが、記紀神話の「国譲り」の伝承の中で、父大国主神が、天つ神から「国譲り」の要請を受けた際、「私は答えられない。出かけて留守にしている子の事代主に受諾するかを訊け。」と答え、使者が事代主を探し訪ねて質した際、彼が釣りをしていたとされることと関係があるようである(但し、その時に釣っていた、或いは、釣り上げた魚が、鯛だ、とは書かれていない)。そこから海とは、もともと無縁であった託宣神事代主神が海神としての恵比須に変容したものである。一方、鯛は魚類の中でも日本人にとって非常に馴染みの深い食用魚であり、その赤色が祝祭的な色であることから、神道でも古くから重要な供物とされ、江戸時代には将軍家でも鯛が喜ばれ、ウィキの「タイ」の「料理」の項によれば、『「大位」と当て字をされもてはやされた(当時、海から遠い京都では鯉が宮中で食され「高位」などと呼ばれていた)』とあることから、鯛が恵比須の使者となったものであろう。しかし、問題はこの「国譲り」がルーツとすれば以前に私が注で述べたように、「国譲り」とは言え、事代主神が威圧的強制譲渡要求を憤激(推定)とともに認め、呪詛を意味すると思われる「逆手(さかで)の柏手」を打って海に隠れてしまう、かのシークエンスを考えると、神話構造上は、ここで事代主神(後の恵比須)が釣り上げた、或いは、釣っていた鯛とは――極めて不吉な魚であった――ということになりはしまいか?  識者の御教授を乞うものである。

・《白蛇と弁財天》本邦では弁財天は、日本固有の神で概ね白髪の老人の頭に蛇体で造形される農業・食物・財福神とされる宇賀神と習合し、弁天の頭上に宇賀神が乗る像や弁天像自体が蛇身のものさえもある。弁天の使者白蛇は、その辺りがルーツであろう。

・《百足と昆沙門》山師(鉱物掘りや鋳鉄師)と百足の関連性は、坑道と百足の類型性から、はよく分かるが、この毘沙門の使者については、実は私にはよく分からなかった。そこで検索したところ、個人サイト「神使像めぐり」の「毘沙門天の百足(むかで)」に以下のようにあるのを見出した。『軍神と財宝の神である、毘沙門天のお使いがなぜ「ムカデ」なのかは不明です。百足は、「毘沙門天の教え」だともいわれます。「たくさんの足(百足)のうち、たった一足の歩調や歩く方向が違っても前に進むのに支障がでる。困難や問題に向かうには皆が心を一つにして当るようにとの教えである」とのことです(寺の説明)』。『武田信玄など戦国武将は、毘沙門天が武神で戦勝の神とされることと合わせて、そのお使いのムカデは一糸乱れず果敢に素早く前に進み、決して後ろへ退かないなどとして、武具甲冑や旗指物にムカデの図を用いたりしたとされます』。『しかし、毘沙門天が古代インドでは宝石の神とされていたことに加えて、百足は足が多いので、おあし(銭)がたくさんついて金運を呼ぶとか、商人や芸人の間では「客足、出足」が増え繁盛するなどと、人々の信仰を集めました。また、鉱山師や鍛冶師にも信仰されたとのことですが、これは、鉱脈の形や鉱山の採掘穴がムカデの姿形に似ているからともいわれます』とあった。この解説、私は非常に腑に落ちた。

「殆どあらゆる稻荷の背後に、社祠の壁の地上一二尺の邊に、直徑約八寸の圓い穴が見出される」「一二尺」は三十一から六十一センチメートル。原文はフィートであるが、有意な差はない。「直徑約八寸」は直径二十四センチメートルであるが、原文はインチであるから、凡そ二〇センチメートルである。しかし、私は親しく稲荷神社の背後を探ったことがなく、このような穴があることも知らなかった。今度、どこかでじっくりと探ってみよう。

「さまざまの靈狐の種類がある」こんなウィキがあったかと感涙に咽んだのが「妖狐」。以下、「善狐」までは、概ねそこから引用する(『 』はそれ(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。なお、「稻荷狐」とハーンが記しているのは、稲荷神として祭祀された狐の謂いであろう。これについては、同ウィキで「狐霊の昇格」の項で挙げている「九尾の狐(きゅうびのきつね)」「仙狐(せんこ)」「天狐(てんこ)」「空狐(くうこ)」が含まれるものと考えてよい。「九尾の狐」は、『妖狐は、初め尻尾が一本しかないが、長い年月(中国では五十~百年ともいわれる)を掛けて妖力を増やし、千年近くになると九本の尻尾を持つ。玉藻前の物語で有名であり、それゆえ九尾の狐を悪狐と呼ぶ場合もあるが、善狐でも尻尾が九本あれば九尾の狐である』とあり、「仙狐」は『善狐のなかで、千年以上生きた狐』であるが、これはもともとは『中国における狐の分類』とする。「天狐」は『千歳を超え強力な神通力を持ち神格化した善狐。尾は四つである。御先稲荷』(稲荷神として祭祀されている狐神のこと)『のトップ。千里眼を持ちさまざまな出来事を見透かす力がある』という(下線やぶちゃん)。「空狐」は『三千歳を超え神通力を自在に操れる大神狐。尾はない。天狐からさらに二千年生き、御先稲荷を引退した善狐が成るとされている』ともある。

「野狐」後掲箇所ではハーンは「のぎつね」と訓じているが、妖狐の分類上は通常、「やこ」と読むし、ここも「やこ」と読んでおくのがよい。『いわゆる野良の狐。中国では仙狐を目指し修行するための試験に合格していない狐を指す場合もある。九州では憑き物の一種とされ野狐持ちの人物と仲の悪い者について害をなすといわれる』「繪本百物語」『にも登場する。玉藻前に化けた白面金毛九尾の狐は、野狐の中でも人に危害を与える妖狐として知られ、悪狐(あっこ)とも呼ばれる』。

「白狐」「びやつこ(びゃっこ)」或いは「はくこ」と読む。『白い毛色を持ち、人々に幸福をもたらすとされる、善狐』(後注参照)『の代表格。安倍晴明の母親とされている葛の葉や、白蔵主』(はくそうず)『などが有名。稲荷神の眷属である御先稲荷も、ほとんどが白狐である』。

「黑狐」「くろこ」「こくこ」。『黒い毛色を持つ。北斗七星の化身と呼ばれている。中国の類書』「三才圖會」『では、北山に住む神獣であり、王者が太平をもたらしたときに姿を現すとされている。古代日本においても、黒狐(玄狐)は、「平和の象徴」として扱われている記述が』「續日本紀」の和銅五(七一二)年の『記事に見られ、朝廷に献上され、祥瑞を説いた書物に「王者の政治が世の中をよく治めて平和な時に現れる」と記されていたと報告し、万民の喜びとなるだろう旨の記述がある』。

「善狐」『善良とされる狐の総称。御先稲荷になる狐でもある。性質のよろしくないものも』実際には含まれる、とある。

「靈狐」不詳。現在の憑依を主訴とする精神病様態を引き起こす目に見えない妖狐を指すか?

「人狐」ハーンは「にんこ」及び「ひときつね」の二様の読みを記し、これが「一番惡」い「惡靈憑依の狐だ」と言っている。これはまさに主に中国地方に特有の妖狐の呼称であり、後の「七」でもハーンは詳述している。その特異性はウィキの「人狐」に詳しいので、そこからまず先行的に(ハーンの「七」の叙述と極めて酷似しており、ハーンの採録が正確を極めていることが判る)引いておくこととする(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『人狐(ひとぎつね、にんこ)は、中国地方に伝わる憑き物』。『テンに似た動物の霊といわれ、これに憑かれた者は腹痛を患ったり、精神に異常を来たすといわれる。地方によっては、池にいる「水鼬(みずいたち)」というものが人狐だという。これは名前は「鼬」でも、実在のイタチよりかなり小さく、大きな池のヤナギの根などで何匹も重なり合って騒いでいるという』。『島根県では、人狐は普通のキツネよりも小さいキツネとされる。人狐は人の体に入って病気にさせ、その者が死ぬと腹や背を食い破って外に出るので、死者の体にはどこかに黒い穴があいているという』。『人狐の憑いている家を人狐持ちといい、この家の者に憎まれた者には使いの人狐が取り憑くといわれる。人狐に憑かれた者はまるで人狐そのものとなり、人狐を通じて人狐持ちの家の者の言葉を色々と喋るようになったり、キツネのように四つんばいで歩き、キツネの食べるようなものを好んで食べるという』。『人狐持ちの家の者が結婚すると、七十五匹の人狐が結婚先の家を襲うため、人狐持ちは冷遇されたり、縁組を避けられる傾向があった。また、人狐持ちの家は人狐が富を運んで来るので豊かになるが、家の者が人狐を虐待すれば、どんなに富んでいる家でもたちまち家運が傾いてしまう。さらに、そうして零落した家の家産を買った者にも、人狐が襲ってくるといわれる。どんな名家でも、人狐を持っていると噂されただけで、孤立した末に悲境に陥る』。『鳥取県ではキツネの憑いた家を「狐ヅル」といい、その家に憑いているキツネを人狐と呼ぶ。この家の周囲には七十五匹の眷属が遊んでおり、正体は雌のイタチだともいう。また宮城県では、管狐のことを人狐ともいう』。

「出雲に十四ケ月滯在の後」ハーンの松江到着は明治二三(一八九〇)年八月三十日であるから、この叙述時制は翌明治二十四年の十一月と考えられる。実はハーンはこの十一月十五日に、寒さに堪えかねて、松江を去って熊本へ向かっている(第五高等学校へ転任)から、まさにこの文章は松江の文物を深く愛したハーンの最後のオードでもあったのかも知れない。

「惡るい」複数箇所ともママ。

「鼬鼠」これで「いたち」と読む。無論、「鼬(いたち)」と同じい。食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela の仲間、特に日本に広く棲息する

日本固有種ニホンイタチ(イタチ) Mustela itatsi

を指すことが多い(本種をシベリアイタチイ Mustela sibirica の亜種とする説もある)。なお、本邦には現在、他に五種八亜種が棲息するが、この内、北海道に棲息するアメリカミンク(ミンク)Mustela vison(北米原産の外来種で毛皮のために飼育されていたものが、一九六〇年代以降に北海道で野生化し、平地でエゾオコジョ・ニホンイタチを圧迫、養魚場等でも食被害がある。私はかつて北海道の飼育場で実見したが、性質は、見た目に反して、すこぶる凶暴なので注意が必要である)は外来種でハーン来訪時にはいなかったので、在来種四種・七亜種と注するのが正確である。以下に概ね(一部の叙述に肯んじ得ない部分があるため)ウィキの「イタチ」を参考にして示す。

   *

〇コイタチ Mustela itatsi sho

 ニホンイタチMustela itatsi の屋久島・種子島での亜種個体群。

〇シベリアイタチ(タイリクイタチ)Mustela sibirica

 九州・四国・本州中部地方以南及び九州周辺のいくつかの島嶼部に分布。

〇チョウセンイタチ Mustela sibirica coreana

 本州西部・四国・九州・対馬に棲息するシベリアイタチの亜種。対馬に自然分布、それ以外は外来種である。ニホンイタチよりも大型で西日本から分布を広げつつあり、ニホンイタチを圧迫している可能性があるとされる.

〇キタイイズナ(コエゾイタチ)Mustela nivalis nivalis

 イイズナ Mustela nivalis の亜種で、北海道・青森県・岩手県・秋田県に分布する。大陸に分布するものと同じ亜種。

〇ニホンイイズナ Mustela nivalis namiyei

 イイズナ Mustela nivalis の亜種であるが、青森県・岩手県・山形県(未確定)に分布する日本固有亜種。前掲のキタイイズナより小型であり、日本最小の食肉類とされる。

〇エゾオコジョ(エゾイタチ)Mustela ermine orientalis

 オコジョ Mustela erminea の亜種。北海道や千島・サハリン・ロシア沿海地域に分布するが、平地ではニホンイタチや外来種のミンクの圧迫によって姿を消した。

〇ホンドオコジョ(ヤマイタチ)Mustela erminea nippon

 オコジョMustela erminea の亜種であるが、本州中部地方以北に分布する日本固有亜種。

   *

「魔法師」原文は“a wizard”であるから、確かにそうではあるけれど、ここは一つ、落合先生、――一種の魔性のもの――ぐらいにしませんか?

「家族がその家屋內に狐を有つてゐる場合、小さな種類、卽ち人狐を有つてゐるのが多い。しかし折々兩種が同じ屋根の下に棲むこともある。」この部分、ちょっと読み難い。平井呈一先生の訳をお借りして私なりに納得出来るように読み下すと、『たいてい人が家の中に飼っているキツネは、ごく小柄な種類の』(目に見えない)『人狐というやつであるが、どうかすると、人狐と』(やはり目には見えぬ幾分かの妖力を持ったところの)『野ギツネとが、ひとつ屋根の下にいっしょに住むこともある。』という謂いであろう。

「野狐が百年間生きると、眞白になつて、稻荷の位に列すると云ふ人もある」前注の通り、妖狐が『長い年月(中国では五十~百年ともいわれる)を掛けて妖力を増やし、千年近くになると九本の尻尾を持つ』とあり、中国では『善狐のなかで、千年以上生きた狐』が「仙狐」となるとし、『千歳を超え強力な神通力を持ち神格化した善狐』たる天狐は御先稲荷の頂点に君臨して、『千里眼を持ちさまざまな出来事を見透かす力』を持つとあり、また『三千歳を超え』ると空狐となって御先稲荷を引退、『神通力を自在に操れる大神狐』となるとあった。] 

 

Sec. 3

   Fox-images in Izumo seem to be more numerous than in other provinces, and they are symbols there, so far as the mass of the peasantry is concerned, of something else besides the worship of the Rice-Deity. Indeed, the old conception of the Deity of Rice-fields has been overshadowed and almost effaced among the lowest classes by a weird cult totally foreign to the spirit of pure Shinto—the Fox-cult. The worship of the retainer has almost replaced the worship of the god. Originally the Fox was sacred to Inari only as the Tortoise is still sacred to Kompira; the Deer to the Great Deity of Kasuga; the Rat to Daikoku; the Tai-fish to Ebisu; the White Serpent to Benten; or the Centipede to Bishamon, God of Battles. But in the course of centuries the Fox usurped divinity. And the stone images of him are not the only outward evidences of his cult. At the rear of almost every Inari temple you will generally find in the wall of the shrine building, one or two feet above the ground, an aperture about eight inches in diameter and perfectly circular. It is often made so as to be closed at will by a sliding plank. This circular orifice is a Fox-hole, and if you find one open, and look within, you will probably see offerings of tofu or other food which foxes are supposed to be fond of. You will also, most likely, find grains of rice scattered on some little projection of woodwork below or near the hole, or placed on the edge of the hole itself; and you may see some peasant clap his hands before the hole, utter some little prayer, and swallow a grain or two of that rice in the belief that it will either cure or prevent sickness. Now the fox for whom such a hole is made is an invisible fox, a phantom fox—the fox respectfully referred to by the peasant as O-Kitsune-San. If he ever suffers himself to become visible, his colour is said to be snowy white.

   According to some, there are various kinds of ghostly foxes. According to others, there are two sorts of foxes only, the Inari-fox (O-Kitsune-San) and the wild fox (kitsune). Some people again class foxes into Superior and Inferior Foxes, and allege the existence of four Superior Sorts—Byakko, Kokko, Jenko, and Reiko—all of which possess supernatural powers. Others again count only three kinds of foxes—the Field-fox, the Man-fox, and the Inari-fox. But many confound the Field- fox or wild fox with the Man-fox, and others identify the Inari-fox with the Man-fox. One cannot possibly unravel the confusion of these beliefs, especially among the peasantry. The beliefs vary, moreover, in different districts. I have only been able, after a residence of fourteen months in Izumo, where the superstition is especially strong, and marked by certain unique features, to make the following very loose summary of them:

   All foxes have supernatural power. There are good and bad foxes. The Inari-fox is good, and the bad foxes are afraid of the Inari-fox. The worst fox is the Ninko or Hito-kitsune (Man-fox): this is especially the fox of demoniacal possession. It is no larger than a weasel, and somewhat similar in shape, except for its tail, which is like the tail of any other fox. It is rarely seen, keeping itself invisible, except to those to whom it attaches itself. It likes to live in the houses of men, and to be nourished by them, and to the homes where it is well cared for it will bring prosperity. It will take care that the rice-fields shall never want for water, nor the cooking-pot for rice. But if offended, it will bring misfortune to the household, and ruin to the crops. The wild fox (Nogitsune) is also bad. It also sometimes takes possession of people; but it is especially a wizard, and prefers to deceive by enchantment. It has the power of assuming any shape and of making itself invisible; but the dog can always see it, so that it is extremely afraid of the dog. Moreover, while assuming another shape, if its shadow fall upon water, the water will only reflect the shadow of a fox. The peasantry kill it; but he who kills a fox incurs the risk of being bewitched by that fox's kindred, or even by the ki, or ghost of the fox. Still if one eat the flesh of a fox, he cannot be enchanted afterwards. The Nogitsune also enters houses. Most families having foxes in their houses have only the small kind, or Ninko; but occasionally both kinds will live together under the same roof. Some people say that if the Nogitsune lives a hundred years it becomes all white, and then takes rank as an Inari-fox.

   There are curious contradictions involved in these beliefs, and other contradictions will be found in the following pages of this sketch. To define the fox-superstition at all is difficult, not only on account of the confusion of ideas on the subject among the believers themselves, but also on account of the variety of elements out of which it has been shapen. Its origin is Chinese [4]; but in Japan it became oddly blended with the worship of a Shinto deity, and again modified and expanded by the Buddhist concepts of thaumaturgy and magic. So far as the common people are concerned, it is perhaps safe to say that they pay devotion to foxes chiefly because they fear them. The peasant still worships what he fears.

 

4
   See Professor Chamberlain's Things Japanese, under the title 'Demoniacal Possession.'

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