生物學講話 丘淺次郎 第十五章 胎兒の發育(3) 三 腦髓
三 腦髓
顏は人間が外見上自身を他の獸類から區別し、萬物の靈として自負する點の一であるが、更に人間が日夜その働を自慢して措かぬ器官は腦髓である。人間が他の獸類を攻め亡ぼしたのも、文明人が野蠻人を征服したのも、主として腦髓の働によることから、これを自慢するのは當然であるが、その代り又腦髓の働に賴り過ぎて、他の獸類が嘗てせぬやうな愚なことをなして居ることも決して少くない。たゞ兩方を差し引き勘定して、なほ個體の維持と種族の維持とに有効であつたから、それで腦髓が尊いのであらう。それは暫く別として、こゝに胎兒の腦髓の發生の模樣を一通り述べることとする。
大抵の動物には、發生の初期に一度は必ず全身が胃囊の如き狀態の時代のあることを前に述べたが、脊椎動物ではそれに次いでまづ現れる器官は腦・脊髓である。人間の胎兒でも、十二三日目のものには已に背面の中央に縱の溝があるが、これは腦・脊髓の出來始まりで、十五日頃になると溝は閉ぢて管となる。そして管の前端に近い部分には、幾つか稍々縊れた處が出來、縊れと縊れとの間は少しく膨れて多少數珠に似た形になる。かやうに膨れた處は大腦・中腦・小腦・延髓などの出來始まりで、最初は一直線に竝んで居るが後には種々に屈曲し、各部の發達の程度にも種々の相違が生じて、終に複雜極まる成人の腦髓までに進むのである。初め極めて簡單な管から、後に複雜極まる腦髓になるまでの變遷を逐一調べると、面白いことが頗る多くあるが、本書では到底これを詳しく記述することは出來ぬから、こゝにはたゞ大腦・中腦・小腦の大きさの割合の次第に變じて行く有樣を述べるに止めて置く。右の中で、大腦は知情意等の所謂精神的の働をする處で、物を記憶するのも理を推すのもこの部の役目であるから、人間にとつては頗る必要な處である。人間が他の獸類に優るのは主としてこの部の發育の進んで居る點にある。小腦は全身各部の運動を調和する處で、この部が傷けば身體の一部一部は動いても、目的に適うた一致調和した全身の運動は出來ぬ。また中腦は一名視神經葉とも名づけるもので、主として視神經と連絡して居る。
[二十日頃の胎兒の腦を示す(側面)]
[やぶちゃん注:これは学術文庫版の図と左右の向きが反対であり、図中にキャプションもあるので、国立国会図書館蔵の原本からトリミングし、補正を加えた。]
[二箇月の胎兒の腦]
[三箇月の胎兒の腦
(側面)]
[やぶちゃん注:これは学術文庫版が底本画像と角度が変わっているため、底本の角度に直した。なお、これは学術文庫版では前図の下に配され、キャプションはただ『(側面)』とあるだけで(このような丸括弧のみのキャプションは今までの底本には使用されていないと思う)、これでは前の二ヶ月前の胎児の脳の側面としか読めない。しかし明らかにそれではおかしい。これは学術文庫版の「三箇月の胎兒の腦」を脱字した誤りかと私には思われる。]
[三箇月の胎兒の腦、脊髓]
[四箇月の胎兒の腦、脊髓]
[やぶちゃん注:これらは学術文庫版の図と比較検討した結果、底本の方が良好と判断、国立国会図書館蔵の原本からトリミングし、補正を加えた。見ての通り、この二図はもともと並んで示されてある。]
[六箇月の胎兒の腦]
[やぶちゃん注:これは学術文庫版の図がスレが入って汚なく、しかも底本とは図の表示角度が異なるので、国立国会図書館蔵の原本からトリミングし、補正を加えた。]
人間の第二十日位の胎兒でも、已に脊髓の前端に腦髓の各部を識別することが出來るが、一番大きいのは中腦で、小腦も大腦もこれより遙かに小さい。即ちこの點に於ては魚類の腦と同じである。假にこのまゝ生長したとすれば、その者の智力は恐らく魚類以上に昇らぬであろう。それより大腦か他の部に比して速に成長し、第第八週の中頃には大腦の左右兩半球は中腦よりも大分大きくなるが、小腦の方はなほ遙に小さい。この頃の腦髓を他の動物に比較すれば、まづ蛙の腦髓位の程度に當る。大腦はその後益々發達して三箇月の終頃には已に腦髓の過半を占めるに至る。しかし後面から見ると、大腦兩半球の下には中腦が稍々大きく見え、その下に小腦が扁く見える。四箇月の胎兒では大腦が更に大きくなつたために中腦は次第にこれに被はれ、僅に大腦と小腦との間に菱形に現れるだけとなり、六箇月の胎兒になると、大腦は腦の大部分をなし、他の部は悉くその下に隱れ、中腦は、大腦と小腦との間の溝を開いて覘かなければ見えぬ。この程度に達すると、腦髓の大體の形狀は已に成人の腦髓の通りであるから、これより後の發育はたゞ大腦の表面にが凹凸が生じ廻轉と溝とが段々殖えさへすれば宜しいのである。五箇月・六箇月頃の胎兒の腦髓は大腦の表面がまだ平滑であるから、鼠・兎などの腦に似て居るが、七箇月位のものは大腦の表面に幾つか明な溝が出來て居るから、大體犬などの腦髓によく似て居る。また八箇月になれば、大腦の廻轉も溝も更に殖えて丁度猩々〔オランウ一夕ン〕の腦髓位になる。
以上述べた通り人間の推理の器官なる大腦は、胎兒の發生に從つて一日一日と大きくなり、或るときは魚の如く、或るときは蛙の如く、また鼠・兎の如く、また犬・猩々〔オランウ一夕ン〕の如く、次第に進んで終に高等複雜なものとなることは明であるが、恐らく人間の種族が幾千萬年かの昔から今日までに進化し來つた間にも、ほゞこれと同樣な徑路を蹈み來たつたのであらう。かく考へると、人間の腦髓なるものも畢竟、人間種族の生存に必要なだけの程度までに進んで居るもので、決して絶對に完全な働をするものとは思はれぬ。自然界で完全と名づけるのは、いつもその種族の生存に間に合ふ程度を指すに過ぎぬから、人間の腦髓などもこれを生存に必要なより外の方面に働かせたならば、どの位まで信賴の出來るものか、頗る怪しいとの感じが起るであらうが、これは世の所謂學説なるものに捕はれず、經驗に徴てこれを判斷取捨し得るためには極めて大切なことである。空理空論は概ね大腦の働きを過信する所から來るもの故、胎兒に於ける腦髓發育の有樣を知ることは、やがて經驗に重きを置いて事物を判斷する常識を發達せしめる助ともなるであろう。
[やぶちゃん注:「人間の腦髓なるものも畢竟、人間種族の生存に必要なだけの程度までに進んで居るもので、決して絶對に完全な働をするものとは思はれぬ。自然界で完全と名づけるのは、いつもその種族の生存に間に合ふ程度を指すに過ぎぬから、人間の腦髓などもこれを生存に必要なより外の方面に働かせたならば、どの位まで信賴の出來るものか、頗る怪しいとの感じが起るであらうが、これは世の所謂學説なるものに捕はれず、經驗に徴てこれを判斷取捨し得るためには極めて大切なことである」丘先生の八十九年も前のこの言葉は、今こそ、日本のみならず世界人類のその愚かなる頭上にこそ雷の如く天啓されていることに我々は気づかねばならぬ。]