橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(10) 昭和十(一九三五)年 二十一句
昭和十(一九三五)年
暖房や地圖に航路の針すゝめ
暖房やふさふさゆるゝ花芭蕉
府下淸溪村に切支丹遺蹟をさぐる三句
稻刈るや邪宗門徒の名を負ひつ
[やぶちゃん注:「淸溪村」「切支丹遺蹟」の「溪」及び「蹟」は底本の用字である。
「淸溪村」旧大阪府三島郡清溪(きよたに)村。現在の茨木市の北西端で佐保川の上流域及び豊能郡豊能町大字高山に相当する、この豊能町東地区南東部の高山地域は「隠れキリシタンの里」としても有名で、地区名から想像がつくと思うが、かのキリシタン大名高山右近の生誕地である。]
日曜(ドミニカ)の祈りはすみぬ稻刈りに
[やぶちゃん注:「日曜(ドミニカ)」ユダヤ教の安息日やキリスト教の「神の日」を表わすラテン語“dies dominica”。]
苦行繩かけあり年木割つて居り
[やぶちゃん注:「苦行繩」主にカトリック教会で用いられた「苦行の鞭」、ディシプリン(discipline)のことであろう。
「年木」は「としぎ」で「歳木」とも書き、新年の燃料として暮れの内に用意した薪のこと。「新年」の季語であるが、「割つて居」るのだから、嘱目は年の内である。]
樺太旅行
[やぶちゃん注:これは十年前の大正一四(一九二五)年の七月末より八月にかけて約二週間、鉄道省主催の「樺太・北海道旅行」に身重の身で夫とともに参加、客船高麗丸で安別・敷香・海豹島等に旅した折り(旅当時の多佳子は二十六歳であった)を、追懐した回想吟である。「海燕」の「國境安別」を参照。]
國境や馬鈴薯の花咲ける町
樺の家われを迎ふる夏爐あり
[やぶちゃん注:「海燕」の「國境安別」に、
樺を焚きわれ等迎ふる夏爐かな
がある。]
ねころべば樺太車前草やはらかし
[やぶちゃん注:「車前草」音数律からここは「しやぜんさう(しゃぜんそう)」ではなく、「おほばこ(おおばこ)」と当て読みしているものと思われる。シソ目オオバコ科オオバコ Plantago asiatica のことである。和名は「大葉子」とも書き、葉が広く大きいことに因み、この「車前草」という漢名は牛車・馬車が通る道の端に多く生えることに由来する。小さな頃よくこれで相撲をしたものだった……]
波すゞし港といへど蕗茂り
フレツプにツンドラ地帶今こそ夏
[やぶちゃん注:「フレツプ」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科スノキ属コケモモ Vaccinium vitis-idaea。フレップとは英語ではなく(コケモモ類の英名は“cowberry”“lingonberry”)、アイヌ語で「赤いもの」を意味する本邦北海道以北でのコケモモの呼称である。ウィキの「コケモモ」によれば『果実は非常に酸味が強いため、通常は砂糖などで甘みを加えて調理し、ジャムやコンポート(砂糖煮)、ジュース、シロップなどとして食用にする。コケモモのコンポートは肉料理の添え物とすることがある』とある。麝香鹿(じゃこしか)爺さんのブログ「昭和ひとケタ樺太生まれ」の「フレップ(コケモモ)の実」に『樺太の代名詞にも使われるほど樺太には沢山自生し秋の野は赤く染まった』、『実は甘酸っぱく、お土産品としてフレップワイン・ジャム・ソーダ・羊羹などがあった』とあり(アイヌ語源記載もこちらを参照した)、また、「私の花物語のページ」の第二回の三土とみ子さんの「フレップ(こけもも)」の頁に、かつてのサハリン(樺太)での追懐とともに印象的にフレップのことが語られてある。]
オソチョン族住あり
こもらへる異人種の香ぞ夏爐もゆ
[やぶちゃん注:「オソチョン族」オロッコ族のこと。樺太(中部以北)のアルタイ諸語のツングース系民族で、現在はウィルタ (UILTA, Orok)と呼ぶ。この「オソチョン」というのは、推測であるがアイヌは彼らのことを古くからオロッコ (Orokko) と呼んでいたこと、同じツングース系の言葉を話すツングース系民族の知られた呼称であるオロチョン族(Orochon/Oroqin:主に北東アジアの興安嶺山脈周辺で中国領内の内モンゴル自治区及びその近隣のロシア領内に居住する民俗)と混同したものかと思われる。少なくともネットでは「オソチョン族」と一致する記載はない。
「住」「すまひ」と訓じておく。]
フレツプにやがて滅びん民族遊ぶ
西湖新々旅舍二句
水草に白樺ひくき門もてり
野茨にわかれし馬車が笛ふけり
[やぶちゃん注:「西湖新々旅舍」湖湖畔を望む現在の「杭州新新飯店」(HANGZHOU THE NEW HOTEL)。洋風建築のホテルで蒋介石・宋美齢・魯迅・芥川龍之介といった著名人ゆかりのホテルで、孤雲草舎(一九一三年に建てられた西楼)・新新旅館(一九二二年に建てられた中楼。現在、省級文物保護建築群に指定されている)・秋水山荘(一九三二年に建てられた東楼)から成る、と中国旅行会社サイトなどにある。私の芥川龍之介「江南游記」の「三 杭州の一夜(上)」の本文及び私の注(写真有り)も是非、参照されたい。多佳子はこの年の五月に豊次郎と上海・杭州の旅に出ている。
以上、『ホトトギス』掲載分。]
しぐれ雲片照りつゝも野にひくゝ
赤(しやく)金に光(て)りつ花野が日をしづむ
曼珠沙華みとりの妻に詩(うた)はなき
[やぶちゃん注:「みとりの妻」不詳乍ら、これは夫を亡くした多佳子の友人である。「海燕」の「葬」も参照のこと。]
曼殊沙華衰へしかば鞭うたれず
夜となれば龍舌蘭も露ををくか
大旱の星雲けぶり渦卷けり
この國の夏天の銀河濃ゆかつし
[やぶちゃん注:「濃ゆかつし」読み(音数津からは「こゆ」であろうが)も意味も不詳。ネットで検索すると他の俳人の句に使用例が見られるが私には意味不明である。識者の御教授を乞う。【2015年10月22日追記】かく書いて公開したところ、翌日、未知の女性からメールを頂戴した。そこで、これは謡曲などにしばしば現われる「かりし」の音便形である「かつし」なのではないか、という御指摘を頂いた。そこで謡曲集をひっくり返して見たところ、「無間の底に堕罪すべかつしを」(「鵜飼」)、「左右なう渡すべきやうも無かつし處に」(「頼政」)、「夫れ賢かつし時代を尋ぬるに」(志賀)、「めでたかつし世繼ぎを詠み納めし詠歌なればととて」(「関寺小町」)といった、「かりし」の促音便化した「かつし」が多用されていることが分かった。「かつし」は通常の古語辞典にも小学館の「日本国語大辞典」にも見出しとして出ないのであるが、これならば、私のような国語学嫌いの素人目でも形容詞「濃(こ)ゆし」のカリ活用の連用形に、過去回想の助動詞「き」の連体形がついた「かりし」が「かつし(かっし)」と促音便化したものと判断出来る。因みに、多佳子のこの「し」は、今更ながらにして銀河の流れの濃い、密なるに気がついたこと! という連体中止法による詠嘆感慨の用法を含ませてあるように感じられる。意味からもこれに間違いないと思われる。大方の御批判を俟つものではある。
以上、『馬醉木』掲載分。多佳子、三十六歳。]
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