橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(6) 昭和六(一九三〇)年 二十八句
昭和六(一九三一)年
かさねたる袂の上の散紅葉
住吉や鰊料理の麻のれん
[やぶちゃん注:特定の料理屋を指していると思われるが、不詳。]
法隆寺村佐伯家
籾干して天平よりの舊家かな
[やぶちゃん注:「法隆寺村佐伯家」法隆寺村(現斑鳩町)出身の佐伯姓となると、法隆寺管主で法相宗及び聖徳宗(開祖)の僧佐伯定胤(さえきじょういん 慶応三(一八六七)年~昭和二七(一九五二)年)が知られる。ウィキの「佐伯定胤」によれば、彼は明治三六(一九〇三)年に三十七歳で法隆寺管主に就任、大正一〇(一九二一)年の聖徳太子没後千三百年を記念して聖徳太子奉賛会を組織、後の昭和九(一九三四)年からは法隆寺の「昭和の大修理」を開始(五十年に亙る大事業の始め)たが、昭和二四(一九四九)年の一月二十六日に金堂から出火して壁画が消失して翌昭和二十五年にはその責任を取って管主を辞任、長老となったが、同年、法相宗を離脱、法隆寺を本山にして新たに聖徳宗を開いた。『明治時代の廃仏毀釈で衰えていた唯識・法相の教えを再興した学僧』で、『法隆寺勧学院で開かれた唯識の講義には宗派を超えて多くの僧侶が聴講しに来た。また、東京大学でも講義している。専門の僧侶向けの講義は難解さを極めたが、宗派を超えて聴聞する者が多かった。一般信徒向けの夏百日の講義は非常に噛み砕いた平易な語り口であったという』。『戒律を保ち、肉食をとらず、生涯独身を貫いた』とある。]
かへりみて淀のかゞやく枯野かな
住吉の松の中なる花の茶屋
業平忌あふちの花はいまだしや
[やぶちゃん注:「業平忌」在原業平(ありわらのなりひら 天長二(八二五)年~元慶四年五月二十八日(ユリウス暦八八〇年七月九日)の忌日。旧暦五月二十八日を忌日とするが、晩年は現在の京都市西京区大原野小塩町(おしおちょう)に現存する天台宗小塩山(おしおざん)十輪寺(じゅうりんじ)に住まったことから、現行では新暦の同日に同寺伝統の三弦で「業平忌」として法要が営まれている。そこでの吟か?
「あふち」楝(おうち)はムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach の別名。]
俎板にながるゝ水や茄で蕨
[やぶちゃん注:「茄で蕨」老婆心乍ら、「ゆでわらび」と訓ずる。]
奈良春日神社蹴鞠奉納祭
蹴鞠の藤にかくるゝこともあり
[やぶちゃん注:「奈良春日神社蹴鞠奉納祭」既注の通り、不詳。調べた限りでは春日大社に現在、蹴鞠祭と称する祭はない。識者の御教授を乞う。]
室生寺二句
石楠木に干草よせてありしかな
[やぶちゃん注:「石楠木」「しゃくなぎ」或いは「しゃくなげ」と読んでいるか。ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜属Hymenanthes無鱗片シャクナゲ節に属する石楠花(しゃくなげ)を指すものと思う。]
干草をかへせばありし花あざみ
夕顏に障子をしめてありしかな
腰かけしひざのあたりに垂るゝ萩
大いなる手をひらいては種をまく
生涯を人形つかふて近松忌
[やぶちゃん注:近松門左衛門(承応二(一六五三)年~享保九年十一月二十二日(グレゴリオ暦一七二五年一月六日)の忌日は陰暦十一月二十二日。別号から巣林子忌(そうりんしき)、巣林忌とも呼ぶ。この多佳子の視線の先にいる文楽の人形師が誰か、知りたい。
以上、『ホトトギス』掲載分。]
雨もりのして座をかへぬ紅葉茶屋
すくはれて紅葉まみれの生洲鯉
[やぶちゃん注:「生洲鯉」「いけすごひ(いけすごい)」と読む。生簀(いけす)で飼うている鯉。]
岩あひに鯉の生洲や散紅葉
柄をたてゝ雨傘につく散り紅葉
稻架の上に橋のみゆるや滝田川
[やぶちゃん注:「稻架」は「はさ」或いは「はざ」と読む。「挟む」の意で、竹や木を組んで作った刈った稲を掛けて乾かす稲掛けのこと。
「滝田川」「たつたがは(たつたがわ)」。前後の句から見てもこれは奈良の竜田川のことである。竜田川の流れる生駒郡斑鳩町の現行の行政地名は「生駒郡斑鳩町瀧田(たつた)」である。]
子規の碑をうつす人あり柿の茶屋
[やぶちゃん注:「柿の茶屋」子規の知られた「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書を持つが、その茶店が聖霊院前の鏡池の側にあったもので、子規の句に因んで「柿茶屋」と呼称された。但し、この茶屋は大正三(一九一四)年秋に取り壊されている(青龍氏のブログ「大和&伊勢志摩散歩」の「法隆寺 子規の句碑(1)」に拠る)。子規の句碑もその同じ跡位置にある。]
籾むしろ築地へかけて干されけり
麥踏みにあひたるのみの飛鳥京
[やぶちゃん注:全くの個人的に趣味から「踏」の字はそのままとした。実は「蹈」という正字は私が好きになれないことと、戦前でも「踏」と表記する作家が多かったことに拠る。]
畦ゆけば遲き梅あり飛鳥京
春水にそうてはなれて岡寺へ
[やぶちゃん注:「岡寺」「おかでら」は奈良県高市(たかいち)郡明日香村にある真言宗豊山派の寺院。東光山真珠院龍蓋寺(りゅうがいじ)というもう一つの寺号を持つ。本尊、如意輪観音。参照したウィキの「岡寺」によれば、天武天皇の皇子で二十七歳で『早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。史料上の初見は』、天平一二(七四〇)年の正倉院文書で、『現在の寺域は明日香村の東にある岡山の中腹に位置するが、寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている』。『現在では真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。江戸時代以降は長谷寺の末寺となった』。前述の如く、本寺は「岡寺」「龍蓋寺」の二つの寺号があるが、『「岡寺」は地名に由来する寺号、「龍蓋寺」は法号である。仁王門前の石柱には「西国七番霊場 岡寺」とあり、通常はもっぱら「岡寺」の呼称が用いられている。宗教法人としての登録名も「岡寺」である』。『「龍蓋寺」の法号は』義淵僧正の伝説のある境内の『龍蓋池に封じた竜の説話に由来する』とある。]
鹿のゐる暖簾のうちの蕨餅
日あたりて來れは柳の芽ぐみをり
庭下駄の紅葉はらひて出されけり
谷ふかく木の實拾ひの手をつなぐ
[やぶちゃん注:俳誌『天の川』掲載分。多佳子、三十二歳。]
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