そうか
そうか……人生は下らねえな――確かに――お前らも――
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そうか……人生は下らねえな――確かに――お前らも――
一一
船は浦郷から中の島にある菱浦へと進んで行つた。そして島々の間を進航するに從つてに景色がいつも層一層と美しくなつた。その水道は百と形を異にした山々の間を非常な深みの靜けさを以て流れて居る大きな河だと思ひ誤らせる程の幅しか無かつた。その長い美しい眺めは到る處、海の霞で靑味を帶びた峰々の壁に遮ぎられて居て、兩側には深い底から眞直ぐに聳え立つて居る赤味がかつた灰色の絶壁があつて、その粗雜な面のどんな小さなごつごつも少しの捩ぢゆがみも無しに、恰も鏡にうつしたやう、かつきりと水に映じて居つた。菱浦に達するまでは水平線は顏出しをしなかつた。しかも其折も、恰も河口から見るやうに、高い二つの海角の間からだけ見えるのであつた。
菱浦は浦郷よりか遙か綺麗である、が、人口は餘程少い、そして漁村といふよりか、寧ろ、農を主とした繁榮な町といふ外貌を有つて居る。山の多い島の内地へと次第になだらかに上つて居て、其處に可なりの面積の耕作地を見せて居る、低い小山が造つて居る入江の緣(ふち)に沿うて曲つて居る町である。家屋は稍々散在してゐて、多くの場合庭園あるが爲めに孤立して居る。そして海に面して居る建物は中々立派な近代的な構造である。浦郷は隱岐中での一番好い宿屋を自慢にして居る。そして新しい社寺が二つある――どちらも個人の寄附に係るもので、一つは禪宗の寺、一つは出雲大社教の社である。前述の宿屋の持主たる金持の寡婦がその寺を建立したのであり、この土地で一番の富裕な商人がその社を寄進したのである。この社はその大きさにしては自分がそれまで見たうちで一番立派なミヤの一つであつた。
[やぶちゃん注:「菱浦」中ノ島の現在の海士町の玄関口である港。焼火山の西の水道を入って北東に折れた手前にある。
「恰も鏡にうつしたやう」現在、菱浦湾は「鏡ヶ浦」と呼ばれるが、これはまさにこのハーンの感嘆に由来する。二〇一一年夏に私は訪れたが、確かに本当に美しい静かな湾であった。そうして私はここで美しい海中の煌く「鏡」にも心打たれた。「隠岐日記2 西ノ島 中ノ島」を読まれたい。
「禪宗の寺、一つは出雲大社教の社」この菱浦にあるという寺社、調べて見ても孰れもどうもどこのどの寺社を指しているのか私には、よく判らない。識者の御教授を乞う。]
Ⅺ.
From Urago we proceeded to Hishi-ura, which
is in Nakanoshima, and the scenery grew always more wonderful as we steamed
between the islands. The channel was just wide enough to create the illusion of
a grand river flowing with the stillness of vast depth between mountains of a
hundred forms. The long lovely vision was everywhere walled in by peaks, bluing
through sea-haze, and on either hand the ruddy grey cliffs, sheering up from
profundity, sharply mirrored their least asperities in the flood with never a
distortion, as in a sheet of steel. Not until we reached Hishi-ura did the
horizon reappear; and even then it was visible only between two lofty
headlands, as if seen through a river's mouth.
Hishi-ura is far prettier than Urago, but it
is much less populous, and has the aspect of a prosperous agricultural town, rather
than of a fishing station. It bends round a bay formed by low hills which slope
back gradually toward the mountainous interior, and which display a
considerable extent of cultivated surface. The buildings are somewhat scattered
and in many cases isolated by gardens; and those facing the water are quite
handsome modern constructions. Urago boasts the best hotel in all Oki; and it
has two new temples,— one a Buddhist temple of the Zen sect, one a Shinto
temple of the Izumo Taisha faith, each the gift of a single person. A rich
widow, the owner of the hotel, built the Buddhist temple; and the wealthiest of
the merchants contributed the other,— one of the handsomest miya for its size
that I ever saw.
一〇
浦郷は大きさは多分充分美保關ほどはあり、美保關同樣、半圓を爲して居る峻しい小山の麓の狹い地面に建てられて居る妙な小さな町である。が、美保關よりももつと原始的でもつと色彩に乏しい。そしてその街路は、といふより寧ろ路次は、船の舷門の幅も無いぐらゐに、家々がなほ一層密接に絶壁と海との間に詰込まれて居る。船が錨を投ずると、自分の注意は突然不思議な光景に惹きつけられた。それは、町の屋根の上高く、墓地になつて段々高まつて居る峻しい丘の横にある墓地に、風に飜つて居る不分明な長い恰好の物が澤山白く見える眺であつた。その墓地には灰色の墓と佛像とが澤山あつて、その墓一つ一つの上に、細い竹竿に結びつけた白紙の妙な旗があつた。遠眼鏡で見るとその旗には、佛教の文言の南無妙法蓮華經、南無阿彌陀佛、南無大慈大悲觀世音菩薩、其他の聖語が書いてあるのが見えた。訊ねて見て、毎年盆前の全る一と月の間、他の種々な裝飾的或は表象的な品物と共に、さういふ旗を墓の上に樹てるのが浦郷の習慣だと知つた。
海には裸體の水泳者が一杯居て、笑ひながら歡迎の語を叫んだ。そして、輕い迅い小舟が澤山、裸體の漁師に漕がれて、乘客と荷物とを求めに矢の如く出て來た。自分は此時初めて隱岐の島の人の體格を觀察する機會を得た。そして、男は老幼とも強壯な容貌をして居るのに感心した。成人は自分には出雲海岸の男子よりか丈が高くもつと力強い型に見え、そして鳶色の背や肩に、櫓を漕いで居る時、非道い勞働をさせに擇まれた人間のうちに在つてすらも、日本では割合に稀なものを――筋肉の素晴らしく立派な發達を――見せた馬のが少からず居つた。
汽船は浦郷には一時間停つて居たから、上陸してそこでの一等の宿屋で食事する時間があつた。頗る淸潔な小綺麗な宿屋で、食事は境の宿屋のよりか無限に優つて居つた。でも詰求した代金はたつた七錢、そしてそこの老亭主は與へた茶代の全部を受取ることを斷り、半分以下を納めて殘部を手柔かに強ひて自分のユカタの袖の中へ返した。
[やぶちゃん注:「浦郷」島前地域の中心地で現在、隠岐支庁島前集合庁舎が置かれている西ノ島の浦郷地区。燒火山の西側を湾奧に突き当たった位置にある。
「全る」「まる」。丸。
「非道い勞働をさせに擇まれた人間」意味は判るが、どうも「ひどいらうどう(ろうどう)させにえらまれたにんげん」は日本語としてはおかしい。「非道くきつい労働をさせるために特に擇ばれた人間」「激しい勞働向けに擇ばれた人間」であろう。]
Ⅹ.
Urago is a queer little town, perhaps quite
as large as Mionoseki, and built, like Mionoseki, on a narrow ledge at the base
of a steep semicircle of hills. But it is much more primitive and colourless
than Mionoseki; and its houses are still more closely cramped between cliffs
and water, so that its streets, or rather alleys, are no wider than gangways.
As we cast anchor, my attention was suddenly riveted by a strange spectacle,— a
white wilderness of long fluttering vague shapes, in a cemetery on the steep
hillside, rising by terraces high above the roofs of the town. The cemetery was
full of grey haka and images of divinities; and over every haka there was a
curious white paper banner fastened to a thin bamboo pole. Through a glass one
could see that these banners were inscribed with Buddhist texts—'Namu-myō-hō-renge-kyō'; 'Namu Amida Butsu'; 'Namu Daiji Dai-hi Kwan-ze-on Bosatu,' — and other holy words. Upon
inquiry I learned that it was an Urago custom to place these banners every year
above the graves during one whole month preceding the Festival of the Dead,
together with various other ornamental or symbolic things.
The water was full of naked swimmers, who
shouted laughing welcomes; and a host of light, swift boats, sculled by naked
fishermen, darted out to look for passengers and freight. It was my first
chance to observe the physique of Oki islanders; and I was much impressed by
the vigorous appearance of both men and boys. The adults seemed to me of a
taller and more powerful type than the men of the Izumo coast; and not a few of
those brown backs and shoulders displayed, in the motion of sculling what is
comparatively rare in Japan, even among men picked for heavy labor,— a
magnificent development of muscles.
As the steamer stopped an hour at Urago, we
had time to dine ashore in the chief hotel. It was a very clean and pretty
hotel, and the fare infinitely superior to that of the hotel at Sakai. Yet the
price charged was only seven sen; and the old landlord refused to accept the
whole of the chadai-gift offered him, retaining less than half, and putting
back the rest, with gentle force, into the sleeve of my yukata.
九
知夫里村から船は、西の島に在る浦郷の港に向つて西進した。近づくに從つて燒火山が壯大な觀を呈して來た。遠く離れて見ては温順しい美しい恰好に見えたのであつたが、その靑の色調が發散すると、その貌(すがた)が凹凸になり物凄くさへなつた。全部薄黑い靑綠に包まれたぎざぎざな大きな山で、その靑綠の中から、ぼろ切の中からのやうに、此處其處に非常に亂暴な恰好をしたむき出しの岩が突き出て居るのである。その絶頂の不規則な線へ落日の光りが射した時、其岩の一つが非常に大きな灰色の頭蓋骨のやうに見えた事を自分は覺えて居る。この山の麓に、中の島の海岸に面して、上は瘠せこけた灌木に蔽はれて居る、高さ數百呎の、金字塔形の岩山が――モンガクザンが――突立つて居る。その荒涼たる山頂に小さな社殿がある。
タクヒザンとは燒く火の山といふ意味で――恐らくはその靈火の傳説か或はその噴火時代の古代の記憶かに基いての名である。モンガクザンといふは文覺――高僧文覺上人――の山といふ意味である。文覺上人は隱岐へ逃れ來て、多年此山の頂でその甚重な罪惡の贖罪苦行を行つて、獨りで住まつて居たといふことである。上人が眞實隱岐へ來られたことがあるかどうか、自分は言ふことが出來ぬ。さうで無いと公言する口碑がある。だが兎に角この小峰は上人の名を數百年有ち來たつて居るのである。
さて文覺上人の身の上は斯うである。
數世紀前、京都の都に、その名を遠藤盛遠といふ衞戌の將があつた。ある貴いサムラヒの夫人を見て戀し、その夫人がその熱望を聽くことを拒むと、自分が申述べる方策に同意しなければ、その一家を滅ぼすと誓言した。方策といふは或る夜、自分を邸内へ忍ばせてその夫を殺させよといふので、それを果してから自分の妻になれといふのであつた。
然し彼女は、同意した振をして、自分の貞操を全うする高潔な計略を案出した。即ち、夫に勸めて都を立去らしめて置いてから、遠藤へ手紙を送つて、或る夜その邸宅へ來るやうにと言ひ送つた。そしてその當夜、彼女は夫の服を身にまとひ、髮を男の髮の如くつかね、夫の臥す處に寢ねて、眠つた風をして居つた。
すると遠藤は深更に拔身を携へてやつて來て、一擊の下にその睡眠者の頭を打切り、そして髮を手に首を摑み上げて見ると、それは自分が戀して無體なことを言ひ掛けたその女の首であつた。
そこで彼は非常な悔恨の念に打たれて、近くの或る寺へ急いで行つて、自分の罪を自白し、悔悟をして髮を切り、出家となつて文覺といふ名を名乘つた。そして後年彼は至德の境に達した。だから今でも彼に祈念する人があり、彼の靈は國内到る處に尊崇されて居る。
今東京の淺草の、觀音樣のあの大きな寺へ行ける小さな妙な通路の一つに、見世物になつて居る驚くべき像を――たゞ木で造つたものではあるが、生きて居るやうに見える人形を――日本の古い傳説を説明して居る人形を――いつでも見ることが出來る。其處へ行くと、右手に血まみれな刀を持ち、左手に美しい女の首を提げて、遠藤が立つて居るのが見られる。その女の顏は、たゞ美しいだけであるから、諸君は直ぐ忘れるかも知れぬ。だが遠藤の顏は、地獄そのものであるから、忘れることはないであらう。
[やぶちゃん注:「數百呎」百フィートは約三〇・四八メートルであるから、百八十メートル前後となる。
「タクヒザンとは燒く火の山といふ意味で――恐らくはその靈火の傳説か或はその噴火時代の古代の記憶かに基いての名である」前の「七」の「燒火山(たくひざん)」の注を参照されたいが、ハーンの謂いも尤もではあるものの、寧ろ、海上交通の安全のために、古より灯台として機能していたことが大きな由来のようにも思われる。
「モンガクザン」観光協会のガイドブックよれば、現在は「文覚窟」と呼ばれており、焼火山の南東の高さ約百五十メートルの絶壁の頂上近くにあり、ここで文覚が修行したという伝承があるとある。
「文覺」(保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年)俗名遠藤盛遠は、頼朝に平家討伐の決起を促した人物として、また、かの名僧明恵の祖師としても知られ(私は明恵の「夢記」の電子化と訳注を別に行っている)、さらに「源平盛衰記」の「卷十九」の「文覺發心」による、ここに書かれた同僚であった渡辺渡の妻袈裟御前に懸想した悲劇(私の電子テクスト芥川龍之介「袈裟と盛遠」などを参照されたい)元でも知られる武士で真言宗僧である。私は彼については多くのテクスト注(「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」(こちらをどうぞ)などの多量の鎌倉地誌テクスト及び「北條九代記」テクストなど)で語ってきており、オリジナルに謂いたいことは山ほどあるが、ここでは引用に留める。まずウィキの「文覚」から(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、十九才で出家した』。『京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。
また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する』。『頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。
通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、さらに元久二年(一二〇五年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した』とあるが、平凡社の「世界大百科事典」(阿部泰郎氏執筆)には(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点に代え、括弧や表記の一部も変更した)、出家後は『諸国の霊山を巡って修行し、その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが、法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得、彼に挙兵をすすめたといわれている。鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く、京都と鎌倉を往復して京都、諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方、その協力を得て神護寺の復興をなしとげた。一一九三年(建久四)には東寺修造料国として播磨国を得てその国務を沙汰し、東寺の修造活動も行った』。正治元(一一九九)年に庇護者であった『頼朝が死去するとともにその地位を失い、新たに朝廷内に台頭した源通親によって、親頼朝派の公家の九条兼実らとともに謀議を計ったかどで捕らえられ佐渡国へ配流された』ものの、建仁三(一二〇三)年には許されて京都に帰ったとも言われている、とあり、先のウィキの事蹟記載とは大きく食い違う。この内、佐渡配流はほぼ確実と思われるが、それを隠岐とする説や、佐渡の次に隠岐にも流されたという説もあり、実は先にハーンが通った隠岐の知夫里島には文覚の墓なるものが実在するのである(個人ブログ「いちご畑よ永遠に」の「隠岐の歴史散策 後鳥羽上皇行在所跡 文覚上人の墓 名水・天川の水」を参照されたい。写真があり、そこには『五輪塔と祠があ』るとある)。ともかくも異伝や怪しげな伝承の多い人物で、「世界大百科事典」では続けて、『文覚についての伝承は、「平家物語」諸本を中心に展開される。「源平盛衰記」に、長谷観音に申し子して生まれたが早く孤児となり、幼児期より「面張牛皮(めんちちょうふてき)」な乱暴者であったという。元服後、北面武者となったが、「平家」の読本系諸本では』、『渡辺渡(刑部左衛門)の妻の袈裟御前を見て恋慕し,強引に奪おうと夫を討つつもりが,袈裟の計らいでかえって彼女を殺してしまう。この女の犠牲ゆえに十八歳で出家した(夫もまた出家して渡阿弥陀仏と称し,異本では重源(ちようげん)であるという)という発心譚をもつ。「平家」諸本は、文覚が熊野那智の荒行で滝に打たれて死んだが不動明王の童子に助けられ、諸国の霊山を修行して「やいばの験者」と呼ばれたといい、やがて、神護寺復興のため、法住寺殿に乱入して後白河法皇の遊宴を邪魔して勧進帳を読み上げ、投獄されたが放言悪口が止まないため、伊豆に流されたという。このいきさつや配流の途中断食して祈願したことなど「文覚四十五箇条起請文」に基づくが、「平家」では護送の役人をだまして笑い者にしたり、船中で嵐に遭うが竜王を叱りつけて無事に到着したことなどが加えられる。伊豆では奈古屋の観音堂に籠り、「長門本」や「延慶本」では湯施行』(僧が寺院等に於いて貧民・病人らを対象として浴室(蒸風呂)を開放したり新設したりして入浴を施すことを言う)『をしたといい、「盛衰記」では相(占い)人の評判を立て、頼朝に対面し、彼が天下の大将軍となる相を見て、父義朝の髑髏(どくろ)を見せて挙兵を勧めたという。「吾妻鏡」には、後年、頼朝が勝長寿院を供養の際、文覚が京より義朝の頭を将来したというが、これが背景にあるか。やがて籠居または入定を装って福原京に上り、平氏追討の院宣を賜って頼朝にもたらしたという。これは「愚管抄」も否定しながら記す。平氏滅亡後は維盛の子六代の助命に奔走するが、これには長谷観音の霊験譚がかかわる。頼朝が没すると直ちに失脚し、佐渡、ついで隠岐に流されるが、「延慶本」はこれを、文覚が「及杖(ぎっちょう)冠者」』(「及杖」は毬杖(ぎっちょう)で、木製の槌(つち)をつけた木製の杖を振るって木製の毬を相手陣に打ち込む遊び。後鳥羽上皇が好んだ。「冠者」は「若造が!」ぐらいの蔑称であろう。「六代被斬」の一節である)『とののしった後鳥羽院との確執によると伝え、死後、明恵の前に亡霊が出現して承久の乱を起こそうと告げたという』と、まさに八面六臂の獅子奮迅の有体である。『物語のなかで文覚は、「天性不当」で「物狂」な人とされ、勧進聖としての姿を強調することに重なる。また頼朝の護持僧として、予言者であり、さらには幸若舞曲のように平家を呪詛する呪術者という面を示す。「愚管抄」に彼のことを『天狗マツル人』という評判があったといい、「吾妻鏡」は江ノ島の洞窟に籠ってまじないを行ったと伝えるなど、王を背後から支える宗教者として造形されている』。『なお、文覚の生没については、高山寺蔵の伝隆信筆の文覚画像に『建仁三年七月二十一日六十五歳没』と見えており、近年、この没年は信頼に足るものと考えられるようになった。これによる』ならば、生年は保延五(一一三九)年、没年は建仁三(一二〇三)年となる、とある(下線やぶちゃん)。
「衞戌」「ゑいじゆ(えいじゅ)」と読み、武士や兵隊が一つの土地に長く駐屯して警備・防衛の任に当たることを指す。
「東京の淺草の、觀音樣のあの大きな寺へ行ける小さな妙な通路の一つに、見世物になつて居る」と、路傍の興行師のそれのように書かれてあるが、ハーンがかくも書いて、読者の中には来日したら、そこでそれを見ることもあろう、といった口調で述べていることから見て、これは現在も台東区浅草二丁目にある「浅草花やしき」のことではないかと私は思うのである。ウィキの「浅草花やしき」によれば、同園は嘉永六(一八五三)年の開園で、『日本最古の遊園地とされ』当初は植物園「花屋敷」であったが、明治に入って、『浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定され』、敷地は縮小されたものの、明治一八(一八八五)年には『木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継』ぎ、『翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した』。『この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった』とあるからである(下線やぶちゃん)。]
Ⅸ.
From Chiburimura we made steam west for the
port of Urago, which is in the island of Nishinoshima. As we approached it
Takuhizan came into imposing view. Far away it had seemed a soft and beautiful
shape; but as its blue tones evaporated its aspect became rough and even grim:
an enormous jagged bulk all robed in sombre verdure, through which, as through
tatters, there protruded here and there naked rock of the wildest shapes. One
fragment, I remember, as it caught the slanting sun upon the irregularities of
its summit, seemed an immense grey skull. At the base of this mountain, and
facing the shore of Nakashima, rises a pyramidal mass of rock, covered with
scraggy undergrowth, and several hundred feet in height,— Mongakuzan. On its
desolate summit stands a little shrine.
'Takuhizan' signifies The Fire-burning
Mountain,— a name due perhaps either to the legend of its ghostly fires, or to
some ancient memory of its volcanic period. 'Mongakuzan' means The Mountain of
Mongaku,— Mongaku Shonin, the great monk. It is said that Mongaku Shonin fled
to Oki, and that he dwelt alone upon the top of that mountain many years, doing
penance for his deadly sin. Whether he really ever visited Oki, I am not able
to say; there are traditions which declare the contrary. But the peaklet has
borne his name for hundreds of years.
Now this is the story of Mongaku Shōnin: —
Many centuries ago, in the city of Kyōto,
there was a captain of the garrison whose name was Endo Moritō. He saw and
loved the wife of a noble samurai; and when she refused to listen to his
desires, he vowed that he would destroy her family unless she consented to the
plan which he submitted to her. The plan was that upon a certain night she
should suffer him to enter her house and to kill her husband; after which she
was to become his wife.
But she, pretending to consent, devised a
noble stratagem to save her honour. For, after having persuaded her husband to
absent himself from the city, she wrote to Endō a letter, bidding him come upon
a certain night to the house. And on that night she clad herself in her
husband's robes, and made her hair like the hair of a man, and laid herself
down in her husband's place, and pretended to sleep.
And Endō came in the dead of the night with
his sword drawn, and smote off the head of the sleeper at a blow, and seized it
by the hair and lifted it up and saw it was the head of the woman he had loved
and wronged.
Then a great remorse came upon him, and
hastening to a neighbouring temple, he confessed his sin, and did penance and
cut off his hair, and became a monk, taking the name of Mongaku. And in after
years he attained to great holiness, so that folk still pray to him, and his
memory is venerated throughout the land.
Now at Asakusa in Tokyō, in one of the
curious little streets which lead to the great temple of Kwannon the Merciful,
there are always wonderful images to be seen,— figures that seem alive, though
made of wood only,— figures illustrating the ancient legends of Japan. And
there you may see Endō standing: in his right hand the reeking sword; in his
left the head of a beautiful woman. The face of the woman you may forget soon,
because it is only beautiful. But the face of Endō you will not forget, because
it is naked hell.
八
第一印象は殆んど薄氣味惡るいほどであつた。兩側とも海水から眞つ直ぐに吃立して、高い緑色の森閑とした小山が、夏の水氣の爲めに色合を變へて、靑色の絶壁と峰と海角との奇妙な通景(みとほし)を爲して、眼前に蜿蜒と伸びて居た。人間が住んで居る形跡は少しも見えなかつた。山はそのむきだしの岩の蒼白い麓からなだらかに高まつて行つて、丈の低い草木が生えて居る小暗い荒地に及んでゐた。聞えるものは、藝者の鼓の微かな音のやうなポムポムポム!ポムポムポム!といふ自分等の蒸汽船の小いさな機關の音だけで、絶對に何の音も無かつた。そしてその殺伐な靜寂が數哩続いた。たゞ材木になる大木が無いといふ事が、峰を有つこの山々はいつか人の足に踏まれたことがあることを證明して居るだけであつた。ところが全く突然に、左の方に、山のとある皺の處に、灰色の小さな村が現はれた。すると汽船は鋭い叫び聲を發して停つた。その折その山々が、その叫びを七たび反響した。
此村は知夫里島の(中島は右舷に見える島なのである)知夫里村といふので、確に漁師の屯所に過ぎぬものであつた。先づ、入江から壁の如く突き出て居る石を積み上げただけの波止場があつた。次に、その隙間から或る神社の前の鳥居が見え、十軒許りの人家が、その後ろに一軒、その後ろに一軒、屋根の先きに屋根と、凹んだ小山を登つて居るのが見える大きな樹木があつた。それから、その樹木の上の方に當つて荒涼たるが中に、段々畠になつた耕作地が少しばかりあつた。たゞそれだけであつた。汽船は郵便物を渡す爲めに停つて、すぐとそれを通り過ぎた。
ところがそれからは、豫期に反して、風景が前よりか美しくなつた。兩側の岸が同時に後すさりもし、また高くもなり、船は高い島三つで取圍まれて居る内海を横斷しつゝあるのであつた。初には我々が進む路は霞が濛々とかかつて居る小山に妨げられて居るやうに見えて居た。が、それが段々近づいて綠色になると、兩側とも小山と小山の間に、突然素晴らしい見事な割目が開けた、――それは、幾十種の、天鵞絨のやうな藍色からして絶妙なそして妖異な淡い色合に至るまでの、種々な度合の靑から成つて居る、峰と絶壁と岬との何ん哩と續いた驚歎すべき通景(みとほし)を見せて居る山の門であつた。蒲い色の靄が遠いもの總てを夢のやうにぼかし、嵯峨たるむき出しの岩をばいろんな色の幻で包んで居つた。
總じて西部及び中部日本の風景の美は、他の邦土の風景の美とは異ふ。それには獨得の特性があるのである。時折外國人は、山道での或る眺望によつて、或は飛沫の霧を透して見た突出した一望の海岸によつて、以前の旅行の記憶が突然喚起せらるゝのを覺えることがあらう。然しこの似て居ると思ふ幻想は來るも迅いが消えるのも迅い。委曲の諸點が直ぐ判然として來て、前に見た事の無いものになる。そしてその懷ひ出は形(かたち)だけが起こしたもので、色が起こしたものでは無いといふことに氣付く。尤も人目を悦ばすいろんな色があるにはあるが、山の綠の色では無い、土地の色では無い、耕作された平地、伸びつゝある稻の廣い地面、これが暖か味のある紅に近い色を提供することはある。が、この自然の全體の一般的色調は薄黑である。廣大な森林はどすぐろい。草の色合は苛(きつ)いか鈍いかである。熱帶地方の風景に燃えて居るやうな火のやうな綠は存在して居らぬ。そして咲き盛る花も、それが燃え出る四邊の草木の重い色調と對照して、それで一段と美妙な光を放つのである。公園と庭園と耕作された野原の他(ほか)には、靑緑の色合が妙に暖か味と軟か味とを缺いて居る。だから英吉利の芝生の美はしさを成す所以の、あんな豐麗な綠は何處にも之を見出すことを希望する要は無い。
でも東洋のこんな山水には、不思議な大氣が造り出す――異常な色の――美妙な、仙郷的な、言ふに言はれぬ幻の色の――妙趣がある。水蒸氣が、――幾百通りの色調を有つた靑と鼠色との蠱惑を峰々に浴びせ、むき出しの絶壁を紫石英に變じ、黃玉色の朝に妖魔の如き紗を展べ擴げ、眞晝の光耀をば地平線を磨り消して誇大し、夕(ゆふべ)をば黃金の煙もて充たし、水面を唐金色ならしめ、日沒をば眞珠母の靈的な紫と綠とで緣(ふち)取して――遠近を惑はしめるのである。さて、あの驚歎すべきヱホンを――今は非常に稀になつて居るあの繪本を――造つた古昔の日本畫工は、その蠱惑の感を色に凝固させようと試みたもので、そして殆んど不思議な程度にまでその背景に成功した。正(まさ)しくその理由の爲めに、その前景に、日本の農業の特色を知つて居ない外國人には謎になつて居るものが少小ある。さういふ古い繪本には、燃え立つ鬱金色の畑があり、微かに紫を帶びた野があり、深紅と雪白との樹木を見るであらう。そして恐らく諸君は『何んて馬鹿な』と叫ぶであらう。が、然し日本を知つて居れば、『氣持がいゝほど眞實だ』と叫ぶであらう。といふのは、その燃ゆる黃色の畠は菜種が咲いて居る畠だと知り、一面の紫はゲンゲの花盛りの野だと知り、雪白や深紅の木は空想のものでは無くて、斯の國の梅の木と櫻の木との特有な或る開花現象を忠實に現はしたのだと知るであらうから。が、こんな色彩誇張は、特別な季節の極く短い時期の間だけ目擊し得らるゝので、一年の大部分を通じて内地の山水の前景は、色の點に於ては、餘程くすんで居ることが多い。
この背景の魔法を行ふのは霞である。でも霞が無くとも、日本の山水には一種奇異な殺伐な暗い美が――言語では容易に判然と這述べ難い美が――ある。その祕密は之を山嶽の異常な線に、山脈の妙に唐突な凹凸と皺波とに求めなければならぬ。互に能く似て居る山は一つも無くて、銘々がそれ獨特な風變りな恰好を有つて居る。山脈が可なりな高さに達して居る時には、柔らかに次第に膨らんで居る線は稀である。一般の特徴は唐突であり、その妙趣は不規則が妙趣である。
疑も無くこの不思議な自然が、不規則が裝飾の上に有つ價値に就いての、その無類な感念を、第一に日本人に鼓吹したのであり――日本人の藝術を他のあらゆる藝術と異ならしめる所の、そして之を西洋に教へるのが日本人の特別な使命であるとチエムバレン教授が言はれて居る所【註】の、構圖のそのたゞ一つの祕密を日本人に教へたのであつた。確に、どんな人でも一たび古昔の日本の裝飾藝術の美と意義とを悟るやうになると、その後はそれに對應する西洋の藝術に殆んど面白味を見出すことが出來なくなる。その人が眞に學び得たことは自然の最大の魅力は不規則に存す、といふことである。そして恐らくは 人生と作品との最大魅力はこれ亦不規則といふことに存しはせぬか、といふ問題について少からざる價値を有つ文が物されることであらう。
註。『日本のことども』の中にある藝術論參照。
[やぶちゃん注:「數哩続いた」一マイルは一・六キロメートル。知夫里島の大波加島東北沖合から中ノ島との間を抜けて、現行の知夫里島のフェリー乗り場(但し、ここで僅かに停泊したのがそこであるかどうかは定かではない)の直近までは凡そ五キロメートルほどはある。
「たゞ材木になる大木が無いといふ事が、峰を有つこの山々はいつか人の足に踏まれたことがあることを證明して居るだけであつた。」原文は“only the absence of lofty
timber gave evidence that those peaked hills had ever been trodden by human
foot.”。ちよっと判り難い訳である。これは、
――見たところ、これだけの山地であるにも拘わらず、大きな材木に利用出来そうな大木が一本も見当たらないというだけの事実から推して、一見、人跡未踏の山のように見えるこの峰一帯にも既に人間が足を踏み入れてそれらを伐採したのだ、ということを証明していた。――
という謂いであろう。
「紫石英」原文“amethyst”。アメジスト。紫水晶。
「黃玉色の」原文“topazine”。トパーズのような色の。
「唐金色ならしめ」老婆心乍ら、「からかねいろ」と読む。原文は“bronzing”で青銅色に染め、の意。
「ヱホン」「繪本」種々の「絵巻」物のことを指していよう。
「『日本のことども』」既注であるが、チェンバレンの“Things Japanese”(以前では「日本風物誌」とも訳されている)のこと。一八九〇年から一九三六年までで六版を重ねた、アルファベット順項目別に書かれた日本文化事典。]
Ⅷ.
The first impression was almost uncanny.
Rising sheer from the flood on either hand, the tall green silent hills
stretched away before us, changing tint through the summer vapour, to form a
fantastic vista of blue cliffs and peaks and promontories. There was not one
sign of human life. Above their pale bases of naked rock the mountains sloped
up beneath a sombre wildness of dwarf vegetation. There was absolutely no
sound, except the sound of the steamer's tiny engine,— poum-poum, poum! poum-poum, poum! like the faint tapping of a
geisha's drum. And this savage silence continued for miles: only the absence of
lofty timber gave evidence that those peaked hills had ever been trodden by
human foot. But all at once, to the left, in a mountain wrinkle, a little grey
hamlet appeared; and the steamer screamed and stopped, while the hills repeated
the scream seven times.
This settlement was Chiburimura, of
Chiburishima (Nakashima being the island to starboard),— evidently nothing more
than a fishing station. First a wharf of uncemented stone rising from the cove
like a wall; then great trees through which one caught sight of a torii before
some Shinto shrine, and of a dozen houses climbing the hollow hill one behind
another, roof beyond roof; and above these some terraced patches of tilled
ground in the midst of desolation: that was all. The packet halted to deliver
mail, and passed on.
But then, contrary to expectation, the
scenery became more beautiful. The shores on either side at once receded and
heightened: we were traversing an inland sea bounded by three lofty islands. At
first the way before us had seemed barred by vapory hills; but as these,
drawing nearer, turned green, there suddenly opened magnificent chasms between
them on both sides,— mountain-gates revealing league-long wondrous vistas of
peaks and cliffs and capes of a hundred blues, ranging away from velvety indigo
into far tones of exquisite and spectral delicacy. A tinted haze made dreamy
all remotenesses, an veiled with illusions of color the rugged nudities of
rock.
The beauty of the scenery of Western and
Central Japan is not as the beauty of scenery in other lands; it has a peculiar
character of its own. Occasionally the foreigner may find memories of former
travel suddenly stirred to life by some view on a mountain road, or some
stretch of beetling coast seen through a fog of spray. But this illusion of
resemblance vanishes as swiftly as it comes; details immediately define into
strangeness, and you become aware that the remembrance was evoked by form only,
never by color. Colors indeed there are which delight the eye, but not colors
of mountain verdure, not colors of the land. Cultivated plains, expanses of
growing rice, may offer some approach to warmth of green; but the whole general
tone of this nature is dusky; the vast forests are sombre; the tints of grasses
are harsh or dull. Fiery greens, such as burn in tropical scenery, do not
exist; and blossom-bursts take a more exquisite radiance by contrast with the
heavy tones of the vegetation out of which they flame. Outside of parks and gardens
and cultivated fields, there is a singular absence of warmth and tenderness in
the tints of verdure; and nowhere need you hope to find any such richness of
green as that which makes the loveliness of an English lawn.
Yet these Oriental landscapes possess charms
of color extraordinary, — phantom-color delicate, elfish, indescribable,— created
by the wonderful atmosphere. Vapors enchant the distances, bathing peaks in
bewitchments of blue and grey of a hundred tones, transforming naked cliffs to
amethyst, stretching spectral gauzes across the topazine morning, magnifying
the splendor of noon by effacing the horizon, filling the evening with smoke of
gold, bronzing the waters, banding the sundown with ghostly purple and green of
nacre. Now, the Old Japanese artists who made those marvelous ehon — those picture-books which have
now become so rare — tried to fix the sensation of these enchantments in color,
and they were successful in their backgrounds to a degree almost miraculous.
For which very reason some of their foregrounds have been a puzzle to
foreigners unacquainted with certain features of Japanese agriculture. You will
see blazing saffron-yellow fields, faint purple plains, crimson and snow-white
trees, in those old picture-books; and perhaps you will exclaim: 'How absurd!'
But if you knew Japan you would cry out: 'How deliciously real!' For you would
know those fields of burning yellow are fields of flowering rape, and the
purple expanses are fields of blossoming miyako, and the snow-white or crimson
trees are not fanciful, but represent faithfully certain phenomena of
efflorescence peculiar to the plum-trees and the cherry-trees of the country.
But these chromatic extravaganzas can be witnessed only during very brief
periods of particular seasons: throughout the greater part of the year the
foreground of an inland landscape is apt to be dull enough in the matter of
color.
It is the mists that make the magic of the
backgrounds; yet even without them there is a strange, wild, dark beauty in
Japanese landscapes, a beauty not easily defined in words. The secret of it
must be sought in the extraordinary lines of the mountains, in the strangely
abrupt crumpling and jagging of the ranges; no two masses closely resembling
each other, every one having a fantasticality of its own. Where the chains
reach to any considerable height, softly swelling lines are rare: the general
characteristic is abruptness, and the charm is the charm of Irregularity.
Doubtless this weird Nature first inspired
the Japanese with their unique sense of the value of irregularity in
decoration—taught them that single secret of composition which distinguishes
their art from all other art, and which Professor Chamberlain has said it is
their special mission to teach to the Occident. [6] Certainly, whoever has once
learned to feel the beauty and significance of the Old Japanese decorative art
can find thereafter little pleasure in the corresponding art of the West. What
he has really learned is that Nature's greatest charm is irregularity. And
perhaps something of no small value might be written upon the question whether
the highest charm of human life and work is not also irregularity.
6
See article on Art in his Things Japanese.
七
船を取卷いて居る光り輝いた空漠は、一時間足らずの間、引續き何の汚點も無かつた。すると自分等の船がそれへ向けて走つて居る地平線からして、灰色の小さなぼんやりしたものが出來て來た。ずんずん長くなつて、雲のやうに思はれた。實際雲だつたのである。が、徐々と、その下に薄皮のやうな靑い色をしたものが、その白雲を背(せ)に貌(かたち)を成して、やがて明確に一つながりの山になつた。段々高くなり靑くなり、小さな鋸の齒のやうになり、その眞ん中に他の山の三倍の高さに聳えて、雲に括られた、色の淡い山が見えた。それは西の島にある、隱岐の聖山燒火山(たくひざん)であつた。
燒火山には傳説がある。自分はそれを友から聽いた。その頂上には權現樣の古い社殿がある。十二月の三十一日の夜、靈火が三つ海から現はれ出て、社殿の處へ罫昇り、社殿の前の石燈籠の中へはいり、燈のやうに燃えて居る、といふことである。その光りは一度に海から現はれるのでは無く別々に現はれて、一つ一つ峰の頂へ上つて行くのである。みんなその光が水から昇るのを見に小舟に乘つて出る。が、心の淸淨な者にだけ見えて、よこしまな考や願を有つて居る者はその靈火を見ようと待つて居ても駄目である。
船が進み行くうち、眼前に、海の表面が、前には眼に見えなかつた妙な舟で――美くしい黄色な素敵に大さな四角な帆を掛けた長い輕い漁船で――突然點々を打つたやうな觀を呈した。あの帆は何んて美しいだらうと友に言はずには居れなかつた。友は笑つて、あれは古疊【註】で出來て居ると言つた。自分は望遠鏡で眺めて見て、如何にも友の言つた通り、古疊の藁編の上掛であることを知つた。にも拘らず、靑い和らかな水の上に隱岐帆船のこの初めての淡黃の點在は面白い眺であつた。
註。日本の住宅の床には、その種々な
部屋と一致して居る區劃に分けられて
居る非常に大きな然し頗る淺い木盆に
譬へることが出來よう。その分界は、
水平よりも幾寸か高くなつて居て、部
屋と部屋とを分つフスマ即ち横辷りす
る目隱しの便の爲め造つてある、溝の
ある磨きのかかつた木造物が爲して居
る。この區劃區劃は、タタミ即ち輕い
藁布團(マトレス)ほどの厚みで、上
を美しく織つた稻藁で蔽つた莚(マツ
ト)をきつちりと其中へ入れて、仕切
りと水面にならせてある。その莚(マ
ツト)の四角な端はきちんと合ふ。そ
してその莚(マツト)はその家の爲め
に造るのでは無くて、その家を莚(マ
ツト)の爲めに造るのだから、どのタ
タミも全く同じ大きさである。だから
部屋部屋の充分に出來上つて居る床は、
大きな軟かいベツトのやうなものであ
る。固よりのこと日本の家では一切靴
を穿くことは出來ぬ。その莚(マツト)
は少しでも汚れると、直ぐと新らしい
のと取換へる。
その帆船は黄色な蝶が通つて行くやうに疾走し去つて、海はまたも空(くう)になつた。稍々左舷に當つて、次第に近づく靑い絶壁の線のうちの一點が次第々々に形(かたち)が出來て來て色を變ヘた。上の方は冴えない綠で、下の方は赤味を帶びた灰色である。それが分明になつて表面に黑い場處のある大きな岩と判つて來たが、陸の他の部分はまだ靑の儘で居た。その黑い場處は近づくに從つて黑さを増して來た、――それは陰影に充ちた大きな山峽であつたのである。するとその先(さき)の靑い絶壁も亦綠になつて、その裾の處は赤味を有つた鼠色になつた。船はその大きな岩の右手へと進んで行つた。見るとその岩は、他と離れて居る、人の住まつて居ない、波嘉島(はかしま)といふ小島であつた。と思ふ次の瞬間に船は早や高い知夫里島と中島との間を、隱岐群島の中へと航進しつゝあるのであつた。
[やぶちゃん注:「地平線」訳者田部氏は確信犯で「水平線」の意味で「地平線」と使っていることが判る。
「燒火山(たくひざん)」「たくひやま」とも。島根県隠岐郡西ノ島町にある標高四百五十一・七メートルの西ノ島の最高峰。山頂に焼火(たくひ/たくび)神社が建つ。以下、ウィキの「焼火神社」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)。『焼火山の八合目辺りに鎮座する旧県社。航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた。本殿・通殿・拝殿からなる社殿は国の重要文化財に指定。重要有形民俗文化財の和船トモドも所有する』。『明治以前は焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号し、焼火社、焚火社、離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」と訓む)とも称されたが、明治初頭の神仏判然令を受けて現社名に改めた』。『大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。なお、大日孁貴尊は天照大神の別称である』。『焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが、後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した。やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって、元禄十六年(一七〇三年)には「焼火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」(『島前村々神名記』)と伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様三座を同殿に祀ると説くようにもなり、明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった』。『「焼火山縁起」によれば、一条天皇の時代(十、十一世紀の交)、海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると薩埵(仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して崇めるようになったと伝えている。また、承久年中(一二一九~二二年)のこととして、隠岐に配流された後鳥羽上皇が漁猟のための御幸を行った際に暴風に襲われ、御製歌を詠んで祈念したところ波風は収まったが、今度は暗夜となって方向を見失ったために更に祈念を凝らすと、海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし、何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇が祠を建てて神として祀るとともに空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来山を「焼火山」、寺を「雲上寺」と称するようになったという』。『上述したように、元来焼火山は北麓に鎮座する大山神社の神体山として容易に登攀を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期(十一~十二世紀頃)には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ、その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島の島前三島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったためにこれを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導も船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという。
また、『栄花物語』では永承六年(一〇五一年)五月五日の殿上の歌合において、源経俊が「下もゆる歎きをだにも知らせばや 焼火神(たくひのかみ)のしるしばかりに」と詠んでおり(巻第三十六「根あはせ」)、谷川士清はこれを当神社のことと解しているが(『和訓栞』)、それが正しければ既に中央においても著名な神社であったことになる』。『後世修験者によって修験道の霊場とされると、地蔵菩薩を本尊とする焼火山雲上寺(真言宗であるが本山を持たない独立の寺院であった)が創建され、宗教活動が本格化していく。その時期は南北朝時代と推測され、本来の祭祀の主体であった大山神社が、周辺一帯に設定されていた美多庄の荘園支配に組み込まれた結果、独自の宗教活動が制限されるようになったためであろうとされる。以後明治に至るまで、雲上寺として地蔵菩薩を祀る一方、「焼火山大権現」を社号とする宮寺一体の形態(神社と寺院が一体の形態)で活動することになり、日本海水運の飛躍的な発展とともに広く信仰を集めることとなる。その画期となったのは天文九年(一五四〇年)の僧良源による造営のための勧進活動であると推測され、現地では永禄六年(一五六三年)九月に隠岐幸清』(おきゆききよ 生没年不詳)天文十三(一五四四)年九月、隠岐氏当主豊清(生没年未詳)が父宗清(むねきよ ?~天文一三(一五四四)年)の遺志によって松江の清安寺に六町六反余を寄進したが、当主の判物とは別に隠岐氏家臣十三名連署の副状が発給されており、幸清はその日下(日付の真下)に署名をしていることから、隠岐氏一門と考えられる。隠岐氏は隠岐守護代京極秀重を始祖とし、宗清は隠岐を治めた三代目領主で、尼子氏の援軍を得て天文十年に隠岐の諸豪族の反乱を鎮圧し滅ぼし、隠岐統一を完成したとされる人物である。ここは蔵屑斎氏のサイト内の『「無名武将列伝」番外編』の「隠岐に生きた人びと―隠岐氏―」に拠った)『から田地二反が寄進されたのを始め、各所から田畠が寄進されており(社蔵文書)、近世に入ると社領十石を有していたことが確認できる。また注目されるのは西廻り航路の活況とそこに就航する北前船の盛行により、日本海岸の港はもとより遠く三陸海岸は牡鹿半島まで神徳が喧伝されたことで、歌川広重(初代・二代)や葛飾北斎により日本各地の名所を描く際の画題ともされており(初代広重『六十余州名所図会』、北斎『北斎漫画』第七編(「諸国名所絵」)など)、こうした信仰上の展開も、上述した港の目印としての山、もしくは夜間航海における標識としての灯明に起因するものと考えられる。なおこの他に、幕府巡見使の差遣に際しては雲上寺への参拝が恒例であり、総勢約二百人、多い時には四百人を超える一行を迎える雲上寺においては、島前の各寺々の僧を集めてその饗応にあたっており、これには焼火信仰の普及と雲上寺の経営手腕が大きく作用していたと考えられている』。『明治の神仏判然令で形態を神社に改め、近代社格制度においては長らく無格社とされたが、大正七年(一九一八年)に県社に列した』。以下の「神事」の項に例祭は七月二十三日とし、『午後八時頃から本殿祭が行われ、その後、社務所を神楽庭(かぐらば。神楽奉納の場)として隠岐島前神楽(島根県指定無形民俗文化財)が舞われる。かつては夜を徹する神楽であったというが、現在は遅くても深夜には終わることになっている』とあり、またという旧暦十二月大晦日に行われる「龍灯祭」神事を挙げ、そこには、『社伝によれば、焼火権現創祀の契機となった海上からの神火の発生が大晦日の夜だったのでそれに因んで行われるといい、現在でも旧暦大晦日の夜には海中に発した神火(龍灯)が飛来して境内の灯籠に入るとも、あるいは拝殿の前に聳える杉の枝に掛かるともいう(この杉は「龍灯杉」と呼ばれる)。以前は「年篭り(としごもり)」と称して、隠岐全島から集まった参拝者が社務所に篭って神火を拝む風習があった。なお、同様の龍灯伝説は日本各地に見られ、その時期も古来祖先祭が行われた七月や大晦日とするものが多いため、柳田國男はこれを祖霊の寄り来る目印として焚かれた篝火に起源を持つ伝説ではないかと推測、これを承けて当神社においては、航海を導く神火の信仰を中核としつつ、そこに在地の祖霊信仰が被さったと見る説もある』とある。また「信仰諸相」の項には、「神火の導き」という条があり、『船が難破しそうになった時に焼火権現に祈念すると、海中より三筋の神火が現れ、その中央の光に向かえば無事に港に着けるという』と記す。更に「日の入りのお灯明行事」には、『北前船の船乗りに伝承された船中儀礼で、航海安全などを祈るために焼火権現へ灯火を捧げる神事。「カシキ」』(これは元服前の少年及びその髪形(髻(もとどり)を結んで後ろへ垂らして肩の辺りで切りそろえたもの)を指す「喝食(かっしき)」であろう)『と呼ばれる十三歳から十五、六歳の最年少の乗組員が担当し、日の入りの時刻になると船尾で炊きたての飯を焼火権現に供え、「オドーミョー(お灯明)、オキノ国タクシ権現様にたむけます」と唱えながら二尺程度の稲または麦の藁束で作った松明を時計回りに三回振り回してから海へ投げ入れ、火がすぐに消えれば雨が近く、煙がしばらく海面を這えば風が出ると占ったといい、しかもこの神事を行う船乗り達は隠岐の島への就航の経験がなく、従って「オキノ国タクシ権現様」がどこのどのような神かも知らなかったという』(リンク先には上に述べられた広重や北斎の北前船によるこの「お灯明行事」の光景を描いた浮世絵が掲げられてある)。本篇に語られるこの三つの神火(じんか)というシンボルや、それに由来するこの「龍灯祭」には、何か隠された深い意味があるようにも思われる。
「あれは古疊で出來て居る」筵帆(むしろほ)・茣蓙帆(ござほ)のことであろう。藁・藺(い)などを編んだ筵をつなぎ合わせた帆で、木綿帆が普及する江戸以前では和船の帆はこれが主に用いられていた。古畳をばらして利用することもあったには違いない。
「水面」水平の意。田部氏の訳語の癖から推測すると、これは誤植ではない感じがするのでママとした。
「水面」水平の意。田部氏の訳語の癖から推測すると、これは誤植ではない感じがするのでママとした。
「そしてその莚(マツト)はその家の爲めに造るのでは無くて、その家を莚(マツト)の爲めに造るのだから、どのタタミも全く同じ大きさである」やや首をひねってしまう謂いであるが、要は、畳のサイズは決まっており、畳を家の各部屋に合わせるのではなく、畳のサイズ(畳数)に合わせてそれらあらゆる家屋内の部屋を造る、という謂いである。但し、としても板の間の部屋はそれに縛られるわけではないし、上流階級の古い伝統的日本家屋にあっては畳敷きの部屋は寧ろ限られていたし、下層民では畳など敷く余裕もないわけであったのだから、ハーンの言いはやはりおかしいように私には思われる。
「波嘉島」直後に知夫里島と中ノ島の間を抜けるとあるから、知夫里島の南東に浮かぶ、現行では大波加島(おおはかじま)と呼ばれる無人島(島根県隠岐郡知夫村内)のことと思われる。]
Ⅶ.
The luminous blankness circling us continued
to remain unflecked for less than an hour. Then out of the horizon toward which
we steamed, a small grey vagueness began to grow. It lengthened fast, and
seemed a cloud. And a cloud it proved; but slowly, beneath it, blue filmy
shapes began to define against the whiteness, and sharpened into a chain of mountains.
They grew taller and bluer,— a little sierra, with one paler shape towering in
the middle to thrice the height of the rest, and filleted with cloud,— Takuhizan,
the sacred mountain of Oki, in the island Nishinoshima.
Takuhizan has legends, which I learned from
my friend. Upon its summit stands an ancient shrine of the deity Gongen-Sama.
And it is said that upon the thirty-first night of the twelfth month three
ghostly fires arise from the sea and ascend to the place of the shrine, and
enter the stone lanterns which stand before it, and there remain, burning like
lamps. These lights do not arise at once, but separately, from the sea, and
rise to the top of the peak one by one. The people go out in boats to see the
lights mount from the water. But only those whose hearts are pure can see them;
those who have evil thoughts or desires look for the holy fires in vain.
Before us, as we steamed on, the sea-surface
appeared to become suddenly speckled with queer craft previously invisible,— light,
long fishing- boats, with immense square sails of a beautiful yellow colour. I
could not help remarking to my comrade how pretty those sails were; he laughed,
and told me they were made of old tatami. [5] I examined them through a
telescope, and found that they were exactly what he had said,— woven straw
coverings of old floor-mats. Nevertheless, that first tender yellow sprinkling
of old sails over the soft blue water was a charming sight.
They fleeted by, like a passing of yellow
butterflies, and the sea was void again. Gradually, a little to port, a point
in the approaching line of blue cliffs shaped itself and changed color,— dull
green above, reddish grey below; it defined into a huge rock, with a dark patch
on its face, but the rest of the land remained blue. The dark patch blackened
as we came nearer,— a great gap full of shadow. Then the blue cliffs beyond
also turned green, and their bases reddish grey. We passed to the right of the
huge rock, which proved to be a detached and uninhabited islet, Hakashima; and
in another moment we were steaming into the archipelago of Oki, between the
lofty islands Chiburishima and Nakashima.
5
The floor of a Japanese dwelling might be compared to an immense but very
shallow wooden tray, divided into compartments corresponding to the various
rooms. These divisions are formed by grooved and polished woodwork, several
inches above the level, and made for the accommodation of the fusuma, or
sliding screens, separating room from room. The compartments are filled up
level with the partitions with tatami, or mats about the thickness of light
mattresses, covered with beautifully woven rice-straw. The squared edges of the
mats fit exactly together, and as the mats are not made for the house, but the
house for the mats, all tatami are exactly the same size. The fully finished
floor of each roam is thus like a great soft bed. No shoes, of course, can be
worn in a Japanese house. As soon as the mats become in the least soiled they
are replaced by new ones.
六
確に大氣には自分が想像して居たよりも餘計に濕氣があつた。眞實能く晴れた日には、大山(だせん)は隱岐からだつて分明に見えるのであるが、船がやつと地藏鼻を通り越すと、いい巨峰は地平線と同じ色の濕氣に包まれだして、二三分すると幽靈が消えるやうに消え失せた。この突然の消失の感銘は、實に異常なものであつた。その峰だけが視界から消えて、それを蔽うたものは地平線並びに空と少しも識別の出來ないものであつたからである。
その間隱岐西郷はその航路中この海岸から一番遠く距つた地點へ達すると、今度は日本海を横ぎつて一直線に疾走し始めた。出雲の綠色の山々はすさり退いて靑くなり、伯耆の妖魔のやうな仄かな海岸は雲の帶の如くに地平線へ溶け始めた。その時自分はこの恐ろしい小蒸汽船の速力に對する自分の驚を白狀せざるを得なかつた。それにまた殆んど何の音も立てずに進行した。それ程にその驚くべき小さな機關の運轉は圓滑であつた。が、深いゆるやかな搖れ方をして、重々しく搖れはじめた。眼には海は油の如く平らであつたが、水の表面の下に感ぜられる眼に見えぬ長いうねりが――太洋の脈搏が――あるのであつた。伯耆は蒸發してしまつた。出雲の山々は灰色に變り、その灰色が見て居るうちにずんずん淡くなつた。それが次第々々に色無しになつて――透明になるやうに思はれた。と思ふうちに無くなつてしまつた。在るものは白い地平線で接合して居る靑い空と靑い海とだけであつた。
自分は恰も陸から數千哩離れてでも居るやうに淋しかつた。ところがその薄氣味わるい時に、閑が出來て西瓜の中に居る自分等に加はつた老年の水夫が頗る物淋しい話を聞かせて呉れた。佛(ほとけ)の海のことを話し、七月の十六日に海に出て居るのは不運なことを話した。大きな汽船すら盆中は航海をしない、どんも船員だつてその時分は船を海へ出すことを敢てしない、と言ふのである。そしてその男は、その話したことを信じて居るに相違無いと自分は思ふほどに、如何にも素朴に眞面目に、次に記す話を物語つた。
『最初のは私がまだ至つて若い時でありました。北海道から乘り出したのでありますが、長い航海でありまして、風が逆ひ風でありました。そして十六日の夜になつたのであります、丁度此處のこの海で仕事をして居た時にであります。
『すると全くだしぬけに、暗闇の中に、私共の船の後ろに――餘つ程近く來るまで氣が付かなかつたのでありますが―――眞つ白い――大きな和船が見えました。空(くう)から出て來たやうに思へましたから、皆んな變だといふ氣がしました。人聲がきこえる程私共の船に近い處に居りまして、その船體は私共の船よりもずつと高く突立つて居りました。大變早く走つて居るやうに思へました。だが、一向前よりも近く寄つて來ません。私共は大聲で呼びかけました。だが何んの返事もありません。それからじつとその船を見て居るうちに、その走り方が本當の船のやうではなかつたものでありますから、私共皆んな恐ろしくなりました。海は恐ろしい荒でありまして、私共の船は急に横へ傾いたり、船先を水へ突込んだりしますのに、その大きな和船はゆるぎもしないのであります。丁度私共が恐ろしいと思ひ出したその時、急にその船は消えてしまつて、一體本當に船が見えて居たのかどうか信じられない程でありました。
『それが最初のであります。が、四年前に私はまだもつと不思議な物を見ました。和船で隱岐の國むけて行きをりましたが、今度は風で遲くなりましたから、十六日の日に海に居つたのであります。朝の事でありました、正午(ひる)少し前でありました。空は黑く、海は非道い荒でありました。處が突然に、汽船が一艘私共の通つた跡を、大變早くやつて來るのが見えました。機關の、カタカタ、カタカタといふ音が聞える程近くへ來ました。が、甲板に人一人見えません。それからその船は、いつも同じ距離に居て私共の船を追つかけ始めまして、こちらでその船の航路を外づれようとしますと、いつも方向を更へて、丁度私共の跡を追ふやうにするのであります。そこで私共はその船が何んだかと怪しみました。が、その船が姿を消すまでは確とは分らなかつたのであります。泡のやうに消えたのであります、少しも音を立でずに。いつ見えなくなつたか確かとは誰にも分りませんでした。誰もその消えるのを見たものはありません。一番不思議な事は、その船が見えなくなつた後(あと)で、私共の船の後(うし)ろで機關が――カタカタ、カタカタ、カタカタと――運轉して居るのがやつぱり聞えて居たことであります。
『私の見たのはそれだけであります。が、私共のやうな船頭で、もつと澤山見た者を私は知つて居ります。時には幾艘も後を追ふことがあります、――一度にではありませんが。一艘が近くへ來ては消え、それから又一艘、それからまた一艘と來るのであります。それが後(あと)へ來る間は恐がるには及びません。が、そんな船が、風に向つて、前に走つて居るのを見ると、それは大變惡るいのであります。船の者はみんな溺れて死ぬることになるのであります』
[やぶちゃん注:本篇は一読、私の偏愛する――ここで言っておくと、私は怪奇談蒐集という偏奇な趣味も持っている。未読の方は私のオリジナルな怪談蒐集録「淵藪志異」を是非お読みあれかし――イギリスの幻想作家ホジスン(William Hope Hodgson 一八七七年~一九一八年)の、後の(彼はハーンより二十七も年下である)洋怪奇談の掌編集を読んだ折りにも感じた、潮臭い慄っとするリアルな感覚が実に濃厚にする。田部氏の老水夫の語り口も自然ですこぶる附きによい。ここだけを独立させて後の「怪談」の中へ忍ばせておきたいくらい、小泉八雲の上質の怪奇談の白眉の一つであると私は思うのである。まずその上手さは、幽霊船だけを見せて人形(ひとがた)を出さぬという妙味であり、それがさらに「人聲がきこえる」(第一話)「機關の、カタカタ、カタカタといふ音が聞える」「その船が見えなくなつた後で、私共の船の後ろで機關が――カタカタ、カタカタ、カタカタと――運轉して居るのがやつぱり聞えて居た」(第二話)というSE(サウンド・エフェクト)の絶妙の効果によって恐怖の増殖が行われるところにある。今日(きょう)、今、タイピングしながらも、私は思わず、体を震わせてしまったほどであった。
「隱岐西郷」老婆心乍ら、原文“the Oki-Saigo”を見ずとも文脈から判る通り、これは「隠岐西郷」という隠岐通いの連絡汽船の船名である。しかし、鍵括弧を附すのが親切というものであろう。
「自分は恰も陸から數千哩離れてでも居るやうに淋しかつた」千マイルは千六百九キロメートルであるから、「數千哩」では、もう太平洋の真ん中にいるような錯覚という恐るべき感じということになる。最初の二段の霊妙な風景変容の夢幻的描出と相俟って、この異常感覚が、いや増しに、次の老水夫の怪談の霊気による冷気を読者に効果的に感じさせる幻覚装置となっているのである。最初の弐つの段落も、訳文だけを見ても――「濕氣」「幽靈が消えるやうに消え失せた」「突然の消失の感銘」「異常」「視界から消えて、それを蔽うたものは地平線並びに空と少しも識別の出來ないもの」「伯耆の妖魔のやうな仄かな海岸」「雲の帶の如くに地平線へ溶け始めた」「この恐ろしい小蒸汽船」「深いゆるやかな搖れ方をして、重々しく搖れはじめ」「海は油の如く平ら」「水の表面の下に感ぜられる眼に見えぬ長いうねり」「太洋の脈搏」「伯耆は蒸發してしまつた」「出雲の山々は灰色に變り、その灰色が見て居るうちにずんずん淡くな」り、「それが次第々々に色無しに」、「透明になるやうに思はれ」「と思ふうちに無くなつてしま」い、「在るものは」ただ「白い地平線で接合して居る靑い空と靑い海とだけであつた」と畳み掛けた上でこの一文が配され、さらにその後にさえダメ押しで「その薄氣味わるい時」とあることに着目されたいのである。
「閑」老婆心乍ら、「ひま」と読む。
「七月の十六日」ここまでの本書の記載から考えても、これは旧暦の、である。
「逆ひ風」老婆心乍ら、「むかひかぜ(むかいかぜ)」と読む。
「四年前」「十六日の日」語りと設定が事実に即しているならば、これは明治二一(一八八六)年の旧盆七月十六日となり、この年は新暦でもしっかり八月十五日に当たる。まさに怪異が起こるに総てが合致した、異界との通路が開口してしまう特別な時間であったのである]
Ⅵ.
Evidently there was much more moisture in
the atmosphere than I had supposed. On really clear days Daisen can be
distinctly seen even from Oki; but we had scarcely passed the Nose of Jizo when
the huge peak began to wrap itself in vapor of the same color as the horizon;
and in a few minutes it vanished, as a spectre might vanish. The effect of this
sudden disappearance was very extraordinary; for only the peak passed from
sight, and that which had veiled it could not be any way distinguished from
horizon and sky.
Meanwhile the Oki-Saigo, having reached the
farthest outlying point of the coast upon her route began to race in straight
line across the Japanese Sea. The green hills of Izumi fled away and turned
blue, and the spectral shores of Hōki began to melt into the horizon, like
bands of cloud. Then was obliged to confess my surprise at the speed of the
horrid little steamer. She moved, too, with scarcely any sound, smooth was the
working of her wonderful little engine. But she began to swing heavily, with
deep, slow swingings. To the eye, the sea looked level as oil; but there were
long invisible swells — ocean-pulses — that made themselves felt beneath the
surface. Hōki evaporated; the Izumo hills turned grey, a their grey steadily
paled as I watched them. They grew more and more colorless,— seemed to become
transparent. And then they were not. Only blue sky and blue sea, welded
together in the white horizon.
It was just as lonesome as if we had been a
thousand leagues from land. And in that weirdness we were told some very
lonesome things by an ancient mariner who found leisure join us among the
water-melons. He talked of the Hotoke-umi and the ill-luck of being at sea on
the sixteenth day of the seventh month. He told us that even the great steamers
never went to sea during the Bon: no crew would venture to take ship out then.
And he related the following stories with such simple earnestness that I think
he must have believed what said: —
'The first time I was very young. From
Hokkaido we had sailed, and the voyage was long, and the winds turned against
us. And the night of the sixteenth day fell, as we were working on over this
very sea.
'And all at once in the darkness we saw
behind us a great junk,— all white,— that we had not noticed till she was quite
close to us. It made us feel queer, because she seemed to have come from
nowhere. She was so near us that we could hear voices; and her hull towered up
high above us. She seemed to be sailing very fast; but she came no closer. We
shouted to her; but we got no answer. And while we were watching her, all of us
became afraid, because she did not move like a real ship. The sea was terrible,
and we were lurching and plunging; but that great junk never rolled. Just at
the same moment that we began to feel afraid she vanished so quickly that we
could scarcely believe we had really seen her at all.
'That was the first time. But four years ago
I saw something still more strange. We were bound for Oki, in a junk, and the
wind again delayed us, so that we were at sea on the sixteenth day. It was in
the morning, a little before midday; the sky was dark and the sea very ugly.
All at once we saw a steamer running in our track, very quickly. She got so
close to us that we could hear her engines,— katakata katakata! — but we saw nobody on deck. Then she began to
follow us, keeping exactly at the same distance, and whenever we tried to get
out of her way she would turn after us and keep exactly in our wake. And then
we suspected what she was. But we were not sure until she vanished. She
vanished like a bubble, without making the least sound. None of us could say
exactly when she disappeared. None of us saw her vanish. The strangest thing
was that after she was gone we could still hear her engines working behind us,—
katakata, katakata, katakata!
'That is all I saw. But I know others,
sailors like myself, who have seen more. Sometimes many ships will follow you,—
though never at the same time. One will come close and vanish, then another,
and then another. As long as they come behind you, you need never be afraid.
But if you see a ship of that sort running before
you, against the wind, that is very bad! It means that all on board will be
drowned.'
五
この美くしい美保關灣は二つの岬の間に開いて居る。一方はミオ(古風な綴に從ふとミホ)岬で、一方は土地の人が頗る不適當にも『地藏鼻』(ヂザウノハナ)と今呼んで居る地藏崎(ヂザウザキ)である。この地藏鼻は激浪の折には此海岸での最も危險な場所で、隱岐から歸る小舟の恐怖の的になつて居る。天氣の好い折にも其處には殆どいつも大うねりがある。でも自分等の船がその峨々たる海角を過ぎた時には水が鏡の如く靜かなのを見て驚いた。その音無しの海がなんだか怪しいやうな氣持がした。その音無しといふ事が熱帶的風景に先立つ浪と風との美くしい欺瞞的な眠を想ひ出させたからである。だが友は斯く言つた。
『幾週間も斯んなで居るだらう。六月と七月の始とはいつも非常に平穩だ。盆前に危險になるやうなことはありさうに無い。だが先週美保關に一寸した疾風(はやて)があつた。土地の者はそれは神樣の御立腹で起こつたのだと言つて居る』
『卵でか?』と自分は尋ねた。
『いゝや、クダンだ』
『クダンて何んだ?』
『クダンのことを今迄聞いたことが無いのかい?件といふのは人間の顏をして牛の身體をしたものだ。たまたま牛が生むもので、それは起こらうとして居る事の前兆だ。ところ が件はいつも本當のことを言ふ。だから日本の手紙や證文には――「件の如くに」即ち、「件が眞實を語るが如くに」といふ――クダンノゴトシ【註】といふ文句を使ふが習はしだ』
註。この妙な意味は和英字書に載つて
居らぬ。字書にはこのイディオムは
たゞ『前述の如く』といふ句で譯して
ある。
『だがどうして美保關の神樣が件に腹を立てられたのだい?』
『剝製の件だつたといふ事だ。自分はそれを見はしなかつたから、どんなに出來て居たか君に話せぬ。大阪から旅の見世物師が境へ來て居たのだ。虎や、色んな珍らしい動物や、その剝製の件を持つて來て居た。そして出雲丸に乘つて美俣關へ來たのだ。その汽船が港へ入ると不意の疾風(はやて)が起きた。すると神社の神官は、何か不淨な物を――死んだ動物の骨や何んかを――此町へ持つて來たから神樣がお腹立ちになつたのだと言つた。そこで見世物師は上陸さへ許されず、乘つて來たその汽船で境へ歸らなければならなかつた。ところがそれが出て行つてしまふと、空は再び晴れて風は吹き止んだ。だから或る人達は神主が言つた事は本當だと思つた』
[やぶちゃん注:ここは「友」の設定がやや破綻してしまっている感じを私は受ける。「一」でハーンは、彼は「前に隱岐へ行つたことがあ」り、「用事あつて數日のうちにまた行かうとして居る一友」で「前の學校の同僚」と言っているのであるが、最後のシーンは少なくとも美保の関でのその直近(事件は先週である)の異様な出来事を直ちに知り得、しかも見物師のその前の状況も知り得る人物だということになる。松江在の中学教師にしては現実的には情報通に過ぎる気がする。これらは恐らく、船員や実際の美保の関の村人(ハーンは隠岐の帰りに寄っており、そこで松江の盟友西田千太郎とも再会している)の話を西田らが仕入れ、ハーンに英訳して説明したものが下敷きであろう。
「土地の人が頗る不適當にも『地藏鼻』(ヂザウノハナ)と今呼んで居る」出雲半島最東端の岬。ここは言代主神の聖地であるにも拘わらず、『「地蔵」の鼻』という地名は相応しくないというハーンの謂いであろう。時に前から不思議だったのだが、平井氏訳(「日本瞥見記(下)」一九七五年恒文社第一版)では何故か『地蔵の歯』(?)となっている。不審。
「クダン」「件」これは妖怪というよりも一種の妖しい奇獣或いは奇形体で、しかも江戸末期頃に特に西日本で発生した噂話(地方域が多いので、敢えて都市伝説(アーバン・レジェンド)とは言わないでおく)で語られる、人面牛身で人語を操り、直近の未来に起こる災厄を予言するという。ある場合はそれを聴く者にその災厄からの回避方法を教えるとし、その直ちに死ぬとも言われる、架空のハイブリッドな奇形動物或いは奇形人間である。これは私の守備範囲で、語り始めると、始末に負えなくなるので、ウィキの「件」の引用でとどめておく(ハーン先生のまさにこの部分が例として挙げられてある)。十九世紀前半頃から、発生が取り沙汰されており、『その姿は、古くは牛の体と人間の顔の怪物であるとするが、第二次世界大戦ごろから人間の体と牛の頭部を持つとする説も現れた』。『幕末頃に最も広まった伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされている。生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされている。また件の絵姿は厄除招福の護符になると言う』。『別の伝承では、必ず当たる予言をするが予言してたちどころに死ぬ、とする話もある。また歴史に残る大凶事の前兆として生まれ』、『数々の予言をし、凶事が終われば死ぬ、とする説もある』。『江戸時代から昭和まで、西日本を中心に日本各地で様々な目撃談がある』。『西日本各地に伝わる多くの伝承では、証文の末尾に記される「件の如し」という慣用句は「件の予言が外れない様に、嘘偽りがないと言う意味である」と説明されることもあるが、実際には件が文献に登場するはるか前より「件の如し」は使われている』。『怪物「件」の記述がみられるようになるのは江戸時代後期であるが、「件の如し」という決まり文句は既に『枕草子』などにも見え、これは民間語源の一種と考えられる』。これについては本篇でもまことしやかに語られているが、はっきり言っておくが、全くの後付けの妄説である。『この怪物の目撃例として最古と思われるものは、』文政一〇(一八二七)年の『越中国・立山でのもの。ただし、この頃は「くだん」ではなく「くだべ」と呼ばれていた。ここで山菜採りを生業としている者が、山中でくだべと名乗る人面の怪物に出会った。くだべは「これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写し絵図を見れば、その者は難を逃れる」と予言した。これが評判になり、各地でくだべの絵を厄除けとして携帯することが流行したと言う。江戸時代後期の随筆『道徳塗説』ではこれを、当時の流行の神社姫に似せて創作されたものと指摘している』。『「くだん」としての最古の例は』天保七(一八三六)年の『日付のある瓦版に報道されたもの。これによれば、』「天保Ⅶ年の十二月丹後国・倉橋山で人面牛身の怪物『件』が現れた」と言う。またこの瓦版には、「宝永二年十二月にも『件が現れ、その後豊作が続いた。この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」ともある。また、ここには「件は正直な獣であるから、証文の末尾にも『件の如し』と書くのだ」ともあり、この説が天保の頃すでに流布していたことを示す』。『因みにこの報道の頃には天保の大飢饉が最大規模化しており「せめて豊作への期待を持ちたい」という意図があってのものと思われる』。『幕末に入ると、件は突如出現するとする説に代わって、人間の飼っている牛が産んだとする説が広まり始める。慶応三(一八六七)年四月の『日付の『件獣之写真』と題した瓦版によると「出雲の田舎で件が生まれ、『今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る。』と予言し』、三日で死んだ」という。『この瓦版には「この瓦版を買って家内に貼り厄除けにして欲しい」として人面牛身の件の絵が描かれており、件の絵画史料として極めて貴重なものである』。明治四二(一九〇九)年六月二十一日の『名古屋新聞の記事によると、十年前に五島列島の農家で、家畜の牛が人の顔を持つ子牛を産み、生後』三十一日目に『「日本はロシアと戦争をする」と予言をして死んだとある。この子牛は剥製にされて長崎市の八尋博物館に陳列されたものの、現在では博物館はすでに閉館しており、剥製の行方も判明していない』。『明治時代から昭和初期にかけては、件の剥製と称するものが見世物小屋などで公開された。小泉八雲も自著『伯耆から隠岐へ』の中で、件の見世物をする旅芸人についての風説を書き残している。それによると』明治二十五(一八九二)年に『見世物をする旅芸人が美保関行きの船に件の剥製を持ち込んだ。しかしその不浄の為に神罰が下り、その船は突風の為に美保関に上陸できなくなったという』(下線やぶちゃん)。『昭和に入ると、件の絵に御利益があるという説は後退し、戦争や災害に関する予言をする面が特に強調された』。昭和五(一九三〇)年頃には『香川県で、森の中にいる件が「間もなく大きな戦争があり、勝利するが疫病が流行る。しかしこの話を聞いて』三日以内に『小豆飯を食べて手首に糸を括ると病気にならない。」と予言したという噂が立った』。昭和八(一九三三)年には『この噂が長野県で流行し、小学生が小豆飯を弁当に入れることから小学校を中心に伝播した。ただし内容は大きく変わっており、予言したのは蛇の頭をした新生児で、諏訪大社の祭神とされた』。『第二次世界大戦中には戦争や空襲などに関する予言をしたという噂が多く流布した』。昭和一八(一九四三)年には『岩国市のある下駄屋に件が生まれ』、「来年四、五月頃には戦争が終わる」と『予言したと言う』。また、昭和二〇(一九四五)年春頃には、『松山市などに「神戸に件が生まれ』、「自分の話を信じて三日以内に小豆飯かおはぎを食べた者は空襲を免れる」と予言した、『という噂が流布していたという』。『第二次世界大戦末期から戦後復興期にかけては、それまでの人面牛身の件に代わって、牛面人身で和服を着た女の噂も流れ始めた』。『以下、これを仮に牛女と呼称する』。『牛女の伝承は、ほぼ西宮市、甲山近辺に集中している。例えば空襲の焼け跡で牛女が動物の死骸を貪っていたとする噂があった。また、芦屋市・西宮市間が空襲で壊滅した時、ある肉牛商の家の焼け跡に牛女がいた、おそらくその家の娘で生まれてから座敷牢に閉じ込められていたのだろうという噂などが残されている』。『小説家小松左京はこれらの噂に取材して小説『くだんのはは』を執筆したため、この牛女も件の一種とする説もある。
が、幕末期の件伝承と比較すると』、『件は牛から生まれるが、牛女は人間から生まれる』、『件は人面牛身、牛女は牛面人身』、『件は人語を話すなど知性が認められるが、牛女にはそれが認め難い』など『といった対立点があり、あくまでも件と牛女は区別すべきと言う主張もある』とある。私は引用文中に出た小松左京の「くだんのはは」は件小説の白眉と信じて疑わない。
「出雲丸」田中邦貴氏のサイト「尖閣諸島問題」の明治一八(一八八五)年十一月四日のクレジットを持つ『沖繩縣五等屬』の石澤兵吾氏なる人物の署名のある 『魚釣島外二島巡視取調概略』に、この年の十月二十二日に『魚釣島久場島及久米赤島實地視察の御内命』により『沖繩縣』が視察を行った内容が記されてある中に、その際、沖繩県が雇い入れたのが『汽船出雲丸』とあり、最後の方には『日本郵船會社
出雲丸船長 林 鶴松』とある(引用部を恣意的に正字化した)。恐らくは、この船と同一のものではないかと思われる。]
Ⅴ.
The beautiful bay of Mionoseki opens between two headlands: Cape Mio (or Miho, according to the archaic spelling) and the Cape of Jizō (Jizō- zaki), now most inappropriately called by the people 'The Nose of Jizo' (Jizō-no-hana). This Nose of Jizō is one of the most dangerous points of the coast in time of surf, and the great terror of small ships returning from Oki. There is nearly always a heavy swell there, even in fair weather. Yet as we passed the ragged promontory I was surprised to see the water still as glass. I felt suspicious of that noiseless sea: its soundlessness recalled the beautiful treacherous sleep of waves and winds which precedes a tropical hurricane. But my friend said:―
'It may remain like this for weeks. In the
sixth month and in the beginning of the seventh, it is usually very quiet; it
is not likely to become dangerous before the Bon. But there was a little squall
last week at Mionoseki; and the people said that it was caused by the anger of
the god.'
'Eggs?'
I queried.
'No: a Kudan.'
'What is a Kudan?'
'Is it possible you never heard of the
Kudan? The Kudan has the face of a man, and the body of a bull. Sometimes it is
born of a cow, and that is a Sign-of-things-going-to-happen. And the Kudan
always tells the truth. Therefore in Japanese letters and documents it is
customary to use the phrase, Kudanno-gotoshi,— "like the Kudan",— or
"on the truth of the Kudan."' [4]
'But why was the God of Mionoseki angry
about the Kudan?'
'People said it was a stuffed Kudan. I did
not see it, so I cannot tell you how it was made. There was some travelling
showmen from Osaka at Sakai. They had a tiger and many curious animals and the
stuffed Kudan; and they took the Izumo Maru for Mionoseki. As the steamer
entered the port a sudden squall came; and the priests of the temple said the
god was angry because things impure — bones and parts of dead animals — had
been brought to the town. And the show people were not even allowed to land:
they had to go back to Sakai on the same steamer. And as soon as they had gone
away, the sky became clear again, and the wind stopped blowing: so that some
people thought what the priests had said was true.'
4
This curious meaning is not given in Japanese-English dictionaries, where the
idiom is translated merely by the phrase 'as aforesaid.'
四
隱岐西郷は正八時に出帆するから直ぐ切符を買ふが宜からうと、翌朝早く知らせを受けた。日本の習慣に從つて宿屋の下男が荷物その他の一切の心配をせんで宜いやう取計つて呉れ、自分等の切符も買つて呉れた。一等賃金八十錢。そして急いで朝食をすますと、宿の小舟が我々を運ぶべく窻の下へやつて來た。
島根縣の汽船では洋服は不便な事を經驗して知つて居るから自分は和服を着、靴を草履に穿き換へた。船頭は大船小船のごちやごちや居る中を早く漕いだ。そしてそれを出離れると、遠く中流に、自分等を待つて居るジヨウキが見えた。ジヨウキといふは汽船を呼ぶ日本語である。この語は不快な解釋を與へることの出來るものとは、その時まだ自分は思つて居なかつたのである。
[やぶちゃん注:やや長いので、注は必要と思われる各段落末に附す。
「島根縣の汽船」この謂いによってハーンは完全に境港を鳥取県だとは思っていないことがよく判る。
「この語は不快な解釋を與へることの出來るものとは、その時まだ自分は思つて居なかつたのである。」原文は“The word had not yet impressed
me as being capable of a sinister interpretation.”。これはこの後の伏線であり、それを田部氏は非常に分かり易く訳しておられる。例えば、平井呈一氏はここを『このことばから、なにか不吉な解釈をひきだせるような印象を受けたことは、わたしはまだいちどもない。』と訳しておられるのであるが、この訳は私には半可通なもので、ここは矢部氏の訳に軍配を挙げたい。]
見ると、もつとづんぐりはして居るが、長さは殆んど港内用の曳船ぐらゐで他の點に於ては宍逍湖通ひの小人島的汽船に餘程似て居たから、僅か百哩の短い旅でも、これでは少小險呑だといふ氣がした。が、その外部の視察はその内部の神祕を探る手掛りを與へては呉れなかつた。着いて、小さな角な穴からその右舷へ登つた。直ぐと自分は、重い天井を有つた、高さ四呎幅七呎の舷門の中で、幅二呎の孔の中を直徑三呎の荷物を押し通して行かうと踠いて呼吸(いき)の根を止めて居る船客に――恐ろしく挾み絞められて動けなくなつてしまつた。進むことも退くことも不可能で、そして自分の後ろでは機關室の格子がこの地獄のやうな廊下へ非常な熱を浴びせつゝあるのであつた。自分は頭の後を天井へ押附けて待つて居なければならもかつたが、不思議にも荷物も乘客も皆、壓し潰されて通ほつて行つた。それから部屋の戸口へ着いて、山なす草履と下駄の上を一等船室へころがりこんだ。磨いた木細工や鏡があつたりして部屋は小綺麗で、ぐるりに幅五吋の壁沿長椅子があり、中央の處は、高さ六尺ぐらゐあつた。そんな高さなら比較的に仕合な譯ではあつたが、天井を横に張り渡してある磨いた眞鍮の棒からして、ありとあらゆる小荷物が大事に吊り下げであつて、しかもその中には啼く螽斯(チヨンギス)の籠が二つもあるのであつた。その上にまた船室は早や既に極度に塞がれて居た。言ふ迄も無く誰も彼も床(ゆか)の上に居り、しかも殆んど誰も彼もが一杯に身體を伸ばして寢そべつてゐた。それにまた暑さがこの世のものとは思へぬ程であつた。ところで、出雲やそんなやうな地方から、大海で商賣をする目的で船に乘つて海へ乘り出す者は、決して立つて居るものでは無く、古風に辛抱強く坐つて居るものと思はれて居るから、沿海或は湖水通ひの汽船は、そんな姿勢だけを可能ならしめる目的を以て建造されて居るのである。自分は、船室の左舷の側に戸が一つ開いて居るのを見たから、身體や手足のこんがらがつて居る上を――その中には藝者の所有に係る美くしい足が二本あつたが、拔き足さし足で行つて見ると、それは別な舷門で、これ亦屋根があつて、のたりくれつて居る鰻が入つて居る籠で屋根まで詰つて居るのであつた。出口は其處には無かつた。そこでかの足總ての上を越え戻つて、今一度右舷の舷門を試めしてみた。そんな短時間のうちにすら、不幸な雛つ子が入つて居る籠で半分も其處ははや塞がれてしまつて居た。が自分は、自分の心を傷ましめる狂亂的なキヤツキヤといふ啼聲にも拘らず、向う見ずに籠の上を突進して、旨く船室の屋根の上へ出る道を見付けた。綱の大きなとぐろ卷のある一隅のほかは其處は全部西瓜が占領して居つた。自分はその綱の内側へ西瓜を入れて、日に照らされながらその上へ腰をかけた。居心地よくは無かつた。だが、いざといふ場合生命の助かる機會があらうと考へ、下に居る人達は神樣だつて屹度救ふことは出來まいと思つた。先刻の押し合へし合の間に自分は伴(つれ)と離れてしまつたのであつたが、その男を見出さうと企てることを恐れた。前の方を見ると二等室の屋根の上に火鉢一つ取卷いて三等客が一杯居た。その多勢の中を通り拔ける事は出來さうに思へぬし、退く事は鰻か雛つ子かを殺すことになつたらう。だから自分はその西瓜の上に腰掛けたのである。
[やぶちゃん注:「小人島的汽船」面食らう訳語であるが、原文は“the Lilliputian steamers”で、寧ろ、現代ではそのまま――リリパット国のみたような蒸気船――の方が通りがよかろう。言わずもがな、“Lilliput”はかのスウィフトの「ガリバー旅行記」に出てくる小人国の名である。
「百哩」約百六十一キロメートル。
「高さ四呎幅七呎の舷門」高さ一・二メートル・幅二・一メートルのガングウェー(原文も“gangway”)。ガングウェーは舷門(げんもん)と訳す海事用語で、船舶の上甲板の舷側にあってデッキ即ち舷梯(げんてい)を掛け、船内を昇降するための出入り口のことである。
「幅二呎」約六十一センチメートル。
「直徑三呎」直径九十一・四四センチメートル。
「五吋」十二・七センチメートル。
「六尺」約一メートル八十二センチメートル。
「螽斯(チヨンギス)」通常は「螽斯」で「きりぎりす」と読み、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis に属するもの及び近縁の属も含めた「キリギリス類」の総称。既出既注。但し、本当に本種であったかどうか、私は若干、疑問に思う。
「雛つ子」鶏のヒヨコ。]
すると船は耳の潰れるやうな叫聲を出して進行し始めた。と直ぐに煙突が自分の身體ヘ戻――所謂一等船室は隨分の船尾にあつたから――煤を雨と降らせ始め、次いでその煤に交じつて小さな燃殼がやつて來て、その燃殼に折々赤熱のものもあつた。だが自分は、かの雛つ子に最後の攻擊を加へずに自分の位置を變ずる方法は無いかと思案しながら、なほ暫くの間西瓜の上で燒けながら坐つて居つた。到頭自分はその噴火山の風陰に移る必死の努力を試みた。そしてその時初めてこのジヨウキの特性は分つて來た。自分がその上に坐らうとする物はひつくりかへり、自分がそれで身體を支へようとする物は直ぐに、いつも船外の方向へ、外づれた。外見では鎹止になつて居るか或は堅固に締め括つてある物が、用心して檢べて見ると、危險なほど動き易いものであり、西洋の思想に據ると動くべき筈のものが永久不易の小山の根のやうに固着して居つた。どんな方向にでも誰かを不幸ならしめるやうに綱か支索かをどうにかして張り得たなら、此船のものが正(まさ)それであつた。そんな難儀な目に會つて居る最中に、この恐ろしい小舟は搖れ始めて、西瓜があつちこつち非道くぶつつかり始めたので、自分はこのジヨウキは惡魔が設計しまた建造したものだといふ結論に到達した。
[やぶちゃん注:「鎹止」「かすがひどめ(かすがいどめ)」。二つの対象を繫ぎ止めるためにかすがい(「コ」の字型の釘)で固定されてあること。]
その事を自分は友に語つた。友は思ひがけ無くも自分と又一緒になつた計りでは無く、燃殼や煤を防ぐやうに、船のボオイを連れて來て自分等二人と西瓜との上へ日蔽を張らせたのであつた。
彼は叱るやうに答へた。『そんなことは無い!この船は兵庫で設計して建造したもので、實際もつと惡く出來上つたのかも知れぬ、若し……………』
[やぶちゃん注:この辺りの議論相手の「彼」はセツではない。後日、隠岐からの帰りに美保の関で再会した盟友西田千太郎との会話などを参考にしたものか。]
自分はそれを遮つて『濟まぬが、君の意見には全然同意出來ぬ』と言つた。
彼は自説を曲げずに『いや、自分で判るよ。船體は立派な鋼鐡だし、その小さな機關は驚くべきものだ。五時間で何ん百哩走れる。そりや大して居心地は好くない。が、非常に早くて堅牢だ』と言つた。
[やぶちゃん注:「何ん百哩」百マイルは約百六十一キロメートルだから、千キロメートル前後になるが、ここは原文を見ると「何ん」は筆が滑ったものであることが判る。ネット上の情報では当時の蒸気船の速度は江戸幕府の開陽丸の速度は十ノットで時速十八・五キロメートル、薩摩藩の春日丸は十六ノットで時速二十九・六キロメートルであったとあるから、かっちり「百哩」ならば、謂いとしては全く誇張ではないことが判る。]
『空が荒れりや、僕はむしろ和船の方が宜い』と自分は抗辯した。
『だが和船は空が荒れゝば海へ出はしない。空が荒れさうな樣子が見えただけでも、和船は港に碇泊して居る。時々全る一と月も待つ。どんな冒險も決してせぬ』
自分はそれを確信する事は出來なかつた。だが、出雲の海岸に沿うて、長い海門から日本海へ突進するにつれて、眼前に段々廣く展開し來る素晴らしい眺望と、無類の好天氣とが嬉しくて、一切の不快を――西瓜の上に坐つて居る不快すらも――自分は直ぐと忘れた。頭上の靑い和やかな大空には一點の雲も無く、一切を映す大海の金屬の如き平らかさには少しのゆらめきも無かつた。船が搖れるのなら、それは疑も無く荷物を積み過ぎたからであつた。左舷には――間を置いて途絶えては不思議な小さな入江をつくり、其處には漁村が隱れて居る、くすんだ綠色の、起伏高低して長く續いて居る――出雲の山々が後(あと)へ後(あと)へと飛んで行く。右舷數哩離れて、伯耆の海岸が何も無い白い地平線へと遠のいて、砂濱の閃が呈する絲筋に緣取られた暖かい靑い線となつて、次第に微かに消えて行く。そしてその向うに、中心に、影のやうな偉大な金字塔が――大山の靈峰が――朦乎として中天へそゝり立つて居る。
[やぶちゃん注:「數哩」一マイルは約一・六キロメートルであるから、例えば六マイルで約九・七キロメートルである。美保の関(次段参照)から大山方向の美保湾対岸の伯耆の海岸までは十四キロメートルあるので的を射た謂いである。]
友はとある頂に見える一群の松に自分の注意を惹くべく腕へ手を觸れて、笑つて日本の歌を一つ歌つた。船がどんなに速く進航して居たか、此時始めて判つた。それは事代主神の社殿の上の、風つぽい山に立つて居る、美保關の有名な四本松が認められたからである。元は五本あつた。一本は風の爲に根こぎにされたので、出雲の或る歌よみが、後に殘つた四本に對して今自分の友が歌つた文句を詠んだのである。
[やぶちゃん注:ここの部分だけは「友」はセツらしい感じがする、いいシークエンスである。セツの唄声が聴こえる。それに優しく清々しい顏で耳を傾けるハーンの姿とともに……
「」「第十章 美保の關にて(一)」以下((二)以降はカテゴリー「小泉八雲」を)も参照されたい。
「美保關の有名な四本松」出雲地方の民謡「関の五本松」で知られる。これは美保関の港口の山にある五本松が松江の領主の行列の槍がつかえたという理由で一本切られたことを惜しんだ歌という。私には「島根県民謡「関の五本松」のおじさんの唄がよい。]
セキノゴホンマツ
イツポンキリヤシホン
アトハキラレヌ
メウトマツ
意味は『關の五本松のうち一本は伐られて四本殘つて居る。これはもう一本も伐つてはならぬ――夫歸の松であるから』である。それで美保關では、四本松の繪が描いてあつて其繪の上に蜘蛛程の小さな金文字で『セキノゴホンマツ』の歌が書いてある美しい盃や德利を賣つて居る。それは記念の品でご他にも其處の綺麗な店で買へる珍らしい綺麗な土産の品物がある。美保關神社の繪のついた瀨戸物や、事代主神が大きな鯛をそれが入りさうにない小さな籠へ入れようとして居る處を現はした煙草袋用の金屬の留金(とめがね)や、この神の笑顏を示した光澤のある燒物で出來て居る滑稽な面(めん)などである。それはこの惠比須即ち事代主神は正直な勞働の、殊に漁師の、守り神で、『幸福な者が笑ふといつもその神樣は喜ばれる』と人の言ふその父神たる杵築の大神ほどには笑を好かれはせぬが、でも上機嫌な神樣だからである。
船が岬を――古事記の美穗を――過ぎると、美保關の港が我等の前に開けて、港内中央の島にある辨天神社が見え、その脚部を水に浸して居る半月形に建ち並んだ古風な家並が見え、遠くまで名のきこえて居るあの神社の大鳥居と御影石の唐獅子が見えた。すると直ぐに多勢の乘客が立上つて、顏を鳥居へ向けて神道祈念の柏手を始めた。
[やぶちゃん注:「古事記の美穗」の「美穗」はママ。事代主神の后は三穂津姫(みほつひめ)と書くから問題ない。
「辨天神社」美保の関の弁天波止場の、常夜灯が設けられている弁天島の弁天社のことであろう。]
自分は友に斯う言つた。
『舷門に雛つ子が一杯入つて居る籠が五十もある。だのにあの人達は船に災難が出來しませぬやうにと事代主神に祈願して居る』
[やぶちゃん注:既に述べた通り、事代主神は鶏を嫌い、同地では現在も氏子の人々は鶏肉や鶏卵を食さない。「第十章 美保の關にて(二) 附 折口信夫「鷄鳴と神樂と」(附注)」を参照のこと。]
友の答へるには、『では無くて自分の幸福を祈つて居るのだらう、尤も「金持になりますやうにと人が御祈をすると神樣達はたゞ笑つておいでだ」といふ話なんだが。然し美保關の大神に就いては面白い話がある。或る時非常に横着な男が美保關へ參つて金持になりますやうにと御祈をした。するとその夜その男は夢に神樣を見た。神樣は笑つて自分の御草履の片方を脱いで、それを能く檢(み)て見よと仰せになつた。そこでその男は見て見ると、その草履は重い眞鍮で出來て居たが、踵に大きな穴が開(あ)いて居た。處で神樣の仰しやるには、「お前は働かずに金を得たいと思つて居る。わしは神ぢやが、決してなまけはせぬ。見よ、わしの草履は眞鍮で出來て居る。それで、非常に働いて隨分と歩いたから、まるで摩り切れて居る」』
Ⅳ.
Early in the morning we were notified that
the Oki-Saigo would start at precisely eight o'clock, and that we had better
secure our tickets at once. The hotel-servant, according to Japanese custom,
relieved us of all anxiety about baggage, etc., and bought our tickets:
first-class fare, eighty sen. And after a hasty breakfast the hotel boat came
under the window to take us away.
Warned by experience of the discomforts of
European dress on Shimane steamers, I adopted Japanese costume and exchanged my
shoes for sandals. Our boatmen sculled swiftly through the confusion of
shipping and junkery; and as we cleared it I saw, far out in midstream, the
joki waiting for us. Joki is a Japanese name for steam-vessel. The word had not
yet impressed me as being capable of a sinister interpretation.
She seemed nearly as long as a harbor tug,
though much more squabby; and she otherwise so much resembled the Lilliputian
steamers of Lake Shinji, that I felt somewhat afraid of her, even for a trip of
one hundred miles. But exterior inspection afforded no clue to the mystery of
her inside. We reached her and climbed into her starboard through a small
square hole. At once I found myself cramped in a heavily-roofed gangway, four
feet high and two feet wide, and in the thick of a frightful squeeze,— passengers
stifling in the effort to pull baggage three feet in diameter through the
two-foot orifice. It was impossible to advance or retreat; and behind me the
engine-room gratings were pouring wonderful heat into this infernal corridor. I
had to wait with the back of my head pressed against the roof until, in some
unimaginable way, all baggage and passengers had squashed and squeezed through.
Then, reaching a doorway, I fell over a heap of sandals and geta, into the
first-class cabin. It was pretty, with its polished woodwork and mirrors; it
was surrounded by divans five inches wide; and in the centre it was nearly six
feet high. Such altitude would have been a cause for comparative happiness, but
that from various polished bars of brass extended across the ceiling all kinds
of small baggage, including two cages of singing-crickets (chon-gisu), had been carefully suspended. Furthermore the cabin was
already extremely occupied: everybody, of course, on the floor, and nearly
everybody lying at extreme length; and the heat struck me as being
supernatural. Now they that go down to the sea in ships, out of Izumo and such
places, for the purpose of doing business in great waters, are never supposed
to stand up, but to squat in the ancient patient manner; and coast, or lake
steamers are constructed with a view to render this attitude only possible.
Observing an open door in the port side of the cabin, I picked my way over a
tangle of bodies and limbs,— among them a pair of fairy legs belonging to a dancing-girl,—
and found myself presently in another gangway, also roofed, and choked up to
the roof with baskets of squirming eels. Exit there was none: so I climbed back
over all the legs and tried the starboard gangway a second time. Even during
that short interval, it had been half filled with baskets of unhappy chickens.
But I made a reckless dash over them, in spite of frantic cacklings which hurt
my soul, and succeeded in finding a way to the cabin-roof. It was entirely
occupied by water-melons, except one corner, where there was a big coil of
rope. I put melons inside of the rope, and sat upon them in the sun. It was not
comfortable; but I thought that there I might have some chance for my life in
case of a catastrophe, and I was sure that even the gods could give no help to
those below. During the squeeze I had got separated from my companion, but I
was afraid to make any attempt to find him. Forward I saw the roof of the
second cabin crowded with third- class passengers squatting round a hibachi. To
pass through them did not seem possible, and to retire would have involved the
murder of either eels or chickens. Wherefore I sat upon the melons.
And the boat started, with a stunning
scream. In another moment her funnel began to rain soot upon me,— for the
so-called first-class cabin was well astern,— and then came small cinders mixed
with the soot, and the cinders were occasionally red-hot. But I sat burning
upon the water- melons for some time longer, trying to imagine a way of
changing my position without committing another assault upon the chickens. Finally,
I made a desperate endeavor to get to leeward of the volcano, and it was then
for the first time that I began to learn the peculiarities of the joki. What I
tried to sit on turned upside down, and what I tried to hold by instantly gave
way, and always in the direction of overboard. Things clamped or rigidly braced
to outward seeming proved, upon cautious examination, to be dangerously mobile;
and things that, according to Occidental ideas, ought to have been movable,
were fixed like the roots of the perpetual hills. In whatever direction a rope
or stay could possibly have been stretched so as to make somebody unhappy, it
was there. In the midst of these trials the frightful little craft began to swing,
and the water-melons began to rush heavily to and fro, and I came to the
conclusion that this joki had been planned and constructed by demons.
Which I stated to my friend. He had not only
rejoined me quite unexpectedly, but had brought along with him one of the
ship's boys to spread an awning above ourselves and the watermelons, so as to
exclude cinders and sun.
'Oh, no!' he answered reproachfully 'She was
designed and built at Hyōgo, and really she might have been made much worse. .
. . '
'I
beg your pardon,' I interrupted; 'I don't agree with you at all.'
'Well, you will see for yourself,' he
persisted. 'Her hull is good steel, and her little engine is wonderful; she can
make her hundred miles in five hours. She is not very comfortable, but she is
very swift and strong.'
'I would rather be in a sampan,' I
protested, 'if there were rough weather.'
'But she never goes to sea in rough weather.
If it only looks as if there might possibly be some rough weather, she stays in
port. Sometimes she waits a whole month. She never runs any risks.'
I could not feel sure of it. But I soon
forgot all discomforts, even the discomfort of sitting upon water-melons, in
the delight of the divine day and the magnificent view that opened wider and
wider before us, as we rushed from the long frith into the Sea of Japan,
following the Izumo coast. There was no fleck in the soft blue vastness above,
not one flutter on the metallic smoothness of the all-reflecting sea; if our
little steamer rocked, it was doubtless because she had been overloaded. To
port, the Izumo hills were flying by, a long, wild procession of' broken
shapes, sombre green, separating at intervals to form mysterious little bays,
with fishing hamlets hiding in them. Leagues away to starboard, the Hōki shore
receded into the naked white horizon, an ever- diminishing streak of warm blue
edged with a thread-line of white, the gleam of a sand beach; and beyond it, in
the centre, a vast shadowy pyramid loomed up into heaven,— the ghostly peak of
Daisen.
My companion touched my arm to call my
attention to a group of pine- trees on the summit of a peak to port, and
laughed and sang a Japanese song. How swiftly we had been travelling I then for
the first time understood, for I recognized the four famous pines of Mionoseki,
on the windy heights above the shrine of Koto-shiro-nushi-no-Kami. There used
to be five trees: one was uprooted by a storm, and some Izumo poet wrote about
the remaining four the words which my friend had sung: —
Seki no gohon matsu
Ippun kirya,
shihon;
Ato wa kirarenu
Miyoto matsu.
Which
means: 'Of the five pines of Seki one has been cut, and four remain; and of
these no one must now be cut,— they are wedded pairs.' And in Mionoseki there
are sold beautiful little sake cups and sake bottles, upon which are pictures
of the four pines, and above the pictures, in spidery text of gold, the verses,
'Seki no gohon matsu.' These are for
keepsakes, and there are many other curious and pretty souvenirs to buy in
those pretty shops; porcelains bearing the picture of the Mionoseki temple, and
metal clasps for tobacco pouches representing Koto-shiro- nushi-no-Kami trying
to put a big tai-fish into a basket too small for it, and funny masks of glazed
earthenware representing the laughing face of the god. For a jovial god is this
Ebisu, or Koto-shiro-nushi-no-Kami, patron of honest labor and especially of
fishers, though less of a laughter-lover than his father, the Great Deity of
Kitzuki, about whom 'tis said: 'Whenever the happy laugh, the God rejoices.'
We passed the Cape—the Miho of the Kojiki,— and the harbour of Mionoseki opened before us,
showing its islanded shrine of Benten in the midst, and the crescent of quaint
houses with their feet in the water, and the great torii and granite lions of
the far-famed temple. Immediately a number of passengers rose to their feet,
and, turning their faces toward the torii began to clap their hands in Shinto
prayer.
I said to my friend: —
'There are fifty baskets full of chickens in
the gangway; and yet these people are praying to Koto-shiro-nushi-no-Kami that
nothing horrible may happen to this boat.'
'More likely,' he answered, 'they are
praying for good-fortune; though there is a saying: "The gods only laugh
when men pray to them for wealth." But of the Great Deity of Mionoseki
there is a good story told. Once there was a very lazy man who went to Mionoseki
and prayed to become rich. And the same night he saw the god in a dream; and
the god laughed, and took off one of his own divine sandals, and told him to
examine it. And the man saw that it was made of solid brass, but had a big hole
worn through the sole of it. Then said the god: "You want to have money
without working for it. I am a god; but I am never lazy. See! my sandals are of
brass: yet I have worked and walked so much that they are quite worn
out."'
本日 2015年11月29日
貞享4年10月25日
はグレゴリオ暦で
1687年11月29日
この日、松尾芭蕉は所謂、「笈の小文」の旅に発った――
以下、「笈の小文」の冒頭を電子化注する。底本は正字表記とするために、昭和三(一九二八)年日本古典全集刊行会刊正宗敦夫編纂・校訂「芭蕉全集 前篇」を国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で視認した。当該底本では表題を『「卯辰紀行」(別名、芳野紀行)』とするが、私の好きな「笈の小文」で統一する。句の前後は一行空けを施し字配の一部を操作した。
本紀行「笈の小文」は貞享四年十月十五日(グレゴリオ暦一六八七年十一月二十九日)に江戸を出発して鳴海・勢田を経て、名古屋の蕉門の有力者で芭蕉が愛した門弟の一人で、坪井杜国を侘び住まいの知多の保美(ほび)村に訪ね(米穀商であったが、当時、空米(からまい)売買(米の先物取引)で罰せられてここに流謫されていた)、その後、郷里伊賀上野で越年、伊勢に詣でて、保美で約しておいたと思われる杜国とおち逢い(流謫の処罰は緩やかであった)、同道の上、吉野にて花を見、後、高野山・和歌浦・奈良・大坂・須磨・明石を経巡って、翌貞享五年(九月三十日に元禄に改元)の四月二十三日に京に着くまでの旅を指す。この内、
杜国訪問のシークエンスは
貞享4年11月10日から14日
で、これはグレゴリオ暦では
一六八七年12月14日から18日
に相当し、これは既に二〇一三年の十二月十二日附のブログ記事「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」(読まれんとされる方は分量膨大なれば御覚悟あれ)で電子化注を施している。
但し、よく理解されているとは思われないので附言しておくと、本紀行は芭蕉が直接纏めた紀行文ではない。元禄七(一六九四)年十月十二日の芭蕉の死後、十五年も経った宝永六(一七〇九)年に、大津の門人河井乙州(おとくに)が芭蕉から託されたと思われる多数の草稿断片類を恣意的に組み上げて編んで刊行したものである。なお、本紀行は「笈の小文」「卯辰(うたつ:底本標題では『バウシン』とルビする)紀行」「芳野紀行」以外にも「庚午(こうご)紀行」「大和紀行」など多く、しかも実は人口に膾炙している「笈の小文」は芭蕉が生前、別の撰集に予定していた名称でもあった。
「標題」の記載から判断するに、底本が準拠したのは芭蕉の最初の全集である文政一〇(一八二七)年)刊の古学庵仏兮・幻窓湖中編「俳諧一葉集」と判断されるが、一読されると分かる通り、現在、一般に通行している宝永版本の「笈の小文」とはかなり異なる。そこもまたお楽しみあれ。
*
笈の小文
百骸九竅(ひやくがいきうけう)の中に物あり、假りに名付て風羅坊(ふうらばう)と云ふ。眞(まこと)に羅(うすもの)のかぜに破れ易(やす)からん事をいふにやあらん。彼れ狂句を好こと久し、終に生涯の計(はか)り事となす。或時は倦んで放擲せんことを思ひ、或時は進んで人に勝たん事を誇り、是非胸中に鬪うて、是れが爲めに身安からず。暫く身を立てん事を願へども、是れが爲に支(ささ)へられ、暫く學んで愚を論さん事をおもへども、是れが爲に破られ、終に無能無藝にして唯だ此一筋に繫がる。西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の繪に於ける、利休の茶に於ける、其貫道する物は一なり。然かも風雅に於ける、造化に從ひて四時を友とす。見る處花に有らずと云ふ事なし、思ふ處月に有らずといふこと無し。思ひ花に有らざる時は夷狄に齊し、心花に有らざる時は鳥獸に類ひす。夷狄を出で鳥獸を離れて、造化に從ひ、造化に歸れとなり。
神無月の初、空定めなき氣色(けしき)、身は風葉の行方(ゆくへ)なき心地して、
旅人とわが名呼ばれん初しぐれ
また山茶花を宿々にして
岩城の住(じゆう)長太郎と云ふ者、 此脇を付けて、其角亭に於いて關送りせんともてなす。
時は秋吉野をこめん旅の苞(つと)
此句は、露沾公より下し賜はらせ侍りけるを、餞(はなむけ)の初として、舊友親疎、門人等、或るは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包て志を見す。かの三月の糧(かて)を集むるに力を入れず。紙衣(かみこ)、綿子(ぬのこ)など云ふ物、帽子、韈(したうづ)やうの物、心心に送り集(つど)ひて、霜雪の寒苦を厭ふに心無し。或るは小舟を泛べ、別墅に設けし、草庵に酒肴携へ來て行方を祝し、名殘を惜みなどするこそ、故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覺えられけれ。
抑も道の日記といふものは、紀氏、長明、阿佛の尼の、文を奮ひ情を盡してより、餘は皆おもかげ似通ひて、其糟粕を改むる事能はず。まして淺智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降り晝より霽れて、其處に松あり、彼處に何と云ふ川流れたりなど云ふこと、誰れ誰れも云ふべく覺え侍れども、黃、奇、蘇、新の類にあらずば云ふこと莫かれ。されども其處其處の風景心に殘り、山館、野亭の苦しき愁も且つは噺の種となり、風雲の便りとも思ひなして、忘れぬ處處、跡(あと)や先やと書き集め侍るに、猶醉へるものの※語(まうご)に齊(ひと)しく、寢ねる人の讒言(たはごと)する類ひに見なして、人また妄聽(ばうちやう)せよ。
[やぶちゃん字注:「※」「忄」+「孟」。]
[やぶちゃん注:「百骸九竅」「ひやくがいきうけう(ひゃくがいきゅゆきょう)」は「荘子」「斉物論篇」にある、「百骸九竅六藏、賅而存焉」(百骸・九竅・六藏、賅(そな)はりて存す)に基づき、百の骨節と九つの穴(目・耳・鼻・口・肛門・尿道)と六つの臓器(肝・心・脾・肺・腎・心包)で、即ち、物理的な人体を指すが、ここは一箇の芭蕉の身体及び身体性を指す。
「物」芭蕉一箇身体に内在する「心」を客体化して表現したもの。
「風羅坊」「ふうらばう(ふうらぼう)」。「羅」は「うすもの」で、風で破れてしまうようなごく薄い巾(きれ)。文字通り、芭蕉のシンボルたるバショウ(単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo)の薄い葉を洒落た、芭蕉の別号めいた自称。
「狂句」俳諧。雅な堂上連歌に対して俳諧が本来は滑稽を旨とするところから俳諧を卑下して自称した語。川柳の別称としてのそれは江戸後期以降のこと。
「或時は倦んで放擲せんことを思ひ」「倦(う)んで」「放擲(はうてき)」。ある時は飽きあきしてしまい俳諧の道など捨て去ろうということまでも思い。「新潮日本古典集成」の富山奏校注「芭蕉文集」(昭和五三(一九七八)年刊)によれば、これは寛文六(一六六六)年四月二十五日満二十三の時、伊賀上野にあった芭蕉は主君新七郎良忠(蝉吟)の死去(享年二十五)に遭って致仕した後、『寛文十二年専門の俳諧師となるべく江戸下向(げこう)するまでの間、伊賀と京都を』彷徨していた『当時の事実をさす』とあされ、同書年譜には、この約六年間は、『俳諧の製作を続けながらも、一時は京との禅寺に入って修行し、また漢詩文の勉学にも勉めたようであ』り、『将来の立身の方針が定まらず、迷っていた時期である』とされる。事実、このまさに六年の間の、若き日の芭蕉の青春彷徨の時期は殆んどが不明である。
「或時は進んで人に勝たん事を誇り」延宝八(一六八〇)年に突如、三十五の若さで深川(後の芭蕉庵)に隠棲までの約七年間の有様を言う。この間、芭蕉は日本橋界隈で典型的な職業俳諧師である点取俳諧の宗匠として俗俳と伍を成していた。
是非胸中にたゝかふて:<ぜひきょうちゅうにたたこうて>と読む。理非曲直に思い煩ってああしよう、こうしようなどと思い悩む、の意 。
「しばらく身を立むことをねがへども」「しばらく」は「一時は」の意。ここ以下は、前の一文の「或時は……或時は……」の箇所と対偶する。即ち、伊賀上野にあって藤堂家に仕えていた頃には、武士として主家に取り立てられるといった望みなども抱いていたか。現在では芭蕉は農民の出自であったとする説が有力である。
「是れが爲に支(ささ)へられ」通行本では「支(ささ)へられ」は「さへられ」と読んでいる。「支障」のように「支」には国訓で、「つかえ」、突き当たって抑えられること・差支え・差し障りの謂いがあるから、問題はない。「是れ」も以下の「是」「此」も無論総て、俳諧への執着心を指す。
「造化」芭蕉の場合、道家思想のそのニュアンスが強い。所謂、万物を創造する宇宙的な規模の不可知の絶対的真理としての自然という摂理である。
「四時」従来、「しいじ」と読むことになっている。四季の玄妙なる移り変わり。
「思ひ花に有らざる時は夷狄に齊し、心花に有らざる時は鳥獸に類ひす」冒頭の「思ひ」通行本では「像(かたち)」である。本篇冒頭の身体(かたち)と「物」の関係の鏡像関係としては「像」と「心」の方が腑に落ちるように一見見えるが、ここは寧ろ、「心」「心象」と「対象」との瞬時の共時性(これはすこぶる老荘的である)を問題にしているのであって、「像」は対象に対する「心象」の謂いであり外的対象物への「思ひ」が即「心」であることが、この方が判り易いと思う。音の律の快さとしての「像(かたち)」よりも、私は「思ひ」の純朴さの方を採りたい。
「空定めなき氣色」この出立前後、季節的にも天候不順であったというより、以下の絶唱の名句の孤愁をより昂めるための芭蕉好みの常套的な文学的修辞である。ここからは、其角亭で行われた本旅の餞別会のシークエンスとなる。これは「続虚栗」の前書が正しいとすれば旅立ちに先立つ十日前の十月十一日のことであった。
「風葉の行方なき心地して」「風葉」は「ふうえふ(ふうよう)」。富山氏は前掲書頭注で「古今和歌集」の「秋歌下」の一首(二百八十六番歌)で「題しらず」「読人知らず」の、
秋風にあへず散りぬるもみぢ葉のゆくへさだめぬ我ぞかなしき
『などの歌の感懐』に基づくものとされる。
「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」本句は既に二〇一三年十一月十三日の記事で詳細な評釈を附しているのでそちらも参照されたい。以下は、同餞別会で興行された十人の世吉(よよし)の発句と由之(ゆうし:後注参照)の脇句で、通行の「笈の小文」では、
旅人と我(わが)名よばれん初しぐれ
の表記で載り、また、「俳諧 千鳥掛」(知足編・正徳二(一七一二)年序)には、
はやこなたへとうふ露の、むぐらの
宿(やど)はうれたくとも、袖をか
たしきて、御とまりあれやたび人
たび人と我名よばれむはつしぐれ
という前書と表記で載る。参照した中村俊定校注の岩波文庫版「芭蕉俳句集」によれば、この後者の前書は、『謡曲「梅ケ枝」の一節に譜点を付けたもの』とある。謡曲「梅枝(うめがえ)」は世阿弥作で、管弦の役争いで討たれた楽人富士の妻の霊が津の国住吉を訪れた僧に嘆きを語る夢幻能である。前掲書の富山氏の頭注には、この前書には真蹟があり、『それは、「初しぐれ」の語に託する和歌的情緒と共に、この旅立の意識が伝統的な旅の風雅への門出であることを』示すと解説されている。まさにこの一句はまさしく、芭蕉孤高の覚悟のプロパガンダであったと私は詠む。なお、他に「夏の月」(一定編・宝永二(一七〇五)年)では「故郷に趣る道中の吟」という前書もある。
「また山茶花を宿々にして」「岩城の住」「長太郎と云ふ者」磐城国小奈浜(おなはま)出身の、内藤家家臣で蕉門であった井手由之。前掲書の富山氏の頭注によれば、この「また」とは、先行する「野ざらし紀行」に載る、
狂句木枯の身は竹齋に似たる哉
に野水(やすい)が、
誰(た)そやとばしる笠の山茶花
と脇句を付けたのを踏まえたものである、とする。
「關送り」「せきおくり」。送別。送別の宴。
「時は秋吉野をこめん旅の苞(つと)」「此句は、露沾公より下し賜はらせ侍りける」「露沾」は「ろせん」と読む。内藤露沾(?~享保一八(一七三八)年)は磐城平藩七万石城主内藤右京大夫義泰(風虎)の次男義英。二十八の時にお家騒動で家老の讒言によって貶められ、麻布六本木の別邸で風流の日々を送って、部屋住みのまま生涯を終えた。蕉門中で最も身分の高い人であった(ここは伊東洋氏の「芭蕉DB」の「内藤露沾」に拠った)。先の由之はこの内藤家の家臣である。これが実は本来句形で、これは九月に行われた本旅の餞別句であった。通行本「笈の小文」では、
時は冬吉野をこめん旅のつと
と変えられているが、これは前掲書の富山氏の頭注によれば、『「神無月(かんなづき)」で始まるこの文中に配する際、芭蕉が季を合わせるために「冬」に改めたもの』とある。この記載から判るように、乙国によって私的に創り上げられた本篇の原型は、確かに芭蕉が推敲していたことが認められていることが判明する。但し、それらの芭蕉の原草稿類は残ってはいないのである。「苞」は、原義は藁などを束ねた中に壊れやすい或いは傷み易いものを入れて包みとした藁苞(わらづと)のことで、そこからそこに入れて人に贈る土地の産物、旅の土産の意となったもの。意味は――旅立つとあなたが言う……今は秋……しかしまた来春ににはお戻り遊ばされるとのことなれば……どうか、旅の終りには花の吉野に遊ばれ、桜の句をものされ、それを手土産として、お待ち申しておりましょう――である。
「かの三月の糧(かて)を集むるに力を入れず」ここも「荘子」の「逍遙遊」にある「適百里者、宿舂糧、適千里者、三月聚糧」(百里を適(ゆ)く者は、宿に糧(りやう)を舂(つ)き、千里を適く者は、三月(みつき)糧を聚(あつ)む)」に基づく。旅立の事前準備の苦労を指す語であるが、それに「力を入れず」とあるのは、文中にある通り、それをまさに門人やパトロンらが難なく果たして呉れたからであった。
「紙衣(かみこ)」紙で仕立てた衣服。厚手の和紙に柿渋を塗って乾かし、揉み柔らげたもので仕立てた防寒具。本来は僧が用いたが、後に一般に広く普及した。「かみぎぬ」「紙子」とも読み、書く。
「綿子(ぬのこ)」通行本では「綿子(わたこ)」と訓じている(「わたこ」が普通)。真綿を布などで包まずにそのまま縫い上げた防寒具。現行の「綿入れ」のことも指す。
「帽子」富山氏の頭注に、『布で作った円形の頭巾(ずきん)』とある。
「韈(したうづ)」現代仮名遣では「しとうず」と読む。「下沓」(通行「笈の小文」はこれで表記)「襪」とも書く。「したぐつ」の転訛で、平安以後に発生した一種の足袋(たび)。指の部分は分かれておおらず、小鉤(こはぜ)もなく、紐で結ぶタイプのもの。
「故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覺えられけれ」「首途」は通行の「笈の小文」は「門出」。ここも洒落のめして見えるが、実はおそらく「物めかしく」(ものものしく・いわくありげな)は「物語めいて」であり、自身を「故ある人」、謡曲の貴種流離の主人公に暗に擬える意識が働いてもいるように私には読める。
「抑も」通行の「笈の小文」は「そもそも」であるが、「そも」と訓じておく。その方がすっきりして、それこそ「物めかしく」ないくてよい。
「日記」「にき」と訓じておく。
「紀氏」老婆心乍ら、ここのみ注しておく。「土佐日記」の紀貫之。
「糟粕を改むる事能はず」旧態然として新境地を開拓しようとする意識が全く示されていない。
「淺智短才の筆に及べくもあらず」前で偉そうなことを言ったので、ここは自身を卑下して言ったのである。
「彼處」「かしこ」。
「誰れ誰れ」「たれたれ」と濁らない。
「黃、奇、蘇、新の類」「類」は「たぐひ(たぐい)」。「黃」は北宋詩人で「詩書画三絶」と讃えられる黄庭堅を、「蘇」は同じく北宋のの「唐宋八大家」の一人蘇軾(東坡)を指す。南宋の魏慶之編んいなる著名な詩話「詩人玉屑(しじんぎょくせつ)」の中に、「蘇子瞻以新、黃魯直以奇」(蘇子瞻(そしせん:黄庭堅の字(あざな))は新(しん)を以つてし、黄魯直(蘇東坡の字)は奇を以つてす」(「奇」「新」は奇警と斬新の謂い)それぞれ、と賞揚していることを受けた表現。
「其處其處」「そのところそのところ」と訓じておく。通行の「笈の小文」は「その所々」。
「山館・野亭の苦しき愁」「さんくわん(さんかん)・やていのくるしきうれひ」と読む。山家(やまが)や野中の木賃宿に草枕することの旅の苦しい思い。ここ以下は「東関紀行」の冒頭に、
*
終に十餘りの日數を經て、鎌倉にくだり著きし間、或は山館野亭の夜のとまり、或は海邊水流の幽(かすか)なる砌(みぎり)に至るごとに、目に立つ所々、心とまるふしぶしを書き置きて、忘れず忍ぶ人もあらば、自(おのづか)ら後のかたみにもなれとてなり。
*
とあるのをインスパイアしたものである。
「風雲の便り」旅寝のそれなりの消息。
「※語(まうご)」「※」「忄」+「孟」。この漢字は「廣漢和辭典」にも載らないので不詳。通行の「笈の小文」は「妄語」。「妄語」は本来は仏教用語で「五悪」或いは「十悪」の一つとする、嘘・偽りを言うことであるが、ここは謙辞で、下らぬ意味もない戯れ言の謂い。しかし現行のそれは以下の「妄聽」(無意味な下賤の詞として適当に聴き流すこと)と「妄」が同字で生理的には嫌な感じがする。]
三
出雲の松江から伯耆の境へは汽船でたゞの二時間の旅である。境は島根縣の一番の海港である。不快な臭氣に充ちた見つとも無い小さな町で、たゞ港としてのみ存在して居るのである。何の工業も無く、商店は殆んど一軒も無く、貧小な、そして興味は更に貧小な神社が一つあるだけである。その主な建物は倉庫、水夫の遊び場處、それから四五軒の大きな汚い宿屋で、その宿屋には大阪行き、馬關行き、濱田行き、新潟行き、いろんな他の港 行きの汽船を待つて居る客がいつも一杯に込んで居る。この海岸では汽船は何處へも規則 正しくは通はぬ。汽船の持主は時間通りといふ事に全然何等の營業的價値を置いて居らぬから、客はこんな事があらうとは到底も思はなかつた程長く、いつも待たなければならぬ。それで宿屋は喜んで居る。
だがその港は――出雲の高い陸と伯耆の低い海岸との間の長い海門にあつて――見事なものである。風から完全に蔽遮されて居て、殆んどどんな大きな汽船でもはいれる位に深い。船は家屋に接して碇泊が出來るので、港には和船から最近建造の蒸汽飛脚船に至るまでのあらゆる種類の船がいつも輻湊して居る。
友と自分とは幸にも一番好い宿屋の裏座敷を占めることが出來た。殆んど總ての日本の建物で、裏座敷が一番好い部屋である。境ではその上に、賑やかな埠頭と、その後ろに出雲の山々とが空を背に綠の巨濤の如く起伏して居て、日に光つた入江全體を見渡す更なる便宜がある。見て面白いものが澤山あつた。あらゆる種類の蒸汽船や帆船が宿屋の前に二た列び三列びに重なつて投錨して居て、裸體の船人足がその獨得な方法で以て荷積したり、荷揚したりして居た。そんな男は伯耆や出雲の一等強壯な百姓の中から集めるので、身體の運動毎にその鳶色の背中に筋肉が波打つ程の實際立派な身體をしたものも居た。見たところ十五六歳の男の子が――仕事を習つて居るので、まだ重荷を擔ぐほどには丈夫で無い見習が――幾人か手傳をして居た。殆んどその皆んなが、血管破裂の豫防に、紺布の幅廣い紐を腓(こむら)に捲付けて居るのに自分は氣が付いた。そして皆んな働きながら歌を歌つた。交る交るにやる妙な合唱が一つあつて、船艙に居る男が(英語のホオアヱイ!に當る)『ドツコイ、ドツコイ』と歌つて合圖をすると、艙口に居る男は、下から揚つて來る荷物が見える度毎に、問に合せの文句でそれに應へるのであつた。
ドツコイ、ドツコイ!
女子の子だ。
ドツコイ、ドツコイ!
親だよ、親だよ。
ドツコイ、ドツコイ!
チヨイチヨイだ、チヨイチヨイだ。
ドツコイ、ドツコイ!
松江だ、松江だ。
ドツコイ、ドツコイ!
此奴も米子(よなご)だ。云々。
だが此歌は輕い早い仕事に歌ふものであつた。重い袋や樽を他の男よも強い壯な男の肩へ載せるといふ、もつと苦しいもつと遲い勞働には、前のとは餘程異つた歌が伴なふのであつた。
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヨイヤサアアノドツコイシ!
いつこ三人で重荷を持上るのである。最初のヤンヨイで皆んな屈む。二度目ので三人ともそれへ手をかける。三度目のは用意が出來たといふつもり。四度目のでその重荷が地を離れる。そしてヨイヤサアアノドツコイシといふ長い掛聲で、それを受取らうと待構へて居る逞しい肩の上へそれが落されるのであつた。
その勞働者の中に能く笑ふ裸體の男の子が一人居た。その八かましい騷ぎの中でも、如何にも愉快げに鳴り響いてきこえる程の、その宿屋で評判になつて居るくらゐの、立派な中音部(ゴントラルト)の聲を有つた子であつた。お客の一人の或る若い女が二階の緣側へ見に出て來て、『あの子の聲は赤い聲だ』と言つた。それを聞いて誰も彼も笑つた。深紅色【譯者註】と喇叭の音とに就いて或る有名な話がある。光と音との性質を今ほど知つて居なかつた時分にその話が可笑しく思へた程には今は可笑しくは思はれぬ。その話を此時想ひ出したけれども、この場合自分はその評語を非常に表現的な言葉だと思つた。
譯者註。ロツクの『人間の悟性』第
三卷第四章第十一節に、『深紅色はど
んなものかとその友人が尋ねたら、
その盲人は喇叭の音のやうですと答
へた』とある。
隱岐通ひの汽船はその日の午後に着いた。埠頭に近寄ることが出來なかつたので、自分は望遠鏡でその船尾の一瞬時の瞥見を得ただけであつた。金の英字でOKI―SAIGOといふ名が讀めた。どの位の大きさかといふ考へを得ないうちに、長崎からの大きな黑い汽船が間へ辷り込んで、丁度それを遮つて投錨した。
自分は日が暮れて皆んなが仕事を止める迄、荷積や荷揚を觀たり、赤い聲の子が歌ふ歌を聽いたりして居た。それから今度はその長崎汽船を觀て見た。幾艘か他の船が出港したため宿の前の埠頭へ寄つて來て、二階の緣側の眞下に居たのである。その船長乘組員はどんな事にも急いで居るとは見えなかつた。みな一緒に前甲板に坐り込んで、其處へ提燈の光りで御馳走が並べられた。藝者が船へ上がつて皆んなと一緒に御馳走を食べて、三味線の音に合せて歌を唄つたり、皆んなと拳を打つたりした。夜遲くまで御馳走と遊興は續いた。そして驚く許りの多量の酒を飮んだのであつたが、亂暴もしなければ騷動もしなかつた。だが酒は飮料のうちで一番眠氣を誘ふものである。だから夜中になると、甲板に居殘つて居るものは三人しか無かつた。そのうちの一人は酒は全く飮まなかつたが、いつまでも物を食ひたがつて居た。その男に仕合な事にはモチの箱を提げて夜商ひのモチ屋が船へ上がつて來た。モチといふは米の粉で造つて地産の砂糖で甘味を附けたケエキである。空腹なその男はそれを皆んな買つて、それしか無いのかと餅屋を恨んだほどであつたが、それでも少しその餅を食へと仲間の者へ差出した。すると初めに勸められた男がまあこんな風な返事をした。
『わしやちや、餅にや、此世界では用はねや。酒さへ、この世にありや、他(だか)にや何んにも要らぬわ』
もう一人の男は斯う言つた。
『わしやちには、女子(をなご)がこの浮世の一番えいもんだ。餅や酒にや、この世の用はわしや有たぬわ』
が、その餅を皆んな平らげてしまつてから、空腹であつた男は餅屋の方へ向いて斯う言つた。
『あゝ餅屋さん。わしやちや、女子や酒にやこの世の用は有たぬわ。餅よりえいもな、 この憂世にやあらせんわ』
[やぶちゃん注:「出雲の松江から伯耆の境へは汽船でたゞの二時間の旅である」虚構。既に述べた通り、ハーンは既に熊本に移つており、起点は松江でなく、しかも、隠岐へ向かう前に松江を訪問もしてはいない。『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』には、『八月、赴任地熊本より、博多、神戸、京都、奈良、門司、境、隠岐、美保の関、福山、尾道に遊ぶ』とあるが、これでは地理がめちゃくちゃでルートが判らぬ。どうも実際、他の論文を見ても、この大周遊旅行、大周遊の割には現在もそのルートがよく分かつていないような印象を持つた。分かつているとおつしゃる方は、是非、御教授あられたい。いろいろ推測するに、この時は少なくとも京都を見た後、丹後を経て鳥取方面から境港へ入つたように私には思われる。
「境は島根縣の一番の海港である」誤り。この時、既に境港は鳥取県である(「既に」と言つたのは以前にも述べたが、実は鳥取県が島根県であつた時期が存在するからである。明治九(一八七六)年八月二十一日に実は鳥取県は島根県に併合された(同時に鳥取に支庁が設置された)が、五年後の明治一四(一八八一)年九月十二日に当時の島根県の内の旧因幡国八郡及び旧伯耆国六郡が鳥取県として分立、再置されている)。田部隆次氏の「あとがき」には、『第三節に『境は島根縣の』とあるは『鳥取縣の』とあるべきであるが、原文の儘に訳して置いた』と特に注意書が記されてある。しかしそこには続けて、『なほ、一二譯者として述べて置いた方がよからうと思ふことは、譯文の途中に譯者註として書いて置いた』とある。失礼乍ら、田部氏はこの件に関しては本文に訳注を附していない。ということは田部氏は「境は島根縣の一番の海港である」というハーンの誤りを重大な誤認として見做していないことを意味する。かつて島根に吸収された鳥取県人としては、これ、とんでもない誤り(と私は思うのである)を田部氏は『譯者として述べて置いた方がよからうと』は思わない、下らぬ瑣末なことと考えておられたということになる。鳥取県民の方々の名誉のため、敢えて注しておきたい。
「貧小な神社が一つあるだけ」境港市栄町(えいまち)にある大港(おおみなと)神社のことかと思われる。海上安全の神として知られ、江戸時代には「八幡宮」と呼ばれて諸国の船主から信仰を集めた由緒ある神社である。ハーンの書きようは、この部分では如何にもひどいが、ウィキの「境港市」によれば、『近年、環日本海時代の一躍を担う国際貿易港としての整備拡充が着実に進んでいる』とある。
「馬關」山口県下関。下関の古称であつた「赤間関(あかまがせき)」を「赤馬関」とも書いたことに由来する。
「濱田」現在の島根県浜田市長浜町にある浜田港。古くから国内のみならず、海外との交易も盛んな港であつた。
「蒸汽飛脚船」原文は“steam packets”。確かに“packet”は狭義には「郵便船」の意味だが、ここでは明らかに複数形で、この訳語は何だかびつくりするほどおかしい感じを受ける。これは単に「貨物船」或いは「定期船」の謂いであり、複数形であるからして単純に「蒸気船」と訳すべきところである。
「輻湊」「ふくそう」と読む。「輻輳」の方が現行では一般的な表記である。車の輻(や:スポーク)が轂(こしき:車軸の端。ハブ。ホイールハブ)に集まる意で、四方から寄り集まることを言う。
「友と自分とは」既に注した通り、「友」とは実は妻セツである。
「血管破裂の豫防に、紺布の幅廣い紐を腓(こむら)に捲付けて居る」「腓」は言わずもがなであるが、脛(すね)の後背側の柔らかい部分。ふくらはぎのことであるが、これはどうも、活動時に脛を保護したり、下肢の鬱血や脚の疲労、こむら返りなどを防ぐための脚絆のことを指しているように思われる。
「英語のホオアヱイ!」原文“yo-heave-ho”。間投詞で、主に古くからの船乗りの掛け声で、錨などを巻き上げる際に水夫がかけた掛け声。「よいとまけ!」「えんやこら!」に相当する。発音記号では【jóuhí vhóu】で、聴くと、「ユゥヒヴォウ!」と聴こえ、このカタカナ音写は原音を伝えていない。
「ドツコイ、ドツコイ!/女子の子だ。/ドツコイ、ドツコイ!/親だよ、親だよ。ドツコイ、ドツコイ!/チヨイチヨイだ、チヨイチヨイだ。/ドツコイ、ドツコイ!/松江だ、松江だ。/ドツコイ、ドツコイ!/此奴も米子(よなご)だ。云々」訳者は省略しているいるが、ハーンはこの労働歌に、
“'Dokoe, dokoe!' 'This is only a woman's
baby' (a very small package). 'Dokoe,
dokoe!' 'This is the daddy, this is the daddy' (a big package). 'Dokoe, dokoe!' ''Tis very small, very
small!' 'Dokoe, dokoe!' 'This is for
Matsue, this is for Matsue!' 'Dokoe,
dokoe!' 'This is for Koetsumo of Yonago,' etc.”
という詳細な注を附している。訳すなら、
「ドッコエ、ドッコエ!」こいつぁ、小(ち)んまい女の赤子(あかご)だけじゃ(如何にも小さな軽い荷の比喩)。「ドッコエ、ドッコエ!」こいつは親父、こいつぁ、これ、親父どん、じゃ(大きな重い荷の比喩)。「ドッコエ、ドッコエ!」こりやぁ、ほんまに小んまい、えろぉ、ちんまい! 「ドッコエ、ドッコエ!」こいつぁ、松江じゃ、松江行きじゃ! 「ドッコエ、ドッコエ!」こいつぁ、米子じゃ、米子行きじゃ! 云々。
といった感じであろう。これは訳としては当然、附されるべきものであると思う。私などは初読時、何か性的な意味でも隠れているのではないかと勘繰ってしまったぐらいであるから。
「ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヨイヤサアアノドツコイシ!」「ヤンヨイ」のかけ声は特異で聴いたことがない。識者の御教授を乞う。
「中音部(ゴントラルト)」原文は“contralto”でこれは音写するなら「コントラァルト」で音写の「ゴ」はおかしい(誤植か)。音楽用語の「コントラルト」で、alto より低い音域を指し、通常は女性の最低音及びその女性歌手を指すが、ここは少年の声なので問題ない。これは“contra‐+ alto”で、“contra‐”は普通の低音よりも一~二オクターブ低い、という意味である。
「お客の一人の或る若い女が二階の緣側へ見に出て來て、『あの子の聲は赤い聲だ』と言つた」これは実はほぼ間違いなく、妻のセツであると私は信じて疑わない。
「その話を此時想ひ出したけれども、この場合自分はその評語を非常に表現的な言葉だと思つた」これは非常に表現力が豊かで、実に面白い形容であると感じた、と褒めているのである。さりげなく、隠蔽して見せない妻セツを褒めるハーンがいじらしいではないか。
「ロツクの『人間の悟性』第三卷第四章第十一節に、『深紅色はどんなものかとその友人が尋ねたら、その盲人は喇叭の音のやうですと答へた』とある」「近代イギリス経験論の父」と呼ばれる哲学者ジョン・ロック(John Locke 一六三二年~一七〇四年)の主著である“An Essay concerning Human Understanding”(「人間悟性論」「人間知性論」などと邦訳される)。二十年かけて執筆し、一六八九年に出版された。私は未読で所持しないので当該箇所を引用出来ないが、これは音に色を感じており、所謂、共感覚、シナスタジア(synesthesia)の記載とも読める。私のかつての教え子には発音や文字に強共感覚を持つ女性がおり、以前から非常に関心を持っている現象である。
「みな一緒に前甲板に坐り込んで、其處へ提燈の光りで御馳走が並べられた。……」以下、ちょっと不思議なのは五月蠅いのが嫌いなハーンがこれに不快を示さずに、寧ろ、こっそり一部始終を冷静に観察している点である。一つは芸者が歌や踊りを披露し、拳を打ったりはしたものの、「亂暴もしなければ騷動もしなかつた」とあるぐらい、実は喧しいものではなかったからであろうか。或いは、音に敏感なハーンが意識を邪魔されちょっと不快に思ったものの、ここは一つ落ち着かない代わりに、何もかもルポルタージュしてやれと思ったものかも知れない。
「わしやちや」これは普通なら「儂にゃあ」とか「俺にゃ」と訳すところだ。しかし私は今回、ここで一読、ピンと来た!――これは、富山弁だ!――とピンと来たのだ。私は中学・高校の六年間を富山県高岡市伏木で過ごした。そこでは「俺なんかは」と言う時、「わしゃちゃ」と言った(私は遂にそういう謂い方は身につかなかったが)。さても本章の訳者英文学者田部隆次氏は、まさに富山県生まれなのである。]
Ⅲ.
From Matsue in Izumo to Sakai in Hōki is a
trip of barely two hours by steamer. Sakai is the chief seaport of Shimane-Ken.
It is an ugly little town, full of unpleasant smells; it exists only as a port;
it has no industries, scarcely any shops, and only one Shinto temple of small
dimensions and smaller interest. Its principal buildings are warehouses,
pleasure resorts for sailors, and a few large dingy hotels, which are always
overcrowded with guests waiting for steamers to Ōsaka, to Bakkan, to Hamada, to
Niigata, and various other ports. On this coast no steamers run regularly
anywhere; their owners attach no business value whatever to punctuality, and
guests have usually to wait for a much longer time than they could possibly have
expected, and the hotels are glad.
But the harbor is beautiful,— a long frith
between the high land of Izumo and the low coast of Hōki. It is perfectly
sheltered from storms, and deep enough to admit all but the largest steamers.
The ships can lie close to the houses, and the harbor is nearly always thronged
with all sorts of craft, from junks to steam packets of the latest construction.
My friend and I were lucky enough to secure
back rooms at the best hotel. Back rooms are the best in nearly all Japanese
buildings: at Sakai they have the additional advantage of overlooking the busy
wharves and the whole luminous bay, beyond which the Izumo hills undulate in
huge green billows against the sky. There was much to see and to be amused at.
Steamers and sailing craft of all sorts were lying two and three deep before
the hotel, and the naked dock laborers were loading and unloading in their own
peculiar way. These men are recruited from among the strongest peasantry of Hōki
and of Izumo, and some were really fine men, over whose brown backs the muscles
rippled at every movement. They were assisted by boys of fifteen or sixteen
apparently,— apprentices learning the work, but not yet strong enough to bear
heavy burdens. I noticed that nearly all had bands of blue cloth bound about
their calves to keep the veins from bursting. And all sang as they worked.
There was one curious alternate chorus, in which the men in the hold gave the
signal by chanting 'dokoe, dokoe!'
(haul away!) and those at the hatch responded by improvisations on the
appearance of each package as it ascended: —
Dokoe, dokoe!
Onnago no ko da.
Dokoe, dokoe!
Oya dayo, oya dayo.
Dokoe, dokoel
Choi-choi da,
choi-choi da.
Dokoe, dokoe!
Matsue da, Matsueda.
Dokoe, dokoe!
Koetsumo Yonago da, [20] etc.
But this chant was for light quick work. A
very different chant accompanied the more painful and slower labor of loading
heavy sacks and barrels upon the shoulders of the stronger men:—
Yan-yui!
Yan-yui!
Yan-yui!
Yan-yui!
Yoi-ya-sa-a-a-no-do-koe-shi! [3]
Three men always lifted the weight. At the
first yan-yui all stooped; at the second all took hold; the third signified
ready; at the fourth the weight rose from the ground; and with the long cry of yoiyasa no dokoeshi it was dropped on
the brawny shoulder waiting to receive it.
Among the workers was a naked laughing boy,
with a fine contralto that rang out so merrily through all the din as to create
something of a sensation in the hotel. A young woman, one of the guests, came
out upon the balcony to look, and exclaimed: 'That boy's voice is RED',— whereat everybody
smiled. Under the circumstances I thought the observation very expressive,
although it recalled a certain famous story about scarlet and the sound of a
trumpet, which does not seem nearly so funny now as it did at a time when we
knew less about the nature of light and sound.
The Oki steamer arrived the same afternoon,
but she could not approach the wharf, and I could only obtain a momentary
glimpse of her stern through a telescope, with which I read the name, in
English letters of gold,— OKI-SARGO. Before I could obtain any idea
of her dimensions, a huge black steamer from Nagasaki glided between, and
moored right in the way.
I watched the loading and unloading, and
listened to the song of the boy with the red voice, until sunset, when all quit
work; and after that I watched the Nagasaki steamer. She had made her way to
our wharf as the other vessels moved out, and lay directly under the balcony.
The captain and crew did not appear to be in a hurry about anything. They all
squatted down together on the foredeck, where a feast was spread for them by lantern-light.
Dancing-girls climbed on board and feasted with them, and sang to the sound of
the samisen, and played with them the game of ken. Late into the night the
feasting and the fun continued; and although an alarming quantity of sake was
consumed, there was no roughness or boisterousness. But sake is the most
soporific of wines; and by midnight only three of the men remained on deck. One
of these had not taken any sake at all, but still desired to eat. Happily for
him there climbed on board a night-walking mochiya with a box of mochi, which
are cakes of rice-flour sweetened with native sugar. The hungry one bought all,
and reproached the mochiya because there were no more, and offered,
nevertheless, to share the mochi with his comrades. Whereupon the first to whom
the offer was made answered somewhat after this manner: —
'I-your-servant mochi-for this-world-in
no-use-have. Sake alone this- life-in if-there-be, nothing-beside-desirable-is.
'For me-your-servant,' spake the other,
'Woman this-fleeting-life-in the-supreme-thing is; mochi-or-sake-for
earthly-use have-I-none.'
But, having made all the mochi to disappear,
he that had been hungry turned himself to the mochiya, and said:—
'O Mochiya San, I-your-servant
Woman-or-sake-for earthly-requirement have-none. Mochi-than things better
this-life-of-sorrow-in existence-have-not !'
2
'Dokoe, dokoe!' 'This is only a
woman's baby' (a very small package). 'Dokoe,
dokoe!' 'This is the daddy, this is the daddy' (a big package). 'Dokoe, dokoe!' ''Tis very small, very
small!' 'Dokoe, dokoe!' 'This is for
Matsue, this is for Matsue!' 'Dokoe,
dokoe!' 'This is for Koetsumo of Yonago,' etc.
3
These words seem to have no more meaning than our 'yo-heave-ho.' Yan-yui is a cry used by all Izumo and
Hoki sailors.
[黃金蟲]
[やぶちゃん注:以上二枚は国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。なお、「黃金蟲」の方は推定される糞とのスケール比や形状からは、所謂「スカラベ」、後注するコガネムシ上科コガネムシ科タマオシコガネ亜科 Scarabaeini 族タマオシコガネ属 Scarabaeus
に属する種のように思われる。識者なら種まで同定出来るように思われる。御教授を乞う。]
昆蟲類は多くは卵を産み放しにするが、中にはこれを保護する種類もある。例へば池の中に普通に居る「子負ひ蟲」などは、卵を雄の背の表面一杯に竝べ附著せしめ、雄はいつも子を負ふたまゝ水中を泳いで居るが、敵に遇へば逃げ去るから、子は無事に助かる。また「けら」の如きは、卵を産んでから雌がその側に居て護つて居る。蟻や蜂の類が卵・幼蟲などをよく保護し、養育することは誰も知つて居るであらうから、こゝには述べぬ。その他「はさみむし」といふ尻の先に鋏の附いた蟲は、西洋諸國では眠つて居る人の耳に入るといふ傳説のために恐れられて居るが、この蟲は卵を保護するのみならず、それから孵つて出た幼蟲をも愛して世話するといふことでゐる。また「黃金蟲」の類の中には卵を一粒産む毎に、馬や羊の糞でこれを包み、次第次第に大きく丸めて、終に親の身體よりも遙に大きな堅い球とするものがある。丸めたものを雌雄が力を協せて轉がして歩く。かうして幾つかの卵を産み、幾つかの大きな球を造り終れば、親は力が盡きて死んでしまふが、その有樣は恰も羊の糞を丸めるために、世の中に生まれて來たやうに見える。卵から孵つた幼蟲は、球の内部の柔い羊の糞を食うて生長し、終に球から匍ひ出す。「くも」の類は昆蟲類に比べると卵を保護するものが割合に多い。特に「走りぐも」と稱して、網を張らずに草の間を走り廻つて居る種類は、卵を産むとこれを球狀の塊とし、一刻も肌身を離さず始終足で抱へて居る。
[やぶちゃん注:「子負ひ蟲」水生昆虫である半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目タイコウチ上科コオイムシ科コオイムシ亜科コオイムシ属コオイムシ Appasus japonicus。生態及び形態の良く似た大型のタガメ(コオイムシ科タガメ亜科タガメ属タガメ Lethocerus deyrollei)は近縁種と言える。ウィキの「コオイムシ」によれば、『昆虫類では珍しく、近縁種のタガメと同様にオスが卵を保護するという習性を持っているが、産卵場所に産み付けられた卵を保護するタガメと違い、メスはオスの背部に卵を産み、オスは背中に産み付けられた卵を持ったまま移動するという習性があり、それを子守りする人間の親に見立てて、「子負虫」と名付けられた』とある。但し、『孵化後にはオスは幼虫の世話をすることはなく、自分の子供でも捕食対象としてしま』い、『他の水生昆虫同様、幼虫間でも共食いは行われている』とあるのを附記しておく。
「けら」本邦で古来より「けら」と呼称し、その鳴き声が蚯蚓の鳴き声などと誤認されてきたそれは直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科ケラ属ケラ Gryllotalpa orientalis である(ケラ科 Gryllotalpidae は Gryllotalpa・Neocurtilla・Scapteriscus の三属あるが、他の二属は南北アメリカにのみ棲息する)。積極的に土中を掘り進んで主に地中に棲息する。ウィキの「ケラ」によれば(記号の一部を変更した)、ケラの形状のうち、『前脚は腿節と脛節が太く頑丈に発達し、さらに脛節に数本の突起があって、モグラの前足のような形をして』おり、『この前脚で土を掻き分けて土中を進』むが、それ以外にも、『頭部と胸部がよくまとまって楕円形の先端を構成すること、全身が筒状にまとまること、体表面に細かい毛が密生し、汚れが付きにくくなっていること等』、モグラと著しく似た形態を持つ。『モグラは哺乳類でケラとは全く別の動物だが、前脚の形が似るのは収斂進化の例としてよく挙げられる。ケラ属のラテン語名“Gryllotalpa”は“Gryllo”がコオロギ、“talpa”がモグラを意味する。また、英名“Mole cricket”も「モグラコオロギ」の意である』とあり、卵の保護については、『卵は巣穴の奥に泥で繭状の容器をつくってその中に固めて産みつけ密閉し、親がそばに留まって保護する。孵化する幼虫は小さいことと翅がないこと、よく跳ねること以外は成虫とよく似ており、しばらく集団生活した後に親の巣穴を離れて分散すると成虫と同様の生活をする』とある(下線やぶちゃん)。
「はさみむし」本邦では和名の「ハサミムシ」はどうも、昆虫綱革翅(ハサミムシ)目マルムネハサミムシ科Carcinophoridae (或いはハサミムシ科 Anisolabididae マルムネハサミムシ亜科 Anisolabidinae ともする)のAnisolabis 属ハマベハサミムシ Anisolabis maritima に与えられている異名(?)のようあるが、ウィキの「ハサミムシ」を見るに、分類が錯雑しており、例えば革翅(ハサミムシ)目 Dermaptera の現生種はヤドリハサミムシ亜目Arixenina・クギヌキハサミムシ亜目 Forficulina・ハサミムシモドキ亜目 Hemimerinaの三亜目に分かれるが、本種を含むマルムネハサミムシ科 Carcinophoridae は亜目を作らず、しかも世界で十一科千九百三十種以上、日本では四十種ほどが知られるとする。さらに驚くべきことに他の記載では、お馴染みのこのハサミムシ Anisolabis maritima でさえも、その生態はまるで解明されていないと書かれてもある。卵を保護する画像は「海野和男のデジタル昆虫記」の「卵を守るコブハサミムシ」がよい(画像で守るのは♀)。未読であるが、皆越ようせい氏文・写真の「ハサミムシのおやこ」(二〇〇八年ポプラ社刊)のネット上のレビューによれば、ハサミムシの♀は卵を保護するだけでなく、孵化後の幼虫をも保護し、最後には自らの体を子らの餌として与えて死ぬという驚くべき生態を持っているらしい。まさに――母は強し!――の感慨強し! なお、丘先生は「西洋諸國では眠つて居る人の耳に入るといふ傳説のために恐れられて居る」と書かれておられるが、私は物心ついたころから、遊び仲間内で同じことを言い合い、母も父もそう言っていた。だから夜になると内心、這い上がってきたハサミムシが耳に入るのではないかと恐れた。さればこれは西洋由来のものだったのだろうか? 私にはその自然さと恐怖体験から、どうも日本にも古くからあった迷信であるように思っていたのだが? 確かにウィキには『英語ではこれをearwig、ドイツ語ではohrwurmと言い、ともに「耳の虫」の意であるが、これは、欧米ではこの虫が眠っている人間の耳に潜り込み中に食い入る、との伝承があるためである』とは書かれているのだけれど……。入るだけではなくてハサミムシは耳から脳に入り込んで卵を産むとも考えられたとか、そうして産み付けられた女性が医師から宣告を受けた……というところまで行くと、何だかなの都市伝説ではあるが、事実、ハサミムシの尾部のそれは挟まれると結構痛いし、何で耳に入るのを怖れられたかを考えると、脳味噌に卵を産みつけるというのもまんざら、近現代のアーバン・レジェンドでもない気もしてこないではない。
『「黃金蟲」の類の中には卵を一粒産む毎に、馬や羊の糞でこれを包み、次第次第に大きく丸めて、終に親の身體よりも遙に大きな堅い球とするものがある』これは言わずもがなの、「糞転がし」「スカラベ(scarab)」、昆虫学では「糞虫」(ふんちゅう Dung beetle)或いは「食糞性コガネムシ」などと呼ばれる、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科及びその近縁の科に属する昆虫の中で、主に哺乳類の糞を餌とする多くの一群の昆虫を指す。ウィキの「糞虫」より引く。『動物の糞は、その動物が利用できないものを排出したものだが、他の動物には利用可能な栄養を含み、また消化の過程で追加される成分もある。そのため、動物の糞には、昆虫を含む多くの小型動物が集まる。ただし一般に糞虫と言われるのは、コウチュウ目の中で、コガネムシ科とその近縁なグループに属するものである。その大部分は、哺乳類、特に草食動物の糞を食べる』。『色は黒を中心としたものが多いが、金属光沢があるものや、ビロードのような毛があるものなどがいる。また、ダイコクコガネやツノコガネ、エンマコガネ類など、雄に角がある例も知られる。またフンコロガシは古代からその不思議な生態で注目された。ファーブルが昆虫記の中でこの仲間に何度も触れ、その習性を詳しく調べたことはよく知られている。実用面では、牧畜における糞の処理はこの類に大いに依存している』。『上記のように、この範疇に含まれる昆虫の範囲は科を超えており、逆にコガネムシ科の中でこう呼ばれるのはその一部にすぎない。また、実際には糞に集まらない、あるいは糞以外の栄養源も利用するのにこう呼ばれるものもある。実のところ、糞虫という名はその生態的な特徴を意味するのにかかわらず、実際にそう扱われるのは分類群のくくりで行われ、しかもその体系が大きく変化しているため、このような状態が生じているのである』。『フンコロガシやダイコクコガネなどは糞虫の典型であり、これに類似の、そして似た生態を持つものをまとめて、かつてはそれらのすべてをコガネムシ科に含め、その下位分類においてひとまとまりの群と見なした。これが糞虫の範囲である。しかしその後の分類体系の見直しの中でそれらは解体され、一部は独立科となったため、現在ではそれをとりまとめるくくりは存在していない。しかし、この群には一定の固定層であるマニアが存在し、その中では確固として『糞虫』というまとまりが存在してしまうのである』。一般に糞虫といわれる仲間と、それぞれの分類上の位置』は以下の通り(引用元の記載を私がやや変更し、且つ詳細に記してある)。
コガネムシ上科コガネムシ科タマオシコガネ亜科 Scarabaeinae
Scarabaeini 族タマオシコガネ属 Scarabaeus に属する俗に「フンコロガシ」と呼んだ一群
ダイコクコガネ族ダイコクコガネ属ダイコクコガネCopris
ochus
ダイコクコガネ族エンマコガネ属 Onthophagus に属する種
マグソコガネ亜科 Aphodiinae
マグソコガネ Aphodius (Phaeaphodius) rectus
コガネムシ上科センチコガネ科 Geotrupidae
ムネアカセンチコガネ科 Bolboceratidae
アカマダラセンチコガネ科 Ochodaeidae
マンマルコガネ科 Ceratocanthidae
アツバコガネ科 Hybosoridae
等に属するセンチコガネ類及び上記のその類似種群
(本邦の和名センチコガネは Geotrupes laevistriatus。本邦では他に、オオセンチコガネ Geotrupes auratus auratusと、奄美大島の固有種オオシマセンチコガネGeotrupes
oshimanus が棲息する。センチコガネ科だけでも世界で三亜科二十五属約六百種を数える)
コブスジコガネ科 Trogidae
コブスジコガネ Trox sugayai
『新鮮な糞があると、匂いを嗅ぎつけてあちこちから集まってくる。その場で糞を食べるものもあるが、地下に穴を掘り、糞を運び込むものもいる』。『また、スカラベ』(タマオシコガネ属 Scarabaeus のこと)『は、糞から適当な大きさの塊を切り取り、丸めると足で転がして運び去ることからフンコロガシ(糞転がし)、またはタマオシコガネ(玉押し黄金)とも呼ばれる。このとき、頭を下にして、逆立ちをするような姿勢を取り、後ろ足で糞塊を押し、前足で地面を押す。古代エジプトではその姿を太陽に見立て、神聖視していたという。日本ではこの仲間は存在しないが、マメダルマコガネ』Panelus
parvulus『がこれと同じ糞運びをすることが知られる』が、体長三ミリメートルと小さいので目につかないために、知られていない。『また、多くの種が子供のための食糧を確保する習性を持つ。センチコガネ類、エンマコガネ類は糞の下に巣穴を掘り、その中に糞を運び込み、幼虫一匹分の糞を小部屋に詰め、卵を産む。スカラベやダイコクコガネ類は、糞の下に部屋を作り、そこに運び込んだ糞を使って糞玉を作る。糞玉は初めは球形で、その上面に部屋を作り、産卵して部屋を綴じるので洋梨型か卵形になる。幼虫は糞玉内部を食い、そこで蛹になり、成虫になって出てくる』。『成虫は糞玉を作り上げると出て行くものもあるが、ずっと付き添って糞玉の面倒を見るものもある。ファーブルの観察によると、ダイコクコガネの一種で、糞玉に付き添う成虫を取りのけると、数日のうちに糞玉はカビだらけになり、成虫を戻すとすぐにきれいにしたと言う』(但し、この箇所には『要文献特定詳細情報』要請がかけられている)。『このような習性は、親による子の保護の進化という観点からも注目されている』。『糞虫は哺乳類の糞を分解する上で、重要な役割を持っている。地球上、それぞれの地域において、大型の草食哺乳類がおり、その糞を食う糞虫がいる』。『生態系における糞虫のもう一つの大きな役割は、種子分散である。哺乳類の糞に含まれる植物の種子は糞虫によって地中に埋められることで、発芽率が上昇する』。なお、『糞虫は形が美しいものも多く、コレクターも存在する』とある(下線やぶちゃん)。古代エジプトで再生と復活を象徴する聖なる虫とされ、王家の谷の壁画にも描かれたスカラベ(scarab)は私の偏愛物なればこそ、やはりウィキの「スカラベ」から引いておく。スカラベは、『甲虫類のコガネムシ科にタマオシコガネ属の属名及びその語源となった古代エジプト語。単独の種名ではないため、いくつもの種が存在する』。『アンリ・ファーブルが自身の著書『昆虫記』の中で研究したスカラベ・サクレには、タマオシコガネやフンコロガシという和名が充てられて紹介され、有名になった。ただ、その後にサクレはファーブルの誤同定であったことが判明し、和名もヒジリタマオシコガネへ改められている』(二〇一二年現在では『ファーブルの観察や採集のフィールドであった南仏各地は開発が進み』、スカラベは激減してしまった)。『おもに哺乳動物の糞を転がして球状化させつつ運び、地中に埋めて食料とする』が、『古代エジプトでは、その習性が太陽神ケプリと近似したものであることから同一視された。再生や復活の象徴である聖なる甲虫として崇拝され、スカラベをかたどった石や印章などが作られた。古代エジプトの人々は、スカラベはオスしか存在しない昆虫で、繁殖方法については精液を糞の玉の中へ注いで子供を作ると解釈していた』とある。……最近、勝手ないな、スカラベ……。因みに、我々にとって馴染みの「黃金蟲」は通常はコガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属コガネムシ Mimela splendensを指すが、コガネムシ科ハナムグリ亜科カナブン族カナブン亜族カナブン属 Rhomborrhina 亜属カナブン Rhomborrhina
japonica や、コガネムシ科ハナムグリ亜科ハナムグリ族ハナムグリ亜族ハナムグリ属ハナムグリ亜属ハナムグリ Catonia (Eucetonia) pilifera、コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族スジコガネ属ドウガネブイブイ Anomala cupera・ヒメコガネAnomala
rufocuprea・サクラコガネ Anomala daimiana などもみんな一緒くたにして「黄金虫」と我々は認識しているように思う。少なくとも似非博物学的な俳句作品などではその感が強いように私は思うのである。
「走りぐも」これは節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜キシダグモ科ハシリグモ属 Dolomedes の一種と考えてよかろう。ウィキの「ハシリグモ」より引く。冒頭、ハシリグモ属
Dolomedes の類は、『大柄な徘徊性のクモである。素早く走ることが出来、また水辺に生活し、水面や水中で活動できるものも多い』とあり、丘先生が「草の間を走り廻つて居る種類」と記述しているのがやや気になる方がいるかも知れぬが、本種は本邦では十一種が知られ、最も知られる種はイオウイロハシリグモ Dolomedes sulfueus であるが、これに酷似したスジボソハシリグモ Dolomedes angustivirgatus やババハシリグモDolomedes fontus などは、『水辺から草地、林縁まで生息域が広い』とあり、『水辺以外の生息地に生活する種も多い』とあるので問題ない。『ハシリグモ属はキシダグモ科の中で、大柄で活動的な、時に美しい種を含む。徘徊性で網を張らずに獲物を捕らえる』(但し、『この属以外にもこの名を持つ例はある』とはある)。ハシリグモ属 Dolomedes の類は『水辺に生活する種が多く、それらは水面にアメンボのように浮かび、また素早く水面を走り、時に水中に潜り、水底に掴まって』一時間もの間、『潜水を行うものまである。それらは水中の小動物、時に小さな魚を獲物にすることがあり、英名の Fishing spider (魚釣りグモ)はこれによる』とするが、水辺以外に棲息する種も多いことは既に述べた。『中型から大型のクモで、頑丈な歩脚を持つ』。『前中眼が前側眼より大きく、前中眼と後中眼で作られる四角形(中眼域)は縦長。顎の後列の歯が』四本あり、『歩脚はどれもほぼ同じ長さで、第四脚は第一脚より少しだけ長い』。『徘徊性のクモであり、一般には待ち伏せしているところを見ることが多い。ただし一部では幼生が棚網を張ることが知られる。陸上では草の上に出てじっとしている。危険を感じると草間に逃げ込む。樹木の幹に下向きに止まって待機するものもいる』。『水辺のものは水辺の石の上に静止するものもある。そのようなものは、危険が迫ると水面に逃れ、素早く走って、時に水中に逃れる』。『更に、暑い日に体温低下を求めて水中に入る種もある。 水辺に生息するものの場合、水中の獲物を求め、浮き草などの上に身体を固定し、第一脚を水面に触れさせる待機姿勢をとるものがある。これは獲物が水面を揺らす震動を受け止めるためのもので、クモはその獲物を水中から引っ張り上げるようにして捕らえることが出来る。多くの場合、獲物は水生昆虫であるが、オタマジャクシや小型魚類を獲物にすることも知られる』。『なお、このような種はミズグモと間違われる場合がある』。『配偶行動は比較的単純で、キシダグモ科に見られる求愛給餌は行わないようだ。雌は卵嚢を口器につけて持ち運び、この間は雌親は餌を採らない。孵化の直前には網のような構造をつくってそこに卵嚢を下げ、子グモが出てきてその網でまどい』(丸く居並んで集団で生活する空間の謂いかと思われる)『を作り、それから分散するまで雌グモはその傍に待機する』とある(下線やぶちゃん)。]
二
オキノクニ即ち隱岐の國は出雲の海岸から百哩許りの、日本海の二群の小島から成つて居る。近い方の一群の名の島前(ダウゼン)は、種々な小島のほかに、互に近く存在して居る三つの島を含んで居る。チブリシマ即ち知夫里島(時にヒガシノシマ即ち東の島とも呼ぶ)、ニシノシマ即ち西の島、及びナカノシマ即ち中の島がそれである。このいづれよりも遙か大きいのは主島たる島後(ダウゴ)で、その多くは人の住んで居ない種々な小島と共に他の一群を爲して居る。オキといふ名はもつと一般にこの群島全部に用ひるのであるが――この島を時にオキと呼ぶ。
公には隱岐は四つコホリ即ち郡に分たれて居る。知夫里と西の島と一緒になつて知夫里郡を成し、中の島が小島一つ添へられて海士(あま)郡をつくり、島後(だうご)は隱地(おち)郡と周吉(すき)郡とに分たれて居る。
此等の島はいづれも山が多くて、その面積のほんの一少部分しか耕やされて居らぬ。主たる財源は漁業で、住民の殆んど全部が太古からして常にそれに從事し來たつて居る。
冬の幾月間は隱岐と日本西海岸との間の海は小舟に取つては太だしく危險で、その季節には島は本土とは餘り交通はしない。たつた一艘の客用汽船が隱岐へ伯耆の境から通ふ。直線では伯耆の境から隱岐の一番の港の西郷までの距離は三十九里だといふ。だが、汽船は其處への途中他の島々に寄港する。
隱岐には小さな町が、否むしろ小さな村が、隨分と澤山ある。そのうち四十五は島後に在る。その村は殆んど總て海岸に位して居る。主要な町には大きな學校がある。全島の人口は三萬〇百九十六人だと述べてある。が、町々村々のそれぞれの人口は書いて無い。
[やぶちゃん注:隠岐に行ったことがない方は勘違いしている人が多いと思われるので、まず最初に述べておくが、「隠岐島(おきのしま)」という「島」はどこにも存在しない。あるのは島根県隠岐郡の「隠岐諸島」である「隠岐」である。群島の南西にある「島前(どうぜん)」地域と、その東北部の海域である島後(どうご)水道を境として、群島東北の「島後(どうご)」地域に分けられ、「島前」は「島前三島(どうぜんさんとう)」と呼ばれる主要な有人島である「知夫里島(ちぶりじま)」(隠岐郡知夫村)・「中ノ島(なかのしま)」(海士町(あまちょう))・「西ノ島」(西ノ島町。島前地域の中心地)の三つの島と小島から構成される群島であるのに対し、「島後」は、この島前(どうぜん)三島から島後水道(凡そ十二キロメートル)を隔てた「島後(どうご)」と呼ぶ島(隠岐の島町)の一島で構成されている(「島後島」「どうごじま」などとは現地でも行政上でも呼ばないので注意されたい)。主な島はこの四島であるが、付属する小島群は約百八十を数える。「島後(どうご)」は島面積が約二百四十二平方キロメートルに及び、日本では鹿児島県大島郡の奄美群島の「徳之島」に次いで大きく、島嶼としては十五番目の広さを持つ(以上の後半の数字データでウィキの「隠岐諸島」を参考にした)。
「百哩」約百六十一キロメートル。試みに計測してみると、最も本土に近い知夫里島の獅子鼻から最も近いと思われる出雲半島の海岸の多古鼻(たこばな)までは直線で、四十四キロメートル弱、他方、島後(どうご)で最も本土に近い一つである鷹取崎から同じく出雲海岸で最も近いと思われる美保関七類までを測ると、凡そ六十六キロメートルであった。
「公には隱岐は四つコホリ即ち郡に分たれて居る。知夫里と西の島と一緒になつて知夫里郡を成し、中の島が小島一つ添へられて海士(あま)郡をつくり、島後(だうご)は隱地(おち)郡と周吉(すき)郡とに分たれて居る」現在は既に示した通り、隠岐郡で海士町・西ノ島町・知夫村・隠岐の島町の計三町一村から成る。ここに出るのは明治一二(一八七九)年に行政区画として発足した当時のものである。「知夫里郡」は知夫郡が正しいと思われ、現在の隠岐郡西ノ島町と知夫村に相当する。「海士郡」現在の海部町と同域で、「隱岐郡」は現在の隠岐の島町である島後(どうご)の凡そ西半分、「周吉郡」同じく東半分に相当する。
「主たる財源は漁業で、住民の殆んど全部が太古からして常にそれに從事し來たつて居る」二〇一三年度版隠岐支庁の「隠岐島要覧」(PDF)によれば現在でも、『生産額を見てみると、第一次産業うち水産業の生産額は高く、県全体の約4割を占めている』とある(下線やぶちゃん)。現在は他に、島外移出用としての『白小豆、しいたけ、花など』、『また、島内自給用として野菜栽培が進められている』。『畜産は伝統的な放牧による肉用牛繁殖経営が主であり、繁殖雌牛頭数は県下の約2割を占めている。放牧地では、牛とともに馬も放牧されており、海を背景に草を喰む牛馬は観光資源ともなっている』。『林業は、気候・土質に恵まれ歴史は古く、スギを主体とした人工林率は県平均を上回っている』とある。
「三十九里」約百五十三キロメートル。地図上で単純に現行の汽船航路の境港からの西郷までの距離を計測すると凡そ八十キロメートルほどである。
「全島の人口は三萬〇百九十六人だと述べてある。が、町々村々のそれぞれの人口は書いて無い」ハーンの見たガイドブックの隠岐群島の総人口は、
30196人
であるが、ウィキの「隠岐郡」によると、二〇一五年十月一日現在の推計総計人口は、
20221人
とする。実に百二十三年前との単純比較では一万人近くも差がある。但し、平成二七(二〇一五)年八月十九日更新のクレジットのある島根県隠岐支庁作成の「隠岐島の現況」(PDF)では昭和二五(一九五〇)年の総人口は、
44842人
もいたことが判る。さらに上記の隠岐支庁のデータを見ると、現在の隠岐郡の各町村の人口は、
海士町 2330人
西ノ島町 2913人
知夫村 597人
隠岐の島町 14562人
で、隠岐郡全体では、
20402人
とある。軽々に比較は出来ないものの、ウィキのデータと比べると、たった一ヶ月強で百八十一人も減っていることになる。更に、この島根県隠岐支庁版にある人口推移(平成四十二年(!)までの推計を含む)を見ると、これまた、愕然とするものがある。]
Ⅱ.
Oki-no-Kuni, or the Land of Oki, consists of
two groups of small islands in the Sea of Japan, about one hundred miles from
the coast of Izumo. Dozen, as the nearer group is termed, comprises, besides
various islets, three islands lying close together: Chiburishima, or the Island
of Chiburi (sometimes called Higashinoshima, or Eastern Island); Nishinoshima,
or the Western Island, and Nakanoshima, or the Middle Island. Much larger than
any of these is the principal island, Dogo, which together with various islets,
mostly uninhabited, form the remaining group. It is sometimes called Oki—though
the name Oki is more generally used for the whole archipelago. [1]
Officially, Oki is divided into four kōri or
counties. Chiburi and Nishinoshima together form Chiburigori; Nakanoshima, with
an islet, makes Amagōri, and Dōgo is divided into Ochigōri and Sukigōri.
All these islands are very mountainous, and
only a small portion of their area has ever been cultivated. Their chief
sources of revenue are their fisheries, in which nearly the whole population
has always been engaged from the most ancient times.
During the winter months the sea between Oki
and the west coast is highly dangerous for small vessels, and in that season
the islands hold little communication with the mainland. Only one passenger
steamer runs to Oki from Sakai in Hōki In a direct line, the distance from
Sakai in Hōki to Saigo, the chief port of Oki, is said to be thirty-nine ri;
but the steamer touches at the other islands upon her way thither.
There are quite a number of little towns, or
rather villages, in Oki, of which forty-five belong to Dōgo. The villages are
nearly all situated upon the coast. There are large schools in the principal
towns. The population of the islands is stated to be 30,196, but the respective
populations of towns and villages are not given.
1
The names Dōzen or Tōzen, and Dōgo or Tōgo, signify 'the Before-Islands' and
'the Behind-Islands.'
第二十三章 伯耆から隱岐ヘ
一
自分は隱岐へ行くことに決心した。
宣教師でさへそれまで一度も隱岐へ渡つたものは無かつた。そしてその海岸は、軍艦が日本海を巡航してその傍を汽走するといふそんな稀な場合を除いては、西洋人の眼に未だ嘗て觸れなかつたのである。それだけでも隱岐へ行く充分の理由となつたのであらう。だが、日本人すら隱岐のことは全く知つて居らぬといふ一層有力な理由が自分に提供せられた。日本帝國の中で一番知られて居ない部分は、異つた言語を使用して居る、稍々異つた人種が住まつて居るルウチユウ・アイランヅ即ち琉球を除いて、恐らくは隱岐であらう。これは出雲と縣を同じうして居る國であるから、新任の島根縣知事はいづれも就任後一度巡視するものと思はれて居り、縣警察部長は時折視察に出かけて行く。その上また松江や他の町の商家で、年に一度注文取を隱岐へ送るのが幾軒かある。更にまた、――それは殆んど總て小さな帆船で行ふのであるが――隱岐とは餘程盛んな取引がある。がそんな公務上並びに商業上の交通は日本歷史の中世時代に於けるよりも、大して能く隱岐を今日世間へ知らしめる性質のものでは無かつた。隱岐については、東洋の種々な人種の想像的文學にあんなに大いに出て來る彼の荒唐無稽な女護の島に就いての物語に能く似た、異常な物語が今なほ日本西海岸の普通人の間に行はれて居る。さういふ古い傳説に據ると、隱岐の國の人の道德觀念は極めて奇妙なもので、最も嚴肅な禁慾者でも此國に住んで居ては浮世の快樂に對するその冷淡さを維持して行くことは出來ぬ。そして此處へ遣つて來る他國人は、着いた時にはどんなに金持でも、女の誘惑の爲めに、やがて素裸で貧乏になつて其本國へ歸らなければならぬといふのである。自分は珍奇な國での旅行にはもう充分の經驗があることだから、そんな不思議な話に總てみな隱岐は『人の知らぬところ(テラ・インコグニタ)』といふそれだけの事實以上何も意味してゐないと確信して居た。そして隱岐の國の人の普通一般の品行は――西部諸國の普通人民の品行に依つて判斷して――自分の本國の無智階級の者共の品行よりも餘程優つて居るに相違無いと信ぜんとする氣持にさへなつて居つた。
この事は後になつて確にさうと自分は見屆けた。
暫くの間自分は自分の日本人友達のうちに、隱岐は古昔武人簒奪者が廢立した後醍醐後鳥羽兩帝の配流の地であつたといふ、自分が既に知つて居る、事實のほか、どんな知識をも與へて呉れるものを一人も見出し得なかつた。ところが到頭、全く思ひがけなくも、前に隱岐へ行つたことがあるばかりで無く、用事あつて數日のうちにまた行かうとして居る一友を――前の學校の同僚を――發見した。で同行を約した。その男の隱岐に就いて語る所は今迄行つたことの無い人達の話とは著しく異つて居つた。隱岐の人達は出雲の人達と殆ど同じ程に開けて居て、好い町があり、立派な小學校がある、と言ふ。人間は甚だ質朴で信じられない程に正直で、そして他國人に極めて親切である。日本人が初めて日本へ來た時このかた、即ちもつと浪漫的な言葉で言へば『神代』このかた、その人種を變へずに居る事をその唯一の誇として居る。みな神道信者で出雲大社教を奉じて居るが、佛教も亦、主として私人の澤山な醵金に依つて、維持されて居る。そして非常に居心地の好い宿屋があるから、全く氣安く感ずるだらう、と斯う言ふのであつた。
その男はまた隱岐の學校で使はせる爲めに出版された隱岐の事を書いた小さな本を呉れた。自分はその本からして次に記すやうな簡單な事實の摘要を得た。
[やぶちゃん注:本章の訳は底本「あとがき」から田部(たなべ)隆次氏と推定される。そこで田部氏はこの隠岐行は明治二五(一八九二)年の『七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た。同行者は夫人だけであつた』とあるが、『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、隠岐の滞在は八月十日から二十三日までの十三日間で、境港へ二十四日に着き、翌二十五日には美保の関へ行っている。大澤隆幸氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、ハーンは隠岐を訪れた最初の西洋人であるとある。
「異つた言語を使用して居る、稍々異つた人種が住まつて居るルウチユウ・アイランヅ即ち琉球」「異つた言語」現在は日本語の方言である琉球方言として扱われることが多いが、ウィキの「沖縄県」には、『ユネスコなどの国際機関の間では日本語とは異なる日本語族に属した独立した言語であると』しているとある。「稍々異つた人種」についてはやはり同ウィキに『地理的・歴史的・文化的な経緯から琉球民族とする主張がある。人種的には先史時代から』十世紀に『かけて南九州から移入したとされ、分子生物学の研究でも本土と遺伝的に近いことが確かめられている。北琉球と呼ばれることもある沖縄諸島の住民は、分子生物学的(Y染色体による系統分析)にほぼ九州、本州、四国の住民と同じである』とあり、人類学的生物学的に「稍々異つた人種」という謂いには無理がある。但し、旧琉球国としてハーンが当時聴いた内容はそうした甚だ捻じ曲がったものであったことも事実であろうし、それを鵜呑みにしたハーンを責めるのも酷ではある。「ルウチユウ・アイランヅ即ち琉球」原文は“Riu-Kiu, or Loo-Choo Islands”で、「琉球」は現行の中国語では“Ruuchuu”で「ルーチュー」である。
「女護の島」「によごのしま(にょごのしま)」は、狭義には、「女護が島」とも「女人国」とも称し、女だけが住んでいるという空想上の島及びそうしたアマゾネス的な伝承を指す。本邦では八丈島が一番知られ、他にも沖繩の与那国島や奄美群島の喜界島など、実在の離島をこれに当てた話が古くから普及してはいる。但し、隠岐についてそうした奇怪な伝承を聴いたことは私は、ない。以下に続く記載も、隠岐を愛する私としては――ただ一度、四年前、母の死後のただ一度だけの長旅で訪れただけであるが――非常に不快である。因みに、ウィキの「隠岐の歴史」の「先史・古代」の項には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井』(さい)『と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前五千年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている』。『サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約二百基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長四十七メートル、長さ約八メートルの横穴式石室)がある』。『大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。六四六年(大化二年)隠岐駅鈴二個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある』。『隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺、国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道七国のうち下国で、都からの行程は上り三十五日、下り十八日と定められていた』。『日本海の孤島隠岐は古代から渤海や新羅との交渉も記録されている。七六三年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、八二五年には渤海国使高承祖ら百三人、八六一年には渤海国使李居正ら百五人が隠岐国に来着している。日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、八六九年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、八七〇年には出雲、石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。八八八年には新羅国人三十五人が隠岐に漂着、九四三年には新羅船七隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた』とある。以下、「中世」の項。『建久四年(一一九三年)、隠岐一国地頭職に佐々木定綱が補任されたことが吾妻鏡に見える。承久三年(一二二一年)には後鳥羽上皇が海士郡に流され、十九年間配所で過ごし、元弘二年(一三三二年)年には後醍醐天皇が配流される。天皇の配流地は隠岐島後の国分寺説と島前黒木御所説があり、決着が付いていないが、天皇はやがて脱出する』。『室町時代の守護は京極氏で、隠岐守護代となったのは京極氏一門の隠岐氏で、東郷の宮田城、後に下西の甲ノ尾城を本拠地とした。これに対して在地勢力は隠岐氏に対立する毛利氏の支援を得て、両者間に戦いも起こったが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった』。以下、「近世」の項。『慶長五年(一六〇〇年)、堀尾吉晴が出雲・隠岐の国主となるが、寛永一一年(一六三四年)から室町時代の隠岐・出雲の守護家の子孫である京極忠高に替わる。寛永一五年(一六三八年)には松平直政が出雲に入り、以後の隠岐は幕府の天領(松江藩の預かり地)となった。幕府から統治を委託された松江藩は西郷に陣屋を置き、郡代に総括させ、島前と島後にそれぞれ代官を派遣して行政に当たらせた。隠岐の総石高は一万八千石とされたが、実高は一万二千石ほどであった』。『島後の西郷港は十八世紀から北前船の風待ち、補給港として賑わうようになった。これは隠岐島後が能登から下関あるいは博多に直行する沖乗りのコースに当たったためである。西郷港には船宿を兼ねた問屋が置かれ、自ら回船業を営む者もあった。この頃、西ノ島の焼火神社が海上安全の神様として北前船の信仰を集めた。北前船は安来の鉄や米を日本海一帯に供給する機能があったため、その後も隠岐~美保関~安来間の航路が存在し、航路廃止になった現在でも安来市には北前船の流れを汲む隠岐汽船の支社が存在する』。以下、近代史。『明治元年(一八六八年)、隠岐騒動が起こり、神官と庄屋の正義党が松江藩隠岐郡代を追放し、王政復古で隠岐は朝廷御料になったと宣言して自治を行った。松江藩は隠岐に出兵して一時隠岐を奪回するが、まもなく鳥取藩が仲介して松江藩兵は撤退、自治が復活した。明治新政府は一時隠岐を鳥取藩に預ける』。『明治二年(一八六九年)二月から八月まで隠岐国に隠岐県を設置して独立させるが、その後幕府の石見銀山領を前身とする大森県に統合された。新政府の方針は決まらず、隠岐地域の所属は島根県と鳥取県の間で移管を繰り返し、明治九年(一八七六年)ようやく島根県への所属に落ち着いた』。『島根県に編入された隠岐地域は古代以来の海士、知夫、周吉、穏地の四郡に分かれていたが、明治二一年(一八八八年)になって島根県庁は郡を廃止して隠岐島庁を設置、島司が行政に当たった』(ハーンの来島はこの時期)。『明治三七年(一九〇四年)に西郷町、五箇村などの町村が設置されている。翌三八年(一九〇五年)二月十五日、竹島が日本の領土として確認され、後に五箇村の所属とされた。これは西郷町の中井養三郎がアザラシ・アシカ漁のためにリャンコ島の賃貸を政府に求め、政府が島の所属について確証がないことに気付いたためである。リャンコ島は竹島と名付けられ、隠岐島司の所管となった。隠岐島庁は大正一四年(一九二五年)に隠岐支庁となっている』(以下の現代史はリンク先を参照されたい)。
「人の知らぬところ(テラ・インコグニタ)」「テラ・インコグニタ」はルビ。原文“terra incognita”。ラテン語で“terra”は「土地・陸地・国・地方・世界」、“incognita”は「知られざる・未知の・認識し難い・探索されていない・未だ認められていない」の意の形容詞“incogunitus”である。個人的に好きな意味と響きの語である。
「西部諸國」西日本諸県。
「その人種を變へずに居る事をその唯一の誇として居る」どうも「人種」という訳語が気に入らない。平井呈一氏の『連綿として血筋のかわっていないことを、唯一のお国自慢にしている』で、不快なく(敢えて言うと「唯一の」は、気に障るが、これは原文がそうだから仕方がない)読める。
「一友」「前の學校の同僚」先の『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、隠岐旅行の帰りに美保の関に滞在したハーンは、松江中学時代の校長心得西田千太郎を客として宿へ迎えている(八月二十六日)。海水浴などを楽しんだ後、二十九日に西田が松江へ戻る際、『隠岐土産のスルメ二束、馬蹄石貝細工品を贈』っているところなどからも、「同僚」と言っているものの(「同僚」の「友」に拘るならば、「第十九章 英語教師の日記から (二)」に出る、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師であった中山彌一郎であるが)、これは私は西田であったと思う。但し、この「用事あつて數日のうちにまた行かうとして居る」とか、「同行を約した」とし、実際に以下本章では現地にその友人と隠岐に行ったように記述しているが、事実は田部氏が「あとがき」で述べている通り、事実は『同行者は夫人だけ』であった。ハーンは実は本書に於いては、事実婚状態にあった妻セツを完全に巧妙に隠蔽している(「第十八章 女の髮について(一)」の冒頭を見よ)。それは文学的虚構以外の意識が働いていると私は読む。私は、ハーンはこの時点(明治二十五年前後)では未だセツを正式な妻として記載することにどこかで躊躇していたのではないかと感ずるのである。実際、大澤隆幸氏は「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」で、この前年十一月にハーンが熊本に転任した際の、今も残る第五高等中学校公式文書である『雇容伺文書の最後の項目では「一、妻の有無 無し」』とあって、『セツは妻ではなかった』と、明記しておられるのである。恐らくはセツへの気遣という大きな点以外にも、海外読者の中にはハーンが日本人妻を迎えていることを知った場合、こころよく思わない者がいると考え、それが本書の売り上げに影響したり、あらぬ批判の対象となったりすることを避けたかったからなのではないかと私は疑ってもいる。ともかくもハーンが『妻子の将来を考え、日本に帰化し、小泉八雲と改名する』(新潮文庫「小泉八雲集」の上田和夫氏年譜)のは、本書刊行(明治二十七年九月)の一年後の明治二八(一八九五)年の秋であった(上記大澤論文によれば、帰化手続の完了は翌明治二十九年二月十四日とある)。
「出雲大社教」原文は「いずもたいしゃ」と綴っているが、宗教団体としての固有名詞としては「いづもおほやしろきやう(いずもおおはしろきょう)」と読むのが正しい。間違ってもらっては困るのは、かく「出雲大社教」と書き、「いずもおおやしろきょう」と読んだ場合は、漠然とした出雲大社を親しく崇敬しているといったような一般的な謂いではなくして、実際の宗教団体としての「出雲大社教」を指しているということである。出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は明治六(一八七三)年に当時の出雲大社大宮司であった千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団で(創立に際して宮司職を「第八章 杵築――日本最古の社殿」に登場した弟尊紀に譲っている)、教派神道(神道十三派)の一つである。これについては「第八章 杵築――日本最古の社殿 (プロローグ)」の私の注「千家尊紀」を参照されたい。]
ⅩⅩⅢ
FROM HŌKI
TO OKI.
Ⅰ.
I RESOLVED to go to Oki.
Not even a missionary had ever been to Oki,
and its shores had never been seen by European eyes, except on those rare
occasions when men-of-war steamed by them, cruising about the Japanese Sea.
This alone would have been a sufficient reason for going there; but a stronger
one was furnished for me by the ignorance of the Japanese themselves about Oki.
Excepting the far-away Riu-Kiu, or Loo-Choo Islands, inhabited by a somewhat
different race with a different language, the least-known portion of the
Japanese Empire is perhaps Oki. Since it belongs to the same prefectural
district as Izumo, each new governor of Shimane-Ken is supposed to pay one
visit to Oki after his inauguration; and the chief of police of the province
sometimes goes there upon a tour of inspection. There are also some mercantile
houses in Matsue and in other cities which send a commercial traveller to Oki
once a year. Furthermore, there is quite a large trade with Oki,— almost all
carried on by small sailing-vessels. But such official and commercial
communications have not been of a nature to make Oki much better known to-day
than in the medieval period of Japanese history. There are still current among
the common people of the west coast extraordinary stories of Oki much like
those about that fabulous Isle of Women, which figures so largely in the
imaginative literature of various Oriental races. According to these old
legends, the moral notions of the people of Oki were extremely fantastic: the
most rigid ascetic could not dwell there and maintain his indifference to
earthly pleasures; and, however wealthy at his arrival, the visiting stranger
must soon return to his native land naked and poor, because of the seductions
of women. I had quite sufficient experiences of travel in queer countries to feel
certain that all these marvelous stories signified nothing beyond the bare fact
that Oki was a terra incognita; and I
even felt inclined to believe that the average morals of the people of Oki — judging
by those of the common folk of the western provinces — must be very much better
than the morals of our ignorant classes at home.
Which I subsequently ascertained to be the
case.
For some time I could find no one among my
Japanese acquaintances to give me any information about Oki, beyond the fact
that in ancient times it had been a place of banishment for the Emperors
Go-Daigo and Go-Toba, dethroned by military usurpers, and this I already knew.
But at last, quite unexpectedly, I found a friend — a former fellow-teacher — who
had not only been to Oki, but was going there again within a few days about
some business matter. We agreed to go together. His accounts of Oki differed
very materially from those of the people who had never been there. The Oki
folks, he said, were almost as much civilized as the Izumo folks: they, had
nice towns and good public schools. They were very simple and honest beyond
belief, and extremely kind to strangers. Their only boast was that of having
kept their race unchanged since the time that the Japanese had first come to
Japan; or, in more romantic phrase, since the Age of the Gods. They were all
Shintōists, members of the Izumo Taisha faith, but Buddhism was also maintained
among them, chiefly through the generous subscription of private individuals.
And there were very comfortable hotels, so that I would feel quite at home.
He also gave me a little book about Oki,
printed for the use of the Oki schools, from which I obtained the following
brief summary of facts: —
六
翌朝、日が出てから一時間すると、師匠と弟子は町の界から向うの方で無宿者の集まる磧へと歩いて行つた。
小屋の入口は一枚の雨戸で閉ぢてあつた。師匠は幾たびも叩いて見たが、應答がなかつた。すると、戸は内から締めてなかつたので、輕く開けて、隙間から呼んだ。誰も答へないから、彼は入ることに決心した。同時に異常な鮮明さを以て、彼が疲勞せる靑年修業者として、山中の小屋の前に立つて、戸を叩いた瞬間の感が念頭に返つた。
彼が獨りで靜かに入つてみると、女は一枚の薄い、ぼろぼろの布團にくるまつて、一見すると寢たやうに横つてゐた。粗末な棚の上に、彼は四十年前の佛壇を認めた。中には位牌があつた。して、當時と同じく、今も小さな燈明が、戒名の前で輝いてゐた。月の後光を負つた觀音の幅は無くなつてゐたが、佛壇に面した壁には、彼の贈つた畫が掛けてあつた。して、その下には一言(ひとこと)觀音【註】――この觀音はたゞ一つの祈願を叶へ玉ふだけだから、一囘以上、願を掛けてはならぬ――の御札があつた。荒凉たる家の中には、その外のものは、たゞ衣と托鉢の筇及び鉢だけであつた。
が、師匠はこれらのものを眺めて、躊躇してはゐなかつた。彼は眠つてゐる女を醒まし、欣ばせようと思つて、一囘も三囘も、元氣よく彼女の名を呼んだ。
すると、忽然彼女の死んでゐるのに氣がついた。して、その顏を凝視し乍ら、彼は不思議に思つた。それは案外若く見えた。靑春の妖精とも見ゆる、何となく美しい趣が、そこへ歸つてきてゐた。悲哀の皺は、彼よりも更に偉大なる幻影の師匠の手によつて、奇異にも滑かに和らげられてゐた。
註。この觀音の寺は、奈良の大佛の寺から遠くない。
[やぶちゃん注:この挿話はまたしてもしみじみとして哀しく美しい。これは実に神話的でさえあるではないか。巧妙に配されたフラッシュ・バックのイメージの何と、神々しいことか!
なお、底本途中に配された注の位置が(「觀音【註】」を含む段落の後に前後行空けで配されてある)、鑑賞上、極めて無粋に過ぎるので恣意的に最後に回した。
「筇」底本では下部の(つくり)が「阝」ではなく「卩」であるが、表記出来ず、当該漢字も見当たらず、意味からも竹で出来た杖の意であるこれを採った。音は「キヨウ(キョウ)」或いは「グ」であるが、「つゑ(つえ)」と訓じておく。
「この觀音の寺は、奈良の大佛の寺から遠くない」こう語る以上、本尊が観音菩薩でなくてはならないとすれば、奈良県桜井市初瀬の長谷寺(本尊十一面観音)か、或いは高市(たかいち)郡高取町の壺阪寺、正式名称南法華寺(本尊十一面観音)か? しかし両寺を「遠くない」というかどうか? 「遠くな」くごく近いとならば、別な寺ではなく、東大寺の二月堂(本尊十一面観音)となるが? しかし原注をよく見ると“Her shrine”とある。これは「彼女の廟」「彼女を祀った寺」の謂いである。平井呈一氏も『老女を祀った堂は、いま、奈良の大仏殿の近くにある』と訳しておられ、奈良知らずの下種(げす)の私の憶測であるが、この平井氏の訳だと、恐らく多くの人はこれを二月堂と解釈するのではあるまいか? しかしそのような二月堂の伝承も、そのような由緒を持つ観音の寺も私は不学にして知らない。そもそもが、私はもっと不勉強にしてこの白拍子と絵師の数奇な奇談の原話を知らない。構造パターンの類型的な話は複数聴いたことがあるが、人物設定や結末が全く異なる。ネット検索でも網にかからぬ。原話を御存じの方は、是非とも御教授を乞うものである――と言っても――この話柄はこれで閉じられた一箇の完成品としてとても美しい――]
Ⅵ.
On the
morning of the day following, an hour after sun-rise, the Master and his pupil
took their way to the dry bed of the river, beyond the verge of the city, to
the place of outcasts.
The entrance of the little dwelling they
found closed by a single shutter, upon which the Master tapped many times
without evoking a response. Then, finding the shutter unfastened from within,
he pushed it slightly aside, and called through the aperture. None replied, and
he decided to enter. Simultaneously, with extraordinary vividness, there
thrilled back to him the sensation of the very instant when, as a tired. lad,
he stood pleading for admission to the lonesome little cottage among the hills.
Entering alone softly, he perceived that the
woman was lying there, wrapped in a single thin and tattered futon, seemingly
asleep. On a rude shelf he recognized the butsudan of' forty years before, with
its tablet, and now, as then, a tiny lamp was burning in front of the kaimyō.
The kakemono of the Goddess of Mercy with her lunar aureole was gone, but on
the wall facing the shrine he beheld his own dainty gift suspended, and an
ofuda beneath it,— an ofuda of Hito-koto-Kwannon [10],— that Kwannon unto whom
it is unlawful to pray more than once, as she answers but a single prayer.
There was little else in the desolate dwelling; only the garments of a female
pilgrim, and a mendicant's staff and bowl.
But the Master did not pause to look at
these things, for he desired to awaken and to gladden the sleeper, and he
called her name cheerily twice and thrice.
Then suddenly he saw that she was dead, and
he wondered while he gazed upon her face, for it seemed less old. A vague
sweetness, like a ghost of youth, had returned to it; the lines of sorrow had
been softened, the wrinkles strangely smoothed, by the touch of a phantom
Master mightier than he.
10
Her shrine is at Nara, — not far from the temple of the giant Buddha.
五
そこで、年老いた白拍子は約束の時刻に來た。して、柔かな白絹の上に畫家は彼女の姿を寫した。しかし、その際、畫家の弟子達の眼に映ぜる彼女の姿ではなく、鳥のやうな明るい眸を持つて、竹の如く嫩かで、絹や黃金の衣裳で天人の如く輝いてゐた。若い頃の彼女の記億を寫したものであつた。名工の靈筆の下に、消えてゐた美しさは歸つてきて、褪せてゐた華やかはまた咲き出でた。畫が出來上つて、落欵を施してから、彼はそれを立派に絹で表裝し、杉の軸を附け、象牙の風鎭を備へ、吊るすために絹紐を附け、白木の小箱に收めて、女に渡した。それから彼は金子若干をも贈物として強ひて取らせようと、勸めたけれども、彼女はその補助を受納しなかつた。
『いえ、實際わたしは何も要りませぬ。ただ畫だけがわたしの願で御座いました。これまで畫のために祈願をこめてゐたので御座います。最早大願成就、この上この世の願は持ちませぬ。またかやうに俗なこの世の願を特たずに死にますれば、佛道往生も難くはなからうと存じます。たゞ殘念に思ひますのは、先生に差上げますものとては、この衣裳の外、何も御座いません。先生の深い御親切に對しましては、これから毎日先生の將來の御幸福を祈願致さうと存じます』
画家は笑ひながら、きつぱり斷言して、『いや、これは何でもないことです。白拍子の衣裳だけは、それであなたの御心持が一層御宜しいなら、頂戴致します。昔、私のために、あなたが御不便を忍んで、しかも何うしても謝禮を受け下さらなかつたから、今に私は御恩を着てゐる積りです。その夜の樂しい思出になります。ですが、今は何處に御住居なさつてゐます?この畫の掛つた處を見たいものです』と云つた。
が、女は賤しい住家を御目にかけるも心苦しいと、丁寧に辯解して、所在を明さなかつた。それから再三低頭、禮を述べ、貴重な畫を携へ、嬉し涙を浮べて立去つた。
畫家は一人の弟子を呼んで、『急いで、あの女の人に分らぬやう、後へ追いて行け。して、何處に住んてゐるか、報告してくれ』といつた。そこで、弟子は見えないやうに、女について行つた。
餘程の時間が經つてから。弟子は歸つてきた。して、聞く人に取つて、面白くないことを云はねばならぬやうな風に笑ひ乍ら云つた。『先生、あの女に追いて行きますと、町を出まして、死刑場に近い、磧へ行きました。そこの特種部落のやうな小屋に住んでゐます。汚い、廢つた場所で御座います』
『だが、明日その汚い廢つた場所へ私を案内してくれ。私の存命中は、あの女に食べものや着物に不足させたり、困らせたりはさせないから』と畫家は答へた。
弟子達が皆不思議に思つたので、彼は白拍子の物語をした。それから始めて皆、彼の言葉を奇異と思はなくなつた。
[やぶちゃん注:「嫩かで」「わかやかで」と訓じておく。不思議に若々しい感じで。当該漢字の意味からは「やはらかで(やわらかで)」「なよやかで」なども想起出来るが、これらの読みは文全体との調和性を欠くように思う。
「落欵」落款に同じい。
「追いて」「ついて」。
「特種部落」「特種」は「特殊」に同じいが、より差別的なニュアンスを感じる。前後の原文は“There I saw a hut such as an
Eta might dwell in”で、――そこで私は穢多のような連中が住もうておる小屋があるのを見ました――の謂いである。寧ろ、時代背景を考えれば、「穢多」とそのまま訳し出した方がよい。却って刊行時(大正一五(一九二六)年八月)の、訳者(この章は落合貞三郎の訳と推定される)の差別意識が反映した訳語となってしまっている。批判的に読まれたい。平凡社「世界大百科事典」「特殊部落」には(コンマを読点に変えた)、『明治後期から今日まで、被差別部落とその出身者に対して用いられてきた差別呼称。被差別部落問題への無理解と深刻な部落差別意識を根底に潜めた差別語であり、適用が避けられるべきであるが,近代における部落問題の歴史と部落差別意識を解明するうえできわめて重要な言葉である。この言葉は』、明治四〇(一九〇七)年の『政府の全国部落調査の際に用いられたように、日露戦争後の部落改善政策の中で行政機関が使い、新聞記事などによって民衆の間にも広まったが、主として被差別部落の起源を異民族に求め、部落の人々の祖先を古代の朝鮮半島からの〈渡来人〉や律令国家の征服した〈蝦夷(えぞ)〉などとする誤った歴史認識にもとづくものである』とある。
「汚い、廢つた場所」老婆心乍ら、「廢つた」は「すたつた(すたった)」で、原文は“A forsaken and filthy place”で――見捨てられたわびしい不潔な場所――の謂いである。]
Ⅴ.
So the aged dancer came at the appointed
hour; and upon soft white silk the artist painted a picture of her. Yet not a
picture of her as she seemed to the Master's pupils but the memory of her as
she had been in the days of her youth, bright-eyed as a bird, lithe as a
bamboo, dazzling as a tennin [9] in her raiment of silk and gold. Under the
magic of the Master's brush, the vanished grace returned, the faded beauty
bloomed again. When the kakemono had been finished, and stamped with his seal,
he mounted it richly upon silken cloth, and fixed to it rollers of cedar with
ivory weights, and a silken cord by which to hang it; and he placed it in a
little box of white wood, and so gave it to the shirabyoshi. And he would also
have presented her with a gift of money. But though he pressed her earnestly,
he could not persuade her to accept his help. 'Nay,' she made answer, with
tears, 'indeed I need nothing. The picture only I desired. For that I prayed;
and now my prayer has been answered, and I know that I never can wish for
anything more in this life, and that if I come to die thus desiring nothing, to
enter upon the way of Buddha will not be difficult. One thought .alone causes
me sorrow,— that I have nothing to offer to the Master but this dancer's
apparel, which is indeed of little worth, though I beseech him I to accept it;
and I will pray each day that his future life may be a life of happiness,
because of the wondrous kindness which I he has done me.'
'Nay,' protested the painter, smiling, 'what
is it that I have done? Truly nothing. As for the dancer's garments, I will
accept them, if that can make you more happy. They will bring back pleasant
memories of the night I passed in your home, when you gave up all your comforts
for my unworthy sake, and yet would not suffer me to pay for that which I used;
and for that kindness I hold myself to be still in your debt. But now tell me
where you live, so that I may see the picture in its place.' For he had
resolved within himself to place her beyond the reach of want.
But she excused herself with humble words,
and would not tell him, saying that her dwelling-place was too mean to be
looked upon by such as he; and then, with many prostrations, she thanked him
again and again, and went away with her treasure, weeping for joy.
Then the Master called to one of his pupils:
'Go quickly after that woman, but so that she does not know herself followed,
and bring me word where she lives.' So the young man followed her, unperceived.
He remained long away, and when he returned
he laughed in the manner of one obliged to say something which it is not
pleasant to hear, and he said: 'That woman, O Master, I followed out of the
city to the dry bed of the river, near to the place where criminals are
executed. There I saw a hut such as an Eta might dwell in, and that is where
she lives. A forsaken and filthy place, O Master!'
'Nevertheless,' the painter replied,
'to-morrow you will take me to that forsaken and filthy place. What time I live
she shall not suffer for food or clothing or comfort.'
And as all wondered, he told them the story
of the shirabyoshi, after which it did not seem to them that his words were
strange.
9
Tennin, a 'Sky-Maiden,' a Buddhist
angel.
四
幾多の歳月が經つた。また幾多の流行もそれにつれて移り變つた。して、畫家も靑年が老いた。しかし、彼は既に名聲を博してゐた。彼の作品の妙に感じて、大名達は競つて彼に厚遇を與へたので、彼は富裕の身となつて、帝都に堂々たる邸宅を有した。諸國から多くの若い畫工が、彼の許に弟子入りをして、萬事奉公を勤め乍ら、彼の教へを受けた。彼の名は全國に知れ渡つてゐた。
さて、一日ある老婦人が尋ねてきて、彼に面談を求めた。弟子達は、彼女の粗服と哀れな姿を見て、たゞの乞食と思ひ、荒々しく彼女の用事を問ふた。が、彼女が『私の參つた譯は、御主人でなくては云へません』と答へたので、狂女と信じて、『主人は今、西京にゐないのだ。またいつ頃歸られるかも、我輩にわからない』といつて欺いた。
が、老婦人は再三再四やつて來た――毎日、毎週やつて來ては、その度毎に『今日は主人は御病氣だよ』とか、『今日は非常に御多忙だから』とか、『今日は澤山の御來客だから、面會は出來ない』とか、何か眞實でないことを答へられた。それでも女は、毎日一定の時刻に、またいつも襤褸包に卷いた一個の束を携へて、來つゞけた。で、遂に弟子達は彼女のことを師匠に告げるのが最も得策と思つて、彼にいつた。『こゝの御門前に乞食と思はれる老女がゐます。御目にかゝりたいと申して、五十回以上も參りましたが、その譯を入ひません。たゞ御師匠にだけ御願ひを申上げたいといつてゐます。どうも氣狂ひと存じますから、思ひ止まらせようとしますが、いつもやつてきます。これから何う致したら、よろしいものかと思ひまして、御耳に入れます』
そこで師匠の畫家は言葉鋭く答へた。『なぜ、誰もそのことを今日まで言つて呉れなかつた?』して、自身で門へ行つて、彼も昔貧しかつたことを想起し乍ら、親切に女に話しかけた。施捨を求めるのかと尋ねた。
が、女は金錢も食物も要らないが、たゞ自身の畫を描いてもらひたいとの希望を述べた。彼はその願を怪しんで、女を家へ入らせた。女は玄關へ入つて、跪いて、携へてきた包の紐の結び目を解き始めた。包を開けたのを見ると、畫工は黃金模樣の刺繡を施せる華麗珍奇な絹の衣裳を認めた。しかし使ひ損じと、年月の經過のために、擦り粍らされ、色は褪めて、當年の全盛を偲ばせる白拍子の衣裳の名殘であつた。
老女が一つ一つ衣裳を擴げ、慄へる指で皺を伸ばさうとする間、ある記憶が畫家の腦裡に動いて、しばらく漠然と浸み渡つたが、不意に燃え上つた。その追想の優しい衝動の裡に、彼は再び淋しい山家を見た――彼が無報酬の欵待を受けた家、彼の臥床を設けられた小さな室、紙の蚊帳、佛壇の前に微かに輝く燈明、深夜そこでたゞ獨り踊つてゐた人の異樣な美しさを見た。そこで、老齡の訪問者の驚いたことには、この諸國諸大名の寵を受けてゐる彼が、彼女の前に低頭していつた。『瞬間でも御顏を忘れてゐた無禮を宥して下さい。しかし最早お互に御目にかゝつてから、四十年を越えました。今はよく思ひ起しました。あなたは甞て御宅へ私を迎へて下さつたのです。あなたは唯二つしかない寢床を私に讓つて下さいました。私はあなたの踊を見、またあなたから一切身の上話を聞かせてもらひました。あなたは白拍子でした。して、私はその御名を忘れは致しませぬ』
彼がさう云ふと、女は喫驚困惑して、始めは答へも出來なかつた。といふのは、年は老い、また非常に艱苦を甞め、且つ記憶力さへ衰へかけてゐたからであつた。が、彼がますます親切に話を向け、昔彼女がいつたことをさまざま思出させ、彼女が佗住居してゐた家の狀況を説いて聞かせると、女もまた思ひ出だし、喜悦の涙を浮べて云つた。『たしかに祈願を見そなはし玉ふ觀昔樣のお導きです。しかし不束な家へ先生が御出下さつた頃は、私も今のやうではありませんでした。先生が御覺え下さつたのは、佛樣の御奇蹟のやうに存じます』
それから、女はあれから後の彼女の簡單な物語をした。幾星霜の後、彼女は貧乏のため、かの小さな家を手離さねばならなかつた。で、年が寄つてから、彼女の名の夙くに忘れられてゐた大都會へ獨り歸つてきた。彼女の家を失つたのは心苦しかつた。しかし年老い、身體弱くなつでは、いとしい亡き人の靈を慰めるために、最早毎夜佛壇の前で踊ることの出來ないのが、更につらかつた。踊りの衣裳姿の畫を描いてもらつて、佛壇の前へ掛けたいのであつた。これがために、觀音に熱心な祈願をしてゐた。して、亡き人のために、平凡な作品でなく、最も優れた畫が望ましいため、この大畫家の名聲を慕つて、尋ねてきたのであつた。で、踊の衣裳を携へてきたから、それを着た姿を描いて貰ひたいと願つた。
彼は親切うな微笑を呈しつゝ一切の話を聽いた。それから『御望みの繪を描くことは、欣んで致します。今日は延期の出來ない、是非仕上げねばならぬことがありますが、明日こゝヘ御出下されば、御望み通り、また私も全力を盡して、描いて上げますよ』と答へた。
しかし女はいつた。『わたしはまだ一番、氣にかゝつてゐることを御話申し上げてゐませんのです。それは、それほど御手數を煩はしまても、御謝料と申しましては、白拍子の衣裳の外、何も差上げる譯に參らないことです。それも昔は高價なもので御座いましたが、その品物と致しましては三文の値段にもなりませぬ。でも、今では白拍子もゐなくなりまして、當節の舞妓はこんな衣裳を着けませんから、珍らしい物と思召になつて、先生が御受け下さるかとも存じましたので』
『そのことは、すこしも御心配に及びません』と、親切なる畫家は叫んだ。『これで昔の御恩を幾分かでも御返へしが出來れば、私は嬉しい次第です。だから明日、御望み通り描いてあげます』
女は三拜して、禮を陳べ、それから、また云つた。『失禮で御座いますが、もう少し申上げたく存じます。それは何卒このやうな今のわたしでなく、昔御覽になつたやうな、わたしの若い頃の姿をお描き下さいますやう』
彼は『私はよく記憶してゐます。あなたは非常に御綺麗でした』といつた。
是等の言葉に對して、女が感謝の辭儀をした時に、皺のよつた容貌は、嬉しさうに輝いた。して、女は叫んだ。『では、いよいよ祈願が叶ふことになりました。かやうに不束なわたしの若い頃を御覺え下さつてゐるからには、どうぞこのまゝでなく、御親切にも、みにくゝは無かつたと、今仰せ下さいました通りの、わたしの昔の姿を御描き下さいませ。どうか、先生、わたしを今一度若くして下さいませ。亡くなりました人の靈に美しく見えますやう、美しくして下さいませ。その人のための祈願で御座います。先生の名畫を拜見致しますれば、あの人もわたしの最早踊れないのを勘忍して呉れませうから』
もう一度、畫家は彼女に安心をさせて、それから云つた。『明日御出下されば、描いて上げますよ。私が見た時のやうな、若い美しい白拍子のあなたを描いてあげます。また、三國一の大富豪から依賴を受けたと同樣に、念を入れて、うまくやつて見せませう。御心配なく、たゞ御出なさい』
[やぶちゃん注:「施捨」「せしや(せしゃ)」は「喜捨」に同じい。惜しむ心を捨てて喜んで財物を施し、捨て放つことを言う。これは仏・法・僧の三宝を守るための慈悲の「施し」である同時に、自らを財物への悪しき執着や物欲を「捨て去る」ための方途でもある故に「施捨」なのである。]
Ⅳ.
Many years passed by, and many fashions with
them; and the painter became old. But ere becoming old he had become famous.
Princes, charmed by the wonder of his work, had vied with one another in giving
him patronage; so that he grew rich, and possessed a beautiful dwelling of his
own in the City of the Emperors. Young artists from many provinces were his
pupils, and lived with him, serving him in all things while receiving his
instruction; and his name was known throughout the land.
Now, there came one day to his house an old woman, who asked to speak with him. The servants, seeing that she was meanly dressed and of miserable appearance, took her to be some common beggar, and questioned her roughly. But when she answered: 'I can tell to no one except your master why I have come,' they believed her mad, and deceived her, saying: 'He is not now in Saikyō, nor do we know how soon he will return.'
But the old woman came again and again,— day
after day, and week after week,— each time being told something that was not
true: 'To-day he is ill,' or, 'To-day he is very busy,' or, 'To-day he has much
company, and therefore cannot see you.' Nevertheless she continued to come,
always at the same hour each day, and always carrying a bundle wrapped in a
ragged covering; and the servants at last thought it were best to speak to
their master about her. So they said to him: 'There is a very old woman, whom
we take to be a beggar, at our lord's gate. More than fifty times she has come,
asking to see our lord, and refusing to tell us why,— saying that she can tell
her wishes only to our lord. And we have tried to discourage her, as she seemed
to be mad; but she always comes. Therefore we have presumed to mention the
matter to our lord, in order that we may learn what is to be done hereafter.'
Then the Master answered sharply: 'Why did
none of you tell me of this before?' and went out himself to the gate, and
spoke very kindly to the woman, remembering how he also had been poor. And he
asked her if she desired alms of him.
But she answered that she had no need of
money or of food, and only desired that he would paint for her a picture. He
wondered at her wish, and bade her enter his house. So she entered into the
vestibule, and, kneeling there, began to untie the knots of the bundle she had
brought with her. When she had unwrapped it, the painter perceived curious rich
quaint garments of silk broidered with designs in gold, yet much frayed and
discolored by wear and time,— the wreck of a wonderful costume of other days,
the attire of a shirabyōshi.
While the old woman unfolded the garments
one by one, and tried to smooth them with her trembling fingers, a memory
stirred in the Master's brain, thrilled dimly there a little space, then
suddenly lighted up. In that soft shock of recollection, he saw again the
lonely mountain dwelling in which he had received unremunerated hospitality,— the
tiny room prepared for his rest, the paper mosquito-curtain, the faintly
burning lamp before the Buddhist shrine, the strange beauty of one dancing
there alone in the dead of the night. Then, to the astonishment of the aged visitor,
he, the favored of princes, bowed low before her, and said: 'Pardon my rudeness
in having forgotten your face for a moment; but it is more than forty years
since we last saw each other. Now I remember you well. You received me once at
your house. You gave up to me the only bed you had. I saw you dance, and you
told me all your story. You had been a shirabyōshi, and I have not forgotten
your name.'
He uttered it. She, astonished and confused,
could not at first reply to him, for she was old and had suffered much, and her
memory had begun to fail. But he spoke more and more kindly to her, and
reminded her of many things which she had told him, and described to her the
house in which she had lived alone, so that at last she also remembered; and
she answered, with tears of pleasure: 'Surely the Divine One who looketh down
above the sound of prayer has guided me. But when my unworthy home was honored
by the visit of the august Master, I was not as I now am. And it seems to me
like a miracle of our Lord Buddha that the Master should remember me.'
Then she related the rest of her simple
story. In the course of years, she had become, through poverty, obliged to part
with her little house; and in her old age she had returned alone to the great
city, in which her name had long been forgotten. It had caused her much pain to
lose her home; but it grieved her still more that, in becoming weak and old,
she could no longer dance each evening before the butsudan, to please the
spirit of the dead whom she had loved. Therefore she wanted to have a picture
of herself painted, in the costume and the attitude of the dance, that she
might suspend it before the butsudan. For this she had prayed earnestly to
Kwannon. And she had sought out the Master because of his fame as a painter,
since she desired, for the sake of the dead, no common work, but a picture
painted with great skill; and she had brought her dancing attire, hoping that
the Master might be willing to paint her therein.
He listened to all with a kindly smile, and
answered her: 'It will be only a pleasure for me to paint the picture which you
want. This day I have something to finish which cannot be delayed. But if you
will come here to-morrow, I will paint you exactly as you wish, and as well as
I am able.'
But she said: 'I have not yet told to the
Master the thing which most troubles me. And it is this,— that I can offer in
return for so great a favor nothing except these dancer's clothes; and they are
of no value in themselves, though they were costly once. Still, I hoped the
Master might be willing to take them, seeing they have become curious; for
there are no more shirabyōshi, and the maiko of these times wear no such
robes.'
'Of that matter,' the good painter
exclaimed, 'you must not think at all! No; I am glad to have this present
chance of paying a small part of my old debt to you. So to-morrow I will paint
you just as you wish.'
She prostrated herself thrice before him,
uttering thanks and then said, 'Let my lord pardon, though I have yet something
more to say. For I do not wish that he should paint me as I now am, but only as
I used to be when I was young, as my lord knew me.'
He said: 'I remember well. You were very
beautiful.'
Her wrinkled features lighted up with
pleasure, as she bowed her thanks to him for those words. And she exclaimed:
'Then indeed all that I hoped and prayed for may be done! Since he thus
remembers my poor youth, I beseech my lord to paint me, not as I now am, but as
he saw me when I was not old and, as it has pleased him generously to say, not
uncomely. O Master, make me young again! Make me seem beautiful that I may seem
beautiful to the soul of him for whose sake I, the unworthy, beseech this! He will
see the Master's work: he will forgive me that I can no longer dance.
Once
more the Master bade her have no anxiety, and said: 'Come tomorrow, and I will
paint you. I will make a picture of you just as you were when I saw you, a
young and beautiful shirabyōshi, and I will paint it as carefully and as skillfully
as if I were painting the picture of the richest person in the land. Never
doubt, but come.'
三
若い旅人には女主人の睡眠を犧牲にするやうな親切が、いかに氣の毒に思はれて、それを受け容れ難くはあつたが、寢床はなかなかに心地よく感ぜられた。彼は餘程疲勞してゐたから木枕の土に頭を載せるや否や、一切のことを睡夢の裡に忘れてしまつた。
しかし彼が奇異な音によつて目を醒まされた時には、まだ眠つてから間もない程のやうに思はれた。たしかに跫音ではあるが、物靜かに歩く足の音ではなかつた。寧ろ興奮せる急速の跫音と思はれた。だから、強盜の侵入ではないかとも心に浮んだ。自身については損失となるほどのものも持たないから、心配にも及ばなかつた。彼の憂慮は主として彼に欵待を與へた親切なる女に對してであつた。紙の蚊帳の兩側には、四角形の小さい褐色の網が小窓のやうに嵌めてあつたので、それから外を覗いて見た。が、如何なることの起こつてゐるにせよ、高い屛風に塞がれて、見えやうはなかつた。呼んで見ようと思つたが、若し眞に危險の場合ならば、狀況をも究めないで、自身を現はしては、無效に歸し、また思慮を缺くだらうといふ考によつて、この衝動は抑へられた。彼を不安ならしめた物音は、續いて行つて、ますます不思議になつた。彼は萬一の覺悟をして、必要の際は、若い女主人を防禦せんがために、一身を賭けようと決心した。急いで着物を緊めて、窃と蚊帳の下から拔けて出で、屛風の端へ這つて行つて窺つた、彼が見た光景は、全く彼を喫驚させた。
燈明の輝いた佛壇の前で、若い女は華かな服裝をして、獨りで踊つてゐた。彼は彼女の衣裳を白拍子のそれと認めた。尤も從來白拍子が着てゐるのを見たものに比すれば遙かに華麗であつた。衣裳によつて天晴れ引立つた彼女の美は、その淋しい時刻と場處に於て見ると、殆どこの世とも思はれぬほどであつた。が、更に一層驚くべきは彼女の踊りであつ た。霎時彼は凄い疑惑が疼くのを感じた。百姓達の迷信なる狐婆の物語が、彼の念頭に閃いた。が、佛壇の光景、觀音の畫像が、その空想を散らし、その愚かさに對して彼を恥ぢ入らせカ。同時に彼は女が彼に見られるのを欲しないものを注視してゐるのだと氣付いたので、客の義務として、すぐに屛風の背後に歸らねばならぬと悟つた。しかしその光景は彼を魅惑した。彼は愕き乍らもまた空前の妙舞を欣賞せざるを得なかつた。して、眺め入るに從つて、彼女の魅力はますます加つた。不意に彼女は喘ぎ乍ら停まつた。帶を解いた。上衣を脱がうとして振り向いた。すると、彼女の眼が彼の眼と出逢つて、びつくりした。
彼は直ちに女に詫び入つた。彼は突然急速な跫音に目が醒めたので、夜は更けて、淋しい場處だから、女主人のため不安に思つたのだと云つた。それから、踊りを見て驚いたこと、その妙技に心を奪はれたことを告白した。『どうか私の好奇心を宥して下さい』と彼はつゞけていつた。『私にはあなたが何と申すお方か、また何うしてかやうな踊りの名手になられたものか、それが不思議で堪まりませぬから。西京の舞妓は皆見ましたが、まだいかほど有名な女でも、あなたに及ぶものはありません。それで、一たび拜見しましてからは、私の眼を外づす譯に參らなかつたのです』
始め彼女は立腹の樣子に見えたが、彼の言葉の終はらぬ内に、表情は變つてゐた。彼女は微笑を浮べ、彼の前に坐つて云つた。『いえ、怒つてはゐません。たゞ御覽になつたのを遺憾に存じますだけなのです。嘸あのやうに獨りで踊つてゐたのを、氣狂ひとでも御考へなさつたのでせうから。では、その譯を申上げねばなりません』
それから、彼女は身の上話をした。彼は少年の時、女の名を聞いたことを思ひ出した――彼女の藝名は白拍子中最も有名な名であつた。彼女は都門の竃を一身に蒐めてゐた。それがその名聲と美の眞盛りに、一朝何故とも、何處へとも知れず、華やかな世界から消え失せた。彼女はその愛人なる靑年と相携へて、富と幸運から逃れ去つたのであつた。靑年、は貧しかつたけれども、彼等は二人で筒易且つ幸福な田舍の生活を營むだけの資産を有した。彼等は山間に小さな住宅を作り、數年間たゞ互同志を中心に暮らした。男は彼女を拜まんばかりに愛慕してゐた。彼の最大の樂しみの一つは、彼女が踊るのを見ることであつた。毎夜彼は得意の曲を奏し、彼女は彼のために踊るのであつた。が、或る冬の長い寒さに、彼は病に罹つて、彼女のやさしい看護の效もなく、亡くなつた。それから後、女は死んだ人に献げるさまざまの儀式を行ひつゝ、男の名殘を伴侶として獨りで暮らしてきた。日毎に位牌の前へは慣例の供物を供へ、夜毎に昔通り彼を慰めるために踊つた。若い旅人が目擊した踊りは、かやうな次第であつた。彼女は説明をつゞけて、疲れた客の目を醒ましたのは無禮であつたこと、しかし彼が熟睡したと思はれるまでは控へてゐたこと、それから、極めて輕やかに踊るやうにしたことを述べて、全く覺えず知らず彼の安眠を妨げたことの寛恕を求めた。
彼女は一切の話を終つてから、少しの茶を薦め、二人で飮んだ。それから、哀訴せんばかりに、彼に再び寢に就くやう懇願したので、彼も止むなく、幾多衷心からり謝わりを述べ乍ら、また蚊帳の下へ歸つて行つた。
彼は充分長く熟睡した。目を醒ますと、日は既に高かつた。起きてみると、昨夕と同じい質素な食事が、彼に準備してあつた。彼は飢ゑてゐたけれども、女が彼のために自らの食物を節約したかも知れないので、控へ目に食べた。して、彼は出立の用意をした。しかし彼が受けた一切の待遇に對して謝禮の金を拂はうとしたとき、女は何をも受けることを拒んだ。『差し上げましたものは、お金をいたゞくほどのものでなく、また何を致しましたのもたゞ厚意からなのです。どうか、こゝで御困りになつたことは御忘れ下すつて、何と云つで差上げますものもありませんでしたが、たゞ心持だけを御汲み取つていたゞきますれば』と云つた。
彼はそれでも幾らか彼女に取らせようと努力した。しかしたうとう、いかに強ひても彼女を困らすばかりと知つたので、言葉を盡して感謝を陳べ、別かれを告げた。して、心の中では、立去るのを遺憾に思つた。彼女の美しさと上品さは、彼が彼女以外のものには告白しかねる程、彼を惹きつけたからであつた。彼女は彼にこれから先きの道を示し、山を下つて行く彼の姿が沒するまで見守つてゐた。一時間後に、彼は本道に出でた。最早道筋はよくわかつた。すると、急に殘念な思ひが浮んだ。彼は自分の名を女に告げることを忘れたのであつた。瞬間彼は躊躇した。それから、『何、どうでもよい。俺はいつまでも貧乏だから』と獨言をいつた。して、彼は旅をつゞけた。
[やぶちゃん注:「霎時」は何度も出てきているが、ここらで再注しておく。「せふじ(しょうじ)」と読み、「暫時」に同じい。暫くの間。一寸の間。
「欣賞」「きんしやう(きんしょう)」で「歓び、褒め、味わう」の謂いであろう。
「嘸」老婆心乍ら、副詞の「さぞ」である。]
Ⅲ.
Unwilling as the young traveler felt to
accept a kindness involving the sacrifice of another's repose, he found the bed
more than comfortable. He was very tired, and had scarcely laid his head upon
the wooden pillow before he forgot everything in sleep.
Yet only a little while seemed to have
passed when he was awakened by a singular sound. It was certainly the sound of
feet, but not of feet walking softly. It seemed rather the sound of feet in
rapid motion, as of excitement. Then it occurred to him that robbers might have
entered the house. As for himself, he had little to fear because he had little
to lose. His anxiety was chiefly for the kind person who had granted him
hospitality. Into each side of the paper mosquito-curtain a small square of
brown netting had been fitted, like a little window, and through one of these
he tried to look; but the high screen stood between him and whatever was going
on. He thought of calling, but this impulse was checked by the reflection that
in case of real danger it would be both useless and imprudent to announce his
presence before understanding the situation. The sounds which had made him
uneasy continued, and were more and more mysterious. He resolved to prepare for
the worst, and to risk his life, if necessary, in order to defend his young
hostess. Hastily girding up his robes, he slipped noiselessly from under the
paper curtain, crept to the edge of the screen, and peeped. What he saw
astonished him extremely.
Before her illuminated butsudan the young
woman, magnificently attired, was dancing all alone. Her costume he recognized
as that of a shirabyoshi, though much richer than any he had ever seen worn by
a professional dancer. Marvelously enhanced by it, her beauty, in that lonely
time and place, appeared almost supernatural; but what seemed to him even more
wonderful was her dancing. For an instant he felt the tingling of a weird
doubt. The superstitions of peasants, the legends of Fox-women, flashed before
his imagination; but the sight of the Buddhist shrine, of the sacred picture, dissipated
the fancy, and shamed him for the folly of it. At the same time he became
conscious that he was watching something she had not wished him to see, and
that it was his duty, as her guest, to return at once behind the screen; but
the spectacle fascinated him. He felt, with not less pleasure than amazement,
that he was looking upon the most accomplished dancer he had ever seen; and the
more he watched, the more the witchery of her grace grew upon him. Suddenly she
paused, panting, unfastened her girdle, turned in the act of doffing her upper
robe, and started violently as her eyes encountered his own.
He tried at once to excuse himself to her.
He said he had been suddenly awakened by the sound of quick feet, which sound
had caused him some uneasiness, chiefly for her sake, because of the lateness
of the hour and the lonesomeness of the place. Then he confessed his surprise
at what he had seen, and spoke of the manner in which it had attracted him. 'I
beg you,' he continued, 'to forgive my curiosity, for I cannot help wondering
who you are, and how you could have become so marvelous a dancer. All the
dancers of Saikyō I have seen, yet I have never seen among the most celebrated
of them a girl who could dance like you; and once I had begun to watch you, I
could not take away my eyes.'
At first she had seemed angry, but before he
had ceased to speak her expression changed. She smiled, and seated herself
before him.' 'No, I am not angry with you,' she said. 'I am only sorry that you
should have watched me, for I am sure you must have thought me mad when you saw
me dancing that way, all by myself; and now I must tell you the meaning of what
you have seen.'
So she related her story. Her name he remembered
to have heard as a boy,— her professional name, the name of the most famous of
shirabyoshi, the darling of the capital, who, in the zenith of her fame and
beauty, had suddenly vanished from public life, none knew whither or why. She
had fled from wealth and fortune with a youth who loved her. He was poor, but
between them they possessed enough means to live simply and happily in the
country. They built a little house in the mountains, and there for a number of
years they existed only for each other. He adored her. One of his greatest
pleasures was to see her dance. Each evening he would play some favorite
melody, and she would dance for him. But one long cold winter he fell sick,
and, in spite of her tender nursing, died. Since then she had lived alone with
the memory of him, performing all those small rites of love and homage with
which the dead are honored. Daily before his tablet she placed the customary
offerings, and nightly danced to please him, as of old. And this was the explanation
of what the young traveler had seen. It was indeed rude, she continued, to have
awakened her tired guest; but she had waited until she thought him soundly
sleeping, and then she had tried to dance very, very lightly. So she hoped he
would pardon her for having unintentionally disturbed him.
When she had told him all, she made ready a
little tea, which they drank together; then she entreated him so plaintively to
please her by trying to sleep again that he found himself obliged to go back,
with many sincere apologies, under the paper mosquito-curtain.
He slept well and long; the sun was high
before he woke. On rising, he found prepared for him a meal as simple as that
of the evening before, and he felt hungry. Nevertheless he ate sparingly,
fearing the young woman might have stinted herself in thus providing for him;
and then he made ready to depart. But when he wanted to pay her for what he had
received, and for all the trouble he had given her, she refused to take
anything from him, saying: 'What I had to give was not worth money, and what I
did was done for kindness alone. So! pray that you will try to forget the
discomfort you suffered here, and will remember only the good-will of one who
had nothing to offer.'
He still endeavored to induce her to accept
something; but at last, finding that his insistence only gave her pain, he took
leave of her with such words as he could find to express his gratitude, and not
without a secret regret, for her beauty and her gentleness had charmed him more
than he would have liked to acknowledge to any but herself. She indicated to
him the path to follow, and watched him descend the mountain until he had
passed from sight. An hour later he found himself upon a highway with which he
was familiar. Then a sudden remorse touched him: he had forgotten to tell her
his name. For an instant he hesitated; then he said to himself, 'What matters
it? I shall be always poor.' And he went on.
二
戸を叩いて數囘呼んでから、漸つと内側に何か動く氣配がした。それから、何の御用ですかと尋ねる女の聲がした。その聲は殊の外美しかつた。またその姿は見えぬ女の言葉が、彼を喫驚させた、といふのは、彼女は都の洗練された言葉で話したからである 彼は修業の中の靑年であること、山中で這に迷つたこと、出來るならば、食事と一夜の宿を得たいこと、それから、もしそれが出來ないならば、最寄りの村へ行く道を教へて貰つても有難く思ふといふことを答へた――それに案内者を雇ふ費用は、充分有つてゐることも附加へた。返答として彼女の聲は、更に二三のことを質ね返へした。彼の通つてきた方向から、その家へ達し得たことを、女は非常に驚いた樣子であつた。が、彼の答によつて、明かに疑ひを晴らしたものの如く、内側から叫んで言つた。『すぐ參ります。今晩、村へお出になるのは御困難でせう――道中が御危うございますから』
暫く手間取つてから、雨戸が開かれ、女が提燈を持つて現れた。自身は影にゐえ、旅人の顏を照らすやうに、それを翳した。彼女は無言のまゝ、彼を吟味し、それから簡單に云つた。『お待ち下さい。水を持つて參りますから』彼女は盥を取つてきて、それを戸口の階段の上に載せ、また手拭を薦めた。彼は草鞋を脱ぎ、足を洗つて、旅の塵を拂ひ、して、さつぱりした室へ案内された。その室が家の内部全體を占めて、背後に小さな板圍ひをした場所が、臺所となつてゐるやうであつた。木綿の座布團が出され、また火鉢が彼の前ヘ置かれた。
その時、彼は始めて女主人を觀察する好機會を得た。して、彼は彼女の容貌の美麗と優雅に驚いた。年齡は彼より三歳乃至四歳位多いかも知れないが、まだ若い盛りであつた。たしかに彼女は田舍娘ではなかつた。前と同じく殊の外、美くしい聲で彼に語つて云つた。『今は獨り者でゐますので、こゝへ客をお泊め申す譯には參りませんが、これから先きヘ今夜お歩きになるのは、屹度お危うございます。二三の百姓家も程遠からぬ處にありますが、この暗さではそこへも案内無くては、道がお分かりかねます。ですから、明朝まで御留め申上げます。御粗末では御座いますが、夜具を御用立てますから。それから、御空腹でいらつしやるでせうから、たゞまづい精進料理なんですが、どうか御遠慮なく召しあがつて下さい』
註。精進料埋は、少しも動物類の材
料を含まない佛教の食物である。あ
る種の精進料理は、頗る食慾を促す。
飢ゑでゐた旅人は、この勸めを非常に欣んだ。若い女は小さな火を焚いて、默つたまゝ、二三の料理を調へた――菜の葉を煮たもの、油揚、干瓢、それに一杯の粗飯――それから、その食物の性質について、詫び乍ら、手早く客の前へ出した。が、彼の食事中、女は殆ど物を云はなかつたので、その打解けぬ樣子は彼を困惑させた。彼が試みた二三り質問に對し、彼女は單に點頭いたり、或は僅かに一語の返答をするに止まるので、彼は間もなく談話を控へて了つた。
兎角する内に、彼はこの小さな家は一點の塵を留めぬほど淸潔で、彼の食事に用ひられた器物は、また申分の無いものであつたことを觀察した。室内にある數個の安い道具も小綺麗であつた。押入や膳棚の紙障は、たゞ白紙ではあるが、大きな漢字の立派な揮毫で飾られてゐた。その文字は、かゝる裝飾の法則に隨つて、詩人や畫家の好む題材――春花、秋月、夏雨、山と海、空と星、河水或は秋風――に因んだものであつた。室の一方の側には、一種の低い垣に佛壇が載せられて、その漆塗りの小さな扉が開いてゐる處から、内部の位牌が見えて、野花が捧げられた間には、燈明が輝いてゐた。して、この佛間の上には月の光背を負つカ觀音像の、並々ならぬ價値ある畫がかかつてゐた。
靑年が僅かの食事を濟ましてから、女は云つた。『立派な夜具を差上げる譯に參りません。また紙の蚊帳が一枚しかありません。夜具と蚊帳とも私の使つてゐます品ですが、今夜はいろいろの用事がありまして、私は寢る時間が無いのですから、どうか御休みなすつて下さい。まことに御粗末さまで相濟みませんが』
彼はそこで、彼女は何か不思議な理由があつて、全くの獨り暮らしだので、厚意的口實の下に彼女の唯一の寢具を彼に薦めてゐるのだと悟つた。彼はかゝる過度の欵待に對して眞面目に抗議を申立て、床の上、何處でも熟睡が出來ること、それから蚊も少しも頓着しないことを斷言した。しかし彼女は姉のやうな口調で、是非とも彼女の希望に從つて呉れと言つた。實際彼女には或る仕事があるから、出來る限り早く勝手にさせて戴きたい。だから、彼を紳士だと心得てゐる以上、彼が彼女の希望通りに處置させて呉れるものと信じてゐるといつた。そこには唯だ一つの室より無かつたから、彼はこの言葉に對して、抵抗は出來なかつた。彼女は布團を延べ、木枕を持出だし、紙の蚊帳を吊るし、寢床の横の佛壇の方へは、大きな屏風を擴げ、それから、彼がすぐに寢につくことを望むやうな素振を見せて、お休みを告げた。彼は思ひも寄らね厄介を女にかけることを考へて、躊躇し乍らも、その言葉に應じて寢に就いた。
[やぶちゃん注:「欵待」「かんたい」で款待・歓待に同じい。「款」「欵」は、孰れも「親しみ・よしみ」の意である。]
Ⅱ.
Not until he had knocked and called several
times did he hear any stir within; then a woman 's voice asked what was wanted.
The voice was remarkably sweet, and the speech of the unseen questioner surprised
him, for she spoke in the cultivated idiom of the capital. He responded that he
was a student, who had lost his way in the mountains; that he wished, if
possible, to obtain food and lodging for the night; and that if this could not
be given, he would feel very grateful for information how to reach the nearest
village,— adding that he had means enough to pay for the services of a guide.
The voice, in return, asked several other questions, indicating extreme
surprise that anyone could have reached the dwelling from the direction he had
taken. But his answers evidently allayed suspicion, for the inmate exclaimed:
'I will come in a moment. It would be difficult for you to reach any village
to-night; and the path is dangerous.'
After a brief delay the storm-doors were
pushed open, and a woman appeared with a paper lantern, which she so held as to
illuminate the stranger's face, while her own remained in shadow. She scrutinized
him in silence, then said briefly, 'Wait; I will bring water.' She fetched a wash-basin,
set it upon the doorstep, and offered the guest a towel. He removed his
sandals, washed from his feet the dust of travel, and was shown into a neat
room which appeared to occupy the whole interior, except a small boarded space
at the rear, used as a kitchen. A cotton zabuton was laid for him to kneel
upon, and a brazier set before him.
It was only then that he had a good
opportunity of observing his hostess, and he was startled by the delicacy and
beauty of her features. She might have been three or four years older than he,
but was still in the bloom of youth. Certainly she was not a peasant girl. In
the same singularly sweet voice she said to him: 'I am now alone, and I never
receive guests here. But I am sure it would be dangerous for you to travel
farther tonight. There are some peasants in the neighborhood, but you cannot
find your way to them in the dark without a guide. So I can let you stay here
until morning. You will not be comfortable, but I can give you a bed. And I
suppose you are hungry. There is only some shōjin-ryōri, [7]— not at all good,
but you are welcome to it.'
The traveler was quite hungry, and only too
glad of the offer. The young woman kindled a little fire, prepared a few dishes
in silence,— stewed leaves of na, some aburagé, some kampyō, and a bowl of
coarse rice,— and quickly set the meal before him, apologizing for its quality.
But during his repast she spoke scarcely at all, and her reserved manner
embarrassed him. As she answered the few questions he ventured upon merely by a
bow or by a solitary word, he soon refrained from attempting to press the
conversation.
Meanwhile he had observed that the small
house was spotlessly clean, and the utensils in which his food was served were
immaculate. The few cheap objects in the apartment were pretty. The fusuma of
the oshiire and zendana [8] were of white paper only, but had been decorated
with large Chinese characters exquisitely written, characters suggesting,
according to the law of such decoration, the favorite themes of the poet and
artist: Spring Flowers, Mountain and Sea, Summer Rain, Sky and Stars, Autumn
Moon, River Water, Autumn Breeze. At one side of the apartment stood a kind of
low altar, supporting a butsudan, whose tiny lacquered doors, left open, showed
a mortuary tablet within, before which a lamp was burning between offerings of
wild flowers. And above this household shrine hung a picture of more than
common merit, representing the Goddess of Mercy, wearing the moon for her
aureole.
As the student ended his little meal the
young woman observed: I cannot offer you a good bed, and there is only a paper
mosquito-curtain The bed and the curtain are mine, but to-night I have many
things to do, and shall have no time to sleep; therefore I beg you will try to rest,
though I am not able to make you comfortable.'
He then understood that she was, for some
strange reason, entirely alone, and was voluntarily giving up her only bed to
him upon a kindly pretext. He protested honestly against such an excess of
hospitality, and assured her that he could sleep quite soundly anywhere on the
floor, and did not care about the mosquitoes. But she replied, in the tone of
an elder sister, that he must obey her wishes. She really had something to do,
and she desired to be left by herself as soon as possible; therefore,
understanding him to be a gentleman, she expected he would suffer her to
arrange matters in her own way. To this he could offer no objection, as there
was but one room. She spread the mattress on the floor, fetched a wooden
pillow, suspended her paper mosquito-curtain, unfolded a large screen on the
side of the bed toward the butsudan, and then bade him good-night in a manner
that assured him she wished him to retire at once; which he did, not without
some reluctance at the thought of all the trouble he had unintentionally caused
her.
7
Buddhist food, containing no animal substance. Some kinds of shōjin- ryōri are
quite appetizing.
8
The terms oshiire and zendana might be partly rendered by
'wardrobe' and 'cupboard.' The fusuma are
sliding screens serving as doors.
図―715
図―716
今日蜷川の葬儀が行われ、私も招かれて参加した。彼は虎列刺(コレラ)で死んだので、その時は公な葬式が許されず、今や、三ケ月後になって、それが行われるのである。私は早くから竹中と一緒に、上野の後方にある墓地へ行き、葬列の来るのを待つ間、墓石を二 つ三つ写生し、そこで葬列が来たらそれをむかえる可く、主要な並木路を見ていた。間もなく葬列が来た。先ず竹竿のさきに新しい、白張の掟灯をつけたのを持った男が十二人、彼等は白い衣服をつけ、絹製の奇妙な形をした、黒い儀式用帽子をかぶっていた(図715)。これに続いて、巨大な花束を持った男が二人、次に六人の男が肩でかついだ長い物、つまり棺。これは勿論からだが、蟻川の死骸を代表している(図716)。これに従うのが送葬者で、蜷川の姉と坊、その他私の知らぬ人が何人か、歩いたり、人力車にのったりして来た。私は屢々このような葬列を往来で見て、本物だろうと思っていたが、その多くが単に名義上の葬式であることを知った。棺架は、四方がひらいた、然し風で前後にはためく白い幔幕でかこまれた、大きな建物の内にはこび込まれた。まったく寒い日で、そこに帽子を脱いで坐っていることは、楽ではなかった。
[やぶちゃん注:「蜷川」既注であるが、彼の葬儀のシークエンスであるので再掲する。モースの陶器収集の師であった蜷川式胤(にながわのりたね 天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)は京都東寺の公人(くにん:社寺に属して雑事に従った職員。)蜷川子賢の子として生まれ、明治二(一八六九)年新政府の制度取調御用掛として上京、太政官権少史・外交大録・文部省博物局御用・内務省博物館掛などを歴任したが、明治十年に病により辞任、この間、明治四年に開催された九段坂上の物産会、翌五年の湯島聖堂に於ける博覧会の開催に尽力、同年には近畿地方の社寺宝物検査に従事してもいる。その際、正倉院宝物調査の記録を残したことでもよく知られる。また、文化財の調査保存や博物館の開設を政府に建議し、日本の古美術を海外に紹介した功も大きい(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠る追加)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『民法編纂事業に参加してフランス民法を翻訳、同年四月外務省大録』(第十一等官)、『ついで五年から十年まで文部省博物局に在籍して社寺宝物調査に従事、正倉院や伊勢神宮を調査した。当時第一流の好古家で、陶磁器や古瓦などに造詣が深かった』。モースとは『明治十一年の晩秋までにはすでに交流があったと思われる』が、『両者の接触がいちじるしく緊密になるのは明治十二年に入ってからで、『蜷川日記』を見ると、一月から四月までにに約三〇回も会っている』とあり、彼の指導によって『モースの』陶器への『鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった』という。『こうして始まったモースの日本陶器コレクションの大半は、いまボストン美術館に納められており、現存点数は四七四六という。海外はもとより、国内にも単一のコレクションとしては並ぶものがほとんどない』とある。本書でも「第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし」(この陶器は考古学上の土器ではなく、本物の陶磁器のこと)などで、おいおい語られてゆくこととなる。因みに、モースは『漢字が読めなかったが、貝類を分類し同定(種類の識別)するのとまったく同じ流儀で、陶工の銘を子細に識別できた。このような熱心さを知って、師匠の蜷川も本腰を入れて指導したから、モースの鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった。「めんないちどり」といって、両眼を手拭で覆い、手と指の感触だけで焼物がどの系統の何焼か、誰の作かを当てる競技があるそうだが、蜷川式胤の孫の蜷川親正氏が父から聞いたところでは、モースはこの競技での正解率随一の人だったという』とある。モースが関西旅行中の八月二十一日に蜷川式胤は東京でコレラのために逝去していた。この葬儀の日付は明らかではないが(そもそも多くの蜷川の事蹟記載のコレラという死因説は、何と、本書のモースの記載に拠ったものであることが判った)、モースの「三ケ月後」というのが正確であるとすれば、治一五(一八八二)年の十一月中下旬に行われたということになる。描写の最後でしきりにモースが寒がっていることからも、既に初冬に近いことが判る。
「上野の後方にある墓地」谷中霊園。蜷川式胤の墓もここにある。
「大きな建物」推測であるが、これは現存しない私設の谷中斎場ではないかと思われる。ここは後に森鷗外・芥川龍之助・大杉栄と伊藤野枝などの葬儀も行われている知られた斎場であった。]
図―717
図717は、式が始った時、この建物の内部を、急いで写生したものである。棺架は左方に、二つの支持脚の上に、のっている。花は棺架の端の花入台に入っている。次に漆塗の卓が二個、その一つは他よりも背が低く、大きい方の卓には、蜷川の名前を書いた木の札が立てかけてある。これは葬列が持って来たので、一時的の墓石として使用される。卓には磨き上げた真鍮の盃その他や、黒い漆塗の台にのせた食物や、簡単な木造の燭台に立てた六木の蠟燭等がのっている。
いずれも頭をまるめ鬚(ひげ)を剃った僧侶が、美麗な錦襴の衣を纏って入って来て、写生図に示すような位置に坐った。両側の床几は主な会葬者の坐るところである。私は右側に、一人の高僧の隣に腰をかけた。この人は何等かの理由で他の僧侶達と一緒にならず、只祈りをいい続けた。坐っている僧侶は、祈禱書を開いて自分等の前の床上に置いたが、それはまるで見なかった。頭の僧侶が始めた、低い、つぶやくような音に、追々他の僧侶が加って行った。その昔は、私が何一つ、明晰な語を聞き出すことが出来なかったことから判断すると、恐らくまるで意味が無いのであろうが、興味が無いことは無かった。それは悼歌のように聞えた。このつぶやきがしばし行われた後、一人の僧侶が一対の大きな鐃鈸(ぎょうばつ)を取り上げて数回ガチャンガチャンと鳴らした。すると他の僧侶達は短い祈禱をなし、両手の内で頭をぐるぐる廻し、頭をひょっと動かしてそれをやめ、再び誦経を始めたが、風は寒いし、これが永遠に続きそうな気がした。次に頭の僧侶(写生図に示す彼の頭は、実に正確に書いてある)が、再び鐃鈸が鳴った後で立ち上り、紙を大きく畳んだものを開いて、悲哀に満ちた、葬式的な音調で、蜷川の略歴、つまり彼が何であり、何をなした云々というようなことを、読み上げた。
[やぶちゃん注:蜷川の生家は前に記した通り、京都の東寺の公人であったから、これは真言宗による葬儀式と一応考えておく。
「鐃鈸(ぎょうばつ)」銅製の皿状の物を二枚打ち合わせて音を出すシンバル状の法会の際などに用いる鳴物の仏具。通常は「にょうばつ」「にょうはつ」「にょうはち」と読み、「鐃鉢」とも書くが、この「鐃鈸」の表記が正しい。]
図―718
この時蜷川の姉が立ち上り、図718に “incence”と記してある卓の前に立った。この卓の上には炭火を入れた物があり、その両側に香を入れた小さな容器がある。彼女は先ず両手を握り合せて低くお辞儀をし、左手の箱から香の一片を取って炭の上にのせ、再び低くお辞儀をして、席に戻った。次に甥が同じようなことをすると、驚いたことに、私の隣に坐っている日本人が、私に行けとつつくではないか。私は出来るだけの日本語で、彼に先にやってくれ、あなたのすることを一生懸命に見ているからと囁(ささや)いた。すると彼は、右側の箱から香を取った。いよいよ私が出て行かねばならなかったが、坊主が八人も並んでいる前で手を合わせ、低くお辞儀をし、右手の箱から香を出さねばならぬのだから、多少あわてざるを得なかった。
[やぶちゃん注:あなたはモースのように慌てたことはないか? 私はある。右と左の違いなぞもあるのかないのか気になって、大いに今でも時々私は慌てる。
「“incence”」「香」「香料」の意。]
涙を流すこともなく、その他の悲嘆の情も見えなかったが、この儀式には確かに真面目さと、荘厳ささえもがあった。建物の近くには五、六十人が立っていたが、恐らく帽子をかぶらぬ外国人が、長いアルスター外套を着て、会葬者の中にいるという新奇な光景を、不思議に思った事であろう。焼香が済むと式は終った。蜷川の姉は六十を越した老婦人であるが、私のところへ来て、会葬してくれた親切を謝した。甥も私に感謝した。妻は翌日まで墓地へ行かない。この理由で蜷川夫人はこの式に列しなかつた。図718はこの式の平面略図で、僧侶や会葬者の位置を示すものである。
[やぶちゃん注:「アルスター外套」原文“ulster”。ダブル前で丈長の、ベルト及び着脱式フード及びケープの付いた耐寒耐水性の強い旅行用のコートである。名称は一八六七年頃にアイルランドのアルスター地方に誕生したことに由来するというから、この頃(明治一五(一八八二)年)はまだ比較的新しい製品であったものと考えてよいであろう。ここはサイト「Windsor-Heritage for Gentleman 着こなしの知恵と源流、ウィンザー公へのオマージュ」の「アルスター」に拠ったがそこには、『もともとアイルランドでの旅行用外套がやがて、イングランドでも使われるようになったものである』とし、一八七〇年代の『アルスターは男性用のみならず、旅行となれば女性にも使われたと』も言われ、第二次世界大戦『前までのイギリスでのアルスターは、ごく一般的なコートであった』とある。
「妻は翌日まで墓地へ行かない。この理由で蜷川夫人はこの式に列しなかつた」この異様な葬送儀礼については不学にして私は知らない。識者の御教授を乞うものである。]
図―719
図―720
図―721
図719は仏教の墓石で、これは古い形式である。石にあいている穴は、花を入れるためのものである。仏教の墓には、精神的の名前、即ち死後につける名前を使用する。神道だと、死者の本名と、彼の生涯の略歴とを刻む。神道の墓石は、それを切り出した時の、自然その儘の劈裂面を見せている。720と721の両図は神道の墓石である。
[やぶちゃん注:三基の墓はこの葬儀の折り、谷中にあるものをモースがスケッチしたものであろう。図719には墓石に、
「誓通教願信士(墓?)」
とあり、その下に二行で
「明治□□」「九月□□」
香立(ハーンの花立は誤り)には、
「森八」
(姓にしてはちょっとおかしい気もするが屋号か?)、背後の卒塔婆には、
「一月普現一切」
の文字が判読出来る。これは六祖慧能の法嗣である永嘉真覚(ようかしんかく)の「証道歌」の中の一節(訓読と訳は私の自在勝手版)、
一月普現一切水、一切水月一月攝諸。佛法身入我性、我性還共如來合。
(一月(げつ)普(あまね)く一切の水に現じ、一切の水月、一月に攝(せつ)す。諸佛の法身(はふしん)、我が性(せい)に入り、我が性、還(ま)た如來と合す。:中天の一箇の月は如何なる流れにも遍くその姿を映し、総ての流れに映る諸々の月影は中天の一箇の月に収束される。諸仏のまことの法身は己れの自性(じしょう)のうちに入り、己れの自性もまた如来とともにある。)
のそれの頭と読めるから、この墓主の宗旨は禅宗と思われる。「誓通教願信士」なり戒名の人物は不詳。
図720は一番右が、
「明治十五年二月書之」
二行目は、
「南部藩士」
主碑銘が、
「相馬大作之碑」
で、その左は
「施主 市川右團次」
「同藩士(以下、判読不能)」
と読めるように思う。驚くべきことに、これはかなり知られた人物の顕彰碑であることが判った。文政四(一八二一)年四月二十三日に南部藩(盛岡藩とも呼称)士下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主津軽寧親を襲った暗殺未遂事件の主犯下斗米秀之進の用いた別名がまさに相馬大作で、本事件は相馬大作事件とも呼ばれる。ウィキの「相馬大作事件」によれば、もとは古くからの『弘前藩主・津軽氏と盛岡藩主・南部氏の確執』を遠因とするもので(詳しくはリンク先を参照されたい)、『杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ』、翌文政五年八月に『千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられ』たとある。また、『東京都台東区の谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので』明治一五(一八八二)年二月に『右団次によって建立された』とある(下線やぶちゃん)。初代市川右團次(天保一四(一八四三)年~大正五(一九一六)年)は上方の派手なケレンを得意とした歌舞伎役者として知られる。ネット検索で谷中霊園甲二号五側に現存することが判った。
図721は、墓石に
「淺野善兵衛之墓」
香立に。
「淺野」
とある。「淺野善兵衛」なる人物は不詳。昔だったら、明日にでも谷中に探索に行くところだが。……何方か、代わりに探って下さるまいか?
「劈裂」「ヘキレツ」と音読みしているのであろう。「劈」は訓では劈(つんざく)く・劈(さ)くと読む。]
一
今も猶、さうであるが、昔は日本の若い畫家は、全國各地を徒歩で旅行する風があつた。それは名所を見たり、寫したり、且つまた多くは非常に風致に富める地にある寺院に藏せらるゝ名畫宍佳什を研究するためであつた。主もにかゝる遍歷の結果として、今日非常に珍重せられるゝかの風景畫や、風俗畫の美麗な書籍が出來たのだ。それによると、日本人のみが日本の風景を描き得ることを最もよく示してゐる。讀者が日本畫家の日本の自然を解釋する技巧に昵じんでくると、同じ方面に於ける外國人の試作は、妙に平凡無氣力と見えてくるだらう。外國の畫家は、彼の見るものの寫實的映像を與へる。しかしそれ以上の何をも與へない。日本の畫家は彼の感じたもの――季節の氣分、正しくその時間、その場所の精確なる感じを與へる。彼の作品は西洋の藝術には滅多にない暗示力の特質を有する。西洋の畫家は緻密なる細部を現はし、彼の惹き起こす想像力を滿足させる。が、東洋の彼の同胞畫家は、細部を抑へてしまうか、または理想化する――遠いものを霧に浸したり、風景に雲を纏はせたりして、彼の經驗を單に奇異なもの、美しいもののみが、其感覺と共に殘つてゐる記憶となすのである。彼は想像力に超越し、それを興奮させ、それをしてただ瞥見の中に認めた美を、慕ひに慕はしめるまゝにしておく。それにも係らず彼はかゝる瞥見に於ても、一種の殆ど魔法と思はるゝやうな方式で、ある時の感じ、ある場所の感じを表現することが出來る。彼はさつぱりした現實よりは、寧ろ回想と感覺の畫家だ。して、こゝに彼の驚くべき力の祕訣が存してゐる――この力は彼が感興を得た場面を未だ嘗て見ざる人では、味到し得られない。就中彼は非個人的だ。彼の描ける人物の形は、すべての個人性を缺いてゐる。しかもある階級の特徴を示す類型として無比の價値を有する――百姓の子供らしい好奇心、少女の羞恥、女郎の媚態、武士の自己意識、子供の可笑しげに、落付いた可愛らしさ、老人の諦め悟つた温和。放行と觀察によつてこの藝術は、發達させられた。それは決して畫房の所産ではなかつた。
餘程のこと、繪書修業の一靑年が、京都から江戸へ山を越えて、徒歩で旅をしてゐた。當時は道路の數は乏しく、また惡路であつたので、旅行は、今と比ぶれば非常に困難で『可愛い子には旅をさせ』、といふ諺も行はれてゐた。しかし土地は今とは異らなかつた。今と同じやうな杉や松の森、竹藪、草葺の屋根を有する尖つた村落があつた。泥濘の中に腰を曲げた百姓の大きな黃色の藁笠が、段々をなして相連る稻田の中に點綴せる光景も同じであつた。路傍からは今と同じ地藏の像が、今と同じ寺へと辿つて行く巡禮者に笑顏を向けてゐた。して、今と同じく、夏の日には、すべての淺い川の中には褐色の裸の子供が笑つてゐて、すべての川は太陽に向つて笑つてゐた。
が、繪畫修業の靑年は、「可愛い子」でも何でもなかつた。彼は從來幾多の旅をして、粗食と荒々しい宿に馴れ、あらゆる難境をも堪へて利用してきた。しかし今度の旅には、あい夕方既に暗くなつてから、食物も宿も獲られさうにない、田や畠の見えない地方に入込んだ。或る村へ達しようと、山を越えて捷徑を求めた際、道に迷つたのであつた。
月はなく、松の蔭のため、その邊は眞暗であつた。彼の迷い込んだ處は、全く荒涼たる土地のやうに思はれた。ただ松風の音と鈴蟲の絶え間なく鳴く聲ばかりであつた。彼は躓きながら進むで行つた。どこかの川の堤へ達すれば、それに隨ひて村落へ出られるものと思つてゐた。たうとう一本の川が突然彼の道を遮つたが、それは絶壁の峽間に注ぐ急流であつた。止むを得ず後戻りをして、最も近い絶頂へ登つて、そこから人里の徴候を認めようと決心した。が、そこへ達してみると、’見渡す處、たゞ山岳重疊であつた。
彼が丁度星の下で、その夜を過ごさうと覺悟してゐると、登つてきた山の向うの方の坂の下に、まさしく或る人家から洩れ出る一つの細い黃色の燈光を認めた。彼はその方へ足を進めて、やがて百姓の家らしい一軒の小屋を發見した。先きに見た燈光は、まだその鎖せる雨戸の隙から流れてゐた。彼は急いで行つて、戸を叩いた。
[やぶちゃん注:……ハーン先生……今に日本ではもう……先生が微笑しながらおっしゃられたように、「しかし土地は今とは異らなかつた。今と同じやうな杉や松の森、竹藪、草葺の屋根を有する尖つた村落があつた。泥濘の中に腰を曲げた百姓の大きな黃色の藁笠が、段々をなして相連る稻田の中に點綴せる光景も同じであつた。路傍からは今と同じ地藏の像が、今と同じ寺へと辿つて行く巡禮者に笑顏を向けてゐた。して、今と同じく、夏の日には、すべての淺い川の中には褐色の裸の子供が笑つてゐて、すべての川は太陽に向つて笑つてゐた。」と語ることは出来ぬようになってしまいました……
「昵じんで」老婆心乍ら、「なじんで」と読む。対象に対して馴れ親しむと、の意。昵懇(じっこん)の「昵」。
「捷徑」老婆心乍ら、「せふけい(しょうけい)」と読む。敏捷のの熟語から判る通り、「捷」は早いの意、「徑」は小道で、近道のこと。]
Ⅰ.
It was formerly, and indeed still is, a
custom with young Japanese artists to travel on foot through various parts of
the empire, in order to see and sketch the most celebrated scenery as well as
to study famous art objects preserved in Buddhist temples, many of which occupy
sites of extraordinary picturesqueness. It is to such wanderings, chiefly, that
we owe the existence of those beautiful books of landscape views and life
studies which are now so curious and rare, and which teach better than aught
else that only the Japanese can paint Japanese scenery. After you have become
acquainted with their methods of interpreting their own nature, foreign
attempts in the same line will seem to you strangely flat and soulless. The
foreign artist will give you realistic reflections of what he sees; but he will
give you nothing more. The Japanese artist gives you that which he feels,— the
mood of a season, the precise sensation of an hour and place; his work is
qualified by a power of suggestiveness rarely found in the art of the West. The
Occidental painter renders minute detail; he satisfies the imagination he
evokes. But his Oriental brother either suppresses or idealizes detail,— steeps
his distances in mist, bands his landscapes with cloud, makes of his experience
a memory in which only the strange and the beautiful survive, with their
sensations. He surpasses imagination, excites it, leaves it hungry with the
hunger of charm perceived in glimpses only. Nevertheless, in such glimpses he
is able to convey the feeling of a time, the character of a place, after a
fashion that seems magical. He is a painter of recollections and of sensations
rather than of clear-cut realities; and in this lies the secret of his amazing
power,— a power not to be appreciated by those who have never witnessed the
scenes of his inspiration. He is above all things impersonal. His human figures
are devoid of all individuality; yet they have inimitable merit as types
embodying the characteristics of a class: the childish curiosity of the
peasant, the shyness of the maiden, the fascination of the jorō the
self-consciousness of the samurai, the funny, placid prettiness of the child,
the resigned gentleness of age. Travel and observation were the influences
which developed this art; it was never a growth of studios.
A great many years ago, a young art student
was travelling on foot from Kyōto to Yedo, over the mountains The roads then
were few and bad, and travel was so difficult compared to what it is now that a
proverb was current, Kawai ko wa tabi wo
sase (A pet child should be made to travel). But the land was what it is
to-day. There were the same forests of cedar and of pine, the same groves of
bamboo, the same peaked villages with roofs of thatch, the same terraced
rice-fields dotted with the great yellow straw hats of peasants bending in the
slime. From the wayside, the same statues of Jizō smiled upon the same pilgrim
figures passing to the same temples; and then, as now, of summer days, one
might see naked brown children laughing in all the shallow rivers, and all the
rivers laughing to the sun.
The young art student, however, was no kawai ko: he had already travelled a
great deal, was inured to hard fare and rough lodging, and accustomed to make
the best of every situation. But upon this journey he found himself, one
evening after sunset, in a region where it seemed possible to obtain neither
fare nor lodging of any sort,— out of sight of cultivated land. While
attempting a short cut over a range to reach some village, he had lost his way.
There was no moon, and pine shadows made
blackness all around him. The district into which he had wandered seemed
utterly wild; there were no sounds but the humming of the wind in the
pine-needles, and an infinite tinkling of bell-insects. He stumbled on, hoping
to gain some river bank, which he could follow to a settlement. At last a
stream abruptly crossed his way; but it proved to be a swift torrent pouring
into a gorge between precipices. Obliged to retrace his steps, he resolved to
climb to the nearest summit, whence he might be able to discern some sign of
human life; but on reaching it he could see about him only a heaping of hills.
He had almost resigned himself to passing
the night under the stars, when he perceived, at some distance down the farther
slope of the hill he had ascended, a single thin yellow ray of light, evidently
issuing from some dwelling. He made his way towards it, and soon discerned a
small cottage, apparently a peasant's home. The light he had seen still
streamed from it, through a chink in the closed storm-doors. He hastened
forward, and knocked at the entrance.
原節子――悼
第二十二章 舞妓について
[やぶちゃん注:この冒頭のエピローグは特異的にだらだらと長い。あまり注を打つ必要も感じないことから、必要な箇所では途中の段落の最後に附した。段落が繋がっているところは稍読み難いかも知れぬ。]
日本の宴會の始めほど靜かなものはない。日本人でない以上は、誰人も開宴の光景を見て、結末の賑かさを恐らくは想像し得ないだらう。
羽織を着た客達は、全く昔を立てずに、また物も云はないで、座布團の上に、彼等の席に就く。漆塗の食膳が彼等の前に疊の上に据ゑられる。それを運んでくる女中達の、露出せる足は、少しの音も立てない。暫くの間は、一座たゞで微笑と輕い動搖があるのみで、恰も夢の中のやうだ。外部からの聲も減多に聞えて來ない。それは料理屋の座敷は、通常潤やかな庭園で街路を隔ててゐるからだ。たうとう饗宴の主人が、上品なお定まり文句で鎭靜を破る。『お粗末で御座いますが――どうぞ御箸を!』そ乙で客は一同默禮して、箸を取上げ、食べはじめる。しかし箸は、巧みに使はれて、音は少しも聞えない。女中達が極めて靜肅に、客毎にその杯へ熱い酒を注ぐ。して、二三の料理品を食べてしまつて、數杯の酒を乾した後で、漸くにして喋々の語聲が起つてくる。
すると、忽然わつと輕く笑ひ出し乍ら、數名の若い娘が入つてくる。彼等はお定まりのお辭儀をする。列座の客の中間にある、廣い場處へ滑べるやうに行つて、酒を勸める。その歡待振りの優美と巧妙は、普通の娘では企及し得な。彼等は綺麗で、絹の贅澤な服裝をして、女王のやうな帶をつけてゐる。して、銘々の美しく結つた髮には、造花や、驚くべき櫛や留針や珍らしい金の飾りが附けてある。彼等は初對面の客に向つても、以前から知るつてゐた如くに挨拶をする。彼等は冗談をいひ、笑ひ、きゃつくやつと面白さうに叫ぶ。
これが宴席に聘せられる藝者なのである。
註。京都の言葉では舞妓といふ。
三味線が響く。藝者は通例の來客よりも更に多數を容れ得る大廣間の一端にある廣やかな處へ退いて、數名のものは年齡の一寸分かりかねるやうな一人の女の指揮の下に、囃の組を作る。それには數個の三味線と、少女が打つ小さな太鼓がある。他のものは、一人づつで、又は二人づつの組になつて、舞踊する。それは全く優美な姿勢から成つた、輕快で陽氣な踊りで、二人の娘はいかにも數年の稽古を積んだればこそ始めて出來るやうに、よく足を揃へ、身振を一致させて、共に踊るのだ。が、私共西洋人が舞踏と稱するものに似てゐるよりは、寧ろ所作に似てゐる場合が一層多い――袖や扇子を異常に振つたり、眼や容貌を美はしく、機敏に、控へ目に、全然東洋風に動かせたりして所作を演ずる。藝者の 行ふ舞踊に、もっと肉感的なのもあるが、通常の場合や、上品な客の面前では、彼等は日本の美くしく古い傳説、例へば海神の娘に愛された漁師浦島の傳説のやうなものを活寫する。また折々はただ數個の美辭を以て天眞爛漫たる感情を旨く鮮やかに表現せる、古い漢詩を吟ずることもある。して、絶えず酒を注ぐ――その熱い、淡黃色の、睡氣を催す酒は、柔かな滿足を客の血管に漲らせ、陶然恍惚裡に入らせる。すると、阿片を喫した人の醉眼に映ずる如く、平凡は驚異喜樂と變はり、藝者は極樂の少女と變はり、世界は事物自然の理では、到底あり得べくもないほど立派な光景に變つてくる。
最初非常に靜かな宴會が、段々と賑かな騷ぎになつて行く。客の列は亂れて、三々五々の集團となる。藝者は笑ひながら、喋りながら、この一團から、彼の一團へと移つて、酒を注ぐ。酒杯は叩頭の禮を以て献酬される。客が古い武士の歌、即ち漢詩を吟じ始める。一人か二人は、踊るものさへある。或る藝者は膝まで衣裳を捲くり上げる。して、三味線は『金毘羅、舟、舟』の急調を奏し始める。その音樂につれて、彼女は輕快敏捷に8の字の形に走る。それから、酒德利と杯を持つたまゝ、一人の若い客も同じ8の字形に走る。もし兩人が線の上で出逢へば、衝突の失策を起した方が、一杯の酒を飮まねばならぬ。音樂はますます早くなつて、走るものもますます早く走る。それは彼等は調子に合はせねばならぬからだ。して、藝者が勝を占める。室の他の方面では、客と藝者が拳をやつてゐる。彼等は拳を打ち乍ら歌ふ。相向き合つて、手を拍ち、折々小さな絶叫を發して、勢よく指を差し出す。して、三味線が拍子を取る。
註。酒杯を杯泉で漱いでから、他客
と交換することが習慣である。友人
の酒杯を求むるのは、厚意の表彰で
ある。
ちよいと どんどん! お互だね、
ちよいと どんどん! 御出でましたね、
ちよいと どんどん! しまひましたね。
さて藝者と拳を打つのは、全然冷靜なる頭腦、敏捷なる眼、それから多大の熟練を要する。子供時代からあらゆる種類の拳を打つことに仕込まれてゐるから――しかも拳の種類は多い――萬一彼女の敗ける場合があつても、それは概して禮儀上から敗けるのに過ぎない。最も普通の拳の表象は、庄屋と狐と鐡砲である。もし藝妓が鐡砲の表象をすれば、相手の客は直ぐに、音樂に合はせて庄屋の表象をせねばならぬ。庄屋へ向つて發砲することは禁制だからである。もし相手が庄屋の表象をすると、彼女は狐の表象を以て應ずる。狐は人間を瞞して、客の負けとなる。して、もし彼女が最初狐の表象をすると、客は鐡砲の表象をせねばならぬ。それで狐を殺すことが出來る。しかし始終、男は女の明眸軟手を注意してゐなければならぬ。眼も手も美くしいから、ただ瞬間でも男が油斷して、その美しさを考へでもすると、それに惱殺されて負けを取ることになる。
訳者註。原文の拳の説明を少しく修正して置いた。
外見上では、非常に親しさうであるが、日本の宴席では客と藝者の間には、一種の嚴重な禮儀が、いつも守られてゐる。いかほど客の顏が酒で赧らんできでも、彼が女を愛撫しようとするのを見受けることはない。女は單に人間の花として、宴席に現はれたので、眺めるためであつて、決して觸れるためでないといふことを彼は忘れない。日本に於ける漫遊の外客が、屢々藝妓や給仕女に對して無遠慮な馴々しさに陷るのは、假令微笑を以て耐へ忍ばれてゐても、實際は頗る嫌惡されてゐるので、またこれを傍觀する日本人からは、非常に俗惡下劣の證據と見做されてゐる。
暫くの間、快興は加つて行く。しかし、夜半が近づくに隨つて、客は一人々々いつの間にか分らぬやうに、こつそりと去つて行く。それから賑ひは次第に消えて、音樂は止む。たうとう藝妓は最後の客を玄關まで送り出して、『左樣なら』と笑ひ聲で叫んだ後、長い間空腹でゐた彼等は、靜まり返つた廣間で、始めて彼等の食事に就くことが出來る。
藝妓の役目はかやうなものだ。が、彼女の裏面はどんなもの?彼女の思想、感情、彼女の祕密な身の上はどんなもの?煌々たる宴席の燈光圈を離れ、酒の霧が枝女の周圍に釀せる幻影外に於ける、彼女の生活の眞面目はどう?
君と寢やるか、五千石取るか。
何の五千石、君と寢よう。
と、昔の歌を彼女が愚弄するやうに、甘美な聲を迸らせて歌つてゐる際の如く、いつも彼女は惡戲者だらう?或は、また
お前死んだら、寺へはやらぬ、
燒いて粉にして、酒で飮む。
と、彼女がうまく歌ふ、其熱烈なる約束を守り得るものと、彼女を思つてもよいだらう?
『何、それについては』と、或る友が私に告げた。『つい昨年のこと、大阪のお鎌といふ藝妓は、その歌の通りにやりましたよ。荼毘に附した戀人の屍灰を酒に混ぜて、宴會の客の前で飮んださうです』多數の客の前で!物語に取つて惜しいことだ!
[やぶちゃん注:「物語に取つて惜しいことだ!」原文は“Alas for romance!”。平井呈一氏は『こりゃまたどうも、お座のさめた話だ。』と訳しておられる。眼か鱗。]
註。昔、藤枝外記といふ將軍旗下が
ゐた。五千石の肋を受けてゐた――
當時に於ては大なる收入であつた。
しかし彼は吉原の遊女綾絹と戀に落
ちて、彼女を妻にしようと願つた。
彼の上司が、祿と戀のいづれかを選
べと彼に嚴命した時、男女の戀人達
は密かに或る農家へ逃げて行つて、
心中をした。そこで、兩人に關して
上の歌が作られた。今猶、それは歌
はれる。
[やぶちゃん注:「藤枝外記」(宝暦八(一七五八)年~天明五(一七八五)年)は実在した江戸中期の大身旗本。旗本徳山貞明の八男で旗本藤枝貞雄(さだお)の養子となった。天明五年八月十四日に江戸吉原の大菱(おおびし)屋の遊女綾衣(あやぎぬ)と心中し、藤枝家は改易となった。享年二十八。ハーンが述べている通り、「君と寝ようか五千石とろか、何の五千石君と寝よ」と俗謡に唄われ、箕輪(みのわ)心中として知られる(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。次にウィキの「藤枝教行」(ふじえだのりなり:彼の本名)から引く。『旗本。藤枝外記(ふじえだ
げき)の通称でも知られる』。『藤枝貞雄の養子となった』後、『妻のみつ(養父の義理叔父の山田利寿の娘)との間に』三男一女をもうける』。『石高は武蔵国および相模国内に』四千石(後述)。『屋敷は湯島妻恋坂』にあった。『家祖は、徳川家光側室の順性院(お夏)の父の藤枝重家。重家は、元は京都町人の弥市郎といったが、娘のお夏に家光の手がつき懐妊し、徳川綱重の生母となったため、重家は士分に取り立てられて岡部八左衛門重家と名乗った。のちに甲府藩主となった綱重の家老となり藤枝重家と改名した。綱重の子の徳川家宣が将軍に就任した際に甲府藩領は天領となり、家臣団は幕臣として吸収され、藤枝家の子孫は幕府にて』四千五百石の『大身旗本となった』。『大身である教行は、新吉原江戸町一丁目の妓楼大菱屋九右衛門抱えの遊女綾絹(綾衣とも。妻みつと同じ年の』十九歳であった)『と深い仲になった。綾絹の身柄を裕福な商人が身請けするという話を聞いたとも、吉原遊びが幕府の知れるところとなり甲府勤番支配に回されることとなりそうになったともいうが、いずれにせよ綾絹に会えなくなると思いつめ、吉原から綾絹を(正式な手続き無しで)連れ出し逃走した。しかし程なく追っ手に見つかり、進退窮した二人は餌指』(えざし:鷹の餌となる小鳥を捕らえる職)『(農家とも)の家で心中した』。『藤枝家では教行ではなく家人の辻団右衛門が死んだことにしてその死を隠蔽しようとしたが、やがて幕府役人に露見し、妻とその母本光院は縁者宅の一室に押し込め処分となり、藤枝家は改易処分となった。江戸でこの事件は大きな話題を呼び「君とぬやるか(寝ようか)五千石とるかなんの五千石君とねよう」』という『端唄が流行した。実際の藤枝家の知行は』四千石から四千五百石であって五千石には満たなかったが、『語呂が良いので俗謡にはそのように謡われた』とある。『改易ののち、次男の安十郎は外祖父の山田利寿のもとに寓居し、三男の寅之助は従弟徳山貞栄のもとに寓居した』。『この事件を題材にして、のちに岡本綺堂が「箕輪心中」を著した』とある。青空文庫の岡本綺堂「箕輪心中」をリンクしておく。]
藝妓の一團の住む家には、奇異な像が床の上に置いてある。それは粘土製のこともある。稀には黃金で作られ、藻ttも普通には陶器で作られる。それは拜まれ、菓子や餅や酒などの供物が上げられ、その前に線香が燻ぶり、燈明が輝いてゐる。それは猫の像である。直立して、一本の足を伸ばして招くやうな形をしてゐるから、『招き猫』といふ名がある。それは氏神樣だ。それは幸運、富豪の贔屓、宴遊者の眷顧を齎らす。それで、藝妓の本性を知つてゐる人々は、この像は取りも直さず藝妓の像だと斷言する――冗戲好きで、綺麗で、柔かで、若くて、しなやかで、愛撫的で、而かも燒き盡くす火の如く殘酷だ。
[やぶちゃん注:「眷顧」「けんこ」と読む。特別に目をかけること。贔屓に同じい。]
また彼等は更に一層わるいことを彼女に關して語つてゐる――彼女の蔭には貧之神が寄り添つて歩いてゐる。狐婆は彼女の姉妹だ。彼女は靑年の滅亡者、財産の蕩盡者、家族の破壞者だ。彼女は戀を單に彼女の利益となるべき放蕩の源としてのみ知つてゐる。して彼女が墓を作つてやつた人々の財産によつて、みづからの富を作る。彼女は可受らしい僞善の最上の熟練家、最も危險なる陰謀者、最も飽くことを知らざる射利漢、最も冷酷の情婦だ。それは全部眞實とは云へないが、これだけは眞實だ――職業上藝妓は、小猫の如くに肉食の猛獸なのだ。實際眞に愛らしい小猫も澤山ある通り、眞に愉快な藝妓もあるに相違ない。
[やぶちゃん注:「狐婆」不詳。原文は“the
Fox-women”で「婆」はどこから出てきた訳語なのか不審。これは若い女に化けることが多い妖狐のことを指しているのであろう。平井氏はまさにここを『女に化ける化けギツネは、あれは芸者の兄弟分だ』と訳しておられる。
「射利漢」「しやりかん(しゃりかん)」。「射利」とは、手段を選ばずに只管(ひたすら)に利益のみを得ようと考えることを言うから、そういう金の亡者の卑劣漢の謂いである。]
藝妓はたゞ、靑春と優美だけを混ぜた戀、殘念といふ心や、責任といふ觀念の加はらぬ戀の幻影を慕へる、愚かな人間の慾情に應ずるために作られたものに過ぎない。だから、彼女は拳を打つことの外に、感情を戲弄する手管をも教へられてゐる。さて、宇宙永遠の法則によれば、人間はこの不幸な世の中で三つのものを除けば如何なる遊びをしても無害である。三つといふのは、生、愛、死だ。是等三者は神々の手に保留されてある。といふのは、誰人も是等を戲弄すると災を招かずに居れないからだ。だから拳或は少くとも圍碁以上、更に電大なる遊びを藝者と共にすることは、神々の御氣に入らないのである。
藝妓の經歷は奴隷として始まる。貧窮な親から綺麗な子を契約の下に買受けて、十八年、二十年乃至二十五年間も、買主は彼女を使用する權利がある。彼女は藝者達だけの住む家で、養はれ、着物を與へられ、藝を仕込まれる。して、子供時代、嚴しい訓練の下に過ごす。彼女は禮儀作法や、優美な風姿や、鄭重な言葉を教へられる。また幾多の歌の文句と曲調を諳誦せねばならぬ。それから、遊戲や、宴會婚禮の給仕や、衣裳の着こなし、美容の法を知らねばならぬ。彼女の有する身體上の藝能は、すべて注意して修養される。後に及んで樂器を取扱ふことを教へられる。先づ鼓を教へられる。これは餘程の練習なくては、すこしも音を發しない。つぎに鼈甲または象牙の撥で、少しく三味線を彈くことを習ふ。八歳或は九歳の頃は、後女は主として鼓を打つものとして宴席に侍する。そのとき彼女は最も可愛らしい子供であつて、鼓を二回打つ間に、徳利を一と振りふつて、一滴も零さないで、正しく滿々と酒を杯に注ぐことを、最早知つてゐる。
それから後は、彼女の訓練は一層殘酷となる。彼女の聲は充分柔靱自在ではあるが、まだ力が足りない。冬の夜の最も凍つた時刻に、屋根へ出でて、血が指から沁み出で、聲が嗄れてしまうまで、歌つたり彈いたりせねぱならぬ。その結果猛惡な風邪に罹るのが目的だ。或る期間の嗄れた囁き聲を經過すると、彼女は聲の調子が變はり、力が出來て、客の前へ出で、歌ひ踊る資格を得る。
[やぶちゃん注:「柔靭」「じうじん(じゅうじん)」は、しなやかでありながら、しかも強いさまを言う。]
この資格で彼女は通常、十二歳乃至十三歳で初目見をする、もし綺麗で上手であれば、招聘が繁くなつて、一時間二十錢乃至二十五錢の割合で報酬を受ける。そこで始めて彼女の買主は、これまでの稽古に注ぎ込んだ時間、費用、骨折に對して拂戻しが出來てくるのであるが、しかも買主は兎角寛大ではない。これから多年の間、彼女の一切の儲けは、買主の手に歸して行く。彼女はすこしも得る處なく、自身の衣裳さへも所有しない。
[やぶちゃん注:「初目見」「おめみえ」と訓じておく。]
十七八歳にもなると、彼女は技藝の上で名聲を博してゐる。最早幾百の藝醼に侍したので、一見して、町の重要な人物、一人々々の性格、すべての客の身の上がわかる。彼女の生活は、主もに夜間の生活で、藝妓となつてからは、旭日の昇るのを滅多に見ることはない。酒を飮んでも本心を失はぬやうに、七八時間食事をしないでも身に障らぬやうに慣れてきてゐる。幾多の戀人も有してゐる。或る程度まで、自分の好きな人に微笑を向けても勝手である。しかし彼女は何事にも優つて、彼女の魅力を自身の利益のために利用するやう、充分よく教へられてゐる。彼女を身受けする意志と能力ある人を見出さうと望んでゐる――その人は、戀の愚かさと諸行無常を説ける佛教の經文中に、幾多の新しく、立派な意味を、將來發見すること殆ど請合だ。
[やぶちゃん注:「藝醼」「ゲイエン」と音読みするようだ。「醼」は、宴(うたげ)の意であるから、芸者として宴席に出て、芸を披露することと解釈しておく。]
彼女の經歷の話を、この點で、私共は打切らう。これから後の彼女の物語は、彼女が若くて死ぬる場合を除けば、往々不快なものになり勝ちだからである。もし早世の節は、仲間から葬式を營まれ、その名殘りが種々の珍らしい儀式で保たれる。
時として、多分讀者が夜間日本の町を逍遙するとき、寺の山門から藝妓の鋭い聲と共に浮んでくる音樂を――三味線の音を耳にするだらう。それは奇異な事件と思はれるだらう。して、奥深い境内は見物の人で滿ちてゐる。それから郡集を押分けて、寺の階段に達すると、二人の藝妓が本堂の疊の上に坐し、三味線を彈き乍ら歌つてゐて、今一人のは小さな机の前で踊つてゐるのが見える。机の上には位牌が置かれ、机の前には小さな燈明が輝き、唐金の碗には線香が燃えてゐる。果實や菓子など、記念の式日に死人に供する習となつてゐる僅かの食品が献げてある。机の上の戒名は、ある藝者の戒名であつて、亡くなつた女の友達は、一定の日に寺へ集つて、彼女の靈を歌と踊を以て欣ばせるのだといふことがわかる。その場合には、希望のものは誰でも會費なくして、その式に參會することが出來る。
しかし昔の藝妓は、今日の藝妓のやうではなかつた。或るものは白拍子と呼ばれて、彼等の心は左ほど無情ではなかつた。彼等は美しかつた。彼等は黃金の飾をつけた、女王らしい形の帽子を被り、華麗な衣裳を纏ひ、大名の館で劍の舞をした。その一人についての昔話がある。私はそれは語る價値のあるものと思ふ。
[やぶちゃん注:「白拍子」ウィキの「白拍子」より引く。『白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人』で、『主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す』。『複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という』二人が『舞いだしたのが白拍子の起こりである」としている』。『また「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説している』。『白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かった』。『古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという』。『このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった』。『白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさす(時代が下ると色つきの衣装を着ることも多かった)という男装で歌や舞を披露した。伴奏には鼓、時には笛などを用いた』。『後に、猿楽などへと変貌していった。後に早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなった。また延年にも取り入れられ、室町時代初期まで残った』。『白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴紳に愛された白拍子も多い。また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い』とある。事典類では発生と呼称期を平安末期から室町初期にかけて、とする。]
ⅩⅩⅡ
OF A DANCING-GIRL.
NOTHING is more silent than
the beginning of a Japanese banquet; and no one, except a native, who observes
the opening scene could possibly imagine the tumultuous ending.
The
robed guests take their places, quite noiselessly and without speech, upon the
kneeling-cushions. The lacquered services are laid upon the matting before them
by maidens whose bare feet make no sound. For a while there is only smiling and
flitting, as in dreams. You are not likely to hear any voices from without, as
a banqueting-house is usually secluded from the street by spacious gardens. At
last the master of ceremonies, host or provider, breaks the hush with the consecrated
formula: 'O-somatsu degozarimasu ga!—dōzo
o-hashi!' whereat all present bow silently, take up their hashi
(chopsticks), and fall to. But hashi, deftly used, cannot be heard at all. The
maidens pour warm sake into the cup of each guest without making the least
sound; and it is not until several dishes have been emptied, and several cups
of sake absorbed, that tongues are loosened.
Then, all at once, with a little burst of
laughter, a number of young girls enter, make the customary prostration of greeting,
glide into the open space between the ranks of the guests, and begin to serve
the wine with a grace and dexterity of which no common maid is capable. They
are pretty; they are clad in very costly robes of silk; they are girdled like
queens; and the beautifully dressed hair of each is decked with mock flowers,
with wonderful combs and pins, and with curious ornaments of gold. They greet
the stranger as if they had always known him; they jest, laugh, and utter funny
little cries. These are the geisha, [1] or dancing-girls, hired for the
banquet.
Samisen [2] tinkle. The dancers withdraw to
a clear space at the farther end of the banqueting-hall, always vast enough to
admit of many more guests than ever assemble upon common occasions. Some form
the orchestra, under the direction of a woman of uncertain age; there are
several samisen, and a tiny drum played by a child. Others, singly or in pairs,
perform the dance. It may be swift and merry, consisting wholly of graceful
posturing,— two girls dancing together with such coincidence of step and
gesture as only years of training could render possible. But more frequently it
is rather like acting than like what we Occidentals call dancing,— acting
accompanied with extraordinary waving of sleeves and fans, and with a play of
eyes and features, sweet, subtle, subdued, wholly Oriental. There are more
voluptuous dances known to geisha, but upon ordinary occasions and before
refined audiences they portray beautiful old Japanese traditions, like the
legend of the fisher Urashima, beloved by the Sea God's daughter; and at
intervals they sing ancient Chinese poems, expressing a natural emotion with
delicious vividness by a few exquisite words. And always they pour the wine,— that
warm, pale yellow, drowsy wine which fills the veins with soft contentment,
making a faint sense of ecstasy, through which, as through some poppied sleep,
the commonplace becomes wondrous and blissful, and the geisha Maids of
Paradise, and the world much sweeter than, in the natural order of things, it
could ever possibly be.
The banquet, at first so silent, slowly changes to a merry tumult. The company break ranks, form groups; and from group to group the girls pass, laughing, prattling,— still pouring saké into the cups which are being exchanged and emptied with low bows [3] Men begin to sing old samurai songs, old Chinese poems. One or two even dance. A geisha tucks her robe well up to her knees; and the samisen strike up the quick melody, 'Kompira funé-funé.' As the music plays, she begins to run lightly and swiftly in a figure of 8, and a young man, carrying a saké bottle and cup, also runs in the same figure of 8. If the two meet on a line, the one through whose error the meeting happens must drink a cup of sake. The music becomes quicker and quicker and the runners run faster and faster, for they must keep time to the melody; and the geisha wins. In another part of the room, guests and geisha are playing ken. They sing as they play, facing each other, and clap their hands, and fling out their fingers at intervals with little cries and the samisen keep time.
Choito—don-don!
Otagaidane;
Choito—don-don!
Oidemashitané;
Chōito—don-don!
Shimaimashitane.
Now, to play ken with a geisha requires a
perfectly cool head, a quick eye, and much practice. Having been trained from
childhood to play all kinds of ken,— and there are many — she generally loses
only for politeness, when she loses at all. The signs of the most common ken
are a Man, a Fox, and a Gun. If the geisha make the sign of the Gun, you must
instantly, and in exact time to the music, make the sign of the Fox, who cannot
use the Gun. For if you make the sign of the Man, then she will answer with the
sign of the Fox, who can deceive the Man, and you lose. And if she make the
sign of the Fox first, then you should make the sign of the Gun, by which the
Fox can be killed. But all the while you must watch her bright eyes and supple
hands. These are pretty; and if you suffer yourself, just for one fraction of a
second, to think how pretty they are, you are bewitched and vanquished.
Notwithstanding all this apparent
comradeship, a certain rigid decorum between guest and geisha is invariably
preserved at a Japanese banquet. However flushed with wine a guest may have
become, you will never see him attempt to caress a girl; he never forgets that
she appears at the festivities only as a human flower, to be looked at, not to
be touched. The familiarity which foreign tourists in Japan frequently permit
themselves with geisha or with waiter-girls, though endured with smiling
patience, is really much disliked, and considered by native observers an
evidence of extreme vulgarity.
For a time the merriment grows; but as
midnight draws near, the guests begin to slip away, one by one, unnoticed. Then
the din gradually dies down, the music stops; and at last the geisha, having
escorted the latest of the feasters to the door, with laughing cries of Sayōnara, can sit down alone to break
their long fast in the deserted hall.
Such
is the geisha's role. But what is the mystery of her? What are her thoughts,
her emotions, her secret self? What is her veritable existence beyond the night
circle of the banquet lights, far from the illusion formed around her by the
mist of wine? Is she always as mischievous as she seems while her voice ripples
out with mocking sweetness the words of the ancient song?
Kimi to neyaru ka, go sengoku
toruka?
Nanno gosengoku kimi to neyo? [4]
Or might we think her capable of keeping
that passionate promise she utters so deliciously?
Omae shindara tera ewa yaranu!
Yaete konishite sake de nomu, [5]
'Why, as for that,' a friend tells me,
'there was O-Kama of Ōsaka who realized the song only last year. For she,
having collected from the funeral pile the ashes of her lover, mingled them
with sake, and at a banquet drank them, in the presence of many guests.' In the
presence of many guests! Alas for romance!
Always in the dwelling which a band of
geisha occupy there is a strange image placed in the alcove. Sometimes it is of
clay, rarely of gold, most commonly of porcelain. It is reverenced: offerings
are made to it, sweetmeats and rice bread and wine; incense smoulders in front
of it, and a lamp is burned before it. It is the image of a kitten erect, one
paw outstretched as if inviting,— whence its name, 'the Beckoning Kitten.' [6]
It is the genius loci: it brings
good-fortune, the patronage of the rich, the favor of banquet-givers Now, they
who know the soul of the geisha aver that the semblance of the image is the
semblance of herself,— playful and pretty, soft and young, lithe and caressing,
and cruel as a devouring fire.
Worse, also, than this they have said of
her: that in her shadow treads the God of Poverty, and that the Fox-women are
her sisters; that she is the ruin of youth, the waster of fortunes, the
destroyer of families; that she knows love only as the source of the follies
which are her gain, and grows rich upon the substance of men whose graves she
has made; that she is the most consummate of pretty hypocrites, the most
dangerous of schemers, the most insatiable of mercenaries, the most pitiless of
mistresses. This cannot all be true. Yet thus much is true,— that, like the
kitten, the geisha is by profession a creature of prey. There are many really
lovable kittens. Even so there must be really delightful dancing-girls.
The geisha is only what she has been made in
answer to foolish human desire for the illusion of love mixed with youth and
grace, but without regrets or responsibilities: wherefore she has been taught,
besides ken, to play at hearts. Now, the eternal law is that people may play
with impunity at any game in this unhappy world except three, which are called
Life, Love, and Death. Those the gods have reserved to themselves, because
nobody else can learn to play them without doing mischief. Therefore, to play
with a geisha any game much more serious than ken, or at least go, is
displeasing to the gods.
The girl begins her career as a slave, a
pretty child bought from miserably poor parents under a contract, according to
which her services may be claimed by the purchasers for eighteen, twenty, or
even twenty-five years. She is fed, clothed, and trained in a house occupied
only by geisha; and she passes the rest of her childhood under severe
discipline. She is taught etiquette, grace, polite speech; she has daily
lessons in dancing; and she is obliged to learn by heart a multitude of songs
with their airs. Also she must learn games, the service of banquets and
weddings, the art of dressing and looking beautiful. Whatever physical gifts
she may have are; carefully cultivated. Afterwards she is taught to handle
musical instruments: first, the little drum (tsudzumi), which cannot be sounded at all without considerable
practice; then she learns to play the samisen a little, with a plectrum of
tortoise-shell or ivory. At eight or nine years of age she attends banquets,
chiefly as a drum-player. She is then the most charming little creature
imaginable, and already knows how to fill your wine-cup exactly full, with a
single toss of the bottle and without spilling a drop, between two taps of her
drum.
Thereafter her discipline becomes more
cruel. Her voice may be flexible enough, but lacks the requisite strength. In
the iciest hours of winter nights, she must ascend to the roof of her
dwelling-house, and there sing and play till the blood oozes from her fingers
and the voice dies in her throat. The desired result is an atrocious cold.
After a period of hoarse whispering, her voice changes its tone and
strengthens. She is ready to become a public singer and dancer.
In this capacity she usually makes her first
appearance at the age of twelve or thirteen. If pretty and skillful, her
services will be much in demand, and her time paid for at the rate of twenty to
twenty-five sen per hour. Then only do her purchasers begin to reimburse
themselves for the time, expense, and trouble of her training; and they are not
apt to be generous. For many years more all that she earns must pass into their
hands. She can own nothing, not even her clothes.
At seventeen or eighteen she has made her
artistic reputation. She has been at many hundreds of entertainments, and knows
by sight all the important personages of her city, the character of each, the
history of all. Her life has been chiefly a night life; rarely has she seen the
sun rise since she became a dancer. She has learned to drink wine without ever
losing her head, and to fast for seven or eight hours without ever feeling the
worse. She has had many lovers. To a certain extent she is free to smile upon
whom she pleases; but she has been well taught, above all else to use her power
of charm for her own advantage. She hopes to find Somebody able and willing to
buy her freedom,— which Somebody would almost certainly thereafter discover
many new and excellent meanings in those Buddhist texts that tell about the
foolishness of love and the impermanency of all human relationships.
At this point of her career we may leave the
geisha: thereafter her story is apt to prove unpleasant, unless she die young.
Should that happen, she will have the obsequies of her class, and her memory
will be preserved by divers curious rites.
Some time, perhaps, while wandering through
Japanese streets at night, you hear sounds of music, a tinkling of samisen
floating through the great gateway of a Buddhist temple together with shrill
voices of singing-girls; which may seem to you a strange happening. And the
deep court is thronged with people looking and listening. Then, making your way
through the press to the temple steps, you see two geisha seated upon the
matting within, playing and singing, and a third dancing before a little table.
Upon the table is an ihai, or mortuary tablet; in front of the tablet burns a
little lamp, and incense in a cup of bronze; a small repast has been placed
there, fruits and dainties,— such a repast as, upon festival occasions, it is
the custom to offer to the dead. You learn that the kaimyō upon the tablet is
that of a geisha; and that the comrades of the dead girl assemble in the temple
on certain days to gladden her spirit with songs and dances. Then whosoever
pleases may attend the ceremony free of charge.
But the dancing-girls of ancient times were
not as the geisha of to-day. Some of them were called shirabyōshi; and their
hearts were not extremely hard. They were beautiful; they wore queerly shaped
caps bedecked with gold; they were clad in splendid attire, and danced with
swords in the dwellings of princes. And there is an old story about one of them
which I think it worth while to tell.
1
The Kyōto word is maiko.
2
Guitars of three strings.
3
It is sometimes customary for guests to exchange cups, after duly rinsing them.
It is always a compliment to ask for your friend's cup.
4 'Once
more to rest beside her, or keep five thousand koku?
What
care I for koku? Let me be with her!'
There lived in ancient times a haramoto
called Fuji-eda Geki, a vassal of the Shōgun. He had an income of five thousand
koku of rice — a great income in those days. But he fell in love with an inmate
of the Yoshiwara, named Ayaginu, and wished to marry her. When his master bade
the vassal choose between his fortune and his passion, the lovers fled secretly
to a farmer's house, and there committed suicide together. And the above song
was made about them. It is still sung.
5
'Dear, shouldst thou die, grave
shall hold thee never!
I thy body's ashes, mixed with wine, will! drink.'
6
Maneki-Neko.
一二
アイルランドの俚言にどんな夢でも、もしその夢を見た人がさめてから想ひ出さうとして頭をかく事をさへしなければ想ひ出せると云ふのがある。しかしこの用心を忘れたらその夢は決して記憶にかへつて來る事はない、吹き去られた烟のたな引きの渦きは元の通りの形にはできないと同じ事である。
千の夢のうち、九百九十九までは全く望みなく消えて無くなる。しかし珍しい經驗によつて想像が妙に印象を受けて居る時に來る、或珍しい夢、――旅行中に特に起り易い夢――は實際の出來事のやうに全くはつきりと印象されて、記憶に殘る。
私がこれまで書いたやうな事を見聞したあとで、私が濱村で見た夢はこんな夢であつた。
どこか靑白い廣い敷石のある場所――事によればお寺の中庭のやうな所――それはかすかな日光で染められて居る、そして私の前に若くもなく老いてもゐない婦人が大きな灰色の臺の下に坐つて居る、その臺は何をのせて居るのか私は女の顏しか見られないから分らない。そのうちに私はその女に覺えがあると思つた――出雲の女であつた、それからその女は氣味惡くなつて來たやうだ。唇は動いてゐたが、眼は閉ぢてゐた、そして私は彼女を見ないわけには行かなかつた。
それから數年の距離を通つて細くなつて來るやうに思はれる聲で、柔らかな悲しい歌を始めた、そして聽いて居ると、ケルトの子供歌のかすかな記憶が自分に歸つて來た。それから歌つて居るうちに、一方の手で長い黑い髮を解いたら、それが石の上に環になつて下つた。それから下つて見たら黑くはない、靑い、――靑白い、日のやうな靑色になつて、速い靑い細波(サザナミ)をあちこちにつくつて押しよせながら、うねり始めた。その時、不意に、その細波(サザナミ)は遙かに、ずつと遙かに續いてゐて、女はゐなくなつて居る事に氣がついた。音のない波の長いのろい閃きをもつて、天の端までに靑い大波をあげる海が、ただあるだけであつた。
それから眼をさまして、私は夜中に本當の海のつぶやき――佛海の巨大なかれ聲、――歸りの精靈の潮――を聞いた。
[やぶちゃん注:このハーンの夢は非常に美しく、そして、限りなく哀しく、その夢の映像は時を越え、空間を侵食して宇宙の果てまで漣のような波動となって無限に広がってくくようではないか! 「出雲の女」は若きセツに還元され、しかも三歳で生き別れとなったハーンの母ローザ・アントニウ・カシマティ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二三年~一八八二年:生没年はこちらのデータに拠る)に通底する、すべての根源へと我々を導く大いなる「原母」の像に違いない(うまく表現する言葉が見つからぬのでこの単語を用いるが、別にユング的な狭義の「グレート・マザー」を指しているのではないことを断っておく。寧ろ、老子の言う「玄牝(げんぴん)」の方がしっくりくる)。なお、本章シークエンスを基本、実際のセツとの新婚旅行の明治二四(一八九一)年の八月下旬とするなら、ハーンは一八五〇年(嘉永三年相当)六月二十七日生まれであるから、この時、満四十一、セツは慶応四(一八六八)年二月四日生まれであるから、満二十三であった。――序でに言っておこう。……漱石先生、こういうのをね、「こんな夢を見た」で始めるべき正しい夢記述というのです。……やっぱり、既にしてあなたは、とうの初めから……ハーン先生に――負けていた――のですよ……
「出雲の女であつた、それからその女は氣味惡くなつて來たやうだ。」原文は“a woman of Izumo; then she
seemed a weirdness.”。どうにもむずむずしてくる訳である。“weirdness”はこの場合、私は「凄味を持ったある特異な一人の者」「一つの超自然的な一箇の存在」といった意味であるように思われる。しかもそれが「ある出雲の女」なのであり、それは見知った誰それなのではなく、「見知らぬ女」でありしかし確かに「神の国である出雲の女」なのである。とすれば、「神の国の出雲の見知らぬ妖しく超自然的な一箇の恐るべき凄みを持った存在の女」とは、神意を告ぐるところの「巫女」以外にはないと私は信ずる。だから「出雲の女」なのだ。因みに、平井呈一氏もここは『そうだ、出雲の女だ。と思っていると、その女が巫女(みこ)に見えてきた。』と訳しておられるのである。]
Ⅻ.
There is an Irish folk-saying that any dream
may be remembered if the dreamer, after awakening, forbear to scratch his head
in the effort to recall it. But should he forget this precaution, never can the
dream be brought back to memory: as well try to re-form the curlings of a
smoke- wreath blown away.
Nine hundred and ninety-nine of a thousand
dreams are indeed hopelessly evaporative. But certain rare dreams, which come
when fancy has been strangely impressed by unfamiliar experiences,— dreams
particularly apt to occur in time of travel,— remain in recollection, imaged
with all the vividness of real events.
Of such was the dream I dreamed at Hamamura,
after having seen and heard those things previously written down.
Some pale broad paved place — perhaps the
thought of a temple court— tinted by a faint sun; and before me a woman,
neither young nor old, seated at the base of a great grey pedestal that
supported I know not what, for I could look only at the woman's face. Awhile I
thought that I remembered her — a woman of Izumo; then she seemed a weirdness.
Her lips were moving, but her eyes remained closed, and I could not choose but
look at her.
And in a voice that seemed to come thin
through distance of years she began a soft wailing chant; and, as I listened,
vague memories came to me of a Celtic lullaby. And as she sang, she loosed with
one hand her long black hair, till it fell coiling upon the stones. And, having
fallen, it was no longer black, but blue —pale day-blue,— and was moving
sinuously, crawling with swift blue ripplings to and fro. And then, suddenly, I
became aware that the ripplings were far, very far away, and that the woman was
gone. There was only the sea, blue-billowing to the verge of heaven, with long
slow flashings of soundless surf.
And wakening, I heard in the night the
muttering of the real sea,— the vast husky speech of the Hotoke-umi,— the Tide of the Returning Ghosts.
一一
晩飯も風呂もすんだが、餘り暑くてねられないから、獨りで村の墓地を見に出かける、その墓地は砂丘の上にある長い墓地である。砂丘と云ふよはむしろ砂の山で、頂上だけ少し土に蔽はれて居るが、その崩れかけて居る側面を見ると今日の汐よりもつと巨大な古代の汐で創造された歷史を物語つて居る。
墓地に達するために膝まで砂を渡る。大きなそよ風の吹く暖い月夜である。盆の燈籠は澤山あるが、海の風は大概の火を吹き消した、ただあそこ、ここに極めて僅かな火が柔ら かな白い光を投げて居る、――綺麗な社(ヤシロ)がたの、何かの象徴の形のすきの間のある木の箱に白い紙をはつた燈籠である。時刻はおそいから私の外に人はゐない。しかし今日はここで餘程心づくしの仕事が行はれたわけである、凡て竹の筒には新しい花や小枝が挿され、水鉢には新しい水が滿たされ、墓石は淸められて綺麗になつてゐたからてある。それから墓地の一番奧の隅に、一つの甚だ質素な墓の前に、完全な小さい日本の美味を盛つた皿や椀をのせた美しい膳を私は見つける。それから新しい箸と小さい茶の碗がある、御馳走のうちには未だ暖いのもある。愛情のこもつた女の仕事である、その小さい草履の跡は路の上に未だあざやかに殘つて居る。
[やぶちゃん注:あなたは夜の墓地を純粋に味わうために見に行ったことがあるか?――私はある。既に記したことであるけれど、今一度書きたい。――かつて二十三の時、私は神津島を訪れたことがある……神津島では誰の墓とも分からなくなった壊えた墓石に至るまで、毎日毎日、美しい色とりどりの花を老婆たちが供えていたのだった……私は深夜に独り、その瑞々しい花々に包まれた墓地を訪ねた……それは……不思議な……あの世の楽園……そのものであった……]
Ⅺ.
After the supper and the bath, feeling too
warm to sleep, I wander out alone to visit the village hakaba, a long cemetery
upon a sandhill, or rather a prodigious dune, thinly covered at its summit with
soil, but revealing through its crumbling flanks the story of its creation by ancient
tides, mightier than tides of to-day.
I wade to my knees in sand to reach the
cemetery. It is a warm moonlight night, with a great breeze. There are many
bon-lanterns (bondōrō), but the sea-wind has blown out most of them; only a few
here and there still shed a soft white glow,— pretty shrine-shaped cases of
wood, with apertures of symbolic outline, covered with white paper. Visitors
beside myself there are none, for it is late. But much gentle work has been
done here to-day, for all the bamboo vases have been furnished with fresh
flowers or sprays, and the water basins filled with fresh water, and the
monuments cleansed and beautified. And in the farthest nook of the cemetery I
find, before one very humble tomb, a pretty zen or lacquered dining tray,
covered with dishes and bowls containing a perfect dainty little Japanese
repast. There is also a pair of new chopsticks, and a little cup of tea, and
some of the dishes are still warm. A loving woman's work; the prints of her
little sandals are fresh upon the path.
一〇
話が一つ出ると又別のが出る、それで今夜珍しいのを澤山聞く。最も著しいのは私の從者が急に想ひ出した話で――出雲の傳説である。
昔、出雲の持田の浦と云ふ村に或農夫がゐた。餘り貧乏なので子供をもつ事を恐れてゐた。それで妻が子供を生む毎に川に投げ込んで、そして死んで生れたのだと云ふ事にしてゐた。男の子の事もあり、女の子の事もあつたが、生れ兒はいづれも、夜、川へ投げ込ま れた。こんなにして六人殺された。
しかし段々年がたつに隨つて、夫は以前より富んで來た。土地を買つたり、金を蓄ヘたりする事ができた。それからたうとう妻は七人目の子供、男の子を生んだ。
そこで男は云つた、『子供は養つて行ける、これから年を取つてから世話をして貰ふむすこが要る。この男の子は綺麗だ。それでこれは育てる事にしよう』
そして幼兒は生長した、このかたくなな農夫は毎日自分で自分の心が分らくなつて來た、――それは毎日むすこ可愛の念が募つて來たからであつた、
或夏の夜、彼は子供を抱きながら庭に出た、子供は五月たつてゐた。
夜は非常に美しく、大きな月が出てゐた、それで農夫は叫んだ、――
『あゝ、今夜珍らしいゑゝ夜だ』
すると子供は父の顏を見上げながら、おとなの言葉で云つた、
『おとつあん、わしをしまひに捨てさした時も、丁度今夜のやうな月夜だつたね』
そしてそれから子供は同年の外の子供と同じになつて何にも云はなかつた。
農夫は僧になつた。
註。この農夫と子供の言葉は出雲
の方言。
[やぶちゃん注:短い本話も若き日に読んだ私には、短いが故に、忘れ難い一話であった。本話も原話を探してみたが見当たらない。小泉八雲の翻訳や評論で知られる東京大学名誉教授平川祐弘氏の講演「八雲と漱石二人の『怪談』の関係」(PDF/真ん中あたりにある)の中で、本話が起承転結を持った無駄のない構造を持った、『ルポルタージュ記者で』あるハーンならではの絶妙の冷徹な語り口で、間引きの倫理的『議論や主観的感情はまったく表に出さずに、淡々と事実のみを簡潔に、時間の経過に沿って書いて』おり、農夫にとって『子どもの成長につれて可愛さが増すのも人情の自然で』あり、彼が『夏の夜の月を愛でたのも気持ちのゆとりのなせるわざで』あろうとしつつも、平川氏は特に最後の一行に注目され、
《引用開始》
ところで、最後の一行はどのような意味を持つのでしょう。百姓が僧になった、と聞いて読者の気持ちも落ち着き、話も終わります。この簡潔な筆づかいは一つにはリズミカルな短編構成上の必要からも来ていますが、いま一つにはハーンの倫理観に由来しているのかもしれません。百姓が自分の犯した罪の恐ろしさに気づいて、捨てた子を弔い成仏を祈るために出家した、という解釈がそれで可能になるからです。
しかし徳川時代や明治時代の初期に貧乏百姓が寺男ならまだしも僧侶にそう簡単になれるものではありません。最後の一行はあるいは中世以来の説話文学の結びの形式をそのまま踏襲しただけかもしれません。
実際の原話がどのようなものであったかというのは、出雲の原話は日本の民俗学者の手で採集されずにしまったので、原話が実際どのような結末を迎えたのか、私たちはもはや知るに由ないわけです。
《引用終了》
とあることから、原話は最早、探し当てることは不能であるらしい。私はしかして江戸の有象無象の怪談集の中に、これと似たものがあるのではないかと思い続け、実は今も渉猟し続けているのである。これぞと思うものを見出した折りには、必ずここに追加したいと思うている。
さて、今一つ、この平川氏の講演との関連で述べておかねばならぬ。
多くの読者は本話(ハーンの)を読むと、私同様、エンディングが非常に良く似た印象を受ける、ある著名な作品を直ちに想起されることと思う。夏目漱石の「夢十夜」の「第三夜」である。実は平川氏はこの講演で、このハーンの怪談とまさにそれを比較し、これは漱石が明らかにハーンの本話を意識して、それに対抗して「夢十夜」の「第三夜」を書いたのであり、正常な「父」像が欠損していた(以上は私の勝手な謂いであり、「正常」も「欠損」も不適切とならば、一種のトラウマとして変形してしまった「父」認識と言い直してもよい)ハーンと漱石の精神分析的解析を経て、『子どもを捨てた父を書き』、かくも『恐ろしい怪談になったのではないでしょうか。漱石という人はラフカディオ・ハーンの作品のバリエーションを書いてみせて、「どうだ、俺のほうが芸術家として上だろう」と納得したのだと思います。そうすると自信がついて、
『三四郎』の中で、自己満悦とも思えるようなことを書いた。それが私の推測なのであります』と、本公演を結んでおられる。この論考には私は頗る共感を覚える。未読の方は是非、御一読をお薦めするものである。本条の読みについても参考になる考察が幾つもある。
なお、私は「夢十夜」は読んでそこそこ面白いとは思うものの、読み終わった後に、妙な苛立ちを感ずることを常としている。正直言うと、夢記述を長年やって来た者として、あの計算された構造や描写言わずもがなのオチは覚醒した人間の「偽夢(ぎむ)」であって、近現代文学の今や残された唯一の突破口かも知れない「夢」文学としては、これ、とんでもない邪道であると断ずるものである(遙かに内田百閒の「冥途」や「旅順入場式」のほうが正当な「夢」文学的ではある。但し、百閒のそれらを文学として面白いと感ずるかどうかはこれまた別問題ではある。少なくとも若き日の私には頗るつきで退屈であった)。
最後に。私はしかし平川氏の八雲の翻訳は――少なくとも怪奇談(私はフリークで十数人の別な訳者のものを若い時から飽きもせず読んできたのであるが)に関する限り――現行の中では、これ、とびっきりアカデミックで正確なのであろうとは拝察するものの――面白いと感じたことは未だかって一度もない――ということも告白しておく。]
Ⅹ.
One legend recalls another; and I hear
to-night many strange ones. The most remarkable is a tale which my attendant
suddenly remembers,— a legend of Izumo.
Once there lived in the Izumo village called
Mochida-noura a peasant who was so poor that he was afraid to have children.
And each time that his wife bore him a child he cast it into the river, and
pretended that it had been born dead. Sometimes it was a son, sometimes a
daughter; but always the infant was thrown into the river at night. Six were
murdered thus.
But, as the years passed, the peasant found
himself more prosperous. He had been able to purchase land and to lay by money.
And at last his wife bore him a seventh child,—a boy.
Then the man said: 'Now we can support a
child, and we shall need a son to aid us when we are old. And this boy is
beautiful. So we will bring him up.'
And the infant thrived; and each day the
hard peasant wondered more at his own heart,— for each day he knew that he
loved his son more.
One summer's night he walked out into his
garden, carrying his child in his arms. The little one was five months old.
And the night was so beautiful, with its
great moon, that the peasant cried out,—
'Aa!
kon ya med xurashii e yo da!' [Ah! to-night truly a wondrously beautiful
night is!]
Then the infant, looking up into his face
and speaking the speech of a man, said,—
'Why, father! the LAST time you threw me
away the night was just like this, and the moon looked just the same, did
it not?' [7]
And thereafter the child remained as other
children of the same age, and spoke no word.
The peasant became a monk.
7 'Ototsan! washi wo shimai ni shitesashita
toki mo, chodō kon ya no yona tsuki yo data-ne?' ―Izumo dialect.
九
昔、鳥取市の至つて小さい或宿屋が開業してから始めてのお客として二人の旅商人を迎へた。宿屋の主人はその至つて小さい宿屋の評判をよくしたいから、このお客は尋常以上の親切を以て迎へられた。新しい宿屋ではあったが、持主が貧しいから道具――家具器物――の大部分は古手屋から求めたのであつた。それでも一切の物はさつぱりして、氣もちよく、綺麗であつた。お客は御飯も旨く喰べ、暖い酒も澤山飮んだ。それから柔かな床はは疊の上にのべられたので、お客は眠りにつくために横になつた。
〔ここで暫らく話を中止して、日本の寢床について一言云はねばならない。誰かうちに病人でもない限り、讀者は日中どこか日本家屋に入つて部屋と云ふ部屋を悉く、それから隅から隅までのぞいて見ても床と云ふ物を見る事は決してない。實際、西洋の床と云ふ意味のものは存在しない。日本人の云ふ床には寢臺もバネもしとねもシートも毛布もない。ただ蒲團と云ふ厚い綿を入れた、むしろ、平均につめ込んだ厚い夜具があるだけ。疊の上に何枚かの蒲團を敷いて、何枚かの蒲團をその上にかける。富んだ人々は五枚六枚の蒲團の上にねて、好きな程の蒲團をかける事もできるが、貧しい人々は二枚か三枚で滿足せねばならない。それから、西洋の爐の前の敷物より大きくもなく厚くもない木綿の蒲團から長さ八尺幅七尺と云ふ金持ちでなければ着られないやうな重い立派な絹蒲團に到るまで勿論種類は多い。その上着物のやうに大きな袖のある大きな蒲團の一種で夜着と云ふのがある、殊の外寒氣の強い時にこれを着ると大層氣持ちがよい。凡てこんな物は、日中は見え ないやうに、壁に工夫して造つてあつて閉ぢてある押入れにしまつてある、ふすまと云ふのは優美な圖案で普通裝飾された光澤のない祇を張つた綺麗な境をつける引戸である。これから又そこに妙な木の枕もしまはれる、この枕は眠つてゐても亂れないらやうに日本髮を保存するためにできて居る。
この枕も多少神聖である、しかしそれに關する信仰の起原と正しい性質については私はよく知つてゐない。これだけ知つて居る。即ち足で枕にさはる事は甚だ惡い、たとへ偶然にでもそんな風に蹴つたり動かしたりする事があれば、その不行狀の償ひとして、手で枕を額に押戴き、『御免』と云つて恭しくもとの場所へ戻さねばならない〕
さて、暖い酒を澤山飮んだあとでは、殊に寒い晩で床が暖い時には、熟睡するのがきまりである。ところでこのお客はほんの少ししか眠らないうちに、その部屋の中で聲がするので目をさました、――同じ問を互に問ふて居る子供の聲であつた、――
『兄さん寒からう』
『お前寒からう』
部屋に子供が入り込むなどと云ふ事はお客を困らせるかも知れないが、驚かす事にはならない、と云ふのは、日本の宿屋には戸と云ふ物はなくて、部屋と部屋との間にただ紙のふすまがあるだけだから、それで何か子供が暗がりに間違つて自分の部屋に迷ひ込んだに相違ないとお客に思はれた。彼は何かおだやかに小言を云つた。ほんの暫らく靜かになつた、それから優しい細い悲しげな聲が耳もとで『兄さん寒からう』と問ふた、すると又別の優しい聲がいたはるやうに『お前寒からう』と答へた。
彼は起きて行燈にあかりをつけて部屋を見廻した。誰もゐない、障子は皆しまつてゐた。戸棚を調べた、何に恣もない。不思議に思ひながら、あかりをつけたままで、又横になつた、すると、直ちに。又枕もとで、聲が訴へるやうに話した。
『兄さん寒からう』
『お前寒からう』
それから始めて彼は夜の寒さでない寒さでぞつとして來た。何度も何度も聞いた、その度毎に益々恐ろしくなつて來た。聲は蒲團の中にある事が分つたからであつた。そんな風に叫んだのは掛蒲團だけであつた。
彼は急いで自分の僅かな所持品をかき集めて、階段を下りて主人を起し、事の次第を語つた。すると主人は大層怒つて答へた、『お客樣の御意に召すやうに、萬事やつて居るわけです、全く、ところでお客様は餘り御酒を召し上つたので、變な夢を御覽になつたのです』それでもお客は直ちに拂をして外へ行つて宿をさがすと云ひ張つた。
翌晩又一人の客が來て宿泊を求めた。おそくなつてから主人は、前拠夜と同じ事で起された。不思議にも今度の客は酒を少しも飮んでゐない。主人は何か妬む人があつて、自分の商賣の邪魔をするのだらうと邪推したので、怒つて答へた、『お客樣のお氣に召すやうに萬事注意して居ります。それに緣起の惡い迷惑な事をおつしやいます。この宿屋は私の生計のための物である事は――御承知でせう。何のためにこんな事をおつしやるのか、不都合千萬です』そこでお客は怒り出して、大きな聲でもつとひどい事を云つた、そして二人は非常に怒つて別れた。
しかしお客が行つたあとで、主人はどうも變だと思つたので、蒲團を調べに二階のそのあき間へ行つて見た。そしてそこに居る間に彼は聲を聞いた、そして彼は二人の客の云つた事は全く事實である事を發見した。叫んだのは一枚――只一枚――の掛蒲團であつた。あとは靜かであつた。彼はその蒲團を自分の部屋へ運んだ、それから、朝まで、それを着て寢て見た。その聲は夜明けの時刻まで續いた、『兄さん寒からう』『お前寒からう』それで彼は眠られなかつた。
夜明けに彼は起きて蒲團を買ふた古手屋の主人に遇ひに行つた。古手屋は何も知らなかつた。彼はもつと小さい店からその蒲團を買ふたのであつた、そしてその店の主人は町のずつと郊外に住んで居る一層貧しい家からそれを買ふたのであつた。それで宿屋の主人は尋ねながら、つぎからつぎへと行つた。
それから最後に、その蒲團は貧しい家族のものであつた事、それからその家族が住んでゐた郊外の小さい家の家主から買ふた事が分つて來た。それでその蒲團の話は、かうであ つた、――
その小さい家の家賃は一ケ月僅か六十錢であつた、それでも貧しい人達にとつては中々の大金であつた。父は一ケ月に二三圓しか儲けられない、母は病氣で仕事ができない、それから子供が二人、――六つと八つの男の子があつた。それからこの人達は鳥取では外から來た人達であつた。
或冬の日に父が病んだ、一週間病んだあとで、死んで葬られた。それから長い間床についてゐた母はそのあとを追ふた、そして子供等だけ殘つた。助けて貰ひに行く人を誰も知らなかつた、そして生きるために何でも賣られるものを賣り始めた。
沢山は無かつた、死んだ父と母の着物。それから彼等自身の着物の大部分、木綿の蒲團、それから僅かなあはれな道具類――火鉢、椀、茶碗、それから外のつまらぬ物ども。毎日何か賣つて、最後に一枚の蒲團の外何にもなくなつた。それから何にも喰べる物のない日が來た、それから家賃が拂つてなかつた。
恐ろしい大家が來た、その日は餘り雪が高く積つたのでその小さい家から遠く離れ出て行かれなかつた。それで一枚の蒲團の下に一緒にねて、一緒にふるヘて、子供らしく互に慰め合ふより外はなかつた、――
『兄さん寒からう』
『お前寒からう』
火はなかつた、火をつくる材料は何もなかつた、そして暗くなつた、それから氷のやうな風が小さい家の中へ悲鳴をあげで入つて來た。
彼等は風を恐れたが、家賃を取立てに荒々しく彼等を引起す家主を一層恐れた。彼は惡相をした無情の男であつた。そして拂つてくれる人のゐないのを見て、子供等を雪の中に追出し、たつた一枚の蒲團を取上げて、家に鍵をかけた。
彼等は銘々靑いうすい着物を只一枚しか着てゐなかつた、外の着物は皆食物を買ふために賣られたからであつた、それからどこへ行くあてもなかつた。餘り遠くない處に觀音堂があつた、しかしそこまで行くには雪が餘り深かつた。それで家主が行つてから、家のうしろにたどり戻つた。そこで寒さのための眠氣が彼等を襲ふた、そこで彼等は暖を取らうとして抱き合つた。それから眠つて居る間に神々は、新しい蒲團――物すごい程白い、そして非常に綺麗な蒲團――で彼等を包んだ。それで彼等はもう寒さを感じなかつた。長い間彼等はそこに眠つてゐた、それから誰か彼等を發見して、千手觀音堂の墓場に彼等のための安眠の床がつくられた。
こんな話を聞いたので、宿屋の主人は蒲團をそのお寺の僧侶に寄附して、小さい魂のために讀經して貰つた。それで蒲團はそれから物を云はなくなつた。
[やぶちゃん注:私の忘れ難いハーンの最初の怪談(というよりも哀話)体験の一つである(私のそれは田代三千人稔(みちとし)氏の角川文庫版「怪談・奇談」であった)。本話は家賃を「六十錢」とし、「父は一ケ月に二三圓しか儲けられない」あるところから(原文もそうある)、設定は明治であり、先行する活字された原話を見出し得ない。後の類話は専ら、このハーンの採話が原型となっているように思われる。ルーツを探るヒントは「千手觀音堂」にありそうだ。調べてみると、鳥取県東伯郡北栄町東高尾に観音寺に重要文化財指定の県内最古の木造仏として千手観音菩薩がある。ここは「七」の上市とここ浜村の間の、上市寄りのやや内陸にある(浜村からは直線で西南西三十二キロメートル)。ソゾタケ氏の仏像日記ブログ「祗是未在」の「東高尾観音寺(鳥取県北栄町)【前編】―妖しい魅力の千手観音立像と素朴で美しい十一面観音立像」で同像を見ることが出来る。無論、これが本話のそれだという訳ではない。ないが……この何とも言えぬお顔と立ち姿を眺めていると、私はこの美しい観音こそが二人の兄弟を彼岸へ導いた「母」のように思えてくるのである……
「長さ八尺幅七尺」長さ二・四メートル、幅二・一メートル。
「夜着」老婆心乍ら、「よぎ」と読み、寝る際に上に掛けるものであるが、ここでハーンが説明するように、見た目は大形の長着(ながぎ)様のもので、袖の附いた着物状の中に綿を入れた掛け蒲団にする寝具を言う。
掻巻(かいまき)とも称する。どてら(褞袍)も似ているが、印象としてはこれは夜着よりも短く、綿の量も少ないように思われる。丹前と褞袍は「広辞苑」などでは同義とするが、丹前の方がより綿量が少ないように感ずる。
「古手屋」これも老婆心乍ら、「ふるてや」と読み、古着や古道具を売買する商売を指す。古道具屋のこと。この「手」とは、古くなってしまった「部類に属する物」の意であろう。]
Ⅸ.
Many
years ago, a very small yadoya in Tottori town received its first guest, an
itinerant merchant. He was received with more than common kindness, for the
landlord desired to make a good name for his little inn. It was a new inn, but
as its owner was poor, most of its dōgu — furniture and utensils — had been
purchased from the furuteya. [5] Nevertheless, everything was clean,
comforting, and pretty. The guest ate heartily and drank plenty of good warm
sake; after which his bed was prepared on the soft floor, and he laid himself
down to sleep.
[But here I must interrupt the story for a
few moments, to say a word about Japanese beds. Never; unless some inmate
happen to be sick, do you see a bed in any Japanese house by day, though you
visit all the rooms and peep into all the corners. In fact, no bed exists, in
the Occidental meaning of the word. That which the Japanese call bed has no
bedstead, no spring, no mattress, no sheets, no blankets. It consists of thick
quilts only, stuffed, or, rather, padded with cotton, which are called futon. A
certain number of futon are laid down upon the tatami (the floor mats), and a
certain number of others are used for coverings. The wealthy can lie upon five
or six quilts, and cover themselves with as many as they please, while poor
folk must content themselves with two or three. And of course there are many
kinds, from the servants' cotton futon which is no larger than a Western
hearthrug, and not much thicker, to the heavy and superb futon silk, eight feet
long by seven broad, which only the kanemochi can afford. Besides these there
is the yogi, a massive quilt made with wide sleeves like a kimono, in which you
can find much comfort when the weather is extremely cold. All such things are
neatly folded up and stowed out of sight by day in alcoves contrived in the
wall and closed with fusuma — pretty sliding screen doors covered with opaque
paper usually decorated with dainty designs. There also are kept those curious
wooden pillows, invented to preserve the Japanese coiffure from becoming
disarranged during sleep.
The pillow has a certain sacredness; but the
origin and the precise nature of the beliefs concerning it I have not been able
to learn. Only this I know, that to touch it with the foot is considered very
wrong; and that if it be kicked or moved thus even by accident, the clumsiness
must be atoned for by lifting the pillow to the forehead with the hands, and
replacing it in its original position respectfully, with the word 'go-men,'
signifying, I pray to be excused.]
Now, as a rule, one sleeps soundly after
having drunk plenty of warm sake, especially if the night be cool and the bed
very snug. But the guest, having slept but a very little while, was aroused by
the sound of voices in his room,— voices of children, always asking each other
the same questions:—
'Ani-San samukarō?'
'Omae samukarō?'
The presence of children in his room might
annoy the guest, but could not surprise him, for in these Japanese hotels there
are no doors, but only papered sliding screens between room and room. So it
seemed to him that some children must have wandered into his apartment, by
mistake, in the dark. He uttered some gentle rebuke. For a moment only there
was silence; then a sweet, thin, plaintive voice queried, close to his ear,
'Ani-San samukarō?' (Elder Brother probably is cold?), and another sweet voice
made answer caressingly, 'Omae samukarō?' [Nay, thou probably art cold?]
He arose and rekindled the candle in the
andon, [6] and looked about the room. There was no one. The shoji were all
closed. He examined the cupboards; they were empty. Wondering, he lay down
again, leaving the light still burning; and immediately the voices spoke again,
complainingly, close to his pillow:
'Ani-San samukarō?'
'Omae samukarō?'
Then,
for the first time, he felt a chill creep over him, which was not the chill of
the night. Again and again he heard, and each time he became more afraid. For
he knew that the voices were in the
futon! It was the covering of the bed that cried out thus.
He gathered hurriedly together the few
articles belonging to him, and, descending the stairs, aroused the landlord and
told what had passed. Then the host, much angered, made reply: 'That to make
pleased the honourable guest everything has been done, the truth is; but the
honourable guest too much august sake having drank, bad dreams has seen.'
Nevertheless the guest insisted upon paying at once that which he owed, and
seeking lodging elsewhere.
Next evening there came another guest who
asked for a room for the night. At a late hour the landlord was aroused by his
lodger with the same story. And this lodger, strange to say, had not taken any
sake. Suspecting some envious plot to ruin his business, the landlord answered
passionately: 'Thee to please all things honourably have been done:
nevertheless, ill-omened and vexatious words thou utterest. And that my inn my
means-of-livelihood is — that also thou knowest. Wherefore that such things be
spoken, right-there-is-none!' Then the guest, getting into a passion, loudly
said things much more evil; and the two parted in hot anger.
But after the guest was gone, the landlord,
thinking all this very strange, ascended to the empty room to examine the
futon. And while there, he heard the voices, and he discovered that the guests
had said only the truth. It was one covering — only one — which cried out. The
rest were silent. He took the covering into his own room, and for the remainder
of the night lay down beneath it. And the voices continued until the hour of
dawn: 'Ani-San samukarō?' 'Omae samukarō?' So that he could not sleep.
But at break of day he rose up and went out
to find the owner of the furuteya at which the futon had been purchased. The
dlealer knew nothing. He had bought the futon from a smaller shop, and the
keeper of that shop had purchased it from a still poorer dealer dwelling in the
farthest suburb of the city. And the innkeeper went from one to the other,
asking questions.
Then at last it was found that the futon had
belonged to a poor family, and had been bought from the landlord of a little
house in which the family had lived, in the neighbourhood of the town. And the
story of the futon was this:—
The rent of the little house was only sixty
sen a month, but even this was a great deal for the poor folks to pay. The
father could earn only two or three yen a month, and the mother was ill and
could not work; and there were two children,— a boy of six years and a boy of
eight. And they were strangers in Tottori.
One winter's day the father sickened; and
after a week of suffering he died, and was buried. Then the long-sick mother
followed him, and the children were left alone. They knew no one whom they
could ask for aid; and in order to live they began to sell what there was to
sell.
That was not much: the clothes of the dead
father and mother, and most of their own; some quilts of cotton, and a few poor
household utensils,— hibachi, bowls, cups, and other trifles. Every day they
sold something, until there was nothing left but one futon. And a day came when
they had nothing to eat; and the rent was not paid.
The terrible Dai-kan had arrived, the season
of greatest cold; and the snow had drifted too high that day for them to wander
far from the little house. So they could only lie down under their one futon,
and shiver together, and compassionate each other in their own childish way,—
'Ani-San, samukarō?'
'Omae samukarō?'
They had no fire, nor anything with which to
make fire; and the darkness came; and the icy wind screamed into the little
house.
They were afraid of the wind, but they were
more afraid of the house-owner, who roused them roughly to demand his rent. He
was a hard man, with an evil face. And finding there was none to pay him, he
turned the children into the snow, and took their one futon away from them, and
locked up the house.
They had but one thin blue kimono each, for
all their other clothes had been sold to buy food; and they had nowhere to go.
There was a temple of Kwannon not far away, but the snow was too high for them
to reach it. So when the landlord was gone, they crept back behind the house.
There the drowsiness of cold fell upon them, and they slept, embracing each
other to keep warm. And while they slept, the gods covered them with a new
futon,— ghostly-white and very beautiful. And they did not feel cold any more.
For many days they slept there; then somebody found them, and a bed was made
for them in the hakaba of the Temple of Kwannon-of-the-Thousand-Arms.
And the innkeeper, having heard these
things, gave the futon to the priests of the temple, and caused the kyō to be
recited for the little souls. And the futon ceased thereafter to speak.
5
Furuteya, the establishment of a dealer
in second-hand wares,—
furute.
6
Andon, a paper lantern of peculiar
construction, used as a night light. Some forms of the andon are remarkably
beautiful.
八
濱村と云ふ小さい美しい村に着いた後、日が暮れた、明日から内地の方へ向ふから、ここは海岸での私共の最後の休み場所であつた。私共の泊つた宿屋は甚だ小さいが甚だ、物綺麗に小ぢんまりして居る、それから有難い温泉がある、宿屋はその温泉の出口に近い所に建つて居る。不思議な程渚(ナギサ)に近いこの温泉はこの村の家全部の浴場に供給して居ると私は聞いた。
宿屋では最上等の部屋を私共にあててくれる、しかし私は明日流すことになつて往來の入口に近く、臺の上に置いてある甚だ立派な精靈船を見るために暫らく止まる。ほんの少し前にでき上つたらしい、新しい藁屑がそのあたりに散らかつて、戒名は未だ帆の上に書いてない。この船は貧しい寡婦とその息子、二人とも、この宿屋の奉公人である人達の物であると聞いて驚く。
私は濱村で盆踊を見ようとあてにしてゐたが、失望する。村では警察が踊りを禁じて居る。コレラを恐れてこんな嚴重な衞生規則を出す事になつた。濱村では飮料、料理用、洗濯用として水を使用してはならない、ただ温泉だけを使用するやうに命令されて居る。
非常に聲のよい小柄な中年の女が晩飯の時給仕に來る。二十年以前、既婚の女がしたやうに齒を黑くして眉を剃つて居る、それでも彼女の顏はやはり愉快な顏である、若い時には並すぐれて綺麗であつたに相違ない。女中として働いては居るが、宿屋の人々と親類になつて居るので、親類相當な思ひやりで待遇されて居るらしい。この女の話では精靈船は夫と弟――八年前、二人ともうちの見える所まで來て死んだこの村の漁師(レウシ)達――のために流される事になつて居る。隣りの禪寺の僧が翌朝來て帆の上に戒名を書いてくれる、このうちには漢字を書く事の上手な人はゐないから。
私は彼女にきまりの僅かな心づけをする、それから私の從者によつて、彼女の身の上を色々尋ねる。彼女は自分よりずつと年上の夫と結婚して、甚だ幸福にくらしてゐた、それから十八歳の少年であつた弟も一緒にゐた。よい船を一艘と少しばかりの地所を持つてゐた上、彼女は機織が巧みであつたので、とにかく樂にくらしてゐた。夏になると漁師(レウシ)は夜、魚を取る、船が皆出ると二哩か三哩の所で、一群の星のやうに、沖の一列の炬火を見るのは綺麗である。天氣の惡くなりさうな時には出ない、それでも月によつては、颱風が突然起つて帆を上げる暇もないうちに、船に追ひつく。彼女の夫と弟が最後に出た晩はお寺の池のやうに海は靜かであつた、颱風は夜明け前に起つた。それからの事は、私共のはるかに不器用な言語で、私が飜譯する事ができない程あつさりした悲哀な調子で彼女は述べる。
『船と云ふ船は皆歸りましたが、夫の船だけは歸りません。夫と弟は外の人達よりもずつと向うに行つてゐたので、そんなに早く歸られませんでした。みんな見て待つてゐました。波は一分毎に高くなり、風は恐ろしくなるやうでした、それで外の船も流されないやうにずつと岡の方へ引上げて置かねばなりませんでした。ところが不意に夫の船が大變、大變早く來るのが見えて來ました。喜びましたね。隨分近く來たので夫の顏も弟の顏も見えました。ところが不意に横波が船の一方にぶつかつたので、船が水の中へ沈んで、出て來ませんでした。それから夫と弟が泳いで居るのが見えました。しかし波で上げられる時しか見えません。山のやうな海でした、それで夫の頭と弟の頭がずつとずつとずつと上つて、それから下へ下へ下りる、それで私達の方で見える程波の頂上に上る時いつも一人が「助けて」と呼んでゐます。しかし強い人達でも恐れてゐます、海は餘りこはい、私はただ女です。それから弟もう見えなくなりました。夫は年取つてゐましたが、大變強い、それで長い間泳いでゐました、――餘り近いので、私は夫の顏が恐れて居る人の顏のやうである事が分りました、――そして「助けて」と呼んでゐました。しかし助けてくれるものはありません、それでたうとう夫も沈みました。それでも沈む前に夫の顏が見えました。
『それからあと、長い間、その時見た通りの顏がいつも見えました、それで私は眠られないで泣いてばかりゐました。それから私は佛樣や神樣へその夢を見ないやうにとお祈りを致しました。もうその夢は見ません。が、かうしてお話をして居る時でも、やはり夫の顏が目に見えます。……その時分私のむすこはほんの子供でした』
この筒單な話を終る時彼女は忍び泣きをしないでは居られなかつた。それから、不意に疊まで頭を下げて、袖で涙をふいて、こんな風に私情を少し露出した事を丁寧にわびて、そして笑った――日本の禮儀の眞髓とも云ふべき柔らかな低い笑であつた。私は白狀するが、この笑は話その物よりも一層深く私を感動させた。適當な時に私の從者は巧みに話題を變へて、私共の旅について、それから旦那様がこの海岸の古い習慣や昔話に興味をもつて居る事について、輕い話を始める。そして私共の出雲漫遊の話を少しして彼女を喜ばせる事ができた。
彼女は私共に何處へ行くかと尋ねる。私の從者は多分鳥取までと答へる。
『あゝ、鳥取。さやうでございますか。……ところで、鳥取の蒲團と云ふ古い話があますが、旦那樣は御存じでゐらつしやいませうね』
ところがその旦那様は御存じでない、そして熱心にそれを聞かせて貰ひたいと云ふ。そして私の通譯の唇から私が先づきいた通りにここにその話をかく。
[やぶちゃん注:仲居の語り出しの最初の段落末の鍵括弧閉じるがないのはママ。
「濱村と云ふ小さい美しい村」現在の鳥取県鳥取市気高町浜村。前の「七」で通った上市(先に示した大澤隆幸氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、セツとの新婚旅行ではここ上市に宿泊している)からは直線でも四十四・七キロメートルも離れている。
「温泉がある」浜村温泉は硫酸塩泉で、豊富な湯量と五百年の歴史を持つ。
「明日から内地の方へ向ふから、ここは海岸での私共の最後の休み場所であつた」とあるが、前注に示した大澤氏の論文を見る限りでは、引き返して既泊の鳥取県東伯郡琴浦町大字八橋(やばせ)に暫く再滞在し、海水浴などをし、その後は美保が関へ向かっている(「第十章 美保の關にて」のシークエンスはこの時)から文学的虚構とも思われる。但し、ハーンはかなり気まぐれで華美に過ぎて五月蠅い宿は断固拒否するタイプ(この直前の、現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町にある東郷池の宿でも一週間の滞在予定を一日かそこらで切り上げてしまい、宿の者やセツを困らせている)であるから、実際には後に出るように「鳥取」を経て内陸へ向かうつもりがなかったとは断言は出来ない。
「私は濱村で盆踊を見ようとあてにしてゐたが、失望する。村では警察が踊りを禁じて居る」松江到来の際の、かの「第六章 盆踊 (四)」に出る上市での夢幻的エクスシーが忘れられなかったのであろう。但し、大澤氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、この直前の八橋での滞在中、ハーンはセツと一緒に八橋から二キロメートルほど東にある東伯郡琴浦町逢束(おうつか)まで歩いて、実際に盆踊りを見に行っている。ただこれはハーンには思い出したくなかったエピソードで、大澤氏によれば、この時の『盆踊り見物で群集に砂や石を投げられ』とあり、直後に出された西田千太郎に宛てた手紙には、『報道関係者にこの件を知らせないようにと記』す微妙な気遣いをさえも見せている。寧ろ、その不本意な体験があったので、仕切り直しに盆踊りを楽しみにしていた、とも読むことは出来る。
「コレラ」明治のこの頃は、間歇的に中小レベルのコレラ流行が実際に発生している。ウィキの「コレラ」で幕末から明治期へのコレラ史を見ると、日本で初めてコレラが発生したのは最初のパンデミック(世界的大流行)が日本に及んだ文政五(一八二二)年のことで『感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった』。二度目のパンデミック(一八二六年~一八三七年)の波及を免れたものの、三度目は再び日本に到達して安政五(一八五八)年から三年に亙っての大流行となった。この時は『九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで』十万人が死亡したとする『文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある』。文久二(一八六二)年には、先に『残留していたコレラ菌に』よるものと思われる本邦三度目の大流行が発生、五十六万人もの『患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも』七万三千人から数十万人に及ぶ感染者が『死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い』。因みに、安政五年の大流行は、『相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている』。『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている』。事実、明治元(一八六八)年に『幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は』凡そ二年から三年間隔で『数万人単位の患者を出す流行が続』。明治一二(一八七九)年(年)と明治一九(一八八六)年には死者が十万人の『大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ』。なお、前注の事実記載から、盆踊りは逢束でやっていたのに浜村で禁じられているというのは一見奇異に見えなくもないが、実際に地域によって、所轄の地方警察の命を厳格に守ったり、いい加減に扱ったりすることは今も昔も変わらないから、何ら不思議ではあるまい。特に盆踊りは当時の庶民にとっては数少ないハレの慰安であった。これをたいした流行でもないのに(本邦のコレラ史は明治二四(一八九一)年の夏は特異点としない)全面禁止するというのは、私には天皇崩御で花火大会自粛程度には馬鹿げた神経症的対応としか思われない。
「二哩か三哩」凡そ三・三~四・九キロメートル。
「鳥取の蒲團と云ふ古い話」を、以下、この哀しい過去を背負った、明日、ハーンが先に見た精霊船を遺児とともに流す仲居が語り出すのであるが、大澤氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、最初の印象的な精霊船を見るシークエンスとこの女性も、実際には杵築で体験した事実を、ここ『濱村に登場させたともいう』(一九九三年八雲会刊の「へるん今昔」に拠る。下線やぶちゃん。以下も)とあり、更には、知られた以下に語られる哀切々たる怪談「布団の話」の内容も、この女性からではなく、セツが前の夫為二から聴いた話であったという、ともある。ここで簡単にセツについて述べておくと(複数のネット情報を素材とした)、小泉セツは慶応四(一八六八)年生まれであるが、生まれると直ぐ稲垣家の養女となっている。明治一九(一八八六)年、十九の時、稲垣家は前田為二という士族の次男坊を婿養子としてセツと娶せたが、稲垣家は士族の商法で失敗して負債を抱えることとなり、三年後(別情報では一年も満たないうちであったともする)、夫為二は大阪に出奔、明治二十三(一八九〇)年一月に正式な離婚届が受理され、セツは稲垣家を去って実家小泉家へと戻った。セツがハーンの住み込み女中となった時(推定で明治二十四(一八九一)年年初)、セツは数え二十四であった。]
Ⅷ.
Night falls as we reach the pretty hamlet of
Hamamura, our last resting- place by the sea, for to-morrow our way lies
inland. The inn at which we lodge is very small, but very clean and cosy; and
there is a delightful bath of natural hot water; for the yadoya is situated
close to a natural spring. This spring, so strangely close to the sea beach,
also furnishes, I am told, the baths of all the houses in the village.
The best room is placed at our disposal; but
I linger awhile to examine a very fine shōryōbune, waiting, upon a bench near
the street entrance, to be launched to-morrow. It seems to have been finished
but a short time ago; for fresh clippings of straw lie scattered around it, and
the kaimyo has not yet been written upon its sail. I am surprised to hear that
it belongs to a poor widow and her son, both of whom are employed by the hotel.
I was hoping to see the Bon-odori at
Hamamura, but I am disappointed. At all the villages the police have prohibited
the dance. Fear of cholera has resulted in stringent sanitary regulations. In
Hamamura the people have been ordered to use no water for drinking, cooking, or
washing, except the hot water of their own volcanic springs.
A little middle-aged woman, with a
remarkably sweet voice, comes to wait upon us at supper-time. Her teeth are
blackened and her eyebrows shaved after the fashion of married women twenty
years ago; nevertheless her face is still a pleasant one, and in her youth she
must have been uncommonly pretty. Though acting as a servant, it appears that
she is related to the family owning the inn, and that she is treated with the
consideration due to kindred. She tells us that the shōryōbune is to be
launched for her husband and brother — both fishermen of the village, who
perished in sight of their own home eight years ago. The priest of the
neighbouring Zen temple is to come in the morning to write the kaimyo upon the
sail, as none of the household are skilled in writing the Chinese characters.
I make her the customary little gift, and,
through my attendant, ask her various questions about her history. She was
married to a man much older than herself, with whom she lived very happily; and
her brother, a youth of eighteen, dwelt with them. They had a good boat and a little
piece of ground, and she was skilful at the loom; so they managed to live well.
In summer the fishermen fish at night: when all the fleet is out, it is pretty
to see the line of torch-fires in the offing, two or three miles away, like a
string of stars. They do not go out when the weather is threatening; but in
certain months the great storms (taifu)
come so quickly that the boats are overtaken almost before they have time to
hoist sail. Still as a temple pond the sea was on the night when her husband and
brother last sailed away; the taifu rose before daybreak. What followed, she
relates with a simple pathos that I cannot reproduce in our less artless
tongue:
'All the boats had come back except my
husband's; for' my husband and my brother had gone out farther than the others,
so they were not able to return as quickly. And all the people were looking and
waiting. And every minute the waves seemed to be growing higher and the wind
more terrible; and the other boats had to be dragged far up on the shore to
save them. Then suddenly we saw my husband's boat coming very, very quickly. We
were so glad! It came quite near, so that I could see the face of my husband
and the face of my brother. But suddenly a great wave struck it upon one side,
and it turned down into the water and it did not come up again. And then we saw
my husband and my brother swimming but we could see them only when the waves
lifted them up. Tall like hills the waves were, and the head of my husband, and
the head of my brother would go up, up, up, and then down, and each time they
rose to the top of a wave so that we could see them they would cry out, "Tasukete! tasukete!" [4] But the
strong men were afraid; the sea was too terrible; I was only a woman! Then my
brother could not be seen any more. My husband was old, but very strong; and he
swam a long time,— so near that I could see his face was like the face of one
in fear,— and he called "Tasukete!"
But none could help him; and he also went down at last. And yet I could see his
face before he went down.
'And for a long time after, every night, I
used to see his face as I saw it then, so that I could not rest, but only weep.
And I prayed and prayed to the Buddhas and to the Kami-Sama that I might not
dream that dream. Now it never comes; but I can still see his face, even while
I speak. . . . In that time my son was only a little child.'
Not without sobs can she conclude her simple
recital. Then, suddenly bowing her head to the matting, and wiping away her
tears with her sleeve, she humbly prays our pardon for this little exhibition
of emotion, and laughs — the soft low laugh de
rigueur of Japanese politeness. This, I must confess, touches me still more
than the story itself. At a fitting moment my Japanese attendant delicately
changes the theme, and begins a light chat about our journey, and the
danna-sama's interest in the old customs and legends of the coast. And he
succeeds in amusing her by some relation of our wanderings in Izumo.
She asks whither we are going. My attendant
answers probably as far as
Tottori.
'Aa! Tottori! Sō degozarimasu ka? . . . Now,
there is an old story,— the Story of the Futon of Tottori. But the danna-sama
knows that story?'
Indeed, the danna-sama does not, and begs
earnestly to hear it. And the story is set down somewhat as I learn it through
the lips of my interpreter.
4
'Help! help!'
教え子の「のりちゃん」が保育士に合格した!
とてもとても僕は嬉しい!
誰が誰より!――
何が何より!――
とてもとても嬉しい!
恐らく諸君らには、この僕の喜びの意味は、わからない。
それほどに僕は、この十年の中で、いっとう、嬉しいのだ!
のりちゃん! おめでと!!!
上代人の誤謬
デデムシまたはデエロとマイマイと、この二つの新らしい名詞の分布を究めてみると、其次に自然に起つて來る問題は、倭名鈔以來の文籍に認められた加太豆布利といふ言葉は、末にどうなつてしまつたかといふことである。自分の此問題に對する最初からの推測は、此語が方言となつて必ず更にマイマイ領域の外側に、分散しているだらうといふに在つたが、附載の表によつて通觀し得るごとく、だいたいにその想像は誤つてい居なかつた。但し、説明に入るに先だつて、玆にもう一度明らかにして置きたいと思ふのは、記錄と地方言語との關係である。所謂月卿雲客たちの口にすることが、都の言葉に對して一段の優越を認められてよかつたのは、法令の名目とか輸入の事物とかの如く、一旦權能ある公の機關に由つて、統一し又整理せられたものに限るのであつて、四民日常の共用するところ、殊に主として女子や少人によつて口すさまれる言葉などは、偶然それが學問ある人の筆に上つたからとて、少しでも匡正の力を有つ道理はなかつた。果してどちらが片言であり聽きそこなひであるかは、容易に決し難い問題であるのみならず、雙方が諸共に誤つて居る場合さへも、幾らでも想像し得られるのである。誤りといふのも實はある時代ある地方に比べて同じでないといふだけのことで、それでも通用する以上は言語でないとは言はれない。標準語はつまり前にもいふ如く、單にある期の現在の便宜と趣味とに基づいた選擇であつて、これを論據として國語の事實を、否認することまでは許されぬのである。國語の事實はこの上もなく複雜なもので、我々はまだ其片端すらも知り得たとは言はれない。これに對して文書の採錄は、單なる偶然であり又部分的である。從うて現存最古の書物に筆記せられている言葉が正しく、又最も古くかつ固有のものだときめてかゝることは、無法なる臆斷と言はなければならぬのである。
[やぶちゃん注:「デエロ」改訂版では『デェロ』。
「倭名鈔以來の文籍に認められた加太豆布利」源順の「和名類聚抄」には(国立国会図書館デジタルコレクションの複数画像を視認して我流で訓読し、句読点を附して読み易くした)、
*
蝸牛(カタツムリ) 「山海經注」に云く、※1螺〔上の音は「僕」。〕は、蝸牛なり。「本草」に云ふ蝸牛〔上は「古」「華」の反。和名、加太豆不利。〕は、貌、※2蝓に似て背に殼負ふのみ。
[やぶちゃん字注:「※1」~「撲」-「扌」+「虫」。「※2」=「褫」-「衤」+「虫」。]
*
と載る。ご覧の通り、「加太豆布利」ではなく「加太豆不利」であるが、改訂版では以下も「不」に直されてある。]
此の立場から考へてみると、世の多くの語原論なるものは、誠に心もと無い砂上の樓閣であるのみならず、假にたまたま其本意を言ひ當てたりとしても、第一に其發見に大變な價値を付することは出來ない。深思熟慮の結果に成る言葉といふものも想像し難い上に、その傳承採擇に際しては、尚往々にしていゝ加減な妥協もあつたからである。それを一々何とか解釋しなければならぬものゝ如く、自ら約束した學者こそは笑止である。私などに於いては倭名鈔の所謂加太豆布利が、果して山城の京を距ること何十里、源順君の世に先だつこと何十年間の、事實であつたらうかを危む者であるが、謹嚴なる和訓栞の著者の如きは、之を神代以降の正語なりと信ずるが故に、乃ち偏角振(かたつのふり)の義なるべしなどと説いて居るのである。若し片角振りならば片角振りと謂ひさうなものである。何人が何處で其樣なわからぬ省略を申し合せたとするか。實に思ひ遣りの無い獨りぎめであつたが、さういふ事も亦近頃までの流行であつて、一人谷川氏を難ずることは出來ない。それよりも更に思い切つた一異説は、物類稱呼の著者が得たといふ實驗談であつた。蝸牛は雨の降る前になると、角だか貝だかを鳴らしてカタカタといふ音をさせる。さうしてその形は錘と似ているからカタツムリだといふなどは、語原論と言はうよりも、むしろ落し話の方に近いのである。
[やぶちゃん注:「和訓栞」「わくんのしほり(しおり)」と読む。江戸後期(安永六(一七七七)年以降)に成立した国語辞典で国学者谷川士清(ことすが)著。九十三巻。上代語・中古語・俗語(方言を含む)を採集し、第二音節までの五十音順に配列、出典を示して語釈を加えた上、用例も挙げてある。所持する複数の画像データを調べたが、私の所持するものは古い版であるためか、出てこない。
「物類稱呼」江戸後期の全国的規模で採集された方言辞書。越谷吾山
(こしがやござん) 著。五巻。安永四(一七七五)年刊。天地・人倫・動物・生植・器用・衣食・言語の七類に分類して約五百五十語を選んで、それに対する全国各地の方言約四千語を示し、さらに古書の用例を引くなどして詳しい解説を付す。「蝸牛」は巻二の動物に出る(以下の引用は昭和八(一九三三)年立命館出版部刊の吉澤義則撰「校本物類稱呼 諸國方言索引」に拠った)。
*
蝸牛 かたつぶり〇五畿内にて〇でんでんむし、播州邊九州四國にて〇でのむし、周防にて〇まいまい、駿河沼津邊にて〇かさばちまいまい、相摸にて〇でんぼうらく、穢土にて〇まいまいつぶり、同隅田川邊にて〇やまだにし、常陸にて〇まいぼろ、下野にて〇をゝぼろ、奥仙臺にて〇へびのてまくらといふ。今按ずるに、かたつぶりは必雨ふらんとする夜など鳴もの也。貝よりかしら指を出して打ふりかたかたと聲を發(はつ)す。いかにも高きこゑ也。かたかたと鳴て頭をふるものなれば「かたふり」といへる意にて「かたつぶり」となづけたるものか。「つ」は助字なるへし。予、隅田川の邊に寓居(ぐうきよ)せしことかれを見て句有。又晋其角か。
〽文七にふまるな庭のかたつふり とせし句は寂蓮法師の歌の、上の五もじを科へ手俳諧の句となしたる也
〽牛の子にふまるな庭のかたつぶり角有とても身をはたのまし
*]
實際あるいはさうでも言はなければ、説明は六つかしかつたのであらうが、果して此京都語が出來た最初から、カタツブリであつたか否かにも疑ひがある。語原を考へる位ならば、何をさし置いてもその原の形といふものを確かめなければならぬのだが、現在はまだ其方法が立つて居ない。それでまず試みに此語の領域、もしくは分布狀態を尋ねて見なけれはならぬが、カタツブリは今の處では中央には殆ど其跡を絶ち、主として京都から最も遠い土地ばかりに、單獨に又は他の語と併存して用ゐられて居るである。次に列擧するものゝ中には、文學によつて「匡正」せられた例も交つて居ないとは斷じ難いが、まだ普通には今まであつたものを、全部無くしてしまふだけの力はなかつた筈であるのに、少なくとも秋田縣の各郡などは、是以外には全く別の名稱を持つて居ないのである。
[やぶちゃん注:「匡正」「きやうせい(きょうせい)」正しい状態にすること。]
カダツブレ、カサツブレ 羽後秋田市
カタツンブレ 同 南秋田都
カサツンブレ、カナツンブ 同 河邊郡
カサツブリ 同 仙北郡
カダツムリ 同 平鹿郡
カダツンブリ 同 由利郡
カサツブリ 同 飛島
[やぶちゃん注:「河邊郡」現在の秋田県秋田市の一部と、秋田県大仙市の一部に相当する旧郡。
「仙北郡」現在の秋田県仙北市全域と、大仙市の大部分及び横手市の一部に相当する旧郡。
「平鹿郡」現在の秋田県横手市の大部分と、大仙市の一部に相当する旧郡。
「由利郡」現在の秋田県由利本荘市・にかほ市全域と秋田市の一部に相当する旧郡。
「飛島」現在の山形県酒田市に属する日本海に浮かぶ飛島(とびしま)。酒田港から北西三十九キロメートル沖合にある山形県唯一の有人島である。]
斯ういふ中でもカサツブレは秋田の御城下の語である故に、どの郡に行つても通用し、又正しいと認められて居ることは、關東のマイマイツブロも同じであつた。尚この以外に他の地方の例を拾うてみると、
カタツムリ 青森縣南部領
カサツブリ、カサツムリ 羽前東村山郡
カタツンブリ 佐渡外海府
カサツブリ 越後の一部
カサツブ 會津大沼郡河沼郡
カタツモリ、マメジッコ 下野鹿沼附近
カンツンブリ 越中五箇山
カエツブリ、カエツモリ 同 下新川郡
カエカエツブリ、カエカニツモル 同 上新川郡針原
カエツブリ、カエカエツノダス 同 氷見郡宇波
カタツブプリ、マエマエツブリ 越前阪井郡金津
カタツブリ 同 大野郡
カタツンブリ、カタツター 大和十津川
[やぶちゃん注:「羽前東村山郡」山形県の郡。現行以前は天童市の大部分と山形市の一部を含んだ。
「佐渡外海府」「そとかいふ」と読む。佐渡島の北部に位置する外海府海岸一帯を指す。
「會津大沼郡河沼郡」孰れも現存する福島県の郡。「大沼郡」は以前は会津若松市の一部と河沼郡柳津町の一部を含んだ。「河沼郡」は以前は会津若松市の一部・喜多方市の一部・耶麻(やま)郡西会津町の一部を含んだ。二郡は古くより近接していた。
「下野鹿沼」関東の北部、栃木県中部に位置する現在の鹿沼市。
「上新川郡針原」現在の富山県富山市針原中町の附近(上新川郡は消滅した)。
「越前阪井郡金津」現在の福井県あわら市金津町(かなづちょう)。「阪井郡」は「坂井郡」が正しいが、既に消滅。
「大野郡」福井県西端にあった旧郡で越前国では最も面積の大きい郡であった。現在の大野市及び勝山市の全域と、福井市の一部他に相当する。
「カタツター」は改訂版では『カタッター』。後も同じ。]
微細なる音韻の異同ほ、耳でも判別しにくゝ筆に現はすことは尚困難であるが、大體に秋田縣などで私の聽いた所は、カサといふ場合のサは必ず澄み、カタといふ場合は必ず濁つて、幾分かカザに近いやうであつた。それで問題になるのはカタとカサと、いずれが先づ生じて後に他方の「轉訛」を誘つたか。乃至は又二つ本來は別々のものであつたのが、ナメクジとマイマイクウジの如く、後に互ひに近よつて來たのかといふ點である。自分等の最初に心づくのは、カサは近世の編笠が起る以前、一筋の縫絲を螺旋させて縫うたものと思はれるから、是ならば最も適切に蝸牛の貝の構成を形容し得たらうといふことである。現にマイマイでも次に言はうとするツブロでも、共に其特徴によつて出來て居るから、笠に似た貝、笠を着た蟲といふ意味の、名前が生ずることに不思議は無い。併し其反面から、直にカサを古しとし、カタを京都の人の聽きそこなひと、考へてしまふことはまだ出來ない。寧ろ是ほど尋常なる一つの名を、特にカタといふ音に聽き倣すには、それだけの理由があつたものとも見られるのである。現在のところでは、カタにはまだ獨立した由來を見出すことが出來ぬから、假にカサ・カタを一種と見て置くが、事によると別に第四の方言の古く行はれたのがあつて、後に勢力を失うてカサツブリと合體したのかも知れない。カサツブリと近い方言が、主として日本の北半分に分布しているに對して、南の半分には單純なるカタ系統の語が多い。それが雙方ともに國の端ともいふべき地方であつて、中央との關係が對稱的になつて居ることは、注意しなければならぬ點であらう。今日までに知られている例は、
マイマイカタツボ 伊勢多氣郡
カタツボ 同 度會郡
カタカタバイ 紀伊南牟婁郡飛鳥村
カタジ 同 熊野串本浦
カタカタ 同 下里村
カタカタ、カタッター 大和十津川
カッタナムリ 土佐高知附近
カタカタ 同 幡多郡
カタト 伊豫宇和島附近
カタタン 同 喜多郡
カタクジリ 肥後八代郡金剛村
ガト 丹後加佐郡
[やぶちゃん注:「伊勢多氣郡」「たき」と読む。三重県の中部南寄りを東北から南西に横断する現存する郡。
「度會郡」度会郡(わたらいぐん)現存する三重県の郡で多気郡南の西方に接する。古くは現在の伊勢市も郡域であった。
「紀伊南牟婁郡飛鳥村」現在は熊野市。南牟婁郡が現存してはいる。
「熊野串本浦」現在の和歌山県東牟婁郡串本町。本州最南端の地。
「下里村」現在は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町。
「幡多郡」高知県西部の郡。古くは宿毛市・土佐清水市・四万十市の全域、高岡郡四万十町の一部で、土佐国では最大、南海道でも牟婁郡に次いで広大な面積を有した。
「喜多郡」愛媛県西部の郡。古くは大洲市の大部分・伊予市の一部・西予市の一部・内子町の一部を含んだ。
「肥後八代郡金剛村」現在、八代市(現在、八代郡は氷川町(ひかわちょう)一町のみ)。
「加佐郡」「かさ」と読む。舞鶴市全域と福知山市の一部及び宮津市の一部に相当した。]
ぐらゐのものであるが、この中間にもいまだ採集を試みざる地域は弘い。但しマイマイとの著しい相異は、彼は中國山脈などの内陸に殘つて居るに反して、この方は専ら海沿ひの地の、しかも岬角と名づくべき地に分布していて、この點がまた北部のカサツブレとも一致することである。伊豆の半島のカサッパチ若くはカーサンマイといふ蝸牛の方言なども、明らかにまたその類例であるが、それが駿州に入つて優勢なるマイマイと接觸し、到る處にカサノマイ、カサパチマイマイ等の複合現象を呈する外、北は富士山の東西裾野を過ぎて、甲州の約半分を風靡し、更に東は尉榔を越えて、相模愛甲の山村まで、このカアサンメの領分に取込んでいる爲に、人は或はその發源の何れに在つたかを疑うて居る。併し甲州は其武力に於ては、久しく或一家に統一せられて居たに拘らず、方言の關する限り殆どと四分五裂であつた。周りの國々の言葉は峠を越え流れを傳ひ、何れも中央の平地に降つて對立し、一つとして此山國を通り拔けて行つたものは無い。言はゞ一種緩衝地帶であるが此實狀に眼を留めてみた者ならば、少なくとも此方が終端の行き止りであることを、信じないでは居られぬと思ふ。さうして一方には東海道は又マイマイといふ語の往還の路であつた。殘る所は伊豆半島の袋の底に、一つ以前の語が押込められて、偶然にも忘却を免れて居たものと、解するの他は無いやうである。半島が古い文物の保存地となることは、既に多くの學者も説いて居るが、方言に於ても其實證は乏しとせぬ。例へば關東東北ではニホといい、中央部ではススキ・スズミ、西國ではホヅミなどといふ稻の堆積を、志摩と伊豆と安房との三つの半島國のみに於ては、一樣にイナブラと呼んで居る。それが舟人によつて舟より運ばれたので無いことは、稻村は、彼等と縁の近い物體で無く、陸に居る者にのみ適切な問題であつたことを考へてもわかる。だから外には例も無いが、カサバチ多分古い形の一つであらう。ハチもツブロも本來は近い物であつた。それからカアサンメのメといふ語も、類例を求むるならばツグラメのメがある。恐らくはマイマイとは關係無しに、別に理由があつて早くから附いて居たものであらうと思ふ。
[やぶちゃん注:「岬角」改訂版は「かうかく(こうかう)」と音読みしている。半島部で特に岬や鼻となった地形・地域の謂い。
「カーサンマイ」「カアサンメ」改訂版ではそれぞれ『カァサンマイ』『カァサンメ』(後者は二箇所とも)。]
七
上市と云ふ寂しい小さい村の近くで、私は名高い聖い樹を見物するためにしばし休息する。それは大通りに近いが低い丘の上の森の中にある。その森に入ると、三方が甚だ低い崖で圍まれた小さい谷のやうな處へ出る、その上の方へ計られぬ程老いた巨大な松の樹が何本か聳えて居る。その大きなうねつた根は崕の表面を貫いていわを割つて出て居る。それからその交つた桧葉はその盆地に綠のたそがれを作つて居る。一本は甚だ妙な形の大きな根を三本つき出して居るが、その端(ハシ)が何か祈禱の文句を書いた長い白い紙や、海草の供物で卷いてある。何かの伝説によるよりは、むしろこの根の恰好が一般の信仰から見てこの樹を神聖にしたらしい、それは特別の崇拜の目的物である、そして小さい鳥居がその前に建ててある、それには最も不器用なそして妙な種類の奉納文がのせてある。私はその飜譯をここに出す事はさし控へる――しかし人類學者や民俗學者にはたしかに特殊の興味があるに相違ない。樹木の崇拜或は少くとも樹木のうちに存在すると想像される神の崇拜は大多數の原始的種族に多分共通な、そして以前は日本にも博く行はれた、生殖器崇拜の珍しい遺物である。實際それが政府によつて禁止されてから二三十年にもなるままい。小さい盆地の向う側に、大きな、堅くない岩の上に同じく不器用な、同じく妙な物――祈禱者の物が置いてあるのを見る。二つの藁人形――互にもたれかかつた男女の人形である、細工は子供らしく不器用である、それでも藁一本で女の髮を巧みにまねて女は男と區別ができる。それから男には、今封建時代の老年の殘存者しかもたない丁髷がついて居るから、私はこの祈禱者の物は何か古への、そして全く慣習的模型によつて造られたものであらうと思ふ。
さてこの奇妙な奉納物はそれ自身問はず語りをしてゐる。愛し合つて居る二人の男女は男の過ちで別れる事になつた、多分どこかの女郎に迷うて女に不實をする氣になつたのであらう。それから不實をされた女はここに來て迷の雲を晴らし、誤れる心を直して貰ふやうに神に祈つた。その祈りは聞き屆けられた、二人は再び一緒になつた、それで女はそのために二つの妙な人形を自分の手で造つて、――彼女の無邪氣な信仰と感謝の心のしるしとして――松の樹の神に捧げた。
[やぶちゃん注:一対の古び萎れた陰陽(いんよう)の人形(ひとがた)から、こんなに美しく素晴らしい文学的空想を出来る日本人が、今、どれほどいるだろう? ハーン先生、私は恥ずかしい気になりました……
「上市」既に述べた通り、「第六章 盆踊 (四)」に出る、現在の鳥取県西伯(さいはく)郡大山町(だいせんちょう)上市(山陰本線刺下市駅の海側の字名として残る)であるが、原文は「かみいち」とあるものの、これは少なくとも現行では「うはいち(うわいち)」と読むのが正しい。
「聖い樹」個人ブログ(男性/HM非公開)「同行二輪」の「民俗学考 その1 木ノ根神社」によって、鳥取県西伯郡大山町松河原の木ノ根神社(逢坂木ノ根神社)であることが判った。山陰本線下市からほぼ西に一・五キロメートルほどの位置に現存する。リンク先の記事によれば御神体は男根に似た松の根であるとし(ハーンの言う通りの典型的古典的な陽物崇拝である)、『御利益は当然、子宝、縁結び』、『正面扉の格子から中を覗くと、地面には多数の男根の奉納物と小さな祠がある。その後ろに確かに巨大な木の根があるのだが、屋根で覆われているために全体像がつかめない。枯れ木の幹という以外にどの様な形なのかは全くわからない。肝心の三本あるのかどうかもはっきりしない』(ブログ主はこの前でハーンのこの箇所を案内板と記念碑から引用されておられる。若干、表記に問題があるが、平井呈一氏の訳文である)。『結論としては、相当、初心(うぶ)な乙女でもこれなら大丈夫だろう。因みに、国道沿いにある木の根まんじゅうというのは、シンボライズした形の大きな饅頭だ』とある。陽物崇拝、「金精様(こんせいさま)」については種々のテクストで数多、注をしてきたのでここで改めて注することはしない。例えば「耳嚢 第一卷 金精神の事/陽物を祭り富を得る事」などの私の注を参照されたい。]
Ⅶ.
Near a sleepy little village called
Kanii-ichi I make a brief halt in order to visit a famous sacred tree. It is in
a grove close to the public highway, but upon a low hill. Entering the grove I
find myself in a sort of miniature glen surrounded on three sides by very low
cliffs, above which enormous pines are growing, incalculably old. Their vast
coiling roots have forced their way through the face of the cliffs, splitting
rocks; and their mingling crests make a green twilight in the hollow. One
pushes out three huge roots of a very singular shape; and the ends of these
have been wrapped about with long white papers bearing written prayers, and
with offerings of seaweed. The shape of these roots, rather than any tradition,
would seem to have made the tree sacred in popular belief: it is the object of
a special cult; and a little torii has been erected before it, bearing a votive
annunciation of the most artless and curious kind. I cannot venture to offer a
translation of it — though for the anthropologist and folk-lorist it certainly
possesses peculiar interest. The worship of the tree, or at least of the Kami
supposed to dwell therein, is one rare survival of a phallic cult probably
common to most primitive races, and formerly widespread in Japan. Indeed it was
suppressed by the Government scarcely more than a generation ago. On the
opposite side of the little hollow, carefully posed upon a great loose rock, I
see something equally artless and almost equally curious,— a kitōja-no-mono, or
ex-voto. Two straw figures joined together and reclining side by side: a straw
man and a straw woman. The workmanship is childishly clumsy; but still, the
woman can be distinguished from the man by .the ingenious attempt to imitate
the female coiffure with a straw wisp. And as the man is represented with a
queue,— now worn only by aged survivors of the feudal era,— I suspect that this
kitōja-no-mono was made after some ancient and strictly conventional model.
Now this queer ex-voto tells its own story.
Two who loved each other were separated by the fault of the man; the charm of
some jorō, perhaps, having been the temptation to faithlessness.
Then the wronged one came here and prayed
the Kami to dispel the delusion of passion and touch the erring heart. The
prayer has been heard; the pair have been reunited; and she has therefore made these two quaint effigies 'with her own
hands, and brought them to the Kami of the pine,— tokens of her innocent faith
and her grateful heart.
六
しかしこんな原始的な恐ろしい信仰があつても、盆の時期には美はしい佛教の信仰を行ふ事には變りはない、それでこの小さい村々から十六日に精靈船が出る。精靈船は日本の外の地方よりも、この海岸では餘程精巧に又費用をかけて造られる、骨組の上を藁で包んで造つてあるだけではあるが、何れも細(コマカ)い點まで完全にできて居る小船の面白い模型である。三尺から四尺までの長さのもある。白い紙の帆に戒名が書いてある。新しい水を入れた小さい水入れと香爐をのせてある、それから上側板に神祕的な卍(マンジ)をつけた小さい紙の旗がひるがへる。
精靈船の形とそれを流す時と仕方に關する風習は國々によつて餘程違ふ。精靈船の代りに燈籠だけ、――その目的のためにのみ造られた特別の種類の燈籠――を流すのが或漁村の習慣だと私は聞いて居る。
しかし出雲の海岸、及びこの西の海岸に沿うた他の地方では、精靈船は海で溺死した人のためにのみ流される、それから流す時刻も夜でなくて。朝である。死んでから十年間は毎年一回、精靈船を流す、十一年目からはこの儀式はない。稻佐で見た多くの精靈船は全く美しかつた、そして貧しい漁村の人々にとつては隨分多額の金がかかつたに相違ない。しかしそれを造つた船大工の話では、溺死した人の親戚は悉く金を寄附して、年々小さい船を求める。
[やぶちゃん注:原本を確認したが、第二段落と第三段落の行空けは原文にはない。
「三尺から四尺」九一センチメートルから一・二メートル。
「稻佐で見た多くの精靈船」この杵築の稲佐浜での描写はこれ以前に示されていない。現在の研究ではハーンは大社に少なくとも三度参拝していることが判っている。本書に先に描かれた、最初の杵築訪問(大社参拝)は、
明治二三(一八九〇)年九月十三と十四日は、旧暦七月二十九日と八月一日
であり、同様に翌年、
明治二四(一八九一)年の訪問は七月二十六日から八月十日で、旧暦では六月二十一日から七月六日
に当たり、精霊舟を流す旧盆の時期とは孰れも一致していない(現在、知られている最後の三度目とされる訪問は東京帝国大学に赴任する直前の明治二十九(一八九六)年八月十二日であるが、これは本書刊行の後であるから排除される)。このことから、ハーンは現在知られている以外に、旧盆の頃に、稲佐浜を訪れて精霊流しを現認していると考えざるを得ない。ところが言わずもがな乍ら、明治二十三年の旧盆はハーン松江到来以前であるからあり得ず、明治二十四年の同時期はまさにここでセツと伯耆に新婚旅行中で行くことは出来ない。そうすると、彼が稲佐浜で精霊流しを見たのは熊本に移った後の明治二十五年、二十六年、二十七年(本書刊行は同年九月)の三年間の孰れかの旧盆に限定されてくることになる(新潮文庫の上田和夫氏の年譜を見る限りでは、この三年間の孰れの旧盆の時期にも空白があるから推理としては充分成立すると思う)。これを文学的虚構とは思わない。ハーンは見ていないものを見たと言うタイプの人間ではないし、ここではしかも「全く美しかつた」という感懐を訴えている。私の考証に重大な誤りがあるとされる方は、是非とも御教授を乞うものである。
「しかしそれを造つた船大工の話では、溺死した人の親戚は悉く金を寄附して、年々小さい船を求める。」原文は“But the ship-carpenter who made
them said that all the relatives of a drowned man contribute to purchase the little
vessel, year after year.”。この訳文は水難に遭った遺族らや話者である船大工に対して頗る失礼な誤訳と思う。「しかし」が「年々小さい船を求める」に呼応するのではない。これは――しかし乍ら、それらの精霊船を造る船大工の話によれば、彼らはほんに貧しい人々なれば、水難に遭って亡くなった者の親族らは、毎年毎年、なけなしの金を出しあっては、そのミニチュアの船を買(こ)うて行くのである――という謂いであろう。平井呈一氏の訳でも『もっとも、それをこしらえた人から聞いたところによると、水死人の親類縁者たちが毎年金を出しあって、そういう精霊船を買うのだという話だった』となっている。]
Ⅵ.
But these primitive and ghastly beliefs do
not affect the beautiful practices of Buddhist faith in the time of the Bon;
and from all these little villages the shoryobune are launched upon the
sixteenth day. They are much more elaborately and expensively constructed on
this coast than in some other parts of Japan; for though made of straw only,
woven over a skeleton framework, they are charming models of junks, complete in
every detail. Some are between three and four feet long. On the white paper
sail is written the kaimyō or soul-name of the dead. There is a small
water-vessel on board, filled with fresh water, and an incense- cup; and along
the gunwales flutter little paper banners bearing the mystic manji, which is
the Sanscrit swastika.[3]
The form of the shōryōbune and the customs
in regard to the time and manner of launching them differ much in different
provinces. In most places they are launched for the family dead in general,
wherever buried; and they are in some places launched only at night, with small
lanterns on board. And I am told also that it is the custom at certain
sea-villages to launch the lanterns all by themselves, in lieu of the shōryōbune
proper,— lanterns of a particular kind being manufactured for that purpose
only.
But on the Izumo coast, and elsewhere along
this western shore, the soul-boats are launched only for those who have been
drowned at sea, and the launching takes place in the morning instead of at
night. Once every year, for ten years after death, a shōryōbune is launched; in
the eleventh year the ceremony ceases. Several shōryōbune which I saw at Inasa
were really beautiful, and must have cost a rather large sum for poor
fisher-folk to pay. But the ship-carpenter who made them said that all the
relatives of a drowned man contribute to purchase the little vessel, year after
year.
3
The Buddhist symbol 卍.
五
船に乘つて海に行き、そこに止まつて歸らない人々に關して、この遠隔の海岸では妙な信仰が行はれる、――墓の前に白い燈籠をかける優しい信仰よりは、たしかに、もつと原始的な信仰である。溺死者は決して冥途へは行かないと信じて居る者がある。彼等は永久に流れの間に漂ふ、潮の動搖と共にうねる、船のあとに續いて動く、大波の碎ける時に叫ぶ。激浪の跳ぶ時上るものは彼等の白い手である、礫をざらざら音をさせたり、引浪が引 く時游泳者の足をつかんだりするのは彼等の拳である、それで船乘はこのお化けの事を婉曲に云つて、非常にそれを恐れる。
それで船には猫を飼ふ。
猫はお化けを追彿ふ力がある物ときめられて居る。どうして、又何故かについて私に告げてくれる人が未だ見つからない。私は猫は死者を支配する力があると考へられて居る事だけを知つて居る。死骸と猫だけを置いたら、死骸は起きて躍り出さないだらうか。猫のうちでも三毛猫はそのために船乘に最も貴ばれる。しかし三毛猫が得られない場合には外の猫でもよい、それで船が港に入ると、その船の猫は大概――船側のどこか小さい窓から覗いたり、大きな舵の動いて居る廣い場所に坐つたりして居るのが見られる、――即ちもし天氣がよく、海が靜かであれば。
[やぶちゃん注:「死骸と猫だけを置いたら、死骸は起きて躍り出さないだらうか」妖猫(猫又)が死者の遺体を踊らせるという伝承はかなり有名である。ウィキの「猫又」にも『ネコはその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者を甦らせたり、ネコを殺すと』七代祟る『などと恐れられており、そうした俗信が背景となって猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。『また、ネコと死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車』(かしゃ)『と猫又が同一視されることもある』とある。
「三毛猫」ウィキの「三毛猫」に、オスの三毛猫(ご存じの通り、本三色の毛色と性別は伴性遺伝であるため、三毛猫はその殆んどが♀であり♂は滅多に出現しないことから、それだけでも非常に稀少価値であった)を船に乗せると福を呼び、船が遭難しないという言い伝えがあり、『江戸時代には高値で取引されていたという説もあるが、実際の取引事例は不明である。
日本の第一次南極観測隊では珍しくて縁起がいいという理由でオスの三毛猫のタケシが連れて行かれ、昭和基地内のペットとして南極で越冬している』事実はある、とある。大型で遠洋に長期に出るようなものならば鼠退治としての実用性もあるが(日本への猫渡来説の有力な一つは仏典を鼠の食害から守るために同船させた猫がルーツとするものである。また、私の偏愛するサイト「カラパイア」の「かつて猫は船の守り神だった。船に乗る猫たちの古写真特集」(これらの写真は必見!)には、『英国では古い海上保険法で、猫を乗せることが義務付けられており、乗せていなかった貨物船は、ネズミによる被害を故意に防ごうとしなかったという理由で、貨物の損害への保険金支払いを認められなかったほどだ』ともある)、貧しい日本の漁師の木の葉のようなそれでも乗せるとなら、これはもうその信仰はまさにハーンが語るようなものでなくてはならぬ。先のカラパイアの記事にも『日本では、ネズミ退治はもちろんのこと、「ネコが騒げば時化、眠れば好天」「ネコは船中で必ず北を向く」などの言い伝えがあり、猫には天気の予知する能力や荒天でも方角を示す能力とがあると信じられてきた』とあり、これも一因であろう。]
Ⅴ.
Concerning them that go down into the sea in
ships, and stay there, strange beliefs prevail on this far coast,— beliefs more
primitive, assuredly, than the gentle faith which hangs white lanterns before
the tombs. Some hold that the drowned never journey to the Meido. They quiver
for ever in the currents; they billow in the swaying of tides; they toil in the
wake of the junks; they shout in the plunging of breakers. 'Tis their white
hands that toss in the leap of the surf; their clutch that clatters the
shingle, or seizes the swimmer's feet in the pull of the undertow. And the
seamen speak euphemistically of the O-'baké, the honourable ghosts, and fear
them with a great fear.
Wherefore cats are kept on board!
A cat, they aver, has power to keep the
O-baké away. How or why, I have not yet found any to tell me. I know only that
cats are deemed to have power over the dead. If a cat be left alone with a
corpse, will not the corpse arise and dance? And of all cats a mike-neko, or
cat of three colours, is most prized on this account by sailors. But if they
cannot obtain one,— and cats of three colours are rare,— they will take another
kind of cat; and nearly every trading junk has a cat; and when the junk comes
into port, its cat may generally be seen,— peeping through some little window
in the vessel's side, or squatting in the opening where the great rudder works,—
that is, if the weather be fair and the sea still.
四
ところで大多數の村はただの漁村である、そしてそのうちに嵐の前夜船出をして再び歸つて來ない人々の古い草葺きの家がある。しかし溺死者も近傍の墓場に墓がある。その下に何かその人の物が埋めてある。
何であらう。
この西の方の人々の間には、外の土地では無頓着に捨てられる物――臍の緒――はいつも保存される。丁寧に幾重にも包まれて、最後の上包みに父と母と幼兒の名と、出生の日の時刻とを書いて家の守袋に納めて置く。娘は嫁入きり時、新家庭へ携へて行く、息(ムスコ)の方のは兩親が保存してくれる。死ぬ時はそれを一緒に葬る、外國で、或は海で死ぬ事があれば、遺骸の代りにそれを墓に納める。
[やぶちゃん注:墓地と朽ち果てた漁民の空き家を描くことから始めて、その墓の中を透視して民俗を解き明かすハーンは、私はまさしく本邦幻想文学者の希有の一人と信じて疑わぬ。なお、小泉八雲顕彰会副会長で静岡県立大学教授の大澤隆幸氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、この荒涼たる海辺の巨大な墓地のヒントとなったと思われるのは、現在の鳥取県東伯郡琴浦町赤碕の花見潟墓地であるとある(「十一」にもそれらしいものが出る)。「鳥取県観光連盟」公式サイト内の「花見潟墓地」を参照されたい。なかなかクるもののある景観である。なお、つい数日前に遅まきながら存在を知ったこの論文は(私はアカデミズムの人間ではないので遅かりしは悪しからずである)、全十三タイトルに分かれ、題名からはちょっと想像出来ないハーンの編年的資料を中心とした恐るべき緻密な論考であって、現在容易に入手出来るハーン小泉八雲の最も完備した年譜的データとしても最善のものと考えられ、未だ精読していないものの、既に電子化した部分の私の注の誤りであることや、疑問の答えも散見され、向後、これに拠って将来的に公開する予定のサイト版(PDF縦書を予定)の注を改稿することを考えている。未入手の方には是非ともお薦めしたい論考である(「静岡県立大学・短期大学部機関リポジトリ」のこちらで十一タイトル、同サイトでの同氏の検索で十二と最終回の十三をPDF版でダウンロード出来る)。
「臍の緒」の民俗については、池田光穂氏の個人サイト内の「臍の緒にかんする質問」が、海外の民俗学的観点も含め、非常にためになった。必見である。因みに、私の家には妻(名古屋出身)の臍の緒があり、私の臍の緒も亡き母(鹿児島出身)は残していた。平凡社「世界大百科事典」の「へその緒」を引いておく(コンマを読点に変更した)。『臍帯(さいたい)の俗称。母体と胎児をつなぐものであり、これの扱いをめぐってはさまざまな習俗がみられる。へその緒は昔は金物で切ることを嫌い、竹のへらや葦・貝殻などを用いた。手一束(ていっそく)(ひと握り)のところを麻でかたくしばって切る。切るということばを忌んで、岩手県などではへその緒をツグという。へそをツグことは、母体から切り離して生児を一個の人間として独立させることなので、へそをツグ産婆(助産婦)は重い意味をもっていた。九州には産婆をヘソバアサンと呼ぶ土地があり、鹿児島県喜界島では産婆の役をフスアンマー(臍母)という。新潟、千葉、神奈川などにはへその緒を切るだけの役目をもつ取上げ親がある。へその緒を短く切ると短気になる、小便が近くなるなどという。へその緒は七夜前後に落ちるが、一般に干して産毛とともに紙に包んで水引をかけ,名前,生年月日を記してその子の守り神として保存する。へその緒はその子が大病をしたときに匙じて飲ませるとよい、嫁にいくときに持たせる、死んだときは棺に入れてやる、便所につるして夜泣きのまじないにするなどの俗信がある』。]
Ⅳ.
Now many of these villages are only fishing settlements, and in them stand old thatched homes of men who sailed away on some eve of tempest, and never came back. Yet each drowned sailor has his tomb in the neighbouring hakaba, and beneath it something of him has been buried.
What?
Among these people of the west something is always preserved which in other lands is cast away without a thought,— the hozo-no-o, the flower- stalk of a life, the navel-string of the newly-born. It is enwrapped carefully in many wrappings; and upon its outermost covering are written the names of the father, the mother, and the infant, together with the date and hour of birth,— and it is kept in the family o-mamori-bukuro. The daughter, becoming a bride, bears it with her to her new home: for the son it is preserved by his parents. It is buried with the dead; and should one die in a foreign land, or perish at sea, it is entombed in lieu of the body.
三
程無く、進むうちに、左手の靑色の波浪の單調と、右手の綠色の大波の單調とは灰色の墓地の出現によつて破られた、――それは私共の車夫が全速力で走つて、その直立した石の大きな群がりを通り拔けるのに十五分は充分かかる程長い墓地であつた。これが現れるといつでも村に近づいた事を示す、しかし墓地の驚くべく大きいのに比して、村は驚くべく小さい事が分る。墓地の沈默の住民の數がその墓地を有せる村の人々よりも多い事は幾千の幾百倍である、――その村は數里の海岸に沿うて散在して、防風としてはただ陰氣な桧竝樹があるだけのゝ草葺き屋根の全く小さい部落である。無數の、全く無数の墓石又墓石、――過去に對する現在の價の物凄き無數の證人、――そして古い、古い、古い、――そのうち數百は餘り長くそこにゐたので砂丘から吹いて來る砂だけで形も毀れ、佛銘も全く消えて居る。陸地が存在するやうになつてから、この風の吹く海岸にこれまで生きてゐた人々悉くの墓地をさながら通過して居るやうである。
そしてこの墓場には悉く――今盆だから――墓が新らしい程新らしい燈籠、――墓場の燈籠である白い燈籠がある。今夜多數の墓場は都會の火のやうな光で輝くであらう。しかし又燈籠のない無數の墓――古い幾萬の墓地もある、――何れも家が斷絶したしるし、或はここを去つた子孫がその家族の名をさへ忘れたしるしである。古い時代の人々、その人々の精靈を呼び戻してくれる者はない、愛する地方的記憶もなくなつて居る――彼等の一生に關する一切の事はずつと以前に消滅して居る。
[やぶちゃん注:この盆燈籠の風景は、ハーンの意識の心象風景としても、すこぶる夢幻的で悲しく且つ慄然とするほどに美しい。今の日本人のどれほどの者が、これほど哀切に満ちた思いを、日本人として、かくも深く哀しい感懐として抱けるであろう? 最早、日本人は日本人ではなくなってしまいました……ハーン先生……
「私共の車夫が全速力で走つて」この描写は、松江への赴任着任のために真鍋と「全速力で」人力車を走らせたであろう推定事実とよく一致し、この箇所に関しては松江に向っている最中の明治二十三年八月三十日(無論、新暦)直近の体験に基づく叙述と採れる。何故なら、セツとの新婚旅行に於いては凡そ「全速力」で俥を走らせねばならない必然性はないと普通は考えられるからである。]
Ⅲ.
Betimes, as we journey on, the monotony of
undulating blue on the left, or the monotony of billowing green upon the right,
is broken by the grey apparition of a cemetery,— a cemetery so long that our
jinricksha men, at full run, take a full quarter of an hour to pass the huge
congregation of its perpendicular stones. Such visions always indicate the
approach of villages; but the villages prove to be as surprisingly small as the
cemeteries are surprisingly large. By hundreds of thousands do the silent
populations of the hakaba outnumber the folk of the hamlets to which they
belong,— tiny thatched settlements sprinkled along the leagues of coast, and
sheltered from the wind only by ranks of sombre pines. Legions on legions of
stones,— a host of sinister witnesses of the cost of the present to the past,— and
old, old, old! — hundreds so long in place that they have been worn into
shapelessness merely by the blowing of sand from the dunes, and their
inscriptions utterly effaced. It is as if one were passing through the burial-ground
of all who ever lived on this wind-blown shore since the being of the land.
And in all these hakaba — for it is the Bon —
there are new lanterns before the newer tombs,— the white lanterns which are
the lanterns of graves. To-night the cemeteries will be all aglow with lights
like the fires of a city for multitude. But there are also unnumbered tombs
before which no lanterns are,— elder myriads, each the token of a family
extinct, or of which the absent descendants have forgotten even the name. Dim
generations whose ghosts have none to call them back, no local memories to love
— so long ago obliterated were all things related to their lives.
二
しかし時として入港しようと一所懸命になつた船がやはりおくれて十六日の夜遠く沖合に居る事がある。そんな時に精靈が船の廻りに高く現れて、長い手をのばして『田籠(タゴ)、田籠おくれ――田籠おくれ』とつぶやく。決してそれを拒んではいけない、しかし桶を渡す前に、底をぬいて置かねばならない。偶然にでも完全な桶を海に落したら、その船に乘り合せた人々こそ災難、――何故と云へば、精靈は直ちにそれに水をみたして船を沈めにかかるのだから。
佛海の時分に、恐ろしい見えない力のある物は精靈ばかりではない。未だ最も強い魔が居る、それから河童が居る。
しかしいつでも游泳者は恐ろしい醜惡な河童を恐れる、河童は水の底から延び上つて人を引き込んで、腸を喰ふ。
ただ腸だけ。
河童に捕へられた人の死體は餘程たつてから岸に打ち上げられる。大きな波のために長い間岩に打たれたり、魚類のために嚙まれたりしなければ、外から見て何の創もない。しかし軽くてうつろで――よく枯れた瓢簞のやうに空虛である。
註。河童に本來海の化け物ではなく
河の化け物である。それで河口に近
い海に出る。
松江から一哩半ばかり、河内川に臨
んだ河内村に河子の宮或は河童の宮
がある。(出雲では一般に『河童』と
は云はないで『河子』と云ふ。この
小さい社に河童が書いたと云はれる
證文が保存してある。話によれば、
昔河内にすむ河童が村の人を澤山、
それから家畜を澤山捕へて殺してゐ
た。ところで或日の事、水を飮みに
河に入つた馬を捕へようとして、馬
の腹帶の下へどうかしたはずみで自
分の頭をねぢ込んだ)驚いた馬は、
水の中から跳び出して河童を野原へ
引きずつて來た。そこで馬の主人と
大勢の農夫は河童を捕へて縛り上げ
た。村中の人が化け物を見に來た、
化け物は頭を地につけて、何か云ひ
ながらお情けを乞ふた。農夫達は即
座に化け物を殺さうとしたが、馬の
主人は同時に村の庄屋であつたので
云つた。『それよりも河内村の人や家
畜に今後決して手を觸れない事を誓
はせた方がいゝだらう』そこで誓約
の證文を作つて河童に讀んで聞かせ
た。河童は字が書けないが、手に墨
をつけて證文の終りに押す事はでき
る。これには異存もなかつたので、
その通りにしてから、河童は赦され
た。それからさき、河内村の住民や
家畜はこの化け物に襲はれる事はな
かつた。
[やぶちゃん注:「註」の丸括弧位置はママ。これは恐らくは「(出雲では一般に『河童』とは云はないで『河子』と云ふ)」で閉じるものと思われるが、そうすると句点もいじることになるのでそもままにしておいた。
「精靈が船の廻りに高く現れて、長い手をのばして『田籠(タゴ)、田籠おくれ――田籠おくれ』とつぶやく。決してそれを拒んではいけない、しかし桶を渡す前に、底をぬいて置かねばならない。偶然にでも完全な桶を海に落したら、その船に乘り合せた人々こそ災難、――何故と云へば、精靈は直ちにそれに水をみたして船を沈めにかかるのだから」「田籠」は担桶(たご)。水や肥やしなどを入れて天秤棒で担(にな)う桶(おけ)のこと。たごおけ。ここに記されてあるのは、言わずもがな、「船幽霊(ふなゆうれい)」、所謂、「海坊主(うみぼうず)」のそれである。ウィキの「海坊主」より引く(記号の一部を省略した)。『海に出没し、多くは夜間に現れ、それまでは穏やかだった海面が突然盛り上がり黒い坊主頭の巨人が現れて、船を破壊するとされる。大きさは多くは数メートルから数十メートルで、かなり巨大なものもあるとされるが、比較的小さなものもいると伝えられることもある』。『船幽霊のそれと共に、幻覚談が語り伝えられたと思われるものが多く、両者の区別は明らかではない。「杓子を貸せ」と言って、船を沈めに来る船幽霊と海坊主とは同じとされることもある。しかし、船幽霊が時化と共に出現するのに対して、海坊主の出現には海の異常が伴わないこともあるため(その場合は、大抵海坊主を見てから、天候が荒れ始める、船が沈むといった怪異が訪れる)、何か実際に存在するものを見誤ったという可能性が指摘されている。誤認したものの正体は海の生物の他、入道雲や大波など自然現象などが挙げられている』。『また、海坊主は、裸体の坊主風なものが群れをなして船を襲うといわれることも多く、船体や櫓に抱きついたり、篝火を消すといった行動をとる。時に「ヤアヤア」と声をあげて泳ぎ、櫓で殴ると「アイタタ」などと悲鳴をあげるという。弱点は煙草の煙であり、運悪く出会ってしまった際はこれを用意しておけば助かるという『東北地方では漁で最初に採れた魚を海の神に捧げるという風習があり、これを破ると海坊主が船を壊し、船主をさらって行くといわれる。備讃灘』(びさんなだ:備讃瀬戸のこと。讃岐と備前の中間にある瀬戸内海最狭部の瀬戸で、特に最も狭隘な岡山県玉野市日比と香川県大崎鼻間は幅六・七キロメートルしかない。東から小豆島・直島諸島・塩飽(しわく)諸島・笠岡諸島など備讃諸島に属する島々が並び、東西の干満の潮がで合うところでもある。潮流三~四ノット(時速五・六~七・四キロメートル)の瀬戸が多く、大半は水深も三十メートル以下とかなり浅いが、現在でも一日に千五百隻に及ぶ船が航行し、春先から初夏にかけての霧の発生時には海難事故も多い。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)に『多いヌラリヒョンは、頭大の玉状のもので、船を寄せて浮かんでいるところを取ろうとすると、ヌラリと外れて底に沈み、ヒョンと浮いてくる。これを何度も繰り返して人をからかうという』。『青森県下北郡東通村尻屋崎では、フカに喰われた人間が「モウジャブネ」になるという。味噌を水に溶かして海に流すと除けられる。
静岡県賀茂郡で語られる「ウミコゾウ」は、目の際まで毛をかぶった小僧で、釣り糸を辿って来て、にっこり笑ったという。また蒙古高句麗と当てる紀州神子浜の鼬に似た「モクリコクリ」という小獣は』、三月三日は山に、五月五日は海に出、『人の形だが伸縮自在、現れては消え、麦畑で夜くる人の尻を抜くという。クラゲのような形で、海上を群れて漂うともいう。蒙古襲来の時、水死した霊魂と言われており、蒙古高句麗の当て字がある。愛媛県北宇和郡では、夜、海が白くなって泳いでくるものを「シラミ」、または「シラミユウレン」と呼び、漁師はこれをバカと言う。しかし、バカというのが聞こえると、怒って櫓にすがり、散々な目にあわされると伝えられている。佐渡島の「タテエボシ」は、海から立ち上る高さ』は二十メートルにも及ぶ巨大な怪物で、船目がけて倒れてくるとされる。『海坊主は姿を変えるともいい、宮城県の気仙沼大島では美女に化けて人間と泳ぎを競ったという話がある。岩手でも同様にいわれるが、誘いに乗って泳ぐとすぐに飲み込まれてしまうという。愛媛県宇和島市では座頭に化けて人間の女を殺したという話がある。また人を襲うという伝承が多い中、宇和島では海坊主を見ると長寿になるという伝承がある』。『随筆『雨窓閑話』では桑名(現・三重県)で、月末は海坊主が出るといって船出を禁じられていたが、ある船乗りが禁を破って海に出たところ海坊主が現れ「俺は恐ろしいか」と問い、船乗りが「世を渡ることほど恐ろしいことはない」と答えると、海坊主は消えたという。同様に月末には「座頭頭(ざとうがしら)」と呼ばれる盲目の坊主が海上に現れるという伝承もあり、人に「恐ろしいか」と問いかけ、「怖い」「助けてくれ」などと言って怖がっていると「月末に船を出すものではない」と言って消えるという』。江戸時代の知られた怪談集『奇異雑談集』の「伊良虞(いらご)のわたりにて、獨り女房、船にのりて鮫にとられし事」には、『伊勢国(現・三重県)から伊良湖岬へ向かう船で、船頭が独り女房を断っていたところへ、善珍という者が自分の妻を強引に乗せたところ、海で大嵐に見舞われた。船主は竜神の怒りに触れた、女が乗ったからだなどと怒り、竜神の欲しがりそうな物を海に投げ込んだものの、嵐はおさまらず、やがて黒入道の頭が現れた。それは人間の頭の』五~六倍ほどもあり、『目が光り、馬のような口は』二尺(約六十センチメートル)ほどもあったとし、『善珍の妻は意を決して海に身を投げたところ、黒入道はその妻を咥え、嵐はやんだという。このように海坊主は竜神の零落した姿であり、生贄を求めるともいう』。大陸物であるが、清代の王大海の「海島逸志」には「海和尚」『の名で記載されており、人間に似た妖怪だが、口が耳まで裂け、人間を見つけると大笑してみせるものされる。海和尚が現れると必ず暴風で海が荒れるといって恐れられたという。これはウミガメの妖怪視との説もある』。『宝永時代の書『本朝語園』には船入道(ふねにゅうどう)という海坊主の記述があり、体長』六、七尺(一・八二~二・一二メートル)で『目鼻も手足もないもので、同様にこれに遭ったときには何も言わず、見なかったふりをしてやり過ごさなければならず、「あれは何だ」とでも言おうものならたちまち船を沈められるとある。また淡路島の由良町(現・洲本市)では、船の荷物の中で最も大切なものを海に投げ込むと助かるともいう』とある。ハーンここでの記載はお盆の期間(ここでは十六日)としている点が特異に見えるが(上記の記載にはお盆の特異出現は語られていない)、実際、船幽霊に纏わる伝承を管見すると、お盆に漁に出て船幽霊に遭遇したことからお盆の漁が禁忌となった、とするケースが散見される。
「河童」については妖怪フリークの私は、いろいろなテクストでたびたび注を施してきた。取り敢えずその最初期の「耳嚢 第一卷 河童の事」の注を参照されたい。
「河童は水の底から延び上つて人を引き込んで、腸を喰ふ」「ただ腸だけ」「外から見て何の創もない。しかし軽くてうつろで――よく枯れた瓢簞のやうに空虛である」前注のリンク先の注で述べたが、河童は伝承では相撲好きでよく子供を相手に相撲をとるとされるが、負けた子供は尻小玉(しりこだま)を抜かれるとも言われ、また、水に漬かっている人のそれ(尻小玉)を抜く、ともよく言われるこの「尻小玉」というのは、人間の肛門の内側にあるとされた架空の臓器の名で、これは水死体の肛門の括約筋が弛緩して大きく広がっていたり、そのために起こった脱腸及び洩出した腐敗臓器を目撃した人間の誤認から形成されたものとも考えられている。水死体は多くの水生動物――甲殻類(シャコなど)・頭足類(タコなど)・魚類の餌となるが、主に口腔や肛門から侵入して消化器官の内側から内臓を食い荒らすのが摂餌上から最も容易であることから、一見、甚だしい外傷や損壊が認められなくても、内臓をごっそり食われている水死体は結構多い(具体的には挙げないが、そうした事実を記した学術的観点から記した書物を私は何冊も持っている)。この叙述はそうした水死体様態を非常にリアルに述べているとも言える。
「松江から一哩半ばかり、河内川に臨んだ河内村」一マイル半は二・四キロメートルであるが、松江市街からこの距離内で「河内川」(かわちがわ)に臨む「河内村」(かわうちむら)というのは見つからない。次の「河子の宮或は河童の宮」の位置(後述)から見て、これはどうも、現在の松江市西川津町(にしかわつちょう)のことを指しているものと思われ、そこを流れる、「臨む」川となると、大橋川の北の支流である朝酌(あさくみ)川を指すとしか私には考えられない。それにしても何故、こんなに名称が違うのか、不審である。識者の御教授を乞う。
「河子の宮或は河童の宮」原文からは「河子」は「かわこ」である。これは現在の西川津町楽山公園東の丘陵の、既出の推恵神社の直近南南東八十メートルに建つ熊野神社(別名市成)と思われる。その根拠は狛犬を探索されておられる、たっくん氏のブログ「杜を訪ねて」の「熊野神社(松江市西河津町)」(漢字表記はママ)に、この神社に就いて『「一成権現」とも』称し、『昔河童が捕まり社前の石に謝罪文を書かされたことから「河子の宮」とも言われているそうです』という記載があったことによる。また、個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「熊野神社(市成)」には、本神社について、『『雲陽誌』には、「何時のことかは定かではないが、古くに諸国の船入りしおり、俄かに大風起こり山より光さし来たりて遂に船沈められることがあった。船頭等が驚いて陸にあがり、里人に尋ねたるところ、子守山に霊験あらたかなる岩船明神という神があり、その咎めであろうとのこと。船頭は急ぎ山に登り、注連縄を曳かれた磐を拝んで社殿建立を祈願。後に日向より材木を取り寄せて、遂に社殿を造立。その時より子守三所権現と社号は改められた」と記されている』とある。
「出雲では一般に『河童』とは云はないで『河子』と云ふ」柳田國男の「山島民譚集(一)」の「河童ニ異名多シ」の箇所に、
『備前備中等ニ於テ之ヲ「コウゴ」ト呼ブハ、出雲(イズモ)ニ於テ河子ト称スルニ同ジク、川ノ子ト云フ義ナルコト疑ナシ。備中ニテモ松山ニテハ「カワコウ」ト云イ、岡田ニテハ「ゴウコ」ト云フ。同国吉備(キビ)郡川辺村ノ川辺川ノ流レニ河子(カワコ)岩アリ。元ノ名ハ吉田岩、元亀年中松山落城ノ際ニ、吉田左京ガ腹ヲ切ッタル岩ナレドモ、後世ニハ「カハコ」ガ出テ引クゾナドト小児ヲ嚇(オド)スヤウニナリテ、終(ツイ)ニ此名ニ改マリシナリ〔備中話十一〕同ジ地名ハイ遠近ノ諸国ニモ亦(マタ)多ク存ス。』
とある(引用はちくま文庫版「柳田國男全集」第五巻に拠る)。
「河童が書いたと云はれる證文」しばしば見られる「河童の詫び證文」伝承である。
「水を飮みに河に入つた馬を捕へようとして、馬の腹帶の下へどうかしたはずみで自分の頭をねぢ込んだ」「驚いた馬は、水の中から跳び出して河童を野原へ引きずつて來た」所謂、「河童の駒引き」と呼ばれる伝承パターンである。]
Ⅱ.
But
it may happen that some vessel, belated in spite of desperate effort to reach
port, may find herself far out at sea upon the night of the sixteenth day. Then
will the dead rise tall about the ship, and reach long hands and murmur: 'Tago, tago o-kure! — tago o-kure!' [1]
Never may they be refused; but, before the bucket is given, the bottom of it
must be knocked out. Woe to all on board should an entire tago be suffered to
fall even by accident into the sea! — for the dead would at once use it to fill
and sink the ship.
Nor are the dead the only powers invisible
dreaded in the time of the
Hotoke-umi.
Then are the Ma most powerful, and the Kappa. [2]
But in all times the swimmer fears the
Kappa, the Ape of Waters, hideous and obscene, who reaches up from the deeps to
draw men down, and to devour their entrails.
Only their entrails.
The corpse of him who has been seized by the
Kappa may be cast on shore after many days. Unless long battered against the rocks
by heavy surf, or nibbled by fishes, it will show no outward wound. But it will
be light and hollow — empty like a long-dried gourd.
1
'A bucket honourably condescend [to give].
2
The Kappa is not properly a sea goblin, but a river goblin, and haunts the sea
only in the neighbourhood of river mouths. About a mile and a half from Matsue,
at the little village of Kawachi-mura, on the river called Kawachi, stands a
little temple called Kawako-no-miya, or the Miya of the Kappa. (In Izumo, among
the common people, the word 'Kappa' is not used, but the term Kawako, or 'The Child of the River.') In
this little shrine is preserved a document said to have been signed by a Kappa.
The story goes that in ancient times the Kappa dwelling in the Kawachi used to
seize and destroy many of the inhabitants of the village and many domestic
animals. One day, however, while trying to seize a horse that had entered the
river to drink, the Kappa got its head twisted in some way under the belly-band
of the horse, and the terrified animal, rushing out of the water, dragged the
Kappa into a field. There the owner of the horse and a number of peasants
seized and bound the Kappa. All the villagers gathered to see the monster,
which bowed its head to the ground, and audibly begged for mercy. The peasants
desired to kill the goblin at once; but the owner of the horse, who happened to
be the head-man of the mura, said: 'It is better to make it swear never again
to touch any person or animal belonging to Kawachi-mura. A written form of oath
was prepared and read to the Kappa. It said that It could not write, but that
It would sign the paper by dipping Its hand in ink, and pressing the imprint
thereof at the bottom of the document. This having been agreed to and done, the
Kappa was set free. From that time forward no inhabitant or animal of
Kawachi-mura was ever assaulted by the goblin.
昭和三十八(一九六三)年
熟柿ありわが寝室(ねや)の冷えとめどなし
ゆげつつむ燈のその下に雉子煮ゆる
熟柿吸ふ咽喉(のど)より冷えが直下して
病者・蟷螂・蜂十一月の日向
昼臥(ひるぶし)やちちろは鈍(にぶ)き疼みに似
豊年の一穂(すゐ)ぬすみぬけ通る
重きに馴腰(なれこし)柿籠を負ひ下る
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]
仰向けの手鏡雪の降りつづく
幽かにてともりたしかに万燈は
万燈会一つ一つの火を点(つ)けて
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。多佳子はこの年の五月二十九日午前零時五十一分、満六十四(誕生日は明治三二(一八九九)年一月十五日)で息を引き取った。]
[やぶちゃん注:底本ではこの後、最後に「凩の巻」という西東三鬼と平畑静塔との連句(『俳句研究』昭和二二(一九四七)年九月・十月刊)が所収されているが、平畑静塔の著作権が存続しているので掲載しない。
それを除き、これを以って底本に載る橋本多佳子の全句の電子化注を終了した。実に2014年1月1日の開始から一年十一ヶ月弱を要した。
来年度中には「橋本多佳子全句集やぶちゃん一括版」として縦書PDF化を施す予定である。
因みに本公開を「橋本多佳子全句集附やぶちゃん注」の完結とし、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ740000と750000アクセスを一日で突破した(怪しいアクセス者が今日だけで一万数千アクセスしてきたためである)記念ともすることとする。【2015年11月23日 藪野直史】]
今まで気づかなかったのだが、本日未明の午前二時代に、本ブログに謎の5300回を越えるアクセスがあったことを知った。
結果、現在、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、一気に740000アクセスを越えて745180アクセスとなっていた。
取り敢えず、応急措置の740000アクセス記念をこれより用意する。
【15:25追記】
ついさっきの午後2時代以降にも、40000以上のアクセスあり、すでに実は今日だけで12000を越えてしまって、実は既に現在、
750000アクセス
も越えて、751500に達している。
このアクセス、どうも怪しい。
解析データを調べてみると、総て同じで、デバイスも何もかも不明、ただ使用言語は日本語であることしか分からない。
しかも滞在時間も1秒か0秒である。これは直帰の場合はおかしくないが、1時間余りの間の厖大なそのアクセス・ユーザーは全く同一であるから、実はアクセスしても読んでないことが判る。
どうも今回の異常アクセスは検索ソフトのボットによる巡回アクセスによるもののように思われる。
まあいいや、カップリングで記念にするわさ。
【11月24日追記】
因みに、昨日の合計はなんとまあ、
15623アクセス
であった。現在既に、
755213
……あんたはんのお蔭でもう760000アクセス記念テキストを気にせなあかんようなったわいな……
第二十一章 日本海に沿うて
一
七月十五日の事、――私は伯耆に居る。
白い途は低い絶壁の海岸――日本海の岸に沿うてうねりくねつて行く。いつでも左手に、岩山の斷片や砂丘の層の上から、渺茫たる大海が見える、ずつと向うに、同じ白い太陽の下に朝鮮の存在する靑白い地平線まで、靑い皺を湛へて居る。時々絶壁の端が急に取れて、私共の前に突然寄せ來る浪の現れる事がある。いつでも右の方には別の海、――背後に大きな靑白い峯を有する、遙かの霞んだ靑い連山まで達して居る綠の靜かな海、――稻田の大きな平面、その表面には音のない波が、今日朝鮮から日本までその靑い海を動かすのと同じ大きな風の下に、互に追ひかけ合つて居る。
一週間、空には一點の雲氣なかつたが、海は幾日も怒つてゐた、それで今その大波のつぶやきは遙かの陸まで續く。いつでもこの通り盆の三日間――即ち舊曆七月十三、十四、十五の三日間に海が荒れると云れる。それで十六日に精靈船が出たあとで、誰も海に出ようと云ふ者はない、船の借りやうがない、漁夫はうちにゐて出ない。その日の海はそこを超えて、幽界へ歸らねばならない精靈の通路となる。それで、その日の海は佛海(ホトケウミ)と呼ばれる。そしていつも十六日の夜、――海は穩かであらうが荒れてゐようが、――一面に水の上は大空へすべり出る朧げな光――精靈のかすかな火――でかすかに光る、それから遠く離れた都會のつぶやきのやうな聲のつぶやき――魂の不分明な話聲――が聞える。
[やぶちゃん注:この章には特殊な仕掛けがある。少し注が長くなる。
*
それは本章の役者と推定される底本末尾の田部隆次氏の「あとがき」で明らかにされている。彼は本章についてそこで(以下の下線は総てやぶちゃん)、『ヘルンは明治二十三年八月の末、松江に赴任のため眞鍋晃を通譯兼從者として、山陰道を通解した時の事と、翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時の事とを合せてこの記事を造つた。そのうちにある鳥取の布團の話、出雲の捨子の話は何れも夫人が始めてヘルンに話した怪談であつた』と述べている。ここで『翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時の事』というのは、いつもお世話になっている「八雲会」公式サイト内の「松江時代の略年譜」に明治二四(一八九一)年八月十四日に『セツと伯耆へ新婚旅行に出』、同八月三十日に『松江に戻る』とあるのを指していると考えてよい。
私がこれらを問題にするのは、本章の冒頭でハーンが、“IT is the fifteenth day of the
seventh month,— and I am in Hōkii.”それは『七月十五日の事、――私は伯耆に居る』と述べているからである。明治二十三年と翌年の新婚旅行は八月であることが明らかであり、この書き出しは一見、それに合わないように見えるからである。
しかしながら、ハーンは実は第二段落でその種明かしをしているのである。
即ち、この「七月十五日」は実は「舊曆七月十三、十四、十五の三日間」の十五日なのである。
そこで明治二十三年と明治二十四年の旧暦を調べてみると、
明治二三(一八九〇)年の旧暦七月十五日は新暦の八月三十日
明治二四(一八九一)年の旧暦七月十五日は新暦の八月十九日
であることが判った。ところが、
明治二十三年にハーンが松江に赴任し、松江に現着(汽船使用)したのは、新暦の八月三十日の午後四時
であるから、伯耆を旧暦七月十五日午前中に通るというのは、ぎりぎり有り得るとは言えるもののやや厳しい感じ(文学的虚構の原型素材としてメインに据える事実としてはタイトであるという意味で)がする。何よりもこの後の「七」でハーンは「上市」(うわいち)を通るが、この上市こそ、ハーンが松江到着の前に「第六章 盆踊(四)」で夢幻的な盆踊り体験をした宿泊地なのである。ところが、そこに注した通り、ハーンがこの松江へ向かう途次に上市に泊まったのは明治二三(一八九〇)年の新暦八月二十八日即ち旧暦七月十三日であったのであり、この事実に照らし合わせるならば、時制上の齟齬が生じることは言を俟たないのである。それに対し、上記の通り、
明治二十四年のセツとの伯耆への新婚旅行は、新暦八月十四日
であるから、伯耆を旧暦七月十五日に通ることは充分あり得るのである。さすればこれは論理的には、
明治二十四年のセツとの伯耆への新婚旅行の折りの旧暦七月一五日=新暦八月十四日を指す
と考えるのがよい、と落ち着くようには、見える。
*
ただ、ハーンは伯耆にはこの翌年の熊本へ転居した明治二十五年にも訪れている。
底本の「あとがき」の大谷啓信氏のそれの中で、後の第二十三章「伯耆から隱岐へ」について、伯耆及び隠岐『へは明治二十五年の七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保の關へ歸つて來た。同行者は夫人だけであつた』とあることでそれを確認出来る。但し、新潮文庫の上田和夫氏の年譜の明治二五(一八九二)年の条には、『八月、博多、門司、神戸、京都、奈良、伯耆境港、隠岐、美保の関、福山、尾道に遊ぶ』ともある。
この大谷氏の記載に従うなら、この本章冒頭のシークエンスはこの明治二十五年の体験に基づくものも多少なりとも影響を与えている可能性もないとは言えないように私には思われてくるのである。
上田氏は八月出発のように記しておられるが、この広範な訪問地を当時、八月に入ってから熊本を出発してたった十六日間で戻ってくるというのは正直、不審に思われる。明治二十五年の旅は新暦七月十五日(これは「末」ではない)とは言わずとも、大谷氏の述べた通り、新暦七月下旬の出発であって、伯耆の現着は八月であったにしても、七月の旅の陽光を体験し、それを自然に伯耆の眼前の景色としてここに仮想設定したとも言えるのではないかとも私は推理する。
但し、あくまで旧暦時制に拘るならば、この私の仮説は全く意味を成さない。何故なら、
明治二五(一八九二)年の旧暦七月十五日は新暦の九月五日
だからである。そうしてまた、第一段落の強い風の描写と、海が荒れるという第二段落のそれに限って言えば、確かに新暦八月のお盆の海の景観に相応しくはある。
話が冗長になってしまったが、一般に本書全体は明治二十四年の夏頃に執筆されたとされるようだが(上田年譜)、実際、既に見てきた通り、「第十九章 英語教師の日記から」の末尾は同年十一月に熊本に移ってから書かれたものであり、出版に至っては明治二十七年九月である。推敲過程で非常に微妙にして複雑な文学的操作が成されていると考えるのが自然だと私は思う。
とすると、この伯耆の海岸の情景には――三度目の伯耆を通った明治二十五年の新暦七月末或いは八月上旬の旅の印象さえもが加味れているのではないか――と私には思えてくるのである。最後の部分は私の勝手な妄想であり、大方の御批判を俟つものではある。
*
「伯耆」旧伯耆国は現在の鳥取県米子市・倉吉市・境港市・東伯郡・西伯郡・日野郡に当たる。
「ずつと向うに、同じ白い太陽の下に朝鮮の存在する靑白い地平線まで」この“horizon”は「地平線」ではなく「水平線」の誤訳である。これでは伯耆から朝鮮半島が見えるように読めてしまう。鳥取から朝鮮半島は見えない。因みに隠岐からでも見えないと思われる(一度行っただけであるが見えなかった)。本邦から朝鮮半島がはっきりと見えるとすれば、対馬からだけであろう(これは対馬出身の知人から聴いたことがある)。因みに平井呈一氏は『水平線』と訳しておられる。
「いつでも右の方には別の海、――背後に大きな靑白い峯を有する、遙かの霞んだ靑い連山まで達して居る綠の靜かな海、――稻田の大きな平面、その表面には音のない波が、今日朝鮮から日本までその靑い海を動かすのと同じ大きな風の下に、互に追ひかけ合つて居る。」訳者に悪いけれど、日本語としては殊更に意味を解し難く訳してしまっているように思われてならない。平井呈一氏の訳を引かさせていただく。
《引用開始》
道の右手にはまた、これとは別の海がつづいている。こちらのは音なき緑の海だ。――うしろに大きな青い峯を背負いつつ、遠くうす霞む緑濃い山なみ、そのはるか遠い山裾まで、一望遮るものもなく続いているこの緑の海は、渺茫たる稲田なのだ。今、青田のおもてを、この日朝鮮と内地との間の青海原をそよがしているのと同じ飃風(ひょうふう)が颯々と吹きわたって、音なき波が追いつ追われつ駆けめぐっている。
《引用終了》
この「飃風」とは、急に激しく吹きおこる風、はやて、つむじ風の意である。
「この通り盆の三日間――即ち舊曆七月十三、十四、十五の三日間」私の最初の注を参照されたい。
「佛海(ホトケウミ)」精霊を迎え送るお盆には、川や海に入ったり、漁や釣りをしてはいけないというのは亡き母がよく言っていたことであるが(母は小さな頃に近所の男の子が十五日に川に泳ぎに行き、溺れて亡くなったという思い出をよく話したものだった)、この「仏(ほとけ)の海(うみ)」という言い方は初めて聴いた。御存じの方は是非、御教授願いたい。]
ⅩⅩⅠ
BY THE JAPANESE SEA.
Ⅰ.
IT is the fifteenth day of the seventh month,—
and I am in Hōkii.
The blanched road winds along a coast of low
cliffs,— the coast of the Japanese Sea. Always on the left, over a narrow strip
of stony land, or a heaping of dunes, its vast expanse appears, blue-wrinkling
to that pale horizon beyond which Korea lies, under the same white sun. Sometimes,
through sudden gaps in the cliff's verge, there flashes to us the running of
the surf. Always upon the right another sea,— a silent sea of green, reaching
to far misty ranges of wooded hills, with huge pale peaks behind them—a vast
level of rice-fields, over whose surface soundless waves keep chasing each
other under the same great breath that moves the blue to-day from Chosen to
Japan.
Though during a week the sky has remained
unclouded, the sea has for several days been growing angrier; and now the
muttering of its surf sounds far into the land. They say that it always
roughens thus during the period of the Festival of the Dead,— the three days of
the Bon, which are the thirteenth, fourteenth, and fifteenth of the seventh
month by the ancient calendar. And on the sixteenth day, after the shoryobune,
which are the Ships of Souls, have been launched, no one dares to enter it: no
boats can then be hired; all the fishermen remain at home. For on that day the
sea is the highway of the dead, who must pass back over its waters to their
mysterious home; and therefore upon that day is it called Hotoke-umi,— the
Buddha-Flood,— the Tide of the Returning Ghosts. And ever upon the night of
that sixteenth day,— whether the sea be calm or tumultuous,— all its surface
shimmers with faint lights gliding out to the open,— the dim fires of the dead;
and there is heard a murmuring of voices, like the murmur of a city far-off,— the
indistinguishable speech of souls.
六
節分の祝日の今一つの特色は、それを記憶する價値がある――人型(ひとがた)の賣られることだ。それは白紙で作られる男、女、子供の小さな雛形で、ただ數囘巧みに剪刀を使つて切つたものである。男女の差別は、袖と小さい紙の帶の形の變化で示してある。神道の社祠で賣られ、これを家族一人毎に一枚宛買受けると、神官に一枚々々に當人の男女別と年齡を書く。家へ持歸つて、それぞれに分配し、各自その紙で輕く身體を摩擦し、神道の小さな祈を唱へる。翌日是等の人型を神官に返へす。神官はその上に向つて或る一定の文句を誦した後で、神聖な火で燒いてしまう。この式によつて一年間その家族はすベて身體上の災難を免がれるものと思はれてゐる。
註。 節分との關係ないが、こゝに述
べて置きたい一つの事柄がある。
出雲には書道の神聖といふ、有益
なる――また昔は屹度頗る重要であ
つた――迷信が、今猶ほ遺存する。
何かを書付けたもの、或は印刷した
ものでも、皺くちやにしたり、蹂躙
したり、汚したり、或は賤用に供し
てはいけない。もし書類を破毀する
必要がある時は、紙を燒かねばなら
ない。ある小さい宿屋へ泊つた時、
私が自分で書いた、文字の一杯に滿
ちた紙を引裂いて皺にしたために、
優しく叱りを受けたことがあつた。
[やぶちゃん注:「人型」に厄を移して焼いたり流したりする、この類型的儀式は、現在も桃の節句の流し雛や夏越祭などの、各節句行事として多くの神社に残っているのは御承知の通り。
「書道の神聖」言わずもがな乍ら、言霊(ことだま)信仰に基づくものである。……実は私の吐き出す数多の電子テクストも、謂わば、今の電脳世界への言霊たれ、という思いで仕儀していると言ってよいように、私は思っているのです、ハーン先生……]
Ⅵ.
One more feature of the Setsubun festival is
worthy of mention,— the sale of the hitogata (people-shapes). These: are little
figures, made of white paper, representing men, women, and children. They are
cut out with a few clever scissors strokes; and the difference of sex is
indicated by variations in the shape of the sleeves and the little paper obi.
They are sold in the Shinto temples. The purchaser buys one for every member of
the family,— the priest writing upon each the age and sex of the person for
whom it is intended. These hitogata are then taken home and distributed; and
each person slightly rubs his body or her body with the paper, and says a
little Shintō prayer. Next day the hitogata are returned to the kannushi, who,
after having recited certain formulae over them, burns them with holy fire. [6]
By this ceremony it is hoped that all physical misfortunes will be averted from
the family during a year.
6 I may make mention here of another matter, in no
way relating to the Setsubun.
There lingers
in Izumo a wholesome — and I doubt not formerly a most valuable — superstition
about the sacredness of writing. Paper upon which anything has been written, or
even printed, must not be crumpled up, or trodden upon, or dirtied, or put to
any base use. If it be necessary to destroy a document, the paper should be
burned. I have been gently reproached in a little hotel at which I stopped for
tearing up and crumpling some paper covered with my own writing.
五
しかし白豆を毫も怖れないし、また普通の惡魔の如く容易に追拂ふことも出來ない、非 常に惡い魔物が居る。それは貧乏神だ。
が、出雲の人々は、往々貧乏神を追彿ひうる一種の家庭的禁忌の法を知つてゐる。
日本の臺所は、煮燒をするに先つて、僅かばかりの炭火を、初めにかの頗る有用で、筒單な家庭用の道具の火吹き竹で赤熱に吹き起す。火吹き竹は通常長約三尺、直徑二寸ほどの竹の管で、火の方へ向ける一端に、ただ極めて小さな孔が殘してある。炊事を務める女は、他端を唇に當てて、管を通して炭火の上を吹く。かやうにして活氣ある火が、數分間にして得られる。
時を經ると、火吹き竹は焦げて、龜裂を生じて、駄目になる。そこで新しいのを作る。すると、古いのが貧乏神を退治する禁忌に使はれる。その中ヘ一厘錢を入れて、ある呪文を唱へる。それからその一厘錢の入つたまゝ、その古くなつた道具を單に表の戸口から町中へ投げすてるか、または附近の川へ擲り飛ばす。これが――私はその譯を知らないが――貧乏神を戸外へ投げ出して、隨分長い間、歸つてくることの出來ぬやうしたのも同じことだとされてゐる。
貧乏神の目に見えぬ存在が、どうして發見されるかと問ふ人もあるだらう。
英國で夜間あの凄いかちつかちつといふ音を發する、茶立て蟲の一種は、日本の貧之神といふ名の親類を持つてゐる。この蟲は貧之神の召使で、それが家の内てかちつかちつといふ音を發するのは、かの甚だ歡迎されない神樣の存在を報ずるものと信ぜられてゐる。
譯者註。英國にて、その蟲の啼き聲
は、死人のある前兆だといふ迷信が
ある。
[やぶちゃん注:「貧乏神」既注。
「長約三尺、直徑二寸」全長九〇・九センチメートル、直径六・〇六センチメートル。
「一厘錢」ネット上の情報で一厘銅貨幣は明治初期で現在価値換算で凡そ二十円相当とある。
「英國で夜間あの凄いかちつかちつといふ音を發する、茶立て蟲の一種は、日本の貧之神といふ名の親類を持つてゐる」原文“The little insect which makes
that weird ticking noise at night called in England the Death-watch has a
Japanese relative named by the people Bimbomushi, or the Poverty-Insect.”。この“the Death-watch”は前の「第十九章 英語教師の日記から (十八)」に出る「紙魚」で注したところの、
昆虫綱鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科Anobiidae に属するシバンムシ(死番虫)類
で、これらのうちの複数種は書物・標本はおろか、建築木材などをも激しく食害することで知られる。ウィキの「シバンムシ」によれば、和名「死番虫」は『死の番人を意味するが、これは英名のdeath-watch beetleに由来する。ヨーロッパ産の木材食のマダラシバンムシ』属Xestobium 『の成虫は、頭部を家屋の建材の柱などに打ち付けて「カチ・カチ・カチ……」と発音して雌雄間の交信を行うが、これを死神が持つ死の秒読みの時計、すなわちdeath-watchの音とする迷信があり、先述の英名の由来となった』とある。問題なのは、日本家屋に於いて主に障子や畳の表面でホトホトフツフツと音を立てるところの、ここに出る――「茶立て蟲の一種」では全くない――という点である。これは、
昆虫綱咀顎目 Psocodea
コチャタテ亜目 Trogiomorpha
コナチャタテ亜目 Troctomorpha
チャタテ亜目 Psocomorpha
の中で無翅のチャタテムシ類である(本類でも標本類などの密閉された中で集中的に大発生すると大きな食害被害を齎すことはある)。ただ、ここでのハーンの謂いは、生物学的な類縁ではなく、西洋で死を告知するという死神とその使者のような家屋内で音を立てる死番虫の関係を、貧乏神の使者に同じく室内で音をたてる「茶たて虫」に擬えただけとも読め、平井呈一氏はここを『日本では』この室内で音を立てる虫を『「貧乏虫」といっている』と訳しておられる。但し、検索する中では、チャタテムシの立てる音を貧乏神と結びつけていた痕跡は見出せない。因みに水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に登場して一躍、人口に膾炙した、小豆を洗うような音を立てる妖怪「小豆洗い」について、ウィキの「小豆洗い」では、正体の一つとして、『江戸時代には小豆洗虫(あずきあらいむし)という昆虫の存在が知られていた。妖怪研究家・多田克己によれば、これは現代でいうチャタテムシのこととされ』、『昆虫学者・梅谷献二の著書『虫の民俗誌』によれば、チャタテムシが紙の澱粉質を食べるために障子にとまったとき、翅を動かす音が障子と共鳴する音が小豆を洗う音に似ているとされる』とあり、『また、かつてスカシチャタテムシの音を耳にした人が「怖い老婆が小豆を洗っている」「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう』とし、『新潟県松代町では、コチャタテムシが障子に置時計の音を立てるものが小豆洗いだという』とある。チャタテムシが大発生し、それを駆除出来ないというのは、現代なら確かに経済的に貧しいお宅かも知れんなどとは思う(因みに、私の家の寝室にも多量発生して、その音で目が覚めたこともあることを告白しておく)。この『置時計の音』(近代以降のニュアンスである)は「死番虫」の英名“death-watch beetle”と一致するのは面白い。貧乏神とチャタテムシの関係、御存じの識者の御教授を乞うものである。]
Ⅴ.
There is one very evil spirit, however, who
is not in the least afraid of dried peas, and who cannot be so easily got rid
of as the common devils; and that is Bimbogami.
But in Izumo people know a certain household
charm whereby Bimbogami may sometimes be cast out.
Before any cooking is done in a Japanese
kitchen, the little charcoal fire is first blown to a bright red heat with that
most useful and simple household utensil called a hifukidake. The hifukidake
(fire- blow-bamboo) is a bamboo tube usually about three feet long and about
two inches in diameter. At one end — the end which is to be turned toward the
fire — only a very small orifice is left; the woman who prepares the meal
places the other end to her lips, and blows through the tube upon the kindled
charcoal. Thus a quick fire may be obtained in a few minutes.
In course of time the hifukidake becomes
scorched and cracked and useless. A new fire-blow-tube is then made; and the
old one is used as a charm against Bimbogami. One little copper coin (rin) is put into it, some magical
formula is uttered, and then the old utensil, with the rin inside of it, is
either simply thrown out through the front gate into the street, or else flung
into some neighbouring stream. This — I know not why — is deemed equivalent to
pitching Bimbogami out of doors, and rendering it impossible for him to return
during a considerable period.
It may be asked how is the invisible
presence of Bimbogami to be detected.
The little insect which makes that weird
ticking noise at night called in England the Death-watch has a Japanese relative named by the people Bimbomushi,
or the Poverty-Insect. It is said to be the servant of Bimbogami, the God of Poverty;
and its ticking in a house is believed to signal the presence of that most
unwelcome deity.
四
春の初雷のときに節分の豆を食る習慣のことを語つたから、私はこの機に際して、まだ百姓達の間には廢れてゐない雷の迷信に關して、少しく述べてみよう。
雷の嵐がくると、大きな褐色の蚊帳が吊られる。して、婦人や子供達――恐らくは全家族は、嵐の終はるまて、その下で坐つてゐる。昔から電光は蚊帳の下に居るものを一人も殺し得ないと信ぜられてゐる。雷獸は蚊帳を通り拔けることが出來ない。最近のこと、私の宅へ野菜を賣りに來た年老いた百姓が、私共に話した處によれば、彼と彼の全家族が、雷鳴の際、蚊帳の下に屈んでゐると、實際彼等の部屋の向うの緣側の柱を『電光』の駈け上つたり、駈け下りたりするのが見えた――『電光』は猛烈に柱を引抓いたが、蚊帳のために入ることは出來なかつた。家屋は電擊によつて、大損害を被つたけれど盡、彼はそれを雷獸の爪の所業に歸した。
雷獸は雷鳴の嵐最中に、樹から樹へと飛んで行くと、人々は云つてゐる。だから雷鳴電光の際、樹木の下に立つのは甚だ危險だ。雷獸が人の頭とか、肩の上へ載るかも知れない。雷獸はまた人の臍を食べるのが好きだと云はれてゐる。雷鳴の時、用心して臍をよく蔽つて置かねばならぬ。また成るべく俯臥する方がよい。雷獸は線香の香が嫌ひだから、雷鳴中は線香をいつも焚く。電擊を被つた樹木は雷獸の爪で引裂かれ、傷けられたものと考へられてゐる。その木材木皮は附近の住民によつて注意して集められ、保存される。挫かれた樹の木材は、齒痛を癒す特效があると云はれてゐるから。
雷獸が捕獲されて、籠に入れられた話は、幾多もある。嘗て雷獸が井へ墜ちて、繩や釣瓶に縺れて、生捕になつたといふ話がある。また出雲の老人達は、嘗て雷獸が松江の天神さまの境内で、眞鍮の籠に入れて、見せ物にしてあつたのを記憶するといつてゐる。それは狸に似てゐて、晴天の日には、すやすやと籠中で眠つてゐるが、空に雷鳴が起ると、興奮してきて、非常な力を得、その眼は燦然と閃くのてあつた。
[やぶちゃん注:「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には『平家物語』において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書『玄同放言』では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌『駿国雑誌』によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書『和訓栞』に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書『信濃奇勝録』にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆『北窻瑣談』では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書『越後名寄』によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆『閑田耕筆』にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。『古史伝』でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典『類聚名物考』によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の『奇怪集』にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集『絵本百物語』にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシンと共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。]
Ⅳ.
Since I have spoken of the custom of eating
some of the Setsubun peas at the time of the first spring thunder, I may here
take the opportunity to say a few words about superstitions in regard to thunder
which have not yet ceased to prevail among the peasantry.
When a thunder-storm comes, the big brown
mosquito curtains are suspended, and the women and children — perhaps the whole
family — squat down under the curtains till the storm is over. From ancient
days it has been believed that lightning cannot kill anybody under a mosquito
curtain. The Raiju, or Thunder-Animal, cannot pass through a mosquito-curtain.
Only the other day, an old peasant who came to the house with vegetables to
sell told us that he and his whole family, while crouching under their
mosquito-netting during a thunderstorm, actually, saw the Lightning rushing up
and down the pillar of the balcony opposite their apartment,— furiously clawing
the woodwork, but unable to enter because of the mosquito-netting. His house
had been badly damaged by a flash; but he supposed the mischief to have been
accomplished by the Claws of the Thunder-Animal.
The Thunder-Animal springs from tree to tree
during a storm, they say; wherefore to stand under trees in time of thunder and
lightning is very dangerous: the Thunder-Animal might step on ones head or
shoulders. The Thunder-Animal is also alleged to be fond of eating the human
navel; for which reason people should be careful to keep their navels well
covered during storms, and to lie down upon their stomachs if possible. Incense
is always burned during storms, because the Thunder-Animal hates the smell of
incense. A tree stricken by lightning is thought to have been torn and scarred
by the claws of the Thunder-Animal; and fragments of its bark and wood are
carefully collected and preserved by dwellers in the vicinity; for the wood of
a blasted tree is alleged to have the singular virtue of curing toothache.
There are many stories of the Raiju having been caught and caged. Once, it is said, the Thunder-Animal fell into a well, and got entangled in the ropes and buckets, and so was captured alive. And old Izumo folk say they remember that the Thunder-Animal was once exhibited in the court of the Temple of Tenjin in Matsue, inclosed in a cage of brass; and that people paid one sen each to look at it. It resembled a badger. When the weather was