そうか
そうか……人生は下らねえな――確かに――お前らも――
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そうか……人生は下らねえな――確かに――お前らも――
一一
船は浦鄕から中の島にある菱浦へと進んで行つた。そして島々の間を進航するに從つてに景色がいつも層一層と美しくなつた。その水道は百と形を異にした山々の間を非常な深みの靜けさを以て流れて居る大きな河だと思ひ誤らせる程の幅しか無かつた。その長い美しい眺めは到る處、海の霞で靑味を帶びた峰々の壁に遮ぎられて居て、兩側には深い底から眞直ぐに聳え立つて居る赤味がかつた灰色の絕壁があつて、その粗雜な面のどんな小さなごつごつも少しの捩ぢゆがみも無しに、恰も鏡にうつしたやう、かつきりと水に映じて居つた。菱浦に達するまでは水平線は顏出しをしなかつた。しかも其折も、恰も河口から見るやうに、高い二つの海角の間からだけ見えるのであつた。
菱浦は浦鄕よりか遙か綺麗である、が、人口は餘程少い、そして漁村といふよりか、寧ろ、農を主とした繁榮な町といふ外貌を有つて居る。山の多い島の內地へと次第になだらかに上つて居て、其處に可なりの面積の耕作地を見せて居る、低い小山が造つて居る入江の緣(ふち)に沿うて曲つて居る町である。家屋は稍々散在してゐて、多くの場合庭園あるが爲めに孤立して居る。そして海に面して居る建物は中々立派な近代的な構造である。浦鄕は隱岐中での一番好い宿屋を自慢にして居る。そして新しい社寺が二つある――どちらも個人の寄附に係るもので、一つは禪宗の寺、一つは出雲大社敎の社である。前述の宿屋の持主たる金持の寡婦がその寺を建立したのであり、この土地で一番の富裕な商人がその社を寄進したのである。この社はその大きさにしては自分がそれまで見たうちで一番立派なミヤの一つであつた。
[やぶちゃん注:「菱浦」中ノ島の現在の海士町の玄関口である港。焼火山の西の水道を入って北東に折れた手前にある。
「恰も鏡にうつしたやう」現在、菱浦湾は「鏡ヶ浦」と呼ばれるが、これはまさにこのハーンの感嘆に由来する。二〇一一年夏に私は訪れたが、確かに本当に美しい静かな湾であった。そうして私は、ここで美しい海中の煌く「鏡」にも心打たれた。「隠岐日記2 西ノ島 中ノ島」を読まれたい。
「禪宗の寺、一つは出雲大社敎の社」この菱浦にあるという寺社、調べて見ても孰れもどうも、どこのどの寺社を指しているのか私には、よく判らない。識者の御教授を乞う。]
Ⅺ.
From Urago we proceeded to Hishi-ura, which is in Nakanoshima, and the scenery grew always more wonderful as we steamed between the islands. The channel was just wide enough to create the illusion of a grand river flowing with the stillness of vast depth between mountains of a hundred forms. The long lovely vision was everywhere walled in by peaks, bluing through sea-haze, and on either hand the ruddy grey cliffs, sheering up from profundity, sharply mirrored their least asperities in the flood with never a distortion, as in a sheet of steel. Not until we reached Hishi-ura did the horizon reappear; and even then it was visible only between two lofty headlands, as if seen through a river's mouth.
Hishi-ura is far prettier than Urago, but it is much less populous, and has the aspect of a prosperous agricultural town, rather than of a fishing station. It bends round a bay formed by low hills which slope back gradually toward the mountainous interior, and which display a considerable extent of cultivated surface. The buildings are somewhat scattered and in many cases isolated by gardens; and those facing the water are quite handsome modern constructions. Urago boasts the best hotel in all Oki; and it has two new temples,— one a Buddhist temple of the Zen sect, one a Shinto temple of the Izumo Taisha faith, each the gift of a single person. A rich widow, the owner of the hotel, built the Buddhist temple; and the wealthiest of the merchants contributed the other,— one of the handsomest miya for its size that I ever saw.
一〇
浦鄕は大きさは多分充分美保關ほどはあり、美保關同樣、半圓を爲して居る峻しい小山の麓の狹い地面に建てられて居る妙な小さな町である。が、美保關よりももつと原始的でもつと色彩に乏しい。そしてその街路は、といふより寧ろ路次は、船の舷門の幅も無いぐらゐに、家々がなほ一層密接に絕壁と海との間に詰込まれて居る。船が錨を投ずると、自分の注意は突然不思議な光景に惹きつけられた。それは、町の屋根の上高く、墓地になつて段々高まつて居る峻しい丘の横にある墓地に、風に飜つて居る不分明な長い恰好の物が澤山白く見える眺であつた。その墓地には灰色の墓と佛像とが澤山あつて、その墓一つ一つの上に、細い竹竿に結びつけた白紙の妙な旗があつた。遠眼鏡で見るとその旗には、佛敎の文言の南無妙法蓮華經、南無阿彌陀佛、南無大慈大悲觀世音菩薩、其他の聖語が書いてあるのが見えた。訊ねて見て、毎年盆前の全る一と月の間、他の種々な裝飾的或は表象的な品物と共に、さういふ旗を墓の上に樹てるのが浦鄕の習慣だと知つた。
海には裸體の水泳者が一杯居て、笑ひながら歡迎の語を叫んだ。そして、輕い迅い小舟が澤山、裸體の漁師に漕がれて、乘客と荷物とを求めに矢の如く出て來た。自分は此時初めて隱岐の島の人の體格を觀察する機會を得た。そして、男は老幼とも强壯な容貌をして居るのに感心した。成人は自分には出雲海岸の男子よりか丈が高くもつと力强い型に見え、そして鳶色の背や肩に、櫓を漕いで居る時、非道い勞働をさせに擇まれた人間のうちに在つてすらも、日本では割合に稀なものを――筋肉の素晴らしく立派な發達を――見せた馬のが少からず居つた。
汽船は浦鄕には一時間停つて居たから、上陸してそこでの一等の宿屋で食事する時間があつた。頗る淸潔な小綺麗な宿屋で、食事は境の宿屋のよりか無限に優つて居つた。でも請求した代金はたつた七錢、そしてそこの老亭主は與へた茶代の全部を受取ることを斷り、半分以下を納めて殘部を手柔かに强ひて自分のユカタの袖の中へ返した。
[やぶちゃん注:「浦鄕」島前地域の中心地で現在、隠岐支庁島前集合庁舎が置かれている西ノ島の浦郷地区(グーグル・マップ・データ)。燒火山の西側を湾奧に突き当たった位置にある。
「全る」「まる」。丸。
「非道い勞働をさせに擇まれた人間」意味は判るが、どうも「ひどいらうどうさせにえらまれたにんげん」という言い回しは、日本語としては、微妙におかしい。「非道くきつい労働をさせるために特に擇ばれた人間」「激しい勞働向けに擇ばれた人間」であろう。]
Ⅹ.
Urago is a queer little town, perhaps quite as large as Mionoseki, and built, like Mionoseki, on a narrow ledge at the base of a steep semicircle of hills. But it is much more primitive and colourless than Mionoseki; and its houses are still more closely cramped between cliffs and water, so that its streets, or rather alleys, are no wider than gangways. As we cast anchor, my attention was suddenly riveted by a strange spectacle,— a white wilderness of long fluttering vague shapes, in a cemetery on the steep hillside, rising by terraces high above the roofs of the town. The cemetery was full of grey haka and images of divinities; and over every haka there was a curious white paper banner fastened to a thin bamboo pole. Through a glass one could see that these banners were inscribed with Buddhist texts—'Namu-myō-hō-renge-kyō'; 'Namu Amida Butsu'; 'Namu Daiji Dai-hi Kwan-ze-on Bosatu,' — and other holy words. Upon inquiry I learned that it was an Urago custom to place these banners every year above the graves during one whole month preceding the Festival of the Dead, together with various other ornamental or symbolic things.
The water was full of naked swimmers, who shouted laughing welcomes; and a host of light, swift boats, sculled by naked fishermen, darted out to look for passengers and freight. It was my first chance to observe the physique of Oki islanders; and I was much impressed by the vigorous appearance of both men and boys. The adults seemed to me of a taller and more powerful type than the men of the Izumo coast; and not a few of those brown backs and shoulders displayed, in the motion of sculling what is comparatively rare in Japan, even among men picked for heavy labor,— a magnificent development of muscles.
As the steamer stopped an hour at Urago, we had time to dine ashore in the chief hotel. It was a very clean and pretty hotel, and the fare infinitely superior to that of the hotel at Sakai. Yet the price charged was only seven sen; and the old landlord refused to accept the whole of the chadai-gift offered him, retaining less than half, and putting back the rest, with gentle force, into the sleeve of my yukata.
九
知夫里村から船は、西の島に在る浦鄕の港に向つて西進した。近づくに從つて燒火山が壯大な觀を呈して來た。遠く離れて見ては温順しい[やぶちゃん注:「おとなしい」。]美しい恰好に見えたのであつたが、その靑の色調が發散すると、その貌(すがた)が凹凸になり物凄くさへなつた。全部薄黑い靑綠に包まれたぎざぎざな大きな山で、その靑綠の中から、ぼろ切の中からのやうに、此處其處に非常に亂暴な恰好をしたむき出しの岩が突き出て居るのである。その絕頂の不規則な線へ落日の光りが射した時、其岩の一つが非常に大きな灰色の頭蓋骨のやうに見えた事を自分は覺えて居る。この山の麓に、中の島の海岸に面して、上は瘠せこけた灌木に蔽はれて居る、高さ數百呎の、金字塔形の岩山が――モンガクザンが――突立つて居る。その荒涼たる山頂に小さな社殿がある。
タクヒザンとは燒く火の山といふ意味で――恐らくはその靈火の傳說か或はその噴火時代の古代の記憶かに基いての名である。モンガクザンといふは文覺――高僧文覺上人――の山といふ意味である。文覺上人は隱岐へ逃れ來て、多年此山の頂でその甚重な罪惡の贖罪苦行を行つて、獨りで住まつて居たといふことである。上人が眞實隱岐へ來られたことがあるかどうか、自分は言ふことが出來ぬ。さうで無いと公言する口碑がある。だが兎に角この小峰は上人の名を數百年有ち來たつて居るのである。
さて文覺上人の身の上は斯うである。
數世紀前、京都の都に、その名を遠藤盛遠といふ衞戌の將があつた。ある貴いサムラヒの夫人を見て戀し、その夫人がその熱望を聽くことを拒むと、自分が申述べる方策に同意しなければ、その一家を滅ぼすと誓言した。方策といふは或る夜、自分を內へ忍ばせてその夫を殺させよといふので、それを果してから自分の妻になれといふのであつた。
然し彼女は、同意した振をして、自分の貞操を全うする高潔な計略を案出した。即ち、夫に勸めて都を立去らしめて置いてから、遠藤へ手紙を送つて、或る夜その邸宅へ來るやうにと言ひ送つた。そしてその當夜、彼女は夫の服を身にまとひ、髮を男の髮の如くつかね、夫の臥す處に寢ねて、眠つた風をして居つた。
すると遠藤は深更に拔身を携へてやつて來て、一擊の下にその睡眠者の頭を打切り、そして髮を手に首を摑み上げて見ると、それは自分が戀して無體なことを言ひ掛けたその女の首であつた。
そこで彼は非常な悔恨の念に打たれて、近くの或る寺へ急いで行つて、自分の罪を自白し、悔悟をして髮を切り、出家となつて文覺といふ名を名乘つた。そして後年彼は至德の境に達した。だから今でも彼に祈念する人があり、彼の靈は國內到る處に尊崇されて居る。
今東京の淺草の、觀音樣のあの大きな寺へ行ける小さな妙な通路の一つに、見世物になつて居る驚くべき像を――たゞ木で造つたものではあるが、生きて居るやうに見える人形を――日本の古い傳說を說明して居る人形を――いつでも見ることが出來る。其處へ行くと、右手に血まみれな刀を持ち、左手に美しい女の首を提げて、遠藤が立つて居るのが見られる。その女の顏は、たゞ美しいだけであるから、諸君は直ぐ忘れるかも知れぬ。だが遠藤の顏は、地獄そのものであるから、忘れることはないであらう。
[やぶちゃん注:「數百呎」百フィートは約三〇・四八メートルであるから、百八十メートル前後となる。
「タクヒザンとは燒く火の山といふ意味で――恐らくはその靈火の傳説か或はその噴火時代の古代の記憶かに基いての名である」前の「七」の「燒火山(たくひざん)」の注を参照されたいが、ハーンの謂いも、尤もではあるものの、寧ろ、海上交通の安全のために、古えより灯台として機能していたことが、主たる由来のように私には思われる。
「モンガクザン」観光協会のガイドブックよれば、現在は「文覚窟」と呼ばれており、焼火山の南東の高さ約百五十メートルの絶壁の頂上近くにあり、ここで文覚が修行したという伝承があるとある。
「文覺」(保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年)俗名遠藤盛遠は、頼朝に平家討伐の決起を促した人物として、また、かの名僧明恵の祖師としても知られ(私は明恵の「夢記」の電子化と訳注を別に行っている)、さらに「源平盛衰記」の「卷十九」の「文覺發心」による、ここに書かれた同僚であった渡辺渡の妻袈裟御前に懸想した悲劇(私の電子テクスト芥川龍之介「袈裟と盛遠」などを参照されたい)元でも知られる武士で真言宗僧である。私は彼については多くのテクスト注(「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」(こちらをどうぞ)などの多量の鎌倉地誌テクスト及び「北條九代記」テクストなど)で語ってきており、オリジナルに謂いたいことは山ほどあるが、ここでは引用に留める。まずウィキの「文覚」から(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、十九才で出家した』。『京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。また』、『頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する』。『頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、頼朝が死去すると』、『将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される』。『通親の死後』、『許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、さらに元久二年(一二〇五年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した』とあるが、平凡社の「世界大百科事典」(阿部泰郎氏執筆)には(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点に代え、括弧や表記の一部も変更した)、出家後は『諸国の霊山を巡って修行し、その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが、法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得、彼に挙兵をすすめたといわれている。鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く、京都と鎌倉を往復して京都、諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方、その協力を得て神護寺の復興をなしとげた。一一九三年(建久四)には東寺修造料国として播磨国を得てその国務を沙汰し、東寺の修造活動も行った』。正治元(一一九九)年に庇護者であった『頼朝が死去するとともにその地位を失い、新たに朝廷内に台頭した源通親によって、親頼朝派の公家の九条兼実らとともに謀議を計ったかどで捕らえられ佐渡国へ配流された』ものの、建仁三(一二〇三)年には許されて京都に帰ったとも言われている、とあり、先のウィキの事蹟記載とは大きく食い違う。この内、佐渡配流は、ほぼ確実と思われるが、それを隠岐とする説や、佐渡の次に隠岐にも流されたという説もあり、実は先にハーンが通った隠岐の知夫里島には、文覚の墓なるものが実在するのである(個人ブログ「いちご畑よ永遠に」の「隠岐の歴史散策 後鳥羽上皇行在所跡 文覚上人の墓 名水・天川の水」を参照されたい。写真があり、そこには『五輪塔と祠があ』るとある)。ともかくも異伝や怪しげな伝承の多い人物で、「世界大百科事典」では続けて、『文覚についての伝承は、「平家物語」諸本を中心に展開される。「源平盛衰記」に、長谷観音に申し子して生まれたが、早く孤児となり、幼児期より「面張牛皮」(めんちょうぎゅうき)な乱暴者であったという。元服後、北面武者となったが、「平家」の読本系諸本では』、『渡辺渡(刑部左衛門)の妻の袈裟御前を見て恋慕し,強引に奪おうと夫を討つつもりが,袈裟の計らいで、かえって彼女を殺してしまう。この女の犠牲ゆえに十八歳で出家した(夫もまた出家して渡阿弥陀仏と称し、異本では重源(ちようげん)であるという)という発心譚をもつ。「平家」諸本は、文覚が熊野那智の荒行で滝に打たれて死んだが、不動明王の童子に助けられ、諸国の霊山を修行して「やいばの験者」と呼ばれたといい、やがて、神護寺復興のため、法住寺殿に乱入して後白河法皇の遊宴を邪魔して勧進帳を読み上げ、投獄されたが、放言悪口が止まないため、伊豆に流されたという。このいきさつや、配流の途中断食して祈願したことなど「文覚四十五箇条起請文」に基づくが、「平家」では護送の役人をだまして笑い者にしたり、船中で嵐に遭うも、竜王を叱りつけて無事に到着したことなどが加えられる。伊豆では奈古屋の観音堂に籠り、「長門本」や「延慶本」では湯施行』(僧が寺院等に於いて貧民・病人らを対象として浴室(蒸風呂)を開放したり新設したりして入浴を施すことを言う)『をしたといい、「盛衰記」では相(占い)人の評判を立て、頼朝に対面し、彼が天下の大将軍となる相を見て、父義朝の髑髏(どくろ)を見せて挙兵を勧めたという。「吾妻鏡」には、後年、頼朝が勝長寿院を供養の際、文覚が京より義朝の頭を将来したというが、これが背景にあるか。やがて、籠居または入定を装って福原京に上り、平氏追討の院宣を賜って頼朝にもたらしたという。これは「愚管抄」も否定しながら記している。平氏滅亡後は維盛の子六代の助命に奔走するが、これには長谷観音の霊験譚がかかわる。頼朝が没すると直ちに失脚し、佐渡、ついで、隠岐に流されるが、「延慶本」はこれを、文覚が「及杖(ぎっちょう)冠者」』(「及杖」は毬杖(ぎっちょう)で、木製の槌(つち)をつけた木製の杖を振るって木製の毬を相手陣に打ち込む遊び。後鳥羽上皇が好んだ。「冠者」は「若造が!」ぐらいの蔑称であろう。「六代被斬」の一節である)と『ののしった後鳥羽院との確執によると伝え、死後、明恵の前に亡霊が出現して承久の乱を起こそうと告げたという』と、まさに八面六臂の獅子奮迅の有体である。『物語のなかで文覚は、「天性不当」で「物狂」な人とされ、勧進聖としての姿を強調することに重なる。また頼朝の護持僧として、予言者であり、さらには幸若舞曲のように平家を呪詛する呪術者という面を示す。「愚管抄」に彼のことを『天狗マツル人』という評判があったといい、「吾妻鏡」は江ノ島の洞窟に籠ってまじないを行ったと伝えるなど、王を背後から支える宗教者として造形されている』。『なお、文覚の生没については、高山寺蔵の伝隆信筆の文覚画像に『建仁三年七月二十一日六十五歳没』と見えており、近年、この没年は信頼に足るものと考えられるようになった。これによる』ならば、生年は保延五(一一三九)年、没年は建仁三(一二〇三)年となる、とある(下線やぶちゃん)。
「衞戌」「ゑいじゆ(えいじゅ)」と読み、武士や兵隊が一つの土地に長く駐屯して警備・防衛の任に当たることを指す。
「東京の淺草の、觀音樣のあの大きな寺へ行ける小さな妙な通路の一つに、見世物になつて居る」と、路傍の興行師のそれのように書かれてあるが、ハーンがかくも書いて、読者の中には来日したら、そこでそれを見ることもあろう、といった口調で述べていることから見て、これは現在も台東区浅草二丁目にある「浅草花やしき」のことではないかと私は思うのである。ウィキの「浅草花やしき」によれば、同園は嘉永六(一八五三)年の開園で、『日本最古の遊園地とされ』、当初は植物園「花屋敷」であったが、明治に入って、『浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定され』、敷地は縮小されたものの、明治一八(一八八五)年には『木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継』ぎ、『翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した』。『この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった』とあるからである(下線やぶちゃん)。]
Ⅸ.
From Chiburimura we made steam west for the port of Urago, which is in the island of Nishinoshima. As we approached it Takuhizan came into imposing view. Far away it had seemed a soft and beautiful shape; but as its blue tones evaporated its aspect became rough and even grim: an enormous jagged bulk all robed in sombre verdure, through which, as through tatters, there protruded here and there naked rock of the wildest shapes. One fragment, I remember, as it caught the slanting sun upon the irregularities of its summit, seemed an immense grey skull. At the base of this mountain, and facing the shore of Nakashima, rises a pyramidal mass of rock, covered with scraggy undergrowth, and several hundred feet in height,— Mongakuzan. On its desolate summit stands a little shrine.
'Takuhizan' signifies The Fire-burning Mountain,— a name due perhaps either to the legend of its ghostly fires, or to some ancient memory of its volcanic period. 'Mongakuzan' means The Mountain of Mongaku,— Mongaku Shonin, the great monk. It is said that Mongaku Shonin fled to Oki, and that he dwelt alone upon the top of that mountain many years, doing penance for his deadly sin. Whether he really ever visited Oki, I am not able to say; there are traditions which declare the contrary. But the peaklet has borne his name for hundreds of years.
Now this is the story of Mongaku Shōnin: —
Many centuries ago, in the city of Kyōto, there was a captain of the garrison whose name was Endo Moritō. He saw and loved the wife of a noble samurai; and when she refused to listen to his desires, he vowed that he would destroy her family unless she consented to the plan which he submitted to her. The plan was that upon a certain night she should suffer him to enter her house and to kill her husband; after which she was to become his wife.
But she, pretending to consent, devised a noble stratagem to save her honour. For, after having persuaded her husband to absent himself from the city, she wrote to Endō a letter, bidding him come upon a certain night to the house. And on that night she clad herself in her husband's robes, and made her hair like the hair of a man, and laid herself down in her husband's place, and pretended to sleep.
And Endō came in the dead of the night with his sword drawn, and smote off the head of the sleeper at a blow, and seized it by the hair and lifted it up and saw it was the head of the woman he had loved and wronged.
Then a great remorse came upon him, and hastening to a neighbouring temple, he confessed his sin, and did penance and cut off his hair, and became a monk, taking the name of Mongaku. And in after years he attained to great holiness, so that folk still pray to him, and his memory is venerated throughout the land.
Now at Asakusa in Tokyō, in one of the curious little streets which lead to the great temple of Kwannon the Merciful, there are always wonderful images to be seen,— figures that seem alive, though made of wood only,— figures illustrating the ancient legends of Japan. And there you may see Endō standing: in his right hand the reeking sword; in his left the head of a beautiful woman. The face of the woman you may forget soon, because it is only beautiful. But the face of Endō you will not forget, because it is naked hell.
八
第一印象は殆んど薄氣味惡るいほどであつた。兩側とも海水から眞つ直ぐに吃立して、高い緑色の森閑とした小山が、夏の水氣の爲めに色合を變へて、靑色の絕壁と峰と海角との奇妙な通景(みとほし)を爲して、眼前に蜿蜒と伸びて居た。人間が住んで居る形跡は少しも見えなかつた。山はそのむきだしの岩の蒼白い麓からなだらかに高まつて行つて、丈の低い草木が生えて居る小暗い荒地に及んでゐた。聞えるものは、藝者の鼓の微かな音のやうなポムポムポム! ポムポムポム! といふ自分等の蒸汽船の小いさな機關の音だけで、絕對に何の音も無かつた。そしてその殺伐な靜寂が數哩續いた。たゞ材木になる大木が無いといふ事が、峰を有つこの山々はいつか人の足に踏まれたことがあることを證明して居るだけであつた。ところが全く突然に、左の方に、山のとある皺の處に、灰色の小さな村が現はれた。すると汽船は銳い叫び聲を發して停つた。その折その山々が、その叫びを七たび反響した。
此村は知夫里島の(中島は右舷に見える島なのである)知夫里村といふので、確に漁師の屯所に過ぎぬものであつた。先づ、入江から壁の如く突き出て居る石を積み上げただけの波止場があつた。次に、その隙間から或る神社の前の鳥居が見え、十軒許りの人家が、その後ろに一軒、その後ろに一軒、屋根の先きに屋根と、凹んだ小山を登つて居るのが見える大きな樹木があつた。それから、その樹木の上の方に當つて荒涼たるが中に、段々畠になつた耕作地が少しばかりあつた。たゞそれだけであつた。汽船は郵便物を渡す爲めに停つて、すぐとそれを通り過ぎた。
ところがそれからは、豫期に反して、風景が前よりか美しくなつた。兩側の岸が同時に後すさりもし、また高くもなり、船は高い島三つで取圍まれて居る內海を橫斷しつゝあるのであつた。初には我々が進む路は霞が濛々とかかつて居る小山に妨げられて居るやうに見えて居た。が、それが段々近づいて綠色になると、兩側とも小山と小山の間に、突然素晴らしい見事な割目が開けた、――それは、幾十種の、天鵞絨のやうな藍色からして絕妙なそして妖異な淡い色合に至るまでの、種々な度合の靑から成つて居る、峰と絕壁と岬との何ん哩と續いた驚歎すべき通景(みとほし)を見せて居る山の門であつた。蒲い色の靄が遠いもの總てを夢のやうにぼかし、嵯峨たるむき出しの岩をばいろんな色の幻で包んで居つた。
總じて西部及び中部日本の風景の美は、他の邦土の風景の美とは異ふ。それには獨得の特性があるのである。時折外國人は、山道での或る眺望によつて、或は飛沫の霧を透して見た突出した一望の海岸によつて、以前の旅行の記憶が突然喚起せらるゝのを覺えることがあらう。然しこの似て居ると思ふ幻想は來るも迅いが消えるのも迅い。委曲の諸點が直ぐ判然として來て、前に見た事の無いものになる。そしてその懷ひ出は形(かたち)だけが起こしたもので、色が起こしたものでは無いといふことに氣付く。尤も人目を悅ばすいろんな色があるにはあるが、山の綠の色では無い、土地の色では無い、耕作された平地、伸びつゝある稻の廣い地面、これが暖か味のある紅に近い色を提供することはある。が、この自然の全體の一般的色調は薄黑である。廣大な森林はどすぐろい。草の色合は苛(きつ)いか鈍いかである。熱帶地方の風景に燃えて居るやうな火のやうな綠は存在して居らぬ。そして咲き盛る花も、それが燃え出る四邊の草木の重い色調と對照して、それで一段と美妙な光を放つのである。公園と庭園と耕作された野原の他(ほか)には、靑綠の色合が妙に暖か味と軟か味とを缺いて居る。だから英吉利の芝生の美はしさを成す所以の、あんな豐麗な綠は何處にも之を見出すことを希望する要は無い。
でも東洋のこんな山水には、不思議な大氣が造り出す――異常な色の――美妙な、仙鄕的な、言ふに言はれぬ幻の色の――妙趣がある。水蒸氣が、――幾百通りの色調を有つた靑と鼠色との蠱惑を峰々に浴びせ、むき出しの絕壁を紫石英に變じ、黃玉色の朝に妖魔の如き紗を展べ擴げ、眞晝の光耀をば地平線を磨り消して誇大し、夕(ゆふべ)をば黃金の煙もて充たし、水面を唐金色ならしめ、日沒をば眞珠母の靈的な紫と綠とで緣(ふち)取して――遠近を惑はしめるのである。さて、あの驚歎すべきヱホンを――今は非常に稀になつて居るあの繪本を――造つた古昔の日本畫工は、その蠱惑の感を色に凝固させようと試みたもので、そして殆んど不思議な程度にまでその背景に成功した。正(まさ)しくその理由の爲めに、その前景に、日本の農業の特色を知つて居ない外國人には謎になつて居るものが少小ある。さういふ古い繪本には、燃え立つ鬱金色の畑があり、微かに紫を帶びた野があり、深紅と雪白との樹木を見るであらう。そして恐らく諸君は『何んて馬鹿な』と叫ぶであらう。が、然し日本を知つて居れば、『氣持がい〻ほど眞實だ』と叫ぶであらう。といふのは、その燃ゆる黃色の畠は菜種が咲いて居る畠だと知り、一面の紫はゲンゲの花盛りの野だと知り、雪白や深紅の木は空想のものでは無くて、斯の國の梅の木と櫻の木との特有な或る開花現象を忠實に現はしたのだと知るであらうから。が、こんな色彩誇張は、特別な季節の極く短い時期の間だけ目擊し得らるゝので、一年の大部分を通じて内地の山水の前景は、色の點に於ては、餘程くすんで居ることが多い。
この背景の魔法を行ふのは霞である。でも霞が無くとも、日本の山水には一種奇異な殺伐な暗い美が――言語では容易に判然と述べ難い美が――ある。その祕密は之を山嶽の異常な線に、山脈の妙に唐突な凹凸と皺波とに求めなければならぬ。互に能く似て居る山は一つも無くて、銘々がそれ獨特な風變りな恰好を有つて居る。山脈が可なりな高さに達して居る時には、柔らかに次第に膨らんで居る線は稀である。一般の特徴は唐突であり、その妙趣は不規則が妙趣である。
疑も無くこの不思議な自然が、不規則が裝飾の上に有つ價値に就いての、その無類な感念を、第一に日本人に鼓吹したのであり――日本人の藝術を他のあらゆる藝術と異ならしめる所の、そして之を西洋に教へるのが日本人の特別な使命であるとチエムバレン敎授が言はれて居る所【註】の、構圖のそのたゞ一つの祕密を日本人に敎へたのであつた。確に、どんな人でも一たび古昔の日本の裝飾藝術の美と意義とを悟るやうになると、その後はそれに對應する西洋の藝術に殆んど面白味を見出すことが出來なくなる。その人が眞に學び得たことは自然の最大の魅力は不規則に存す、といふことである。そして恐らくは 人生と作品との最大魅力はこれ亦不規則といふことに存しはせぬか、といふ問題について少からざる價値を有つ文が物されることであらう。
註。『日本のことども』の中にある藝術論參照。
[やぶちゃん注:「數哩續いた」一マイルは一・六キロメートル。知夫里島の大波加島東北沖合から中ノ島との間を抜けて、現行の知夫里島のフェリー乗り場(但し、ここで僅かに停泊したのが、そこであるかどうかは定かではない)の直近までは凡そ五キロメートルほどはある。
「たゞ材木になる大木が無いといふ事が、峰を有つこの山々はいつか人の足に踏まれたことがあることを證明して居るだけであつた。」原文は“only the absence of lofty timber gave evidence that those peaked hills had ever been trodden by human foot.”。ちよっと判り難い訳である。これは、
――見たところ、これだけの山地であるにも拘わらず、大きな材木に利用出来そうな大木が一本も見当たらないというだけの事実から推して、一見、人跡未踏の山のように見えるこの峰一帯にも既に人間が足を踏み入れてそれらを伐採したのだ、ということを証明していた。――
という謂いであろう。
「紫石英」原文“amethyst”。アメジスト。紫水晶。
「黃玉色の」原文“topazine”。トパーズのような色の。
「唐金色ならしめ」老婆心乍ら、「からかねいろ」と読む。原文は“bronzing”で青銅色に染め、の意。
「ヱホン」「繪本」種々の「絵巻」物のことを指していよう。
「『日本のことども』」既注であるが、チェンバレンの“ Things Japanese ”(以前では「日本風物誌」とも訳されている)のこと。一八九〇年から一九三六年までで六版を重ねた、アルファベット順項目別に書かれた日本文化事典。]
Ⅷ.
The first impression was almost uncanny. Rising sheer from the flood on either hand, the tall green silent hills stretched away before us, changing tint through the summer vapour, to form a fantastic vista of blue cliffs and peaks and promontories. There was not one sign of human life. Above their pale bases of naked rock the mountains sloped up beneath a sombre wildness of dwarf vegetation. There was absolutely no sound, except the sound of the steamer's tiny engine,— poum-poum, poum! poum-poum, poum! like the faint tapping of a geisha's drum. And this savage silence continued for miles: only the absence of lofty timber gave evidence that those peaked hills had ever been trodden by human foot. But all at once, to the left, in a mountain wrinkle, a little grey hamlet appeared; and the steamer screamed and stopped, while the hills repeated the scream seven times.
This settlement was Chiburimura, of Chiburishima (Nakashima being the island to starboard),— evidently nothing more than a fishing station. First a wharf of uncemented stone rising from the cove like a wall; then great trees through which one caught sight of a torii before some Shinto shrine, and of a dozen houses climbing the hollow hill one behind another, roof beyond roof; and above these some terraced patches of tilled ground in the midst of desolation: that was all. The packet halted to deliver mail, and passed on.
But then, contrary to expectation, the scenery became more beautiful. The shores on either side at once receded and heightened: we were traversing an inland sea bounded by three lofty islands. At first the way before us had seemed barred by vapory hills; but as these, drawing nearer, turned green, there suddenly opened magnificent chasms between them on both sides,— mountain-gates revealing league-long wondrous vistas of peaks and cliffs and capes of a hundred blues, ranging away from velvety indigo into far tones of exquisite and spectral delicacy. A tinted haze made dreamy all remotenesses, an veiled with illusions of color the rugged nudities of rock.
The beauty of the scenery of Western and Central Japan is not as the beauty of scenery in other lands; it has a peculiar character of its own. Occasionally the foreigner may find memories of former travel suddenly stirred to life by some view on a mountain road, or some stretch of beetling coast seen through a fog of spray. But this illusion of resemblance vanishes as swiftly as it comes; details immediately define into strangeness, and you become aware that the remembrance was evoked by form only, never by color. Colors indeed there are which delight the eye, but not colors of mountain verdure, not colors of the land. Cultivated plains, expanses of growing rice, may offer some approach to warmth of green; but the whole general tone of this nature is dusky; the vast forests are sombre; the tints of grasses are harsh or dull. Fiery greens, such as burn in tropical scenery, do not exist; and blossom-bursts take a more exquisite radiance by contrast with the heavy tones of the vegetation out of which they flame. Outside of parks and gardens and cultivated fields, there is a singular absence of warmth and tenderness in the tints of verdure; and nowhere need you hope to find any such richness of green as that which makes the loveliness of an English lawn.
Yet these Oriental landscapes possess charms of color extraordinary, — phantom-color delicate, elfish, indescribable,— created by the wonderful atmosphere. Vapors enchant the distances, bathing peaks in bewitchments of blue and grey of a hundred tones, transforming naked cliffs to amethyst, stretching spectral gauzes across the topazine morning, magnifying the splendor of noon by effacing the horizon, filling the evening with smoke of gold, bronzing the waters, banding the sundown with ghostly purple and green of nacre. Now, the Old Japanese artists who made those marvelous ehon — those picture-books which have
now become so rare — tried to fix the sensation of these enchantments in color, and they were successful in their backgrounds to a degree almost miraculous.
For which very reason some of their foregrounds have been a puzzle to foreigners unacquainted with certain features of Japanese agriculture. You will see blazing saffron-yellow fields, faint purple plains, crimson and snow-white trees, in those old picture-books; and perhaps you will exclaim: 'How absurd!' But if you knew Japan you would cry out: 'How deliciously real!' For you would know those fields of burning yellow are fields of flowering rape, and the purple expanses are fields of blossoming miyako, and the snow-white or crimson trees are not fanciful, but represent faithfully certain phenomena of efflorescence peculiar to the plum-trees and the cherry-trees of the country. But these chromatic extravaganzas can be witnessed only during very brief periods of particular seasons: throughout the greater part of the year the foreground of an inland landscape is apt to be dull enough in the matter of color.
It is the mists that make the magic of the backgrounds; yet even without them there is a strange, wild, dark beauty in Japanese landscapes, a beauty not easily defined in words. The secret of it must be sought in the extraordinary lines of the mountains, in the strangely abrupt crumpling and jagging of the ranges; no two masses closely resembling each other, every one having a fantasticality of its own. Where the chains reach to any considerable height, softly swelling lines are rare: the general characteristic is abruptness, and the charm is the charm of Irregularity.
Doubtless this weird Nature first inspired the Japanese with their unique sense of the value of irregularity in decoration—taught them that single secret of composition which distinguishes their art from all other art, and which Professor Chamberlain has said it is their special mission to teach to the Occident. [6] Certainly, whoever has once learned to feel the beauty and significance of the Old Japanese decorative art can find thereafter little pleasure in the corresponding art of the West. What he has really learned is that Nature's greatest charm is irregularity. And perhaps something of no small value might be written upon the question whether the highest charm of human life and work is not also irregularity.
6
See article on Art in his Things Japanese.
七
船を取卷いて居る光り輝いた空漠は、一時間足らずの間、引續き何の汚點も無かつた。すると自分等の船がそれへ向けて走つて居る地平線からして、灰色の小さなぼんやりしたものが出來て來た。ずんずん長くなつて、雲のやうに思はれた。實際雲だつたのである。が、徐々と、その下に薄皮のやうな靑い色をしたものが、その白雲を背(せ)に貌(かたち)を成して、やがて明確に一つながりの山になつた。段々高くなり靑くなり、小さな鋸の齒のやうになり、その眞ん中に他の山の三倍の高さに聳えて、雲に括られた、色の淡い山が見えた。それは西の島にある、隱岐の聖山燒火山(たくひざん)であつた。
燒火山には傳說がある。自分はそれを友から聽いた。その頂上には權現樣の古い社殿がある。十二月の三十一日の夜、靈火が三つ海から現はれ出て、社殿の處へ昇り、社殿の前の石燈籠の中へはいり、燈のやうに燃えて居る、といふことである。その光りは一度に海から現はれるのでは無く別々に現はれて、一つ一つ峰の頂へ上つて行くのである。みんなその光が水から昇るのを見に小舟に乘つて出る。が、心の淸淨な者にだけ見えて、よこしまな考や願を有つて居る者はその靈火を見ようと待つて居ても駄目である。
船が進み行くうち、眼前に、海の表面が、前には眼に見えなかつた妙な舟で――美くしい黃色な素敵に大さな四角な帆を掛けた長い輕い漁船で――突然點々を打つたやうな觀を呈した。あの帆は何んて美しいだらうと友に言はずには居れなかつた。友は笑つて、あれは古疊【註】で出來て居ると言つた。自分は望遠鏡で眺めて見て、如何にも友の言つた通り、古疊の藁編[やぶちゃん注:「わらあみ」。]の上掛であることを知つた。にも拘らず、靑い和らかな水の上に隱岐帆船のこの初めての淡黃の點在は面白い眺であつた。
註。日本の住宅の床には、その種々な
部屋と一致して居る區劃に分けられて
居る非常に大きな然し頗る淺い木盆に
譬へることが出來よう。その分界は、
水平よりも幾寸か高くなつて居て、部
屋と部屋とを分つフスマ卽ち橫辷りす
る目隱しの便の爲め造つてある、溝の
ある磨きのかかつた木造物が爲して居
る。この區劃區劃は、タタミ卽ち輕い
藁布團(マトレス)ほどの厚みで、上
を美しく織つた稻藁で蔽つた莚(マツ
ト)をきつちりと其中へ入れて、仕切
りと水面にならせてある。その莚(マ
ツト)の四角な端はきちんと合ふ。そ
してその莚(マツト)はその家の爲め
に造るのでは無くて、その家を莚(マ
ツト)の爲めに造るのだから、どのタ
タミも全く同じ大きさである。だから
部屋部屋の充分に出來上つて居る床は、
大きな軟かいベツトのやうなものであ
る。固よりのこと日本の家では一切靴
を穿くことは出來ぬ。その莚(マツト)
は少しでも汚れると、直ぐと新らしい
のと取換へる。
その帆船は黄色な蝶が通つて行くやうに疾走し去つて、海はまたも空(くう)になつた。稍々左舷に當つて、次第に近づく靑い絶壁の線のうちの一點が次第々々に形(かたち)が出來て來て色を變ヘた。上の方は冴えない綠で、下の方は赤味を帶びた灰色である。それが分明になつて表面に黑い場處のある大きな岩と判つて來たが、陸の他の部分はまだ靑の儘で居た。その黑い場處は近づくに從つて黑さを増して來た、――それは陰影に充ちた大きな山峽であつたのである。するとその先(さき)の靑い絶壁も亦綠になつて、その裾の處は赤味を有つた鼠色になつた。船はその大きな岩の右手へと進んで行つた。見るとその岩は、他と離れて居る、人の住まつて居ない、波嘉島(はかしま)といふ小島であつた。と思ふ次の瞬間に船は早や高い知夫里島と中島との間を、隱岐群島の中へと航進しつゝあるのであつた。
[やぶちゃん注:「地平線」訳者大谷氏は確信犯で「水平線」の意味で「地平線」と使っていることが判る。
「燒火山(たくひざん)」「たくひやま」とも。島根県隠岐郡西ノ島町にある標高四百五十一・七メートルの西ノ島の最高峰。山頂に焼火(たくひ/たくび)神社が建つ。以下、ウィキの「焼火神社」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線やぶちゃん)。『焼火山の八合目辺りに鎮座する旧県社。航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた。本殿・通殿・拝殿からなる社殿は国の重要文化財に指定。重要有形民俗文化財の和船トモドも所有する』。『明治以前は焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号し、焼火社、焚火社、離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」と訓む)とも称されたが、明治初頭の神仏判然令を受けて現社名に改めた』。『大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る。なお、大日孁貴尊は天照大神の別称である』。『焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが、後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した。やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって、元禄十六年(一七〇三年)には「焼火山大権現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神霊是ナリ、手力雄命左陽、万幡姫命右陰」(『島前村々神名記』)と伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様三座を同殿に祀ると説くようにもなり、明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった』。『「焼火山縁起」によれば、一条天皇の時代(十、十一世紀の交)、海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると薩埵(仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して崇めるようになったと伝えている。また、承久年中(一二一九~二二年)のこととして、隠岐に配流された後鳥羽上皇が漁猟のための御幸を行った際に暴風に襲われ、御製歌を詠んで祈念したところ波風は収まったが、今度は暗夜となって方向を見失ったために更に祈念を凝らすと、海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし、何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇が祠を建てて神として祀るとともに空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来山を「焼火山」、寺を「雲上寺」と称するようになったという』。『上述したように、元来焼火山は北麓に鎮座する大山神社の神体山として容易に登攀を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期(十一~十二世紀頃)には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ、その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島の島前三島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったためにこれを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導も船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという。また、』「榮花物語」では、『永承六年(一〇五一年)五月五日の殿上の歌合において、源経俊が「下もゆる歎きをだにも知らせばや 焼火神(たくひのかみ)のしるしばかりに」と詠んでおり(巻第三十六「根あはせ」)、谷川士清はこれを当神社のことと解しているが(『和訓栞』)、それが正しければ既に中央においても著名な神社であったことになる』。『後世修験者によって修験道の霊場とされると、地蔵菩薩を本尊とする焼火山雲上寺(真言宗であるが本山を持たない独立の寺院であった)が創建され、宗教活動が本格化していく。その時期は南北朝時代と推測され、本来の祭祀の主体であった大山神社が、周辺一帯に設定されていた美多庄の荘園支配に組み込まれた結果、独自の宗教活動が制限されるようになったためであろうとされる。以後明治に至るまで、雲上寺として地蔵菩薩を祀る一方、「焼火山大権現」を社号とする宮寺一体の形態(神社と寺院が一体の形態)で活動することになり、日本海水運の飛躍的な発展とともに広く信仰を集めることとなる。その画期となったのは天文九年(一五四〇年)の僧良源による造営のための勧進活動であると推測され、現地では永禄六年(一五六三年)九月に隠岐幸清』(おきゆききよ 生没年不詳)天文十三(一五四四)年九月、隠岐氏当主豊清(生没年未詳)が父宗清(むねきよ ?~天文一三(一五四四)年)の遺志によって松江の清安寺に六町六反余を寄進したが、当主の判物とは別に隠岐氏家臣十三名連署の副状が発給されており、幸清は、その日下(日付の真下)に署名をしていることから、隠岐氏一門と考えられる。隠岐氏は隠岐守護代京極秀重を始祖とし、宗清は隠岐を治めた三代目領主で、尼子氏の援軍を得て、天文十年に隠岐の諸豪族の反乱を鎮圧して滅ぼし、隠岐統一を完成したとされる人物である。ここは蔵屑斎氏のサイト内の『「無名武将列伝」番外編』の「隠岐に生きた人びと―隠岐氏―」に拠った)『から田地二反が寄進されたのを始め、各所から田畠が寄進されており(社蔵文書)、近世に入ると社領十石を有していたことが確認できる。また注目されるのは西廻り航路の活況とそこに就航する北前船の盛行により、日本海岸の港はもとより遠く三陸海岸は牡鹿半島まで神徳が喧伝されたことで、歌川広重(初代・二代)や葛飾北斎により日本各地の名所を描く際の画題ともされており(初代広重『六十余州名所図会』、北斎『北斎漫画』第七編(「諸国名所絵」)など)、こうした信仰上の展開も、上述した港の目印としての山、もしくは夜間航海における標識としての灯明に起因するものと考えられる。なおこの他に、幕府巡見使の差遣に際しては雲上寺への参拝が恒例であり、総勢約二百人、多い時には四百人を超える一行を迎える雲上寺においては、島前の各寺々の僧を集めてその饗応にあたっており、これには焼火信仰の普及と雲上寺の経営手腕が大きく作用していたと考えられている』。『明治の神仏判然令で形態を神社に改め、近代社格制度においては長らく無格社とされたが、大正七年(一九一八年)に県社に列した』。以下の「神事」の項に、例祭は七月二十三日とし、『午後八時頃から本殿祭が行われ、その後、社務所を神楽庭(かぐらば。神楽奉納の場)として隠岐島前神楽(島根県指定無形民俗文化財)が舞われる。かつては夜を徹する神楽であったというが、現在は遅くても深夜には終わることになっている』とあり、またという旧暦十二月大晦日に行われる「龍灯祭」神事を挙げ、そこには、『社伝によれば、焼火権現創祀の契機となった海上からの神火の発生が大晦日の夜だったので』、『それに因んで行われるといい、現在でも旧暦大晦日の夜には海中に発した神火(龍灯)が飛来して境内の灯籠に入るとも、あるいは』、『拝殿の前に聳える杉の枝に掛かるともいう(この杉は「龍灯杉」と呼ばれる)。以前は「年篭り(としごもり)」と称して、隠岐全島から集まった参拝者が社務所に篭って神火を拝む風習があった。なお、同様の龍灯伝説は日本各地に見られ、その時期も古来』、『祖先祭が行われた七月や大晦日とするものが多いため、柳田國男は』、『これを祖霊の寄り来る目印として焚かれた篝火に起源を持つ伝説ではないかと推測、これを承けて当神社においては、航海を導く神火の信仰を中核としつつ、そこに在地の祖霊信仰が被さったと見る説もある』とある。また「信仰諸相」の項には、「神火の導き」という条があり、『船が難破しそうになった時に焼火権現に祈念すると、海中より三筋の神火が現れ、その中央の光に向かえば』、『無事に港に着けるという』と記す。更に「日の入りのお灯明行事」には、『北前船の船乗りに伝承された船中儀礼で、航海安全などを祈るために焼火権現へ灯火を捧げる神事。「カシキ」』(これは元服前の少年及びその髪形(髻(もとどり)を結んで後ろへ垂らして肩の辺りで切りそろえたもの)を指す「喝食(かっしき)」であろう)『と呼ばれる十三歳から十五、六歳の最年少の乗組員が担当し、日の入りの時刻になると』、『船尾で炊きたての飯を焼火権現に供え、「オドーミョー(お灯明)、オキノ国タクシ権現様にたむけます」と唱えながら』、『二尺程度の稲』、『または』、『麦の藁束で作った松明を』、『時計回りに三回振り回してから海へ投げ入れ、火がすぐに消えれば雨が近く、煙がしばらく海面を這えば風が出ると占ったといい、しかもこの神事を行う船乗り達は隠岐の島への就航の経験がなく、従って「オキノ国タクシ権現様」がどこのどのような神かも知らなかったという』(リンク先には上に述べられた広重や北斎の北前船によるこの「お灯明行事」の光景を描いた浮世絵が掲げられてある)。本篇に語られる、この三つの神火(じんか)というシンボルや、それに由来するこの「龍灯祭」には、何か隠された深い意味があるようにも思われる。
「あれは古疊で出來て居る」筵帆(むしろほ)・茣蓙帆(ござほ)のことであろう。藁・藺(い)などを編んだ筵をつなぎ合わせた帆で、木綿帆が普及する江戸以前では、和船の帆は、これが主に用いられていた。古畳をばらして利用することもあったには違いない。
「水面」水平の意。田部氏の訳語の癖から推測すると、これは誤植ではない感じがするのでママとした。
「そしてその莚(マツト)はその家の爲めに造るのでは無くて、その家を莚(マツト)の爲めに造るのだから、どのタタミも全く同じ大きさである」やや首をひねってしまう謂いであるが、要は、畳のサイズは決まっており、畳を家の各部屋に合わせるのではなく、畳のサイズ(畳数)に合わせてそれらあらゆる家屋内の部屋を造る、という謂いである。但し、としても、板の間の部屋は、それに縛られるわけではないし、上流階級の古い伝統的日本家屋にあっては、畳敷きの部屋は、寧ろ、限られていたし、下層民では、畳など敷く余裕もないわけであったのだから、ハーンの言いは、やはり、ちょっとおかしいように私には思われる。
「波嘉島」直後に知夫里島と中ノ島の間を抜けるとあるから、知夫里島の南東に浮かぶ、現行では大波加島(おおはかじま:グーグル・マップ・データ)と呼ばれる無人島(島根県隠岐郡知夫村内)のことと思われる。]
Ⅶ.
The luminous blankness circling us continued to remain unflecked for less than an hour. Then out of the horizon toward which we steamed, a small grey vagueness began to grow. It lengthened fast, and seemed a cloud. And a cloud it proved; but slowly, beneath it, blue filmy shapes began to define against the whiteness, and sharpened into a chain of mountains. They grew taller and bluer,— a little sierra, with one paler shape towering in the middle to thrice the height of the rest, and filleted with cloud,— Takuhizan, the sacred mountain of Oki, in the island Nishinoshima.
Takuhizan has legends, which I learned from my friend. Upon its summit stands an ancient shrine of the deity Gongen-Sama. And it is said that upon the thirty-first night of the twelfth month three ghostly fires arise from the sea and ascend to the place of the shrine, and enter the stone lanterns which stand before it, and there remain, burning like lamps. These lights do not arise at once, but separately, from the sea, and rise to the top of the peak one by one. The people go out in boats to see the lights mount from the water. But only those whose hearts are pure can see them; those who have evil thoughts or desires look for the holy fires in vain.
Before us, as we steamed on, the sea-surface appeared to become suddenly speckled with queer craft previously invisible,— light, long fishing- boats, with immense square sails of a beautiful yellow colour. I could not help remarking to my comrade how pretty those sails were; he laughed, and told me they were made of old tatami. [5] I examined them through a telescope, and found that they were exactly what he had said,— woven straw coverings of old floor-mats. Nevertheless, that first tender yellow sprinkling of old sails over the soft blue water was a charming sight.
They fleeted by, like a passing of yellow butterflies, and the sea was void again. Gradually, a little to port, a point in the approaching line of blue cliffs shaped itself and changed color,— dull green above, reddish grey below; it defined into a huge rock, with a dark patch on its face, but the rest of the land remained blue. The dark patch blackened as we came nearer,— a great gap full of shadow. Then the blue cliffs beyond also turned green, and their bases reddish grey. We passed to the right of the huge rock, which proved to be a detached and uninhabited islet, Hakashima; and in another moment we were steaming into the archipelago of Oki, between the lofty islands Chiburishima and Nakashima.
5
The floor of a Japanese dwelling might be compared to an immense but very shallow wooden tray, divided into compartments corresponding to the various
rooms. These divisions are formed by grooved and polished woodwork, several inches above the level, and made for the accommodation of the fusuma, or
sliding screens, separating room from room. The compartments are filled up level with the partitions with tatami, or mats about the thickness of light mattresses, covered with beautifully woven rice-straw. The squared edges of the mats fit exactly together, and as the mats are not made for the house, but the house for the mats, all tatami are exactly the same size. The fully finished floor of each roam is thus like a great soft bed. No shoes, of course, can be worn in a Japanese house. As soon as the mats become in the least soiled they are replaced by new ones.
六
確に大氣には自分が想像して居たよりも餘計に濕氣があつた。眞實能く晴れた日には、大山(だいせん)は隱岐からだつて分明に見えるのであるが、船がやつと地藏鼻を通り越すと、いい巨峰は地平線と同じ色の濕氣に包まれだして、二三分すると幽靈が消えるやうに消え失せた。この突然の消失の感銘は、實に異常なものであつた。その峰だけが視界から消えて、それを蔽うたものは地平線並びに空と少しも識別の出來ないものであつたからである。
その間隱岐西鄕はその航路中この海岸から一番遠く距つた地點へ達すると、今度は日本海を橫ぎつて一直線に疾走し始めた。出雲の綠色の山々はすさり退いて靑くなり、伯耆の妖魔のやうな仄かな海岸は雲の帶の如くに地平線へ溶け始めた。その時自分はこの恐ろしい小蒸汽船の速力に對する自分の驚[やぶちゃん注:「おどろき」。]を白狀せざるを得なかつた。それにまた殆んど何の音も立てずに進行した。それ程にその驚くべき小さな機關の運轉は圓滑であつた。が、深いゆるやかな搖れ方をして、重々しく搖れはじめた。眼には海は油の如く平らであつたが、水の表面の下に感ぜられる眼に見えぬ長いうねりが――太洋の脈搏が――あるのであつた。伯耆は蒸發してしまつた。出雲の山々は灰色に變り、その灰色が見て居るうちにずんずん淡くなつた。それが次第々々に色無しになつて――透明になるやうに思はれた。と思ふうちに無くなつてしまつた。在るものは白い地平線で接合して居る靑い空と靑い海とだけであつた。
自分は恰も陸から數千哩離れてでも居るやうに淋しかつた。ところがその薄氣味わるい時に、閑[やぶちゃん注:「ひま」。]が出來て西瓜の中に居る自分等に加はつた老年の水夫が頗る物淋しい話を聞かせて吳れた。佛(ほとけ)の海のことを話し、七月の十六日に海に出て居るのは不運なことを話した。大きな汽船すら盆中は航海をしない、どんな船員だつてその時分は船を海へ出すことを敢てしない、と言ふのである。そしてその男は、その話したことを信じて居るに相違無いと自分は思ふほどに、如何にも素朴に眞面目に、次に記す話を物語つた。
『最初のは私がまだ至つて若い時でありました。北海道から乘り出したのでありますが、長い航海でありまして、風が逆ひ風[やぶちゃん注:「むかひかぜ」と訓じていよう。]でありました。そして十六日の夜になつたのであります、丁度此處のこの海で仕事をして居た時にであります。
『すると全くだしぬけに、暗闇の中に、私共の船の後ろに――餘つ程[やぶちゃん注:「よつぽど」。]近く來るまで氣が付かなかつたのでありますが―――眞つ白い――大きな和船が見えました。空(くう)から出て來たやうに思へましたから、皆んな變だといふ氣がしました。人聲がきこえる程私共の船に近い處に居りまして、その船體は私共の船よりもずつと高く突立つて居りました。大變早く走つて居るやうに思へました。だが、一向前よりも近く寄つて來ません。私共は大聲で呼びかけました。だが何んの返事もありません。それからじつとその船を見て居るうちに、その走り方が本當の船のやうではなかつたものでありますから、私共皆んな恐ろしくなりました。海は恐ろしい荒でありまして、私共の船は急に橫へ傾いたり、船先を水へ突込んだりしますのに、その大きな和船はゆるぎもしないのであります。丁度私共が恐ろしいと思ひ出したその時、急にその船は消えてしまつて、一體本當に船が見えて居たのかどうか信じられない程でありました。
『それが最初のであります。が、四年前に私はまだもつと不思議な物を見ました。和船で隱岐の國むけて行きをりましたが、今度は風で遲くなりましたから、十六日の日に海に居つたのであります。朝の事でありました、正午(ひる)少し前でありました。空は黑く、海は非道い荒でありました。處が突然に、汽船が一艘私共の通つた跡を、大變早くやつて來るのが見えました。機關の、カタカタ、カタカタといふ音が聞える程近くへ來ました。が、甲板に人一人見えません。それからその船は、いつも同じ距離に居て私共の船を追つかけ始めまして、こちらでその船の航路を外づれようとしますと、いつも方向を更へて、丁度私共の跡を追ふやうにするのであります。そこで私共はその船が何んだかと怪しみました。が、その船が姿を消すまでは確とは[やぶちゃん注:「しかとは」。]分らなかつたのであります。泡のやうに消えたのであります、少しも音を立でずに。いつ見えなくなつたか確かとは誰にも分りませんでした。誰もその消えるのを見たものはありません。一番不思議な事は、その船が見えなくなつた後(あと)で、私共の船の後(うし)ろで機關が――カタカタ、カタカタ、カタカタと――運轉して居るのがやつぱり聞えて居たことであります。
『私の見たのはそれだけであります。が、私共のやうな船頭で、もつと澤山見た者を私は知つて居ります。時には幾艘も後を追ふことがあります、――一度にではありませんが。一艘が近くへ來ては消え、それから又一艘、それからまた一艘と來るのであります。それが後(あと)へ來る間は恐がるには及びません。が、そんな船が、風に向つて、前に走つて居るのを見ると、それは大變惡るいのであります。船の者はみんな溺れて死ぬることになるのであります』
[やぶちゃん注:本篇は一読、私の偏愛する――ここで言っておくと、私は怪奇談蒐集という偏奇な趣味も持っている。未読の方は私のオリジナルな怪談蒐集録「淵藪志異」を是非お読みあれかし――イギリスの幻想作家ホジスン(William Hope Hodgson 一八七七年~一九一八年)の、後の(彼はハーンより二十七も年下である)洋怪奇談の掌編集を読んだ折りにも感じた、潮臭い慄っとするリアルな感覚が実に濃厚にする。大谷氏の老水夫の語り口も自然ですこぶる附きによい。ここだけを独立させて後の「怪談」の中へ忍ばせておきたいくらい、小泉八雲の上質の怪奇談の白眉の一つであると私は思うのである。まずその上手さは、幽霊船だけを見せて、人形(ひとがた)を出さぬという妙味であり、それがさらに「人聲がきこえる」(第一話)「機關の、カタカタ、カタカタといふ音が聞える」「その船が見えなくなつた後で、私共の船の後ろで機關が――カタカタ、カタカタ、カタカタと――運轉して居るのがやつぱり聞えて居た」(第二話)というSE(サウンド・エフェクト)の絶妙の効果によって恐怖の増殖が行われるところにある。今日(きょう)、今、タイピングしながらも、私は思わず、体を震わせてしまったほどであった。
「隱岐西鄕」老婆心乍ら、原文“the Oki-Saigo”を見ずとも、文脈から判る通り、これは「隱岐西郷(おきさいがう)」という隠岐通いの連絡汽船の船名である。しかし、鍵括弧を附すのが親切というものであろう。
「自分は恰も陸から數千哩離れてでも居るやうに淋しかつた」千マイルは千六百九キロメートルであるから、「數千哩」では、もう太平洋の真ん中にいるような錯覚という恐るべき感じということになる。最初の二段の霊妙な風景変容の夢幻的描出と相俟って、この異常感覚が、いや増しに、次の老水夫の怪談の霊気による冷気を読者に効果的に感じさせる幻覚装置となっているのである。最初の二つの段落も、訳文だけを見ても――「濕氣」「幽靈が消えるやうに消え失せた」「突然の消失の感銘」「異常」「視界から消えて、それを蔽うたものは地平線並びに空と少しも識別の出來ないもの」「伯耆の妖魔のやうな仄かな海岸」「雲の帶の如くに地平線へ溶け始めた」「この恐ろしい小蒸汽船」「深いゆるやかな搖れ方をして、重々しく搖れはじめ」「海は油の如く平ら」「水の表面の下に感ぜられる眼に見えぬ長いうねり」「太洋の脈搏」「伯耆は蒸發してしまつた」「出雲の山々は灰色に變り、その灰色が見て居るうちにずんずん淡くな」り、「それが次第々々に色無しに」、「透明になるやうに思はれ」「と思ふうちに無くなつてしま」い、「在るものは」ただ「白い地平線で接合して居る靑い空と靑い海とだけであつた」と畳み掛けた上で、この一文が配され、さらにその後にさえ、ダメ押しで、「その薄氣味わるい時」とあることに着目されたいのである。ハーンの匠の跡に舌を巻くこと、頻り!
「閑」老婆心乍ら、「ひま」と読む。
「七月の十六日」ここまでの本書の記載から考えても、これは旧暦の、である。
「四年前」「十六日の日」語りと設定が事実に即しているならば、これは明治二一(一八八六)年の旧盆七月十六日となり、この年は新暦でも、しっかり、八月十五日に当たる。まさに怪異が起こるに総てが合致した、異界との通路が開口してしまう特別な時間だったのである。]
Ⅵ.
Evidently there was much more moisture in the atmosphere than I had supposed. On really clear days Daisen can be distinctly seen even from Oki; but we had scarcely passed the Nose of Jizo when the huge peak began to wrap itself in vapor of the same color as the horizon; and in a few minutes it vanished, as a spectre might vanish. The effect of this sudden disappearance was very extraordinary; for only the peak passed from sight, and that which had veiled it could not be any way distinguished from horizon and sky.
Meanwhile the Oki-Saigo, having reached the farthest outlying point of the coast upon her route began to race in straight line across the Japanese Sea. The green hills of Izumi fled away and turned blue, and the spectral shores of Hōki began to melt into the horizon, like bands of cloud. Then was obliged to confess my surprise at the speed of the horrid little steamer. She moved, too, with scarcely any sound, smooth was the working of her wonderful little engine. But she began to swing heavily, with deep, slow swingings. To the eye, the sea looked level as oil; but there were long invisible swells — ocean-pulses — that made themselves felt beneath the surface. Hōki evaporated; the Izumo hills turned grey, a their grey steadily paled as I watched them. They grew more and more colorless,— seemed to become transparent. And then they were not. Only blue sky and blue sea, welded together in the white horizon.
It was just as lonesome as if we had been a thousand leagues from land. And in that weirdness we were told some very lonesome things by an ancient mariner who found leisure join us among the water-melons. He talked of the Hotoke-umi and the ill-luck of being at sea on the sixteenth day of the seventh month. He told us that even the great steamers never went to sea during the Bon: no crew would venture to take ship out then. And he related the following stories with such simple earnestness that I think he must have believed what said: —
'The first time I was very young. From Hokkaido we had sailed, and the voyage was long, and the winds turned against us. And the night of the sixteenth day fell, as we were working on over this very sea.
'And all at once in the darkness we saw behind us a great junk, — all white,— that we had not noticed till she was quite close to us. It made us feel queer, because she seemed to have come from nowhere. She was so near us that we could hear voices; and her hull towered up high above us. She seemed to be sailing very fast; but she came no closer. We shouted to her; but we got no answer. And while we were watching her, all of us became afraid, because she did not move like a real ship. The sea was terrible, and we were lurching and plunging; but that great junk never rolled. Just at the same moment that we began to feel afraid she vanished so quickly that we could scarcely believe we had really seen her at all.
'That was the first time. But four years ago I saw something still more strange. We were bound for Oki, in a junk, and the wind again delayed us, so that we were at sea on the sixteenth day. It was in the morning, a little before midday; the sky was dark and the sea very ugly. All at once we saw a steamer running in our track, very quickly. She got so close to us that we could hear her engines,— katakata katakata! — but we saw nobody on deck. Then she began to follow us, keeping exactly at the same distance, and whenever we tried to get out of her way she would turn after us and keep exactly in our wake. And then we suspected what she was. But we were not sure until she vanished. She vanished like a bubble, without making the least sound. None of us could say exactly when she disappeared. None of us saw her vanish. The strangest thing was that after she was gone we could still hear her engines working behind us,— katakata, katakata, katakata!
'That is all I saw. But I know others, sailors like myself, who have seen more. Sometimes many ships will follow you, — though never at the same time. One will come close and vanish, then another, and then another. As long as they come behind you, you need never be afraid. But if you see a ship of that sort running before you, against the wind, that is very bad! It means that all on board will be drowned.'
五
この美くしい美保關灣は二つの岬の間に開いて居る。一方はミオ(古風な綴に從ふとミホ)岬で、一方は土地の人が頗る不適當にも『地藏鼻』(ヂザウノハナ)と今呼んで居る地藏崎(ヂザウザキ)である。この地藏鼻は激浪の折には此海岸での最も危險な場所で、隱岐から歸る小舟の恐怖の的になつて居る。天氣の好い折にも其處には殆どいつも大うねりがある。でも自分等の船がその峨々たる海角を過ぎた時には水が鏡の如く靜かなのを見て驚いた。その音無しの海がなんだか怪しいやうな氣持がした。その音無しといふ事が熱帶的風景に先立つ浪と風との美くしい欺瞞的な眠を想ひ出させたからである。だが友は斯く言つた。
『幾週間も斯んなで居るだらう。六月と七月の始とはいつも非常に平穩だ。盆前に危險になるやうなことはありさうに無い。だが先週美保關に一寸した疾風(はやて)があつた。土地の者はそれは神樣の御立腹で起こつたのだと言つて居る』
『卵でか?』と自分は尋ねた。
『い〻や、クダンだ』
『クダンて何んだ?』
『クダンのことを今迄聞いたことが無いのかい? 件といふのは人間の顏をして牛の身體をしたものだ。たまたま牛が生むもので、それは起こらうとして居る事の前兆だ。ところが件はいつも本當のことを言ふ。だから日本の手紙や證文には――「件の如くに」卽ち、「件が眞實を語るが如くに」といふ――クダンノゴトシ【註】といふ文句を使ふが習はしだ』
註。この妙な意味は和英字書に載つ
て居らぬ。字書にはこのイディオム
はたゞ『前述の如く』といふ句で譯
してある。
『だがどうして美保關の神樣が件に腹を立てられたのだい?』
『剝製の件だつたといふ事だ。自分はそれを見はしなかつたから、どんなに出來て居たか君に話せぬ。大阪から旅の見世物師が境へ來て居たのだ。虎や、色んな珍らしい動物や、その剝製の件を持つて來て居た。そして出雲丸に乘つて美保關へ來たのだ。その汽船が港へ入ると不意の疾風(はやて)が起きた。すると神社の神官は、何か不淨な物を――死んだ動物の骨や何んかを――此町へ持つて來たから神樣がお腹立ちになつたのだと言つた。そこで見世物師は上陸さへ許されず、乘つて來たその汽船で境へ歸らなければならなかつた。ところがそれが出て行つてしまふと、空は再び晴れて風は吹き止んだ。だから或る人達は神主が言つた事は本當だと思つた』
[やぶちゃん注:ここは「友」の設定が、やや破綻してしまっている感じを私は受ける。「一」でハーンは、彼は「前に隱岐へ行つたことがあ」り、「用事あつて數日のうちにまた行かうとして居る一友」で「前の學校の同僚」と言っているのであるが、最後のシーンは少なくとも美保の関での、その直近(事件は先週である)の異様な出来事を直ちに知り得、しかも見物師のその前の状況も知り得る人物だということになる。松江在の中学教師にしては、現実的には情報通に過ぎる気がする。これらは恐らく、船員や実際の美保の関の村人(ハーンは隠岐の帰りに寄っており、そこで松江の盟友西田千太郎とも再会している)の話を西田らが仕入れ、ハーンに英訳して説明したものが下敷きであろう。
「土地の人が頗る不適當にも『地藏鼻』(ヂザウノハナ)と今呼んで居る」出雲半島最東端の岬。現在は「地蔵崎(じぞうざき)」(グーグル・マップ・データ)。ここは言代主神の聖地であるにも拘わらず、『「地蔵」の鼻』という地名は相応しくないというハーンの謂いであろう。時に前から不思議だったのだが、平井氏訳(「日本瞥見記(下)」一九七五年恒文社第一版)では何故か『地蔵の歯』(?)となっている。不審。なお、ウィキの「地蔵崎」によれば、『「地蔵崎」の名は、航海安全を念じて地蔵が多く奉納されていたことから来たといわれる』とある。
「クダン」「件」これは、妖怪というよりも、一種の妖しい奇獣、或いは、奇形体で、しかも江戸末期頃に、特に西日本で発生した噂話(地方域が多いので、敢えて都市伝説(アーバン・レジェンド)とは言わないでおく)で語られる、人面牛身で、人語を操り、直近の未来に起こる災厄を予言するという。ある場合は、それを聴く者にその災厄からの回避方法を教えるとし、その直ちに死ぬとも言われる、架空のハイブリッドな奇形動物或いは奇形人間である。これは私の守備範囲で、語り始めると、始末に負えなくなるので、ウィキの「件」の引用でとどめておく(ハーン先生の、まさに、この部分が例として挙げられてある。私が下線太字を施しておいた)。十九世紀前半頃から、発生が取り沙汰されており、『その姿は、古くは牛の体と人間の顔の怪物であるとするが、第二次世界大戦ごろから人間の体と牛の頭部を持つとする説も現れた』。『幕末頃に最も広まった伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされている。生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされている。また件の絵姿は厄除招福の護符になると言う』。『別の伝承では、必ず当たる予言をするが予言してたちどころに死ぬ、とする話もある。また歴史に残る大凶事の前兆として生まれ』、『数々の予言をし、凶事が終われば死ぬ、とする説もある』。『江戸時代から昭和まで、西日本を中心に日本各地で様々な目撃談がある』。『西日本各地に伝わる多くの伝承では、証文の末尾に記される「件の如し」という慣用句は「件の予言が外れない様に、嘘偽りがないと言う意味である」と説明されることもあるが、実際には件が文献に登場するはるか前より「件の如し」は使われている』。『怪物「件」の記述がみられるようになるのは江戸時代後期であるが、「件の如し」という決まり文句は既に『枕草子』などにも見え、これは民間語源の一種と考えられる』。これについては本篇でもまことしやかに語られているが、はっきり言っておくが、全くの後付けの妄説である。『この怪物の目撃例として最古と思われるものは、』文政一〇(一八二七)年の『越中国・立山でのもの。ただし、この頃は「くだん」ではなく「くだべ」と呼ばれていた。ここで山菜採りを生業としている者が、山中でくだべと名乗る人面の怪物に出会った。くだべは「これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写し絵図を見れば、その者は難を逃れる」と予言した。これが評判になり、各地でくだべの絵を厄除けとして携帯することが流行したと言う。江戸時代後期の随筆』「道德塗說」『ではこれを、当時の流行の神社姫に似せて創作されたものと指摘している』。『「くだん」としての最古の例は』天保七(一八三六)年の『日付のある瓦版に報道されたもの。これによれば』、天保六(一八三五)年の十二月、『丹後国・倉橋山で』、『人面牛身の怪物『件』が現れたと言う。またこの瓦版には、「宝永二(一〇七五)年十二月にも『件が現れ、その後豊作が続いた。この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」ともある。また、ここには「件は正直な獣であるから、証文の末尾にも『件の如し』と書くのだ」ともあり、この説が天保の頃すでに流布していたことを示す』。『因みにこの報道の頃には天保の大飢饉が最大規模化しており「せめて豊作への期待を持ちたい」という意図があってのものと思われる』。『幕末に入ると、件は突如出現するとする説に代わって、人間の飼っている牛が産んだとする説が広まり始める。慶応三(一八六七)年四月の『日付の』「件獸之寫眞」『と題した瓦版によると「出雲の田舎で件が生まれ、『今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る。』と予言し』、三日で死んだ」という。『この瓦版には「この瓦版を買って家内に貼り』、『厄除けにして欲しい」として人面牛身の件の絵が描かれており、件の絵画史料として極めて貴重なものである』。明治四二(一九〇九)年六月二十一日の『名古屋新聞の記事によると、十年前に五島列島の農家で、家畜の牛が人の顔を持つ子牛を産み、生後』三十一日目に『「日本はロシアと戦争をする」と予言をして死んだとある。この子牛は剥製にされて長崎市の八尋博物館に陳列されたものの、現在では博物館はすでに閉館しており、剥製の行方も判明していない』。『明治時代から昭和初期にかけては、件の剥製と称するものが見世物小屋などで公開された。小泉八雲も自著『伯耆から隠岐へ』の中で、件の見世物をする旅芸人についての風説を書き残している。それによると』明治二十五(一八九二)年に『見世物をする旅芸人が美保関行きの船に件の剥製を持ち込んだ。しかしその不浄の為に神罰が下り、その船は突風の為に美保関に上陸できなくなったという』。『昭和に入ると、件の絵に御利益があるという説は後退し、戦争や災害に関する予言をする面が特に強調された』。昭和五(一九三〇)年頃には『香川県で、森の中にいる件が「間もなく大きな戦争があり、勝利するが疫病が流行る。しかしこの話を聞いて』三日以内に『小豆飯を食べて手首に糸を括ると病気にならない。」と予言したという噂が立った』。昭和八(一九三三)年には『この噂が長野県で流行し、小学生が小豆飯を弁当に入れることから小学校を中心に伝播した。ただし内容は大きく変わっており、予言したのは蛇の頭をした新生児で、諏訪大社の祭神とされた』。『第二次世界大戦中には戦争や空襲などに関する予言をしたという噂が多く流布した』。昭和一八(一九四三)年には『岩国市のある下駄屋に件が生まれ』、「来年四、五月頃には戦争が終わる」と『予言したと言う』。また、昭和二〇(一九四五)年春頃には、『松山市などに「神戸に件が生まれ』、「自分の話を信じて三日以内に小豆飯かおはぎを食べた者は空襲を免れる」と予言した、『という噂が流布していたという』。『第二次世界大戦末期から戦後復興期にかけては、それまでの人面牛身の件に代わって、牛面人身で和服を着た女の噂も流れ始めた』。『以下、これを仮に牛女と呼称する』。『牛女の伝承は、ほぼ西宮市、甲山近辺に集中している。例えば空襲の焼け跡で牛女が動物の死骸を貪っていたとする噂があった。また、芦屋市・西宮市間が空襲で壊滅した時、ある肉牛商の家の焼け跡に牛女がいた、おそらくその家の娘で生まれてから座敷牢に閉じ込められていたのだろうという噂などが残されている』。『小説家小松左京は』、『これらの噂に取材して小説『くだんのはは』を執筆したため、この牛女も件の一種とする説もある。が、幕末期の件伝承と比較すると』、『件は牛から生まれるが、牛女は人間から生まれる』、『件は人面牛身、牛女は牛面人身』、『件は人語を話すなど知性が認められるが、牛女にはそれが認め難い』など『といった対立点があり、あくまでも件と牛女は区別すべきと言う主張もある』とある。私は、引用文中に出た小松左京の「くだんのはは」は、「件小説」の白眉と信じて疑わない。
「出雲丸」田中邦貴氏のサイト「尖閣諸島問題」の明治一八(一八八五)年十一月四日のクレジットを持つ『沖繩縣五等屬』の石澤兵吾氏なる人物の署名のある 『魚釣島外二島巡視取調概略』に、この年の十月二十二日に『魚釣島久場島及久米赤島實地視察の御内命』により『沖繩縣』が視察を行った内容が記されてある中に、その際、沖繩県が雇い入れたのが『汽船出雲丸』とあり、最後の方には『日本郵船會社
出雲丸船長 林 鶴松』とある(引用部を恣意的に正字化した)。恐らくは、この船と同一のものではないかと思われる。]
Ⅴ.
The beautiful bay of Mionoseki opens between two headlands: Cape Mio (or Miho, according to the archaic spelling) and the Cape of Jizō (Jizō- zaki), now most inappropriately called by the people 'The Nose of Jizo' (Jizō-no-hana). This Nose of Jizō is one of the most dangerous points of the coast in time of surf, and the great terror of small ships returning from Oki. There is nearly always a heavy swell there, even in fair weather. Yet as we passed the ragged promontory I was surprised to see the water still as glass. I felt suspicious of that noiseless sea: its soundlessness recalled the beautiful treacherous sleep of waves and winds which
precedes a tropical hurricane. But my friend said:― 'It may remain like this for weeks. In the sixth month and in the beginning of the seventh, it is usually very quiet; it is not likely to become dangerous before the Bon. But there was a little squall last week at Mionoseki; and the people said that it was caused by the anger of the god.'
'Eggs?'
I queried.
'No: a Kudan.'
'What is a Kudan?'
'Is it possible you never heard of the Kudan? The Kudan has the face of a man, and the body of a bull. Sometimes it is born of a cow, and that is a Sign-of-hings-going-to-happen. And the Kudan always tells the truth. Therefore in Japanese letters and documents it is customary to use the phrase, Kudanno-gotoshi,— "like the Kudan",— or "on the truth of the Kudan."' [4]
'But why was the God of Mionoseki angry about the Kudan?'
'People said it was a stuffed Kudan. I did not see it, so I cannot tell you how it was made. There was some travelling showmen from Osaka at Sakai. They had a tiger and many curious animals and the stuffed Kudan; and they took the Izumo Maru for Mionoseki. As the steamer entered the port a sudden squall came; and the priests of the temple said the god was angry because things impure — bones and parts of dead animals — had been brought to the town. And the show people were not even allowed to land: they had to go back to Sakai on the same steamer. And as soon as they had gone away, the sky became clear again, and the wind stopped blowing: so that some people thought what the priests had said was true.'
4
This curious meaning is not given in Japanese-English dictionaries, where the idiom is translated merely by the phrase 'as aforesaid.'
四
隱岐西鄕は正八時に出帆するから直ぐ切符を買ふが宜からうと、翌朝早く知らせを受けた。日本の習慣に從つて宿屋の下男が荷物その他の一切の心配をせんで宜いやう取計つて吳れ、自分等の切符も買つて吳れた。一等賃金八十錢。そして急いで朝食をすますと、宿の小舟が我々を運ぶべく窻の下へやつて來た。
島根縣の汽船では洋服は不便な事を經驗して知つて居るから自分は和服を着、靴を草履に穿き換へた。船頭は大船小船のごちやごちや居る中を早く漕いだ。そしてそれを出離れると、遠く中流に、自分等を待つて居るジヨウキが見えた。ジヨウキといふは汽船を呼ぶ日本語である。この語は不快な解釋を與へることの出來るものとは、その時まだ自分は思つて居なかつたのである。
[やぶちゃん注:やや長いので、注は必要と思われる各段落末に附す。注の後は、一行空けた。
「島根縣の汽船」この謂いによってハーンは完全に境港を鳥取県だとは思っていないことがよく判る。
「この語は不快な解釋を與へることの出來るものとは、その時まだ自分は思つて居なかつたのである。」原文は“The word had not yet impressed
me as being capable of a sinister interpretation.”。これはこの後の伏線であり、それを大谷氏は非常に分かり易く訳しておられる。例えば、平井呈一氏はここを『このことばから、なにか不吉な解釈をひきだせるような印象を受けたことは、わたしはまだいちどもない。』と訳しておられるのであるが、この訳は私には半可通なもので、ここは大谷氏の訳に軍配を挙げたい。]
見ると、もつとづんぐりはして居るが、長さは殆んど港內用の曳船ぐらゐで他の點に於ては宍道湖通ひの小人島的汽船に餘程似て居たから、僅か百哩の短い旅でも、これでは少小險呑だといふ氣がした。が、その外部の視察はその內部の神祕を探る手掛りを與へては吳れなかつた。着いて、小さな角な穴からその右舷へ登つた。直ぐと自分は、重い天井を有つた、高さ四呎幅七呎の舷門の中で、幅二呎の孔の中を直徑三呎の荷物を押し通して行かうと踠いて呼吸(いき)の根を止めて居る船客に――恐ろしく挾み絞められて動けなくなつてしまつた。進むことも退くことも不可能で、そして自分の後ろでは機關室の格子がこの地獄のやうな廊下へ非常な熱を浴びせつゝあるのであつた。自分は頭の後を天井へ押附けて待つて居なければならもかつたが、不思議にも荷物も乘客も皆、壓し潰されて通ほつて行つた。それから部屋の戶口へ着いて、山なす草履と下駄の上を一等船室へころがりこんだ。磨いた木細工や鏡があつたりして部屋は小綺麗で、ぐるりに幅五吋の壁沿長椅子があり、中央の處は、高さ六尺ぐらゐあつた。そんな高さなら比較的に仕合な譯ではあつたが、天井を橫に張り渡してある磨いた眞鍮の棒からして、ありとあらゆる小荷物が大事に吊り下げであつて、しかもその中には啼く螽斯(チヨンギス)の籠が二つもあるのであつた。その上にまた船室は早や既に極度に塞がれて居た。言ふ迄も無く誰も彼も床(ゆか)の上に居り、しかも殆んど誰も彼もが一杯に身體を伸ばして寢そべつてゐた。それにまた暑さがこの世のものとは思へぬ程であつた。ところで、出雲やそんなやうな地方から、大海で商賣をする目的で船に乘つて海へ乘り出す者は、決して立つて居るものでは無く、古風に辛抱强く坐つて居るものと思はれて居るから、沿海或は湖水通ひの汽船は、そんな姿勢だけを可能ならしめる目的を以て建造されて居るのである。自分は、船室の左舷の側に戶が一つ開いて居るのを見たから、身體や手足のこんがらがつて居る上を――その中には藝者の所有に係る美くしい足が二本あつたが、拔き足さし足で行つて見ると、それは別な舷門で、これ亦屋根があつて、のたりくれつて居る鰻が入つて居る籠で屋根まで詰つて居るのであつた。出口は其處には無かつた。そこでかの足總ての上を越え戾つて、今一度右舷の舷門を試めしてみた。そんな短時間のうちにすら、不幸な雛つ子が入つて居る籠で半分も其處ははや塞がれてしまつて居た。が自分は、自分の心を傷ましめる狂亂的なキヤツキヤといふ啼聲にも拘らず、向う見ずに籠の上を突進して、旨く船室の屋根の上へ出る道を見付けた。綱の大きなとぐろ卷のある一隅のほかは其處は全部西瓜が占領して居つた。自分はその綱の內側へ西瓜を入れて、日に照らされながらその上へ腰をかけた。居心地よくは無かつた。だが、いざといふ場合生命の助かる機會があらうと考へ、下に居る人達は神樣だつて屹度救ふことは出來まいと思つた。先刻の押し合へし合の間に自分は伴(つれ)と離れてしまつたのであつたが、その男を見出さうと企てることを恐れた。前の方を見ると二等室の屋根の上に火鉢一つ取卷いて三等客が一杯居た。その多勢の中を通り拔ける事は出來さうに思へぬし、退く事は鰻か雛つ子かを殺すことになつたらう。だから自分はその西瓜の上に腰掛けたのである。
[やぶちゃん注:「小人島的汽船」面食らう訳語であるが、原文は“the Lilliputian steamers”で、寧ろ、現代ではそのまま――リリパット国のみたような蒸気船――の方が通りがよかろう。言わずもがな、“Lilliput”は、かのスウィフトの「ガリバー旅行記」に出てくる小人国(しょうじんこく)の名である。されば、ここは「小人島」は「しやうじんたう」と読んでおく。
「百哩」約百六十一キロメートル。
「高さ四呎幅七呎の舷門」高さ一・二メートル・幅二・一メートルのガングウェー(原文も“gangway”)。ガングウェーは舷門(げんもん)と訳す海事用語で、船舶の上甲板の舷側にあってデッキ即ち舷梯(げんてい)を掛け、船内を昇降するための出入り口のことである。
「幅二呎」約六十一センチメートル。
「直徑三呎」直径九十一・四四センチメートル。
「五吋」十二・七センチメートル。
「六尺」約一メートル八十二センチメートル。
「螽斯(チヨンギス)」通常は「螽斯」で「きりぎりす」と読み、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis に属するもの及び近縁の属も含めた「キリギリス類」の総称。既出既注。但し、本当に本種であったかどうか、私は若干、疑問に思う。
「雛つ子」鶏のヒヨコ。]
すると船は耳の潰れるやうな叫聲を出して進行し始めた。と直ぐに煙突が自分の身體ヘ戾――所謂一等船室は隨分の船尾にあつたから――煤を雨と降らせ始め、次いでその煤に交じつて小さな燃殼がやつて來て、その燃殼に折々赤熱のものもあつた。だが自分は、かの雛つ子に最後の攻擊を加へずに自分の位置を變ずる方法は無いかと思案しながら、なほ暫くの間西瓜の上で燒けながら坐つて居つた。到頭自分はその噴火山の風陰に移る必死の努力を試みた。そしてその時初めてこのジヨウキの特性は分つて來た。自分がその上に坐らうとする物はひつくりかへり、自分がそれで身體を支へようとする物は直ぐに、いつも船外の方向へ、外づれた。外見では鎹止になつて居るか或は堅固に締め括つてある物が、用心して檢べて見ると、危險なほど動き易いものであり、西洋の思想に據ると動くべき筈のものが永久不易の小山の根のやうに固着して居つた。どんな方向にでも誰かを不幸ならしめるやうに綱か支索かをどうにかして張り得たなら、此船のものが正(まさ)それであつた。そんな難儀な目に會つて居る最中に、この恐ろしい小舟は搖れ始めて、西瓜があつちこつち非道くぶつつかり始めたので、自分はこのジヨウキは惡魔が設計しまた建造したものだといふ結論に到達した。
[やぶちゃん注:「燃殼」「もえがら」。
「鎹止」「かすがひどめ(かすがいどめ)」。二つの対象を繫ぎ止めるためにかすがい(「コ」の字型の釘)で固定されてあること。]
その事を自分は友に語つた。友は思ひがけ無くも自分と又一緖になつた計りでは無く、燃殼や煤を防ぐやうに、船のボオイを連れて來て自分等二人と西瓜との上へ日蔽を張らせたのであつた。
彼は叱るやうに答へた。『そんなことは無い! この船は兵庫で設計して建造したもので、實際もつと惡く出來上つたのかも知れぬ、若し……………』
[やぶちゃん注:この辺りの議論相手の「彼」はセツではない。後日、隠岐からの帰りに美保の関で再会した盟友西田千太郎との会話などを参考にしたものか。]
自分はそれを遮つて『濟まぬが、君の意見には全然同意出來ぬ』と言つた。
彼は自說を曲げずに『いや、自分で判るよ。船體は立派な鋼鐡だし、その小さな機關は驚くべきものだ。五時間で何ん百哩走れる。そりや大して居心地は好くない。が、非常に早くて堅牢だ』と言つた。
[やぶちゃん注:「何ん百哩」百マイルは約百六十一キロメートルだから、千キロメートル前後になるが、ここは原文を見ると「何ん」は筆が滑ったものであることが判る。ネット上の情報では当時の蒸気船の速度は江戸幕府の開陽丸の速度は十ノットで時速十八・五キロメートル、薩摩藩の春日丸は十六ノットで時速二十九・六キロメートルであったとあるから、かっちり「百哩」ならば、謂いとしては全く誇張ではないことが判る。]
『空が荒れりや、僕はむしろ和船の方が宜い』と自分は抗辯した。
『だが和船は空が荒れゝば海へ出はしない。空が荒れさうな樣子が見えただけでも、和船は港に碇泊して居る。時々全る[やぶちゃん注:「まる」。]一と月も待つ。どんな冒險も決してせぬ』
自分はそれを確信する事は出來なかつた。だが、出雲の海岸に沿うて、長い海門から日本海へ突進するにつれて、眼前に段々廣く展開し來る素晴らしい眺望と、無類の好天氣とが嬉しくて、一切の不快を――西瓜の上に坐つて居る不快すらも――自分は直ぐと忘れた。頭上の靑い和やかな大空には一點の雲も無く、一切を映す大海の金屬の如き平らかさには少しのゆらめきも無かつた。船が搖れるのなら、それは疑も無く荷物を積み過ぎたからであつた。左舷には――間を置いて途絕えては不思議な小さな入江をつくり、其處には漁村が隱れて居る、くすんだ綠色の、起伏高低して長く續いて居る――出雲の山々が後(あと)へ後(あと)へと飛んで行く。右舷數哩離れて、伯耆の海岸が何も無い白い地平線へと遠のいて、砂濱の閃[やぶちゃん注:「ひらめき」。]が呈する絲筋に緣取られた暖かい靑い線となつて、次第に微かに消えて行く。そしてその向うに、中心に、影のやうな偉大な金字塔が――大山の靈峰が――朦乎として中天へそ〻り立つて居る。
[やぶちゃん注:「數哩」一マイルは約一・六キロメートルであるから、例えば六マイルで約九・七キロメートルである。美保の関(次段参照)から大山方向の美保湾対岸の伯耆の海岸までは十四キロメートルあるので的を射た謂いである。]
友はとある頂に見える一群の松に自分の注意を惹くべく腕へ手を觸れて、笑つて日本の歌を一つ歌つた。船がどんなに速く進航して居たか、此時始めて判つた。それは事代主神の社殿の上の、風つぽい山に立つて居る、美保關の有名な四本松が認められたからである。元は五本あつた。一本は風の爲に根こぎにされたので、出雲の或る歌よみが、後に殘つた四本に對して今自分の友が歌つた文句を詠んだのである。
[やぶちゃん注:ここの部分だけは「友」はセツらしい感じがする、いいシークエンスである。セツの唄声が聴こえる。それに優しく清々しい顏で耳を傾けるハーンの姿とともに……
「美保關の有名な四本松」「第十章 美保の關にて(一)」以下((二)以降はカテゴリー「小泉八雲」を)も参照されたい。
「美保關の有名な四本松」出雲地方の民謡「関の五本松」で知られる。これは美保関の港口の山にある五本松が松江の領主の行列の槍がつかえたという理由で一本切られたことを惜しんだ歌という。私には「島根県民謡「関の五本松」のおじさんの唄がよい。]
セキノゴホンマツ
イツポンキリヤシホン
アトハキラレヌ
メウトマツ
意味は『關の五本松のうち一本は伐られて四本殘つて居る。これはもう一本も伐つてはならぬ――夫歸の松であるから』である。それで美保關では、四本松の繪が描いてあつて其繪の上に蜘蛛程の小さな金文字で『セキノゴホンマツ』の歌が書いてある美しい盃や德利を賣つて居る。それは記念の品でご他にも其處の綺麗な店で買へる珍らしい綺麗な土產の品物がある。美保關神社の繪のついた瀨戶物や、事代主神が大きな鯛をそれが入りさうにない小さな籠へ入れようとして居る處を現はした煙草袋用の金屬の留金(とめがね)や、この神の笑顏を示した光澤のある燒物で出來て居る滑稽な面(めん)などである。それはこの惠比須卽ち事代主神は正直な勞働の、殊に漁師の、守り神で、『幸福な者が笑ふといつもその神樣は喜ばれる』と人の言ふその父神たる杵築の大神ほどには笑を好かれはせぬが、でも上機嫌な神樣だからである。
船が岬を――古事記の美穗を――過ぎると、美保關の港が我等の前に開けて、港內中央の島にある辨天神社が見え、その脚部を水に浸して居る半月形に建ち並んだ古風な家並が見え、遠くまで名のきこえて居るあの神社の大鳥居と御影石の唐獅子が見えた。すると直ぐに多勢の乘客が立上つて、顏を鳥居へ向けて神道祈念の柏手を始めた。
[やぶちゃん注:「古事記の美穗」の「美穗」はママ。事代主神の后は、三穂津姫(みほつひめ)と書くから問題ない。
「辨天神社」美保の関の弁天波止場の、常夜灯が設けられている、現在の「和田津見社」のことを指しているのであろう(グーグル・マップ・データ。後者のサイド・パネルのこれ)。]
自分は友に斯う言つた。
『舷門に雛つ子が一杯入つて居る籠が五十もある。だのにあの人達は船に災難が出來しませぬやうにと事代主神に祈願して居る』
[やぶちゃん注:既に述べた通り、事代主神は鶏を嫌い、同地では現在も氏子の人々は鶏肉や鶏卵を食さない。「第十章 美保の關にて(二) 附 折口信夫「鷄鳴と神樂と」(附注)」を参照のこと。]
友の答へるには、『では無くて自分の幸福を祈つて居るのだらう、尤も「金持になりますやうにと人が御祈をすると神樣達はたゞ笑つておいでだ」といふ話なんだが。然し美保關の大神に就いては面白い話がある。或る時非常に橫着な男が美保關へ參つて金持になりますやうにと御祈をした。するとその夜その男は夢に神樣を見た。神樣は笑つて自分の御草履の片方を脫いで、それを能く檢(み)て見よと仰せになつた。そこでその男は見て見ると、その草履は重い眞鍮で出來て居たが、踵に大きな穴が開(あ)いて居た。處で神樣の仰しやるには、「お前は働かずに金を得たいと思つて居る。わしは神ぢやが、決してなまけはせぬ。見よ、わしの草履は眞鍮で出來て居る。それで、非常に働いて隨分と步いたから、まるで摩り切れて居る」』
Ⅳ.
Early in the morning we were notified that the Oki-Saigo would start at precisely eight o'clock, and that we had better secure our tickets at once. The hotel-servant, according to Japanese custom, relieved us of all anxiety about baggage, etc., and bought our tickets: first-class fare, eighty sen. And after a hasty breakfast the hotel boat came under the window to take us away.
Warned by experience of the discomforts of European dress on Shimane steamers, I adopted Japanese costume and exchanged my shoes for sandals. Our boatmen sculled swiftly through the confusion of shipping and junkery; and as we cleared it I saw, far out in midstream, the joki waiting for us. Joki is a Japanese name for steam-vessel. The word had not yet impressed me as being capable of a sinister interpretation.
She seemed nearly as long as a harbor tug, though much more squabby; and she otherwise so much resembled the Lilliputian steamers of Lake Shinji, that I felt somewhat afraid of her, even for a trip of one hundred miles. But exterior inspection afforded no clue to the mystery of her inside. We reached her and climbed into her starboard through a small square hole. At once I found myself cramped in a heavily-roofed gangway, four feet high and two feet wide, and in the thick of a frightful squeeze,— passengers stifling in the effort to pull baggage three feet in diameter through the two-foot orifice. It was impossible to advance or retreat; and behind me the engine-room gratings were pouring wonderful heat into this infernal corridor. I had to wait with the back of my head pressed against the roof until, in some unimaginable way, all baggage and passengers had squashed and squeezed through. Then, reaching a doorway, I fell over a heap of sandals and geta, into the first-class cabin. It was pretty, with its polished woodwork and mirrors; it was surrounded by divans five inches wide; and in the centre it was nearly six feet high. Such altitude would have been a cause for comparative happiness, but that from various polished bars of brass extended across the ceiling all kinds
of small baggage, including two cages of singing-crickets (chon-gisu), had been carefully suspended. Furthermore the cabin was already extremely occupied: everybody, of course, on the floor, and nearly everybody lying at extreme length; and the heat struck me as being supernatural. Now they that go down to the sea in ships, out of Izumo and such places, for the purpose of doing business in great waters, are never supposed to stand up, but to squat in the ancient patient manner; and coast, or lake steamers are constructed with a view to render this attitude only possible. Observing an open door in the port side of the cabin, I picked my way over a tangle of bodies and limbs,— among them a pair of fairy legs belonging to a dancing-girl,— and found myself presently in another gangway, also roofed, and choked up to the roof with baskets of squirming eels. Exit there was none: so I climbed back over all the legs and tried the starboard gangway a second time. Even during that short interval, it had been half filled with baskets of unhappy chickens. But I made a reckless dash over them, in spite of frantic cacklings which hurt my soul, and succeeded in finding a way to the cabin-roof. It was entirely occupied by water-melons, except one corner, where there was a big coil of rope. I put melons inside of the rope, and sat upon them in the sun. It was not comfortable; but I thought that there I might have some chance for my life in case of a catastrophe, and I was sure that even the gods could give no help to those below. During the squeeze I had got separated from my companion, but I was afraid to make any attempt to find him. Forward I saw the roof of the second cabin crowded with third- class passengers squatting round a hibachi. To pass through them did not seem possible, and to retire would have involved the murder of either eels or chickens. Wherefore I sat upon the melons.
And the boat started, with a stunning scream. In another moment her funnel began to rain soot upon me,— for the so-called first-class cabin was well astern,— and then came small cinders mixed with the soot, and the cinders were occasionally red-hot. But I sat burning upon the water- melons for some time longer, trying to imagine a way of changing my position without committing another assault upon the chickens. Finally, I made a desperate endeavor to get to leeward of the volcano, and it was then for the first time that I began to learn the peculiarities of the joki. What I tried to sit on turned upside down, and what I tried to hold by instantly gave way, and always in the direction of overboard. Things clamped or rigidly braced to outward seeming proved, upon cautious examination, to be dangerously mobile; and things that, according to Occidental ideas, ought to have been movable, were fixed like the roots of the perpetual hills. In whatever direction a rope or stay could possibly have been stretched so as to make somebody unhappy, it was there. In the midst of these trials the frightful little craft began to swing, and the water-melons began to rush heavily to and fro, and I came to the conclusion that this joki had been planned and constructed by demons.
Which I stated to my friend. He had not only rejoined me quite unexpectedly, but had brought along with him one of the ship's boys to spread an awning above ourselves and the watermelons, so as to exclude cinders and sun.
'Oh, no!' he answered reproachfully 'She was designed and built at Hyōgo, and really she might have been made much worse. .. . '
'I beg your pardon,' I interrupted; 'I don't agree with you at all.'
'Well, you will see for yourself,' he persisted. 'Her hull is good steel, and her little engine is wonderful; she can make her hundred miles in five hours. She is not very comfortable, but she is very swift and strong.'
'I would rather be in a sampan,' I protested, 'if there were rough weather.'
'But she never goes to sea in rough weather. If it only looks as if there might possibly be some rough weather, she stays in port. Sometimes she waits a whole month. She never runs any risks.'
I could not feel sure of it. But I soon forgot all discomforts, even the discomfort of sitting upon water-melons, in the delight of the divine day and the magnificent view that opened wider and wider before us, as we rushed from the long frith into the Sea of Japan, following the Izumo coast. There was no fleck in the soft blue vastness above, not one flutter on the metallic smoothness of the all-reflecting sea; if our little steamer rocked, it was doubtless because she had been overloaded. To port, the Izumo hills were flying by, a long, wild procession of' broken shapes, sombre green, separating at intervals to form mysterious little bays,
with fishing hamlets hiding in them. Leagues away to starboard, the Hōki shore receded into the naked white horizon, an ever- diminishing streak of warm blue
edged with a thread-line of white, the gleam of a sand beach; and beyond it, in the centre, a vast shadowy pyramid loomed up into heaven,— the ghostly peak of
Daisen.
My companion touched my arm to call my attention to a group of pine-trees on the summit of a peak to port, and laughed and sang a Japanese song. How swiftly we had been travelling I then for the first time understood, for I recognized the four famous pines of Mionoseki, on the windy heights above the shrine of Koto-shiro-nushi-no-Kami. There used to be five trees: one was uprooted by a storm, and some Izumo poet wrote about the remaining four the words which my friend had sung: —
Seki no gohon matsu
Ippun kirya, shihon
Ato wa kirarenu
Miyoto matsu.
Which means: 'Of the five pines of Seki one has been cut, and four remain; and of these no one must now be cut,— they are wedded pairs.' And in Mionoseki there are sold beautiful little sake cups and sake bottles, upon which are pictures of the four pines, and above the pictures, in spidery text of gold, the verses,
'Seki no gohon matsu.' These are for keepsakes, and there are many other curious and pretty souvenirs to buy in those pretty shops; porcelains bearing the picture of the Mionoseki temple, and metal clasps for tobacco pouches representing Koto-shiro- nushi-no-Kami trying to put a big tai-fish into a basket too small for it, and funny masks of glazed earthenware representing the laughing face of the god. For a jovial god is this Ebisu, or Koto-shiro-nushi-no-Kami, patron of honest labor and especially of fishers, though less of a laughter-lover than his father, the Great Deity of Kitzuki, about whom 'tis said: 'Whenever the happy laugh, the God rejoices.'
We passed the Cape—the Miho of the Kojiki,— and the harbour of Mionoseki opened before us, showing its islanded shrine of Benten in the midst, and the crescent of quaint houses with their feet in the water, and the great torii and granite lions of the far-famed temple. Immediately a number of passengers rose to their feet, and, turning their faces toward the torii began to clap their hands in Shinto prayer.
I said to my friend: —
'There are fifty baskets full of chickens in the gangway; and yet these people are praying to Koto-shiro-nushi-no-Kami that nothing horrible may happen to this boat.'
'More likely,' he answered, 'they are praying for good-fortune; though there is a saying: "The gods only laugh when men pray to them for wealth." But of the Great Deity of Mionoseki there is a good story told. Once there was a very lazy man who went to Mionoseki and prayed to become rich. And the same night he saw the god in a dream; and the god laughed, and took off one of his own divine sandals, and told him to examine it. And the man saw that it was made of solid brass, but had a big hole worn through the sole of it. Then said the god: "You want to have money without working for it. I am a god; but I am never lazy. See! my sandals are of brass: yet I have worked and walked so much that they are quite worn out."'
本日 2015年11月29日
貞享4年10月25日
はグレゴリオ暦で
1687年11月29日
この日、松尾芭蕉は所謂、「笈の小文」の旅に発った――
以下、「笈の小文」の冒頭を電子化注する。底本は正字表記とするために、昭和三(一九二八)年日本古典全集刊行会刊正宗敦夫編纂・校訂「芭蕉全集 前篇」を国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像で視認した。当該底本では表題を『「卯辰紀行」(別名、芳野紀行)』とするが、私の好きな「笈の小文」で統一する。句の前後は一行空けを施し字配の一部を操作した。
本紀行「笈の小文」は貞享四年十月十五日(グレゴリオ暦一六八七年十一月二十九日)に江戸を出発して鳴海・勢田を経て、名古屋の蕉門の有力者で芭蕉が愛した門弟の一人で、坪井杜国を侘び住まいの知多の保美(ほび)村に訪ね(米穀商であったが、当時、空米(からまい)売買(米の先物取引)で罰せられてここに流謫されていた)、その後、郷里伊賀上野で越年、伊勢に詣でて、保美で約しておいたと思われる杜国とおち逢い(流謫の処罰は緩やかであった)、同道の上、吉野にて花を見、後、高野山・和歌浦・奈良・大坂・須磨・明石を経巡って、翌貞享五年(九月三十日に元禄に改元)の四月二十三日に京に着くまでの旅を指す。この内、
杜国訪問のシークエンスは
貞享4年11月10日から14日
で、これはグレゴリオ暦では
一六八七年12月14日から18日
に相当し、これは既に二〇一三年の十二月十二日附のブログ記事「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」(読まれんとされる方は分量膨大なれば御覚悟あれ)で電子化注を施している。
但し、よく理解されているとは思われないので附言しておくと、本紀行は芭蕉が直接纏めた紀行文ではない。元禄七(一六九四)年十月十二日の芭蕉の死後、十五年も経った宝永六(一七〇九)年に、大津の門人河井乙州(おとくに)が芭蕉から託されたと思われる多数の草稿断片類を恣意的に組み上げて編んで刊行したものである。なお、本紀行は「笈の小文」「卯辰(うたつ:底本標題では『バウシン』とルビする)紀行」「芳野紀行」以外にも「庚午(こうご)紀行」「大和紀行」など多く、しかも実は人口に膾炙している「笈の小文」は芭蕉が生前、別の撰集に予定していた名称でもあった。
「標題」の記載から判断するに、底本が準拠したのは芭蕉の最初の全集である文政一〇(一八二七)年)刊の古学庵仏兮・幻窓湖中編「俳諧一葉集」と判断されるが、一読されると分かる通り、現在、一般に通行している宝永版本の「笈の小文」とはかなり異なる。そこもまたお楽しみあれ。
*
笈の小文
百骸九竅(ひやくがいきうけう)の中に物あり、假りに名付て風羅坊(ふうらばう)と云ふ。眞(まこと)に羅(うすもの)のかぜに破れ易(やす)からん事をいふにやあらん。彼れ狂句を好こと久し、終に生涯の計(はか)り事となす。或時は倦んで放擲せんことを思ひ、或時は進んで人に勝たん事を誇り、是非胸中に鬪うて、是れが爲めに身安からず。暫く身を立てん事を願へども、是れが爲に支(ささ)へられ、暫く學んで愚を論さん事をおもへども、是れが爲に破られ、終に無能無藝にして唯だ此一筋に繫がる。西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の繪に於ける、利休の茶に於ける、其貫道する物は一なり。然かも風雅に於ける、造化に從ひて四時を友とす。見る處花に有らずと云ふ事なし、思ふ處月に有らずといふこと無し。思ひ花に有らざる時は夷狄に齊し、心花に有らざる時は鳥獸に類ひす。夷狄を出で鳥獸を離れて、造化に從ひ、造化に歸れとなり。
神無月の初、空定めなき氣色(けしき)、身は風葉の行方(ゆくへ)なき心地して、
旅人とわが名呼ばれん初しぐれ
また山茶花を宿々にして
岩城の住(じゆう)長太郎と云ふ者、 此脇を付けて、其角亭に於いて關送りせんともてなす。
時は秋吉野をこめん旅の苞(つと)
此句は、露沾公より下し賜はらせ侍りけるを、餞(はなむけ)の初として、舊友親疎、門人等、或るは詩歌文章をもて訪ひ、或は草鞋の料を包て志を見す。かの三月の糧(かて)を集むるに力を入れず。紙衣(かみこ)、綿子(ぬのこ)など云ふ物、帽子、韈(したうづ)やうの物、心心に送り集(つど)ひて、霜雪の寒苦を厭ふに心無し。或るは小舟を泛べ、別墅に設けし、草庵に酒肴携へ來て行方を祝し、名殘を惜みなどするこそ、故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覺えられけれ。
抑も道の日記といふものは、紀氏、長明、阿佛の尼の、文を奮ひ情を盡してより、餘は皆おもかげ似通ひて、其糟粕を改むる事能はず。まして淺智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降り晝より霽れて、其處に松あり、彼處に何と云ふ川流れたりなど云ふこと、誰れ誰れも云ふべく覺え侍れども、黃、奇、蘇、新の類にあらずば云ふこと莫かれ。されども其處其處の風景心に殘り、山館、野亭の苦しき愁も且つは噺の種となり、風雲の便りとも思ひなして、忘れぬ處處、跡(あと)や先やと書き集め侍るに、猶醉へるものの※語(まうご)に齊(ひと)しく、寢ねる人の讒言(たはごと)する類ひに見なして、人また妄聽(ばうちやう)せよ。
[やぶちゃん字注:「※」「忄」+「孟」。]
[やぶちゃん注:「百骸九竅」「ひやくがいきうけう(ひゃくがいきゅゆきょう)」は「荘子」「斉物論篇」にある、「百骸九竅六藏、賅而存焉」(百骸・九竅・六藏、賅(そな)はりて存す)に基づき、百の骨節と九つの穴(目・耳・鼻・口・肛門・尿道)と六つの臓器(肝・心・脾・肺・腎・心包)で、即ち、物理的な人体を指すが、ここは一箇の芭蕉の身体及び身体性を指す。
「物」芭蕉一箇身体に内在する「心」を客体化して表現したもの。
「風羅坊」「ふうらばう(ふうらぼう)」。「羅」は「うすもの」で、風で破れてしまうようなごく薄い巾(きれ)。文字通り、芭蕉のシンボルたるバショウ(単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo)の薄い葉を洒落た、芭蕉の別号めいた自称。
「狂句」俳諧。雅な堂上連歌に対して俳諧が本来は滑稽を旨とするところから俳諧を卑下して自称した語。川柳の別称としてのそれは江戸後期以降のこと。
「或時は倦んで放擲せんことを思ひ」「倦(う)んで」「放擲(はうてき)」。ある時は飽きあきしてしまい俳諧の道など捨て去ろうということまでも思い。「新潮日本古典集成」の富山奏校注「芭蕉文集」(昭和五三(一九七八)年刊)によれば、これは寛文六(一六六六)年四月二十五日満二十三の時、伊賀上野にあった芭蕉は主君新七郎良忠(蝉吟)の死去(享年二十五)に遭って致仕した後、『寛文十二年専門の俳諧師となるべく江戸下向(げこう)するまでの間、伊賀と京都を』彷徨していた『当時の事実をさす』とあされ、同書年譜には、この約六年間は、『俳諧の製作を続けながらも、一時は京との禅寺に入って修行し、また漢詩文の勉学にも勉めたようであ』り、『将来の立身の方針が定まらず、迷っていた時期である』とされる。事実、このまさに六年の間の、若き日の芭蕉の青春彷徨の時期は殆んどが不明である。
「或時は進んで人に勝たん事を誇り」延宝八(一六八〇)年に突如、三十五の若さで深川(後の芭蕉庵)に隠棲までの約七年間の有様を言う。この間、芭蕉は日本橋界隈で典型的な職業俳諧師である点取俳諧の宗匠として俗俳と伍を成していた。
是非胸中にたゝかふて:<ぜひきょうちゅうにたたこうて>と読む。理非曲直に思い煩ってああしよう、こうしようなどと思い悩む、の意 。
「しばらく身を立むことをねがへども」「しばらく」は「一時は」の意。ここ以下は、前の一文の「或時は……或時は……」の箇所と対偶する。即ち、伊賀上野にあって藤堂家に仕えていた頃には、武士として主家に取り立てられるといった望みなども抱いていたか。現在では芭蕉は農民の出自であったとする説が有力である。
「是れが爲に支(ささ)へられ」通行本では「支(ささ)へられ」は「さへられ」と読んでいる。「支障」のように「支」には国訓で、「つかえ」、突き当たって抑えられること・差支え・差し障りの謂いがあるから、問題はない。「是れ」も以下の「是」「此」も無論総て、俳諧への執着心を指す。
「造化」芭蕉の場合、道家思想のそのニュアンスが強い。所謂、万物を創造する宇宙的な規模の不可知の絶対的真理としての自然という摂理である。
「四時」従来、「しいじ」と読むことになっている。四季の玄妙なる移り変わり。
「思ひ花に有らざる時は夷狄に齊し、心花に有らざる時は鳥獸に類ひす」冒頭の「思ひ」通行本では「像(かたち)」である。本篇冒頭の身体(かたち)と「物」の関係の鏡像関係としては「像」と「心」の方が腑に落ちるように一見見えるが、ここは寧ろ、「心」「心象」と「対象」との瞬時の共時性(これはすこぶる老荘的である)を問題にしているのであって、「像」は対象に対する「心象」の謂いであり外的対象物への「思ひ」が即「心」であることが、この方が判り易いと思う。音の律の快さとしての「像(かたち)」よりも、私は「思ひ」の純朴さの方を採りたい。
「空定めなき氣色」この出立前後、季節的にも天候不順であったというより、以下の絶唱の名句の孤愁をより昂めるための芭蕉好みの常套的な文学的修辞である。ここからは、其角亭で行われた本旅の餞別会のシークエンスとなる。これは「続虚栗」の前書が正しいとすれば旅立ちに先立つ十日前の十月十一日のことであった。
「風葉の行方なき心地して」「風葉」は「ふうえふ(ふうよう)」。富山氏は前掲書頭注で「古今和歌集」の「秋歌下」の一首(二百八十六番歌)で「題しらず」「読人知らず」の、
秋風にあへず散りぬるもみぢ葉のゆくへさだめぬ我ぞかなしき
『などの歌の感懐』に基づくものとされる。
「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」本句は既に二〇一三年十一月十三日の記事で詳細な評釈を附しているのでそちらも参照されたい。以下は、同餞別会で興行された十人の世吉(よよし)の発句と由之(ゆうし:後注参照)の脇句で、通行の「笈の小文」では、
旅人と我(わが)名よばれん初しぐれ
の表記で載り、また、「俳諧 千鳥掛」(知足編・正徳二(一七一二)年序)には、
はやこなたへとうふ露の、むぐらの
宿(やど)はうれたくとも、袖をか
たしきて、御とまりあれやたび人
たび人と我名よばれむはつしぐれ
という前書と表記で載る。参照した中村俊定校注の岩波文庫版「芭蕉俳句集」によれば、この後者の前書は、『謡曲「梅ケ枝」の一節に譜点を付けたもの』とある。謡曲「梅枝(うめがえ)」は世阿弥作で、管弦の役争いで討たれた楽人富士の妻の霊が津の国住吉を訪れた僧に嘆きを語る夢幻能である。前掲書の富山氏の頭注には、この前書には真蹟があり、『それは、「初しぐれ」の語に託する和歌的情緒と共に、この旅立の意識が伝統的な旅の風雅への門出であることを』示すと解説されている。まさにこの一句はまさしく、芭蕉孤高の覚悟のプロパガンダであったと私は詠む。なお、他に「夏の月」(一定編・宝永二(一七〇五)年)では「故郷に趣る道中の吟」という前書もある。
「また山茶花を宿々にして」「岩城の住」「長太郎と云ふ者」磐城国小奈浜(おなはま)出身の、内藤家家臣で蕉門であった井手由之。前掲書の富山氏の頭注によれば、この「また」とは、先行する「野ざらし紀行」に載る、
狂句木枯の身は竹齋に似たる哉
に野水(やすい)が、
誰(た)そやとばしる笠の山茶花
と脇句を付けたのを踏まえたものである、とする。
「關送り」「せきおくり」。送別。送別の宴。
「時は秋吉野をこめん旅の苞(つと)」「此句は、露沾公より下し賜はらせ侍りける」「露沾」は「ろせん」と読む。内藤露沾(?~享保一八(一七三八)年)は磐城平藩七万石城主内藤右京大夫義泰(風虎)の次男義英。二十八の時にお家騒動で家老の讒言によって貶められ、麻布六本木の別邸で風流の日々を送って、部屋住みのまま生涯を終えた。蕉門中で最も身分の高い人であった(ここは伊東洋氏の「芭蕉DB」の「内藤露沾」に拠った)。先の由之はこの内藤家の家臣である。これが実は本来句形で、これは九月に行われた本旅の餞別句であった。通行本「笈の小文」では、
時は冬吉野をこめん旅のつと
と変えられているが、これは前掲書の富山氏の頭注によれば、『「神無月(かんなづき)」で始まるこの文中に配する際、芭蕉が季を合わせるために「冬」に改めたもの』とある。この記載から判るように、乙国によって私的に創り上げられた本篇の原型は、確かに芭蕉が推敲していたことが認められていることが判明する。但し、それらの芭蕉の原草稿類は残ってはいないのである。「苞」は、原義は藁などを束ねた中に壊れやすい或いは傷み易いものを入れて包みとした藁苞(わらづと)のことで、そこからそこに入れて人に贈る土地の産物、旅の土産の意となったもの。意味は――旅立つとあなたが言う……今は秋……しかしまた来春ににはお戻り遊ばされるとのことなれば……どうか、旅の終りには花の吉野に遊ばれ、桜の句をものされ、それを手土産として、お待ち申しておりましょう――である。
「かの三月の糧(かて)を集むるに力を入れず」ここも「荘子」の「逍遙遊」にある「適百里者、宿舂糧、適千里者、三月聚糧」(百里を適(ゆ)く者は、宿に糧(りやう)を舂(つ)き、千里を適く者は、三月(みつき)糧を聚(あつ)む)」に基づく。旅立の事前準備の苦労を指す語であるが、それに「力を入れず」とあるのは、文中にある通り、それをまさに門人やパトロンらが難なく果たして呉れたからであった。
「紙衣(かみこ)」紙で仕立てた衣服。厚手の和紙に柿渋を塗って乾かし、揉み柔らげたもので仕立てた防寒具。本来は僧が用いたが、後に一般に広く普及した。「かみぎぬ」「紙子」とも読み、書く。
「綿子(ぬのこ)」通行本では「綿子(わたこ)」と訓じている(「わたこ」が普通)。真綿を布などで包まずにそのまま縫い上げた防寒具。現行の「綿入れ」のことも指す。
「帽子」富山氏の頭注に、『布で作った円形の頭巾(ずきん)』とある。
「韈(したうづ)」現代仮名遣では「しとうず」と読む。「下沓」(通行「笈の小文」はこれで表記)「襪」とも書く。「したぐつ」の転訛で、平安以後に発生した一種の足袋(たび)。指の部分は分かれておおらず、小鉤(こはぜ)もなく、紐で結ぶタイプのもの。
「故ある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覺えられけれ」「首途」は通行の「笈の小文」は「門出」。ここも洒落のめして見えるが、実はおそらく「物めかしく」(ものものしく・いわくありげな)は「物語めいて」であり、自身を「故ある人」、謡曲の貴種流離の主人公に暗に擬える意識が働いてもいるように私には読める。
「抑も」通行の「笈の小文」は「そもそも」であるが、「そも」と訓じておく。その方がすっきりして、それこそ「物めかしく」ないくてよい。
「日記」「にき」と訓じておく。
「紀氏」老婆心乍ら、ここのみ注しておく。「土佐日記」の紀貫之。
「糟粕を改むる事能はず」旧態然として新境地を開拓しようとする意識が全く示されていない。
「淺智短才の筆に及べくもあらず」前で偉そうなことを言ったので、ここは自身を卑下して言ったのである。
「彼處」「かしこ」。
「誰れ誰れ」「たれたれ」と濁らない。
「黃、奇、蘇、新の類」「類」は「たぐひ(たぐい)」。「黃」は北宋詩人で「詩書画三絶」と讃えられる黄庭堅を、「蘇」は同じく北宋のの「唐宋八大家」の一人蘇軾(東坡)を指す。南宋の魏慶之編んいなる著名な詩話「詩人玉屑(しじんぎょくせつ)」の中に、「蘇子瞻以新、黃魯直以奇」(蘇子瞻(そしせん:黄庭堅の字(あざな))は新(しん)を以つてし、黄魯直(蘇東坡の字)は奇を以つてす」(「奇」「新」は奇警と斬新の謂い)それぞれ、と賞揚していることを受けた表現。
「其處其處」「そのところそのところ」と訓じておく。通行の「笈の小文」は「その所々」。
「山館・野亭の苦しき愁」「さんくわん(さんかん)・やていのくるしきうれひ」と読む。山家(やまが)や野中の木賃宿に草枕することの旅の苦しい思い。ここ以下は「東関紀行」の冒頭に、
*
終に十餘りの日數を經て、鎌倉にくだり著きし間、或は山館野亭の夜のとまり、或は海邊水流の幽(かすか)なる砌(みぎり)に至るごとに、目に立つ所々、心とまるふしぶしを書き置きて、忘れず忍ぶ人もあらば、自(おのづか)ら後のかたみにもなれとてなり。
*
とあるのをインスパイアしたものである。
「風雲の便り」旅寝のそれなりの消息。
「※語(まうご)」「※」「忄」+「孟」。この漢字は「廣漢和辭典」にも載らないので不詳。通行の「笈の小文」は「妄語」。「妄語」は本来は仏教用語で「五悪」或いは「十悪」の一つとする、嘘・偽りを言うことであるが、ここは謙辞で、下らぬ意味もない戯れ言の謂い。しかし現行のそれは以下の「妄聽」(無意味な下賤の詞として適当に聴き流すこと)と「妄」が同字で生理的には嫌な感じがする。]
三
出雲の松江から伯耆の境へは汽船でたゞの二時間の旅である。境は島根縣の一番の海港である。不快な臭氣に充ちた見つとも無い小さな町で、たゞ港としてのみ存在して居るのである。何の工業も無く、商店は殆んど一軒も無く、貧小な、そして興味は更に貧小な神社が一つあるだけである。その主な建物は倉庫、水夫の遊び場處、それから四五軒の大きな汚い宿屋で、その宿屋には大阪行き、馬關行き、濱田行き、新潟行き、いろんな他の港行きの汽船を待つて居る客がいつも一杯に込んで居る。この海岸では汽船は何處へも規則正しくは通はぬ。汽船の持主は時間通りといふ事に全然何等の營業的價値を置いて居らぬから、客はこんな事があらうとは到底も思はなかつた程長く、いつも待たなければならぬ。それで宿屋は喜んで居る。
だがその港は――出雲の高い陸と伯耆の低い海岸との間の長い海門にあつて――見事なものである。風から完全に蔽遮されて居て、殆んどどんな大きな汽船でもはいれる位に深い。船は家屋に接して碇泊が出來るので、港には和船から最近建造の蒸汽飛脚船に至るまでのあらゆる種類の船がいつも輻湊して居る。
友と自分とは幸にも一番好い宿屋の裏座敷を占めることが出來た。殆んど總ての日本の建物で、裏座敷が一番好い部屋である。境ではその上に、賑やかな埠頭と、その後ろに出雲の山々とが空を背に綠の巨濤の如く起伏して居て、日に光つた入江全體を見渡す更なる便宜がある。見て面白いものが澤山あつた。あらゆる種類の蒸汽船や帆船が宿屋の前に二た列び三列びに重なつて投錨して居て、裸體の船人足がその獨得な方法で以て荷積したり、荷揚したりして居た。そんな男は伯耆や出雲の一等强壯な百姓の中から集めるので、身體の運動每にその鳶色の背中に筋肉が波打つ程の實際立派な身體をしたものも居た。見たところ十五六歲の男の子が――仕事を習つて居るので、まだ重荷を擔ぐほどには丈夫で無い見習が――幾人か手傳をして居た。殆んどその皆んなが、血管破裂の豫防に、紺布の幅廣い紐を腓(こむら)に捲付けて居るのに自分は氣が付いた。そして皆んな働きながら歌を歌つた。交る交るにやる妙な合唱が一つあつて、船艙に居る男が(英語のホオアヱイ! に當る)『ドツコイ、ドツコイ』と歌つて合圖をすると、艙口に居る男は、下から揚つて來る荷物が見える度每に、問に合せの文句でそれに應へるのであつた。
ドツコイ、ドツコイ!
女子の子だ。
ドツコイ、ドツコイ!
親だよ、親だよ。
ドツコイ、ドツコイ!
チヨイチヨイだ、チヨイチヨイだ。
ドツコイ、ドツコイ!
松江だ、松江だ。
ドツコイ、ドツコイ!
此奴も米子(よなご)だ。云々。
だが此歌は輕い早い仕事に歌ふものであつた。重い袋や樽を他の男よも强い壯な男の肩へ載せるといふ、もつと苦しいもつと遲い勞働には、前のとは餘程異つた歌が伴なふのであつた。
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヨイヤサアアノドツコイシ!
いつも三人で重荷を持上るのである。最初のヤンヨイで皆んな屈む。二度目ので三人ともそれへ手をかける。三度目のは用意が出來たといふつもり。四度目のでその重荷が地を離れる。そしてヨイヤサアアノドツコイシといふ長い掛聲で、それを受取らうと待構へて居る逞しい肩の上へそれが落されるのであつた。
その勞働者の中に能く笑ふ裸體の男の子が一人居た。その八かましい騷ぎの中でも、如何にも愉快げに鳴り響いてきこえる程の、その宿屋で評判になつて居るくらゐの、立派な中音部(ゴントラルト)の聲を有つた子であつた。お客の一人の或る若い女が二階の緣側へ見に出て來て、『あの子の聲は赤い聲だ』と言つた。それを聞いて誰も彼も笑つた。深紅色【譯者註】と喇叭の音とに就いて或る有名な話がある。光と音との性質を今ほど知つて居なかつた時分にその話が可笑しく思へた程には今は可笑しくは思はれぬ。その話を此時想ひ出したけれども、この場合自分はその評語を非常に表現的な言葉だと思つた。
譯者註。ロツクの『人間の悟性』第三
卷第四章第十一節に、『深紅色はどん
なものかとその友人が尋ねたら、その
盲人は喇叭の音のやうですと答へた』
とある。
隱岐通ひの汽船はその日の午後に着いた。埠頭に近寄ることが出來なかつたので、自分は望遠鏡でその船尾の一瞬時の瞥見を得ただけであつた。金の英字で OKI―SAIGO といふ名が讀めた。どの位の大きさかといふ考へを得ないうちに、長崎からの大きな黑い汽船が間へ辷り込んで、丁度それを遮つて投錨した。
自分は日が暮れて皆んなが仕事を止める迄、荷積や荷揚を觀たり、赤い聲の子が歌ふ歌を聽いたりして居た。それから今度はその長崎汽船を觀て見た。幾艘か他の船が出港したため宿の前の埠頭へ寄つて來て、二階の緣側の眞下に居たのである。その船長乘組員はどんな事にも急いで居るとは見えなかつた。みな一緖に前甲板に坐り込んで、其處へ提燈の光りで御馳走が並べられた。藝者が船へ上がつて皆んなと一緖に御馳走を食べて、三味線の音に合せて歌を唄つたり、皆んなと拳を打つたりした。夜遲くまで御馳走と遊興は續いた。そして驚く許りの多量の酒を飮んだのであつたが、亂暴もしなければ騷動もしなかつた。だが酒は飮料のうちで一番眠氣を誘ふものである。だから夜中になると、甲板に居殘つて居るものは三人しか無かつた。そのうちの一人は酒は全く飮まなかつたが、いつまでも物を食ひたがつて居た。その男に仕合な事にはモチの箱を提げて夜商ひのモチ屋が船へ上がつて來た。モチといふは米の粉で造つて地產の砂糖で甘味を附けたケエキである。空腹なその男はそれを皆んな買つて、それしか無いのかと餅屋を恨んだほどであつたが、それでも少しその餅を食へと仲間の者へ差出した。すると初めに勸められた男がまあこんな風な返事をした。
『わしやちや、餅にや、此世界では用はねや。酒さへ、この世にありや、他(だか)にや何んにも要らぬわ』
もう一人の男は斯う言つた。
『わしやちには、女子(をなご)がこの浮世の一番えいもんだ。餅や酒にや、この世の用はわしや有たぬわ』
が、その餅を皆んな平らげてしまつてから、空腹であつた男は餅屋の方へ向いて斯う言つた。
『あ〻餅屋さん。わしやちや、女子や酒にやこの世の用は有たぬわ。餅よりえいもな、この憂世にやあらせんわ』
[やぶちゃん注:「出雲の松江から伯耆の境へは汽船でたゞの二時間の旅である」虚構。既に述べた通り、ハーンは既に熊本に移つており、起点は松江でなく、しかも、隠岐へ向かう前に松江を訪問もしてはいない。『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』には、『八月、赴任地熊本より、博多、神戸、京都、奈良、門司、境、隠岐、美保の関、福山、尾道に遊ぶ』とあるが、これでは地理がめちゃくちゃでルートが判らぬ。どうも実際、他の論文を見ても、この大周遊旅行、大周遊の割には、現在も、そのルートがよく判明していないような印象を強く持つた。判かつているとおつしゃる方は、是非、御教授あられたい。いろいろ推測するに、この時は少なくとも京都を見た後、丹後を経て、鳥取方面から境港へ入つたように私には思われる。
「境は島根縣の一番の海港である」誤り。この時、既に境港は鳥取県である(「既に」と言つたのは以前にも述べたが、実は鳥取県が島根県であつた時期が存在するからである。明治九(一八七六)年八月二十一日に、実は、鳥取県は島根県に併合された(同時に鳥取に支庁が設置された)が、五年後の明治一四(一八八一)年九月十二日に当時の島根県の内の旧因幡国八郡、及び、旧伯耆国六郡が鳥取県として分立、再置されている)。大谷氏の「あとがき」には、『第三節に『境は島根縣の』とあるは『鳥取縣の』とあるべきであるが、原文の儘に訳して置いた』と特に注意書が記されてある。しかし、そこには続けて、『なほ、一二譯者として述べて置いた方がよからうと思ふことは、譯文の途中に譯者註として書いて置いた』とある。失礼乍ら、大谷氏はこの件に関しては本文に訳注を附していない。ということは、大谷氏は「境は島根縣の一番の海港である」というハーンの誤りを重大な誤認として見做していないことを意味する。かつて島根に吸収された鳥取県人としては、これ、とんでもない誤り(と私は思うのである)を、大谷氏は『譯者として述べて置いた方がよからうと』は思わない、下らぬ瑣末なことと考えておられたということになる。鳥取県民の方々の名誉のため、敢えて注しておきたい。
「貧小な神社が一つあるだけ」境港市栄町(えいまち)にある大港(おおみなと)神社のことかと思われる(グーグル・マップ・データ)。海上安全の神として知られ、江戸時代には「八幡宮」と呼ばれて諸国の船主から信仰を集めた由緒ある神社である。ハーンの書きようは、この部分では、如何にも、ひどいが、ウィキの「境港市」によれば、『近年、環日本海時代の一躍を担う国際貿易港としての整備拡充が着実に進んでいる』とある。
「馬關」山口県下関。下関の古称であつた「赤間關(あかまがせき)」を「赤馬關」とも書いたことに由来する。
「濱田」現在の島根県浜田市長浜町にある浜田港(グーグル・マップ・データ)。古くから国内のみならず、海外との交易も盛んな港であつた。
「蒸汽飛脚船」原文は“steam packets”。確かに、“packet”は、狭義には「(昔の河川・沿岸の)郵便船」の意味だが、ここでは明らかに複数形で、この訳語は何だか、びつくりするほど、おかしい感じを受ける。これは単に中・小型の「貨物船」或いは「定期船」の謂いであり、複数形であるからして、単純に「蒸気船ども」と訳すべきところである。
「輻湊」「ふくそう」と読む。「輻輳」の方が現行では一般的な表記である。車の輻(や:スポーク)が轂(こしき:車軸の端。ハブ。ホイールハブ)に集まる意で、四方から寄り集まることを言う。
「友と自分とは」既に注した通り、「友」とは、実は、妻セツである。
「血管破裂の豫防に、紺布の幅廣い紐を腓(こむら)に捲付けて居る」「腓」は言わずもがなであるが、脛(すね)の後背側の柔らかい部分。ふくらはぎのことであるが、これはどうも、活動時に脛を保護したり、下肢の鬱血や脚の疲労、「腓(こむら)返り」などを防ぐための脚絆(きゃはん)のことを指しているように思われる。
「英語のホオアヱイ!」原文“yo-heave-ho”。間投詞で、主に古くからの船乗りの掛け声で、錨などを巻き上げる際に、水夫がかけた掛け声。「よいとまけ!」「えんやこら!」に相当する。発音記号では【jóuhí vhóu】で、聴くと、アメリカ人のネイティヴの発音を聴くに、「イォウー・ヒー・ヴァウ」と聴こえ、このカタカナ音写は原音を伝えていないように思われる。
「ドツコイ、ドツコイ!/女子の子だ。/ドツコイ、ドツコイ!/親だよ、親だよ。ドツコイ、ドツコイ!/チヨイチヨイだ、チヨイチヨイだ。/ドツコイ、ドツコイ!/松江だ、松江だ。/ドツコイ、ドツコイ!/此奴も米子(よなご)だ。云々」訳者は省略しているが、ハーンは、この労働歌に、
“'Dokoe, dokoe!' 'This is only a woman's baby' (a very small package). 'Dokoe, dokoe!' 'This is the daddy, this is the daddy' (a big package). 'Dokoe, dokoe!' ''Tis very small, very small!' 'Dokoe, dokoe!' 'This is for Matsue, this is for Matsue!' 'Dokoe, dokoe!' 'This is for Koetsumo of Yonago,' etc.”
という詳細な注を附している。訳すなら、
*
「ドッコエ、ドッコエ!」
「こいつぁ、小(ち)んまい女(あま)の赤子(あかご)だけじゃ」(如何にも小さな軽い荷の比喩)。
「ドッコエ、ドッコエ!」
「こいつは親父、こいつぁ、これ、親父(おやじ)どん、じゃ」(大きな重い荷の比喩)。
「ドッコエ、ドッコエ!」
「こりやぁ、ほんまに小んまい、えろぉ、ちんまい!」「ドッコエ、ドッコエ!」こいつぁ、松江じゃ、松江行きじゃ!
「ドッコエ、ドッコエ!」
「こいつぁ、米子じゃ、米子行きじゃ!」云々。
*
といった感じであろう。これは訳としては当然、附されるべきものであると思う。私などは、初読時、何か性的な意味でも隠れているのではないかと勘繰ってしまったぐらいであるから。
「ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヨイヤサアアノドツコイシ!」「ヤンヨイ」のかけ声は特異で聴いたことがない。識者の御教授を乞う。
「中音部(ゴントラルト)」原文は “contralto” で、これは音写するなら「コントラァルト」で、音写の「ゴ」はおかしい(誤植か)。音楽用語の「コントラルト」で、alto より低い音域を指し、通常は女性の最低音、及び、その女性歌手を指すが、ここは少年の声なので、問題ない。これは “ contra‐+ alto ” で、“contra‐” は、「普通の低音よりも一~二オクターブ低い」という意味である。
「お客の一人の或る若い女が二階の緣側へ見に出て來て、『あの子の聲は赤い聲だ』と言つた」これは実は、ほぼ、間違いなく、妻のセツであると、私は信じて疑わない。
「その話を此時想ひ出したけれども、この場合自分はその評語を非常に表現的な言葉だと思つた」これは「非常に表現力が豊かで、実に面白い形容であると感じた。」と褒めているのである。さりげなく、隠蔽して見せない妻セツを褒めるハーンが。いじらしいではないか。
「ロツクの『人間の悟性』第三卷第四章第十一節に、『深紅色はどんなものかとその友人が尋ねたら、その盲人は喇叭の音のやうですと答へた』とある」「近代イギリス経験論の父」と呼ばれる哲学者ジョン・ロック(John Locke 一六三二年~一七〇四年)の主著である“ An Essay concerning Human Understanding ”(「人間悟性論」「人間知性論」などと邦訳される)。二十年かけて執筆し、一六八九年に出版された。私は未読で所持しないので当該箇所を引用出来ないが、これは音に色を感じており、所謂、「共感覚」=「シナスタジア(synesthesia)」の記載とも読める。私のかつての教え子には、発音や文字に強い共感覚を持つ女性がおり、以前から非常に関心を持っている現象である。
「みな一緖に前甲板に坐り込んで、其處へ提燈の光りで御馳走が並べられた。……」以下、ちょっと不思議なのは、五月蠅いのが嫌いなハーンがこれに不快を示さずに、寧ろ、こっそり一部始終を冷静に観察している点である。一つは、芸者が歌や踊りを披露し、拳を打ったりはしたものの、「亂暴もしなければ騷動もしなかつた」とあるぐらい、実は喧しいものではなかったからであろうか? 或いは、音に敏感なハーンが、意識を邪魔され、ちょっと不快には思ったものの、『ここは一つ、落ち着かない代わりに、何もかもルポルタージュしてやれ!』と思ったものかも知れない。
「わしやちや」これは普通なら「儂(わし)にゃあ」とか「俺にゃ」と訳すところだ。しかし、私は、今回、ここで一読、ピンと来た!――これは、富山弁だ!――とピンと来たのだ。私は中学・高校の六年間を富山県高岡市伏木で過ごした。そこでは「俺なんかは」と言う時、「わしゃちゃ」と言った(私は遂にそういう謂い方は身につかなかったが)。調べると、出雲方言に「俺たち」を「おらだんちゃ」とあり、これは「おら」を「儂(わし)」に代えると、「わしだんちや」は「わしらちや」に転ずるようにも見え、実際の発音では「わしゃらちゃ」に通ずるように感じた。]
Ⅲ.
From Matsue in Izumo to Sakai in Hōki is a trip of barely two hours by steamer. Sakai is the chief seaport of Shimane-Ken. It is an ugly little town, full of unpleasant smells; it exists only as a port; it has no industries, scarcely any shops, and only one Shinto temple of small dimensions and smaller interest. Its principal buildings are warehouses, pleasure resorts for sailors, and a few large dingy hotels, which are always overcrowded with guests waiting for steamers to Ōsaka, to Bakkan, to Hamada, to Niigata, and various other ports. On this coast no steamers run regularly anywhere; their owners attach no business value whatever to punctuality, and guests have usually to wait for a much longer time than they could possibly have expected, and the hotels are glad.
But the harbor is beautiful,— a long frith between the high land of Izumo and the low coast of Hōki. It is perfectly sheltered from storms, and deep enough to admit all but the largest steamers. The ships can lie close to the houses, and the harbor is nearly always thronged with all sorts of craft, from junks to steam packets of the latest construction.
My friend and I were lucky enough to secure back rooms at the best hotel. Back rooms are the best in nearly all Japanese buildings: at Sakai they have the additional advantage of overlooking the busy wharves and the whole luminous bay, beyond which the Izumo hills undulate in huge green billows against the sky. There was much to see and to be amused at. Steamers and sailing craft of all sorts were lying two and three deep before the hotel, and the naked dock laborers were loading and unloading in their own peculiar way. These men are recruited from among the strongest peasantry of Hōki and of Izumo, and some were really fine men, over whose brown backs the muscles rippled at every movement. They were assisted by boys of fifteen or sixteen apparently,— apprentices learning the work, but not yet strong enough to bear heavy burdens. I noticed that nearly all had bands of blue cloth bound about their calves to keep the veins from bursting. And all sang as they worked. There was one curious alternate chorus, in which the men in the hold gave the signal by chanting 'dokoe, dokoe!' (haul away!) and those at the hatch responded by improvisations on the appearance of each package as it ascended: —
Dokoe, dokoe!
Onnago no ko da.
Dokoe, dokoe!
Oya dayo, oya dayo.
Dokoe, dokoel
Choi-choi da, choi-choi da.
Dokoe, dokoe!
Matsue da, Matsue da.
Dokoe, dokoe!
Koetsumo Yonago da, [20] etc.
But this chant was for light quick work. A very different chant accompanied the more painful and slower labor of loading heavy sacks and barrels upon the shoulders of the stronger men:—
Yan-yui!
Yan-yui!
Yan-yui!
Yan-yui!
Yoi-ya-sa-a-a-no-do-koe-shi! [3]
Three men always lifted the weight. At the first yan-yui all stooped; at the second all took hold; the third signified ready; at the fourth the weight rose from the ground; and with the long cry of yoiyasa no dokoeshi it was dropped on the brawny shoulder waiting to receive it.
Among the workers was a naked laughing boy, with a fine contralto that rang out so merrily through all the din as to create something of a sensation in the hotel. A young woman, one of the guests, came out upon the balcony to look, and exclaimed: 'That boy's voice is RED',— whereat everybody smiled. Under the circumstances I thought the observation very expressive, although it recalled a certain famous story about scarlet and the sound of a trumpet, which does not seem nearly so funny now as it did at a time when we knew less about the nature of light and sound.
The Oki steamer arrived the same afternoon, but she could not approach the wharf, and I could only obtain a momentary glimpse of her stern through a telescope, with which I read the name, in English letters of gold,— OKI-SARGO. Before I could obtain any idea of her dimensions, a huge black steamer from Nagasaki glided between, and moored right in the way.
I watched the loading and unloading, and listened to the song of the boy with the red voice, until sunset, when all quit work; and after that I watched the Nagasaki steamer. She had made her way to our wharf as the other vessels moved out, and lay directly under the balcony. The captain and crew did not appear to be in a hurry about anything. They all squatted down together on the foredeck, where a feast was spread for them by lantern-light. Dancing-girls climbed on board and feasted with them, and sang to the sound of the samisen, and played with them the game of ken. Late into the night the feasting and the fun continued; and although an alarming quantity of sake was consumed, there was no roughness or boisterousness. But sake is the most soporific of wines; and by midnight only three of the men remained on deck. One of these had not taken any sake at all, but still desired to eat. Happily for him there climbed on board a night-walking mochiya with a box of mochi, which are cakes of rice-flour sweetened with native sugar. The hungry one bought all, and reproached the mochiya because there were no more, and offered, nevertheless, to share the mochi with his comrades. Whereupon the first to whom the offer was made answered somewhat after this manner: —
'I-your-servant mochi-for this-world-in no-use-have. Sake alone this- life-in if-there-be, nothing-beside-desirable-is.
'For me-your-servant,' spake the other, 'Woman this-fleeting-life-in the-supreme-thing is; mochi-or-sake-for earthly-use have-I-none.'
But, having made all the mochi to disappear, he that had been hungry turned himself to the mochiya, and said:—
'O Mochiya San, I-your-servant Woman-or-sake-for earthly-requirement have-none. Mochi-than things better this-life-of-sorrow-in existence-have-not !'
2
'Dokoe, dokoe!' 'This is only a woman's baby' (a very small package). 'Dokoe, dokoe!' 'This is the daddy, this is the daddy' (a big package). 'Dokoe, dokoe!' ''Tis very small, very small!' 'Dokoe, dokoe!' 'This is for Matsue, this is for Matsue!' 'Dokoe, dokoe!' 'This is for Koetsumo of Yonago,' etc.
3
These words seem to have no more meaning than our 'yo-heave-ho.' Yan-yui is a cry used by all Izumo and Hoki sailors.
[黃金蟲]
[やぶちゃん注:以上二枚は国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。なお、「黃金蟲」の方は推定される糞とのスケール比や形状からは、所謂「スカラベ」、後注するコガネムシ上科コガネムシ科タマオシコガネ亜科 Scarabaeini 族タマオシコガネ属 Scarabaeus
に属する種のように思われる。識者なら種まで同定出来るように思われる。御教授を乞う。]
昆蟲類は多くは卵を産み放しにするが、中にはこれを保護する種類もある。例へば池の中に普通に居る「子負ひ蟲」などは、卵を雄の背の表面一杯に竝べ附著せしめ、雄はいつも子を負ふたまゝ水中を泳いで居るが、敵に遇へば逃げ去るから、子は無事に助かる。また「けら」の如きは、卵を産んでから雌がその側に居て護つて居る。蟻や蜂の類が卵・幼蟲などをよく保護し、養育することは誰も知つて居るであらうから、こゝには述べぬ。その他「はさみむし」といふ尻の先に鋏の附いた蟲は、西洋諸國では眠つて居る人の耳に入るといふ傳説のために恐れられて居るが、この蟲は卵を保護するのみならず、それから孵つて出た幼蟲をも愛して世話するといふことでゐる。また「黃金蟲」の類の中には卵を一粒産む毎に、馬や羊の糞でこれを包み、次第次第に大きく丸めて、終に親の身體よりも遙に大きな堅い球とするものがある。丸めたものを雌雄が力を協せて轉がして歩く。かうして幾つかの卵を産み、幾つかの大きな球を造り終れば、親は力が盡きて死んでしまふが、その有樣は恰も羊の糞を丸めるために、世の中に生まれて來たやうに見える。卵から孵つた幼蟲は、球の内部の柔い羊の糞を食うて生長し、終に球から匍ひ出す。「くも」の類は昆蟲類に比べると卵を保護するものが割合に多い。特に「走りぐも」と稱して、網を張らずに草の間を走り廻つて居る種類は、卵を産むとこれを球狀の塊とし、一刻も肌身を離さず始終足で抱へて居る。
[やぶちゃん注:「子負ひ蟲」水生昆虫である半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目タイコウチ上科コオイムシ科コオイムシ亜科コオイムシ属コオイムシ Appasus japonicus。生態及び形態の良く似た大型のタガメ(コオイムシ科タガメ亜科タガメ属タガメ Lethocerus deyrollei)は近縁種と言える。ウィキの「コオイムシ」によれば、『昆虫類では珍しく、近縁種のタガメと同様にオスが卵を保護するという習性を持っているが、産卵場所に産み付けられた卵を保護するタガメと違い、メスはオスの背部に卵を産み、オスは背中に産み付けられた卵を持ったまま移動するという習性があり、それを子守りする人間の親に見立てて、「子負虫」と名付けられた』とある。但し、『孵化後にはオスは幼虫の世話をすることはなく、自分の子供でも捕食対象としてしま』い、『他の水生昆虫同様、幼虫間でも共食いは行われている』とあるのを附記しておく。
「けら」本邦で古来より「けら」と呼称し、その鳴き声が蚯蚓の鳴き声などと誤認されてきたそれは直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科ケラ属ケラ Gryllotalpa orientalis である(ケラ科 Gryllotalpidae は Gryllotalpa・Neocurtilla・Scapteriscus の三属あるが、他の二属は南北アメリカにのみ棲息する)。積極的に土中を掘り進んで主に地中に棲息する。ウィキの「ケラ」によれば(記号の一部を変更した)、ケラの形状のうち、『前脚は腿節と脛節が太く頑丈に発達し、さらに脛節に数本の突起があって、モグラの前足のような形をして』おり、『この前脚で土を掻き分けて土中を進』むが、それ以外にも、『頭部と胸部がよくまとまって楕円形の先端を構成すること、全身が筒状にまとまること、体表面に細かい毛が密生し、汚れが付きにくくなっていること等』、モグラと著しく似た形態を持つ。『モグラは哺乳類でケラとは全く別の動物だが、前脚の形が似るのは収斂進化の例としてよく挙げられる。ケラ属のラテン語名“Gryllotalpa”は“Gryllo”がコオロギ、“talpa”がモグラを意味する。また、英名“Mole cricket”も「モグラコオロギ」の意である』とあり、卵の保護については、『卵は巣穴の奥に泥で繭状の容器をつくってその中に固めて産みつけ密閉し、親がそばに留まって保護する。孵化する幼虫は小さいことと翅がないこと、よく跳ねること以外は成虫とよく似ており、しばらく集団生活した後に親の巣穴を離れて分散すると成虫と同様の生活をする』とある(下線やぶちゃん)。
「はさみむし」本邦では和名の「ハサミムシ」はどうも、昆虫綱革翅(ハサミムシ)目マルムネハサミムシ科Carcinophoridae (或いはハサミムシ科 Anisolabididae マルムネハサミムシ亜科 Anisolabidinae ともする)のAnisolabis 属ハマベハサミムシ Anisolabis maritima に与えられている異名(?)のようあるが、ウィキの「ハサミムシ」を見るに、分類が錯雑しており、例えば革翅(ハサミムシ)目 Dermaptera の現生種はヤドリハサミムシ亜目Arixenina・クギヌキハサミムシ亜目 Forficulina・ハサミムシモドキ亜目 Hemimerinaの三亜目に分かれるが、本種を含むマルムネハサミムシ科 Carcinophoridae は亜目を作らず、しかも世界で十一科千九百三十種以上、日本では四十種ほどが知られるとする。さらに驚くべきことに他の記載では、お馴染みのこのハサミムシ Anisolabis maritima でさえも、その生態はまるで解明されていないと書かれてもある。卵を保護する画像は「海野和男のデジタル昆虫記」の「卵を守るコブハサミムシ」がよい(画像で守るのは♀)。未読であるが、皆越ようせい氏文・写真の「ハサミムシのおやこ」(二〇〇八年ポプラ社刊)のネット上のレビューによれば、ハサミムシの♀は卵を保護するだけでなく、孵化後の幼虫をも保護し、最後には自らの体を子らの餌として与えて死ぬという驚くべき生態を持っているらしい。まさに――母は強し!――の感慨強し! なお、丘先生は「西洋諸國では眠つて居る人の耳に入るといふ傳説のために恐れられて居る」と書かれておられるが、私は物心ついたころから、遊び仲間内で同じことを言い合い、母も父もそう言っていた。だから夜になると内心、這い上がってきたハサミムシが耳に入るのではないかと恐れた。さればこれは西洋由来のものだったのだろうか? 私にはその自然さと恐怖体験から、どうも日本にも古くからあった迷信であるように思っていたのだが? 確かにウィキには『英語ではこれをearwig、ドイツ語ではohrwurmと言い、ともに「耳の虫」の意であるが、これは、欧米ではこの虫が眠っている人間の耳に潜り込み中に食い入る、との伝承があるためである』とは書かれているのだけれど……。入るだけではなくてハサミムシは耳から脳に入り込んで卵を産むとも考えられたとか、そうして産み付けられた女性が医師から宣告を受けた……というところまで行くと、何だかなの都市伝説ではあるが、事実、ハサミムシの尾部のそれは挟まれると結構痛いし、何で耳に入るのを怖れられたかを考えると、脳味噌に卵を産みつけるというのもまんざら、近現代のアーバン・レジェンドでもない気もしてこないではない。
『「黃金蟲」の類の中には卵を一粒産む毎に、馬や羊の糞でこれを包み、次第次第に大きく丸めて、終に親の身體よりも遙に大きな堅い球とするものがある』これは言わずもがなの、「糞転がし」「スカラベ(scarab)」、昆虫学では「糞虫」(ふんちゅう Dung beetle)或いは「食糞性コガネムシ」などと呼ばれる、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科及びその近縁の科に属する昆虫の中で、主に哺乳類の糞を餌とする多くの一群の昆虫を指す。ウィキの「糞虫」より引く。『動物の糞は、その動物が利用できないものを排出したものだが、他の動物には利用可能な栄養を含み、また消化の過程で追加される成分もある。そのため、動物の糞には、昆虫を含む多くの小型動物が集まる。ただし一般に糞虫と言われるのは、コウチュウ目の中で、コガネムシ科とその近縁なグループに属するものである。その大部分は、哺乳類、特に草食動物の糞を食べる』。『色は黒を中心としたものが多いが、金属光沢があるものや、ビロードのような毛があるものなどがいる。また、ダイコクコガネやツノコガネ、エンマコガネ類など、雄に角がある例も知られる。またフンコロガシは古代からその不思議な生態で注目された。ファーブルが昆虫記の中でこの仲間に何度も触れ、その習性を詳しく調べたことはよく知られている。実用面では、牧畜における糞の処理はこの類に大いに依存している』。『上記のように、この範疇に含まれる昆虫の範囲は科を超えており、逆にコガネムシ科の中でこう呼ばれるのはその一部にすぎない。また、実際には糞に集まらない、あるいは糞以外の栄養源も利用するのにこう呼ばれるものもある。実のところ、糞虫という名はその生態的な特徴を意味するのにかかわらず、実際にそう扱われるのは分類群のくくりで行われ、しかもその体系が大きく変化しているため、このような状態が生じているのである』。『フンコロガシやダイコクコガネなどは糞虫の典型であり、これに類似の、そして似た生態を持つものをまとめて、かつてはそれらのすべてをコガネムシ科に含め、その下位分類においてひとまとまりの群と見なした。これが糞虫の範囲である。しかしその後の分類体系の見直しの中でそれらは解体され、一部は独立科となったため、現在ではそれをとりまとめるくくりは存在していない。しかし、この群には一定の固定層であるマニアが存在し、その中では確固として『糞虫』というまとまりが存在してしまうのである』。一般に糞虫といわれる仲間と、それぞれの分類上の位置』は以下の通り(引用元の記載を私がやや変更し、且つ詳細に記してある)。
コガネムシ上科コガネムシ科タマオシコガネ亜科 Scarabaeinae
Scarabaeini 族タマオシコガネ属 Scarabaeus に属する俗に「フンコロガシ」と呼んだ一群
ダイコクコガネ族ダイコクコガネ属ダイコクコガネCopris
ochus
ダイコクコガネ族エンマコガネ属 Onthophagus に属する種
マグソコガネ亜科 Aphodiinae
マグソコガネ Aphodius (Phaeaphodius) rectus
コガネムシ上科センチコガネ科 Geotrupidae
ムネアカセンチコガネ科 Bolboceratidae
アカマダラセンチコガネ科 Ochodaeidae
マンマルコガネ科 Ceratocanthidae
アツバコガネ科 Hybosoridae
等に属するセンチコガネ類及び上記のその類似種群
(本邦の和名センチコガネは Geotrupes laevistriatus。本邦では他に、オオセンチコガネ Geotrupes auratus auratusと、奄美大島の固有種オオシマセンチコガネGeotrupes
oshimanus が棲息する。センチコガネ科だけでも世界で三亜科二十五属約六百種を数える)
コブスジコガネ科 Trogidae
コブスジコガネ Trox sugayai
『新鮮な糞があると、匂いを嗅ぎつけてあちこちから集まってくる。その場で糞を食べるものもあるが、地下に穴を掘り、糞を運び込むものもいる』。『また、スカラベ』(タマオシコガネ属 Scarabaeus のこと)『は、糞から適当な大きさの塊を切り取り、丸めると足で転がして運び去ることからフンコロガシ(糞転がし)、またはタマオシコガネ(玉押し黄金)とも呼ばれる。このとき、頭を下にして、逆立ちをするような姿勢を取り、後ろ足で糞塊を押し、前足で地面を押す。古代エジプトではその姿を太陽に見立て、神聖視していたという。日本ではこの仲間は存在しないが、マメダルマコガネ』Panelus
parvulus『がこれと同じ糞運びをすることが知られる』が、体長三ミリメートルと小さいので目につかないために、知られていない。『また、多くの種が子供のための食糧を確保する習性を持つ。センチコガネ類、エンマコガネ類は糞の下に巣穴を掘り、その中に糞を運び込み、幼虫一匹分の糞を小部屋に詰め、卵を産む。スカラベやダイコクコガネ類は、糞の下に部屋を作り、そこに運び込んだ糞を使って糞玉を作る。糞玉は初めは球形で、その上面に部屋を作り、産卵して部屋を綴じるので洋梨型か卵形になる。幼虫は糞玉内部を食い、そこで蛹になり、成虫になって出てくる』。『成虫は糞玉を作り上げると出て行くものもあるが、ずっと付き添って糞玉の面倒を見るものもある。ファーブルの観察によると、ダイコクコガネの一種で、糞玉に付き添う成虫を取りのけると、数日のうちに糞玉はカビだらけになり、成虫を戻すとすぐにきれいにしたと言う』(但し、この箇所には『要文献特定詳細情報』要請がかけられている)。『このような習性は、親による子の保護の進化という観点からも注目されている』。『糞虫は哺乳類の糞を分解する上で、重要な役割を持っている。地球上、それぞれの地域において、大型の草食哺乳類がおり、その糞を食う糞虫がいる』。『生態系における糞虫のもう一つの大きな役割は、種子分散である。哺乳類の糞に含まれる植物の種子は糞虫によって地中に埋められることで、発芽率が上昇する』。なお、『糞虫は形が美しいものも多く、コレクターも存在する』とある(下線やぶちゃん)。古代エジプトで再生と復活を象徴する聖なる虫とされ、王家の谷の壁画にも描かれたスカラベ(scarab)は私の偏愛物なればこそ、やはりウィキの「スカラベ」から引いておく。スカラベは、『甲虫類のコガネムシ科にタマオシコガネ属の属名及びその語源となった古代エジプト語。単独の種名ではないため、いくつもの種が存在する』。『アンリ・ファーブルが自身の著書『昆虫記』の中で研究したスカラベ・サクレには、タマオシコガネやフンコロガシという和名が充てられて紹介され、有名になった。ただ、その後にサクレはファーブルの誤同定であったことが判明し、和名もヒジリタマオシコガネへ改められている』(二〇一二年現在では『ファーブルの観察や採集のフィールドであった南仏各地は開発が進み』、スカラベは激減してしまった)。『おもに哺乳動物の糞を転がして球状化させつつ運び、地中に埋めて食料とする』が、『古代エジプトでは、その習性が太陽神ケプリと近似したものであることから同一視された。再生や復活の象徴である聖なる甲虫として崇拝され、スカラベをかたどった石や印章などが作られた。古代エジプトの人々は、スカラベはオスしか存在しない昆虫で、繁殖方法については精液を糞の玉の中へ注いで子供を作ると解釈していた』とある。……最近、勝手ないな、スカラベ……。因みに、我々にとって馴染みの「黃金蟲」は通常はコガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属コガネムシ Mimela splendensを指すが、コガネムシ科ハナムグリ亜科カナブン族カナブン亜族カナブン属 Rhomborrhina 亜属カナブン Rhomborrhina
japonica や、コガネムシ科ハナムグリ亜科ハナムグリ族ハナムグリ亜族ハナムグリ属ハナムグリ亜属ハナムグリ Catonia (Eucetonia) pilifera、コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族スジコガネ属ドウガネブイブイ Anomala cupera・ヒメコガネAnomala
rufocuprea・サクラコガネ Anomala daimiana などもみんな一緒くたにして「黄金虫」と我々は認識しているように思う。少なくとも似非博物学的な俳句作品などではその感が強いように私は思うのである。
「走りぐも」これは節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜キシダグモ科ハシリグモ属 Dolomedes の一種と考えてよかろう。ウィキの「ハシリグモ」より引く。冒頭、ハシリグモ属
Dolomedes の類は、『大柄な徘徊性のクモである。素早く走ることが出来、また水辺に生活し、水面や水中で活動できるものも多い』とあり、丘先生が「草の間を走り廻つて居る種類」と記述しているのがやや気になる方がいるかも知れぬが、本種は本邦では十一種が知られ、最も知られる種はイオウイロハシリグモ Dolomedes sulfueus であるが、これに酷似したスジボソハシリグモ Dolomedes angustivirgatus やババハシリグモDolomedes fontus などは、『水辺から草地、林縁まで生息域が広い』とあり、『水辺以外の生息地に生活する種も多い』とあるので問題ない。『ハシリグモ属はキシダグモ科の中で、大柄で活動的な、時に美しい種を含む。徘徊性で網を張らずに獲物を捕らえる』(但し、『この属以外にもこの名を持つ例はある』とはある)。ハシリグモ属 Dolomedes の類は『水辺に生活する種が多く、それらは水面にアメンボのように浮かび、また素早く水面を走り、時に水中に潜り、水底に掴まって』一時間もの間、『潜水を行うものまである。それらは水中の小動物、時に小さな魚を獲物にすることがあり、英名の Fishing spider (魚釣りグモ)はこれによる』とするが、水辺以外に棲息する種も多いことは既に述べた。『中型から大型のクモで、頑丈な歩脚を持つ』。『前中眼が前側眼より大きく、前中眼と後中眼で作られる四角形(中眼域)は縦長。顎の後列の歯が』四本あり、『歩脚はどれもほぼ同じ長さで、第四脚は第一脚より少しだけ長い』。『徘徊性のクモであり、一般には待ち伏せしているところを見ることが多い。ただし一部では幼生が棚網を張ることが知られる。陸上では草の上に出てじっとしている。危険を感じると草間に逃げ込む。樹木の幹に下向きに止まって待機するものもいる』。『水辺のものは水辺の石の上に静止するものもある。そのようなものは、危険が迫ると水面に逃れ、素早く走って、時に水中に逃れる』。『更に、暑い日に体温低下を求めて水中に入る種もある。 水辺に生息するものの場合、水中の獲物を求め、浮き草などの上に身体を固定し、第一脚を水面に触れさせる待機姿勢をとるものがある。これは獲物が水面を揺らす震動を受け止めるためのもので、クモはその獲物を水中から引っ張り上げるようにして捕らえることが出来る。多くの場合、獲物は水生昆虫であるが、オタマジャクシや小型魚類を獲物にすることも知られる』。『なお、このような種はミズグモと間違われる場合がある』。『配偶行動は比較的単純で、キシダグモ科に見られる求愛給餌は行わないようだ。雌は卵嚢を口器につけて持ち運び、この間は雌親は餌を採らない。孵化の直前には網のような構造をつくってそこに卵嚢を下げ、子グモが出てきてその網でまどい』(丸く居並んで集団で生活する空間の謂いかと思われる)『を作り、それから分散するまで雌グモはその傍に待機する』とある(下線やぶちゃん)。]
二
オキノクニ卽ち隱岐の國は出雲の海岸から百哩許りの、日本海の二群の小島から成つて居る。近い方の一群の名の島前(ダウゼン)は、種々な小島のほかに、互に近く存在して居る三つの島を含んで居る。チブリシマ卽ち知夫里島(時にヒガシノシマ卽ち東の島とも呼ぶ)、ニシノシマ卽ち西の島、及びナカノシマ卽ち中の島がそれである。このいづれよりも遙か大きいのは主島たる島後(ダウゴ)で、その多くは人の住んで居ない種々な小島と共に他の一群を爲して居る。オキといふ名はもつと一般にこの群島全部に用ひるのであるが――この島を時にオキと呼ぶ。
公には隱岐は四つコホリ卽ち郡に分たれて居る。知夫里と西の島と一緖になつて知夫里郡を成し、中の島が小島一つ添へられて海士(あま)郡をつくり、島後(だうご)は隱地(おち)郡と周吉(すき)郡とに分たれて居る。
此等の島はいづれも山が多くて、その面積のほんの一少部分しか耕やされて居らぬ。主たる財源は漁業で、住民の殆んど全部が太古からして常にそれに從事し來たつて居る。
冬の幾月間は隱岐と日本西海岸との間の海は小舟に取つては太だしく危險で、その季節には島は本土とは餘り交通はしない。たつた一艘の客用汽船が隱岐へ伯耆の境から通ふ。直線では伯耆の境から隱岐の一番の港の西鄕までの距離は三十九里だといふ。だが、汽船は其處への途中他の島々に寄港する。
隱岐には小さな町が、否むしろ小さな村が、隨分と澤山ある。そのうち四十五は島後に在る。その村は殆んど總て海岸に位して居る。主要な町には大きな學校がある。全島の人口は三萬〇百九十六人だと述べてある。が、町々村々のそれぞれの人口は書いて無い。
[やぶちゃん注:隠岐に行ったことがない方は勘違いしている人が多いと思われるので、まず最初に述べておくが、「隠岐島(おきのしま)」という「島」はどこにも存在しない。あるのは、島根県隠岐郡の「隠岐諸島」である「隠岐」である。群島の南西にある「島前(どうぜん)」地域と、その東北部の海域である島後(どうご)水道を境として、群島東北の「島後(どうご)」地域に分けられ、「島前」は「島前三島(どうぜんさんとう)」と呼ばれる主要な有人島である「知夫里島(ちぶりじま)」(隠岐郡知夫村)・「中ノ島(なかのしま)」(海士町(あまちょう))・「西ノ島」(西ノ島町。島前地域の中心地)の三つの島と小島から構成される群島であるのに対し、「島後」は、この島前(どうぜん)三島から島後水道(凡そ十二キロメートル)を隔てた「島後(どうご)」と呼ぶ島(隠岐の島町)の一島で構成されている(「島後島」「どうごじま」などとは現地でも行政上でも呼ばないので注意されたい)。主な島はこの四島であるが、付属する小島群は約百八十を数える。「島後(どうご)」は島面積が約二百四十二平方キロメートルに及び、日本では鹿児島県大島郡の奄美群島の「徳之島」に次いで大きく、島嶼としては十五番目の広さを持つ(以上の後半の数字データでは、ウィキの「隠岐諸島」を参考にした)。
「百哩」約百六十一キロメートル。試みに計測してみると、最も本土に近い知夫里島の獅子鼻から最も近いと思われる出雲半島の海岸の多古鼻(たこばな)までは直線で、四十四キロメートル弱、他方、島後(どうご)で最も本土に近い一つである鷹取崎から同じく出雲海岸で最も近いと思われる美保関七類(しちるい)までを測ると、凡そ六十六キロメートルであった。前掲のウィキでも、冒頭で、『島根半島の北方約』五十キロメートル『に位置する』とあるから、ハーンの謂いは三倍超えで、誇張に過ぎる。
「公には隱岐は四つコホリ卽ち郡に分たれて居る。知夫里と西の島と一緖になつて知夫里郡を成し、中の島が小島一つ添へられて海士(あま)郡をつくり、島後(だうご)は隱地(おち)郡と周吉(すき)郡とに分たれて居る」現在は既に示した通り、隠岐郡で海士町・西ノ島町・知夫村・隠岐の島町の計三町一村から成る。ここに出るのは、明治一二(一八七九)年に行政区画として発足した当時のものである。「知夫里郡」は知夫郡が正しいと思われ、現在の隠岐郡西ノ島町と知夫村に相当する。島名「知夫里島」を郡名と勘違いしたのであろう。「海士郡」現在の海部町と同域で、「隱岐郡」は現在の隠岐の島町である島後(どうご)の凡そ西半分、「周吉郡」は同じく東半分に相当する。なお、ここで「中の島が小島一つ添へられて海士郡をつくり」と言っている「小島」は、旧海士郡郡域を見るに、東北沖に浮かぶ大きな「松島」のことを指している、と私は読む。
「主たる財源は漁業で、住民の殆んど全部が太古からして常にそれに從事し來たつて居る」二〇一三年度版隠岐支庁の「隠岐島要覧」(PDF)によれば、現在でも、『生産額を見てみると、第一次産業うち水産業の生産額は高く、県全体の約4割を占めている』とある(下線やぶちゃん)。現在は他に、島外移出用としての『白小豆、しいたけ、花など』、『また、島内自給用として野菜栽培が進められている』。『畜産は伝統的な放牧による肉用牛繁殖経営が主であり、繁殖雌牛頭数は県下の約2割を占めている。放牧地では、牛とともに馬も放牧されており、海を背景に草を喰む牛馬は観光資源ともなっている』。『林業は、気候・土質に恵まれ歴史は古く、スギを主体とした人工林率は県平均を上回っている』とある。
「三十九里」約百五十三キロメートル。地図上で単純に現行の汽船航路の境港からの西郷までの距離を計測すると、凡そ八十キロメートルほどである。やはり、実際の倍近い誇張である。
「全島の人口は三萬〇百九十六人だと述べてある。が、町々村々のそれぞれの人口は書いて無い」ハーンの見たガイドブックの隠岐群島の総人口は、
30,196人
であるが、ウィキの「隠岐郡」によると、二〇一五年十月一日現在の推計総計人口は、
20,221人
とする。実に百二十三年前との単純比較では一万人近くも差がある。但し、平成二七(二〇一五)年八月十九日更新のクレジットのある島根県隠岐支庁作成の「隠岐島の現況」(PDF)では昭和二五(一九五〇)年の総人口は、
44,842人
もいたことが判る。さらに上記の隠岐支庁のデータを見ると、現在の隠岐郡の各町村の人口は、
海士町 2,330人
西ノ島町 2,913人
知夫村 597人
隠岐の島町 14,562人
で、隠岐郡全体では、
20,402人
とある。軽々に比較は出来ないものの、ウィキのデータと比べると、機械計算であるが、たった一ヶ月強で、百八十一人も減っていることになる。更に、この島根県隠岐支庁版にある人口推移(平成四十二年(!)までの推計を含む)を見ると、これまた、愕然とするものがある。]
Ⅱ.
Oki-no-Kuni, or the Land of Oki, consists of two groups of small islands in the Sea of Japan, about one hundred miles from the coast of Izumo. Dozen, as the nearer group is termed, comprises, besides various islets, three islands lying close together: Chiburishima, or the Island of Chiburi (sometimes called Higashinoshima, or Eastern Island); Nishinoshima, or the Western Island, and Nakanoshima, or the Middle Island. Much larger than any of these is the principal island, Dogo, which together with various islets, mostly uninhabited, form the remaining group. It is sometimes called Oki—though the name Oki is more generally used for the whole archipelago. [1]
Officially, Oki is divided into four kōri or counties. Chiburi and Nishinoshima together form Chiburigori; Nakanoshima, with an islet, makes Amagōri, and Dōgo is divided into Ochigōri and Sukigōri.
All these islands are very mountainous, and only a small portion of their area has ever been cultivated. Their chief sources of revenue are their fisheries, in which nearly the whole population has always been engaged from the most ancient times.
During the winter months the sea between Oki and the west coast is highly dangerous for small vessels, and in that season the islands hold little communication with the mainland. Only one passenger steamer runs to Oki from Sakai in Hōki In a direct line, the distance from Sakai in Hōki to Saigo, the chief port of Oki, is said to be thirty-nine ri; but the steamer touches at the other islands upon her way thither.
There are quite a number of little towns, or rather villages, in Oki, of which forty-five belong to Dōgo. The villages are nearly all situated upon the coast. There are large schools in the principal towns. The population of the islands is stated to be 30,196, but the respective populations of towns and villages are not given.
1
The names Dōzen or Tōzen, and Dōgo or Tōgo, signify 'the Before-Islands' and 'the Behind-Islands.'
第二十三章 伯耆から隱岐ヘ
一
自分は隱岐へ行くことに決心した。
宣敎師でさへそれまで一度も隱岐へ渡つたものは無かつた。そしてその海岸は、軍艦が日本海を巡航してその傍を汽走するといふそんな稀な場合を除いては、西洋人の眼に未だ嘗て觸れなかつたのである。それだけでも隱岐へ行く充分の理由となつたのであらう。だが、日本人すら隱岐のことは全く知つて居らぬといふ一層有力な理由が自分に提供せられた。日本帝國の中で一番知られて居ない部分は、異つた言語を使用して居る、稍〻異つた人種が住まつて居るルウチユウ・アイランヅ卽ち琉球を除いて、恐らくは隱岐であらう。これは出雲と縣を同じうして居る國であるから、新任の島根縣知事はいづれも就任後一度巡視するものと思はれて居り、縣警察部長は時折視察に出かけて行く。その上また松江や他の町の商家で、年に一度注文取を隱岐へ送るのが幾軒かある。更にまた、――それは殆んど總て小さな帆船で行ふのであるが――隱岐とは餘程盛んな取引がある。がそんな公務上並びに商業上の交通は日本歷史の中世時代に於けるよりも、大して能く隱岐を今日世間へ知らしめる性質のものでは無かつた。隱岐については、東洋の種々な人種の想像的文學にあんなに大いに出て來る彼の荒唐無稽な女護の島に就いての物語に能く似た、異常な物語が今なほ日本西海岸の普通人の間に行はれて居る。さういふ古い傳說に據ると、隱岐の國の人の道德觀念は極めて奇妙なもので、最も嚴肅な禁慾者でも此國に住んで居ては浮世の快樂に對するその冷淡さを維持して行くことは出來ぬ。そして此處へ遣つて來る他國人は、着いた時にはどんなに金持でも、女の誘惑の爲めに、やがて素裸で貧乏になつて其本國へ歸らなければならぬといふのである。自分は珍奇な國での旅行にはもう充分の經驗があることだから、そんな不思議な話に總てみな隱岐は『人の知らぬところ(テラ・インコグニタ)』といふそれだけの事實以上何も意味してゐないと確信して居た。そして隱岐の國の人の普通一般の品行は――西部諸國の普通人民の品行に依つて判斷して――自分の本國の無智階級の者共の品行よりも餘程優つて居るに相違無いと信ぜんとする氣持にさへなつて居つた。
この事は後になつて確にさうと自分は見屆けた。
暫くの間自分は自分の日本人友達のうちに、隱岐は古昔武人簒奪者が廢立した後醍醐後鳥羽兩帝の配流の地であつたといふ、自分が既に知つて居る、事實のほか、どんな知識をも與へて吳れるものを一人も見出し得なかつた。ところが到頭、全く思ひがけなくも、前に隱岐へ行つたことがあるばかりで無く、用事あつて數日のうちにまた行かうとして居る一友を――前の學校の同僚を――發見した。で同行を約した。その男の隱岐に就いて語る所は今迄行つたことの無い人達の話とは著しく異つて居つた。隱岐の人達は出雲の人達と殆ど同じ程に開けて居て、好い町があり、立派な小學校がある、と言ふ。人間は甚だ質朴で信じられない程に正直で、そして他國人に極めて親切である。日本人が初めて日本へ來た時このかた、卽ちもつと浪漫的な言葉で言へば『神代』このかた、その人種を變へずに居る事をその唯一の誇として居る。みな神道信者で出雲大社敎を奉じて居るが、佛敎も亦、主として私人の澤山な醵金に依つて、維持されて居る。そして非常に居心地の好い宿屋があるから、全く氣安く感ずるだらう、と斯う言ふのであつた。
その男はまた隱岐の學校で使はせる爲めに出版された隱岐の事を書いた小さな本を吳れた。自分はその本からして次に記すやうな簡單な事實の摘要を得た。
[やぶちゃん注:本章の訳は底本「あとがき」から大谷正信氏と推定される。そこで大谷氏は、この隠岐行は明治二五(一八九二)年の『七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た。同行者は夫人だけであつた』とあるが、『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、隠岐の滞在は八月十日から二十三日までの十三日間で、境港へ二十四日に着き、翌二十五日には美保の関へ行っている。大澤隆幸氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、ハーンは隠岐を訪れた最初の西洋人であるとある。但し、本章(三一)を読むと、島後の西郷附近には、ハーン滞在中もイギリスやロシアの軍艦が停泊し、西郷の町で彼等をみかけているので、厳密には隠岐を最初に訪れた西洋人はハーンではあるまい(島前では、確かに、そこを訪れた最初の西洋人と称してよいように思われる)。則ち――ハーンは隠岐諸島を私人として旅目的で初めて訪れ、しかも長期間に亙って日本旅館に滞在した最初の西洋人であった――と言えば、よろしいか。
「異つた言語を使用して居る、稍々異つた人種が住まつて居るルウチユウ・アイランヅ卽ち琉球」「異つた言語」とは、現在は日本語の方言である琉球方言として扱われるが、ウィキの「沖縄県」には、『ユネスコなどの国際機関の間では日本語とは異なる日本語族に属した独立した言語であると』している、とある。「稍々異つた人種」については、やはり同ウィキに『地理的・歴史的・文化的な経緯から琉球民族とする主張がある。人種的には先史時代から』十世紀に『かけて南九州から移入したとされ、分子生物学の研究でも本土と遺伝的に近いことが確かめられている。北琉球と呼ばれることもある沖縄諸島の住民は、分子生物学的(Y染色体による系統分析)にほぼ九州、本州、四国の住民と同じである』とあり、人類学的生物学的に「稍々異つた人種」という謂いには、明らかに無理がある。但し、旧琉球国としてハーンが当時聴いた内容は、そうした甚だ捻じ曲がったものであったことも事実であろうし、それを鵜呑みにしたハーンを責めるのも酷ではある。「ルウチユウ・アイランヅ卽ち琉球」原文は“Riu-Kiu, or Loo-Choo Islands”で、「琉球」は現行の中国語では“Ruuchuu”で「ルーチュー」である。
「女護の島」「によごのしま(にょごのしま)」は、狭義には、「女護が島」とも「女人國」とも称し、女だけが住んでいるという空想上の島、及び、そうしたアマゾネス的な伝承を指す。本邦では八丈島が一番知られ、他にも、沖繩の与那国島や奄美群島の喜界島など、実在の離島をこれに当てた話が古くから普及してはいる。但し、隠岐について、そうした奇怪な伝承を聴いたことは、私は、ない。以下に続く記載も、隠岐を愛する私としては――ただ一度、四年前、母の死後のただ一度だけの長旅で訪れただけであるが――非常に不快である。因みに、ウィキの「隠岐の歴史」の「先史・古代」の項には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井』(さい)『と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前五千年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている』。『サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約二百基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長四十七メートル、長さ約八メートルの横穴式石室)がある』。『大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。六四六年(大化二年)隠岐駅鈴二個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある』。『隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺、国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道七国のうち下国で、都からの行程は上り三十五日、下り十八日と定められていた』。『日本海の孤島隠岐は古代から渤海や新羅との交渉も記録されている。七六三年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、八二五年には渤海国使高承祖ら百三人、八六一年には渤海国使李居正ら百五人が隠岐国に来着している。日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、八六九年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、八七〇年には出雲、石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。八八八年には新羅国人三十五人が隠岐に漂着、九四三年には新羅船七隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた』とある。以下、「中世」の項。『建久四年(一一九三年)、隠岐一国地頭職に佐々木定綱が補任されたことが吾妻鏡に見える。承久三年(一二二一年)には後鳥羽上皇が海士郡に流され、十九年間配所で過ごし、元弘二年(一三三二年)年には後醍醐天皇が配流される。天皇の配流地は隠岐島後の国分寺説と島前黒木御所説があり、決着が付いていないが、天皇はやがて脱出する』。『室町時代の守護は京極氏で、隠岐守護代となったのは京極氏一門の隠岐氏で、東郷の宮田城、後に下西の甲ノ尾城を本拠地とした。これに対して在地勢力は隠岐氏に対立する毛利氏の支援を得て、両者間に戦いも起こったが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった』。以下、「近世」の項。『慶長五年(一六〇〇年)、堀尾吉晴が出雲・隠岐の国主となるが、寛永一一年(一六三四年)から室町時代の隠岐・出雲の守護家の子孫である京極忠高に替わる。寛永一五年(一六三八年)には松平直政が出雲に入り、以後の隠岐は幕府の天領(松江藩の預かり地)となった。幕府から統治を委託された松江藩は西郷に陣屋を置き、郡代に総括させ、島前と島後にそれぞれ代官を派遣して行政に当たらせた。隠岐の総石高は一万八千石とされたが、実高は一万二千石ほどであった』。『島後の西郷港は十八世紀から北前船の風待ち、補給港として賑わうようになった。これは隠岐島後が能登から下関あるいは博多に直行する沖乗りのコースに当たったためである。西郷港には船宿を兼ねた問屋が置かれ、自ら回船業を営む者もあった。この頃、西ノ島の焼火神社が海上安全の神様として北前船の信仰を集めた。北前船は安来の鉄や米を日本海一帯に供給する機能があったため、その後も隠岐~美保関~安来間の航路が存在し、航路廃止になった現在でも安来市には北前船の流れを汲む隠岐汽船の支社が存在する』。以下、近代史。『明治元年(一八六八年)、隠岐騒動が起こり、神官と庄屋の正義党が松江藩隠岐郡代を追放し、王政復古で隠岐は朝廷御料になったと宣言して自治を行った。松江藩は隠岐に出兵して一時隠岐を奪回するが、まもなく鳥取藩が仲介して松江藩兵は撤退、自治が復活した。明治新政府は一時隠岐を鳥取藩に預ける』。『明治二年(一八六九年)二月から八月まで隠岐国に隠岐県を設置して独立させるが、その後幕府の石見銀山領を前身とする大森県に統合された。新政府の方針は決まらず、隠岐地域の所属は島根県と鳥取県の間で移管を繰り返し、明治九年(一八七六年)ようやく島根県への所属に落ち着いた』。『島根県に編入された隠岐地域は古代以来の海士、知夫、周吉、穏地の四郡に分かれていたが、明治二一年(一八八八年)になって島根県庁は郡を廃止して隠岐島庁を設置、島司が行政に当たった』(ハーンの来島はこの時期)。『明治三七年(一九〇四年)に西郷町、五箇村などの町村が設置されている。翌三八年(一九〇五年)二月十五日、竹島が日本の領土として確認され、後に五箇村の所属とされた。これは西郷町の中井養三郎がアザラシ・アシカ漁のためにリャンコ島の賃貸を政府に求め、政府が島の所属について確証がないことに気付いたためである。リャンコ島は竹島と名付けられ、隠岐島司の所管となった。隠岐島庁は大正一四年(一九二五年)に隠岐支庁となっている』(以下の現代史はリンク先を参照されたい)。
「人の知らぬところ(テラ・インコグニタ)」「テラ・インコグニタ」はルビ。原文“ terra incognita ”。ラテン語で“ terra ”は「土地・陸地・国・地方・世界」、“incognita”は「知られざる・未知の・認識し難い・探索されていない・未だ認められていない」の意の形容詞“incogunitus”である。個人的に好きな意味と響きの語である。
「西部諸國」西日本諸県。
「その人種を變へずに居る事をその唯一の誇として居る」どうも「人種」という訳語が気に入らない。平井呈一氏の『連綿として血筋のかわっていないことを、唯一のお国自慢にしている』で、不快なく(敢えて言うと「唯一の」は、気に障るが、これは原文がそうだから仕方がない)読める。
「一友」「前の學校の同僚」先の『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、隠岐旅行の帰りに美保の関に滞在したハーンは、松江中学時代の校長心得西田千太郎を客として宿へ迎えている(八月二十六日)。海水浴などを楽しんだ後、二十九日に西田が松江へ戻る際、『隠岐土産のスルメ二束、馬蹄石貝細工品を贈』っているところなどからも、「同僚」と言っているものの(「同僚」の「友」に拘るならば、「第十九章 英語敎師の日記から (二)」に出る、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師であった中山彌一郎であるが)、これは私は西田であったと思う。但し、この「用事あつて數日のうちにまた行かうとして居る」とか、「同行を約した」とし、実際に、以下、本章では、現地に、その友人と隠岐に行ったように記述しているが、事実は大谷氏が「あとがき」で述べている通り、事実は『同行者は夫人だけ』であった。ハーンは実は本書に於いては、事実婚状態にあった妻セツを完全に巧妙に隠蔽している(「第十八章 女の髮について(一)」の冒頭を見よ)。それは文学的虚構以外の意識が働いていると、私は読む。私は、ハーンは、この時点(明治二十五年前後)では未だ、セツを正式な妻として記載することに、どこかで躊躇していたのではないかと感ずるのである。実際、大澤隆幸氏は「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」で、この前年十一月にハーンが熊本に転任した際の、今も残る第五高等中学校公式文書である『雇容伺文書の最後の項目では「一、妻の有無 無し」』とあって、『セツは妻ではなかった』と、明記しておられるのである。恐らくは、セツへの気遣という大きな点以外にも、海外読者の中には、ハーンが日本人妻を迎えていることを知った場合、こころよく思わない者がいると考え、それが本書の売り上げに影響したり、あらぬ批判の対象となったりすることを避けたかったからなのではないかと私は疑ってもいる。ともかくも、ハーンが『妻子の将来を考え、日本に帰化し、小泉八雲と改名する』(新潮文庫「小泉八雲集」の上田和夫氏年譜)のは、本書刊行(明治二十七年九月)の一年後の明治二八(一八九五)年の秋であった(上記大澤論文によれば、帰化手続の完了は翌明治二十九年二月十四日とある)。
「出雲大社敎」原文は「いずもたいしゃ」と綴っているが、宗教団体としての固有名詞としては「いづもおほやしろきやう(いずもおおはしろきょう)」と読むのが正しい。間違ってもらっては困るのは、かく「出雲大社敎」と書き、「いずもおおやしろきょう」と読んだ場合は、漠然とした出雲大社を親しく崇敬しているといったような一般的な謂いではなくして、実際の宗教団体としての「出雲大社敎」を指しているということになってしまうからである。「出雲大社敎」(いずもおおやしろきょう)は明治六(一八七三)年に当時の出雲大社大宮司であった千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団で(創立に際して宮司職を「第八章 杵築――日本最古の社殿」に登場した弟尊紀に譲っている)、教派神道(神道十三派)の一つである。これについては「第八章 杵築――日本最古の社殿 (プロローグ)」の私の注「千家尊紀」を参照されたい。]
ⅩⅩⅢ
FROM HŌKI
TO OKI.
Ⅰ.
I RESOLVED to go to Oki.
Not even a missionary had ever been to Oki, and its shores had never been seen by European eyes, except on those rare occasions when men-of-war steamed by them, cruising about the Japanese Sea. This alone would have been a sufficient reason for going there; but a stronger one was furnished for me by the ignorance of the Japanese themselves about Oki. Excepting the far-away Riu-Kiu, or Loo-Choo Islands, inhabited by a somewhat different race with a different language, the least-known portion of the Japanese Empire is perhaps Oki. Since it belongs to the same prefectural district as Izumo, each new governor of Shimane-Ken is supposed to pay one visit to Oki after his inauguration; and the chief of police of the province sometimes goes there upon a tour of inspection. There are also some mercantile houses in Matsue and in other cities which send a commercial traveller to Oki once a year. Furthermore, there is quite a large trade with Oki,— almost all carried on by small sailing-vessels. But such official and commercial communications have not been of a nature to make Oki much better known to-day than in the medieval period of Japanese history. There are still current among the common people of the west coast extraordinary stories of Oki much like those about that fabulous Isle of Women, which figures so largely in the imaginative literature of various Oriental races. According to these old legends, the moral notions of the people of Oki were extremely fantastic: the most rigid ascetic could not dwell there and maintain his indifference to earthly pleasures; and, however wealthy at his arrival, the visiting stranger must soon return to his native land naked and poor, because of the seductions of women. I had quite sufficient experiences of travel in queer countries to feel certain that all these marvelous stories signified nothing beyond the bare fact that Oki was a terra incognita; and I even felt inclined to believe that the average morals of the people of Oki — judging by those of the common folk of the western provinces — must be very much better than the morals of our ignorant classes at home.
Which I subsequently ascertained to be the case.
For some time I could find no one among my Japanese acquaintances to give me any information about Oki, beyond the fact that in ancient times it had been a place of banishment for the Emperors Go-Daigo and Go-Toba, dethroned by military usurpers, and this I already knew. But at last, quite unexpectedly, I found a friend — a former fellow-teacher — who had not only been to Oki, but was going there again within a few days about some business matter. We agreed to go together. His accounts of Oki differed very materially from those of the people who had never been there. The Oki folks, he said, were almost as much civilized as the Izumo folks: they, had nice towns and good public schools. They were very simple and honest beyond belief, and extremely kind to strangers. Their only boast was that of having kept their race unchanged since the time that the Japanese had first come to Japan; or, in more romantic phrase, since the Age of the Gods. They were all Shintōists, members of the Izumo Taisha faith, but Buddhism was also maintained among them, chiefly through the generous subscription of private individuals. And there were very comfortable hotels, so that I would feel quite at home.
He also gave me a little book about Oki, printed for the use of the Oki schools, from which I obtained the following brief summary of facts: —
六
翌朝、日が出てから一時間すると、師匠と弟子は町の界から向うの方で無宿者の集まる磧へと歩いて行つた。
小屋の入口は一枚の雨戶で閉ぢてあつた。師匠は幾たびも叩いて見たが、應答がなかつた。すると、戶は內から締めてなかつたので、輕く開けて、隙間から呼んだ。誰も答へないから、彼は入ることに決心した。同時に異常な鮮明さを以て、彼が疲勞せる靑年修業者として、山中の小屋の前に立つて、戶を叩いた瞬間の感が念頭に返つた。
彼が獨りで靜かに入つてみると、女は一枚の薄い、ぼろぼろの布團にくるまつて、一見すると寢たやうに橫つてゐた。粗末な棚の上に、彼は四十年前の佛壇を認めた。中には位牌があつた。して、當時と同じく、今も小さな燈明が、戒名の前で輝いてゐた。月の後光を負つた觀音の幅は無くなつてゐたが、佛壇に面した壁には、彼の贈つた畫が掛けてあつた。して、その下には一言(ひとこと)觀音【註】――この觀音はたゞ一つの祈願を叶へ玉ふだけだから、一囘以上、願を掛けてはならぬ――の御札があつた。荒凉たる家の中には、その外のものは、たゞ衣と托鉢の笻及び鉢だけであつた。
が、師匠はこれらのものを眺めて、躊躇してはゐなかつた。彼は眠つてゐる女を醒まし、欣ばせようと思つて、一囘も三囘も、元氣よく彼女の名を呼んだ。
すると、忽然彼女の死んでゐるのに氣がついた。して、その顏を凝視し乍ら、彼は不思議に思つた。それは案外若く見えた。靑春の妖精とも見ゆる、何となく美しい趣が、そこへ歸つてきてゐた。悲哀の皺は、彼よりも更に偉大なる幻影の師匠の手によつて、奇異にも滑かに和らげられてゐた。
註。この觀音の寺は、奈良の大佛の寺から遠くない。
[やぶちゃん注:この挿話は、またしても、しみじみとして哀しく美しい。これは実に神話的でさえあるではないか! 巧妙に配されたフラッシュ・バックのイメージの何と、神々しいことか!
なお、底本途中に配された注の位置が(「觀音【註】」を含む段落の後に前後行空けで配されてある)、鑑賞上、極めて無粋に過ぎるので恣意的に最後に回した。
「笻」「筇」の異体字。「竹で出来た杖」の意。音は「キヨウ(キョウ)」或いは「グ」であるが、「つゑ(つえ)」と訓じておく。
「この觀音の寺は、奈良の大佛の寺から遠くない」こう語る以上、本尊が観音菩薩でなくてはならないとすれば、奈良県桜井市初瀬の長谷寺(本尊十一面観音)か、或いは、高市(たかいち)郡高取町の壺阪寺、正式名称南法華寺(本尊十一面観音)か? しかし、両寺を「遠くない」というかどうか? 「遠くな」く、ごく近いとならば、別な寺ではなく、東大寺の二月堂(本尊十一面観音)となるが? しかし原注をよく見ると“Her shrine”とある。これは「彼女の廟」「彼女を祀った寺」の謂いである。平井呈一氏も『老女を祀った堂は、いま、奈良の大仏殿の近くにある』と訳しておられ、奈良知らずの下種(げす)の私の憶測であるが、この平井氏の訳だと、恐らく多くの人は、これを、二月堂と解釈するのではあるまいか? しかし、そのような二月堂の伝承も、そのような由緒を持つ観音の寺も私は不学にして知らない。そもそもが、私はもっと不勉強にして、この白拍子と絵師の数奇な奇談の原話を知らない。構造パターンの類型的な話は複数聴いたことがあるが、人物設定や結末が全く異なる。ネット検索でも網にかからぬ。原話を御存じの方は、是非とも御教授を乞うものである――と言っても――この話柄は――これで閉じられた――一箇の完成品として――限りなく哀しく――しかも――美しい!!!――]
Ⅵ.
On the morning of the day following, an hour after sun-rise, the Master and his pupil took their way to the dry bed of the river, beyond the verge of the city, to
the place of outcasts.
The entrance of the little dwelling they found closed by a single shutter, upon which the Master tapped many times without evoking a response. Then, finding the shutter unfastened from within, he pushed it slightly aside, and called through the aperture. None replied, and he decided to enter. Simultaneously, with extraordinary vividness, there thrilled back to him the sensation of the very instant when, as a tired. lad, he stood pleading for admission to the lonesome little cottage among the hills.
Entering alone softly, he perceived that the woman was lying there, wrapped in a single thin and tattered futon, seemingly asleep. On a rude shelf he recognized the butsudan of' forty years before, with its tablet, and now, as then, a tiny lamp was burning in front of the kaimyō. The kakemono of the Goddess of Mercy with her lunar aureole was gone, but on the wall facing the shrine he beheld his own dainty gift suspended, and an ofuda beneath it,— an ofuda of Hito-koto-Kwannon [10],— that Kwannon unto whom it is unlawful to pray more than once, as she answers but a single prayer. There was little else in the desolate dwelling; only the garments of a female pilgrim, and a mendicant's staff and bowl.
But the Master did not pause to look at these things, for he desired to awaken and to gladden the sleeper, and he called her name cheerily twice and thrice.
Then suddenly he saw that she was dead, and he wondered while he gazed upon her face, for it seemed less old. A vague sweetness, like a ghost of youth, had returned to it; the lines of sorrow had been softened, the wrinkles strangely smoothed, by the touch of a phantom Master mightier than he.
10
Her shrine is at Nara, — not far from the temple of the giant Buddha.
五
そこで、年老いた白拍子は約束の時刻に來た。して、柔かな白絹の上に畫家は彼女の姿を寫した。しかし、その際、畫家の弟子達の眼に映ぜる彼女の姿ではなく、鳥のやうな明るい眸を持つて、竹の如く嫩かで、絹や黃金の衣裳で天人の如く輝いてゐた。若い頃の彼女の記億を寫したものであつた。名工の靈筆の下に、消えてゐた美しさは歸つてきて、褪せてゐた華やかはまた咲き出でた。畫が出來上つて、落欵を施してから、彼はそれを立派に絹で表裝し、杉の軸を附け、象牙の風鎭を備へ、吊るすために絹紐を附け、白木の小箱に收めて、女に渡した。それから彼は金子若干をも贈物として強ひて取らせようと、勸めたけれども、彼女はその補助を受納しなかつた。
『いえ、實際わたしは何も要りませぬ。ただ畫だけがわたしの願で御座いました。これまで畫のために祈願をこめてゐたので御座います。最早大願成就、この上この世の願は持ちませぬ。またかやうに俗なこの世の願を特たずに死にますれば、佛道往生も難くはなからうと存じます。たゞ殘念に思ひますのは、先生に差上げますものとては、この衣裳の外、何も御座いません。先生の深い御親切に對しましては、これから每日先生の將來の御幸福を祈願致さうと存じます』
畫家は笑ひながら、きつぱり斷言して、『いや、これは何でもないことです。白拍子の衣裳だけは、それであなたの御心持が一層御宜しいなら、頂戴致します。昔、私のために、あなたが御不便を忍んで、しかも何うしても謝禮を受け下さらなかつたから、今に私は御恩を着てゐる積りです。その夜の樂しい思出になります。ですが、今は何處に御住居なさつてゐます? この畫の掛つた處を見たいものです』と云つた。
が、女は賤しい住家を御目にかけるも心苦しいと、丁寧に辯解して、所在を明さなかつた。それから再三低頭、禮を述べ、貴重な畫を携へ、嬉し淚を浮べて立去つた。
畫家は一人の弟子を呼んで、『急いで、あの女の人に分らぬやう、後へ追いて行け。して、何處に住んてゐるか、報告してくれ』といつた。そこで、弟子は見えないやうに、女について行つた。
餘程の時間が經つてから。弟子は歸つてきた。して、聞く人に取つて、面白くないことを云はねばならぬやうな風に笑ひ乍ら云つた。『先生、あの女に追いて行きますと、町を出まして、死刑場に近い、磧へ行きました。そこの特種部落のやうな小屋に住んでゐます。汚い、廢つた場所で御座います』
『だが、明日その汚い廢つた場所へ私を案內してくれ。私の存命中は、あの女に食べものや着物に不足させたり、困らせたりはさせないから』と畫家は答へた。
弟子達が皆不思議に思つたので、彼は白拍子の物語をした。それから始めて皆、彼の言葉を奇異と思はなくなつた。
[やぶちゃん注:「嫩かで」「わかやかで」と訓じておく。不思議に若々しい感じで。当該漢字の意味からは「やはらかで(やわらかで)」「なよやかで」なども想起出来るが、これらの読みは文全体との調和性を欠くように思う。
「落欵」落款に同じい。
「追いて」「ついて」。
「特種部落」「特種」は「特殊」に同じいが、より差別的なニュアンスを感じる。前後の原文は“There I saw a hut such as an Eta might dwell in”で、――そこで私は穢多のような連中が住もうておる小屋があるのを見ました――の謂いである。寧ろ、時代背景を考えれば、「穢多」と、そのまま訳し出した方が、よい。却って刊行時(大正一五(一九二六)年八月)の、訳者(この章は落合貞三郎の訳と推定される)の差別意識が反映した近代の差別表現に拠る訳語となってしまっている。批判的に読まれたい。平凡社「世界大百科事典」「特殊部落」には(コンマを読点に変えた)、『明治後期から今日まで、被差別部落とその出身者に対して用いられてきた差別呼称。被差別部落問題への無理解と深刻な部落差別意識を根底に潜めた差別語であり、適用が避けられるべきであるが,近代における部落問題の歴史と部落差別意識を解明するうえできわめて重要な言葉である。この言葉は』、明治四〇(一九〇七)年の『政府の全国部落調査の際に用いられたように、日露戦争後の部落改善政策の中で行政機関が使い、新聞記事などによって民衆の間にも広まったが、主として被差別部落の起源を異民族に求め、部落の人々の祖先を古代の朝鮮半島からの〈渡来人〉や律令国家の征服した〈蝦夷(えぞ)〉などとする誤った歴史認識にもとづくものである』とある。
「汚い、廢つた場所」老婆心乍ら、「廢つた」は「すたつた(すたった)」で、原文は“A forsaken and filthy place”で――見捨てられたわびしい不潔な場所――の謂いである。]
Ⅴ.
So the aged dancer came at the appointed hour; and upon soft white silk the artist painted a picture of her. Yet not a picture of her as she seemed to the Master's pupils but the memory of her as she had been in the days of her youth, bright-eyed as a bird, lithe as a bamboo, dazzling as a tennin [9] in her raiment of silk and gold. Under the magic of the Master's brush, the vanished grace returned, the faded beauty bloomed again. When the kakemono had been finished, and stamped with his seal, he mounted it richly upon silken cloth, and fixed to it rollers of cedar with ivory weights, and a silken cord by which to hang it; and he placed it in a
little box of white wood, and so gave it to the shirabyoshi. And he would also have presented her with a gift of money. But though he pressed her earnestly, he could not persuade her to accept his help. 'Nay,' she made answer, with tears, 'indeed I need nothing. The picture only I desired. For that I prayed; and now my prayer has been answered, and I know that I never can wish for anything more in this life, and that if I come to die thus desiring nothing, to enter upon the way of Buddha will not be difficult. One thought .alone causes me sorrow,— that I have nothing to offer to the Master but this dancer's apparel, which is indeed of little worth, though I beseech him I to accept it; and I will pray each day that his future life may be a life of happiness, because of the wondrous kindness which I he has done me.'
'Nay,' protested the painter, smiling, 'what is it that I have done? Truly nothing. As for the dancer's garments, I will accept them, if that can make you more happy. They will bring back pleasant memories of the night I passed in your home, when you gave up all your comforts for my unworthy sake, and yet would not suffer me to pay for that which I used; and for that kindness I hold myself to be still in your debt. But now tell me where you live, so that I may see the picture in its place.' For he had resolved within himself to place her beyond the reach of want.
But she excused herself with humble words, and would not tell him, saying that her dwelling-place was too mean to be looked upon by such as he; and then, with many prostrations, she thanked him again and again, and went away with her treasure, weeping for joy.
Then the Master called to one of his pupils: 'Go quickly after that woman, but so that she does not know herself followed, and bring me word where she lives.' So the young man followed her, unperceived.
He remained long away, and when he returned he laughed in the manner of one obliged to say something which it is not pleasant to hear, and he said: 'That woman, O Master, I followed out of the city to the dry bed of the river, near to the place where criminals are executed. There I saw a hut such as an Eta might dwell in, and that is where she lives. A forsaken and filthy place, O Master!'
'Nevertheless,' the painter replied, 'to-morrow you will take me to that forsaken and filthy place. What time I live she shall not suffer for food or clothing or comfort.'
And as all wondered, he told them the story of the shirabyoshi, after which it did not seem to them that his words were strange.
9
Tennin, a 'Sky-Maiden,' a Buddhist angel.
四
幾多の歲月が經つた。また幾多の流行もそれにつれて移り變つた。して、畫家も靑年が老いた。しかし、彼は既に名聲を博してゐた。彼の作品の妙に感じて、大名達は競つて彼に厚遇を與へたので、彼は富裕の身となつて、帝都に堂々たる邸宅を有した。諸國から多くの若い畫工が、彼の許に弟子入りをして、萬事奉公を勤め乍ら、彼の敎へを受けた。彼の名は全國に知れ渡つてゐた。
さて、一日ある老婦人が尋ねてきて、彼に面談を求めた。弟子達は、彼女の粗服と哀れな姿を見て、たゞの乞食と思ひ、荒々しく彼女の用事を問ふた。が、彼女が『私の參つた譯は、御主人でなくては云へません』と答へたので、狂女と信じて、『主人は今、西京にゐないのだ。またいつ頃歸られるかも、我輩にわからない』といつて欺いた。
が、老婦人は再三再四やつて來た――每日、毎週やつて來ては、その度每に『今日は主人は御病氣だよ』とか、『今日は非常に御多忙だから』とか、『今日は澤山の御來客だから、面會は出來ない』とか、何か眞實でないことを答へられた。それでも女は、每日一定の時刻に、またいつも襤褸包に卷いた一個の束を携へて、來つゞけた。で、遂に弟子達は彼女のことを師匠に告げるのが最も得策と思つて、彼にいつた。『こ〻の御門前に乞食と思はれる老女がゐます。御目にか〻りたいと申して、五十囘以上も參りましたが、その譯を入ひません。たゞ御師匠にだけ御願ひを申上げたいといつてゐます。どうも氣狂ひと存じますから、思ひ止まらせようとしますが、いつもやつてきます。これから何う致したら、よろしいものかと思ひまして、御耳に入れます』
そこで師匠の畫家は言葉銳く答へた。『なぜ、誰もそのことを今日まで言つて吳れなかつた?』して、自身で門へ行つて、彼も昔貧しかつたことを想起し乍ら、親切に女に話しかけた。施捨を求めるのかと尋ねた。
が、女は金錢も食物も要らないが、たゞ自身の畫を描いてもらひたいとの希望を述べた。彼はその願を怪しんで、女を家へ入らせた。女は玄關へ入つて、跪いて、携へてきた包の紐の結び目を解き始めた。包を開けたのを見ると、畫工は黃金模樣の刺繡を施せる華麗珍奇な絹の衣裳を認めた。しかし使ひ損じと、年月の經過のために、擦り粍らされ、色は褪めて、當年の全盛を偲ばせる白拍子の衣裳の名殘であつた。
老女が一つ一つ衣裳を擴げ、慄へる指で皺を伸ばさうとする間、ある記憶が畫家の腦裡に動いて、しばらく漠然と浸み渡つたが、不意に燃え上つた。その追想の優しい衝動の裡に、彼は再び淋しい山家を見た――彼が無報酬の欵待を受けた家、彼の臥床を設けられた小さな室、紙の蚊帳、佛壇の前に微かに輝く燈明、深夜そこでたゞ獨り踊つてゐた人の異樣な美しさを見た。そこで、老齡の訪問者の驚いたことには、この諸國諸大名の寵を受けてゐる彼が、彼女の前に低頭していつた。『瞬間でも御顏を忘れてゐた無禮を宥して下さい。しかし最早お互に御目にか〻つてから、四十年を越えました。今はよく思ひ起しました。あなたは甞て御宅へ私を迎へて下さつたのです。あなたは唯一つしかない寢床を私に讓つて下さいました。私はあなたの踊を見、またあなたから一切身の上話を聞かせてもらひました。あなたは白拍子でした。して、私はその御名を忘れは致しませぬ』
彼がさう云ふと、女は喫驚困惑して、始めは答へも出來なかつた。といふのは、年は老い、また非常に艱苦を甞め、且つ記憶力さへ衰へかけてゐたからであつた。が、彼がますます親切に話を向け、昔彼女がいつたことをさまざま思出させ、彼女が佗住居してゐた家の狀況を說いて聞かせると、女もまた思ひ出だし、喜悅の淚を浮べて云つた。『たしかに祈願を見そなはし玉ふ觀昔樣のお導きです。しかし不束な家へ先生が御出下さつた頃は、私も今のやうではありませんでした。先生が御覺え下さつたのは、佛樣の御奇蹟のやうに存じます』
それから、女はあれから後の彼女の簡單な物語をした。幾星霜の後、彼女は貧乏のため、かの小さな家を手離さねばならなかつた。で、年が寄つてから、彼女の名の夙くに忘れられてゐた大都會へ獨り歸つてきた。彼女の家を失つたのは心苦しかつた。しかし年老い、身體弱くなつでは、いとしい亡き人の靈を慰めるために、最早每夜佛壇の前で踊ることの出來ないのが、更につらかつた。踊りの衣裳姿の畫を描いてもらつて、佛壇の前へ掛けたいのであつた。これがために、觀音に熱心な祈願をしてゐた。して、亡き人のために、平凡な作品でなく、最も優れた畫が望ましいため、この大畫家の名聲を慕つて、尋ねてきたのであつた。で、踊の衣裳を携へてきたから、それを着た姿を描いて貰ひたいと願つた。
彼は親切さうな微笑を呈しつゝ一切の話を聽いた。それから『御望みの繪を描くことは、欣んで致します。今日は延期の出來ない、是非仕上げねばならぬことがありますが、明日こゝヘ御出下されば、御望み通り、また私も全力を盡して、描いて上げますよ』と答へた。
しかし女はいつた。『わたしはまだ一番、氣にかゝつてゐることを御話申し上げてゐませんのです。それは、それほど御手數を煩はしまても、御謝料と申しましては、白拍子の衣裳の外、何も差上げる譯に參らないことです。それも昔は高價なもので御座いましたが、その品物と致しましては三文の値段にもなりませぬ。でも、今では白拍子もゐなくなりまして、當節の舞妓はこんな衣裳を着けませんから、珍らしい物と思召になつて、先生が御受け下さるかとも存じましたので』
『そのことは、すこしも御心配に及びません』と、親切なる畫家は叫んだ。『これで昔の御恩を幾分かでも御返へしが出來れば、私は嬉しい次第です。だから明日、御望み通り描いてあげます』
女は三拜して、禮を陳べ、それから、また云つた。『失禮で御座いますが、もう少し申上げたく存じます。それは何卒このやうな今のわたしでなく、昔御覽になつたやうな、わたしの若い頃の姿をお描き下さいますやう』
彼は『私はよく記憶してゐます。あなたは非常に御綺麗でした』といつた。
是等の言葉に對して、女が感謝の辭儀をした時に、皺のよつた容貌は、嬉しさうに輝いた。して、女は叫んだ。『では、いよいよ祈願が叶ふことになりました。かやうに不束なわたしの若い頃を御覺え下さつてゐるからには、どうぞこのま〻でなく、御親切にも、みにく〻は無かつたと、今仰せ下さいました通りの、わたしの昔の姿を御描き下さいませ。どうか、先生、わたしを今一度若くして下さいませ。亡くなりました人の靈に美しく見えますやう、美しくして下さいませ。その人のための祈願で御座います。先生の名畫を拜見致しますれば、あの人もわたしの最早踊れないのを勘忍して吳れませうから』
もう一度、畫家は彼女に安心をさせて、それから云つた。『明日御出下されば、描いて上げますよ。私が見た時のやうな、若い美しい白拍子のあなたを描いてあげます。また、三國一の大富豪から依賴を受けたと同樣に、念を入れて、うまくやつて見せませう。御心配なく、たゞ御出なさい』
[やぶちゃん注:「施捨」「せしや(せしゃ)」は「喜捨」に同じい。惜しむ心を捨てて喜んで財物を施し、捨て放つことを言う。これは仏・法・僧の三宝を守るための慈悲の「施し」である同時に、自らを財物への悪しき執着や物欲を「捨て去る」ための方途でもある故に「施捨」なのである。]
Ⅳ.
Many years passed by, and many fashions with them; and the painter became old. But ere becoming old he had become famous. Princes, charmed by the wonder of his work, had vied with one another in giving him patronage; so that he grew rich, and possessed a beautiful dwelling of his own in the City of the Emperors. Young artists from many provinces were his pupils, and lived with him, serving him in all things while receiving his instruction; and his name was known throughout the land.
Now, there came one day to his house an old woman, who asked to speak with him. The servants, seeing that she was meanly dressed and of miserable appearance, took her to be some common beggar, and questioned her roughly. But when she answered: 'I can tell to no one except your master why I have come,' they believed her mad, and deceived her, saying: 'He is not now in Saikyō, nor do we know how soon he will return.'
But the old woman came again and again,— day after day, and week after week,— each time being told something that was not true: 'To-day he is ill,' or, 'To-day he is very busy,' or, 'To-day he has much company, and therefore cannot see you.' Nevertheless she continued to come, always at the same hour each day, and always carrying a bundle wrapped in a ragged covering; and the servants at last thought it were best to speak to their master about her. So they said to him: 'There is a very old woman, whom we take to be a beggar, at our lord's gate. More than fifty times she has come, asking to see our lord, and refusing to tell us why,— saying that she can tell her wishes only to our lord. And we have tried to discourage her, as she seemed to be mad; but she always comes. Therefore we have presumed to mention the matter to our lord, in order that we may learn what is to be done hereafter.'
Then the Master answered sharply: 'Why did none of you tell me of this before?' and went out himself to the gate, and spoke very kindly to the woman, remembering how he also had been poor. And he asked her if she desired alms of him.
But she answered that she had no need of money or of food, and only desired that he would paint for her a picture. He wondered at her wish, and bade her enter his house. So she entered into the vestibule, and, kneeling there, began to untie the knots of the bundle she had brought with her. When she had unwrapped it, the painter perceived curious rich quaint garments of silk broidered with designs in gold, yet much frayed and discolored by wear and time,— the wreck of a wonderful costume of other days, the attire of a shirabyōshi.
While the old woman unfolded the garments one by one, and tried to smooth them with her trembling fingers, a memory stirred in the Master's brain, thrilled dimly there a little space, then suddenly lighted up. In that soft shock of recollection, he saw again the lonely mountain dwelling in which he had received unremunerated hospitality,— the tiny room prepared for his rest, the paper mosquito-curtain, the faintly burning lamp before the Buddhist shrine, the strange beauty of one dancing there alone in the dead of the night. Then, to the astonishment of the aged visitor, he, the favored of princes, bowed low before her, and said: 'Pardon my rudeness in having forgotten your face for a moment; but it is more than forty years since we last saw each other. Now I remember you well. You received me once at your house. You gave up to me the only bed you had. I saw you dance, and you told me all your story. You had been a shirabyōshi, and I have not forgotten your name.'
He uttered it. She, astonished and confused, could not at first reply to him, for she was old and had suffered much, and her memory had begun to fail. But he spoke more and more kindly to her, and reminded her of many things which she had told him, and described to her the house in which she had lived alone, so that at last she also remembered; and she answered, with tears of pleasure: 'Surely the Divine One who looketh down above the sound of prayer has guided me. But when my unworthy home was honored by the visit of the august Master, I was not as I now am. And it seems to me like a miracle of our Lord Buddha that the Master should remember me.'
Then she related the rest of her simple story. In the course of years, she had become, through poverty, obliged to part with her little house; and in her old age she had returned alone to the great city, in which her name had long been forgotten. It had caused her much pain to lose her home; but it grieved her still more that, in becoming weak and old, she could no longer dance each evening before the butsudan, to please the spirit of the dead whom she had loved. Therefore she wanted to have a picture of herself painted, in the costume and the attitude of the dance, that she might suspend it before the butsudan. For this she had prayed earnestly to
Kwannon. And she had sought out the Master because of his fame as a painter, since she desired, for the sake of the dead, no common work, but a picture painted with great skill; and she had brought her dancing attire, hoping that the Master might be willing to paint her therein.
He listened to all with a kindly smile, and answered her: 'It will be only a pleasure for me to paint the picture which you want. This day I have something to finish which cannot be delayed. But if you will come here to-morrow, I will paint you exactly as you wish, and as well as I am able.'
But she said: 'I have not yet told to the Master the thing which most troubles me. And it is this,— that I can offer in return for so great a favor nothing except these dancer's clothes; and they are of no value in themselves, though they were costly once. Still, I hoped the Master might be willing to take them, seeing they have become curious; for there are no more shirabyōshi, and the maiko of these times wear no such robes.'
'Of that matter,' the good painter exclaimed, 'you must not think at all! No; I am glad to have this present chance of paying a small part of my old debt to you. So to-morrow I will paint you just as you wish.'
She prostrated herself thrice before him, uttering thanks and then said, 'Let my lord pardon, though I have yet something more to say. For I do not wish that he should paint me as I now am, but only as I used to be when I was young, as my lord knew me.'
He said: 'I remember well. You were very beautiful.'
Her wrinkled features lighted up with pleasure, as she bowed her thanks to him for those words. And she exclaimed: 'Then indeed all that I hoped and prayed for may be done! Since he thus remembers my poor youth, I beseech my lord to paint me, not as I now am, but as he saw me when I was not old and, as it has pleased him generously to say, not uncomely. O Master, make me young again! Make me seem beautiful that I may seem beautiful to the soul of him for whose sake I, the unworthy, beseech this! He will see the Master's work: he will forgive me that I can no longer dance.
Once more the Master bade her have no anxiety, and said: 'Come tomorrow, and I will paint you. I will make a picture of you just as you were when I saw you, a
young and beautiful shirabyōshi, and I will paint it as carefully and as skillfully as if I were painting the picture of the richest person in the land. Never doubt, but come.'
三
若い旅人には女主人の睡眠を犧牲にするやうな親切が、いかに氣の毒に思はれて、それを受け容れ難くはあつたが、寢床はなかなかに心地よく感ぜられた。彼は餘程疲勞してゐたから木枕の土に頭を載せるや否や、一切のことを睡夢の裡に忘れてしまつた。
しかし彼が奇異な音によつて目を醒まされた時には、まだ眠つてから間もない程のやうに思はれた。たしかに跫音ではあるが、物靜かに步く足の音ではなかつた。寧ろ興奮せる急速の跫音と思はれた。だから、強盜の侵入ではないかとも心に浮んだ。自身については損失となるほどのものも持たないから、心配にも及ばなかつた。彼の憂慮は主として彼に欵待を與へた親切なる女に對してであつた。紙の蚊帳の兩側には、四角形の小さい褐色の網が小窓のやうに嵌めてあつたので、それから外を覗いて見た。が、如何なることの起こつてゐるにせよ、高い屛風に塞がれて、見えやうはなかつた。呼んで見ようと思つたが、若し眞に危險の場合ならば、狀況をも究めないで、自身を現はしては、無效に歸し、また思慮を缺くだらうといふ考によつて、この衝動は抑へられた。彼を不安ならしめた物音は、續いて行つて、ますます不思議になつた。彼は萬一の覺悟をして、必要の際は、若い女主人を防禦せんがために、一身を賭けようと決心した。急いで着物を緊めて、窃と蚊帳の下から拔けて出で、屛風の端へ這つて行つて窺つた、彼が見た光景は、全く彼を喫驚させた。
燈明の輝いた佛壇の前で、若い女は華かな服裝をして、獨りで踊つてゐた。彼は彼女の衣裳を白拍子のそれと認めた。尤も從來白拍子が着てゐるのを見たものに比すれば遙かに華麗であつた。衣裳によつて天晴れ引立つた彼女の美は、その淋しい時刻と場處に於て見ると、殆どこの世とも思はれぬほどであつた。が、更に一層驚くべきは彼女の踊りであつた。霎時彼は凄い疑惑が疼くのを感じた。百姓達の迷信なる狐婆の物語が、彼の念頭に閃いた。が、佛壇の光景、觀音の畫像が、その空想を散らし、その愚かさに對して彼を恥ぢ入らせた。同時に彼は女が彼に見られるのを欲しないものを注視してゐるのだと氣付いたので、客の義務として、すぐに屛風の背後に歸らねばならぬと悟つた。しかしその光景は彼を魅惑した。彼は愕き乍らもまた空前の妙舞を欣賞せざるを得なかつた。して、眺め入るに從つて、彼女の魅力はますます加つた。不意に彼女は喘ぎ乍ら停まつた。帶を解いた。上衣を脫がうとして振り向いた。すると、彼女の眼が彼の眼と出逢つて、びつくりした。
彼は直ちに女に詫び入つた。彼は突然急速な跫音に目が醒めたので、夜は更けて、淋しい場處だから、女主人のため不安に思つたのだと云つた。それから、踊りを見て驚いたこと、その妙技に心を奪はれたことを告白した。『どうか私の好奇心を宥して下さい』と彼はつゞけていつた。『私にはあなたが何と申すお方か、また何うしてかやうな踊りの名手になられたものか、それが不思議で堪まりませぬから。西京の舞妓は皆見ましたが、まだいかほど有名な女でも、あなたに及ぶものはありません。それで、一たび拜見しましてからは、私の眼を外づす譯に參らなかつたのです』
始め彼女は立腹の樣子に見えたが、彼の言葉の終はらぬ內に、表情は變つてゐた。彼女は微笑を浮べ、彼の前に坐つて云つた。『いえ、怒つてはゐません。たゞ御覽になつたのを遺憾に存じますだけなのです。嘸あのやうに獨りで踊つてゐたのを、氣狂ひとでも御考へなさつたのでせうから。では、その譯を申上げねばなりません』
それから、彼女は身の上話をした。彼は少年の時、女の名を聞いたことを思ひ出した――彼女の藝名は白拍子中最も有名な名であつた。彼女は都門の寵を一身に蒐めてゐた。それがその名聲と美の眞盛りに、一朝何故とも、何處へとも知れず、華やかな世界から消え失せた。彼女はその愛人なる靑年と相携へて、富と幸運から逃れ去つたのであつた。靑年は貧しかつたけれども、彼等は二人で簡易且つ幸福な田舍の生活を營むだけの資產を有した。彼等は山間に小さな住宅を作り、數年間たゞ互同志を中心に暮らした。男は彼女を拜まんばかりに愛慕してゐた。彼の最大の樂しみの一つは、彼女が踊るのを見ることであつた。每夜彼は得意の曲を奏し、彼女は彼のために踊るのであつた。が、或る冬の長い寒さに、彼は病に罹つて、彼女のやさしい看護の效もなく、亡くなつた。それから後、女は死んだ人に献げるさまざまの儀式を行ひつ〻、男の名殘を伴侶として獨りで暮らしてきた。日每に位牌の前へは慣例の供物を供へ、夜每に昔通り彼を慰めるために踊つた。若い旅人が目擊した踊りは、かやうな次第であつた。彼女は說明をつゞけて、疲れた客の目を醒ましたのは無禮であつたこと、しかし彼が熟睡したと思はれるまでは控へてゐたこと、それから、極めて輕やかに踊るやうにしたことを述べて、全く覺えず知らず彼の安眠を妨げたことの寬恕を求めた。
彼女は一切の話を終つてから、少しの茶を薦め、二人で飮んだ。それから、哀訴せんばかりに、彼に再び寢に就くやう懇願したので、彼も止むなく、幾多衷心からの謝わりを述べ乍ら、また蚊帳の下へ歸つて行つた。
彼は充分長く熟睡した。目を醒ますと、日は既に高かつた。起きてみると、昨夕と同じい質素な食事が、彼に準備してあつた。彼は飢ゑてゐたけれども、女が彼のために自らの食物を節約したかも知れないので、控へ目に食べた。して、彼は出立の用意をした。しかし彼が受けた一切の待遇に對して謝禮の金を拂はうとしたとき、女は何をも受けることを拒んだ。『差し上げましたものは、お金をいたゞくほどのものでなく、また何を致しましたのもたゞ厚意からなのです。どうか、こ〻で御困りになつたことは御忘れ下すつて、何と云つで差上げますものもありませんでしたが、たゞ心持だけを御汲み取つていたゞきますれば』と云つた。
彼はそれでも幾らか彼女に取らせようと努力した。しかしたうとう、いかに强ひても彼女を困らすばかりと知つたので、言葉を盡して感謝を陳べ、別かれ[やぶちゃん注:ママ。]を告げた。して、心の中では、立去るのを遺憾に思つた。彼女の美しさと上品さは、彼が彼女以外のものには告白しかねる程、彼を惹きつけたからであつた。彼女は彼にこれから先きの道を示し、山を下つて行く彼の姿が沒するまで見守つてゐた。一時間後に、彼は本道に出でた。最早道筋はよくわかつた。すると、急に殘念な思ひが浮んだ。彼は自分の名を女に告げることを忘れたのであつた。瞬間彼は躊躇した。それから、『何、どうでもよい。俺はいつまでも貧乏だから』と獨言をいつた。して、彼は旅をつゞけた。
[やぶちゃん注:「霎時」は何度も出てきているが、ここらで再注しておく。「せふじ(しょうじ)」と読み、「暫時」に同じい。暫くの間。一寸の間。
「欣賞」「きんしやう(きんしょう)」で「歓び、褒め、味わう」の謂いであろう。
「嘸」老婆心乍ら、副詞の「さぞ」である。]
Ⅲ.
Unwilling as the young traveler felt to accept a kindness involving the sacrifice of another's repose, he found the bed more than comfortable. He was very tired, and had scarcely laid his head upon the wooden pillow before he forgot everything in sleep.
Yet only a little while seemed to have passed when he was awakened by a singular sound. It was certainly the sound of feet, but not of feet walking softly. It seemed rather the sound of feet in rapid motion, as of excitement. Then it occurred to him that robbers might have entered the house. As for himself, he had little to fear because he had little to lose. His anxiety was chiefly for the kind person who had granted him hospitality. Into each side of the paper mosquito-curtain a small square of brown netting had been fitted, like a little window, and through one of these he tried to look; but the high screen stood between him and whatever was going on. He thought of calling, but this impulse was checked by the reflection that in case of real danger it would be both useless and imprudent to announce his presence before understanding the situation. The sounds which had made him uneasy continued, and were more and more mysterious. He resolved to prepare for the worst, and to risk his life, if necessary, in order to defend his young hostess. Hastily girding up his robes, he slipped noiselessly from under the paper curtain, crept to the edge of the screen, and peeped. What he saw astonished him extremely.
Before her illuminated butsudan the young woman, magnificently attired, was dancing all alone. Her costume he recognized as that of a shirabyoshi, though much richer than any he had ever seen worn by a professional dancer. Marvelously enhanced by it, her beauty, in that lonely time and place, appeared almost supernatural; but what seemed to him even more wonderful was her dancing. For an instant he felt the tingling of a weird doubt. The superstitions of peasants, the legends of Fox-women, flashed before his imagination; but the sight of the Buddhist shrine, of the sacred picture, dissipated the fancy, and shamed him for the folly of it. At the same time he became conscious that he was watching something she had not wished him to see, and that it was his duty, as her guest, to return at once behind the screen; but the spectacle fascinated him. He felt, with not less pleasure than amazement, that he was looking upon the most accomplished dancer he had ever seen; and the more he watched, the more the witchery of her grace grew upon him. Suddenly she paused, panting, unfastened her girdle, turned in the act of doffing her upper robe, and started violently as her eyes encountered his own.
He tried at once to excuse himself to her. He said he had been suddenly awakened by the sound of quick feet, which sound had caused him some uneasiness, chiefly for her sake, because of the lateness of the hour and the lonesomeness of the place. Then he confessed his surprise at what he had seen, and spoke of the manner in which it had attracted him. 'I beg you,' he continued, 'to forgive my curiosity, for I cannot help wondering who you are, and how you could have become so marvelous a dancer. All the dancers of Saikyō I have seen, yet I have never seen among the most celebrated of them a girl who could dance like you; and once I had begun to watch you, I could not take away my eyes.'
At first she had seemed angry, but before he had ceased to speak her expression changed. She smiled, and seated herself before him.' 'No, I am not angry with you,' she said. 'I am only sorry that you should have watched me, for I am sure you must have thought me mad when you saw me dancing that way, all by myself; and now I must tell you the meaning of what you have seen.'
So she related her story. Her name he remembered to have heard as a boy,— her professional name, the name of the most famous of shirabyoshi, the darling of the capital, who, in the zenith of her fame and beauty, had suddenly vanished from public life, none knew whither or why. She had fled from wealth and fortune with a youth who loved her. He was poor, but between them they possessed enough means to live simply and happily in the country. They built a little house in the mountains, and there for a number of years they existed only for each other. He adored her. One of his greatest pleasures was to see her dance. Each evening he would play some favorite melody, and she would dance for him. But one long cold winter he fell sick, and, in spite of her tender nursing, died. Since then she had lived alone with the memory of him, performing all those small rites of love and homage with which the dead are honored. Daily before his tablet she placed the customary offerings, and nightly danced to please him, as of old. And this was the explanation of what the young traveler had seen. It was indeed rude, she continued, to have awakened her tired guest; but she had waited until she thought him soundly sleeping, and then she had tried to dance very, very lightly. So she hoped he would pardon her for having unintentionally disturbed him.
When she had told him all, she made ready a little tea, which they drank together; then she entreated him so plaintively to please her by trying to sleep again that he found himself obliged to go back, with many sincere apologies, under the paper mosquito-curtain.
He slept well and long; the sun was high before he woke. On rising, he found prepared for him a meal as simple as that of the evening before, and he felt hungry. Nevertheless he ate sparingly, fearing the young woman might have stinted herself in thus providing for him; and then he made ready to depart. But when he wanted to pay her for what he had received, and for all the trouble he had given her, she refused to take anything from him, saying: 'What I had to give was not worth money, and what I did was done for kindness alone. So! pray that you will try to forget the discomfort you suffered here, and will remember only the good-will of one who had nothing to offer.'
He still endeavored to induce her to accept something; but at last, finding that his insistence only gave her pain, he took leave of her with such words as he could find to express his gratitude, and not without a secret regret, for her beauty and her gentleness had charmed him more than he would have liked to acknowledge to any but herself. She indicated to him the path to follow, and watched him descend the mountain until he had passed from sight. An hour later he found himself upon a highway with which he was familiar. Then a sudden remorse touched him: he had forgotten to tell her his name. For an instant he hesitated; then he said to himself, 'What matters it? I shall be always poor.' And he went on.
二
戶を叩いて數囘呼んでから、漸つと內側に何か動く氣配がした。それから、何の御用ですかと尋ねる女の聲がした。その聲は殊の外美しかつた。またその姿は見えぬ女の言葉が、彼を喫驚させた、といふのは、彼女は都の洗練された言葉で話したからである 彼は修業の中の靑年であること、山中で道に迷つたこと、出來るならば、食事と一夜の宿を得たいこと、それから、もしそれが出來ないならば、最寄りの村へ行く道を敎へて貰つても有難く思ふといふことを答へた――それに案內者を雇ふ費用は、充分有つてゐることも附加へた。返答として彼女の聲は、更に二三のことを質ね返へした。彼の通つてきた方向から、その家へ達し得たことを、女は非常に驚いた樣子であつた。が、彼の答によつて、明かに疑ひを晴らしたものの如く、內側から叫んで言つた。『すぐ參ります。今晩、村へお出になるのは御困難でせう――道中が御危うございますから』
暫く手間取つてから、雨戶が開かれ、女が提燈を持つて現れた。自身は影にゐて、旅人の顏を照らすやうに、それを翳した。彼女は無言のま〻、彼を吟味し、それから簡單に云つた。『お待ち下さい。水を持つて參りますから』彼女は盥を取つてきて、それを戶口の階段の上に載せ、また手拭を薦めた。彼は草鞋を脫ぎ、足を洗つて、旅の塵を拂ひ、して、さつぱりした室へ案內された。その室が家の內部全體を占めて、背後に小さな板圍ひをした場所が、臺所となつてゐるやうであつた。木綿の座布團が出され、また火鉢が彼の前ヘ置かれた。
その時、彼は始めて女主人を觀察する好機會を得た。して、彼は彼女の容貌の美麗と優雅に驚いた。年齡は彼より三歲乃至四歲位多いかも知れないが、まだ若い盛りであつた。たしかに彼女は田舍娘ではなかつた。前と同じく殊の外、美くしい聲で彼に語つて云つた。『今は獨り者でゐますので、こ〻へ客をお泊め申す譯には參りませんが、これから先きヘ今夜お步きになるのは、屹度お危うございます。二三の百姓家も程遠からぬ處にありますが、この暗さではそこへも案內無くては、道がお分かりかねます。ですから、明朝まで御留め申上げます。御粗末では御座いますが、夜具を御用立てますから。それから、御空腹でいらつしやるでせうから、たゞまづい精進料理なんですが、どうか御遠慮なく召しあがつて下さい』
註。精進料埋は、少しも動物類の材
料を含まない佛敎の食物である。あ
る種の精進料理は、頗る食慾を促す。
飢ゑでゐた旅人は、この勸めを非常に欣んだ。若い女は小さな火を焚いて、默つたまゝ、二三の料理を調へた――菜の葉を煮たもの、油揚、干瓢、それに一杯の粗飯――それから、その食物の性質について、詫び乍ら、手早く客の前へ出した。が、彼の食事中、女は殆ど物を云はなかつたので、その打解けぬ樣子は彼を困惑させた。彼が試みた二三の質問に對し、彼女は單に點頭いたり、或は僅かに一語の返答をするに止まるので、彼は間もなく談話を控へて了つた。
兎角する内に、彼はこの小さな家は一點の塵を留めぬほど淸潔で、彼の食事に用ひられた器物は、また申分の無いものであつたことを觀察した。室內にある數個の安い道具も小綺麗であつた。押入や膳棚の紙障は、たゞ白紙ではあるが、大きな漢字の立派な揮毫で飾られてゐた。その文字は、か〻る裝飾の法則に隨つて、詩人や畫家の好む題材――春花、秋月、夏雨、山と海、空と星、河水或は秋風――に因んだものであつた。室の一方の側には、一種の低い垣に佛壇が載せられて、その漆塗りの小さな扉が開いてゐる處から、內部の位牌が見えて、野花が捧げられた間には、燈明が輝いてゐた。して、この佛間の上には月の光背を負つカ觀音像の、並々ならぬ價値ある畫がかかつてゐた。
靑年が僅かの食事を濟ましてから、女は云つた。『立派な夜具を差上げる譯に參りません。また紙の蚊帳が一枚しかありません。夜具と蚊帳とも私の使つてゐます品ですが、今夜はいろいろの用事がありまして、私は寢る時間が無いのですから、どうか御休みなすつて下さい。まことに御粗末さまで相濟みませんが』
彼はそこで、彼女は何か不思議な理由があつて、全くの獨り暮らしだので、厚意的口實の下に彼女の唯一の寢具を彼に薦めてゐるのだと悟つた。彼はか〻る過度の欵待に對して眞面目に抗議を申立て、床の上、何處でも熟睡が出來ること、それから蚊も少しも頓着しないことを斷言した。しかし彼女は姊のやうな口調で、是非とも彼女の希望に從つて吳れと言つた。實際彼女には或る仕事があるから、出來る限り早く勝手にさせて戴きたい。だから、彼を紳士だと心得てゐる以上、彼が彼女の希望通りに處置させて吳れるものと信じてゐるといつた。そこには唯だ一つの室より無かつたから、彼はこの言葉に對して、抵抗は出來なかつた。彼女は布團を延べ、木枕を持出だし、紙の蚊帳を吊るし、寢床の橫の佛壇の方へは、大きな屛風を擴げ、それから、彼がすぐに寢につくことを望むやうな素振を見せて、お休みを告げた。彼は思ひも寄らね厄介を女にかけることを考へて、躊躇し乍らも、その言葉に應じて寢に就いた。
[やぶちゃん注:「欵待」「かんたい」で「款待・歓待」に同じい。「款」「欵」は、孰れも「親しみ・よしみ」の意である。]
Ⅱ.
Not until he had knocked and called several times did he hear any stir within; then a woman 's voice asked what was wanted. The voice was remarkably sweet, and the speech of the unseen questioner surprised him, for she spoke in the cultivated idiom of the capital. He responded that he was a student, who had lost his way in the mountains; that he wished, if possible, to obtain food and lodging for the night; and that if this could not be given, he would feel very grateful for information how to reach the nearest village,— adding that he had means enough to pay for the services of a guide. The voice, in return, asked several other questions, indicating extreme surprise that anyone could have reached the dwelling from the direction he had taken. But his answers evidently allayed suspicion, for the inmate exclaimed: 'I will come in a moment. It would be difficult for you to reach any village to-night; and the path is dangerous.'
After a brief delay the storm-doors were pushed open, and a woman appeared with a paper lantern, which she so held as to illuminate the stranger's face, while her own remained in shadow. She scrutinized him in silence, then said briefly, 'Wait; I will bring water.' She fetched a wash-basin, set it upon the doorstep, and offered the guest a towel. He removed his sandals, washed from his feet the dust of travel, and was shown into a neat room which appeared to occupy the whole interior, except a small boarded space at the rear, used as a kitchen. A cotton zabuton was laid for him to kneel upon, and a brazier set before him.
It was only then that he had a good opportunity of observing his hostess, and he was startled by the delicacy and beauty of her features. She might have been three or four years older than he, but was still in the bloom of youth. Certainly she was not a peasant girl. In the same singularly sweet voice she said to him: 'I am now alone, and I never receive guests here. But I am sure it would be dangerous for you to travel farther tonight. There are some peasants in the neighborhood, but you cannot find your way to them in the dark without a guide. So I can let you stay here until morning. You will not be comfortable, but I can give you a bed. And I suppose you are hungry. There is only some shōjin-ryōri, [7]— not at all good, but you are welcome to it.'
The traveler was quite hungry, and only too glad of the offer. The young woman kindled a little fire, prepared a few dishes in silence,— stewed leaves of na, some aburagé, some kampyō, and a bowl of coarse rice,— and quickly set the meal before him, apologizing for its quality. But during his repast she spoke scarcely at all, and her reserved manner embarrassed him. As she answered the few questions he ventured upon merely by a bow or by a solitary word, he soon refrained from attempting to press the conversation.
Meanwhile he had observed that the small house was spotlessly clean, and the utensils in which his food was served were immaculate. The few cheap objects in the apartment were pretty. The fusuma of the oshiire and zendana [8] were of white paper only, but had been decorated with large Chinese characters exquisitely written, characters suggesting, according to the law of such decoration, the favorite themes of the poet and artist: Spring Flowers, Mountain and Sea, Summer Rain, Sky and Stars, Autumn Moon, River Water, Autumn Breeze. At one side of the apartment stood a kind of low altar, supporting a butsudan, whose tiny lacquered doors, left open, showed a mortuary tablet within, before which a lamp was burning between offerings of wild flowers. And above this household shrine hung a picture of more than common merit, representing the Goddess of Mercy, wearing the moon for her aureole.
As the student ended his little meal the young woman observed: I cannot offer you a good bed, and there is only a paper mosquito-curtain The bed and the curtain are mine, but to-night I have many things to do, and shall have no time to sleep; therefore I beg you will try to rest, though I am not able to make you comfortable.'
He then understood that she was, for some strange reason, entirely alone, and was voluntarily giving up her only bed to him upon a kindly pretext. He protested honestly against such an excess of hospitality, and assured her that he could sleep quite soundly anywhere on the floor, and did not care about the mosquitoes. But she replied, in the tone of an elder sister, that he must obey her wishes. She really had something to do, and she desired to be left by herself as soon as possible; therefore, understanding him to be a gentleman, she expected he would suffer her to arrange matters in her own way. To this he could offer no objection, as there
was but one room. She spread the mattress on the floor, fetched a wooden pillow, suspended her paper mosquito-curtain, unfolded a large screen on the side of the bed toward the butsudan, and then bade him good-night in a manner that assured him she wished him to retire at once; which he did, not without some reluctance at the thought of all the trouble he had unintentionally caused her.
7
Buddhist food, containing no animal substance. Some kinds of shōjin- ryōri are quite appetizing.
8
The terms oshiire and zendana might be partly rendered by 'wardrobe' and 'cupboard.' The fusuma are sliding screens serving as doors.
図―715
図―716
今日蜷川の葬儀が行われ、私も招かれて参加した。彼は虎列刺(コレラ)で死んだので、その時は公な葬式が許されず、今や、三ケ月後になって、それが行われるのである。私は早くから竹中と一緒に、上野の後方にある墓地へ行き、葬列の来るのを待つ間、墓石を二 つ三つ写生し、そこで葬列が来たらそれをむかえる可く、主要な並木路を見ていた。間もなく葬列が来た。先ず竹竿のさきに新しい、白張の掟灯をつけたのを持った男が十二人、彼等は白い衣服をつけ、絹製の奇妙な形をした、黒い儀式用帽子をかぶっていた(図715)。これに続いて、巨大な花束を持った男が二人、次に六人の男が肩でかついだ長い物、つまり棺。これは勿論からだが、蟻川の死骸を代表している(図716)。これに従うのが送葬者で、蜷川の姉と坊、その他私の知らぬ人が何人か、歩いたり、人力車にのったりして来た。私は屢々このような葬列を往来で見て、本物だろうと思っていたが、その多くが単に名義上の葬式であることを知った。棺架は、四方がひらいた、然し風で前後にはためく白い幔幕でかこまれた、大きな建物の内にはこび込まれた。まったく寒い日で、そこに帽子を脱いで坐っていることは、楽ではなかった。
[やぶちゃん注:「蜷川」既注であるが、彼の葬儀のシークエンスであるので再掲する。モースの陶器収集の師であった蜷川式胤(にながわのりたね 天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)は京都東寺の公人(くにん:社寺に属して雑事に従った職員。)蜷川子賢の子として生まれ、明治二(一八六九)年新政府の制度取調御用掛として上京、太政官権少史・外交大録・文部省博物局御用・内務省博物館掛などを歴任したが、明治十年に病により辞任、この間、明治四年に開催された九段坂上の物産会、翌五年の湯島聖堂に於ける博覧会の開催に尽力、同年には近畿地方の社寺宝物検査に従事してもいる。その際、正倉院宝物調査の記録を残したことでもよく知られる。また、文化財の調査保存や博物館の開設を政府に建議し、日本の古美術を海外に紹介した功も大きい(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠る追加)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『民法編纂事業に参加してフランス民法を翻訳、同年四月外務省大録』(第十一等官)、『ついで五年から十年まで文部省博物局に在籍して社寺宝物調査に従事、正倉院や伊勢神宮を調査した。当時第一流の好古家で、陶磁器や古瓦などに造詣が深かった』。モースとは『明治十一年の晩秋までにはすでに交流があったと思われる』が、『両者の接触がいちじるしく緊密になるのは明治十二年に入ってからで、『蜷川日記』を見ると、一月から四月までにに約三〇回も会っている』とあり、彼の指導によって『モースの』陶器への『鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった』という。『こうして始まったモースの日本陶器コレクションの大半は、いまボストン美術館に納められており、現存点数は四七四六という。海外はもとより、国内にも単一のコレクションとしては並ぶものがほとんどない』とある。本書でも「第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし」(この陶器は考古学上の土器ではなく、本物の陶磁器のこと)などで、おいおい語られてゆくこととなる。因みに、モースは『漢字が読めなかったが、貝類を分類し同定(種類の識別)するのとまったく同じ流儀で、陶工の銘を子細に識別できた。このような熱心さを知って、師匠の蜷川も本腰を入れて指導したから、モースの鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった。「めんないちどり」といって、両眼を手拭で覆い、手と指の感触だけで焼物がどの系統の何焼か、誰の作かを当てる競技があるそうだが、蜷川式胤の孫の蜷川親正氏が父から聞いたところでは、モースはこの競技での正解率随一の人だったという』とある。モースが関西旅行中の八月二十一日に蜷川式胤は東京でコレラのために逝去していた。この葬儀の日付は明らかではないが(そもそも多くの蜷川の事蹟記載のコレラという死因説は、何と、本書のモースの記載に拠ったものであることが判った)、モースの「三ケ月後」というのが正確であるとすれば、治一五(一八八二)年の十一月中下旬に行われたということになる。描写の最後でしきりにモースが寒がっていることからも、既に初冬に近いことが判る。
「上野の後方にある墓地」谷中霊園。蜷川式胤の墓もここにある。
「大きな建物」推測であるが、これは現存しない私設の谷中斎場ではないかと思われる。ここは後に森鷗外・芥川龍之助・大杉栄と伊藤野枝などの葬儀も行われている知られた斎場であった。]
図―717
図717は、式が始った時、この建物の内部を、急いで写生したものである。棺架は左方に、二つの支持脚の上に、のっている。花は棺架の端の花入台に入っている。次に漆塗の卓が二個、その一つは他よりも背が低く、大きい方の卓には、蜷川の名前を書いた木の札が立てかけてある。これは葬列が持って来たので、一時的の墓石として使用される。卓には磨き上げた真鍮の盃その他や、黒い漆塗の台にのせた食物や、簡単な木造の燭台に立てた六木の蠟燭等がのっている。
いずれも頭をまるめ鬚(ひげ)を剃った僧侶が、美麗な錦襴の衣を纏って入って来て、写生図に示すような位置に坐った。両側の床几は主な会葬者の坐るところである。私は右側に、一人の高僧の隣に腰をかけた。この人は何等かの理由で他の僧侶達と一緒にならず、只祈りをいい続けた。坐っている僧侶は、祈禱書を開いて自分等の前の床上に置いたが、それはまるで見なかった。頭の僧侶が始めた、低い、つぶやくような音に、追々他の僧侶が加って行った。その昔は、私が何一つ、明晰な語を聞き出すことが出来なかったことから判断すると、恐らくまるで意味が無いのであろうが、興味が無いことは無かった。それは悼歌のように聞えた。このつぶやきがしばし行われた後、一人の僧侶が一対の大きな鐃鈸(ぎょうばつ)を取り上げて数回ガチャンガチャンと鳴らした。すると他の僧侶達は短い祈禱をなし、両手の内で頭をぐるぐる廻し、頭をひょっと動かしてそれをやめ、再び誦経を始めたが、風は寒いし、これが永遠に続きそうな気がした。次に頭の僧侶(写生図に示す彼の頭は、実に正確に書いてある)が、再び鐃鈸が鳴った後で立ち上り、紙を大きく畳んだものを開いて、悲哀に満ちた、葬式的な音調で、蜷川の略歴、つまり彼が何であり、何をなした云々というようなことを、読み上げた。
[やぶちゃん注:蜷川の生家は前に記した通り、京都の東寺の公人であったから、これは真言宗による葬儀式と一応考えておく。
「鐃鈸(ぎょうばつ)」銅製の皿状の物を二枚打ち合わせて音を出すシンバル状の法会の際などに用いる鳴物の仏具。通常は「にょうばつ」「にょうはつ」「にょうはち」と読み、「鐃鉢」とも書くが、この「鐃鈸」の表記が正しい。]
図―718
この時蜷川の姉が立ち上り、図718に “incence”と記してある卓の前に立った。この卓の上には炭火を入れた物があり、その両側に香を入れた小さな容器がある。彼女は先ず両手を握り合せて低くお辞儀をし、左手の箱から香の一片を取って炭の上にのせ、再び低くお辞儀をして、席に戻った。次に甥が同じようなことをすると、驚いたことに、私の隣に坐っている日本人が、私に行けとつつくではないか。私は出来るだけの日本語で、彼に先にやってくれ、あなたのすることを一生懸命に見ているからと囁(ささや)いた。すると彼は、右側の箱から香を取った。いよいよ私が出て行かねばならなかったが、坊主が八人も並んでいる前で手を合わせ、低くお辞儀をし、右手の箱から香を出さねばならぬのだから、多少あわてざるを得なかった。
[やぶちゃん注:あなたはモースのように慌てたことはないか? 私はある。右と左の違いなぞもあるのかないのか気になって、大いに今でも時々私は慌てる。
「“incence”」「香」「香料」の意。]
涙を流すこともなく、その他の悲嘆の情も見えなかったが、この儀式には確かに真面目さと、荘厳ささえもがあった。建物の近くには五、六十人が立っていたが、恐らく帽子をかぶらぬ外国人が、長いアルスター外套を着て、会葬者の中にいるという新奇な光景を、不思議に思った事であろう。焼香が済むと式は終った。蜷川の姉は六十を越した老婦人であるが、私のところへ来て、会葬してくれた親切を謝した。甥も私に感謝した。妻は翌日まで墓地へ行かない。この理由で蜷川夫人はこの式に列しなかつた。図718はこの式の平面略図で、僧侶や会葬者の位置を示すものである。
[やぶちゃん注:「アルスター外套」原文“ulster”。ダブル前で丈長の、ベルト及び着脱式フード及びケープの付いた耐寒耐水性の強い旅行用のコートである。名称は一八六七年頃にアイルランドのアルスター地方に誕生したことに由来するというから、この頃(明治一五(一八八二)年)はまだ比較的新しい製品であったものと考えてよいであろう。ここはサイト「Windsor-Heritage for Gentleman 着こなしの知恵と源流、ウィンザー公へのオマージュ」の「アルスター」に拠ったがそこには、『もともとアイルランドでの旅行用外套がやがて、イングランドでも使われるようになったものである』とし、一八七〇年代の『アルスターは男性用のみならず、旅行となれば女性にも使われたと』も言われ、第二次世界大戦『前までのイギリスでのアルスターは、ごく一般的なコートであった』とある。
「妻は翌日まで墓地へ行かない。この理由で蜷川夫人はこの式に列しなかつた」この異様な葬送儀礼については不学にして私は知らない。識者の御教授を乞うものである。]
図―719
図―720
図―721
図719は仏教の墓石で、これは古い形式である。石にあいている穴は、花を入れるためのものである。仏教の墓には、精神的の名前、即ち死後につける名前を使用する。神道だと、死者の本名と、彼の生涯の略歴とを刻む。神道の墓石は、それを切り出した時の、自然その儘の劈裂面を見せている。720と721の両図は神道の墓石である。
[やぶちゃん注:三基の墓はこの葬儀の折り、谷中にあるものをモースがスケッチしたものであろう。図719には墓石に、
「誓通教願信士(墓?)」
とあり、その下に二行で
「明治□□」「九月□□」
香立(ハーンの花立は誤り)には、
「森八」
(姓にしてはちょっとおかしい気もするが屋号か?)、背後の卒塔婆には、
「一月普現一切」
の文字が判読出来る。これは六祖慧能の法嗣である永嘉真覚(ようかしんかく)の「証道歌」の中の一節(訓読と訳は私の自在勝手版)、
一月普現一切水、一切水月一月攝諸。佛法身入我性、我性還共如來合。
(一月(げつ)普(あまね)く一切の水に現じ、一切の水月、一月に攝(せつ)す。諸佛の法身(はふしん)、我が性(せい)に入り、我が性、還(ま)た如來と合す。:中天の一箇の月は如何なる流れにも遍くその姿を映し、総ての流れに映る諸々の月影は中天の一箇の月に収束される。諸仏のまことの法身は己れの自性(じしょう)のうちに入り、己れの自性もまた如来とともにある。)
のそれの頭と読めるから、この墓主の宗旨は禅宗と思われる。「誓通教願信士」なり戒名の人物は不詳。
図720は一番右が、
「明治十五年二月書之」
二行目は、
「南部藩士」
主碑銘が、
「相馬大作之碑」
で、その左は
「施主 市川右團次」
「同藩士(以下、判読不能)」
と読めるように思う。驚くべきことに、これはかなり知られた人物の顕彰碑であることが判った。文政四(一八二一)年四月二十三日に南部藩(盛岡藩とも呼称)士下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主津軽寧親を襲った暗殺未遂事件の主犯下斗米秀之進の用いた別名がまさに相馬大作で、本事件は相馬大作事件とも呼ばれる。ウィキの「相馬大作事件」によれば、もとは古くからの『弘前藩主・津軽氏と盛岡藩主・南部氏の確執』を遠因とするもので(詳しくはリンク先を参照されたい)、『杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ』、翌文政五年八月に『千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられ』たとある。また、『東京都台東区の谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので』明治一五(一八八二)年二月に『右団次によって建立された』とある(下線やぶちゃん)。初代市川右團次(天保一四(一八四三)年~大正五(一九一六)年)は上方の派手なケレンを得意とした歌舞伎役者として知られる。ネット検索で谷中霊園甲二号五側に現存することが判った。
図721は、墓石に
「淺野善兵衛之墓」
香立に。
「淺野」
とある。「淺野善兵衛」なる人物は不詳。昔だったら、明日にでも谷中に探索に行くところだが。……何方か、代わりに探って下さるまいか?
「劈裂」「ヘキレツ」と音読みしているのであろう。「劈」は訓では劈(つんざく)く・劈(さ)くと読む。]
一
今も猶、さうであるが、昔は日本の若い畫家は、全國各地を徒步で旅行する風があつた。それは名所を見たり、寫したり、且つまた多くは非常に風致に富める地にある寺院に藏せらる〻名畫佳什を硏究するためであつた。主もにか〻る遍歷の結果として、今日非常に珍重せられる〻かの風景畫や、風俗畫の美麗な書籍が出來たのだ。それによると、日本人のみが日本の風景を描き得ることを最もよく示してゐる。讀者が日本畫家の日本の自然を解釋する技巧に昵じんでくると、同じ方面に於ける外國人の試作は、妙に平凡無氣力と見えてくるだらう。外國の畫家は、彼の見るものの寫實的映像を與へる。しかしそれ以上の何をも與へない。日本の畫家は彼の感じたもの――季節の氣分、正しくその時間、その場所の精確なる感じを與へる。彼の作品は西洋の藝術には滅多にない暗示力の特質を有する。西洋の畫家は緻密なる細部を現はし、彼の惹き起こす想像力を滿足させる。が、東洋の彼の同胞畫家は、細部を抑へてしまうか、または理想化する――遠いものを霧に浸したり、風景に雲を纏はせたりして、彼の經驗を單に奇異なもの、美しいもののみが、其感覺と共に殘つてゐる記憶となすのである。彼は想像力に超越し、それを興奮させ、それをしてただ瞥見の中に認めた美を、慕ひに慕はしめるま〻にしておく。それにも係らず彼はか〻る瞥見に於ても、一種の殆ど魔法と思はる〻やうな方式で、ある時の感じ、ある場所の感じを表現することが出來る。彼はさつぱりした現實よりは、寧ろ囘想と感覺の畫家だ。して、こ〻に彼の驚くべき力の祕訣が存してゐる――この力は彼が感興を得た場面を未だ嘗て見ざる人では、味到し得られない。就中彼は非個人的だ。彼の描ける人物の形は、すべての個人性を缺いてゐる。しかもある階級の特徴を示す類型として無比の價値を有する――百姓の子供らしい好奇心、少女の羞恥、女郞の媚態、武士の自己意識、子供の可笑しげに、落付いた可愛らしさ、老人の諦め悟つた温和。旅行と觀察によつてこの藝術は、發達させられた。それは決して畫房の所產ではなかつた。
餘程のこと、繪書修業の一靑年が、京都から江戶へ山を越えて、徒步で旅をしてゐた。當時は道路の數は乏しく、また惡路であつたので、旅行は、今と比ぶれば非常に困難で『可愛い子には旅をさせ』、といふ諺も行はれてゐた。しかし土地は今とは異らなかつた。今と同じやうな杉や松の森、竹藪、草葺の屋根を有する尖つた村落があつた。泥濘の中に腰を曲げた百姓の大きな黃色の藁笠が、段々をなして相連る稻田の中に點綴せる光景も同じであつた。路傍からは今と同じ地藏の像が、今と同じ寺へと辿つて行く巡禮者に笑顏を向けてゐた。して、今と同じく、夏の日には、すべての淺い川の中には褐色の裸の子供が笑つてゐて、すべての川は太陽に向つて笑つてゐた。
が、繪畫修業の靑年は、「可愛い子」でも何でもなかつた。彼は從來幾多の旅をして、粗食と荒々しい宿に馴れ、あらゆる難境をも堪へて利用してきた。しかし今度の旅には、あい夕方既に暗くなつてから、食物も宿も獲られさうにない、田や畠の見えない地方に入込んだ。或る村へ達しようと、山を越えて捷徑を求めた際、道に迷つたのであつた。
月はなく、松の蔭のため、その邊は眞暗であつた。彼の迷い込んだ處は、全く荒涼たる土地のやうに思はれた。ただ松風の音と鈴蟲の絕え間なく鳴く聲ばかりであつた。彼は躓きながら進むで行つた。どこかの川の堤へ達すれば、それに隨ひて村落へ出られるものと思つてゐた。たうとう一本の川が突然彼の道を遮つたが、それは絕壁の峽間に注ぐ急流であつた。止むを得ず後戾りをして、最も近い絕頂へ登つて、そこから人里の徴候を認めようと決心した。が、そこへ達してみると、見渡す處、たゞ山岳重疊であつた。
彼が丁度星の下で、その夜を過ごさうと覺悟してゐると、登つてきた山の向うの方の坂の下に、まさしく或る人家から洩れ出る一つの細い黃色の燈光を認めた。彼はその方へ足を進めて、やがて百姓の家らしい一軒の小屋を發見した。先きに見た燈光は、まだその鎖せる雨戶の隙から流れてゐた。彼は急いで行つて、戶を叩いた。
[やぶちゃん注:……ハーン先生……今に日本ではもう……先生が微笑しながらおっしゃられたように、「しかし土地は今とは異らなかつた。今と同じやうな杉や松の森、竹藪、草葺の屋根を有する尖つた村落があつた。泥濘の中に腰を曲げた百姓の大きな黃色の藁笠が、段々をなして相連る稻田の中に點綴せる光景も同じであつた。路傍からは今と同じ地藏の像が、今と同じ寺へと辿つて行く巡禮者に笑顏を向けてゐた。して、今と同じく、夏の日には、すべての淺い川の中には褐色の裸の子供が笑つてゐて、すべての川は太陽に向つて笑つてゐた。」と語ることは出来んように……なってしまいました……
「昵じんで」老婆心乍ら、「なじんで」と読む。対象に対して馴れ親しむと、の意。昵懇(じっこん)の「昵」。
「捷徑」老婆心乍ら、「せふけい(しょうけい)」と読む。敏捷のの熟語から判る通り、「捷」は早いの意、「徑」は小道で、近道のこと。]
Ⅰ.
It was formerly, and indeed still is, a custom with young Japanese artists to travel on foot through various parts of the empire, in order to see and sketch the most celebrated scenery as well as to study famous art objects preserved in Buddhist temples, many of which occupy sites of extraordinary picturesqueness. It is to such wanderings, chiefly, that we owe the existence of those beautiful books of landscape views and life studies which are now so curious and rare, and which teach better than aught else that only the Japanese can paint Japanese scenery. After you have become acquainted with their methods of interpreting their own nature, foreign attempts in the same line will seem to you strangely flat and soulless. The foreign artist will give you realistic reflections of what he sees; but he will give you nothing more. The Japanese artist gives you that which he feels,— the mood of a season, the precise sensation of an hour and place; his work is qualified by a power of suggestiveness rarely found in the art of the West. The Occidental painter renders minute detail; he satisfies the imagination he evokes. But his Oriental brother either suppresses or idealizes detail,— steeps his distances in mist, bands his landscapes with cloud, makes of his experience a memory in which only the strange and the beautiful survive, with their sensations. He surpasses imagination, excites it, leaves it hungry with the hunger of charm perceived in glimpses only. Nevertheless, in such glimpses he is able to convey the feeling of a time, the character of a place, after a fashion that seems magical. He is a painter of recollections and of sensations rather than of clear-cut realities; and in this lies the secret of his amazing power,— a power not to be appreciated by those who have never witnessed the scenes of his inspiration. He is above all things impersonal. His human figures are devoid of all individuality; yet they have inimitable merit as types embodying the characteristics of a class: the childish curiosity of the peasant, the shyness of the maiden, the fascination of the jorō the self-consciousness of the samurai, the funny, placid prettiness of the child, the resigned gentleness of age. Travel and observation were the influences which developed this art; it was never a growth of studios.
A great many years ago, a young art student was travelling on foot from Kyōto to Yedo, over the mountains The roads then were few and bad, and travel was so difficult compared to what it is now that a proverb was current, Kawai ko wa tabi wo sase (A pet child should be made to travel). But the land was what it is to-day. There were the same forests of cedar and of pine, the same groves of bamboo, the same peaked villages with roofs of thatch, the same terraced rice-fields dotted with the great yellow straw hats of peasants bending in the slime. From the wayside, the same statues of Jizō smiled upon the same pilgrim figures passing to the same temples; and then, as now, of summer days, one might see naked brown children laughing in all the shallow rivers, and all the rivers laughing to the sun.
The young art student, however, was no kawai ko: he had already travelled a great deal, was inured to hard fare and rough lodging, and accustomed to make
the best of every situation. But upon this journey he found himself, one evening after sunset, in a region where it seemed possible to obtain neither fare nor lodging of any sort,— out of sight of cultivated land. While attempting a short cut over a range to reach some village, he had lost his way.
There was no moon, and pine shadows made blackness all around him. The district into which he had wandered seemed utterly wild; there were no sounds but the humming of the wind in the pine-needles, and an infinite tinkling of bell-insects. He stumbled on, hoping to gain some river bank, which he could follow to a settlement. At last a stream abruptly crossed his way; but it proved to be a swift torrent pouring into a gorge between precipices. Obliged to retrace his steps, he resolved to climb to the nearest summit, whence he might be able to discern some sign of human life; but on reaching it he could see about him only a heaping of hills.
He had almost resigned himself to passing the night under the stars, when he perceived, at some distance down the farther slope of the hill he had ascended, a single thin yellow ray of light, evidently issuing from some dwelling. He made his way towards it, and soon discerned a small cottage, apparently a peasant's home. The light he had seen still streamed from it, through a chink in the closed storm-doors. He hastened forward, and knocked at the entrance.
原節子――悼
第二十二章 舞妓について
[やぶちゃん注:この冒頭のエピローグは特異的にだらだらと長い。あまり注を打つ必要も感じないことから、必要な箇所では途中の段落の最後に附した。注の後は一行空けた。なお、この異様な長さは、ハーンが特に興味を持ったからではなく、普段の彼の宗教や民俗に関わる質問には、誰もが、必ずしも詳しくないのに反し、芸妓の歴史や、その現行の生活について、それらと同レベルでハーンが素朴に質問すると、誰もが、積極的に語ったために他ならぬものと私は思う。無論、既に西洋に知られていた「ゲイシャ・ガール」について書けば、男性読者は飛びつくという目算も、確信犯としては、あっただろうが。……ともかくも、次の以下の本文を読まれれば、当時の日本の「ゲイシャ・ガール」についての話では――全く――ない――ことが、お判り戴ける。そんな出歯亀根性を一ミリでも持って本文を読まれたら、その意外な内容に、あなたは必ず、失望を越えて――落涙されること――請け合い――である。]
日本の宴會の始めほど靜かなものはない。日本人でない以上は、誰人も開宴の光景を見て、結末の賑かさを恐らくは想像し得ないだらう。
羽織を着た客達は、全く昔を立てずに、また物も云はないで、座布團の上に、彼等の席に就く。漆塗の食膳が彼等の前に疊の上に据ゑられる。それを運んでくる女中達の、露出せる足は、少しの音も立てない。暫くの間は、一座たゞで微笑と輕い動搖があるのみで、恰も夢の中のやうだ。外部からの聲も減多に聞えて來ない。それは料理屋の座敷は、通常潤やかな庭園で街路を隔ててゐるからだ。たうとう饗宴の主人が、上品なお定まり文句で鎭靜を破る。『お粗末で御座いますが――どうぞ御箸を!』そこで客は一同默禮して、箸を取上げ、食べはじめる。しかし箸は、巧みに使はれて、音は少しも聞えない。女中達が極めて靜肅に、客毎にその杯へ熱い酒を注ぐ。して、二三の料理品を食べてしまつて、數杯の酒を乾した後で、漸くにして喋々の語聲が起つてくる。
すると、忽然わつと輕く笑ひ出し乍ら、數名の若い娘が入つてくる。彼等はお定まりのお辭儀をする。列座の客の中間にある、廣い場處へ滑べるやうに行つて、酒を勸める。その歡待振りの優美と巧妙は、普通の娘では企及し得ない。彼等は綺麗で、絹の贅澤な服裝をして、女王のやうな帶をつけてゐる。して、銘々の美しく結つた髮には、造花や、驚くべき櫛や留針や珍らしい金の飾りが附けてある。彼等は初對面の客に向つても、以前から知つてゐた如くに挨拶をする。彼等は冗談をいひ、笑ひ、きやつきやつと面白さうに叫ぶ。これが宴席に聘せられる藝者なのである。
[やぶちゃん注:「きやつきやつ」底本では最初の「きやつ」のみに傍点「﹅」が打たれて、後は踊り字「〱」で傍点はないが、かく、した。]
註。京都の言葉では舞妓(まひこ)といふ。
三味線が響く。藝者は通例の來客よりも更に多數を容れ得る大廣間の一端にある廣やかな處へ退いて、數名のものは年齡の一寸分かりかねるやうな一人の女の指揮の下に、囃の組を作る。それには數個の三味線と、少女が打つ小さな太鼓がある。他のものは、一人づつで、又は二人づつの組になつて、舞踊する。それは全く優美な姿勢から成つた、輕快で陽氣な踊りで、二人の娘はいかにも數年の稽古を積んだればこそ始めて出來るやうに、よく足を揃へ、身振を一致させて、共に踊るのだ。が、私共西洋人が舞踏と稱するものに似てゐるよりは、寧ろ所作に似てゐる場合が一層多い――袖や扇子を異常に振つたり、眼や容貌を美はしく、機敏に、控へ目に、全然東洋風に動かせたりして所作を演ずる。藝者の 行ふ舞踊に、もっと肉感的なのもあるが、通常の場合や、上品な客の面前では、彼等は日本の美くしく古い傳說、例へば海神の娘に愛された漁師浦島の傳說のやうなものを活寫する。また折々はただ數個の美辭を以て天眞爛漫たる感情を旨く鮮やかに表現せる、古い漢詩を吟ずることもある。して、絕えず酒を注ぐ――その熱い、淡黃色の、睡氣を催す酒は、柔かな滿足を客の血管に漲らせ、陶然恍惚裡に入らせる。すると、阿片を喫した人の醉眼に映ずる如く、平凡は驚異喜樂と變はり、藝者は極樂の少女と變はり、世界は事物自然の理では、到底あり得べくもないほど立派な光景に變つてくる。
最初非常に靜かな宴會が、段々と賑かな騷ぎになつて行く。客の列は亂れて、三々五々の集團となる。藝者は笑ひながら、喋りながら、この一團から、彼の一團へと移つて、酒を注ぐ。酒杯は叩頭の禮を以て献酬される。客が古い武士の歌、卽ち漢詩を吟じ始める。一人か二人は、踊るものさへある。或る藝者は膝まで衣裳を捲くり上げる。して、三味線は『金毘羅、舟、舟』の急調を奏し始める。その音樂につれて、彼女は輕快敏捷に8の字の形に走る。それから、酒德利と杯を持つたまゝ、一人の若い客も同じ8の字形に走る。もし兩人が線の上で出逢へば、衝突の失策を起した方が、一杯の酒を飮まねばならぬ。音樂はますます早くなつて、走るものもますます早く走る。それは彼等は調子に合はせねばならぬからだ。して、藝者が勝を占める。室の他の方面では、客と藝者が拳[やぶちゃん注:「けん」。]をやつてゐる。彼等は拳を打ち乍ら歌ふ。相向き合つて、手を拍ち、折々小さな絕叫を發して、勢よく指を差し出す。して、三味線が拍子を取る。
註。酒杯を杯泉で漱いでから、他客
と交換することが習慣である。友人
の酒杯を求むるのは、厚意の表彰で
ある。
ちよいと どんどん! お互だね、
ちよいと どんどん! 御出でましたね、
ちよいと どんどん! しまひましたね。
さて藝者と拳を打つのは、全然冷靜なる頭腦、敏捷なる眼、それから多大の熟練を要する。子供時代からあらゆる種類の拳を打つことに仕込まれてゐるから――しかも拳の種類は多い――萬一彼女の敗ける場合があつても、それは慨して禮儀上から敗けるのに過ぎない。最も普通の拳の表象は、庄屋と狐と鐡砲である。もし藝妓が鐡砲の表象をすれば、相手の客は直ぐに、音樂に合はせて庄屋の表象をせねばならぬ。庄屋へ向つて發砲することは禁制だからである。もし相手が庄屋の表象をすると、彼女は狐の表象を以て應ずる。狐は人間を瞞して、客の負けとなる。して、もし彼女が最初狐の表象をすると、客は鐡砲の表象をせねばならぬ。それで狐を殺すことが出來る。しかし始終、男は女の明眸軟手を注意してゐなければならぬ。眼も手も美くしいから、ただ瞬間でも男が油斷して、その美しさを考へでもすると、それに惱殺されて負けを取ることになる。
訳者註。原文の拳の說明を少しく修正して置いた。
外見上では、非常に親しさうであるが、日本の宴席では客と藝者の間には、一種の嚴重な禮儀が、いつも守られてゐる。いかほど客の顏が酒で赧らんできでも、彼が女を愛撫しようとするのを見受けることはない。女は單に人間の花として、宴席に現はれたので、眺めるためであつて、決して觸れるためでないといふことを彼は忘れない。日本に於ける漫遊の外客が、屢〻藝妓や給仕女に對して無遠慮な馴々しさに陷るのは、假令微笑を以て耐へ忍ばれてゐても、實際は頗る嫌惡されてゐるので、またこれを傍觀する日本人からは、非常に俗惡下劣の證據と見做されてゐる。
暫くの間、快興は加つて行く。しかし、夜半が近づくに隨つて、客は一人々々いつの間にか分らぬやうに、こつそりと去つて行く。それから賑ひは次第に消えて、音樂は止む。たうとう藝妓は最後の客を玄關まで送り出して、『左樣なら』と笑ひ聲で叫んだ後、長い間空腹でゐた彼等は、靜まり返つた廣間で、始めて彼等の食事に就くことが出來る。
藝妓の役目はかやうなものだ。が、彼女の裏面はどんなもの?彼女の思想、感情、彼女の祕密な身の上はどんなもの? 煌々たる宴席の燈光圈を離れ、酒の霧が枝女の周圍に釀せる幻影外に於ける、彼女の生活の眞面目はどう?
君と寢やるか、五千石取るか。
何の五千石、君と寢よう。
と、昔の歌を彼女が愚弄するやうに、甘美な聲を迸らせて歌つてゐる際の如く、いつも彼女は惡戲者だらう? 或は、また
お前死んだら、寺へはやらぬ、
燒いて粉にして、酒で飮む。
と、彼女がうまく歌ふ、其熱烈なる約束を守り得るものと、彼女を思つてもよいだらう?
『何、それについては』と、或る友が私に告げた。『つい昨年のこと、大阪のお鎌といふ藝妓は、その歌の通りにやりましたよ。荼毘に附した戀人の屍灰を酒に混ぜて、宴會の客の前で飮んださうです』多數の客の前で! 物語に取つて惜しいことだ!
[やぶちゃん注:「物語に取つて惜しいことだ!」原文は“ Alas for romance! ”。平井呈一氏は『こりゃまたどうも、お座のさめた話だ。』と訳しておられる。口から骨、基! 眼から鱗!]
註。昔、藤枝外記といふ將軍旗下が
ゐた。五千石の祿を受けてゐた――
當時に於ては大なる收入であつた。
しかし彼は吉原の遊女綾絹と戀に落
ちて、彼女を妻にしようと願つた。
彼の上司が、祿と戀のいづれかを選
べと彼に嚴命した時、男女の戀人達
は密かに或る農家へ逃げて行つて、
心中をした。そこで、兩人に關して
上の歌が作られた。今猶、それは歌
はれる。
[やぶちゃん注:「藤枝外記」(宝暦八(一七五八)年~天明五(一七八五)年)は実在した江戸中期の大身旗本。旗本徳山貞明の八男で旗本藤枝貞雄(さだお)の養子となった。天明五年八月十四日に江戸吉原の大菱(おおびし)屋の遊女綾衣(あやぎぬ)と心中し、藤枝家は改易となった。享年二十八。ハーンが述べている通り、「君と寢ようか五千石とろか、何の五千石君と寢よ」と俗謡に唄われ、「箕輪(みのわ)心中」として知られる(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。次にウィキの「藤枝教行」(ふじえだのりなり:彼の本名)から引く。『旗本。藤枝外記(ふじえだげき)の通称でも知られる』。『藤枝貞雄の養子となった』後、『妻のみつ(養父の義理叔父の山田利寿の娘)との間に』三男一女をもうける』。『石高は武蔵国および相模国内に』四千石(後述)。『屋敷は湯島妻恋坂』にあった。『家祖は、徳川家光側室の順性院(お夏)の父の藤枝重家。重家は、元は京都町人の弥市郎といったが、娘のお夏に家光の手がつき懐妊し、徳川綱重の生母となったため、重家は士分に取り立てられて岡部八左衛門重家と名乗った。のちに甲府藩主となった綱重の家老となり藤枝重家と改名した。綱重の子の徳川家宣が将軍に就任した際に甲府藩領は天領となり、家臣団は幕臣として吸収され、藤枝家の子孫は幕府にて』四千五百石の『大身旗本となった』。『大身である教行は、新吉原江戸町一丁目の妓楼大菱屋九右衛門抱えの遊女綾絹(綾衣とも。妻みつと同じ年の』十九歳であった)『と深い仲になった。綾絹の身柄を裕福な商人が身請けするという話を聞いたとも、吉原遊びが幕府の知れるところとなり甲府勤番支配に回されることとなりそうになったともいうが、いずれにせよ綾絹に会えなくなると思いつめ、吉原から綾絹を(正式な手続き無しで)連れ出し逃走した。しかし程なく追っ手に見つかり、進退窮した二人は餌指』(えざし:鷹の餌となる小鳥を捕らえる職)『(農家とも)の家で心中した』。『藤枝家では教行ではなく』、『家人の辻団右衛門が死んだことにして』、『その死を隠蔽しようとしたが、やがて幕府役人に露見し、妻とその母本光院は縁者宅の一室に押し込め処分となり、藤枝家は改易処分となった。江戸でこの事件は大きな話題を呼び「君とぬやるか(寝ようか)五千石とるかなんの五千石君とねよう」』という『端唄が流行した。実際の藤枝家の知行は』四千石から四千五百石であって、五千石には満たなかったが、『語呂が良いので俗謡にはそのように謡われた』とある。『改易ののち、次男の安十郎は外祖父の山田利寿のもとに寓居し、三男の寅之助は従弟徳山貞栄のもとに寓居した』。『この事件を題材にして、のちに岡本綺堂が「箕輪心中」を著した』とある。青空文庫の岡本綺堂「箕輪心中」をリンクしておく。]
藝妓の一團の住む家には、奇異な像が床の上に置いてある。それは粘土製のこともある。稀には黃金で作られ、最も普通には陶器で作られる。それは拜まれ、菓子や餅や酒などの供物が上げられ、その前に線香が燻ぶり、燈明が輝いてゐる。それは猫の像である。直立して、一本の足を伸ばして招くやうな形をしてゐるから、『招き猫』といふ名がある。それは氏神樣だ。それは幸運、富豪の贔屓、宴遊者の眷顧を齎らす。それで、藝妓の本性を知つてゐる人々は、この像は取りも直さず藝妓の像だと斷言する――冗戲好きで、綺麗で、柔かで、若くて、しなやかで、愛撫的で、而かも燒き盡くす火の如く殘酷だ。
[やぶちゃん注:「眷顧」「けんこ」と読む。特別に目をかけること。贔屓に同じい。]
また彼等は更に一層わるいことを彼女に關して語つてゐる――彼女の蔭には貧之神が寄り添つて步いてゐる。狐婆は彼女の姉妹だ。彼女は靑年の滅亡者、財產の蕩盡者、家族の破壞者だ。彼女は戀を單に彼女の利益となるべき放蕩の源としてのみ知つてゐる。して彼女が墓を作つてやつた人々の財產によつて、みづからの富を作る。彼女は可受らしい僞善の最上の熟練家、最も危險なる陰謀者、最も飽くことを知らざる射利漢、最も冷酷の情婦だ。それは全部眞實とは云へないが、これだけは眞實だ――職業上藝妓は、小猫の如くに肉食の猛獸なのだ。實際眞に愛らしい小猫も澤山ある通り、眞に愉快な藝妓もあるに相違ない。
[やぶちゃん注:「狐婆」不詳。原文は“the Fox-women”で「婆」はどこから出てきた訳語なのか不審。これは若い女に化けることが多い妖狐のことを指しているのであろう。平井氏はまさにここを『女に化ける化けギツネは、あれは芸者の兄弟分だ』と訳しておられる。
「射利漢」「しやりかん(しゃりかん)」。「射利」とは、手段を選ばずに只管(ひたすら)に利益のみを得ようと考えることを言うから、そういう金の亡者の卑劣漢の謂いである。]
藝妓はたゞ、靑春と優美だけを混ぜた戀、殘念といふ心や、責任といふ觀念の加はらぬ戀の幻影を慕へる、愚かな人間の慾情に應ずるために作られたものに過ぎない。だから、彼女は拳を打つことの外に、感情を戲弄する手管をも敎へられてゐる。さて、宇宙永遠の法則によれば、人間はこの不幸な世の中で三つのものを除けば如何なる遊びをしても無害である。三つといふのは、生、愛、死だ。是等三者は神々の手に保留されてある。といふのは、誰人も是等を戲弄すると災を招かずに居れないからだ。だから拳或は少くとも圍碁以上、更に電大なる遊びを藝者と共にすることは、神々の御氣に入らないのである。
藝妓の經歷は奴隷として始まる。貧窮な親から綺麗な子を契約の下に買受けて、十八年、二十年乃至二十五年間も、買主は彼女を使用する權利がある。彼女は藝者達だけの住む家で、養はれ、着物を與へられ、藝を仕込まれる。して、子供時代、嚴しい訓練の下に過ごす。彼女は禮儀作法や、優美な風姿や、鄭重な言葉を教へられる。また幾多の歌の文句と曲調を諳誦せねばならぬ。それから、遊戲や、宴會婚禮の給仕や、衣裳の着こなし、美容の法を知らねばならぬ。彼女の有する身體上の藝能は、すべて注意して修養される。後に及んで樂器を取扱ふことを敎へられる。先づ鼓を敎へられる。これは餘程の練習なくては、すこしも音を發しない。つぎに鼈甲または象牙の撥で、少しく三味線を彈くことを習ふ。八歲或は九歲の頃は、後女は主として鼓を打つものとして宴席に侍する。そのとき彼女は最も可愛らしい子供であつて、鼓を二囘打つ間に、德利を一と振りふつて、一滴も零さないで、正しく滿々と酒を杯に注ぐことを、最早知つてゐる。
それから後は、彼女の訓練は一層殘酷となる。彼女の聲は充分柔靱自在ではあるが、まだ力が足りない。冬の夜の最も凍つた時刻に、屋根へ出でて、血が指から沁み出で、聲が嗄れてしまうまで、歌つたり彈いたりせねぱならぬ。その結果猛惡な風邪に罹るのが目的だ。或る期間の嗄れた囁き聲を經過すると、彼女は聲の調子が變はり、力が出來て、客の前へ出で、歌ひ踊る資格を得る。
[やぶちゃん注:「柔靭」「じうじん(じゅうじん)」は、しなやかでありながら、しかも強いさまを言う。]
この資格で彼女は通常、十二歲乃至十三歲で初目見をする、もし綺麗で上手であれば、招聘が繁くなつて、一時間二十錢乃至二十五錢の割合で報酬を受ける。そこで始めて彼女の買主は、これまでの稽古に注ぎ込んだ時間、費用、骨折に對して拂戾しが出來てくるのであるが、しかも買主は兎角寬大ではない。これから多年の間、彼女の一切の儲けは、買主の手に歸して行く。彼女はすこしも得る處なく、自身の衣裳さへも所有しない。
[やぶちゃん注:「初目見」「おめみえ」と訓じておく。]
十七八歲にもなると、彼女は技藝の上で名聲を博してゐる。最早幾百の藝醼に侍したので、一見して、町の重要な人物、一人々々の性格、すべての客の身の上がわかる。彼女の生活は、主もに夜間の生活で、藝妓となつてからは、旭日の昇るのを滅多に見ることはない。酒を飮んでも本心を失はぬやうに、七八時間食事をしないでも身に障らぬやうに慣れてきてゐる。幾多の戀人も有してゐる。或る程度まで、自分の好きな人に微笑を向けても勝手である。しかし彼女は何事にも優つて、彼女の魅力を自身の利益のために利用するやう、充分よく敎へられてゐる。彼女を身受けする意志と能力ある人を見出さうと望んでゐる――その人は、戀の愚かさと諸行無常を説ける佛敎の經文中に、幾多の新しく、立派な意味を、將來發見すること殆ど請合だ。
[やぶちゃん注:「藝醼」「ゲイエン」と音読みするようだ。「醼」は、宴(うたげ)の意であるから、芸者として宴席に出て、芸を披露することと解釈しておく。]
彼女の經歷の話を、この點で、私共は打切らう。これから後の彼女の物語は、彼女が若くて死ぬる場合を除けば、往々不快なものになり勝ちだからである。もし早世の節は、仲間から葬式を營まれ、その名殘りが種々の珍らしい儀式で保たれる。
時として、多分讀者が夜間日本の町を逍遙するとき、寺の山門から藝妓の銳い聲と共に浮んでくる音樂を――三味線の音を耳にするだらう。それは奇異な事件と思はれるだらう。して、奥深い境內は見物の人で滿ちてゐる。それから郡集を押分けて、寺の階段に達すると、二人の藝妓が本堂の疊の上に坐し、三味線を彈き乍ら歌つてゐて、今一人のは小さな机の前で踊つてゐるのが見える。机の上には位牌が置かれ、机の前には小さな燈明が輝き、唐金の碗には線香が燃えてゐる。果實や菓子など、記念の式日に死人に供する習となつてゐる僅かの食品が献げてある。机の上の戒名は、ある藝者の戒名であつて、亡くなつた女の友達は、一定の日に寺へ集つて、彼女の靈を歌と踊を以て欣ばせるのだといふことがわかる。その場合には、希望のものは誰でも會費なくして、その式に參會することが出來る。
しかし昔の藝妓は、今日の藝妓のやうではなかつた。或るものは白拍子と呼ばれて、彼等の心は左ほど無情ではなかつた。彼等は美しかつた。彼等は黃金の飾をつけた、女王らしい形の帽子を被り、華麗な衣裳を纏ひ、大名の館で劍の舞をした。その一人についての昔話がある。私はそれは語る價値のあるものと思ふ。
[やぶちゃん注:「白拍子」ウィキの「白拍子」より引く。『白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人』で、『主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す』。『複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という』二人が『舞いだしたのが白拍子の起こりである」としている』。『また「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説している』。『白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かった』。『古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという』。『このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった』。『白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさす(時代が下ると色つきの衣装を着ることも多かった)という男装で歌や舞を披露した。伴奏には鼓、時には笛などを用いた』。『後に、猿楽などへと変貌していった。後に早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなった。また延年にも取り入れられ、室町時代初期まで残った』。『白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴紳に愛された白拍子も多い。また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い』とある。事典類では発生と呼称期を平安末期から室町初期にかけて、とする。]
ⅩⅩⅡ
OF A DANCING-GIRL.
NOTHING is more silent than the beginning of a Japanese banquet; and no one, except a native, who observes the opening scene could possibly imagine the tumultuous ending.
The robed guests take their places, quite noiselessly and without speech, upon the kneeling-cushions. The lacquered services are laid upon the matting before them by maidens whose bare feet make no sound. For a while there is only smiling and flitting, as in dreams. You are not likely to hear any voices from without, as a banqueting-house is usually secluded from the street by spacious gardens. At last the master of ceremonies, host or provider, breaks the hush with the consecrated formula: 'O-somatsu degozarimasu ga!—dōzo o-hashi!' whereat all present bow silently, take up their hashi (chopsticks), and fall to. But hashi, deftly used, cannot be heard at all. The maidens pour warm sake into the cup of each guest without making the least sound; and it is not until several dishes have been emptied, and several cups of sake absorbed, that tongues are loosened.
Then, all at once, with a little burst of laughter, a number of young girls enter, make the customary prostration of greeting, glide into the open space between the ranks of the guests, and begin to serve the wine with a grace and dexterity of which no common maid is capable. They are pretty; they are clad in very costly robes of silk; they are girdled like queens; and the beautifully dressed hair of each is decked with mock flowers, with wonderful combs and pins, and with curious ornaments of gold. They greet the stranger as if they had always known him; they jest, laugh, and utter funny little cries. These are the geisha, [1] or dancing-girls, hired for the banquet.
Samisen [2] tinkle. The dancers withdraw to a clear space at the farther end of the banqueting-hall, always vast enough to admit of many more guests than ever assemble upon common occasions. Some form the orchestra, under the direction of a woman of uncertain age; there are several samisen, and a tiny drum played by a child. Others, singly or in pairs, perform the dance. It may be swift and merry, consisting wholly of graceful posturing,— two girls dancing together with such coincidence of step and gesture as only years of training could render possible. But more frequently it is rather like acting than like what we Occidentals call dancing,— acting accompanied with extraordinary waving of sleeves and fans, and with a play of eyes and features, sweet, subtle, subdued, wholly Oriental. There are more voluptuous dances known to geisha, but upon ordinary occasions and before refined audiences they portray beautiful old Japanese traditions, like the legend of the fisher Urashima, beloved by the Sea God's daughter; and at intervals they sing ancient Chinese poems, expressing a natural emotion with
delicious vividness by a few exquisite words. And always they pour the wine,— that warm, pale yellow, drowsy wine which fills the veins with soft contentment,
making a faint sense of ecstasy, through which, as through some poppied sleep, the commonplace becomes wondrous and blissful, and the geisha Maids of
Paradise, and the world much sweeter than, in the natural order of things, it could ever possibly be.
The banquet, at first so silent, slowly changes to a merry tumult. The company break ranks, form groups; and from group to group the girls pass, laughing, prattling,— still pouring saké into the cups which are being exchanged and emptied with low bows [3] Men begin to sing old samurai songs, old Chinese poems. One or two even dance. A geisha tucks her robe well up to her knees; and the samisen strike up the quick melody, 'Kompira funé-funé.' As the music plays, she begins to run lightly and swiftly in a figure of 8, and a young man, carrying a saké bottle and cup, also runs in the same figure of 8. If the two meet on a line, the one through whose error the meeting happens must drink a cup of sake. The music becomes quicker and quicker and the runners run faster and faster, for they must keep time to the melody; and the geisha wins. In another part of the room, guests and geisha are playing ken. They sing as they play, facing each other, and clap their hands, and fling out their fingers at intervals with little cries and the samisen keep time.
Choito—don-don!
Otagaidane;
Choito—don-don!
Oidemashitané;
Chōito—don-don!
Shimaimashitane.
Now, to play ken with a geisha requires a perfectly cool head, a quick eye, and much practice. Having been trained from childhood to play all kinds of ken,— and there are many — she generally loses only for politeness, when she loses at all. The signs of the most common ken are a Man, a Fox, and a Gun. If the geisha make the sign of the Gun, you must instantly, and in exact time to the music, make the sign of the Fox, who cannot use the Gun. For if you make the sign of the Man, then she will answer with the sign of the Fox, who can deceive the Man, and you lose. And if she make the sign of the Fox first, then you should make the sign of the Gun, by which the Fox can be killed. But all the while you must watch her bright eyes and supple hands. These are pretty; and if you suffer yourself, just for one fraction of a second, to think how pretty they are, you are bewitched and vanquished.
Notwithstanding all this apparent comradeship, a certain rigid decorum between guest and geisha is invariably preserved at a Japanese banquet. However flushed with wine a guest may have become, you will never see him attempt to caress a girl; he never forgets that she appears at the festivities only as a human flower, to be looked at, not to be touched. The familiarity which foreign tourists in Japan frequently permit themselves with geisha or with waiter-girls, though endured with smiling patience, is really much disliked, and considered by native observers an evidence of extreme vulgarity.
For a time the merriment grows; but as midnight draws near, the guests begin to slip away, one by one, unnoticed. Then the din gradually dies down, the music stops; and at last the geisha, having escorted the latest of the feasters to the door, with laughing cries of Sayōnara, can sit down alone to break their long fast in the deserted hall.
Such is the geisha's role. But what is the mystery of her? What are her thoughts, her emotions, her secret self? What is her veritable existence beyond the night
circle of the banquet lights, far from the illusion formed around her by the mist of wine? Is she always as mischievous as she seems while her voice ripples out with mocking sweetness the words of the ancient song?
Kimi to neyaru ka, go sengoku toruka?
Nanno gosengoku kimi to neyo? [4]
Or might we think her capable of keeping that passionate promise she utters so deliciously?
Omae shindara tera ewa yaranu!
Yaete konishite sake de nomu, [5]
'Why, as for that,' a friend tells me, 'there was O-Kama of Ōsaka who realized the song only last year. For she, having collected from the funeral pile the ashes of her lover, mingled them with sake, and at a banquet drank them, in the presence of many guests.' In the presence of many guests! Alas for romance!
Always in the dwelling which a band of geisha occupy there is a strange image placed in the alcove. Sometimes it is of clay, rarely of gold, most commonly of porcelain. It is reverenced: offerings are made to it, sweetmeats and rice bread and wine; incense smoulders in front of it, and a lamp is burned before it. It is the image of a kitten erect, one paw outstretched as if inviting,— whence its name, 'the Beckoning Kitten.' [6] It is the genius loci: it brings good-fortune, the patronage of the rich, the favor of banquet-givers Now, they who know the soul of the geisha aver that the semblance of the image is the semblance of herself,— playful and pretty, soft and young, lithe and caressing, and cruel as a devouring fire.
Worse, also, than this they have said of her: that in her shadow treads the God of Poverty, and that the Fox-women are her sisters; that she is the ruin of youth, the waster of fortunes, the destroyer of families; that she knows love only as the source of the follies which are her gain, and grows rich upon the substance of men whose graves she has made; that she is the most consummate of pretty hypocrites, the most dangerous of schemers, the most insatiable of mercenaries, the most pitiless of mistresses. This cannot all be true. Yet thus much is true,— that, like the kitten, the geisha is by profession a creature of prey. There are many really lovable kittens. Even so there must be really delightful dancing-girls.
The geisha is only what she has been made in answer to foolish human desire for the illusion of love mixed with youth and grace, but without regrets or responsibilities: wherefore she has been taught, besides ken, to play at hearts. Now, the eternal law is that people may play with impunity at any game in this unhappy world except three, which are called Life, Love, and Death. Those the gods have reserved to themselves, because nobody else can learn to play them without doing mischief. Therefore, to play with a geisha any game much more serious than ken, or at least go, is displeasing to the gods.
The girl begins her career as a slave, a pretty child bought from miserably poor parents under a contract, according to which her services may be claimed by the purchasers for eighteen, twenty, or even twenty-five years. She is fed, clothed, and trained in a house occupied only by geisha; and she passes the rest of her childhood under severe discipline. She is taught etiquette, grace, polite speech; she has daily lessons in dancing; and she is obliged to learn by heart a multitude of songs with their airs. Also she must learn games, the service of banquets and weddings, the art of dressing and looking beautiful. Whatever physical gifts she may have are; carefully cultivated. Afterwards she is taught to handle musical instruments: first, the little drum (tsudzumi), which cannot be sounded at all without considerable practice; then she learns to play the samisen a little, with a plectrum of tortoise-shell or ivory. At eight or nine years of age she attends banquets, chiefly as a drum-player. She is then the most charming little creature imaginable, and already knows how to fill your wine-cup exactly full, with a
single toss of the bottle and without spilling a drop, between two taps of her drum.
Thereafter her discipline becomes more cruel. Her voice may be flexible enough, but lacks the requisite strength. In the iciest hours of winter nights, she must ascend to the roof of her dwelling-house, and there sing and play till the blood oozes from her fingers and the voice dies in her throat. The desired result is an atrocious cold. After a period of hoarse whispering, her voice changes its tone and strengthens. She is ready to become a public singer and dancer.
In this capacity she usually makes her first appearance at the age of twelve or thirteen. If pretty and skillful, her services will be much in demand, and her time paid for at the rate of twenty to twenty-five sen per hour. Then only do her purchasers begin to reimburse themselves for the time, expense, and trouble of her training; and they are not apt to be generous. For many years more all that she earns must pass into their hands. She can own nothing, not even her clothes.
At seventeen or eighteen she has made her artistic reputation. She has been at many hundreds of entertainments, and knows by sight all the important personages of her city, the character of each, the history of all. Her life has been chiefly a night life; rarely has she seen the sun rise since she became a dancer. She has learned to drink wine without ever losing her head, and to fast for seven or eight hours without ever feeling the worse. She has had many lovers. To a certain extent she is free to smile upon whom she pleases; but she has been well taught, above all else to use her power of charm for her own advantage. She hopes to find Somebody able and willing to buy her freedom,— which Somebody would almost certainly thereafter discover many new and excellent meanings in those Buddhist texts that tell about the foolishness of love and the impermanency of all human relationships.
At this point of her career we may leave the geisha: thereafter her story is apt to prove unpleasant, unless she die young. Should that happen, she will have the obsequies of her class, and her memory will be preserved by divers curious rites.
Some time, perhaps, while wandering through Japanese streets at night, you hear sounds of music, a tinkling of samisen floating through the great gateway of a Buddhist temple together with shrill voices of singing-girls; which may seem to you a strange happening. And the deep court is thronged with people looking and listening. Then, making your way through the press to the temple steps, you see two geisha seated upon the matting within, playing and singing, and a third dancing before a little table. Upon the table is an ihai, or mortuary tablet; in front of the tablet burns a little lamp, and incense in a cup of bronze; a small repast has been placed there, fruits and dainties,— such a repast as, upon festival occasions, it is the custom to offer to the dead. You learn that the kaimyō upon the tablet is that of a geisha; and that the comrades of the dead girl assemble in the temple on certain days to gladden her spirit with songs and dances. Then whosoever pleases may attend the ceremony free of charge.
But the dancing-girls of ancient times were not as the geisha of to-day. Some of them were called shirabyōshi; and their hearts were not extremely hard. They were beautiful; they wore queerly shaped caps bedecked with gold; they were clad in splendid attire, and danced with swords in the dwellings of princes. And there is an old story about one of them which I think it worth while to tell.
1
The Kyōto word is maiko.
2
Guitars of three strings.
3
It is sometimes customary for guests to exchange cups, after duly rinsing them. It is always a compliment to ask for your friend's cup.
4
'Once more to rest beside her, or keep five thousand koku?
What care I for koku? Let me be with her!'
There lived in ancient times a haramoto called Fuji-eda Geki, a vassal of the Shōgun. He had an income of five thousand koku of rice — a great income in those days. But he fell in love with an inmate of the Yoshiwara, named Ayaginu, and wished to marry her. When his master bade the vassal choose between his fortune and his passion, the lovers fled secretly to a farmer's house, and there committed suicide together. And the above song was made about them. It is still sung.
5
'Dear, shouldst thou die, grave shall hold thee never!
I thy body's ashes, mixed with wine, will! drink.'
6
Maneki-Neko.
一二
アイルランドの俚言にどんな夢でも、もしその夢を見た人がさめてから想ひ出さうとして頭をかく事をさへしなければ想ひ出せると云ふのがある。しかしこの用心を忘れたらその夢は決して記憶にかへつて來る事はない、吹き去られた烟のたな引きの渦きは元の通りの形にはできないと同じ事である。
千の夢のうち、九百九十九までは全く望みなく消えて無くなる。しかし珍しい經驗によつて想像が妙に印象を受けて居る時に來る、或珍しい夢、――旅行中に特に起り易い夢――は實際の出來事のやうに全くはつきりと印象されて、記憶に殘る。
私がこれまで書いたやうな事を見聞したあとで、私が濱村で見た夢はこんな夢であつた。
どこか靑白い廣い敷石のある場所――事によればお寺の中庭のやうな所――それはかすかな日光で染められて居る、そして私の前に若くもなく老いてもゐない婦人が大きな灰色の臺の下に坐つて居る、その臺は何をのせて居るのか私は女の顏しか見られないから分らない。そのうちに私はその女に覺えがあると思つた――出雲の女であつた、それからその女は氣味惡くなつて來たやうだ。唇は動いてゐたが、眼は閉ぢてゐた、そして私は彼女を見ないわけには行かなかつた。
それから數年の距離を通つて細くなつて來るやうに思はれる聲で、柔らかな悲しい歌を始めた、そして聽いて居ると、ケルトの子供歌のかすかな記憶が自分に歸つて來た。それから歌つて居るうちに、一方の手で長い黑い髮を解いたら、それが石の上に環になつて下つた。それから下つて見たら黑くはない、靑い、――靑白い、日のやうな靑色になつて、速い靑い細波(サザナミ)をあちこちにつくつて押しよせながら、うねり始めた。その時、不意に、その細波(サザナミ)は遙かに、ずつと遙かに續いてゐて、女はゐなくなつて居る事に氣がついた。音のない波の長いのろい閃きをもつて、天の端までに靑い大波をあげる海が、ただあるだけであつた。
それから眼をさまして、私は夜中に本當の海のつぶやき――佛海の巨大なかれ聲、――歸りの精靈の潮――を聞いた。
[やぶちゃん注:このハーンの夢は非常に美しく、そして、限りなく哀しく、その夢の映像は時を越え、空間を侵食して宇宙の果てまで漣のような波動となって無限に広がってくくようではないか! 「出雲の女」は若きセツに還元され、しかも三歳で生き別れとなったハーンの母ローザ・アントニウ・カシマティ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二三年~一八八二年:生没年はこちらのデータに拠る)に通底する、すべての根源へと我々を導く大いなる「原母」の像に違いない(うまく表現する言葉が見つからぬのでこの単語を用いるが、別にユング的な狭義の「グレート・マザー」を指しているのではないことを断っておく。寧ろ、老子の言う「玄牝(げんぴん)」の方がしっくりくる)。なお、本章シークエンスを基本、実際のセツとの新婚旅行の明治二四(一八九一)年の八月下旬とするなら、ハーンは一八五〇年(嘉永三年相当)六月二十七日生まれであるから、この時、満四十一、セツは慶応四(一八六八)年二月四日生まれであるから、満二十三であった。――序でに言っておこう。……漱石先生、こういうのをね、「こんな夢を見た」で始めるべき正しい夢記述というのです。……やっぱり、既にしてあなたは、とうの初めから……ハーン先生に――負けていた――のですよ……
「出雲の女であつた、それからその女は氣味惡くなつて來たやうだ。」原文は“a woman of Izumo; then she seemed a weirdness.”。どうにもむずむずしてくる訳である。“weirdness”は、この場合、私は「凄味を持ったある特異な一人の者」「一つの超自然的な一箇の存在」といった意味であるように思われる。しかもそれが「ある出雲の女」なのであり、それは見知った誰それなのではなく、「見知らぬ女」であり、しかし、確かに「神の国である出雲の女」なのである。とすれば、「神の国の出雲の見知らぬ妖しく超自然的な一箇の恐るべき凄みを持った存在の女」とは、神意を告ぐるところの「巫女」以外にはないと私は信ずる。だから「出雲の女」なのだ。因みに、平井呈一氏もここは『そうだ、出雲の女だ。と思っていると、その女が巫女(みこ)に見えてきた。』と訳しておられるのである。]
Ⅻ.
There is an Irish folk-saying that any dream may be remembered if the dreamer, after awakening, forbear to scratch his head in the effort to recall it. But should he forget this precaution, never can the dream be brought back to memory: as well try to re-form the curlings of a smoke- wreath blown away.
Nine hundred and ninety-nine of a thousand dreams are indeed hopelessly evaporative. But certain rare dreams, which come when fancy has been strangely impressed by unfamiliar experiences,— dreams particularly apt to occur in time of travel,— remain in recollection, imaged with all the vividness of real events.
Of such was the dream I dreamed at Hamamura, after having seen and heard those things previously written down.
Some pale broad paved place — perhaps the thought of a temple court— tinted by a faint sun; and before me a woman, neither young nor old, seated at the base of a great grey pedestal that supported I know not what, for I could look only at the woman's face. Awhile I thought that I remembered her — a woman of Izumo; then she seemed a weirdness. Her lips were moving, but her eyes remained closed, and I could not choose but
look at her.
And in a voice that seemed to come thin through distance of years she began a soft wailing chant; and, as I listened, vague memories came to me of a Celtic lullaby. And as she sang, she loosed with one hand her long black hair, till it fell coiling upon the stones. And, having fallen, it was no longer black, but blue —pale day-blue,— and was moving sinuously, crawling with swift blue ripplings to and fro. And then, suddenly, I became aware that the ripplings were far, very far away, and that the woman was gone. There was only the sea, blue-billowing to the verge of heaven, with long slow flashings of soundless surf.
And wakening, I heard in the night the muttering of the real sea,— the vast husky speech of the Hotoke-umi,— the Tide of the Returning Ghosts.
一一
晩飯も風呂もすんだが、餘り暑くてねられないから、獨りで村の墓地を見に出かける、その墓地は砂丘の上にある長い墓地である。砂丘と云ふよはむしろ砂の山で、頂上だけ少し土に蔽はれて居るが、その崩れかけて居る側面を見ると今日の汐よりもつと巨大な古代の汐で創造された歷史を物語つて居る。
墓地に達するために膝まで砂を渡る。大きなそよ風の吹く暖い月夜である。盆の燈籠は澤山あるが、海の風は大槪の火を吹き消した、ただあそこ、ここに極めて僅かな火が柔ら かな白い光を投げて居る、――綺麗な社(ヤシロ)がたの、何かの象徴の形のすきの間のある木の箱に白い紙をはつた燈籠である。時刻はおそいから私の外に人はゐない。しかし今日はここで餘程心づくしの仕事が行はれたわけである、凡て竹の筒には新しい花や小枝が揷され、水鉢には新しい水が滿たされ、墓石は淸められて綺麗になつてゐたからてある。それから墓地の一番奧の隅に、一つの甚だ質素な墓の前に、完全な小さい日本の美味を盛つた皿や椀をのせた美しい膳を私は見つける。それから新しい箸と小さい茶の碗がある、御馳走のうちには未だ暖いのもある。愛情のこもつた女の仕事である、その小さい草履の跡は路の上に未だあざやかに殘つて居る。
[やぶちゃん注:あなたは夜の墓地を純粋に味わうために見に行ったことがあるか?――私はある。既に記したことであるけれど、今一度書きたい。――かつて二十三の時、私は神津島を訪れたことがある……神津島では誰の墓とも分からなくなった壊えた墓石に至るまで、毎日毎日、美しい色とりどりの花を老婆たちが供えていたのだった……私は深夜に独り、その瑞々しい花々に包まれた墓地を訪ねた……それは……不思議な……あの世の楽園……そのものであった……]
Ⅺ.
After the supper and the bath, feeling too warm to sleep, I wander out alone to visit the village hakaba, a long cemetery upon a sandhill, or rather a prodigious dune, thinly covered at its summit with soil, but revealing through its crumbling flanks the story of its creation by ancient tides, mightier than tides of to-day.
I wade to my knees in sand to reach the cemetery. It is a warm moonlight night, with a great breeze. There are many bon-lanterns (bondōrō), but the sea-wind has blown out most of them; only a few here and there still shed a soft white glow,— pretty shrine-shaped cases of wood, with apertures of symbolic outline, covered with white paper. Visitors beside myself there are none, for it is late. But much gentle work has been done here to-day, for all the bamboo vases have been furnished with fresh flowers or sprays, and the water basins filled with fresh water, and the monuments cleansed and beautified. And in the farthest nook of the cemetery I find, before one very humble tomb, a pretty zen or lacquered dining tray, covered with dishes and bowls containing a perfect dainty little Japanese
repast. There is also a pair of new chopsticks, and a little cup of tea, and some of the dishes are still warm. A loving woman's work; the prints of her little sandals are fresh upon the path.
一〇
話が一つ出ると又別のが出る、それで今夜珍しいのを澤山聞く。最も著しいのは私の從者が急に想ひ出した話で――出雲の傳說である。
昔、出雲の持田の浦と云ふ村に或農夫がゐた。餘り貧乏なので子供をもつ事を恐れてゐた。それで妻が子供を生む每に川に投げ込んで、そして死んで生れたのだと云ふ事にしてゐた。男の子の事もあり、女の子の事もあつたが、生れ兒はいづれも、夜、川へ投げ込まれた。こんなにして六人殺された。
しかし段々年がたつに隨つて、夫は以前より富んで來た。土地を買つたり、金を蓄ヘたりする事ができた。それからたうとう妻は七人目の子供、男の子を生んだ。
そこで男は云つた、『子供は養つて行ける、これから年を取つてから世話をして貰ふむすこが要る。この男の子は綺麗だ。それでこれは育てる事にしよう』
そして幼兒は生長した、このかたくなな農夫は每日自分で自分の心が分らくなつて來た、――それは每日むすこ可愛の念が募つて來たからであつた。
或夏の夜、彼は子供を抱きながら庭に出た、子供は五月たつてゐた。
夜は非常に美しく、大きな月が出てゐた、それで農夫は叫んだ、――
『あ〻、今夜珍らしいゑ〻夜だ』
すると子供は父の顏を見上げながら、おとなの言葉で云つた、――
『おとつあん、わしをしまひに捨てさした時も、丁度今夜のやうな月夜だつたね』
そしてそれから子供は同年の外の子供と同じになつて何にも云はなかつた。
農夫は僧になつた。
註。この農夫と子供の言葉は出雲
の方言。
[やぶちゃん注:短い本話も少年の頃に読んだ私には、短いが故に、忘れ難い一話であった。本話も原話を探してみたが、見当たらない。小泉八雲の翻訳や評論で知られる東京大学名誉教授平川祐弘氏の講演「八雲と漱石二人の『怪談』の関係」(PDF/真ん中あたりにある)の中で、本話が起承転結を持った無駄のない構造を持った、『ルポルタージュ記者で』あるハーンならではの絶妙の冷徹な語り口で、間引きの倫理的『議論や主観的感情はまったく表に出さずに、淡々と事実のみを簡潔に、時間の経過に沿って書いて』おり、農夫にとって『子どもの成長につれて可愛さが増すのも人情の自然で』あり、彼が『夏の夜の月を愛でたのも気持ちのゆとりのなせるわざで』あろうとしつつも、平川氏は特に最後の一行に注目され、
《引用開始》
ところで、最後の一行はどのような意味を持つのでしょう。百姓が僧になった、と聞いて読者の気持ちも落ち着き、話も終わります。この簡潔な筆づかいは一つにはリズミカルな短編構成上の必要からも来ていますが、いま一つにはハーンの倫理観に由来しているのかもしれません。百姓が自分の犯した罪の恐ろしさに気づいて、捨てた子を弔い成仏を祈るために出家した、という解釈がそれで可能になるからです。
しかし徳川時代や明治時代の初期に貧乏百姓が寺男ならまだしも僧侶にそう簡単になれるものではありません。最後の一行はあるいは中世以来の説話文学の結びの形式をそのまま踏襲しただけかもしれません。
実際の原話がどのようなものであったかというのは、出雲の原話は日本の民俗学者の手で採集されずにしまったので、原話が実際どのような結末を迎えたのか、私たちはもはや知るに由ないわけです。
《引用終了》
とあることから、原話は最早、探し当てることは不能であるらしい。私は、而して、江戸の有象無象の怪談集の中に、これと似たものがあるのではないかと思い続け、実は今も渉猟し続けているのである。これぞと思うものを見出した折りには、必ずここに追加したいと思うている。なお、底本の「あとがき」で田部隆次氏は前の『鳥取の蒲團の話、出雲の捨子の話は何れも夫人が始めてヘルンに話した怪談であつた』と記しておられる。
さて、今一つ、この平川氏の講演との関連で述べておかねばならぬ。
多くの読者は本話(ハーンの)を読むと、私同様、エンディングが非常に良く似た印象を受ける、ある著名な作品を直ちに想起されることと思う。夏目漱石の「夢十夜」の「第三夜」である。実は平川氏はこの講演で、このハーンの怪談とまさにそれを比較し、これは漱石が明らかにハーンの本話を意識して、それに対抗して「夢十夜」の「第三夜」を書いたのであり、正常な「父」像が欠損していた(以上は私の勝手な謂いであり、「正常」も「欠損」も不適切とならば、一種のトラウマとして変形してしまった「父」認識と言い直してもよい)ハーンと漱石の精神分析的解析を経て、『子どもを捨てた父を書き』、かくも『恐ろしい怪談になったのではないでしょうか。漱石という人はラフカディオ・ハーンの作品のバリエーションを書いてみせて、「どうだ、俺のほうが芸術家として上だろう」と納得したのだと思います。そうすると自信がついて、
『三四郎』の中で、自己満悦とも思えるようなことを書いた。それが私の推測なのであります』と、本公演を結んでおられる。この論考には私は頗る共感を覚える。未読の方は是非、御一読をお薦めするものである。本条の読みについても参考になる考察が幾つもある。
なお、私は「夢十夜」は、読んで、そこそこ面白いとは思うものの、読み終わった後に、妙な苛立ちを感ずることを常としている。正直言うと、夢記述を長年やって来た者として、あの計算された構造や描写・言わずもがなのオチは、覚醒した人間の作為的な「偽夢(ぎむ)」であって、近現代文学の今や残された唯一の突破口かも知れない「夢」文学としては、これ、とんでもない邪道であると断ずるものである(遙かに。内田百閒の「冥途」や「旅順入場式」のほうが正当な「夢」文学的ではある。但し、百閒のそれらを文学として面白いと感ずるかどうかはこれまた別問題ではある。少なくとも若き日の私には頗るつきで退屈の極みであった)。
最後に。私は、しかし、平川氏の八雲の翻訳は――少なくとも怪奇談(私はフリークで十数人の別な訳者のものを若い時から飽きもせず読んできたのであるが)に関する限り――現行の中では、これ、とびっきりアカデミックで正確なのであろうとは拝察するものの――面白いと感じたことは未だかって一度もない――ということも告白しておく。]
Ⅹ.
One legend recalls another; and I hear to-night many strange ones. The most remarkable is a tale which my attendant suddenly remembers,— a legend of Izumo.
Once there lived in the Izumo village called Mochida-noura a peasant who was so poor that he was afraid to have children. And each time that his wife bore him a child he cast it into the river, and pretended that it had been born dead. Sometimes it was a son, sometimes a daughter; but always the infant was thrown into the river at night. Six were murdered thus.
But, as the years passed, the peasant found himself more prosperous. He had been able to purchase land and to lay by money. And at last his wife bore him a seventh child,—a boy.
Then the man said: 'Now we can support a child, and we shall need a son to aid us when we are old. And this boy is beautiful. So we will bring him up.'
And the infant thrived; and each day the hard peasant wondered more at his own heart,— for each day he knew that he loved his son more.
One summer's night he walked out into his garden, carrying his child in his arms. The little one was five months old.
And the night was so beautiful, with its great moon, that the peasant cried out,—
'Aa! kon ya med xurashii e yo da!' [Ah! to-night truly a wondrously beautiful night is!]
Then the infant, looking up into his face and speaking the speech of a man, said,—
'Why, father! the LAST time you threw me away the night was just like this, and the moon looked just the same, did it not?' [7]
And thereafter the child remained as other children of the same age, and spoke no word.
The peasant became a monk.
7
'Ototsan! washi wo shimai ni shitesashita toki mo, chodō kon ya no yona tsuki yo data-ne?' ―Izumo dialect.
九
昔、鳥取市の至つて小さい或宿屋が開業してから始めてのお客として二人の旅商人を迎へた。宿屋の主人はその至つて小さい宿屋の評判をよくしたいから、このお客は尋常以上の親切を以て迎へられた。新しい宿屋ではあったが、持主が貧しいから道具――家具器物――の大部分は古手屋から求めたのであつた。それでも一切の物はさつぱりして、氣もちよく、綺麗であつた。お客は御飯も旨く喰べ、暖い酒も澤山飮んだ。それから柔かな床はは疊の上にのべられたので、お客は眠りにつくために橫になつた。
〔ここで暫らく話を中止して、日本の寢床について一言云はねばならない。誰かうちに病人でもない限り、讀者は日中どこか日本家屋に入つて部屋と云ふ部屋を悉く、それから隅から隅までのぞいて見ても床と云ふ物を見る事は決してない。實際、西洋の床と云ふ意味のものは存在しない。日本人の云ふ床には寢臺もバネもしとねもシートも毛布もない。ただ蒲團と云ふ厚い綿を入れた、むしろ、平均につめ込んだ厚い夜具があるだけ。疊の上に何枚かの蒲團を敷いて、何枚かの蒲團をその上にかける。富んだ人々は五枚六枚の蒲團の上にねて、好きな程の蒲團をかける事もできるが、貧しい人々は二枚か三枚で滿足せねばならない。それから、西洋の爐の前の敷物より大きくもなく厚くもない木綿の蒲團から長さ八尺幅七尺と云ふ金持ちでなければ着られないやうな重い立派な絹蒲團に到るまで勿論種類は多い。その上着物のやうに大きな袖のある大きな蒲團の一種で夜着と云ふのがある、殊の外寒氣の强い時にこれを着ると大層氣持ちがよい。凡てこんな物は、日中は見えないやうに、壁に工夫して造つてあつて閉ぢてある押入れにしまつてある、ふすまと云ふのは優美な圖案で普通裝飾された光澤のない祇を張つた綺麗な境をつける引戶である。これから又そこに妙な木の枕もしまはれる、この枕は眠つてゐても亂れないらやうに日本髮を保存するためにできて居る。
この枕も多少神聖である、しかしそれに關する信仰の起原と正しい性質については私はよく知つてゐない。これだけ知つて居る。卽ち足で枕にさはる事は甚だ惡い、たとへ偶然にでもそんな風に蹴つたり動かしたりする事があれば、その不行狀の償ひとして、手で枕を額に押戴き、『御免』と云つて恭しくもとの場所へ戾さねばならない〕
さて、暖い酒を澤山飮んだあとでは、殊に寒い晩で床が暖い時には、熟睡するのがきまりである。ところでこのお客はほんの少ししか眠らないうちに、その部屋の中で聲がするので目をさました、――同じ問を互に問ふて居る子供の聲であつた、――
『兄さん寒からう』
『お前寒からう』
部屋に子供が入り込むなどと云ふ事はお客を困らせるかも知れないが、驚かす事にはならない、と云ふのは、日本の宿屋には戶と云ふ物はなくて、部屋と部屋との間にただ紙のふすまがあるだけだから、それで何か子供が暗がりに間違つて自分の部屋に迷ひ込んだに相違ないとお客に思はれた。彼は何かおだやかに小言を云つた。ほんの暫らく靜かになつた、それから優しい細い悲しげな聲が耳もとで『兄さん寒からう』と問ふた、すると又別の優しい聲がいたはるやうに『お前寒からう』と答へた。
彼は起きて行燈にあかりをつけて部屋を見𢌞した。誰もゐない、障子は皆しまつてゐた。戶棚を調べた、何にもない。不思議に思ひながら、あかりをつけたままで、又橫になつた、すると、直ちに。又枕もとで、聲が訴へるやうに話した。
『兄さん寒からう』
『お前寒からう』
それから始めて彼は夜の寒さでない寒さでぞつとして來た。何度も何度も聞いた、その度每に益〻恐ろしくなつて來た。聲は蒲團の中にある事が分つたからであつた。そんな風に叫んだのは掛蒲團だけであつた。
彼は急いで自分の僅かな所持品をかき集めて、階段を下りて主人を起し、事の次第を語つた。すると主人は大層怒つて答へた、『お客樣の御意に召すやうに、萬事やつて居るわけです、全く、ところでお客様は餘り御酒を召し上つたので、變な夢を御覽になつたのです』それでもお客は直ちに拂をして外へ行つて宿をさがすと云ひ張つた。
翌晩又一人の客が來て宿泊を求めた。おそくなつてから主人は、前拠夜と同じ事で起された。不思議にも今度の客は酒を少しも飮んでゐない。主人は何か妬む人があつて、自分の商賣の邪魔をするのだらうと邪推したので、怒つて答へた、『お客樣のお氣に召すやうに萬事注意して居ります。それに緣起の惡い迷惑な事をおつしやいます。この宿屋は私の生計のための物である事は――御承知でせう。何のためにこんな事をおつしやるのか、不都合千萬です』そこでお客は怒り出して、大きな聲でもつとひどい事を云つた、そして二人は非常に怒つて別れた。
しかしお客が行つたあとで、主人はどうも變だと思つたので、蒲團を調べに二階のそのあき間へ行つて見た。そしてそこに居る間に彼は聲を聞いた、そして彼は二人の客の云つた事は全く事實である事を發見した。叫んだのは一枚――只一枚――の掛蒲團であつた。あとは靜かであつた。彼はその蒲團を自分の部屋へ運んだ、それから、朝まで、それを着て寢て見た。その聲は夜明けの時刻まで續いた、『兄さん寒からう』『お前寒からう』それで彼は眠られなかつた。
夜明けに彼は起きて蒲團を買ふた古手屋の主人に遇ひに行つた。古手屋は何も知らなかつた。彼はもつと小さい店からその蒲團を買ふたのであつた、そしてその店の主人は町のずつと郊外に住んで居る一層貧しい家からそれを買ふたのであつた。それで宿屋の主人は尋ねながら、つぎからつぎへと行つた。
それから最後に、その蒲團は貧しい家族のものであつた事、それからその家族が住んでゐた郊外の小さい家の家主から買ふた事が分つて來た。それでその蒲團の話は、かうであつた、――
その小さい家の家賃は一ケ月僅か六十錢であつた、それでも貧しい人達にとつては中々の大金であつた。父は一ケ月に二三圓しか儲けられない、母は病氣で仕事ができない、それから子供が二人、――六つと八つの男の子があつた。それからこの人達は鳥取では外から來た人達であつた。
或冬の日に父が病んだ、一週間病んだあとで、死んで葬られた。それから長い間床についてゐた母はそのあとを追ふた、そして子供等だけ殘つた。助けて貰ひに行く人を誰も知らなかつた、そして生きるために何でも賣られるものを賣り始めた。
沢山は無かつた、死んだ父と母の着物。それから彼等自身の着物の大部分、木綿の蒲團、それから僅かなあはれな道具類――火鉢、椀、茶碗、それから外のつまらぬ物ども。每日何か賣つて、最後に一枚の蒲團の外何にもなくなつた。それから何にも喰べる物のない日が來た、それから家賃が拂つてなかつた。
恐ろしい大寒が來た、その日は餘り雪が高く積つたのでその小さい家から遠く離れ出て行かれなかつた。それで一枚の蒲團の下に一緖にねて、一緖にふるヘて、子供らしく互に慰め合ふより外はなかつた、――
『兄さん寒からう』
『お前寒からう』
火はなかつた、火をつくる材料は何もなかつた、そして暗くなつた、それから氷のやうな風が小さい家の中へ悲鳴をあげで入つて來た。
彼等は風を恐れたが、家賃を取立てに荒々しく彼等を引起す家主を一層恐れた。彼は惡相をした無情の男であつた。そして拂つてくれる人のゐないのを見て、子供等を雪の中に追出し、たつた一枚の蒲團を取上げて、家に鍵をかけた。
彼等は銘々靑いうすい着物を只一枚しか着てゐなかつた、外の着物は皆食物を買ふために賣られたからであつた、それからどこへ行くあてもなかつた。餘り遠くない處に觀音堂があつた、しかしそこまで行くには雪が餘り深かつた。それで家主が行つてから、家のうしろにたどり戾つた。そこで寒さのための眠氣が彼等を襲ふた、そこで彼等は暖を取らうとして抱き合つた。それから眠つて居る間に神々は、新しい蒲團――物すごい程白い、そして非常に綺麗な蒲團――で彼等を包んだ。それで彼等はもう寒さを感じなかつた。長い間彼等はそこに眠つてゐた、それから誰か彼等を發見して、千手觀音堂の墓場に彼等のための安眠の床がつくられた。
こんな話を聞いたので、宿屋の主人は蒲團をそのお寺の僧侶に寄附して、小さい魂のために讀經して貰つた。それで蒲團はそれから物を云はなくなつた。
[やぶちゃん注:私の忘れ難いハーンの最初の怪談(というよりも哀話)体験の一つである(私のそれは、知人のお兄さんからプレゼントされた田代三千人稔(みちとし)氏の角川文庫版の小泉八雲「怪談・奇談」で、私は小学五年生であった)。本話は家賃を「六十錢」とし、「父は一ケ月に二三圓しか儲けられない」あるところから(原文もそうある)、設定は明治であり、先行する活字された原話を見出し得ない。後の類話は、専ら、このハーンの採話が原型となっているように思われる。ルーツを探るヒントは「千手觀音堂」にありそうだ。調べてみると、鳥取県東伯郡北栄町東高尾に観音寺(グーグル・マップ・データ)に重要文化財指定の県内最古の木造仏として千手観音菩薩がある。ここは「七」の上市と、ここ浜村の間の、上市寄りのやや内陸にある(浜村からは直線で西南西三十二キロメートル)。ソゾタケ氏の仏像日記ブログ「祗是未在」の「東高尾観音寺(鳥取県北栄町)【前編】―妖しい魅力の千手観音立像と素朴で美しい十一面観音立像」で同像を見ることが出来る。無論、これが本話のそれだという訳ではない。ないが……この何とも言えぬお顔と立ち姿を眺めていると、私はこの美しい観音こそが、二人の兄弟を彼岸へ導いた「母」のように思えてくるのである……
「長さ八尺幅七尺」長さ二・四メートル、幅二・一メートル。
「夜着」老婆心乍ら、「よぎ」と読み、寝る際に上に掛けるものであるが、ここでハーンが説明するように、見た目は大形の長着(ながぎ)様のもので、袖の附いた着物状の中に綿を入れた掛け蒲団にする寝具を言う。掻巻(かいまき)とも称する。どてら(褞袍)も似ているが、印象としてはこれは夜着よりも短く、綿の量も少ないように思われる。丹前と褞袍は「広辞苑」などでは同義とするが、丹前の方がより綿量が少ないように感ずる。
「古手屋」これも老婆心乍ら、「ふるてや」と読み、古着や古道具を売買する商売を指す。古道具屋のこと。この「手」とは、古くなってしまった「部類に属する物」の意であろう。]
Ⅸ.
Many years ago, a very small yadoya in Tottori town received its first guest, an itinerant merchant. He was received with more than common kindness, for the landlord desired to make a good name for his little inn. It was a new inn, but as its owner was poor, most of its dōgu — furniture and utensils — had been purchased from the furuteya. [5] Nevertheless, everything was clean, comforting, and pretty. The guest ate heartily and drank plenty of good warm sake; after which his bed was prepared on the soft floor, and he laid himself down to sleep.
[But here I must interrupt the story for a few moments, to say a word about Japanese beds. Never; unless some inmate happen to be sick, do you see a bed in any Japanese house by day, though you visit all the rooms and peep into all the corners. In fact, no bed exists, in the Occidental meaning of the word. That which the Japanese call bed has no bedstead, no spring, no mattress, no sheets, no blankets. It consists of thick quilts only, stuffed, or, rather, padded with cotton, which are called futon. A certain number of futon are laid down upon the tatami (the floor mats), and a certain number of others are used for coverings. The wealthy can lie upon five or six quilts, and cover themselves with as many as they please, while poor folk must content themselves with two or three. And of course there are many kinds, from the servants' cotton futon which is no larger than a Western hearthrug, and not much thicker, to the heavy and superb futon silk, eight feet
long by seven broad, which only the kanemochi can afford. Besides these there is the yogi, a massive quilt made with wide sleeves like a kimono, in which you can find much comfort when the weather is extremely cold. All such things are neatly folded up and stowed out of sight by day in alcoves contrived in the wall and closed with fusuma — pretty sliding screen doors covered with opaque paper usually decorated with dainty designs. There also are kept those curious wooden pillows, invented to preserve the Japanese coiffure from becoming disarranged during sleep.
The pillow has a certain sacredness; but the origin and the precise nature of the beliefs concerning it I have not been able to learn. Only this I know, that to touch it with the foot is considered very wrong; and that if it be kicked or moved thus even by accident, the clumsiness must be atoned for by lifting the pillow to the forehead with the hands, and replacing it in its original position respectfully, with the word 'go-men,' signifying, I pray to be excused.]
Now, as a rule, one sleeps soundly after having drunk plenty of warm sake, especially if the night be cool and the bed very snug. But the guest, having slept but a very little while, was aroused by the sound of voices in his room,— voices of children, always asking each other the same questions:—
'Ani-San samukarō?'
'Omae samukarō?'
The presence of children in his room might annoy the guest, but could not surprise him, for in these Japanese hotels there are no doors, but only papered sliding screens between room and room. So it seemed to him that some children must have wandered into his apartment, by mistake, in the dark. He uttered some gentle rebuke. For a moment only there was silence; then a sweet, thin, plaintive voice queried, close to his ear, 'Ani-San samukarō?' (Elder Brother probably is cold?), and another sweet voice made answer caressingly, 'Omae samukarō?' [Nay, thou probably art cold?]
He arose and rekindled the candle in the andon, [6] and looked about the room. There was no one. The shoji were all closed. He examined the cupboards; they were empty. Wondering, he lay down again, leaving the light still burning; and immediately the voices spoke again, complainingly, close to his pillow:
'Ani-San samukarō?'
'Omae samukarō?'
Then, for the first time, he felt a chill creep over him, which was not the chill of the night. Again and again he heard, and each time he became more afraid. For
he knew that the voices were in the futon! It was the covering of the bed that cried out thus.
He gathered hurriedly together the few articles belonging to him, and, descending the stairs, aroused the landlord and told what had passed. Then the host, much angered, made reply: 'That to make pleased the honourable guest everything has been done, the truth is; but the honourable guest too much august sake having drank, bad dreams has seen.' Nevertheless the guest insisted upon paying at once that which he owed, and seeking lodging elsewhere.
Next evening there came another guest who asked for a room for the night. At a late hour the landlord was aroused by his lodger with the same story. And this lodger, strange to say, had not taken any sake. Suspecting some envious plot to ruin his business, the landlord answered passionately: 'Thee to please all things honourably have been done: nevertheless, ill-omened and vexatious words thou utterest. And that my inn my means-of-livelihood is — that also thou knowest. Wherefore that such things be spoken, right-there-is-none!' Then the guest, getting into a passion, loudly said things much more evil; and the two parted in hot anger.
But after the guest was gone, the landlord, thinking all this very strange, ascended to the empty room to examine the futon. And while there, he heard the voices, and he discovered that the guests had said only the truth. It was one covering — only one — which cried out. The rest were silent. He took the covering into his own room, and for the remainder of the night lay down beneath it. And the voices continued until the hour of dawn: 'Ani-San samukarō?' 'Omae samukarō?' So that he could not sleep.
But at break of day he rose up and went out to find the owner of the furuteya at which the futon had been purchased. The dlealer knew nothing. He had bought the futon from a smaller shop, and the keeper of that shop had purchased it from a still poorer dealer dwelling in the farthest suburb of the city. And the innkeeper went from one to the other, asking questions.
Then at last it was found that the futon had belonged to a poor family, and had been bought from the landlord of a little house in which the family had lived, in the neighbourhood of the town. And the story of the futon was this:—
The rent of the little house was only sixty sen a month, but even this was a great deal for the poor folks to pay. The father could earn only two or three yen a month, and the mother was ill and could not work; and there were two children,— a boy of six years and a boy of eight. And they were strangers in Tottori.
One winter's day the father sickened; and after a week of suffering he died, and was buried. Then the long-sick mother followed him, and the children were left alone. They knew no one whom they could ask for aid; and in order to live they began to sell what there was to sell.
That was not much: the clothes of the dead father and mother, and most of their own; some quilts of cotton, and a few poor household utensils,— hibachi, bowls, cups, and other trifles. Every day they sold something, until there was nothing left but one futon. And a day came when they had nothing to eat; and the rent was not paid.
The terrible Dai-kan had arrived, the season of greatest cold; and the snow had drifted too high that day for them to wander far from the little house. So they could only lie down under their one futon, and shiver together, and compassionate each other in their own childish way,—
'Ani-San, samukarō?'
'Omae samukarō?'
They had no fire, nor anything with which to make fire; and the darkness came; and the icy wind screamed into the little house.
They were afraid of the wind, but they were more afraid of the house-owner, who roused them roughly to demand his rent. He was a hard man, with an evil face. And finding there was none to pay him, he turned the children into the snow, and took their one futon away from them, and locked up the house.
They had but one thin blue kimono each, for all their other clothes had been sold to buy food; and they had nowhere to go. There was a temple of Kwannon not far away, but the snow was too high for them to reach it. So when the landlord was gone, they crept back behind the house. There the drowsiness of cold fell upon them, and they slept, embracing each other to keep warm. And while they slept, the gods covered them with a new futon,— ghostly-white and very beautiful. And they did not feel cold any more. For many days they slept there; then somebody found them, and a bed was made for them in the hakaba of the Temple of Kwannon-of-the-Thousand-Arms.
And the innkeeper, having heard these things, gave the futon to the priests of the temple, and caused the kyō to be recited for the little souls. And the futon ceased thereafter to speak.
5
Furuteya, the establishment of a dealer in second-hand wares,—furute.
6
Andon, a paper lantern of peculiar construction, used as a night light. Some forms of the andon are remarkably beautiful.
八
濱村と云ふ小さい美しい村に着いた後、日が暮れた、明日から內地の方へ向ふから、ここは海岸での私共の最後の休み場所であつた。私共の泊つた宿屋は甚だ小さいが甚だ、物綺麗に小ぢんまりして居る、それから有難い温泉がある、宿屋はその温泉の出口に近い所に建つて居る。不思議な程渚(ナギサ)に近いこの溫泉はこの村の家全部の浴場に供給して居ると私は聞いた。
[やぶちゃん注:「温」「溫」の混淆はママ。]
宿屋では最上等の部屋を私共にあててくれる、しかし私は明日流すことになつて往來の入口に近く、臺の上に置いてある甚だ立派な精靈船を見るために暫らく止まる。ほんの少し前にでき上つたらしい、新しい藁屑がそのあたりに散らかつて、戒名は未だ帆の上に書いてない。この船は貧しい寡婦とその息子、二人とも、この宿屋の奉公人である人達の物であると聞いて驚く。
私は濱村で盆踊を見ようとあてにしてゐたが、失望する。村では警察が踊りを禁じて居る。コレラを恐れてこんな嚴重な衞生規則を出す事になつた。濱村では飮料、料理用、洗濯用として水を使用してはならない、ただ温泉だけを使用するやうに命令されて居る。
非常に聲のよい小柄な中年の女が晩飯の時給仕に來る。二十年以前、既婚の女がしたやうに齒を黑くして眉を剃つて居る、それでも彼女の顏はやはり愉快な顏である、若い時には並すぐれて綺麗であつたに相違ない。女中として働いては居るが、宿屋の人々と親類になつて居るので、親類相當な思ひやりで待遇されて居るらしい。この女の話では精靈船は夫と弟――八年前、二人ともうちの見える所まで來て死んだこの村の漁師(レウシ)達――のために流される事になつて居る。隣りの禪寺の僧が翌朝來て帆の上に戒名を書いてくれる、このうちには漢字を書く事の上手な人はゐないから。
私は彼女にきまりの僅かな心づけをする、それから私の從者によつて、彼女の身の上を色々尋ねる。彼女は自分よりずつと年上の夫と結婚して、甚だ幸福にくらしてゐた、それから十八歲の少年であつた弟も一緒にゐた。よい船を一艘と少しばかりの地所を持つてゐた上、彼女は機織が巧みであつたので、とにかく樂にくらしてゐた。夏になると漁師(レウシ)は夜、魚を取る、船が皆出ると二哩か三哩の所で、一群の星のやうに、沖の一列の炬火を見るのは綺麗である。天氣の惡くなりさうな時には出ない、それでも月によつては、颱風が突然起つて帆を上げる暇もないうちに、船に追ひつく。彼女の夫と弟が最後に出た晩はお寺の池のやうに海は靜かであつた、颱風は夜明け前に起つた。それからの事は、私共のはるかに不器用な言語で、私が飜譯する事ができない程あつさりした悲哀な調子で彼女は述べる。
『船と云ふ船は皆歸りましたが、夫の船だけは歸りません。夫と弟は外の人達よりもずつと向うに行つてゐたので、そんなに早く歸られませんでした。みんな見て待つてゐました。波は一分每に高くなり、風は恐ろしくなるやうでした、それで外の船も流されないやうにずつと岡の方へ引上げて置かねばなりませんでした。ところが不意に夫の船が大變、大變早く來るのが見えて來ました。喜びましたね。隨分近く來たので夫の顏も弟の顏も見えました。ところが不意に橫波が船の一方にぶつかつたので、船が水の中へ沈んで、出て來ませんでした。それから夫と弟が泳いで居るのが見えました。しかし波で上げられる時しか見えません。山のやうな海でした、それで夫の頭と弟の頭がずつとずつとずつと上つて、それから下へ下へ下りる、それで私達の方で見える程波の頂上に上る時いつも一人が「助けて」と呼んでゐます。しかし强い人達でも恐れてゐます、海は餘りこはい、私はただ女です。それから弟もう見えなくなりました。夫は年取つてゐましたが、大變强い、それで長い間泳いでゐました、――餘り近いので、私は夫の顏が恐れて居る人の顏のやうである事が分りました、――そして「助けて」と呼んでゐました。しかし助けてくれるものはありません、それでたうとう夫も沈みました。それでも沈む前に夫の顏が見えました。
『それからあと、長い間、その時見た通りの顏がいつも見えました、それで私は眠られないで泣いてばかりゐました。それから私は佛樣や神樣へその夢を見ないやうにとお祈りを致しました。もうその夢は見ません。が、かうしてお話をして居る時でも、やはり夫の顏が目に見えます。……その時分私のむすこはほんの子供でした』
この簡單な話を終る時彼女は忍び泣きをしないでは居られなかつた。それから、不意に疊まで頭を下げて、袖で淚をふいて、こんな風に私情を少し露出した事を丁寧にわびて、そして笑った――日本の禮儀の眞髓とも云ふべき柔らかな低い笑であつた。私は白狀するが、この笑は話その物よりも一層深く私を感動させた。適當な時に私の從者は巧みに話題を變へて、私共の旅について、それから旦那様がこの海岸の古い習慣や昔話に興味をもつて居る事について、輕い話を始める。そして私共の出雲漫遊の話を少しして彼女を喜ばせる事ができた。
彼女は私共に何處へ行くかと尋ねる。私の從者は多分鳥取までと答へる。
『あゝ、鳥取。さやうでございますか。……ところで、鳥取の蒲團と云ふ古い話があますが、旦那樣は御存じでゐらつしやいませうね』
ところがその旦那様は御存じでない、そして熱心にそれを聞かせて貰ひたいと云ふ。そして私の通譯の唇から私が先づきいた通りにここにその話をかく。
[やぶちゃん注:仲居の語り出しの最初の段落末の鍵括弧閉じるがないのはママ。
「濱村と云ふ小さい美しい村」現在の鳥取県鳥取市気高町浜村。前の「七」で通った上市(先に示した大澤隆幸氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、セツとの新婚旅行では、ここ上市に宿泊している)からは直線でも四十四・七キロメートルも離れている。
「温泉がある」浜村温泉は硫酸塩泉で、豊富な湯量と五百年の歴史を持つ。
「明日から內地の方へ向ふから、ここは海岸での私共の最後の休み場所であつた」とあるが、前注に示した大澤氏の論文を見る限りでは、引き返して既泊の鳥取県東伯郡琴浦町大字八橋(やばせ)に暫く再滞在し、海水浴などをし、その後は美保が関へ向かっている(「第十章 美保の關にて」のシークエンスは、この時のもの)から文学的虚構とも思われる。但し、ハーンは、かなり気まぐれで、華美に過ぎて五月蠅い宿は断固拒否するタイプ(この直前の、現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町にある東郷池の宿でも、一週間の滞在予定を、一日かそこらで切り上げてしまい、宿の者やセツを困らせている)であるから、実際には後に出るように「鳥取」を経て内陸へ向かうつもりがなかったとは断言は出来ない。
「私は濱村で盆踊を見ようとあてにしてゐたが、失望する。村では警察が踊りを禁じて居る」松江到来の際の、かの「第六章 盆踊 (四)」に出る上市での夢幻的エクスシーが忘れられなかったのであろう。但し、大澤氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、この直前の八橋での滞在中、ハーンは、セツと一緒に八橋から二キロメートルほど東にある東伯郡琴浦町逢束(おうつか)まで歩いて、実際に盆踊りを見に行っている。ただ、これはハーンには思い出したくなかったエピソードで、大澤氏によれば、この時の『盆踊り見物で群集に砂や石を投げられ』とあり、直後に出された西田千太郎に宛てた手紙には、『報道関係者にこの件を知らせないようにと記』す微妙な気遣いをさえも見せている。寧ろ、その不本意な体験があったので、仕切り直しに盆踊りを楽しみにしていた、とも読むことは出来る。
「コレラ」明治のこの頃は、間歇的に中小レベルのコレラ流行が実際に発生している。ウィキの「コレラ」で幕末から明治期へのコレラ史を見ると、日本で初めてコレラが発生したのは最初のパンデミック(世界的大流行)が日本に及んだ文政五(一八二二)年のことで『感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった』。二度目のパンデミック(一八二六年~一八三七年)の波及を免れたものの、三度目は再び日本に到達して安政五(一八五八)年から三年に亙っての大流行となった。この時は『九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで』十万人が死亡したとする『文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある』。文久二(一八六二)年には、先に『残留していたコレラ菌に』よるものと思われる本邦三度目の大流行が発生、五十六万人もの『患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも』七万三千人から数十万人に及ぶ感染者が『死亡したという文献があるが、これも倒幕派が政情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い』。因みに、安政五年の大流行は、『相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている』(下線やぶちゃん)。『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている』。事実、明治元(一八六八)年に『幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は』、凡そ二年から三年間隔で『数万人単位の患者を出す流行が続』いた。明治一二(一八七九)年(年)と明治一九(一八八六)年には死者が十万人の『大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ』。なお、前注の事実記載から、盆踊りは逢束でやっていたのに浜村で禁じられているというのは一見奇異に見えなくもないが、実際に地域によって、所轄の地方警察の命を厳格に守ったり、いい加減に扱ったりすることは今も昔も変わらないから、何ら不思議ではあるまい。特に盆踊りは当時の庶民にとっては数少ないハレの慰安であった。これをたいした流行でもないのに(本邦のコレラ史は明治二四(一八九一)年の夏は特異点としない)全面禁止するというのは、私には天皇崩御で花火大会自粛程度には馬鹿げた神経症的対応としか思われない。
「二哩か三哩」凡そ三・三~四・九キロメートル。
「鳥取の蒲團と云ふ古い話」を、以下、この哀しい過去を背負った、明日、ハーンが先に見た精霊船を遺児とともに流す仲居が語り出すのであるが、大澤氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、最初の印象的な精霊船を見るシークエンスとこの女性も、実際には杵築で体験した事実を、ここ『濱村に登場させたともいう』(一九九三年八雲会刊の『へるん今昔』に拠る。下線やぶちゃん。以下も)とあり、更には、知られた以下に語られる切々たる怪談「布団の話」の内容も、この女性からではなく、セツが前の夫為二から聴いた話であったという、ともある。ここで簡単にセツについて述べておくと(複数のネット情報を素材とした)、小泉セツは慶応四(一八六八)年生まれであるが、生まれると直ぐ稲垣家の養女となっている。明治一九(一八八六)年、十九の時、稲垣家は前田為二という士族の次男坊を婿養子としてセツと娶せたが、稲垣家は士族の商法で失敗して負債を抱えることとなり、三年後(別情報では一年も満たないうちであったともする)、夫為二は大阪に出奔、明治二十三(一八九〇)年一月に正式な離婚届が受理され、セツは稲垣家を去って実家小泉家へと戻った。セツがハーンの住み込み女中となった時(推定で明治二十四(一八九一)年年初)、セツは数え二十四であった。]
Ⅷ.
Night falls as we reach the pretty hamlet of Hamamura, our last resting- place by the sea, for to-morrow our way lies inland. The inn at which we lodge is very small, but very clean and cosy; and there is a delightful bath of natural hot water; for the yadoya is situated close to a natural spring. This spring, so strangely close to the sea beach, also furnishes, I am told, the baths of all the houses in the village.
The best room is placed at our disposal; but I linger awhile to examine a very fine shōryōbune, waiting, upon a bench near the street entrance, to be launched to-morrow. It seems to have been finished but a short time ago; for fresh clippings of straw lie scattered around it, and the kaimyo has not yet been written upon its sail. I am surprised to hear that it belongs to a poor widow and her son, both of whom are employed by the hotel.
I was hoping to see the Bon-odori at Hamamura, but I am disappointed. At all the villages the police have prohibited the dance. Fear of cholera has resulted in stringent sanitary regulations. In Hamamura the people have been ordered to use no water for drinking, cooking, or washing, except the hot water of their own volcanic springs.
A little middle-aged woman, with a remarkably sweet voice, comes to wait upon us at supper-time. Her teeth are blackened and her eyebrows shaved after the fashion of married women twenty years ago; nevertheless her face is still a pleasant one, and in her youth she must have been uncommonly pretty. Though acting as a servant, it appears that she is related to the family owning the inn, and that she is treated with the consideration due to kindred. She tells us that the shōryōbune is to be launched for her husband and brother — both fishermen of the village, who perished in sight of their own home eight years ago. The priest of the neighbouring Zen temple is to come in the morning to write the kaimyo upon the sail, as none of the household are skilled in writing the Chinese characters.
I make her the customary little gift, and, through my attendant, ask her various questions about her history. She was married to a man much older than herself, with whom she lived very happily; and her brother, a youth of eighteen, dwelt with them. They had a good boat and a little piece of ground, and she was skilful at the loom; so they managed to live well. In summer the fishermen fish at night: when all the fleet is out, it is pretty to see the line of torch-fires in the offing, two or three miles away, like a string of stars. They do not go out when the weather is threatening; but in certain months the great storms (taifu) come so quickly that the boats are overtaken almost before they have time to hoist sail. Still as a temple pond the sea was on the night when her husband and brother last sailed away; the taifu rose before daybreak. What followed, she relates with a simple pathos that I cannot reproduce in our less artless tongue:
'All the boats had come back except my husband's; for' my husband and my brother had gone out farther than the others, so they were not able to return as quickly. And all the people were looking and waiting. And every minute the waves seemed to be growing higher and the wind more terrible; and the other boats had to be dragged far up on the shore to save them. Then suddenly we saw my husband's boat coming very, very quickly. We were so glad! It came quite near, so that I could see the face of my husband and the face of my brother. But suddenly a great wave struck it upon one side, and it turned down into the water and it did not come up again. And then we saw my husband and my brother swimming but we could see them only when the waves lifted them up. Tall like hills the waves were, and the head of my husband, and the head of my brother would go up, up, up, and then down, and each time they rose to the top of a wave so that we could see them they would cry out, "Tasukete! tasukete!" [4] But the strong men were afraid; the sea was too terrible; I was only a woman! Then my brother could not be seen any more. My husband was old, but very strong; and he swam a long time,— so near that I could see his face was like the face of one in fear,— and he called "Tasukete!" But none could help him; and he also went down at last. And yet I could see his face before he went down.
'And for a long time after, every night, I used to see his face as I saw it then, so that I could not rest, but only weep. And I prayed and prayed to the Buddhas and to the Kami-Sama that I might not dream that dream. Now it never comes; but I can still see his face, even while I speak. . . . In that time my son was only a little child.'
Not without sobs can she conclude her simple recital. Then, suddenly bowing her head to the matting, and wiping away her tears with her sleeve, she humbly prays our pardon for this little exhibition of emotion, and laughs — the soft low laugh de rigueur of Japanese politeness. This, I must confess, touches me still more than the story itself. At a fitting moment my Japanese attendant delicately changes the theme, and begins a light chat about our journey, and the danna-sama's interest in the old customs and legends of the coast. And he succeeds in amusing her by some relation of our wanderings in Izumo.
She asks whither we are going. My attendant answers probably as far as Tottori.
'Aa! Tottori! Sō degozarimasu ka? . . . Now, there is an old story,— the Story of the Futon of Tottori. But the danna-sama knows that story?'
Indeed, the danna-sama does not, and begs earnestly to hear it. And the story is set down somewhat as I learn it through the lips of my interpreter.
4
'Help! help!'
教え子の「のりちゃん」が保育士に合格した!
とてもとても僕は嬉しい!
誰が誰より!――
何が何より!――
とてもとても嬉しい!
恐らく諸君らには、この僕の喜びの意味は、わからない。
それほどに僕は、この十年の中で、いっとう、嬉しいのだ!
のりちゃん! おめでと!!!
上代人の誤謬
デデムシまたはデエロとマイマイと、この二つの新らしい名詞の分布を究めてみると、其次に自然に起つて來る問題は、倭名鈔以來の文籍に認められた加太豆布利といふ言葉は、末にどうなつてしまつたかといふことである。自分の此問題に對する最初からの推測は、此語が方言となつて必ず更にマイマイ領域の外側に、分散しているだらうといふに在つたが、附載の表によつて通觀し得るごとく、だいたいにその想像は誤つてい居なかつた。但し、説明に入るに先だつて、玆にもう一度明らかにして置きたいと思ふのは、記錄と地方言語との關係である。所謂月卿雲客たちの口にすることが、都の言葉に對して一段の優越を認められてよかつたのは、法令の名目とか輸入の事物とかの如く、一旦權能ある公の機關に由つて、統一し又整理せられたものに限るのであつて、四民日常の共用するところ、殊に主として女子や少人によつて口すさまれる言葉などは、偶然それが學問ある人の筆に上つたからとて、少しでも匡正の力を有つ道理はなかつた。果してどちらが片言であり聽きそこなひであるかは、容易に決し難い問題であるのみならず、雙方が諸共に誤つて居る場合さへも、幾らでも想像し得られるのである。誤りといふのも實はある時代ある地方に比べて同じでないといふだけのことで、それでも通用する以上は言語でないとは言はれない。標準語はつまり前にもいふ如く、單にある期の現在の便宜と趣味とに基づいた選擇であつて、これを論據として國語の事實を、否認することまでは許されぬのである。國語の事實はこの上もなく複雜なもので、我々はまだ其片端すらも知り得たとは言はれない。これに對して文書の採錄は、單なる偶然であり又部分的である。從うて現存最古の書物に筆記せられている言葉が正しく、又最も古くかつ固有のものだときめてかゝることは、無法なる臆斷と言はなければならぬのである。
[やぶちゃん注:「デエロ」改訂版では『デェロ』。
「倭名鈔以來の文籍に認められた加太豆布利」源順の「和名類聚抄」には(国立国会図書館デジタルコレクションの複数画像を視認して我流で訓読し、句読点を附して読み易くした)、
*
蝸牛(カタツムリ) 「山海經注」に云く、※1螺〔上の音は「僕」。〕は、蝸牛なり。「本草」に云ふ蝸牛〔上は「古」「華」の反。和名、加太豆不利。〕は、貌、※2蝓に似て背に殼負ふのみ。
[やぶちゃん字注:「※1」~「撲」-「扌」+「虫」。「※2」=「褫」-「衤」+「虫」。]
*
と載る。ご覧の通り、「加太豆布利」ではなく「加太豆不利」であるが、改訂版では以下も「不」に直されてある。]
此の立場から考へてみると、世の多くの語原論なるものは、誠に心もと無い砂上の樓閣であるのみならず、假にたまたま其本意を言ひ當てたりとしても、第一に其發見に大變な價値を付することは出來ない。深思熟慮の結果に成る言葉といふものも想像し難い上に、その傳承採擇に際しては、尚往々にしていゝ加減な妥協もあつたからである。それを一々何とか解釋しなければならぬものゝ如く、自ら約束した學者こそは笑止である。私などに於いては倭名鈔の所謂加太豆布利が、果して山城の京を距ること何十里、源順君の世に先だつこと何十年間の、事實であつたらうかを危む者であるが、謹嚴なる和訓栞の著者の如きは、之を神代以降の正語なりと信ずるが故に、乃ち偏角振(かたつのふり)の義なるべしなどと説いて居るのである。若し片角振りならば片角振りと謂ひさうなものである。何人が何處で其樣なわからぬ省略を申し合せたとするか。實に思ひ遣りの無い獨りぎめであつたが、さういふ事も亦近頃までの流行であつて、一人谷川氏を難ずることは出來ない。それよりも更に思い切つた一異説は、物類稱呼の著者が得たといふ實驗談であつた。蝸牛は雨の降る前になると、角だか貝だかを鳴らしてカタカタといふ音をさせる。さうしてその形は錘と似ているからカタツムリだといふなどは、語原論と言はうよりも、むしろ落し話の方に近いのである。
[やぶちゃん注:「和訓栞」「わくんのしほり(しおり)」と読む。江戸後期(安永六(一七七七)年以降)に成立した国語辞典で国学者谷川士清(ことすが)著。九十三巻。上代語・中古語・俗語(方言を含む)を採集し、第二音節までの五十音順に配列、出典を示して語釈を加えた上、用例も挙げてある。所持する複数の画像データを調べたが、私の所持するものは古い版であるためか、出てこない。
「物類稱呼」江戸後期の全国的規模で採集された方言辞書。越谷吾山
(こしがやござん) 著。五巻。安永四(一七七五)年刊。天地・人倫・動物・生植・器用・衣食・言語の七類に分類して約五百五十語を選んで、それに対する全国各地の方言約四千語を示し、さらに古書の用例を引くなどして詳しい解説を付す。「蝸牛」は巻二の動物に出る(以下の引用は昭和八(一九三三)年立命館出版部刊の吉澤義則撰「校本物類稱呼 諸國方言索引」に拠った)。
*
蝸牛 かたつぶり〇五畿内にて〇でんでんむし、播州邊九州四國にて〇でのむし、周防にて〇まいまい、駿河沼津邊にて〇かさばちまいまい、相摸にて〇でんぼうらく、穢土にて〇まいまいつぶり、同隅田川邊にて〇やまだにし、常陸にて〇まいぼろ、下野にて〇をゝぼろ、奥仙臺にて〇へびのてまくらといふ。今按ずるに、かたつぶりは必雨ふらんとする夜など鳴もの也。貝よりかしら指を出して打ふりかたかたと聲を發(はつ)す。いかにも高きこゑ也。かたかたと鳴て頭をふるものなれば「かたふり」といへる意にて「かたつぶり」となづけたるものか。「つ」は助字なるへし。予、隅田川の邊に寓居(ぐうきよ)せしことかれを見て句有。又晋其角か。
〽文七にふまるな庭のかたつふり とせし句は寂蓮法師の歌の、上の五もじを科へ手俳諧の句となしたる也
〽牛の子にふまるな庭のかたつぶり角有とても身をはたのまし
*]
實際あるいはさうでも言はなければ、説明は六つかしかつたのであらうが、果して此京都語が出來た最初から、カタツブリであつたか否かにも疑ひがある。語原を考へる位ならば、何をさし置いてもその原の形といふものを確かめなければならぬのだが、現在はまだ其方法が立つて居ない。それでまず試みに此語の領域、もしくは分布狀態を尋ねて見なけれはならぬが、カタツブリは今の處では中央には殆ど其跡を絶ち、主として京都から最も遠い土地ばかりに、單獨に又は他の語と併存して用ゐられて居るである。次に列擧するものゝ中には、文學によつて「匡正」せられた例も交つて居ないとは斷じ難いが、まだ普通には今まであつたものを、全部無くしてしまふだけの力はなかつた筈であるのに、少なくとも秋田縣の各郡などは、是以外には全く別の名稱を持つて居ないのである。
[やぶちゃん注:「匡正」「きやうせい(きょうせい)」正しい状態にすること。]
カダツブレ、カサツブレ 羽後秋田市
カタツンブレ 同 南秋田都
カサツンブレ、カナツンブ 同 河邊郡
カサツブリ 同 仙北郡
カダツムリ 同 平鹿郡
カダツンブリ 同 由利郡
カサツブリ 同 飛島
[やぶちゃん注:「河邊郡」現在の秋田県秋田市の一部と、秋田県大仙市の一部に相当する旧郡。
「仙北郡」現在の秋田県仙北市全域と、大仙市の大部分及び横手市の一部に相当する旧郡。
「平鹿郡」現在の秋田県横手市の大部分と、大仙市の一部に相当する旧郡。
「由利郡」現在の秋田県由利本荘市・にかほ市全域と秋田市の一部に相当する旧郡。
「飛島」現在の山形県酒田市に属する日本海に浮かぶ飛島(とびしま)。酒田港から北西三十九キロメートル沖合にある山形県唯一の有人島である。]
斯ういふ中でもカサツブレは秋田の御城下の語である故に、どの郡に行つても通用し、又正しいと認められて居ることは、關東のマイマイツブロも同じであつた。尚この以外に他の地方の例を拾うてみると、
カタツムリ 青森縣南部領
カサツブリ、カサツムリ 羽前東村山郡
カタツンブリ 佐渡外海府
カサツブリ 越後の一部
カサツブ 會津大沼郡河沼郡
カタツモリ、マメジッコ 下野鹿沼附近
カンツンブリ 越中五箇山
カエツブリ、カエツモリ 同 下新川郡
カエカエツブリ、カエカニツモル 同 上新川郡針原
カエツブリ、カエカエツノダス 同 氷見郡宇波
カタツブプリ、マエマエツブリ 越前阪井郡金津
カタツブリ 同 大野郡
カタツンブリ、カタツター 大和十津川
[やぶちゃん注:「羽前東村山郡」山形県の郡。現行以前は天童市の大部分と山形市の一部を含んだ。
「佐渡外海府」「そとかいふ」と読む。佐渡島の北部に位置する外海府海岸一帯を指す。
「會津大沼郡河沼郡」孰れも現存する福島県の郡。「大沼郡」は以前は会津若松市の一部と河沼郡柳津町の一部を含んだ。「河沼郡」は以前は会津若松市の一部・喜多方市の一部・耶麻(やま)郡西会津町の一部を含んだ。二郡は古くより近接していた。
「下野鹿沼」関東の北部、栃木県中部に位置する現在の鹿沼市。
「上新川郡針原」現在の富山県富山市針原中町の附近(上新川郡は消滅した)。
「越前阪井郡金津」現在の福井県あわら市金津町(かなづちょう)。「阪井郡」は「坂井郡」が正しいが、既に消滅。
「大野郡」福井県西端にあった旧郡で越前国では最も面積の大きい郡であった。現在の大野市及び勝山市の全域と、福井市の一部他に相当する。
「カタツター」は改訂版では『カタッター』。後も同じ。]
微細なる音韻の異同ほ、耳でも判別しにくゝ筆に現はすことは尚困難であるが、大體に秋田縣などで私の聽いた所は、カサといふ場合のサは必ず澄み、カタといふ場合は必ず濁つて、幾分かカザに近いやうであつた。それで問題になるのはカタとカサと、いずれが先づ生じて後に他方の「轉訛」を誘つたか。乃至は又二つ本來は別々のものであつたのが、ナメクジとマイマイクウジの如く、後に互ひに近よつて來たのかといふ點である。自分等の最初に心づくのは、カサは近世の編笠が起る以前、一筋の縫絲を螺旋させて縫うたものと思はれるから、是ならば最も適切に蝸牛の貝の構成を形容し得たらうといふことである。現にマイマイでも次に言はうとするツブロでも、共に其特徴によつて出來て居るから、笠に似た貝、笠を着た蟲といふ意味の、名前が生ずることに不思議は無い。併し其反面から、直にカサを古しとし、カタを京都の人の聽きそこなひと、考へてしまふことはまだ出來ない。寧ろ是ほど尋常なる一つの名を、特にカタといふ音に聽き倣すには、それだけの理由があつたものとも見られるのである。現在のところでは、カタにはまだ獨立した由來を見出すことが出來ぬから、假にカサ・カタを一種と見て置くが、事によると別に第四の方言の古く行はれたのがあつて、後に勢力を失うてカサツブリと合體したのかも知れない。カサツブリと近い方言が、主として日本の北半分に分布しているに對して、南の半分には單純なるカタ系統の語が多い。それが雙方ともに國の端ともいふべき地方であつて、中央との關係が對稱的になつて居ることは、注意しなければならぬ點であらう。今日までに知られている例は、
マイマイカタツボ 伊勢多氣郡
カタツボ 同 度會郡
カタカタバイ 紀伊南牟婁郡飛鳥村
カタジ 同 熊野串本浦
カタカタ 同 下里村
カタカタ、カタッター 大和十津川
カッタナムリ 土佐高知附近
カタカタ 同 幡多郡
カタト 伊豫宇和島附近
カタタン 同 喜多郡
カタクジリ 肥後八代郡金剛村
ガト 丹後加佐郡
[やぶちゃん注:「伊勢多氣郡」「たき」と読む。三重県の中部南寄りを東北から南西に横断する現存する郡。
「度會郡」度会郡(わたらいぐん)現存する三重県の郡で多気郡南の西方に接する。古くは現在の伊勢市も郡域であった。
「紀伊南牟婁郡飛鳥村」現在は熊野市。南牟婁郡が現存してはいる。
「熊野串本浦」現在の和歌山県東牟婁郡串本町。本州最南端の地。
「下里村」現在は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町。
「幡多郡」高知県西部の郡。古くは宿毛市・土佐清水市・四万十市の全域、高岡郡四万十町の一部で、土佐国では最大、南海道でも牟婁郡に次いで広大な面積を有した。
「喜多郡」愛媛県西部の郡。古くは大洲市の大部分・伊予市の一部・西予市の一部・内子町の一部を含んだ。
「肥後八代郡金剛村」現在、八代市(現在、八代郡は氷川町(ひかわちょう)一町のみ)。
「加佐郡」「かさ」と読む。舞鶴市全域と福知山市の一部及び宮津市の一部に相当した。]
ぐらゐのものであるが、この中間にもいまだ採集を試みざる地域は弘い。但しマイマイとの著しい相異は、彼は中國山脈などの内陸に殘つて居るに反して、この方は専ら海沿ひの地の、しかも岬角と名づくべき地に分布していて、この點がまた北部のカサツブレとも一致することである。伊豆の半島のカサッパチ若くはカーサンマイといふ蝸牛の方言なども、明らかにまたその類例であるが、それが駿州に入つて優勢なるマイマイと接觸し、到る處にカサノマイ、カサパチマイマイ等の複合現象を呈する外、北は富士山の東西裾野を過ぎて、甲州の約半分を風靡し、更に東は尉榔を越えて、相模愛甲の山村まで、このカアサンメの領分に取込んでいる爲に、人は或はその發源の何れに在つたかを疑うて居る。併し甲州は其武力に於ては、久しく或一家に統一せられて居たに拘らず、方言の關する限り殆どと四分五裂であつた。周りの國々の言葉は峠を越え流れを傳ひ、何れも中央の平地に降つて對立し、一つとして此山國を通り拔けて行つたものは無い。言はゞ一種緩衝地帶であるが此實狀に眼を留めてみた者ならば、少なくとも此方が終端の行き止りであることを、信じないでは居られぬと思ふ。さうして一方には東海道は又マイマイといふ語の往還の路であつた。殘る所は伊豆半島の袋の底に、一つ以前の語が押込められて、偶然にも忘却を免れて居たものと、解するの他は無いやうである。半島が古い文物の保存地となることは、既に多くの學者も説いて居るが、方言に於ても其實證は乏しとせぬ。例へば關東東北ではニホといい、中央部ではススキ・スズミ、西國ではホヅミなどといふ稻の堆積を、志摩と伊豆と安房との三つの半島國のみに於ては、一樣にイナブラと呼んで居る。それが舟人によつて舟より運ばれたので無いことは、稻村は、彼等と縁の近い物體で無く、陸に居る者にのみ適切な問題であつたことを考へてもわかる。だから外には例も無いが、カサバチ多分古い形の一つであらう。ハチもツブロも本來は近い物であつた。それからカアサンメのメといふ語も、類例を求むるならばツグラメのメがある。恐らくはマイマイとは關係無しに、別に理由があつて早くから附いて居たものであらうと思ふ。
[やぶちゃん注:「岬角」改訂版は「かうかく(こうかう)」と音読みしている。半島部で特に岬や鼻となった地形・地域の謂い。
「カーサンマイ」「カアサンメ」改訂版ではそれぞれ『カァサンマイ』『カァサンメ』(後者は二箇所とも)。]
七
上市と云ふ寂しい小さい村の近くで、私は名高い聖い樹を見物するためにしばし休息する。それは大通りに近いが低い丘の上の森の中にある。その森に入ると、三方が甚だ低い崖で圍まれた小さい谷のやうな處へ出る、その上の方へ計られぬ程老いた巨大な松の樹が何本か聳えて居る。その大きなうねつた根は崕の表面を貫いて岩を割つて出て居る。それからその交つた松葉はその盆地に綠のたそがれを作つて居る。一本は甚だ妙な形の大きな根を三本つき出して居るが、その端(ハシ)が何か祈禱の文句を書いた長い白い紙や、海草の供物で卷いてある。何かの傳說によるよりは、むしろこの根の恰好が一般の信仰から見てこの樹を神聖にしたらしい、それは特別の崇拜の目的物である、そして小さい鳥居がその前に建ててある、それには最も不器用なそして妙な種類の奉納文がのせてある。私はその飜譯をここに出す事はさし控へる――しかし人類學者や民俗學者にはたしかに特殊の興味があるに相違ない。樹木の崇拜或は少くとも樹木のうちに存在すると想像される神の崇拜は大多數の原始的種族に多分共通な、そして以前は日本にも博く行はれた、生殖器崇拜の珍しい遺物である。實際それが政府によつて禁止されてから二三十年にもなるままい。小さい盆地の向う側に、大きな、堅くない岩の上に同じく不器用な、同じく妙な物――祈禱者の物が置いてあるのを見る。二つの藁人形――互にもたれかかつた男女の人形である、細工は子供らしく不器用である、それでも藁一本で女の髮を巧みにまねて女は男と區別ができる。それから男には、今封建時代の老年の殘存者しかもたない丁髷がついて居るから、私はこの祈禱者の物は何か古への、そして全く慣習的模型によつて造られたものであらうと思ふ。
さてこの奇妙な奉納物はそれ自身問はず語りをしてゐる。愛し合つて居る二人の男女は男の過ちで別れる事になつた、多分どこかの女郞に迷うて女に不實をする氣になつたのであらう。それから不實をされた女はここに來て迷の雲を晴らし、誤れる心を直して貰ふやうに神に祈つた。その祈りは聞き屆けられた、二人は再び一緖になつた、それで女はそのために二つの妙な人形を自分の手で造つて、――彼女の無邪氣な信仰と感謝の心のしるしとして――松の樹の神に捧げた。
[やぶちゃん注:一対の古び萎れた陰陽(いんよう)の人形(ひとがた)から、こんなに美しく素晴らしい文学的空想を出来る日本人が、今、どれほどいるだろう? ハーン先生、私は恥ずかしい気になりました……
「上市」既に述べた通り、「第六章 盆踊 (四)」に出る、現在の鳥取県西伯(さいはく)郡大山町(だいせんちょう)上市(山陰本線刺下市駅の海側の字名として残る。ここ。グーグル・マップ・データ)であるが、原文は「かみいち」とあるものの、これは、少なくとも、現行では「うはいち(うわいち)」と読むのが正しい。
「聖い樹」個人ブログ(男性/HM非公開)「同行二輪」の「民俗学考 その1 木ノ根神社」によって、鳥取県西伯郡大山町松河原の木ノ根神社(逢坂木ノ根神社)であることが判った(ここ。グーグル・マップ・データ。サイド・パネルの、ここに「甫登神社」とあって陰石(樹木の一部?)二個体を視認でき、また、陽物の、こんな画像もある)。山陰本線下市からほぼ西に一・五キロメートルほどの位置に現存する。リンク先の記事によれば御神体は男根に似た松の根であるとし(ハーンの言う通りの典型的古典的な陽物崇拝である)、『御利益は当然、子宝、縁結び』、『正面扉の格子から中を覗くと、地面には多数の男根の奉納物と小さな祠がある。その後ろに確かに巨大な木の根があるのだが、屋根で覆われているために全体像がつかめない。枯れ木の幹という以外にどの様な形なのかは全くわからない。肝心の三本あるのかどうかもはっきりしない』(ブログ主は、この前で、ハーンのこの箇所を、案内板と記念碑から引用されておられる。若干、表記に問題があるが、平井呈一氏の訳文である)。『結論としては、相当、初心(うぶ)な乙女でもこれなら大丈夫だろう。因みに、国道沿いにある木の根まんじゅうというのは、シンボライズした形の大きな饅頭だ』とある。陽物崇拝、「金精様(こんせいさま)」については種々のテクストで数多、注をしてきたので、ここで改めて注することはしない。例えば「耳囊 第一卷 金精神の事/陽物を祭り富を得る事」などの私の注を参照されたい。]
Ⅶ.
Near a sleepy little village called Kanii-ichi I make a brief halt in order to visit a famous sacred tree. It is in a grove close to the public highway, but upon a low hill. Entering the grove I find myself in a sort of miniature glen surrounded on three sides by very low cliffs, above which enormous pines are growing, incalculably old. Their vast coiling roots have forced their way through the face of the cliffs, splitting rocks; and their mingling crests make a green twilight in the hollow. One pushes out three huge roots of a very singular shape; and the ends of these have been wrapped about with long white papers bearing written prayers, and with offerings of seaweed. The shape of these roots, rather than any tradition, would seem to have made the tree sacred in popular belief: it is the object of
a special cult; and a little torii has been erected before it, bearing a votive annunciation of the most artless and curious kind. I cannot venture to offer a translation of it — though for the anthropologist and folk-lorist it certainly possesses peculiar interest. The worship of the tree, or at least of the Kami supposed to dwell therein, is one rare survival of a phallic cult probably common to most primitive races, and formerly widespread in Japan. Indeed it was suppressed by the Government scarcely more than a generation ago. On the opposite side of the little hollow, carefully posed upon a great loose rock, I see something equally artless and almost equally curious,— a kitōja-no-mono, or ex-voto. Two straw figures joined together and reclining side by side: a straw man and a straw woman. The workmanship is childishly clumsy; but still, the woman can be distinguished from the man by .the ingenious attempt to imitate the female coiffure with a straw wisp. And as the man is represented with a queue,— now worn only by aged survivors of the feudal era,— I suspect that this kitōja-no-mono was made after some ancient and strictly conventional model.
Now this queer ex-voto tells its own story. Two who loved each other were separated by the fault of the man; the charm of some jorō, perhaps, having been the temptation to faithlessness.
Then the wronged one came here and prayed the Kami to dispel the delusion of passion and touch the erring heart. The prayer has been heard; the pair have been reunited; and she has therefore made these two quaint effigies 'with her own hands, and brought them to the Kami of the pine,— tokens of her innocent faith
and her grateful heart.
六
しかしこんな原始的な恐ろしい信仰があつても、盆の時期には美はしい佛敎の信仰を行ふ事には變りはない、それでこの小さい村々から十六日に精靈船が出る。精靈船は日本の外の地方よりも、この海岸では餘程精巧に又費用をかけて造られる、骨組の上を藁で包んで造つてあるだけではあるが、何れも細(コマカ)い點まで完全にできて居る小船の面白い模型である。三尺から四尺までの長さのもある。白い紙の帆に戒名が書いてある。新しい水を入れた小さい水入れと香爐をのせてある、それから上側板に神祕的な卍(マンジ)をつけた小さい紙の旗がひるがへる。
精靈船の形とそれを流す時と仕方に關する風習は國々によつて餘程違ふ精靈船の代りに燈籠だけ、――その目的のためにのみ造られた特別の種類の燈籠――を流すのが或漁村の習慣だと私は聞いて居る。
しかし出雲の海岸、及びこの西の海岸に沿うた他の地方では、精靈船は海で溺死した人のためにのみ流される、それから流す時刻も夜でなくて。朝である。死んでから十年間は每年一回、精靈船を流す、十一年目からはこの儀式はない。稻佐で見た多くの精靈船は全く美しかつた、そして貧しい漁村の人々にとつては隨分多額の金がかかつたに相違ない。しかしそれを造つた船大工の話では、溺死した人の親戚は悉く金を寄附して、年々小さい船を求める。
[やぶちゃん注:原本を確認したが、第二段落と第三段落の行空けは原文にはない。
「三尺から四尺」九一センチメートルから一・二メートル。
「稻佐で見た多くの精靈船」この杵築の稲佐浜での描写は、これ以前に示されていない。現在の研究では、ハーンは大社に少なくとも三度参拝していることが判っている。本書に先に描かれた、最初の杵築訪問(大社参拝)は、
明治二三(一八九〇)年九月十三と十四日は、旧暦七月二十九日と八月一日
であり、同様に翌年、
明治二四(一八九一)年の訪問は七月二十六日から八月十日で、旧暦では六月二十一日から七月六日
に当たり、精霊舟を流す旧盆の時期とは、孰れも一致していない(現在、知られている最後の三度目とされる訪問は、東京帝国大学に赴任する直前の明治二十九(一八九六)年八月十二日であるが、これは本書刊行の後であるから排除される)。このことから、ハーンは、現在、知られている以外に、旧盆の頃に、稲佐浜を訪れて精霊流しを現認していると考えざるを得ない。ところが、言わずもがな乍ら、明治二十三年の旧盆はハーン松江到来以前であるから、あり得ず、明治二十四年の同時期は、まさに、ここで、セツと伯耆に新婚旅行中で、行くことは出来ない。そうすると、彼が稲佐浜で精霊流しを見たのは、熊本に移った後の明治二十五年、二十六年、二十七年(本書刊行は同年九月)の三年間の孰れかの旧盆に限定されてくることになる(新潮文庫の上田和夫氏の年譜を見る限りでは、この三年間の孰れの旧盆の時期にも空白があるから推理としては、充分、成立すると思う)。なお、私は、これを文学的虚構とは思わない。ハーンは実見していないものを「見た」と言う操作をする――創作性の強い特殊の随筆作品の場合は除く――タイプの人間ではないし、ここでは、しかも「全く美しかつた」という直経験感懐を訴えている。私の考証に重大な誤りがあるとされる方は、是非とも御教授を乞うものである。
「しかしそれを造つた船大工の話では、溺死した人の親戚は悉く金を寄附して、年々小さい船を求める。」原文は“But the ship-carpenter who made them said that all the relatives of a drowned man contribute to purchase the little vessel, year after year.”。この訳文は、水難に遭った遺族らや話者である船大工に対して頗る失礼な誤訳と思う。「しかし」が「年々小さい船を求める」に呼応するのではない。これは
――しかし乍ら、それらの精霊船を造る船大工の話によれば、彼らは、まことに貧しい人々なれば、水難に遭って亡くなった者の親族らは、毎年毎年、なけなしの金を出しあっては、そのミニチュアの船を買(こ)うて行くのである――
という謂いであろう。平井呈一氏の訳でも『もっとも、それをこしらえた人から聞いたところによると、水死人の親類縁者たちが毎年金を出しあって、そういう精霊船を買うのだという話だった』となっている。]
Ⅵ.
But these primitive and ghastly beliefs do not affect the beautiful practices of Buddhist faith in the time of the Bon; and from all these little villages the shoryobune are launched upon the sixteenth day. They are much more elaborately and expensively constructed on this coast than in some other parts of Japan; for though made of straw only, woven over a skeleton framework, they are charming models of junks, complete in every detail. Some are between three and four feet long. On the white paper sail is written the kaimyō or soul-name of the dead. There is a small water-vessel on board, filled with fresh water, and an incense- cup; and along the gunwales flutter little paper banners bearing the mystic manji, which is the Sanscrit swastika.[3]
The form of the shōryōbune and the customs in regard to the time and manner of launching them differ much in different provinces. In most places they are launched for the family dead in general, wherever buried; and they are in some places launched only at night, with small lanterns on board. And I am told also that it is the custom at certain sea-villages to launch the lanterns all by themselves, in lieu of the shōryōbune proper,— lanterns of a particular kind being manufactured for that purpose only.
But on the Izumo coast, and elsewhere along this western shore, the soul-boats are launched only for those who have been drowned at sea, and the launching takes place in the morning instead of at night. Once every year, for ten years after death, a shōryōbune is launched; in the eleventh year the ceremony ceases. Several shōryōbune which I saw at Inasa were really beautiful, and must have cost a rather large sum for poor fisher-folk to pay. But the ship-carpenter who made them said that all the relatives of a drowned man contribute to purchase the little vessel, year after year.
3
The Buddhist symbol 卍.
五
船に乘つて海に行き、そこに止まつて歸らない人々に關して、この遠隔の海岸では妙な信仰が行はれる、――墓の前に白い燈籠をかける優しい信仰よりは、たしかに、もつと原始的な信仰である。溺死者は決して冥途へは行かないと信じて居る者がある。彼等は永久に流れの間に漂ふ、潮の動搖と共にうねる、船のあとに續いて動く、大波の碎ける時に叫ぶ。激浪の跳ぶ時上るものは彼等の白い手である、礫をざらざら音をさせたり、引浪が引く時游泳者の足をつかんだりするのは彼等の拳である、それで船乘はこのお化けの事を婉曲に云つて、非常にそれを恐れる。
それで船には猫を飼ふ。
猫はお化けを追拂ふ力がある物ときめられて居る。どうして、又何故かについて私に告げてくれる人が未だ見つからない。私は猫は死者を支配する力があると考へられて居る事だけを知つて居る。死骸と猫だけを置いたら、死骸は起きて躍り出さないだらうか。猫のうちでも三毛猫はそのために船乘に最も貴ばれる。しかし三毛猫が得られない場合には外の猫でもよい、それで船が港に入ると、その船の猫は大槪――船側のどこか小さい窓から覗いたり、大きな舵の動いて居る廣い場所に坐つたりして居るのが見られる、――卽ちもし天氣がよく、海が靜かであれば。
[やぶちゃん注:「死骸と猫だけを置いたら、死骸は起きて躍り出さないだらうか」妖猫(猫又)が死者の遺体を踊らせるという伝承は、かなり、有名である。ウィキの「猫又」にも『ネコはその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者を甦らせたり、ネコを殺すと』七代祟る『などと恐れられており、そうした俗信が背景となって猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。『また、ネコと死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車』(かしゃ)『と猫又が同一視されることもある』とある。
「三毛猫」ウィキの「三毛猫」に、オスの三毛猫(ご存じの通り、本三色の毛色と性別は伴性遺伝であるため、三毛猫はその殆んどが♀であり♂は滅多に出現しないことから、それだけでも非常に稀少価値であった)を船に乗せると福を呼び、船が遭難しないという言い伝えがあり、『江戸時代には高値で取引されていたという説もあるが、実際の取引事例は不明である。日本の第一次南極観測隊では珍しくて縁起がいいという理由でオスの三毛猫のタケシが連れて行かれ、昭和基地内のペットとして南極で越冬している』事実はある、とある。大型で遠洋に長期に出るようなものならば、鼠退治としての実用性もあるが(日本への猫渡来説の有力な一つは、仏典を鼠の食害から守るために同船させた猫がルーツとするものである。また、私の偏愛するサイト「カラパイア」の「かつて猫は船の守り神だった。船に乗る猫たちの古写真特集」(これらの写真は必見!)には、『英国では古い海上保険法で、猫を乗せることが義務付けられており、乗せていなかった貨物船は、ネズミによる被害を故意に防ごうとしなかったという理由で、貨物の損害への保険金支払いを認められなかったほどだ』ともある)、貧しい日本の漁師の木の葉のようなそれでも乗せるとなら、これはもう、その信仰は、まさにハーンが語るようなものでなくてはならぬ。先のカラパイアの記事にも『日本では、ネズミ退治はもちろんのこと、「ネコが騒げば時化、眠れば好天」「ネコは船中で必ず北を向く」などの言い伝えがあり、猫には天気の予知する能力や荒天でも方角を示す能力とがあると信じられてきた』とあり、これも一因であろう。]
Ⅴ.
Concerning them that go down into the sea in ships, and stay there, strange beliefs prevail on this far coast,— beliefs more primitive, assuredly, than the gentle faith which hangs white lanterns before the tombs. Some hold that the drowned never journey to the Meido. They quiver for ever in the currents; they billow in the swaying of tides; they toil in the wake of the junks; they shout in the plunging of breakers. 'Tis their white hands that toss in the leap of the surf; their clutch that clatters the shingle, or seizes the swimmer's feet in the pull of the undertow. And the seamen speak euphemistically of the O-'baké, the honourable ghosts, and fear them with a great fear.
Wherefore cats are kept on board!
A cat, they aver, has power to keep the O-baké away. How or why, I have not yet found any to tell me. I know only that cats are deemed to have power over the dead. If a cat be left alone with a corpse, will not the corpse arise and dance? And of all cats a mike-neko, or cat of three colours, is most prized on this account by sailors. But if they cannot obtain one,— and cats of three colours are rare,— they will take another kind of cat; and nearly every trading junk has a cat; and when the junk comes into port, its cat may generally be seen,— peeping through some little window in the vessel's side, or squatting in the opening where the great rudder works,— that is, if the weather be fair and the sea still.
四
ところで大多數の村はただの漁村である、そしてそのうちに嵐の前夜船出をして再び歸つて來ない人々の古い草葺きの家がある。しかし溺死者も近傍の墓場に墓がある。その下に何かその人の物が埋めてある。
何であらう。
この西の方の人々の間には、外の土地では無頓着に捨てられる物――臍の緖――はいつも保存される。丁寧に幾重にも包まれて、最後の上包みに父と母と幼兒の名と、出生の日の時刻とを書いて家の守袋に納めて置く。娘は嫁入きり時、新家庭へ携へて行く、息(ムスコ)の方のは兩親が保存してくれる。死ぬ時はそれを一緖に葬る、外國で、或は海で死ぬ事があれば、遺骸の代りにそれを墓に納める。
[やぶちゃん注:墓地と朽ち果てた漁民の空き家を描くことから始めて、その墓の中を透視して民俗を解き明かすハーンは――私は――まさしく本邦幻想文学者の希有の一人――と信じて疑わぬ。なお、小泉八雲顕彰会副会長で静岡県立大学教授の大澤隆幸氏の「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、この荒涼たる海辺の巨大な墓地のヒントとなったと思われるのは、現在の鳥取県東伯郡琴浦町赤碕の花見潟墓地であるとある(「十一」にもそれらしいものが出る)。「鳥取県観光連盟」公式サイト内の「花見潟墓地」を参照されたい。なかなかクるもののある景観である。なお、つい数日前に遅まきながら存在を知ったこの論文は(私はアカデミズムの人間ではないので遅かりしは悪しからずである)、全十三タイトルに分かれ、題名からはちょっと想像出来ないハーンの編年的資料を中心とした恐るべき緻密な論考であって、現在容易に入手出来るハーン小泉八雲の最も完備した年譜的データとしても最善のものと考えられ、未だ精読していないものの、既に電子化した部分の私の注の誤りであることや、疑問の答えも散見され、向後、これに拠って注を改稿することを考えている。未入手の方には是非ともお薦めしたい論考である(「静岡県立大学・短期大学部機関リポジトリ」のこちらで十一タイトル、同サイトでの同氏の検索で十二と最終回の十三をPDF版でダウンロード出来る)。
「臍の緖」の民俗については、池田光穂氏の個人サイト内の「臍の緒にかんする質問」が、海外の民俗学的観点も含め、非常にためになった。必見である。因みに、私の家には、妻(名古屋出身)の臍の緒があり、私の臍の緒も、亡き母(鹿児島出身)は残していた。平凡社「世界大百科事典」の「へその緒」を引いておく(コンマを読点に変更した)。『臍帯(さいたい)の俗称。母体と胎児をつなぐものであり、これの扱いをめぐってはさまざまな習俗がみられる。へその緒は昔は金物で切ることを嫌い、竹のへらや葦・貝殻などを用いた。手一束(ていっそく)(ひと握り)のところを麻でかたくしばって切る。切るということばを忌んで、岩手県などではへその緒をツグという。へそをツグことは、母体から切り離して生児を一個の人間として独立させることなので、へそをツグ産婆(助産婦)は重い意味をもっていた。九州には産婆をヘソバアサンと呼ぶ土地があり、鹿児島県喜界島では産婆の役をフスアンマー(臍母)という。新潟、千葉、神奈川などにはへその緒を切るだけの役目をもつ取上げ親がある。へその緒を短く切ると短気になる、小便が近くなるなどという。へその緒は七夜前後に落ちるが、一般に干して産毛とともに紙に包んで水引をかけ,名前,生年月日を記してその子の守り神として保存する。へその緒はその子が大病をしたときに匙じて飲ませるとよい、嫁にいくときに持たせる、死んだときは棺に入れてやる、便所につるして』、『夜泣きのまじないにするなどの俗信がある』。]
Ⅳ.
Now many of these villages are only fishing settlements, and in them stand old thatched homes of men who sailed away on some eve of tempest, and never came back. Yet each drowned sailor has his tomb in the neighbouring hakaba, and beneath it something of him has been buried.
What?
Among these people of the west something is always preserved which in other lands is cast away without a thought,— the hozo-no-o, the flower- stalk of a life, the navel-string of the newly-born. It is enwrapped carefully in many wrappings; and upon its outermost covering are written the names of the father, the mother, and the infant, together with the date and hour of birth,— and it is kept in the family o-mamori-bukuro. The daughter, becoming a bride, bears it with her to her new home: for the son it is preserved by his parents. It is buried with the dead; and should one die in a foreign land, or perish at sea, it is entombed in lieu of the body.
三
程無く、進むうちに、左手の靑色の波浪の單調と、右手の綠色の大波の單調とは灰色の墓地の出現によつて破られた、――それは私共の車夫が全速力で走つて、その直立した石の大きな群がりを通り拔けるのに十五分は充分かかる程長い墓地であつた。これが現れるといつでも村に近づいた事を示す、しかし墓地の驚くべく大きいのに比して、村は驚くべく小さい事が分る。墓地の沈默の住民の數がその墓地を有せる村の人々よりも多い事は幾千の幾百倍である、――その村は數里の海岸に沿うて散在して、防風としてはただ陰氣な松竝樹があるだけのゝ草葺き屋根の全く小さい部落である。無數の、全く無数の墓石又墓石、――過去に對する現在の價の物凄き無數の證人、――そして古い、古い、古い、――そのうち數百は餘り長くそこにゐたので砂丘から吹いて來る砂だけで形も毀れ、佛銘も全く消えて居る。陸地が存在するやうになつてから、この風の吹く海岸にこれまで生きてゐた人々悉くの墓地をさながら通過して居るやうである。
そしてこの墓場には悉く――今盆だから――墓が新らしい程新らしい燈籠、――墓場の燈籠である白い燈籠がある。今夜多數の墓場は都會の火のやうな光で輝くであらう。しかし又燈籠のない無數の墓――古い幾萬の墓地もある、――何れも家が斷絕したしるし、或はここを去つた子孫がその家族の名をさへ忘れたしるしである。古い時代の人々、その人々の精靈を呼戾してくれる者はない、愛する地方的記憶もなくなつて居る――彼等の一生に關する一切の事はずつと以前に消滅して居る。
[やぶちゃん注:この盆燈籠の風景は、ハーンの意識の心象風景としても、すこぶる夢幻的で悲しく且つ慄然とするほどに美しい。今の日本人のどれほどの者が、これほど哀切に満ちた思いを、日本人として、かくも深く哀しい感懐として抱けるであろう? 最早、日本人は日本人ではなくなってしまいました……ハーン先生……【2025年3月5日追記】私は先年末の山陰旅行で、遠くからであるが、この墓地群を見た。そうして、ハーンの、この章を思い出し、霙の振る中、涙したのであった…………。
「私共の車夫が全速力で走つて」この描写は、松江への赴任着任のために真鍋と「全速力で」人力車を走らせたであろう推定事実と、よく一致し、この箇所に関しては松江に向っている最中の明治二十三年八月三十日(無論、新暦)直近の体験に基づく叙述と採れる。何故なら、セツとの新婚旅行に於いては、凡そ「全速力」で俥を走らせねばならない必然性はない、と普通は、考えられるからである。]
Ⅲ.
Betimes, as we journey on, the monotony of undulating blue on the left, or the monotony of billowing green upon the right, is broken by the grey apparition of a cemetery,— a cemetery so long that our jinricksha men, at full run, take a full quarter of an hour to pass the huge congregation of its perpendicular stones. Such visions always indicate the approach of villages; but the villages prove to be as surprisingly small as the cemeteries are surprisingly large. By hundreds of thousands do the silent populations of the hakaba outnumber the folk of the hamlets to which they belong,— tiny thatched settlements sprinkled along the leagues of coast, and sheltered from the wind only by ranks of sombre pines. Legions on legions of stones,— a host of sinister witnesses of the cost of the present to the past,— and old, old, old! — hundreds so long in place that they have been worn into shapelessness merely by the blowing of sand from the dunes, and their
inscriptions utterly effaced. It is as if one were passing through the burial-ground of all who ever lived on this wind-blown shore since the being of the land.
And in all these hakaba — for it is the Bon — there are new lanterns before the newer tombs,— the white lanterns which are the lanterns of graves. To-night the cemeteries will be all aglow with lights like the fires of a city for multitude. But there are also unnumbered tombs before which no lanterns are,— elder myriads, each the token of a family extinct, or of which the absent descendants have forgotten even the name. Dim generations whose ghosts have none to call them back, no local memories to love — so long ago obliterated were all things related to their lives.
二
しかし時として入港しようと一所懸命になつた船がやはりおくれて十六日の夜遠く沖合に居る事がある。そんな時に精靈が船の𢌞りに高く現れて、長い手をのばして『田籠(タゴ)、田籠おくれ――田籠おくれ』とつぶやく。決してそれを拒んではいけない、しかし桶を渡す前に、底をぬいて置かねばならない。偶然にでも完全な桶を海に落したら、その船に乘り合せた人々こそ災難、――何故と云へば、精靈は直ちにそれに水をみたして船を沈めにかかるのだから。
佛海の時分に、恐ろしい見えない力のある物は精靈ばかりではない。未だ最も强い魔が居る、それから河童が居る。
しかしいつでも游泳者は恐ろしい醜惡な河童を恐れる、河童は水の底から延び上つて人を引き込んで、腸を喰ふ。
ただ腸だけ。
河童に捕へられた人の死體は餘程たつてから岸に打ち上げられる。大きな波のために長い間岩に打たれたり、魚類のために嚙まれたりしなければ、外から見て何の創もない。しかし輕くてうつろで――よく枯れた瓢簞のやうに空虛である。
註。河童は本來海の化け物ではなく
河の化け物である。それで河口に近
い海に出る。
松江から一哩半ばかり、河內川に
臨んだ河內村に河子の宮或は河童の
宮がある。(出雲では一般に『河童』
とは云はないで『河子』と云ふ。こ
の小さい社に河童が書いたと云はれ
る證文が保存してある。話によれば、
昔河內にすむ河童が村の人を澤山、
それから家畜を澤山捕へて殺してゐ
た。ところで或日の事、水を飮みに
河に入つた馬を捕へようとして、馬
の腹帶の下へどうかしたはずみで自
分の頭をねぢ込んだ)驚いた馬は、
水の中から跳び出して河童を野原へ
引きずつて來た。そこで馬の主人と
大勢の農夫は河童を捕へて縛り上げ
た。村中の人が化け物を見に來た、
化け物は頭を地につけて、何か云ひ
ながらお情けを乞ふた。農夫達は卽
座に化け物を殺さうとしたが、馬の
主人は同時に村の庄屋であつたので
云つた。『それよりも河內村の人や
家畜に今後決して手を觸れない事を
誓はせた方がい〻だらう』そこで誓
約の證文を作つて河童に讀んで聞か
せた。河童は字が書けないが、手に
墨をつけて證文の終りに押す事はで
きる。これには異存もなかつたので、
その通りにしてから、河童は赦され
た。それからさき、河內村の住民や
家畜はこの化け物に襲はれる事はな
かつた。
[やぶちゃん注:「註」の丸括弧位置はママ。これは恐らくは「(出雲では一般に『河童』とは云はないで『河子』と云ふ)」で閉じるものと思われるが、そうすると句点も、いじることになるので、そのままにしておいた。読点にも、一箇所、句点とすべきと考えるものがあるが、そのままとした。
「精靈が船の𢌞りに高く現れて、長い手をのばして『田籠(タゴ)、田籠おくれ――田籠おくれ』とつぶやく。決してそれを拒んではいけない、しかし桶を渡す前に、底をぬいて置かねばならない。偶然にでも完全な桶を海に落したら、その船に乘り合せた人々こそ災難、――何故と云へば、精靈は直ちにそれに水をみたして船を沈めにかかるのだから」「田籠」は担桶(たご)。水や肥やしなどを入れて天秤棒で担(にな)う桶(おけ)のこと。たごおけ。ここに記されてあるのは、言わずもがな、「船幽霊」(ふなゆうれい)、所謂、「海坊主」(うみぼうず)のそれである。ウィキの「海坊主」より引く(記号の一部を省略した)。『海に出没し、多くは夜間に現れ、それまでは穏やかだった海面が突然盛り上がり黒い坊主頭の巨人が現れて、船を破壊するとされる。大きさは多くは数メートルから数十メートルで、かなり巨大なものもあるとされるが、比較的小さなものもいると伝えられることもある』。『船幽霊のそれと共に、幻覚談が語り伝えられたと思われるものが多く、両者の区別は明らかではない。「杓子を貸せ」と言って、船を沈めに来る船幽霊と海坊主とは同じとされることもある。しかし、船幽霊が時化と共に出現するのに対して、海坊主の出現には海の異常が伴わないこともあるため(その場合は、大抵海坊主を見てから、天候が荒れ始める、船が沈むといった怪異が訪れる)、何か実際に存在するものを見誤ったという可能性が指摘されている。誤認したものの正体は海の生物の他、入道雲や大波など自然現象などが挙げられている』。『また、海坊主は、裸体の坊主風なものが群れをなして船を襲うといわれることも多く、船体や櫓に抱きついたり、篝火を消すといった行動をとる。時に「ヤアヤア」と声をあげて泳ぎ、櫓で殴ると「アイタタ」などと悲鳴をあげるという。弱点は煙草の煙であり、運悪く出会ってしまった際は』、『これを用意しておけば助かるという『東北地方では漁で最初に採れた魚を海の神に捧げるという風習があり、これを破ると』、『海坊主が船を壊し、船主をさらって行くといわれる。備讃灘』(びさんなだ:備讃瀬戸のこと。讃岐と備前の中間にある瀬戸内海最狭部の瀬戸で、特に最も狭隘な岡山県玉野市日比と香川県大崎鼻間は幅六・七キロメートルしかない。東から小豆島・直島諸島・塩飽(しわく)諸島・笠岡諸島など備讃諸島に属する島々が並び、東西の干満の潮がで合うところでもある。潮流三~四ノット(時速五・六~七・四キロメートル)の瀬戸が多く、大半は水深も三十メートル以下とかなり浅いが、現在でも一日に千五百隻に及ぶ船が航行し、春先から初夏にかけての霧の発生時には海難事故も多い。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った。現在の「備讃瀬戸大橋」の架橋する海域である(グーグル・マップ・データ))に『多いヌラリヒョンは、頭大の玉状のもので、船を寄せて浮かんでいるところを取ろうとすると、ヌラリと外れて底に沈み、ヒョンと浮いてくる。これを何度も繰り返して人をからかうという』。『青森県下北郡東通村尻屋崎では、フカに喰われた人間が「モウジャブネ」になるという。味噌を水に溶かして海に流すと除けられる。静岡県賀茂郡で語られる「ウミコゾウ」は、目の際まで毛をかぶった小僧で、釣り糸を辿って来て、にっこり笑ったという。また蒙古高句麗と当てる紀州神子浜の鼬に似た「モクリコクリ」という小獣は』、三月三日は山に、五月五日は海に出、『人の形だが伸縮自在、現れては消え、麦畑で夜くる人の尻を抜くという。クラゲのような形で、海上を群れて漂うともいう。蒙古襲来の時、水死した霊魂と言われており、蒙古高句麗の当て字がある。愛媛県北宇和郡では、夜、海が白くなって泳いでくるものを「シラミ」、または「シラミユウレン」と呼び、漁師はこれをバカと言う。しかし、バカというのが聞こえると、怒って櫓にすがり、散々な目にあわされると伝えられている。佐渡島の「タテエボシ」は、海から立ち上る高さ』は二十メートルにも及ぶ巨大な怪物で、船目がけて倒れてくるとされる。『海坊主は姿を変えるともいい、宮城県の気仙沼大島では美女に化けて人間と泳ぎを競ったという話がある。岩手でも同様にいわれるが、誘いに乗って泳ぐとすぐに飲み込まれてしまうという。愛媛県宇和島市では座頭に化けて人間の女を殺したという話がある。また人を襲うという伝承が多い中、宇和島では海坊主を見ると長寿になるという伝承がある』。『随筆『雨窓閑話』では桑名(現・三重県)で、月末は海坊主が出るといって船出を禁じられていたが、ある船乗りが禁を破って海に出たところ海坊主が現れ「俺は恐ろしいか」と問い、船乗りが「世を渡ることほど恐ろしいことはない」と答えると、海坊主は消えたという。同様に月末には「座頭頭(ざとうがしら)」と呼ばれる盲目の坊主が海上に現れるという伝承もあり、人に「恐ろしいか」と問いかけ、「怖い」「助けてくれ」などと言って怖がっていると「月末に船を出すものではない」と言って消えるという』。江戸時代の知られた怪談集』「奇異雜談集」の「伊良虞(いらご)のわたりにて、獨り女房、船にのりて鮫にとられし事」には、『伊勢国(現・三重県)から伊良湖岬へ向かう船で、船頭が独り女房を断っていたところへ、善珍という者が自分の妻を強引に乗せたところ、海で大嵐に見舞われた。船主は竜神の怒りに触れた、女が乗ったからだなどと怒り、竜神の欲しがりそうな物を海に投げ込んだものの、嵐はおさまらず、やがて黒入道の頭が現れた。それは人間の頭の』五~六倍ほどもあり、『目が光り、馬のような口は』二尺(約六十センチメートル)ほどもあったとし、『善珍の妻は意を決して海に身を投げたところ、黒入道はその妻を咥え、嵐はやんだという』(私の「奇異雜談集巻第三 ㊄伊良虞のわたりにて獨女房舩にのりて鰐にとられし事」を見られたい)。『このように海坊主は竜神の零落した姿であり、生贄を求めるともいう』。大陸物であるが、清代の王大海の「海島逸志」には「海和尙」『の名で記載されており、人間に似た妖怪だが、口が耳まで裂け、人間を見つけると大笑してみせるものされる。海和尚が現れると必ず暴風で海が荒れるといって恐れられたという。これはウミガメの妖怪視との説もある』。『宝永時代の書『本朝語園』には船入道(ふねにゅうどう)という海坊主の記述があり、体長』六、七尺(一・八二~二・一二メートル)で『目鼻も手足もないもので、同様にこれに遭ったときには何も言わず、見なかったふりをしてやり過ごさなければならず、「あれは何だ」とでも言おうものならたちまち船を沈められるとある。また淡路島の由良町(現・洲本市)では、船の荷物の中で最も大切なものを海に投げ込むと助かるともいう』とある。ハーンの、ここでの記載は、お盆の期間(ここでは十六日)としている点が特異に見えるが(上記の記載には、お盆での特異出現は語られていない)、実際、船幽霊に纏わる伝承を管見すると、お盆に漁に出て、船幽霊に遭遇したことから、お盆の漁が禁忌となった、とするケースが散見される。
「河童」については、妖怪フリークの私は、いろいろなテクストで、たびたび、注を施してきた。ここは、ぐっと堪えて、取り敢えず、その最初期の「耳囊 第一卷 河童の事」の注を参照されたい。
「河童は水の底から延び上つて人を引き込んで、腸を喰ふ」「ただ腸だけ」「外から見て何の創もない。しかし輕くてうつろで――よく枯れた瓢簞のやうに空虛である」前注のリンク先の注で述べたが、河童は伝承では相撲好きでよく子供を相手に相撲をとるとされるが、負けた子供は「尻小玉」(しりこだま)を抜かれるとも言われ、また、水に漬かっている人のそれ(尻小玉)を抜く、ともよく言われる、この「尻小玉」というのは、人間の肛門の内側にあるとされた架空の臓器の名で、これは、水死体の肛門の括約筋が、死後、弛緩して、大きく広がっていたり、そのために起こった脱腸、及び、洩出した腐敗臓器等を目撃した人間の誤認から形成されたものとも考えられている。水死体は多くの水生動物――甲殻類(シャコなど)・頭足類(タコなど)・魚類の餌となるが、主に口腔や肛門から侵入し、消化器官の内側から内臓を食い荒らすのが摂餌上から最も容易であることから、一見、甚だしい外傷や損壊が認められなくても、内臓をごっそり食われている水死体は結構多い(具体的には挙げないが、そうした事実を記した学術的観点から記した書物を私は何冊も持っている)。この叙述は、そうした水死体様態を非常にリアルに述べているとも言える。
「松江から一哩半ばかり、河內川に臨んだ河內村」一マイル半は二・四キロメートルであるが、松江市街からこの距離内で「河內川」(かわちがわ)に臨む「河內村」というのは見つからない。次の「河子の宮或は河童の宮」の位置(後述)から見て、これはどうも、現在の松江市西川津町(にしかわつちょう)のことを指しているものと思われ、そこを流れる、「臨む」川となると、大橋川の北の支流である朝酌(あさくみ)川を指すとしか私には考えられない(「ひなたGIS」のここ)。それにしても何故、こんなに名称が違うのか、不審である。ハーンの聴き取り違いの可能性が疑われる。
「河子の宮或は河童の宮」原文からは「河子」は「かわこ」である。これは現在の西川津町楽山公園東の丘陵の、既出の推恵神社の直近南南東八十メートルに建つ熊野神社(別名市成)と思われる(グーグル・マップ・データ)。その根拠は狛犬を探索されておられる、たっくん氏のブログ「杜を訪ねて」の「熊野神社(松江市西河津町)」に、この神社に就いて『「一成権現」とも』(漢字表記はママ)称し、『昔河童が捕まり社前の石に謝罪文を書かされたことから「河子の宮」とも言われているそうです』という記載があったことによる。また、個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「熊野神社(市成)」には、本神社について、『『雲陽誌』には、「何時のことかは定かではないが、古くに諸国の船入りしおり、俄かに大風起こり山より光さし来たりて遂に船沈められることがあった。船頭等が驚いて陸にあがり、里人に尋ねたるところ、子守山に霊験あらたかなる岩船明神という神があり、その咎めであろうとのこと。船頭は急ぎ山に登り、注連縄を曳かれた磐を拝んで社殿建立を祈願。後に日向より材木を取り寄せて、遂に社殿を造立。その時より子守三所権現と社号は改められた」と記されている』とある。
「出雲では一般に『河童』とは云はないで『河子』と云ふ」柳田國男の「山島民譚集(一)」の「河童ニ異名多シ」の箇所に、
『備前備中等ニ於テ之ヲ「コウゴ」ト呼ブハ、出雲(イズモ)ニ於テ河子ト称スルニ同ジク、川ノ子ト云フ義ナルコト疑ナシ。備中ニテモ松山ニテハ「カワコウ」ト云イ、岡田ニテハ「ゴウコ」ト云フ。同国吉備(キビ)郡川辺村ノ川辺川ノ流レニ河子(カワコ)岩アリ。元ノ名ハ吉田岩、元亀年中松山落城ノ際ニ、吉田左京ガ腹ヲ切ッタル岩ナレドモ、後世ニハ「カハコ」ガ出テ引クゾナドト小児ヲ嚇(オド)スヤウニナリテ、終(ツイ)ニ此名ニ改マリシナリ〔備中話十一〕同ジ地名ハイ遠近ノ諸国ニモ亦(マタ)多ク存ス。』
とある(引用はちくま文庫版「柳田國男全集」第五巻に拠る)。【追記】後に「山島民譚集」は全文を電子化注した。当該部は『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(15) 「河童ニ異名多シ」(1)』を見られたい。
「河童が書いたと云はれる證文」しばしば見られる「河童の詫び證文」伝承である。
「水を飮みに河に入つた馬を捕へようとして、馬の腹帶の下へどうかしたはずみで自分の頭をねぢ込んだ」「驚いた馬は、水の中から跳び出して河童を野原へ引きずつて來た」所謂、「河童の駒引き」と呼ばれる伝承パターンである。]
Ⅱ.
But it may happen that some vessel, belated in spite of desperate effort to reach port, may find herself far out at sea upon the night of the sixteenth day. Then
will the dead rise tall about the ship, and reach long hands and murmur: 'Tago, tago o-kure! — tago o-kure!' [1] Never may they be refused; but, before the bucket is given, the bottom of it must be knocked out. Woe to all on board should an entire tago be suffered to fall even by accident into the sea! — for the dead would at once use it to fill and sink the ship.
Nor are the dead the only powers invisible dreaded in the time of the Hotoke-umi. Then are the Ma most powerful, and the Kappa. [2]
But in all times the swimmer fears the Kappa, the Ape of Waters, hideous and obscene, who reaches up from the deeps to draw men down, and to devour their entrails.
Only their entrails.
The corpse of him who has been seized by the Kappa may be cast on shore after many days. Unless long battered against the rocks by heavy surf, or nibbled by fishes, it will show no outward wound. But it will be light and hollow — empty like a long-dried gourd.
1
“A bucket honourably condescend [to give].”
2
The Kappa is not properly a sea goblin, but a river goblin, and haunts the sea only in the neighbourhood of river mouths. About a mile and a half from Matsue,
at the little village of Kawachi-mura, on the river called Kawachi, stands a little temple called Kawako-no-miya, or the Miya of the Kappa. (In Izumo, among the common people, the word 'Kappa' is not used, but the term Kawako, or 'The Child of the River.') In this little shrine is preserved a document said to have been signed by a Kappa. The story goes that in ancient times the Kappa dwelling in the Kawachi used to seize and destroy many of the inhabitants of the village and many domestic animals. One day, however, while trying to seize a horse that had entered the river to drink, the Kappa got its head twisted in some way under the belly-band of the horse, and the terrified animal, rushing out of the water, dragged the Kappa into a field. There the owner of the horse and a number of peasants
seized and bound the Kappa. All the villagers gathered to see the monster, which bowed its head to the ground, and audibly begged for mercy. The peasants
desired to kill the goblin at once; but the owner of the horse, who happened to be the head-man of the mura, said: 'It is better to make it swear never again to touch any person or animal belonging to Kawachi-mura. A written form of oath was prepared and read to the Kappa. It said that It could not write, but that It would sign the paper by dipping Its hand in ink, and pressing the imprint thereof at the bottom of the document. This having been agreed to and done, the Kappa was set free. From that time forward no inhabitant or animal of Kawachi-mura was ever assaulted by the goblin.
昭和三十八(一九六三)年
熟柿ありわが寝室(ねや)の冷えとめどなし
ゆげつつむ燈のその下に雉子煮ゆる
熟柿吸ふ咽喉(のど)より冷えが直下して
病者・蟷螂・蜂十一月の日向
昼臥(ひるぶし)やちちろは鈍(にぶ)き疼みに似
豊年の一穂(すゐ)ぬすみぬけ通る
重きに馴腰(なれこし)柿籠を負ひ下る
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]
仰向けの手鏡雪の降りつづく
幽かにてともりたしかに万燈は
万燈会一つ一つの火を点(つ)けて
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。多佳子はこの年の五月二十九日午前零時五十一分、満六十四(誕生日は明治三二(一八九九)年一月十五日)で息を引き取った。]
[やぶちゃん注:底本ではこの後、最後に「凩の巻」という西東三鬼と平畑静塔との連句(『俳句研究』昭和二二(一九四七)年九月・十月刊)が所収されているが、平畑静塔の著作権が存続しているので掲載しない。
それを除き、これを以って底本に載る橋本多佳子の全句の電子化注を終了した。実に2014年1月1日の開始から一年十一ヶ月弱を要した。
来年度中には「橋本多佳子全句集やぶちゃん一括版」として縦書PDF化を施す予定である。
因みに本公開を「橋本多佳子全句集附やぶちゃん注」の完結とし、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ740000と750000アクセスを一日で突破した(怪しいアクセス者が今日だけで一万数千アクセスしてきたためである)記念ともすることとする。【2015年11月23日 藪野直史】]
今まで気づかなかったのだが、本日未明の午前二時代に、本ブログに謎の5300回を越えるアクセスがあったことを知った。
結果、現在、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、一気に740000アクセスを越えて745180アクセスとなっていた。
取り敢えず、応急措置の740000アクセス記念をこれより用意する。
【15:25追記】
ついさっきの午後2時代以降にも、40000以上のアクセスあり、すでに実は今日だけで12000を越えてしまって、実は既に現在、
750000アクセス
も越えて、751500に達している。
このアクセス、どうも怪しい。
解析データを調べてみると、総て同じで、デバイスも何もかも不明、ただ使用言語は日本語であることしか分からない。
しかも滞在時間も1秒か0秒である。これは直帰の場合はおかしくないが、1時間余りの間の厖大なそのアクセス・ユーザーは全く同一であるから、実はアクセスしても読んでないことが判る。
どうも今回の異常アクセスは検索ソフトのボットによる巡回アクセスによるもののように思われる。
まあいいや、カップリングで記念にするわさ。
【11月24日追記】
因みに、昨日の合計はなんとまあ、
15623アクセス
であった。現在既に、
755213
……あんたはんのお蔭でもう760000アクセス記念テキストを気にせなあかんようなったわいな……
第二十一章 日本海に沿うて
一
七月十五日の事、――私は伯耆に居る。
白い途は低い絕壁の海岸――日本海の岸に沿うてうねりくねつて行く。いつでも左手に、岩山の斷片や砂丘の層の上から、渺茫たる大海が見える、ずつと向うに、同じ白い太陽の下に朝鮮の存在する靑白い地平線まで、靑い皺を湛へて居る。時々絕壁の端が急に取れて、私共の前に突然寄せ來る浪の現れる事がある。いつでも右の方には別の海、――背後に大きな靑白い峯を有する、遙かの霞んだ靑い連山まで達して居る綠の靜かな海、――稻田の大きな平面、その表面には音のない波が、今日朝鮮から日本までその靑い海を動かすのと同じ大きな風の下に、互に追ひかけ合つて居る。
一週間、空には一點の雲氣なかつたが、海は幾日も怒つてゐた、それで今その大波のつぶやきは遙かの陸まで續く。いつでもこの通り盆の三日間――卽ち舊曆七月十三、十四、十五の三日間に海が荒れると云はれる。それで十六日に精靈船が出たあとで、誰も海に出ようと云ふ者はない、船の借りやうがない、漁夫はうちにゐて出ない。その日の海はそこを超えて、幽界へ歸らねばならない精靈の通路となる。それで、その日の海は佛海(ホトケウミ)と呼ばれる。そしていつも十六日の夜、――海は穩かであらうが荒れてゐようが、――一面に水の上は大空へすべり出る朧げな光――精靈のかすかな火――でかすかに光る、それから遠く離れた都會のつぶやきのやうな聲のつぶやき――魂の不分明な話聲――が聞える。
[やぶちゃん注:この章には特殊な仕掛けがある。少し注が長くなる。
*
それは本章の訳者と推定される底本末尾の田部隆次氏の「あとがき」のここで、明らかにされている。彼は本章について、そこで(以下の下線は総てやぶちゃん)、『ヘルンは明治二十三年八月の末、松江に赴任のため眞鍋晃を通譯兼從者として、山陰道を通過した時の事と、翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時の事とを合せてこの記事を造つた。そのうちにある鳥取の布團の話、出雲の捨子の話は何れも夫人が始めてヘルンに話した怪談であつた』と述べている。ここで『翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時の事』というのは、いつもお世話になっている「八雲会」公式サイト内の「松江時代の略年譜」に、明治二四(一八九一)年八月十四日に『セツと伯耆へ新婚旅行に出』、同八月三十日に『松江に戻る』とあるのを指していると考えてよい。
私がこれらを問題にするのは、本章の冒頭でハーンが、“IT is the fifteenth day of the seventh month,— and I am in Hōkii.”それは『七月十五日の事、――私は伯耆に居る』と述べているからである。明治二十三年と翌年の新婚旅行は八月であることが明らかであり、この書き出しは一見、それに合わないように見えるからである。
しかしながら、ハーンは、実は、第三段落で、その種明かしをしているのである。
即ち、この「七月十五日」は、実は「舊曆七月十三、十四、十五の三日間」の十五日なのである。
そこで明治二十三年と明治二十四年の旧暦を調べてみると、
明治二三(一八九〇)年の旧暦七月十五日は新暦の八月三十日
明治二四(一八九一)年の旧暦七月十五日は新暦の八月十九日
であることが判った。ところが、
明治二十三年にハーンが松江に赴任し、松江に現着(汽船使用)したのは、新暦の八月三十日の午後四時
であるから、伯耆を旧暦七月十五日午前中に通るというのは、ぎりぎり有り得るとは言えるものの、やや厳しい感じ(文学的虚構の原型素材としてメインに据える事実としてはタイトである、という意味で)がする。何よりもこの後の「七」で、ハーンは「上市」(うわいち)を通るが、この上市こそ、ハーンが松江到着の前に「第六章 盆踊(四)」で夢幻的な盆踊り体験をした宿泊地なのである。ところが、そこに注した通り、ハーンが、この松江へ向かう途次に上市に泊まったのは、明治二三(一八九〇)年の新暦八月二十八日、即ち、旧暦七月十三日であったのであり、この事実に照らし合わせるならば、時制上の齟齬が生じることは言を俟たないのである。それに対し、上記の通り、
明治二十四年のセツとの伯耆への新婚旅行は、新暦八月十四日
であるから、伯耆を旧暦七月十五日に通ることは充分あり得るのである。さすれば、これは、論理的には、
明治二十四年のセツとの伯耆への新婚旅行の折りの旧暦七月一五日=新暦八月十四日を指す
と考えるのがよい、と落ち着くようには、見えるのである。
*
ただ、ハーンは、伯耆には、この翌年の熊本へ転居した明治二十五年にも訪れている。
底本の「あとがき」の大谷啓信氏のそれの中で、後の第二十三章「伯耆から隱岐へ」について、伯耆及び隠岐『へは明治二十五年の七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保の關へ歸つて來た。同行者は夫人だけであつた。』とあることで、それを確認出来る。但し、新潮文庫の上田和夫氏の年譜の明治二五(一八九二)年の条には、『八月、博多、門司、神戸、京都、奈良、伯耆境港、隠岐、美保の関、福山、尾道に遊ぶ』ともある。
この大谷氏の記載に従うなら、この本章冒頭のシークエンスは、この明治二十五年の体験に基づくものも多少なりとも影響を与えている可能性もないとは言えないように私には思われてくるのである。
上田氏は八月出発のように記しておられるが、この広範な訪問地を、当時、八月に入ってから、熊本を出発してたった十六日間で戻ってくるというのは正直、不審に思われる。明治二十五年の旅は新暦七月十五日(これは「末」ではない)とは言わずとも、大谷氏の述べた通り、新暦七月下旬の出発であって、伯耆の現着は八月であったにしても、七月の旅の陽光を体験し、それを自然に伯耆の眼前の景色としてここに仮想設定したとも言えるのではないかとも私は推理するのである。
但し、あくまで旧暦時制に拘るならば、この私の仮説は全く意味を成さない。何故なら、
明治二五(一八九二)年の旧暦七月十五日は新暦の九月五日
だからである。そうしてまた、第一段落の強い風の描写と、海が荒れるという第二段落のそれに限って言えば、確かに新暦八月のお盆の海の景観に相応しくはある。
話が冗長になってしまったが、一般に本書全体は明治二十四年の夏頃に執筆されたとされるようだが(上田年譜)、実際、既に見てきた通り、「第十九章 英語敎師の日記から」の末尾は同年十一月に熊本に移ってから書かれたものであり、出版に至っては、明治二十七年九月である。推敲過程で、非常に微妙にして複雑な文学的操作が成されていると考えるのが自然だと私は思う。
とすると、この伯耆の海岸の情景には――三度目の伯耆を通った明治二十五年の新暦七月末、或いは、八月上旬の旅の印象さえもが加味れているのではないか――と私には思えてくるのである。最後の部分は私の勝手な妄想であり、大方の御批判を俟つものではある。
*
「伯耆」旧伯耆国は現在の鳥取県米子市・倉吉市・境港市・東伯郡・西伯郡・日野郡に当たる。
「ずつと向うに、同じ白い太陽の下に朝鮮の存在する靑白い地平線まで」この“horizon”は「地平線」ではなく「水平線」の誤訳である。これでは伯耆から朝鮮半島が見えるように読めてしまう。鳥取から朝鮮半島は見えない。因みに隠岐からでも見えないと思われる(一度行っただけであるが、見えなかった)。本邦から朝鮮半島がはっきりと見えるとすれば、対馬からだけであろう(これは対馬出身の知人から聴いたことがある)。因みに、平井呈一氏は『水平線』と訳しておられる。
「いつでも右の方には別の海、――背後に大きな靑白い峯を有する、遙かの霞んだ靑い連山まで達して居る綠の靜かな海、――稻田の大きな平面、その表面には音のない波が、今日朝鮮から日本までその靑い海を動かすのと同じ大きな風の下に、互に追ひかけ合つて居る。」訳者に悪いけれど、日本語としては殊更に意味を解し難く訳してしまっているように思われてならない。平井呈一氏の訳を引かさせていただく。
《引用開始》
道の右手にはまた、これとは別の海がつづいている。こちらのは音なき緑の海だ。――うしろに大きな青い峯を背負いつつ、遠くうす霞む緑濃い山なみ、そのはるか遠い山裾まで、一望遮るものもなく続いているこの緑の海は、渺茫たる稲田なのだ。今、青田のおもてを、この日朝鮮と内地との間の青海原をそよがしているのと同じ飃風(ひょうふう)が颯々と吹きわたって、音なき波が追いつ追われつ駆けめぐっている。
《引用終了》
この「飃風」とは、「急に激しく吹きおこる風・疾風(はやて)・旋風(つむじかぜ)」の意である。
「この通り盆の三日間――卽ち舊曆七月十三、十四、十五の三日間」私の最初の注を参照されたい。
「佛海(ホトケウミ)」精霊を迎え送るお盆には、川や海に入ったり、漁や釣りをしてはいけないというのは、亡き母がよく言っていたことであるが(母は小さな頃に近所の男の子が十五日に川に泳ぎに行き、溺れて亡くなったという思い出をよく話したものだった)、この「仏(ほとけ)の海(うみ)」という言い方は初めて聴いた。御存じの方は是非、御教授願いたい。]
ⅩⅩⅠ
BY THE JAPANESE SEA.
Ⅰ.
IT is the fifteenth day of the seventh month,— and I am in Hōkii.
The blanched road winds along a coast of low cliffs,— the coast of the Japanese Sea. Always on the left, over a narrow strip of stony land, or a heaping of dunes, its vast expanse appears, blue-wrinkling to that pale horizon beyond which Korea lies, under the same white sun. Sometimes, through sudden gaps in the cliff's verge, there flashes to us the running of the surf. Always upon the right another sea,— a silent sea of green, reaching to far misty ranges of wooded hills, with huge pale peaks behind them—a vast level of rice-fields, over whose surface soundless waves keep chasing each other under the same great breath that moves the blue to-day from Chosen to Japan.
Though during a week the sky has remained unclouded, the sea has for several days been growing angrier; and now the muttering of its surf sounds far into the land. They say that it always roughens thus during the period of the Festival of the Dead,— the three days of the Bon, which are the thirteenth, fourteenth, and fifteenth of the seventh month by the ancient calendar. And on the sixteenth day, after the shoryobune, which are the Ships of Souls, have been launched, no one dares to enter it: no boats can then be hired; all the fishermen remain at home. For on that day the sea is the highway of the dead, who must pass back over its waters to their mysterious home; and therefore upon that day is it called Hotoke-umi,— the Buddha-Flood,— the Tide of the Returning Ghosts. And ever upon the night of that sixteenth day,— whether the sea be calm or tumultuous,— all its surface shimmers with faint lights gliding out to the open,— the dim fires of the dead; and there is heard a murmuring of voices, like the murmur of a city far-off,— the indistinguishable speech of souls.
六
節分の祝日の今一つの特色は、それを記憶する價値がある――人型(ひとがた)の賣られることだ。それは白紙で作られる男、女、子供の小さな雛形で、ただ數囘巧みに剪刀を使つて切つたものである。男女の差別は、袖と小さい紙の帶の形の變化で示してある。神道の社祠で賣られ、これを家族一人每に一枚宛買受けると、神官に一枚々々に當人の男女別と年齡を書く。家へ持歸つて、それぞれに分配し、各自その紙で輕く身體を摩擦し、神道の小さな祈を唱へる。翌日是等の人型を神官に返へす。神官はその上に向つて或る一定の文句を誦した後で、神聖な火で燒いてしまう。この式によつて一年間その家族はすベて身體上の災難を免がれるものと思はれてゐる。
註。 節分との關係ないが、こゝに述
べて置きたい一つの事柄がある。
出雲には書道の神聖といふ、有益
なる――また昔は屹度頗る重要であ
つた――迷信が、今猶ほ遺存する。
何かを書付けたもの、或は印刷した
ものでも、皺くちやにしたり、蹂躙
したり、汚したり、或は賤用に供し
てはいけない。もし書類を破毀する
必要がある時は、紙を燒かねばなら
ない。ある小さい宿屋へ泊つた時、
私が自分で書いた、文字の一杯に滿
ちた紙を引裂いて皺にしたために、
優しく叱りを受けたことがあつた。
[やぶちゃん注:「人型」に厄を移して焼いたり流したりする、この類型的儀式は、現在も桃の節句の流し雛や夏越祭などの、各節句行事として多くの神社に残っているのは御承知の通り。
「書道の神聖」言わずもがな乍ら、言霊(ことだま)信仰に基づくものである。……実は私の吐き出す数多の電子テクストも、謂わば、今の電脳世界への言霊たれ、という思いで仕儀していると言ってよいように、私は思っているのです、ハーン先生……]
Ⅵ.
One more feature of the Setsubun festival is worthy of mention,— the sale of the hitogata (people-shapes). These: are little figures, made of white paper, representing men, women, and children. They are cut out with a few clever scissors strokes; and the difference of sex is indicated by variations in the shape of the sleeves and the little paper obi. They are sold in the Shinto temples. The purchaser buys one for every member of the family,— the priest writing upon each the age and sex of the person for whom it is intended. These hitogata are then taken home and distributed; and each person slightly rubs his body or her body with the paper, and says a little Shintō prayer. Next day the hitogata are returned to the kannushi, who, after having recited certain formulae over them, burns them with holy fire. [6] By this ceremony it is hoped that all physical misfortunes will be averted from the family during a year.
6
I may make mention here of another matter, in no way relating to the Setsubun.
There lingers in Izumo a wholesome — and I doubt not formerly a most valuable — superstition about the sacredness of writing. Paper upon which anything has been written, or even printed, must not be crumpled up, or trodden upon, or dirtied, or put to any base use. If it be necessary to destroy a document, the paper should be burned. I have been gently reproached in a little hotel at which I stopped for tearing up and crumpling some paper covered with my own writing.
五
しかし白豆を毫も怖れないし、また普通の惡魔の如く容易に追拂ふことも出來ない、非 常に惡い魔物が居る。それは貧乏神だ。
が、出雲の人々は、往々貧乏神を追拂ひうる一種の家庭的禁忌の法を知つてゐる。
日本の臺所は、煮燒をするに先つて、僅かばかりの炭火を、初めにかの頗る有用で、簡單な家庭用の道具の火吹き竹で赤熱に吹き起す。火吹き竹は通常長約三尺、直徑二寸ほどの竹の管で、火の方へ向ける一端に、ただ極めて小さな孔が殘してある。炊事を務める女は、他端を唇に當てて、管を通して炭火の上を吹く。かやうにして活氣ある火が、數分間にして得られる。
時を經ると、火吹き竹は焦げて、龜裂を生じて、駄目になる。そこで新しいのを作る。すると、古いのが貧乏神を退治する禁忌に使はれる。その中ヘ一厘錢を入れて、ある呪文を唱へる。それからその一厘錢の入つたまゝ、その古くなつた道具を單に表の戶口から町中へ投げすてるか、または附近の川へ擲り飛ばす。これが――私はその譯を知らないが――貧乏神を戶外へ投げ出して、隨分長い間、歸つてくることの出來ぬやうしたのも同じことだとされてゐる。
貧乏神の目に見えぬ存在が、どうして發見されるかと問ふ人もあるだらう。
英國で夜間あの凄いかちつかちつといふ音を發する、茶立て蟲の一種は、日本の貧之神といふ名の親類を持つてゐる。この蟲は貧之神の召使で、それが家の內でかちつかちつといふ音を發するのは、かの甚だ歡迎されない神樣の存在を報ずるものと信ぜられてゐる。
譯者註。英國にて、その蟲の啼き聲
は、死人のある前兆だといふ迷信が
ある。
[やぶちゃん注:「貧乏神」既注。
「長約三尺、直徑二寸」全長九〇・九センチメートル、直径六・〇六センチメートル。
「一厘錢」ネット上の情報で、一厘銅貨幣は、明治初期で、現在の価値換算では、凡そ二十円相当とある。
「英國で夜間あの凄いかちつかちつといふ音を發する、茶立て蟲の一種は、日本の貧之神といふ名の親類を持つてゐる」原文“The little insect which makes that weird ticking noise at night called in England the Death-watch has a Japanese relative named by the people Bimbomushi, or the Poverty-Insect.”。この“the Death-watch”は前の「第十九章 英語教師の日記から (十八)」に出る「紙魚」で注したところの、
昆虫綱鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科Anobiidae に属するシバンムシ(死番虫)類
で、これらのうちの複数種は、書物・標本はおろか、建築木材などをも木材などをも激しく食害することで知られる。ウィキの「シバンムシ」によれば、和名「死番虫」は『死の番人を意味するが、これは英名の death-watch beetle に由来する。ヨーロッパ産の木材食のマダラシバンムシ』属 Xestobium 『の成虫は、頭部を家屋の建材の柱などに打ち付けて「カチ・カチ・カチ……」と発音して雌雄間の交信を行うが、これを死神が持つ死の秒読みの時計、すなわち death-watch の音とする迷信があり、先述の英名の由来となった』とある。問題なのは、日本家屋に於いて主に障子や畳の表面でホトホトフツフツと音を立てるところの、ここに出る――「茶立て蟲の一種」では全くない――という点である。これは、
昆虫綱咀顎目 Psocodea
コチャタテ亜目 Trogiomorpha
コナチャタテ亜目 Troctomorpha
チャタテ亜目 Psocomorpha
の中で無翅のチャタテムシ類でって、類縁種でも何でもない(本類でも標本類などの密閉された中で集中的に大発生すると、大きな食害被害を齎すことはある。悪意ある標本業者の中には「爆弾」と称して、コレクターの家に行き、コレックションを見せて貰い、こっそりと多量のチャタテムシをそこに蒔くという話をコレクター自身から聴いたことがある)。ただ、ここでのハーンの謂いは、生物学的な類縁ではなく、西洋で死を告知するという死神と、その使者のような家屋内で音を立てる死番虫の関係を、貧乏神の使者に同じく室内で音をたてる「茶たて虫」に擬えただけとも読め、平井呈一氏はここを『日本では』この室内で音を立てる虫を『「貧乏虫」といっている』と訳しておられる。但し、検索する限りでは、チャタテムシの立てる音を、貧乏神と結びつけていたという痕跡は、全く見出せない。因みに。水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に登場して一躍、人口に膾炙した、小豆を洗うような音を立てる妖怪「小豆洗い」について、ウィキの「小豆洗い」では、正体の一つとして、『江戸時代には小豆洗虫(あずきあらいむし)という昆虫の存在が知られていた。妖怪研究家・多田克己によれば、これは現代でいうチャタテムシのこととされ』、『昆虫学者・梅谷献二の著書『虫の民俗誌』によれば、チャタテムシが紙の澱粉質を食べるために障子にとまったとき、翅を動かす音が障子と共鳴する音が小豆を洗う音に似ているとされる』とあり、『また、かつてスカシチャタテムシの音を耳にした人が「怖い老婆が小豆を洗っている」「隠れ座頭が子供をさらいに来た」などといって子供を脅していたともいう』とし、『新潟県松代町では、コチャタテムシが障子に置時計の音を立てるものが小豆洗いだという』とある。チャタテムシが大発生し、それを駆除出来ないというのは、現代なら確かに経済的に貧しいお宅かも知れんなどとは思う(因みに、私の家の寝室にも、新築直後に多量発生して、その音で目が覚めたこともあることを告白しておく。恐らくは、外国経由で造った畳のイグサの中に、チャタテムシの卵があったためと思われる)。この『置時計の音』(近代以降のニュアンスである)が、「死番虫」の英名“ death-watch beetle ”と一致するのは、頗る面白い。貧乏神とチャタテムシの関係、御存じの識者の御教授を乞うものである。]
Ⅴ.
There is one very evil spirit, however, who is not in the least afraid of dried peas, and who cannot be so easily got rid of as the common devils; and that is Bimbogami.
But in Izumo people know a certain household charm whereby Bimbogami may sometimes be cast out.
Before any cooking is done in a Japanese kitchen, the little charcoal fire is first blown to a bright red heat with that most useful and simple household utensil called a hifukidake. The hifukidake (fire- blow-bamboo) is a bamboo tube usually about three feet long and about two inches in diameter. At one end — the end which is to be turned toward the fire — only a very small orifice is left; the woman who prepares the meal places the other end to her lips, and blows through the tube upon the kindled charcoal. Thus a quick fire may be obtained in a few minutes.
In course of time the hifukidake becomes scorched and cracked and useless. A new fire-blow-tube is then made; and the old one is used as a charm against Bimbogami. One little copper coin (rin) is put into it, some magical formula is uttered, and then the old utensil, with the rin inside of it, is either simply thrown out through the front gate into the street, or else flung into some neighbouring stream. This — I know not why — is deemed equivalent to pitching Bimbogami out of doors, and rendering it impossible for him to return during a considerable period.
It may be asked how is the invisible presence of Bimbogami to be detected.
The little insect which makes that weird ticking noise at night called in England the Death-watch has a Japanese relative named by the people Bimbomushi,
or the Poverty-Insect. It is said to be the servant of Bimbogami, the God of Poverty; and its ticking in a house is believed to signal the presence of that most
unwelcome deity.
四
春の初雷のときに節分の豆を食る習慣のことを語つたから、私はこの機に際して、まだ百姓達の間には廢れてゐない雷の迷信に關して、少しく述べてみよう。
雷の嵐がくると、大きな褐色の蚊帳が吊られる。して、婦人や子供達――恐らくは全家族は、嵐の終はるまて、その下で坐つてゐる。昔から電光は蚊帳の下に居るものを一人も殺し得ないと信ぜられてゐる。雷獸は蚊帳を通り拔けることが出來ない。最近のこと、私の宅へ野菜を賣りに來た年老いた百姓が、私共に話した處によれば、彼と彼の全家族が、雷鳴の際、蚊帳の下に屈んでゐると、實際彼等の部屋の向うの緣側の柱を『電光』の駈け上つたり、駈け下りたりするのが見えた――『電光』は猛烈に柱を引抓いたが、蚊帳のために入ることは出來なかつた。家屋は電擊によつて、大損害を被つたけれども、彼はそれを雷獸の爪の所業に歸した。
雷獸は雷鳴の嵐最中に、樹から樹へと飛んで行くと、人々は云つてゐる。だから雷鳴電光の際、樹木の下に立つのは甚だ危險だ。雷獸が人の頭とか、肩の上へ載るかも知れない。雷獸はまた人の臍を食べるのが好きだと云はれてゐる。雷鳴の時、用心して臍をよく蔽つて置かねばならぬ。また成るべく俯臥する方がよい。雷獸は線香の香が嫌ひだから、雷鳴中は線香をいつも焚く。電擊を被つた樹木は雷獸の爪で引裂かれ、傷けられたものと考へられてゐる。その木材木皮は附近の住民によつて注意して集められ、保存される。挫かれた樹の木材は、齒痛を癒す特效があると云はれてゐるから。
雷獸が捕獲されて、籠に入れられた話は、幾多もある。嘗て雷獸が井へ墜ちて、繩や釣瓶に縺れて、生捕になつたといふ話がある。また出雲の老人達は、嘗て雷獸が松江の天神さまの境內で、眞鍮の籠に入れて、見せ物にしてあつたのを記憶するといつてゐる。それは狸に似てゐて、晴天の日には、すやすやと籠中で眠つてゐるが、空に雷鳴が起ると、興奮してきて、非常な力を得、その眼は燦然と閃くのてあつた。
[やぶちゃん注:「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には『平家物語』において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書『玄同放言』では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌』「駿國雜志」『によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書『和訓栞』に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書』「信濃奇勝錄」『にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆『北窻瑣談』では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書『越後名寄』によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆『閑田耕筆』にある雷獣は、タヌキに類するものとされている』。「古史傳」『でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典』「類聚名物考」『によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の『奇怪集』にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集』「繪本百物語」『にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシンと共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳囊 卷之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。]
Ⅳ.
Since I have spoken of the custom of eating some of the Setsubun peas at the time of the first spring thunder, I may here take the opportunity to say a few words about superstitions in regard to thunder which have not yet ceased to prevail among the peasantry.
When a thunder-storm comes, the big brown mosquito curtains are suspended, and the women and children — perhaps the whole family — squat down under the curtains till the storm is over. From ancient days it has been believed that lightning cannot kill anybody under a mosquito curtain. The Raiju, or Thunder-Animal, cannot pass through a mosquito-curtain. Only the other day, an old peasant who came to the house with vegetables to sell told us that he and his whole family, while crouching under their mosquito-netting during a thunderstorm, actually, saw the Lightning rushing up and down the pillar of the balcony opposite their apartment,— furiously clawing the woodwork, but unable to enter because of the mosquito-netting. His house had been badly damaged by a flash; but he supposed the mischief to have been accomplished by the Claws of the Thunder-Animal.
The Thunder-Animal springs from tree to tree during a storm, they say; wherefore to stand under trees in time of thunder and lightning is very dangerous: the Thunder-Animal might step on ones head or shoulders. The Thunder-Animal is also alleged to be fond of eating the human navel; for which reason people should be careful to keep their navels well covered during storms, and to lie down upon their stomachs if possible. Incense is always burned during storms, because the Thunder-Animal hates the smell of incense. A tree stricken by lightning is thought to have been torn and scarred by the claws of the Thunder-Animal; and fragments of its bark and wood are carefully collected and preserved by dwellers in the vicinity; for the wood of a blasted tree is alleged to have the singular virtue of curing toothache.
There are many stories of the Raiju having been caught and caged. Once, it is said, the Thunder-Animal fell into a well, and got entangled in the ropes and buckets, and so was captured alive. And old Izumo folk say they remember that the Thunder-Animal was once exhibited in the court of the Temple of Tenjin in Matsue, inclosed in a cage of brass; and that people paid one sen each to look at it. It resembled a badger. When the weather was clear it would sleep contentedly in its, cage. But when there was thunder in the air, it would become excited, and seem to obtain great strength, and its eyes would flash dazzlingly.
日本人の身振については、我々と同じものがすこしあり、他はまったく違っている。竹中の話によると、友人に何か、例えば菓子のような物をくれという場合、その友人が普通にする身振は、目を引き下げて、あたかも「これが取れたらいいと思うだろうね」というように、一種、いやな目つきをすることである。手で人を呼ぶ時には、指は我々と同様に動かすが、手の甲を上にする。「否」という時には、手を顔の前で前後に動かす。日米両国人間の身体的表情の類似点を友人と話し合っている時、私は驚きやまどいの表情が、鼻をこすったりする点で同じであることに言及したが、不愉快を示す表情は違っている。我々だと、普通、眉をひそめて目を小さくするが、日本人は怒ると目を大きくひらき、子供は悪いことをすると叱られ、即ち、オメダマ チョーダイする。これは直訳すれば、「眼球の賜物」となる。指を一寸焼くと、奇妙な動作が行われる。それは即ち即座に耳朶(みみたぶ)をつかむので、耳は常に冷かであるから、苦痛を軽くする。
[やぶちゃん注:「竹中」竹中成憲。既注。
『友人に何か、例えば菓子のような物をくれという場合、その友人が普通にする身振は、目を引き下げて、あたかも「これが取れたらいいと思うだろうね」というように、一種、いやな目つきをする』そうかなあ? 意地悪く焦らすということ? アメリカ人ならしそうだけど、これは当時の日本人の典型的仕草とは思えないんだけど? これって、欧米文化に触れてしまった青年学生独特の動作でないかい?]
学校の寄宿舎で学生達は、如何なる種類の楽器も持つことを許されず、将棋や碁もしてはいけない。勉強の邪魔になるからである。彼等の勉強は朝早く始り、実にはげしいコツコツ勉強で、科目は我国の大学に於るものとまったく同じだが、すべて英語である。医科ではこれがドイツ語になる。武士の子は朝六時に起き、井戸の傍で顔を洗ってから、大きな声を出して本を読む【*】。
* 声を出して本を読むことは、慣例的である。そうしなければ、読みつつある物を了解することが出来ぬと彼等はいう。然し、大学に入ってだんだん学問が進んで来ると、この習慣はなくなって行く。
[やぶちゃん注:だからね、すぐ忘れるんだよ! 何事も音読、朗読が命なの!!]
それぞれの寄宿舎の等級は、学生が読書に際して立てる騒音の差によって、それと知られる。早い朝飯の後で、子供は学校へ行き、六、七冊の本に字を書かねばならぬ。一冊に四十頁、一頁に大きな字を四つ書く。これ等の頁には、何度も何度も書くのだが、乾いた墨の上に、濡れた墨が明瞭に見える。怠け者の子は、時として紙の上に墨をはねかけるが、先生には大抵の場合、この悪だくみを発見することが出来、その子は放課後、刑罰として学校にのこされる。子供は必ず弁当箱を持って行き、「熊のように空腹」になって帰宅する。母親がお菓子を与えると、彼はそれを貪り食い、そこで晩飯まで遊び、翌日の予習をしてから寝る。
[やぶちゃん注:ここに描かれた書の練習風景は、たまたま私が並行して行っている『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (三)』にもそっくりな場面が登場するので、未読の方は、是非どうぞ!(そちらの風景は、この八年後の明治二三(一八九〇)年の松江でのシークエンスである)]
日本には、我国にそれと同じものを見出し得ぬ、ある階級の娘がいる。彼女等は芸者と呼ばれ、奥さんや令嬢達があらわれぬ宴会で、席を取り持つことをつとめとする。一例として、数名の友人を晩餐に呼ぶ人は、かかる娘を二、三人、或はそれ以上雇うことが出来る。すると彼女等は、単に酒を注ぐことを手伝うばかりでなく、気の利いた、機智的な会話で、あらゆる人をいい気持にさせる。彼等の多くは、中々奇麗で、皆美しい着物を着ている。一度私は、ある晩餐の席で、一方ならず美しくないばかりでなく、まったく年取った芸者にあったことがある。それ迄、芸者なるものが、彼女等の美貌と、恐らくは若さとの為に雇われるものと思っていた私は、彼女のことを日本人の友人にたずねたところが、彼女は東京に於て最も有名な芸者の一人であるとのことであった。
[やぶちゃん注:この老芸妓、誰だったのでしょう?! とっても知りたい!!]
十数名の、政見を異にする政府の役人の宴会などに、この愛橋と会話的妙技と機智とを持つ芸者が、短時間に調和と、よい機嫌と、行為の自由とを持ち来たし、その結果、しばらくの間、その人々を、気の合った一群にすることもある。我国でも、単に万事うまい具合にする丈の目的で、若い婦人を晩餐の席に招くことはよくやるが、彼女に金を払いはしない。日本では、これが職業であり、これ等の丁寧でしとやかな、気のいい、機智に富んだ、元気のある娘達は、宴会その他のあらゆる会合で人をもてなすことによって生計を立てる、大きな一階級を代表している。そして彼女等は、確かに、態度や才芸に於て、この社会以外の普通な娘達よりも、もてなし振りが上手である。これ等の娘達は、しばしばかかる場合に偶然知り合った人と結婚し、またこのようなお祝の酒盛で、時に恋愛的な婚姻が行われるというのも、真実である。
用簞(だんす)笥の後から物を引き出すのに矢を使用したところが、矢が折れた。これを見た竹中氏は、昔日本人は、故意に矢を極めて弱くつくり、敵が再びそれを使用することを防いだと話してくれた。
[やぶちゃん注:「矢」原文も“an arrow”となっているから、所謂、破魔矢のような工芸品かと思ったが、次の段の様子から、これは実際の実戦用の矢(骨董品)のようである。]
町田氏が、人力車にいっぱい武器を積み込んでやって来た。長い槍、各種の武具、軍隊信号に使用する扇、見事な弓と十二本の矢を入れた箭(や)筒、撃剣に使用する刀、槍その他すべての道具等がそれで、セーラムのピーボディー博物館のために、私にくれた。刀剣は来週持って来てくれる。私はピーボディー博物館のために、沢山の物品を貰ったが、町田のこの贈物は、何といっても白眉である。
[やぶちゃん注:「町田氏」既注の武具専門の骨董商町田平吉。
「軍隊信号に使用する扇」原文は確かに“fans for military signaling”であるが、鉄扇などではなく、軍配であろう。]
昨日、私が既に数回あっている朝鮮人の父子が、暇乞に来た。父親が間もなく朝鮮へ帰るのである。子供の方が日本語を話すので、我々はうまい具合に会話を交えたが、私が父親に向って、別に大した必要もない朝鮮の品で、博物館のために私にくれるような物は無いかと聞こうとするに至って、行きつまって了った。これは私の日本語では云い得ぬことだった。それでしばらくまごついた揚句、日本人の友人を呼んで通弁して貰った。彼は、彼の部屋に何かあるかどうか、見て見ようといった。昨夜、八種の異る品物が私に与えられた。それ等は皆朝鮮の品で、いずれも興味がある。
[やぶちゃん注:本章冒頭に登場した尹雄烈(ユンウンリョル/いんゆうれつ)・尹致昊(ユンチホ/いんちこう)父子である。]
日本の農夫は、一日に五、六回、主として米、大根、魚等の食物を食う。実際測ったところによると(医学生である竹中は私にかく語った)、日本人の胃は外国人のそれよりも大きい。これは、彼等が米を多量に摂取するからかも知れない。田舎の子供達が、文字通りつめ込んだ米のために、まるくつき出した腹をしているのを見ては、驚かざるを得ぬ。
[やぶちゃん注:若干疑問あり。「まるくつき出した腹をしている」「田舎の子供達」の中には貧困のために飢餓状態にあって腹部が膨満するクワシオルコル(kwashiorkor:「クワシオコア」とも呼ぶ栄養失調症の一病態を指す語で、一般にはタンパク質の摂取量が十分でないために起こる症状を指すとされる。症状の特徴は足の浮腫・腹部膨満・脂肪性浸潤物による肝臓肥大・歯の脱落・肌の脱色及び皮膚炎・脱毛・下痢・体重減少などで、重症化すると死亡することもあり得る。ここはウィキの「クワシオルコル」に拠った)の子供らも多く含まれているように感じられてならんのです、モース先生?!]
女子師範学校の校長高嶺氏は、私と一緒に、製陶工場がいくつかある今戸へ行き、陶工について何か聞き出そうと努めた。然しそこの人々は、間がぬけていて、だらしが無く、そして冷淡なので、私は彼等のなかに、この問題に関する何等の興味を惹き起すことも出来なかった。私は最後に、彼等の間がぬけていること、或は反感は、ある乱暴な英国人の悪い影響から来ているのに相違ないという結論を以て、その場を立ちさった。京都の陶工達との対照は、ことのほか著しいものであった。
[やぶちゃん注:珍しく、モース先生不機嫌、プンプン! 高嶺まで同行しているのに、これは一体、どういうことか?! 磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも載らない。何か情報をお持ちの方、御教授を乞う。
「女子師範学校の校長高嶺氏」何度も登場している高嶺秀夫。既注。]
高嶺は私を彼の家へ正餐に招いた。お客様も数名あったが、私は一時間あまりも平気で膝を折って坐り、もう馴れて来た変った食物を箸で食い、米国でナイフとフォークを持って椅子に坐っているのと、まったく同様な気持でいた。食事後高嶺氏は、我々を茶室へ導いた。ここには茶の湯の道具が全部揃っており、私に儀式的な茶を立てろというので、私はどうにかこうにか、茶を立てた。
[やぶちゃん注:既に注した通り、まさにこの頃、モースは古筆了沖を師として茶の湯を習い始めていた。]
その後高嶺は、私を特定区域へ案内した。以前、彼等は不潔であると見られ、彼等は皮革の仕事をし、動物の死体を運搬し、概してこの都市の掃除人であった。この階級と結婚することは許されず、またそのある者は富裕であったにかかわらず、彼等は避けられ、嫌われていた。彼等は、人々から離れて、ある区域に住む可く余儀なくされ、誰もその区域を通行しなかった。今や法律的の制限はすべてなくなったのであるが、而も彼等は、彼等だけ一緒に住んでいる。主要街路は妙にさびれて見えた。人力車はどこにも見えず、店もあるか無しかである。看板はすこしあるが、店の前の紙看板や提灯は無い。私は太鼓を製造している場所五つの前を通った。太鼓をつくるのには革を取扱わねばならぬからである。子供達は幾分、粗暴であるように思えたが、私が予期していたような卑しい、あるいは屈服されたような表情は、誰の顔にも見受けられなかった。いたる所完全に静かで、落ついていた。子供達は他の場所に於ると同じく、独楽を廻したり、走り廻ったりしていたが、一種の真面目な雰囲気がただよっていることは、疑う可くも無い。
[やぶちゃん注:「子供達は他の場所に於ると同じく、独楽を廻したり、走り廻ったりしていたが、一種の真面目な雰囲気がただよっていることは、疑う可くも無い。」原文は“The children were spinning
tops and running about as in other places but a certain serious atmosphere was
there without question.”。これは寧ろ、明らかな上流階級の部外者――しかも一人は異国人――が二人も入り込んできたことによるもので、被差別部落の恒常的雰囲気とは言われぬ。こんな連中が闖入してくれば、その辺りの雰囲気の中に「ある種、殺気立ったような重い雰囲気が漂って」くるのは当たり前です、モース先生!]
師範学校で私は蝦夷の札幌から来た、教育のあるアイヌにあった。彼は典型的なアイヌの顔をしていて、日本語を流陽に話すことが出来る。私は彼に、アイヌに関するいくつかの質問をした。彼は、アイヌは陶器をつくらず、彼の知る限り、過去に於てもつくったことが無いといった。私はまた、彼から弓矢に関する詳細と、弓を引く時手をどんな風にするかを聞いた。アイヌは拇指と、曲げた人差指とで矢を引く。最も程度の低い野蛮人が、この簡単な発矢法を行い、そしてより程度の高い民族が、より複雑な方法を持っているかどうかを確めたら、面白いだらうろうと思う【*】。又私は、アイヌが、逃げて行く人の足を狙って矢をはなつということを知った。
[やぶちゃん注:「最も程度の低い野蛮人」(原文“the lowest savages”)は、モース先生! いやな感じ! それにしても、モースは汎世界的な弓術に異様に関心を持っている(朝鮮の人々にも子細な射弓術を訊ねている)。その由縁が何か、ちょっと知りたくなってくるぐらいフリーキーなんだもん!]
* その後私は、程度の低い野蛮人が、ここに書いたような簡単な方法を持つことを確めた。マサチユーセッツ、セーラム、エセックス・インステイテュートの時報(一八八五)『古代及び現代の発矢法に関する紀要』参照。『大英百科辞典』の最新版にはこのことが、「マサチューセッツ、ウスタアのイー・エス・モースの古代及び現代の弓術、一七九二年参照」となっている。
[やぶちゃん注:原文を示して書誌データの代わりとする。
*
I have since ascertained that the low savage
people have this simple method as described. See Memoir on Ancient and Modern
Methods of Arrow Release. Essex Institute, Bulletin, Salem, Massachusetts, vol.
xvn (1885). The last edition of the Encyclopaedia Britannica gives this
reference as follows: "Archery Ancient and Modern, by E. S. Morse,
Worcester, Mass., 1792."
*]
図―714
周防では麻を調製するのに、大きな木造の円筒を使用する。それは樽みたいに出来ていて、上が細く、両端がひらいている。これに麻をつめ、それを地面にそなえつけた、釜の上に置く。釜は下から火をつける。しばらく水を熱すると、湯気が麻の間を通る。麻に充分湯気が廻ると、はねつるべのような装置で円筒を持ち上げる(図714)。
[やぶちゃん注:これは古式の麻製造で用いる蒸し樽である。地域が異なるが、宮崎県西臼杵郡高千穂町「高千穂町コミュニティセンター 高千穂町歴史民俗資料館」公式サイト内の高千穂町教育委員会編「(資料)高千穂町の麻栽培」によれば、この樽は高さが約八~九尺(二・五~三メートル)、周りが七~八尺(二~二・五メートル)とある。]
命名は興味から
三河と尾張との境即ち又ちやうど二つの方言領の接觸する處に、蝸牛をネギロといふ小區域のあることも亦一つの特例ではあるが、是などはマイマイドンの説明から類推して、大よそはその起りがわかるやうな氣がする。人に譬へられた色々の小さな生物の中で、ネギドノといふものには「ばつた」がある。この蟲のいわゆる機を織る容子を、禰宜が起居して拜をする身ぶりに思い寄せたのである。信州の上伊那では蟷螂をネギサマ、是もあの蟲が臂を張り手を高く上げる姿を見て、多くの民族で「おがみ蟲」と名づける位だから、さもあるべきことと思はれるが、蝸牛の擧動に至つては實はそれほどの類似は無い。何か今一つ以前の下染が無かつたならば、さう容易には斯んな語は浮び出なかつたと思ふ。同じ地方には亦キネキネともいふ語があるが、つまり其キネなりネギなりは、もと神の前に出て舞を舞ふ人の名であつた故に、戯れて蝸牛をさう呼ばうとする心持が、すでにマイマイの語を知つて居る周圍の人から、存外容易に承認せられ得たのであつて、外形は變つていてもこれもまたマイマイ領域の、一つの邊境現象と見るべきものかと思ふ。
此の解釋が必ずしも強辨附會でないことは、我々の祖先の物に名を付ける力が、ことに他民族に優れて活々として居たことを、考へて見るのが一つの證明法である。それには實例は幾らでも擧げられるが、議論の或は放漫に流れんことを憚つて、玆にはたゞ一つの最も蝸牛と關係の深いものを、稍詳細に説いて見ようと思ふ。關西の方面では隨分古くから、別に今一つマイマイと呼ばれる小さな蟲があつた。それは標準語でミヅスマシといふ蟲であつて、地方によつて次々の異名が案出せられ、又少しづゝは採擇もせられて居るのであるが、この語の行はるゝ區域では、何とかして是と蝸牛のマイマイとに、差別を立てる必要があつた。これが蝸牛の方に色々の複合形が出來、又デエデエムシその他の新しい方言が、夙に此語を押除けて、代つて勢力を布くに至つた隱れた原因の一つでもあつたらしい。ところが其「水澄まし」のマイマイの方を、津輕地方では又ミコと謂ひ、中國の山地の蝸牛をマイマイといふ村々では、ミコノマヒなどとも名づけて居たのは、やはり亦マイマイといふ元の名から、轉じて舞を舞う人の名を宛つるに至つた一例である。
[やぶちゃん注:「ミヅスマシ」ここで鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ(水澄まし)類を関東の読者の大方は認識するであろうし、私もそれ以外を想起しない(ミズスマシ類は日本では三属十七種類ほどが知られる)。ところが、実際には「ミズスマシ」と言う呼称は半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae のアメンボ(あめんぼう・飴棒・飴坊)の、強力な全国的広汎性を持つ別名でもあることが次段で明らかにされ、実は筆者柳田自身(彼は明治八(一八七五)年旧飾磨(しかま)県神東(じんとう)郡田原(たはら)村辻川(現在の兵庫県神崎(かんざき)郡福崎町辻川生まれで十二になるまでここで過ごした)にとっても「ミヅスマシ」は生物種としては「ミヅスマシ」ではなく「アメンボ」であったことも明らかにされる。
「デエデエムシ」改訂版では「デェデェムシ」。
「ミコ」「ミコノマヒ」「巫女」「巫女の舞」で、私は寧ろ、「ネギドン」「ネギドノ」「禰宜どん」「禰宜殿」との包括性とその近縁区別をこそ指摘すべきと思う。]
元來ミズスマシといふ名稱は、わが邦の北と南の半分づゝで、全然別々の二種の蟲に付與せられて居る。そうしてその語音の上品であるために、雙方ともこれを標準語の如く、思つて居るが故に誤解がある。關西方面でミヅスマシといふのは、本草の水黽であつて、東京では誤つてミズクモといい、他の地方では又飴の香がする故にアメンボウだの、ギヨウセンだのアメヤノオカタだのともいふ足の長い蟲である。あるいは嘗めてみると鹽辛い味がするといふことで、若狹其他でシオウリ、播磨出雲でシホカイ、土佐でシホタキ、伊豫の大洲などでシホンシホ、またはシヨウタロウなどゝいふ異名も行はれて居た。是にも比較をしてみれば面白い變化があるのだが、それ迄は玆には説かない。次に他の一種關東でいふミヅスマシの方は、即ち本草に鼓蟲とあるものに宛てられて居る。これこそは自分等が少年の頃にマイマイ蟲と呼んで、その奇拔なる水上の遊戯を、飽かず觀賞して居た夏日田圃の一景物であつたのである。
[やぶちゃん注:「元來ミズスマシといふ名稱は、わが邦の北と南の半分づゝで、全然別々の二種の蟲に付與せられて居る」松原利吉氏のサイト内の「能登方言」の頁の「方言コラム あめんぼう(水馬)」を見ると、その広汎性(かなり西日本寄りではある)が大変良く分かる。松原氏はその冒頭で『あめんぼうの方言調査を始めた頃「ミズスマシ」と、答えられる人があり、うんざりしたものである。ところがこの言葉、実は貴重な「あめんぼう」 の全国的方言だったことを知り驚いた』と実体験を示されておられ、『「大言海」の「みずすまし」に(一)は「あめんぼう」で(二)は「まいまい虫」である』と記しておられる。そこで私の持つ「言海」を引いて見た。
*
みづすまし(名)水澄(一)水蟲ノ名、畿内ノ語、ミノ長サ五六分、幅一分、薄黑ニシテ、小白斑アリ、翅アリ、四脚、長クシテ、蜘蛛ノ如ク、後脚、最モ長シ、常ニ緩流ノ水面ニ上下シテ、小蟲ヲ捕リ食フ、水涸ルレバ、飛ビテ他水ニ移ル、體ニ水飴ノ氣アリ、故ニ、東京ニテ、あめんぼうノ名アリ。又、ミヅグモ、カツヲムシ、シホウリ。水黽(二)まひまひむしノ一名。(東京)鼓蟲
*
とある(因みに筆者大槻文彦自身は江戸生まれではある。なお、彼の父は仙台藩藩校養賢堂学頭であった大槻磐渓であるが、彼の父はかの蘭学者大槻玄沢である)。これはどうみても半翅目異翅亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae のアメンボこそが正当な「ミズスマシ」の和名であることを暗示させるところの優勢記載であり、何故、現在のような標準和名決定がなされたのか不審が起こる。通常はその種に同定記載した文献記載の最も早いものが標準和名とされるが、この「言海」の記載を見る限りでは、どうみてもだったら、現在の「アメンボ」は「ミズスマシ」であり、鞘翅目飽食亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae の「ミズスマシ」類は「マイマイムシ」で落ち着くことになるはずであったと思われる(但し、個人的には「マイマイムシ」は悪くないものの、「アメンボ」が消えてしまうのは大いに哀しい)。どうもおかしい。先の和名決定は原則であって、明治期の決定にはとんでもない恣意性が加えられており、特に帝都東京の方言を優先的に標準とする考え方が標準和名制定に大きな影響力を持ったのではないかということは想像に難くない。私は昆虫は苦手であるので、識者の御教授を是非とも乞うものである。なお、松原氏の掲げる能登半島で採取されたアメンボの方言異名には「ミズタンボ」(内浦町松波/水蜻蛉)・「ミズグモ」(穴水町鹿波/水蜘蛛)・「ミズノカンサマ」(珠洲市寺家・能都町姫/水の神様)・「ミズノカンヌシ」(内浦町行延/水の神主)他、多彩な面白い呼称を知れる。また、リンク先には本「蝸牛考」張りの分布地図(「全国方言辞典」のもの?)も載る。必見!
「本草」通常、単にこう言ったら明の李時珍の「本草綱目」を指す。「蟲之四」に「水黽」(あえて音読みするなら「スイバウ(スイボウ)」に(引用は中国語繁体字版ウィキ「維基文庫」の原文を参考にしつつ、一部の表記を個人的に変更したもの)、
*
水黽(「拾遺」)【釋名】水馬(「拾遺」)。【集解】藏器曰、『水黽群游水上、水涸即飛。長寸許、四脚。亦名水馬、「非海中主産難」』。海馬之水、時珍曰、『水蟲甚多、此類亦有數種。今有一種水爬蟲、扁身大腹而背硬者、即此也。水爬、水馬之訛耳。一種水蠆、長身如蠍、能變蜻蜓』。【氣味】有毒。【主治】令人不渴、殺雞犬(藏器)。
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とある。この記載も甚だぶっ飛んでいて、柳田先生、「本草の水黽であつて」と平然と言えるもんではありんせんよ。せいぜい、貝原益軒の「大和本草」ぐらいにしといておくんない(私の電子訳注テククスト「卷之十四 水蟲 蟲之上 水黽」をどうぞ)。
「飴の香がする」あまり理解されているとは思われないので再掲するとアメンボは半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目アメンボ下目アメンボ上科アメンボ科 Gerridae に属する昆虫類の総称で、例の臭いカメムシ(カメムシ亜目 Heteroptera)の仲間であるから、特定の捕食生物が忌避する臭いを出す臭腺を持っている。この臭いが人間にとっては他のカメムシと異なり、飴の匂いに感じられるというだけの話である。
「ギヨウセン」意味不明であったが、検索したところ、個人サイト「き坊の棲みか」の「かから団子について」に、島原半島では「芋飴」のことを「ギョウセン」と称することが判明、「日本国語大辞典」から引用されておられる。私も所持するので改めて引用する(下線やぶちゃん)。
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ぎょうせん【地黄煎】〔名〕(「じおうせん」から「じょうせん」となりさらに変化した語) ①水飴のこと。漢方の地黄を煎じたのに水飴を混ぜて、飲みやすくしたのが元で、のちにただの水飴や竹の皮に引き伸ばした飴、固形の飴の名称になった。[やぶちゃん注:例文中略。]②昆虫「あめんぼ(水黽)」の異名。[やぶちゃん注:例文略。]
*
同辞典では以下「方言」の項で、『①固めの水飴のような物』の意で名古屋が、『②水飴』の意で静岡・愛知・鳥取・岡山・広島・徳島・香川・愛媛県が、『③あめ』(飴であろう)として、愛知県・大阪府・長崎県・島根県隠岐が採集地として挙げられてあるから、これは「アメンボ」の西日本系の異名とも思われる。疑問氷解!
「伊豫の大洲」現在の愛媛県大洲市。
「本草に鼓蟲とあるもの」「本草綱目」ではまさに「蟲之四」で「水黽」の次に載る(引用及びポリシーは同前)。
*
豉蟲(「拾遺」)【釋名】豉母蟲。【集解】時珍曰、『陳藏器「拾遺」有豉蟲、而不言出處形狀。按、葛洪「肘後方」云、「江南有射工體有瘡。取水上浮走豉母蟲一枚、口中含之便瘥、已死亦活。此蟲正黑、如大豆、浮游水上也。今有水蟲、大如豆而光黑、即此矣。名豉母者、亦象豆形也』。【氣味】有毒。【主治】殺禽獸、蝕息肉、敷惡瘡(藏器)。
*
これは明らかに鞘翅目飽食亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類である。]
このマイマイ蟲も圓く渦を描いて、水面を遊びまはつて居た。京都近くの村にはウヅムシといふ異名があり、上總では又ミズグルマともいつた。水澄ましといふ名前もこれから出たのであつて、或は最初には是もまた蝸牛と同じく、渦卷きを意味するマイマイであつたのかとも思ふが、後には確かに舞を舞ふ者といふ意味に、解せられて居たといふ證據がある。それにはおそらくは蝸牛とは似ても付かぬ此蟲の輕快なる動作が、特に命名者たちの空想を促したものと考へられるのである。そこで順序を立てゝ各地の方言、方言とまでは成長しなかつた個々獨立の異名を比べてみると、第一にはこの蟲の活動期、殊に多くの子女によつて注目せられた時期の、田植の前後であつたことが其名に現れて居るのである。
シロカキムシ 仙臺、四國でも
タウエムシ 越中
サヲトメ 東京近郊、上州等
ソウタメ 加賀越中など
ヒヨウタメ 越中
ミズスマシが此樣な異名を得た事情は、以前の村々の五月少女の歌淸く、笑い花やかであつた光景を知る者ならば、容易に想像し得ることであらう。その田人たちが苗取り終つて家路に向ひ、やゝ田の水の靜かになる夕暮方などに、此蟲は出て來て水の上を遊んだのである。それ故に又この蟲の名は、おのづから「水澄まし」であつた。
スメスメ 土佐
スミスミ 備後
カスメ 奧州南部
スメ 信州
トメトット 奧州八戸
などといふ名稱に至つては、更に一歩を進めて命令形にさへなつて居るから、恐らくは亦子供たちの思ひ付であつたらう。即ち濁つた器の水などを搔きまはして、その沈澱を待ち兼ねるやうな心持を、この小さな蟲の擧動の中に見出したなどは、到底年とつた者ばかりの談合では思ひ浮ばぬことであつた。或はこれに伴なうて歌があり、又は童話などがあつたのかも知れないが、さうで無いまでも此空想には多分の餘裕があつた。
ジカキムシ 羽後、越中、壹岐
ジーカキムシ 越後西蒲原郡など
ジヨウカキムシ 加賀
イロハムシ 上總夷隅郡、遠江濱名郡
エカキムシ 佐渡
カイモチカキ 大阪、四國某地
[やぶちゃん注:「羽後」旧羽後国。現在の秋田県の内、鹿角市と小坂町を除いた大部分と、山形県の飽海(あくみ)郡及び同じ山形県の酒田市の内の最上川以北部分に相当する。
「遠江濱名郡」静岡県の旧郡。ほぼ現在の浜名湖西岸の湖西市の西端の一部(白須賀・境宿)に相当する。]
カクといふところから搔餅にまで、幼なき人々の想像は馳せたのである。實際またさうする親姉たちの手つきなどを、聯想せしむるに足るやうなこの蟲の舞ひ方でもあつた。それからさらに目に近い出來事にたとえたのは、
ゴキアライムシ 水戸、周防、薩摩等
ゴキアレア 肥前北高來郡
ゴキマハシ 上州
ゴキマイリ 近江
ワンアラヒ 肥後玉名郡
ヲケアラヒ、ヨケアラヒ 同上
ワンコアライ 羽後河邊郡
[やぶちゃん注:「肥前北高來郡」「きたたかきぐん」と読む。現在、長崎県諫早市の一部。
「肥後玉名郡」現行でも残る郡名であるが、ここでの謂いは現在の熊本県北部有明海沿岸域の玉名市を含むものと考えるべき(玉名市の発足は昭和二九(一九五四)年)。
「羽後河邊郡」現在の秋田市の一部と大仙市の一部に相当する旧郡。]
ゴキといふのも木の椀の古名である。陶器の茶碗が一般になつてから後は、もう其樣に丁寧な洗ひ方はせぬのだが、それでもまだ蟲の名前だけは殘つて居る。即ち今日の不可解は、却つて前代生活の特徴を窺はしむべき便宜ともなる所以である。マイマイが後に神人のことに解せられるに至つたといふことも、蝸牛についてまだこれを疑ふ人があらうけれども、鼓蟲の方だけはもはや十分に明白で、その事實が無かつたならば、到底次のやうな異名は發生し得なかつた。
ミコノマイ 美作
ミコマヒ 備前岡山
ネコマヒ 同 西大寺
ムコマヒ 播州熊野
ミコ 奥州津輕
スイジンサマ 伊豫吉田町
イタコムシ 四国某地
[やぶちゃん注:「西大寺」現在の岡山県岡山市東区西大寺。旧西大寺市。
「播州熊野」現在の兵庫県神戸市兵庫区熊野町のことか。JR兵庫駅の北北西二キロほどに位置する。
「伊豫吉田町」愛媛県の南予地方にあった旧吉田町(よしだちょう)。現在は宇和島市の一部。]
イタコといふ女性も、今日では奧州より外の地には居ないが、是亦歌舞を業とする一種類の巫女の名稱であつた。足利時代の職人盡の畫の中に、イタカとある者がこれと同じであるらしきこと、及び沖繩の島に今でも居るユタといふ巫女も、起原は一つであるかと思ふことは、曾て私も少しく論じたことがある。そのイタコといふ語が蟲の名になつて、四國の何れかの地方に殘つて居たことは、本草啓蒙がこれを錄して居るので、即ち今は既に絶え果てたものゝ、至つて幽かなる痕跡であつたのである。
[やぶちゃん注:「イタコ」ウィキの「イタコ」より引く(記号の一部を省略した)。『日本の東北地方などで口寄せを行う巫女で巫の一種。シャーマニズムに基づく信仰習俗上の職で』、特に『先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性の職業であった』。『イタコには霊的な力を持つとされる人もいるが、実際の口寄せは心理カウンセラー的な面も大きい。その際クライアントの心情を読み取る力(一種のコールドリーディング)は必須であるが、本来は死者あるいは祖霊と生きている者の交感の際の仲介者として、氏子の寄り合い、祭りなどに呼ばれて死者や祖霊の言葉を伝える者だったらしい』。『イタコは占いの際数珠やイラタカを用いるが、一部のイタコは、交霊の際に楽器を用いることがあり、その際の楽器は梓弓(あずさゆみ)と呼ばれる弓状の楽器が多い。他に倭琴(「やまとごと」、または「わごん」)や太鼓なども用いられる。これらは農村信仰などで用いられた日本の古代音楽の名残とされ、日本の伝統音楽史において現存するうちの最も古いものの一つとされる』。『口寄せ以外にもイタコには「オシラアソバセ」を執り行う役目がある。「オシラアソバセ」とは、東北の民間信仰であるおしら様の御神体である二体の人形を遊ばせることである。オシラサマは各家庭に祀られており、一部地域ではその家庭の家族の代わりにイタコがおしら祭文を読み上げる。オシラサマのベースである杓子、瓢や柄杓に関する信仰を膨大に集め、これが「魂を集める採り物」であるとした柳田國男の説を承けた折口信夫によれば、これはマナを寄せるための依り代である』。『東海道中膝栗毛等に登場する、イチコとよばれる巫女は、常陸の国や京阪地方では、「神社に座し湯立てをする」巫女の称であるが、東京近辺ではイタコの様な巫女を指す』。『沖縄県や鹿児島県奄美群島にはユタという在野の霊能力者が、イタコに似た霊的カウンセリングを生業とすることで広く知られており、こちらは葬祭そのものを扱うことも多い』。『イタコの語源についてはいくつかあり、沖縄のユタの韻との共通性、「斎く」(いつく)が転化したイチコからの変化、神の委託をする委託巫女であるとするもの、アイヌ語の語るの意味イタック等からの変化、神降ろしの巫具としての板が用いられたこと等の通説がある』。『柳田國男は、アイヌ語で「神がこう仰った」の意味のitak説や、御倉板挙神はミクライタケノカミと読み、神の御言を伝える物の神格化ではないかとする説等を紹介しながら、イタコの語源は斎(イツキ)であり、それが元の儀礼を襲いながら零落し神にせせられて放浪するようになった者の一部が、イタコ、エチコ、イタカ、イチコ、モリコと呼ばれたとした』とある。
「曾て私も少しく論じた」柳田が『人類学雑誌』に発表した(明治四四(一九一一)年九月及び十一月と翌年二月の三回連載)『「イタカ」及び「サンカ」』のことであろう。
「そのイタコといふ語が蟲の名になつて、四國の何れかの地方に殘つて居たことは、本草啓蒙がこれを錄して居る」前注で示した『「イタカ」及び「サンカ」』の第一章の最後で昆虫の現行の『水スマシ』(ミズスマシ科 Gyrinidae のミズスマシ類)のことを挙げ、『四国の東部にてはイタコ蟲と呼ぶといへり』と記す。「本草啓蒙」は江戸後期の本草書「本草綱目啓蒙」のこと。全四十八巻。享和三(一八〇三)年刊。時珍「本草綱目」についての小野蘭山の口授である「本草紀聞」を、彼の孫と門人が整理した「本草綱目」の解説書。引用に自説を加え、さらにここに出るように方言名も記している。同書の「卷之三十八蟲部」の『鼓蟲』の条は『ミヅスマシ〔江戸防州〕 ゴキアラヒムシ〔同上水戸防州薩州備前〕』と始まり(〔 〕は二行割注)、その途中に『イタコムシ〔四國〕』とある(私は同書を所持しないので国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像を視認して起した)。]
是等各府縣のマイマイ蟲の異名が、たとへば小兒によつて又は小兒の愛護者によつて、案出せられたか否かは決し兼ねるにしても、少なくともそれが最初から唯一つの、持傳へて失はなかつたものであるといふことを、明言し得る人は恐らくはあるまい。物の名は此通り幾つも出來、また幾つも消えて無くなつて、結局時代々々の人の心に、最も興あるものが力強く生きるのであつた。單に人間が語を選擇する能力を具へて居たといふ以上に、更に現在の古語なるものに、その又一つ前の異なる形のあつたこと、及び現在我々の話して居るものも、やがてはより適切なるものに改まるべきことも、之に由つて證明せられたわけで、從うて何が其推移の元の齒車であつたかといふ問題が、いと大切になつて來るわけである。若しも私が童兒の力といふことに、餘りに重きを置きすぎる嫌ひがありとすれは、或はこれを人間の子供らしさの、力と言つてもよいか知れない。兎に角に言語を決定するのは學士院、その他氣六つかしい學者たちの寄合では無かつた。彼等は唯文章に使はるべき言葉の好惡を言ふだけで、所謂俗語の活躍を抑制する力は有たなかつた。鼓蟲を單にマイマイと謂つたのは、京都を中心として大和近江、越前にも紀州にも見出される。耳の方言としての領域は、恐らくまだずつと廣いことゝ思ふ。私の生れた播州の中部でも、さう謂つて通じはするが普通にはゴマイムシと謂ひ、又附近の諸郡にはゴマメムシといふ者さへあつて、小兒は之に由つて亦新たに、胡麻の色形などを聯想して居たやうである。近江の湖東の村にはゴママイリといふ例もあつた。京都も賀茂あたり、又越前の一部ではマイマイコンゴウ、伊勢の南の方ではマイマイコンボとも謂ふ者があつた。此等も七音節だから、恐らくは亦童詞に基づくものであらう。さうして同時に又幼年の者が、一人で旋轉して遊ぶこと、即ち東京でキリキリマヒなどゝいふ遊戯にも、半ばは意識して同じ語を流用して居たのは、恰も春の野に摘む土筆といふものに、秋啼く蟬の名のツクツクホウシを流用したり、雉子の親鳥を詠じたケンケンバタバタといふ歌言葉を、其儘片足飛の遊戯の名として居たのと同じことで、以前に別の語がなかつたのでは無く、寧ろ其反對に有つて餘りに平凡になつた爲、斯うして新たなるものを歡迎したものであつたらうと思ふ。
三
私が話さうと思ふ今一つの祝日は、節分である。それは日本の舊曆に從ふので、太陽年の始――冬が和ぎそめて春となる季節――に當る。チエムバリン敎授の話を藉りて云へば、一種の期日不定の祭日といふべきものである。して、主として惡魔拂ひの儀式のため有名だ。節分の宵には、日が暮れて間もなく、『厄落し』卽ち惡魔を追拂ふ人が、錫杖を鳴らし、奇異な聲を振り立て、『鬼は外、福は內!』と叫びながら、町中を巡る。彼は呼び入れられると、その家で少許の料金で以て、簡單なお祓ひを行ふ。このお祓ひは佛敎の經文の或る部分を誦するのと、錫杖をがらがら鳴らすだけである。
註。この錫杖は奇異な形の杖である。
地藏の像は普通それを持つら形に現
はされてゐる。今猶ほ托鉢僧はそれ
を携へる。大いさは數種ある。厄落
しの持つのは頗る短い。傳說による
と、錫杖が發明されたのは佛敎の巡
禮者の途上で、昆蟲又に他の小動物
が、知らずに蹈まれぬやう警戒を與
へるためであつた。
それから、白豆が四方へ向って家中で投げられる。ある不可思議な道理で惡魔は白豆を好かない――して、それを避けて逃げ出す。かやうにして撒かれた豆は、後に掃き集めて、春の初雷の鳴るまで入念に保存して置いて、その一時に及んで食べる習慣である。しかし何故さするのか私にはわからない。また惡魔が白豆を嫌ふ由來をも、私は發見することが出來ない。が、この嫌惡の點については、白狀すれば私も惡魔と同感だ。
惡魔がすつかり追拂はれた後、まだ戾つて來ないやう、小さな呪(まじな)ひの物が、家のすべての入口の上に置かれる。これは燒串ほどの長さと厚さのある、小さな一本の竹條と、一枚の柊の葉と、乾鰯の頭から成立つてゐる。竹條を柊の葉の中央に突き刺し、鰯の頭を竹條の一端の割け目へ挾み、他の一端は戶の直ぐ上の柱の接ぎ目へ入れてある。しかし何故に惡魔は柊の葉と鰯の頭を恐れるのか、誰人も知らないやうだ。坊間に於ては、凡て是等珍しい習慣の起原は、全く忘れられてゐるらしい。して、今猶ほか〻る習慣を維持してゐる上流家庭も、この祝節に關する迷信を信じないのは、今日の英人が寄生木とか、蔦の魔力を信じないと同樣である。
この年々惡魔を追拂ふ、古い面白い習慣は、代々日本の藝術家に取つて感興の源泉であつた。外國人が幾多の藝術品の微妙なる氣分を味ふやうになるのは、ただ民衆の習慣と思想を相應に曉つた後のことである。その藝術品を實際買つて見ようと思ふのは、ただそれが非常に奇異にも人目を惹くからであるが、日本人の生活を知らない以上は、かゝる作品は、少くとも、その內的意味に關しては、不可解に終はらざるを得ない。過日ある友人が、私に香ばしい革の、小さな名剌入れを吳れた。一方の側面には惡魔の顏を浮かして印してあつた。惡魔の廣く開いた口の孔を通して、内部の絹裏地にまかれたる、愉快なる幸運の女神、お多福の圓ぽちやの笑顏が見えた。それだけ見てもこれは珍しい、綺麗なものであつたが、その意匠の眞價は、新年を祝する滑稽的象徴――『鬼は外!福は內!』であつた。
[やぶちゃん注:「節分」ウィキの「節分」より引く。節分は『雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春』(毎年二月四日頃)『の前日を指す場合が多い。この場合、節切月日の大晦日にあたる』。この日は「大寒」の最後の日に当たるため、一般には『寒さはこの日がピークである』と言われる。『一般的には「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、年齢の数だけ』(或いは一つ多くともする)『豆を食べる厄除けを行う。また、邪気除けの柊鰯』(ひいらぎいわし:後注する)『などを飾る』。『季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われ』たが、元来、『節分の行事は宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた』。『「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ』二尺(六〇・六センチメートル)で、方一尺五寸(四五・四五センチメートル)・厚さ二寸(六・〇六センチメートル)の板に立て、土牛は高さ二尺・長さ三尺(九〇・九センチメートル)で、長さ三尺五寸(一メートル六〇・五センチメートル)・広さ一尺五寸・厚さ二寸の板に立てる。『陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門および朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のものを、立てる。『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とあ』り、『これは、平安時代頃から行われている』「追儺(ついな)」から生まれたもので、「節分」の濫觴はこの年末の邪気祓いの儀式である「追儺」に他ならない。「續日本紀」(しょくにほんぎ)の慶雲三(ユリウス暦七〇六年)十二月の条に』「是年天下諸國疫疾百姓多死始作土牛大儺」『とあることから、これを本格的な祓いの行事としての「追儺」の始まりと見做し、後『室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰』を経て、『炒った豆で鬼を追い払う行事と』変化していったものとされる。室町中期の臨済宗夢窓派の僧瑞渓周鳳の「臥雲日件錄」によると、室町時代の文安四(一四四七)年に「鬼外服福內」を唱えたと記されている、とある。『近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった』とする。
「チエムバリン敎授の話」出典不詳。一八九〇年初版の“ Things Japanese ”(「日本事物誌」)辺りか。
「期日不定の祭日」ウィキの「節分」には(アラビア数字を漢数字に代えた)、『節分の日付は現在は毎年二月三日であるが、これは一九八五年から二〇二四年ごろまでに限ったことであり、常にそうではない』。『一九八四年までは、四年に一度の閏年に二月四日だった。二〇二五年から(二〇二一年からになる可能性あり)は閏年の翌年に二月二日になる』。『節分の日付は数十年のスケールで徐々に前倒しになってくるが、四で割り切れても閏年とならない一九〇〇年、二一〇〇年、二二〇〇年……の翌年に一日遅れて帳消しとなる』。『節分は立春の前日であり、立春は太陽黄経が三百十五度となる日である。このように、間接的に天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできない。なお厳密には、基準とする標準時によっても節分の日付は異なるが、日本以外では節分を祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることはない』とある。そもそもが古くは年末や大晦日の「追儺」の行事であったのであり、暦上の不定性以前に宮中年末の「期日不定の祭日」であったとも言えるように思われる。
「節分の宵には、日が暮れて間もなく、『厄落し』卽ち惡魔を追拂ふ人が、錫杖を鳴らし、奇異な聲を振り立て、『鬼は外、福は內!』と叫びながら、町中を巡る。彼は呼び入れられると、その家で少許の料金で以て、簡單なお祓ひを行ふ。このお祓ひは佛敎の經文の或る部分を誦するのと、錫杖をがらがら鳴らすだけである」こういう怪しげな節分の専門僧形門付は私は聴いたことがないが、しかし確かにあったに違いないという強い感じがする。これは恐らく、江戸時代に流行った「願人坊主」とか「誓文ばらい」「すたすた坊主」と呼ばれた僧形の大道芸人の一種の末裔のように思われる。節分と彼等の繫がった何か確かな情報を見つけ次第、ここに追加する。
「錫杖」「傳說によると、錫杖が發明されたのは佛敎の巡禮者の途上で、昆蟲又に他の小動物が、知らずに蹈まれぬやう警戒を與へるためであつた」ウィキの「錫杖」によれば、『遊行僧が携帯する道具(比丘十八物)の一つである杖』で『銅や鉄などで造られた頭部の輪形に遊環(ゆかん)が』六個又は十二個通してあり、『音が出る仕組みになっている。このシャクシャク(錫々)という音から錫杖の名がつけられたともいわれる』。『仏教の戒律をまとめた書である『四分律』『十誦律』などによれば、この音には僧が山野遊行の際、禽獣や毒蛇の害から身を守る効果があり、托鉢の際に門前で来訪を知らせる意味もあるという。教義的には煩悩を除去し』、『智慧を得る効果があるとされる』とあり、『錫杖の長さは通常百七十センチメートル前後であるが、法会、儀礼の場で使われる梵唄(ぼんばい)作法用の柄の短いものがある(手錫杖)』と記す。ここの記載は殺生戒に基づくハーンの謂いとは正反対の実用的な防禦武器であるが、私は寧ろ、民俗的な根っこは、ハーンの方を支持したい気がする。
「白豆」マメ目マメ科マメ亜科ダイズ属ダイズ Glycine max の煎り豆である。ウィキの「節分」には、『邪気を追い払うために、節分には古くから豆撒きの行事が執り行われている。宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をし鬼の穴を封じて、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われる』。『豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある』。『豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる。また、自分の年の数』より一つ『多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがあるところもある。初期においては豆は後方に撒くこともあったと言う』。『豆を撒く際には掛け声をかける』。先の『「臥雲日件録」には』「散熬豆因唱鬼外福内」(熬豆(いりまめ)を散じて因りて「鬼は外、福は内」と唱す)『とあるように、掛け声は通常「鬼は外、福は内」である』。『使用する豆は、お祓いを行った炒った大豆(炒り豆)である。豆を神棚に供えてから撒く地方もある。炒り豆を使用するのは、節分は旧年の厄災を負って払い捨てられるものであるため、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためであるという。北海道・東北・北陸・南九州の家庭で 落花生を撒き、寺社や地域によっては餅や菓子、みかん等を投げる場合もあるが、これは「落花生は大豆より拾い易く地面に落ちても実が汚れない」という合理性から独自の豆撒きとなった』(下線やぶちゃん。以下同じ)。『かつては、豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたという。豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからとする説もあるが定かではない』とある。
「白狀すれば私も惡魔と同感だ」ハーン小泉八雲先生は、「ダイズの入り豆」は、お嫌い!
「惡魔がすつかり追拂はれた後、まだ戾つて來ないやう、小さな呪ひの物が、家のすべての入口の上に置かれる。これは燒串ほどの長さと厚さのある、小さな一本の竹條と、一枚の柊の葉と、乾鰯の頭から成立つてゐる。竹條を柊の葉の中央に突き刺し、鰯の頭を竹條の一端の割け目へ挾み、他の一端は戶の直ぐ上の柱の接ぎ目へ入れてある」節分に魔除けとして使われる柊鰯(ひいらぎいわし)のこと。ウィキの「柊鰯」によれば、『柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう』。『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』(下線やぶちゃん)。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが』「土佐日記」『から確認できる』。『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』。『鬼を追いはらう臭いを立てるために、ニンニクやラッキョウを用いることもある』とある。
「寄生木とか、蔦の魔力」「寄生木」はビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album 。ウィキの「ヤドリギ」に、一八九〇年に二巻本初版が刊行された『人類学者のジェームズ・フレイザーの著作『金枝篇』の金枝とは宿り木のことで、この書を書いた発端が、イタリアのネミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採られたものである。古代ケルト族の神官ドルイドによれば、宿り木は神聖な植物で、もっとも神聖視されているオーク』(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称)『に宿るものは何より珍重された』。『クリスマスには宿り木を飾ったり、宿り木の下でキスをすることが許される』とあり、ウィキの「金枝篇」にも『イタリアのネミの村には、ネミの湖と呼ばれる聖なる湖と、切り立った崖の真下にあるアリキアの木立とよばれる聖なる木立があり、木立には聖なる樹(ヤドリギ)が生えていた。この樹の枝(金枝)は誰も折ってはならないとされていたが、例外的に逃亡奴隷だけは折る事が許されていた』。『ディアナ・ネモレンシス(森のディアナ)神をたたえたこれらの聖所には、「森の王」と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である』とある。「ネミの湖」(イタリア語:Lago di Nemi /ラテン語: Nemorensis Lacus)はイタリアのローマの南東二十五キロメートルに位置するラツィオ州のローマ県南東部にある火口湖で、湖面に月が反射すると魔法の様に美しく見えることから、古くは「ダイアナの鏡」とも呼ばれた(ここはウィキの「ネミ湖」に拠った)。「蔦の魔力」の「蔦」は原文“ivy”で、これは所謂、我々の馴染みのブドウ目ブドウ科ツタ属 Parthenocissus ではなく(本邦では、ツタ Parthenocissus tricuspidata のみが本州から九州に自生する)、セリ目ウコギ科キヅタ属 Hedera を指すことが多いらしい(代表種はセイヨウキヅタ Hedera helix )。納得のゆくような説明には出逢えなかったが、その強烈な繁殖力と拘束力からその呪力は概ね想像出来る。フランスでは前者のツタ属 Parthenocissus の仲間をリエール(lierre)と言い、これは「変わらぬ愛情」を示すシンボルとされるという記載も管見出来た(緒方富雄氏の「西洋のツタ」(PDF))。
「曉つた」「さとつた(さとった)」。悟った。]
Ⅲ.
The other festival I wish, to refer to is that of the Setsubun, which, according to the ancient Japanese calendar, corresponded with the beginning of the natural year,— the period when winter first softens into spring. It is what we might term, according to Professor Chamberlain, a sort of movable feast; and it is chiefly famous for the curious ceremony of the casting out of devils,— Oni-yarai. On the eve of the Setsubun, a little after dark, the Yaku-otoshi, or caster-out of devils, wanders through the streets from house to house, rattling his shakujō, [5] and uttering his strange professional cry: “Oni wa soto!—fuku wa uchi!” [Devils out! Good-fortune in!] For a trifling fee he performs his little exorcism in any house to which he is called. This simply consists in the recitation of certain parts of a Buddhist kyo, or sutra, and the rattling of the shakujō Afterwards dried peas (shiro-mame) are thrown about the house in four directions. For some mysterious reason, devils do not like dried peas — and flee therefrom. The peas thus scattered are afterward swept up and carefully preserved until the first clap of spring thunder is heard, when it is the custom to cook and eat some of them. But just why, I cannot find out; neither can I discover the origin of the dislike of devils for dried peas. On the subject of this dislike, however, I confess my sympathy with devils.
After the devils have been properly cast out, a small charm is placed above all the entrances of the dwelling to keep them from coming back again. This consists of a little stick about the length and thickness of a skewer, a single holly-leaf, and the head of a dried iwashi, — a fish resembling a sardine. The stick is stuck through the middle of the holly-leaf; and the fishs head is fastened into a split made in one end of the stick; the other end being slipped into some joint of the timber-work immediately above a door. But why the devils are afraid of the holly-leaf and the fishs head, nobody seems to know. Among the people the origin of all these curious customs appears to be quite forgotten; and the families of the upper classes who still maintain such customs believe in the superstitions relating
to the festival just as little as Englishmen to-day believe in the magical virtues of mistletoe or ivy.
This ancient and merry annual custom of casting out devils has been for generations a source of inspiration to Japanese artists. It is only after a fair acquaintance with popular customs and ideas that the foreigner can learn to appreciate the delicious humour of many art-creations which he may wish, indeed, to buy just because they are so oddly attractive in themselves, but which must really remain enigmas to him, so far as their inner meaning is concerned, unless he knows Japanese life. The other day a friend gave me a little card-case of perfumed leather. On one side was stamped in relief the face of a devil, through the orifice of whose yawning mouth could be seen,— painted upon the silk lining of the interior,— the laughing, chubby face of Otafuku, joyful Goddess of Good Luck. In itself the thing was very curious and pretty; but the real merit of its design was this comical symbolism of good wishes for the New Year:“Oni wa soto! — fuku wa uchi!”
5
This is a curiously shaped staff with which the divinity Jizō is commonly represented. It is still carried by Buddhist mendicants, and there are several sizes of it. That carried by the Yaku-otoshj is usually very short. There is a tradition that the shakujō was first invented as a means of giving warning to insects or other little creatures in the path of the Buddhist pilgrim, so that they might not be trodden upon unawares.
昭和三十七(一九六二)年
着ぶくれておのれを珠のごともてなす
三日来訪の風彦さんに独楽習ふ
独楽習ふかたくな独楽に紐まきては
[やぶちゃん注:「風彦」俳人丘本風彦(おかもとかざひこ)。後に平畑静塔の後を次いで『天狼』編集人となっている人物である。但し、年譜には「三日」ではなく、『元旦』とあり、句集「命終」にも、
元旦、丘本風彦氏来訪。独楽を習ふ。
頭をふつておのれ止らぬ勢ひ独楽
何の躊躇独楽に紐まき投げんとして
掌にまはる独楽の喜悦が身に伝ふ
掌に立ちて独楽の鉄芯吾(あ)をくすぐる
と前書する句が並ぶ。不審である。]
石段をきざみのぼりて泉あり
泉深く尼が十指のかくれなし
日輪が深く全し沼萠ゆる
つくしんぼぞくぞく泣きたければ泣く
桜日日夜は寝昼覚め生残る
[やぶちゃん注:「さくら/ひび//よはね/ひるさめ//いきのこる」と訓じておく。個人的に好きな句である。]
桜花にて昼灯つつむ死が過ぎて
生き残り万来の桜身に重く
死に遭ひしあとの重ね着桜の夜々
吾も仔猫捨てたりき戦時なりき
びしよびしよと雨雀ども巣をつくる
盲眼にこの鵜篝の炎えゐるか
盲眼を瞠る鵜篝過ぐるとき
鵜の声すその方へ手を盲鵜匠
[やぶちゃん注:この前年の底本年譜(昭和三六(一九六一)年の七月の条)に、『岐阜長良川河畔の鵜匠山下幹司邸の前庭に、誓子との師弟句碑立つ。両句共に、三十一年七月、鵜舟に乗った時の句。
鵜篝の早瀬を過ぐる大炎上 誓子
早瀬過ぐ鵜飼のもつれもつれるまま 多佳子
除幕式に、誓子、波津子、多佳子、かけい、双々子、薫ら出席。また、東京より三人の娘と三野明彦、武彦。奈良より美代子、稔』とある。山下幹司は既注。この「盲眼」の鵜匠「盲鵜匠」とはこの山下氏を指している。時に誓子満五十九、多佳子満六十二であった。
露の中われは青虫殺し殺し
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。多佳子、六十三歳。]
昭和三十六(一九六一)年
息かけて何も為さざる手をぬくめる
[やぶちゃん注:この一句は『天狼』掲載分。二年後(昭和三八(一九六三)年)の亡くなる直前の年譜記載に、『右半身の麻痺障害増加』とあり、既にこの頃からそうした症状が出ていたものか。]
枝みかん枝柿ベッドいよいよ狭(せま)
[やぶちゃん注:前年の七月からの入院生活は、十二月十五日の退院で終わっているから、この句は位置的に見ても前年の入院中の詠である(但し、この年も九月の条に『身体の調子、悪くなる』とある)。以下の始めの方の四句ばかりも、季節から、前年末入院中のものとも思われる。]
仔猫かたまる日溜り落葉吹き溜り
婆婆恋や瞼に秋雨ざんざ降り
冬日雀しやべる嘴(くちばし)実にたのし
冬日浴触れれば蜂の生きてゐる
瘦身を起す爛々除夜の鐘
医家への道焼山が一夜に立つ
鬼追はれつゝ酒の香人の香吐く
鬼平らぎ節分月夜吾立てり
たゆたひて身につく雪一片の大
危を告げる鶯杣の一人仕事
干梅の熱きを天へ投げてうける
干梅の笊西の日に傾けよ
愛母におよばねど梅漬けて干す
道堰きてここにをどりの輪がめぐる
洗ひ髪ゆくところみなしづくして
手足恍惚顔なきをどりの衆
踊り唄太鼓が追うて月の空
ひとの眼も天もまぶしき鵙の朝
青き青き片足ばつた寝屋わけん
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
夜の河を遡航エンジン冬来向ふ
こそかさと壁のごきぶり顔見知り
[やぶちゃん注:以上、『俳句』掲載分。多佳子、六十二歳。]
二 子の保護
[子を保護する「ひとで」]
[やぶちゃん注:これは国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]
卵なり子なりを進んでから後、暫くの間親がこれを保護する動物も相應に多い。獸類や烏類は悉くこの仲間に屬するが、それ以外の動物にも澤山の例がある。概していふと、子を保護するものは稍々高等の動物に多く、下等の動物は殆ど悉く、卵を放すだけであるが、「うに」・「ひとで」の如き類でさへ、例外として子を保護するものがある。こゝに圖を掲げたのは、卵を體で覆ひ保護する「ひとで」の一種であるが、かゝる種類では、普通の「ひとで」に比して、卵が直徑十倍乃至二十倍も大きい。直徑が十倍乃至二十倍も大きければ、これを体積として算へると、一千倍乃至八千倍も大きいことに當るから、同じ大きさの卵巣内に生じたとすれば、卵の數は一千分の一乃至八千分の一より出來ぬ筈である。如何なる動物でも種族の維持のためには、小さい子を無數に産んで、運を天に委せるか、大きな子を僅に産んで、これを大事に保護するかの二途の中、いづれかを選まねばならぬことがどの場合にも明に知れる。
[やぶちゃん注:『「うに」・「ひとで」の如き類でさへ、例外として子を保護するものがある』という叙述がひっかっかる。この『「うに」・「ひとで」の如き類』を、圧倒的に受精後直ちに放卵する種が多い「棘皮動物の類」という意味で次の抱卵性の「ひとで」を言わんとしているのなら問題ないが、この表記では「うに」の中にもそうした産卵した後の卵を保護する種がいると読める。読めるから家中にある数多の関連書・学術書・図鑑類を管見してみたが、ウニ類で産卵後に抱卵をして卵を保護する属や種についての記載を見出すことは出来なかった。形状と棲息場所から考えるとあり得そうに私が思うのは、砂泥中に潜るタイプのウニ綱 Euechinoidea 亜綱無ランタン上目ブンブク目 Spatangoida や有ランタン上目タコノマクラ目 Clypeasteroida であるが、そうした記載を見出すことは出来なかった。ウニ類でそうした特異習性を持つものを御存じの識者の方の御教授を是非とも乞うものである。
『卵を體で覆ひ保護する「ひとで」の一種』挿絵を見る限り、この絵は抱卵習性を持つコヒトデ属 Leptasterias の仲間と考えてよいように思われる。西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[Ⅱ]」(平成七(一九九五)年保育社刊)のコヒトデ
Leptasterias ochotensis similispinis の記載によれば、『本種は低質に卵塊を産みつけた後その上を覆い』、『卵が孵化して幼体になるまで保護する習性を有する』とあり、佐波征機氏と入村精一氏の共著にで楚山勇氏の写真になる「ヒトデガイドブック」(二〇〇二年TBSブリタニカ刊)のコヒトデ Leptasterias ochotensis similispinis に載るカラー・バリエーション六体を観察(上部のみ)すると、腕部の形状も本種に非常によく一致する(以下の引用の下線部を参照)。そのデータによれば、挿絵からも分かるようにヒトデ類ではお馴染みのマヒトデ属 Asterias に『よく似ているが、腕の側縁が膨れ、腹側側列がよく発達し、生殖孔が腹面に開口することで区別できる』(ここ以下の下線はやぶちゃん。なお、一般にヒトデ類では背側に生殖孔を持つものが多い)。『多くは卵胎生で、卵は大きく、浮遊幼生期がない直接発生である。卵塊を口の周囲や胃の中で保護する習性がある』(即ち、筆者はこれを以って広義の『卵胎生』という語を用いていていることが判る)。『北極周縁の寒冷な海域に分布し、地域による変異が著しく』、『分類が非常に難しいグループである』とある。本種コヒトデ
Leptasterias ochotensis similispinis は軸長二~三センチメートルほどの小型種で、『背側の骨格は狭い網目状で、各網目には普通』一~二個の皮鰓がある。『体表は太い短棘で覆われ、各棘に数個のくちばし型叉棘が付着する』(中略)。本邦では『根室、厚岸や知床の潮間帯の転石の下に見られる』。繫殖期は四~五月で、『親ヒトデは転石の下面に産みつけた卵塊に覆いかぶさり、稚ヒトデが孵化するまで卵塊を保護する』とある。また、同書の中のコラム「子育てするヒトデ」の記事ではかなり詳細に卵保護や保育性のヒトデについて語ってある。それによれば、上記のような卵を覆う行為や口部や胃部に卵を含む方法以外にも、背部に背負ったり、独自の育児嚢や『保育カゴに入れたりと多様である』と述べ、『なかには卵が一人前になるまで寝食』『を忘れて育児に専念する』種や、『親ヒトデが保育中の幼ヒトデを』『附着糸』のようなもので『結びつけて』『親から離れるのを防いでいる』ように見える種もあると記す(具体種が挙げられ、それぞれ別個に解説されてあり、孰れも実に巧妙で面白い。お読みになられることを強くお薦めする)。以下、
《引用開始》
北極周縁の浅海にすむコヒトデ属やヒメヒトデ属には、腕を底質につけ盤を持ち上げ底質との間に卵塊を入れ、体で覆って保護する習性があるものが多い。腕の先端を底質につけるだけのものから、腕の基部を底質に押しつけ盤を上方に膨らませてできた空所に卵塊を入れるものなど卵塊を覆う姿勢は種により微妙に異なる。体で覆った卵塊に管足を吸着させては離すことを繰り返して、卵塊に付着した汚れを取り除いたり新鮮な海水を供給したりする面倒見のよい種もいる。
コヒトデ属の Leptasterias groenlandica は卵塊を胃に飲み込んで保育し、発生が進んで幼ヒトデになる頃には噴門胃にまで入り込むので体が異常に膨れ、あたかも“妊婦”のような姿になる。近縁の L. tenera では初めは卵を胃の中で保育し、発生が進むと胚を盤の育児のうに移して保育する。一般に、口の下や胃の中で保育する場合には親ヒトデは保育期間中(長いものでは3カ月)餌が取れずひたすら育児に専念することになる。
《引用終了》
とある。なお、カリフォルニア州立大学フラトン校の“Biol. 317 - Field Marine
Biology Spring 2015 - Prof. Eernisse”というサイト内のこちらの海岸生物観察記録の画像集の中央附近にあるLeptasterias 属の一種とするヒトデの抱卵写真である“A brooding female Leptasterias cf. hexactis”(左端)と“The embryos of both this female and the
different brooder below appeared at a fairly early stage of development.”(中央)とその下の三枚の画像を参照されたい。少なくともこのコヒトデ属 Leptasterias とある、その本体と卵の大きさが、まさに丘先生の添えられた挿絵と一致することが判っていただけるものと存ずる。]
昭和三十五(一九六〇)年
寒港を見るや軍港下敷に
[やぶちゃん注:「軍港」呉軍港。次の私の注も参照されたい。この句、句集掲載句ではないが、多佳子が亡くなって五ヶ月後の昭和三八(一九六三)年十月に呉市警固屋音戸の瀬戸公園内に、師誓子の、
天耕(てんかう)の峯に達して峯を越す
の句碑とともに師弟句碑として建っている。なお、参照した「ひろしま文化大百科」のこちらの記載に、この誓子の句については、『山口誓子句集「青銅」の』「広島行」と題する昭和三七(一九六二)年作の一連十六句の中の一句であるとし、『「倉橋島」の詞書があるので』、この句碑のある場所の対岸の、『今の音戸公園辺りから島の段々畑を遠望しての感慨か』と推定、さらに、『誓子は後に「自選自解」の中で、「天耕」は造語で「耕して天に至る」をつめたものと語り「倉橋島を裾からてっぺんまで見上げると、すっかり耕されている。それどころか、峯を越して裏側にもおよんでいる。そのような天耕ぶりに私は感動した」と述べている』とある。]
牡蠣割女日射せば老いの眼ひらきゐし
牡蠣割の一隅ほつと乳子泣くこゑ
牡蠣割場に一歩無言につきあたる
牡蠣割女休むゴム手套五指ひろげ
なだれる牡蠣一刀もつて牡蠣割女
[やぶちゃん注:これは年譜から、前年の十二月六日に呉で行われた「『七曜』支部結成記念俳句大会」に出席した折り、矢野町の牡蠣割場を見学した際の詠吟であろう。この時、広島県呉市吉浦新町の峠で『車を止め、旧要塞の監視台跡から呉軍港を望む』とある。]
昼の苦痛に走馬燈からくり見せ
鉄格子土用赤星真直ぐに容れ
[やぶちゃん注:私はこの句、勝手に杉田久女追懐の夢想句と解していたが、恐らくは多佳子の入院中(後注参照)の嘱目吟であろう。それでもそこにはやはり久女の幻影が搖らめいているように私は感じている。
以上、『天狼』掲載分。]
川排尿友禅ざらしの水稼ぎ
めし食ふ火寒川に友禅しつめ
友禅ざらし風花にうつむく職
天地寒むしつみ友禅づかづかふみ
暗くぬくきガラス裡深雪より入る
何を叱咤寒き友禅ざらし工
母へ駆く睦火がみんな暮れ尖り
うぐひすや野は火走りし黒遺し
春枯山引きかへさざる鴉の翼(はね)
春の埠頭こゑぬける鉄管に遊び
艀溜り霞みて汚れて陽と襁褓
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「艀溜り」は「はしけだまり」で、河川・運河などの内陸水路や港湾内に於いて重い貨物を積んで航行するために作られた平底の船舶の係留場のこと、「襁褓」は「むつき」で赤ん坊の「おむつ」である。]
斑猫の誘惑病歩山へかけ
秋さだか重湯(おもゆ)にまじる米の粒
うろこ雲一(ひと)日ベッドになだれなだる
露走り病院ガラスそこが透く
黙つづけ醜きざくろつひに割る
[やぶちゃん注:多佳子はこの年の七月に胆嚢を病んで大阪中之島の大阪回生病院に入院している(三年後の死の直前の開腹手術では肝臓と胆嚢に癌があり、既に周囲リンパ節に転移していたためにそのまま閉腹したことを考えると、この時に既に癌が発症していた可能性が高いかと思われる)が、堀内薫の底本年譜には、この入院を契機として『多佳子俳句の新声、新境地の句』が作られたとして、句集「命終」所載の、
九月来箸をつかんでまた生きる
九月の地蹠(あうら)ぴつたり生きて立つ
を引き、『みずからベッドの上でしゃぼん玉を吹いて遊ぶ』として、同じく「命終」から、
しやぼん玉吹いてみづからふりかぶる
を引く。更に『大喜多冬浪が病気見舞に持参した柘榴を喜ぶ』(大喜多冬浪は「おおきたとうろう」と読む。俳人であること以外は所属など私には不明)として、
紅き実がぎつしり柘榴どこ割つても
深裂けの柘榴一粒だにこぼれず
の二句を同じく引いている(年譜では「割って」もと拗音化してあるが、「命終」に準じた)。この一句もその柘榴の最後の一つででもあったのであろう。
以上、『七曜』掲載分。多佳子、六十一歳。]
昭和三十四(一九五九)年
金魚繚乱中に一匹よわれるもの
[やぶちゃん注:同年年譜に『初夏、「七曜」吟行句会で、大和郡山市の郡上城趾、金魚養池等に吟行』とあるから、その折りの嘱目吟と考えてよかろう。]
真上より燭の穂のぞき燈籠流す
流燈を放つ放てば還らぬを
率ゐるものありて流燈率ゐられ
遅れたる距離遅れたる流燈ゆく
流燈に言葉托してつき放つ
二流燈互ひに明を保ちつつ
月光界万の流燈行きつぱなし
みづうみに流燈一つだにのこらず
流燈会一精霊を老婆抱く
前燈を抜かず同速流燈にて
流燈群一流燈をまぎれしめ
炎ゆることやすし一流燈焼失
すでに火を入れて流燈重きを担ぐ
密着せる二流燈を風が押す
流燈の消ゆるを冥き湖底待つ
[やぶちゃん注:ロケーション不詳。年譜からも探れない(同年八月の記載がない。多佳子には紀州田辺で見た燈籠流しの句が「紅絲」に載るが、これは十二年も前の昭和二十二年のことで古過ぎ、しかもそれは海岸際でロケーションが全く異なる)。燈籠流しが行われ、或いは当時行われており(現在は海や河川の汚染を問題とし、自治体の中には燈籠を流すことを禁じているケースもある)、しかもそれが「湖」を持つ水系であることが特異的なヒントである。識者の御教授を乞う。
以上、『天狼』掲載分。]
掌でぬぐう泥金色の独楽誕生
天駆ける凧巻向の子が駆ける
[やぶちゃん注:「巻向」「まきむく」と読み、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯、巻向川流域の傾斜地を指す、「古事記」「日本書紀」「万葉集」にも出る古くからの地名。旧磯城(しき)郡纒向村。正しくは「纒向」であるが、この「まき」の原義は「牧」であったとも考えられている。三世紀頃、弥生末期から古墳前期にかけての「纒向遺跡」がある(一帯は前方後円墳発祥の地とも推定され、また、邪馬台国の中心地に比定する説があり、「卑弥呼の墓」との説もある「箸墓古墳」などの六基もの古墳がある。飛鳥から奈良時代にかけてはこの地域に市(いち)が発達し、「大市(おおいち)」と呼ばれた(以上は主にウィキの「纒向遺跡」を参考にした)。]
〆飾の家土でぬりごめ子がわめき
友禅ざらし寒水脛に嚙みつけり
鴨渡るその端(は)の鴨の羽うち急(せ)き
寒きシテ女面の裏に眼を瞠(みひら)き
薪能莚に触る地の固さ
加速度に鎌が疲るゝ豊稲穂
入日池金色重く瘦せ河骨
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「河骨」は「かうほね(こうほね)」でスイレン目スイレン科コウホネ属コウホネ
Nuphar
japonicum。和名は根茎が骨のように見えることに由来する。]
芥船水尾かきたつる秋の河
ボート漕ぐ汚れたる河搏ちたのしみ
噴水の力尽きしを風が打つ
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
布晒し彩(いろ)をふみふむ冬の河
雁一連縁につながる葬の尾に
道おしへ道の一キロ短かからず
[やぶちゃん注:「道おしへ」は鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科ナミハンミョウ Cicindela
japonica のこと。人が近づくと一、二メートル程飛んで直ぐ着地するという行動を繰り返し、その過程で度々、後ろを振り返るような動作をする本種の習性をうまく詠み込んでいる。なお、「斑猫」全般については、私の「耳嚢 巻之五 毒蝶の事」の注で詳細を述べておいた。是非、参照されたい。]
脱穀機激しや妻もあふりあふり
地にあてて倒れ稲刈る女の鎌
黄落期天の五位鷺翼重(お)も
道仏白露欠けて何か欠け
冬滝山いで来る何を得たりしや
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。多佳子、六十歳。]
昭和三十三(一九五八)年
春日燦潮垂る沼井(しゐ)の底おもへ
[やぶちゃん注:「沼井」は調べてみると、防府市教育委員会提供の「防府市歴史用語集」に「沼井(ぬい)」とあり、『塩分のついた砂を集めて、より塩分の濃い塩水をつくるための装置です。沼井に塩分のついた砂を入れ、上から海水をかけて、染み出た塩水を釜屋[かまや]に運びます。染み出た塩水は海水よりも塩分が濃いので、効率よく塩がつくれます』とあった。所謂、上浜式塩田の鹹水(かんすい:製塩過程で濃縮した食塩濃度の高い水のこと)抽出装置である。幾つか調べて見たが「しい」の読みは出てこない。不審。少なくとも以下これらの塩田の嘱目吟は、句集「命終」の「昭和三十二年 足摺岬・新居浜 他」に出る、前年の「新居浜」での体験に基づくものと思われる。]
あやまちて穂絮下りくる塩田に
遠夕焼塩屋(しほや)塩水母液たぎち
[やぶちゃん注:「とほ(とお)ゆふやけ(ゆうやけ)/しほや(しおや)しほみづ(しおみず)/ぼえきたぎち」と読んでおく。]
千鳥ばらまく波来ては波退きては
会ふ近し海蔽ひくる渡り鳥
犬の前肢雪掘れば赤土赤土は固し
白鳥の胸下の湖昏れてゐる
友の鳥飛び白鳥の胸下昏れ
万燈群一裸火(はだかび)のへろへろと
下半身ゴム衣海苔採女(め)の授乳
[やぶちゃん注:「かはんしん/ゴムいのりとり/めのじゆにゆう(じゅにゅう)」と読んでおく。「海苔採女」は明らかに造語で一語であるが、「め」は底本では「女」の右上方で、「女」一字のルビなのかそれとも「採女」の二字分で「め」一音なのか分からぬ。「ゴムいのりめの/じゆにゆう」では「のりめ」の響きが悪く、何だか後の「授乳」の座りもひどく悪い気がする。大方の御批判を俟つものではある。]
人形師ゐて人形の菊匂ふ
香が立ち籠り菊人形完成す
声出さぬ菊人形に強燭向く
[やぶちゃん注:「強燭」読み不詳。強いライトの謂いと思われるが、「がうしよく(ごうしょく)」は如何にも厭な響きではある。但し、あからさまに照らし出してしまうそれを、かくも不快な響きで狙った可能性もなくはなかろう。暫く、それで読んでおく。調べてみると句では弟子の津田清子の句に、「こほろぎに違和の強燭深夜作業」という句があり、用例は他の見知らぬ方の俳句にも複数あって、それらは特殊な読みを附していないから、やはり「ごうしょく」と読んでいるらしい。しかしまっこと、生理的に厭な響きだ――]
塵なきに掃く菊園に雇はれて
晴天に出る菊人形見終はりて
朝倉路生さん一周忌
路生(みちお)亡き淡路に渡る林檎の荷と
[やぶちゃん注:「朝倉路生」淡路島が詠み込まれていること、朝倉という姓から、句集「海彦」の「淡路島」に出る、『七曜』同人朝倉十艸の本名かと思われる。]
青く近くなり来る淡路路生亡し
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
塩凝れる灼土大切沼井に溜め
塩浜子駆ける春日入らざるうち
藤つつじ尾羽しつまらぬ庭雀
うつうつと春蟬松の一島嶼
[やぶちゃん注:ロケーション不詳。]
菖蒲園花の平らを暮れ鴉
荒地野菊折りゆく幸福溜めてゆく
百合双花盛り見つめて汚れ初む
ベンチ寝の脛に梅雨泥かつと照り
愛は凝視荒地野菊(あれちのぎく)のうすむらさき
蜂一生骸に黄の縞黒の縞
石窟仏白露世界へ蜂放つ
石窟仏露翅の蜂の飛び帰る
[やぶちゃん注:この二句は句集「命終」の「昭和三十三年」の「春日奥山」と同じ、春日山石窟仏(かすがやませっくつぶつ)での嘱目吟であろう。]
鵙高音愛厚くして生(せい)伸す
鵙高音一流水に径断たれ
鹿の毛も椎葉も雨に梳き梳かれ
削げ屑を隠さず朝寒む雀にて
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
浜引の鍬にぎやかに土をどり
[やぶちゃん注:「浜引」「はまびき」で、入浜式塩田で使用する塩田の地場の塩を掻き混ぜるための道具。防府市教育委員会提供の「防府歴史用語辞典」の「浜引」に『竹の歯がついた浜引[はまびき]で塩田の地場をかきまぜます。さらに、根太[ねだ]と呼ばれた太い木を引き回して、砂をより細かくくだき全体をならしました。太陽熱や風があたる部分がふえることで、砂が乾くのを助け、塩がつきやすくなります』とある。]
かりかりと灼くる春日塩田ふむ
浜子駈けすなはち塩田筋目つく
[やぶちゃん注:「浜子」は「はまこ」で、子供ではなく、塩田で働く労働者を指す。前記「防府歴史用語辞典」によれば、一つの浜には四人の『浜子がおり、取りまとめ役の庄屋[しょうや]・水門を開けて海水の出し入れをした上脇[じょうわき]・道具などの管理をした三番[さんばん]・炊事係の炊き[かしき]がいました』とある。]
浜引子おのが足跡おのれ消し
鹸水溝蝌蚪生き蜷の途曲る
[やぶちゃん注:「蝌蚪」「かと」で、蛙の子のおたまじゃくし、「蜷」はこの場合は腹足類(巻貝)の総称。強烈な塩分濃度の「鹹水溝」(かんすいこう)にも適応する生物がいることへの多佳子の少女のような驚嘆と感慨がある。「途曲る」の力学に、巻貝のしたたかにして確かな、個性的な力強さが良く示されていると貝類フリークの私などは感心するのである。
以上、『俳句研究』掲載分。]
雪渓に無口徹(とほ)して人を恋ふ
[やぶちゃん注:これは底本年譜の昭和三三(一九五八)年七月の条に(十八日以降)、『「流域」の松山利彦に誘われて乗鞍嶽に登る。誓子、利彦ら同行。高山で一泊し、翌朝三千米級の乗鞍三兆近くまで到着。借用の登山服、登山靴で、生まれて初めて雪渓を踏み感激する。乗鞍での二日目に台風に遭う。道路決壊し、下山路は途絶。下山不能。山上の山小屋で缶づめとなる。心臓発作おこる。新聞に「病人一人出る。」と出たが、多佳子のことであった。三日後、平湯山嶽部員やリーダーの松井利彦の力により、ザイルを伝い、六里』(凡そ二十四キロメートル弱)『の道を歩いて平湯に下りる。美濃白鳥、郡上八幡を経て岐阜に出』た、とある映画のような経験の中の一句である。「命終」の「昭和三十三年 乗鞍嶽行」の句群も参照されたい。
以上の一句は『俳句』掲載分。多佳子、五十九歳。]
昭和三十二(一九五七)年
海より直風枝纏(ま)きあひて椿林
炎天に父よぶこゑとはだしの音
棒吞みの獲もの翡翠(ひすい)の身に収まる
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
泥男鹿あへぐ腹より乾きそむ
泥男鹿岐れし小爪の先までも
泥男鹿恋ひごゑ宙に放ちけり
泥男鹿ひきすゑられて角伐られ
泥男鹿泥毛一塊づつ乾く
手鏡の中に枯崖さかさにあり
雪降る視野楢の荒ラ膚ばかり立つ
寒三日月双刄鋭し信と疑と
舟漕いで渦潮に乗る妻を低く
「脚下照顧」昼虫のこゑ立ちのぼる
[やぶちゃん注:「脚下照顧」「きやつかしやうこ(きゃっかしょうこ)。禅語。「照顧脚下」「看脚下」とも。「脚下」は足元から転じて本来の自分自身、「照顧」は反省し繰り返しよく見、よく考えること。他に向かって悟りを求めずに自身の本性をまずよく見つめ尽くせという意。]
秋の蝶焼きすてしもの黒々と
虫しぐれ懐中燈に血透く指
くつわ虫崖の根ひとの燈に許す
秋蛍崖と樹にゐて照らしあふ
蒟蒻掘る夫の猫背を聳えしめ
蒟蒻太る地上に一葉大破れ
日ざらしに蒟蒻薯よ土塊よ
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。多佳子、五十八歳。]
昭和三十一(一九五六)年
水欲りて日覚む岬の夕暁
仰臥の胸十指に蔽へず崖飛雪
山の冬子供のこゑに日が当る
冬日蝶宙にこゑある如くなり
野の猫がひそむ床下風邪癒らず
猟人の手にて銃身艶めける
[やぶちゃん注:昭和三十一年の年譜に、『二月十九日、猟好きの尼崎の医師の案内で、近江八幡に鴨打ちに行く。清子同伴。自家用車に猟人の運転手、猟銃二挺。その夜は猟師宿(長命寺)に泊り、翌朝四時、雪しまく中、魚舟の中にコンロを持ち込み、筵を被って雪を避けつつ猟場へ』行ったとある。以下『七曜』のそれらしいものもこの折りの句と採ってよかろう。
以上、『天狼』掲載分。]
濤を聴く瞼に冬日ぬくし赤し
濤さわぐ鵜のゐる岩も吾の岩も
洋(わだ)に落つ大日(だいにち)冬濤かきたてて
[やぶちゃん注:この三句は前年十二月の誓子との室戸岬の旅中吟と思われる。]
冬薊句帖に載せて蕊複雑
綿虫の宙に暮れゆく素直さよ
猟舟に瀕死の鷺が羽うちたり
こめかみをがくがく猟犬飯食へり
猟舟に鴨置くすぐに雪つもる
猟夫臭はげしわが髪に浸まずや
猟舟に身低うをりぬ白伊吹
遁るる鴨猟夫の眼中を招くる
鴨のこゑ吹雪千分けて日射したり
[やぶちゃん注:「吹雪千分けて」底本では「千分けて」の右に『(ママ)』注記がある。しかし、中村草田男の句に「花蕎麥や雲を千分けて日の霽るる」があり、これらは上代語「ちわく」(道別く)で、進路を分け開く、神々しい日の光りがあまたの雑物をざっと引き分けて差すの意として、自然に採れるが、如何?]
身がしびる猟夫の殺気ゆるすなり
鵜群見て立つ翼なき黒衣われ
[やぶちゃん注:これは「黒衣」から、底本年譜の昭和三一(一九五六)年の七月の条に、『岐阜「流域」主宰、松井利彦に招かれ、誓子と鵜飼を見る。鵜匠頭(かみ)の山下幹司の鵜舟に乗り、川下りすることを懇願。古来、女性が鵜舟に乗ることは堅く禁じられていたので困惑。一晩思案の後、黒装束(男装)をつける条件で許さる。上流の津保川より長良川を二里半下る』とある折りの嘱目吟と見る。]
草木瓜のさびしさ女童にも摘ます
羊の毛刈る伏眼のまつげは刈られず
高野の虹そのいのち短しとせず
夕顔のひらく白芯何秘(かく)す
あきらかに左眼に充つる青野分
夏野昃る発掘宮址ともにかげる
[やぶちゃん注:「昃る」は「かげる」と訓じていよう。前年の平城京跡での旧吟。
以上、『七曜』掲載分。]
照る蜜柑千万をもて山低し
蜜柑山我ら下りて夕焼くる
墨すれば蜂とぶ近く巣がありて
肉血にゐる家蜂を怒らさず
[やぶちゃん注:「肉血」不詳。これ、「肉皿」の誤植(原雑誌か底本かは不詳)ではあるまいか?]
いなづまを惜しみて放つ雲立てり
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]
海蝶に逢へり岩群寂しき中
蕎麦打つて生マ木砧の重たさよ
冬薊葉の斑をもつて我に触る
吾隠れて了うすや冬の千五百厳
[やぶちゃん注:これも前年末の室戸岬の吟か。]
冬遍路きぞの日遠く明日遠く
遍路下るさきに登りし道の険
[やぶちゃん注:以上、『俳句』掲載分。]
青木曽や山墓はみな村へ向く
[やぶちゃん注:本句は『文庫版「海彦」より』とある。多佳子、五十六歳。底本の同年年譜の末尾には、『十一月、心臓発作続く』とある。多佳子はこの四年前の昭和二七(一九五二)年四月に心臓に不調を訴え、診た平畑静塔から心臓ノイローゼの診断を受けている。]
昭和三十(一九五五)年
黄落を投げうつ如く惜しむが如く
枯青野たぎつ瀬碧瀬水脈走り
寒き宙羽音かさねて鳩の飛翔
寒落暉鳩舎扉開けて鳩を待つ
フィルム負ひし鳩雪嶺の何処か越ゆ
旅鏡ひらく黄落この中に
冬虹の大根や沖に沖ありて
[やぶちゃん注:ロケーション不詳。]
毛糸編む人の孤独に入りゆかず
凍らむと沼朝焼けて夕焼けて
木枯や涙は鹹(しほ)とすぐ乾き
万燈守行きて一燈づつ増やす
人の中万燈の中歩をかへす
万燈籠消ゆるを消ゆるまゝ継がず
風邪の燈の虹彩昼寝て夜覚めて
蟇に燈を洩らして母の物書く音
[やぶちゃん注:念のために注しておくが、多佳子の実母は既に昭和一七(一九四二)年十一月七日に享年八十二で亡くなっている。この母は多佳子自身であろう。因みに、この年の六月に四女美代子が結婚、あやめ池の家に多佳子と夫婦で同居を始めているが、季から見て、この句はそれよりも前である。]
狐の鼻いづこを嗅ぐも凍つる檻
[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]
沼波だちて鳰の中知らぬ鴨
蠅化粧(けは)ひあかざるを後(うしろ)より打つ
[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]
海女うかぶ刈りし若布に身を纏(ま)かれ
[やぶちゃん注:次句とともに、底本年譜に、この年の『春、清子同伴にて、志摩に二日間の旅を楽しむ』とある、その折りの嘱目吟か。]
顔老いて春の潮より海女うかぶ
恋敵をいぢめにいぢめ猫かへる
追へば油虫わが句帖の上通る
昏れて野風宮址の石の熱(ほと)びさます
[やぶちゃん注:この句、句集「海彦」の「発掘」の同吟と思われ、ロケーションは平城京跡と思われる。さすれば、「くれてのかぜ/ぐうしのいしの/ほとびさます」と読める。大方の御批判を俟つ。]
手をつきて我遊びをり緑大地
たどりつく寺高草は露乾き
匂ひ失せしをとめ滝よりつれもどる
[やぶちゃん注:底本年譜に『八月二十九日、俳句が出来ないので、津田清子に案内され、赤目の滝に吟行。滝本屋に一泊』とある折りの吟。『句集「海彦」赤目溪』を参照されたい。今まで注してこなかったが、津田清子(きよこ 大正九(一九二〇)年~平成二七(二〇一五)年)は「七曜」同人。ウィキの「津田清子」によれば、『奈良県生。奈良女子師範(現在の奈良教育大学)卒。卒業後は小学校教師として勤務。当初は前川佐美雄のもとで短歌を学んでいたが』、昭和二三(一九四八)年に多佳子指導(二年後に主宰となる)の『七曜』の『句会に出席したことをきっかけに俳句に転向。多佳子に師事し「七曜」同人となるとともに、多佳子の師である山口誓子にも師事し』、誓子の『天狼』にも投句を始め、昭和二六(一九五一)年には天狼賞を受賞、四年後の一九五五年に『天狼』同人となっている。多佳子逝去(昭和三八(一九六三)年五月二十九日)後の昭和四六(一九七一)年には『沙羅』を創刊し主宰となる。昭和六一(一九八六)年に『同誌を「圭」に改称』(二〇一二年八月号で終刊)、平成一二(二〇〇〇)年に第六句集『無方』で第三十四回蛇笏賞を受賞している。『代表句に「虹二重神も恋愛したまへり」など。多佳子の激しい叙情性と誓子の知的構成とを受け継ぎ、しばしば「硬質の叙情」と評される』とある。この時、清子は既に満三十五歳であるが、「をとめ」が清子を指すようには読める。]
嫗炊く茶屋つらぬきて滝の白
女リヤカーにまぐろの尾をどらせ
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
風邪の眼に数へて十二昂星
[やぶちゃん注:「昴星」「すばるぼし」。おうし座の散開星団プレアデス星団。おうし座は冬の星座の中でも西側に位置し、その目印の一つであるアルデバランの西に星が多く集まって見えるのが「スバル」である。ウィキの「プレアデス星団」によれば、『通常の視力の人が好条件のもとで』、六 ~七個の『星を数えることができる。大変視力が鋭い人が』二十五個もの『星を肉眼で見たとする記録が残されている』とあるから、五十六歳の多佳子、相当に目が良かった。]
人の顔近し老い見きおでんのゆげ
おでんのゆげゆらぎて虚ろ抱きけり
赤蠟をともし聖菓に焰乗る
少年のうつ鍬あそぶ大白藤
寒き眼(まなこ)吉祥天女にまたゝきて
万燈籠かりそめの歩を揃へざる
万燈籠急(せ)けば波うち佇てば瞬き
万燈をかへり見るすでに過去の燈多し
万燈を継ぐ油(ゆ)を継ぐ火を老い手にす
万燈守老いの背骨の凍(し)み如何なる
消ゆるとき遠し万燈の万のまたゝき
人の貌見むに万燈の暗さよ
侵されず風邪の衾を盾として
母子の衾界わかたず二月尽
春が来る嵐や生きて何を恋ふ
波津女夫人に
ならび見る冬虹の根の滾々と
[やぶちゃん注:「波津女夫人」山口誓子の妻。本名は梅子。昭和一三(一九三八)年の結婚後に本格的に句作を始め、『馬酔木』同人から夫の主宰する『天狼』同人となった。夫より五つ下であるから、当時、四十九歳。多佳子より七つ年下である。]
憩ふ海女身にかげろふのもゆる知らず
一本の綱若布の底の妻繫ぐ
[やぶちゃん注:正字「繫」はママ。]
若布刈舟を濡れ妻ぐるみ陸へ上ぐ
[やぶちゃん注:前記の春の志摩行の嘱目吟。]
曇天や辛夷の匂ひ地に下る
曇天に辛夷傷つき花ふれあひ
折れば曇る辛夷や母が饐膚(すえはだ)恋ひ
[やぶちゃん注:この「母」は亡き母の追懐であろう。]
曇天の辛夷萎えゆく万花もて
辛夷万来父しらず母のこゑわすれ
[やぶちゃん注:多佳子の父山谷雄司(やまたにゆうじ)は多佳子十歳の明治四二(一九〇九)年七月四日に亡くなっている。]
星合や老婦の楽寝五尺足らず
[やぶちゃん注:「星合」は「ほしあひ(ほしあい)」で陰暦七月七日の夜の牽牛星と織女星の二つの星が出逢う七夕のこと。秋の季語。「楽寝」は「らくね」でのんびりのびのびとと気楽に寝ること。「五尺」は一・五一五メートル。]
麦刈るや泣くみどり児をすぐ聴きわけ
わが殺せしげじげじおけば鶏が来る
碧揚羽刻(とき)だだ洩れに吾あるとき
[やぶちゃん注:「だだ洩れ」名詞・形容動詞「だだ漏れ」で「だだ」は程度の並外れて甚だしい意を添える接頭語、もうやたらめったら漏れ出てしまうこと、際限なく流れ去ってしまうことを指す。]
百合香吐く夜の崖下を通る者
鵜舟追ふわが舸子の意のはげしさ
[やぶちゃん注:「舸子」は「かこ」で楫取り。船を操る人。水主(かこ)。]
漁りの鵜の修羅篝高照らす
[やぶちゃん注:「すなどりの/うのしゆら(しゅら)かがり/たかてらす」であろう。]
鵜の篝どつと近づき鵜ごゑもす
立てば炎天野よりも低く宮地掘る
[やぶちゃん注:以下、先に注した平城京発掘の嘱目吟であろう。]
風化刻々発掘宮址に野のぎす鳴く
照りかへす巻尺礎石の位置のずれ
木菟まろ眼いま覚めきつて月冴えて
何見るも顔より向けて月の木菟
月光へ一と羽ばたきに木菟去りぬ
[やぶちゃん注:三句ともに赤目の滝での嘱目吟。年譜の昭和三〇(一九五五)年の条に、『八月二十九日、俳句が出来ないので、津田清子に案内され、赤目の滝に吟行。滝本屋に一泊。宿の窓にみみずくが止る。幼鳥のときに拾われ、飼われて育ち、成鳥となり山に還されたもの。しかし、腹が空くと、餌をもらいに滝本屋にもどってくる』とある。]
ゴム長にて秋刀魚の藍のなだれ堰く
[やぶちゃん注:以下、年譜に『秋、焼津漁港に行き、「七曜」の武政洋人、田中白夜らの案内で競りを見』た嘱目吟。]
藍ぶちまかれ一つ一つが秋刀魚
[やぶちゃん注:「秋刀魚」は異例として「しうたうぎよ(しゅうとうぎょ)」と音読みしているか。「あきさんま」と無理読みしても鮮烈でなければならない韻律が腰砕けとなる。]
秋刀魚競るにまかす両手無為の海人
陸も野分魚臭うばはれ海人立てり
瑞の秋刀魚なだれなだれて値をくづす
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「瑞」は「みづ(みず)」で、みずみずしいこと。]
藍の秋刀魚選つて若しや唄なくとも
秋刀魚選りゴム長の腰おろし難し
朝日赫々老醜がまぐろ競り落す
赤シャツ見せ老婆の衣紋(えもん)手に落穂
をとめ廿才(はたち)秋刀魚を選りて瞼重(お)も
風蝶も旅人も貧(ひん)秋刀魚競り場
[やぶちゃん注:「風蝶」は当初、秋の風に翻弄される弱々しい蝶のことと読んでいたが、そうした「風蝶」という語は一般的でないことが判った。さればこれは所謂「クレオメ」、フウチョウソウ目フウチョウソウ科フウチョウソウ属セイヨウフウチョウソウ(西洋風蝶艸)Cleome
hassleriana のことであろうか? 一般には初夏に独特の花を咲かせるが、ここは既に開花も終り、だから「貧」なのか? ただ、ガーデニング・サイトを見ると九月下旬まで開花するものもあるようではある。トンデモ解釈かも知れぬ。大方の御叱責を俟つ。]
丈長の稲負ひいよいよ腰曲げる
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
唐招提寺
寒雲が伽藍退く盲ひし像
[やぶちゃん注:言わずもがな、「盲ひし像」は国宝の唐招提寺鑑真和上坐像。]
枯山中戸の開くたびに赤子のこゑ
妻の猫走りて白し枯山中
還らぬ鳩よ大阪に寒き夕焼河
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]
葡萄樹下母乳とくとく子に通ひ
渦に入り渦を出られず鼻珠沙華
刈田に泣きわめき祖母の唄奪ふ
故なき不安暁みどりにわが衾
藤の枝に手懸けすがれば身が軽し
戦時にて金と見し花南瓜咲く
油虫思慮を深げに触角伏せ
寝なければ寝なければと地虫鳴く
あさがほの雙葉が掌あげ吾頰づゑ
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]
一舟に昼寝の海女と波の上
金色(こんじき)のほんだはらなほ海女深きへ
濡れ惜しまぬ海女の長髪潮いづる
光の奥冥(くら)しや雲雀落ちし天
土ふまずなしぴつたりと麦負ひ立つ
巣燕わめくいま餌を獲しはどの口ぞ
麻衣六十路(むそぢ)の影の鵜の匠(たくみ)
べたべたとぬれ鵜つかれ鵜鳴き歩き
帰燕啼きたまるこゑごゑ天狭め
石蕗(つは)の絮(わた)宙にきらきら二人遍路
[やぶちゃん注:「石蕗の絮」キク亜綱キク目キク科キク亜科ツワブキ属ツワブキ Farfugium japonicum は黄色い花で知られるが、その種子の塊はその後、タンポポ同様に綿毛を持った毬状になり、それが離脱して風に乗って飛ばされていくことはあまり知られていないように思われるので特に注しておく。底本の同年年譜に、『十二月、NHKの有本氏に招かれ、室戸岬の旅へ誓子と行く。健康を回復した誓子にとっての初めての旅。多佳子が誓子に教えを受けはじめてから三十年にもなるが、お伴して旅に出かけるのは初めてであると、しみじみ述懐』とある、旅での嘱目吟。「二人遍路」は表面上は嘱目であろうが、その実、これは誓子と多佳子の「二人遍路」を密かに含ませていると私は読む。]
冬遍路憩へるに吾何いそぐ
側に五十路(いそぢ)冬日の遍路急がずに
遍路笠の裏(うら)なつかしや冬日にぬぎ
千鳥の跡遍路も足を内輪にふみ
夕焼に眼ひらく遍路笠の裡
冬日蝶翔ちて海風おどろきぬ
ほうほうと石蕗の絮翔つ崖の宙
[やぶちゃん注:「宙」は「そら」であろう。
以上、『文庫版「海彦」より』とある。橋多佳子、五十六歳]
昭和二十九(一九五四)年
冬霧に歩みをゆるむ何いそぎゐし
寒き沖忘れむレールまたぎ帰る
[やぶちゃん注:ロケーション不詳。]
雪降るや同じ平らに氷湖凍田
[やぶちゃん注:同年一月十一日に諏訪の凍湖を見に行き、十三日の夜、初めて諏訪湖が凍った(底本年譜に拠る)。]
火の山につゞく雪野に足埋め立つ
[やぶちゃん注:前後の句から見て、この「火の山」は浅間山と推定する。年譜を見ると、一月十四日に諏訪から塩尻峠を越えて松本へ向かい、各所の俳人宅を訪問、二十日に上田、二十一日に小諸、二十二日に軽井沢の天然氷採取場に吟行しているからである。同年五月六日に清子同伴で九州旅行に出て、長崎に三泊、その帰りに『十数年ぶりに阿蘇山に登る』とはあるが、通常ならこの時期では阿蘇の残雪は消えてしまう。]
雪解天竜虹の断片遺(のこ)したり
[やぶちゃん注:前注の同年年初の諏訪行の往路吟か或いは東京発の復路(推定東海道線)での吟か。]
鳴らし売る独楽をしばらく見てゐて買ふ
猛りゐる独楽止(とど)め呉れ我が買ふ
男立つ勝鶏抱き負鶏抱き
一斉に冬鹿の耳怯え立ちぬ
髪老いし仲間羽なす楓の実
緑蔭に部屋あるごとく人隠る
藤濃き森風さわげるを惧れ入らず
百合近し崖を深笹かくしゐて
露無限身の力かけ刃もの研ぐ
わが船路南風の白浪沖にも立つ
精霊舟行方を指せる舳ありけり
いなづまなど豊かなるもの旅に欲る
師の歩みいづくへ向くも青き淡路
[やぶちゃん注:これより後の数句は、年譜の同年『七月、淡路洲本の朝倉十艸に招かれ、誓子と同行、渦潮を見る』の折りの嘱目吟と思われる。]
白雲の峰々翼はゞみをり
地上に降り夏の白雲天にかへす
渦潮を一舟日覆傾け過ぐ
かへり見る南風の門波の渦巻くを
渦の上鱚舟同士ゆれあへり
鱚釣つて八重渦潮の上をいでず
渦と渦のかゝはり南風の鳴門おもしろ
地蔵盆わが赤燭も焰(ほ)をならべ
[やぶちゃん注:「地蔵盆」ウィキの「地蔵盆」によれば、『地蔵菩薩の縁日で厳密には』毎月二十四日で『あるが、一般的には、その中で特にお盆にも近い』旧暦七月二十四日の『ものをいう。ただし、寺院に祀られている地蔵ではなく、道祖神信仰と結びついた「路傍や街角のお地蔵さん」いわゆる「辻地蔵」が対象となっている』とある。この年の旧暦七月二十四日は八月二十二日である。この地蔵盆が新旧孰れであっても(新暦で行う場所が多いが、どちらかといえば、七月ではなく、月遅れの八月二十三、二十四日の方が多いとウィキにはある。年譜上では七、八月のこの頃は自宅にいた可能性が強いので(八月は記載なく不確かではあるが、多佳子は盂蘭盆の頃に旅には出歩かぬと私は思う)、これは多佳子の自宅のある、あやめ池近くでの地蔵盆というよりお盆の嘱目吟の可能性が高いように思われる。]
をどりの衆影を屈して身をかゞめ
思ひのみ生々風邪の衾中に
夜長機(ばた)糸が切れゝば糸継ぎて
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
冬日いつぱい追はれるとき緬羊も走り
[やぶちゃん注:以下、数句については、句集「海彦」に、「牧夫――福山牧場にて」と題する以下の類型句七句が載る。
群羊帰る寒き大地を蔽ひかくし
冬野かへる群羊に牧夫ぬきん出て
群羊に押され背見せて寒き牧夫
冬草喰ひ緬羊姙りにも従順
寒き落暉群(むれ)を離るる緬羊なく
ポケットに「新潮」寒き緬羊追ひ
寒き緬羊耳たぶのみ血色して
この「福山牧場」広島県福山市にある牧場と思われ(ネット検索での固有名ではヒットしない)、底本年譜のこの前年の昭和二八(一九五三)年の十月の項に、『福山市の「七曜」支部発表会に出席』とある。この折りの句と考えて間違いなく、回想吟或いは旧吟の発表句であることが判る。]
冬日燦々緬羊の群みな姙る
夫婦・犬緬羊追ひ入れあと冬野
食ふせはし緬羊に寒き落暉のび
除夜の門(と)を閉しオリオンを野に放つ
つく毬の外(そ)れては歌のとぎれとぎれ
わが猫を誘ふ枯野に白猫ゐて
枯るゝ芦かき抱きては鎌を入る
帰るたのしさ月の霧より息白く
めつむれば雪夜の追想戦火にまで
冬旅や白昼の燈(ひ)を燈台に見て
髪洗ふ除夜のラジオの黒人霊歌
寒き湖光切なし凍てゝしまへよ
友の子の風邪の柔髪まさぐりて
桜濃し仰げば雨のひた漏りて
枯笹山跼めば隠るたはやすく
[やぶちゃん注:「跼めば」「こごめば」と訓じているか。通常の訓は「せぐくまる」。]
鶯や書けば一日うつむいて
春の畦ゆけば我ためにある如く
若布刈(めか)る男(を)の竿ゆらゆらと眼に高し
[やぶちゃん注:「若布刈(めか)る」は「若布刈」三字に「めか」のルビを振る。ロケーションは不詳。]
桜濃し老いし日輪その上に
われ去れば犬も去りたり桜の園
春苑を見て鉄柵に子がさかしま
旅もどり来ぬあぢさゐの藍と紅
[やぶちゃん注:「旅」同年中ならば、五月の九州行と思われる。]
髪洗ひ立てば蛾が来ぬわが家なる
跳び跳べる仔鹿万緑もて隠る
梅雨はげし鹿総身の雨ふるふ
毛紋かなし濡れて乾きて仔鹿の背
梅雨の川たぎつ底のみの明るさ
暁や蜘蛛のねむりを露とぢて
炎天を仰げば鉾のゆらゆらする
青炎天祇園鉾(ぎをんぼこ)来る笛きこゑ
[やぶちゃん注:「祇園鉾(ぎをんぼこ)」「ぼこ」と連濁しており、一語として用いている。但し、「祇園鉾(ぎをんぼこ)」という語自体はネット検索する限りでは、七月の京の祇園祭りの山鉾の呼称としては一般的ではないから、多佳子の造語か。]
眼前を祀園鉾過ぐ待たれしもの
鉾囃子(ばやし)近づきてすぐ過ぎゆくもの
[やぶちゃん注:「鉾囃子(ばやし)」これも連濁であるから、一語として用いている。しかし、この「鉾囃子(ほこばやし)」の方は一語として普通に使われることが、祇園祭の保存会の公式記事の中で現認出来る。]
群集に祇園囃子は高ゆくもの
みづからの鬱に抗ひ葡萄照る
裸子の片言(かたこと)雷雨の端とゞく
蜂の羽音昼寝母子像抱きあひて
雲の峰いつ蹤ききしや捨仔犬
[やぶちゃん注:「蹤ききしや」「つききしや」と訓じているものと思われる。後(あと)をついて来たのか、の意。]
月影をかさね了せず人と人
紅蓮獲て泥足つよし母まで駆け
[やぶちゃん注:「紅蓮」は「ぐれん」。紅色の蓮(はす)の花。紅蓮華(ぐれんげ)。]
夜長機(ばた)涯なく織りて涯思はず
何織らむとするや夜長の機かたかた
猟夫歩み雉子の重さの腰をゆり
白息や子守唄祖母・母より継ぐ
[やぶちゃん注:「白息」は「しらいき」謂わずもがなであるが、寒い時期に人の吐く息が白く見えることで、冬の季語。
以上、『七曜』掲載分。]
宙にまだ低き翅にて露けき鷹
黒髪のさらさらと秋いつ来てゐし
眼前を過ぐる秋河堰に激(げき)し
秋の暮一詩に執着してをれば
ゆらゆらと風の錦の枝を摑み
息若き新酒つくりよ雪止まずに
雪眩し帯緊(きつ)きことが胸を責め
雪やゝ明し人行く方に鶏鳴して
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]
冬日の顔ひとつ横向く母の顔
[やぶちゃん注:念のために注しておくが、多佳子の実母は既に昭和一七(一九四二)年十一月七日に享年八十二で亡くなっている。]
掃除婦来て霜の大地の白さ消す
鴛鴦(をし)撃たる雄の紅冠のねらはれて
[やぶちゃん注:「紅冠」「こうくわん(こうかん)」と音よみしているか。]
黄落や日の没る方(かた)に光満ち
[やぶちゃん注:「黄落」は「くわうらく(こうらく)」で木の葉が黄色に色づいて落ちること、「没る」は「いる」(入る)と訓じていよう。]
風吹くに現れては櫨の花ひそむ
[やぶちゃん注:「櫨」は「はぜ」でムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum 。花は円錐花序で五~六月頃に黄緑色の小さな花を咲かせる。]
一瞬の菜殻業火に額焼かる
[やぶちゃん注:句集「海彦」の「長崎行」に、
保養院を出づれば菜殻火盛んなり
一切忘却眼前に菜殻火燃ゆ
菜殻火の燃ゆる見て立つ久女いたむ
菜殻火の火蛾をいたみ久女いたむ
つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため
菜殻火や入日の中に焰もゆ
の句群を認める。多佳子はこの五月の九州行の長崎からの帰途、杉田久女の『終焉の地、筑紫観音寺にある九大分院、筑紫保養院に行き、久女を弔』(底本年譜)っている。これと次句は、間違いなく、その折りの句である。「橋本多佳子句集「海彦」 長崎行(Ⅰ) 久女を弔ふ」も参照されたい。]
入日野に衰ふる菜殻火烈しき菜殻火
増苑やほしいまゝなるアマリヽス
[やぶちゃん注:「増苑」不詳。拡張した花園の謂いか? 識者の御教授を乞う。中七は明らかに久女の名吟「谺して山時鳥ほしいまま」のインスパイアであるから、前二句と同じロケーションと考えられ、九大保養院での嘱目吟の可能性が高いか。]
露白光遅れ来たりて十字切る
露の玻璃神父に赤光孤児に紫光
懺悔する跣の蹠揃へ見せ
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「跣」は「はだし」(裸足)、「蹠」は「あうら」と訓じていよう。通常は「あし(の)うら」で、足の裏の意。]
ねぶたさの仔牛の肉鼻阿蘇青し
[やぶちゃん注:以下、前に注した通り、同年五月六日に清子同伴で九州旅行に出て、長崎に三泊、その帰りに『十数年ぶりに阿蘇山に登る』とある折りの句群。]
野の青さかの馬の如吾も暮れつゝか
火口暮る燕のこゑのつばらにして
夏白雲ゆれどうしなるわが翼
[やぶちゃん注:以上、『俳句』掲載分。]
雪頭巾して寝るをとめ顔あげよ
霜腫(ば)れの指折りかぞへ数へ唄
遠き群れそれへ急ぎて鴨(かも)翔ける
われ倦めば寒湖の鴨の水走る
[やぶちゃん注:この前後句は総て、前注の同年一月の諏訪湖行の句と思われる。]
雀の歩しばし寒天造りに蹤(つ)く
雪沓(ゆきぐつ)をはけば新雪切々と
袖あはす胸の隙より雪くゞる
雪の日の厚きぬりごめ糀室
[やぶちゃん注:次の句とともに同年の諏訪湖行の際、一月十三日、『降る雪の中、諏訪地酒「舞姫」の寒造りを見て、新酒の香に酔う』とある、その嘱目吟である。]
新筵(むしろ)糀が生きる息ぬくし
厠(かはや)に神小餅かさねて燈をかかぐ
わかれゆく寒湖昏(くら)きに鴨が浮く
来るを予期せし寒念仏こゑを断つ
[やぶちゃん注:「寒念仏」「かんねぶつ」と読む。狭義には、僧が立春前の寒(かん)の三十日の間、明け方に山野に出でて声高く念仏を唱えることであるが、後には在家信者も寒夜に鉦(かね)を打って念仏を唱え、家々の門前で報謝を請い歩いた。冬の季語。同年の立春は二月四日(定気法)であるから、諏訪・軽井沢行での一句と読める(旅を終えて東京へ多佳子が着いたのは年譜によれば一月二十二日である。]
涅槃(ねはん)の天暮るる鴉が羽いそぎ
月凍る千曲・犀川(さいかは)車輪にかけ
[やぶちゃん注:「犀川」『長野県内を流れる信濃川水系の一級河川。一般に、松本市島内で奈良井川を合流させて以降の下流部から長野市での千曲川との合流部までを指し、上流部は梓川(あずさがわ)と呼ばれる』(ウィキの「犀川」より)。]
旅の背をかがめる樹氷低ければ
をどり太鼓いまだしづかやばち觸れねば
[やぶちゃん注:「觸」の正字はママ。]
燈を失ひし蛾や月光を得たりけり
木の葉髪白きをまじゆ師と共に
雲の峯わが胸もばら色を消す
醜さがつよさ向日葵逆光に
うろこ雲翼あるもの追ひ追はれ
夜長機筬(をさ)の青糸はた紅糸
[やぶちゃん注:「筬」「をさ(おさ)」は織機の付属用具の一つ。竹の薄片を櫛の歯のように並べて枠をつけたもので、織物の幅と経(たて)糸を整え、杼(ひ:緯(よこ)糸を通す用具。シャトル)で打ち込まれた緯糸を押さえて、織り目の密度を決める道具。]
道相似たりまんじゆさげまどはせり
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、上五は「みち/あひ(あい)にたり」と読む。]
全身の濡れ冬鹿の雄の眼見る
[やぶちゃん注:以上、『文庫版「海彦」より』とある。多佳子、五十五歳。]
二
第一は新年の祝日で、三日間つゞく。松江では、その式が特に面白い。他所では廢れたり、またはどしどし廢れつゝある幾多の祝祭習慣が、この古い町には依然として、まだ保存されてゐるから、その際、町々は盛んに飾られ、店は閉ぢられる。注連繩又は注連飾――神話的時代から神道の尊い象徴となつてゐる藁繩――が、家々の正面に沿うて、花綵形に吊るされ、それが連接して左にも右にも、一哩も長いたゞ一本の注連繩となつて見え、藁の垂飾と、白くひらひらする御幣が附いて、眼の達する限り町の兩側に延びてゐる。日本の國旗――昇る朝日の國の表象なる大きな赤い圓盤を、白地に現はせる――が、玄關の上に翩翻する。それから同樣の國家的表象が、軒端に沿うて、或は街路や神社の廣小路を橫切つて、列を作つて吊るされた無數の提燈の紙面にも輝いてゐる。それから、あらゆる門や戶口の前に門松が立ててある。だから一切の街道はずらりと綠の色が並んで、また花やかな色に滿ちてゐる。
門松はその名の示す以上のものを有してゐる。それは一本の若い松、或は松の一部分に、梅の枝と笹が結付けてある。松、竹、梅、は象徴的意義の生長である。昔は松のみ用ひられたが、應永年間から竹が加へられ、また更に後になつてから梅が加へられたのだ。
註。門松について佛敎の諺がある
――門松や冥途の旅の一里塚。
門松についてには多くの意味がある。しかし最も一般に承認せられる目出度い意味は、逆境に際し、忍耐して、元氣よく押通すといふのだ。他の樹木の葉が凋落するのに、松ばかりは綠の色を變へない如く、眞正の男兒は困難に當つても、勇氣と力を失はない。松はまた私が他の章で述べた通り、老齡猶ほ元氣旺盛なることの象徴となつてゐる。
いかなる歐洲人も恐らくは竹の謎を推側し得ないだらう。それは一種の洒落を象徴する。節(せつ)と發音する漢字に、二つの意味があつて、一つは竹の節を意味し、他の一つは德、忠實、不變を意味する。だから竹は慶瑞として用ひられる。『節』といふ名は、屢〻日本の少女に與ヘられてゐるのを注意するがよい――丁度フエース(信仰)、フヰデイーリア(忠實)及びコンスタンス(不變)といふ名が、英國の娘に與へられる如く。
梅――その象徴的意味について、私は既に日本の庭園に關する章で幾分述べてゐる――は、必しも用ひるとは定つてゐない。時としては神道の尊い表象の榊が代用される。また 時としては、ただ松と竹ばかりで門松を作ることもある。
新年の祝日に用ひらる〻すべての飾りは、珍しい、奇異なる種類の意味を有する。して、すべての中で最も普通なもの――注連繩――さへ、最も複雜なる象徴を有する。第一にその起原は古事記に載つてゐる如く、大陽の女神が、一旦隱れた窟から出るやうに誘はれ、それからまたそこへ歸らうとするのを、或る神が入口に藁の繩を張つて禦いだといふ、最も古い傳說によるのは、說明するにも及ぶまい。第二に注意すべきは、注連繩の厚さは何うであらうとも、その捻り方は左に向はねばならぬといふことだ。その譯は、古の日本の哲學では、左が淸い側、卽ち吉の側となつてゐるからだ。多分歐洲の無學階級に於て今日に至るまで猶ほ普通となつてゐる信仰、卽ち心臟は左方に存するといふ古い信仰に基くのだらう。第三に注意すべきは、緣飾材料の如く總(ふさ)をなして、一定の間隔を置いて繩から垂れてゐる藁は、その總の位置に隨つて數が異らねばならぬといふことだ。それは三本といふ數から始まつてゐる。だから、第一番目の總は三本の藁、第二番は五本、第三は七本、第四はまた三本、第五は五本、第六は七本といふ風に、繩の全長を通じて數が變化して行く。藁の總と交互に垂れてゐる御幣の起原も、また太陽の女神の傳說中に求められねばならぬ。が、御幣はまた太古、神々に捧げた布帛を表はしてゐる布を献ずる習慣は夙に癈れたのである。
しかし御幣の外に、まだ讀者が意味を想像し得ないやうな幾多のものが附いてゐる。その中に、羊齒の葉、橙、ゆづり葉、小さな炭の束(たば)などがある。
何故羊齒の葉(もろもき又は裏白(うらじろ))を附ける? その譯は、羊齒は子孫繁殖の象徴だから。その技が分かれて、更にまた枝が出る如く、家族か榮え、子孫が增加して行く。
橙(だいだい)はどういふ譯? それは『代々(だいだい)』といふ漢字があるので、橙は吉兆の果實となつたのだ。
しかし炭はどういふ譯? それは繁昌の不變を示す。この觀念は全く珍異だ。炭の色を變へることは出來ない如く、我々の愛する人々の幸運も、一切永久不變でありたい! ゆづり葉の意味は、前章に說明して置いた。
家の前の大きな注連繩の外に、室々の床の上にも、注連繩や注連飾が吊るしてある。それから、後門の上や、二階の廊下の入口の上(もし二階があれば)には輪注連(わじめ)【註二】が懸けてある。それは極小さい注連繩を捻つて、一種の花輪形にしたものに、羊齒、御幣、ゆづり葉が飾り附けてある。
註二。注連繩と注連飾の差異は、後
者は專ら裝飾的で、藁繩に諸種の珍
しい物が結付けてあることだ。
しかし祝日の大なる家庭的裝飾は、神棚の裝飾だ。一家々に祀る小さな宮の前に、二枚の大きな餅を据ゑる。して、宮は花や、小さな注連飾や、榊の枝で美々しくする。また貨幣を一本の絲に繫いだものや、蕪菁や、大根や、魚類の王なる鯛や、烏賊(するめ)や、神馬草(じんばさう)【註三】も献げられる。またその名が欣(よろこ)ぶと同音だと考へられてゐるため、愉快欣喜の象徴である海草の昆布(こんぶ)や、餅と藁で作つた造花の餅花(もちばな)もある。
註三。これは馬尾藻科に屬し、氣胞
を澤山有する。食用海草のさまざま
の種類が、日本人の食料の可なりの
部分を占める。
三寶は奇形の小さな臺で、其上に神々への供物を載せる。出雲の殆どあらゆる裕福な家には、自家用の三寶を有つてゐる――しかしかやうな家庭用の三寶は神社に用ひられるのよりは小さい。お正月が到來すると、橙、米、餅、鰯、力祝餅、黑豆、勝栗、それから立派な海老が、すべて體裁よく家庭用の三寶に並べられる。客が來る每に、その前へ三寶を据ゑる。すると、客はそれに向つてお辭儀をする。彼はそれによつて、たゞに三寶の上に盛られた品々によつて表さる〻一切の幸運が、その家に來るのを心から願ふといふことを示すのみでなく、更にまたその家に祀つてある神々に敬意を表はす。黑豆は身體の力と健康を意味する。何となれば、豆といふ字と字形は異つても、健康といふ文字も同じく『まめ』と發音するからだ。しかし何故に海老を用ひるか? こゝにまた珍しい觀念が存する。海老の胴體は二重に曲つてゐる。非常に高齡まて生きながらへる人の身體もまた曲がる。だから海老は非常なる高齡の象徴になる。して、藝術的意匠に於ては、私共の知人が海老の如く腰が曲がるまで――歲月の重荷の下に――永く生きるやうにと願ふ意味である。また勝栗はその名の第一の文字は勝利、征服を意味するから、成功の象徴である。
お正月の祝節に伴ふ奇異な習慣や象徴が、少くとも他に百もある。それを叙述するには一卷の大册を要するだらう。私は不注意な觀察にさへも、すぐ氣付くやうなもの僅かばかりを擧げたのに過ぎない。
[やぶちゃん注:「注連繩又は注連飾」既に「第十七章 家の內の宮(五)」で「注連繩」(しめなは(しめなわ))は注しておいた。「注連飾」(しめかざり)もそこでの引用に『注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持』つ、と出る。
「花綵」既出既注であるが、再掲しておく。「はなづな」或いは音で「カサイ」と読む。植物の花・実・葉などを綱状に編んだ飾り。或いは、それを模して造った陶器や建築などの装飾を指す。懸け花装飾のこと。
「門松」ウィキの「門松」から引く。『松飾りとも言う。古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある』。『神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていった。能舞台には背景として必ず描かれており(松羽目・まつばめ)、日本の文化を象徴する樹木ともなっている』。『また、地域の言い伝えにより松を使わない所もある』。『新年に松を家に持ち帰る習慣は平安時代に始まり、室町時代に現在のように玄関の飾りとする様式が決まったと言われる』。『現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。もと、平安の貴族達が好んだ小松引きと言う行事で持ち帰った「子』(ね)『の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣から変遷したもので、現在も関西の旧家などでは、「根引きの松」という玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松(松の折枝は略式)が飾られる』(下線やぶちゃん。ここに出る「小松引き」とは「子の日遊び」のことで、正月初子(はつね)の日に催された奈良・平安貴族の遊宴行事の一つ。「福島美術館」公式サイト内の「福島美術館通信」の第四十号の「陳列作品紹介」の江戸後期土佐光孚(みつざね)筆「子の日遊び図」の解説によれば、発生時期は不詳であるが、「文徳実録」天安元(七五七)年の記事に既に出るとし、『この日山に登り遠く四方を望めば、邪気を祓い憂悩を除くとする中国の習俗に拠るとされて』おり、『日本での行事の内容には「小松引き」と「若菜摘み」とがあり、平安の貴族たちは正月のはじめの子(ネ)の日に、北野や船岡山など郊外の野辺に出かけ、自然の生命力といわれる小松を根ごと掘りとってきて千代(チヨ)を祝い、摘み取った若菜を料理の食材に加え皆で長寿を祝い、和歌を詠むという宴を催し』たとある。なお、次注も参照のこと)。『竹の先端部の形状は、斜めに切った「そぎ」と、真横に切った「寸胴(ずんどう)」の二種類がある。「そぎ」は徳川家康が始めたもので、徳川家康の生涯唯一の敗北として知られる「三方ヶ原の戦い」』(元亀三(一五七二)年)『のあと、対戦相手の武田信玄に対して、次は斬るぞという念を込めたのが始まりという説がある。江戸期の門松は現在と異なり、松の先を切らずに地面からそのまま家屋の二階屋根まで届くような高さのものが飾られていた』。『仙台藩の武家では、松の枝を括り付けた高さ』三メートル程の『クリの木を門の両脇に立て、その間に竹を渡してしめ縄と藁の飾りをかけるという物だった』。『地方により門松の様式に差がある。関東では、『』3本組の竹を中心に、周囲に短めの若松を配置し、下部をわらで巻くという形態が多い。関西では』三本組の『竹を中心に、前面に葉牡丹(紅白)後方に長めの若松を添え、下部を竹で巻く。豪華になると梅老木や南天、熊笹やユズリハなどを添える』。『「逆さ門松」とも言われる、松を下向きに飾る門松のほか、松を使用しない門松が、東京都府中市の大國魂神社』・神戸市生田神社・千葉県市原市の姉埼神社などにある、とある。以下、「設置期間」の項。古式では、前年の十二月十三日『(もしくはその後)に、山から松の木(枝)を取ってくる「松迎え」をおこな』い、『この「松」により、山から歳神様(歳徳神)を迎え入れる事となる』。門松の設置は、広義の(「広義の」は私が入れた。通常、狭義の「松の内」と言う語は元旦を開始日とする)「松の内」に入る十二月十三日以降『ならばいつでも良い。ただし、クリスマスは避けて設置される傾向にあり』、他に十二月二十九日に『飾るのは「二重苦」、さらに九の末日でもあるので『「苦待つ」に通じるとされ、「苦松」といって忌む』。また十二月三十一日に『飾るのは「一夜飾り」「一日飾り」といって神をおろそかにするということから、それぞれ避けることとされている』。「松の内」の一月十五日まで『飾るのが伝統であるが、関東の一部などでは松の内を』一月七日まで『短縮しており、その場合は』六日の夕方や翌七日に『片づける場合が多』く、『左義長が行われる地域は、左義長で門松を焼くので、それに合わせて仕舞う。左義長は』一月十五日の『小正月が多いが、地域や神社によって異なる』。私は生まれて今日に至る五十八年の間、一度もこのような門松を立てたことがないので、かく引用させて戴いた。
「應永年間」ユリウス暦一三九四年から一四二七年まで。室町時代。日本の元号の中では三十五年という「昭和」(六十四年)・「明治」(四十五年)に次いで、三番目の長さを持ち、一世一元制導入以前では最長。特に応永十年から二十二年の間は戦乱などが途絶え、「応永の平和」と称された(主にウィキの「応永」に拠る)。前注も参照(下線部)のこと。
「門松について佛敎の諺がある――門松や冥途の旅の一里塚」原文は初句が「門松」で切れ字の「や」はない。「冥途」とあるから「佛敎の諺」と言われれば、そうでないとは言えぬ。この句(和歌、或いは、狂歌の上句とも考え得べきもの)については、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の管理番号都立図事-2004001191の東京都立中央図書館の事例『一休さん(一休宗純)の歌「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」はこれで正しいか。この歌は骸骨の付いた杖をつきながら詠んだものらしい』がよく纏まっている。そこでは、以下の原型和歌のヴァリエーションを確認出来る(「塚」は「塚」に代えた)。
門松は冥途の旅の一里塚馬駕籠もなく泊まり屋(や)もなし
正月は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
元日や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
そして、鈴木一雄編「日本名句辞典」(一九八八年大修館書店)には、この上句部分を独立させた、「門松は冥途の旅の一里塚」を「諺」としており、その解説には、『「『一休咄』等の咄本では、『門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし』という歌の形で出ており、一休禅師の作と伝えるが、真偽は不明である。」とあ』る、と記す。
「松はまた私が他の章で述べた通り、老齡猶ほ元氣旺盛なることの象徴となつてゐる」「第十六章 日本の庭(五)」の第一段落末に、「松はこの表象の國では表象の木である。永久に綠で居るから、同時に不撓不屈の目的と、强壯な老齡との徽號である。そしてその針の恰好した葉は、惡鬼を追ひ拂ふ力があると信ぜられて居る」とある。
「梅――その象徴的意味について、私は既に日本の庭園に關する章で幾分述べてゐる」やはり、「第十六章 日本の庭(五)」 に、「梅の花は美に於て、確かに櫻の花の敵手であるのに、日本人は婦人の美をば――肉體美をば――櫻の花に較(たと)へて、決して梅の花には較へぬ。然しまた、之に反して、婦人の貞節と深切とは梅の花に例へて、決して櫻の花には例(たと)へぬ。或る著者が斷言したやうに、日本人は女を木や花に例へることを考へぬと斷言するのは大なる誤である。優しさには、少女はほつそりした柳に、若盛りの色香には、花の盛りの櫻に、心の麗はしさには、花の咲いて居る梅の木に例へられて居る」(下線やぶちゃん)であって、期待するほどの記載ではない。
「その起原は古事記に載つてゐる如く、大陽の女神が、一旦隱れた窟」(いはや)「から出るやうに誘はれ、それからまたそこへ歸らうとするのを、或る神が入口に藁の繩を張つて禦いだといふ、最も古い傳說による」「古事記」の「天の岩戶」のシークエンスで、「天の宇受賣(うずめ)命」のストリップ・ダンスにウケまくる神々のさまに、うっかり岩戸を開けて出てしまった天照大神を、『その隱り立てる天手力男(たぢからのを)の神、その御手(みて)を取りて引き出だしまつりき。すなはち布刀玉(ふとだまの)命、尻久米繩(しりくめなは)をその御後方(みしへ)に控(ひ)き度(わた)して白(まを)さく、「ここより內にな還り入りたまひそ。」とまをしき』とある、「尻久米繩」のことであろう。これは、「端を編んだまま、切らずに戻すようにして、綯(な)った繩目に挟み込むこと」が原義と思われ、ここでは、出入りを禁ずる呪力を持つものとして渡されている。
「その捻」(ひね)「り方は左に向はねばならぬ」「その譯は、古の日本の哲學では、左が淸い側、即ち吉の側となつてゐるからだ」ウィキの「注連縄」には、『縄を綯(な)う=「編む」向きにより、左綯え(ひだりなえ)と右綯えの二通りがある。左綯えは時計回りに綯い、右綯えは逆で、藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて糸の象形を作る』。『左綯えは、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある』。『大きなしめ縄は、細い縄を反時計回り(又は逆)にまわしながらしめ、それを時計回り(又は逆)に一緒にしていく』とあるから、ハーンの述べるように絶対的なものでは、実は、ない。但し、前注の天照大神の岩戸への再侵入を抑えた出入禁忌の「尻久米繩」は左綯えの左繩とはされる。
「多分歐洲の無學階級に於て今日に至るまて猶ほ普通となつてゐる信仰、卽ち心臟は左方に存するといふ古い信仰に基くのだらう」この古い下層階級の信仰自体を知らないので云々することは出来ないが、私の知見では、少なくともキリスト教では、右が神を、左が悪魔を象徴し、家に入る際には右足から入り、誤って左足から入ってしまった際には不吉なので戻って入り直す、という話を幼い頃に親しいシスターから聴いた記憶がある。このハーンの謂いが逆なのは(心臓位置という根拠は根拠として)、却って、これが非キリスト教的なるもの、ケルト等の古信仰の残滓であるとも考えられようか。
「緣飾材料の如く總(ふさ)をなして、一定の間隔を置いて繩から垂れてゐる藁は、その總の位置に隨つて數が異らねばならぬといふことだ。それは三本といふ數から始まつてゐる。だから、第一番目の總は三本の藁、第二番は五本、第三は七本、第四はまた三本、第五は五本、第六は七本といふ風に、繩の全長を通じて數が變化して行く」これについては個人サイト(と思われる)「注連縄(しめなわ)の豆知識」に詳しいので参照されたい。因みに、そこに引かれた「神祇辞典」(大正一三(一九二四)年東方出版刊)の注連繩についての解説中には(恣意的に漢字を正字化し、読点を加えて空欄を詰めた)、『七は天神七代の形、五は地神五代、三は三貴子に象ると云ひ、七五三は倂せて十五也、天道は十五にして成る也、など言へるもあれど、神道名目類聚抄に、或說曰、繩は正直の儀、端を出すは質素の體なり』、『七五三等の數の事は、後人の附會なりと云へるを信ずべしとなす』とある。
「御幣の起原も、また太陽の女神の傳說中に求められねばならぬ。が、御幣はまた太古、神々に捧げた布帛を表はしてゐる布を献ずる習慣は夙に癈れたのである」「御幣」はやはり、既に「第十七章 家の內の宮(五)」で注した。そこでの引用にも『かつて、神に布帛を奉る時には木に挟んで供えていたが、それが変化したのが今日の御幣である』とある。
「羊齒の葉(もろもき又は裏白(うらじろ))」既注。「もろもき」は松江方言。奥野栄氏主宰のサイト「出雲弁の泉」のこちらを参照されたい。「もろもき」は恐らくウラジロの別名である「モロムキ」の転訛と思われ、これは「諸向」で、個人サイトと思しい「山野草の仮画像リスト」の「ウラジロ」には、『正月の飾りに広く用いられているが、ウラジロの方言モロムキが縁起をかつぐきっかけになったのではないか。葉柄の先端に左右同じ葉が向き合って出るのを、夫婦が仲むつまじく向き合っているのにたとえたというのである。また、モロムキは長崎の方言の諸向きで、風が吹くと、あちこち向きが変わるが、元は離れない。つらいことがあっても夫婦は離れないものだ ということからきているとされている』とある。
「橙(だいだい)」ムクロジ目ミカン科ミカン属ダイダイ Citrus aurantium。
「ゆづり葉の意味は、前章に說明して置いた」ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum 。「第十六章 日本の庭(四)」に「後から生えるその新葉が充分に發育しないうちは、古葉は一枚も決して落ちぬから、緣起の好い木だとされて居る。といふのは、斯くしてユヅリハは、その息子が一家の長として、後を嗣ぐことが充分出來る程に強壯な成人にならないうちに、父が亡くならないやうにとの希望を象徴して居るからである。だから毎正月、讓葉の葉をば羊齒の葉と交へて、その時出雲の何處の家の前にも吊るすシメナハに着ける。」とある。
「輪注連(わじめ)」「極小さい注連繩を捻つて、一種の花輪形にしたものに、羊齒、御幣、ゆづり葉が飾り附けてある」「注連繩と注連飾の差異は、後者は專ら裝飾的で、藁繩に諸種の珍しい物が結付けてあることだ」ウィキの「注連縄」の「注連飾り」の項には、『本来の意義は、各家庭が正月に迎える年神を祀るための依り代とするものである。現在でも注連飾りを玄関に飾る民家が多く見られる。形状は、神社等で飾られる注連縄の小型版に装飾を加えたもので、注連縄に、邪気を払い神域を示す紙垂をはじめ、子孫の連続を象徴するダイダイの実やユズリハの葉、誠実・清廉潔白を象徴するウラジロの葉などのほか、東京を中心にエビの頭部(のレプリカ)などが添付されることが多い』。この「注連飾り」とは『別に、東日本を中心に、長さ』数十センチメートルほどの『細い注連縄を、直径』数センチメートル程度の『輪形に結わえて、両端を垂らした簡易型の注連縄が広く見られる。これは京言葉で「ちょろ」、東京方言などで「輪飾り」、東海地方などで「輪締め」などと呼ばれている。近畿地方では台所の神の前に飾る程度だが、東日本では、門松に掛ける(東京周辺など)、玄関先に掛ける、鏡餅に掛けるなど、非常に広く用いられる。一般家庭では、本来の注連縄の代用とされる場合も多い』とある(下線やぶちゃん)。
「蕪菁」「かぶ」或いは「かぶら」と訓じていよう。
「神馬草(じんばさう)」「馬尾藻科に屬し、氣胞を澤山有する」不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum(及び同属の近縁種を含む。というより、既に述べたが、種としての狭義の「ホンダワラ」は、日本沿岸では分布が稀れであるから、ホンダワラ属で留めておく方が正しい)の別名。この異名は一説に、神功皇后が率いていた神馬に食べさせた海藻であることに因むとも言われる。神馬草(陣馬草・銀葉草・馬尾藻・ギバサ等々、異名、豊か!)大好き(美味い!)の海藻フリークの私としては、エンドレスで語りたくなるところだが、ここで堪えて終りとしよう。]
Ⅱ.
The first is the Festival of the New Year, which lasts for three days. In Matsue its celebration is particularly interesting, as the old city still preserves many matsuri customs which have either become, or are rapidly becoming, obsolete elsewhere. The streets are then profusely decorated, and all shops are closed. Shimenawa or shimekazari,—the straw ropes which have been sacred symbols of Shinto from the mythical age,— are festooned along the façades of the dwellings, and so inter-joined that you see to right or left what seems but a single mile-long shimenawa, with its straw pendents and white fluttering paper gohei, extending along either side of the street as far as the eye can reach. Japanese flags — bearing on a white ground the great crimson disk which is the emblem of the Land of the Rising Sun — flutter above the gateways; and the same national emblem glows upon countless paper lanterns strung in rows along the eaves or across the streets and temple avenues. And before every gate or doorway a kadomatsu (gate pine-tree) has been erected. So that all the ways are lined with green, and full of bright colour.
The kadomatsu is more than its name implies. It is a young pine, or part of a pine, conjoined with plum branches and bamboo cuttings. [2] Pine, plum, and bamboo are growths of emblematic significance. Anciently the pine alone was used; but from the era of O-ei, the bamboo was added; and within more recent times the plum-tree.
The pine has many meanings. But the fortunate one most generally accepted is that of endurance and successful energy in time of misfortune. As the pine keeps its green leaves when other trees lose their foliage, so the true man keeps his courage and his strength in adversity. The pine is also, as I have said elsewhere, a symbol of vigorous old age.
No European could possibly guess the riddle of the bamboo. It represents a sort of pun in symbolism. There are two Chinese characters both pronounced setsu,— one signifying the node or joint of the bamboo, and the other virtue, fidelity, constancy. Therefore is the bamboo used as a felicitous sign. The name Setsu, be it observed, is often given to Japanese maidens,— just as the names Faith, Fidelia, and Constance are given to English girls.
The plum-tree — of whose emblematic meaning I said something in a former paper about Japanese gardens — is not invariably used, however; sometimes sakaki, the sacred plant of Shinto, is substituted for it; and sometimes only pine and bamboo form the kadomatsu.
Every decoration used upon the New Years festival has a meaning of a curious and unfamiliar kind; and the very cornmonest of all — the straw rope — possesses the most complicated symbolism. In the first place it is scarcely necessary to explain that its origin belongs to that most ancient legend of the Sun-Goddess being tempted to issue from the cavern into which she had retired, and being prevented from returning thereunto by a deity who stretched a rope of straw across the entrance,— all of which is written in the Kojiki. Next observe that, although the shimenawa may be of any thickness, it must be twisted so that the direction of the twist is to the left; for in ancient Japanese philosophy the left is the pure or fortunate side: owing perhaps to the old belief, common among the uneducated of Europe to this day, that the heart lies to the left. Thirdly, note that the pendent straws, which hang down from the rope at regular intervals, in tufts, like fringing, must be of different numbers according to the place of the tufts, beginning with the number three: so that the first tuft has three straws, the second
live, the third seven, the fourth again three, the fifth five, and the sixth seven,— and so on, the whole length of the rope. The origin of the pendent paper cuttings (gohei), which alternate with the straw tufts, is likewise to be sought in the legend of the Sun-Goddess; but the gohei also represent offerings of cloth anciently made to the gods according to a custom long obsolete.
But besides the gohei, there are many other things attached to the shimenawa of which you could not imagine the signification. Among these are fern-leaves, bitter oranges, yuzuri-leaves, and little bundles of charcoal.
Why fern-leaves (moromoki or urajirō)? Because the fern-leaf is the symbol of the hope of exuberant posterity: even as it branches and branches so may the happy family increase and multiply through the generations.
Why bitter oranges (daidai)? Because there is a Chinese word daidai signifying from generation unto generation. Wherefore the fruit called daidai has become a
fruit of good omen.
But why charcoal (sumi)? It signifies prosperous changelessness. Here the idea is decidedly curious. Even as the colour of charcoal cannot be changed, so may the fortunes of those we love remain for ever unchanged In all that gives happiness! The signification of the yuzuri-leaf I explained in a former paper.
Besides the great shimenawa in front of the house, shimenawa or shimekazari [3] are suspended above the toko, or alcoves, in each apartment; and over the back gate, or over the entrance to the gallery of the second story (if there be a second story), is hung a wajime, which is a very small shimekazari twisted into a sort of wreath, and decorated with fern-leaves, gohei, and yuzuri-leaves.
But the great domestic display of the festival is the decoration of the kamidana,— the shelf of the Gods. Before the household miya are placed great double rice
cakes; and the shrine is beautiful with flowers, a tiny shimekazari, and sprays of sakaki. There also are placed a string of cash; kabu (turnips); daikon (radishes); a tai-fish, which is the king of fishes, dried slices of salt cuttlefish; jinbaso, of the Seaweed of the horse of the God; [4] also the seaweed kombu, which is a symbol of pleasure and of joy, because its name is deemed to be a homonym for gladness; and mochibana, artificial blossoms formed of rice flour and straw.
The sambō is a curiously shaped little table on which offer-ings are made to the Shintō gods; and almost every well-to-do household in hzumo has its own sambō—such a family sambō being smaller, however, than sambō used in the temples. At the advent of the New Years Festival, bitter oranges, rice, and rice-flour cakes, native sardines (iwashi), chikara-iwai (strength-rice-bread), black peas, dried chestnuts, and a fine lobster, are all tastefully arranged upon the family sambō. Before each visitor the sambō is set; and the visitor, by saluting it with a prostration, expresses not only his heartfelt wish that all the good- fortune symbolised by the objects upon the sambo may come to the family, but also his reverence for the household gods. The black peas (mame) signify bodily strength and health, because a word similarly pronounced, though written with a different ideograph, means robust. But why a lobster? Here we have another curious conception. The lobsters body is bent double: the body of the man who lives to a very great old age is also bent. Thus the Lobster stands for a symbol of extreme old age; and in artistic design signifies the wish that our friends may live so long that they will become bent like lobsters,— under the weight of years. And the dried chestnut (kachiguri) are emblems of success, because the first character of their name in Japanese is the homonym of kachi, which means victory, conquest.
There are at least a hundred other singular customs and emblems belonging to the New Years Festival which would require a large volume to describe. I have mentioned only a few which immediately appear to even casual observation.
2
There is a Buddhist saying about the kadomatsu:―
Kadomatsu
Meido no tabi no
Ichi-ri-zuka.
The meaning is that each kadomatsu is a milestone on the journey to the Meido; or, in other words, that each New Years festival signal only the completion of another stage of the ceaseless journey to death.
3
The difference between the shimenawa and shimekazari is that the latter is a strictly decorative straw rope, to which many curious emblems are attached.
4
It belongs to the sargassum family, and is full of air sacs. Various kinds of edible seaweed form a considerable proportion of Japanese diet.
第二十章 二つの珍しい祭日
一
日本のお祭の外觀的象徴は、始めてそれを見る外人に取つては、最も不可解の謎である。それは數も多く、種類もまた多い。西洋に於ける祝祭休日の裝飾に關するいかなる物とも全然異つてゐる。それは一つ一つ或る信仰、または或る傳說に基いた意義を有する――その意義は日本のどんな子供にも知られてゐるが、外人に取つては臆測を加へることさへも不可能だ。しかし苟も日本の民衆の生活と感情について幾らか知らうと欲する者は、少くとも祭禮の象徴の中に就いて、最も普通なものの意味を學ばねばならない。特にかゝる知識は日本美術の硏究者に取つて必要である。その知識がなくては、只單に無數の意匠の陰微纎細なる氣分と妙味に氣が付かないばかりでなく、また多くの場合に於て、意匠そのものが不可解で了はるに相違ない。數百年間、祭禮の象徴は日本人によつて、さまざまの優美なる裝飾手段に利用されて、金屬細工に、陶器に、朱塗りや墨塗りの漆器などの、最も卑近なる家具に、小さな眞鍮の煙管に、煙草入れ袋の止(と)め金(がね)など、種々の物の上に現はれてゐる。普通の裝飾的意匠の多數は、象徴的だといふことさへも出來るだらう。意味が最も明白と思はれる形象――西洋の骨董購求者が最もよく知つてゐる、かの動植物の匹儔なき習作――さへ、或る倫理的意義を有すのが常であるが、それは少しも認められてゐない。または下等な宿屋の紙障の上に、一氣呵成で揮毫された極めて普通の意匠――一匹の海老――松の枝――水の渦卷いた中を、よたよた步いてゐる龜――二對の鶴――竹の細枝を――取つて見るがよい。漫遊の外人は、何故にかやうな意匠が用ひられて、他の意匠を用ひてないかを質問しようと考へることも稀れだ――假令彼の旅行中に於て、それらの意匠が左ほど變更も加へないで、二十個所までも繰返されてあるのを見た場合にも、怪まない。それらの意匠が因襲的となつたのは、全く或る意義の象徴だからである。幾ら無學の日本人でも、その意義を知つてゐるが、外人は毫もそれに氣が付かない。
註。西洋のある一派の俗物や、自分
免許の藝術批評家の間では、日本美
術が『眞に逼つてゐる』といふこと
に關して熱心に唱道すると、その文
士を冷笑する風になつてゐるから、
私はこゝに、この動植物の形の作品
について、英國の最も有名な、現存
せる博物學者の言葉を引用してもよ
からう。ウオラス氏の權威は、こゝ
に指せる俗物連中によつてさへも、
鼎の輕重を問はれることはあるま
い――
『モーナイク博士は或る日本人によ
つて描れた、日本の植物の彩色畫を、
澤山蒐集して持つてゐる。それは私
の從來見た中では最も卓越せるもの
である。一莖、一枝、一葉、悉く一
と筆で成つて、頗る複雜せる植物の
特徴及び配景は天晴れよく現はされ、
また莖及び葉の關節は極めて科學的
樣式に示されてゐる』(ウオラス氏
著、『馬來群島』第二十章)
これは一八五七年に書かれたので、
日本へまだ西洋畫の輸入されない頃
だ。この一と筆で葉などを描くとい
ふ技巧に依然として日本では普通で
ある――最も平凡な裝飾師の間に於
てさへ。
この問題については、一個の百科全書が書けるほどであるが、私の知る處は甚だ僅かで、特別な一論文にも足りない。しかし說明のために、私は敢て今猶ほ日本のすべての地方で守られる、二つの古い祝日に、陳列される珍しい品々について語らう。
[やぶちゃん注:「二つの珍しい祭日」「今猶ほ日本のすべての地方で守られる、二つの古い祝日」以下、本章で語られるのは、「新年」と「節分」の祝いである。
「朱塗りや墨塗りの漆器」ウィキの「漆」には、『塗料としての漆の伝統的な色は黒と朱であり、黒は酸化鉄粉や煤、朱漆には弁柄や辰砂などが顔料として用いられる。黒漆と朱漆を用いて塗り分けることも行われる。昭和以後は酸化チタン系顔料(レーキ顔料)』(水溶性を有する有色物質を電離させて担体としての金属イオンと電気的に結合させた人工顔料)『の登場により、赤と黒以外の色もかなり自由に出せるようになった』とある。
「匹儔」「ひつちう(ひっちゅう)」と読む。「匹敵」に同じい。「儔」は訓「とも」「ともがら」で輩・仲間・同類の意である。
「ウオラス氏」イギリスの博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。ウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」より引く。『アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のために』、重要な貢献をした十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともな』り、また、『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は『マレー諸島』として出版され』、これは十九世紀の科学探検書としては、最も『影響力と人気がある一冊』であった、とある。ダーウィンの蔭に隠れて正当な評価が未だになされていない非常に優れた博物学者である。
「鼎の輕重を問はれる」「かなへ(かなえ)のけいちやう(けいちょう)をとはれる」と読む。「主導者・統治者を軽んじて、これを滅ぼし、天下を取ろうとする。権威ある人の能力や力量を疑ってその地位から落とそうとする。」ことを指す。楚の荘王が周を軽んじて周室に伝わる宝器である九鼎(きゅうてい)の大小軽重を無礼にも問うた、という「春秋左氏傳」の「宣公三年」の記事による故事成句。
「モーナイク博士」日本に牛痘苗を齎して日本の天然痘の予防に貢献したドイツ人医師オットー・ゴットリープ・モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike 一八一四年~一八八七年)であろう。以下、ウィキの「オットー・ゴットリープ・モーニッケ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『シュトラールズントに生まれた。文献学を学んだが、父の友人エルンスト・モーリッツの影響で医学に転じた。各地の大学で医学を学び、シュトラールズントの父の屋敷で医者を開業した。一八四四年にオランダ領東インドのジャワに派遣され、一八四八年から一八五一年』(弘化五・嘉永元年から嘉永四年)『まで長崎の出島で働いた。佐賀藩主鍋島閑叟がオランダ商館長に牛痘苗のとりよせを求めたので、来朝時に痘苗を持参したが、接種しても感染せず、再度バタヴィアから痘痂を取り寄せ、一八四八年七月に鍋島藩医の楢林宗建の息子に接種、善感し、この痘苗は日本の各地へ受け継がれていくこととなった。閑叟の息子の淳一郎(後の藩主直大)も接種をうけた。それまで日本への牛痘苗の輸送は、航海中に効力が失われ失敗していたが、この成功によって牛痘法は日本に広まっていった。モーニッケは日本に初めて聴診器を持ってきたことでも知られる』。一八六九年に『退職し、家族とともにボンに住んだ。ジャワ、スマトラ、セレベス島、モルッカ諸島の博物学の著書もある。モーニッケの墓は日本の医学史学会の協力で復元された』とある。但し、ジェンナーの牛痘法よりも六年も早く、福岡藩の支藩秋月藩の藩医緒方春朔(おがたしゅんさく 寛延元(一七四八)年~文化七(一八一〇)年)が寛政二(一七九〇)年に独自の種痘を行っていることはあまり知られていないので特に附記しておく(但し、これは天然痘患者の瘡蓋の粉末を接種する方法であった)。
「ウオラス氏著、『馬來群島』第二十章」「これは一八五七年に書かれた」“The Malay Archipelago”(マレー諸島)であるが、これは一八六九(明治二年相当)年の刊行で、ハーンの言う「一八五七年(安政四年相当)に書かれた」となると、“On the Natural History of the Aru Islands”(アルー諸島の自然史について)という論文である。アルー諸島は現在のインドネシア東部マルク州にある九十五の島々からなる島嶼群である。疑問として挙げておく。
「日本へまだ西洋畫の輸入されない頃だ」安政四年(前注参照)としても、「本格的広範伝来には」という条件附きで、ということである。蘭学を中心に洋書の輸入が解禁される十八世紀後半以降には、その技法自体は知られており、その影響を受けた画人が、日本には、かなり多くいたことは、言うまでもない。例えば、久保田藩(秋田藩)主や藩士を担い手とした秋田蘭画(あきたらんが)の「秋田派」は、西洋画の手法を取り入れた構図と、純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画を、既に安永年間(一七七二年~一七八一年)に成立させており、かの平賀源内(享保一三(一七二八年~安永八(一七八〇)年)の「西洋婦人圖」などもあるが、彼等を「洋画家」とは呼ばないし、言わずもがな、日本洋画の成立は明治以降であるから、ハーンの謂いは、必ずしも誤りとは言えまい。また、本邦の博物画は、西洋のそれらとは全く異なった、想像を絶する巧緻さと美しさを持つことも言うまでもない。]
ⅩⅩ
TWO STRANGE FESTIVALS.
Ⅰ.
THE outward signs of any Japanese matsuri are the most puzzling of enigmas to the stranger who sees them for the first time. They are many and varied; they are quite unlike anything in the way of holiday decoration ever seen in the Occident; they have each a meaning founded upon some belief or some tradition ― a meaning known to every Japanese child; but that meaning is utterly impossible for any foreigner to guess. Yet whoever wishes to know something of Japanese popular life and feeling must learn the signification of at least the most common among festival symbols and tokens. Especially is such knowledge necessary to the student of Japanese art: without it, not only the delicate humour and charm of countless designs must escape him, but in many instances the designs themselves must remain incomprehensible to him. For hundreds of years the emblems of festivity have been utilised by the Japanese in graceful decorative ways: they figure in metalwork, on porcelain, on the red or black lacquer of the humblest household utensils, on little brass pipes, on the clasps of tobacco-pouches. It may even be said that the majority of common decorative design is emblematical. The very figures of which the meaning seems most obvious,― those matchless studies [1] of animal or vegetable life with which the Western curio-buyer is most familiar,― have usually some ethical signification which is not perceived at all. Or take the commonest design dashed with a brush upon the fusuma of a cheap hotel,― a lobster,― sprigs of pine,― tortoises waddling in a curl of water,― a
pair of storks,― a spray of bamboo. It is rarely that a foreign tourist thinks of asking why such designs are used instead of others,― even when he has seen them repeated, with slight variation, at twenty different places along his route. They have become conventional simply because they are emblems of which the sense is known to all Japanese, however ignorant, but is never even remotely suspected by the stranger.
The subject is one about which a whole encyclopaedia might be written, but about which I know very little,― much too little for a special essay. But I may venture, by way of illustration, to speak of the curious objects exhibited during two antique festivals still observed in all parts of Japan.
1
As it has become, among a certain sect of Western Philistines and self-constituted art critics, the fashion to sneer at any writer who becomes enthusiastic about the truth to nature of Japanese art, I may cite here the words of England's most celebrated living naturalist on this very subject. Mr. Wallace's authority will scarcely, I presume, be questioned, even by the Philistines referred to: ―
'Dr. Mohnike possesses a large collection of coloured sketches of the plants of Japan made by a Japanese lady, which are the most masterly things I have ever seen. Every stem, twig, and leaf is produced by single touches of the brush, the character and perspective of very complicated plants being admirably given, and the articulations of stem and leaves shown in a most scientific manner.' (Malay Archipelago, chap. xx.)
Now this was written in 1857, before European methods of drawing had been introduced. The same art of painting leaves, etc., with single strokes of the brush is still common in Japan,— even among the poorest class of decorators.
二四 一八九一、十二月二十三日
洞光寺の大梵鐘は橫木の追悼會【譯者註一】のために徐ろに規則正しく分時砲(弔砲)のやうに鳴つて居る。その豐かな靑銅のうねりの幾しきりが湖の上で動搖し、街の屋根の上に漲つてそして四方の綠の山々に對し深い哀音となつて消える。
古風な儀式のこの追悼會は哀れの深い會である、これは餘程以前日本の佛敎で採用されたが、支那から由來した美はしい物である。又費用のかかる儀式である、そして橫木の兩親は甚だ貧しい、しかし凡ての費用は學生と敎師の進んで寄附した物で辨じた。出雲の禪宗の各寺院から來た僧侶は洞光寺に參集した。市中の敎師及び學生全部は、この大寺院の本堂に入つて高い祭壇の左右に座を取つた、外側の長い廣い階段に一千の靴と草履をぬいで疊の上に坐つた。
正面玄關の前に、高い佛壇に面して新しい佛壇が置かれた、その開いた戶のうちに漆と金の故人の位牌が光つて居る。佛壇の前の小さい臺の上に線香の束の入つた香爐と、果物、菓子、米飯、及び花の供物が置いてある。佛壇の兩方にある丈の高い美事な花瓶には花の枝が一杯に巧みにさしてある。本尊の前には大きな蠟燭立――その光つた眞鍮の臺は卷きついた怪物、上り龍下り龍になつて居る大きな蠟燭立に蠟燭が燃えて居る。佛說にある神鹿のやうな、神龜のやうな、三昧に入つた鶴のやうな形の香爐から香が卷き上つて居る。そしてこの向うに、大きな奧の間のほの暗き處に、佛は圓滿具足の微笑をもらし給ふ。
佛壇と本尊との間に小さい机が置いてある、その兩側に僧侶が相對して列をなして坐る、圓頂の列、朱の絹の僧衣、金の縫のある袈娑の立派さ。
大きな鐘が鳴り止む、靈魂に對する食物の供養の讀經である施餓鬼が行はれる、急に朗かな、音調のよい打ち物の音に伴はれた哀音の讀經で、音樂的な法會が始まる。その打ち物は木魚の音である、木で造つて漆を塗つて金箔を置いた大きな魚の頭である、妙な理想化した海豚(イルカ)の頭のやうである。これで拍子を取るのである、法華經の觀世音菩薩普門品を誦んで居る【譯者註二】、それにはかくの如き廣大な祈りがある。
眞觀淸淨觀、廣大智觀、悲觀及慈觀、常願常瞻仰、無垢淸淨光、慧日破二諸暗一、能伏二風火一、普明照二世間一
導師等の聲々がひびき渡る同音で明らかに高く歌ふと共に、その他の一同の僧の合唱はこの有難い經文を深い低音で唱へる、そして彼等の讀經のひびきは寄波のつぶやきに似て居る。
木魚はその鈍いひびきを止める、深き感動を與ふる讀經が終る、そこで重なる司會者卽ち名高き寺々の僧は一人づつ位牌に近づく。銘々ひくく頭を垂れて線香に火を點じ、これを靑銅の小さい鉢に眞直に立てる。銘々はしばらく經文を唱へる、その始めの音は故人の戒名の文字の音である、そしてこの位牌の文字の順序によつて唱へられた經文は、聖い折句になる、それを香語と云ふ。
それから僧侶は席にかへる、暫らくの沈默のあとで祭文の朗讀、卽ち故人の靈に告ぐる文の朗讀が始まる。各級から選擧されて一人づつ出た學生が始めに述べる。選ばれた學生は起立して、高い壇の前の小さい机に近づき本尊を拜し、懷から紙を取り出し、漢文を朗讀する時の節のよい朗々たる哀調で讀み上げる。かく銘々が愛の滿ちた悲しみと希望の言葉で死者に對して生者の愛情を語る。そして最後に學生のうちから、一人のやさしい少女(師範學校の女生徒)が出て、小鳥のやうに柔和な調子で述べるがために起立する。祭文を讀み終つた時、銘々は本尊の前の机の上に紙を置いて禮して退く。
今度は先生の順番である、そこで一人の老人が小さい机の處に席を取る、詩人として名高い敎師として尊敬される、漢文の先生片山翁【譯者註三】である。學生一同父の如く愛して居るので、翁が『故島根縣尋常中學校四年生』と始める時不思議に一同水を打つたやうになる。
[やぶちゃん注:以下、最後まで、漢字カナ交じりの片山尚絅(しょうけい)の祭文(追悼文)は、底本では全体が二字下げとなっている。]
『維レ明治二十有四年十二月二十有三日
島根縣尋常中學校敎諭 片山尙絅
辱ク追福ノ靈場ニ侍スルヲ獲テ焄蒿悽愴(クンカウセイサウ)ノ至ニ堪へズ敢テ
故島根縣尋常中學校四年生橫木富三郞君
靈ニ告グ、猶絅本校敎諭ニ承乏スル前後五年其間學生ノ優秀ナルモノ鮮シト爲サザルモ其忍耐勇進勉メテ倦マズ審問愼思科(アナ)ニ盈(ミ)チテ校則ヲ遵守シ師訓ヲ服膺シ業ニ敏ニ行ニ愼ム
君ノ如キハ復タ得易カラズ冀北ノ野良馬ナケレバ盲人之ヲ馬ナシト稱ス本校尙龍駒ナカランヤ然レドモ
君ニシテ逝ク、予其尤ヲ拔クノ嘆ニ堪へズ
君ハ十七年九箇月ト聞ク、學業專修ノ好年期ニシテ前途有爲ノ基礎殆ンド六七仭ニ及ブ、而シテ病ノ爲メニ逝ク、其病因ヲ問フニ腦ニ急劇ノ症ヲ呈セリト、以テ平素ノ苦學ヲ證スべク益々半途ニ斃ルノ愛惜スべキヲ感ズ巳矣(ヤミナン)、其成業ヲ見ルニ及ハス、若シ君ヲシテ其天壽ヲ全フシ社會ニ立ツアラシメンカ必ズ其業ニ敏ニ行ヲ愼ム者以テ終始ヲ貫キ身ヲ立テ家ヲ興スヤ推テ知ルべキノミ、
君ノ敎場ニ在ル手ヲ擧テ問ヲ發シ自ラ低テ筆記セル或ハ勇壯活潑銃ヲ提テ馳驅セル其聲容尙ホ目睫ヲ離レズ而シテ今再ビ之ヲ見ルニ由ナシ噫天何ゾ衰殘爲スナキノ尙絅ヲ殘シテ此進取爲スコトアルべキノ
君ヲ奪フヤ 尙絅ノ
君ニ於ケルハ職務ニ因テ師弟タルニ過ギズ尙ホ其ノ情義ノ感ズル所自ラ堪ルコト能ハズ 尙絅子アリ本年二十四歲遠ク相州橫濱ニ在リ素ヨリ豚犬ニシテ
君ニ比スべキニ非ルモ老父ノ胸間夢寐(ムビ)ニ忘レズ況ヤ俊拔ナル
君ノ親父タリ慈母タリ兄弟姉妹タルモノ此不幸ニ遭遇スルニ於テオヤ其衷情以テ如何トナス思フテ此ニ到レバ淚先ズ胸ヲ衝キ復タ言ヲ爲スコト能ハス鳴呼
君ハ逝ケリ乃チ逝クト雖モ其業ヲ勉メ其行ヲ愼メルモノハ永ク本校學生ノ模範ト爲テ朽チズ是職員學友ノ感懷追慕已ム能ハズシテ玆ニ謹デ淸酌庶羞(シヨシユ)ノ典ヲ具シ敬ンデ
君ノ靈ヲ祀ル所以ナリ尙クハ
來リ饗(ウ)ケヨ
それからすすりなきの聲は木魚の突然再び鳴り出したのに壓倒せられて、導師の高い調子の稱名合唱の聲が有難い涅槃經を誦し始める。生死の大海を解脫して通る凱歌である、その高い音調と木魚の反響の下に妙へなる讀經を誦する波濤の如き一百の聲の低音は大海のくだけるやうに響いて聞える。
諸行無常 是生滅法、生滅々巳 寂滅爲樂。
譯者註一。この追悼會は、四年生橫
木富三郞、三年生志田昌吉、三年生
妹尾丑之助三人のために催された物、
著者は都合上橫木の分にしたのであ
る、時は明治二十四年十二月二十三
日の事故、當時著者ヘルンは熊本高
等中學校へ轉任したあとの事であつ
た、この記事は全く小豆澤(藤崎大
佐)の通信を參考として書いた物、
當時の新聞記事によれば、會するも
の二百餘名(中學生全部)來賓は齋
藤師範學校長以下職員及び死者の親
戚、僧侶は二十餘名、佛式を營み、
終りて中學校長木村牧氏及び片山敎
諭の祭文奉讀、ついで五年級總代遠
藤靜衞、四年級總代三浦倫吉、三年
級總代外山林次郞、二年級總代錦織
甚六、同窓會總代內田實、神門輔仁
會總代今岡義一郞諸氏の祭文朗讀あ
り、次で參拜者一同に茶菓を供し、
散會せしは五時なりしとある。
譯者註二。この追悼會で讀んだ經文
は佛遺敎經であつた、藤崎大佐がそ
の全文を譯してヘルンに示したが、
その内容は追悼會に讀む物としては
適切でないとして法華經にかへた。
譯者註三。片山は有名なる漢學者片
山兼山の孫。滋賀縣師範學校長より
轉じて松江中學の敎諭となりし人。
[やぶちゃん注:最後の原文の注“15”(訳文では省略されている)は、底本としている英文電子テクストでは欠損しているため、原本を見ながら私がタイピングして追補した。この注は祭文の筆者片山尚絅(しょうけい)氏が、亡くなった横木(事実は同じく亡くなった松江中学生二人を含む)のことを、自分の息子を不肖として卑下して引き合いに出すことで、逆に称揚していることを説明している(ものと思う)。事実、確かに、西洋人ならずとも、恐らくは現代の日本人も、ここで何故に片山氏が自分の子のことを、突然、語るのか、最早、分からないかも知れない。
「一八九一、十二月二十三日」再度、事実のみを記す。ハーンはこの前月、明治二四(一八九一)年十一月十五日に熊本第五高等学校に転任するために松江を去っており、ここに仔細に描かれる「横木」の「追悼會」には実は出席していない。「譯者註一」にも述べてある真相については、本注の最後で述べることとする。
「橫木の追悼會」岩手大学教授広瀬朝光氏の論文『八戸の「コイヅミヤクモ」』に西田千太郎の以下の日記が引かれている(恣意的に漢字を正字化した)。
*
廿三日(時々雨霰)橫木富三郞(四年級)、志田昌吉、瀬能丑之介(三年級)三子ハ共ニ中學校生徒中優秀ナル者ナリシガ、今秋以來相次デ死去セルニ付、敎員生徒相謀リテ追悼會ヲ洞光寺ニ擧行ス。片山氏ノ祭文ハ數百人ヲシテ泣カシメタリ、敎官中ニテハ、中村、佐藤及三好ノ三氏斡旋ノ勞ヲ執レリ(予ノ出金五十錢及菓子料二十錢)。
*
また、同論文の末尾註の「4」には、この追悼会を報じた明治二十四年十二月二十三日附『山陰新聞』の記事の一部が掲げられている。これも引用させて戴く(同じく恣意的に漢字を正字化した)
*
●故中學生の追悼式
豫記の如く昨日午後一時ゟ當尋常中學校の故第四學年橫木富三郞同三年志田昌吉妹尾丑之助三氏の追悼式を松江分洞光寺に施行す會する者二百餘名來賓には齊藤師範學校長以下職員及死去の親戚にして僧侶廿餘名佛式を營み終りて中學校長木村牧氏片山敎諭の祭文奉讀次て五年級總代遠藤衞四年級總代三浦倫吉二年級總代外山林次郞一年級總代錦織銘甚六同窓會總代內田實神門輔仁會總代今岡義一郞諸氏の祭文奉讀あり次て參拜者一同へ茶菓を供し散會せるは午後五時なりし中にも片山氏の祭文奉讀中は何れも悼淚を流さゞるは無かりきと(以下、長文ゆえ略す。)
*
(最後の略注記は広瀬氏のものと思われる)。この本篇記載の内容が、合同追悼会であったことを除くと、基本的には事実に基づくものであることが判る(後注参照)。
「眞觀淸淨觀、廣大智觀、悲觀及慈觀、常願常瞻仰、無垢淸淨光、慧日破二諸暗一、能伏二風火一、普明照二世間一」鳩摩羅什訳「妙法蓮華經」の「觀世音菩薩普門品第二十五」、通称「觀音經」の後半の部分で、五つ「觀」が出る知られた一節である(「暗」は「闇」が普通)。通常はそのまま音で通読するが、底本では返り点が振られてあるので、以下に意味を採れるように我流で書き下しておく。
*
眞觀・淸淨觀・廣大智觀・悲觀及び慈觀あり。
常に願ひ、常に瞻仰(せんがう)すべし。
無垢たる淸淨光と慧日はこれ諸暗を破り、
能く風火を伏せしめ、
普(あまね)く明らかに世間を照らす。
*
この「眞觀・淸淨觀・廣大智觀・悲觀及び慈觀」とは、「正しく真実を観ること」・「執着せずに清らかな眼で観ること」・「広大無辺な智慧を以って観ること」・「悲しみや苦しみに対して向かい合って観ること」、そして、「無限の仏の慈しみの目を以ってあらゆる対象を観ること」を意味する(と思う)。「瞻仰」は「せんぎやう(せんぎょう)」と読み、「仰ぎ見ること・見上げること」が原義で、そこから「敬い慕うこと」の意。
「香語」原文“The Words of Perfume”。これは「かうご(こうご)」と読み、主に禅宗で言う「拈香法語(ねんこうほうご)」のこと。法要や読経などの際に導師が香を拈じて唱える法語を指す。特に葬儀の際に用いるものは「引導香語」と言う。
「片山翁」「片山尙絅」「有名なる漢學者片山兼山の孫。滋賀縣師範學校長より轉じて松江中學の敎諭となりし人」詳細事蹟不詳。祖父片山兼山(けんざん 享保一五(一七三〇)年~天明二(一七八二)年)は上野国の出身の儒学者。延享三(一七四六)年に江戸に出、服部南郭らに入門、荻生徂徠の高弟宇佐見灊水(しんすい)の養子となったが、後に徂徠の説を疑って追われた。漢宋諸家の説を採って折衷学を開き、徂徠学を排撃した人物として知られる(諸事典により記載した)。しかし、滋賀県立師範学校長から、松江中学教諭というのは、どう考えても降格人事である。詳細を知りたい。また、第百五十九回の『「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース』(二〇一三年十一月九日発行)によれば、田部隆次著「小泉八雲」に載る話として、『松江でハーンが英語の通じない漢文の教諭片山尚絅を訪ねた際、片山が茶菓をすすめて赤い色の羊羹を箸で取った時、近視のハーンは之を煙草の火と思い誤り、煙管を出して受けようとして気がつき、二人で大笑いしたことがあった』とあり、彼とハーンは交友があったことが知れる。
「維レ明治二十有四年十二月二十有三日」実は底本では、「維レ明治二十有四年二月二十有三日」となっている。しかし原文は“the twelfth month”であり、単なる誤植か、誤訳と断じて訂した。なお、あまり言いたくないのであるが、平井呈一氏の訳も何故かここが『二月』となっている。
「焄蒿悽愴(クンカウセイサウ)」現代仮名遣で「くんこうせいそう」と読み、香気が立ち昇って人の心を畏れ慄(おのの)かすことを言う。鬼神霊魂の気の形容。
「承乏」「しようばふ(しょうぼう)」と読み、「乏(とぼ)しき承(う)く」で、自らが官に任ずることの謙遜語。適当な人物がいないことから、不肖己れが暫くその空いた地位を補充し承り申し上げるという意。この「乏」は「官職の空き」の意である。
「鮮シ」「すくなし」(少なし)。「巧言令色、鮮(すくな)し、仁(じん)。」のあれである。
「科(アナ)」読み不詳。「科」は程度・条(すじ)・掟(おきて)の意があるので、条理に「盈(ミ)チテ」いた、という謂いで。意味は通る。
「服膺」「ふくよう」は、心にとどめて忘れないこと。
「冀北ノ野良馬ナケレバ盲人之ヲ馬ナシト稱ス」中唐の韓愈の「送温處士赴河陽軍序」(温處士の河陽軍に赴くを送るの序」の一節「伯樂一たび冀北(きほく)の野を過ぎて馬群(ばぐん)遂に空(むな)し」に基づく。「名馬を見抜く伯楽が、一たび、良馬の産地冀州(きしゅう)の北部を通ると、良馬は一頭も残らなくなる。」即ち、「名君賢相が上にいると、民間の賢人は皆、朝廷に用いられる」ことの譬えである故事成句を、参列する生徒らに辛口で捻ったものであろう。しかし「本校尙龍駒ナカランヤ」と附けてそこを留保しているのである。
「尤ヲ拔クノ嘆ニ堪ヘズ」「尤」は「いう(ゆう)」で、優れていることを指し、これで「独り群を抜いて優れていた」の謂いであるが、ここは前に「逝ク」とあり、そうした稀なる俊才が逝ってしまったことの歎きに堪えられない、というのであろう。
「六七仭」「仭」は深さ・高さの単位であるが、ここは満ちたそれ(重要な基礎学力全体のマックス量)を「十」として、最早、六、七割方まで修得し得たというのであろう。
「巳矣(ヤミナン)」これはこれで独立した一文。「やんぬるかな」などとも訓じ、慨嘆や絶望の辞。「やみぬる」の音変化で、今となっては最早どうしようもないの意。
「低テ」「うなだれて」であるが、前の「擧テ」の対句としての物理的な運動の対であって、力なく首を前に垂れるのではなく、熱心に筆記をするさまを指す。
「提テ」「ささげて」。
「馳驅」「ちく」。駆け回ること。
「噫」感動詞「ああ」。
「豚犬ニシテ」原文は“worthless”で、役に立たないの意。ここは豚児(とんじ)・愚息の意。
「夢寐(ムビ)」眠って夢を見ること。また、その夢を見ている間の意。
「淸酌庶羞(シヨシユ)」「淸酌」(せいしやく(せいしゃく))は清醇なる美酒で祭祀に用いる酒、「庶羞」(しよしゆ(しょしゅ))も、もてなすための美味なる佳肴で、やはり神霊を祀るための供物である。
「敬ンデ」「つつしんで」。「謹んで」。
「尙クハ」「ねがはくは」と読む。冀はくは。願はくは。
「諸行無常 是生滅法、生滅々巳 寂滅爲樂」「大乘涅槃經」の「諸行無常偈」と呼ばれるもの。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てたと伝えられることから「雪山偈」とも称される。我流の解を示す。――万物は絶えず移り変わり生滅するものであって不変なものは一つとしてなく無常なるものである――生あるものは何時か必ず滅び去って消えずにはおかない――しかしそうした見た目の「生」とか「滅」とかといった現象から完全に解き放たれた瞬間――あらゆる煩悩は完全に消滅して真の安楽が訪れる――私は解釈しただけである。そう思っている訳では――ない。総ては無限に「無」である。絶対「無」なればこそ「真」も「偽」も「苦」も「楽」もない――のであると私は思う。――横木富三郎の魂へ本注を捧げる――
「この追悼會は、四年生橫木富三郞、三年生志田昌吉、三年生妹尾丑之助三人のために催された物、著者は都合上橫木の分にしたのである」「時は明治二十四年十二月二十日の事故、當時著者ヘルンは熊本高等中學校へ轉任したあとの事であつた、この記事は全く小豆澤(藤崎大佐)の通信を參考として書いた物」なお、「當時の新聞記事」とある以下の部分は、前の「橫木の追悼會」に引いた広瀬氏の『八戸の「コイヅミヤクモ」』の引用を参照されたい。まず、この「追悼會」は横木一人のためのものではなかったことを確認されたい。それをハーンは操作して、かれの愛した教え子横木だけの追悼会であるように創作し直したのである。ということは、原本を確認出来ないが、片山尚絅氏の心打たれる祭文も完全に再現されたものではない可能性も疑われる(訳者はこれだけの美事な漢文で提示している以上、祭文の原文を確認しているものと思われ、ここに出たのは横木の追悼箇所だけを抜き出して示したとしてもおかしくはないが、こんなにすっきりと完全に手を加えることなく上手く入れ込むことが出来るのかという点では、私には大いに疑問が残るのである)。
以下、「一八」で既に注したが、繰り返し部分を厭わずに述べる。
ハーンはこの明治二四(一八九一)年の十一月に、出雲の堪え難い寒気を理由(それ以外にも実は異人の妻となったセツに対する心ない噂なども理由の一つとしては有意にあったようである)として熊本第五高等学校に転任しているのであるが、その熊本への転居のために彼が松江を去ったのは「八雲会」の「松江時代の略年譜」から、
明治二四(一八九一)年十一月十五日の午前九時
(大橋西桟橋より汽船にて出発)であったことが判っている。
ところが、先の「二十二」の冒頭には、
明治二四(一八九一)年十一月二十六日のクレジット
が示された上で、
翌日(十一月二十七日)には横木が志田の墓の側(そば)に葬られる
とある。いや、それどころか、「二十三」では、
ハーンは同日(推定)に今生の別れとして横木の死に顔をさえ見ている
としているのである。そうして、ここ「二十四」の冒頭には、
明治二四(一八九一)十二月二十三日のクレジット
が示された上で、寺で行われた横木の追悼会――事実は既に示した通り、同じ松江中学生で先に逝った志田や今一人の生徒を含む合同の追悼会――が描かれるのであるが、そこでは、
現にハーンがその場に参列した者として、現前に確かに見たものとして、その追悼会が描かれてある
かのように読めるのである。
確認されたいのである。
ハーンは明治二四(一八九一)年十一月十五日に松江を去った
のであって、
明治二四(一八九一)年十一月二十六日も、十二月二十三日もハーンは既に熊本におり、松江には居なかった――彼は横木の死に目に逢うことも――横木の死に顔を見ることも――出来なかった――のであり――横木他二名の追悼式にも――出席していない
のである。それはもう、この訳者(大谷正信と推定)の注の断定表現を見れば、百%、確かなことである。残念乍ら、ハーンが急遽、横木急逝を受けて松江に戻ったという可能性は当時の実状、及び、諸情報から見てもあり得ないのである。
即ち、少なくとも、
横木富三郎の死(「二二」)から「二三」でその死に顔を見、そして「彼の」「追悼會」が描かれる「二四」コーダまでの三つ話柄は、実はハーンの実体験に基づくものではなく、全くの創作である
と考えるべきである(横木逝去が、ハーンが松江を発つ以前であったと仮定し、しかもハーンが、かくクレジットを大間違いしたとすれば、創作は「二四」のみに留まるが、そこまでお目出度く考えるほど私は愚かではない。第一、それは、ハーンにも失礼であろうと思う)。創作を、また、強力に傍証するのが、「譯者註二」で、「この追悼會で讀んだ經文は」本文に出る「法華經の觀世音菩薩普門品」ではなく、「佛遺敎經であつた」事実、そして「藤崎大佐がその全文を譯してヘルンに示したが、その内容は追悼會に讀む物としては適切でないと」熊本のハーンが断じて「法華經にかへた」という下りである。これこそ、ハーンが、ここで、偏愛した「永遠の少年」横木富三郎を送るに、相応しい響き渡る葬送の音楽は、確信犯で――ここは「観音経」でなくてはならぬ――と考え、それを以って《演出した》という驚愕の《事実》なのである。
さて――
間違えては困る!
確かに私は、若き日にこの「日本の面影」を平井呈一氏の訳で読み、この本章のすこぶる印象的な後半部を偏愛してきた。
今回、この電子化で日附の不審に気づき、そうしてこの訳者の注を見るに及び、飛び上がらんばかりに《驚いた》ことは《事実》である。
しかし私のこのシークエンスへの《感動》は、その創作という真相を知ったことによって――削がれたどころか――より昂まったとさえ――言えるのである。
ハーン、否、後の小泉八雲は――小説家――それも、数少ない日本の正当な幻想文学作家であったのだ!――これは「創作」ではなく、正に芭蕉のように「文学的真実」を記しているのだ!
ハーンは横木富三郎を愛していたのである。
ハーンは――「靈」――「魂」――に変ずることの出来る人であった。
ハーンは横木を puer eternus ―― プエル・エテルヌス――「永遠の少年」として――彼自身の「心」で――死に顔を見――彼を送り――そうして――かの「追悼會」にも確かに出席した――のであった!!!…………]
ⅩⅩⅣ.
December 23, 1891.
The great bell of Tōkōji is booming for the memorial service,—for the tsuito-kwai of Yokogi,—slowly and regularly as a minute-gun. Peal on peal of its rich bronze thunder shakes over the lake, surges over the roofs of the town, and breaks in deep sobs of sound against the green circle of the hills.
It is a touching service, this tsuito-kwai, with quaint ceremonies which, although long since adopted into Japanese Buddhism, are of Chinese origin and are beautiful. It is also a costly ceremony; and the parents of Yokogi are very poor. But all the expenses have been paid by voluntary subscription of students and teachers. Priests from every great temple of the Zen sect in Izumo have assembled at Tōkōji. All the teachers of the city and all the students have entered the hondo of the huge temple, and taken their places to the right and to the left of the high altar,—kneeling on the matted floor, and leaving, on the long broad steps without, a thousand shoes and sandals.
Before the main entrance, and facing the high shrine, a new butsudan has been placed, within whose open doors the ihai of the dead boy glimmers in lacquer and gilding. And upon a small stand before the butsudan have been placed an incense-vessel with bundles of senko-rods and offerings of fruits, confections, rice, and flowers. Tall and beautiful flower-vases on each side of the butsudan are filled with blossoming sprays, exquisitely arranged. Before the honzon tapers burn in massive candelabra whose stems of polished brass are writhing monsters—the Dragon Ascending and the Dragon Descending; and incense curls up from vessels shaped like the sacred deer, like the symbolic tortoise, like the meditative stork of Buddhist legend. And beyond these, in the twilight of the vast alcove, the Buddha smiles the smile of Perfect Rest.
Between the butsudan and the honzon a little table has been placed; and on either side of it the priests kneel in ranks, facing each other: rows of polished heads, and splendours of vermilion silks and vestments gold-embroidered.
The great bell ceases to peal; the Segaki prayer, which is the prayer uttered when offerings of food are made to the spirits of the dead, is recited; and a sudden sonorous measured tapping, accompanied by a plaintive chant, begins the musical service. The tapping is the tapping of the mokugyo,—a huge wooden fish-head, lacquered and gilded, like the head of a dolphin grotesquely idealized,—marking the time; and the chant is the chant of the Chapter of Kwannon in the Hokkekyo, with its magnificent invocation:―
'O Thou whose eyes are clear, whose eyes are kind, whose eyes are full of pity and of sweetness,—O Thou Lovely One, with thy beautiful face, with thy beautiful
eye,—
'O Thou Pure One, whose luminosity is without spot, whose knowledge is without shadow,—O Thou forever shining like that Sun whose glory no power may repel,—Thou Sun-like in the course of Thy mercy, pourest Light upon the world!'
And while the voices of the leaders chant clear and high in vibrant unison, the multitude of the priestly choir recite in profoundest undertone the mighty verses; and the sound of their recitation is like the muttering of surf.
The mokugyo ceases its dull echoing, the impressive chant ends, and the leading officiants, one by one, high priests of famed temples, approach the ihai. Each bows low, ignites an incense-rod, and sets it upright in the little vase of bronze. Each at a time recites a holy verse of which the initial sound is the sound of a letter in the kaimyo of the dead boy; and these verses, uttered in the order of the characters upon the ihai, form the sacred Acrostic whose name is The Words of Perfume.
Then the priests retire to their places; and after a little silence begins the reading of the saibun,—the reading of the addresses to the soul of the dead. The students speak first,— one from each class, chosen by election. The elected rises, approaches the little table before the high altar, bows to the honzon, draws from his bosom a paper and reads it in those melodious, chanting, and plaintive tones which belong to the reading of Chinese texts. So each one tells the affection of the living to the dead, in words of loving grief and loving hope. And last among the students a gentle girl rises — a pupil of the Normal School— to speak in tones soft as a bird's. As each saibun is finished, the reader lays the written paper upon the table before the honzon, and bows; and retires.
It is now the turn of the teachers; and an old man takes his place at the little table—old Katayama, the teacher of Chinese, famed as a poet, adored as an instructor. And because the students all love him as a father, there is a strange intensity of silence as he begins,— Kō-Shimane-Ken-Jinjō-Chugakkō-yo-nensei.
'Here upon the twenty-third day of the twelfth month of the twenty-fourth year of Meiji, I, Katayama Shōkei, teacher of the Jinjō Chūgakkō of Shimane Ken, attending in great sorrow the holy service of the dead [tsui-fuku], do speak unto the soul of Yokogi Tomisaburo, my pupil.
'Having been, as thou knowest, for twice five years, at different periods, a teacher of the school, I have indeed met with not a few most excellent students. But very, very rarely in any school may the teacher find one such as thou,— so patient and so earnest, so diligent and so careful in all things,— so distinguished among thy comrades by thy blameless conduct, observing every precept, never breaking a rule.
'Of old in the land of Kihoku, famed for its horses, whenever a horse of rarest breed could not be obtained, men were wont to say: "There is no horse." Still there are many line lads among our students,— many ryume, fine young steeds; but we have lost the best.
'To die at the age of seventeen,— the best period of life for study,— even when of the Ten Steps thou hadst already ascended six! Sad is the thought; but sadder still to know that thy last illness was caused only by thine own tireless zeal of study. Even yet more sad our conviction that with those rare gifts, and with that rare character of thine, thou wouldst surely, in that career to which thou wast destined, have achieved good and great things, honouring the names of thine ancestors, couldst thou have lived to manhood.
'I see thee lifting thy hand to ask some question; then bending above thy little desk to make note of all thy poor old teacher was able to tell thee. Again I see thee in the ranks,— thy rifle upon thy shoulder,— so bravely erect during the military exercises. Even now thy face is before me, with its smile, as plainly as if thou wert present in the body;— thy voice I think I hear distinctly as though thou hadst but this instant finished speaking;― yet I know that, except in memory, these never will be seen and heard again. O Heaven, why didst thou take away that dawning life from the world, and leave such a one as I — old Shōkei, feeble, decrepit, and of no more use?
'To thee my relation was indeed only that of teacher to pupil. Yet what is my distress! I have a son of twenty-four years; he is now far from me, in Yokohama. I know he is only a worthless youth; [15] yet never for so much as the space of one hour does the thought of him leave his old father's heart. Then how must the father and mother, the brothers and the sisters of this gentle and gifted youth feel now that he is gone! Only to think of it forces the tears from my eyes: I cannot speak — so full my heart is.
'Aa! aa! — thou hast gone from us; thou hast gone from us! Yet though thou hast died, thy earnestness, thy goodness, will long be honoured and told of as examples to the students of our school.
'Here, therefore, do we, thy teachers and thy schoolmates, hold this service in behalf of thy spirit,— with prayer and offerings. Deign thou, 0 gentle Soul, to honour our love by the acceptance of our humble gifts.'
Then a sound of sobbing is suddenly whelmed by the resonant booming of the great fish's-head, as the high-pitched voices of the leaders of the chant begin the grand Nehan-gyō, the Sutra of Nirvana, the song of passage triumphant over the Sea of Death and Birth; and deep below those high tones and the hollow echoing of the mokugyo, the surging bass of a century of voices reciting the sonorous words, sounds like the breaking of a sea:―
'Shō-gyō mu-jō, je-sho meppō.—Transient are all. They, being born, must die. And being born, are dead. And being dead, are glad to be at rest.'
15
Said only in courteous self-depreciation. In the same way a son, writing to his parent, would never according to Japanese ideas of courtesy and duty sign
himself “Your affectionate son,”but “your ungrateful, or unloving son.”
二三
見納めに私はもう一度彼の顏を見る。彼は首から足まで白裝束をつけて、幽界の旅路のために白い帶をつけて、死の床にねて居る、しかし謎のやうなむつかしい英語の說明を聞いた時のいつもの微笑と殆んど同じ奇妙な温和な風で眼を閉ぢたままで微笑して居る。ただ今の微笑は一層不思議な事に關する一層大さな智識を得たので、更に一層美はしいやうである。洞光寺の御堂の香の烟のうちに、佛の黃金の顏ばせもその通りに微笑し給ふ。
[やぶちゃん注:「見納めに私はもう一度彼の顏を見る」再度、事実のみを記す。ハーンは本条の前の「二二」の冒頭で「横木は明晩、友人志田の側に葬られるのである」と述べ、そこには「一八九一、十一月二十六日」とクレジットされている。しかしこの日附の十一日前の明治二四(一八九一)年十一月十五日に、彼は熊本第五高等学校に転任するために松江を去っている。
「洞光寺の御堂の香の烟のうちに、佛の黃金の顏ばせもその通りに微笑し給ふ」ハーンがその鐘の音を殊の外愛した洞光寺の本尊は釈迦如来である。]
ⅩⅩⅢ.
For the last time I see his face again, as he lies upon his bed of death,—white-robed from neck to feet,—white-girdled for his shadowy journey,—but smiling with closed eyes in almost the same queer gentle way he was wont to smile at class on learning the explanation of some seeming riddle in our difficult English tongue. Only, methinks, the smile is sweeter now, as with sudden larger knowledge of more mysterious things. So smiles, through dusk of incense in the great temple of Tōkōji, the golden face of Buddha.
二二 一八九一、十一月二十六日
橫木は明晩、友人志田の側に葬られるのである。
貧しい人の臨終に、友人や隣人がその家に來てできるだけの世話をする。遠い親戚へ通知をやる者もある、凡て必要な準備をする者もある、又死んだときまれば僧侶【註一】を迎へに行く者もある。
註一。全然神道の人か或は神佛兩方
に屬してゐても、葬式は神道の式に
する人はこの限りでない。松江では、
高い位地の役人などは、きまつて神
式で葬式をする。
僧侶は使が行かぬうちに、檀家の人が夜、死ぬのを知つて居ると云はれる、死んだ人の魂が寺の戶を一度ひどくたたくからである。それから寺僧は起きて僧衣をつける、そして使が來る時『承知して居ります、用意して居ります』と答へる。
その間に屍骸は家の佛壇の前に運ばれて床の上に置かれる。頭には枕が置いてない、拔身の刀は惡魔除けに手足のところに置いてある。佛壇の戶は開かれ先祖代々の位牌の前には蠟燭をともしてある、そして香を焚いてある。親戚友人は皆香を贈る。それ故如何に珍らしく貴くとも、外の時に香を人に贈るのは不吉となつて居る。
しかし神棚は白紙で見えないやうに隱される。戶口に打ちつけてある神社のお札は凡て忌中はつつみ隱されねばならない【註二】。凡てその間は家人は誰でも神社に近づいたり、神に祈つたり、鳥居をくぐつたりしてはならない。
註二。死者が神式で葬られる場合は
別。松江では忌は五十日。五十一日
目に一家殘らず圓城寺灘(圓城寺の
ある山のふもとの湖岸)ヘ行つて淸
めの式を行ふ。圓城寺灘の岸に地藏
の丈の高い石像があゐ。その前でお
祈りをして、湖の水で手を洗ひ口を
すすぐ。それから親戚へ行つて朝飯
を喰べる、淸めの式は、なるべく、
いつも未明に行はれる。忌中にはう
ちの人は親戚知り合ひのうちで食事
をしてはならない。しかし神式で葬
式をした場合にはこんな儀式を守る
には及ばない。
屍骸とこの部屋の人口との間に屛風が擴げてある、白紙の一片に書いてある戒名は屛風の上にはつてある。死人がもし若ければ屛風はさかさに立てられねばならぬが老人の場合はさうはされない。
親戚友人は屍骸の側で祈禱する。そこには一千の祈りをくりかへす間に、數へるための一千の豆粒の入つた箱が置いてある、その不慣れな旅路にある靈魂はこの祈りのために助かると信じられて居る。
僧が來て讀經をする、それから葬送の準備になる。死體は温湯で洗つて眞白の着物を着せる。しかし死人の着物は左前に合せる。それ故偶然にでも、人の着物を外の場合そんな風に合せるのは不吉と考へられる。
死體が木の駕籠のやうな物に見える妙な四角な棺に入れられた時、親戚は彼等の血を代表する男女それぞれの髮の毛や爪を切つて少しづつ入れる。そして棺の中へ六厘入れる、六道の辻に立つて居る地藏のためである。
家で葬列ができる。僧が小さい鈴をならして先導する、童子が新佛の位牌を持つて行く。行列の先驅は全く男子の親戚や友人である。何かの意味を表はせる白い小旗を持つ者もある、花を持つ者もある、一同は提灯を持つ、――これは出雲では成人(オトナ)は夜葬られるからである、子供だけは晝葬られる。つぎに棺が來る、墓を掘つたり、葬式の助けをしたりするのを仕事として居る人々【譯者註】の肩に轎(カゴ)のやうにかつがれて居る。終りに女の會葬者が來る。
この人々は頭から足まで幽靈のやうに白い頭巾をかむり白い着物を着て居る【註三】。提灯のあかりだけで照らされた出雲の葬式の行列のこの白衣の一群よりもつとまぼろしのやうな物は想像ができない。一度見たら屢〻夢に歸つてくる物すごさである。
註三。しかし昔の武家の葬式では婦
人は黑いなりをした。
お寺で棺は玄關の前の敷石の上に置かれる、そして讀經と悲しげな音樂とで別の佛事が行はれる。それから行列は再びつくられ、お寺の庭を一度𢌞り、それから墓地に進む。しかし死體は二十四時間の後でなければ埋められない、死んだと思つた人が墓のうちで生きかへる事のない用心である。
出雲では火葬は殆んどない。この點に於ても外の點に於けると同じく神道情操の有力な事が明らかである。
譯者註。出雲では『山の者』と云ふ。
[やぶちゃん注:「一八九一、十一月二十六日」「橫木は明晩、友人志田の側に葬られるのである」事実のみを記す。ハーンは、この日附の十一日前の明治二四(一八九一)年十一月十五日に熊本第五高等学校に転任するために松江を去っている。
「圓城寺灘(圓城寺のある山のふもとの湖岸)」「圓城寺」松江市栄町(さかえまち)にある臨済宗妙心寺派鏡湖山円成(えんじょう)寺のことと思われる。「松江市雑賀公民館 STAFF BLOG」の「そうだ!!堀尾家の菩提所 円成寺に行ってみよう」によれば、慶長五(一六〇〇)年に当時の藩主堀尾吉晴が富田(現在の広瀬)にあった城安寺を洗合山のふもと(現在の天倫寺の場所)に移して、あらたに瑞応寺を菩提寺として建立、と同時に、浜松の天徳寺より、春龍和尚を迎えた。吉晴の孫にあたる忠晴が寛永一〇(一六三三)年に死去して堀尾家は断絶、その後、京極忠高が藩主となって、寛永一二(一六三五)年にこの瑞応寺を春龍和尚が隠居していた乃木村の元山(現在の栄町)に移し、堀尾忠晴の法号に因んで円成寺と定めたという。堀尾氏三代の菩提寺で堀尾氏所縁の遺品が残されている。初代住職春龍は「松江」という地名の名付親とも言われる。祖師ケ浦の直近(約二百メートル)で「嫁ケ島」(よめがしま)の対岸に当たり、先に出た洞光寺からは西へ三百八十メートルほどの位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「死人がもし若ければ屛風はさかさに立てられねばならぬが老人の場合はさうはされない」「逆さ屏風」などの「逆さ事(ごと)」という葬送慣習は、よく見られ、これは一般には、死の世界と生者との棲む世界を遮断する境界機能と考えられている。ここに出る「左前」もその一種とも思われ、他にも、例えば、「逆さ水」(湯灌の際などに水にお湯を注いでぬるくする)・帯の「縦結び」(こま結びを縦に結んだもので普通は横に結ぶところを逆にする)・「逆さ着物」(死者の衣装を襟を足の方にして着せる)といったものがある(具体例は葬儀関連会社セキセー株式会社の公式サイト「お葬式プラザ」の「逆さごと」を参考にした。リンク先には図も出ており、分かり易い)。但し、この弱年と老年の違いは不詳。識者の御教授を乞う。
「棺の中へ六厘入れる、六道の辻に立つて居る地藏のためである」所謂、冥銭(めいせん)、「三途の川の渡し賃」などと称する六文銭・六道銭のことである。
「何かの意味を表はせる白い小旗」葬式で用いる、死者の姓名・官位などを記した旗。銘旌(めいせい)。神道式では普通に用いられる。
「成人は夜葬られるからである、子供だけは晝葬られる」不詳。識者の御教授を乞う。
「白い頭巾をかむり白い着物を着て居る」本来、日本の伝統的な喪服は白であった(但し、喪に服さねばならない近親者のみの着用)。
「出雲では火葬は殆んどない」ウィキの「土葬」によれば現在は、『「墓地、埋葬等に関する法律」においては火葬も土葬も平等に扱われているが、東京都や大阪府、名古屋市など、条例(東京の場合は「墓地等の構造設備及び管理の基準等に関する条例施行規則」)によって土葬を禁じている自治体があ』り、『条例制定をしていないその他の自治体の大半も内規レベル(土葬用墓地として使用する許可を出さない形)で禁止しており、土葬の習慣が残っているのは主に奈良県や和歌山県の一部等に限られている。許可を出している自治体の許可基準としては、「地下水などの飲用水に影響しない」「住民感情に配慮」「永代にわたり管理できる」等が定められている』とあって、更に『天皇、皇族に関しては基本的には土葬であり、陵(墓)が築かれ埋葬される。しかしながら皇后を除く皇族は』昭和二八(一九五三)年に『薨去した秩父宮雍仁』(やすひと:彼は肺結核で亡くなったが、遺書を残しており、その中で「遺体を解剖に附すこと」・「火葬にすること」・「葬式は如何なる宗教にもよらない形式とすること」を指示していたため、妻の『勢津子妃が勅許を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許可、皇族としては異例の病理解剖が行われた』とウィキの「秩父宮雍仁親王」にある。なお、葬儀は皇族として最低限の神道形式で行われた後、無宗教での一般告別式が行われたとある)『親王以降、本人の希望で火葬される例が増えている』とある。
「山の者」既出既注。]
ⅩⅩⅡ.
November 26 1891.
Yokogi will be buried to-morrow evening beside his comrade Shida.
When a poor person is about to die, friends and neighbours come to the house and do all they can to help the family. Some bear the tidings to distant relatives; others prepare all necessary things; others, when the death has been announced, summon the Buddhist priests. [12]
It is said that the priests know always of a parishioner's death at night, before any messenger is sent to them; for the soul of the dead knocks heavily, once, upon the door of the family temple. Then the priests arise and robe themselves, and when the messenger comes make answer: 'We know: we are ready.'
Meanwhile the body is carried out before the family butsudan, and laid upon the floor. No pillow is placed under the head. A naked sword is laid across the limbs to keep evil spirits away. The doors of the butsudan are opened; and tapers are lighted before the tablets of the ancestors; and incense is burned. All friends send gifts of incense. Wherefore a gift of incense, however rare and precious, given upon any other occasion, is held to be unlucky.
But the Shintō household shrine must be hidden from view with white paper; and the Shintō ofuda fastened upon the house door must be covered up during all the period of mourning. [13] And in all that time no member of the family may approach a Shintō temple, or pray to the Kami, or even pass beneath a torii.
A screen (biobū) is extended between the body and the principal entrance of the death chamber; and the kaimyō, inscribed upon a strip of white paper, is
fastened upon the screen. If the dead be young the screen must be turned upside-down; but this is not done in the case of old people.
Friends pray beside the corpse. There a little box is placed, containing one thousand peas, to be used for counting during the recital of those one thousand pious invocations, which, it is believed, will improve the condition of the soul on its unfamiliar journey.
The priests come and recite the sutras; and then the body is prepared for burial. It is washed in warm water, and robed all in white. But the kimono of the dead is lapped over to the left side. Wherefore it is considered unlucky at any other time to fasten one's kimono thus, even by accident.
When the body has been put into that strange square coffin which looks something like a wooden palanquin, each relative puts also into the coffin some of his or her hair or nail parings, symbolizing their blood. And six rin are also placed in the coffin, for the six Jizō who stand at the heads of the ways of the Six Shadowy Worlds.
The funeral procession forms at the family residence. A priest leads it, ringing a little bell; a boy bears the ihai of the newly dead. The van of the procession is wholly composed of men — relatives and friends. Some carry hata, white symbolic bannerets; some bear flowers; all carry paper lanterns,—for in Izumo the adult dead are buried after dark: only children are buried by day. Next comes the kwan or coffin, borne palanquin-wise upon the shoulders of men of that pariah caste whose office it is to dig graves and assist at funerals. Lastly come the women mourners.
They are all white-hooded and white-robed from head to feet, like phantoms. [14] Nothing more ghostly than this sheeted train of an Izumo funeral procession, illuminated only by the glow of paper lanterns, can be imagined. It is a weirdness that, once seen, will often return in dreams.
At the temple the kwan is laid upon the pavement before the entrance; and another service is performed, with plaintive music and recitation of sutras. Then the procession forms again, winds once round the temple court, and takes its way to the cemetery. But the body is not buried until twenty-four hours later, lest the supposed dead should awake in the grave.
Corpses are seldom burned in Izumo. In this, as in other matters, the predominance of Shintō sentiment is manifest.
12
Except in those comparatively rare instances where the family is exclusively Shintō in its faith, or, although belonging to both faiths, prefers to bury its dead according to Shintō rites. In Matsue, as a rule, high officials only have Shintō funeral.
13
Unless the dead be buried according to the Shintō rite. In Matsue the mourning period is usually fifty days. On the fifty-first day after the decease, all members of the family go to Enjōji-nada (the lake-shore at the foot of the hill on which the great temple of Enjōji stands) to perform the ceremony of purification. At Enjōji-nada, on the beach, stands a lofty stone statue of Jizō. Before it the mourners pray; then wash their mouths and hands with the water of the lake. Afterwards they go to a friend's house for breakfast, the purification being always performed at daybreak, if possible. During the mourning period, no member of the family can eat at a friend's house. But if the burial has been according to the Shintō rite, all these ceremonial observances may be dispensed with.
14
But at samurai funerals in the olden time the women were robed in black.
二一 一八九一、十一月二日
志田は再び學校へ來る事はない。彼は洞光寺の古い墓地の杉の木の影の下に眠つて居る。追悼會の時、橫木は死んだ友人の靈に對して美はしい祭文を讀んだ。
しかしその橫木自身も病んで居る。そして私は彼に對して甚だ心配にたへない。醫師の言によれば過度の勉强から起つた何か腦の病氣で惱んで居るのである。たとへよくなつても始終注意して居らねばならない。中には橫木は體格强壯でその上若いから大丈夫だらうと思つて居るものもある。强い坂根は先月血を吐いたが、今はもうよい。そんな風に橫木も囘復するであらうと信じられる。小豆澤は每日友人の知らせをもつて來る。
しかし囘復は決して來ない。その若い生命の機關の何か不思議のぜんまいが切れた。人事不省が長く續いて時々暫らくの間だけ心が生きて居る。兩親とそれから親戚友人は日夜注意してその氣のついて居る時を利用して何かやさしい事をささやいたり、或は『何か望みはないか』と聞いて見ようとして居る。それから或晩その返事がある。
『はい、僕は學校へ行きたい、學校を見たい』
そこで一同がこのよい頭腦も全く駄目になつたのではないかと思ひながら返事をする。
『もう夜中過ぎであるし、それから月もない。その上夜は寒い』
『いえ、星で見えます――僕はもう一度學校を見たい』
一同は最もやさしくすかして見ても駄目であつた、死にかかつて居る少年はただ最後の願を悲しげに執念深くくりかへして居る。
『僕はもう一度學校を見たい、今見たい』
そこで隣室で小聲で相談が始まる、それから簞笥の引出しが開いて暖い着物が用意される。それから房市と云ふ丈夫な下男が提灯をつけて來て、やさしい無骨な聲で叫ぶ――
『富さん、わしの背中にのつて學校へ參りませう、なーに近いから、坊つちやんにもう一度學校を見せて上げます』
大事に一同が綿入でこの少年を包む、それから小兒のやうに房市の肩に腕を置く、そしてこの丈夫な下男は寒い街を通つて安らかに彼を負ふて行く、父は提灯をもつて房市の側から急ぐ。そして小さい橋向うの學校まで遠くはない。
大きな薄墨色の建物は夜目に殆んど眞黑に見える、しかし橫木には見える。彼は自分の敎室の窓を見る、樂しかつた四ケ年いつも每朝下駄を音のしない草履にはきかへた屋根のある生徒昇降口を見る、今寢て居る小使の部屋を見る、小さい塔に眞黑くかかつて居る鐘が星あかりに影をうつして居る處を見る。
それからささやく。
『今みんな思ひ出せる。忘れてゐた――そんなひどい病氣だつた。みんな又思ひ出す。あゝ、房市、お前は本當に親切だ。僕はもう一度學校を見たので非常に嬉しい』
それから又彼等は長い人の通らない街を通つて急いで歸る。
[やぶちゃん注:私は、この条を読むたび、目頭の熱くなるのを抑えられない。
「一八九一、十一月二日」前に注した通り、ハーンは十三日後の明治二四(一八九一)年十一月十五日に熊本第五高等学校に転任し、松江を去ることになる。「八雲会」の「松江時代の略年譜」には、前月の十月八日に盟友で教頭の『西田千太郎に熊本への転任の決意を報告する』とある。ここでは、ハーンが本「第十九章 英語敎師の日記から」を書くに当たってそうした事実を一切記さずに語っていることに注意されんこと、そうしてこれは、ハーンの確信犯であること、をのみ述べおくに留める。以前に申し上げた通り、総ての真相は最後の「二四」で注する。
「洞光寺」既出既注であるが、再掲しておく。原文を見て頂くと分かる通り、「とうこうじ」と読む。現在の島根県松江市新町にある曹洞宗松江の金華山洞光寺。当時のハーン居宅から南南東二・六キロメートルに位置する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「腦の病氣」後の「二四」に出る、松江中学教諭片山尚絅(しょうけい)氏の横木への追悼の祭文中にも「其病因ヲ問フニ腦ニ急劇ノ症ヲ呈セリト」とある。
「每朝下駄を音のしない草履にはきかへた」「一一」に「革の靴のつけない者」(貧しいために革靴を買えない生徒)「は學校に居る間は、騷々しい下駄を輕い草履にはきかへねばならない」とある。横木家(横木について詳述する「一八」に「彼は大工の子である、そして兩親はその子を中學校に出す事はできなかつた。しかし小學校で拔群の成績を示したので、富有な人が感心して學費を出さうと云ひ出した。彼は今學校の花である。彼は殊に長い目の著しく平和な顏と愉快さうな微笑をして居る」とある)の貧窮を再度、思い出して戴きたい。]
ⅩⅩⅠ.
November 2, 1891.
Shida will never come to school again. He sleeps under the shadow of the cedars, in the old cemetery of Tōkōji. Yokogi, at the memorial service, read a beautiful address (saibun) to the soul of his dead comrade.
But Yokogi himself is down. And I am very much afraid for him. He is suffering from some affection of the brain, brought on, the doctor says, by studying a great deal too hard. Even if he gets well, he will always have to be careful. Some of us hope much; for the boy is vigorously built and so young. Strong Sakane burst a blood-vessel last month and is now well. So we trust that Yokogi may rally. Adzukizawa daily brings news of his friend.
But the rally never comes. Some mysterious spring in the mechanism of the young life has been broken. The mind lives only in brief intervals between long hours of unconsciousness. Parents watch, and friends, for these living moments to whisper caressing things, or to ask: 'Is there anything thou dost wish?' And one night the answer comes:―
'Yes: I want to go to the school; I want to see the school.'
Then they wonder if the fine brain has not wholly given way, while they make answer:―
'It is midnight past, and there is no moon. And the night is cold.'
'No; I can see by the stars — I want to see the school again.'
They make kindliest protests in vain: the dying boy only repeats, with the plaintive persistence of a last —'I want to see the school again; I want to see it now.' So there is a murmured consultation in the neighbouring room; and tansu-drawers are unlocked, warm garments prepared. Then Fusaichi, the strong servant, enters with lantern lighted, and cries out in his kind rough voice:―
'Master Tomi will go to the school upon my back: 'tis but a little way; he shall see the school again.
Carefully they wrap up the lad in wadded robes; then he puts his arms about Fusaichi's shoulders like a child; and the strong servant bears him lightly through the wintry street; and the father hurries beside Fusaichi, bearing the lantern. And it is not far to the school, over the little bridge.
The huge dark grey building looks almost black in the night; but Yokogi can see. He looks at the windows of his own classroom; at the roofed side-door where each morning for four happy years he used to exchange his getas for soundless sandals of straw; at the lodge of the slumbering Kodzukai; [11] at the silhouette of the bell hanging black in its little turret against the stars.
Then he murmurs:―
'I can remember all now. I had forgotten — so sick I was. I remember everything again: Oh, Fusaichi, you are very good. I am so glad to have seen the school again.'
And they hasten back through the long void streets.
11
The college porter.
二〇
文明人の恐るべき顏について書いたのは奇人フーリエではなかつたか。誰にしてもこの極東で歐洲人の顏を始めて見た時どんな結果があつたか、その人に分つたらその人の骨相學的學說が實際の解決を見たらしく思つたであらう。本國で容貌について『綺麗である』『人好きがする』『特色がある』と敎へられて居る物は、支那や日本ではその通りの印象を與へない。西洋のイロハ文字程自分等に親しい顏面表情の種類は、始めての東洋人には分らない。東洋人の始めに認むるところは民族の特性であつて個性でない。凹んだ眼、凸出した額、鷹のやうな鼻、大きな顎の進化論上の意味(侵略的勢力習慣のしるし)は飼はれた動物が始めて生物を捕食する敵を見て直ちにその性質をさとると同じ種類の直覺力で穩やかな人種にさとられるのである。歐洲人に滑らかな顏附の、細つそりした、たけの低い日本人は子供のやうに見える、そして『ボーイ』は橫濱の商人の日本人の從者が今呼ばれる名である。日本人にとつては始めての、赤い毛の、あばれものの、醉ひどれの歐洲水夫は惡魔か、猩々か、海の怪物に見えた、そして支那人には西洋人は今も『洋鬼』と呼ばれて居る。日本に於ける外國人の大きな身長、大きな力量、烈しい步きぶりは彼等の顏から來る變な感じを强くして居る。子供等は彼等が往來を通つて居るのを見て恐れて泣き出した。そして最も邊鄙な處では日本の子供は歐米人の顏を始めて見て今日でも泣き勝ちである。
松江の或婦人【譯者註一】は私の前で、小さい時のこの珍らしい追懷談を語つた。『私が餘程小さい時分に大名が武術を敎へる西洋人を御雇になりました。私の父と大勢の侍がその西洋人を迎ひに出ました、それから澤山の人々が見物に往來の兩側に列んでゐました、以前に西洋人の來た事は一度もありませんでしたから。そこで私共は皆見に參りました。西洋人は船で參りました、當時こちらには汽船はありませんでした。西洋人は非常にたけが高くて、長い足で早く步きました、それから子供等はその人を見て泣き出しました、顏は日本人の顏と同じでなかつたからです。私の弟は大聲で泣き出して母の着物に顏を隱しました、そこで母は叱つて申しました「この西洋人は殿樣に仕へにここへ來た大變よい人だからこの人を見て泣くのは失禮千萬です」しかし弟はやはり泣きました。私は恐ろしくはありませでした。私は西洋人の顏を見上げてゐましたらその西洋人は來てにつこり笑ひました。大きな顎ひげがありました、大變不思議な恐ろしい顏だとは思ひましたがよい顏だと思ひました。それから止つてにつこりして私の手に何か入れました。そして大きな指で私の頭や顏にさはりました、そして何だか分らぬ事を云ふて行つて仕舞ました。西洋人が行つたあとで、私は手に入れてあつた物を見たら、それは小さい綺麗な眼鏡でした。その眼鏡の下へ蠅を入れると中々大きく見えます。その當時私はこの眼鏡は大變不思議な物だと思ひました。今でもそれをもつてゐます』この婦人は部屋の簞笥から取り出して私の前に小さい綺麗な懷中顯微鏡を置いた。
この小さい事件の主人公はフランスの將校であった。封建制度廢止と共にこの人の勤務は當然なくなった。この人の話【譯者註二】は今も松江に殘つて居る、そして老人達はこの人に關するはやり節を覺えて居る、彼の外國語のまねと思はれるやうな、早口のでたらめの一種である。
唐人ノネゴトニハ キンカラクリ メーダガシヨー
サイ坊主 ガ シンペイシテ ハリシテ ケイサン
ハンリヤウ ナ サツクルルルルルレナノンダジユ
譯者註一。松江の婦人とは實は小泉
夫人の事、蟲眼鏡はその時與へられ
たのでなく、夫人の父卽ち出雲の士
族で當時佛人の學生たりし人に與へ
たのをかくの如くに記したのである、
この蟲眼鏡は今も夫人が藏して居ら
れる。
譯者註二。明治の初年の頃の事で、
名はワレツトと傳へられて居る。
[やぶちゃん注:「文明人の恐るべき顏について書いたのは奇人フーリエではなかつたか」これはフランスの哲学者で社会思想家の「空想的社会主義者」として知られるフランソワ・マリー・シャルル・フーリエ(Francois Marie Charles Fourier 一七七二年~一八三七年)のことか? 私は彼の著作を読んだことがないので。これ以上の注を控える。
「フランスの將校」「ワレツト」「松江一中20期WEB同窓会・別館」の「赤山夜話」の「赤山とお雇いフランス人」に詳しい。それによれば、松江藩藩主松平定安は明治三(一八七〇)年に軍制をフランス式に改めるため(同頁の注によれば、松江藩の軍制はイギリス式であったが、明治政府が陸軍にはフランス式、海軍はイギリス式にすることを決定したことが背景にあるらしいする)、フランス語・医学・砲術等の教師としてアレキサンドルとワレットの二人のフランス人を招請している(当時は未だ廃藩置県の一年前で島根県にはなっていない。廃藩置県は翌四年七月十四日(グレゴリオ暦一八七一年八月二十九日)に発せられ、旧松江藩領に松江県・旧広瀬藩領に広瀬県・旧母里(もり)藩領に母里県が置かれたが、島根では同年十一月十五日(一八七一年十二月二十六日)の布告で前記三県と隠岐地方が島根県として合併、隠岐地方を除く石見地方に改めて浜田県が置かれた。現行の地域が確定するのは明治一四(一八八一/既にグレゴリオ暦に変更)年九月十二日に現在の鳥取県が分立した時点である。ここは主にウィキの「島根県」に拠った)。ベリゼール・アレクサンドル(Belisaire Alexandre ?~一八七七年)は当時のフランス公使館の館附医師として明治元(一八六八)年に来日した歯科医師で、松江ではフランス語と医学を教えたらしい。ワレットは慶応三(一八六七)年一月に第一次フランス陸軍顧問団の一員として来日したフレデリック・ヴァレット軍曹(Frederic
Valette 一八三四年三月十一日~?)である可能性が高いとある。以下、「松平定安公傳」によれば、アレキサンドルは語学・医学・化学・鉱物学を教授し、ワレットは語学を教えることになっていたらしいが、ワレットの方は実際は砲術訓練が中心で、同書は古志原(こしばら 市街南東直近で現在の松江市古志原)などで行われたワレットによる砲術訓練を伝えていると注にある。ところが、降って湧いた廃藩置県と武装解除によって当初一年半だった予定が無効となり、僅か四ヶ月ほどで二人は松江を去ったとある。さらに、このワレットの薫陶を受けた人物に(以下、(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略させて頂いた)、
《引用開始》
先ほども登場した『松平定安公傳』に、ワレットが砲術伝習を行った当時の松江藩の軍隊について説明があります。それによると常備隊・予備隊・臨時御手当・砲隊・海岸砲士隊があり、予備隊の第八小隊隊長に「小泉湊」の名があります。
だれ、それ?とおっしゃる方も多いでしょう。何を隠そう、このお方は、先の副将軍……じゃなくって、へるん夫人、小泉セツさんの実父にあらせられるのです。小泉湊は三百石を食み,五十人の組士を統率する番頭を勤めていました。セツは生後まもなく、子どものなかった遠い親戚筋に当たる稲垣家の養女となり、稲垣セツとして内中原の祖母橋のたもとの家(今だと「地域福祉センターゆうあいの里」がある場所ではないかと思います)で成長しますが、直接もらったのか、小泉湊からもらったのかは定かでありませんが、ワレットからもらったという虫眼鏡(ルーペ?)をもっていて、それは現在、小泉八雲記念館に保存されています。
ワレットたちからフランス語を学んだ人の中に玉木十之助,梅謙次郎といった名前がありますが,彼らはいずれもセツと関わりがありました。玉木十之助の妻れんはセツと親しかった従姉であり、十之助の姪のかねの夫が梅謙次郎でした。梅謙次郎は後、へるんさんが東大の講師となる際、なんらかの働きかけを行ったりしたようです。
《引用終了》
セツの実父「小泉湊(みなと)」は維新後の改名で元は小泉弥右衛門俊秀と言い、セツは彼と妻チエの次女であった(但し、生まれて直ぐに遠縁の稲垣家の養女となっている)。因みに、この後には、ワレットのことではないが、驚くべき事実が書かれている(下線やぶちゃん)。
《引用開始》
小泉湊氏と同様、ヘルンさんがらみになりますが、根岸干夫(たてお)氏もワレットについて兵学を修めた人でした。根岸って聞いたことのある名前ですよね?そう、ヘルンさんが住んでいた城(!)見縄手の旧居の所有者です。『松平定安公傳』によれば,明治三年六月十、十一日に杵築浜で「町搏」を挙行した際、ワレットと同道して馬で松江から平田に向かい、一泊した後、大社に着いています。七月にワレットが松江藩を去ることになると、末次本町で開かれた送別の宴会に参加しています。
ヘルンさんは城見縄手の家の庭をいたく気に入ってたようです。また「日本の庭で」のなかで、「それを造った人たちは幾世代も前に世を去ってしまって,今は永遠の輪廻の中にいる」と語っていますが、ここの庭は実はこの干夫氏が作ったものだそうです。なんでも、明治七、八年の頃、九州方面で不穏な情勢となったとき(西南戦争は明治十年ですのでその前の話のようです)、ひとたび乱が起こったら従軍したいと考え、ついては身体を鍛えねば、と庭を造ることを思い立ったのだそうです。そして庭師などは雇わずに、自分の考えで、知人の力も借りて造ったのがあの庭だとか。
《引用終了》
ハーン遺愛の、あの「庭」である! なお、この引用させて戴いた「松江一中20期WEB同窓会・別館」には私は大変お世話になっている。同サイトのリンク集「あっ,みっけ~」の最後に私のサイト「鬼火」が引かれてあるが、私の「やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)」の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」では特に多大な御協力を受けている。ここを借りて、再度、感謝の意を表するものである。
「この人の話は今も松江に殘つて居る」松江には「ワレット豆」という名の「さやえんどう」が今もあるが、これは個人ブログ「わかばの日記」の「松江の夏の味覚」によれば、十五センチメートル強の『長さの豆で、肉厚のさやごと調理する。モロッコ豆の一種であるらしい。「ワレット」の名は、明治初期に松江藩校修道館に雇われたフランス人教師フレデリク・ワレットに由来する。語学教師であり、砲術・フランス式軍事教練をも担当していた人らしい。彼が持ってきた豆が松江で栽培されるようになって、彼の名がそのまま豆の名前になったのだ。砲術やフランス式軍事教練が、どれほどの役に立ったかはわからないが、ワレット豆は百数十年にわたって営々と栽培され続け、今や松江の夏の味覚にまでなっている』とある。
「唐人ノネゴトニハ キンカラクリ メーダガシヨー/サイ坊主 ガ シンペイシテ ハリシテ ケイサン/ハンリヤウ ナ サツクルルルルルレナノンダジユ」不詳。この囃子歌(?)について何かご存じの方は、是非、御教授を乞うものである。]
ⅩⅩ.
Was it not the eccentric Fourier who wrote about the horrible faces of 'the civilizés'? Whoever it was, would have found seeming confirmation of his physiognomical theory could he have known the effect produced by the first sight of European faces in the most eastern East. What we are taught at home to consider handsome, interesting, or characteristic in physiognomy does not produce the same impression in China or Japan. Shades of facial expression familiar to us as letters of our own alphabet are not perceived at all in Western features by these Orientals at first acquaintance. What they discern at once is the race-
characteristic, not the individuality. The evolutional meaning of the deep-set Western eye, protruding brow, accipitrine nose, ponderous jaw — symbols of
aggressive force and habit — was revealed to the gentler race by the same sort of intuition through which a tame animal immediately comprehends the dangerous
nature of the first predatory enemy which it sees. To Europeans the smooth-featured, slender, low-statured Japanese seemed like boys; and 'boy' is the term by which the native attendant of a Yokohama merchant is still called. To Japanese the first red-haired, rowdy, drunken European sailors seemed fiends, shōjō, demons of the sea; and by the Chinese the Occidentals are still called 'foreign devils.' The great stature and massive strength and fierce gait of foreigners in Japan enhanced the strange impression created by their faces. Children cried for fear on seeing them pass through the streets. And in remoter districts, Japanese children are still apt to cry at the first sight of a European or American face.
A lady of Matsue related in my presence this curious souvenir of her childhood: 'When I was a very little girl,' she said, our daimyō hired a foreigner to teach the military art. My father and a great many samurai went to receive the foreigner; and all the people lined the streets to see,— for no foreigner had ever come to Izumo before; and we all went to look. The foreigner came by ship: there were no steamboats here then. He was very tall, and walked quickly with long steps; and the children began to cry at the sight of him, because his face was not like the faces of the people of Nihon. My little brother cried out loud, and hid his face in mother's robe; and mother reproved him and said: "This foreigner is a very good man who has come here to serve our prince; and it is very disrespectful to cry at
seeing him." But he still cried. I was not afraid; and I looked up at the foreigner's face as he came and smiled. He had a great beard; and I thought his face was good though it seemed to me a very strange face and stern. Then he stopped and smiled too, and put something in my hand, and touched my head and face very softly with his great fingers, and said something I could not understand, and went away. After he had gone I looked at what he put into my hand and found that it was a pretty little glass to look through. If you put a fly under that glass it looks quite big. At that time I thought the glass was a very wonderful thing. I have it still.' She took from a drawer in the room and placed before me a tiny, dainty pocket-microscope.
The hero of this little incident was a French military officer. His services were necessarily dispensed with on the abolition of the feudal system. Memories of him still linger in Matsue; and old people remember a popular snatch about him,— a sort of rapidly-vociferated rigmarole, supposed to be an imitation of his foreign speech:
Tōjin no negoto niwa kinkarakuri medagashō,
Saiboji ga shimpeishite harishite keisan,
Hanryō na Sacr-r-r-r-r-é-na-nom-da-Jiu.
一九 一八九一、九月四日
長い暑中休暇は終り、新學年は始まる。
隨分變つて居る。敎へた生徒のうちで死んだ者もある。卒業して松江を永久に去つた者もある。又敎師で變つた者もある、代りの人々も來て居る、そして新校長が來て居る。
又なつかしい知事も行かれた、東北の寒い新潟に轉任された。榮轉であつた。しかしこ人は出雲を治めた事七年であつた、そして誰でもこの知事を愛したが、父のやうに思ふてゐた學生等は特に愛してゐた。松江市の住民が別れのために河に集つた。汽船に乘るために通る道筋の町々、橋、波止場、屋根までに人々が群をなして見納めに知事の顏を見ようととあせつた。泣いて居る人が數千あつた。汽船が波止場を離れる時、アアアアアアアアアアアと云ふ叫びが起つた。これは知事の行を盛んにするつもりなのだが私には松江全市の悲みの泣聲のやうに思はれた、そして再びこんな聲を聞きたくはないと思ふ程憂を帶びた物と思はれた。
初年級の姓名と顏は皆自分に珍らしい。疑もなくこれは學校で始めて敎へた日の氣分が 今朝一年甲組の敎場へ入つた時、非常にはつきり私に又かへつて來たからである。
日本の敎場に入つて、私の前に若い顏がずらりとならんだのを見渡す時の始めての氣分は妙に愉快である。始めての西洋人の眼には見慣れない顏ばかりであるが、どの顏にも共通な名狀できない愉快な物がある。はつきりした强い印象を與へる特色のある物はない、西洋人の顏と比べると、それ等の顏は未製品にしか見えないほど、輪廓などおだやかである。喧嘩好きも亦控へ目も好奇心も亦無頓着も少しも表はれてゐない。中には充分發達した靑年の顏だが、何とも云へぬ程子供らしい若々しさと正直さを表はして居るのがある、平凡な顏もあれば目立つ顏もある、又、女のやうに綺麗な顏も少しはある、しかし何れも皆著しい温和と云ふ特色を表はして居る、全く落ちついて素直な點を除いて愛憎その他何等の念も表はれてゐない佛像の夢みるやうなおとなしさである。後になつてこの温和な平靜なやうすに、もはや氣がつかなくなるであらう、段々慣れるに隨つて、どの顏にもこれまで氣づかなかつた特色が次第に表はれて、諸君に個人的區別ができるやうになるであらう。しかしその始めての印象が諸君と共に殘るであらう、そして長く親しんだあとで始めて充分分る日本人の性格の或點を、不思議にも豫め示してゐた物である事を、種々の經驗をへたのちにさとる時が來るであらう。始めてのこの印象の記憶のうちに個人性のない愛すべき點と個人性のない弱點とを有する日本人の魂を少しのぞいた事を認むるであらう。――窒息するやうな氣壓から急に輕い明るい自由な自然のままの空氣の中へ出た時急に淸々した感じをもつた事にのみ比べられるやうな精神的安樂を、獨りで居る西洋人が感ずるやうな人生の性質を少し見た事を認むるのであらう。
[やぶちゃん注:後段部は推定表現の「~であろう」が連発されると、非常に読み難く、且つ、判り難い。そう感じた方は「~のである」「~である」という確述表現に読み換えると、すべて腑に落ちるはずである。実際、ハーンの言いたいのは、そうした確信的感想であるからである。
「なつかしい知事も行かれた、東北の寒い新潟に轉任された。榮轉であつた」既注の籠手田安定であるが、今回、調べてみると、不思議なことにウィキの「新潟県知事一覧」には、籠手田の県知事就任は明治二四(一八九一)年四月九日(明治二九(一八九六)年二月六日に滋賀県知事として転任)となっている。不審。ここにもハーンの文学的操作が行われているか? 識者の御教授を乞うものではある。なお、ウィキの「籠手田安定」によると、籠手田は転任したその年、『自身の撃剣の門人を無試験で看守に採用したことが問題視され』、同年十一月二十五日の『新潟通常県会で、「看守はあえて武者修行なる者にあらず。囚徒を監督するものなるを、おのれが撃剣好きなるゆえ採用せしなどとは、地方税を濫費せしいものというべし」と議員から糾弾され』、同月二十日附『新潟新聞』でも、『「自ら法を作て自ら之を破る者は我新潟県知事なり」と批判された』とあり、さらに新潟県知事在任中に『京都の剣術家小関教政』(おぜきのりまさ)『父子を新潟へ招き庇護し、教政に心形刀流と無刀流の免許皆伝を与えた。教政を引き連れ』、『旧新発田藩剣術師範今井常固の道場を破る。強い剣客を配下に従えたびたび道場破りを行ったことは籠手田の悪癖であったといわれる』とある。この古(コ)武士、なかなかコりない性格でもあったらしい。
「新校長」これは本当の正式な「校長」であって、盟友の校長心得(現行の教頭或いは副校長相当)(「一八」の「譯者註」参照)の西田ではないと思われる。
「一年甲組」原文は“First Division A”。訳者田部隆次(「あとがき」から推定)氏の推定か、松江中学出身の共訳者落合貞三郎や大谷啓信に訊ねて事実を確認したものに基づく翻訳であろう。平井呈一氏の訳では『一年A組』である。
「窒息するやうな氣壓から急に輕い明るい自由な自然のままの空氣の中へ出た時急に淸々した感じをもつた事にのみ比べられるやうな精神的安樂を、獨りで居る西洋人が感ずるやうな人生の性質を少し見た事を認むるのであらう」ここにこそ、ハーンが眼前に居並ぶきらきらした眩しいばかりの眸を持った青少年の直きの覚醒のエクスタシーに、世界を彷徨して孤独感を募らせてきたハーン自身が日本によって目覚めさせられたそれと相等しいものを重ねて確信的に述べるという、非常に心の深層での稀有のシンクロニティの表現であることに注目されたい。]
ⅩⅨ.
September 4, 1891.
The long summer vacation is over; a new school year begins. There have been many changes. Some of the boys I taught are dead. Others have graduated and gone away from Matsue for ever. Some teachers, too, have left the school, and their places have been filled; and there is a new Director.
And the dear good Governor has gone—been transferred to cold Niigata in the north-west. It was a promotion. But he had ruled Izumo for seven years, and everybody loved him, especially, perhaps, the students, who looked upon him as a father. All the population of the city crowded to the river to bid him farewell. The streets through which he passed on his way to take the steamer, the bridge, the wharves, even the roofs were thronged with multitudes eager to see his face for the last time. Thousands were weeping. And as the steamer glided from the wharf such a cry arose,—'A-a-a-a-a-a-a-a-a-a-a!' It was intended for a cheer, but it seemed to me the cry of a whole city sorrowing, and so plaintive that I hope never to hear such a cry again.
The names and faces of the younger classes are all strange to me. Doubtless this was why the sensation of my first day's teaching in the school came back to me with extraordinary vividness when I entered the class-room of First Division A this morning.
Strangely pleasant is the first sensation of a Japanese class, as you look over the ranges of young faces before you. There is nothing in them familiar to inexperienced Western eyes; yet there is an indescribable pleasant something common to all. Those traits have nothing incisive, nothing forcible: compared with Occidental faces they seem but 'halfsketched,' so soft their outlines are—indicating neither aggressiveness nor shyness, neither eccentricity nor sympathy, neither curiosity nor indifference. Some, although faces of youths well grown, have a childish freshness and frankness indescribable; some are as uninteresting as others are attractive; a few are beautifully feminine. But all are equally characterized by a singular placidity,—expressing neither love nor hate nor anything save perfect repose and gentleness,—like the dreamy placidity of Buddhist images. At a later day you will no longer recognise this aspect of passionless composure: with growing acquaintance each face will become more and more individualised for you by characteristics before imperceptible. But the recollection of that first impression will remain with you and the time will come when you will find, by many varied experiences, how strangely it foreshadowed something in Japanese character to be fully learned only after years of familiarity. You will recognize in the memory of that first impression one glimpse of the race-soul, with its impersonal lovableness and its impersonal weaknesses—one glimpse of the nature of a life in which the Occidental, dwelling alone, feels a psychic comfort comparable only to the nervous relief of suddenly emerging from some stifling atmospheric pressure into thin, clear, free living air.
一八
各級に二三人づつある私の好きな學生のうちで、一番誰が好きとは云へない。銘々それぞれの特長がある。しかしこれから書かうとする人々、石原、大谷正信、小豆澤、横木、志田【譯者註一】の姓名や容貌は最も長く自分の記憶にはつきり殘るであらうと思ふ。
石原は士族で人物が非常にしつかりして居るので級中に甚だ勢力がある。外の人々と比べるといくらか粗暴な無遠慮な風があるが正直な男らしい處があるので人好きがする。何でも思ふ事は皆云つてしまう、そして思ふ通りの調子で云ふので時々相手を迷惑させる程である。たとへば先生の說明の仕方が惡いから、もつと分るやうに云つて下さいと平氣で云ふ。私も時々攻擊されたが、石原が惡いと思つた事はなかつた。私共は互に好いて居る。彼はよく私に花を持つて來てくれる。
或日、梅花の小枝を二つ持つて來てくれた時、私に云つた、
『先生は天長節の式に御具影に敬禮をなさいましたのを見ました。先生は先の先生と違ひます』
『どうして』
『前の先生は私共を野蠻人だと云ひました』
『何故』
『その先生は神樣(その人の神樣)の外に尊い物はない、そして外の物を尊ぶ者は賤しい無學の人民に過ぎないと申しました』
『どこの國の人です』
『耶蘇敎の僧侶で、英國の臣民だと申しました』
『しかし英國臣民なら女王陛下を尊敬しなければならない。英國領事の事務室に入るには脫帽しなければならない』
『本國でどんな事をなさるか知りません。けれども仰つた事は私の今申した通りでした。ところで私共は陛下を尊敬しなければならないと思ひます。それを本分と思ひます。陛下のために身命を捧げる事のできるのを光榮【註一】と思ひます。しかし先の先生は只[やぶちゃん注:「ただ」。]野蠻人、無智蒙昧な野蠻人だと申しました。先生如何御考ですか』
『君、私はその人自身こそ野蠻人、野卑な無學な分らずやの野蠻人だと思ふ。陛下を尊敬し、陛下の法律に從ひ、日本のために陛下が召し給ふ時いつでも身命をなげうつ覺悟を有するのは君等の最高の義務だと思ふ。たとへ君自らが外の人々の信ずる事を悉く信じられなくとも、祖先の神々や國家の宗敎を尊敬するのが君等の義務だと思ふ。それから誰が云つたにしても、君から今聞いたやうな野卑な惡口に對して憤慨するのは、國家のため又陛下のため君達のつとめだと思ふ』
註一。私は色々の級に、作文の題と
して『最も大切な願』と云ふ問を出
した。殆んど文句まで一樣に『天皇
陛下のために』死ぬ事と答へたのが
約二割あつた。しかしあとの大部分
にはネルソンの先榮にあやかりたい、
或は英雄行動犧牲的精神によつて日
本を第一等の偉大なる國民にしたい
と云ふ望みが表はれてゐた。この感
心な精神が日本の靑年の心に生きて
居る間は日本はその前途に於て恐る
べき物はない。
正信は滅多に來ないが來る時はいつでも獨りで來る。細つそりした、女性的な顏形ちの美少年で、控へ目な、全く落着いた樣子で、上品である。大分眞面目な方で笑顏も餘り見せない聲をあげて笑ふのを私は聞いた事はない。級の一番になつて、餘りひどく努力もしないでそこに居るやうである。植物を採集したり分類したりしてひまの大部分を植物學に捧げて居る。彼の家族の男子は皆さうだが彼も音樂家である。西洋では見られも聞かれもしない種々の樂器を奏する、そのうちには大理石の笛もある、象牙の笛もある、不思議な形と音色の竹の笛もある、それから笙と云ふ銳い支那の樂器もある、銀の枠に入れた色色違つた長さの管が十七もある一種の吹く樂器である。彼は始めて大鼓、小鼓、笛、篳篥(ヒチリキ)、それから胴の細長い錘(ツム)のやうな恰好の、小さい鼓の羯鼓(カツコ)と云ふ物を、寺院の音樂で使用する事を私に説明した。大きな佛式のお祭りの時正信と正信の父及び弟等は寺院の樂人となつて皇麞(ワウジヤウ)と拔頭(バツタウ)と云ふ變つた音樂を奏する。こんな音樂は西洋人の耳には始めのうちは何の趣味もないが聞くに隨つて分つて來る、そして一種特別の不思議な興味のある事が分る。正信の來るのはいつでも私の興味のありさうな佛敎か神道のお祭りに參列するやうに招きに來るのである。
小豆澤と正信は全然別人種かと人が想像する程この二人は似たところが殆んどない。小豆澤は大きい骨つぽい、一見愚なやうな男である、顏は奇妙に北アメリカ印度人に似て居る。家は富んでゐない、只一つ書物を買ふ事を除いては金のかかる娯樂をする事は殆んどできない。その書物を買ふためにも、彼は金を得るためにひまな時に働くのである。彼は本當の衣魚(シミ)である。生れつきの詮索家である。古文書の採集家である、古い寫本や繪本が反古同樣に賣られる寺町やその他の古色蒼然たる古道具屋古本屋を一軒々々徘徊して居る。彼は濫讀家である、絕えず書物を借りる、そして最も價値があると思ふところを寫してのち少しも毀損しないで返してくる。しかし一番好きなのは世界各國に於ける哲學及び哲學者の歷史である。西洋哲學史要略と云ふやうなものは色々讀んだ、それから近世哲學に關するもので、日本語に譯してある物は、スペンサーの原理も加へて、皆讀んだ。私はリユイスとジヨン・フイスク【譯者註三】を紹介してやった、英語で哲學を勉强するのは一通りの骨折でなかったが兩方とも充分に分つた。幸にして彼は非常に强健であるから、どんなに勉强しても身體が惡くなる心配はない。神經は針金のやうに强靭である。しかも彼は全く禁慾家である。客の前に茶と菓子を出すのが日本の習慣であるので、私はいつでもその茶と菓子、殊に菓子は杵築でできる特に上等品で、學生が皆好きであるのを、いつも用意して居る。小豆澤だけはどんな種類の菓子も喰べようともしない、そして云ふ「私は末子ですから直に獨立の生活をしなければなりません。私は大に艱難をしなければならないでせう。それですから今から菓子が好きになつてゐたらかへつて後に困ませう』小豆澤は人間學は中々修めて居る。生れつき注意深いのである、そして不思議な方法で松江にある凡ての人の歷史を知つて居る。彼は古い破れた錦繪を持つて來て校長【譯者註四】が十四年前公開演說で主張した意見と今日の校長の意見とが全然正反對である事を證明した。その事について校長に尋ねると校長は笑つて『勿論それは小豆澤です。しかし小豆澤の方が正しいのです、私は當時極めて若かつたのです』と云つた。そして私は小豆澤がいつか若い時があつたらうかと不思議に思ふのである。
小豆澤の親友橫木は滅多に來ない、いつでもうちで勉强して居るからである。彼はいつでもその級(三年級)の一番で小豆澤は四番である。彼等二人の交際の始まりの小豆澤の話はかうである『私は橫木が來た時じつと見てゐました、そして餘りしやべらないで、早足で步いて、人の目の處を眞直に見るのを見ました。そこで私はこの男の特色のある事を知りました。私は特色ある人間と交るのが好きです』小豆澤の云ふ事は全く本當である、橫木は至極温和な外貌の下に非常に强い性格を持つて居る。彼は大工の子である、そして兩親はその子を中學校に出す事はできなかつた。しかし小學校で拔群の成績を示したので、富有な人【註二】が感心して學費を出さうと云ひ出した。彼は今學校の花である。彼は殊に長い目の著しく平和な顏と愉快さうな微笑をして居る。敎場ではいつでも銳い質問をする、その質問が餘り奇拔なので何と答へてよいか私は時々非常に困る事がある、そしてその說明が腑に落ちないうちは決して質問を止めない。自分が正しいと思つたら仲間の意見などは構はない。或時全級が物理の新敎師の講義に出る事を拒んだ時、橫木だけは彼等と同一の行動を取る事を拒んだ、先生は理想通りの先生でなくともすぐ止めて貰へさうにはない、又どんなに無經驗でも眞面目に全力をつくして居る先生に不快な念を抱かせる正當の理由がないと論じたのであった。小豆澤は最後に彼に贊成した。この二人だけ講義に出席したので、終に殘りの學生も二週間の後には橫木の意見の正しい事をさとるに到つた。又或時基督敎の宣敎師が卑しい手段を弄して人に改宗を施さうとした時、橫木は大膽にその宣敎師の宅に赴いて彼の仕業の不德義なる事について彼と論じ、遂に彼を沈默さするに到つた。彼の仲間のうちで彼の議論の巧みな事を賞めるものがあつた。彼は答へて『僕は巧みな事はない、道德上不正な事に對して議論するのに何にも巧みである必要はない。こちらが道德上正しい事が充分分つてさへすればよい』少くともこれは小豆澤が橫木の云つた事を飜譯して私にきかせた物に近いのである。
註二。この種の美はしい義俠的行動
は日本では珍らしくはない。
もう一人の訪問者の志田は餘程虛弱な神經質の子供で、心のうちは藝術でみちて居る。繪畫は餘程上手である、古への日本の大家の立派な繪本を一部もつて居る。最後に來た時には私に見せるために珍らしい物――天女、幽靈、などの版畫を持つて來た。私がこの美しい蒼白い顏と物凄い程細い指を見た時彼も又やがて小さい靈になりはしないかと彼のために恐れずには居られなかつた。
今私は二ケ月以上も彼に遇はない。彼は餘程惡い、醫師が談話を禁じた程肺が惡いのである。しかし小豆澤は彼を訪ふて來て日本の手紙のこの飜譯を持つて來てくれる、その手紙は病氣の少年が書いて寢床の上の壁に糊ではつて置いた物である。
『わが腦髓足下、足下は我を支配せり。足下の知れる如く今や我、自らを支配する事能はず。我願ふ、速に我を囘復せしめよ。我をして多く話さしむる勿れ。我をして萬事醫師の命に服さしめよ。
明治二十四年、十一月九日。
志田の病軀より志田の腦髓へ』【譯者註五】
譯者註一。醫學博士石原喜太郞、大
谷正信、小豆澤は工兵大佐藤崎八三
郞、橫木富三郞、志田昌吉。
譯者註二。熊本にてこの原書の校正
を見せられし時、この比べやうはひ
どいと藤崎氏(小豆澤)が抗議した
時、決して侮辱ではない、アメリカ
インド人は世界に於て最も勇敢なる
人種であると云つてヘルンに慰めら
れた。藤崎大佐の談話。
譯者註三。Lewes は Ceorge Henry
Lewes(1817―1878)有名なる女流
作家 George Eliot の夫、『列傳體哲
學史』『ゲーテ傳』等著作多し。
John Fiske(1842―1901)アメリカ
の人。著作多し、進化論を基とし
たる著述もあり『The Idea of God』
『The Destiny of Man』等あり。
譯者註四。西田千太郞氏は當時校長
心得の如き地位にありし故、西田氏
の事。
譯者註五。病軀、腦髓の譯は志田の
原文を知つて居られる小豆澤氏(藤
崎大佐)の敎示による。
[やぶちゃん注:「石原」訳者注に「醫學博士石原喜太郞」とあるが、調べてみたが、不詳である。識者の御教授を乞う。
「大谷正信」本底本の共訳者(既に述べたが、「あとがき」から本十九章の訳者は田部隆次と推定される)で英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に、虚子や碧梧桐の影響から、句作を始めて「子規庵句會」に参加、「繞石」(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。
「小豆澤」「工兵大佐藤崎八三郞」以下に見るように、養子に行って姓が変わったのである。「熊本アイルランド協会」公式サイトの「ハーン雑話」に以下のようにある。
《引用開始》
藤崎八三郎
旧姓を小豆沢といいます。島根県尋常中学校での教え子で、ハーンの作品『英語教師の日記から』の中に「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」生徒の一人として紹介されています。ハーンが熊本に移った後もハーンを慕って文通を続け、資料提供の手伝いなどをしています。明治26年に卒業しますが、進路についてハーンに相談し熊本に訪ねてきたりもしました。
明治28年9月、五高に入学しますが前年12月志願兵として入営していたため、出校しないまま休学し、翌年3月に退学しています。結局、陸軍士官学校に入り、職業軍人の道を選びました。この時、藤崎家の養子になっています。
東京時代のハーンは、毎年のように家族を連れて焼津に海水浴に行き1ヶ月ほど滞在しました。明治30年の夏には藤崎も訪ねていき、ハーンのかねてからの念願であった富士登山に同行します。この登山からは『富士の山』という作品が生まれました。その当時ハーンは身体に少し衰えを感じていたらしく、富士登山はとても無理だと諦めていました。藤崎が「私が一緒に行きますから」といって周到な準備のもと、決行します。藤崎の手記によれば「一人の強力が先生の腰に巻いた帯を引いて、もう一人は後ろより押し上げやっと夕方8合目に到着。一泊して翌朝8時についに頂上に到着した」というような登山だったようです。
藤崎は東京でもハーンを慕ってよく訪ねています。藤崎夫人ヲトキさんの回想によると、縁談はハーンの助言でまとまり、お見合いも小泉家の座敷で行われたということです。明治37年2月、日露戦争が始まり藤崎は満州に出征することになりますが、ハーンは家族ぐるみで送別会を開いています。9月26日、ハーンは戦場の藤崎に手紙を書き数冊の本とともに発送して、数時間後に心臓発作で亡くなりました。藤崎は「先生の最後となった手紙と贈ってくださった本と、それから先生の亡くなられたという知らせと同時に受け取って悲嘆に耐えなかった」と手記に書いています。この絶筆となった手紙は戦災で焼失しましたが、幸い木下順二氏が写真に撮ってあった原板があり、それを焼き付けたものがこの記念館に展示されています。
ハーンの没後、上京した藤崎一家がすぐに家が見つからなかったので、小泉家の半分を借りて住んだこともありました。大正12年、熊本で済々黌高校の教師となって英語、地理を教えますが、晩年、本当は文学がやりたかったんだと孫たちに語っていたそうです。小泉時氏のお話では「藤崎さんが上京される際は好物のちらし寿司をつくってお待ちしたものでした」ということでした。
《引用終了》
「橫木」「橫木富三郞」《以下、ネタバレ注意! 本作を独り真に楽しみたいと思われる方は以下の注を読まれないことを強くお勧めする!》本章の最後で志田を追うように白玉楼中の人となる。これは「二十一」以下で詳細に「実景」描写されるが、それはもう、涙なくしては読めない。なお、私のこの「実景」の括弧書きには、実は「意味」があるのであるが、それはそれ、最後の最後に明らかにしたいと思っている。ヒントはこの私の注の最後に示しておいた)。
「志田」「志田昌吉」《以下、ネタバレ注意! 本作を独り真に楽しみたいと思われる方は以下の注を読まれないことを強くお勧めする!》同じく本章の「二十一」冒頭で、あっけなく冥界へと旅立ってしまうだけに、ここでハーンが「私がこの美しい蒼白い顏と物凄い程細い指を見た時彼も又やがて小さい靈になりはしないかと彼のために恐れずには居られなかつた」と感じたこと、そしてコーダに示される彼が病床に貼りつけた己れの脳髄への手紙が、これから本篇を読み進める者の哀愁を激しく誘うこととなるのである。
「先の先生」このハーンの前任の英語教師とはM・R・タットルなる人物で事実上、松江中学の生徒たちの『悪評のために契約任期半ばで退職させられ』ていた(引用は以下の引用論文から)。これは、今回、ネットを検索する中で知った、成城大学教授で比較文学者の牧野陽子氏の論文「松江のハーン(二)」(PDF)によって判明した(なお、この論文は(一)~(三)がPDFでネット上で閲覧出来る。頗る示唆に富む優れた論文で、向後、精読の上、既電子化部分の注にも追加したいと考えている)。以下、「前任者M・R・タットル」の条から引用させて戴く。
《引用開始》
このタットルなる人物については、カナダはノバスコシア出身の年若い宣教師だったということ以外、知られていない。だが、生徒をキリスト教に改宗させようとしたり、ことあるごとに日本の風習や信仰の悪口を言って物議をかもしていた。しかも、生徒の回想によれば、大変な寒がりで、特別の部屋でストーブをたき、そこへ生徒を代わる代わる呼んで教えた。そのうち頭巾を被り、やがてストーブの前に毛布を敷いてごろっと横になる。また長い脛で教室の机をまたいで歩いた、というから、生徒側が憤慨したのも無理はない。氏の行状に懲りて、ハーンとの契約文には、生徒に対し宗教活動を行わないという条文が付加されていた。そしてタットルのことをハーンが知るのは、天長節のあと、一人の生徒との会話の中でだった。
《引用終了》
とされ、この後で石原とハーンの会話を牧野氏の訳で引用された上、『ここで「前の先生」というのは例のタットルのことである。そして一方では東京の第一高等学校の内村鑑三が日本人でありながら拝礼を拒否していわゆる「不敬事件」(一八九四年一月)を起こしたことも聞いていたから、ハーンは自分の生徒に西洋文明に媚びへつらわぬ気骨のあることを知って好ましく感じたのだろう』と注しておられる。キリスト教嫌いのハーンにして、この時石原の述懐に、まさに快哉を叫びたかった気持ちは、十分に理解は出来る(私の後注の「基督敎の宣敎師が卑しい手段を弄して人に改宗を施さうとした時、橫木は大膽にその宣教師の宅に赴いて彼の仕業の不德義なる事について彼と論じ、遂に彼を沈默さするに到つた」も必ず参照されたい)。なお、「タットル」の綴りを“Tuttle”と仮定して調べてみたが、事蹟は不明である。識者の御教授を乞う。
「ネルソンの先榮」「先榮」は原文“the glory”であるから、先行する「光栄」の意。「ネルソン」はイギリス海軍提督であった初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson 一七五八年~一八〇五年)のこと。「アメリカ独立戦争」・「ナポレオン戦争」などで活躍し、「トラファルガー海戦」でフランス・スペイン連合艦隊を破ってナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、自身は戦闘中に戦死した。イギリス最大の英雄とされる(以上はウィキの「ホレーショ・ネルソン(初代ネルソン子爵)」に拠った)。
「この感心な精神が日本の靑年の心に生きて居る間は日本はその前途に於て恐るべき物はない」この精神、この後に軍国主義に利用され、数多の若き命が犠牲になったことを、ハーン小泉八雲が知ったら、どう思ったであろう……私は思わずにはいられない。
「大理石の笛」不詳。縄文遺跡などからも出土する、古代の楽器とされ、「天(あま)の石(磐)笛(いわふ(ぶ)え)」などとも呼称される石笛(ともされるもの)を模して造ったオカリナ様のものか? それとも次の「象牙の笛」と同様に木管でない石製横笛か? 但し、「象牙の笛」(原文は確かに“flutes of ivory”)というのは本当に象牙かどうかは疑わしい。アイボリー色を呈した動物の角製の角笛を広範にかく言うし、私はこう言った場合、今も昔も象牙は高価であるから(現在は稀少性ではなく、おぞましき「ワシントン条約」によってである)、ここは加工を施されて、一見、アイボリーに見えるような、即ち、巻貝に見えないような、法螺貝製の角笛である可能性が高いように思われる。
「不思議な形と音色の竹の笛」尺八。能に始まり、江戸歌舞伎や寄席囃子・祇園囃子で盛んに用いられて、一般の祭り囃子などにも広く普及したものに竹製横笛である「能管」(のうかん)があるが、あれを見て、かく表現は、しない。この表現はまさに「尺八」を見、その音色を聴いた西洋人こそのものである。
「笙と云ふ銳い支那の樂器もある、銀の枠に入れた色色違つた長さの管が十七もある一種の吹く樂器である」言わずもがなであるあるが、雅楽などで使う管楽器「笙」は「しやう(しょう)」と読む。ウィキの「笙」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたと考えられている。雅楽で用いられる笙は、その形を翼を立てて休んでいる鳳凰に見立てられ、鳳笙(ほうしょう)とも呼ばれる。匏(ふくべ)と呼ばれる部分の上に十七本の細い竹管を円形に配置し、竹管に空けられた指穴を押さえ、匏の横側に空けられた吹口より息を吸ったり吐いたりして、十七本のうち十五本の竹管の下部に付けられた金属製の簧(した:リード)を振動させて音を出す。音程は簧の固有振動数によって決定し、竹管で共鳴させて発音する。パイプオルガンのリード管と同じ原理である。いくつかの竹管には屏上(びょうじょう)と呼ばれる長方形の穴があり、共鳴管としての管長は全長ではなくこの穴で決まる。そのため見かけの竹管の長さと音程の並びは一致しない。屏上は表の場合と裏の場合があるが、表の場合は装飾が施されている。指穴を押さえていない管で音が出ないのは、共鳴しない位置に指穴が開けられているためである。 ハーモニカと異なり、吸っても吹いても同じ音が出せるので、他の吹奏楽器のような息継ぎが不要であり、同じ音をずっと鳴らし続けることも出来る(呼吸を替える時に瞬間的に音量が低下するのみ)。押さえる穴の組み合わせを変えることで十一種類の合竹(あいたけ)と呼ばれる和音を出すことができる。通常は基本の合竹による奏法が中心であるが、調子、音取、催馬楽、朗詠では一竹(いっちく:単音で旋律を奏すること)や特殊な合竹も用いる。その音色は天から差し込む光を表すといわれている』。『構造上、呼気によって内部が結露しやすく、そのまま演奏し続けると簧に水滴が付いて音高が狂い、やがて音そのものが出なくなる。そのため、火鉢やコンロなどで演奏前や間に楽器を暖めることが必要である』。『中国には北京語でション(shēng)、広東語でサンという、同じ「笙」の字を書く楽器がある。これは笙より大型で、音域は日本の笙の倍以上あり、素早い動きにも対応している。もともと奈良時代に日本に伝わった時点では、日本の笙もパイプのような吹き口が付属していたが、現在ではそれをはずし、直接胴に口をあてて演奏する形に変わっている』。『ラオス、タイ王国北東部では笙と同じ原理のケーン』『という楽器があり、一説では、これが中国の笙の原型であると言われる』とある。
「大鼓」これは次の「小鼓」との対称性から「たいこ」ではなく、鼓の大型のものを指す「おほつづみ(おおつづみ)」と訓じているはずである(但し、「おほかは(おおかわ)」とも訓ずる)。木部は良質の桜材で、胴長約二十八センチメートル、両端部の直径約十二センチメートル、皮革面の直径は約二十三センチメートルで、胴の両端には鉄製の輪に馬の皮を縫いつけた表革(おもてがわ)と裏革を当てて六ヶ所の穴(調孔(しらべあな)と称する)に「縦調(たてしら)べ」と呼ばれる麻紐の「調べ緒(お)」を交互に通して締めつけ、これを小締め(これは音調節のための横の「調べ緒」ではない)で固く締めつけた後、装飾的に胴繩を掛けてある(諸辞書の記載を綜合した)。
「小鼓」「こつづみ」。大鼓の項を対照参照されたい。桜材を用いて作った長さ二十五~二十六センチメートルの砂時計状の胴の両端に直径約二十センチメートルの鉄の輪に馬皮を糸で縫いつけた膜を当てて、これを「縦調べ」で締めつけ、さらに「横調べ」を巻いてこれを絞めたり緩めたりすることで、皮面に加わる張力を加減し、叩き出す音に変化を加えることが出来る(諸辞書の記載を綜合した)。
「笛」ウィキの「笛」を見ると、ここに出、注で示した以外の固有な和楽器の笛としては、神楽笛(かぐらぶえ・龍笛(りゅうてき:『雅楽で用いられる横笛。催馬楽や大和歌にも用いる』)・篠笛(しのぶえ)・高麗笛(こまぶえ)・歌笛(うたぶえ)・出雲笛(いづもぶえ:『出雲大社の神楽や神事等で使われる竹製桜皮巻の横笛。龍笛に似ており出雲製』)・唐笛(とうてき)・明笛(みんてき)・簫(しょう:「笙」とは別楽器。)・一節切(ひとよぎり:長さ約三十四センチメートルの『管の中央に節が一つある真竹の縦笛。「一節切尺八」とも呼ばれ、尺八と相互に影響があったと思われる』もの)・天吹(てんぷく:『一節切に似た真竹の縦笛』)などがある。詳しくはリンク先を参照されたい。
「篳篥(ヒチリキ)」雅楽や雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う縦笛の一種。ウィキの「篳篥」より引く(一部のアラビア数字を漢数字に代えた)。「大篳篥」と「小篳篥」の二種があるが、『一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す』。『篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に七つ、裏側に二つの孔(あな)を持つ縦笛である。発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる』。『乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。もう一方には管とリードの隙間を埋める為に図紙(ずがみ)と呼ばれる和紙が何重にも厚く巻きつけて作られている。図紙には細かな音律を調整する役割もある。そして図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器のオーボエに近い構造である。リードの責を嵌めた部分より上を「舌」、責から下の部分を「首」と呼ぶ』。『音域は、西洋音階のソ(G4)から一オクターブと一音上のラ(A5)が基本だが、息の吹き込み方の強弱や葦舌のくわえ方の深さによって滑らかなピッチ変化が可能である。この奏法を塩梅(えんばい)と呼ぶ』。『雅楽では、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)と篳篥をまとめて三管と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。篳篥は笙や龍笛より音域が狭いが音量が大きい。篳篥は主旋律(より正しくは「主旋律のようなもの」)を担当する』。篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、和邇部茂光、大石峯良、源博雅、藤原遠理(とおまさ)などがいる。『亀茲が起源の地とされている』(亀茲(キジ/呉音・クシ/漢音・キュウシ/拼音・Qiūzī)はかつて中国に存在したオアシス都市国家で現在の新疆ウイグル自治区アクス地区庫車(クチャ)県付近、タリム盆地の北側の天山南路の途中に位置した。玄奘の「大唐西域記」では「屈支国(くっしこく)」と記されてある。ここはウィキの「亀茲」に拠る)。『植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った芦舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、紀元前一世紀頃から中国へ流入した。三世紀から五世紀にかけて広く普及し、日本には六世紀前後に、中国の楽師によって伝来された。大篳篥は平安時代にはふんだんに使用されていた。「扶桑略記」「続教訓抄」「源氏物語」などの史料、文学作品にも、大篳篥への言及がある。しかし、平安時代以降は用いられなくなった。再び大篳篥が日の目を浴びるのは明治時代であった。一八七八年(明治十一年)、山井景順が大篳篥を作成し、それを新曲に用いた』とある。
「錘(ツム)」“spool”。紡錘(つむ)。狭義の「つむ」は「糸を紡ぎながら巻き取る装置」であるが、この場合は、西洋の、主にアメリカで用いられる現行の「糸巻き」を指す単語である。「羯鼓」(かっこ:「鞨鼓」とも書く。元は雅楽の打楽器で鼓の一種。奏者の正面に横向きに置き、先端を団栗状にしてある桴(ばち)を使って左右両面を打つもの。主に唐楽で使われるが、曲の開始の合図を出す指揮者の役目をも担っており、羯鼓の奏者が桴を手にすることを他の奏者達は演奏開始の合図とする)は、確かに、あの馴染みのリール状の糸巻き枠、スプールによく似ているではないか。
「皇麞(ワウジヤウ)と拔頭(バツタウ)と云ふ變つた音樂」孰れも雅楽の唐楽で舞曲。「皇麞」は平調(ひょうじょう)で新楽の大曲であるが舞は現在伝わっておらず、「拔頭」雅楽。唐楽。太食(たいしき)調で古楽の小曲で林邑(りんゆう)楽の一つ。舞は一人の走舞(はしりまい)。同じ舞の手が続く型で、舞い難いと辞書にはある。
「北アメリカ印度人」「アメリカインド人は世界に於て最も勇敢なる人種」原文“a North American Indian”。アメリカ先住民である北アメリカの諸民族の総称である北米インディアンのこと。これも最早、原文の方が、すんなり読める。
「彼は本當の衣魚(シミ)である」原文は“He is a perfect bookworm”。文字通り、「本の虫」、書痴のこと。本を食うとされた昆虫綱シミ目 Thysanura に属するシミ(紙魚)類に擬えた和訳である。シミ類は、やや偏平で、細長い涙滴形形状や、体表面に銀色の鱗片が一面に並んでいる点、そして古くから本を食害すると思われていたことから「紙魚」と書かれる(英語では“silverfish”)。人家に生息する種は、確かに障子や本・和紙の表面を舐めるように食害はするものの、目立った食痕は残さない。実際に、書物に縦横のトンネル状の孔をあけて食い荒らすのは、鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属するシバンムシ(死番虫)類である(以上は概ねウィキの「シミ目」に拠った。因みに、気になる方のために言っておくと、ウィキの「シバンムシ」によれば、和名「死番虫」は『死の番人を意味するが、これは英名の“death-watch beetle”に由来する。ヨーロッパ産の木材食のマダラシバンムシ』属 Xestobium 『の成虫は、頭部を家屋の建材の柱などに打ち付けて「カチ・カチ・カチ……」と発音して雌雄間の交信を行うが、これを死神が持つ死の秒読みの時計、すなわちdeath-watchの音とする迷信があり、先述の英名の由来となった』とある)。なお、最近は、洋の東西を問わず、「心霊写真」は下火になり、代わりに「ポルターガイスト」(ドイツ語:Poltergeist )が、特に西洋では大流行りであるが、私は半分はヤラセで、後の半分は、このシバンムシが正体と思っている。同種の音を外国の動画で視聴したが、驚くべき大きな音を立てることがあるのである。
「スペンサーの原理」これは理論名ではなく、既注のイギリスの哲学者で社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)の著作である“System of Synthetic Philosophy”(全十巻)の中の、一八六二年に刊行された“First Principles”(第一原理)のことであろう。ウィキの「ハーバート・スペンサー」によれば、『社会進化論という概念は』彼の主要な『著作から発して』おり、『彼の著作『第一原理』は現実世界の全ての領野に通底する進化論的原理の詳しい説明で』、『ポピュラーな用語「進化」と共に「適者生存 (survival of the fittest) 」という言葉はダーウィンではなく、社会進化論のスペンサーの造語である』とある。
「リユイス」「Lewes は Ceorge Henry Lewes(1817―1878)有名なる女流作家 George Eliot の夫、『列傳體哲學史』『ゲーテ傳』等著作多し」ジョージ・ヘンリー・ルーイス(George Henry Lewes 一八一七年~一八七八年)はロンドン生まれのイギリス人作家。早くに学校を退学して最初は公証人事務所、次いでロシア商人の商館で働いた後、ドイツに滞在、ロンドンで『ペニー百科事典』などの雑誌に寄稿を始め、『リーダー』誌を編集したり、『隔週評論』を創刊編集した。既に結婚して子供もいたが、一八五四年から女流作家ジョージ・エリオット(George Eliot 一八一九年~一八八〇年)と生涯に亙る関係を持つようになった(ウィキの「ジョージ・エリオット」によれば、一八五一年に先の注に出るハーバート・スペンサーと知り合い、彼の紹介でルイースと知り合ったとある)。著作には悲劇や小説の他、「スペイン演劇」(一八四六年)「ゲーテの生涯と作品」(一八五五年)「生と精神の諸問題」(一八七四年~-一八七九年)などがある(以上は「ウィキまとめ」の「ジョージ・ヘンリー・ルイス」を元にした)。
「ジヨン・フイスク」「John Fiske(1842―1901)アメリカの人。著作多し、進化論を基としたる著述もあり『The Idea of God』『The Destiny of Man』等あり」アメリカの哲学者・歴史家で進化論的哲学を宗教と結びつけたジョン・フィスク(一八四二年~一九〇一年)。
「小豆澤は人間學は中々修めて居る」分かりにくい。原文は“Adzukizawa has seen much of human life and character.”。平井呈一氏は『小豆沢は、人間の生活と性格を多分に見てきている男なのだ。』と訳されておられる。
「校長」原文“the director”で、これは「校長・主事」の意ではあり、平井氏も『校長』と訳しておられるのであるが、ここまで一度も、ハーンが親しく松江中学の校長と話すシーンは登場しないし、こうした小豆澤の批判的主張を伝えて気軽に訊ねることが出来る関係であったとは思われない。しかも答えは実に爽快である。これは一読、奇異に感ずる箇所で、私などは無意識にハーンと親しかった「敎頭」の西田として読んでいた。しかしここで訳者が「西田千太郞氏は當時校長心得の如き地位にありし故、西田氏の事」と注されており、まさにまさに目から鱗、当時の校長が皆目分からぬ私には、この訳注こそ注要らずの天の助けなのであった。
「十四年前」明治二四(一八九一)年からの単純計算なら、明治十年で、この人物が西田千太郎ならば、その当時は満二十九歳である。
「富有」「富裕・富祐」に同じい。
「基督敎の宣敎師が卑しい手段を弄して人に改宗を施さうとした時、橫木は大膽にその宣敎師の宅に赴いて彼の仕業の不德義なる事について彼と論じ、遂に彼を沈默さするに到つた」先に示した牧野陽子氏の論文「松江のハーン(二)」には、この箇所への言及がある。
《引用開始》
この宣教師がタットルのことか、それとも当時松江で伝道活動に従事していた他の人物のことかは明記されていない。一八九一年四月にはバークレー・F・バクストン(一八六〇-一九四六)という英人宣教師が松江に来て、長く留まることになるのだが、その前にいた人間が問題らしく、ハーンはチェンバレン宛の手紙(一八九三年二月四目)で、松江ではその「けだもの連中」のために、自殺したり発狂したりなどの悲劇的な事件が起きた、と怒りの口調で報告している。
ハーンはたしかにキリスト教よりもギリシャや日本の多神教の方に心の安らぎを覚えた人である。しかし、晩年まで聖書を大切に持ちつづけ、子供にも聖書を読むように言ったことからもわかるように、必ずしもキリスト教の教え自体を拒否したわけではなく、ただキリスト教が宗教組織として見せる非寛容な排他性と唯我独尊性を憎み、日本の習俗に対する宣教師たちの依怙地なまでの無理解と傲慢さに腹を立てていた。それだけに、横木の毅然とした行動には快哉を送ったに違いなく、ハーンが親しくした何人かの学生の中でもとりわけ横木や石原を愛したといわれるのは、二人の優秀さのみならず、こうしたことが背景にあったと思われる。
《引用終了》
前段の検証は勿論、後段の解析も非常に示唆に富むものである。
「足下」二人称人代名詞。同等或いはそれ以下の相手に用いる敬称代名詞。貴殿。
「病軀、腦髓の譯は志田の原文を知つて居られる小豆澤氏(藤崎大佐)の敎示による」煩を厭わず、訳文と原文を並置してみる。
*
'Thou, my Lord-Soul, dost govern me. Thou knowest that I cannot now govern myself. Deign, I pray thee, to let me be cured speedily. Do not suffer me to speak much. Make me to obey in all things the command of the physician.
'This ninth day of the eleventh month of the twenty-fourth year of Meiji.
'From the sick body of Shida to his Soul.'
*
わが腦髓足下、足下は我を支配せり。足下の知れる如く今や我、自らを支配する事能はず。我願ふ、速に我を囘復せしめよ。我をして多く話さしむる勿れ。我をして萬事醫師の命に服さしめよ。
明治二十四年、十一月九日。
志田の病軀より志田の腦髓へ
*
「腦髓」は“my Lord-Soul”、「病軀」は“the sick body”で、前者は「わが支配者たる魂」で、流石に、これを「脳髄」と訳すことは。普通なら、しない。まさに藤崎大佐のお蔭で、亡き志田の肉声に我々が触れることが出来ることを、幸いとせねばならぬ。
「明治二十四年、十一月九日」この日付に注意されたい。既に述べた通り、この前の「十七」は冒頭には、
一八九一年六月一日のクレジット
が、そしてこの次の「十九」の冒頭には、
一八九一年九月四日のクレジット
がそれぞれはっきりと示されてある。
一八九一年は明治二十四年
である。
無論、ここでは愛する教え子の思い出をそれぞれに記しているのであって、時系列に前後が生じたとしても必ずしも不審ではない。
しかし――である。問題はこれより後にある。
さてもハーンは、この明治二四(一八九一)年の十一月に、出雲の堪え難い寒気を理由(それ以外にも、実は異人の妻となったセツに対する心ない噂や差別なども、理由の一つとしては、有意にあったようである)として熊本第五高等学校に転任しているのであるが、その熊本への転居のために彼が松江を去ったのは「八雲会」の「松江時代の略年譜」から、
明治二四(一八九一)年十一月十五日の午前九時(大橋西桟橋より汽船にて出発)
であったことが判っている。
さて、以下、読んでいかれると分かるが、「二十二」の冒頭には、
明治二四(一八九一)年十一月二十六日のクレジット
が示された上、
翌日(十一月二十七日)には横木が志田の墓の側(そば)に葬られる
とある。いや、それどころか、「二十三」では、
ハーンは同日(推定)に今生の別れとして横木の「死に顔」をさえ見ている
のである。次の「二十四」の冒頭には、
明治二四(一八九一)十二月二十三日のクレジット
が示された上で、寺で行われた横木の追悼会(事実は、同じ松江中学生で先に逝った志田や。今一人の生徒を含む合同の追悼会)が描かれるが、そこでは
現にハーンがその場に参列した者として、現前に確かに見たものとして、その追悼会が描かれてある
のである。
しかし、確認されたい。
ハーンは明治二四(一八九一)年十一月十五日に松江を去った
のであって、
明治二四(一八九一)年十一月二十六日も、十二月二十三日もハーンは既に熊本におり、松江には居なかった
のである。この問題は既に述べた通り、最後の最後、「二十四」の私の注で明らかにしたい。なお、底本には、やはり「二四」に「譯者註」があり、この真相が語られていて、別段、新しい発見ではないのであるが、例えば、平井呈一氏などは一切、この事実ついて触れておられず、それで読んできた私は。今回、初めて、この真相を知らされたのである。私にとってはすこぶる衝撃的な事実であったことを先に告白しておく。]
ⅩⅧ.
Among all my favourite students—two or three from each class—I cannot decide whom I like the best. Each has a particular merit of his own. But I think the names and faces of those of whom I am about to speak will longest remain vivid in my remembrance,—Ishihara, Otani-Masanobu, Adzukizawa, Yokogi, Shida.
Ishihara is a samurai a very influential lad in his class because of his uncommon force of character. Compared with others, he has a somewhat brusque, independent manner, pleasing, however, by its honest manliness. He says everything he thinks, and precisely in the tone that he thinks it, even to the degree of being a little embarrassing sometimes. He does not hesitate, for example, to find fault with a teacher's method of explanation, and to insist upon a more lucid one. He has criticized me more than once; but I never found that he was wrong. We like each other very much. He often brings me flowers.
One day that he had brought two beautiful sprays of plum-blossoms, he said to me:―
'I saw you bow before our Emperor's picture at the ceremony on the birthday of His Majesty. You are not like a former English teacher we had.'
'How?'
'He said we were savages.'
'Why?'
'He said there is nothing respectable except God,—his God,—and that only vulgar and ignorant people respect anything else.'
'Where did he come from?'
'He was a Christian clergyman, and said he was an English subject.'
'But if he was an English subject, he was bound to respect Her Majesty the Queen. He could not even enter the office of a British consul without removing his hat.'
'I don't know what he did in the country he came from. But that was what he said. Now we think we should love and honour our Emperor. We think it is a duty. We think it is a joy. We think it is happiness to be able to give our lives for our Emperor. [9] But he said we were only savages— ignorant savages. What do you think of that?'
'I think, my dear lad, that he himself was a savage,—a vulgar, ignorant, savage bigot. I think it is your highest social duty to honour your Emperor, to obey his laws, and to be ready to give your blood whenever he may require it of you for the sake of Japan. I think it is your duty to respect the gods of your fathers, the religion of your country,—even if you yourself cannot believe all that others believe. And I think, also, that it is your duty, for your Emperor's sake and for your country's sake, to resent any such wicked and vulgar language as that you have told me of, no matter by whom uttered.'
Masanobu visits me seldom and always comes alone. A slender, handsome lad, with rather feminine features, reserved and perfectly self- possessed in manner, refined. He is somewhat serious, does not often smile; and I never heard him laugh. He has risen to the head of his class, and appears to remain there without any extraordinary effort. Much of his leisure time he devotes to botany—collecting and classifying plants. He is a musician, like all the male members of his family. He plays a variety of instruments never seen or heard of in the West, including flutes of marble, flutes of ivory, flutes of bamboo of wonderful shapes and tones, and that shrill Chinese instrument called shō,—a sort of mouth-organ consisting of seventeen tubes of different lengths fixed in a silver frame. He first explained to me the uses in temple music of the taiko and shōko, which are drums; of the flutes called fei or teki; of the flageolet termed hichiriki; and of the kakko, which is a little drum shaped like a spool with very narrow waist, On great Buddhist festivals, Masanobu and his father and his brothers are the musicians in the temple services, and they play the strange music called Ojō and Batto,—music which at first no Western ear can feel pleasure in, but which, when often heard, becomes comprehensible, and is found to possess a weird charm of its own. When Masanobu comes to the house, it is usually in order to invite me to attend some Buddhist or Shintō festival (matsuri) which he knows will interest me.
Adzukizawa bears so little resemblance to Masanobu that one might suppose the two belonged to totally different races. Adzukizawa is large, raw-boned, heavy-looking, with a face singularly like that of a North American Indian. His people are not rich; he can afford few pleasures which cost money, except one,—buying books. Even to be able to do this he works in his leisure hours to earn money. He is a perfect bookworm, a natural-born researcher, a collector of curious documents, a haunter of all the queer second-hand stores in Teramachi and other streets where old manuscripts or prints are on sale as waste paper. He is an omnivorous reader, and a perpetual borrower of volumes, which he always returns in perfect condition after having copied what he deemed of most value to him. But his special delight is philosophy and the history of philosophers in all countries. He has read various epitomes of the history of philosophy in the Occident, and everything of modern philosophy which has been translated into Japanese,―including Spencer's First Principles. I have been able to introduce him to Lewes and John Fiske,—both of which he appreciates,—although the strain of studying philosophy in English is no small one. Happily he is so strong that no amount of study is likely to injure his health, and his nerves are tough as wire. He is quite an ascetic withal. As it is the Japanese custom to set cakes and tea before visitors, I always have both in readiness, and an especially fine quality of kwashi, made at Kitzuki, of which the students are very fond. Adzukizawa alone refuses to taste cakes or confectionery of any kind, saying: 'As I am the youngest brother, I must begin to earn my own living soon. I shall have to endure much hardship. And if I allow myself to like dainties now, I shall only suffer more later on.' Adzukizawa has seen much of human life and character. He is naturally observant; and he has managed in some extraordinary way to learn the history of everybody in Matsue. He has brought me old tattered prints to prove that the opinions now held by our director are diametrically opposed to the opinions he advocated fourteen years ago in a public address. I asked the director about it. He laughed and said, 'Of course that is Adzukizawa! But he is right: I was very young then.' And I wonder if Adzukizawa was ever young.
Yokogi, Adzukizawa's dearest friend, is a very rare visitor; for he is always studying at home. He is always first in his class,—the third year class,—while Adzukizawa is fourth. Adzukizawa's account of the beginning of their acquaintance is this: 'I watched him when he came and saw that he spoke very little, walked very quickly, and looked straight into everybody's eyes. So I knew he had a particular character. I like to know people with a particular character.' Adzukizawa was perfectly right: under a very gentle exterior, Yokogi has an extremely strong character. He is the son of a carpenter; and his parents could not afford to send him to the Middle School. But he had shown such exceptional qualities while in the Elementary School that a wealthy man became interested in him, and offered to pay for his education. [10] He is now the pride of the school. He has a remarkably placid face, with peculiarly long eyes, and a delicious smile. In class he is always asking intelligent questions,—questions so original that I am sometimes extremely puzzled how to answer them; and he never ceases to ask until the explanation is quite satisfactory to himself. He never cares about the opinion of his comrades if he thinks he is right. On one occasion when the whole class refused to attend the lectures of a new teacher of physics, Yokogi alone refused to act with them,—arguing that although the teacher was not all that could be desired, there was no immediate possibility of his removal, and no just reason for making unhappy a man who, though unskilled, was sincerely doing his best. Adzukizawa finally stood by him. These two alone attended the lectures until the remainder of the students, two weeks later, found that Yokogi's views were rational. On another occasion when some vulgar proselytism was attempted by a Christian missionary, Yokogi went boldly to the proselytiser's
house, argued with him on the morality of his effort, and reduced him to silence. Some of his comrades praised his cleverness in the argument. 'I am not
clever,' he made answer: 'it does not require cleverness to argue against what is morally wrong; it requires only the knowledge that one is morally right.' At
least such is about the translation of what he said as told me by Adzukizawa.
Shida, another visitor, is a very delicate, sensitive boy, whose soul is full of art. He is very skilful at drawing and painting; and he has a wonderful set of picture-books by the Old Japanese masters. The last time he came he brought some prints to show me,—rare ones,—fairy maidens and ghosts. As I looked at his beautiful pale face and weirdly frail fingers, I could not help fearing for him,—fearing that he might soon become a little ghost.
I have not seen him now for more than two months. He has been very, very ill; and his lungs are so weak that the doctor has forbidden him to converse. But Adzukizawa has been to visit him, and brings me this translation of a Japanese letter which the sick boy wrote and pasted upon the wall above his bed:―
'Thou, my Lord-Soul, dost govern me. Thou knowest that I cannot now govern myself. Deign, I pray thee, to let me be cured speedily. Do not suffer me to speak much. Make me to obey in all things the command of the physician.
'This ninth day of the eleventh month of thetwenty-fourth year of Meiji.
'From the sick body of Shida to his Soul.'
9
Having asked in various classes for written answers to the question, 'What is your dearest wish?' I found about twenty per cent, of the replies expressed, with little variation of words, the simple desire to die 'for His Sacred Majesty, Our Beloved Emperor.' But a considerable proportion of the remainder contained the same aspiration less directly stated in the wish to emulate the glory of Nelson, or to make Japan first among nations by heroism and sacrifice. While this splendid spirit lives in the hearts of her youth, Japan should have little to fear for the future. Beautiful generosities of this kind are not uncommon in Japan.
一七
ある種類の世間の信仰については學生等は健全な懷疑をもつて居ることが分る。無學な階級殊に農民の間に昔からあつて今も行はれて居る迷信、たとへばお守りやお札を信ずるやうな事は科學的敎育によつて急速に滅亡しかけて居る。佛敎の外形――偶像、佛骨、通俗な儀式――は殆んど一般の學生に何等の感動を與へない。學生は外人のやうに、偶像や宗敎上の傳說や比較宗敎には興味をもたない、十中八九は周圍にある世間の信仰を代表せる種々の物について寧ろ恥辱を感じて居る。しかし凡ての形式の根本にある深い宗敎心は彼等に存して居る、佛敎にある一元的思想は新敎育のために薄弱にならないで、かへつて發達生長するやうになつて居る。低級の佛敎に及ぼす學校の影響は同じく又低級の神道にも及んで居る。學生の全部、或は殆んど全部は皆眞面目な神道に屬して居る、しかし或一神の熱心な崇拜ではなく、むしろ高等神道が表はして居る物、卽ち忠、孝、父母敎師長上に對して從順なる事、祖先尊敬を眞面目に守るのである。卽ち神道は信仰以上を意味する。
私が始めて、その特權を許された最初の西洋人として、杵築の大社の前に立つた時、崇高な念と共にかくの如き思想が私に浮んだ。『これは一人種の祖先の社である、これは過去に對するその國民の尊敬の代表的中心である』かくて私も亦この人民の祖先の記念に尊敬を表した。
私が當時感じたと同じく、敎育をうけて一般信仰の標準以上に上つた明治時代の聰明な學生も亦、感ずるのである。そして神道は又彼等に取つて(彼等がその理由を問ふと否とに關ぜず)家族間の凡ての道德を代表し、又生命と雖も、義務のためには、その義務を果す一道具としての外何の價値もなくなる程、拔くべからざるやうに固有となつて居る忠義の精神を代表して居る。未だこの東洋はその高尙なる方の道德の源を理窟に訴へて解釋する必要はない。西洋種族に於て小兒が鍵板を打つだけの力と彈力が小さい指先にできれば、早速複雜な樂器を彈ずる事のできる程、音樂的知覺の發達して居る事を想像せよ。生得の宗敎や本能的の義務の、出雲に於て如何なる意味を有せるかは、かかる比喩によつて始めて分るであらう。
西洋に於て迷信的信仰から急にさめた自然の反動として起つた最も普通の突飛な破壞的な方の懷疑說は、私の學生のうちに痕跡も認むる事はできない。しかし、かかる感情は外では(殊に車京では)大學生の間などに見出されよう、その一人の大學生は莊嚴な鐘のひびきを聞いて私の友人に叫んだ。『十九世紀に於て未だこんな鐘などきかねばならぬと云ふのは恥ではないか』
しかし、物ずきな旅行者のためにこの機會を利用して云ふて置く、新しい敎育をうけた日本の紳士に佛敎の事を說くのは、知識のために信條や儀式を超越して居る人々に本國で 基督敎を說くと同じく感心せぬ事である。勿論宗敎や傳說の硏究をする外人を喜んで助けてくれる日本の學者はある、しかしこれ等の專門家でも『世界見物』的種類のつまらぬ好奇心を滿足させるやうな事はない。又云ふて置く、一般人民の宗敎的思想や迷信を學ばうと望む外人は敎育ある人々からでなく、必ず人民自身から學ばねばならない。
[やぶちゃん注:「鍵板」ピアノの「鍵盤」。]
ⅩⅦ.
June 1, 1891
I find among the students a healthy tone of scepticism in regard to certain forms of popular belief. Scientific education is rapidly destroying credulity in old superstitions yet current among the unlettered, and especially among the peasantry,―as, for instance, faith in mamori and ofuda. The outward forms of Buddhism—its images, its relics, its commoner practices—affect the average student very little. He is not, as a foreigner may be, interested in iconography, or religious folklore, or the comparative study of religions; and in nine cases out of ten he is rather ashamed of the signs and tokens of popular faith all around him. But the deeper religious sense, which underlies all symbolism, remains with him; and the Monistic Idea in Buddhism is being strengthened and expanded, rather than weakened, by the new education. What is true of the effect of the public schools upon the lower Buddhism is equally true of its effect upon the lower Shintō. Shintō the students all sincerely are, or very nearly all; yet not as fervent worshippers of certain Kami, but as rigid observers of what the higher Shinto signifies,—loyalty, filial piety, obedience to parents, teachers, and superiors, and respect to ancestors. For Shintō means more than faith.
When, for the first time, I stood before the shrine of the Great Deity of Kitzuki, as the first Occidental to whom that privilege had been accorded, not without a sense of awe there came to me the Sec. 'This is the Shrine of the Father of a Race; this is the symbolic centre of a nation's reverence for its past.' And I, too, paid reverence to the memory of the progenitor of this people.
As I then felt, so feels the intelligent student of the Meiji era whom education has lifted above the common plane of popular creeds. And Shinto also means for him—whether he reasons upon the question or not— all the ethics of the family, and all that spirit of loyalty which has become so innate that, at the call of duty, life itself ceases to have value save as an instrument for duty's accomplishment. As yet, this Orient little needs to reason about the origin of its loftier ethics. Imagine the musical sense in our own race so developed that a child could play a complicated instrument so soon as the little fingers gained sufficient force and flexibility to strike the notes. By some such comparison only can one obtain a just idea of what inherent religion and instinctive duty signify in Izumo.
Of the rude and aggressive form of scepticism so common in the Occident, which is the natural reaction after sudden emancipation from superstitious belief, I find no trace among my students. But such sentiment may be found elsewhere,—especially in Tōkyō,—among the university students, one of whom, upon hearing the tones of a magnificent temple bell, exclaimed to a friend of mine: 'Is it not a shame that in this nineteenth century we must still hear such a sound?'
For the benefit of curious travellers, however, I may here take occasion to observe that to talk Buddhism to Japanese gentlemen of the new school is in just as bad taste as to talk Christianity at home to men of that class whom knowledge has placed above creeds and forms. There are, of course, Japanese scholars willing to aid researches of foreign scholars in religion or in folk-lore; but these specialists do not undertake to gratify idle curiosity of the 'globetrotting' description. I may also say that the foreigner desirous to learn the religious ideas or superstitions of the common people must obtain them from the people themselves,—not from the educated classes.
一六
しかし私は今日松江に住んで居る幾人かの老美術家で更に不思議な猫を造る者があらうと內心信じて居る。そのうちに老いて尊敬すべき荒川重之助氏【譯者註】がある。この人は天保時代に、出雲の大名に種々の珍らしい物を造つた人で、私は學校の同僚によつてこの人と交際する事を得たのである。或晩彼は私に見せるために頗る不思議な物を袖にかくして私のところへ持つて來た、それは人形である、彫刻して彩色を施した首だけで胴はない、胴は首についた小さな着物で代りにしてある。しかも荒川が手を使ふてこの人形を動かすと生きて出るやうである。首の後ろは老人の頭の後ろのやうである。が、顏は嬉しさうな子供の顏である、額は殆んどない、考へ込むやうな風はどこにもない。どちらを向いてもこれを見る人は笑はずには居られぬ程、をかしい顏をして居る。これは何にも心配などのない生れつき愉快な無邪氣な『氣樂坊』である、英語では『陽氣な男』とでも云ふのであらう。これは原作ではないが有名な原物を模した物である、その原作の歷史は荒川が今一方のたもとから取り出した色のさめた卷物に書いてある、そして友人はそれを私に譯してくれる。この小歷史は昔の日本人の暮らしや考の質撲な風を面白く示して居る。
『この人形は二百六十年前、後水尾天皇のために京都の名高い能面の作者によつて造られた。天皇は御寢の前、每夜枕の傍にいつもこれを置いて、甚だこれを愛で給ふた。そしてそれにつきてつぎの歌をおつくりになつた。
世の中を 氣樂にくらせ、
何事も 思へば思ふ、思はねばこそ。
天皇崩御の後、この人形は近衞公の物となつて今もなほ同家に保存してあるさうである。
百七年程前に當時の皇太后(おくり名は盛化門院)は近衞公からこの人形を借り、その寫しを造らせ給ふた。その寫しを側に置いて甚だ愛で給ふた。
この皇太后の崩御の後、この人形は或女官に與へられたが、その姓は書いてない。その後この女官は如何なる理由かによりて髮を斷ち尼となり信行院と云ふ名をとつた。
この信行院を知れる近藤充博院法橋と云ふ人忝くもこの人形を貰つた。
さてこの記事を書く私は一度病氣にかかつた、私の病氣は氣欝から起つた。友人近藤充博院法橋、[やぶちゃん注:読点は底本ではないが、特異的に挿入した。]私を訪ふて『あなたの病氣を直す物を持つて居る』と云つて、うちに歸つた。そして直ちに歸つてこの人形を持つて來て私に貸した。それを見て私の笑ふやうに枕もとに置いて行つた。
その後私も信行院尼を幸に知つてゐたので、この人を訪ねてのち、この人形の歷史を記しそれについて一首の歌をよんだ』
(九十年程前の日附、記名なし)
譯者註。荒川重之助(龜齋)出雲の有名なる彫刻家。
[やぶちゃん注:今回、探索中に『小泉八雲の没後100年記念の掲示「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』という驚くべきハーンの詳細な日録データを発見したが(西田千太郎の肖像写真も、ここで初めて見た)、その中の明治二五(一八九二)年八月二十六日(金)の条に、『快晴、酷暑。午後、福間旅館に宿を定めた西田千太郎を自分たちの客として門脇旅館に招くため、船頭に書状を持たせて迎えにやる。西田がハーンに頼まれていた葉巻タバコと荒川重之助より託された気楽坊の模型人形を持参する』とある。これはクレジットから判るように、熊本に移ってからのことで、夏季休暇を利用して博多・門司・神戸・京都・奈良・伯耆境港・隠岐・美保の関・福山・尾道を旅した際の、印象深かった隠岐旅行を終えた後の美保関での記事である。恐らく、荒川は本篇シークエンスで人形を痛く気に入ったハーンに、この人形を西田に託して譲ったものか(推定)とも思われる。
「荒川重之助」「龜齋」(号と思われる後者は「きさい」 文政一〇(一八二七)年~明治三九(一九〇六)年)は、松江市横浜町出身の彫刻家。参照したComa-たんさく人氏のサイト「探訪 狛犬 発信 奈良から」の「岡山・宗忠神社 古絵葉書画像の狛犬について」によれば(リンク先の明治三二(一八九九)年竣工の狛犬も、その図案は荒川重之助とする)、金工・書画・象嵌を得意としたとあり、明治一〇(一八六八)年の「第一囘內國勸業博覽會」に「紫檀制戶棚」を出品して受賞、このハーンとの邂逅の後の、明治二六(一八九三)年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品した「櫛稻田姬像」は優等賞を受賞(出雲大社に奉納)、明治三三(一九〇〇)年の「パリ万国博覧会」に出品した「征韓圖」は銅賞(竹矢の平浜八幡宮に奉納)、他にも松江市寺町常教寺鐘楼堂欄間の龍や、松江市和多見町売布神社本殿の龍などが現存するらしい。また、「松江市立図書館だより ちどり」の二〇〇七年十二月発行の第七十二号(『冬号』)(PDF)の「松江の和菓子」の中に「姫小袖」という和菓子が紹介されてあり、そのキャプションに、『「安政二年藩命により、大工荒川重之助作」とある菓子型を用いており、「お留め菓子」といわれてい』るとある(「お留め菓子」とは『歴代藩主の御用菓子商に特別に注文したもので、他所には売ることができないこと』による呼称とある)。安政二年は西暦一八五五年で藩主はこの二年前になった最後の第十代松平定安である。
「天保時代」一八三〇年~一八四四年。この時期の松江藩藩主は第九代松平斉貴(なりとき 文化一二(一八一五)年~文久三(一八六三)年)であるが、彼は暗愚で、藩財政の悪化もあって、家臣団から斉貴廃立の動きが表面化し、嘉永六(一八五三)年九月に家臣団や縁戚から強制隠居させられ、美作津山藩から婿養子安定を迎えて家督を継いでいる。但し、荒川重之助は、天保期では、数えでも四~十八歳で、この頃に「出雲の大名に種々の珍らしい物を造つた」という謂いは、少しばかり早過ぎるようには思われる。
「人形」「彫刻して彩色を施した首だけで胴はない、胴は首についた小さな着物で代りにしてある。しかも荒川が手を使ふてこの人形を動かすと生きて出るやうである。首の後ろは老人の頭の後ろのやうである。が、顏は嬉しさうな子供の顏である、額は殆んどない、考へ込むやうな風はどこにもない。どちらを向いてもこれを見る人は笑はずには居られぬ程、をかしい顏をして居る。これは何にも心配などのない生れつき愉快な無邪氣な『氣樂坊』である」静岡の着物店「紺文(こんぶん)」公式サイト内の「近衞家 陽明文庫 秘宝展」の『指人形「気楽坊」後水尾天皇御遺愛 江戸時代 一体』で現物を見られる【2025年3月4日追記:現在、当該ページは存在していない。代わりに、「X」のKNMさんの2018年2月17日の投稿で、現物の画像を見ることが出来るのでリンクさせておく。】。そこにはキャップションで全長二十三・五センチメートルとし、『後水尾天皇が宮中で文や和歌を近臣につかわされる時、女官にこの指人形を繰らせ、それを持たせられたという。この人形の名の由来は
世の中をきらくにくらせ何事も
おもへばおもふ思はねばこそ
という御製の歌によるもので、当時の徳川幕府の皇室への圧力に対する憤懣から、逆に居直った形での諦観のような心境が感じられるが、この人形の笑みをたたえた口もとや、おどけたような目つきの中にもどこかそのような表情がうかがえる。三指であやつる人形の現存品としては古く珍しいものである』とある(御製の一部表記を訂した)。私は正直、実物が見られるとは思ってもいなかった。必見。なお後に本人形や本伝承に基づいて製作された人形が、かなりあることが、ネット検索によって判る。
「質撲」ママ。通常は「質樸」である。質朴に同じい。飾り気がなく素直なこと。世間ずれしていないさま。
「二百六十年前」記事内時制は、明治二四(一八九一)年五月(前の「一五」が「五月一日」を、次の「一七」が「六月一日」をクレジットする)であるから、単純逆算では寛永八(一六三一)年で、後水尾天皇(次注参照)は二年前に退位しているものの、存命中であるから問題ない。
「後水尾天皇」(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)は第一〇八代天皇。在位は慶長一六(一六一一)年から寛永六年十一月八日(一六二九年十二月二十二日)。ウィキの「後水尾天皇」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、在位中の『寛永四年(一六二七年)に紫衣事件』(江戸初期に於ける朝幕関係上の最大の不和確執とされる事件。幕府が紫衣の授与を規制したにも拘わらず、後水尾天皇がこれを無視して幕府に諮らずに十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え続け、これを知った第三代将軍徳川家光が寛永四(一六二七)年にこれを法度違反と見做し、多くの勅許状の無効を宣言、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。この幕府の強硬な態度に対し、朝廷は反発、当時、大徳寺住職であった沢庵宗彭や妙心寺の東源慧等(とうげんえとう)らの高僧が朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出したが、寛永六(一六二九)年、幕府は沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国へ流罪にした。この事件により幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。ここは主にウィキの「紫衣事件」を参照した)や『徳川家光の乳母である福(春日局)が朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は同年一一月八日、幕府への通告を全くしないまま二女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。一説には病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例(高倉・後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている(かつての皇国史観のもと、辻善之助の研究に代表される「幕府の横暴に対する天皇・朝廷の抵抗」という通説への対論となる洞富雄の説)。その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、後花園天皇の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録(『康富記』嘉吉二年十月十七日条)が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する。また、霊元天皇が次帝を選ぶ際に、後水尾法皇の意思に反して一宮(のちの済深法親王)を退け、寵愛する朝仁親王(のちの東山天皇)を強引に立てたが、このときに表向きの理由とされたのが「一宮が灸治を受けたことがある」であった』。ともかくも実質的には、『以後、霊元天皇までの四代の天皇の後見人として院政を行う』こととなる。『当初は院政を認めなかった幕府も寛永十一年(一六三四年)の将軍徳川家光の上洛をきっかけに認めることにな』り、『その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明・後西・霊元の三天皇の生母(園光子・櫛笥隆子・園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任・櫛笥隆致・園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政の否定」を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には』、『徳川家光の朝廷との協調姿勢とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して延宝七年(一六七九年)に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である』。『延宝八年(一六八〇年)に八十五歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた』とある。
「京都の名高い能面の作者」不詳。
「世の中を 氣樂にくらせ、/何事も 思へば思ふ、思はねばこそ。」この御製、ネットではそこら中に後水尾天皇として散見されるが、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の管理番号「A120322102013」の事例記載によれば、本歌は昭和五(一九三〇)年京都仙寿院刊吉沢義則著「後水尾院御集 頭註」(二巻)には掲載していないとある。
「近衞公」五摂家の一つである近衛家。後水尾天皇の母は近衛家当主近衞前久(天文五(一五三六)年~慶長一七(一六一二)年)の娘前子(さきこ 天正三(一五七五)年~寛永七(一六三〇)年)で、前久の子近衛信尹(のぶただ)は継嗣を欠いたため、江戸初頭に妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた四之宮(後水尾天皇の実弟)を養嗣子に迎えて近衛信尋(のぶひろ 慶長四(一五九九)年~慶安二(一六四九)年)とした(よって以後の近衛家のことを皇別摂家ともいう。以上はウィキの「近衛家」に拠った)。「天皇崩御の後、この人形は近衞公の物とな」ったという叙述が事実とすれば、後水尾天皇(法皇)の逝去年から見て、この人形を手にした近衛家当主は近衞基熙(もとひろ 慶安元(一六四八)年~享保七(一七二二)年)の可能性が高い。なお、ウィキの「近衞基熙」は後水尾法皇を後ろ盾として『関白就任の一歩手前にまで迫ったが』、法皇が崩御して幕府嫌いの娘『霊元天皇が親政をおこなうようにな』ると、『基熈も「親幕派」とみられて天皇から疎まれるようにな』り、『基熈は霊元朝では干され続けた』とある。しかも彼は幕府方から『好かれていたのかと言えば全くの逆で、時の将軍徳川綱吉は、自分の後継問題で緊張関係にあった甲府藩主徳川綱豊』(後の第六代将軍家宣)の『正室・熈子が基熈の長女であった事から、綱豊の舅である基熈に対しても冷淡であり、この時期はまさに沈滞期』にあったとある。まさに全く別な意味で、これを貰い受けたのが彼、近衞基熙であったとするなら、「思へばおもふ思はねばこそ」とかこつ日々でもあったということになる(後に霊元天皇が東山天皇に譲位後、元禄三(一六九〇)年に念願の関白に就任、東山朝に於いては権勢を揮い、院政を敷いていた霊元上皇が『朝廷権威の復興を企図したのに対し、「親幕派」としてことごとくこれに反対』したともある)。
「百七年程前に當時の皇太后(おくり名は盛化門院)」「百七年程前」(単純計算では天明四(一七八四)年となる)と記された諡号から、これは第百十八代後桃園天皇女御近衛維子(このえこれこ 宝暦九(一七六〇)年~天明三(一七八三)年)であることが判る。彼女は関白太政大臣近衛内前(うちさき 享保一三(一七二八)年~天明五(一七八五)年:基熈の三代後の近衛家当主)の娘で、右大臣近衛経熙は弟。安永一〇(一七八一)年三月に皇太后となっている(ウィキの「近衛維子」に拠る)。この叙述が正しいとすれば、「近衞公からこの人形を借り、その寫しを造らせ給」い、「その寫しを側に置いて甚だ愛で給ふた」のは皇太后となった安永一〇(一七八一)年から没する天明三(一七八三)年の短い閉区間であったことになる。
「この皇太后の崩御」天明三年十月十二日。
「或女官」「髮を斷ち尼となり信行院と云ふ名をとつた」不詳。
「近藤充博院法橋」不詳。「法橋」は「ほつけう(ほっきょう)」と読み、本来は「法橋上人位」の略で、法眼に次ぐ僧位第三位で五位に準ぜられたが、中世以後は広く医師・仏師・絵師・連歌師などに僧位に準じて与えられた称号である。
「一首の歌をよんだ」とあるが、和歌は記されていないということであろう。
「九十年程前の日附」単純計算なら「九十年」前は寛政一三・享和元(一八〇一)年で、天皇は後桃園天皇の次代(養子)光格天皇、将軍は徳川家斉の御代である。]
ⅩⅥ.
Nevertheless I have a private conviction that some old artists even now living in Matsue could make a still more wonderful cat. Among these is the venerable Arakawa Junosuke, who wrought many rare things for the Daimyō of Izumo in the Tempo era, and whose acquaintance I have been enabled to make through my school-friends. One evening he brings to my house something very odd to show me, concealed in his sleeve. It is a doll: just a small carven and painted head without a body,—the body being represented by a tiny robe only, attached to the neck. Yet as Arakawa Junosuke manipulates it, it seems to become alive. The back of its head is like the back of a very old man's head; but its face is the face of an amused child, and there is scarcely any forehead nor any evidence of a thinking disposition. And whatever way the head is turned, it looks so funny that one cannot help laughing at it. It represents a kirakubo,—what we might call in English 'a jolly old boy,'—one who is naturally too hearty and too innocent to feel trouble of any sort. It is not an original, but a model of a very famous original,—whose history is recorded in a faded scroll which Arakawa takes out of his other sleeve, and which a friend translates for me. This little history throws a curious light upon the simple-hearted ways of Japanese life and thought in other centuries:―
'Two hundred and sixty years ago this doll was made by a famous maker of No-masks in the city of Kyōto, for the Emperor Go-midzu-no-O. The Emperor used to have it placed beside his pillow each night before he slept, and was very fond of it. And he composed the following poem concerning it:―
Yo no naka wo
Kiraku ni kurase
Nani goto mo
Omoeba omou
Omowaneba koso. [8]
'On the death of the Emperor this doll became the property of Prince Konoye, in whose family it is said to be still preserved.
'About one hundred and seven years ago, the then Ex-Empress, whose posthumous name is Sei-Kwa-Mon-Yin, borrowed the doll from Prince Konoye, and ordered a copy of it to be made. This copy she kept always beside her, and was very fond of it.
'After the death of the good Empress this doll was given to a lady of the court, whose family name is not recorded. Afterwards this lady, for reasons which are not known, cut off her hair and became a Buddhist nun,—taking the name of Shingyō-in.
'And one who knew the Nun Shingyō-in,—a man whose name was Kondo-ju- haku-in-Hokyō,—had the honour of receiving the doll as a gift.
'Now I, who write this document, at one time fell sick; and my sickness was caused by despondency. And my friend Kondo-ju-haku-in-Hokyō, coming to see me, said: "I have in my house something which will make you well." And he went home and, presently returning, brought to me this doll, and lent it to me,—putting it by my pillow that I might see it and laugh at it.
'Afterward, I myself, having called upon the Nun Shingyo-in, whom I now also have the honour to know, wrote down the history of the doll, and make a poem thereupon.'
(Dated about ninety years ago: no signature.)
8
This little poem signifies that whoever in this world thinks much, must have care, and that not to think about things is to pass one's life in untroubled felicity.
一五 一八九一、五月一日
私の愛する學生は午後によく私を訪問する。彼等は始めに來訪を知らすために名刺を出す。お上りと云はれて戶口に、履物をぬぎ私の小書齋に入り、平伏してお辭儀をする、そして私共は床の上に一同坐る、この床は凡て日本の家では柔かなしとねのやうになつて居る。女中が座ぶとんと菓子と茶を持つて來る。
日本人のやうに坐るには練習が要る、そして歐洲人のうちにはどうしてもこの習慣のできない人がある。實際この習慣に慣れるためには先づ日本服を着る事に慣れねばならない。しかし一度かく坐る習慣ができたら、これがあらゆる姿勢のうちで一番自然で又安樂な姿勢である事が分る、そして食事の時、讀書の時、喫烟の時、談話の時、どうしてもこの方法を好んで取るやうになる。歐風のペンで書く場合には或はこれがよいと勸められない、私共西洋風の書き方は手首を据ゑねばならない、しかし日本の筆で書くのにはこの姿勢が一番よい、筆を使ふのには腕は全く支へられないで、肘の運動でするからである。私は一年以上も日本の習慣になれたあとで、今椅子を用ふるのが大分面倒になつて來た事を自白せねばならない。
互に挨拶しで座ぶとんの上に坐つたのち、暫らくつつましく皆默つて居る、それから先づ私から口を切る。學生のうちには中々よく英語を話すのがある。簡單な文句を用ひて熟語などさけて一言一句徐ろにはつきり云へば皆によく分る。彼等の知らない言葉を用ひねばならぬ時には英和字書を參考する、それには假名と漢字の兩方でそれぞれ國語の意味がつけてある。
大槪私の客は長座をするがその長座が退屈だと思つた事は殆んどない。彼等の話と思想はこの上もなく筒單で又率直である。彼等は學問をしに來るのではない、學校以外に先生に習ひに來る事は不公平だと云ふ事は知つて居る。彼等は私に特に興味があると思ふ事について重に話をする。どうかすると殆んど話をしない事がある、しかし一種の愉快な默想に耽つて居るやうに見える。彼等の來る眞の理由は同情、意氣投合の靜かな喜びを得んがためである。智力上の同情でなく、只全く好意を表はす同情である、友人と全く氣樂にして居られる時の樂しさである。彼等は私の書物や繪をのぞく、時々私に見せるために書物や繪(よほど面白い變つた物)、私には買へないのが甚だ殘念なやうな、祖先傅來の家寶などを持つて來る。彼等は又私の庭園を見る事を好んで私よりもはるかによくその庭にある物を賞玩する。よく花を持つて來てくれる。どんな事があつても、うるさい事、失禮な事、物珍らしくせんさく好きであつたり、おしやべりであつたりする事は決してない。この上もなく丁寧で禮儀正しい事は(フランス人でも考へられぬ程の度合で)、毛髮の色や皮膚の色と同じく、出雲の少年に固有な物と見える。禮儀正しいと同じく又親切である。私を不意に喜ばせようと工夫するのが、私の少年達の特に喜ぶ事の一つである、そこで種々の變つた物を私のうちに持つて來るか、或は持つて來て貰ふやうに取計らふ。
かうして私が見る事の特權を得た奇妙な物、綺麗な物のうちで、阿彌陀如來の或不思議な掛物程、私を喜ばせた物はない。それは大分大きな掛物で、私に見せるために或る僧侶から借りたのである。佛は片手をあげて何か說敎の態度で立つてゐ給ふ。御頭の後ろに大きな月形の後光がある、その月の面を橫切つて極めてうすくたな引ける線が流れ出て居る。御足の下には烟の渦卷のやうに重い黑い雲が渦卷いて居る。單に色彩と考案の作品として見てもそれは驚くべき物である。しかしその眞の不思議な點は、色彩や考案に存するのではない。詳しく檢べると凡ての影、雲は只銳い眼で始めて認むる事ができる程小さい漢字の珍らしい經文からできて居ると云ふ驚くべき事實が分る。そしてこの經文は二つの名高い經、觀無量壽經と阿彌陀經の全文で『蚤の手足よりも大きくはない漢字』になつて居る。そして御佛のころもの縫目のやうな强い黑線と見ゆるものは眞宗の稱名、數千邊くりかへして唱へられる『南無阿彌佛』の文字でできて居る。昔、何處かのうす暗い御堂で長い忍耐、愛すべき信仰の倦まない沈默の勉强を思はせる。
又つぎに私の學生の一人がその父を說いて孔子の驚くべき像を私のうちに持つて來た、この像は明朝の末に支那でできたものと云はれて居る。人に見せるのに家から外へ持ち出されたのはこれが始めてであると聞いた。以前には誰でもこの尊像に禮拜しようとする者は、その家を訪はねばならなかつた。それは全く美はしい靑銅製である。口を開て手をあげて、何か說いて居るやうな微笑をもらせるあごひげのある老人の形である。古風な支那靴をはいて、流れるやうな着物には不思貳な神鳥【譯者註】の繪で飾つてある。肉眼では分らない微細な點まで完全にできて居るのは全く支那人の手の驚くべき巧みを表して居るやうである、一枚の齒、一本の毛髮も苟くもしないで、悉く硏究の結果であるやうに見える。
又一人の學生は私を親類の家に連れてゆき、名高い左甚五郞の刻んだと云ひ傳へられる木彫の猫を見せる、うづくまつて、じつと目を据ゑた猫である、生きた猫が『これを見て背をたてて、つばを吐きかけると云はれて居る』程眞にせまつて居る。
譯者註。神鳥、不死鳥(神話)、美
麗なる鳥にしてアラビアの沙漠に五
百年乃至六百年生活してのち自ら香
料などを集め來り、羽翼を以て扇い
で火をつくり自らを燒いて再びその
灰燼中より若く美しき姿となつて再
生する。五百年乃至六百年にこれを
くりかへすと云はれる、故に不死の
しるしとなる。
[やぶちゃん注:「不思貳な神鳥」孔子の着衣となれば、これはもう、聖天子の出現を待ってこの世に現れるとされる瑞獣鳳凰である。但し、訳者注のそれは、多分に西方の不老不死の「火の鳥」であるフェニックス(phoenix)のデーティルに影響された書き方のように私には感じられる。
「左甚五郞」江戸初期の建築・彫刻の名工。出生地は一説に播磨とされるが、紀伊・讃岐とも言われる。本姓は「伊丹」、或いは、「河合」で、「左」は、左利きであったから 或いは、右腕をなくしたため、左手で仕事をしたことによる通称とも伝えられるものの、生涯は未詳で伝説的要素が強い(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
ⅩⅤ.
May 1, 1891.
My favourite students often visit me of afternoons. They first send me their cards, to announce their presence. On being told to come in they leave their footgear on the doorstep, enter my little study, prostrate themselves; and we all squat down together on the floor, which is in all Japanese houses like a soft mattress. The servant brings zabuton or small cushions to kneel upon, and cakes, and tea.
To sit as the Japanese do requires practice; and some Europeans can never acquire the habit. To acquire it, indeed, one must become accustomed to wearing Japanese costume. But once the habit of thus sitting has been formed, one finds it the most natural and easy of positions, and assumes it by preference for eating, reading, smoking, or chatting. It is not to be recommended, perhaps, for writing with a European pen,—as the motion in our Occidental style of writing is from the supported wrist; but it is the best posture for writing with the Japanese fude, in using which the whole arm is unsupported, and the motion from the elbow. After having become habituated to Japanese habits for more than a year, I must confess that I find it now somewhat irksome to use a chair.
When we have all greeted each other, and taken our places upon the kneeling cushions, a little polite silence ensues, which I am the first to break. Some of the lads speak a good deal of English. They understand me well when I pronounce every word slowly and distinctly,—using simple phrases, and avoiding idioms. When a word with which they are not familiar must be used, we refer to a good English-Japanese dictionary, which gives each vernacular meaning both in the kana and in the Chinese characters.
Usually my young visitors stay a long time, and their stay is rarely tiresome. Their conversation and their thoughts are of the simplest and frankest. They do not come to learn: they know that to ask their teacher to teach out of school would be unjust. They speak chiefly of things which they think have some particular interest for me. Sometimes they scarcely speak at all, but appear to sink into a sort of happy reverie. What they come really for is the quiet pleasure of sympathy. Not an intellectual sympathy, but the sympathy of pure goodwill: the simple pleasure of being quite comfortable with a friend. They peep at my books and pictures; and sometimes they bring books and pictures to show me,— delightfully queer things,—family heirlooms which I regret much that I cannot buy. They also like to look at my garden, and enjoy all that is in it even more than I. Often they bring me gifts of flowers. Never by any possible chance are they troublesome, impolite, curious, or even talkative. Courtesy in its utmost possible exquisiteness—an exquisiteness of which even the French have no conception—seems natural to the Izumo boy as the colour of his hair or the tint of his skin. Nor is he less kind than courteous. To contrive pleasurable surprises for me is one of the particular delights of my boys; and they either bring or cause to be brought to the house all sorts of strange things.
Of all the strange or beautiful things which I am thus privileged to examine, none gives me so much pleasure as a certain wonderful kakemono of Amida Nyorai. It is rather large picture, and has been borrowed from a priest that I may see it. The Buddha stands in the attitude of exhortation, with one, hand uplifted. Behind his head a huge moon makes an aureole and across the face of that moon stream winding lines of thinnest cloud. Beneath his feet, like a rolling of smoke, curl heavier and darker clouds. Merely as a work of colour and design, the thing is a marvel. But the real wonder of it is not in colour or design at all. Minute examination reveals the astonishing fact that every shadow and clouding is formed by a fairy text of Chinese characters so minute that only a keen eye can discern them; and this text is the entire text of two famed sutras,—the Kwammuryō-ju-kyō and the Amida-kyō,—'text no larger than the limbs of fleas.' And all the strong dark lines of the figure, such as the seams of the Buddha's robe, are formed by the characters of the holy invocation of the Shin-shū sect, repeated thousands of times: 'Namu Amida Butsu!' Infinite patience, tireless silent labour of loving faith, in some dim temple, long ago.
Another day one of my boys persuades his father to let him bring to my house a wonderful statue of Koshi (Confucius), made, I am told, in China, toward the close of the period of the Ming dynasty. I am also assured it is the first time the statue has ever been removed from the family residence to be shown to anyone. Previously, whoever desired to pay it reverence had to visit the house. It is truly a beautiful bronze. The figure of a smiling, bearded old man, with fingers uplifted and lips apart as if discoursing. He wears quaint Chinese shoes, and his flowing robes are adorned with the figure of the mystic phoenix. The microscopic finish of detail seems indeed to reveal the wonderful cunning of a Chinese hand: each tooth, each hair, looks as though it had been made the subject of a special study.
Another student conducts me to the home of one of his relatives, that I may see a cat made of wood, said to have been chiselled by the famed Hidari Jingorō,—a cat crouching and watching, and so life-like that real cats 'have been known to put up their backs and spit at it.'
一四 一八九一、四月四日
三四五年級の生徒は私の出すやさしい題について短い英文を一週一回書いて見せる。槪して問題は日本に關する物である。日本の生徒にとつて英語の非常にむつかしい事を考ヘて見れば、私の生徒のうちの或者が彼等の思想を英語で表はす技倆は驚くべきである。彼等の作文は、個人の性格ではなく國民的感情又は或種の集合的感情の現れたる物として私にとつて又別種の興味がある。普通の日本の生徒の作文に於て私に最も驚くべき事と思はれるのは彼等は全く個人的特色をもたない事である。二十の英作文の手蹟までも奇妙に親類的相似を有せる事が分る。この結論を動かす事ができない程に、著しい除外例は先づない。ここに私の机上に最もよい作文の一つがある、その級中の一番の生徒の書いた物である。ただ云ひまはし方について僅かの誤りを直したに過ぎない。
[やぶちゃん字注:以下の生徒作文の引用は、底本では凡て全体が二字下げである。]
月
『月ハ悲メル人ニ悲シク見エ、幸福ナ人ニハ愉快ニ見エル。月ハ旅行スル人ニ故鄕ヲ思ハセテ懷鄕病ヲ起サセル。故ニ逆臣北條ノタメニ隱岐ニ流サレタ後醍醐天皇ハ海岸デ月光ヲ見テ「月ハツレナシ」ト叫ビ給ウタ。
我等ハ雲ナキ月ヲ見ル時、我等ノ心ニ名狀シ難キ感情ヲ起ス。
我等ノ心ハ月光ノ如ク澄ミ且ツ平靜デアルベキデアル。
詩人ハヨク月ヲ日本ノ鏡ニ比ベル、滿月ノ時ニハソノ形ハ全ク同ジデアル。
風流ナ人ハ月ヲ見テ樂シム、コノヤウナ人ハ月ヲ見ルタメニ水ニ臨ンデ家ヲサガジ、ソシテ月ニ關スル詩歌ヲツクル。
月ヲ見ルニ最モヨキ場所ハ月ケ瀨【譯者註一】ト姨捨山デアル。
月光ハ美醜貴賤ヲ普ク照ラス。コノ美ハシキ明光ハ我、汝ノ物デナク、一切平等凡テノ人ノ物デアル。月ヲ見ル時、ソノ滿チ又缺クルハ凡テノ物ノ頂上ハ又ソノ降下ノ始マリデアル事ノ道理ヲ示シテ居ルト思ハネバナラナイ』
日本の敎育法に全く通じない人なら、何人でも以上の作文を見て、それに思想と想像の多少の斬新な力を示して居ると思ふであらう。しかし事實はさうでない。私は同じ題の他の三十の作文に於て同じ思想及び比喩を見出した。實際中學生の同じ題の作文が如何程多數でも、必ずその思想感情に於て甚だ相似て居るのである、しかしそのために面白味が少いと云ふわけではない。槪して日本の學生は、想像の方面に於ては殆んど獨創力を表はしてゐない。その想像は數百年前、幾分は支那に於て、幾分は日本に於て、彼の爲に既に作つてあるのである。幼年時代から彼は二三の早い筆で一枚の紙に寒い朝、熱い日中、秋の夕の感じを容易に描き出すあの不思議な美術家が見たと同じやうに自然を見、又詠ずるやうに訓練されて居る。少年時代から彼は古文學に見出される最も美はしい思想や比喩を記するやうに敎へられて居る。どの少年も靑空に立てる富士の形は逆さにした半開の扇に似て居る事を知つて居る。どの少年も滿開の櫻花は最も美しい紅の夏の雲が枝のうちに捉へられたやうに見ゆる事を知つて居る。どの少年も雪の上に木の葉が散つたのと白紙の上に筆で文字の散らし書きにしてあるのとの比喩を知つて居る。どの少年少女も雪の上の猫の足跡が梅の花に似て居る事、雪の上の木履のあとが二の字に似て居ると云ふ比喩の歌句【譯者註二】を知つて居る。これ等はずつと古への詩人歌人の思想である、もつと美はしいものを發明する事は甚だ難いであらう。作文に於ける能事はこれ等の古への思想を正しく記憶し巧みに配列する事で終つて居る。
又同じやうによく學生は、生物であれ無生物であれ殆んど凡ての物に『敎訓』を見出すやうに敎へられて居る。私は百ばかりの題(日本の題)を與へて彼等を試みた。題が日本の物であれば、私は彼等が必ず敎訓を見出す事を知つた。私が『螢』と云へば彼等は直ちにその題を選んで燈火を買へない支那の學者が提燈のうちに多數の螢を入れ、夜になつて勉强するだけの光りを得て、後に大學者になる事を得たと云ふ話を私のために書いた。私が『蛙』と云つた時、彼等は柳の枝に飛びつかうとした蛙の撓まない忍耐を目擊して大學者にならうと志を起した小野道風の物語を私のために書いた。私がかく誘ひ出した敎訓の少しの例を附加して置く。原文に於て普通のいくつかの誤りを直して置いたが少し變つた處はそのままにして置いた。
牡丹
『牡丹ハ大キク又見テ綺麗デアル、ガ、イヤナ香ヒガアル。コレハ自分ニ人間社會ニ於テ只外見上美麗ナ物デ自分等ノ心ヲ動カシテハナラヌ事ヲ思ヒ起サスベキデアル。只美ノタメニ心ヲ動カス事ハ自分等ヲ恐ルベキ不幸ナ運命ニ陷ラシムルヤウニナル事モアル。牡丹ヲ見ルニ最モヨイ場所ハ中海ニアル大根島デアル。花ノ咲ク頃ハ島中一面牝丹デ紅クナル』
龍
『龍が雲ニ乘ツテ天ニ行カウトスル時急ニ恐ロシイ風ガ起ル。龍ガ地上ニスム時ハ石又ハソノ他ノ物ノヤウナ姿ヲシテ居ルト云フ事デアル、シカシ上ル時ニハ雲ヲ呼ブ。龍ノ體ハ種々ノ動物ノ各部分デデキテ居ル。虎ノ目、鹿ノ角、鰐ノ胴、鷲ノ爪、ソシテ象ノ鼻ノヤウナ鼻ガ二ツアル。ソコニ敎訓ガアル。自分等ハ龍ノヤウニナラウト勉メテ他人ノ長所ヲ悉ク見テソレヲ具備セネバナラヌ』
龍のこの文の終りに先生の手紙がついて居る。それに『私は龍などある物とは信じません。しかし龍に關する種々の話や不思議な繪があります』と云つてある。
蚊
『夏ノ夜私共ハカスカナ聲ノヒビキヲ聞ク、ソシテ小サイ物ガ來テ、甚ダヒドク私共ノ體を刺ス。コレヲ蚊ト呼ブ、英語デ『もすきーとず』私ハコノ刺サレル事ハ有益ト思フ、何故ナレバ私共ガソロソロ居眠リヲ始メルト蚊ガ來テ、小サイ聲ヲ發シナガラ刺ス、ソコデ私共ハ剌サレテ勉強スルヤウニサマサレル』
つぎは十六歳の少年のものであるが、餘り知らない問題について半解の知識を示した物として特色があると云ふ點でここへ出す。
歐洲ト日本トノ習慣
『歐洲人ハ甚ダ狹イ着物ヲ着ル、又家ニアツテモ常ニ靴ヲハイテ居ル。日本人ハ甚ダユルイ着物ヲ着テ、戶外ヲ步ク時ノ外ハ靴ヲハク事ハナイ。
私共ノ非常ニ不思議ニ思フ事ハ歐洲デハ凡ソ妻ハ親ヨリモ夫ヲ餘計ニ愛スル事デアル。日本デハ夫ヨリモ兩親ヲ多ク愛シナイ妻ハナイ。
又歐洲人ハ妻ト路ヲ步ク、私共ハ八幡ノ御祭リノ時ノ外ハソソナ事ハ全クシナイ。
日本婦人ハ男子ノタメニ女中ノ如ク使ハレ、歐洲婦人ハ主人ノ如ク尊敬サレル。私ハコレラノ習慣ハ何レモ惡イト思フ。
私共ハ歐洲婦人ヲ遇スル事ハ甚ダ面倒ナ事ト思フ。ソシテ私共ハ何故婦人ガ歐洲人ニサホドマデニ尊敬サレルノカ、ソノ理由ヲ知ラナイ』
外國の問題に關して敎場での會話も亦同じやうに面白く又啓發される事が屢〻ある。
『先生、歐洲人が自分の父と妻と一緖に海に落ちたと假定して、そして自分だけ泳げる場合には先づ自分の妻をさきに助けようとすると聞いてゐますが本當でせうか』
『多分さうでせう』と私が答へる。
『何故でせう』
『一つの理由は歐洲人は弱い者を第一に、殊に女や子供を助けるのを男子の義務と考ヘて居るからです』
『そして歐洲人は自分の父母よりも自分の妻の方を餘計に愛しますか』
『いつでもさうと云ふわけでないが、しかし先づ大槪はさうです』
『でも、先生、私共の考によればそれは甚だ不道德です』
……『先生、歐洲人はどんな風にして赤ん坊をもつてあるきますか』
『抱いてあるきます』
『隨分つかれませう。そして赤ん坊を抱いて女はどれ程あるけますか』
『强い女なら赤ん坊を抱いて餘程あるけます』
『しかしそんな風に赤ん坊を抱いてゐますと手が使はれませんでせう』
『よくは使はれません』
『それではそんな風に赤ん坊をもつてあるくのは餘程惡いやり方です』
譯者註一。月ケ瀨と云ふから月もよ
からうと出雲の學生が考へた。
譯者註二。『初雪や猫の足跡梅の花』
關東では犬の足跡と云ふが、北陸、
山陰その他ではかく云ふ。『二の字
ふみ出す木履かな』これも『二の字
二の字の下駄のあと』と云ふ處もあ
る。
[やぶちゃん注:『逆臣北條ノタメニ隱岐ニ流サレタ後醍醐天皇ハ海岸デ月光ヲ見テ「月ハツレナシ」ト叫ビ給ウタ』不勉強にして、このエピソードを知らぬ。識者の御教授を乞う。
「月ケ瀨」「月ケ瀨と云ふから月もよからうと出雲の學生が考へた」当初、何処か特定の場所を指しているのかとも思ったが、この訳者注は、各地に「月ヶ瀬」と名づける場所を聴くけれども、それは、きっと、川瀬で、水に月の映ってさぞ美しい故に名づけられたのであろうから、何処と言わず、「月ヶ瀬」と呼ぶ場所は「月が美しいに決まっている」ということから、引いた語に過ぎないという推定で、納得。「姨捨山(うばすてやま)」同様に歌枕的用法と採っておく。
「どの少年も靑空に立てる富士の形は逆さにした半開の扇に似て居る事を知つて居る」私はここを読むと「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第七章 江ノ島に於る採集 9 日本人の描く富士山の心理学的認識実験」を思い出す(リンク先は私の注附きの電子テクスト)。
「どの少年少女も雪の上の猫の足跡が梅の花に似て居る事、雪の上の木履」(「ぼくり」:下駄)「のあとが二の字に似て居ると云ふ比喩の歌句を知つて居る」「『初雪や猫の足跡梅の花』關東では犬の足跡と云ふが、北陸、山陰その他ではかく云ふ。『二の字ふみ出す木履かな』これも『二の字二の字の下駄のあと』と云ふ處もある」訳者注となっているが、以下通り、原注に、これらの句は提示されている。但し、やや表記が異なり、「はちゆきや/ねこのあしあと/うめのはな」であり(誤植か誤記)、「にのじふみだす/ぼっくりかな」である(通常は、ここでは音律から「ぼくり」である。日常的な江戸時代の口語では「ぼっくり」の発音や表記は普通に使われた)。前者は作者不詳であるが、後者の、
雪の朝二の字二の字の下駄の跡
は、丹波国氷上郡柏原(かいばら:現在の兵庫県丹波市柏原地区)の出の女流俳人田捨女(でんすてじょ 寛永一一(一六三四)年~元禄一一(一六九八)年)の僅か数え六歳の折りに読んだ名句として人口に膾炙するものである。
「撓まない」正式な訓ならば「たわまない」である。「屈しない」の意。或いは当てて「ひるまない」「たゆまない」と訓じているかもしれない(いないとしても、今はそう読んだ方が通りが良い)。「不撓不屈」(ふとうふくつ)の「撓」である。
「大根島」既出既注。「だいこんしま」と清音で読む。そこでも書いたが、江戸時代より牡丹の栽培が盛んであった。]
ⅩⅣ.
April 4, 1891.
The students of the third, fourth, and fifth year classes write for me once a week brief English compositions upon easy themes which I select for them. As a rule the themes are Japanese. Considering the immense difficulty of the English language to Japanese students, the ability of some of my boys to express their thoughts in it is astonishing. Their compositions have also another interest for me as revelations, not of individual character, but of national sentiment, or of
aggregate sentiment of some sort or other. What seems to me most surprising in the compositions of the average Japanese student is that they have no personal cachet at all. Even the handwriting of twenty English compositions will be found to have a curious family resemblance; and striking exceptions are too few to affect the rule. Here is one of the best compositions on my table, by a student at the head of his class. Only a few idiomatic errors have been corrected:―
“THE MOON.
'The Moon appears melancholy to those who are sad, and joyous to those who are happy. The Moon makes memories of home come to those who travel, and creates homesickness. So when the Emperor Godaigo, having been banished to Oki by the traitor Hojo, beheld the moonlight upon the seashore, he cried out, "The Moon is heartless!"
'The sight of the Moon makes an immeasurable feeling in our hearts when we look up at it through the clear air of a beauteous night.
'Our hearts ought to be pure and calm like the light of the Moon.
'Poets often compare the Moon to a Japanese [metal] mirror (kagami); and indeed its shape is the same when it is full.
'The refined man amuses himself with the Moon. He seeks some house looking out upon water, to watch the Moon, and to make verses about it.
'The best places from which to see the Moon are Tsukigashi, and the mountain Obasute.
'The light of the Moon shines alike upon foul and pure, upon high and low. That beautiful Lamp is neither yours nor mine, but everybody's.
'When we look at the Moon we should remember that its waxing and its waning are the signs of the truth that the culmination of all things is likewise the beginning of their decline.'
Any person totally unfamiliar with Japanese educational methods might presume that the foregoing composition shows some original power of thought and imagination. But this is not the case. I foundthe same thoughts and comparisons in thirty other compositions upon the samesubject. Indeed, the compositions of any number of middle-school students upon the same subject are certain to be very much alike in idea and sentiment—though they are none the less charming for that. As a rule the Japanese student shows little originality in the line of imagination. His imagination was made for him long centuries ago—partly in China, partly in his native land. From his childhood he is trained to see and to feel Nature exactly in the manner of those wondrous artists who, with a few swift brushstrokes, fling down upon a sheet of paper the colour-sensation of a chilly dawn, a fervid noon, an autumn evening. Through all his boyhood he is taught to commit to memory the most beautiful thoughts and comparisons to be found in his ancient native literature. Every boy has thus learned that the vision of Fuji against the blue resembles a white half-opened fan, hanging inverted in the sky. Every boy knows that cherry-trees in full blossom look as if the most delicate of flushed summer clouds were caught in their branches. Every boy knows the comparison between the falling of certain leaves on snow and the casting down of texts upon a sheet of white paper with a brush. Every boy and girl knows the verses comparing the print of cat's-feet on snow to plum-flowers, [6] and that
comparing the impression of bokkuri on snow to the Japanese character for the number 'two.' These were thoughts of old, old poets; and it would be very hard
to invent prettier ones. Artistic power in composition is chiefly shown by the correct memorising and clever combination of these old thoughts.
And the students have been equally well trained to discover a moral in almost everything, animate or inanimate. I have tried them with a hundred subjects—Japanese subjects—for composition; I have never found them to fail in discovering a moral when the theme was a native one. If I suggested 'Fire-flies,' they at once approved the topic, and wrote for me the story of that Chinese student who, being too poor to pay for a lamp, imprisoned many fireflies in a paper lantern, and thus was able to obtain light enough to study after dark, and to become eventually a great scholar. If I said 'Frogs,' they wrote for me the legend of Ono- no-Tofu, who was persuaded to become a learned celebrity by witnessing the tireless perseverance of a frog trying to leap up to a willow- branch. I subjoin a few specimens of the moral ideas which I thus evoked. I have corrected some common mistakes in the originals, but have suffered a few singularities to stand:―
“THE BOTAN.
'The botan [Japanese peony] is large and beautiful to see; but it has a disagreeable smell. This should make us remember that what is only outwardly beautiful in human society should not attract us. To be attracted by beauty only may lead us into fearful and fatal misfortune. The best place to see the botan is the island of Daikonshima in the lake Nakaumi. There in the season of its flowering all the island is red with its blossoms. [7]
“THE DRAGON.
'When the Dragon tries to ride the clouds and come into heaven there happens immediately a furious storm. When the Dragon dwells on the ground it is supposed to take the form of a stone or other object; but when it wants to rise it calls a cloud. Its body is composed of parts of many animals. It has the eyes of a tiger and the horns of a deer and the body of a crocodile and the claws of an eagle and two trunks like the trunk of an elephant. It has a moral. We should try to be like the dragon, and find out and adopt all the good qualities of others.'
At the close of this essay on the dragon is a note to the teacher, saying: 'I believe not there is any Dragon. But there are many stories and curious pictures about Dragon.'
“MOSQUITOES.
'On summer nights we hear the sound of faint voices; and little things come and sting our bodies very violently. We call .them ka—in English "mosquitoes." I think the sting is useful for us, because if we begin to sleep, the ka shall come and sting us, uttering a small voice; then we shall be bringed back to study by the sting.'
The following, by a lad of sixteen, is submitted only as a characteristic expression of half-formed ideas about a less familiar subject:
“EUROPEAN AND JAPANESE CUSTOMS.
'Europeans wear very narrow clothes and they wear shoes always in the house. Japanese wear clothes which are very lenient and they do not shoe except when they walk out-of-the-door.
'What we think very strange is that in Europe every wife loves her husband more than her parents. In Nippon there is no wife who more loves not her parents than her husband.
'And Europeans walk out in the road with their wives, which we utterly refuse to, except on the festival of Hachiman.
'The Japanese woman is treated by man as a servant, while the European woman is respected as a master. I think these customs are both bad.
'We think it is very much trouble to treat European ladies; and we do not know why ladies are so much respected by Europeans.'
Conversation in the class-room about foreign subjects is often equally amusing and suggestive:
'Teacher, I have been told that if aEuropean and his father and his wife were all to fall into the sea together, and that he only could swim, he would try to save his wife first. Would he really?'
'Probably,' I reply.
'But why?'
'One reason is that Europeans consider it a man's duty to help the weaker first—especially women and children.'
'And does a European love his wife more than his father and mother?'
'Not always—but generally, perhaps, he does.'
'Why, Teacher, according to our ideas that is very immoral.'
…'Teacher, how do European women carry their babies?'
'In their arms.'
'Very tiring! And how far can a woman walk carrying a baby in her arms?'
'A strong woman can walk many miles with a child in her arms.'
'But she cannot use her hands while she is carrying a baby that way, can she?'
'Not very well.'
'Then it is a very bad way to carry babies,' etc.
6
Hachi yuki ya
Neko no ashi ato
Ume no hana.
7 Ni no ji fumi dasu
Bokkuri kana.
一三
しかし學校の經濟の許す限り生徒を健康にかつ愉快にするためのあらゆる方法、――運動及び娯樂の種々の機會を與へるためのあらゆる方法は講じてある。勉學の課程は嚴重だが時間は長くはない、そして每日五時間のうちの一時間は兵式體操に捧げてある、政府から授けてある本當の銃や剱を用ふるので生徒には一層興味がある。學校の近くに立派な運動場がある、ブランコや平行棒や木馬などが備へてある。中學校だけの體操敎師が二人ある。ボートがある、天氣さへよければいつでも美しい湖上で面白くこぎ𢌞る事ができる。知事自ら監督して居る剱道の道場がある、知事は目方の重い人だが、知事の時代の最も巧妙な擊剱家の一人と云はれて居る。敎へられて居る型は古風の物である、剱を使ふに兩手を用ふるのである、突く事は餘りない、殆んど悉く重い打ち込みである。竹刀は竹の長いササラを結んで昔ローマのフアシーズ【譯者註】を長くした形に似たやうに出來て居る、面とさしこの上衣はその打擊がひどいから頭と胴を保護して居る。この種類の擊剱は非常の敏捷を要する、そして私共の西洋のもつとはげしい流儀よりも一層盛んな運動になる。しかし又別種類の健康なる運動は著名の地へ遠足をする事である。このために特別の休暇ができて居る。生徒は列をつくり、愛する數人の先生に伴はれ、事によれば彼等のために料理をしてくれる小使をつれて町から出かける。かくして百哩或は百五十哩も旅をする、そして又かへる、しかしもしその旅行が非常に長い場合にはただ强壯な生徒だけが行く事を許される。ワラヂ卽ち素足にきちんと結んである本當の藁の履物ででかける、ワラヂは全く足を伸縮自在ならしめる、豆をつくつたり、雞眼(タコ)をでかしたりなどしない。夜は寺に寢る、そして料理は野營の兵士の料理のやうに野天に於てなされる。
このやうなはげしい運動を餘り好かない者には學校の書庫がある。これは年々に增加して行く。生徒が編輯し發行する月刊の學校雜誌がある。又生徒會がある。その定期の會には生徒に興味があると思はれるあらゆる問題について討論が催される。
譯者註。棒を束ね其間より斧の刄を
現せしもの、長官外出の時隨行員が
擔ひて先頭せし物(ローマ史)
[やぶちゃん注:「知事自ら監督して居る剱道の道場がある」前に注した通り、ハーンが敬愛した当時の県知事籠手田安定は元平戸藩士で剣術家としても知られた。ウィキの「籠手田安定」にこれば、『平戸藩(松浦静山)伝の』心形刀流(しんぎょうとうりゅう/しんけいとうりゅう)免許皆伝、明治初期に山岡鉄舟が開いた一刀正伝無刀流(いっとうしょうでんむとうりゅう)の『免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた』とあり、明治一四(一八八一)年に『無刀流山岡鉄舟に入門し、高弟となる』。明治一五(一八八二)年七月に『京都体育場で撃剣大会が開かれ、大蔵卿松方正義、京都府知事北垣国道、岡山県令高崎五六らが臨場。籠手田も参加し、渡辺篤と対戦した。渡辺は当時素性を隠していたが、元京都見廻組組員で、晩年に坂本龍馬暗殺を証言した人物であ』った。明治一六(一八八三)年十一月には『東京での地方官会議に出席する際、高山峰三郎ら関西の剣客』約十名を『引き連れ警視庁に試合を挑む。高山は警視庁選り抜きの撃剣世話掛』三十六名をことごとく『連破した。この出来事は明治剣道史の一大事件として知られる』とあるように、正真正銘の凄腕の名剣士であった。
「フアシーズ」「棒を束ね其間より斧の刄を現せしもの、長官外出の時隨行員が擔ひて先頭せし物(ローマ史)」原文“fasces”。敢えて音写するなら「ファスィイズ」である。古代ローマに於ける執政官の権威と立場を標章した権標で「束桿(そつかん)」と呼ばれた、束ねた棒の中央に斧を入れて縛ったもの。先駆けの役人が捧げ持った。ラテン語の“facis”「小さく括って束ねもの」「重い荷」が原義。グーグル画像検索「fasces」をリンクさせておく。
「百哩或は百五十哩」凡そ百六十一キロメートルから二百四十一キロメートル相当。松江から、この距離を単純直線距離で測るなら、西南は山口県萩から下関直近に至り、東南は兵庫県姫路から大阪に至り、東は福井県小浜や京都や琵琶湖西岸にも達するが……。
「豆をつくつたり、雞眼(タコ)をでかしたり」この原文を見ると、“blistering or producing corns ”である。「タコ」ならば、広義に皮膚の角質層が極端に肥厚した胼胝(たこ/べんち)のことであるが、狭義には「雞眼」(鶏眼)というと、その角質層が更に深い皮膚層にまで突起して痛みを伴うような「うおのめ(魚の目)」の状態を指す。しかも原文の頭の方は“blistering”で。これは「焼けるような」の意であり、その“corn”(魚の目も肉刺(まめ)も指す)であるから、寧ろ、「ひどくひりつくような魚の目や、有意な豆をつくったり」という謂いのように私は思う。]
ⅩⅢ.
Yet, so far as the finances of the schoolsallow, everything possible is done to make the students both healthy and happy,—to furnish them with ample opportunities both for physical exercise and for mental enjoyment. Though the course of study is severe, the hours are not long: and one of the daily five is devoted to military drill,—made more interesting to the lads by the use of real rifles and bayonets, furnished by Government. There is a fine gymnastic ground near the school, furnished with trapezes, parallel bars, vaulting horses, etc.; and there are two masters of gymnastics attached to the Middle School alone. There are row-boats, in which the boys can take their pleasure on the beautiful lake whenever the weather permits. There is an excellent fencing-school conducted by the Governor himself, who, although so heavy a man, is reckoned one of the best fencers of his own generation. The style taught is the old one, requiring the use of both hands to wield the sword; thrusting is little attempted, it is nearly all heavy slashing. The foils are made of long splinters of bamboo tied together so as to form something resembling elongated fasces: masks and wadded coats protect the head and body, for the blows given are heavy. This sort of fencing requires considerable agility, and gives more active exercise than our severer Western styles. Yet another form of healthy exercise consists of long journeys on foot to famous places. Special holidays are allowed for these. The students march out of town in military order, accompanied by some of their favourite teachers, and perhaps a servant to cook for them. Thus they may travel for a hundred, or even a hundred and fifty miles and back; but if the journey is to be a very long one, only the strong lads are allowed to go. They walk in waraji, the true straw sandal, closely tied to the naked foot, which it leaves perfectly supple and free, without blistering or producing corns. They sleep at night in Buddhist temples; and their cooking is done in the open fields, like that of soldiers in camp.
For those little inclined to such sturdy exercise there is a school library which is growing every year. There is also a monthly school magazine, edited and published by the boys. And there is a Students' Society, at whose regular meetings debates are held upon all conceivable subjects of interest to students.
一二
しかし尋常中學校に於てさほど立派に與へられる智育は、結局、生活の安い事、授業料の安い事などから想像せられるやうに、さほど安くは得られない。ち自然は更に高い授 業料を要求して、嚴重に、人の生命に於てその負債をとり立てるからである。
この道理を理解するためには、先づ現今の出雲の學生が米飯と豆腐を喰べながら學ばねばならない近世の學間は、贅澤なる肉食によつて强健になつた頭腦によつて發明され發達され總合されたのである事を知らねばならない。西洋が日本人の前になげ出した文明を消化する事が充分できるためには、一般の粗食と云ふ事は日本の敎育者が解かねばならない難問題である。ハーバート・スペンサーが示した通り、人間の元氣の多少は肉體的精神的何れを問はず食物の滋養如何による物である、そして歷史は美食の人種に氣力旺盛かつ優勝なる事を示して居る。列國民の將來に於て恐らく頭腦が勢力を占むるであらう、しかも頭腦も活力の一つであるからやはり胃を通じて養はれねばならない。全世界を動かした思想でパンと水とでできたものはかつてなかつた、これ等の思想は、ビフテキとマトンチヨップ、ハムヱッグ、豚肉とプデンによつてつくられ、さらに强い葡萄酒、强い麥酒、强いコーヒーによつて刺激されたのである。又科學は生長ざかりの少年靑年は大人よりも更に一層の滋養物を要する事、殊に又學生は頭腦の勞働より起る肉體的疲勞を恢復するために强い滋養を要する事を敎へる。
しかも勉學のために日本の學校生徒の身體が受くる疲勞は如何程であるか。それは歐米の學生の身體が同じ年頃に於て受ける物よりは、たしかに大きいのである。日本の少年に漢字の眞草行の三體や、正確ではないがもつと簡單な言葉で云へば日本文學にある莫大なる文字について必要なる知識だけを具へるために七年の勉學が必要である。その文學も學ばねばならない、國語の二種類の技術卽ち言文の二體を學ばねばならない、勿論、同じく國史と國民道德を學ばねばならない、これ等東洋の學問の外にさらに履修すべき學科として、外國歷史、地理、算術、天文、物理、幾何、生物學、農學、化學、圖畫、及び數學がある、最も困る事には、英語を習はねばならない、この英語の日本人に困難な事は日本語の組立てを知らない人には想像もできない、この英語なる物が日本語と非常に違つて居るので、極めて簡單な日本語の句でも、言葉の直譯や、或は思想の形だけの直譯だけでは、とても理解する事はできない。そして日本の學生は英國の少年がとても生きて居られないやうな食物をたべながら凡てこれ等の學問を學ばねばならない。その上いつでも貧しい木綿のうすい着物を着て、大寒の時でも敎場にはただ灰の中に赤い炭の少し入つて居る火鉢が一つあるだけで、外に何の火の氣もない。日本帝國が彼等に與へた課程を立派に通過した學生でも、その長い勉强の結果は西洋の學生によつて表はされた結果と同じ程度には殆んどならないのは不思議な事であらうか。追々に學生の境遇もよくなりかけて居る、しかし現在の處新しい過勞のために若い身體若い頭腦の破壞し去る事が餘りに多い。しかも破壞し去るのは鈍い人々でなく、かへつて學校の花、級中の秀才である。
[やぶちゃん注:「チヨップ」あばら骨のついた豚肉や羊肉、及び、それを焼いた料理を指す。
「プデン」原文“puddings”。プディング。小麦粉などに果実・牛乳・卵などを入れてオーブンで焼いたり、蒸したりした菓子又は料理。
「七年の勉學」当時の学制では中等学校(中学校)は五年制で高等学校は三年制であったが、高等学校の入学資格は中等学校四年終了以上とされた。]
Ⅻ.
But the mental education so admirably imparted in an ordinary middle school is not, after all, so cheaply acquired by the student as might be imagined from the cost of living and the low rate of school fees. For Nature exacts a heavier school fee, and rigidly collects her debt—in human life.
To understand why, one should remember that the modern knowledge which the modern Izumo student must acquire upon a diet of boiled rice and bean-curd was discovered, developed, and synthetised by minds strengthened upon a costly diet of flesh. National underfeeding offers the most cruel problem which the educators of Japan must solve in order that she may become fully able to assimilate the civilization we have thrust upon her. As Herbert Spencer has pointed out, the degree of human energy, physical or intellectual, must depend upon the nutritiveness of food; and history shows that the well-fed races have been the energetic and the dominant. Perhaps mind will rule in the future of nations; but mind is a mode of force, and must be fed—through the stomach. The thoughts that have shaken the world were never framed upon bread and water: they were created by beefsteak and mutton-chops, by ham and eggs, by pork and puddings, and were stimulated by generous wines, strong ales, and strong coffee. And science also teaches us that the growing child or youth requires an even more nutritious diet than the adult; and that the student especially needs strong nourishment to repair the physical waste involved by brain-exertion.
And what is the waste entailed upon the Japanese schoolboy's system by study? It is certainly greater than that which the system of the European or American student must suffer at the same period of life. Seven years of study are required to give the Japanese youth merely the necessary knowledge of his own triple system of ideographs,—or, in less accurate but plainer speech, the enormous alphabet of his native literature. That literature, also, he must study, and the art of two forms of his language,—the written and the spoken: likewise, of course, he must learn native history and native morals. Besides these Oriental studies, his course includes foreign history, geography, arithmetic, astronomy, physics, geometry, natural history, agriculture, chemistry, drawing, and mathematics. Worst of all, he must learn English,—a language of which the difficulty to the Japanese cannot be even faintly imagined by anyone unfamiliar with the construction of the native tongue,—a language so different from his own that the very simplest Japanese phrase cannot be intelligibly rendered into English by a literal translation of
the words or even the form of the thought. And he must learn all this upon a diet no English boy could live on; and always thinly clad in his poor cotton dress without even a fire in his schoolroom during the terrible winter, only a hibachi containing a few lumps of glowing charcoal in a bed of ashes. [5] Is it to be wondered at that even those Japanese students who pass successfully 'through all the educational courses the Empire can open to them can only in rare instances show results of their long training as large as those manifested by students of the West? Better conditions are coming; but at present, under the new strain, young bodies and young minds too often give way. And those who break down are not the dullards, but the pride of schools, the captains of classes.
5
Stoves, however, are being introduced. In the higher Government schools, and in the Normal Schools, the students who are boarders obtain a better diet than
most poor boys can get at home. Their rooms are also well warmed.
一一 一八九一、三月一日
尋常中學校の生徒の過半數はただ通學生(フランスでならエキステルンと云ふところ)である。午前學校に行き、正午に歸りて晝飯をたべ、再び短い午後の課業に出るために一 時にかへる。市の生徒は悉くその家庭に居るが市中に親戚をもたない邊鄙な田舍から來て居る多數の生徒がある、そこでこれ等のために學校には寄宿舍の設けがある、そこでは特別な敎師がゐて健全な道德的訓練を行ふて居る。しかし餘力あつて別に下宿(但し風儀のよい物に限る)を選ぶ事も、又はどこかよい家庭に宿を求むる事も彼等の自由に任せてある、しかしこの二つの何れかを選ぶものは餘りない。
私は日本程敎育の費用が安價なるところはどこかにあるだらうかと疑ふ。しかもその教 育は、最も優秀なそして進歩した敎育である。出雲の學生は、それを記述しただけで讀者を驚かす事疑を容れない程、西洋人の必要なる費用なる物の考よりも、遙かに少い金額で生活する事を得るのである。米貨殆んど二十弗【譯者註】に相當する高があれば一ケ年の下宿料に充分である、授業料をこめて一切の費用は一ケ月七弗程である。間代と一日三度の充分なる食事のために四週間每に一圓八十五錢を拂ふに過ぎない。卽ち米貨一弗半よりも多くはない。もし非常に貧窮なれば制服を着るにも及ばない、しかし上級の殆んど凡ての生徒は制服をつけて居る、帽、革の靴をこめて一切の制服の費用は、安い方にすれば三圓半程にすぎない。革の靴のつけない者は學校に居る間は、騷々しい下駄を輕い草履にはきかへねばならない。
譯者註。二十弗は二十圓、當時は下
前料一ケ月一圓五十錢程であつた、
寄宿舍では一圓八十五錢であつたと
ここに記してあるから七弗卽ち七圓
は過大。
[やぶちゃん注:「エキステルン」原文“ externes ”。敢えてフランス語で音写するなら「エクステーゥヌ」で、名詞で「通学生」「外来患者」「病院附きの通勤助手」などの意を持つ(形容詞としては「外部の」「外面の」、及び、薬学で「外用の」の意)。
「下前料」不詳。「下宿料」の誤植か? ともかくも、ここのハーンの費用計算やドル換算は、訳者ならずとも、計算が頗るおかしく感じられ、どうも信用出来ない。]
Ⅺ.
March 1 1891.
The majority of the students of the Jinjō Chūgakkō are day-scholars only (externes, as we would say in France): they go to school in the morning, take their noon meal at home, and return at one o'clock to attend the brief afternoon classes. All the city students live with their own families; but there are many boys from
remote country districts who have no city relatives, and for such the school furnishes boarding-houses, where a wholesome moral discipline is maintained by
special masters. They are free, however, if they have sufficient means, to choose another boarding-house (provided it be a respectable one), or to find quarters in some good family; but few adopt either course.
I doubt whether in any other country the cost of education—education of the most excellent and advanced kind—is so little as in Japan. The Izumo student is able to live at a figure so far below the Occidental idea of necessary expenditure that the mere statement of it can scarcely fail to surprise the reader. A sum equal in American money to about twenty dollars supplies him with board and lodging for one year. The whole of his expenses, including school fees, are about seven dollars a month. For his room and three ample meals a day he pays every four weeks only one yen eighty-five sen,—not much more than a dollar and a half in American currency. If very, very poor, he will not be obliged to wear a uniform; but nearly all students of the higher classes do wear uniforms, as the cost of a complete uniform, including cap and shoes of leather, is only about three and a half yen for the cheaper quality. Those who do not wear leather shoes, however, are required, while in the school, to exchange their noisy wooden geta for zori or light straw sandals.
一〇 一八九〇、十一月三日
今日は天長節である。日本國中の大祭日である、この日は授業はない。が八時に學生敎師悉く天長節を祝するために尋常中學校の大講堂に集る。
坑道の敎壇に黑い絹をかけた卓が置いてある、この卓の上に天皇、皇后兩陛下の御眞影が金の枠に入れて相ならべて眞直に安置してある。敎壇の上になつた部分は旗と花環で裝飾してある。
そのうちに市長、聯隊區司今官、警部長、その他凡ての縣官を引きつれて知事が來る、金モールの大禮服をつけた知事はフランスの將官のやうに見ゆる。これ等の人々敎壇の左右に默して座につく。つぎに學校のオルガンが突然ゆるやかな嚴肅な美はしい國歌を奏し始むる、凡ての列席者は百代の敬愛をうけて尊くなつて居るこの古への歌詞を歌ふ。
きみがーあ世をは
ちよにーいーいやちよにさざれー
いしの
いはほとなりて
こけの
むーうすーうまーあーあーで
國歌が終る。知事は講堂の右側から威嚴のある徐ろな口調で敎壇と御眞影の前方の場所の中央に進み、御眞影に向つて鄭重なる敬禮をする。つぎに敎壇の方へ三步進んで止り、再び敬禮する。つぎに更に三步進んで最敬禮をする。つぎに六步退いて又敬禮をする。それから席にかへる。
そのあとで敎師は六人づつ同じ美はしい敬禮をする。悉く御眞影に對して敬禮を終つた時、知事は壇に上つて生徒に向ひ、天皇、國家、及び敎師に對する學生の本分について少しの巧妙なる注意を與ふ。それから再び國歌をうたふ、そして一同はその日の殘りを面白く過さうとして退散する。
[やぶちゃん注:原本ではこの「君が代」の歌詞の後に「君が代」の譜面が入っているが底本では省略されている。原本の雰囲気を味わうため、ここに当該箇所(二ページに分かれている)を“Project Gutenberg” の“Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”の原文の当該箇所の画像をダウンロードして補正したものを以下に掲げておく。
「天長節」明治・大正及び昭和二三(一九四八)年七月二十日に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」所謂、「祝日法」以前の今上天皇誕生日を指す。明治天皇のそれは嘉永五年九月二十二日で、グレゴリオ暦で一八五二年十一月三日に相当する。既に指摘した通り、新暦に読み換えてある。
「國歌」ウィキの「君が代」より部分的に引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『歌詞は十世紀初めに編纂された「古今和歌集」の短歌の一つで、曲は一八八〇年(明治十三年)に付けられた。以後、国歌として歌われ、一九九九年(平成十一年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に国歌として法制化された』。『国歌(national anthem)は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、一八七六年(明治九年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」』。『つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳したものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった』。『こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として「国歌君が代の由来」を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている』。歌詞の元となった和歌の『作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとな』ったという。『歌詞の出典はしばしば「古今和歌集」(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号三四三番)とされるが。古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない』
我が君は千代にやちよにさざれ石の
巖となりて 苔のむすまで
『「君が代は」の型は「和漢朗詠集」の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号七七五番)』とされ、『元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、「曽我物語」の曽我兄弟や「義経記」の静御前などにもその例を見ることができる』。『江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す)』(ここには要出典要請がかけられてある)『に変形されて隆達節の巻頭に載り(同じ歌が米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、十七世紀後半、作者不詳]上にもみられる)、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた』。『一八六九年(明治二年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された』。『当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、一八七六年(明治九年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終えて帰国、その後一八八〇年(明治十三年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた』。『同年十月二十五日に試演し、翌二十六日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。十一月三日の天長節にて初めて公に披露された』。『その後の一八九三年(明治二十六年)八月十二日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている。また一九一四年(大正三年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた』。『一九〇三年(明治三十六年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞し』ている。『大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや、大日本帝国憲法によって天皇が「万世一系」で「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」していた時代背景から、第二次世界大戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた』。『修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と記された。このように記述している文献もあるのだが、現存する教科書にこの様に印刷されている物は一つも確認されていない。また戦前、戦中を通して主に歌われていたのは「第二国歌」や「準国歌」とも言われる「海行かば」であ』った、とある。]
Ⅹ.
November 3, 1890
To-day is the birthday of His Majesty the Emperor. It is a public holiday throughout Japan; and there will be no teaching this morning. But at eight o'clock all the students and instructors enter the great assembly hall of the Jinjō Chūgakkō to honour the anniversary of His Majesty's august birth.
On the platform of the assembly hall a table, covered with dark silk, has been placed; and upon this table the portraits of Their Imperial Majesties, the Emperor and the Empress of Japan, stand side by side upright, framed in gold. The alcove above the platform has been decorated with flags and wreaths.
Presently the Governor enters, looking like a French general in his gold-embroidered uniform of office, and followed by the Mayor of the city, the Chief Military Officer, the Chief of Police, and all the officials of the provincial government. These take their places in silence to left and right of the plat form. Then the school organ suddenly rolls out the slow, solemn, beautiful national anthem; and all present chant those ancient syllables, made sacred by the reverential love of a century of generations:
Ki-mi ga-a yo-o wa
Chi-yo ni-i-i ya-chi-yo ni sa-za-red
I-shi-no
I-wa o to na-ri-te
Ko-ke no
Mu-u su-u ma-a-a-de [4]
The anthem ceases. The Governor advances with a slow dignified step from the right side of the apartment to the centre of the open space before the platform and the portraits of Their Majesties, turns his face to them, and bows profoundly. Then he takes three steps forward toward the platform, and halts, and bows again. Then he takes three more steps forward, and bows still more profoundly. Then he retires, walking backward six steps, and bows once more. Then he returns to his place.
After this the teachers, by parties of six, perform the same beautiful ceremony. When all have saluted the portrait of His Imperial Majesty, the Governor ascends the platform and makes a few eloquent remarks to the students about their duty to their Emperor, to their country, and to their teachers. Then the anthem is sung again; and all disperse to amuse themselves for the rest of the day.
4
Kimi ga yo wa chiyo ni yachiyo ni sazare ishi no iwa o to narite oke no musu made. Freely translated: 'May Our Gracious Sovereign reign a thousand years—reign ten thousand thousand years—reign till the little stone grow into a mighty rock, thick-velveted with ancient moss!'
九
私は敎師の方で嚴に失する事があれば、學生の方で中々容赦しないと云つて置いたが、この事は英人や米人の耳に變にきこえるかも知れない。トム・ブラウンの學校は日本に存在しない、それより通常の公立學校は、ヂ・アミチスの『クオレ』にあんなに面白く寫してある理想的伊太利の學校によほど似て居る。その上日本の生徒は一種の獨立を享有してゐてそれを當然と心得て居る、これは西洋の人が嚴しい訓練に必要と考へて居る事と全く反對である。西洋では敎師は生徒を放校するが、日本では丁度それ程生徒が敎師を放逐する事がある。各公立學校は熱心な元氣のよい小共和國で校長と敎師はそれに對して單に大統領と内閣の關係を有するのである。實際校長と敎師は東京の文部省の推薦によつて縣廳が任命したのではあるが事實に於ては彼等の能力及び人格が學生によつて認められて始めてその地位を維持するのである、もし能力なり人格なりに缺くるところがあると思はれる場合には一種の革命的運動によつて放逐されがちである。生徒は彼等の力を時々濫用するとよく云はれて居る。しかしこの說は嚴格なる英國風の訓練を非常に過信して居る西洋人の目から出るのである。(これについて、橫濱の英字新聞が樺の棒主義を輸入する事を主張した事を思ひ出す)私の觀察は私につぎの事を知らしめた、そして多く經驗をつんだ他の人々もさう信じで居る、卽ち敎師に反抗する生徒の大槪の場合に於て、道理が生徒側にあるのである。生徒が嫌ふ敎師を侮辱したり、或は敎場で邪魔をしたりする事は殆んどない、ただその敎師の止められるまでは學校に出ないのである。個人的感情は私の知り得る限りではこんな要求の第二の原因となる事は、時にはあるかも知れぬが、第一原因となる事は殆んどない。擧動が冷淡であるとか、或は更に進んで不親切であると云はれる敎師でも、敎師としての資格、或は公平の念があると生徒の信じて居るうちは、生徒はその敎師に服し又尊敬する、そして生徒は敎師の不公平を發見するに銳敏なると共に、その才能を認むる事も銳敏である。又一方に於ては敎師の性質がよいと云ふだけでは智識の不充分な事及び智識を傳へる熟練の不足と云ふ事を償ふ事にはならない。私は近傍のある公立學校で化學の敎諭を止めて貰ひたいと生徒の要求した例を聞いた。この不平を述べる時、彼等は打明けて云つた『私共はこの先生が好きです。先生は親切です。先生のできるだけをつくして居られるのです。が先生は私共の習ひたいと思ふだけ私共に敎へる事はできません。質問に答へる事ができません。先生のなさる實驗の說明ができません。前の先生はこんな事は皆できました。私共は別の先生が欲しいのです』調べて見ると生徒側の云ひ分は全く事實ときまつた。この若い敎師は大學の卒業生であつた。よい推薦を受けて來たのであるが敎へようとする科學の周到なる知識と敎師としての經驗とを缺いてゐた。日本では敎師が學位があるので成功するとはきまらない、ただ實際の知識とその知識を容易に又充分に傳へる技倆とによつて成功するのである。
譯者註一。Thomas Hughes(1823―1897)
の小説Tom Brown's School-Days に表はれ
た Rugby の學生生活、それには爭鬪も友情
も、惡戲も勉强もある。
譯者註二。Cuoré これは日本にも『愛の學校』
『學童日誌』など種々の飜譯も、拔萃もあつて
人の知るところ、イタリーの小説家 Edmondo
De Amicis(1846―)の作。
[やぶちゃん注:「生徒が敎師を放逐する事がある」本邦では、明治時代から、主に旧制中学や高校などで、校長や教諭の排斥運動や同盟休校が、度々、起きており、後の大正デモクラシーの時代になると、現代の学生運動のルーツとすべき、極めて組織的且つ大規模なものが発生し始め、それと同時に学校・体制側も、停学退学処分といった強い手段に訴えるようになってゆく。
「トム・ブラウンの學校」「Thomas Hughes(1823―1897)の小説‘ Tom Brown's School-Days ’ に表はれた Rugby の學生生活」トマス・ヒューズ(Thomas Hughes 一八二二年~一八九六年:英語版ウィキ“Thomas Hughes”に拠ったが、「譯者註」の示す生没年とは孰れも一年ずれている。本訳者の誤りである)はイギリスの弁護士で作家。専ら、この学校を舞台とする青年小説の嚆矢とされる本作、正式書名“ Tom Brown's School Days ”(「トム ・ブラウンの学校生活」:一八五七年作)によって知られる。私は読んだことがない。「岩波ブックサーチャー」の岩波文庫版前川俊一訳「トム・ブラウンの学校生活」のキャッチ・コピーによれば、『本当のジェントルマンを作り上げるための全人的教育制度をもって誇るパブリック・スクールの生活が作者』(ここに生没年が記されてあるが、英語版ウィキと同一である)『自身の体験に基づいていきいきと描かれ』、しかも、『この教育の成果は』、『本篇の主人公トム・ブラウンの成長の過程が雄弁に物語る』ように書かれてある。『少年社会のあふれるユーモアと』、『底を流れるキリスト教精神と』、『スポーツ精神の調和が高い香りを放っている名作』とある。大井靖夫氏の論考「トマス ・ヒューズ『トム・ブラウンの学校生活』再読」(PDF)がシノプシスも含め、参照するに最適である。――『底を流れるキリスト教精神』――ハーンの比較提示の仕方が、妙に皮肉に見えるのも、よく判る、というものである。
「ヂ・アミチスの『クオレ』」「Cuoré」「日本にも『愛の學校』『學童日誌』など種々の飜譯も、拔萃もあつて、人の知るところ、イタリーの小説家 Edmondo De Amicis(1846―)の作」イタリア王国(当時)の作家エドモンド・デ・アミーチス(Edmondo De Amicis 一八四六年~一九〇八年:底本の大正一五(一九二六)年第一書房刊「小泉八雲全集」刊行時には、鬼籍に入って既に十八年も経過しているのに生きていることになっている)の代表作で、統一イタリア(後述)の教育用に書かれた愛国小説“Cuore”(「クオーレ」。イタリア語版ウィキを見ても原文や訳文にあるような“é”の「アッチェント・アクート」(フランス語の「アクサンテギュー」)はなく、原本表紙画像にもない)。ウィキの「エドモンド・デ・アミーチス」によれば、イタリア統一運動(中世以降のイタリアは小国に分裂しており、それぞれの小国がまた欧州大国を後ろ楯として権力抗争を繰り返していたが、一八六一年にイタリア王国が建国されて統一は一応の成立を見た)の時代に育ったアミーチスは、一八六〇年十四歳の時にはイタリア統一運動の英雄『ジュゼッペ・ガリバルディの千人隊(赤シャツ隊)に志願したほどの愛国者であった(幼少として断わられる)』。本作を『初めて日本語訳したのは教育者の三浦修吾で、彼が「愛の学校」というサブタイトルをつけた』とある(調べてみたところ、三浦の初回翻訳は明治四五(一九一二)年六月(大正改元前))。私は小さな頃に児童向けに書かれたものを読んだきりで、それも忘れてしまった(私には感動した記憶も、面白かった記憶も、残念ながら、全くない)。されば、ウィキの「クオーレ」から引いておく。『アミーチスの代表作で、「クオーレ」とはイタリア語で心(心臓の意味もある)を指す言葉である』。小学校三年生の十歳のエンリーコ少年の、新学期の十月から翌年七月までの学校での一学年十ヶ月を『過ごした日記が書かれている。舞台となるこの小学校はトリノにある。「先生のお話」として、各月にパドヴァ、フィレンツェ、ジェノヴァなどの少年の物語が挿入されている(これらは統一前の各国を代表している)』。その挿話中の一つである、五月パートにある、『"Dagli Appennini alle Ande"(アペニン山脈からアンデス山脈まで)は日本語で「母を尋ねて三千里」』『などの題名で独立した物語としても愛読される』(私はよほどひねくれているものか、この「母を尋ねて三千里」の話も大嫌いである)。
「樺の棒主義」原文“the birch”。「樺の鞭(むち)」とした方が遙かに分かり良い。“birch”(音写「バァーチ」)は、ブナ目カバノキ科カバノキ属 Betula に属する落葉広葉樹である樺(かば)の木の類の総称。樺の木の枝で出来た鞭は、西洋では古くから生徒の処罰(映画などを見ていると、主に足の脹脛(ふくらはぎ)辺りをひっぱたくように思われる。傷が見えにくい箇所で、しかも柔らかく痛い箇所であり、ある種の異常なサデイズム志向が、よく窺われると私は思う)に用いた。]
Ⅸ.
I have said that severity on the part of teachers would scarcely be tolerated by the students themselves,—a fact which may sound strange to English or American ears. Tom Brown's school does not exist in Japan; the ordinary public school much more resembles the ideal Italian institution so charmingly painted for us in the Cuoré of De Amicis. Japanese students furthermore claim and enjoy an independence contrary to all Occidental ideas of disciplinary necessity. In the Occident the master expels the pupil. In Japan it happens quite as often that the pupil expels the master. Each public school is an earnest, spirited little republic, to which director and teachers stand only in the relation of president and cabinet. They are indeed appointed by the prefectural government upon recommendation by the Educational Bureau at the capital; but in actual practice they maintain their positions by virtue of their capacity and personal character as estimated by their students, and are likely to be deposed by a revolutionary movement whenever found wanting. It has been alleged that the students frequently abuse their power. But this allegation has been made by European residents, strongly prejudiced in favour of masterful English ways of discipline. (I recollect that an English Yokohama paper, in this connection, advocated the introduction of the birch.) My own observations have convinced me, as larger experience has convinced some others, that in most instances of pupils rebelling against a teacher, reason is upon their side. They will rarely insult a teacher whom they dislike, or cause any disturbance in his class: they will simply refuse to attend school until he be removed. Personal feeling may often be a secondary, but it is seldom, so far as I have been able to learn, the primary cause for such a demand. A teacher whose manners are unsympathetic, or even positively disagreeable, will be nevertheless obeyed and revered while his students remain persuaded of his capacity as a teacher, and his sense of justice; and they are as keen to discern ability as they are to detect partiality. And, on the other hand, an amiable disposition alone will never atone with them either for want of knowledge or for want of skill to impart it. I knew one case, in a neighbouring public school, of a demand by the students for the removal of their professor of chemistry. In making their complaint, they frankly declared: 'We like him. He is kind to all of us; he does the best he can. But he does not know enough to teach us as we wish to be taught. lie cannot answer our questions. He cannot explain the experiments which he shows us. Our former teacher could do all these things. We must have another teacher.' Investigation proved that the lads were quite right. The young teacher had graduated at the university; he had come well recommended: but he had no thorough knowledge of the science which he undertook to impart, and no experience as a teacher. The instructor's success in Japan is not guaranteed by a degree, but by his practical knowledge and his capacity to communicate it simply and thoroughly.
八
近代日本の敎育制度では凡て敎育は極めて親切に穩かに施される。敎師は只敎師である、英語の意味で云ふマスターと云ふ者に當らない。生徒に對してただ先生卽ち兄の關係を有するだけである敎師は生徒に對して、自分の意志を押し通さうとはしない、罵る事は決してしない、批評がましい事も餘りしない、罰する事も餘りない。日本の敎師で生徒を打つ者は決してない、そんな事をしたら、その人は直ちに自分の位置を捨てねばならない。敎師は決して怒らない、もし怒つたら生徒の面前及び同僚の心中に自分の價値を下げる事になる。實際日本の學校には罰はない。時々大のいたづら者が、休憩時間に校舍內に留め置かれる事はある、しかもこの輕い罰も直接敎師が課するのではない、敎師の苦情をきいて校長が課するのである。こんな場合でもその目的のあるところは娯樂を奪ふて苦痛を與ふるのではなく、一過失を示して一般の戒めとするに過ぎない、そして多數の例によれば、一人の少年が自分の仲間の前で自分の過失を深く自覺せしめられる事は、過失をくりかヘす事を妨ぐるだけの力は充分ある。鈍い生徒に餘計の課業を強ゆるやうな或は四五百行を寫して眼を勞せしむるやうな殘酷な罰は夢にも見られない。又かりにこんな種類の罰則があつたとしても現在の狀態ではもはや生徒自身が許して存し置かないであらう。日本國中到るところの敎育當局者の大槪のやり方は罰しでもしなければ充分に制し切れない生徒はその學校に置かないのである、しかし放校と云ふ事もまれにしかない。
學校から家に歸る道すがら城內の廣場を通つて近路をする時に、私は屢〻美はしい物を 見る。着物をきて、草履はいて、帽子を冠らない三十人ばかりの小さい少年の一組がやはり日本服を着た立派な若い日本の敎師に行進しかつ歌ふ事を習つて居る。歌ふ時に列をつくつてそして小さい素足で拍子をとつて居る。敎師は愉快なはつきりした高調子の聲の人である、列の一方に立つて歌を一行づつ歌ふ、つぎに凡ての少年がそれにならつてそれを歌ふ。今度はそのつぎの一行を歌ふ、又それを一同がくりかへす。もしまちがへば又改めてその歌を歌ひ直さねばならない。
それは日本の英雄愛國者のうちの最も貴い楠正成の歌である。
[やぶちゃん注:「鈍い生徒に餘計の課業を强ゆるやうな或は四五百行を寫して眼を勞せしむるやうな殘酷な罰は夢にも見られない」私の教師時代の同僚には、こうした馬鹿げた課題や罰を平気で与える男女の教師を無数に見て来た(例えば、中島敦の、あの「山月記」本文を全文書き写させるとか、面白くも糞くもなく響きも悪い「徒然草」を、意味もなく暗誦させ、一度でも途中でトチると「ハイ! もう一度最初からよ!」とか、やる輩である。言っておく。芥川龍之介は「侏儒の言葉」の「つれづれ草」でこう述べている。『わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛讀したことはない。正直な所を白狀すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中學程度の敎科書に便利であることは認めるにもしろ。』と。頭のリンク先は、私の一括のサイト版『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』)。後者は、単発のブログ版。今も、こういうことを「教育的効果」と信じてやっている愚か者は、ゴマンと、いる、のである。――
「楠正成の歌」通称「青葉茂れる桜井の」、落合直文作詞で奥山朝恭作曲になる「桜井の訣別」と思われる。歌詞はこちらで、曲を聴きたい方のために兵庫県立香寺高等学校合唱部第五回定期演奏会の男女合唱をリンクさせておく。]
Ⅷ.
All teaching in the modern Japanese system of education is conducted with the utmost kindness and gentleness. The teacher is a teacher only: he is not, in the English sense of mastery, a master. He stands to his pupils in the relation of an elder brother. He never tries to impose his will upon them: he never scolds, he seldom criticizes, he scarcely ever punishes. No Japanese teacher ever strikes a pupil: such an act would cost him his post at once. He never loses his temper: to do so would disgrace him in the eyes of his boys and in the judgment of his colleagues. Practically speaking, there is no punishment in Japanese schools. Sometimes very mischievous lads are kept in the schoolhouse during recreation time; yet even this light penalty is not inflicted directly by the teacher, but by the director of the school on complaint of the teacher. The purpose in such cases is not to inflict pain by deprivation of enjoyment, but to give public illustration of a fault; and in the great majority of instances, consciousness of the fault thus brought home to a lad before his comrades is quite enough to prevent its repetition. No such cruel punition as that of forcing a dull pupil to learn an additional task, or of sentencing him to strain his eyes copying four or five hundred lines, is ever dreamed of. Nor would such forms of punishment, in the present state of things, be long tolerated by the pupils themselves. The general policy of the educational
authorities everywhere throughout the empire is to get rid of students who cannot be perfectly well managed without punishment; and expulsions, nevertheless, are rare.
I often see a pretty spectacle on my way home from the school, when I take the short cut through the castle grounds. A class of about thirty little boys, in kimono and sandals, bareheaded, being taught to march and to sing by a handsome young teacher, also in Japanese dress. While they sing, they are drawn up in line; and keep time with their little bare feet. The teacher has a pleasant high clear tenor: he stands at one end of the rank and sings a single line of the song.
Then all the children sing it after him. Then he sings a second line, and they repeat it. If any mistakes are made, they have to sing the verse again.
It is the Song of Kusunoki Masashigé, noblest of Japanese heroes and patriots.
七
文部大臣をへて、陛下は明治二十三年十月三十日の日附の勅語を帝國のあらゆる學校に賜はつた。そこで各種の學校の學生敎師集つて教育勅語の捧讀をきくのである。
八時に中學校の私共は、講堂に集つて知事の來校をまつて居る、知事は各種の學校でこれから勅語を讀むのである。まつ事只暫らくにして、知事は縣廳の凡ての官吏と松江市民の重なる者を率ゐて來る。一同起立して知事に挨拶する、つぎに國歌は合唱される。
それから知事は壇に上つて勅語を取り出す、絹表裝の卷物になつた漢字交りの書き物である。知事は徐ろに織物の包裝からこれを引き出して恭しく額に捧げ、これをほどいて再び又額に捧げ、しばらく嚴肅に一息ついて後、彼の朗らかな深い聲で流暢なる辭句を、古風な讀み方で讀み始める、その讀み方は一種歌のやうである――
[やぶちゃん字注:以下の「教育勅語」(後注参照)は底本では全体が二字下げである。]
『朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ』
それから知事と校長は短い話をする、勅語の深い意味について注意し、かつ一同にこれを記憶し且つ固く守るべき事をすすめる。そのあと生徒はその日休みとなる、すでに聞いたところを一層よく反省するためである。
[やぶちゃん注:「明治二十三年十月三十日の日附の勅語」「敎育ニ關スル勅語」一般的に「教育勅語」と呼ぶ。ウィキの「教育ニ関スル勅語」によれば、『明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与えた勅語。以後の大日本帝国において、政府の教育方針を示す文書とな』ったが、『第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し』、文部省は昭和二一(一九四六)年に『奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないことを通達』、昭和二三(一九四八)年六月十九日に『国会の各議院による決議により廃止された』とある。原文は最後に、『明治二十三年十月三十日』の日附と『御名御璽』と署名捺印がある。原文の“ CHO-KU-GU. ”はママ。
「宏遠」「くわうゑん(こうえん)」広遠に同じい。大きくて奥深いこと。
「樹ツル」「たつる」建つる。
「克ク」「よく」。
「億兆」元は、限りなく大きい数の意であるが、転じて「万民」を指す。
「厥ノ」「その」。指示語。
「濟セルハ」「なせるは」と読む。成してきたのは。
「國體」本来は「国の体面」というフラットな謂いであるが、これが天皇を倫理的精神的政治的中核とする国家思想を意味するものとなった。
「精華」物事の真の価値であるところの最も優れているところ。真髄。
「兄弟」「けいてい」と読む。
「友に」「ゆうに」。仲良く親しみ。
「恭儉」「きようけん(きょうけん)」。人に対しては恭(うやうや)しくし、自分の行いに対しては慎み深くすること。
「業」「ぎやう(ぎょう)」職務。
「德器」徳行(道徳にかなった良い行い)と器量(それぞれの地位や役目に相応した才能や人格)。
「世務ヲ開キ」「世務」は「せいむ」で世の中の務め。国家の発展に尽力し。
「國憲」「日本帝國憲法」。
「遵ヒ」「したがひ」。
「一旦緩急アレハ」万一、危急の折りあらば。
「天壤無窮」「てんじやうむきゆう(てんじょうむきゅう)」。天地とともに永遠に極まりなく続くさま。「壤(壌)」は「地」の意。「日本書紀」「神代紀(じんだいき)」の天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)らに下した三大神勅の一つに由来するとされる。ウィキの「神勅」を参照されたい。
「扶翼」「ふよく」。助けること。
「是ノ如キハ」「かくのごときは」。
「爾」「なんぢ(なんじ)」。
「遺風」後世に残っている先人の正しい教え。
「斯ノ」「この」。
「實ニ」「じつに」。
「遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ」「じゆんしゆ((じゅんしゅ)すべきところ、これをここにつうじて」。
「謬ラス」「あやまらず」。連用形で読点を伴い、下に続いて対句表現となる。
「中外」「ちうがい(ちゅうがい)」。本来は自己の側の内部とその外部であろうが、これは現実的に国の内外の意に転じてゆく。
「悖ラス」「もとらず」。「悖る」は、物事の筋道に合わぬ、道理に背き反するの意で、ここは、間違いのない永遠不変の道理、真理であるという謂いであろう。
「拳々服膺」「けんけんふくよう」「拳拳」は捧げ持つさま、固く握って離さないさまから、謹むさまで、「服膺」は胸につけて離さない意。心に銘記して常に忘れずにいること。「礼記」の「中庸」に由来する。
「咸」みな。皆。
「一ニセン」「いつにせん」。一致させよう。
「庶幾フ」「こひねがふ」。「希う」「冀う」或いは「乞い願う」とも書ける。強く願う、切望するの意。]
Ⅶ.
Through the Minister of Public Instruction, His Imperial Majesty has sent to all the great public schools of the Empire a letter bearing date of the thirteenth day of the tenth month of the twenty-third year of Meiji. And the students and teachers of the various schools assemble to hear the reading of the Imperial Words on Education.
At eight o'clock we of the Middle School are all waiting in our own assembly hall for the coming of the Governor, who will read the Emperor's letter in the various schools.
We wait but a little while. Then the Governor comes with all the officers of the Kencho and the chief men of the city. We rise to salute him: then the national anthem is sung.
Then the Governor, ascending the platform, produces the Imperial Missive,—a scroll of Chinese manuscript sheathed in silk. He withdraws it slowly from its woven envelope, lifts it reverentially to his forehead, unrolls it, lifts it again to his forehead, and after a moment's dignified pause begins in that clear deep voice of his to read the melodious syllables after the ancient way, which is like a chant:―
'CHO-KU-GU. Chin omommiru ni waga kōso kosō kuni wo….
'We consider that the Founder of Our Empire and the ancestors of Our Imperial House placed the foundation of the country on a grand and permanent basis, and established their authority on the principles of profound humanity and benevolence.
'That Our subjects have throughout ages deserved well of the State by their loyalty and piety and by their harmonious co-operation is in accordance with the essential character of Our nation; and on these very same principles Our education has been founded.
'You, Our subjects, be therefore filial to your parents; be affectionate to your brothers; be harmonious as husbands and wives; and be faithful to your friends; conduct yourselves with propriety and carefulness; extend generosity and benevolence towards your neighbours; attend to your studies and follow your pursuits; cultivate your intellects and elevate your morals; advance public benefits and promote social interests; be always found in the good observance of the laws and constitution of the land; display your personal courage and public spirit for the sake of the country whenever required; and thus support the Imperial prerogative, which is coexistent with the Heavens and the Earth.
'Such conduct on your part will not only strengthen the character of Our good and loyal subjects, but conduce also to the maintenance of the fame of your worthy forefathers.
'This is the instruction bequeathed by Our ancestors and to be followed by Our subjects; for it is the truth which has guided and guides them in their own affairs and in their dealings towards aliens.
'We hope, therefore, We and Our subjects will regard these sacred precepts with one and the same heart in order to attain the same ends.' [3]
Then the Governor and the Head-master speak a few words,—dwelling upon the full significance of His Imperial Majesty's august commands, and exhorting all to remember and to obey them to the uttermost.
After which the students have a holiday, to enable them the better to recollect what they have heard.
3
I take the above translation from a Tokyo educational journal, entitled The Museum. The original document, however, was impressive to a degree that perhaps
no translation could give. The Chinese words by which the Emperor refers to himself and his will are far more impressive than our Western 'We' or 'Our;' and the words relating to duties, virtues, wisdom, and other matters are words that evoke in a Japanese mind ideas which only those who know Japanese life perfectly can appreciate, and which, though variant from our own, are neither less beautiful nor less sacred.
六
舊日本のこの最も邊鄙な地方にでも、植物學、地質學その他の科學が日々敎へられる有樣を見る事は頗る驚くべきである。植物生理學や植物の組織の性質は立派な顯微鏡の下に研究される、しかも化學と關係して硏究される、そして一定の時期に敎師は各組を田舍に率ゐて、標本となるべきその地方の花卉草木を採集してその學期の課業を說明する。有名なる札幌農學校の卒業生の敎ふる農學は、全く教育の目的で學校が買ふて維持して居る田畠で實際に說明される。地質學の課業は、湖水の近傍の山々又は海岸の恐るべき斷崖絕壁を訪れて參考とされる、そこでは學生は、地層の形狀又は岩石の歷史のそこに現れた物を親しく學ぶ。湖水を入るる凹地層及び松江近傍の地方は、ハックスレーのすぐれた小册子に示してある敎案に隨つて地相學的に硏究するところとなつて居る。生物學も又最新最良の方法によつて、又顯微鏡の助けによつて敎へられて居る。かくの如き敎授の結果は時に驚くべき物がある。私は一人の生徒僅か十六歲の少年が、自ら進んである東京の大學敎授のために、海產植物の二百種以上を集めて分類したのを知つて居る。又一人、十七歲の少年が手近に一册の參考書もなく、そして後に自分の發見したところでは一つの誤りも、とり落しもなく、自分のために松江の近傍で見出される凡ての蝶類の科學的目錄を自分の手帳に書いてくれた。
譯註。Huxley(1825―1895)は有名な
な生物學者、(生物學者なるが故に
化石、その他の研究より physiography
の著述がある)。
[やぶちゃん注:底本では「譯註」の最後の句点がないが、補填した。
「札幌農學校」明治八(一八七五)年五月に最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地、札幌本府建設から五年が経ち、漸く町の形が出来た北海道石狩国札幌郡札幌(現在の札幌市中央区北二条西二丁目)付近に仮学校を東京から移転、同年七月二十九日に「札幌学校」と改称、さらに翌明治九年八月には「札幌農学校」と改称し、開校式を挙行した(正式改称時期は同年九月)。札幌農学校の初代校長には北海道開拓担当官僚であった調所広丈(ちょうしょひろたけ)、教頭には、かのマサチューセッツ農科大学学長であったウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark 一八二六年~一八八六年)が招かれた。クラークは僅か八ヶ月ばかりの滞在ではあったが、彼から直接に科学とキリスト教的道徳教育の薫陶を受けた同校第一期生には、後の北海道帝国大学初代総長佐藤昌介や東京農学校講師で実業家となった渡瀬寅次郎らがおり、さらに二代目教頭となったウィリアム・ホイーラー(William Wheeler 一八五一年~一九三二年:彼は、かの札幌時計台の設計者でもある)もクラークの精神を引き継ぎ第二期生からは新渡戸稲造・内村鑑三、植物学者として知られる宮部金吾らを輩出、彼らは特に「札幌バンド」と呼ばれ、北海道開拓のみならず、近代日本の発展に大きな影響を与えた。無論、現在の北海道大学の前身である(以上は概ね、ウィキの「札幌農学校」に拠る)。
「ハックスレー」既注のイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。「Huxley(1825―1895)は有名な生物學者。「physiography」は“physical geography”のことで「自然地理学」のこと。私の「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケル」を見られたい。
「海產植物」確かに原文は“marine plants”ではあるが、恐らくは顕花性「海草」類ではなく(それも含んでいた可能性は頗る高いと思うが)、現物を見たわけではないが、その収集品の大部分は「海産藻類」と推定されるので、「海藻」と訳して問題ないものとは思われる。平井呈一氏も『海藻類』と訳しておられる。何故、拘るかといえば、動物・植物二系統を基本とする古典的分類学にあっては「藻類」は、それこそ十把一絡げに「下等植物」で、単系統を成すものとされてきたのであるが、現在では「藻類」を多系統の発達群と考えるのが普通だからである。即ち、ウィキの「藻類」にあるように、『藻類という呼称は光合成を行なうという共通点を持つだけの多様な分類群の総称であり』、その中には、古典的な意味での「植物」とは異なる分類群が既に生まれているからである。なお、この、藻類を「二百種以上を集めて分類した」少年や、「一册の參考書もなく、そして後に自分の發見したところでは一つの誤りも、とり落しもなく」、ハーン「のために松江の近傍で見出される凡ての蝶類の科學的目錄」を作り上げた少年について私は知りたく思う。知見をお持ちの方、是非とも御教授下さるとありがたい。因みに、私は無類の海藻フリークなのである。]
Ⅵ.
It is no small surprise to observe how botany, geology, and other sciences are daily taught even in this remotest part of Old Japan. Plant physiology and the nature of vegetable tissues are studied under excellent microscopes, and in their relations to chemistry; and at regular intervals the instructor leads his classes into the country to illustrate the lessons of the term by examples taken from the flora of their native place. Agriculture, taught by a graduate of the famous Agricultural
School at Sapporo, is practically illustrated upon farms purchased and maintained by the schools for purely educational ends. Each series of lessons in geology is supplemented by visits to the mountains about the lake, or to the tremendous cliffs of the coast, where the students are taught to familiarize themselves with forms of stratification and the visible history of rocks. The basin of the lake, and the country about Matsue, is physiographically studied, after the plans of instruction laid down in Huxley's excellent manual. Natural History, too, is taught according to the latest and best methods, and with the help of the microscope. The results of such teaching are sometimes surprising. I know of one student, a lad of only sixteen, who voluntarily collected and classified more than two hundred varieties of marine plants for a Tōkyō professor. Another, a youth of seventeen, wrote down for me in my notebook, without a work of reference at hand, and, as I afterwards discovered, almost without an omission or error, a scientific list of all the butterflies to be found in the neighbourhood of the city.
五 一八九〇、十月十五日
私は今日島根縣全體の【譯者註一】學校の例年の運動會を見た。この競技は二の丸の城內の大廣場で行はれた。昨日圓形のトラックは仕切られ、高飛びのためにしがらみは造られ、參觀人や來賓のために數百の木の腰かけは準備せられ、見事な假屋は知事のために設けられた、何れも日暮までにでき上つた。周圍は板の腰かけの層で段々と高くなり、知事の席には飾りや旗のあるこの運動場は廣大なる圓戲場のやうに見える。十里以內の町村から集つた學童は驚くべき數である。殆んど六千の男女の生徒はこの競爭に加はるために集つた。兩親、親戚、敎師は腰かけの上や門の內で非常な群集をなしてゐた。この一大區劃を見下せる城壁の上には、恐らくこれだけで松江市の人口の三分の一にも當る程の更に大多數の群集が集つてゐた。
各競技の始めと終りの合圖はピストルの發射であつた、この運動場內は一軍團をも容れる程の廣さがあるから、各所に同時に四種の運動が行はれた、そして賞品は知事手づから各競爭の勝利者に授けた。
各學校の各組に於ける選手競争があつた、全體のうちで自分等の五年級の坂根が一等ときまつた、坂根は綽々たる餘裕を示して四十ヤードも他に先んじて決勝點に入つた。彼は私共の學校の運動選手である、强壯であるが同時に温良である、それで私は彼が兩腕に一杯賞品の書物をかかへて居るのを見て甚だ嬉しく思つた。彼は各剱士の左腕に結びつけた小さい土器を割るので勝負のきまる擊剱の仕合にも勝つた。又彼は大きな生徒のうちに入つて跳躍の競爭にも勝つた。
しかし勝利者は外にも數百人あつた、そして數百の賞品は與へられた。一人の左足と一人の右足とを結び合せて二人づつになつて走る競走【譯者註二】もあつた。同じく奇妙な競走【譯者註三】があつた、この競走に勝つためには走るばかりでなく代る代る這うたり、よぢ上つたり、跳びこえたり、飛んだりする技倆によらねばならない。少女の競走もあつた(空色の袴とさまざまの色の着物を着て蝶々のやうに美しく見えた)、競走者は芝生に散らしてある無數の球のうちから色のちがつた球を三つ拾ふて走らねばならないと云ふのであつた。この外に少女の所謂旗競走もあつた、それから羽根をつく仕合もあつた。
つぎに綱引があつた。しかも綱の一方に百人、他方に百人の大きな綱引であつた。しかしこの日の最も驚嘆すべき運動は啞鈴體操であつた。五百人程のあつさの列をつくつた六千の男女の生徒が方々の小さい木造の塔から一同を指揮せる體操敎師の合圖に隨つて、一萬二千の腕が全く同時に上下し、一萬二千の草履をはいた足が進んだり退いたりした、六千の聲が同時にそろふて啞鈴體操の『一、二、三』を唱へて居た、『一、二、――三、四、――五、六、――七、八』
最後に『城の取りあひ』といふ珍らしい仕合があつた。竹の枠に紙をはつた一丈五尺程の日本の塔の二つの模型が場內の各一方に建てられた。城の內部に蓋のない器に燃燒液があつた、もしこの器がくつがへれば全建築が火になるわけである。二組に分れた少年が紙の壁を造作なくつき破る木の球で城を砲擊した、忽ちのうちに兩方の塔が盛んに火焰を上げた。勿論さきに城の燒けた方がこの仕合に負けたのであつた。
運動は午前八時に始まり、午後五時に終つた。それから合圖に隨つて一萬の聲が莊嚴な『君が代』を歌ひ出した、そして日本の天皇及び肖に皇后兩陛下の萬歲を三唱して終りを告げた。
日本人は自分等の歡聲を上げる時のやうに叫んだり、どなつたりはしない。日本人のは歌ふのである。長い叫びは何れも大きな音樂の合唱の始めの調子のやうに『アアアアアアアアア』である。
譯者註一。島根縣全體の學校は少し大げさ。
譯者註二。二人三脚の事。
譯者註三。障礙物競走の事。
[やぶちゃん注:「二の丸」個人サイト「ぶらり重兵衛の歴史探訪」の「松江城」によれば、松江城の二の丸は本丸の南側に位置し、南北七十二間(約百四十一・八メートル)、東西六十二間(百二十二・一メートル)の曲輪(くるわ)とあり、『江戸時代の二の丸は、藩主が公的な儀式や政務をつかさどる「御廣間(おひろま)」や』、生活をしたり、『私的な接客や面会などを行った「御書院(ごしょいん)」はじめ「御臺所(おだいどころ)」、「御式臺(おんしきだい)」などの御殿が建ち並び、周囲には時打ち太鼓をおいた「太鼓櫓(たいこやぐら)」や、城下の監視や倉庫に使われた「南櫓(みなみやぐら)」、「中櫓(なかやぐら)」をはじめとする』五つの櫓などがあったが、これらの『建物は、明治維新とともに無用の施設となり』、明治八(一八七五)年に取り壊された、とある。
「十里以內の町村」原文では二十五マイル(約四十キロメートル)となっている。「十里」は凡そ三十九キロメートル。これで松江からの範囲を単純に見ると島根半島は総てが含まれ、南西は現在の大社町の八キロ南の出雲市内の旧湖陵町(こりょうちょう)辺り、南は広島県県境の奥出雲町、東方は安来(やすぎ)市全域が含まれるから、石見から南西部分津和野までの地域は包含されない。なお、ここで述べておくと、西の隣県で四十キロ圏内(米子市・南部町・日南町など)に入る鳥取県は、実は一度、明治九(一八七六)年八月に島根県に併合されて鳥取に支庁が設され、その五年後の明治一四(一八八一)年九月に、当時の島根県域の旧因幡国八郡と旧伯耆国六郡が鳥取県として再分立して再置されているという事実は余り知られていないと思うので、ここに記しおくこととする。
「松江市の人口の三分の一」M.Higashide 氏のサイト「都道府県市区町村」の「落書き帳アーカイブズ」のこちらに出るデータによると、松江市は明治一九(一八八六)年の都市人口では全国で第二十三位三万三千三百八十一人とある。後で概数であろうが、「一萬」とあることから考えれば、大袈裟な表現とは言えない。
「ピストル」現在のスターターのような模擬銃ではなく、空砲の実銃であろう。
「一軍團」原文は“an army”で、これは漠然とした数千人規模の軍隊という謂いのように思われる。平井呈一氏は『一個師団』とする。参加生徒の人数だけで「六千」人とするハーンの叙述と(後に「一萬」とも出るが、これは二の丸の平地以外で見物している人々も含めての員数である)、それ以外の教師・来賓・観客も容れることが出来るわけで、六千人以上のキャパを持つという風に読み換えることが出来るから、時代や国にもよるが、平井氏の『一個師団』(英語では“a division”)なら、概ね、六千人から二万人規模であるから、その下限値となり、千五百名から六千名規模の兵員によって構成される「旅団」(英語では“Brigade”)の上限値ではある。因みに、平場となった「二の丸」は前のデータから一万七千三百平方メートル以上はあることが判る。
「坂根」不詳。彼の消息を御存じの方は居られませんか?
「五年級」当時の旧制中学校は五年制で五年生開始時の年齢は満十六歳。
「四十ヤード」三十六・五八センチメートル。
「一人の左足と一人の右足とを結び合せて二人づつになつて走る競走」「二人三脚の事」ウィキの「二人三脚」を見ると、明治七(一八七四)年に『海軍兵学校で行われた日本初の運動会』や、明治一一(一八七八)年に『札幌農学校で開催された運動会では、既に競技種目に組み込まれていた』とあるが、見る限り、ハーンが特筆するからといって、本邦を起源とする遊技的競技ではないように思われる。ルーツに就いて識者の御教授を乞う。【2025年3月三日追記】現行の同ウィキには、明治七(一八七四)年に『海軍兵学校で行われた日本初の運動会とされる競闘遊戯では「蛺蝶趁花」という名称で実施された。また』明治十一『年に札幌農学校で開催された運動会では、既に競技種目に組み込まれていた』とあった。さらに検索してみたところ、「stak」社公式サイト内の、「二人三脚から100人101脚まで:世界記録の歴史と科学的限界に迫る完全ガイド」のページに拠れば(改行を詰めた)、『二人三脚は、単なる運動会の種目ではない。それは人類の協力と調和の象徴として、長い歴史を持つ。最古の記録は1872年』(☜:明治5年相当。本邦では、「太陽暦」が採用され、学制が公布された年である)、『イギリスのパブリックスクールで行われた運動会にまで遡る。当時の新聞「The Times」には、「生徒たちが足を結び合わせて走る珍しい競技」という記述が残されている。日本での初出は1909年。東京高等師範学校(現・筑波大学)の運動会で「二人三脚競走」として実施された記録が残る』とある。最後のそれは、「二人三脚」の「競走」種目名のそれということであろう。
「奇妙な競走」「障礙物競走の事」障害物競走。「礙」は音も同じく「ガイ」(呉音は「ゲ」で、仏教用語で「融通無礙(むげ)」などと使う)で訓は「さまたげる」、意味も同じく、「進行を邪魔して止める・妨げる」の謂いである。熟語では「阻礙」「妨礙」とあるように、現行では「害」を代用字とすることが多く、画数も多く見難いことからも、目にすることが少なくなった。私が生理的に違和感があることから「障害者」の代わりに「障碍(しょうがい)者」と使う「碍」の字は本字の俗字である。電線とその支持物の間を絶縁するために用いる「碍子(がいし)」も実は本来は「礙子」である。
「旗競走」「旗取り」のことと思われる。現行でも小学校などで低学年児童や、招待した来季就学予定児童が行う競技で、置かれた旗を取って戻ってくる競技である。
「啞鈴體操」「山形県立博物館」公式サイト内の「教育」の「木亜鈴(もくあれい)」の項に写真入りで(ルビを省略させて頂き、一部に私の調べたデータを挟んだ)、『木でつくられたダンベルです。現在は、鉄でできたダンベルが普通ですが、昔は木製でした。手にとってみると、とても軽いのにおどろきます。ダンベルとは、もともと「音のしない鈴」という意味の英語で、亜鈴はそれを日本語に訳したものです。木亜鈴は男子と女子、生徒と教師用とで大きさや重さがちがいました』。『亜鈴は、明治時代になって外国からとり入れられた体操の授業でつかわれました。両手に持って手足を伸ばしたり縮めたり、体を曲げたりするものでした』。明治一七(一八八四)年に博聞分社から出版された馬塲壽(ばばひさし)著「亜鈴体操新法」という本には二十五種類に及ぶ使用『方法が紹介されています。今でも「ダンベル体操」というのがおこなわれていますが、内容はだいぶちがうようです』とある。
「一丈五尺」四・五五メートル。原文は十五フィートで四・五七メートル。
「燃燒液」原文“an inflammable liquid”。可燃性(引火性)の高い液体。]
Ⅴ.
October 15, 1890.
To-day I witnessed the annual athletic contests (undō-kwai) of all the schools in Shimane Ken. These games were celebrated in the broad castle grounds of Ninomaru. Yesterday a circular race-track had been staked off, hurdles erected for leaping, thousands of wooden seats prepared for invited or privileged spectators, and a grand lodge built for the Governor, all before sunset. The place looked like a vast circus, with its tiers of plank seats rising one above the other, and the Governor's lodge magnificent with wreaths and flags. School children from all the villages and towns within twenty-five miles had arrived in surprising multitude. Nearly six thousand boys and girls were entered to take part in the contests. Their parents and relatives and teachers made an imposing assembly upon the benches and within the gates. And on the ramparts overlooking the huge inclosure a much larger crowd had gathered, representing perhaps one-third of the population of the city.
The signal to begin or to end a contest was a pistol-shot. Four different kinds of games were performed in different parts of the grounds at the same time, as there was room enough for an army; and prizes were awarded to the winners of each contest by the hand of the Governor himself.
There were races between the best runners in each class of the different schools; and the best runner of all proved to be Sakane, of our own fifth class, who came in first by nearly forty yards without seeming even to make an effort. He is our champion athlete, and as good as he is strong,—so that it made me very happy to see him with his arms full of prize books. He won also a fencing contest decided by the breaking of a little earthenware saucer tied to the left arm of each combatant. And he also won a leaping match between our older boys.
But many hundreds of other winners there were too, and many hundreds of prizes were given away. There were races in which the runners were tied together in pairs, the left leg of one to the right leg of the other. There were equally funny races, the winning of which depended on the runner's ability not only to run, but to crawl, to climb, to vault, and to jump alternately. There were races also for the little girls,—pretty as butterflies they seemed in their sky-blue hakama and many coloured robes,—races in which the contestants had each to pick up as they ran three balls of three different colours out of a number scattered over the turf. Besides this, the little girls had what is called a flag-race, and a contest with battledores and shuttlecocks.
Then came the tug-of-war. A magnificent tug-of-war, too,—one hundred students at one end of a rope, and another hundred at the other. But the most wonderful spectacles of the day were the dumb-bell exercises. Six thousand boys and girls, massed in ranks about five hundred deep; six thousand pairs of arms rising and falling exactly together; six thousand pairs of sandalled feet advancing or retreating together, at the signal of the masters of gymnastics, directing all from the tops of various little wooden towers; six thousand voices chanting at once the 'one, two, three,' of the dumb-bell drill: 'Ichi, ni,—san, shi,—go, roku,— shichi, hachi.'
Last came the curious game called 'Taking the Castle.' Two models of Japanese towers, about fifteen feet high, made with paper stretched over a framework of bamboo, were set up, one at each end of the field. Inside the castles an inflammable liquid had been placed in open vessels, so that if the vessels were overturned the whole fabric would take fire. The boys, divided into two parties, bombarded the castles with wooden balls, which passed easily through the paper walls; and in a short time both models were making a glorious blaze. Of course the party whose castle was the first to blaze lost the game.
The games began at eight o'clock in the morning, and at five in the evening came to an end. Then at a signal fully ten thousand voices pealed out the superb national anthem, 'Kimi ga yo, ' and concluded it with three cheers for their Imperial Majesties, the Emperor and Empress of Japan.
The Japanese do not shout or roar as we do when we cheer. They chant.
Each long cry is like the opening tone of an immense musical chorus: A-a-a-a-a-a-a-a..a!
四 一八九〇、十月一日
しかし私は師範學校について知るところ少いのは止むを得ない。嚴密に云へば私はそこの敎官の一員ではない、私の時間の大部分はこの中學校にあるのである。中學校が私のつとめをたゞ貸して居るに過ぎない。私は師範學校の生徒は敎室で見るだけである、彼等は松江に於ける先生の私宅を訪ふために外出する事は許されないからである。それで私は中學校の生徒に對するやうに、師範學校の生徒に對して親しくなる事は望まれない、中學校の生徒は私に『Sir』(あなた)と呼ばないで先生と呼んで、私を謂はば兄のやうに遇するやうに、なりかかつて居る。〔私は敎師(Master)と云ふ字を用ふる事を好まない、日本では敎師ぶる必要はないからである〕そして私は師範學校の大きな明るい居心のよい敎官室に居るよりも、私の机が西田氏のと相ならんで居る餘り綺麗でない寒い敎官室に居る方がもつと氣樂である。
壁に日本文字の澤山ある地圖がある、進化論の見方から動物學の事實を示した二三の大きな圖もある、小さい黑塗りの小板のぎつしりつまつた大きな枠がある、それが皆一面にはまつて居るから、全體の表面が黑板の表面のやうに一樣になつて居る。これ等の黑い小板に白く敎師の名、課目、組、時間割など書いてある、むしろ塗つてある、この巧みな板の配列で時間の變りなどは板さへ置き換へれば分る。何れも漢字と假名で書いてあるから、私には全體の案と目的に關する點を除いてあとは分らない。私は私の名の文字と數字のやさしいのだけしか學んでゐない。
銘々の先生の机に藥のかかつた靑白色の瀨戶物の小さい火鉢がある、火床に少しの赤い火が入れてある。しばらくの休憩時問に各敎師は眞鍮、鐡、銀の小さいきせるで煙草を吸ふて居る。この火鉢とあつい茶の一杯が戰場の疲勞を慰むるのである。
西田氏との外に一二人の敎師は英語が達者なので私共はこの休み時間に時々談笑するが大槪は皆默つて居る。何れも授業時問で疲勞するから默つて煙草を吸ふ方を好む。こんな時には聞えるものは時計のひびきと火鉢のふちで吸がらを落す小さいきせるの銳い音ばかりである。
[やぶちゃん注:「進化論」本邦でダーウィンの進化論(「種の起源」刊行は一八五九年で安政六年相当)を体系的に講義したのは、先立つ十三年前の明治一〇(一八七七)年、お雇い外国人として東京大学生物学教授となったアメリカ人生物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)であり(私は「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)」を電子化注作業中)(【追記】2016年2月13日に完遂した)、これを皮切りとして明治十年代には各種の進化論紹介が行われ、それがまた社会進化論へと発展し、当時、弾圧が始まっていた自由民権運動に於ける理論的支柱ともなった。但し、日本人で一般大衆向けに分かり易くしかも本格的な学術的な生物学としての進化論の普及に功のあったのは、この十四年後の明治三七(一九〇四)年に生物学者丘浅次郎(明治元(一八六八)年~昭和一九(一九四四)年)が書いた「進化論講話」を嚆矢とすると私は信ずるものである(私は彼の「生物學講話」を電子化注作業中であり、将来はその「進化論講話」にも着手する予定である)(【追記】「生物學講話」は2016年3月3日完遂。「進化論講話」は2018年7月31日に、こちらで完遂)。
「藥のかかつた靑白色の瀨戶物の小さい火鉢」原文“a small hibachi of glazed blue-and-white ware”。「藥のかかつた」は、染付されたの謂いである。]
Ⅳ.
October 1 1890.
Nevertheless I am destined to see little of the Normal School. Strictly speaking, I do not belong to its staff: my services being only lent by the Middle School, to which I give most of my time. I see the Normal School students in their class-rooms only, for they are not allowed to go out to visit their teachers' homes in the town. So I can never hope to become as familiar with them as with the students of the Chūgakkō, who are beginning to call me 'Teacher' instead of 'Sir,' and to treat me as a sort of elder brother. (I objected to the word 'master,' for in Japan the teacher has no need of being masterful.) And I feel less at home in the large, bright, comfortable apartments of the Normal School teachers than in our dingy, chilly teachers' room at the Chūgakkō, where my desk is next to that of Nishida.
On the walls there are maps, crowded with Japanese ideographs; a few large charts representing zoological facts in the light of evolutional science; and an immense frame filled with little black lacquered wooden tablets, so neatly fitted together that the entire surface is uniform as that of a blackboard. On these are written, or rather painted, in white, names of teachers, subjects, classes, and order of teaching hours; and by the ingenious tablet arrangement any change of hours can be represented by simply changing the places of the tablets. As all this is written in Chinese and Japanese characters, it remains to me a mystery, except in so far as the general plan and purpose are concerned. I have learned only to recognize the letters of my own name, and the simpler form of numerals.
On every teacher's desk there is a small hibachi of glazed blue-and-white ware, containing a few lumps of glowing charcoal in a bed of ashes. During the brief intervals between classes each teacher smokes his tiny Japanese pipe of brass, iron, or silver. The hibachi and a cup of hot tea are our consolations for the fatigues of the class-room.
Nishida and one or two other teachers know a good deal of English, and we chat together sometimes between classes. But more often no one speaks. All are tired after the teaching hour, and prefer to smoke in silence. At such times the only sounds within the room are the ticking of the clock, and the sharp clang of the little pipes being rapped upon the edges of the hibachi to empty out the ashes.
三 一八九〇、九月二十二日
師範學校は縣立である。生徒は品行方正を證する履歷書を出し、試驗をへて入學を許されるが人數には勿論限りがある。生徒は月謝も寄宿料も書籍代をさへも、旅費も、衣服代も拂ふに及ばない。國家の費用で衣食住と學問を受けて居る代り卒業ののち五ケ年間敎員として國家に奉公すべき義務がある。しかし入學すれば必ず卒業する物とは定まらない。年々三回乃至四回の試驗がある、一定の高い標準の試驗點を得ない生徒は如何にその品行が模範的で如何に勉强に熱心でも學校を退かねばならない。國家の敎育事業と云ふ點から何等の容赦も示されない、そしてこの敎育事業は生れつきの才能とその才能を證明する高い標準を要求する。
その訓練は軍隊的で、峻嚴である。實際師範學校の卒業生は軍隊で一年以上も歸休する事を軍法によつて許される【譯者註一】程その訓練は完全である、それ程完全な軍人となつて學校を出るのである。行狀も又一の必要物である、特別の評點がこのために設けてある、入學の當時如何に無作法でも、そのままである事は許されない。男らしい精神は養成される、そして粗野の風は排せられ、獨立自制の風は發達するやうになる。生徒は言語を發する時には敎師の顏を見なければならない、言語は明確であるのみならず又高聲でなければならない。敎場での行儀は教室內の器具によつても幾分よくしないわけに行かないやうになつて居る。小さい机は餘り狹くて肘をかける事ができない、腰かけにはよりかかるところがない、それで生徒は勉强中は固く眞直に身體をもたねばならない。生徒は又極めて淸潔にさつぱりと身を整へ置かねばならない。どこで又いつ敎師に遇つても止まつて足をそろへ體を眞直にして兵式の敬禮をしなければならない。しかもこれは書く事もできない程のすばやい美しさでなされるのである。
授業時間中の生徒の態度は强いて云へば餘りによすぎる。ささやきの聲も聞えない、許可なしには書物から頭をあげる事もない。しかし敎師が名を呼んで生徒にあてるや否や、その少年は直ちに立つて慣れない耳には外の生徒の靜肅沈默と對照して殆んどびつくりする程力のある樣子で答へるのである。
師範學校の女子部には五十人程の若い婦人が敎員としての訓練をうけて居るがそれは別の二階作りの四角な大きな風通りのよい建物で、附屬の庭園と共に外の建物と全然別になつて、往來より見えないやうになつて居る。これ等の少女は最新の方法で西洋の科學を學ぶと共に日本の藝術卽ち刺繡、裝飾、繪畫、生花の訓練をうける。洋畫も又敎へられる、しかも立派に敎られる、それはここばかりでない、到る處の學校で、しかし日本風の方法と聯絡して教へてある、この聯絡の結果は必ずや將來の美術作品に多少のよい影響を與ふる事を期待してよからう。繪畫に於ける日本學生の平均能力は歐洲學生のそれよりは少くとも五割は高いと私は思ふ。日本人種の魂は根本的に美術的である、その上幼時より敎へ込まれる極めてむつかしい漢字の書法は、繪畫の先生が透視畫法の講義を始めるずつと昔に既に眼と手とを極度に(殆んど西洋人には夢にも分らない程の程度に)訓練して居るのである。
この大師範學校に附屬して、又中學校にも廊下でつらなつた小さい男兒女兒の大きな小學校がある、敎師は卒業の時期に達した男女の學生である、[やぶちゃん注:読点はママ。]かくして國家の奉公に入る前に彼等の天職を實地に練習するのである。敎育に關する見物としてはこの小學敎育程、同情のある外國人にとつて興味のある物はない。私の見た第一の敎室では、極めて小さい女兒男兒の一組が(中にはこの子供等自身の人形の如く不思議に美しいのが居る)眞黑な草紙を机土に置いて屈んで居るところである、所謂墨と筆とを一心に使つてその黑い草紙を一層黑くしようとでも努めて居るのだらうと他人には思はれる。實は彼等は一筆一筆漢字と假名とを書く事を習つて居るのである。一筆がよくできたあとでなければ又つぎの一筆を下す事は許されない、一字を書く事はなほさらの事である。第一回の課業は充分終らないずつと以前に白紙は無數の未熟の筆のあとで悉く一樣に黑くなつて居る。しかし同じ紙はやはり用ひられる、ぬれた墨は乾いた墨の上では更に黑いあとをつけて容易に見られるからである。
つぎの室ではさみを使用する事を習へる一組の子供を見る、日本のはさみは一つになつてゐて餘程 U 文字の形にできて居るが私共のはさみより餘程あつかひにくいやうである。小さい子供はひな形又はこれから學ぶ特別の物や符號を切り出す事を習はうとして居る、花の形は最も普通のひな形であるが時としては何かある符號なども題として與へられる。
又ある敎室では別の小さい組が唱歌を習つて居る、敎師は黑板に白墨で音譜(ド、レ、ミ)を書き、そして手風琴に歌を合はせて居る。子供は日本國歌(君が代)及びスコットランドの節に合せてできた二つの日本の唱歌【譯者註二】をすでに知つて居る、その一つをきいて私はこの極東の片田舍に於ても、ずつと昔の種々の樂しい思ひ出にかへるのである。
この小學校では制服を着ない、皆日本服を着て居る、男の子供は藍色の着物を着て、小さい女の子供は蝶々のやうに光つた色々の色の着物を着て居る。着物の上に女の子供は袴【註一】をはいて居る、そしてこの袴は鮮やかなうす紫である。
授業時間の間に十分間を休憩なり遊戲なりに與へてある。男の子供は鬼ごつこやかくれんばうや又はその他の面白い遊戲をする、笑ふ、はね𢌞る、叫ぶ、駈けつこをする、相撲をとる、けれども歐洲の子供のやうに喧嘩やつかみ合ひはしない【註二】。小さい女の子供の方は又別に一緖になつて手まりをついたり、又は何か大勢で歌につれて一緖に遊戲をするために圓形をつくる。圓くなつて一緖に歌ひ合ふ可愛い聲はたとへやうのない程やさしく又美はしい。
註一。天照皇大神がもすそを結んで、
始めてはかまを發明されたと云ふ傳
說がある。
註二。かう書いてから二年日本の諸
學校に敎師として敎へたが一つも學
生間の本氣の爭鬪を聞いた事がない。
すでに八百人程敎へて居る。
かんごかんごしようや
仲よにしようや
どんどんとくんで
地藏さんの水を
松葉の水入れて
まつくりかへそ【譯者註三】
私にこれ等の生徒を敎ふる若い婦人も若い男子も自分等の敎へ子には非常にやさしい事を認める。游戲のために着物が亂れたり汚れたりして居る子供はわきへ連れ出されて親身の兄にされるやうに丁寧にそれを直したり塵をはらつたりして貰ふ。
小學生を敎へて彼等の未來の天職の準備とするまだその上に師範學校の女學生はその近くの幼稚園にも敎ふる事を習ふ。大きな陽氣な日當りのよいいくつかの室のある愉快な幼稚園である、そこでは極めてよい思ひつきの敎育玩具が每日使用するために棚の上に澤山積んである。
譯者註一。以前は師範學校卒
業生には兵役はなかつた。六
週間現役をやればよい事にな
つた、この當時は六週間現役
制度のできたばかりの頃であ
らう。
譯者註二。スコットランドの
節に合せた二つの日本の歌、
一つは『螢の光』一つは『美
しき我兒はいづこ』である。
前者は Auld Lang Syne 後者は
Blue Bell. スコットランドの
方言で昔の事、ことに幸福で
つた時の事。
譯者註三。東京邊の子供のす
る『かごめ、かごめ、かごの
中の鳥は……』と云ふ遊戲に
似たものと云ふ、歌の意味は
分らない處あるが『仲よにし
ようや』は『仲よく致しませ
う』なるべく『まつくりかへ
そ』は『ひつくりかえそ』と
云ふ事。
[やぶちゃん注:「歸休する」「歸休」「ききう(ききゅう)」は、「ある任務に就いている者が、通常は主に雇い主の都合によって、一定期間、勤務を離れて家にいることを許したり、命ずること」を指すが、原文は“exempted”で、これは普通に一年以上に亘る兵役の大部分(「譯者註一」を参照のこと)を、このカリキュラムに読み換えることで「免除される」の謂いである。
「その一つをきいて私はこの極東の片田舍に於ても、ずつと昔の種々の樂しい思ひ出にかへるのである。」この箇所実は原文を見ると、“—one of which calls back to me, even in this remote corner of the Orient, many a charming memory: Auld Lang Syne.”となっていて、曲名(「譯者註二」及び、私の、それへの後注を参照)が掛け言葉のように洒落て用いられていることが判る。平井呈一氏は、ここを『そのうちの一つ、「螢の光」は、こんな東洋の片隅にありながら、わたくしに過ぎこし方の、かずかずの楽しい思い出を呼び返してくれた。〝Auld Lang Syne〟「過ぎし昔」であった。』と訳しておられる。これこそあるべき名訳と言うべきであろう。
「鬼ごつこやかくれんばう」両者は似ており、混同して同じものと思っている向きも少なくないが、「鬼ごっこ」は、数を数えて一定時間を待った鬼がスタートして逃げる相手(必ずしも隠れるのではない)にタッチし、タッチされた子が新たな鬼となり、かくして通常はずっと連鎖するかなりアクティヴな遊びであるが、「隠れんぼ」は、鬼が目をつぶって数を数えた後に「もういいかい?」と尋ね、「まあだだよ」という猶予を乞う声が聴こえなくなって初めて、鬼は目を開いて探索を開始し、隠れた子を見つけ出す。発見した鬼は、相手の名前の後に「見いつけた」と言上(ことあ)げして、指さし、捕捉する(この際にただ指さすだけでなく、タッチを必要とするというケースもあるとするが、私は知らないし、それこそ、後の「鬼ごっこ」との融合型と考える)。かくして、隠れた者全員が発見されてしまうと、今度は最初に発見された者が、新たな鬼となって繰り返される「鬼ごっこ」に比すと、「隠れんぼ」の響き通り、遙かに静的であると私は思う。だから黒澤明の「まあだだよ」のエンディングのように隠れているうちに寝てしまったり(但し、あのシークエンスで用いられているヴィヴァルディの「調和の霊感」協奏曲第九番ニ長調第二楽章は好きだが、映画そのものとしては、私はあまり高く評価をしていない)、一人が見つからずに他の者が飽きて家に帰ってしまい、延々お来ない鬼を待つなどという哀愁が漂うのである(私は後者の就学前の実経験を、黄昏の中にm今も感ずる淋しい人間であることを、ここに告白しておく)。
「天照皇大神がもすそを結んで、始めてはかまを發明されたと云ふ傳說がある」ウィキの「袴」には「襲(おすひ)の袴」という項があり、そこには『鎌倉時代頃に一部の高貴な女性(女院となった皇女などか)の間で着用された。詳細は不明だが、白い薄手のもので、松等の絵が描かれいわゆる緋袴の上に重ねた(鈴木敬三『日本の服装』)。当時の女神像や高貴な女性歌人の絵などにそれらしきものが描かれている。なお季節によって緋袴を重ねたり、袴そのものが』「合わせ仕立(じた)て」・「単仕立(ひとえじた)て」といったことは『平安時代から既にあった』とある。辞書や古語辞典には「おすひ」は上代の原始的な衣服の一種であるとしつつも、衣服の上から着た外套のようなものであるとか、再訪して居ない幅広の長い布で頭から被って長く垂らしたとかあるが、どうもよく判っていないらしい。元は男女とも用いたが、奈良・平安の頃には専ら夫人が神事に際して着用したとある。天照大神起源の根拠は良く知らぬが、「居合道 常心会」公式サイト内のこちらに、武道に用いる袴の後ろの襞(折り目)が一本であることについて、『後ろの一本の折り目を中に重なる二本の襞には、天と地、人は二心を持ってはいけない』。『常に二つを一つにし、敵を作ってはいけないという説があ』るとした上で、『また二つの襞を一本の折り目にまとめたのが天照大神で、二本の襞は、武道に優れた建御雷之男神(みかづちのおのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)が、平和のうちに国譲りをなしたという古事記の故事から、「日本が二つに分かれないように」という平和の願いを込めているという意味づけもあ』ると記してある。私には眼球を上へ上げ、口を「へ」の字にし、「ふーん?」って感じだな。
「かんごかんごしようや/仲よにしようや/どんどんとくんで/地藏さんの水を/松葉の水入れて/まつくりかへそ」この遊び唄、ネットで検索をかけても何も出ない。今やっておかないと、永遠に分からないままになるような気がする。出雲地方の方、少しでもよろしいので、ご情報を戴けると幸いである。
「螢の光」「Auld Lang Syne」後者はスコットランド語で「オールド・ラング・サイン」と読み、英訳すると、逐語訳では“old long since”、意訳では“times gone by”である。古いスコットランド民謡であると同時に、非公式な準国歌であり、本邦では「久しき昔」などと訳す。現行のような歌詞に整序したのは(原詞はウィキの「オールド・ラング・サイン」を参照されたい)、私の愛するスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns 一七五九年~一七九六年)である。本邦の唱歌としての受容は明治十年代(明治十年は一八七七年)初頭に「小学唱歌集」を編纂する際に稲垣千頴(ちかい)の作詞した今様形式の歌詞が採用されて「蛍の光」となり、明治一四(一八八一)年に尋常小学校唱歌として「小學唱歌集初編」に掲載されたとウィキの「蛍の光」にある。私にとっての哀感の初体験は、小学二年生の時に見たアメリカ映画「哀愁」(一九四〇年)であり、意味の“times gone by”なら、愛するバーグマン♡「カサブランカ」(一九四二年)のあの曲だ――
「美しき我兒はいづこ」「Blue Bell.」(ピリオドはママ)。原曲は正しくは“ The Bluebells of Scotland ”(スコットランドの釣鐘草(ツリガネソウ))と思われる。本邦では唱歌「うつくしき」という唱歌として知られる。「螢の光」と同じく稲垣千頴が作詞依頼され、ダブルで依頼された野口耽介(とうすけ)のものと比較されたが、皇国史観色の強い稲垣版が採用された(「螢の光」と同じく明治十四年)。両歌詞は参照した個人ブログ「remmikkiのブログ」の『明治の歌 「うつくしき」』で比較検証出来る。リンクを辿ると原曲も聴ける。]
Ⅲ
September 22, 1890.
The Normal School is a State institution. Students are admitted upon examination and production of testimony as to good character; but the number is, of course, limited. The young men pay no fees, no boarding money, nothing even for books, college-outfits, or wearing apparel. They are lodged, clothed, fed, and educated by the State; but they are required in return, after their graduation, to serve the State as teachers for the space of five years. Admission, however, by no means assures graduation. There are three or four examinations each year; and the students who fail to obtain a certain high average of examination marks must leave the school, however exemplary their conduct or earnest their study. No leniency can be shown where the educational needs of the State are concerned, and these call for natural ability and a high standard of its proof.
The discipline is military and severe. Indeed, it is so thorough that the graduate of a Normal School is exempted by military law from more than a year's service in the army: he leaves college a trained soldier. Deportment is also a requisite: special marks are given for it; and however gawky a freshman may prove at the time of his admission, he cannot remain so. A spirit of manliness is cultivated, which excludes roughness but develops self-reliance and self-control. The student is required, when speaking, to look his teacher in the face, and to utter his words not only distinctly, but sonorously. Demeanour in class is partly enforced by the
class-room fittings themselves. The tiny tables are too narrow to allow of being used as supports for the elbows; the seats have no backs against which to lean, and the student must hold himself rigidly erect as he studies. He must also keep himself faultlessly neat and clean. Whenever and wherever he encounters one of his teachers he must halt, bring his feet together, draw himself erect, and give the military salute. And this is done with a swift grace difficult to describe.
The demeanour of a class during study hours is if anything too faultless. Never a whisper is heard; never is a head raised from the book without permission. But when the teacher addresses a student by name, the youth rises instantly, and replies in a tone of such vigour as would seem to unaccustomed ears almost startling by contrast with the stillness and self-repression of the others.
The female department of the Normal School, where about fifty young women are being trained as teachers, is a separate two-story quadrangle of buildings, large, airy, and so situated, together with its gardens, as to be totally isolated from all other buildings and invisible from the street. The girls are not only taught European science by the most advanced methods, but are trained as well in Japanese arts,—the arts of embroidery, of decoration, of painting, and of arranging flowers. European drawing is also taught, and beautifully taught, not only here, but in all the schools. It is taught, however, in combination with Japanese methods; and the results of this blending may certainly be expected to have some charming influence upon future art-production. The average capacity of the Japanese student in drawing is, I think, at least fifty per cent, higher than that of European students. The soul of the race is essentially artistic; and the extremely difficult art of learning to write the Chinese characters, in which all are trained from early childhood, has already disciplined the hand and the eye to a marvellous
degree,—a degree undreamed of in the Occident,—long before the drawing-master begins his lessons of perspective.
Attached to the great Normal School, and connected by a corridor with the Jinjo Chugakko likewise, is a large elementary school for little boys and girls: its teachers are male and female students of the graduating classes, who are thus practically trained for their profession before entering the service of the State. Nothing could be more interesting as an educational spectacle to any sympathetic foreigner than some of this elementary teaching. In the first room which I visit a class of very little girls and boys—some as quaintly pretty as their own dolls—are bending at their desks over sheets of coal-black paper which you would think they were trying to make still blacker by energetic use of writing-brushes and what we call Indian-ink. They are really learning to write Chinese and Japanese characters, stroke by stroke. Until one stroke has been well learned, they are not suffered to attempt another—much less a combination. Long before the first lesson is thoroughly mastered, the white paper has become all evenly black under the multitude of tyro brush-strokes. But the same sheet is still used; for the wet
ink makes a yet blacker mark upon the dry, so that it can easily be seen.
In a room adjoining, I see another child-class learning to use scissors —Japanese scissors, which, being formed in one piece, shaped something like the letter U, are much less easy to manage than ours. The little folk are being taught to cut out patterns, and shapes of special objects or symbols to be studied. Flower-forms are the most ordinary patterns; sometimes certain ideographs are given as subjects.
And in another room a third small class is learning to sing; the teacher writing the music notes (do, re, mi) with chalk upon a blackboard, and accompanying the song with an accordion. The little ones have learned the Japanese national anthem (Kimi ga yo wa) and two native songs set to Scotch airs,—one of which calls back to me, even in this remote corner of the Orient, many a charming memory: Auld Lang Syne.
No uniform is worn in this elementary school: all are in Japanese dress,—the boys in dark blue kimono, the little girls in robes of all tints, radiant as butterflies. But in addition to their robes, the girls wear hakama, [1] and these are of a vivid, warm skyblue.
Between the hours of teaching, ten minutes are allowed for play or rest. The little boys play at Demon-Shadows or at blind-man's-buff or at some other funny game: they laugh, leap, shout, race, and wrestle, but, unlike European children, never quarrel or fight. As for the little girls, they get by themselves, and either play at hand-ball, or form into circles to play at some round game, accompanied by song. Indescribably soft and sweet the chorus of those little voices in the round:
Kango-kango shō-ya,
Naka yoni shō-ya,
Don-don to kunde
Jizō-San no midzu wo
Matsuba no midzu irete,
Makkuri kadso. [2]
I notice that the young men, as well as the young women, who teach these little folk, are extremely tender to their charges. A child whose kimono is out of order, or dirtied by play, is taken aside and brushed and arranged as carefully as by an elder brother.
Besides being trained for their future profession by teaching the children of the elementary school, the girl students of the Shihan-Gakkō are also trained to teach in the neighbouring kindergarten. A delightful kindergarten it is, with big cheerful sunny rooms, where stocks of the most ingenious educational toys are piled upon shelves for daily use.
Since the above was written I have had two years' experience as a teacher in various large Japanese schools; and I have never had personal knowledge of any serious quarrel between students, and have never even heard of a fight among my pupils. And I have taught some eight hundred boys and young men.
1
There is a legend that the Sun-Goddess invented the first hakama by tying together the skirts of her robe.
2
'Let us play the game called kango-kango. Plenteously the water of Jizō-San quickly draw,—and pour on the pine-leaves,—and turn back again.' Many of the games of Japanese children, like many of their toys, have a Buddhist origin, or at least a Buddhist significance.
桜井という、ふとった人のいい友人が、東京へやって来た。私は最初彼に名古屋であったが、その時は権左という名で呼び、同市で陶器をさがし、私を然るべき店へつれて行くことに大きに骨を折ってくれた。彼は瀬戸の初期の陶器に関する書類を持って来たばかりでなく、興味のある品をいくつか持って来て、私の荷づくりを手伝う為、かなりの費用を自分で出して、東京に滞在している。名古屋にいる彼の細君と娘とが、特別便で私に、或は元贇(げんぴん)と証明されるかも知れぬ、古い尾張の茶碗を送って来た。この贈物には片仮名で書いた手紙がついている。竹中が訳したところによると、それは以下の如きものである。
[やぶちゃん注:「桜井」「権左」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(二七六頁)によれば、桜井権三(モース原文からこれで「ごんぞう」ではなく「ごんざ」と読むのかもしれない)。先行する関西旅行の折り、四日間滞在(八月一日夕刻から五日夜まで)した名古屋で知り合った骨董商。
「元贇(げんぴん)」原文“a Gempin”。元贇焼(げんぴんやき)のこと。明からの帰化人であった陳元贇(ちんげんぴん 一五八七年~一六七一年:浙江道虎林出身で拳法家でもあった。本邦の鎖国前の元和五(一六一九)年に明末の動乱を嫌って長崎居留の明人を頼って来日し、浙江道の奉檄(ほうげき)使単鳳翔に従って上洛、京都所司代板倉伊賀守勝重に面会、武将文人の石川丈山らと親交を結んだとされる。詩文・製陶・拳法など多芸多才で、寛永二(一六二五)年(三十九歳)の頃に江戸へ出、福野七郎右衛門らの柔術家と接触、彼らに少林寺系中国拳法や接骨術及び十手使用法を伝授したと伝える。その後、江戸・京都・防長などの各地を流浪したが、晩年は尾張侯徳川義直に招かれて詩書を講ずる傍ら、瀬戸産の土を用いて陶作に妙技を揮った。名古屋にて没(以上は、名古屋情報サイト「えーなも.com」の「清洲越しと街並」に引かれた「大日本百科事典」の渡辺一郎氏の解説を参照した。リンク先では「元贇焼の御深井(おふけ)」の画像が見られる)が寛永(一六二四年~寛文一一(一六四四)年)の頃に名古屋で焼いた陶器。瀬戸産の陶土を用いた素地(きじ)に酸化コバルト系の呉須(ごす)で書画を描き、これに白青色の透明な釉(うわぐすり)を施した安南風の染付陶器。元贇焼と称して珍重されている。
「竹中」竹中成憲。既出既注。
以下は底本では前後一行空けで、全体が一字下げである。]
あなたに手紙を上げます。如何ですか。お達者ですか。私どもは、あなたが今度御丈夫であることをお祝いします。権左はあなたのところへ参り、あなたは彼からいろいろ買って下さいました。彼は私に沢山の金を送りました。私は大変にお礼を申します。私どもはこの茶碗を差上げ、私の感謝の意を表することをよろこびます。私どもはあなたがこれをお国へお持ち帰り下さることを願います。私はこの茶碗を、ある屋敷で手に入れました。これは非常に古いのです。何卒御使用下さい。私どもは、あなたが無事に御帰国になることを、非常に望みます。私どもは、只僅か申上るだけです。私どもは幸福です。私どもはお祝いいたします。
モース様へ
十一月十九日
母 つる
娘 はく
[やぶちゃん注:右手にキャプションがあるが、下の方の“rice”の後の長い綴りは判読出来ない。識者の御教授を乞う。]
十一月中、浅草寺の裏で興味ある市場がひらかれる。そこの町通りに大きな小屋がいくつも建ち、幸福と健康とを保証する奇妙なお守が売られる。これ等のお守は竹でつくり、色あざやかな、金銀の紙で被った小さな米俵、扭(よ)った藁その他の、豊饒と幸運との表徴である。ある物には七種の宝物をのせた幸運の舟があり、他のものは扇、又は熊手の形をしていて、その中心に幸福の女神であるオタフクの面があり、横にはいろいろなかざりがついている。狭い町や露地が人で埋り、両側には、このような不思議なお守や象徴の、そのあるものは直径五フィートを越える程大きなのを、ぎっしり詰め込んだ粗末な小屋が、ずらりと並んだ光景は、誠に奇妙である。祭礼の日には一日中、人々がこれ等の品を手に持ったり、人力車にのったりして家へ帰るのが見受られるが、大きいのだと旗みたいに上へささげる。これ等は必ず竹の棒の上についている。図713はこれ等のお守の二つを示す。小さい方は中心に桝が一つあり、米の枝がついている。これ等は皆粗雑につくってあり、そして如何にも弱そうだが、而も決してバラバラにこわれたりしないらしい。おまけにこれ等は装飾的な性質を具えている。近くには神道の社があり、その前では人々が七重八重に立って祈っていた。この社の前に、すくなくとも長さ八フィート、幅と深さとは三、四フィートもある、大きな賽銭箱が置かれ、それに紙につつんだ厘、天保、銭、あるいはそれ以上の銭が、雨のように絶間なく投げ込まれた。その傍のお粗末な舞台では、一刻も休まずに騒音を立て続ける太鼓と笛とにつれて、一種の芝居が行われつつあった。この混雑の中で、小さな子供達が甲高い声を出して、売物の名を呼び、両親達の手助けをしていた。広場の土の上に坐った二人の乞食だけが、この群衆中唯一の貧困の例証であった。一種変った芋を売っていたが、これは生でも料理しても食える。餅は大きな片に切って売り、最も安っぽい簪(かんざし)――只のヤスピカ物――も、この市のおみやげとして売っている。そして誰もが幸福そうに、ニコニコしていた。この お祝は私には初めてで、見る価値が充分あった。
[やぶちゃん注:言わずもがな、「浅草酉の市」である。現在は十一月酉の日の深夜零時零分から深夜二十四時零分のきっかり二十四時間が市(祭)となる(宵宮は酉の日前日夜七時頃より一部で行われる)。因みに、この明治一五(一八八二)年は二日・十四日・二十六日と三の酉まであった年であった(巷説では三の酉まである年は火事が多いとされる)。「浅草酉の市」(古くは「酉の祭(とりのまち)」が正しい)は浅草寺の背後(北西)、現在の東京都台東区千束三丁目にある鷲(おおとり)神社及び隣接する法華宗本門流鷲在山(じゅざいさん)長國寺を発祥とし、江戸後期から関東では最も著名な「酉の市」である。酉の市はウィキの「酉の市」によれば『関東地方に多く所在する鷲神社、酉の寺、大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として知られるが、現在では大阪府堺市の大鳥大社、愛知県名古屋市の稲園山七寺(大須七寺、長福寺)など関東地方以外でも開催され』、『多くの露店で、威勢よく手締めして「縁起熊手」を売る祭の賑わいは、年末の風物詩である。
鷲神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰される。関東地方では鷲宮神社(埼玉県久喜市)が鷲神社の本社とされる』。『同社の祭神は、天穂日命、武夷鳥命、大己貴命である。日本武尊が東征の際、同社で戦勝を祈願したとされる。古くからこの神社を中心に「酉の日精進」の信仰が広まり』、『江戸時代には、武蔵国南足立郡花又村(現・東京都足立区花畑)にある大鷲神社(鷲大明神)が栄え、「本酉」と言われた。この花又鷲大明神を産土神とする近在住民の収穫祭が、江戸酉の市の発祥とされる。現在の同社の祭神は日本武尊で、東征からの帰還の際、同地で戦勝を祝したとされる。江戸時代には、花又の鷲大明神(本地)は鷲の背に乗った釈迦とされた。この神社の酉の市は』、十五世紀『初めの応永年間に始まるとされ、参詣人は、鶏を献納して開運を祈り、祭が終了した後浅草観音堂前(浅草寺)に献納した鶏を放った』。『江戸時代には浅草の鷲大明神(本地)は鷲の背に乗る妙見菩薩とされた。「現在の足立区花畑の大鷲神社を「上酉、本酉」、千住にある勝専寺を「中酉」、浅草の鷲神社と酉の寺長國寺を「下酉、新酉」と称しており、江戸時代に盛大な酉の市はこの』三カ所であった。『幕末には巣鴨、雑司ヶ谷などの大鳥神社でも酉の市が開催されるようになる。明治時代になると千住・勝専寺の酉の市は閉鎖されたが、江戸時代から続く酉の市はいくつかあり現在も賑わっている』。この浅草の鷲神社と『長國寺の東隣には新吉原という遊郭が存在し、酉の市御例祭の日には遊郭内が開放されたといわれ、地の利も加わり最も有名な酉の市として現在に至』り、規模と賑わいともに『日本一の酉の市である』とある。なお、現在、「関東三大酉の市」と言った場合はこの鷲神社と、新宿区にある花園神社及び都下府中市にある大國魂神社のそれを指す。
「ある物には七種の宝物をのせた幸運の舟があり、他のものは扇、又は熊手の形をしていて、その中心に幸福の女神であるオタフクの面があり、横にはいろいろなかざりがついている」とモースは言うが、原型は熊手である。上記の長國寺が運営リリースしているサイト「浅草 酉の市」によれば、これは『鷲が獲物をしっかりと捕らえることになぞらえて、運を鷲づかみすると言われるように』、鷲の四本の脚爪のうちで、三本を熊手の手に、一本を柄とした三本爪の熊手の形象が、後に変化して五本爪『になり、「運をかっこむ」熊手守りになったと言われ』ているとし、これは『戦場に赴く武将が神仏に戦勝を祈願する際に軍扇を奉納し、めでたく勝ち戦にて帰陣したさいには、軍扇は熊手のように反り返った骨だけになっていたことから、その故事にあやかって「開運を招く」熊手守りになったとされ』とあるが、『酉の市の始まりは江戸近在の農村である、葛西花又村の収穫祭と言われ』、『その日は鎮守である鷲大明神に市がたち、農具や地域の農産物が露店で商われ』、『それらの中で、落ち葉などを「掃き込む、かき込む熊手」と大きな唐の芋「頭の芋」、粟で作った黄金色の「黄金餅」が、江戸市中からの参拝者が増えるに従い実用性より、洒落っ気を加えた縁起物へと変化していったと伝えられ』るとある。明和八(一七七一)年頃から『盛んになった浅草長國寺の酉の市では、花又で商われる熊手よりずっと大きく華やかな縁起熊手が出現し、後にはかんざし熊手など多種多様の熊手が人気とな』ったとある。
「五フィート」一メートル五二センチメートル。
「長さ八フィート、幅と深さとは三、四フィート」横幅二メートル四十四センチ、奥行と深さが九十二~百二十二センチメートルほど。
「厘、天保、銭、あるいはそれ以上の銭が、雨のように絶間なく投げ込まれた。」“and into this dropped a
continuous shower of rins, tempos, sens, and larger pieces of money done up in paper.”。「天保」銭は大政奉還後に新政府に設立された貨幣司(かへいし:造幣局の前身)で慶應四(一八六八)年から明治三(一八七〇)年までの間に六千三百九十一万枚以上が鋳造されており、明治維新後も流通した(正式な通用停止はこの九年後の明治二四(一八九一)年十二月三十一日)が、参照したウィキの「天保銭」によれば、『新通貨制度では天保通宝一枚』は八厘(寛永通宝一枚が一厘)にしか換算されなかった『ために、新時代に乗り遅れた人やそれに適応するだけの才覚の足りない人を揶揄して「天保銭」と呼ぶ事もあったという』とある。「それ以上の銭」当時、一銭銅貨の上には二銭銅貨、さらに五銭銀貨に始まり十銭・二十・五十・一円銀貨が既にあった。
「一種変った芋を売っていたが、これは生でも料理しても食える」前の注の引用に出る『大きな唐の芋「頭の芋」』(「とうのいも」と読む)で八頭(やつがしら)、サトイモのことであるが、サトイモは生ではエグ味が強くとても食えない。モースはただ皮ごと茹でたそれ(私も大好き)を「生」と思ったのではないかと私は思う。
モースは「餅」前の注の引用に出る『粟で作った黄金色の「黄金餅」』のこと。但し、ネット情報では残念ながら現在では「頭の芋」の店は一軒のみ、黄金餅を商う店は、最早ないらしい。]
刀剣商人の町田氏が一晩話しにやって来た。私はいろいろと質問を発して、彼を夜中まで引きとめた。以前彼は斬首人をやったので、非常に多くの罪人の首を斬り、そして私に物凄い話をして聞かせた。異る国が、如何に同一な行為を見做すかは興味がある。ある国では、斬首人は嫌われ、社会ののけ者にされている。日本の職業的斬首人は特殊階級から出る。日本の紳士は、罪人の首を斬ることを、彼の刀身の調子をためす、いい機会であると考える。また別の理由もある。若し彼の友人が腹切りをすることがあれば、彼は首斬りの役を頼まれるかも知れない。何故かとならば、切腹の行為には、友人が素速く刀を振り下して首を斬ることが、すぐ後から行われるからである。人は劇場で「四十七人の浪人」が上演される時、この行為の目ざましい表示を見ることが出来る。罪人の首をはねることはよい稽古になる。町田氏は、胴体から首を切り離すには、そう大した力で打ち下す必要はないといった。彼は最初にこの行為を行った時、あまり力を入れ過ぎたので、地面にある石にぶつけて刀を折ったそうである。罪人の目には布をしばり、彼は筵の上に、身体を入れる丈の大きさの穴を前にして坐り、従者が両腕を後に押えている。そして頭が穴の内に落ちると同時に、その後へ身体を押し入れて筵をかぶせる。町田氏は、頰や唇の筋肉はしばらくの間震え、同じ運動が腕や、全身にわたってさえ見られるといった。彼はまた維新当時の上野に於る戦争に関する、面白い話をしてくれた。
[やぶちゃん注:「町田氏」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(二八二頁)に載る武具商(武具専門の骨董商であろう)町田平吉であろう。同書によれば、モースはこの頃(推定で明治一五(一八八二)年十一月中。但し、根拠は本書)、この『町田平吉から大量の武具を購入した』とある。同姓同名の人物、例えば二年後の明治十七年に岡倉天心やアーネスト・フェノロサとともに「鑑画会」を結成したとある町田平吉と同一人物かどうかは不明であるが、前山茂氏の個人サイト「歴史の町 大磯」のこちらの頁に、明治二二(一八八九)年から明治三五(一九〇二)年まで、現在の大磯町東町(海浜寄りの地域)にあった、正岡子規や黒田清輝が泊まったという、敷地約四千四百坪の藁葺き旅館「松林館」(現存せず)跡についての通し番号四十六番の項に、『松林館は当初は刀剣商・町田平吉が経営にあた』ったとあるのは、この人物と考えてよいように思われる。
「以前彼は斬首人をやった」注意しなくてはならないのは江戸時代には公的な「首切り役人」はいなかったということである。「首切り(人斬り)浅右衛門」の通称で知られる山田浅右衛門も「公儀御様御用(こうぎおためしごよう)」という特別な扱いの刀剣の試し斬り「役」(斬首を専らとした首切り専門の「役」人ではない)に任じられてはいたものの、身分は浪人であった(江戸初期試し斬りの名手幕府旗本中川重良や、彼の弟子山野永久の子で幕臣となった勘十郎久英は例外。但し、山田家は公儀御様御用の際には無論、幕府から金銀を拝領し、それ以外にも大名家などの刀剣試し切りの多くの依頼、それに加えて、用いた罪人らの遺体から採取した生き胆(肝臓・脳・胆嚢・胆汁等)を原料として労咳に効有りとされた丸薬を製造しては薬種問屋に卸すなどして多くの収入を得るなどしていたため、非常に裕福であった)。通常の斬罪としての首切りの執行役は同心の当番制であった。この町田なる人物もそうした下級武士の一人で、後に刀剣武具を扱う骨董商になったぐらいだから、相応に腕に覚えもあり、ここに記されるような首切り役や介錯を依頼されることが通常の者よりも有意には多かったものとも推測される(太平の世の江戸には人を斬ったことない武士はゴマンとおり、さらに斬首経験が豊富にある武士などは寧ろ異例中の異例であったと思われるから、モースがそうした特異経験の体験者としての彼の話に生物学者として頗る科学的興味を持ったであろうことは想像に難くない。モースが特に斬首された直後の遺体の様子を特に記しているのを見ても、それがよく窺える)。但し、こうした試し切りや死刑執行を行う者は怖れられながら、同時に忌まわしい職、死穢に触れる存在として忌み嫌われ、差別されていた事実も見過ごしてはならない。
「四十七人の浪人」原文“Forty-seven Ronins”。例えば、英文ウィキの“Chūshingura”などでページ翻訳を掛けると、英文のこの文字列は驚くべきことにしっかり「赤穂浪士」と翻訳され、それどころか、英文ウィキには実は“Forty-seven
Ronin”もある。ここは外題であるから、言わずもがな、「仮名手本忠臣蔵」のことである。]
図―712
図712は仕事をしつつある鍛冶屋である。彼はすべての職工と同じく、地面、あるいは床の上に坐る。鞴(ふいご)は長い四角な箱で、その内にある四角い喞子(ピストン)を桿と柄とによって動かす。鍛冶屋は左足で柄をつかみ、その脚を前後に動かして鞴に風を吹き込むから、両手で鉄槌を使うことが出来る。この場合助手は立っている。道具は我国の鍛冶屋が使用するものと大差ないが、只私は大きな鉄槌のあるもの(あるいは全部かも知れぬ)にあっては、柄が鉄の部分の中央に押し込んでなく、一端に片寄っているのに気がついた。床には我国の鍛冶屋で見るのと同様な鉄棒の切れっぱしや、その他の破片やかけらが、ちらばっていた。時として子供が鞴を吹くが、これは手でやる。
東京市中のあちらこちらの町には、殊に屋敷の塀に沿って、ドブや深い溝がある。これらの場所はこの都会を悩ます蚊の発生地で、同時に蚊の幼虫を網でしゃくい、それを金魚の餌に売る大人や子供にとっては、生計のもとである。
ここ数日間、本物の荷づくり人が陶器を包装しにやって来つつあるので、床は箱や藁で被われている。彼等が各々の品をつつみ上げる方法を見ていると面白い。先ず藁を一握り取り上げ、指でそれを真直にくしけずり、その中央部でひねると、藁の両端が扇形にひらくから、その中心に茶碗を入れ、辺に添うてくるりと藁を内に畳み込む。茶入も同様につつむが、藁は上の方でひねる。凸凹のある、大きな円筒形のものだと、長い藁繩をつくり、それを品物のまわりにまきつける。料理番の小さな女の子とその遊び仲間とが、戸のところへ来てのぞき込んだ。標本が沢山あるので吃驚したのである。私は彼等を呼び入れて紙と鋏とを渡した。彼等が人形や鶏や鷺やその他を切りぬく巧な方法は、驚くばかりであった。私はそれ等をすべて取っておいた。それはセーラムの博物館へ行くのである。私は彼等に土瓶と茶碗二つを与えたが、彼等のなすところを見、いうところを聞くことは、誠に興味があった。一人がお茶をついでやり、そして茶碗が差し出されると、まるで貴婦人ごつこをしているように丁重にお礼をいう。が、彼等は貴婦人ごつこをしていたのではなく、かく丁寧にするように育てられて来た迄の話である。彼等はせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである。
先日私は再び私の家の裏にある狂人病院を訪れた。主事は非常に親切で、すこし英語を話すので私の話す僅かな日本語と相俟って、我々は極めてうまい具合に話を進めた。私は病気の種類の割合や原因等に関して、いろいろと聞くところがあった。
[やぶちゃん注:「狂人病院」精神病院と読み換えて頂きたい。既に注済みであるが再度示しておくと、原文は“insane asylum”であるが、精神異常者のための、を意味する“insane”も原義は「正気でない・狂気の」であり、“asylum”もギリシャ語の「安全な避難所」が語源で現行では「避難・亡命・保護」、国際法上の亡命者などを保護収容する「仮収容施設」であり、古語では、主に一般の眼から遮蔽すべきと考えられた、「知的精神的障碍者や孤児などを保護した施設」の謂いで明らかに古めかしい差別単語であって、これも現行では通常“psychiatric hospital” と表現する。「私の家」とあるが、これはモースとビゲローに無償貸与された天象台で、その北の道を隔てた直近にあった東京府癲狂院(東京都立松沢病院の前身)である。]
昭和二十八(一九五三)年
虎落笛過ぎし天より鴉下る
急流に泳ぎ落ちゆく頭が見えつつ
冬の山犬吠え谺にぎはへり
秋燈移すその部屋を暗闇にして
風邪臥しとみそさざい暮れはやきもの
[やぶちゃん注:「みそさざい」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes 。小林一茶の、
みそさゞいちつといふても日の暮(くる)る
のインスパイアである。引用は丸山一彦校注「新訂 一茶俳句集」(一九九〇年岩波文庫刊)本文。同注では文政版では、
みそさゞいちゝといふても日が暮る
版本題叢では、
みそさゞいちゝといふても日は暮る
であるとする。]
露の中いつまでも燃ゆ焰もつれ
廃墟の階ひとり毯つく子のものにて
水仙の香つよしその部星に寝ず
寒月に従ふ燃ゆる火星にて
天寒し透ける翡翠を身につけて
冬銀河死なばゆくべき道にして
桜大枝切りし男の肩に重し
飛びつゞける翡翠枯るゝ芦花ばかり
冬帽の群にわれ探す瞳と会ふ
洗い髪ぬれをり蟇(ひき)に仕へられ
折れ曲るたびにせゝらぐ春野の川
藤うつりをらむか暗き淵のぞく
梅雨の谷戸僅かに見えて海荒れをり
入日光身伏せて麦を刈りすゝむ
帷子の折目老いの身が清しき
車窓涼風母子の髪のなびき同じ
白露や身うごきもせぬ蟻地獄
地に触れて夕顔ひらく雷のあと
熊ン蜂闘ふ宙より地上に落ち
沼が澄む足もとまでも星満ちて
月光る桶ビシビシ奔る牛乳(ちゝ)享けて
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
鵙啼くやつめたき空気に眼を張つて
枯山中午日に犬の毛が灼けて
足遣ればいつも冷たき蒲団の隅
冬浜が日にぬくむまでの千鳥と吾
雪嶺となりたり手のとどくちかさ
雪原をかへる奪はず奪はれず
息あらく枯野を来しがなほなかば
頸うづむ春着の何処もつめたくて
吉祥天女暮れませり寒き光に出る
仏堂に身が冷えきつて暮光に出る
わが飼ひて恋猫かへる雪山より
冬銀河見てゐてつひにあたゝかし
紙漉女老いてまくろき髪の束
桜に一斧一斧わが世見過すまじ
崖なめらか春潮騒けのぼりては落つ
老雲雀日を逐ひ逐ひて高空に
遍路笠海風あふり松風押す
嫗濯ぐそこより尚春水が下る
一蝶の飛翔万緑に消され消され
雨風の日万緑にうちかこまれ
麥かつぎ土堤にのぼれば帰路の足
農夫婦足もと水漬きどこも梅雨
梅雨青葉わかれの刻のあざやかに
春の蟬素手にてつかまむとして遁す
浮浪児を追ふ噴水の広場より
麦の束さやさや乙女速歩なる
吉野青し草刈女泳ぐ衣をぬぐ
月輪を蝕みゆくやわが地の翳
沼の波光に執し月欠けゆく
夏書の筆盤若の字劃多きかな
[やぶちゃん注:「筆盤若」底本には「盤」の右に『(ママ)』注記がある。「夏書」は「げがき」で夏安居(げあんご)の間に経文を書写すること或はその書写した経文を指すから、ここはその写経した般若心経のことであろうから誤字か誤植である。]
夏書の筆穂長夫も長身なりき
施餓鬼供御沼の流れの行方なき
[やぶちゃん注:川施餓鬼であるが、どこのロケーションかは不詳。彼女の作では大阪の伝法川のそれがあるが、「御沼」という表現が気になって同定し得ない。識者の御教授を乞う。]
荒草や炎天の雀群さそひ
羽抜鳥地のぬけ羽を嘴(くち)くわへ
羽抜鳥羽落しやまず敵の前
オリオンが頭向け落ちくる露大地
千鳥のむれ散り集(よ)り野分の波の痕(あと)
顔知らぬ雀よ鳴るは坂清水
稲刈る手許夕焼け月も光り出で
ものいへば赤くぬれくる寒き唇(くち)
凍壺継ぐ絵の水鳥の頸あはせ
毛糸にてみどり子裹(つつ)む手も出さずに
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
樹上のをとめ林檎を呉るゝ隈なき紅
露の蝶わすれられゐるやすらかさ
旅一と刻こゑあげ墓地に胡桃拾ふ
脈うつやふところ手もて乳二つ
朝の畳足袋なき足に風当る
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。]
雪野ゆく同じ姿に裾吹かれ
乙女長靴深雪に水汲む吾がために
雪くぐり漉場くぐりて水去りゆく
吾旅人搔く炉ぼこりに馴れきれず
雪焼け子よポケットのパン上から押さへ
雪原をゆけば村ありて
綿つむぐ嫗ものかむ顎うごかし
綿つむぐ嫗耳しひ眼しひ生き
白飯綱天にす霞に鶏汚れ
白飯綱野馬駆くるところ地傷つき
[やぶちゃん注:「白飯綱」長野県長野市の飯縄山(いいづなやま)南麓に広がる飯綱高原のことか。この年の三月、作句に行き詰まって、春雪も深い信州に独り吟行に出かけている。]
雪山見る雪の平らにわが立ちて
雪解(ゆきげ)の裾乾きては又旅ゆけり
雪山雪野五日月なる明るさに
バス照らすは谿よりの樹頭まだ芽吹かず
氷湖(ひこ)解けし諏訪をうとめば虹立ちたり
公魚の漁初まる
春日漁夫真絹の網をひきしぼり
[やぶちゃん注:「公魚」老婆心乍ら、「わかさぎ」と読み、条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ科ワカサギ属ワカサギ Hypomesus nipponensis のこと。]
塩尻峠に登れば日本アルプス、
裏富士、八ヶ岳一望に見ゆ
雪凍る嶺に対ふ秒音きざみつつ
林中に入り雪嶺見えざる心寒さ
[やぶちゃん注:以上、『俳句』掲載分。]
枕木に隙く隙く天龍の冬の浪
いそぎ来て諏訪湖(すはこ)の凍てに間にあはぎりし
指浸し氷(ひ)解くる諏訪の濁りに触る
単衣(ひとへ)着て燈ともしてこの寂しさは
淵に泳ぎ処女の髪のまだぬれずに
ちちろ虫汽車過ぎて後まだ啼かず
[やぶちゃん注:「ちちろ虫」老婆心乍ら、蟋蟀(こおろぎ)の別称。]
寒き落暉群羊一つだに残らず
[やぶちゃん注:以上は『文庫版「海彦」より』とある。多佳子、五十四歳。]
二
私は中學校に於て三時間敎へた處である。そして日本の生徒を敎へる事は私の想像したよりは面白い事が分つてくる。各級は豫め西田氏がよく準備して置いてくれるので私の全く日本語を解しない事が敎へる事に何等の困難をも來たさない。その上生徒は私が話す時には私の言葉をいつも悉くは解せないでも白墨で黑板の上に書く事は何でも分る。生徒の多數は幼時より日本の敎師について、すでに英語を學んで居る。皆非常に順良で又辛抱强い。昔からの習慣に從つて敎師が入り來る時には全級立つて頭を下げる。敎師は禮をかヘしてのち出席簿を調べる。
西田氏は非常に親切である。できる事は何でもして自分を助けてくれて、つねに及ばざるを恐れて居る。勿論ここにも打勝つべき艱難がいくつかある。たとへば生徒の名の分るまでには餘程の時を要するのである、それ等の名の多數は私の前に生徒名簿を置きながら發音する事もできないのである。又各組の名は各敎室の入口に外國敎師のために、それぞれ英語でかいてはあるが、自分に分るやうになるまでには少くとも數週間を要するのである。それまでのところ西田氏はたえず自分を案內してくれる。氏は又長い廻廊をへて師範學校に行く道を敎へて、そこで自分に案內の勞をとつてくれる中山と云ふ敎師に私を紹介する。
私は師範學校では只四時間だけ敎へる約束になつて居る、しかしそこでも敎官室で美しい机をあてがはれ、直ちに我家へ歸つたやうな感じを與へられる。中山氏は私のこれからの生徒に紹介する前に、學校にある面白い物を悉く、私に見せる。生徒への紹介は學校に關する經驗としては、愉快に、かつ、珍らしい物である。私は廊下を通つて案內され、紺の制服をつけた靑年の滿ちた白壁の大きな明るい一室に導かれる。さきが三叉(ミツマタ)になつた一本足でさゝへてある極めて小さい机に向つて銘々坐る。室の一方に敎師の分の高い机と椅子とのある敎壇がある、この机のところに私が席をとると一人が英語で聲を上げる『起立』卽ち一同はばね仕かけで動くかのやうに飛び上るやうな擧動で立つ。『敬禮』再びさきの聲が命令する、それは袖に組長の筋のある若い生徒の聲である、そこで一同私に敬禮する。私はこれに答へて頭を下げる、一同席に復する、それから授業が始まる。
師範學校の敎師は每授業時間の始めにこれと同じ軍隊風の敬禮を受ける、ただ命令は日本語でされる。私にだけ英語でされるのである。
譯者註。中山彌一郞(今は故人)
[やぶちゃん注:「生徒の多數は幼時より日本の敎師について、すでに英語を學んで居る」ウィキの「英語教育」を見ると、初の内閣である第一次伊藤内閣の初代文部大臣となった森有礼は、明治一九(一八八六)年に第一次「小學校令」を発令するが、そこで彼は英語教育を推進、更には国語外国語化論も唱えている(但し、『このような極端な欧化主義は右派の反感を買い、のちに森は暗殺されることになる。森の死後は急進的な英語教育は縮小され、小学校における外国語教育は高等小学校(現在の小学校高学年~中学校にあたる)のみに限定されることになったという』とある)。中流以上の当時の子女は公私ともに、かなり早い時期から英語教育を受けていたことが知れる。
「中山彌一郞」西田とともに松江時代に懇意にしていた人物で、ヘルンの「島根縣敎育會」での講演(第二回「西印度雜話」明治二四(一八九一)年二月十四日開催)で彼は通訳をしており(第百五十四回「広島ラフカディオ・ハーンの会」ニュース(二〇一三年六月発行)のデータに拠る。【2026年1月8日追記】現在、リンク先は機能していない)、ハーンと同じく中学と師範学校の英語教師で生徒監(現行の学級担任の謂いであろう)もしており、後には神戸や商館に勤めたと、根本重煕氏の「小泉八雲のことども(続き)」(『中日本自動車短期大学論叢』第十三号・一九八三年・PDF)にある。「住吉神社」公式サイト内の『月刊「すみよし」』のこちらの風呂鞏(ふろたかし)氏の『小泉八雲と語学教育(二)』には、彼とは『神戸時代まで交際を続けた』とある(ハーンは明治二七(一八九四)年十一月に第五高等学校英語教師の契約切れとともに著作に専念するために神戸市の「神戶クロニクル社」に就職して神戸に転居、二年後の明治二十九年八月に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職するまで、神戸に住んだ)。]
Ⅱ
I have been teaching for three hours in the Middle School, and teaching Japanese boys turns out to be a much more agreeable task than I had imagined. Each class has been so well prepared for me beforehand by Nishida that my utter ignorance of Japanese makes no difficulty in regard to teaching: moreover, although the lads cannot understand my words always when I speak, they can understand whatever I write upon the blackboard with chalk. Most of them have already been studying English from childhood, with Japanese teachers. All are wonderfully docile' and patient. According to old custom, when the teacher enters, the whole class rises and bows to him. He returns the bow, and calls the roll.
Nishida is only too kind. He helps me in every way he possibly can, and is constantly regretting that he cannot help me more. There are, of course, some difficulties to overcome. For instance, it will take me a very, very long time to learn the names of the boys,—most of which names I cannot even pronounce, with the class-roll before me. And although the names of the different classes have been painted upon the doors of their respective rooms in English letters, for the benefit of the foreign teacher, it will take me some weeks at least to become quite familiar with them. For the time being Nishida always guides me to the rooms. He also shows me the way, through long corridors, to the Normal School, and introduces me to the teacher Nakayama who is to act there as my guide.
I have been engaged to teach only four times a week at the Normal School; but I am furnished there also with a handsome desk in the teachers' apartment, and am made to feel at home almost immediately. Nakayama shows me everything of interest in the building before introducing me to my future pupils. The introduction is pleasant and novel as a school experience. I am conducted along a corridor, and ushered into a large luminous whitewashed room full of young men in dark blue military uniform. Each sits at a very small desk, sup-ported by a single leg, with three feet. At the end of the room is a platform with a high desk and a chair for the teacher. As I take my place at the desk, a voice rings out in English: 'Stand up!' And all rise with a springy movement as if moved by
machinery. 'Bow down!' the same voice again commands,—the voice of a young student wearing a captain's stripes upon his sleeve; and all salute me. I bow in return; we take our seats; and the lesson begins.
All teachers at the Normal School are saluted in the same military fashion before each class-hour,—only the command is given in Japanese. For my sake only, it is given in English.
第十九章 英語敎師の日記から
一 一八九〇、九月二日【譯者註一】、松江にて
私は出雲松江の尋常中學校及び師範學校に於て一ケ年間英敎師として奉職する契約をして居る。
尋常中學校は暗靑灰色に塗つた歐風の大きな木造二階の建物である。これには約三百の通學生を收容する設備がある。二方は運河、二方は甚だ靜かな街路で境になつた大きな方形の地面の一方に建つて居る。この敷地は舊城に甚だ近い。
師範學校は同じ地面の他の一角を占めた更に大きな建物である。同時に又更に立派である、眞白に塗つて、それから頂上に小さい圓屋根がある。師範學校には僅かに百五十程の生徒しかないが皆寄宿生である。
この二つの學校の間にまだ外にいくつかの敎育に關する建物がある、これ等について私は追々分るやうにならう。
この日は私が學校に出た第一日である。西田千太郞氏【譯者註二】は私をつれてこれ等の學校に案內し、校長及び同僚となるべき人々に悉く紹介し、授業時間の事と、教科書の事につき必要な注意を悉く與へ、凡て必要な物を私の机にのせてくれなどした。しかし授業の始まる前に、かねて官房書記を通じて私と契約のできてゐた縣知事籠手田(コテダ)安定氏【譯者註三】に紹介して貰はねばならない。そこで西田氏は私を往來の向側の別の歐風の建物にある縣廰へ案內する。
縣廰に入り、廣い階段を上り、歐風に敷物をしきつめた一室に入る、その室には出窓もあれば、クッシヨンのついた椅子もある。ひとりの人が小さい圓卓に對して椅子にかけて居る、その周圍に五六人の人が立つて居る、何れも日本の禮服を着て居る、――立派な絹の袴、絹の着物、絹の紋付羽織、――自分の平凡な洋服を恥ぢ入らせる立派な威嚴のある服裝である。これ等は縣廰の役人と敎師である、椅子にかけたのは知事である。知事は私に挨拶せんがために立つて巨人の握手を與へる、この人の眼を見て私は一生この人が好きになるやうな氣がする。溫和な力と、大樣な親切の多く表はれた――佛の靜けさが悉く表はれた――小兒のやうに鮮やかな正直な顏である。この人の側にあつては外の人々も甚だ小さく見える、實際この人を始めて見た時は別人種の如き感じがする、私は古への日本の英雄はこの人と同じ型ではあるまいかと考へて居る時、この人は私に椅子を取るやうに合圖して軟い低い聲で私の通譯の勞を取れる人に話しかける。その顏を見た時に私が豫想した通りの流暢な深い聲に一種の魅力がある。
給仕が茶を持つてくる。
西田氏通譯する、『知事はあなたが出雲の昔の歷史を御存じかときかれるのです』
私はチエムバン敎授の譯にかかる古事記を讀んで、日本最古の國の話を少しは心得て居る事を答へる。日本語で話が暫らくつづく。西田氏は私が昔の宗敎と風俗を知りたいので、日本に來た事、殊に神道及び出雲の傳說に興味をもつて居る事を知事に語る。知事は自分に杵築、八重垣、熊野の名高き神社に詣でてはいかがと云つて次ぎに問ふ、
『あなたは神社の前で手を拍つ起りの傳說を御存じか』
私は知らない事を答へる、そこで知事はその傳說は古事記傳に出て居ると云ふ。
『第十四卷第三十二章【譯者註四】にあります、八重言代主神が手を拍つた事が書いてあります』
私は知事の有難い忠告や敎へに對して御禮を云ふ。しばらくの沈默ののち又眞率なる握手をして丁寧に送り出される、そして私共は學校に歸る。
譯者註一。明治二十三年九月二日は
始めて登校せし日。當時は學年は九
月に始まり七月に終つた。
譯者註二。西田千太郞(今は故人)
英語の敎師で當時の敎頭、現福岡大
學敎授工學博士西田精氏の令兄。
譯者註三。籠手田安定(今は故人)、
山岡鐡舟の高弟、故武士の面影のあ
る人、熱心な國粹保存家であつた。
譯者註四。十四卷三十二章と云ふう
ち、十四卷は古事記傳の卷、三十二
章はチエムバレンの飜譯の方ででき
た分ち方、手をうつ事の古き文書に
見えたのはこれが始めてと云ふ意味
であるが、これを讀めば、手をうつ
事はそれから起つたやうに見える。
[やぶちゃん注:既注のものが多いが、改めて再注したものも多い。
「一八九〇年九月二日」明治二十三年。ハーンはこの年の四月四日に来日、七月中に島根県尋常中学校及び師範学校(後注参照)英語教師に任命され、八月三十日の午後四時に松江に到着している。
「出雲松江の尋常中學校及び師範學校」県立島根県尋常中学校松江中学校(改称は明治一九(一八八六)年。現在の島根県立松江北高等学校)及び島根県立松江師範学校(改称は明治九(一八七六)年十月。県立島根大学教育学部の前身)。ハーンが勤務した当時は現在の松江城(ハーンの言う「舊城」)南直近の松江市殿町(とのまち)にある島根県警本部庁舎がある場所に建っていた(グーグル・マップ・データ)。
「校長」調べてみたが、誰であるか不詳である。ハーンとの接点も全く語られていない。識者の御教授を乞うものである。
「西田千太郞」(文久二(一八六二)年~明治三〇(一八九七)年)。郷里島根県で母校松江中学の英語教師を務め、この明治二三(一八九〇)年に着任したハーンと親交を結んだ、当時の同校教頭(本章「一八」の「譯者註四」によると、当時の日本語の正式名称は「校長心得」であった。ハーンの取材活動に協力するだけでなく、私生活でも助力を惜しまなかった。「西田千太郞日記」は明治前期の教育事情や松江時代のハーンを伝える貴重な資料となっている。ハーンと逢って七年後に、惜しくも三十六の若さで亡くなった(「講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「縣知事籠手田安定氏」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)。元平戸藩士で剣術家としても知られた。維新後は明治元(一八六八)年の大津県判事試補就任に始まり、大津県大参事・滋賀県権令・滋賀県令・元老院議官を経て、明治一八(一八八五)年九月四日に島根県令(県知事)となっている(翌明治十九年七月十九日に「県令」から「知事」に呼称が変更された。島根県知事退任は明治二四(一八九一)年四月九日)。ハーンと籠手田の接触は早く、同年の六月頃であることが、個人サイト「わにの昼寝」の「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」(リンク先の少し下の記事)の以下の記載で判明した。ハーンは日本到着(四月四日)の三ヶ月後には、『東京で』、『当時』、『島根県知事であった籠手田安定(こてだやすさだ)と、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となる契約を結んだ。当時としては破格の月給』百円で、『ハーンを雇い入れた知事の籠手田安定は、殖産や教育に力を入れ、わらじ履きで県内を巡視し、人情味豊かな知事として知られていた』とあるからである。続いて籠手田は新潟県知事・滋賀県知事を歴任、最後は貴族院議員となっている。なお、ウィキの「籠手田安定」も参照されたい。ハーンが一目で惹かれた古武士のような肖像写真が見られる。
「縣廰」位置的に見て恐らく現在の島根県庁と変わらない。松江城南直下である。
「あなたは神社の前で手を拍つ起りの傳說を御存じか」「手をうつ事の古き文書に見えたのはこれが始めてと云ふ意味であるが、これを讀めば、手をうつ事はそれから起つたやうに見える」くどいが、私は先に出たチェンバレンの「古事記」は勿論のこと、本居宣長の「古事記傳」を読んだこともなく、持ってもいない。但し、以前に、この柏手の起源については異端的な注をしてきた。事代主は「国譲り」の威圧的強制譲渡要求に対し、呪詛を意味すると思われる逆手(さかで)の柏手を打って隠れてしまったとする考え方である(宣長は無論、呪詛とは解していないはずである)。「第八章 杵築――日本最古の社殿(五)」の「或る日本の學者は、神道の拍子の習慣は、事代主神が用ひた合圖であつたと説いてゐる」の私の注、及び同「「第十五章 狐 (三)」の注も参照されたい。にしても籠手田氏、即座にチェンバレン英文の「古事記」の章番号で応じているところはこれ、事実としたら、南方熊楠並みの博覧強記、ただ者ではない、ということになろう。]
ⅩⅨ
FROM THE DIARY OF AN ENGLISH
TEACHER
Ⅰ
MATSUE, September 2, 1890.
I AM under contract to serve as English teacher in the Jinjō Chūgakkō, or Ordinary Middle School, and also in the ShihanGakkō, or Normal School, of Matsue, Izumo, for the term of one year.
The Jinjō Chugakkō is an immense two-story wooden building in European style, painted a dark grey-blue. It has accommodations for nearly three hundred day scholars. It is situated in one corner of a great square of ground, bounded on two sides by canals, and on the other two by very quiet streets. This site is very near the ancient castle.
The Normal School is a much larger building occupying the opposite angle of the square. It is also much handsomer, is painted snowy white, and has a little
cupola upon its summit. There are only about one hundred and fifty students in the Shihan-Gakko, but they are boarders.
Between these two schools are other educational buildings, which I shall learn more about later.
It is my first day at the schools. Nishida Sentaro, the Japanese teacher of English, has taken me through the buildings, introduced me to the Directors, and to all my future colleagues, given me all necessary instructions about hours and about textbooks, and furnished my desk with all things necessary. Before teaching begins, however, I must be introduced to the Governor of the Province, Koteda Yasusada, with whom my contract has been made, through the medium of his secretary. So Nishida leads the way to the Kenchō, or Prefectural office, situated in another foreign-looking edifice across the street.
We enter it, ascend a wide stairway, and enter a spacious room carpeted in European fashion,—a room with bay windows and cushioned chairs. One person is seated at a small round table, and about him are standing half a dozen others: all are in full Japanese costume, ceremonial costume,— splendid silken hakama, or Chinese trousers, silken robes, silken haori or overdress, marked with their mon or family crests: rich and dignified attire which makes me ashamed of my commonplace Western garb. These are officials of the Kenchō, and teachers: the person seated is the Governor. He rises to greet me, gives me the hand-grasp of a giant: and as I look into his eyes, I feel I shall love that man to the dayof my death. A face fresh and frank as a boy's, expressing much placid force and large-hearted kindness,—all the calm of a Buddha. Beside him, the other officials look very small: indeed the first impression of him is that of a man of another race. While I am wondering whether the old Japanese heroes were cast in a similar mould, he signs to me to take a seat, and questions my guide in a mellow basso. There is a charm in the fluent depth of the voice pleasantly confirming the idea suggested by the face. An attendant brings tea.
'The Governor asks,' interprets Nishida, 'if you know the old history of Izumo.'
I reply that I have read the Kojiki, translated by Professor Chamberlain, and have therefore some knowledge of the story of Japan's most ancient province. Some converse in Japanese follows. Nishida tells the Governor that I came to Japan to study the ancient religion and customs, and that I am particularly interested in Shintō and the traditions of Izumo. The Governor suggests that I make visits to the celebrated shrines of Kitzuki, Yaegaki, and Kumano, and then asks:―
'Does he know the tradition of the origin of the clapping of hands before a Shinto shrine?'
I reply in the negative; and the Governor says the tradition is given in a commentary upon the Kojiki.
'It is in the thirty-second section of the fourteenth volume, where it is written that Ya-he-Koto-Shiro-nushi-no-Kami clapped his hands.'
I thank the Governor for his kind suggestions and his citation. After a brief silence I am graciously dismissed with another genuine hand-grasp; and we return to the school.
八
日本の女の髮毛は、その最も豐麗な裝飾であるから、そのあらゆる所有物のうちで、失(な)くするのを一番苦痛とする物である。だから昔時は、不貞な妻を殺すには、餘りに男らしい男は、女の髮を悉皆剃つて、追ひ出すのを充分の復讐と考へて居たのである。ただ最も大なる信仰か又は最も深い愛のみが、女をして自ら進んでその髮總てを捧げしめ得るのである、――出雲の多くの神社の前に吊るされて居るのを見る一部分の犧牲は、一房二房の長い太い切髮は、あるけれども。
斯んな犧牲の方面に、信仰なるものが如何なる事を爲し得るか、これは京都の本願寺といふ大寺院に吊るしてある、女の髮毛で編んだ大きなケエブルを見た人が一番能く知つて居る。だが、表示的といふ點では遙かに劣るけれども、愛は信仰よりも力强いものである。夫に死に別れた妻は、古昔からの習慣に從つて、夫の棺に納めて、夫と一緖に埋めるやうに、その髮の一部分を犧牲にする。その量は一定しては居らぬ。大多數の場合、髷の樣子がその爲め少しも害はれぬほどに、極はめて少しである。が、亡夫の靈に永久に忠實でゐようと決心する女は全部を棄てる。自分の手でその髮を切つて、そのつやつやした犧牲全部を――その若さと美しさの印(しるし)を――死者の膝の上に置く。
決して二度と生やさぬ。
[やぶちゃん注:「京都の本願寺といふ大寺院に吊るしてある、女の髮毛で編んだ大きなケエブル」「東本願寺」公式サイト内の「東本願寺の見所」に、「毛綱」とあり、両堂(明治一三年(一八八〇)年起工で明治二八(一八九五)年に完成した御影堂と阿弥陀堂のことと思われる)の『再建時、巨大な木材の搬出・運搬の際には、引き綱が切れるなどの運搬中の事故が相次いだため、より強い引き綱を必要としました。そこで、女性の髪の毛と麻を撚り合わせて編まれたのが毛綱です』。『当時、全国各地からは、全部で』五十三本の『毛綱が寄進され、最も大きいものは』長さ百十メートル・太さ四十センチメートル・重量約一トンにも及び、『いかに多くの髪の毛が必要とされたかがうかがわれます』。『現在、東本願寺に展示されている毛綱は、新潟県(越後国)のご門徒から寄進されたもので』、長さ六十九メートル・太さ約三十センチメートル・重さ約三百七十五キログラムとあり、写真も見られる(但し、上記の引用の下に別に注記があり、『東本願寺に展示されている毛綱は、直径』三・五センチメートル・長さ六メートルともある。正直、よく意味が判らない)。]
Ⅷ
As the hair of the Japanese woman is her richest ornament, it is of all her possessions that which she would most suffer to lose; and in other days the man too manly to kill an erring wife deemed it vengeance enough to turn her away with all her hair shorn off. Only the greatest faith or the deepest love can prompt a woman to the voluntary sacrifice of her entire chevelure, though partial sacrifices, offerings of one or two long thick cuttings, may be seen suspended before many an Izumo shrine.
What faith can do in the way of such sacrifice, he best knows who has seen the great cables, woven of women's hair, that hang in the vast Hongwanji temple at Kyoto. And love is stronger than faith, though much less demonstrative. According to ancient custom a wife bereaved sacrifices a portion of her hair to be placed in the coffin of her husband, and buried with him. The quantity is not fixed: in the majority of cases it is very small, so that the appearance of the coiffure is thereby nowise affected. But she who resolves to remain for ever loyal to the memory of the lost yields up all. With her own hand she cuts off her hair, and lays the whole glossy sacrifice—emblem of her youth and beauty—upon the knees of the dead.
It is never suffered to grow again.
七
死んだ女の髮は、非常に簡單にしたシマダに幾らか似て居て、何の裝飾も無い、タバネガミと呼ぶ樣式に結ふ。『タバネガミ』といふ名は、稻の束のやうに、一束に結(むす)んだ髮といふ意である。この形式のをまた服喪の期中、女は結はねばならぬのである。
が然し、幽靈は髮を長く捌いて、物凄く顏に垂れて居るやうな繪には描いてある。そして柳は、屹度その垂れる枝が物悲しさを暗示するからであらう、幽靈が好む木だと信ぜられて居る。その下で幽靈は、その影のやうな髮毛を、その木の長い亂れた枝と交じへて、夜中悲しんで居るといふ。
傳說に據ると、圓山應擧が日本で幽靈を描いた最初の繪師だとする。將軍が彼を御殿ヘ招いて『自分に幽靈の繪を描いて吳れ』と仰せられた。應擧はしか致しませうと約束した。が、その命令をどう滿足に果したらばと迷つた。その後二三日して、その一人の叔母が大病だと聞いて、見舞に行つた。非道く瘠せ哀へて、死んで長い間經つた人のやうな顏をしてゐた。病床に侍して看とりして居るうちに、物凄い靈感が彼を襲つた。肉の無い顏と振り亂した長い髮を描いて、その匇々のスケツチからして、全く將軍の期待に優る幽靈を一人物した。後、應擧は幽靈の繪師として非常に有名になつた。
日本の幽靈はいつも透明な、そして――ただその姿の上の方だけが判然(はつきり)輪廓が見えて居て、下の方は全く消え失せて居る――異樣に脊丈の高いものに現されて居る。日本人の言ふやうに『幽靈には足が無い』その姿は、地上或る距離の處で初めて見えるやうになる、蒸發氣のやうである。そして美術家の構想では、風に動く蒸汽の如くに、ふわついて、伸び縮みして、ゆらめいて居る。時折變化(へんげ)の女が、生きて居る女の姿をして、繪本に出て來る。が、それは本當の幽靈では無い。それは狐が化けた女か、又は他の化け物で、その神異な性質はその眼の一種特異な表情と、到底もありさうに無い一種の魑魅的な品の好さとで、それと知ることが出來るのである。
日本の子供は、何處の國の子供とも同樣に、恐怖の愉快を非常に面白がる。だからそんな快感がその主たる興味となつて居る遊戲が澤山ある。その中にオバケゴト卽ち『幽靈遊び』がある。子守女か姉娘かが髮を前の方へ解いて、顏の上へ垂れるやうにする。そして繪本の幽靈のあらゆる姿勢を眞似て、呻き聲を立て物凄い身振をして、小さな子等を追つかけるのである。
[やぶちゃん注:「タバネガミ」「束ね髮」。但し、必ずしも昔の女性の死者の結髪を特異的にかく呼んだ痕跡はない。当然、そうなれば、「たばねばみ」という言葉は著しい忌言葉となるはずだが、現行でも、後ろで無造作に束ねた髪の普通名詞として通じており、古文でこれが忌まれた印象は私には、ない。
「傳說に據ると、圓山應擧が日本で幽靈を描いた最初の繪師」近現代の京都画壇にまでその系統が続く円山派の祖である絵師円山応挙(享保一八(一七三三)年~寛政七(一七九五)年)はしばしば「お化け応挙」と称されるが、「日本で幽靈を描いた最初の繪師」というのは聴いたことはない。「足のない幽霊を描いた元祖」という噂は知っている。但し、これについても疑義があり、例えば、黒法師氏のサイト「まよひが」の『「円山応挙が足のない幽霊を初めて描いた説」に疑問』には(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂き、行空を詰め、画像の見られるリンクを再現した。吉川観方氏の引用部は連続させて『 』で括った)、
《引用開始》
応挙が最古と言われ出したのは文政十二年[やぶちゃん注:西暦一八二九年。]の随筆「松の落葉」などの記述に見られます。
しかし、一六七三年[やぶちゃん注:概ね寛文十二年及び延宝元年相当。]には浄瑠璃本「花山院きさきあらそひ」の挿絵に脚のない幽霊(藤壺の怨霊)が描かれています。それ以降の元禄から正徳にかけての実録本や浄瑠璃本の挿絵にも足のない幽霊が描かれています。
そのかわり肉筆画で応挙より古い足なし幽霊は知られていないそうです。 これが応挙創始の理由ではないかといわれています。
後、応挙真筆の幽霊画は、まだ確認されていません。 ここで上記のサイトなどでリンクを張っている「ほぼ日刊イトイ新聞」などを見ると一作品しか出していませんが、応挙が描いたといわれる幽霊画はたくさんあります。(このサイトのDBをお使いください。弟子のも出ますが)落款が入っていなかったり、弟子による模写が多いのが原因のようです。
その他にも、写生派の応挙が幽霊のような写実的でないものなど描くか?という偏見などがあいまって、真筆にはされていないようです。
最有力候補は「久渡寺」や「カリフォルニア大学(上記のサイトで画像が見られます)」のものだそうです。
応挙が幽霊画を描いた理由はこれとは別の話なのであまりしませんが、脚のない理由が、応挙真筆最有力候補(久渡寺)が「反魂香之図」というタイトルであることなどから下半身が煙で覆われているから見えないのではないかという考え方もあります。[やぶちゃん注:以下、その証左についての検証叙述があるが、中略する。リンク先をお読みあれ。]
「足のない幽霊」が誕生した理由は結局のところ「~という説がある」どまりで確実なところはまだ分かっていないようです。
「初めて描いたのは応挙」は違う気がするのですが「広めたのは応挙」という説ならいいと思います。でも広がりのきっかけ自体は大衆芸能のほうが強い気がします。狩野派絵師の絵に庶民が触れる機会がどれだけあるのかが分かりませんが。
応挙が偶然下半身を薄く描いただけか、浄瑠璃本の技法を見てまねしたのか分かりませんが、もし後者なら、漫画の技法を画家が真似をすると、その技法がその画家が初めて描いたことになってしまうのと同じような気がします。
おまけですが吉川観方氏の『絵画に見えたる妖怪』では
七、 女房と幽霊 土佐光起筆 森徹山摸
[やぶちゃん注:章と標題であろう。対象が、土佐光起原画の森徹山の模写、である謂いであろう。森徹山(もりてつざん)は江戸後期に大坂で活躍した森派・四条派の絵師である。]
この『幽霊には足が有るのが本儀であるが、現在方々で見受ける幽霊は殆ど皆足が無い。それでは何時ごろから無くなったのであらうか。一般には、かの写生派の祖円山応挙の創始工夫によるものと云はれているが、ここに載せた光起筆の図が、その模写した森徹山の署名の添記を真とすれば、少くとも元禄には既に足の無い幽霊が有ったことが証明せられることとなる。更に又、[やぶちゃん注:中略。]佐脇嵩之が元文一年[やぶちゃん注:一七三六年。]に写した「妖怪図巻」を、その署名の添記即ち、本書古法眼元信筆云々を真とすれば、元禄よりは遙に古く江戸時代を超えて室町時代に溯る訳になるが、これは其の儘直ぐには信じられないと思ふ。』[やぶちゃん注:引用文中の一部の衍字と思われるものを除去した。]
吉川観方が「応挙無脚幽霊創始説」が疑問視されていたという参考です。[やぶちゃん注:「を疑問視していた」の謂いであろう。]
《引用終了》
とある。
「將軍」応挙(彼の本姓は「藤原」で名は「岩次郞」であった)が、その丸山応挙と名乗り始めるのは、明和三(一七六六)年(満三十三歳)とされ、この頃から三井寺円満院の祐常門主や豪商三井家をパトロンとするようになるので、将軍の命が事実であったとすれば、第十代徳川家治か、次代の家斉ということになるが、何となくこの以上のエピソード自体が、私には正直、疑わしく思われる。]
Ⅶ
The hair of dead women is arranged in the manner called tabanegami, somewhat resembling the shimada extremely simplified, and without ornaments of any kind. The name tabanegami signifies hair tied into a bunch, like a sheaf of rice. This style must also be worn by women during the period of mourning.
Ghosts, nevertheless, are represented with hair loose and long, falling weirdly over the face. And no doubt because of the melancholy suggestiveness of its drooping branches, the willow is believed to be the favourite tree of ghosts. Thereunder, 'tis said, they mourn in the night, mingling their shadowy hair with the long dishevelled tresses of the tree.
Tradition says that Ōkyo Maruyama was the first Japanese artist who drew a ghost. The Shōgun, having invited him to his palace, said: 'Make a picture of a ghost for me.' Ōkyo promised to do so; but he was puzzled how to execute the order satisfactorily. A few days later, hearing that one of his aunts was very ill, he visited her. She was so emaciated that she looked like one already long dead. As he watched by her bedside, a ghastly inspiration came to him: he drew the fleshless face and long dishevelled hair, and created from that hasty sketch a ghost that surpassed all the Shōgun's expectations. Afterwards Ōkyo became very famous as a painter of ghosts.
Japanese ghosts are always represented as diaphanous, and preternaturally tall,―only the upper part of the figure being distinctly outlined, and the lower part fading utterly away. As the Japanese say, 'a ghost has no feet': its appearance is like an exhalation, which becomes visible only at a certain distance above the ground; and it wavers arid lengthens and undulates in the conceptions of artists, like a vapour moved by wind. Occasionally phantom women figure in picture-books in the likeness of living women; but these are riot true ghosts. They are fox-women or other goblins; and their supernatural character is suggested by a peculiar expression of the eyes arid a certain impossible elfish grace.
Little children in Japan, like little children in all countries keenly enjoy the pleasure of fear; and they have many games in which such pleasure forms the chief attraction. Among these is 0-bake-goto, or Ghost-play. Some nurse-girl or elder sister loosens her hair in front, so as to let it fall over her face, and pursues the little folk with moans and weird gestures, miming all the attitudes of the ghosts of the picture-books.
六
なほ女の髮に就いて不思議な古い迷信が二三ある。
メドウサの神話は、それに對應するものを幾つも、日本の民間傳說に有つて居る。そんな物語の主題は、いつも、髮が夜には蛇に變る、そして到頭それは龍か龍の娘だと解る、驚く許り美しい女である。が、古昔は、若い女はどんな女でもその髮は、或る種の苦しい事情の下に居ると、蛇に變ると信ぜられて居つた。例へば、長く抑へ忍んだ嫉妬心の爲めに。
舊日本時代には、分限者でその妾(メカケ又はアイセフ)をその正妻(オクサマ)と同じ屋根の下に置いて居たものが多かつた。苛酷極はまる家長的訓練が、メカケとオクサマとを日中は見た處では全く和合して、一緖に暮らさなければならぬやうにしても、その二人の心中の憎惡は、夜その髮毛の變形によつて、自づと現れたといふことである。どちらもその長い黑髮が解けて、ひしめいて、相手のそれを嚙まうと力めるのであつた。そして寢て居るその二人の鏡すら、ぶつつかり合ふのであつた。昔の諺は言つて居る、カガミハヲンナノタマシヒ――『鏡は女の魂』【註】――だからである。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。昔の日本の鏡は金屬で出來てゐ
て、極めて美しいものであつた。カ
ガミガクモルトタマシヒガクモルは
鏡に關する今一つの珍しい諺である。
恐らくどんな國語で書いてあるもの
でも、鏡についての最も美しい最も
人を感動させる物語は、ヂエムズ氏
が譯した『松山鏡』と呼ばれて居る
物語であらう。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]それから、加藤左衞門重氏といふ人についての有名な傳說がある。その妻の髮とその妾の髮とが夜、毒蛇に變つて、互に踠き絡んでひしめいて嚙み合つて居るのを視た。そこで加藤左衞門は己が過失の爲めに斯く存する、その人知らぬ劇しい憎惡を大いに歎き、頭を剃り、高野山の佛敎大僧院で僧となり、死ねる日まで、カルカヤといふ名で暮して居たといふのである。
[やぶちゃん注:「メドウサの神話」ギリシア神話に登場する女怪メドゥーサ(英語表記(以下同じ)Medusa:ギリシャ語で「女支配者」「女王」の意)は、怪物姉妹ゴルゴン(Gorgon)三姉妹の末の妹。長姉ステノー(Sthenno:「強い女」)・次姉エウリュアレー(Euryale:「遠くへと飛ぶ女」)は不死であったが、彼女メドゥーサだけは不死ではないという設定になっている(「シンデレラ」や本邦の「猿の聟入り」などに見るように、末妹だけの運命が異なるのは汎世界的な神話民話類の典型的モチーフである)。以下、ウィキの「メドゥーサ」から引く。『宝石のように輝く目を持ち、見たものを石に変える能力を持つ。かつては見た者を恐怖で石のように硬直させてしまうとされていたが、途中から現在知られている形に解釈される。頭髪は無数の毒蛇で、イノシシの歯、青銅の手、黄金の翼を持っている(腰に蛇をまいた姿や、下半身がイノシシの胴体と馬の下半身になった姿で描かれる事も)』。『海の神であるポセイドーンの愛人であり、ポセイドーンとの間に天馬ペーガソスとクリューサーオール(「黄金の剣」の意)がいる。ペルセウスによって首を切り落とされ退治された』。『本来は、ギリシアの先住民族であるペラスゴイ人(もしくはアナトリア半島)の神話の中で主たる女神の内の』一人で、『また、コリントスでは大地の女神とされて』おり、『ポセイドーンも元はヘレーネス(古代ギリシア人)到来以前から古代ギリシアに存在していた神であり』、二人の『神は夫婦であった』とあり、また、叙事詩「オデュッセイア」によれば、『春の花咲く野で神に略奪された少女としてペルセポネーに近く、「女妖怪」はいわば美しいペルセポネーのもうひとつの面といわれる』とある。『「自分の髪はアテーナーの髪より美しい」と自慢したメドゥーサはゼウスの娘アテーナーの怒りを買い、美貌は身の毛のよだつような醜さに変えられ、讃えられるほどの美しい髪ですら』、一本一本を『蛇に変えられてしまう。しかし、アテーナーはそれで許そうとせず、ペルセウスがメドゥーサを退治しようとした際には、ヘルメースとともに彼を援助している』。『彼女の切り落とされた首から滴り落ちた血はペルセウスによって』二つの瓶に『集められ、アテーナーに献上された。右側の血管から流れて右の瓶に入った血には死者を蘇生させる効果が、左側の血管から流れて左の瓶に入った血には人を殺す力があったとされる。アテーナーは後に、死者を蘇生させるメドゥーサの血をアスクレーピオスに授け、アスクレーピオスはこの血を混ぜた薬を使用した』。『石化された者を戻すには彼女の涙が有効とされている。頭に生えている蛇は「メドゥシアナ」と呼ばれ、引き抜いて単体で動かす事も可能とされる。だが、この蛇は女性に噛みつく事はできず、男性のみを狙うとされる』。一般に知られる伝承では、『元々美少女であったメドゥーサは、海神ポセイドーンとアテーナーの神殿の一つで交わったためにアテーナーの怒りをかい、醜い怪物にされてしまう。これに抗議したメドゥーサの姉達も怪物に変えられてしまう。姉のエウリュアレーとステンノーは不死身であったが、メドゥーサだけは可死であったためペルセウスに討ち取られたとされる。アテーナーはその首を自分の山羊皮の楯アイギスにはめ込んだ』。『別の伝承では、美少女であったメドゥーサは次第に傲慢になっていく。そして、とうとう女神アテーナーよりも美しいと公言してしまう。この発言がアテーナーの怒りを買い、醜い姿に変えられた』。『この伝承では、姉妹が存在する場合としない場合がある。メドゥーサは元は単独の女神であったとも考えられる。この話は機織りの娘アラクネーの物語とも混同されやすく、同一視されることもある』。『醜い姿に変えられたメドゥーサはアテーナー等に手助けされたペルセウスに首を切られるのだが、その際ペルセウスが持っていた盾は、アテーナーから借り受けたアイギスとも言われる』。『メドゥーサは、見るものを石にしてしまう力を持っていて、これまでは誰も退治できなかったのである。ペルセウスは鏡のように磨き抜かれた盾を見ながら、曲刀(ハルペー:癒えない傷を与え不死身殺しの武器とされる)で眠っているメドゥーサの首を掻っ切った。メドゥーサの首からあふれ出た血は、空駆ける天馬ペーガソスを生んだ。また、別伝では、ポセイドーンとメドゥーサの子である黄金剣を持ったクリューサーオールも生まれたとされる』。『ペルセウスが空飛ぶ翼のあるサンダルで海を渡っている際に、包んであったメドゥーサの首から血が滴り落ち、それが赤い珊瑚になった。切り落としたメドゥーサの首から滴る血が砂漠に落ち、サソリなどの猛毒の生き物が生まれたともされる』。『その帰路の途中、ペルセウスは海から突き出た岩に縛り付けられた美女を見つける。彼女の名はアンドロメダーといい、母親カッシオペイアが自分の娘アンドロメダーの方が海のニュムペーより美しいと公言した為、海神ポセイドーンの怒りに触れ、海の怪物ケートス(「鯨」の意だが、実際は海竜の様な姿をした怪物)の生贄にされるため、岩に磔になっているのだと言う。可哀相に思ったペルセウスは美女を助けることを約束する。美女を襲いに来た海の怪物に剣は全く歯が立たず、そこで彼はメドゥーサの首を取り出し、怪物を石に変えた』。『ペルセウスは無事に課題を終えたことの感謝の意を含め、加護してくれていたアテーナー女神にメドゥーサの首を贈る。アテーナーは自分の盾であるアイギスにメドゥーサの首をつけ、最強の盾とした』とある。
「髮が夜には蛇に變る」怨念に限らず、《女←→蛇体》の変容は、道成寺伝承や上田秋成の「雨月物語」の「蛇性の淫」(こちらの元は中国の民間伝承に基づく異類婚姻譚「白蛇伝」)、後にハーンの挙げる謡曲や説教節等になった「刈萱(かるかや)」伝説(後述)など枚挙に暇がない。但し、私は髪が蛇となるものよりも(というより、ハーンの言う最後には「龍か龍の娘だと解る」という設定の話柄の例を直ぐに思い出せないでいる。向後、良い例が見つかった場合はここに追記する)、妬心から指が蛇になったり(例えば「発心集」の「母妬女手指成虵事(母、女(むすめ)を妬み、手の指、虵(くちなは)に成る事)」)、女自体が蛇体に変ずる(例えば「沙石集」の「七 妄執に依つて女蛇と成る事」)という説話の方が先に想起された。前者は私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之七」の「蛇谷」で「発心集」の正規本文も示して詳細な考証も附してあり、後者は「鎌倉攬勝考卷之一」の「蛇谷」で全文と語注を附してあるので、未見の方は合わせてご覧頂きたい。なお、私の愛読書の一冊で近世以降から近現代までを対象に絞られるものの、高田衛「女と蛇 表徴の江戸文学誌」(一九九九年筑摩書房刊)はお薦めの一冊である。
「メカケ又はアイセフ」「妾(めかけ)又は愛妾」。
「オクサマ」「奥樣」。
「カガミハヲンナノタマシヒ」「鏡は女の魂」。但し、原文には「は」はなく、「鏡(かがみ)女の魂」である。
「カガミガクモルトタマシヒガクモル」「鏡が曇ると魂が曇る」。「刀は武士の魂、鏡は女の魂」とか「鏡と操は女が持つもの」といった成句もある。《刀―武士(男)》との対句であるのは極めて論理性があって、古くはハーンが指摘するように鏡は青銅製であったから、絶えず刀と同じく手入れして磨かないと表面が曇って映らなくなったのである。それに中国文学に於ける主題の一つである、真実を移し出すところの「明鏡」という思想も影響を与えているに違いない。言うまでもないが、ハーンが女の魂として女の女たるもののシンボルとしてその美と命の「髪」(或いは「古事記」から考えれば髪を換喩するところ「櫛」にも神聖性を広げるべきではある)とともに、ここで女の化粧に欠かせぬ、女が女としての自負をそこに見るところの「姿見」たる「鏡」を挙げるのは、すこぶる的を射ているのである。
「ヂエムズ氏が譯した『松山鏡』と呼ばれて居る物語」「ヂエムズ氏」は誤訳で「ヂエムズ夫人」でなくてはならない(これでは当時の邦訳の読者はまず男性訳者と誤解するからである)。明治一八(一八八五)年から明治二五(一八九二)年にかけて弘文社から刊行された「ちりめん本『日本昔噺シリーズ』( Japanese fairy tale series )英語版」の中の‘ No. 10 The Matsuyama mirror ’(「松山鏡」ジェイムズ夫人(Mrs. T.H. James)訳述(小林永濯画)明治一九(一八八六)年とあるのが、それである(和紙に縮緬加工がなされていない少し大判の平紙本版の同書もある)。古本販売サイトのこれ(画像有り)である。参照した「明治大学中央図書館『新収貴重書展』解説・目録」によれば、「ちりめん本」とは『和紙を使用した木版多色刷の挿絵入りの本を縮緬(ちりめん)加工し、布のようなやわらかな風合いに仕立てた欧文和装本のことで、明治時代に初めて弘文社から出版された。これをはじめて手がけたのは長谷川武次郎という人物で、彼の英語への興味と海外の文化への興味から、さまざまな来日外国人と交流する中で、英文による「昔噺集」が生まれた。ちりめん本は土産品としても外国人に大いにもてはやされ、英語版のほかに、独・仏・蘭・西語版も出版された。また、海外の出版社との共同出版も行われた』とある。リンク先の目録を見ると、このジェイムズ夫人は、同シリーズで、この後、「因幡の白兎」・「野干の手柄」・「玉の井」・「鉢かづき」・「竹箆太郎」・「羅生門」・「大江山」・「養老の瀧」などを手掛けている。実は、この後の明治三一(一八九八)年以降の同シリーズの続編で、ハーン( Lafcadio Hearn 名義)も「猫を描いた少年」( The Boy Who Drew Cats )・「団子をなくしたおばあさん」( The Old Woman Who Lost Her Dumpling )・「ちんちん小袴」( Chin Chin Kobakama )・「化け蜘蛛」( The Goblin Spider )・「若返りの泉」( The Fountain of Youth )の英訳を手掛けている(無論、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で邦訳を総て掲げる)。ただ、このジェイムズ夫人(Mrs. T.H. James)なる婦人が如何なる人物なのかが、邦文のネット記載では分からない。そこでさらに調べてみたところ、英語版ウィキに、なんと、弘文社社主長谷川武次郎の記載、“Hasegawa Takejirō”があることが判明した(このウィキ記事には邦版がない。本邦市井の児童文学研究のレベルの低さが知れる気がする)。その‘ Japanese fairy tale series ’の項に、
“In 1885, Hasegawa published the first six volumes of his Japanese Fairy Tale Series, employing American Presbyterian missionary Rev. David Thomson as translator. As the series proved profitable, Hasegawa added other translators beginning with James Curtis Hepburn for the seventh volume, including Basil Hall Chamberlain, Lafcadio Hearn, and Chamberlain's friend Kate James, wife of his Imperial Japanese Naval Academy colleague, Thomas H. James.”
とあって、彼女はバジル・ホール・チェンバレン(彼は明治六(一八七三)年に「お雇い外国人」として来日し、翌年から明治一五(一八八二)年までは「東京海軍兵學」寮(後の「海軍兵學校」)で英語を教授し、次いで、明治一九(一八八六)年になって「東京帝國大學」の外国人教師となった)の「海軍兵學校」での教師時代の同僚であったトーマス・H・ジェームズの妻で、友人であったケイト・ジェームズであることが判った。何故、日本昔話の訳者の事蹟が、日本語のサイトで容易に判らないだろう?! まさに日本の知的探求度の絶望的状況が良く分かる。諸君! ウィキを馬鹿にする前に、貧しい本邦のアカデミズムの現実をこそ、馬鹿にしたまえ! 閑話休題。「松山鏡」の話である。京都外国語大学図書館の「学生と図書館」の中の「わたしの好きな昔話」の小川遥香氏のまさに本書『「松山鏡」(ちりめん本)』(PDF)に載る、京都外国語大学付属図書館ホームページよりの梗概引用を孫引きする。『昔、越後の松山で幼い娘と両親が暮らしていた。ある日、父が仕事で都へ行き、妻への土産に鏡を買ってきたが、彼女はそれを大事にしまい込み、数年後、母に似て美しく成長した娘には自惚(うぬぼ)れさせないために見せずにいた。その後、母は病にかかり、いまわの際に母が死んでも鏡の中に母の姿を見て、いつまでも見守っていることをわかって欲しいと娘に鏡を渡した。娘は母の死後、言いつけ通り毎日鏡の中の元気でずっと若い頃の母に話し続け、それに慰められ育った。娘の行為を不審に思った父は、事情を聞くと娘の健気さが不憫(ふびん)で、それは母に似た娘自身の顔だとはとても言えなかった』。小川氏はこのオチの部分を問題にしている。確かに気になる。『鏡の中の美しい自分の姿を知った娘は母が危惧したように自惚れ、やがてその美しさで自分の身を滅ぼしてしまうのだった』と、彼女はなかなか残酷な結末の例を提示している(しかし彼女の主張するように寧ろ本来の昔話の教訓性や残酷性からはそれもありだと思う)。例えば翻案にめでたしめでたし系の楠山正雄「松山鏡」があるが、どうもこれを読むと最後がとってつけた如くで如何にも嘘臭いことからも小川氏や私の感懐が分かって貰えることであろう(リンク先は青空文庫)。個人的にはハーンがこれを「鏡についての最も美しい最も人を感動させる物語」だと絶賛しているのは、まさにここで、ぷつりと、話が断ち切られている故であって――「後(のち)のこと知りたや」とは思へど、思ふて見ゆるは、いとものすごく、或は又、陳腐極まりなきお說敎教ならんとぞ思ふ――のである。……
「加藤左衞門重氏といふ人についての有名な傳說がある。その妻の髮とその妾の髮とが夜、毒蛇に變つて、互に踠き絡んでひしめいて嚙み合つて居るのを視た。そこで加藤左衞門は己が過失の爲めに斯く存する、その人知らぬ劇しい憎惡を大いに歎き、頭を剃り、高野山の佛敎大僧院で僧となり、死ねる日まで、カルカヤといふ名で暮して居たといふのである」「カルカヤ」は「刈萱/苅萱」。本伝承の本来の話柄のクライマックスは、この妬心から髪が蛇と化して争うシークエンスにあるのではなく、ずっと後の、出家後の苅萱道心と、その一子「石童丸」(いしどうまる)の数奇な邂逅の物語にあるので注意されたい。謡曲「苅萱」、説教節「かるかや」(寛永八(一六三一)年のそれは説経正本テキストでは最古のものとされる)、浄瑠璃「苅萱桑門筑紫車榮(かるかやだうしんちくしのいえづと)」といった文芸作品で広く知られるが、そればかりではなく、琵琶語り・浪花節・盆踊りの口説き唄としても語られて、全国的に流布した伝承である。元は中世の高野山に於いて活躍した高野聖の中の萱堂聖(かやどうひじり)と呼ばれた一派が布教や勧進のために伝えた話であると言われる(ここまでは主に個人サイト「娘への遺言」の「雑学の世界・補考」にある「石童丸」に拠った)。以下、ウィキの「石堂丸」より引く。『加藤左衛門尉繁氏は、妻と妾の醜い嫉妬心(上辺は親し気に振る舞いながら髪の毛が蛇と化して絡み合う様子)を見て世の無常を感じ、領地と家族を捨てて出家し、寂昭坊等阿法師、苅萱道心(かるかやどうしん)と号して、源空上人(法然)のもとで修行し、高野山に登った』。『その息子である石童丸は、母とともに父親探しの旅にでる。旅の途中に出会った僧侶から父親らしい僧が高野山に居ると聞く。高野山は女人禁制のため、母を麓の宿において一人で山に登り、偶然父親である等阿法師に出会うが、父親である等阿法師ははるばる尋ねてきた息子に、棄恩入無為の誓のために、自分があなたの父親ですと名乗ることはせずに、あなたが尋ねる人はすでに死んだのですと偽りを言い、実の父親に会いながらそれと知らずに戻った。石童丸が高野山から戻ると母親は長旅の疲れが原因ですでに他界していた。頼る身内を失った石童丸はふたたび高野山に登り、父親である等阿法師の弟子となり、互いに親子の名乗りをすることなく仏に仕えたという哀話』である。因みに、親子が庵主したとされ、今にその絵解きを伝え、さらに二人が、それぞれに刻んだとされる二体の地蔵菩薩像「苅萱親子地蔵」を安置する長野県長野市北石堂町(善光寺の手前右手にある)の浄土宗苅萱山院号寂照院西光寺(通称「かるかやさん」)で、私は大学生時代に、住職より、親しくこの伝承を伺ったことがあり、一度、詳しく伝承自体を調べたこともある。]
Ⅵ
There are also some strange old superstitions about women's hair.
The myth of Medusa has many a counterpart in Japanese folk-lore: the subject of such tales being always some wondrously beautiful girl, whose hair turns to snakes only at night; and who is discovered at last to be either a dragon or a dragon's daughter. But in ancient times it was believed that the hair of any young woman might, under certain trying circumstances, change into serpents. For instance: under the influence of long-repressed jealousy.
There were many men of wealth who, in the days of Old Japan, kept their concubines (mekaké or aishō) under the same roof with their legitimate wives (okusama). And it is told that, although the severest patriarchal discipline might compel the mekaké and the okusama to live together in perfect seeming harmony by day, their secret hate would reveal itself by night in the transformation of their hair. The long black tresses of each would uncoil and hiss and strive to devour those of the other;―and even the mirrors of the sleepers would dash themselves together—for, saith an ancient proverb, kagami onna-no tamashii,―'a Mirror is the Soul of a Woman.' [7] And there is a famous tradition of one Kato Sayemon Shigenji, who beheld in the night the hair of his wife and the hair of his concubine, changed into vipers, writhing together and hissing and biting. Then Kato Sayemon grieved much for that secret bitterness of hatred which thus existed
through his fault; and he shaved his head and became a priest in the great Buddhist monastery of Koya-San, where he dwelt until the day of his death under the name of Karukaya.
7
The old Japanese mirrors were made of metal, and were extremely beautiful. Kagami ga kumoru to tamashii ga kumoru ('When the Mirror is dim, the Soul is unclean') is another curious proverb relating to mirrors. Perhaps the most beautiful and touching story of a mirror, in any language is that called Matsuyama-no-kagami, which has been translated by Mrs. James.
昭和二十七(一九五二)年
毛糸の足袋ひとり立つことはじめけり
宇陀野御幸
冬日の畦ゆき逢へるみな君を見し子
[やぶちゃん注:「宇陀野御幸」「宇陀野」は奈良県宇陀郡にあった旧菟田野町(うたのちょう)のことか。二〇〇六年に榛原町・大宇陀町・室生村と合併、現在は宇陀市。推古天皇一九(六一一)年五月五日にこの宇陀の菟田野(うだの)に推古帝が「薬狩り」(女性は薬草摘み。男性は強壮剤とされる若い鹿の角で「鹿茸(ろくじょう)」を狩った)に行幸されたことが「日本書紀」に記されており、その後の古えの皇族が重臣を従えて訪れており、現在の宇陀市大宇陀(おおうだ)上新(かみしん)には現存する日本最古の民間の薬草園「森野旧薬園」(「森野吉野葛本舗」裏手)がある(サイト「歩く・なら」のこちらに拠った)。しかし、これは現に「君」の「行幸」を「皆」「見し子」であるから、当時の実際の昭和天皇の「御幸」である。調べてみると、スーポンドイツ氏のブログ『「かぎろひを観る会」は1月1日 ~大宇陀へお越しください~』によって、この「森野吉野葛本舗」の店には「みゆき」(御幸)の暖簾がかかっていることが写真で判った。しかも、そこには、この暖簾は昭和二六(一九五一)年に『昭和天皇がこちらの工場・薬園の視察に来られた記念として』あるということが記されている。これは恐らく、昭和二一(一九四六)年の神奈川県から始まった昭和二九(一九五四)年の北海道まで延べ八年半かけて行われた昭和天皇の「行幸」(全行程三万三千キロメートル・総日数百六十五日)の一環であったと考えられる。この句はまさに古えの女帝の「行幸」にまで詩想としては遡りつつ、現に人間となった天皇の直近のその「行幸」を詠吟したものと思われる。]
相迫る冬山滾ぎつ瀬をへだて
凩がゐて噴水を憩はしめず
少女となる眉よせ露の反射する
風収まる雪嶺ぴしぴし枝を折る
四方の枯野暮るゝは雨戸締めし後
寒雀一羽失ひし群を率(ゐ)て
母と娘の頭上に桜重きかな
帆綱つかむ前向く燕うしろ向く燕
頭上蔽ふ一樹に椎の花満てる
芽出す籾水層一寸をへだつ
浪の上一蝶のなほ還らざる
向日葵の花のつめたし暁発ちぬ
木下闇仔鹿が駆けて陽漏るゝ
炎天に音なし身ぢろぎもせず
人中へいそぎつつをり花火受く
手花火の火を手花火に継ぎうつす
手花火の尽きるを山の闇が待つ
雄の虻の横暴薔薇に押しあけ入る
少年銭得て葡萄の種吐き吐く
青蚊帳の裡をともしてあと燈なし
虹住む山我住む山のつゞきけり
草に音あり吾に秋雨まだふれず
炎天歩く駝鳥がかすむほど遠く
渡り鳥一羽遅れしまゝの列
祭囃子遠くなる今笛の音のみ
花野過ぎ落葉松林に入りて透く
秋草に浅間嶽隠る下りつゞけ
枯野の汽笛波立つ千曲(ちくま)渡り来て
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
童女爪立つ風船の糸伸び切つて
啼きゆく雁夜の沼の光りしならむ
雁を待つ沼夜となる昼となる
過ぐるとき寒星充つる潦
凩が追ひぬきゆけり鶏駆けり
夕焼くる寒雲知れる聖母なし
聖母の咳ひくゝ吾胸ひゞきけり
油火の一つの火立ち馬屋の主(エス)
我手の影聖母の金魚ひるがへる
聖母の歩に寒星しつかに従へり
雪の上に鹿暮る一つ一つ位置占め
風邪の枕低し雪ふりやまぬかな
寒雀の羽音たしかに風邪癒ゆる
雛ふたつ病める畳の上におく
百千鳥鴉おのれの枝摑む
伽藍の屋根尾さげ嬉しき恋雀
春の海粗朶に入り来てやすからず
春日の海堡白波の中白波あげ
冬の河渡る央に照りきはむ
[やぶちゃん注:「央」は通常の訓ならば「なかば」であるが、どうもそれではスケールがやや小さく私は感ずる。私は「まなか」と読みたい。]
青野に鹿群れゐることのやすらかさ
揚羽蝶どこにて揚羽蝶にあふ
紫雲英(げんげん)に足没し立つ遠くの鴉も
[やぶちゃん注::「げんげん」はマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ(紫雲英) Astragalus sinicus の別名である。この花を愛する私にはずっとこの年になるまで、正しいのが「レンゲ」であり、「蓮華草(れんげそう)」なのだとずっと思っていたのだが、正式和名はあくまで「ゲンゲ」であり、これは「レンゲ」の転訛などではなく、漢名「翹搖」(ゲウエウ(ギョウヨウ))の音読みに基づくものであることを今回調べてみて初めて知った。何だか少し、哀しい気がした。]
雌(め)が招きわが斑猫(みちおしへ)たちまち外れ
[やぶちゃん注:「斑猫(みちおしへ)」複数回既出既注。]
蜥蜴走る光も影も失ひて
醜の翅を日に搏たれたる日蔭蝶
菩提樹花下くゞりて旅の道曇る
寵りゐる燕の尾羽の巣に尖る
揚羽丁星に迷ひ入りしも薄暮のこと
田草とり土地の青に溺れをり
夫の忌燕負ひくる九月の天
[やぶちゃん注:夫豊次郎(昭和一二(一九三七)年没。享年五十歳)の祥月命日は九月三十日。この年は十六回忌。]
花火ひらきつゞく帰ること思はず
池田浩子を悼む
炎天を揚羽翔けいそぐ処女(をとめ)逝きぬ
[やぶちゃん注:「池田浩子」不詳。]
炎天を負ひし面影笑み崩さず
芙蓉にくる褐色のみの田舎の蝶
大足の羽抜鳥にて遁走す
踊り子の眉紅つよしはや暮れよ
身を屈むときに踊りの輪が翳る
使ひにゆく方(かた)へはたはた追ひ飛ばし
葡萄樹下西日が処女さし透す
葡萄採り去りたる畑霧が満つ
虻のこゑ被り身低め葡萄採り
葡萄畑男が走る褐色に
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
天にゐる尾長き凧よ祖母吾が欲る
恋猫に雪がとびつく野の闇より
白鷺あらそへり寒天音もなく
雪降る間いなづま走り乱れ出す
修二会の鐘闇に羽ばたく夜鳥ども
暁(あけ)の嫗髪梳きあかぬかな
炎天にむらさき多し木槿(むくげ)咲き
[やぶちゃん注:「木槿(むくげ)」アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属ムクゲ Hibiscus syriacus 。]
千本の手を秋風に観世音
牛乳に火蛾の飛び入り溺れし疾(はや)さ
[やぶちゃん注:以上、『俳句』掲載分。]
母が焚く炉よがうがうと根本の株
月光に風花さわぎしことも過ぐ
鹿と鹿との間(あひ)に雪降る野にも降る
恋猫のゆく闇何処も雪降れる
鞦韆を父へ漕ぎ寄り母へしりぞき
草木瓜は地(つち)にいこひて見るべき花
[やぶちゃん注:「草木瓜」既注であるが、再掲する。バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属 Chaenomeles ボケ Chaenomeles speciosa の近縁種で本邦固有種であるクサボケ(草木瓜)Chaenomeles
japonica 。ボケは中国原産で観賞用に栽培されており自生はないのに対し、クサボケは本邦の本州関東地方以西・四国・九州に自生する。樹高は五十センチメートルほどで、『実や枝も小振り。本州や四国の日当たりの良い斜面などに分布。シドミ、ジナシとも呼ばれる。花は朱赤色だが、白い花のものを白花草ボケと呼ぶ場合もある。果実はボケやカリン同様に良い香りを放ち、果実酒の材料として人気がある。減少傾向にある』とウィキの「ボケ」にある。]
帰らむいざ同じ青野を同じ馭者(ぎよしや)
藤たぐり降りる足なほ地に着かず
わが百合(ゆり)に花粉通はせ山の百合
いつぴきの金魚となりていのちながし
万緑や斧うつ音を一時断ち
穂絮(ほわた)いま楽しげにとぶ地を忘れ
[やぶちゃん注:「穂絮」は守旧派にとっては、熟した葦や茅(チガヤ)などのの花穂が熟れて生じた白い細毛が風に乗って飛ぶさまを指し、晩秋の季語であるが、これは前後を見ても明らかに蒲公英(タンポポ)などのそれである。]
寧(やす)らかに浮巣が波にゆれつづけ
炎天を乙女駆けりし風一筋
青蚊帳に馬追が啼き青さちがふ
炎天に燕が飛んでかすむなり
秋草に笑ひどほしの乙女撮(うつ)す
祭囃子遠くなる笛の高音のみ
咽喉(のど)裂けて憎まれ鵙の啼きつづく
一眼にて他国者なり胡桃掌(て)に
胡桃割る力のなくて持ちつづけ
雀らに夜がしりぞく霜の上
[やぶちゃん注:以上、『文庫版「海彦」より』とある。多佳子、五十三歳。]
自愛一篇
眞實心(シンジツシン)ユヱアヤマララレ、
五
家(うち)の髮結は出雲で、その業にかけては一等上手な、オコトサンといふのは三十ばかりの丈は低いが、今猶、餘程人目を惹く女である、その首のまはりに、藝術鑑定家が『ヸイナスの頸珠』と名づけて居るものをつくつて、可愛らしい柔かい筋が三本ある。これは滅多に無い、女の標緻の一つであるが、一度それが、コトの身の破滅になりさうであつた。その話は妙な話である。
コトにはその職業生活を始める時分に競爭者が一人あつた、――髮結としては餘程技倆はあつたが、根性の惡るい女で、ジンといふ名であつた。ジンは次第に其佳い得意を皆失つて、小さなコトが流行(はやり)の髮結になつた。ところが、その年寄の競爭者は、嫉妬の憎惡に胸が一杯になつて、コトに就いて怪しからぬ話を造り出した。すると、その造り話が古い出雲迷信の肥えた地面に根附いて、不思議なほど大きくなつて行つた。その話の趣向はコトの首のまはりのその三本の柔かい筋を見て、ジンの惡る賢い心が思ひ付いたのであつた。コトは『ヌケクビ』だと觸れ出したのである。
ヌケクビとは何か。『クビ』とは首をも意味し頭をも意味する。『ヌケル』といふは匍ふ、潛み行く、密行する、窃つと辷り出るといふ意味である。ヌケクビだといふのは體軀(からだ)から離れて、夜――それだけが――忍びあるく首だといふのである。
コトは二度結婚した。そして、その二度目の緣組は幸福であつた。が、その最初の夫はコトに大變な心配をさせ、下らぬ女と一緖になつて、到頭コトを棄てて逃げた。その後その男については全く何の噂も無かつた、だからジンはその男が姿を隱した因由(いはれ)の怖ろしい話をこしらへても大丈夫だと思つた。男がコトを棄てたのは、或る晩眼を覺ますと、その若い妻の頭が枕から起き上つて居て、身體(からだ)の他(ほか)の處は動かずに居るのに、その首は大きな白い蛇のやうに伸びて居るのを見たからである。見ると、その頭はいつまでも長くなる首に支へられて、遠くの部屋へ入つて燈の油を皆んな飮んで、それからそろそろと枕へ――首は同時に縮まつて――歸つて來た。『そこで亭主は起き上つて、大恐(おほおそ)れで家(うち)を逃げてしまひました』とジンは言つた。
話は一つが又一つを生むものだから、いろんな妙な噂が可哀相にコトに就いて擴まり始めた。或る巡査が、夜晩く、身體(からだ)の無い女の頭が庭の壁へ垂れ下つて居る、或る木の實を咬んで居るのを見た。ヌケクビだと知つて劔の平(ひら)でそれを打つた。首は蝙蝠が飛ぶほど早く縮んで逃げたが、それでもそれが、あの髮結の顏だと解るほどの時間(ひま)はあつたといふ話もあつた。『え、そりや本當です』と、其事があつたとされた翌日の朝ジンは觸れるのであつた、『噓だとお思ひになりや、コトに會ひたいからと言つてやつて御覽なさい。出られやしません、顏が全るで脹れ上つて居ますから』。ところがこの死後の陳述は――コトはその時分激しい齒痛を患つて居たから――事實であつた。そして其事實が、この虛事(そらごと)の助けになつた。そしてその作話が地方新聞にきこえると、その新聞は――ただ一般人民の輕信の珍らしい一例として――その事を載せた。するとジンは言ふのであつた、『私しや本當の事をお話し致すんぢやありませんか。御覽なさい、新聞が書いて居ります!』
そこで物見高い人達が、多勢コトの小さな家の前に集つて來て、コトが自殺しないやうにと、始終夫は見張して居なければならぬほどに、コトの生涯を堪へがたひものにした。幸にもコトには、髮結として數年そこへ傭はれて居た、縣知事の家に心の善い友があつた。で、縣知事はその怪しからぬ事を耳にして、それについて公然の非難の文を書いて、それに自分の名を署して印行した。ところが松江の人達は、その老武士たる縣知事を神の如くに尊敬して居て、その片言隻句をも信ずるのであつた。で、彼が書いたものを見て、自ら恥ぢ、かつまたその虛言とその虛言(うそつき)者を非難した。そしてその小さな髮結は、やがて一般の同情の爲め前よりか一層繁昌するやうになつた。
昔時の極はめて異常な信仰のうち、出雲やまた他の處に、亞米利加の所謂『旅興行の附屬(つけたり)の觀物(みせもの)』で生き殘つて居るのがある。日本の附屬觀物(つけたりみせもの)にどんなものがあり得るか、無經驗の外國人は決して想像も及ばぬであらう。或る盛んな祭日には觀物師が出て來て、何處かの寺の庭で蓆と竹との蜉蝣的な芝居小屋を建て、怪しい限りの不思議な物で期待を滿腹させ、そして來るのが不意のやうに、不意に姿を消す。鬼の骸骨、化け物の爪、『羊ほど大きな鼠』、これが自分が見た、量も異常ならざる觀物のうちにあつた。化け物の爪といふは非常に見事な鱶の齒であつた。鬼の骸骨といふは――その頭蓋骨へ巧に角を附けたほかは全く――猩々のであつた。そしてその驚くべき鼠は、自分は馴らした袋鼠だと發見した。自分の充分に合點の行かなかつたのは、ヌケクビの見せ物で、若い女が、見たところ二呎ばかりの長さに首を伸して、その芸當中もの凄いいろんな顏をして見せた。
[やぶちゃん注:「ヸイナスの頸珠」原文の“the necklace of Venus”で検索すると英文ウィキには――首筋に、何重にも出現する、肌の地色の色素沈着が進むことによって生ずる白い斑紋状の皮膚状態(それが女性の場合はネックレスのように見える)を指すといったようなことが書いてある。光アレルギー性光線過敏症による帯状疹や、重い皮膚疾患としてはpoikiloderma(ポイキロデルマ:血管性多形皮膚萎縮症poikiloderma vascularis atrophicans)などというのもあるようだが、コトさんのそれは個人差による、単に首筋の皮膚の皺が顕著に見えるだけのもので、病的なものとは思われない。……因みに……これを調べているうち……「チェルノブイリ・ネックレス(Chernobyl necklace)」「チェルノブイリの首飾り」という哀しい邦文ウィキの記載を見つけてしまった……『甲状腺癌治療のため甲状腺の摘出手術を受けたあと、患者の首に残る水平方向の手術創(傷跡)のことで、とりわけ放射線に起因して発症したものに対して用いられる用語で』、『チェルノブイリに近いベラルーシでの症例が多いことから、ベラルーシアン・ネックレス(英: Belarussian necklace)と呼ばれる場合もある』。『装身具としてのネックレスとの形状の類似性によりこう呼ばれるほか、宝石・貴金属が持つイメージと、原子力事故の負のイメージを、あえて対比させる形で用いられることがある』とある……
「標緻」底本のママ。この単語自体を知らないが、「緻」は「きめ細かいこと」の謂いであるから、「細部に及んだ特異な標識」という意味でとれなくもないが、これは既に本章の「一」に訳語として出ている、まさに「しるし」の謂いの「標徴」の誤植ではないか? と深く疑っている。どうしようか迷ったが、訂さずに示しておいた。
「オコトサン」「お琴さん」か。
「ヌケクビ」「拔け首」。後のハーンが「怪談」(KWAIDAN)の“ROKURO-KUBI”で書くこととなる、所謂、「ろくろっ首」「轆轤(ろくろ)首」のことである(私の最も最初のハーンの恐怖体験は小学三年の時に読んだこの「ろくろ首」だったのである)。ウィキの「ろくろ首」より引く(記号の一部を変更・省略した)。『大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの』二つのタイプが『存在する。古典の怪談や随筆によく登場し、妖怪画の題材となることも多い』。本話の場合、最初のジンのデッチアゲ話では首が延びるタイプ、巡査の最初の目撃例では首が抜けている両タイプを示しているのが面白い。『ろくろ首の名称の語源は』、『ろくろを回して陶器を作る際の感触』説・『長く伸びた首が井戸のろくろ(重量物を引き上げる滑車)に似ている』という説・『傘のろくろ(傘の開閉に用いる仕掛け)を上げるに従って傘の柄が長く見える』などの説がある。『外見上は普通の人間とほとんど変わらないが、首が胴体から離れて浮遊する抜け首タイプと、首だけが異常に伸びるタイプに分かれ』、『こちらの首が抜けるものの方が、ろくろ首の原型とされている。このタイプのろくろ首は、夜間に人間などを襲い、血を吸うなどの悪さをするとされる。首が抜ける系統のろくろ首は、首に凡字が一文字書かれていて、寝ている(首だけが飛び回っている)ときに、本体を移動すると元に戻らなくなることが弱点との説もある。古典における典型的なろくろ首の話は、夜中に首が抜け出た場面を他の誰かに目撃されるものである』。『抜け首は魂が肉体から抜けたもの(離魂病)とする説もあり、『曾呂利物語』では「女の妄念迷ひ歩く事」と題し、女の魂が睡眠中に身体から抜け出たものと解釈している。同書によれば、ある男が、鶏や女の首に姿を変えている抜け首に出遭い、刀を抜いて追いかけたところ、その抜け首は家へ逃げ込み、家の中からは「恐い夢を見た。刀を持った男に追われて、家まで逃げ切って目が覚めた」と声がしたという』。この「曾呂利物語」『からの引き写しが多いと見られている怪談集『諸国百物語』でも「ゑちぜんの国府中ろくろ首の事」と題し、女の魂が体から抜け出た抜け首を男が家まで追いかけたという話があり』、『この女は罪業を恥じて夫に暇を乞い、髪をおろして往生を遂げたという』。『橘春暉による江戸時代の随筆『北窻瑣談』でもやはり、魂が体から抜け出る病気と解釈している。寛政元年に越前国(現・福井県)のある家に務めている下女が、眠っている間に枕元に首だけが枕元を転がって動いていた話を挙げ、実際に首だけが胴を離れるわけはなく、魂が体を離れて首の形を形作っていると説明している』。『妖怪譚の解説書の性格を備える怪談本『古今百物語評判』では「絶岸和尚肥後にて轆轤首を見給ふ事」と題し、肥後国(現・熊本県)の宿の女房の首が抜けて宙を舞い、次の日に元に戻った女の首の周りに筋があったという話を取り上げ、同書の著者である山岡元隣は、中国の書物に記されたいくつかの例をあげて「こうしたことは昔から南蛮ではよく見られたことで天地の造化には限りなく、くらげに目がないなど一通りの常識では計り難く、都では聞かぬことであり、すべて怪しいことは遠国にあることである」と解説している。また香川県大川郡長尾町多和村(現・さぬき市)にも同書と同様、首に輪のような痣のある女性はろくろ首だという伝承がある。随筆『中陵漫録』にも、吉野山の奥地にある「轆轤首村」の住人は皆ろくろ首であり、子供の頃から首巻きを付けており、首巻きを取り去ると首の周りに筋があると記述されている』。『松浦静山による随筆『甲子夜話』続編[やぶちゃん注:これは巻第二十二にある「常州奇病 幷 狸怪談」である。]によれば、常陸国である女性が難病に冒され、夫が行商人から「白犬の肝が特効薬になる」と聞いて、飼い犬を殺して肝を服用させると、妻は元気になったが、後に生まれた女児はろくろ首となり、あるときに首が抜け出て宙を舞っていたところ、どこからか白い犬が現れ、首は噛み殺されて死んでしまったという』。『これらのように、ろくろ首・抜け首は基本的に女性であることが多いが、江戸時代の随筆『蕉斎筆記』には男の抜け首の話がある。ある寺の住職が夜寝ていると、胸の辺りに人の頭がやって来たので、それを手にして投げつけると、どこかへ行ってしまった。翌朝、寺の下男が暇を乞うたので、訳を聞くと「昨晩、首が参りませんでしたか」と言う。来たと答えると「私には抜け首の病気があるのです。これ以上は奉公に差し支えます」と、故郷の下総国へ帰って行った。下総国にはこの抜け首の病気が多かったとされる』。『根岸鎮衛による随筆『耳嚢』では、ろくろ首の噂のたてられている女性が結婚したが、結局は噂は噂に過ぎず、後に仲睦まじい夫婦生活を送ったという話がある。本当のろくろ首ではなかったというこの話は例外的なもので、ほとんどのろくろ首の話は上記のように、正体を見られることで不幸な結果を迎えている』(これについては私の電子テクスト「耳嚢 巻之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」を参照されたい)。『江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では後述の中国のものと同様に「飛頭蛮」の表記をあて、耳を翼のように使って空を飛び、虫を食べるものとしているが、中国や日本における飛頭蛮は単なる異人に過ぎないとも述べている』。『小泉八雲の作品『ろくろ首』にも、この抜け首が登場する。もとは都人(みやこびと)で今は深山で木こりをしている一族、と見せかけて旅人を食い殺す、という設定で描かれている』。『「寝ている間に人間の首が伸びる」と言う話は、江戸時代以降『武野俗談』『閑田耕筆』『夜窓鬼談』などの文献にたびたび登場する』。『これはもともと、ろくろ首(抜け首)の胴と頭は霊的な糸のようなもので繋がっているという伝承があり、石燕などがその糸を描いたのが、細長く伸びた首に見間違えられたからだとも言われる』。『『甲子夜話』に以下の話がある。ある女中がろくろ首と疑われ、女中の主が彼女の寝ている様子を確かめたところ、胸のあたりから次第に水蒸気のようなものが立ち昇り、それが濃くなるとともに頭部が消え、見る間に首が伸び上がった姿となった。驚いた主の気配に気づいたか、女中が寝返りを打つと、首は元通りになっていた。この女中は普段は顔が青白い以外は、普通の人間と何ら変わりなかったが、主は女中に暇を取らせた。彼女はどこもすぐに暇を出されるので、奉公先に縁がないとのことだった[やぶちゃん注:これは「甲子夜話卷之八」に載る「轆轤首の話」。]。この『甲子夜話』と、前述の『北窻瑣談』で体外に出た魂が首の形になったという話は、心霊科学でいうところのエクトプラズム(霊が体外に出て視覚化・実体化したもの)に類するものとの解釈もある』。『江戸後期の大衆作家・十返舎一九による読本『列国怪談聞書帖』では、ろくろ首は人間の業因によるものとされている。遠州で回信という僧が、およつという女と駆け落ちしたが、およつが病に倒れた上に旅の資金が尽きたために彼女を殺した。後に回信は還俗し、泊まった宿の娘と惹かれ合って枕をともにしたところ、娘の首が伸びて顔がおよつと化し、怨みつらみを述べた。回信は過去を悔い、娘の父にすべてを打ち明けた。すると父が言うには、かつて自分もある女を殺して金を奪い、その金を元手に宿を始めたが、後に産まれた娘は因果により生来のろくろ首となったとのことだった。回信は再び仏門に入っておよつの墓を建て、「ろくろ首の塚」として後に伝えられたという』。『ろくろ首を妖怪ではなく一種の異常体質の人間とする説もあり、伴蒿蹊による江戸時代の随筆『閑田耕筆』では、新吉原のある芸者の首が寝ている間に伸びたという話を挙げ、眠ることで心が緩むと首が伸びる体質だろうと述べている』。『文献のみならず口承でもろくろ首は語られており、岐阜県の明智町と岩村の間の旧街道に、ヘビが化けたろくろ首が現れたといわれている。長野県飯田市の越久保の口承では、人家にろくろ首が現れるといわれた』。『文化時代には、遊女が客と添い寝し、客の寝静まった頃合に、首をするすると伸ばして行燈の油を嘗めるといった怪談が流行し、ろくろ首はこうした女が化けたもの、または奇病として語られた。またこの頃には、ろくろ首は見世物小屋の出し物としても人気を博していた』。「諸方見聞録」によれば、文化七(一八一〇)年に『江戸の上野の見世物小屋に、実際に首の長い男性がろくろ首として評判を呼んでいたことが記されている』。『明治時代に入ってもろくろ首の話がある。明治初期に大阪府茨木市柴屋町の商家の夫婦が、娘の首が夜な夜な伸びる場面を目撃し、神仏にすがったが効果はなく、やがて町内の人々にも知られることとなり、いたたまれなくなってその地を転出し、消息を絶ったという』。日本国外の「類話」の項。『首が胴体から離れるタイプのろくろ首は、中国の妖怪「飛頭蛮」(ひとうばん、頭が胴体から離れて浮遊する妖怪)に由来するとも言われている。また、首の回りの筋という前述の特徴も中国の飛頭蛮と共通する。また同様に中国には「落頭」(らくとう)と言う妖怪も伝わっており、首が胴体からスポッと抜けて飛び回り、首が飛び回っている間は布団の中には胴体だけが残っている状態になる。三国時代の呉の将軍・朱桓(しゅかん)が雇った女中がこの落頭だったと言う話が伝わっている。耳を翼にして飛ぶと言う。また秦の頃には南方に「落頭民」(らくとうみん)と言われる部族民がおり、その人々は首だけを飛ばすことができたと言う』。『また東南アジアではボルネオ島に「ポンティ・アナ」、マレーシアに「ペナンガラン」という、頭部に臓物がついてくる形で体から抜け出て、浮遊するというものである伝承がある。また、南米のチョンチョンも、人間の頭だけが空を飛び回るという姿をしており、人の魂を吸い取るとされる』。『妖怪研究家・多田克己は、日本が室町時代から安土桃山時代にかけて南中国や東南アジアと貿易していた頃、これらの伝承が海外から日本へ伝来し、後に江戸時代に鎖国が行われたことから、日本独自の首の伸びる妖怪「ろくろ首」の伝承が生まれたものとみている。しかし、日本のもののように首が伸縮する事象は錯覚も含めてある程度考えられることなのに対し、海外のように首が胴から離れるということとはかけ離れているため、これら海外の伝承と日本の伝承との関連性を疑問視する声もある』。本邦では、『平将門の首は晒し者にされた後も腐らず毎晩恨み言を語り、自分の体を探し求め宙を飛んだという伝承があ』り、興味深い記載として「七尋女房」(七尋は約十二・六メートル)という首の長い妖怪が山陰にいるとする(後述する)。なお、これらの現象を科学的に検証するならば、『実際に首が伸びるのではなく、「本人が首が伸びたように感じる」、あるいは「他の人がその人の首が飛んでいるような幻覚を見る」という状況であったと考えると、いくつかの疾患の可能性が考えられる。例えば片頭痛発作には稀に体感幻覚という症状を合併することがあるが、これは自分の体やその一部が延びたり縮んだりするように感じるもので、例として良くルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』があげられる(不思議の国のアリス症候群)。この本の初版には、片頭痛持ちでもあったキャロル自らの挿絵で、首だけが異様に伸びたアリスの姿が描かれている(ただし後の版や、ディズニーのアニメでは体全体が大きくなっているように描かれている)。一方、ナルコレプシーに良く合併する入眠時幻覚では、患者は突然眠りに落ちると同時に鮮明な夢を見るが、このときに知人の首が浮遊しているような幻覚をみた人の例の報告があ』り、『夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』においては、登場人物の正木博士が「ロクロ首の怪談は、夢中遊行(睡眠時遊行症)状態の人間が夜間、無意識のうちに喉の渇きを癒すために何らかの液体を飲み、その跡を翌朝見つけた人間がそれをロクロ首の仕業であるとした所から生まれたものである」という説を立て』るシークエンスある。『酷使された末に腺病質となって痩せ衰えた遊女が、夜に灯油を嘗めている姿の影が首の長い人間に見え、ろくろ首の話のもとになったとする説もある』。最後にハーンが不思議がった「見世物(奇術)としてのろくろ首」の項がある。『内幕と等身大の人形(頭はない)を利用した奇術であり、現代の分類でいえば、人体マジックに当てはまるものである。ネタの内容は、内幕の前に着物を着せた人形を正座させ、作り物の長い首を、内幕の後ろで体を隠し、顔だけを出している女性の本物の首と、ひもで結ぶ。後は内幕の後ろで体を隠している女性が、立ったり、しゃがんだりすることによって、作り物の首を伸ばしたり、縮めたりして、あたかもろくろ首が実在するかのように見せる。明治時代の雑誌で、このネタばらしの解説と絵が描かれており』、十九世紀の『時点で行われていたことが分かる。当時は学者により、怪現象が科学的にあばかれることが盛んだった時期であり、ろくろ首のネタばらしも、そうした時代背景がある。大正時代においても寺社の祭礼や縁日での見世物小屋で同様の興行が行われ、人気を博していた』(下線やぶちゃん)。『海外の人体マジックでも似たものがあり、落ちた自分の頭を自分の両手でキャッチするものがある(こちらはデュラハン』(Dullahan, Durahan, Gan Ceann:アイルランドに伝わる首のない男の姿をした妖精(女性の姿という説もある)。「首なし騎士」とも呼ばれて「死を予言する者」或いは死神のように人間の魂を刈り獲るとしされる。ここはウィキの「デュラハン」に拠った)『の見世物として応用できる)ことから、同様の奇術が各国で応用的にアレンジされ、見世物として利用されたものとみられる。なお、飛頭系の妖怪も幻灯機を用いた奇術で説明がつけられる』とある。最後に記載の御当地の妖怪であるから、やはり、ウィキの「七尋女房」を引いておく。『七尋女房(ななひろにょうぼう、ななひろにょば、ななひろにょうば)または七尋女(ななひろおんな)、七丈女(ななたけおんな)は、島根県東部(出雲地方、隠岐地方)、鳥取県中西部(伯耆地方)に伝わる妖怪。名称の尋とは尺貫法における長さの単位であり、七尋女房はその名の通り身長または首が七尋』『もある巨大な女性の妖怪といわれ、土地によって様々な伝承がある』(下線やぶちゃん)。『隠岐諸島の中ノ島にある島根県隠岐郡海士町では、七尋女房が山道を行くものに様々な怪異をなしたといわれるが、織田信長の時代の以下のような伝説がある。ある男が馬に乗って道を行く途中、何者かが石を投げつけてきた。そこで刀を手にしてそちらへ向かうと、巨大な七尋女房が立ち塞がっていた。七尋女房は気味悪く笑ったかと思うと、川下で洗濯をしようとした。そこで男はやり過ごすと見せかけ、刀で斬りつけた。七尋女房は顔に傷を負って飛び上がり、そのまま石と化した。この男の子孫とされる海士町西地区の中畑という家では、その伝説にまつわる刀と馬具が家宝とされていたという。また、海士町日ノ津の山道にある奇石・女房ヶ石はこの七尋女房が石化したものといわれ』、高六メートル、幅三メートルもあり、しかも少しずつ大きくなっているとも言われている。『また海士町では七尋女房は七尋女婆(ななひろにょうば)とも呼ばれており、あるときに布施村に住む庄屋が馬に乗って石仏道を進んでいたところ、七尋女婆が髪を振り乱して現れたので、刀で斬りつけたところ七尋女婆は消え、そばにあった石仏の首がなくなっており、肩口に斬られた跡があったという』。『島根町(現・松江市)では、浜地区の境の山から海岸の島にまたがって七尋女房が現れ、長い髪を垂らし、黒い歯をむき出し、道を行く人に笑いかけたという』(下線やぶちゃん)。『安来市の七尋女房はたいへん美しく』、七尋もの『長い衣を引きずって物乞いをして歩いていたという。現在でも同市内の本田藪付近には乙御前の塚という塚があり、七尋女房にまつわるものといわれる』(これは狂女の雰囲気で妖怪的でない)。『また鳥取の七尋女房は東伯郡赤碕町(現・琴浦町)梅田に現れ、青白い顔に長い髪を垂らし、悲しそうな声で「小豆三升に米三合、御れい様には米がない」と歌いながら米を研いでいたという。小豆を研ぐ音をたてたという説もある』。『鳥取の州川崎では七尋女といい、桜の古木の下に、首が』七尋も『伸びる妖怪が現れたという。戦国時代の伝説によれば、おみさという女性がある男性と愛し合っていたが、彼には親が決めた婚約者がいたことから、それを悲嘆して日野川の淵に身を投げて蛇身の淵の主となった。しかし洪水で住処の淵が埋まったため、陸に上がってカシの木に姿を変えた。これが日野郡江府町にある県指定天然記念物・七色樫(なないろかし)で、七尋女の正体はこのおみさとも噂されたという』。『明治時代となっても七尋女房の話はあり、島根町立加賀小学校』(現在は廃校。松江市島根町に在った)『の前の川に遊びに行った子供の前に』身長一メートルほどの『女が現れ、「あはは」と笑ったかと思うと七尋女房と化したという』(下線やぶちゃん)。『類似した妖怪に長面妖女(ちょうめんようじょ)がある。江戸時代の奇談集『三州奇談』にあるもので、顔が』一丈(約三メートル)も『ある大女であり加賀国大聖寺(現・石川県加賀市)で津原徳斉という者が出遭ったという』とある。【追記】後に公開した「小泉八雲 ろくろ首 (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」を見られたい。
「ジン」「お仁」或いは「お甚」「お尋」か?
「劔の平(ひら)」サーベルの刀身の刃先や峰(棟)でない、左右の平たい部分。
「首は蝙蝠が飛ぶほど早く縮んで逃げたが、」原文は“It shrank away as swiftly as a bat flies,”。妙に気になるのは、この「縮む」である。実は平井呈一氏も、ここを『す早くサッと縮んで逃げたが、』と訳しておられるのだが、これらはおかしくないか? ここで首は明らかに胴体から離れて首だけ(正確には、胴体と首との間は、糸のようなもので繋がっている)が飛んでいる(そういう意味では、ハーンの「ろくろ首」のような、中国風の「飛頭蛮」(ひとうばん)である)にも拘わらず、何故、「縮む」、であるのか? 確かに“shrank away”の、shraink (音写「シュリィンク」)は「縮む」である。しかし、ここは寧ろ、辞書にある、「怯(ひる)む」がよくはないか? 「怯(ひる)んで退(しりぞ)いた」とするべきではないか? ジンのデッチアゲに騙されたのは巡査ばかりではなかった、訳者たちもそうだった、のではなかったか? 大方の御批判を俟つものではある。
「全るで」「まるで」。
「縣知事」「第七章 神國の首都――松江(四)」に出た元平戸藩士島根「縣知事籠手田安定」(こてだ やすさだ 天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)である。明治一八(一八八五)年九月四日に島根県令となっている(翌明治十九年七月十九日に「県令」から「知事」に呼称が変更された)。島根県知事の退任は明治二四(一八九一)年四月九日であるから、まず彼の可能性しかあり得ないと言い得るのである(因みに、ハーンは、この明治二十四年十一月で松江を離れて熊本に移っていることを言い添えておく。彼でないとしたら、次代の県令篠崎五郎しかいないが、たった七ヶ月の間で、ここに記されたような過去の経緯を想定することは根本的に無理だと私は思うからである。但し、ハーンは、しばしば、熊本での体験を元に、ロケーションを出雲に移して操作(創作)している事実はあることはある)。
「亞米利加の所謂『旅興行の附屬(つけたり)の觀物(みせもの)』」原文を見ればお分かりの通り、所謂、妖しく猟奇的にして扇情的な、身体障碍者の見せ物をも含んだ「サイド・ショー」(但し、こちらは「サイド」で、サーカスの前座的役割を担った)である。日本の場合は所謂、縁日の「見世物小屋」である。ウィキの「見世物小屋」によれば、『珍奇さや禍々しさ、猥雑さを売りにして、日常では見られない品や芸、獣や人間を見せる小屋掛けの興行で』、そのルーツは「散楽」と『いわれるものでバラエティに富む内容であった。そこから猿楽(能)が独立した存在となり、歌舞伎も江戸初期に別種の存在となると、これらの芸能からは見世物的毒気が抜けていった。江戸時代の頃には、今で言うところのサーカスや美術館、動物園、パフォーマーなどの要素を含んでいた』。『さらに各演目が独立してゆき、また文明開化により撃剣、パノラマ、迷路、蝋管レコード屋、電気仕掛け→初期の映画などの新たな要素を取り込みながら、明治時代以後に今の形態の見世物小屋に近づいていく。』昭和三〇(一九五五)年頃までは、『寺社のお祭や縁日に小規模な露店と共に、見世物小屋も盛んに興行されていた』。「『〜お代は見てからで結構だよ。さあさあさあさあ入って入って、間もなく始まるよ〜」といった、業界内で「タンカ」と呼ばれる呼び込み口上があり、一種の風物詩として、見世物小屋が盛んだった時代を描くドラマなどにも登場する。見世物小屋は香具師の』一ジャンルであった「タカモノ」(興行物)『でもあり、同様に「藪」と呼ばれるお化け屋敷の興行もタカモノ打ちのバリエーションとして打たれた』。『現在では、興行場所を確保しづらい、風俗の変化により世間が許容しない等の理由で、大きく衰退し』、『このジャンルを興行するものは現状で大寅興行社』一社のみとなり、『もはや風前の灯とも言われる』。『奇形の子供や性行為を覗き穴で見せるなど、文字通り何でも見世物にした。倉田喜弘によると、横浜で『ジャパン・ヘラルド』の主筆を務めたブラック(快楽亭ブラックの父)が』明治五(一八七二)年に『皇居近くの神田橋周辺にあったむしろがけの小屋で「ウサギの死体を食いちぎる子供」なる見世物を見たこと』を契機(これを報道したということであろう)として同年十一月八日に『東京府が「違式詿違条例」(今の軽犯罪法にあたる)を布達』、また、東京においては明治二四(一八九一)年十月三日の『警察令第一五号「観物場取締規則」により、興行場所を浅草公園六区(浅草奥山のすぐ隣りの地区)の一箇所にまとめられた。地方においては巡業形態が続いた。時には、誘拐された子供が人身売買で、足の筋を切られた被虐的な道化役や、見世物として覗き穴の娼婦にするために売り飛ばされてきた例もあったという。社会福祉が発達していなかった頃には、身体障害者が金銭を得る為の仕事であり生活手段の一つでもあった(中村久子など)』。昭和五十年代(一九七五~一九八四)以後には、『身体障害者を舞台に出演させて見世物とする事などに対して取締りが行なわれるようになった』(この最後の箇所には出典要請がかけられてはある)。『見世物の演目として珍獣を見せることも行なわれた。珍獣の見世物は江戸時代、寛永年間』(一六二四年~一六四四年) 『ころに猪、孔雀を見せたのが最初であると言われている。虎や狼、鶴、鸚鵡などに曲芸をさせることは、寛文年間』(一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世)『ころからあった』。「生類憐れみの令」『によって』、『一時は』、『この種の見世物が下火になったが』、享保二(一七一七)年に『禁が解かれると』、『再び』、『流行した。以後、八頭八足の牛、三本足雞といった奇形の動物、獏や鯨、ガラン鳥、インコ、雷獣、山嵐、駝鳥、水豹、白牛といった輸入動物の見世物もあった』。文政四(一八二一)年の『駱駝の登場は大変な人気を博し、梁川星巌はそれを見て作詩し、その詩が文人間で愛唱され、その意味で、夫婦が一緒に歩くことを「駱駝」と言うようになったことは頼山陽の書簡に見られる。珍獣の展示は浅草の花屋敷で常設化され、今の動物園につながっていく』。『天保年間には豹、白狸、六足犬、岩獅子、火喰鳥などの見世物もあった』。『この他、大きな板に血糊を付けた物を大イタチ』、『大きな穴に子供を入れて大穴子と称する駄洒落や、猿、犬、鯉などの遺体を組み合わせて作り上げたものを、鬼や河童、龍、人魚など伝説の生物のミイラとして見せることもしていた。これらは常設化され秘宝館とな』った、とある。
「蜉蝣的」「ふいうてき(ふゆうてき)」と音読みしておく。蜉蝣(かげろふ(かげろう))が朝に生まれ夕べに死ぬとされたことから(多くは数日から一週間ほどであるが、数時間の種もいる)人生などの果敢ないことを喩える。かく普通に一般人が用いた場合の「カゲロウ」とは、真正の「カゲロウ」類である、 有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「カゲロウ」である、有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類及び、脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類を加えたものを指す。この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は、私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい。
「鱶」老婆心乍ら、「ふか」と読む。ここは一般的な「鮫」の意で用いている。
「猩々」これは今や原文の方が分かり易い。“orangoutang”。現在のオランウータンのこと。現在の哺乳綱サル目ヒト上科ヒト科オランウータン亜科オランウータン属Pongo に分類される、
スマトラオランウータン Pongo abelii
ボルネオオランウータン Pongo pygmaeus
の二種を指す。約一三〇〇万年前にヒト亜科とオランウータン亜科が分岐したと考えられている。以前はオランウータン一種から構成され、基亜種ボルネオオランウータンと亜種スマトラオランウータンとの二亜種に分かれていたが、両者は遺伝的・形態的・生態的に異なる点が多く、飼育下では交雑が可能であるものの、雑種個体は純血個体に比べて寿命が短く、幼児死亡率が高いことが報告されていることから、現在では別種とするのが適当と考えられている。属名Pongo は、十六世紀にアフリカ大陸で発見された人のような怪物(ゴリラもしくは原住民と考えられているもののコンゴ語)に由来し、また、オランウータンという名はマレー語で「森の人」の意。元来は海岸部の人が奥地に住む住民を指す語だったが、ヨーロッパ人によって本種を指す語と誤解されたことに由来するという(以上は主にウィキの「オランウータン」に拠った)。
「袋鼠」同前。“kangaroo”。哺乳綱獣亜綱後獣下綱有有袋上目カンガルー目カンガルー形亜目カンガルー上科カンガルー科 Macropodidae に属するカンガルー類。なお、注意しなくてはいけないのは、現行で「フクロネズミ」と和名するのはカンガルーではなく、同じ袋上目に属するオポッサム目オポッサム科 Didelphidae のオポッサム類だということである。而して寧ろ、オポッサムの方が巨大な鼠と呼ぶに相応しいことも付け加えておこう。
「二呎」六〇・九六センチメートル。]
Ⅴ.
The family kamiyui, O-Koto-San, the most skilful of her craft in Izumo, is a little woman of about thirty, still quite attractive. About her neck there are three soft pretty lines, forming what connoisseurs of beauty term 'the necklace of Venus.' This is a rare charm; but it once nearly proved the ruin of Koto. The story is a curious one.
Koto had a rival at the beginning of her professional career,―a woman of considerable skill as a coiffeuse, but of malignant disposition, named Jin. Jin gradually lost all her respectable custom, and little Koto became the fashionable hairdresser. But her old rival, filled with jealous hate, invented a wicked story about Koto, and the story found root in the rich soil of old Izumo superstition, and grew fantastically. The idea of it had been suggested to Jin's cunning mind by those three soft lines about Koto's neck. She declared that Koto had a 'NUKE-KUBI. '
What is a nuke-kubi? 'Kubi' signifies either the neck or head. 'Nukeru' means to creep, to skulk, to prowl, to slip away stealthily. To have a nuke-kubi is to have a head that detaches itself from the body, and prowls about at night―by itself.
Koto has been twice married, and her second match was a happy one. But her first husband caused her much trouble, and ran away from her at last, in company with some worthless woman. Nothing was ever heard of him afterward,―so that Jin thought it quite safe to invent a nightmare- story to account for his disappearance. She said that he abandoned Koto because, on awaking one night, he saw his young wife's head rise from the pillow, and her neck lengthen like a great white serpent, while the rest of her body remained motionless. He saw the head, supported by the ever-lengthening neck, enter the farther apartment and drink all the oil in the lamps, and then return to the pillow slowly,―the neck simultaneously contracting. 'Then he rose up and fled away from the house in great fear,' said Jin.
As one story begets another, all sorts of queer rumours soon began to circulate about poor Koto. There was a tale that some police-officer, late at night, saw a woman's head without a body, nibbling fruit from a tree overhanging some garden-wall; and that, knowing it to be a nuke-kubi, he struck it with the flat of his sword. It shrank away as swiftly as a bat flies, but not before he had been able to recognize the face of the kamiyui. 'Oh! it is quite true!' declared Jin, the morning after the alleged occurrence; 'and if you don't believe it, send word to Koto that you want to see her. She can't go out: her face is all swelled up.' Now the last statement was fact,―for Koto had a very severe toothache at that time,―and the fact helped the falsehood. And the story found its way to the local newspaper, which published it―only as a strange example of popular credulity; and Jin said, 'Am I a teller of the truth? See, the paper has printed it!'
Wherefore crowds of curious people gathered before Koto's little house, and made her life such a burden to her that her husband had to watch her constantly to keep her from killing herself. Fortunately she had good friends in the family of the Governor, where she had been employed for years as coiffeuse; and the Governor, hearing of the wickedness, wrote a public denunciation of it, and set his name to it, and printed it. Now the people of Matsue reverenced their old samurai Governor as if he were a god, and believed his least word; and seeing what he had written, they became ashamed, and also denounced the lie and the liar; and the little hairdresser soon became more prosperous than before through popular sympathy.
Some of the most extraordinary beliefs of old days are kept alive in Izumo and elsewhere by what are called in America travelling side- shows'; and the inexperienced foreigner could never imagine the possibilities of a Japanese side-show. On certain great holidays the showmen make their appearance, put up their ephemeral theatres of rush- matting and bamboos in some temple court, surfeit expectation by the most incredible surprises, and then vanish as suddenly as they came. The Skeleton of a Devil, the Claws of a Goblin, and 'a Rat as large as a sheep,' were some of the least extraordinary displays which I saw. The Goblin's Claws were remarkably fine shark's teeth; the Devil's Skeleton had belonged to an orangoutang,―all except the horns ingeniously attached to the skull; and the wondrous Rat I discovered to be a tame kangaroo. What I could not fully understand was the exhibition of a nuke-kubi, in which a young woman stretched her neck, apparently, to a length of about two feet, making ghastly faces during the performance.
四
出雲の髮結(クワフユズ)が行(や)る髮の結び方は十四種を下らぬ。が、首府では、また東部日本の大都會の或る物では、屹度この術はもつと精巧に發達して居る。理髮者(カミユヒ)は、一定の日に或る定まつた時刻に、その依賴者を訪れて、一軒々々商賣をして步く。七歲から八歲までの小さな女の子の髮は松江では、ただ『垂れ髮』にして置くので無いなら、普通は『オタバコボン』と呼ぶ樣式に結ふ。オタバコボン(『御煙草盆』型)では、髭をぐるり四吋許りの長さに切つて、額の上の處だけも少し短く剪み切る。そして頭の上は髮を延ばさせて、それを束ねて此髷の妙な名を如何にもと肯がしめる、一種特別な恰好の髷にする。女の子が女子小學校へ通ふほどの年齡になると、直ぐとその髮は『カツラシタ』とふ可愛らしい單簡な樣式に結ふか、或は恐らくは、寄宿學校の規定の樣式となつて居る、『ソクハツ』と呼ぶ新規な醜い半洋風の『束ね型』かに結ぶ。貧乏人の娘は、中產階級の娘も大多數はさうであるが、その小學校時代は寧ろ短い。その勉學は結婚の出來る四五年前に終るのが普通で、しかも日本では娘は餘程早く結婚する。處女の初めての精巧な髷は、早くて十歲或は十五歲に達した時、初めて結ふ。十二歲から十四歲までは、その髮は『オモヒヅキ』と呼ぶ樣式に結ふ。それから型を『ヂヨラウワゲ』と呼ぶ美くしい髷に變へる。この型には、複雜の度を異にした、種々な形がある。二年過ぎると、ヂヨラウワゲは止されて今度は『シンテフテフ』【註】(『新蝶々』型か又は『シマダ』又の名『タカワゲ』かになる。
註。シンテフテフは年いつた人は
『イテフガヘシ』とも呼ぶ。尤も原
のイテフガヘシは少小異つて居る。
サムラヒの娘は本當のイテフガヘシ
風に、その髮を結つたものである。
その名はイテフの木(學名サリスビ
ユリア・アンデイアンテイフオオリ
ア)から出たもので、その葉は家鴨
の足の形に能く似た、妙な形をして
居る。この結髮をした時の髮の、或
る束(たばね)が銀杏の葉に形が似
て居たのである。
シンテフテフ型は普通な型で、種々な年齡の女が結ふもので、大して上品とは考ヘられて居ないものである。シマダは、これは非常に精巧なもので、上品である。が、その家族が良い身分の人であればあるほど、この髷が小さい。ゲイシヤとヂヨラウとがその大きくて高い種類の、正しく『タカワゲ』即ち『高髷』といふその名に應ずるのを結ふ。十八歲と二十歲との間に處女は、まだこの樣式を『テンジンガヘシ』といふ別な樣式に取換へ、二十歲と二十四歲との間に『ミツワゲ』」卽ち環の三つある『三つ髷』と呼ぶ樣式を用ひ、そしてそれと稍々似ては居るが一層複雜な『ミツワクヅシ』といふ髷を二十五から二十八までの若い女が結ふ。その年齡までは髮を結ふ樣式の變化は、一度々々精巧と複雜の方向にあるのである。が、二十八以後は日本の女は、もはや若いとは考へられぬ。で、その後はただ一種の髷があるだけである、――卽ち年のいつた女が用ふる、どちらかと云ヘば醜い『モチリワゲ』或は『ボバイ』である。
が、結婚する娘は前記の何れとも全く異つた樣式に髮を結ふ。あらゆる樣式のうちで一番美しい、一番精巧な一番金の掛かるのは、文字通りでは『花嫁』といふ意味の語の『ハナヨメ』と呼ぶ、新婦の髷である。その構造はその構造(つくり)はその名の如くに優美なもので、藝術的に鑑賞するやうに眺めなければならぬ。その後、人妻は『クメサ』若しくは『マルワゲ』別名『カツヤマ』と呼ぶ樣式に髮を結ふ。クメサは上品では無い、そして貧乏人の髷である。マルワ卽ちカツヤマは高尙である。前にはサムラヒの女は、特殊な二通りの型にその髮を結つた。處女の髮は銀杏返しで、結婚後の女のは片外づしであつた。今でも松江では片外づし髷を少しは見ることが出來る。
[やぶちゃん注:「出雲の髮結(クワフユズ)が行(や)る髮の結び方は十四種を下らぬ」上村松園の随筆「髷」には、『髷の名称も時代によって、その呼びかたがいろいろと変っているが、明治の初期あたりから、明治の末期まで結われたものの名前だけでも、たいへんな種類があり、それが関東と関西では、また別々であるので、髷の名称ほど種々雑多なものはない』と前置きして、多くの名称が挙げられている(引用は青空文庫版を用いた。二段落目の後の一行空けはママ。初出は記されおらず、ネット検索でも不明であるが、これを含む随筆集「青眉抄 青眉抄その後」の刊行は戦後であるが、この中の松園の印象の一部は戦前の明治末期から大正の頃当時の彼女の感懐も強く影響を与えているように私には思われる)。
《引用開始》
結綿、割唐子、めおと髷、唐人髷、蝶々、文金高島田、島田崩し、投島田、奴島田、天神ふくら雀、おたらい、銀杏返し、長船、おばこ、兵庫、勝山丸髷、三つ輪、芸妓結、茶筌、達磨返し、しゃこ、切髪、芸子髷、かつら下、久米三髷、新橋形丸髷。
これは関東――といっても主に東京での髷であるが、関西になると、髷の名前ひとつにしても、いかにも関西らしい味をみせた名前をつけている。
ところで関西といっても京都と大阪とでは名前がころりと変っている。
大阪には大阪らしい名前、京都には京都らしい呼び名をつけているところに、その都市都市の好みがうかがえて面白い。
達磨返し、しゃこ結び、世帯おぼこ、三ツ葉蝶、新蝶大形鹿子、新蝶流形、新蝶平形、じれった結び、三ツ髷、束ね鴨脚、櫛巻、鹿子、娘島田、町方丸髷、賠蝶流形、賠蝶丸形、竹の節。
大阪人のつけそうな名前である。「じれった結び」とか、「世帯おぼこ」などというのは如何にも気のせかせかした、また世帯というものに重きを置いている都会生活者のつけそうな名前で、髷の形を知らぬものでも名前をきいただけで、その形が目に浮かんで来るようである。
京都へくると、また京都らしい情緒をその名称の中にたたえていて嬉しい。
丸髷、つぶし島田、先筓、勝山、両手、蝶々、三ツ輪、ふく髷、かけ下し、切天神、割しのぶ、割鹿子、唐団扇、結綿、鹿子天神、四ツ目崩し、松葉蝶々、あきさ、桃割れ、立兵庫、横兵庫、おしどり(雄)と(めす)とあり、まったく賑やかなことであって、いちいち名前を覚えるだけでも、大変な苦労である。
そのほかに、派生的に生まれたものに次のようなものがある。これは、どこの髷ということなしに各都市それぞれに結われているものだ。
立花崩し、裏銀杏、芝雀、夕顔、皿輪、よこがい、かぶせ、阿弥陀、両輪崩し、ウンテレガン、天保山、いびし、浦島、猫の耳、しぶのう、かせ兵庫、うしろ勝山、大吉、ねじ梅、手鞠、数奇屋、思いづき、とんとん、錦祥女、チャンポン、ひっこき、稲本髷、いぼじり巻、すきばい、すき蝶など……
よくもこれだけの名前をつけられたものだと思う。
《引用終了》
なお、松園はここではパーマ(電髪)についても語っており、『結婚前も結婚後も、雀の巣のようにもじゃもじゃした電気のあとをみせている。「簡単」どころか髪をちぢらすのには種々の道具がいる。せっかくふさふさとしたよい黒髪をもって生まれながら、わざわざ長い時間をかけてその黒髪をちぢらしている。私なぞの櫛巻は一週間に一度三十分あれば結える、そして毎朝五分間で髪をなでつけ身仕度が出来る簡単さとくらべれば、わざわざ髪をちぢらすのにかける時間の空費は実にもったいないことである。私にはどういう次第か、あの電髪というものがぴんとこない』。『パーマネントの美人(私はパーマネントには美は感じないのであるが)は、いくら絶世であっても、私の美人画の材料にはならないのである』。『あれを描く気になれないのは、どうしたわけであろうか?』『やはり、そこに日本美というものがすこしもない故であろうか』と、ハーンが読んだら激しく共感する内容が記されており、その他の批評部分(例えば、先のパーマの引用の直前の、『近来は女性の髷もいちじるしい変化をみせて来て、むかしのように髷の形で、あの人は夫人であるか令嬢であるかの見別けがつかなくなった』。『いまの女性は、つとめてそういったことをきらって、殊更に花嫁時に花嫁らしい髪をよそおうのを逃げているようである』。『夫人かとみれば令嬢のごときところもあり、令嬢かとみれば夫人らしきところもあり……というのが、今の花嫁である』。(中略)『以前は若い女性は結婚というものを大きな夢に考えて憧れていたから、花嫁になると、すぐにその髪を結って』、『「私は幸福な新妻でございます」』『と、その髪の形に無言の悦びを結びつけてふいちょうしてあるいたのであるが、今の女性は社会の状態につれて、そのようなことを愉しんでいるひまがなくなったのででもあろうか、つとめてそういったことを示さぬようになって来た』などという見解も、実に痛快で、面白い。
「垂れ髮」結い上げずに肩の辺りまで垂れ下げた髪形。おかっぱ。振り分け髪。
「オタバコボン」「御煙草盆」ウィキの「おたばこぼん」から引く。『明治初年ごろから登場した幼女』(二、三歳ぐらい)からの髪形。『結うのに手軽で、見た目も可憐なことから町人層を中心に広く結われた』。『日本髪の中でもごく幼い少女に結うこともあって必要な髪の長さは短く、現在のセミロング程度である』。『まず髪を左右に分け、側頭部の高い位置で仮止めする』。『左右で仮止めした髪を頭頂部で結び合わせて髷にし、余った部分を横に合わせた髪に巻く、このときの見た目が煙草盆の持ち手に滑り止めで籐を巻いてある様子に似ることから「お煙草盆」の名前がついた』。『最後に鹿の子絞りの少女向けの手絡』(てがら:髷に巻きつけるなどして飾る布のことを指す。古くは「髷かけ」とも称した)『で真ん中を包んで仕上げ、完成する』とある。
「四吋」一〇・一六センチメートル。
「剪み切る」「はさみきる」。
「肯がしめる」「うけがしめる」。尤もであると思せる。同意させる。
「カツラシタ」「鬘下」とすれば「鬘下地(かずらしたじ)」のことか。辞書によれば、「銀杏返し」を極めて低く結った髪形。「楽屋銀杏(がくいちょう)」とも呼ぶ。
「ソクハツ」「束髮」。ウィキの「束髪」によれば、『西洋婦人の髪形を真似て、明治ごろ「鹿鳴館時代」と呼ばれた時期に上流階級の女性の間に登場した髷の一群』。『いわゆる「ア・ラ・ポンパドゥール」という王制フランスの宮廷で起こった流行の中で誕生した髪形を真似たものであり、その影響で前髪を高く膨らませる形が発展して大正ごろ髪全体がターバンでもかぶったように膨らんで見える「庇髪(ひさしがみ)」へと変遷していった』。明治三十年代(一八九七年~一九〇六年)頃に『女優の川上貞奴が始めてから、大正の初めにかけて流行し、女学生が多く用いたことから、庇髪は女学生の異称ともなった』。同ウィキには珍しく「束髪は「文化的」か」という項がある。ハーンはこの髪型を「新規な醜い半洋風の」ものと酷評しているので、ここも引いておく。『明治十八年に、従来の結髪に油を大量に使う日本髪が衛生上問題があり、不経済かつ不便で文化的ではないとして医師の渡部鼎らが「日本婦人束髪会」を設立。束髪普及のために配布したパンフレットによって全国に普及したが、流行の常として結い方が複雑化するうちに整髪料を多用したり長い間髪形が崩れるのを嫌って洗髪をしないことが多くなりかえって衛生上に問題が起こった』。『昭和に入るとそのような西洋偏重の傾向に疑問が持たれ、大量の整髪料を使わず簡単に結える「新日本髪」が発明され一種の復興運動が起こった。日本画の巨匠の』一人で『美人画に非凡な才能を発揮した上村松園はとくに日本髪の美を愛し、「耳隠し」「行方不明」などの束髪に使われる皮膚に危険な薬品や焼き鏝で髪を縮らせるパーマネントに疑問を投げかけている』とあるのは、まさに私が最初に引用した随筆「髷」のことである。
「オモヒヅキ」原文は“Omoyedzuki”で「おもゅえづき」である。平井呈一氏は『おもいざし』と訳しておられるが、種々の語や漢字表記で検索を試みたが、「おもいづき」も「おもいざし」も日本髪の髪型としては、ヒットしない。先のあれだけの松園の列挙中にも似たものがない。年齢順から見ると、髷を二つの輪に結い上げた、如何にも可憐な感じのする「稚児髷」(ちごまげ)のようなものか? 識者の御教授を乞う。
「ヂヨラウワゲ」「女郞髷」。これも年齢順から推すと、所謂、島田髷の変形で、「結綿(ゆいわた)」と呼ばれるものの一種か? ウィキの「結綿」から引く。『江戸時代後期の未婚女性の髪形』で、『「つぶし島田」という髷の根の低い島田髷の一種に手絡をかけたもの』。『名前は真綿束ねたもの(結綿)に似ることから。現在でも二月の節分行事「おばけ」(一種の仮装行列)で京都の舞妓たちが結い変える人気の髷のひとつでもある』。『島田の髷を結わえる元結の上に赤い鹿の子の手絡を結びつけ、平打ち簪や花簪、飾り櫛などで少女らしく華やかに装う』。『島田髷の基本とはそう大きく変わら』ず、『まず前髪をふっくらと、心持ち張り出しながら布紐でまとめて後ろにやる。 鬢は自然に丸みを帯びて張り出させ(舞妓の場合は町娘より大きく張り出す)後ろ髪を後頭部で高く一つ括りにし、前に一度折り返す』『(このとき髷の根を高く上げると、仰々しい武家風の髷になるので「つぶし島田」といって町人は低くとる方が粋。)』。『そのままもう一度後ろに折り返して元結をかけ、手絡を上からくくりつける。「たぼ」は張り出さずに自然にまとめる。 全体的にやわらかい丸みを帯びた、いかにも京の町娘らしいかわいらしい印象の髷になる』とある。
「シンテフテフ」「新蝶々」「シンテフテフは年いつた人は『イテフガヘシ』とも呼ぶ。尤も原のイテフガヘシに少小異つて居る」「イテフガヘシ」は「銀杏返し」。「シンテフテフ」はこの後、注も含めて三度出るが、原文は“shinjōchō”で忠実に音写するなら「しんぢょーちょー」であるが、平井氏も『しんちょうちょ』と濁らない。ウィキの「銀杏返し」には、『幕末ごろ』、『十代前半から二十代未満ぐらいの少女に結われた髷で、芸者や娘義太夫にも結われるようになり』、『明治以降三十代以上の女性にも結われるようになった。京都では蝶々髷と呼ぶ』(下線やぶちゃん)。呼称は『銀杏髷を分けて折り返し、輪を』二つ作ったことに基づき、「布天神(ぬのてんじん)」「切り天神」「桃割れ」や「唐人髷(とうじんまげ)」・「楽屋銀杏(がくやいちょう)」も「銀杏返し」の一種である、とする(この中に本篇の髪型の不詳不審なものが含まれている感じがしないでもない)。「銀杏返し」は『髪を一つに括った根元から二つに分けてそれぞれ輪にして∞型にし、余った毛先を根元に巻き収めて「根掛け」(髷の根に巻く髪飾り)を掛けて髷の根元に根挿しの簪を挿す』のが基本形で、『芸者など粋筋の女性は髷の後ろを下がり気味に、一方堅気の若妻などは上がり気味に結い、若い娘(特に娘義太夫の芸人はかなり大きい)は髷の輪を大きく、年をとると小さく結う』。『髷の中に鹿の子を巻き込んだものが「唐人髷」、さらに髷の上部をくっつけたものが「桃割れ」になり、布を髷の上下に縦に掛けて根元で水引などでとめるのを「布天神」、この髷の片方の輪を略して付け毛をつけて切ってしまったように見せかけるのが「切り天神」と呼ばれる。(前の二つは少女、あとの二つは粋筋に結われた)』。『さらにこの銀杏返しを丸髷と組み合わせたものが、三輪髷、さらに丸髷よりの長船(前のは妾、後のは武家の側室に結われた)がある』。『また、貝髷と合成したものは貝蝶々(天神髷)と呼ばれる』とある。これはまさに「新」と被せるから、まさにハーンが述べるように、本来の「銀杏返し」=京の「蝶々髷」を、変形させた髪型と考えられる。
「『シマダ』又の名『タカワゲ』」「島田」。後者の名称は、後の本文で「高髷」と表記されている。ウィキの「島田髷」から引く。『島田髷(しまだまげ)は、日本髪において最も一般的な女髷。特に未婚女性や花柳界の女性が多く結った』。『基本形は髻を折り返して元結で止めるだけのシンプルなものだが、非常に人気があってさまざまな派生の髪形ができた』。『派生形に高島田(さらにこれの派生が文金高島田と言い神前結婚式では普通この髪型で挙式)、娘島田、奴島田(町人の島田だが根の高いもの)、つぶし島田、投げ島田、芸者島田、京風島田、銀杏崩し、水車髷、おしどりなどがある』。『名前の由来には東海道五十三次のひとつ島田宿(現在の静岡県島田市にあった宿場)の女郎に由来すると言うもの、寛永年間』(一六二四年~一六四三年)『の女形島田万吉・花吉・甚吉の舞台での扮装に由来すると言うものなど諸説あるが、島田宿説が現在の通説』とされる。『島田と同じ折り返す形の髷は古墳時代の女性埴輪にも見られ、便宜上この「古墳島田」も島田髷に分類することがある。ただしこれは根が極端に低く(と言うよりは当時は髷の根という概念自体なかったと思われる)折り返し部分を扇のように広げるもので一般的な島田とはまったく異系のものである』。『本格的な「島田髷」の登場はそれから千年近くあとの江戸時代初期を待つ。島田髷の原型は「若衆髷」(未成年男子の髪型)で、子供の髷から男髷への過渡期にある男性の髷であるから前髪を残して月代を狭く剃り、髷は水平で太いものであった。その髪型を遊女が取り入れ女性向けに改良して結ったものが「島田髷」の出発点で今で言う所の元禄島田である。これはたちまち大流行して、貴賎を問わず娘たちがこぞって結うようになりその中で地域や身分、職業や個人の趣味が反映されてさまざまに派生した』。『普通武家の娘ならば「高島田」といって髷の根が高い端正な印象の髷を結う。この派生の中でもっとも根が高い形を、同時期に流行した極端に髷の根が高い男髷「辰松風(文金風とも)」にちなんで「辰松島田」と呼び、後に「文金高島田」と呼ぶようになる』。『遊女や芸者なら「投げ島田」や「つぶし島田」、「くるわつぶし」など根がずっと低い髷も平たいものを結う。「投げ島田」は髻の根を後ろにかなり下げたもので髷が後ろに投げ出されたように見えるもの。「つぶし島田」は髷の中央がつぶしたようにへこんでいるものをいう。どちらも婀娜っぽい妖艶な印象の髷である』とある。
「イテフの木(學名サリスビユリア・アンデイアンテイフオオリア)」学名原文は“ Salisburia andiantifolia ”(サリスビュリア・アンディアンティフォリア)。裸子植物門イチョウ綱イチョウ目イチョウ科イチョウ属イチョウ Ginkgo biloba(ギンコ・ビローバ)のシノニムである。ウィキの「イチョウ」の「名称」には、ハーンが「その葉は家鴨の足の形に能く似」ていると述べたその通りに、『中国語で、葉の形をアヒルの足に見立てて中国語』では「鴨脚」(yājiǎo :イアチァオ)と『呼ぶので、そこから転じたとする説があるが、定かではない』。『果実や種子は銀杏(ギンナン)と呼ばれるが、これは中国の本草学図書である』「紹興本草」(一一五九年)や「日用本草」・「本草綱目」に記載されている銀杏(唐音の『ギン・アン』)に『由来すると見られる』。『一方、イチョウ綱が既に絶滅していたヨーロッパでは、日本誌の著者エンゲルベルト・ケンペルの』“ Amoenitatum exoticarum ”(「廻国奇観」一七一二年)『で初めて植物学的な記述で紹介されたが、ケンペルが Ginkjo,Itsjo(ギンキョー、イチョー)と筆記した草稿がGinkgo, Itsjoと誤植されたため、カール・フォン・リンネは著書』‘ Mantissa plantarum II ’(「植物補遺」一七七一年)で『イチョウの属名を Ginkgo とした。 このほか、ゲーテも』‘ West-östlicher Divan ’(「西東詩集」一八一九年)で 『 Ginkgo の名を用いて』しまっている、とある。また、『 Ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りで、しばしば gingko と誤記されている。植物命名規則に依れば、誤植ならば訂正して、Ginkjo または Ginkyo 』とすべきとされたが、現行でも訂正がなされていないものが殆んどであるらしい。『種小名 biloba はラテン語による造語で』、「二つの裂片(two lobes)」の意味で』、『葉が大きく二列する点を指したもの』とある。『英語ではmaidenhair treeともいう。これは「娘(maiden)の毛の木」の意味で、葉の形が女性の陰毛が生えた部分を前から見た形(葉柄は太ももの合わせ目)に似ているための名であるが、「木の全体が女性の髪形に似ているため」と美化した説明もなされる』とある。
「ゲイシヤ」「藝者」。
「ヂヨラウ」「女郞」。
「テンジンガヘシ」「天神返し」。銀杏返しに残しておいた毛束を捻って被せたもの。これに布を懸けて天辺で簪でとめたものを「布天神」、布の代わりに「鹿の子」を掛けているものを「鹿の子天神」などと呼ぶと言う。
「『ミツワゲ』」卽ち環の三つある『三つ髷』」「三つ輪髷(みつわまげ)」或は「三ツ輪」のこと。髻(もとどり)の末を三つに分けて左右に輪を作り(「銀杏返し」にする)、他の一つを中央でループにして正面に倒し結んだもので、「銀杏返し」に「丸髷」をつけて結った形、とも表現されてある。江戸期には女師匠や妾(めかけ)などが好んだ髪型であるとある。
「ミツワクヅシ」先の「三ツ輪」の変形で、三ツ輪の中央部分の結髪を細くした形で、現行でも二十代女性の日本髪とする。
「モチリワゲ」確かに原文は“mochiriwage”であるが、これは「捩り髷」(もじりわげ)ではあるまいか? 但し、「捩り髷(もじりわげ)」という髪型を知っている訳ではない。識者の御教授を乞う。
「ボバイ」「ぼ」は不明だが、これは「貝髷(ばいまげ)」の一種ではなかろうか? ウィキの「貝髷」によれば、『貝髷(ばいまげ)とは髷を巻貝のように形作った女性の髪形。別名お梶(おかじ)』。『貝髷は江戸時代の初期に遊郭で考案された髪型で、簪を芯に髪を巻貝状に巻いて髷にする変わった結い方をする髪型』で、『図画資料によると、江戸時代前期には後ろにのめるように斜めに髷を作るようになったのだが、中期に再びまっすぐに作るように戻った』。『女性の路上芸人がよく結ったため、髪が土埃をかぶるのを防ぐ目的で手拭や水木帽子などの被り物と併用することが多い』とあり、さらに「外部リンク」に『貝髷の鬘』と『ばい髷風に巻き上げた女性』―『江戸後期から明治時代にかけて結われていた梳き髪を高く巻き上げた明治後期の変形』とあり、特に後者はまさに本篇と共時的であり、必見!(なお、平井氏はこれを何故か『ぼだい』と訳しておられるが、「ぼだい」は直ちに「菩提」を連想させる。「天神」とか「阿弥陀」とかあるわけだから、あっても不思議ではないが、管見する限りでは「ぼだい」は見出せない。不審)。
「『花嫁』といふ意味の語の『ハナヨメ』と呼ぶ、新婦の髷」「文金高島田」のことか。ウィキの「高島田」によれば、『高島田(たかしまだ)は、根元を高く仕立てた島田髷の一種。奴島田とも』。『島田の変形のうちでは比較的早くに誕生し最も格の高いもので、基本的に特に根が高いものは武家の女性に結われたが、町娘や京阪では芸妓遊女にも好んで結われた』。『現在でも最も根が高い文金高島田が花嫁に結われる』とある。
「クメサ」これは「粂三(くめさ)」「粂三髷(くめさまげ)」であろう。「割り鹿の子」という丸髷の中の髷型を取って割ったものに鹿の子を巻かずに、毛を用いたものを言う、と日本舞踊の女性舞踏家であられる藤間京之助氏のサイトの日本髪解説の「②勝山系」にある。リンク先に画像有り。
「『マルワゲ』別名『カツヤマ』「丸髷(まるわげ)」であるが、ここで別名とする「勝山」「勝山髷(かつやままげ)」とは同一物ではない。「勝山髷」が元であるから、まずはウィキの「勝山髷」から引く。勝山髷は『江戸時代初期の明暦年間ごろ登場した女髷』で、『遊女の勝山が結い始めたのが最初であることから勝山髷と呼ばれたが、元禄ごろには一般の女性にも広まり上品な印象であったころから武家の若い奥方などに結われるようになった。のちに勝山髷が変形したものは「丸髷」と呼ばれ江戸中期頃には遊女、後期以降は既婚の女性の髪形となった』。『髷が大きな輪になっているのが特徴』である。『元禄ごろの勝山髷は、前髪を引きつめ鬢を出さない代わりに、つとを思い切りだす鶺鴒髱という形にしていた。江戸中期ごろ髷の輪の幅が広く全体が平たくなっていくが、特に輪が潰れた球に近いほど広く平たくなったものを「丸髷」と呼ぶ。なお、現代の京都の舞妓や、嶋原太夫に結われている「勝山」は形状的には吹輪に近いものである』とある。なお、この「吹輪」は「ふきわ」で、江戸初期から武家の姫君に結われた髷の呼称である。『髷の部分を丸く仕立てる部分が似ているため勝山髷の原型という説もある。武家の姫ならこの吹輪を結う』のが通常で、『結い方自体は「愛嬌毛」と言われるわざと左右にたらした後れ毛の房を除いて勝山髷の輪が広くなったものと変わらないが、特徴的なのは満艦飾といった赴きさえある多種多様な髪飾りの多さと豪華さである』。『髷には「両天簪」といわれる豪華な細工がある金属の簪を挿し、髷の中には「鼓」と言われる楽器の鼓の形をした装飾品で髷の整形を兼ね(使用しないこともある)、根元には赤地錦などをくくりつけ』、『前髪には金箔などを漉き入れた染め紙、左右にびらびら簪という金属の小片を鎖で下げた簪に、「姫挿し」といわれる芝居の姫の役などに見られる大きな金属の造花を飾りつけた髪飾りを装着する』。『だし、華やかな装飾や「後れ毛」は芝居・舞台用のアレンジであり、実際の武家の姫君は銀・べっこう細工の櫛・こうがい等のみで地味であったといわれる』(この部分はウィキの「吹輪」に拠った)。
次に、「丸髷」であるが、これもウィキの「丸髷」から引く。『丸髷(まるまげ)とは、江戸時代から明治時代を通じて最も代表的な既婚女性の髪形』で、『江戸時代前期に大流行した勝山髷を変形させたもの』。『本格的な「丸髷」の登場は文化・文政ごろと思われる。幕末には髷の中に和紙製の型を入れるなどして形を保つようになった』。『勝山髷とほぼ同じ結い方をするが、髷の輪が厚く広くなって輪と結うより丸に見えるようになったのがこの髷で髷の大きさで年齢が見分けられる(若いほど髷が大きい)』。『現在一般には髷の下に布を入れるところで勝山髷と区別している』。江戸後期以降に江戸を中心とした東日本で流行し、『明治以降は全国的に広く一般に結われていた髷だが、髷の形に個人の好みを反映させるため明治末期には「両国形」「老松形」など数多くの「丸髷型」が売り出されていた』。『未婚時代には島田髷が結われるのに対して、結婚すると丸髷に変わるので、オペラ「蝶々夫人」を日本の風俗に忠実に演ずる場合は(長崎の芸者だったヒロインが冒頭で結婚するため)途中で髪形を変えねばならずカツラを二種類用意することがある』とある。
「片外づし」「かたはづし」と読み、江戸時代、御殿女中や官女らが結った髷の一種という。ウィキの「片外し」によれば、『笄に片方だけ巻き込んだ髪と平たい「つと」』(「髱・髩」(たぼ・たぼがみ)の関西での呼称。日本髪に於いて襟足に沿って背中の方に張り出した部分を指す)『が特徴で、御殿女中の代名詞的な髪型だった』。『京都の公家に仕える女性が公家の姫と将軍との婚礼の際に江戸に下り、大奥に広めた髪型。このため、笄さえ外せば下げ髪になるように、髷が仮結いされている』。『「つと」は、公家か上流武家にのみ結われた特殊な形をしていて、京風では「葵髱」(あおいづと、江戸では椎茸髱:しいたけたぼ)と呼んで、葵の葉や乾燥しいたけのような平たく薄い半円形を二つつなげた形になる』。『特徴的なのは、後ろでひとつにまとめた髪を輪にして、髪の片端だけを笄に巻きつけるところ。普通の笄髷はまとめた髪の根元も笄に巻くが、こちらは根元はそのままで、笄さえ抜けばすぐに下げ髪になるように仮結いのままにしておく』。『従って髪飾りも殆ど付けず、笄のほかは櫛や平打簪などを使うのみの質素な印象』の髪型である、とある。]
Ⅳ
Not less than fourteen different ways of dressing the hair are practised by the coiffeuses of Izumo; but doubtless in the capital, and in some of the larger cities of eastern Japan, the art is much more elaborately developed. The hairdressers (kamiyui) go from house to house to exercise their calling, visiting their clients upon fixed days at certain regular hours. The hair of little girls from seven to eight years old is in Matsue dressed usually after the style called O-tabako-bon, unless it be simply 'banged.' In the O-tabako-bon ('honourable smoking-box' style) the hair is cut to the length of about four inches all round except above the forehead, where it is clipped a little shorter; and on the summit of the head it is allowed to grow longer and is gathered up into a peculiarly shaped knot, which justifies the curious name of the coiffure. As soon as the girl becomes old enough to go to a female public day-school, her hair is dressed in the pretty, simple style called katsurashita, or perhaps in the new, ugly, semi-foreign 'bundle-style' called sokuhatsu, which has become the regulation fashion in boarding-schools.
For the daughters of the poor, and even for most of those of the middle classes, the public-school period is rather brief; their studies usually cease a few years before they are marriageable, and girls marry very early in Japan. The maiden's first elaborate coiffure is arranged for her when she reaches the age of fourteen or fifteen, at earliest. From twelve to fourteen her hair is dressed in the fashion called Omoyedzuki; then the style is changed to the beautiful coiffure called jorōwage. There are various forms of this style, more or less complex. A couple of years later, the jorōwage yields in the turn to the shinjōchō [6] '('new-butterfly' style), or the shimada, also called takawage. The shinjōchō style is common, is worn by women of various ages, and is not considered very genteel. The shimada, exquisitely elaborate, is; but the more respectable the family, the smaller the form of this coiffure; geisha and jorō wear a larger and loftier variety of it, which properly answers to the name takawage, or 'high coiffure.' Between eighteen and twenty years of age the maiden again exchanges this style for another termed Tenjin-gaeshi; between twenty and twenty-four years of age she adopts the fashion called mitsuwage, or the 'triple coiffure' of three loops; and a somewhat similar but still more complicated coiffure, called mitsuwakudzushi, is worn by young women of from twenty-five to twenty-eight. Up to that age every change in the fashion of wearing the hair has been in the direction of elaborateness and complexity. But after twenty-eight a Japanese woman is no longer considered young, and there is only one more coiffure for her,—the mochiriwage or bobai, tine simple and rather ugly style adopted by old women.
But the girl who marries wears her hair in a fashion quite different from any of the preceding. The most beautiful, the most elaborate, and the most costly of all modes is the bride's coiffure, called hanayome; a word literally signifying 'flower-wife.' The structure is dainty as its name, and must be seen to be artistically appreciated. Afterwards the wife wears her hair in the styles called kumesa or maruwage, another name for which is katsuyama. The kumesa style is not genteel, and is the coiffure of the poor; the maruwage or katsuyama is refined. In former times the samurai women wore their hair in two particular styles: the maiden's coiffure was ichōgaeshi, and that of the married folk katahajishi. It is still possible to see in Matsue a few katahajishi coiffures.
6
The shinjōchō is also called Ichōgaeshi by old people, although the original Ichōgaeshi was somewhat different. The samurai girls used to wear their hair in
the true Ichōgaeshi manner the name is derived from the ichō-tree (Salisburia andiantifolia), whose leaves have a queer shape, almost like that of a duck's foot. Certain bands of the hair in this coiffure bore a resemblance in form to ichō-leaves.
三
その近代の樣式の殊に人目を惹く點は、若い女の顏が具へて居るどんな色白さ、又はどんな麗はしさでも、それを氣持よく引き立てて、その容貌の精巧な光背になるやうに髮を造り上げる方法に在る。だからこの美妙な黑色の後光の背後に、その始もその終も到底も見分ることの出來ぬ、優美な輪結(わむすび)と編込(あみこみ)との一つの謎があるのである。カミユヒだけが、その謎の祕鑰を知つて居る。そしてその全體を裝飾用の奇妙な櫛で支へ、また巧な彫刻のある頭の着いた金、銀、眞珠母、透明な鼈甲、或は漆塗の木で出來て居る長い細いピン【註】をそれへ差す。
註。その主要なそして無くては
ならぬ髮のピン(カンザシ)は
通例長さ七吋計りで二つに割れ
て居て、その充分鍛へられた二
叉は、一對の箸のやうに小さな
物を、撮みあげるのに用ふるこ
とが出來る。上の方の尖は匙形
の小さな凸起になつて居て、そ
れに日本の化粧に特別な用途を
有つて居る。
[やぶちゃん注:「祕鑰」「ひやく」と読む。秘密の鍵。そこから比喩的に秘密・謎などを明らかにする隠された手段の意となる。
「カンザシ」「簪」。
「七吋」約十七・八センチメートル。]
Ⅲ
The particular attractiveness of the modern styles is the way in which the hair is made to serve as an elaborate nimbus for the features, giving delightful relief to whatever of fairness or sweetness the young face may possess. Then behind this charming black aureole is a riddle of graceful loopings and weavings whereof neither the beginning nor the ending can possibly be discerned. Only the kantiyui knows the key to that riddle. And the whole is held in place with curious ornamental combs, and shot through with long fine pins of gold, silver, nacre, transparent tortoise-shell, or lacquered wood, with cunningly carven heads. [5]
5
The principal and indispensable hair-pin (kanzashi), usually about seven inches long, is split, and its well-tempered double shaft can be used like a small pair of chopsticks for picking up small things. The head is terminated by a tiny spoon-shaped projection, which has a special purpose in the Japanese toilette.
二
日本の女が多く有つて居る髮のやうな、あんなに全く眞直な黑い髮は、少くとも西洋人の思想には、理髮師(クワフユズ)の技術を無上に發揮するのに、不適合のやう思へるかも知れぬ【註】。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。日本人の髮は總て靑黑だと想ふ
のは誤である。二つの分明な人種的
標式がある。一つは髮が純黑では無
くて濃い褐色で、その上また柔かく
て細い。日本人の毛(シユヴルウル)
で波のやうに縮れる、自然の傾向を
有つて居るのを見ることもあるが、
それは稀で、甚だしく稀である。此
處で述べることが出來ぬ妙な理由が
あつて、出雲の女は縮毛を非常に恥
ぢる――生れ付の不具なのよりもも
つと恥ぢる。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]然しカミユヒの手腕はあらゆる美的氣まぐれのまにまに、それを取扱ふことが出來るやうにして居る。尤も、捲毛といふものは無い、また捲髮用の鏝といふものも無い。然し何たる不思議な美くしい形を採るやうに女の髮がされることか! 貝形、突出、𢌞轉、渦卷、引延べ、其各〻が恰も支那の大家の書の筆の蹟の繫がりの如くに、それからそれへと和やかに移つて行く! カミユヒの技術に、巴里の理髮師(クワフユズ)の熟練に遙かに優つて居る。日本人の工夫力は、この人種の神話時代から【註】、女の髮の結び方に美くしい趣向の發明と、改良とに盡くされて居る。
註。古事記執筆の時代にすら髮を結
ふ技術は、幾分發達して居たに相違
無い。チエンバレン敎授のその飜譯
の緖言三十一頁を見られよ。また、
第一卷第九節、第七卷第十二節、第
九卷第十八節、その他を見られよ。
だから、日本ほど斯んなに數多い美くしい結ひ方は、これまで他のどんな邦にも多分無いことであらう。其結ひ方は幾世紀を經て變化し來たつた。或る時は意匠が驚く許り複雜であり、或時は――長い黑髮を束ねず、その儘腰の下まで垂らすといふ、あんなに多くの古風な繪で、我々に傳へられて居る、あの優雅な風習のやうに――みやびな簡單なものであつた【註】。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。美術の專門家は、それに人の姿
が現れて居れば、署名の無いカケモ
ノ或は他の藝術品の時代を、女の人
物の髮の結ひ方で決定し得るのであ
る。
然し我々がその記錄を繪に於て、有つて居る髮の型は、一々それ獨得の著しい妙味を有つて居た。印度、支那、馬來、朝鮮の美の觀念が、この神の國へ到來して、その生得の一層美はしい優美の思想に取込まれて變形したのである。佛敎も亦、これは日本の藝術と思想とにいかにも深い影響を及ぼしたものであるが、恐らくは結髮の風にも影響を與へたのであらう。その女性の神は非常に美しい髮の結ひ樣をして居るからである。觀音或は辨天の髮を、それから――大寺院の天井の上の、虛空に浮いて居るあの少女天使――天人(てんにん)の卷髮に目を留めて看るが宜い。
[やぶちゃん注:「理髮師(クワフユズ)」原文“the coiffeuse”。フランス語由来のアメリカ英語。「女髪結い・女性美容師」の謂いである。敢えて音写するなら「クゥワファイズ」。
「毛(シユヴルウル)」原文“chevelure”。「髪の生えた頭」から「髪」の意。やはり綴りからお分かりのように、フランス語由来。音写するならまさに「シュヴルゥル」で正しい。
「此處で述べることが出來ぬ妙な理由があつて、出雲の女は縮毛を非常に恥ぢる」謂いからの推測であるが、これは黒い縮れ毛が陰毛と似ているからではなかろうか?
「不具」現行では差別的で不適切な表現である。
「チエンバレン敎授のその飜譯の緒言三十一頁を見られよ。また、第一卷第九節、第七卷第十二節、第九卷第十八節、その他を見られよ」この訳者(大谷正信と推定)はこれまでの「チエムバレン」(落合貞三郎と推定)ではなく、現行に近く、かく音写する。以前に注した通り、私はチェンバレンの「古事記」を読んだことがない。向後、訳本を手に入れた場合は、追加注をすることもあろう。
「カケモノ」「掛物」。軸装の絵。
「馬來」マレー(Malay)。現在のマレー半島とその周辺の島々の総称。マライ。狭義には「馬來西亞」でマレーシアであるが、本書執筆当時(一八九二年)はイギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリスによる植民地統治下にあった(マレーシアの成立は一九六三年)。但し、ここでハーンが述べているそれは、かつてのマラッカ王国(成立は一四〇〇年)や、その前史、及び、後のオランダやイギリス統治時代ぐらいまでの広範な謂いとなろう。
「大寺院の天井の上の、虛空に浮いて居るあの少女天使――天人」飛天のこと。ウィキの「飛天」より引く。『飛天(ひてん)とは仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人。仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い』。『その起源はインドと言われるが、オリエントの有翼天人像がシルクロード経由で伝わったものともされ、はっきりとは分からない』。『ペルシャ辺りを起源とする有翼天人はゾロアスター教で空中から飛来するとされる精霊(フラワシ Frawashi)を象ったものともされ、ターク・イ・ブスタン(サーサーン朝)やパサルガダエ(キュロス大王宮廷跡)など古代ペルシャ遺跡にその姿が見られる。 これらの表象はエジプトやメソポタミアにも波及、イスラエルの天使やギリシャのエロス、ニケといった有翼神像にも影響を与えた』。『仏教の飛天はそれらオリエントの神々と異なり翼を持たないことが特徴である。しかしガンダーラから西域では有翼像が見られている。多くは天衣(はごろも)をまとった女性像として描かれるため「天女」とも呼ばれる』。『阿弥陀如来などの仏を中心に、花を散らし楽を奏し香を薫じるなどして優雅に舞う姿が一般的に見られる。ガンダーラ美術にはすでにその姿が描かれており、インドではアジャンター、中国では敦煌や雲崗の石窟寺院においてその優美な姿を数多く見せている。日本では法隆寺金堂壁画や薬師寺東塔水煙、平等院鳳凰堂後背、法界寺阿弥陀堂壁画などにその作例が見られる』とある。]
Ⅱ.
Such absolutely straight dark hair as that of most Japanese women might seem, to Occidental ideas at least, ill-suited to the highest possibilities of the art of the coiffeuse. [2] But the skill of the kamiyui has made it tractable to every aesthetic whim. Ringlets, indeed, are unknown, and curling irons. But what wonderful and beautiful shapes the hair of the girl is made to assume: volutes, jets, whirls, eddyings, foliations, each passing into the other blandly as a linking of brush-strokes in the writing of a Chinese master! Far beyond the skill of the Parisian coiffeuse is the art of the kamiyui. From the mythical era [3] of the race, Japanese ingenuity has exhausted itself in the invention and the improvement of pretty devices for the dressing of woman's hair; and probably there have never been so many beautiful fashions of wearing it in any other country as there have been in Japan. These have changed through the centuries; sometimes becoming wondrously intricate of design, sometimes exquisitely simple,―as in that gracious custom, recorded for us in so many quaint drawings, of allowing the long black tresses to flow unconfined below the waist. [4] But every mode of which we have any pictorial record had its own striking charm. Indian, Chinese, Malayan, Kōrean ideas of beauty found their way to the Land of the Gods, and were appropriated and transfigured by the finer native conceptions of comeliness. Buddhism, too, which so profoundly influenced all Japanese art and thought, may possibly have influenced fashions of wearing the hair; for its female divinities appear with the most beautiful coiffures. Notice the hair of a Kwannon or a Benten, and the tresses of the Tennin,—those angel-maidens who float in azure upon the ceilings of the great temples.
2
It is an error to suppose that all Japanese have blue-black hair. There are two distinct racial types. In one the hair is a deep brown instead of a pure black, and is also softer and finer. Rarely, but very rarely, one may see a Japanese chevelure having a natural tendency to ripple. For curious reasons, which cannot be stated here, an Izumo woman is very much ashamed of having wavy hair—more ashamed than she would be of a natural deformity.
3
Even in the time of the writing of the Kojiki the art of arranging t hair must have been somewhat developed. See Professor Chainberlai 's introduction to translation, p. xxxi.; also vol. i. section ix.; vol. vii. section xii.; vol. ix. section xviii., et passim.
4
An art expert can decide the age of an unsigned kakemono or other work of art in which human figures appear, by the style of the coiffure of the female
personages.
第十八章 女の髮について
一
家(うち)の妹娘の髮は甚だ長い。だからそれを結ふのを見るのは、感興少からぬ觀物である。三日每に一度結ふ。そしてその四錢掛かる作業は、一時間を要するものと認められて居る。實際は殆んど二時間を要する。髮結(カミユヒ)は先づその女弟子をよこす。それが髮を綺麗にし、洗ひ、香を附け、少くとも五通り種類の異つた異常な櫛で梳く。髮は何處から何處まで綺麗にされるから、三日は、或は四日も、我々西洋人の考への及ばぬほど淸淨な儘で居る。朝、掃除をする間は、ハンケチ又は小さな紺のタオルで大事にそれを蔽ふ。そして日本の妙な木枕、これは頭を支へるのでは無くて、頸を支へるものであるが、それがこの【注】不思議な作物(つくりもの)を崩すこと無しに樂(らく)に寢ることを可能ならしめる。
註。前には同じ理由で男女とも同じ
枕を用ひた。年若いサムラヒの長い
髮は、一種精巧な結に束ね上げてあ
つたもので、結(ゆ)ふのに隨分の
時間を要した。髮を短くするのが殆
んど一般の習慣となつてから男は小
さな枕蓐(ボルスタア)のやうな恰
好の枕を用ふることになつて居る。
弟子がその受持の仕事を終つた後へ、髮結の本人が遣つて來て髷を造り始める。この仕事に髮結は、その異常な種々な櫛の他に、金を塗つた絲又は色の附いた紙縒の美しい匝と、非常に麗はしい色取りの優雅な縮緬切(ぎれ)と、花車な鋼條の彈機と、取付けないうちに髮を其上で所要の形に造り上げる籠形(かごなり)の小さな妙な物とを使用する。
カミユヒはまた剃刀を携へて來る。日本の女は――頰、耳、眉、顎、おまけに鼻も!――剃るからである。剃るべき何があるのか。最も美はしい人間の皮膚といふ天鵞絨の彼の桃の皮のやうな毧毛(うぶげ)だけである。が、それを日本人の趣味は取り除けるのである。が然し、剃刀には今一つ使途(つかひみち)がある。少女は總て、頭の極くの天邊の處、直徑一吋許り、圓く小さく綺麗に剃つて、それを處女たる標徴にして居る。これは額からその上を橫ぎつて後へ持つて來て、後の髮に結はへてある一束の髮で、一部分だけ隱されて居る。女赤ん坊の頭は全部剃る。四五歲になると、頭の天邊の處、其處はいつも大きく剃られて居るが、其處を除いては髮を生(は)やさせる。然し剃髮部の大いさは年々減つて行つて、幼年時代を過ぎると上述した小さな個處に縮まる。そしてそれも亦結婚後、なほ一層複雜な髮の結ひ方をするやうになると、無くなつてしまふ。
[やぶちゃん注:「家(うち)の妹娘」ということは妻セツの妹ということになる。本書で初めて字背にセツの面影が出るシークエンスであることに注目されたい。但し、セツに妹がいてハーンと一緒に住んでいたというのは、事実から推して考えられないので、この訳(原文ではない。原文は“the younger daughter”)は実に上代の「妹(いも)」の意でとって、妻セツ自身のことを指していると考えるべきである。「あとがき」で本章の訳者と思われる田部隆次が『起筆に『家の妹娘は』これは『自分の妻の髮は』とあつても差支無いもの、といふことは讀者も想像さるゝであらう』と述べていることも言い添えておく。本書の執筆時期は前章の記載から明治二五(一八九二)年(本書刊行は翌年九月)で、小泉セツとの事実婚を、来日した、その年である明治二三(一八九〇)年の十二月とすれば(上田和夫訳新潮文庫「小泉八雲集」年譜の断定)、一年数ヶ月経過相当となり、「八雲会」の「松江時代の略年譜」の明治二十四年の八月十四日の条にある『セツと伯耆へ新婚旅行に出る』という記載を文字通りにとって、この時期を事実婚の成立とするならば、未だ半年強である。因みに私が「ハーン」と表記するのに疑問をお持ちの方もあると思われるが、彼が帰化して正式に「小泉八雲」となるのは、本書刊行の二年後の明治二八(一八九五)年秋であるからである(上記の上田年譜に拠る)。即ち、本書を書いている時には未だ、彼はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)であったのである(我々がファースト・ネームだと勝手に思い込んでいる「ハーン」は実はミドル・ネームである。因みに、ファースト・ネームの「パトリック」はアイルランドの守護聖人聖パトリックに因んだもので、キリスト教嫌いの彼は敢えてこの名を使用しなかったとされる。また、参照したウィキの「小泉八雲」によれば、ファミリー・ネームについては、『来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの』だとするものの、『ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。Hearn』『はアイルランド南部では比較的多い姓である』とある。下線やぶちゃん)。
「枕蓐(ボルスタア)」原文“bolster”。「ボルスター」とは「長枕」などと訳され、頭部を高めるためにベットに於いてシーツの下に入れるものを指す。西洋ベッドでは、その上に枕(pillow)を載せるのである。「蓐」(しとね)は柔らかい敷物のことだから、この漢訳は美事である。
「少女は總て、頭の極くの天邊の處、直徑一吋許り、圓く小さく綺麗に剃つて、それを處女たる標徴にして居る。これは額からその上を橫ぎつて後へ持つて來て、後の髮に結はへてある一束の髮で、一部分だけ隱されて居る。女赤ん坊の頭は全部剃る。四五歲になると、頭の天邊の處、其處はいつも大きく剃られて居るが、其處を除いては髮を生(は)やさせる。然し剃髮部の大いさは年々減つて行つて、幼年時代を過ぎると上述した小さな個處に縮まる。そしてそれも亦結婚後、なほ一層複雜な髮の結ひ方をするやうになると、無くなつてしまふ」直径一インチは二・五四センチメートル。この特殊な処理は、いくら探しても出てこない。江戸時代ならば、少年少女の髪型のである「芥子坊主」(それでも六歳位までである)から、それを過ぎてからの「おたばこぼん」や「銀杏髷」といった、成人女性への過渡期的な少女の髪型には当然、初期の芥子坊主時代の髪を剃った部分が当然残っていたに違いないとは推測するが、それが、ずっと小さなものとして、豊かな髪の下に隠されながらも、やはり剃られて残され、それがまた、処女のシンボルとなっていたというのは、少なくとも私は他で聴いたことがない。是非とも識者の御教授を乞うものである。]
ⅩⅧ
OF WOMEN'S HAIR.
Ⅰ.
THE hair of the younger daughter of the family is very long; and it is a spectacle of no small interest to see it dressed. It is dressed once in every three days; and the operation, which costs four sen, is acknowledged to require one hour. As a matter of fact it requires nearly two. The hairdresser (kamiyui) first sends her maiden apprentice, who cleans the hair, washes it, perfumes it, and combs it with extraordinary combs of at least five different kinds. So thoroughly is the hair cleansed that it remains for three days, or even four, immaculate beyond our Occidental conception of things. In the morning, during the dusting time, it is carefully covered with a handkerchief or a little blue towel; and the curious Japanese wooden pillow, which supports the neck, not the head, renders it possible to sleep at ease without disarranging the marvellous structure. [1]
After the apprentice has finished her part of the work, the hairdresser herself appears, and begins to build the coiffure. For this task she uses, besides the extraordinary variety of combs, fine loops of gilt thread or coloured paper twine, dainty bits of deliciously tinted crape- silk, delicate steel springs, and curious little basket-shaped things over which the hair is moulded into the required forms before being fixed in place.
The kamiyui also brings razors with her; for the Japanese girl is shaved,—cheeks, ears, brows, chin, even nose! What is here to shave? Only that peachy floss which is the velvet of the finest human skin, but which Japanese taste removes. There is, however, another use for the razor. All maidens bear the signs of their maidenhood in the form of a little round spot, about an inch in diameter, shaven clean upon the very top of the head. This is only partially concealed by a band of hair brought back from the forehead across it, and fastened to the back hair. The girl-baby's head is totally shaved. When a few years old the little creature's hair is allowed to grow except at the top of the head, where a large tonsure is maintained. But the size of the tonsure diminishes year by year, until it shrinks after childhood to the small spot above described; and this, too, vanishes after marriage, when a still more complicated fashion of wearing the hair is adopted.
1
Formerly both sexes used the same pillow for the same reason. The long hair of a samurai youth, tied up in an elaborate knot, required much time to arrange. Since it has become the almost universal custom to wear the hair short, the men have adopted a pillow shaped like a small bolster.
一二
斯く、極東の家庭での崇拜に於ては、愛の念からして死者は神とされるのである。そして此優しい以人爲神が、自己にも爲れると豫知している事が、老年の自然の悲哀を慰藉の念を以つて和らげるに相違無い。日本では決して死んだ者を我々が爲すが如くに、あんなに早く忘れはせぬ。單純な信仰によつて、死者はなほその愛せる者共のうちに住んで居ると思はれ、家庭に在つてのその地位は、永久に神聖なものとされて居る。そして將に此世を去らんとして居る老齡の家長は、愛らしい唇が家の內の宮の前で、自分の靈に對して夜毎囁いて哭れるといふ事を、信實なる心がその苦しい折には自分に懇願し、その嬉しい折には自分に感謝して吳れる事を、侵しい手が自分の位牌の前へ果物や、花の純潔な供物を、また生前自分が好きであつた品々の美味な食物を置いて吳れ、自分の爲めに、靈と神との前に置いてある小さな盃の中へ、客に侑める香ばしい茶か琥珀色の米のワインを注いで吳れる事を知つて居る。不思議な變化が此國を襲ひつゝある。古昔の習慣は消えつゝある。古昔の信仰は衰へつゝある。今日の思想は次の代の思想ではあるまい――然し、そんなことは一切、彼はその古雅な素朴な美しい出雲では、幸にも少しも知らずに居る。彼は自分の祖先に對するが如く、自分の爲めに彼の小さな燈が、幾代も幾代も點されることだと夢見て居る。彼は、其極はめて和やかな空想で、自分の忘れられることの無い名が記してある彼(あ)の小さな塵だらけな位牌の前で、神道の祈禱にその小さな手を拍つて、そして子たる勤めの辭儀をして居る、まだこの世に生れて居ないものを――自分の子供の子供の子供等を――見て居るのである。
[やぶちゃん注:「以人爲神」「人を以つて神と爲す」と訓じておく。
「爲れる」「なされる」と訓じておく。
「侑める」「すすめる」と訓ずる。「勸める」に同じい。]
Ⅻ
Thus, in this home-worship of the Far East, by love the dead are made divine; and the foreknowledge of this tender apotheosis must temper with consolation the natural melancholy of age. Never in Japan are the dead so quickly forgotten as with us: by simple faith they are deemed still to dwell among their beloved; and their place within the home remains ever holy. And the aged patriarch about to pass away knows that loving lips will nightly murmur to the memory of him before the household shrine; that faithful hearts will beseech him in their pain and bless him in their joy; that gentle hands will place before his ihai pure offerings of fruits and flowers, and dainty repasts of the things which he was wont to like; and will pour out for him, into the little cup of ghosts and gods, the fragrant tea of guests or the amber rice-wine. Strange changes are coming upon the land: old customs are vanishing; old beliefs are weakening; the thoughts of today will not be the thoughts of another age,―but of all this he knows happily nothing in his own quaint, simple, beautiful Izumo. He dreams that for him, as
for his fathers, the little lamp will burn on through the generations; he sees, in softest fancy, the yet unborrn―the children of his children's children―clapping their tiny hands in Shinto prayer, and making filial obeisance before the little dusty tablet that bears his unforgotten name.
一一
出雲で使用されて居る『ソレイシヤ』幷びに『ミタマヤ』といふ言葉は、神道の(普通は櫻の木で出來て居る)位牌が入れてある小さな宮か、又は、其處に位牌が置いてあつて、そして其處へ供物を捧げるやうにしてある、その家の一部分を意味することがあるといふことである。さういふ供物は、それが出來るほどの人はみな、机の上に載せることになつていて、その机は無地の白木のもので、神社で又公の葬式で供物をする時の机と、同じな高い狹い形のものである。
家の中での神道祭祀の際、昔の祖先に向つて唱へる、最も普通な形式の祈禱は聲高くは述べぬ。神道のあらゆる通俗な祈禱の最初の法式の文句『拂ひ給へ』云々を發言してから、その崇拜者は、『我等の遠き昔の祖先の御魂よ、代々の、我々の家族の、また我々の親族の汝等祖先の御魂よ、我々の家の創立者たる汝等に、我々は今日、我々の感謝の喜びを述べる』と、ただ自分の情(こゝろ)で言ふのである。
佛敎信者の家族的祭祀では、その家のホトケの間に――疾(とく)の昔に死んだ人達の靈と、つい間近に亡くなつた人達の靈との間に――差別を設けて居る。後者は之をシンボトケ卽ち『新しい佛』、もつと嚴密に言へば『新しく死んだ者』と呼んで居る。シンボトケに對しては何等超自然的な恩惠を直接乞ひ願ふことをしない。敬つてホトケとは呼んで居るものの、新しく死んだ者は佛の境涯に達して居るとは、實は考へられて居ないからである。彼方へと長の旅路へ出たばかりで、人に救助を與へ得るよりか寧ろ、自分の方に恐らくは救助を要して居るのである。だから實際、敬虔の念の深い人達の間では、死んだ者がどうして居るかといふ事が情の籠もつた心配事である。小さな子が死んだ時は、殊にさうである。幼な子の魂は弱くて、色んな危難に遇ふと思ふからである。だから母は、その子の去つた魂に物言って、恰も生きて居る息子か息女に物を言ふやうに、忠告をしたり、訓戒したり、やさしく指圖したりする。どんなシンボトケにも、出雲で言ふ普通の言葉は祈禱の形式では無くて、寧ろ懇願或は勸告の形式である。例へば次記の如くである、――
『ジヤウブツセヨ』或は『ジヤウブツシマツシヤレ』
『マヨウナヨ』
『ミレンヲノコサズニ』
斯ういふ祈禱は決して聲高くは述べぬ。これよりももつと西洋の祈禱の觀念に一致して居るのは、眞宗信者がシンボトケの爲めに述べる次記のものである、――
『オムカヘクダサレ、アミダサマ』
言ふの要も無いが、祖先崇拜は、支那及び日本で佛敎の中へ取り入れられはして居るけれども、佛敎起原のものでは無い。これも亦言ふの要は無いが、佛敎は自殺を非認する。でも日本では、死んだ者の魂はどんな境遇に居るかとの心配が屢〻自殺を惹起した――或は少くとも、佛敎の敎義を信じては居ながらも、原始的慣習に執着することもある人達には、自殺は是認されてゐたのである。家來は、死んだなら、自分共の領主或は舊領主の魂に勸告援助、若しくは御用を爲すことが出來るかも知れぬとの信念を抱いて、自殺した。だから保元物語といふ小說に、或る家來がその年若い主人が死んだ後、
死出の山三途の河をば誰かは介錯申す
べき。恐しく思召さんに付けても、先
づ我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも
苦しきに、主の御供仕らん。
と言つたとしてある。
家の內での佛敎の崇拜では、遠き昔に死んだ者共の魂卽ちその一家の本の佛(ほとけ)に對して唱へる祈禱と、新佛に對して爲す言葉とは甚だ異つて居る。次記のはその二三の實例である。これはいつも聲を潛めて言ふ。――
『カナイアンゼン』
『エンメイソクサイ』
『シヤウバイハンジヤウ』
これは商人だけが唱へる。
『シソンチヤウキウ』
『ヲンテキタイサン』
『ヤクビヤウセウメツ』
上記のうちで神道崇拜者も亦用ひるのがある。老年のサムラヒは今なほその階級の特別な祈禱を唱へる、卽ち
『テンカタイヘイ』
『ブウンチヤウキウ』
『カエイマンゾク』
が斯ういふ無言の定り文句のほかに、情(こゝろ)促されてのどんな祈禱でも、歎願であらうと感謝であらうと、固よりのこと唱へても宜い。そんな祈禱は日常生活に用ふる言葉で述べる、否、寧ろ心の中で念ずる。出雲の母親が、病氣の子供の爲めに願つて祖先の靈に對して述べる次記の短い祈禱は一例である、――
『オカゲデ、コドモノビヤウキモ、ゼンクワイイタシマシタ、アリガタウゴザイマス!』
『オカゲデ』は文字通りに言へば『の御ン蔭で』である。原の文句には自由譯も況んや正確譯も保持し得ない一種靈的な美がある。
[やぶちゃん注:一部、底本の行空けにミスがあるので訂してある。
「さういふ供物は、それが出來るほどの人はみな、机の上に載せることになつていて、その机は無地の白木のもので、神社で又公の葬式で供物をする時の机と、同じな高い狹い形のものである」神道の神前に正面(推定)に置くそれは「豆八足台(まめはっそくだい)」(左右に四本の脚がある神社で用いるものは大きなもので、これは「八脚案(はっきゃくあん)」「神饌台(しんせんだい)」「八足」と呼ぶ)とか「長(なが)三宝(長膳)」(上部に三宝のような張り出しが付く)などと称するようで、白木である。前者が古式であろう。神具店のそれを見ると仏教では供物は普通、供物を載せるのは高坏(たかつき)で、仏前の左右に置く(角高坏を公式とし丸高坏を略式とするという)。こちらは現行では通常、白木でなく、塗り物である。
「拂ひ給へ」神道なら正しい漢字表記は「祓ひ給へ」である。さらに原文に忠実に表記するならば「祓ひ給い」である。しかも、これは現行の祝詞(のりと)のオーソドックスな発語である「祓い給い、清め給え、神(かむ)ながら、奇(く)しみ給え、幸(さきわ)え給え」とも一致しているから、ハーンの表現は正しく、ここで何の注もせずに訳者が改変しているのは恣意的に過ぎ、訳として不適切と言わざるを得ない。今まであまり問題にしてこなかったが以前も以後もハーンの原文の日本語音写部分は、単なる誤写や誤認と捉えるよりも、ハーンの聴いた相手の出身地の方言、老若差、性差、立場上の用語の違い、さらには外国人のハーンの耳には実際とは少し変形してそのようなものとして聴こえていた可能性など、こもごもの要素を積極的に取り入れて再考すべき箇所が多いように私には思われる。それはきっと録音機のなかったこの時代の口語音(ハーンのそれは完全ではないが口語音を再現している箇所がまま見られる)の研究、失われた日本語発音の復元・再発掘としても非常に魅力的なものとなるはずである。
「我等の遠き昔の祖先の御魂よ、代々の、我々の家族の、また我々の親族の汝等祖先の御魂よ、我々の家の創立者たる汝等に、我々は今日、我々の感謝の喜びを述べる」平井呈一氏は以下のように祝詞の原文を示しておられる(カタカナはルビ。恣意的に正字化し、読みは一部に恣意的に字空けを施した)。『遠都御祖乃御靈(トホツ ミオヤノ ミタマ)。代々能祖等(ヨヨノ ヲヤタチ)。親族乃御靈(ウカラ ヤカラノ ミタマ)。總氏此祭屋爾鎭祭留(スベテ コノマツリヤニ イハヒマツル)。御靈等能御前乎愼敬比(ミタマタチノ ミマエヲ ツツシミテ ヰヤマヒ)。今日乃此日(ケフノ コノヒ)。御祭善志久仕奉志米給閉登祈白須(ミマツリ ウルハシク ツカヘマツリシメタマヘト イノリマオス)』。なお、この平井氏の引用部の冒頭は、複数ある祖霊崇拝に関わる祝詞類の冒頭とほぼ一致していることはネット上で確認出来たが、平井氏の引用された、この祝詞は、どの祝詞の、どの箇所かは、不明である。識者の御教授を乞う。
「『ジヤウブツセヨ』或は『ジヤウブツシマツシヤレ』」「『成佛せよ』或は『成佛しまつしやれ』」「ジヤウブツ」の部分は原文では日本語口語で「じょーぶつ」と表記されてある。以下も原文では本文のような固い(それでなくてもカタカナ表記で硬い印象が強いのに)歴史的仮名遣ではなく、口語である。以下、原文ではこれらの日本語を英訳したものが、後に[ ]で附加されている。例えば、ここには合わせて“Do thou become a Buddha.”、「汝(なれ)が目出度く仏體となりますやうに。」といった塩梅である。本文でも(平井呈一氏も)省略してあるので以下、これについては原則、注さない。
「マヨウナヨ」口語表記はママ。「迷うなよ」。
「ミレンヲノコサズニ」「未練を殘さずに」。原文に忠実にならば「未練を殘らず」である。
「オムカヘクダサレ、アミダサマ」「お迎へ下され、阿彌陀さま」。原文は「オムカヘクダサレ」ではなく「おむかいくだされ」である。後の英訳の頭にある、“vouchsafe”(ヴァーフセェフ)は私は初めて見る単語であるが、辞書を調べると中世英語由来で、元は「安全なものとして保証する」の意の他動詞で、現行では「厚意又はお情けによって~を与える・賜わる」「親切にも~して下さる」「主に安全などを保証する・請け合う」の意である。
「佛敎は自殺を非認する」ハーンの誤認。既出既注。
「保元物語といふ小說に、或る家來がその年若い主人が死んだ後、/死出の山三途の河をば誰かは介錯申すべき。恐しく思召さんに付けても、先づ我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも苦しきに、主の御供仕らん。/と言つたとしてある」これは「保元物語」の「保元の乱」(保元元(一一五六)年七月)の後、白河天皇方について勝った源義朝が、負けた崇徳院方についた実父為義を誅した後、さらに自身の弟たちを自らの手にかける(彼は親族の助命嘆願を訴えたが、信西によって却下された)シークエンスの後半、「義朝幼少の弟悉く失はるる事」の殆んど最後の箇所、傅(めのと:守役)であった内記平太が数え七つの天王殿の骸(むくろ)をかき抱いて言い放ち、即座に腹を掻っ切る凄絶なる殉死シーンからの引用である。かなり長いが、非常に哀傷に満ちた箇所であり、以下、大正二(一九一三)年友朋堂刊武笠三(むかさ さん)校訂「保元物語・平治物語・北條九代記」を参考に電子化する。読みは難読字と振れそうなもののみに限った。また、直接話法部分は改行を施して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。これでは「卷三」の冒頭に出る(二巻本では「下卷」に入り、かなり異なる)。
*
さる程に內裏より卽ち義朝を召され、藏人右少辨資長朝臣を以て仰せ下されけるは、
「汝が弟共の未だおほくあるなるを、縱(たと)ひ幼くとも女子の外は、皆尋ねて失ふべし。」
となり。宿所(しゆくしよ)に歸(かへつ)て、秦野次郞を召して宣ひけるは、
「餘(あまり)に不便(ふびん)なれ共、敕定なれば力なし。母か乳母(めのと)か懷きて山林に迯隱(にげかく)れたらんは如何(いかゞ)せん。六條堀川の宿所に在る當腹(はうふく)の四人をば、購出(すかしいだ)して、相構(あひかま)へて道の程詫びしめずして、舟岡にて失へ」とぞ聞えける。延景難儀の御使(おんつかひ)かなと心憂く思へども、主命(しうめい)なれば力なし。淚を袖に收めつゝ、泣く泣く輿を舁かせて、彼(か)の宿所へぞ趣きける。母上は折節(をりふし)物詣(ものまうで)の間なり。君達(きんだち)は皆おはしけり。兄をば乙若(をとわか)とて十三、次は龜若とて十一、鶴若は九、天王(てんわう)は七つなり。此人々、延景を見付て嬉しげにこそありけれ。秦野次郞、
「入道殿の御使に參つて候ふ。殿は十七日に、比叡の山にて御さまかへさせ給ひて、頭殿(かうどの)の御許(おんもと)へ入らせ給しを、世間も未だ愼(つゝま)しとて、北山(きたやま)雲林院(うりんゐん)と申す所に忍びてわたらせ給ひ候ふが、君達の御事(おんこと)覺束なく思召し候ふ間、御見參(ごけんざん)にいれ奉らん爲に、俱し奉つて參らんとて、御迎(おんむかへ)に參つて候ふ。」
と申せば、乙若、出合(いであ)ひて、
「誠に樣(さま)替へておはしますとは聞きたれども、軍(いくさ)の後(のち)は未だ御姿(おんすがた)を見奉らねば、誰々(だれだれ)も戀しくこそ思ひ侍(はんべ)れ。」
とて、我先(われさき)にと、輿に爭ひ乘られけるこそあはれなれ。是を冥途の使(つかひ)ともしらずして、各輿(こし)共(ども)に向ひつゝ、
「急げや、急げ、」
と進みける。羊(ひつじ)の步み近付くをしらざりけるこそはかなけれ。大宮を上(のぼり)に、船岡山へぞ行きたりける。峰より東なる所に輿舁居(かきす)ゑて、如何(いかゞ)せましと思ふ處に、七つになる天王、走出でて、
「父は何處(いづく)におはしますぞ」
と問ひ給へば、延景、淚をながして、暫(しばし)は物も申さざりしが、良(やゝ)あつて、
「今は何をか隱し進らすべき。大殿(おほとの)は頭殿の御承(おんうけたまはり)にて、昨日(きのふ)の曉、斬られさせ給ひ候き。御舍兄(ごしやきやう)たちも、八郞御曹子の外は、四郞左衞門殿より九郞殿まで、五人ながら、ゆふべ此表(おもて)にみえ候ふ山本(やまもと)にて斬り奉り候ひぬ。君達(きんだち)をも失ひ申すべきにて候ふ。相構へて賺(すかし)出(いだ)し進(まゐ)らせて、わびしめ奉らぬ樣にと仰付けられ候ふ間、入道殿の御使とは申し侍(はんべ)るなり。思召す事候はば、延景に仰せ置かせ給ひて、皆御念佛候べし。」
と申せば、四人の人々是を聞き、皆輿より下(お)り給ふ。九になる鶴若殿、
「下野殿へ使をつかはして、如何に我等をば失ひ給ふぞ。四人を助置(たすけお)き給はば、郞等百騎にも勝りなんずるものを、此(この)由(よし)申さばや。」
と、のたまへば、十一歲になる龜若殿、
「誠に、今一度、人を遣はして、慥(たしか)に聞かばや。」
と申されける所に、乙若殿、生年(しやうねん)十三なるが、
「あな心憂(こゝろう)の者共の云(いひ)かひなさや。我等が家に生まるゝ者は、幼けれども心は猛しとこそ申すに、かく不覺(ふかく)なる事を宣ふものかな。世の理(ことわり)をも辨(わきま)へ、身の行末をも思ひ給はば、六十に成り給ふ父の、病氣に依りつて、出家遁世して、憑みて來り給ふをだに斬る程の不當人(たうにん)の、增(まし)て我々を助け給ふ事あらじ。あはれはかなき事し給ふ頭殿かな。是は淸盛が和讒(わざん)にてぞあるらん。多くの弟を失ひ果てて、只一人になして後(のち)、事の次(ついで)に亡(ほろぼ)さんとぞ計(はから)ふらんを曉(さと)らず、只今我身も失せ給はんこそかなしけれ。二三年をも過(すご)し給はば、幼かりしかども乙若が、舟岡にて能く云ひしものをと、汝等も思合(おもひあは)せんずるぞとよ。さても下野殿うたれ給ふて後、忽に源氏の世絕なん事こそ口惜しけれ。」
とて、三人の弟達にも、
「な歎き給ひそ。父も討たれ給ひぬ。誰か助けおはしまさん。兄達も皆斬られ給ひぬ。情(なさけ)をもかけ給ふべき頭殿は敵なれば、今は定て一所懸命の領地もよもあらじ。然ば命(いのち)助りたりとも、乞食(こつじき)流浪の身と成りて、此彼(こゝかしこ)迷行(まよひゆ)かば、あれこそ爲義入道の子共よと、人々に指(ゆび)を指(さ)されんは、家の爲にも恥辱なり。父戀しくば、只西に向(むかつ)て南無阿彌陀佛と唱へて、西方極樂に往生し、父御前と一つ蓮(はちす)に生(うま)れ合ひ奉らんと思ふべし。」
と、をとなしやかに宣へば、三人の君達、各、西に向(むかつ)て手を合(あは)せ、禮拜(らいはい)しけるぞ哀なる。是をみて五十餘人の兵(つはもの)も、皆袖をぞ濡らしける。此君達に各一人づつ傅(めのと)共(ども)付きたりけり。內記(ないきの)平太は天王殿の傅(かしづき)、吉田次郞は龜若、佐野源八は鶴若、原後藤次は乙若殿の傅なり。差寄(さしよ)つて髮(かみ)結擧(ゆひあ)げ、汗拭(あせのごひ)などしけるが、年來日來(としごろひごろ)宮仕(みやづかへ)、旦暮(あさゆふ)に撫(なで)はだけ奉りて、只今を限(かぎり)と思ける心(こゝろ)共(ども)こそ悲しけれ。されば聲を擧げて、叫ぶ計にありけれども、幼き人々を泣かせじと、抑ふる袖の間(ひま)よりも、餘る淚の色深く、包む氣色(けしき)も顯れて、想遣(おもひや)るさへ哀なり。乙若、延景に向つて、
「我こそ先にと思へども、あれ等が幼心(をさなごころ)に、懼恐(おぢおそ)れんも無慙(むざん)なり。又云ふべき事も侍れば、彼等を先に立てばや。」
と宣ひければ、秦野次郞、太刀を拔いて後(うしろ)へ𢌞りければ、傅共、
「御目(おんめ)を塞がせ給へ。」
と申して、皆、退きにけり。卽ち、三人の首、前にぞ落ちにける。乙若、是を見給て、少しも騷がず、
「いしうも仕りつるものかな。我をもさこそ斬らんずらめ。さてあれは如何に。」
との給へば、ほかゐを持たせて參りたり。手づから、此首共の血の付きたるを押拭(をしのご)ひ、髮、搔撫(かきな)で、
「あはれ無慙の者共や。か程に果報少なく生まれけん。只今死ぬる命より、母御前(はゝごぜん)の聞召(きこしめ)し歎き給はんその事を、兼ねて思ふぞ譬(たとへ)なき。乙若は命を惜しみてや、後に斬られけると人言はんずらん。全くその義にてはなし。かやうの事を云はんに付けても、又我斬られんを見んに付けても、留まりたる幼き者の、泣かんも心苦しくて言はぬなり。母御前の今朝(けさ)八幡(やはた)へ詣で給ふに、我も參らんと申せば、皆、參らんと云ふ。具(ぐ)せば、皆、こそ具せめ、具せずは、一人も具せじ、片恨(かたうらみ)にとて、我等が寢入たる間(あひだ)に詣で給しが、今は下向(げかう)にてこそ尋ね給らめ。我等斯かるべしとも知らざりしかば、思ふ事をも申をかず、形見(かたみ)をも進らせず、只、入道殿の呼び給ふと聞きつる嬉しさに、急ぎ輿に乘つる計なり。されば、是を形見に奉れ。」
とて、弟共の額髮(ひたひがみ)を切りつつ、わが髮を俱して、
「若(も)し違(たが)ひもぜんずる。」
とて、別々(べちべち)に句分(つつみわ)けて、各其名を書付(かきつけ)て、秦野次郞に給ひにけり。
「又(また)詞(ことば)にて申さんずる樣(やう)はよな。今朝(けさ)御供(おんとも)に參りなば、終(つひ)には斬られ候ふとも、最後の有樣をば互に見もし見え進らせ候はんずれども、中々(なかなか)互に心苦しき方も侍らん。御留守(おんるす)に別れ奉るも、一つの幸(さいはひ)にてこそ侍れ。この十年(ととせ)餘(あまり)の間は、假初(かりそめ)に立離れ進(まゐ)らする事もはべらぬに、最後の時しも御見參(ごけんざん)に入らねば、さぞ御心に懸り侍るらめなれども、且(かつ)は八幡の御計(おんはからひ)かと思召して、痛くな歎かせおはしまし候ひそ。親子は一世(せ)の契(ちぎり)と申せども、來世(らいせ)は必ず一つ蓮(はちす)に參り逢ふ樣(やう)に御念佛候べし。」
とて、
「今は此等(これら)が待遠(まちどほ)なるらん、疾(と)く疾く、」
とて、三人の死骸の中へ分入(わけいつ)て、西に向ひ念佛三十遍(ぺん)計申されければ、首は前へぞ落にける。四人の傅(めのと)共いそぎ走寄り、首(くび)もなき身を抱きつゝ、天に仰ぎ地に伏して、喚(おめ)き叫ぶも理(ことわり)なり。誠に淚と血と相和してながるゝを見る悲しみなり。內記の平太は直垂の紐を解いて、天王殿の身を我が膚(はだへ)に當てて申けるは、
「この君を手馴(てな)れ奉りしより後(のち)、一日片時(へんし)も離れ進(まい)らする事なし。我が身の年の積(つも)る事をば思はず、早(はや)く人(ひと)と成らせ給へかしと、旦暮(あけくれ)思ひて育(はぐく)み進らせ、月日(つきひ)の如くに仰ぎつるに、只今斯かる目を見る事の心憂さよ。常は我が膝の上にゐ給ひて髭を撫でて、何時(いつ)は人と成りて、國をも莊(しやう)をも設けて知らせんずらんと宣ひしものを。假寢(うたゝね)の寢覺(ねざめ)にも、內記內記と呼ぶ御聲(おんこゑ)、耳の底に留(とゞま)り、只今の御姿(おんすがた)幻(まぼろし)にかげろへば、さらに忘るべしとも覺えず。是より歸りて命生(い)きたらば、千年萬年を經へきや。死出(しで)の山(やま)三途(さんづ)の河をば誰(たれ)かは介錯(かいしやく)申べき。恐しく思召さんに付けても、先(まづ)我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも苦しきに、主(しう)の御供(おんとも)仕らん。」
と云ひも果てず、腰の刀(かたな)を拔く儘に、腹、搔切(かききつ)て失せにける。格勤(かくご)の二人ありけるも、
「幼くおはしましゝかども、情深くおはしつるものを、今は誰をか主(しう)にたのむべき。」
とて、刺違(さしちが)へて二人ながら死ににけり。此等六人が志(こゝろざし)類(たぐひ)なしとぞ申しける。同じく死する道なれども、合戰の場(には)に出でて、主君と共に討死をし、腹を切るは常の習(ならひ)なれども、斯かる例(ためし)は未だなしとて、譽(ほ)めぬ人こそなかりけれ。此首共渡すに及ばず、餘に父を戀しがりければとて、圓覺寺へ送りて入道の墓の傍(かたはら)にぞ埋(うづ)めける。
*
以下、禁欲的に「・」で注を伏す。
・「藏人右少辨資長朝臣」公卿藤原資長(元永二(一一一九)年~建久六(一一九五)年)。久安六(一一五〇)年に右少弁、久寿二(一一五五)年に五位蔵人に敍されている。
・「購出(すかしいだ)して」一般には後に出る「賺す」が正しい。騙して連れ出す、欺き誘い出すの意。・「舟岡」現在の京都市北区にある船岡山。
・「秦野次郞」「延景」波多野義通(嘉承二(一一〇七)年~嘉応元(一一六七)年)のこと。摂関家領相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を所領とする波多野氏の一族。ウィキの「波多野義通」によれば、『東国(関東地方)に下向していた、まだ十代の年若い源義朝に近しく仕え、義通の妹は義朝の側室となって次男・朝長が産まれ』ている保元の乱では義朝に従ったが、この二年後の保元三(一一五八)年四月には、『義朝と不和となり京を去って所領の波多野郷に居住した。この頃、義朝の三男で正室所生の頼朝が、兄である朝長の官位を越え、義朝の嫡男となっており、この嫡男の地位を廻る問題が不和の原因と考えられている(元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』)』。但し、その後の平治元(一一五九)年十二月の平治の乱に於いても依然、義朝方として従軍したが、義朝は敗北、『東国へ落ち延びる道中で同行していた朝長は戦の傷が元で死亡している』。『義通の子・波多野義常は平治の乱から』二十年後の治承四(一一八〇)年に『挙兵した頼朝と敵対して自害した。もう一人の子(もしくは弟)の波多野義景は、頼朝と敵対せず鎌倉幕府の御家人となっている』。『義朝の側室であった義通の妹は中原氏と再婚して中原久経をもうけ、久経はのちに文官として頼朝に仕えている』、教師時代、私はこの波多野氏の末裔の方と同僚であった。
・「母」「當腹」故為義の最後の本妻の謂いであって義朝の実母ではないので注意。ここに出る弟たちは彼の異母弟である(義朝の母は為義の最初の妻で白河院近臣藤原忠清の娘)。
・「六條堀川」京都市下京区堀川通にあった源氏累代の邸宅、六条堀川館。後には義朝の子義経が静とともにここで一時を過ごしたとも言う。
・「相構へて道の程詫びしめずして」「失へ」十全に悟られぬように注意しつつ、くれぐれも途中で泣かせたりすることもないようにして、速やか葬り去れ。
・「入道殿」源為義のこと。彼等は義朝が既に父を誅殺したことを知らないのである。
・「頭殿(かうどの)」義朝。彼は為義の長男である。
・「羊の歩み」羊が屠殺されることを知らずに嬉々として歩むように、眼の間に一歩又一歩と死が近づきつつあることを全く知らずに死に所へと向かって行く子らのことをかく比喩した。
・「大宮」東大宮大路か。船岡山の位置からは西のそれかも知れないが、西京は平安末期にはかなり荒廃していた。
・「八郞御曹子」源為朝。為義八男。彼だけは伊豆大島へ配流となった。母は摂津国江口の遊女。
・「四郞左衞門殿」源頼賢。為義四男。母は源基実娘。
・「九郞殿」源為仲。為義九男。母は江口の遊女で為朝は同母兄。
・「五人」後の三人は為義五男の源頼仲(母は源基実娘)、六男為宗(母同前)と七男為成(母は賀茂神社神主賀茂成宗の娘)である。即ち、ここで彼等を誅殺した義朝からみると彼らの悉く異母弟であった。
・「君達」貴方様方。乙若(満十二歳)・亀若(満十歳)、鶴若は(満八歳)、天王(満六歳)の子らを指す。
・「下野殿」下野守義朝。
・「出家遁世して、憑みて來り給ふをだに斬る程の不當人」「憑みて」が不詳。別本を見ると「賴みて」とある。これなら頼りにして来なさった、で意味が通る。
・「和讒」一方では親しむ風を装って他方で悪く言うこと。「讒言」同じい。この台詞、現在の中学一年生の言葉とも思えない。そしてまさに義朝はこの少年が預言した通りに滅んでゆくのである。少年、畏るべし!
・「撫はだけ奉りて」髪についた塵を掻き落し申し上げて。
・「いしうも」「美(い)しくも」で、「美(い)し」の連用形に感動・詠嘆の係助詞「も」がついたもの。「よくも・感心にも」。
・「さてあれは如何に」「さても、あのものどもの首(こうべ)はどうなるのじゃ?」という乙若の質しである。
・「ほかゐ」「行器」「外居」などと書く。平安以降、主に貴人が食物などを入れて運ばせるのに用いた円筒形で蓋を有し、外側に反った三本の脚のついた木製の容器を指す。物見遊山などの遠出の際や、慶事の贈答品運搬などに用いた。本来は二つ一組で紐を懸けて天秤棒で担いで運ぶ。黒の漆塗りで蒔絵などを施した高級品が多いが、杉の白木製や方形のものもあった。
・「八幡」石清水八幡宮のこと。源家が武神として特に信仰した。
・『内記の平太は直垂の紐を解いて、天王殿の身を我が膚(はだへ)に當てて申けるは、「この君を手馴(てな)れ奉りしより後(のち)、一日片時(へんし)も離れ進(まい)らする事なし。我が身の年の積(つも)る事をば思はず、早(はや)く人(ひと)と成らせ給へかしと、旦暮(あけくれ)思ひて育(はぐく)み進らせ、月日(つきひ)の如くに仰ぎつるに、只今斯かる目を見る事の心憂さよ。常は我が膝の上にゐ給ひて髭を撫でて、何時(いつ)は人と成りて、國をも莊(しやう)をも設けて知らせんずらんと宣ひしものを。假寢(うたゝね)の寢覺(ねざめ)にも、内記内記と呼ぶ御聲(おんこゑ)、耳の底に留(とゞま)り、只今の御姿(おんすがた)幻(まぼろし)にかげろへば、さらに忘るべしとも覺えず。是より歸りて命生(い)きたらば、千年萬年を經へきや。死出(しで)の山(やま)三途(さんづ)の河をば誰かは介錯(かいしやく)申べき。恐しく思召さんに付けても、先(まづ)我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも苦しきに、主(しう)の御供(おんとも)仕らん」と云ひも果てず、腰の刀(かたな)を拔く儘に、腹搔切(かききつ)て失せにける』ハーンならずとも、この内記平太の述懐には激しく心打たれる。
・「格勤(かくご)」「恪勤」は原義は「真面目に一生懸命勤めること」であるが、岩波の新日本古典文学大系本の脚注には『「かくごん」「かくぎん」「かくきん」とも。主君の縁辺にあって諸雑事に奉仕する身分の低い侍(さぶらい)。小侍』と注する。また、同本では、この手前に、
是を見て、殘(のこる)三人も自害しつ。
とある(同本原文はひらがな部分はカタカナ)。
・「圓覺寺」為義の斬首された首は北白河円覚寺に葬られたされ、この寺(廃寺)は現在の左京区北白川下池田町附近にあったらしい。
以下、本文注に戻る。
「カナイアンゼン」「家内安全」。
「エンメイソクサイ」「延命息災」。実は原文では「そくさい」が「さくさい」となっている。誤植の可能性もあるか。
「シヤウバイハンジヤウ」「商賣繁昌」。言わずもがなであるが、後の「これは商人だけが唱へる」はこの一語に対する附加である(原文参照。ここは平井氏のように改行せず、「シヤウバイハンジヤウ」の後に括弧表記で附帯させるべき箇所である)。
「シソンチヤウキウ」「子孫長久」。実は原文では「長久」が「ちょーきん」となっている。
「ヲンテキタイサン」「怨敵退散」。
「ヤクビヤウセウメツ」「厄病消滅」。
「テンカタイヘイ」「天下泰平」。
「ブウンチヤウキウ」「武運長久」。
「カエイマンゾク」「家裔滿足」。「家庭円満」ならよく聴くが、この文字列ではあまり私は聴いたことがないし、ネット検索でも出現しない。しかも「家裔」とあるわけだから、末永く家の栄えを願う願文とは判る。原文は“That our house (family) may for ever remain ortunate.”で、――我々の家名(家族)が永遠に幸運であろますように――と言った謂いであるから、まあ「一家円満」でよかろう。
「オカゲデ、コドモノビヤウキモ、ゼンクワイイタシマシタ、アリガタウゴザイマス!」「お蔭で、子供の病氣も、全快致しました。有難う御座います!」但し、原文は「オカゲデ」が「おかげに」であり、「ゼンクワイイタシマシタ」は「ぜんくわい いたしまして」である。この訳者、音写を恣意的に操作し過ぎである。操作してもよいが、原文と異なることを訳者注として一言挟むのが、原著者ハーンへの最低限の礼儀というものであろう。]
Ⅺ
The terms soreisha and mitamaya, as used in Izumo, may, I am told, signify either the small miya in which the Shintō ihai (usually made of cherry-wood) is kept, or that part of the dwelling in which it is placed, and where the offerings are made. These, by all who can afford it, are served upon tables of plain white wood, and of the same high narrow form as the tables upon which offerings are made in the temples and at public funeral ceremonies.
The most ordinary form of prayer addressed to the ancient ancestors in the household cult of Shintō is not uttered aloud. After pronouncing the initial formula of all popular Shintō prayer, 'Harai-tamai,' etc., the worshipper says, with his heart only—'Spirits august of our far-off ancestors, ye forefathers of the generations, and of our families and of our kindred, unto you, the founders of our homes, we this day utter the gladness of our thanks.'
In the family cult of the Buddhists a distinction is made between the household Hotoke—the souls of those long dead—and the souls of those but recently deceased. These last are called Shin-botoke, 'new Buddhas,' or more strictly, 'the newly dead.' No direct request for any supernatural favour is made to a Shin-botoke; for, though respectfully called Hotoke, the freshly departed soul is not really deemed to have reached Buddhahood: it is only on the long road thither, and is in need itself, perhaps, of aid, rather than capable of giving aid. Indeed, among the deeply pious its condition is a matter of affectionate concern. And especially is this the case when a little child dies; for it is thought that the soul of an infant is feeble and exposed to many dangers. Wherefore a mother, speaking
to the departed soul of her child, will advise it, admonish it, command it tenderly, as if addressing a living son or daughter. The ordinary words said in Izumo homes to any Shin-botoke take rather the form of adjuration or counsel than of prayer, such as these:—
'Jōbutsu seyō,' or 'Jōbutsu shimasare.'[Do thou become a Buddha.]
'Mayō na yo.' [Go not astray; or, Be never deluded.]
'Miren-wo nokorazu.' [Suffer no regret (for this world) to linger with thee.]
These prayers are never uttered aloud. Much more in accordance with the Occidental idea of prayer is the following, uttered by Shin-shu believers on behalf of a Shin-botoke:
'O-mukai kudasare Amida-Sama.' [Vouchsafe, O Lord Amida, augustly to welcome (this soul).]
Needless to say that ancestor-worship, although adopted in China and Japan into Buddhism, is not of Buddhist origin. Needless also to say that Buddhism discountenances suicide. Yet in Japan, anxiety about the condition of the soul of the departed often caused suicide—or at least justified it on the part of those who, though accepting Buddhist dogma, might adhere to primitive custom. Retainers killed themselves in the belief that by dying they might give to the soul of their lord or lady, counsel, aid, and service. Thus in the novel Hogen-nomono-gatari, a retainer is made to say after the death of his young master:—
'Over the mountain of Shide, over the ghostly River of Sanzu, who will conduct him? If he be afraid, will he not call my name, as he was wont to do? Surely better that, by slaying myself, I go to serve him as of old, than to linger here, and mourn for him in vain.'
In Buddhist household worship, the prayers addressed to the family Hotoke proper, the souls of those long dead, are very different from the addresses made to the Shin-botoke. The following are a few examples: they are always said under the breath:
'Kanai anzen.' [(Vouchsafe) that our family may be preserved.]
'Enmei sakusai.' [That we may enjoy long life without sorrow.]
'Shōbai hanjo.' [That our business may prosper.] [Said only by merchants and tradesmen.]
'Shison chōkin.' [That the perpetuity of our descent may be assured.]
'Onteki taisan.' [That our enemies be scattered.]
'Yakubyō shōmetsu.' [That pestilence may not come nigh us.]
Some of the above are used also by Shintō worshippers. The old samurai still repeat the special prayers of their caste:—
'Tenka taihei.' [That long peace may prevail throughout the world.]
'Bu-un chōkyu.' [That we may have eternal good-fortune in war.]
'Ka-ei-manzoku.' [That our house (family) may for ever remain fortunate.]
But besides these silent formulae, any prayers prompted by the heart, whether of supplication or of gratitude, may, of course, be repeated. Such prayers are said, or rather thought, in the speech of daily life. The following little prayer uttered by an Izumo mother to the ancestral spirit, besought on behalf of a sick child, is an example:—
'O-kage ni kodomo no byōki mo zenkwai itashimashite, arigatō-gozarimasŭ!' [By thine august influence the illness of my child has passed away;—I thank thee.]
'O-kage ni ' literally signifies 'in theaugust shadow of.' There is a ghostly beauty in the original phrase that neither a free nor yet a precise translation can preserve.
一〇
出雲の家庭では夜になると、神へと先祖へとの燈を、その家での信賴を受けて居る奴僕か、又は家族の誰かが點す。神道の正の規則では燈には純粹な植物性の油――トモシアブラ――だけしか用ひてはならぬことになつて居て、通例は蕓薹の油を使用する。が然し、より貧しい階級の間では、かの昔からの道具の代りに、極小の石油ラムプを用ひようとする明らかな傾向がある。が、嚴密に正統な式を守る人には、これは甚だ間違つた事と考ヘられて居て、燈をマツチで點すことすら稍〻異端な行ひである。それはマツチはいつも屹度純粹な物質で造らるゝものとは思はれぬのに、神の燈は最も純粹な火――一切の事物のうちに潛んで居(お)る彼の神聖な自然の火――だけで點さなければならぬからである。だから嚴密に正統な式を守る神道家族の家では、どんな家でも、或る小さな部屋があつて、其處にはいつも神聖な火を默すのに用ひる、古昔の道具が入つて居る小さな箱がある。ヒウチイシ卽ち「火打石」と、ヒウチガネ卽ち鋼と、ホクチ卽ち乾かした苔から造つた引火奴と、それからツケギ卽ち脂松の見事な薄切とから、それは成つて居る。引火奴(ほくち)を少し燧石の上ヘ置いて置いて、鋼を二三度打つて煙らせて、炎を出すまで吹く。それからその炎で松の木片を燃やして、それで祖先と神との燈を點すのである。若し宮に或は神棚に、數々の大神が數々のオフダで代表されて居れば、時として別々の燈その一つ一つに點す。そしてその家に佛間があれば、其處の蠟燭又は燈も同時に點す。
神の燈を點すのに燧石と鋼とを使ふ事は、多分一代(だい)のうちに癈れてしまふことであらうけれども、出雲では、殊にその田舍地方では、今なほ大いに行はれて居る。安全マツチが全くこの正統な道具に取つて代つて居る處でも、正統の感念は、使用するマツチの選擇に自づと現れて居る。外國製マツチは許容されぬ。土地のマツチ製造者は、外國マツチには『死んだ動物の骨から造つた』燐が入つて居るから、そんな不淨な火で神の燈を點すのは瀆神であると、首尾能く言ひ囃した。日本の他の部分ではマツチ製造者は『サイキヤウゴホンザンヨウ」(西京【註】の御本山の用に適す)といふ言葉をその箱の上へ捺した。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。日本佛敎の聖都たる京都の別名。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]が、出雲での神道感念は、そんな宣言によつて大いに動かされるには餘りに强かつた。それどころか、そのマツチが眞宗の寺で使用するに適當して居る、といふ推擧それ自體が神道信者をして、そのマツチに僻見を抱かせるに充分であつた。だから安全マツチをこの神の國ヘ見事輸入するまでに、特別の用心をしなければならなかつた。出雲のマツチ製造者は、今かういふ銘を貼つて居る、『純粹にしてカミ若しくはホトケの燈を點すに適す!』
日本に於て一切の事柄に對しての避け難い危險は火である。一家が火事の時、それが出來たらば、第一に助け出すべき品物は、家の中の神と祖先の位牌であるといふことは、傳統的な規則である。これさへ助け出せば、一家の貴重品は大部分は助かるに極まつて居る。これが無くなれば萬事休すだとさへ言はれて居る。
[やぶちゃん注:「トモシアブラ」「點し油」或いは「燈し油」。
「蕓薹の油」菜種油。「蕓薹」は、恐らくは「あぶらな」或いは「なたね」と訓じており、既出既注。言うまでもなくアブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera 、「菜の花」のことである。
「ヒウチガネ卽ち鋼」前後の叙述法から、以前に注したように、訳者は、やはりこの「鋼」を「ひうちがね」と訓じていることが判明した。
「ホクチ卽ち乾かした苔から造つた引火奴」「ホクチ」は「火口(ほくち)」で、言わずもがな乍ら、火打ち石で出した火を最初に移し取って火を安定させて燃上がらせるものを指す。「苔」とあるが、イグチ類(菌界担子菌門真正担子菌綱イグチ目イグチ科 Boletaceae )やサルノコシカケ類(同真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Polyporaceae )などの菌類(キノコ類)に属する種の菌糸(菌類の体を構成する糸状の構造体の単位)や子実体(しじつたい:菌類が胞子形成のために造る菌糸が集合した複合的構造を持つ構造物。この大型のものを我々は所謂、「キノコ」と呼称しているのである)の塊をよく乾燥させたものや、麻(あさ)などの繊維・蒲(がま)の穂などをよく解き解(ほぐ)したものが使用される。「ほくそ」とも言う。直後に「引火奴」には「ほくち」とルビを振ってある。
「ツケギ」「付木」「附木」。この場合は特に単純に薄い短い木片を指している。「ほくち」に移したものを、さらに大きく安定させるための道具で、近世以降では、火を、より移し易くするために、一方の端に硫黄をつけたものが一般的に用いられていた。素材は檜・松(本文の「脂松の見事な薄切」はそれ。「脂松」は松脂を多く含んだものを言っている)・杉材を薄く削ったものである。但し、地域によっては「ほくち」のことを同時に「つけぎ」と同義として用いているので注意されたい。
「安全マツチ」強い毒性を持ち、自然発火し易い危険な黄燐マッチに対する赤燐マッチの呼称。なお、現行の主たる着火薬である頭薬(とうやく)には塩素酸カリウム・硫黄・膠(にかわ)・硝子粉末・松脂・珪藻土からなり、燐は含まれていない(含まれなくなったのは一九〇〇年代とし、今も摩擦する方(側薬という)には赤燐が含まれると、ウィキの「マッチ」にはあった)。
「『死んだ動物の骨から造つた』燐が入つて居る」外国どころか、当時の国産マッチには、確かに、出雲の人々が警戒した通り、動物の骨から燐が製造されていたことが判った。「函館市史デジタル版」の「燧木製造所と囚人玉林治右衛門」を確認されたい。
「西京の御本山」京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の本山龍谷山西本願寺。ここまでしばしばハーンは浄土真宗を神道の対照例として出すが、実はネットを調べてみると、島根は現在でも浄土真宗の信者が有意に多い県にリスト・アップされていることが判った。信用されない向きのために、島根県出雲市今市町北本町にある「仏壇の原田 出雲店」の公式サイト内に、現在の島根県内には約千二百の『檀家(門徒)を持つ寺院があります。特筆すべきは、石見地域で、約半数は浄土真宗本願寺派で出雲部は、西東合わせても』二割弱で、『出雲部に唐木仏壇が多く石見部に金仏壇が多い』ことが、『この宗派別分布図』(リンク先を見て頂きたい)『により理解できます。その出雲部の中でも松江市は、曹洞宗が約半数近くを占めていますが』、浄土真宗は西東合わせても二十ヶ寺、『出雲市では、臨済宗が』四割『近くを占めています』とある。グラフを見ると、出雲地方では禅宗に後塵を拝しているものの、石見地方のそれは浄土真宗のグラフの棒だけが、中略されていることから、島根の真宗信徒のダントツさが、よく判る。
「僻見」老婆心乍ら、「へきけん」と読む。公平でない偏った見解。「偏見」に同じい。
「純粹にしてカミ若しくはホトケの燈を點すに適す!」底本では『純粹にしてカミ若しくはホトケ!の燈を點すに適す』と感嘆符が配されている。原文を見ても文末であり(確かに「仏!」だけどね)、これは如何にもおかしい。例外的に訂した。]
Ⅹ
At nightfall in Izumo homes the lamps of the gods and of the ancestors are kindled, either by a trusted servant or by some member of the family. Shintō orthodox regulations require that the lamps should be filled with pure vegetable oil only,―tomoshiabura,―and oil of rape-seed is customarily used. However, there is an evident inclination among the poorer classes to substitute a microscopic kerosene lamp for the ancient form of utensil. But by the strictly orthodox this is held to be very wrong, and even to light the lamps with a match is somewhat heretical. For it is not supposed that matches are always made with pure substances, and the lights of the Kami should be kindled only with purest fire,―that holy natural fire which lies hidden within all things. Therefore in some little closet in the home of any strictly orthodox Shintō family there is always a small box containing the ancient instruments used for the lighting of' holy fire. These consist of the hi-uchi-ishi, or 'fire-strike-stone'; the hi-uchi-gane, or steel; the hokuchi, or tinder, made of dried moss; and the tsukegi, fine slivers of resinous pine.
A little tinder is laid upon the flint and set smouldering with a few strokes of the steel, and blown upon until it flames. A slip of pine is then ignited at this flame, and with it the lamps of the ancestors and the gods are lighted. If several great deities are represented in the miya or upon the kamidana by several ofuda, then a separate lamp is sometimes lighted for each; and if there be a butsuma in the dwelling, its tapers or lamp are lighted at the same time.
Although the use of the flint and steel for lighting the lamps of the gods will probably have become obsolete within another generation, it still prevails largely in Izumo, especially in the country districts. Even where the safety-match has entirely supplanted the orthodox utensils, the orthodox sentiment shows itself in the matter of the choice of matches to be used. Foreign matches are inadmissible: the native matchmaker quite successfully represented that foreign matches contained phosphorus 'made from the bones of dead animals,' and that to kindle the lights of the Kami with such unholy fire would be sacrilege. In other parts of Japan the matchmakers stamped upon their boxes the words: 'Saikyō go honzon yo' (Fit for the use of the August High Temple of Saikyō). [20] But Shintō sentiment in Izumo was too strong to be affected much by any such declaration: indeed, the recommendation of the matches as suitable for use in a Shin-shū temple was of itself sufficient to prejudice Shintōists against them. Accordingly special precautions had to be taken before safety-matches could be satisfactorily introduced into the Province of the Gods. Izumo match- boxes now bear the inscription: 'Pure, and fit to use for kindling the lamps of the Kami, or of the
Hotoke!'
The inevitable danger to all things in Japan is fire. It is the traditional rule that when a house takes fire, the first objects to be saved, if possible, are the household gods and the tablets of the ancestors. It is even said that if these are saved, most of the family valuables are certain to be saved, and that if these are lost, all is lost.
20
Another name for Kyōto, the Sacred City of Japanese Buddhism.
九
然し神道の昔の神樣だけを神棚の前で拜む。一家の祖先或は一家の死人は別な部屋(ミタマヤ卽ち『靈の部屋』と呼ぶ)で拜むか又は、佛式で拜むなら、ブツマ若しくはブツダンの前で拜むかする。
佛教の家内禮拜は出雲の大多數の家で、神道の家内禮拜と共に存して居る。で、死人が御靈屋で拜まれるか、佛壇の前で拜まれるかは、全くその家庭の宗敎的傳統に因るのである。その上出雲には――特に杵築では――一家の誰もが佛敎の如何なる種類のものをも信じて居ない家があるし、家の者は神道の行をしない眞宗又は、日蓮宗【註】のものが極めて少いけれど在る。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。斯ういふことには日蓮宗は嚴正
だと想はれて居るに拘らず、出雲で
のその敎儀の信奉者は同樣にまた熱
心な神道家である。槪して言つて出
雲の眞宗信者も、それと同樣である
かどうかは自分は觀察し得なかつた
が、松江の眞宗信者には神社に禮拜
するものがあることは自分は知つて
居る。佛陀のうちでも阿彌陀と稱す
るあの形態のみを崇めるのだから、
眞宗は佛敎の『唯一神敎(ユニテエ
リアン)』だと言つても宜い。その
敎儀が神道に反して居るの故を以て、
それは出雲では鞏固なる足場は終に
得ないで居るやうに思はれる。日本
中他の地方では眞宗は佛敎諸宗のう
ちで、最も旺盛な最も繁昌な宗派で
ある。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]が、死者に對する家內での祭祀は、その家が神道であらうが佛敎であらうが、依然行はれて居る。佛敎を奉じで居る家の死人(ホトケ)のイハイ卽ち牌は決して特別な部屋、又は宮に置きはしないで、普通その中へ置いてある佛神の像、又は繪とともどもに家の中の佛式の宮【註】の中に置く――或は、少くとも、それに對する尊敬を神式で無く、佛式で行ふ時はいつも必ず左うである。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。モオルス氏は、その『日本の家
庭』で、『家の中の佛式の社は床(ゆ
か)の上に置いてある、――兎も角
自分はさう聞いて居る』と述べて居
るが、あれは又聞(またぎゝ)で頗
る妙な誤を發表したものである。ど
んな場合にも床上へ置きはせぬ。よ
り好い階級の家では特別な設備を佛
壇に爲して居る。橫にも辷る板か又
は小さな戶で人目に見えぬやうしつ
らへてあるが普通で、床か壁の引込
んだ處か、又は他の工夫をした處に
置く。より小さな住居では他に善い
處が無いが爲めに、棚の上に置くこ
とはあらう。そして貧乏人の家では
タンス卽ち衣服入の上に置くことは
あらう。神棚ほどの高さには決して
置かぬが、床の上三呎以下の高さに
は滅多置かぬ。佛壇のモオルス自ら
の挿繪(二二六頁)を見ると、決し
て床の上に在るのでは無くて、戸棚、
これは佛壇と混同してはならぬが、
戶棚の上の段――極く小さな棚――
の上に載つて居る。今問題にして居
るそのスケツチは、その繪に見ゆる
お供物が盆祭のお供物だから、死者
の祭の間に描いたもののやう察しら
れる。盆の折には家の內の佛壇は、
いつも扉を開けて中が見えるやうに
なつて居り、且つその前へ置くお供
物に餘地を與へる爲め、いつもの場
處から動かすことが能くある。床
(ゆか)の上へ神聖な品物を置くこ
とは日本人には非常に不敬な事に思
はれて居る。神道の品物と云へば、
マモリでさへ床(ゆか)の上へ置く
のは罪だと考へられて居る。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]佛壇或は佛間の形狀、その聖像そのオフダその繪圖の性質、またその前で唱へる祈禱すら、十五もある異つたシユウ卽ち宗派に依つて異ふから、佛間の問題を徹底的に述べる爲めには、餘程大きな書物一册書かなければならぬことであらう。だから家の内での佛式の宮には、大小も價格も壯麗の度合も、種々樣々だといふこと、眞宗の佛壇は、これは自分には一番興味の乏しいものではあるが、意匠に於て仕上げに於て、最も美しいものと一般に考へられて居ること、を述べて滿足しなければならぬ。極はめて貧しい家の佛壇は、値ひ四五錢の名あるが、富裕な信者は幾千圓といふその拂ひ得る限りのものを、京都で購ふこともあらう。
佛間の形狀幷びに、その在中物の性質は大いに異りはして居るけれども、祖先の卽ち葬禮の名牌の形は、此書の位牌【註】の插繪の第四圖に示したものが普通のものである。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。佛敎信者が死んだ場合には、一
人に對していつも位牌を二つ造る。
一つは家庭の宮に置いて置く物より
大きいが通例で、それはその死者が
その檀徒であつた寺で、お供物とし
て每日それへ茶か水を注ぎ入れる茶
椀と一緖に、保存せられる。大きな
寺では殆んどどの寺にも、そんな位
牌が幾千となく、――死者の靈も茶
を飮むと想像されて居るから――
一々その前に茶椀を置いて、段の上
に段を爲して、橫にづらりと並んで
居るのが見られる。自分は幾列もの
茶椀が、たゞ埃だけ入れて居るのを
見たことがあるから、尤もその罪は
恐らく橫着な小僧に在るのだらうが、
時折そのお供物が失念されることが
あるやうでゐる。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]これより精巧な、高價な珍奇な形のもあり、最も低廉で最も簡素なより單鈍な形のもある。が、別紙揷繪の形は出雲と山陰道全部に普通なものである。が然し、大きさには相違があつて、男の位牌は女のよりも大きく、その上、上に冠せ物があるのであるが、女のにはそれが無い。そして子供の位牌はいつも頗る小さい。成人の男の位牌の平均の高さは一呎少し上で、その厚みは一吋許りである。ハウシユノタマ卽ち神祕の珠の徽號が、上に載つて居る頂卽ち冠り物があり、普通は何か雲形の裝飾があつて、臺は雲から出て居る蓮華である。一般には全部美々しく漆で塗られ、金色で彩られて居り、位牌そのものは黑漆塗で、金文字で死後の名卽ちカイミヤウ――賢夢自證信士とか、死んだ人が有つて居たと想はれて居た美德を示す他の文字とか――が書いてあるのである。そんな美しい位牌を求め得ない極貧の人のは白木の位牌で、戒名はただその上へ黑文字で書いてあるだけである。が、それより、もつと普通には、戒名を白紙の片に書いて、それを米糊で位牌に貼るのである。生前の名が恐らくその位牌の裏に彫られてゐる。こんな位牌は固よりのこと、幾代と經つに連れて積(た)まつて來る。だから、非常に澤山な數を蓄へて居る家がある。
大いに人を感動させる美くしい或る習慣が、古昔よりか餘程普通では無くなりはしたが、今なほ出雲に、そして多分日本中に、殘存して居る。が然し、自分の知り得る限今では、これはいつも修養ある階級だけに限られて居る。夫が死んだ時、その妻が再緣しないと決心する場合には位牌を二つ造る。その一つには死者の戒名を金文字で書き、今一つのには生きて居るその寡歸の戒名を書く。が、後者には、戒名の初の一字を赤で彩つて、餘の文字は金で書く。それからその二つの位牌を家の佛間に置く。それと同じ樣に文字を認めた、より大きな位牌を二つ檀那寺に納める。が、その妻の前へは茶椀は置かぬ。その唯一つの深紅の字は死者の靈に對して、一生忠實をつくすといふ嚴肅な保證を意味して居る。その上また、その妻はその友人親族、總ての間にその生きて居る間の名を失つて、その後はただその戒名の一部分で呼びかけられる。例へば、俊德院樣と呼ぶ。それはそれよりもつと長いもつと口調の好い、死後の名の俊德院殿情譽貞操大姉【註】の省略である。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。これはサムラヒの戒名の好個の
見本である。華族又は士の戒名は賤
しい死者の戒名とは異ふ。だから日
本人に位牌を見て、それに使つてあ
る佛敎の言葉で、その死者はどんな
社會階級の人だつたか直ぐと言ひ得
るのである。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]だから自己の戒名で名を呼ばるゝことは、夫の靈に對する貞操であり、同時に夫を亡くしたその妻の不變の誠實である。それと正(まさ)しく似た保證を、自分の熱愛して居た妻を亡くした後、男が爲る。自己の位牌の上に見らるゝ深紅な一字は、啻に家內に於てのみで無く、公の崇拜の場處に於ても、その誓を書留めて居るのである。が、鰥は、寡婦とは異つて、その戒名で呼ばる〻ことは決して無い。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
佛敎を信じて居る家での朝の、最初の宗敎的義務は死者の位牌の前へ、最初の御湯でいれた御茶の小さな茶椀を置くこと――オホトケサンニオチヤタウヲアゲルことである【註】。
註。『尊き佛に御ン茶を呈上する』
の意。佛敎の信仰では、死んだ人は
佛と成つて其後は輪𢌞の悲を免れる、
と信じはして居なくとも、さう望む。
だから『死んだ』といふ言ひ現しを
日本語では『佛に成つた』といふ句
で表すことが能くある。
日日また御飯の供物もする。そして新しい花を花瓶に挿す。そして香を――これは神道では許さぬのであるが――位牌の前で焚く。夜は、また或る祭禮中は、蠟燭と小さな――宮の燈とは稍〻形を異にした燈でリントウと呼ばれて居る――油の燈を點す。每月死んだ日に相當する日にはシヤウジンレウリ卽ち佛敎信者の植物性食物だけから爲る、食物を少し位牌に供へる。ところが家庭での神道崇拜には、新年の一日から三日まで續く特別の年祭があるやうに、佛敎の祖先崇拜には七月の十三日から十六日まで續く、年每のボンク卽ちボンマツリがある。これが佛教の精靈の供養である。その時は佛間は出來る限の裝飾が施され、食物と花との特別な供物が爲され、その靈的訪客の來るを迎へる爲め、全家が美くしくされるのである。
ところで神道には、佛敎同樣、位牌がある。が、それは質素極はまつた恰好と材料とのもので――無地の白木の木片に過ぎぬ。普通その高さはただ八吋ばかりである。此位牌は、神の宮が据ゑてある部屋とは別な部屋に置いてある、或る特別なミヤに置くか、又はミタマサンノタナ――『尊い御魂の棚』――と人の呼ぶ小さな棚の上に、ただ並べて置くかする。祖先とその家の死者との棚又は宮は、ミタマヤ或はソレイシヤ(御魂の部屋を時に斯く呼ぶ)に置いて、他の部屋にある神の宮が左うのやうに、いつも餘程の高さの處に置く。時々位牌は使用せずに、名前を御魂の宮の木材の上へ直かに書いたりする。が、神道には戒名は無い。死者の生前の名をその位牌に、「ミタマ」(御魂)の語をただ一字添へて、認(したゝ)める。そして月一囘のその死亡日に相當する日に、每月魚と酒と他の食物との御供物を、特殊の祈禱と共に捧げる【註一】。ミタマサンにも亦その特別な燈と花瓶とを捧げ、そして程度は劣るが、神に對する儀式に似た儀式を以てして之を敬ふ。
註一。死者或は神へのこの飮食供物
の基を爲す思想は、無考へな批評家
が左うと公言して居る程、かく不合
理なものでは無い。死者は最も蒸氣
的な種類の滋養だけを要する、空氣
のやうな狀態に在ると思はれて居る
から、自分共の前に供へられる食物
の眼に見える物質を、少しでも攝る
ものとは想はれて居無い。死者はそ
の食物の眼に見えぬ本質だけを吸收
するといふのである。だから、果物
やそんなやうな他の供物が、數時間
空氣に曝された後、その風味を幾分
か失ふと、靈魂がそれを味はつた證
據だと、昔は考へたのであらう。科
學的敎育は必然的にかゝる慰安的空
想を消滅せしめる。そしてそれと共
に、生者と死者との關係についての
優しい美はしい、多くの空想をも消
滅せしめる。
神道若しくは佛敎の位牌の前で唱へる祈禱は、それぞれその宗敎的な法式の文句で始まる。神道信者は、手を三度若しくは四度打つて【註二】、先づ聖禮の『拂ひ給へ』を唱へる。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註二。拍手の數は州に依つて幾分異
ふ。九州では拍手は、殊に朝日に向
つての祈禱の前は、頗る長い。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]佛敎信者は、その宗派に從ひ、祖先へのその祈禱を始める前に、『南無妙法蓮華經』とか『南無阿彌陀佛』とか佛陀に祈り或は佛陀を讚へる、或る他の聖語をつぶやく。神道信者でも佛敎信者でも、祖先への言葉は聲高に述べることは滅多無い。口の中で極く低い聲でさゝやくか、又はただ心の中で言ふ。
[やぶちゃん注:以下、底本及び原本の附図二枚(Ⅰ・Ⅱとする)を示す。画像の質(特に退色や裏の透け)がやや異なるので、それぞれ、最初のもの(1)は底本である国立国会図書館デジタルライブラリーの画像からトリミングして補正(ノンブルを消去)したものを示し、次の(2)は“Project Gutenberg” の“Hearn,Lafcadio, 1850-1904 ¶”の原文の当該箇所の画像をダウンロードして補正した訳本のキャプションは以下に電子化して示した(画像の左から)。なお、前回同様、図キャプションの英文を原文の注の後ろに★及び★★を附して電子化しておいた。]
[やぶちゃん注:Ⅰのキャプション。右端に配された総見出しを最初に示した。左から。]
神聖な品物(佛敎者)
一家の位牌が内部に集めてある禪宗の佛壇。
死者の乘る小さな藁舟、シヤウリヤウブネ。(出雲海岸地方)
[やぶちゃん注:「シヤウリヤウブネ」「精靈舟」。図の帆には向こう向きに戒名が記されてあるが、「華元□居士」で三字目は(あし)の部分が不明瞭で反転拡大して見たものの、判読出来なかったものの、次の図の位牌の「4」と同一人物と思われ、だとすると「樂」であるが、「樂」の字や俗字にはちょっと見えない。しかし「樂」を「集韻」は「或ひは心(こころ)に从(したが)ふ」と解しており、「心」の下に「从」ならこの字に極めて似ているように思われる。]
[やぶちゃん注:Ⅱのキャプション。左から。二番目から五番目まで下に大括弧が附された上で標題が最下部に附されるが、ここでは二番目の頭に附しておいた。]
1.神道の位牌
(出雲)
[やぶちゃん注:「高濱都多子 靈」。]
佛教の位牌(禪宗)
2.士の妻の位牌
[やぶちゃん注:「俊德院殿情譽貞操大姉」。最後の「5」の未亡人だった人物の戒名か。なお、現行一般には、この「情」の箇所には生前の名前の一字を入れることが多いと思われる。]
3.小さき子供の位牌
[やぶちゃん注:「良智童子」。現行では凡そ六歳から十五歳くらいまでの位号が「童子」で、これ以上は成年と同じとなり、これ以下では「水子(すいし)」・「嬰子(えいじ)/嬰女(えいにょ)」(約三歳まで)・「孩子(がいし)/孩女(がいにょ)」(凡そ五歳まで)というのが一般のようである。]
4.男子の位牌の普通の形式
[やぶちゃん注:「華元喜樂居士位」。]
5.士の官吏の裝飾精緻な位牌
[やぶちゃん注:「静言院殿情譽覚音居士」。前の「2」の私の注も参照のこと。]
[やぶちゃん注:(Ⅰ-1)。]
[やぶちゃん注:(Ⅰ-2)]
[やぶちゃん注:(Ⅱ-1)。]
[やぶちゃん注:(Ⅱ-2)]
[やぶちゃん注:「ミタマヤ」「御魂屋」或いは「御靈屋」。
「唯一神敎(ユニテエリアン)」原文“Unitarianism”。これは単純な「一神教」の謂いではない。「一神教」ならば“monotheism”である。ではその「ユニテリァニズム」とは何かと言えば、キリスト教で伝統的に用いられてきている「三位一体」(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称で、ウィキの「ユニテリアン主義」によれば、歴史的には『イエス・キリストを宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越性は否定する』。『ユニテリアンの思想的先駆者はポーランド王国で』一五五六年に『活動を開始し、のちにポーランド・リトアニア共和国で広まったポーランド兄弟団』『である。彼らはユニテリアンの思想を確立していたが、「ユニテリアン」という用語はしばらくの間使用しなかった。これとは別に』、一五六七年に『トランシルヴァニア(当時はハンガリー王国で現在はルーマニア)で「ユニテリアン」を自称する教団が成立している。ポーランド兄弟団はこのあともしばらく「ユニテリアン」の用語を使用しなかったが、これは世の中にトランシルヴァニアでの宗教運動と自分たちの運動とを内容的に混同されることを避けたものと推測されている』。『この宗教思想が流入してきたイギリスではしばらくの間かれらは自由思想家や非国教徒として位置付けられ、また合理主義やヒューマニズムの思想を発展させたという説もある』。日本への移入は早く、明治二〇(一八八七)年に『アメリカ・ユニテリアン協会より最初の宣教師A・M・ナップが来日』、『月刊誌『ゆにてりあん』を発行した。また、「唯一館」を建てて盛んに講演会を開催し盛んに宣伝した。社会主義者の村井知至や安部磯雄らを通して日本の社会運動に影響を与えた』とあり、『戦後は日本自由宗教連盟・東京帰一教会やユニテリアン友の会、ユニテリアン友の集いなどが結成され』ていなどとあって、何だかよく判らない。ある辞典には――個々の信念の自由を強調して、三位一体を拒絶する、キリスト教の一つの考え方をするグループ――といった意味合いのことが記されてあった。これで私は手打ちとする。
「日本中他の地方では眞宗は佛敎諸宗のうちで、最も旺盛な最も繁昌な宗派である」さるQ&Aサイトの答えには、各宗派別と宗別の信者数が以下のような数字が示されてあった(回答は二〇〇七年のもの。降順。下線やぶちゃん)。
*
【宗派別】
浄土真宗本願寺派 六九四万人
浄土宗 六〇二万人
真宗大谷派 五五三万人
高野山真言宗 五四九万人
日蓮宗 三四一万人
曹洞宗 一五八万人
真言宗智山派 一五四万人
真言宗豊山派 一二〇万人
天台宗 六一万人
真言宗醍醐派 五六万人
【宗別】
浄土系 一九七七万人
浄土真宗系 一三〇七万人
浄土宗系 六四八万人
融通念仏宗 一三万人
時宗 八万人
日蓮系 一九二七万人
真言系 一三八八万人
禅系 三四二万人
曹洞宗 一五八万人
臨済宗系 一一二万人
黄檗宗 三五万人
天台系 二八〇万人
奈良仏教系 七八万人
*
これには――野上ほか著『仏教宗派の常識』(朱鷺書房)を参照したもので、引用元は文化庁編『宗教年鑑』(平成六(一九九四)年版)を引いたものであるとし、当時の文部大臣所轄の包括宗教法人のみ、日蓮系から日蓮正宗を省いてある(創価学会が離脱するまでの人数(五七〇万人)が含まれているため)――といった注意書が附されてある。これを見ても確かに現在でも浄土真宗は最大の信者を有する宗派と考えてよかろう。因みに、ウィキの「日本の宗教」には、『日本における宗教の信者数は、文部科学省が宗教法人に対して行った宗教統計調査によると』、
神道系 約一億 七〇〇万人
仏教系 約 八九〇〇万人
キリスト教系 約 三〇〇万人
その他 約 一〇〇〇万人
合計 二億 九〇〇万人
とし、『これは日本の総人口の』二倍弱に相当すると記されている。最後の最新(二〇一四年)の概数ならば、総務省統計局の宗教統計調査のこちらでエクセル・データでダウンロード出来る。
「モオルス氏は、その『日本の家庭』で、『家の中の佛式の社は床(ゆか)の上に置いてある、――兎も角自分はさう聞いて居る』と述べて居る」既出のお雇い外国人でアメリカの動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)の“Japanese Homes and Their Surroundings”(日本人と家屋とその環境)の第四章の「家屋内部(続き)」(第三部の「家屋内部」に続くもの)の「神棚」のパートに出る描写を指している。その箇所は原文では(“Internet Archive”のそれより)、
*
The Buddhist household shrines, having a figure of Buddha or of one of his disciples, or perhaps of some other god, are much more ornate, and rest on the floor, — at least so I was informed.
*
である。邦訳を斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)から引用しておく。
《引用開始》
屋内で祀られる仏壇のほうは、仏陀とか仏陀の弟子とか、あるいは何か他の仏像(サム・アザーゴッド)が祀られているが、神棚に比べてはるかに飾りが多く、また床(ゆか)の上に安置されている。――少なくともわたくしの知るかぎりではそうである。
《引用終了》
この「何か他の仏像(サム・アザーゴッド)」の「サム・アザーゴッド」は「何か他の仏像」のルビである。
「しかし不合理なものでは無い」底本では「しかく不合理なものでは無い」となっている。
「三呎」九十一・四四センチメートル。
「佛壇のモオルス自らの挿繪(二二六頁)を見ると、決して床の上に在るのでは無くて、戶棚、これは佛壇と混同してはならぬが、戶棚の上の段――極く小さな棚――の上に載つて居る。今問題にして居るそのスケツチは、その繪に見ゆるお供物が盆祭のお供物だから、死者の祭の間に描いたもののやう察しられる。盆の折には家の內の佛壇は、いつも扉を開けて中が見えるやうになつて居り、且つその前へ置くお供物に餘地を與へる爲め、いつもの場處から動かすことが能くある。床(ゆか)の上へ神聖な品物を置くことは日本人には非常に不敬な事に思はれて居る。神道の品物と云へば、マモリでさへ床(ゆか)の上へ置くのは罪だと考へられて居る」このハーンの観察は驚くべきものがある。これは日本に来て未だ二年弱しか経っていない外国人の観察であることに注意せねばならぬ(「二」で彼は「この文は千八百九十二年の始に書いたものである」と述べている)。以下に当該図を斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)から引いておく。邦訳のキャプションは『215図。仏壇。』である。
なお、ここも当該図を説明する原文(“Internet Archive”のそれより)と訳文とともに以下に引用しておく。
*
The sketch here given of a Buddhist household shrine (fig. 215) was seen in a house of the most squalid character. The various vessels were filled with boiled
rice, with loaves of mochi made of a special kind of rice, and a number of unripe peaches.
*
《引用開始》
ここに掲げた仏壇のスケッチは(二一五図)は、非常にみすぼらしい家で見たものである。さまざまの器(うつわ)には、御飯(ごはん)や餅米で作った鏡餅 the loaves of mochi や熟していない桃が盛られている。下段の右端には、さつま芋や大根に四本の脚をつけたものを置いており、一見したところ小物の鹿か、何かの動物のようである。これが子供の仕業(しわざ)か、それとも神が乗る馬を象徴するものであるかどうかについては確かめられなかった。
《引用終了》
どうです? モースの精霊馬と精霊牛の観察、面白いでしょ? なお、以前にも述べたように、私はモースの「日本その日その日」(石川欣一訳)を電子化注している。
「十五もある異つたシユウ卽ち宗派」通常、本邦の仏教宗派は古くは「十八宗」と呼ばれ、三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗を数え、その後「十三宗」として華厳宗・法相宗・律宗・真言宗・天台宗・日蓮宗・浄土宗・浄土真宗・融通念仏宗・時宗・曹洞宗・臨済宗・黄檗宗を数えている。ハーンがこれにあと何の二宗派を数えたのかは定かではないが、所謂、浄土真宗は本願寺派と大谷派を分けているものとは思われる(後の一派は不詳)。
「幾千圓」現在の二千万円を遙かに越える金額に相当する。
「第四圖」と言っているが、実際の原本にも挿絵の図にもナンバリングはない。私が「Ⅱ」とした挿絵である。
「一呎」一フィートは三〇・四八センチメートル。
「一吋」一インチは二・五四センチメートル。
「ハウシユノタマ」「寶珠の玉」。如意宝珠。既注。
「だから日本人に位牌を見て、それに使つてある佛教の言葉で、その死者はどんな社會階級の人だつたか直ぐと言ひ得るのである」これを読むと私は「獸士」と彫られた差別戒名の墓を見た折りの衝撃が蘇ってくる。個人サイト「たむたむ(太夢・多夢)」の「差別戒名の烙印」を見られよ。そこには「畜」「賤」「僕」「非」「革」「鞍」「似」「皮」「婢」「隷」「穢」「栴陀羅」(せんだら:インドで最下級とされた階級。狩猟・屠畜などを生業とした。日本では中世の一時期に被差別民に対する呼称としても使われていた)といった文字が使われたり、位号に「畜門」「畜男」「屠女」「革門」「非男」「屠士」とする戒名が実在したこと、 驚くべきことに第二次世界大戦後にも「栴陀」「革門」「下男」「下女」の位号をつけたものがあること、一九八〇年に新たに建立された墓誌にさえ依然として「革門」「革女」が彫られていたという驚愕の事実が記されている。
「鰥」老婆心乍ら、「やもめ」と読む。ここは妻を亡くした寡夫のこと。寡婦も「やもめ」と呼ぶが漢字表記では女性には「寡」「寡婦」「孀」が、男性には「鰥」「鰥夫」が用いられることが多い。
「オホトケサンニオチヤタウヲアゲル」「御佛さんに御茶湯を捧(あ)げる」。
「リントウ」「輪燈(灯)」前の「八」の「眞鍮の燈」の私の注で、まさに私が神具の真鍮製灯明具の濫觴と疑った、浄土真宗で用いられる垂下式の真鍮製灯明である。
「シャウジンレウリ」「精進料理」。
「ボンク」「盆供」。
「ボンマツリ」「盆祭」。孰れも盂蘭盆会。
「八吋」二〇・三二センチメートル。
「ミヤ」「宮」。後の「御魂の宮」と同じい。
「ミタマサンノタナ」「御魂さんの棚」或いは「御靈さんの棚」。
「ソレイシヤ」「祖靈社」。
「死者或は神へのこの飮食供物の基を爲す思想は、無考へな批評家が左うと公言して居る程、かく不合理なものでは無い。」実は「かく」は「しかく」となっている。しかしこれでは意味が採れないし(無理に「其斯(しか)く」と読む以外にはないが、これはどうにもも私が気持ちが悪い)、原文(“The idea underlying this offering of food and drink to the dead or to the gods, is not so irrational as unthinking Critics have declared it to be.”)や訳文のこの前の部分を見ても、ここは「かく」の方が通りが良いと判断して、迷ったものの一応、「し」を衍字と見て例外的に「かく」に訂した。個人的にはさらに「かくも」とした方がしっくりくように感ずる。和訳上も大きな問題点はないとは思うが、大方の御叱責を俟つものではある。]
Ⅸ
But only the ancient gods of Shintō are worshipped before the kamidana. The family ancestors or family dead are worshipped either in a separate room (called the mitamaya or 'Spirit Chamber'), or, if worshipped according to the Buddhist rites, before the butsuma or butsudan.
The Buddhist family worship coexists in the vast majority of Izumo homes with the Shintō family worship; and whether the dead be honoured in the mitamaya or before the butsudan altogether depends upon the religious traditions of the household. Moreover, there are families in Izumo―particularly in Kitzuki―whose members do not profess Buddhism in any form, and a very few, belonging to the Shin-shu or Nichirenshu, [13] whose members do not practise Shintō. But the domestic cult of the dead is maintained, whether the family be Shintō or Buddhist. The ihai or tablets of the Buddhist family dead (Hotoke) are never placed in a special room or shrine, but in the Buddhist household shrine [14] along with the images or pictures of Buddhist divinities usually there inclosed,―or, at least, this is always the case when the honours paid them are given according to the Buddhist instead of the Shintō rite. The form of the butsudan or butsuma, the character of its holy images, its ofuda, or its pictures, and even the prayers said before it, differ according to the fifteen different shu, or sects; and a very large volume would have to be written in order to treat the subject of the butsuma exhaustively. Therefore I must content myself with stating that there are Buddhist household shrines of all dimensions, prices, and degrees of magnificence; and that the butsudan of the Shin-shu, although to me the least interesting of all, is popularly considered to be the most beautiful in design and finish. The butsudan of a very poor household may be worth a few cents, but the rich devotee might purchase in Kyōto a shrine worth as many thousands of yen as he could pay.
Though the forms of the butsuma and the character of its contents may greatly vary, the form of the ancestral or mortuary tablet is generally that represented in Fig. 4 of the illustrations of ihai given in this book. [15] There are some much more elaborate shapes, costly and rare, and simpler shapes of the cheapest and plainest descriptions; but the form thus illustrated is the common one in Izumo and the whole San-indo country. There are differences, however, of size; and the ihai of a man is larger than that of a woman, and has a headpiece also, which the tablet of a female has not; while a child's ihai is always very small. The average height of the ihai made for a male adult is a little more than a foot, and its thickness about an inch. It has a top, or headpiece, surmounted by the symbol I of the Hoshi-no-tama or Mystic Gem, and ordinarily decorated with a cloud-design of some kind, and the pedestal is a lotus-flower rising out of clouds. As a general rule all this is richly lacquered and gilded; the tablet itself being lacquered in black, and bearing the posthumous name, or kaimyō, in letters of gold,― ken-mu-ji-shō-shin-ji, or other syllables indicating the supposed virtues of the departed. The poorest people, unable to afford such handsome tablets, have ihai made of plain wood; and the kaimyō is sometimes simply written on these in black characters; but more commonly it is written upon a strip of white paper, which is then pasted upon the ihai with rice-paste. The living name is perhaps inscribed upon the back of the tablet. Such tablets accumulate, of course, with the passing of
generations; and in certain homes great numbers are preserved.
A beautiful and touching custom still exists in Izumo, and perhaps throughout Japan, although much less common than it used to be. So far as I can learn, however, it was always confined to the cultivated classes. When a husband dies, two ihai are made, in case the wife resolves never to marry again. On one of these the kaimyō of the dead man is painted in characters of gold, and on the other that of the living widow; but, in the latter case, the first character of the kaimyo is painted in red, and the other characters in gold. These two tablets are then placed in the household butsuma. Two larger ones similarly inscribed, are placed in the parish temple; but no cup is set before that of the wife. The solitary crimson ideograph signifies a solemn pledge to remain faithful to the memory of the dead. Furthermore, the wife loses her living name among all her friends and relatives, and is thereafter addressed only by a fragment of her kaimyō,―as, for example, 'Shin-toku-in-San,' an abbreviation of the much longer and more sonorous posthumous name, Shin-toku-in-den-jōyo-teisō-daishi. [16] Thus to be called by one's kaimyō is at once an honour to the memory of the husband and the constancy of the bereaved wife. A precisely similar pledge is taken by a man after the loss of a wife to whom he was passionately attached; and one crimson letter upon his ihai registers the vow not only in the home but also in the place of public worship. But the widower is never called by his kaimyō, as is the widow.
The first religious duty of the morning in a Buddhist household is to set before the tablets of the dead a little cup of tea, made with the first hot water prepared,―O-Hotoke-San-nio-cha-to-ageru.[17] Daily offerings of boiled rice are also made; and fresh flowers are put in the shrine vases; and incense―although not allowed by Shintō―is burned before the tablets. At night, and also during the day upon certain festivals, both candles and a small oil-lamp are lighted in the butsuma,―a lamp somewhat differently shaped from the lamp of the miya and called rintō. On the day of each month corresponding to the date of death a little repast is served before the tablets, consisting of shōjin-ryōri only, the vegetarian food of the. Buddhists. But as Shintō family worship has its special annual festival, which endures from the first to the third day of the new year, so Buddhist ancestor-worship has its yearly Bonku, or Bommatsuri, lasting from the thirteenth to the sixteenth day of the seventh month. This is the Buddhist Feast of Souls. Then the butsuma is decorated to the utmost, special offerings
of food and of flowers are made, and all the house is made beautiful to welcome the coming of the ghostly visitors.
Now Shintō, like Buddhism, has its ihai; but these are of the simplest possible shape and material,―mere slips of plain white wood. The average height is only about eight inches. These tablets are either placed in a special miya kept in a different room from that in which the shrine of the Kami is erected, or else simply arranged on a small shelf called by the people Mitama-San-no-tana,―'the Shelf of the August Spirits.' The shelf or the shrine of the ancestors and household dead is placed always at a considerable height in the mitamaya or soreisha (as the Spirit Chamber is sometimes called), just as is the miya of the Kami in the other apartment. Sometimes no tablets are used, the name being simply painted upon the woodwork of the Spirit Shrine. But Shintō has no kaimyo: the living name of the dead is written upon the ihai, with the sole addition of the word 'Mitama' (Spirit). And monthly upon the day corresponding to the menstrual date of death, offerings of fish, wine, and other food are made to the spirits, accompanied by special prayer. [18] The Mitama-San have also their particular lamps and flower-vases, and, though in lesser degree, are honoured with rites like those of the Kami.
The prayers uttered before the ihai of either faith begin with the respective religious formulas of Shintō or of Buddhism. The Shintōist, clapping his hands thrice or four times, [19] first utters the sacramental Harai-tamai. The Buddhist, according to his sect, murmurs Namu-myo-ho-ren-ge-kyō, or Namu Amida Butsu, or some other holy words of prayer or of praise to the Buddha, ere commencing his prayer to the ancestors. The words said to them are seldom spoken aloud, either by Shintōist or Buddhist: they are either whispered very low under the breath, or shaped only within the heart.
13
In spite of the supposed rigidity of the Nichiren sect in such matters, most
followers of its doctrine in Izumo are equally fervent Shintōists. I have not
been able to observe whether the same is true of Izumo Shin-shu families as a
rule; but I know that some Shin-shu believers in Matsue worship at Shintō
shrines. Adoring only that form of Buddha called Amida, the Shin sect might be
termed a Buddhist 'Unitarianism.' It seems never to have been able to secure a
strong footing in Izumo on account of its doctrinal hostility to Shintō.
Elsewhere throughout Japan it is the most vigorous and prosperous of all
Buddhist sects.
14
Mr. Morse, in his Japanese Homes, published
on hearsay a very strange error when he stated: 'The Buddhist household shrines
rest on the floor ― at least so I
was informed.' They never rest on the floor under any circumstances. In the
better class of houses special architectural arrangements are made for the
butsudan; an alcove, recess, or other contrivance, often so arranged as to be
concealed from view by a sliding panel or a little door In smaller dwellings it
may be put on a shelf, for want of a better place, and in the homes of the poor,
on the top of the tansu, or clothes-chest. It is never placed so high as the
kamidana, but seldom at a less height than three feet above the floor. In Mr.
Morse's own illustration of a Buddhist household shrine (p. 226) it does not
rest on the floor at all, but on the upper shelf of a cupboard, which must not
be confounded with the butsudan—a very small one. The sketch in
question seems to have been made during the Festival of the Dead, for the
offerings in the picture are those of the Bommatauri. At that time the
household butsudan is always exposed to view, and often moved from its usual
place in order to obtain room for the offerings to be set before it. To place
any holy object on the floor is considered by the Japanese very disrespectful.
As for Shintō objects, to place even a mamori on the floor is deemed a sin.
15
Two ihai are always made for each Buddhist dead. One usually larger than that
placed in the family shrine, is kept in the temple of which the deceased was a
parishioner, together with a cup in which tea or water is daily poured out as
an offering. In almost any large temple, thousands of such ihai may be seen,
arranged in rows, tier above tier— each with its cup before it—for even the souls of
the dead are supposed to drink tea. Sometimes, I fear, the offering is
forgotten, for I have seen rows of cups containing only dust, the fault,
perhaps, of some lazy acolyte.
16
This is a fine example of a samurai kaimyō. The kaimyō of kwazoku or samurai
are different from those of humbler dead; and a Japanese, by a single glance at
an ihai, can tell at once to what class of society the deceased belonged, by
the Buddhist words used.
17
'Presenting the honourable tea to the august Buddhas'—for by Buddhist faith
it is hoped, if not believed, that the dead become Buddhas and escape the
sorrows of further transmigration. Thus the expression 'is dead' is often
rendered in Japanese by the phrase 'is become a Buddha.'
18
The idea underlying this offering of food and drink to the dead or to the gods,
is not so irrational as unthinking Critics have declared it to be. The dead are
not supposed to consume any of the visible substance of the food set before
them, for they are thought to be in an ethereal state requiring only the most
vapoury kind of nutrition. The idea is that they absorb only the invisible
essence of the food. And as fruits and other such offerings lose something of
their flavour after having been exposed to the air for several hours, this slight
change would have been taken in other days as evidence that the spirits had
feasted upon them. Scientific education necessarily dissipates these consoling
illusions, and with them a host of tender and beautiful fancies as to the
relation between the living and the dead.
19
I find that the number of clappings differs in different provinces somewhat. In
Kyūshū the clapping is very long, especially before the prayer to the Rising
Sun.
★
BUTSUDAN (Zen-shū), showing the
family ihai grouped within
SHōRYōBUNE: Little straw ship of the dead. (Izumo
coast).
SACRED OBJECTS (BUDDHIST).
★★
1
2 Ihai of a Samurai lady
SHINTŌ IHAI. (IZUMO)
3 Ihai of a child ― a little boy
4 Ordinary form of a man's ihai
5 Elaborately ornamented ihai of
a Samurai official
BUDDHIST IHAI. (ZEN-SHŪ)
八
宮の前には、或は神棚の上に置く神道崇拜のどんな神聖な物體でも、その前には、サケの供物を入れる妙な恰好をした德利が二つと、サカキといふ神木の小枝か、お供への花かを插す小さな花瓶が二つと、それから小さな皿のやうな恰好をした、燈心草の髓が一本菜種油に浮くいて居る小さな燈が一つと、置いてある。嚴密に云へば、是等の器具は花瓶を除いては總て皆、古事記の前の方の章に述べてあるやうなあんな、釉藥のかかつて居ない色の赤い土器でなければならぬ。出雲では神道の祭禮に、神の爲めに酒を飮む時は、今猶、浅い圓い皿のやうな形の赤い素燒の土の盃で飮む。が近年、立派な神棚の器具は總て――ハナイケ卽ち花瓶すら眞鍮は唐金で造るのが流行になつた。貧乏人どもの間では、その最も古風な器具が今なほ、殊に遠隔の田舍地方では、隨分と使用されて居る。是は赤土の質素な皿卽ちカハラケで、花瓶は最も屢々竹の一節(セツ)を節(ふし)の直ぐ下の處と、その五吋許り上の處と切つただけの竹の水容である。
眞鍮の燈は値ひ僅か一厘のカハラケよりも、遙か込入つた品物である。眞鍮の燈は少くとも二十五錢ぐらゐはする。それは二つの部分から成つて居る。下の方は、非常に淺い幅の廣い葡萄酒用の盃のやうな恰好をしてゐて、非常に太い軸が附いて居て、外側の緣があると共に內側の緣がある。そしてそれに丁度適合するやうな、幅廣い淺い眞鍮の皿、これが上部になつて油を入れるものであるが、それが其內側の緣にきちんと嵌まる。此種の燈にはいつも、平たい環の形した、その環の表面と直角に軸の着いて居る、眞鍮製の小さな品物が備へられて居る。これは浮いて居る燈心を動かして、所要のどんな位置にでも置いて置く爲めに用ふるもので、その直立した小さな軸は、指を油に觸はらせぬ程の長さを有つて居る。
どんな尋常な神棚にでも見らるゝ、最も妙な品物は酒の容物、卽ちオミキドツクリ(御酒德利)の口止である。この口止――オミキドツクリ ノ クチサシ――は眞鍮のこともあり、美麗な薄い木片を結合して、所要の特殊の形に曲げたもののこともある。適當に云へば、この物は、名は左うであるが、眞の口止では無い。其下部は瓶の口を全く充たしはしない。ただ軸を下にして木の葉一枚揷したやうに、その孔に浮いて居るだけである。自分にはその來歷を知ることが困難である。が、その意匠はいろいろあるけれども――眞鍮の方が意匠はより巧妙なのだが――全體の形が、その起源は佛敎に在ることを思はせるやうである。多分この形は佛敎の一つの徽號――その淡い輕い(繪圖的に炎のたはむれを思はしめる)炎が純粹な本質の徽號となつて居る彼(あ)の神祕な珠、でハウシユ ノ タマ――から藉り來たつたもので、この品物は捧物の酒が純なものであると同時に、それを捧ぐる人の情(こゝろ)も純なものであることを表示して居るのであらう。
この小さな燈は、この夜每の無限小の油の出費にすら堪へない程、貧しい家族もあることであるから、あらゆる家で每晩點されはせねかも知れぬ。が、每月一日と十五日と二十八日とにはいつも必ず點す。それはその日は必ず守らねばならぬ、神道の祭日だからで、その日には神に對して供物をしなければならず、その日にはウヂコ卽ち神社の管區內の者は、總てそのウヂガミヘ參詣するものと思はれて居る、この三日にはどこの家でも、サケを御供物としてオミキドツクリヘ注ぎ入れ、神棚の花瓶には神木サカキの小枝か、松の小枝か或は新しい花かを揷す。新年の元日には神樣は必ずサカキ、モロムキ(裏白)、松の小枝、それからシメナハで飾る。そして大きな重ね餅を神へのお供へとして神棚の上に置く。
[やぶちゃん注:「サケ」酒。御神酒(おみき)。
「サカキ」「榊」。ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica 。ウィキの「サカキ」によれば、『古来から植物には神が宿り、特に先端がとがった枝先は神が降りるヨリシロとして若松やオガタマノキなど様々な常緑植物が用いられたが、近年はもっとも身近な植物で枝先が尖っており、神のヨリシロにふさわしいサカキやヒサカキ』(同モッコク科のヒサカキ属ヒサカキ Eurya japonica)『が定着している』。『家庭の神棚にも捧げられ』、月に二度、一日と十五日(江戸時代までは旧暦の一日と十五日)に『取り替える習わしになっている。神棚では榊立を用いる』(下線やぶちゃん)。『サカキの語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意であるとされる。常緑樹であり、さかえる(繁)ことから「繁木(さかき)」とする説もあるが、多くの学者は後世の附会であるとして否定している』(但し、ここには「要出典要請」がかけられある)。なお、『学名は、植物学者で出島オランダ商館長を務め、サカキをヨーロッパに紹介したアンドレアス・クレイエルにちなむ』とある。
「燈心草の髓が一本菜種油に浮くいて居る小さな燈」灯心皿のこと。「燈心草」は「とうしんさう(とうしんそう)」で燈芯草、単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ属イグサ(藺草) Juncus effusus var. decipens の別名である。油明りを用いていた時代にはこの花茎の髄を燈芯として使った。現在も高級和蠟燭の芯材として用いられる。
「古事記の前の方の章に述べてあるやうなあんな、釉藥のかかつて居ない色の赤い土器」不詳。「古事記』の「上つ卷」の大国主神の八千矛(やちほこ)の神(大国主の異名)の歌物語(但し、沼河(ぬなかわ)姫との三角関係を背景とするもの)の箇所で大国主の后である須世理(すせり)姫が『大御酒坏(おほみさかづき)を取らして』大国主の近くに『立ち依り指擧(ささ)げて』歌ったという記事が、恐らくは土器の杯の初見と思われるものの、ここにはハーンが述べるような、「釉藥のかかつて居ない色の赤い土器」と描写はない。他に出るのであれば、御存じの方は御指摘下さると幸いである。
「ハナイケ」花活け。
「カハラケ」「瓦笥」。或いは「土器」を当て字する。「笥(け)」は上古の「食べ物を載せた器」を指し、広義には食器一般を指す語である。釉(うわぐすり)をかけてない素焼きの陶器及び素焼きの杯(さかずき)を限定的に指す場合もある。
「五吋」「ごインチ」。十二・七センチメートル。
「水容」「みづいれ(みずいれ)」と訓読みする。
「眞鍮の燈」この真鍮製の灯明具は、私は主に浄土真宗で用いられる垂下式の真鍮製灯明である輪灯(りんとう)辺りから改良されたものではないかと疑っている(形状は異なるが、古くからある真鍮製仏用灯明具であるという点からである)。ともかくも日本家屋に於いては、神前を照らす神聖な燈火であろうが神聖に保持されねばならない御神火(ごじんか)であろうが、それは同時に最も大きな火災の原因となる虞れの大なるものであればこそ、宗教が異なろうが何だろうが、プラグマティクには、より安全性の高い灯明具は積極的に取り入れざるを得ない。なお、この輪灯は出自が明らかでなく、古くは宮中で用いていたともされるから、そのルーツは案外、実は皇道神道由来だったりするのかも知れぬ。
「クチサシ」「口挿し」。「みきのくち」のこと。既注。再度、「静岡みきのくち保存研究会」というサイトのリンクだけは張っておく。
「自分にはその來歷を知ることが困難である。が、その意匠はいろいろあるけれども――眞鍮の方が意匠はより巧妙なのだが――全體の形が、その起源は佛敎に在ることを思はせるやうである。多分この形は佛敎の一つの徽號――その淡い輕い(繪圖的に炎のたはむれを思はしめる)炎が純粹な本質の徽號となつて居る彼の神祕な珠、でハウシユ ノ タマ――から藉り來たつたもので、この品物は捧物の酒が純なものであると同時に、それを捧ぐる人の情(こゝろ)も純なものであることを表示して居るのであらう」「ハウシユ ノ タマ」は「寶珠の玉」で、仏教に於いて様々な霊験を顕わすとされる架空の宝玉チンタマーニ(梵語)、即ち「如意宝珠」を指す(「如意宝珠」は既注)。私は既に「五」でこの件についてハーンに嚙みついているが、ここではっきりとハーンを指弾したい。まず、このハーンの言い方に注意してもらいたいのである。彼は本来、彼自身が何度も繰り返し述べるように、神道の祈禱や形象や諸具やを考える場合には、最も古い原形にこそ依らねばならず、目を引くような精巧な近世近代の諸形態は極力排除しなくてはならないと考えていたはずである(事実、彼はここまでは、そのコンセプトを守ってきた)。ところが、ここではまず、前の真鍮製灯明にしてからが、その実に巧妙な極めて近代的な臭いのする完全安全清潔照明具(指が油で汚れないという気遣いの漏れのなさを見よ!)に感激し、その細部を克明に描写することにすっかり興味を奪われているではないか! そしてここではまず、「自分にはその來歷を知ることが困難である」と述べ、「その意匠はいろいろある」とする。だったら、最も素朴な古形を保持しているものにこそ/ものだけを観察すべきだのに、「けれども――眞鍮の方が意匠はより巧妙なのだが――」と挿入句をわざわざ入れているのは、まさに前の精巧な真鍮製灯明具に惹かれたままのハーンが、つい――その美しい真鍮製の「クチサシ」、「みきのくち」の形象に、実は、心惹かれ、無意識にそれをイメージとしながら、推理を始めてしまっている――という事実が露呈してしまっているのである。真鍮製の「みきのくち」なら、前にリンクさせた「静岡みきのくち保存研究会」というサイトの「みきのくち 1―2」を見ていただければ分かる通り、それこそ、キンキラキンの熨斗紙みたような平安旧仏教系荘厳具に近い印象がある。これで本来の流線型の古形を元に細工職人が装飾模様とするならば、当然、それは、不動明王の火炎模様か、或いは、ふっくらとした火玉のような如意宝珠みたようなものに容易に造形変更するに決まっている。ただ、確かにこれらの「みきのくち」は、例えば、「みきのくち 1―2」の写真を見ても分かるように、炎の立ち上る形や灯心や或いは蠟燭そっくりは見える。しかし、だからと言って灯明の代替物だとは私は絶対に思わない(神式に於いて実際の灯明を絶対にこれに添えない習慣があればまだしも、実際には添えるわけであって、これは灯明のフィギアなんぞではあり得ない)。では、何なのかといえば、既に注した通り、これは神を呼ばうための依代であって、やはり「静岡みきのくち保存研究会」というサイトの「みきのくち 1」にある通り、『瓶子やお神酒徳利(お神酒すず)などの口を飾る』ところの『縁起物』なのであり、それは別に『御幣(ごへい)や門松のように、舞い降りた神様を宿らせるための、よりしろ(依代)としての役割をも』を持つ呪具なのだと、私は信じて疑わないのである。なお、その後に同頁では文政一三(一八三〇)年以前の刊である、万達(まんたつ)著の往来物で神道系児童教導書である「神國童子訓(しんこくわらべおしへ)」を引き、まさにこの熨斗みたようになった紙製の「みきのくち」を掲げて、『御幣。へいそく(幣束=御幣)ハ神前へ物をそなへ奉るに、是を付して納る礼儀なり。神馬の上に幣を立るを以ってしるべし。世俗の人貴人へ物を送るに、のしを付して送る。のしはへいそくのりやくし也』。『御神酒。みきの口を紙にてたヽむも、へいそくを付(つけ)しかたちのりやくし也』。とし、『お神酒徳利に、紙をたたんで作ったみきの口を付けるのは、御幣を付ける形を略したもの』だ、と述べておられる。即ち、これは一つには、神霊に捧げるための礼儀としての奉祝用の熨斗の意味である、というわけである。確かに、これはもう、「熨斗」そのものである。従って、この形状は、私は、副次的に「熨斗」だとは思う。しかし、熨斗鮑(のしあわび)は神前に供する神饌とする古い習慣がありはするが、それから派生するところの進物付票としての「熨斗」の発生は、平安中期以前には遡らないようである。されば、かのしなやかな形状の古形の「みきのくち」は、自ずと、熨斗なんぞよりも前に神道、否、それ以前のシャーマンの、アニミズムの呪具として存在たものと考えるのが自然である(と私は思う)。その私の頑なさは何に拠るかといえば、やはり「静岡みきのくち保存研究会」というサイトの「みきのくち 1」にあるように、これには神に捧げた酒に添えた、『御幣の原型と』も『考えられている』『削り花(削り掛け)』の存在があるからである。これは『ヌルデ、ニハトコ、柳などの柔らかい木の枝を途中まで削って、花のようにしたもので』古くは全国で小正月に神仏に供えられた呪具があるから、そしてこれが、アイヌの「イナウ」と酷似し、さらにシベリア東方のツングース系民族である少数民族、例えばナナイ族の神祀りの呪具とも酷似しているからである。私はこうした流れこそが「みきのくち」のダイレクトな流れであると信じて疑わないのである。
「每月一日と十五日と二十八日」神道では「祭日」と言わず、「斎日(いみび)」と呼び、祖霊を祀る「霊祭(みたままつり)」を指す。旧暦の月の朔日・中日及び如何なる場合も共通する晦日直近(旧暦では三十日の大月か二十九日の小月しかない)という分かり易い期間設定ではある。定期的な祖霊崇拝による、自身の穢れの除去、一種の全霊の魂の定期メンテナンスという設定であろうかと思われる。現行でも新暦の各月に行われる一日のそれを「月始祭」、十五日、及び、二十八日のそれを「月次祭」(ともにこれで「つきなみさい」と読むらしい)として公的に祭事を行っている神社が多いようではある。前の「サカキ」の注の下線部も参照のこと。
「ウヂコ」「氏子」。ウィキの「氏神」より「氏子」の項を引いておく。『通常、氏神と氏子という関係は、生家の氏神や地元にある神社にて氏子入りをすることにより生じる。お宮参りが産土神(うぶすながみ)という、生まれた土地の神に対して行われる様に、多くの場合において、産土神を氏神とすることが多い。お宮参りと氏子入りの儀式は必ずしも同一ではないが、前述の通り、氏神と産土神の区別がなくなって以降、お宮参りが氏子入りを意味する場合が多くなった。よって、お宮参りにおいて、氏子である証明の氏子札を授与されることが一般化している。一方で代々に渡って氏神を崇敬したり祭事に従事したりする家系でない者は、お宮参りをただ慣例的に行っている場合が多く、氏子の意識や自覚を持たない場合も多い』。『また、婿入りや嫁入りにより、改めて婚家の氏神に氏子入りの儀式をする場合も多い。最近では、祭事に従事する人口も高齢化し、祭事に加わる氏子も減っているためか、氏子の務めである神事祭事と崇敬への取り組みも形式的となっているが、神棚に神璽や氏子守を納め、家中でお供えすることに留めることも多い』とある。
「モロムキ(裏白)」シダ植物門シダ綱ウラジロ科ウラジロ属ウラジロ(裏白) Gleichenia japonica のこと。神道祭事ではお馴染みであるが、その由来については不明で、葉(生物学上はシダ類では地面に直立している我々が「茎」と認識している部分が、「葉」(葉柄)であり、我々が「葉」と呼んでいる部分は、その葉から分岐した羽状複葉を構成する小葉の一片である「羽片(うへん)」と呼ばれる部分である)の裏面が粉を吹いて白っぽいことから、共白髪(ともしらが)の生うるまで長寿たらん、との謂いと一般には言われるものの、これは如何にもな、どうみても後付けの解釈としか思われない代物である。]
Ⅷ
Before the miya, or whatever holy object of Shintō worship be placed upon the kamidana, are set two quaintly shaped jars for the offerings of saké; two small vases, to contain sprays of the sacred plant sakaki, or offerings of flowers; and a small lamp, shaped like a tiny saucer, where a wick of rush-pith floats in rape-seed oil. Strictly speaking, all these utensils, except the flower-vases, should be made of unglazed red earthenware, such as we find described in the early chapters of the Kojiki: and still at Shintō festivals in Izumo, when sake is drunk in honour of the gods, it is drunk out of cups of red baked unglazed clay shaped like shallow round dishes. But of late years it has become the fashion to make all the utensils of a fine kamidana of brass or bronze,―even the hanaike, or flower-vases. Among the poor, the most archaic utensils are still used to a great extent, especially in the remoter country districts; the lamp being a simple saucer or kawaraké of red clay; and the flower-vases most often bamboo cups, made by simply cutting a section of bamboo immediately below a joint and about five inches above it.
The brazen lamp is a much more complicated object than the kawaraké, which costs but one rin. The brass lamp costs about twenty-five sen, at least. It consists of two parts. The lower part, shaped like a very shallow, broad wineglass, with a very thick stem, has an interior as well as an exterior rim; and the bottom of a correspondingly broad and shallow brass cup, which is the upper part and contains the oil, fits exactly into this inner rim. This kind of lamp is always furnished with a small brass object in the shape of a flat ring, with a stem set at right angles to the surface of the ring. It is used for moving the floating wick and keeping it at any position required; and the little perpendicular stem is long enough to prevent the fingers from touching the oil.
The most curious objects to be seen on any ordinary kamidana are the stoppers of the sake-vessels or o-mikidokkuri ('honourable saké-jars'). These stoppers―o-mikidokkuri-nokuchisashi―may be made of brass, or of fine thin slips of wood jointed and bent into the singular form required. Properly speaking, the thing is not a real stopper, in spite of its name; its lower part does not fill the mouth of the jar at all: it simply hangs in the orifice like a leaf put there stem downwards. I find it difficult to learn its history; but, though there are many designs of it,―the finer ones being of brass,―the shape of all seems to hint at a Buddhist origin. Possibly the shape was borrowed from a Buddhist symbol,―the Hoshi-no-tama, that mystic gem whose lambent glow (iconographically suggested as a playing of flame) is the emblem of Pure Essence; and thus the object would be typical at once of the purity of the wine-offering and the purity of the heart of the giver.
The little lamp may not be lighted every evening in all homes, since there are families too poor to afford even this infinitesimal nightly expenditure of oil. But upon the first, fifteenth, and twenty-eighth of each month the light is always kindled; for these are Shintō holidays of obligation, when offerings must be made to the gods, and when all uji-ko, or parishioners of a Shintō temple, are supposed to visit their ujigami. In every home on these days sake is poured as an offering into the o-mikidokkuri, and in the vases of the kamidana are placed sprays of the holy sakaki, or sprigs of pine, or fresh flowers. On the first day of the new year the kamidana is always decked with sakaki, moromoki (ferns), and pine-sprigs, and also with a shimenawa; and large double rice cakes are placed upon it as offerings to the gods.
七
宮と神道崇拜の他の神聖な品物とを、その上へ載せるカミダナ卽ち「神棚」は普通床(ゆか)の上六七尺の高さに固定されて居る。一般に言つて手が易々と屆く處より高く置いてはならぬ。が、天井の高い家では宮は時折、箱又は乘つてその上へ立つ他の品物の助を藉らんでは、神聖なお供へ物が出來ぬほどの高さに置いてある。通常それは家の構造の一部では無くして、部屋の何處かの隅で壁そのものへか、或は、此方がもつと通例であるが、部屋と部屋を仕切る半透明の紙の隔障(フスマ)が、それあるが爲め、右に左に辷るカモヰ卽ち溝の彫つてある水平な梁へか、棚承を用ひて附けてある飾の無い棚である。たまに色を附けたり漆を塗つたりして居る。然し尋常の神棚は白木で、宮の大いさ或はそれへ置くオフダ及び他の神聖な品物の數に應じて、大きくも小さくも造られる。或る家では、特に目立つて宿屋や、小商人の家では、いろいろ異つた神樣、殊に財寶と商賣繁昌を司ると信ぜられて居る、神々へと捧げられて居る小さな宮を澤山支へるに足る程長く造つてある。貧民の家では殆んどいつも街路に面した部屋に置いてある。そして松江の商人は通例、それをその店に造る。――だから通行人やお客は、その家の住人はどんな神樣を信じて居るか一目で解る。それに就いては多くの規則がある。南か東に面して置くのは宜い。が、西に面してはならぬ。そしてどんな事情の下にも、北又は西北に面せしめてはならぬ。これについての一つの說明は、神道に於ける支那哲學の影響で、それに據ると、南又は東と陽性との間(あひだ)、そして西又は北と陰性との間(あひだ)に、或る關係があるとされてゐるのである。が、此問題に關しての通俗の考は、死人は頭を北向きにして埋めるから北に向ふやうにして――死に關係した一切の事は不淨だから――宮を置くのは甚だ惡るいといふので、西の方角については規則は固くは守られて居らぬ。が然し、出雲での神棚は多く南向きか、東向きである 極々貧しい者の――時にはただの一間(ま)しか無い――家では、部屋の選り好みは殆んど出來ぬ。が、神棚は客間(ザシキ)にも臺所にも置いてはならぬといふが規則で、中產階級の住宅では之を守つて居る。そして士族屋敷では、其置き場は通例家族が住んで居る部屋のうちの、より小さな部屋の一つである。神棚に對しては敬意を表しなければならぬ。例へば、その方へ足を向けて寢てはならぬ、休みさへしてもならぬ。宗敎上不潔の狀態に――屍體に觸つたが爲めに、或は佛式の葬禮に列したが爲めに、或は佛式で埋められた近親に對する服喪の時期中にすら、受けるやうな不潔の狀態に――在る間は、神棚の前で祈禱をしてはならず、その前に立つことさへしてはならぬ。一家のうちの誰かがそんな埋葬をされると、五十日間は神棚は見えぬやうに、純白な紙で蔽はなければならず、また神道のオフダ卽ち家の戶口の上に着けてある信心の祈願すら、その上へ白紙を貼らなければならぬ【註】。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。或る種のサムラヒ家族で、そん
な事情での服喪期間は少くも五十日
である。二十五日で充分だといふ人
もある。佛敎の服喪法は極はめて不
同で、且つ複雜で、詳しく述べるに
は多くの紙面を要する。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]其服喪期間はその家での火は不淨と考へられて居る。だから期が終ると火鉢や臺所の灰は悉く打棄てて、新規の火を燧石と鋼とで造らなければならぬ。が、葬式だけが合法な不淨の唯一の根源では無い。神道は、純潔と淸淨との宗敎だから、餘程廣汎な申命(デウトロノミイ)がある。或る時期の間は女は宮の前で祈禱すらしてもならぬ。況して捧物をしたり、神聖な器物に觸つたり、或はカミの燈を點したりしてはならぬのである。
[やぶちゃん注:「神棚」については「五」の私の冒頭注をも参照されたい。
「六七尺」一・八二メートルから二・一二メートル。
「フスマ」襖。
「カモヰ」鴨居。
「棚承」棚受け。
「支那哲學」陰陽(いんよう)五行説。
「燧石と鋼」それぞれ「ひうちいし」と「ひうちがね」と読んでおく(後の「一〇」の私の注を参照されたい)。「鋼」は硬質岩石片である火打石を打ち合わせる鋼鉄片の「火打金(ひうちがね)」のこと。
「申命(デウトロノミイ)」原文は“a Deuteronomy”で、これは旧約聖書のモーセ五書の第五書「申命記」を指す。音写するなら「ディユトォロノミィ」か。ヘブル語で「言葉」を意味する「デバーリーム」が元で、英和辞典を見ると、“deu-”は「不足していること」「欠けていること」を表す接頭語で、語尾の“-nomy”は「習慣・規則」。一般には「第二の律法」「律法の写し」「律法の繰返し」といった内容を持つ経典で、現行に於いて不足することとなってしまった律法を、再解説して改めて命ずるもの、を意味している。和訳の「申命」は「繰り返し命ずる」の謂いである。ここは更に細部に於ける具体な縛りをかけた禁忌条項を指す比喩として用いられている。平井氏は単に『掟』(おきて)とすっきり訳しておられる。「申命」など、キリスト者でもなければ、知りゃしねえ言葉であって、訳としては不適切極まりない。
「或る時期の間は女は宮の前で祈禱すらしてもならぬ。況して捧物をしたり、神聖な器物に觸つたり、或はカミの燈を點したりしてはならぬのである」言うまでもなく、生理期間や出産前後の血の穢れを指している。]
Ⅶ
The kamidana or 'God-shelf,' upon which are placed the miya and other sacred objects of Shintō worship, is usually fastened at a height of about six or seven feet above the floor. As a rule it should not be placed higher than the hand can reach with ease; but in houses having lofty rooms the miya is sometimes put up at such a height that the sacred offerings cannot be made without the aid of a box or other object to stand upon. It is not commonly a part of the house structure, but a plain shelf attached with brackets either to the wall itself, at some angle of the apartment, or, as is much more usual, to the kamoi, or horizontal grooved beam, in which the screens of opaque paper (fusuma), which divide room from room, slide to and fro. Occasionally it is painted or lacquered. But the ordinary kamidana is of white wood, and is made larger or smaller in proportion to the size of the miya, or the number of the ofuda and other sacred objects to be placed upon it. In some houses, notably those of innkeepers and small merchants, the kamidana is made long enough to support a number of small shrines dedicated to different Shintō deities, particularly those believed to preside over wealth and commercial prosperity. In the houses of the poor it is nearly always placed in the room facing the street; and Matsue shopkeepers usually erect it in their shops,―so that the passer-by or the customer can tell at a glance in what deities the occupant puts his
trust. There are many regulations concerning it. It may be placed to face south or east, but should not face west, and under no possible circumstances should it be suffered to face north or north-west. One explanation of this is the influence upon Shintō of Chinese philosophy, according to which there is some fancied relation between South or East and the Male Principle, and between West or North and the Female Principle. But the popular notion on the subject is that because a dead person is buried with the head turned north, it would be very wrong to place a miya so as to face north,―since everything relating to death is impure; and the regulation about the west is not strictly observed. Most kamidana in Izumo, however, face south or east. In the houses of the poorest―often consisting of but one apartment―there can be little choice as to rooms; but it is a rule, observed in the dwellings of the middle classes, that the kamidana must not be placed either in the guest room (zashiki) nor in the kitchen; and in shizoku houses its place is usually in one of the smaller family apartments. Respect must be shown it. One must not sleep, for example, or even lie down to rest, with his feet turned towards it. One must not pray before it, or even stand before it, while in a state of religious impurity,―such as that entailed by having touched a corpse, or attended a Buddhist funeral, or even during the period of mourning for kindred buried according to the Buddhist rite. Should any member of the family be thus buried, then during fifty days [12] the kamidana must be entirely screened from view with pure white paper, and even the Shintō ofuda, or pious invocations fastened upon the house-door, must have white paper pasted over them. During the same mourning period the fire in the house is considered unclean; and at the close of the term all the ashes of the braziers and of the kitchen must be cast away, and new fire kindled with a flint and steel. Nor are funerals the only source of legal uncleanliness. Shintō, as the religion of purity and purification, has a Deuteronomy of quite an extensive kind. During certain periods women must not even pray before the miya, much less make offerings or touch the sacred vessels, or kindle the lights of the Kami.
12
Such at least is the mourning period under such circumstances in certain samurai families. Others say twenty days is sufficient. The Buddhist code of mourning is extremely varied and complicated, and would require much space to dilate upon.
六
松江の特色はミヤ店である――尤も、この古い出雲の町に特有な店といふでは無いが、他の州のより大なる町に見らるゝものよりも、遙かに興味深い店である。一錢以下で買ヘる子供の玩具のミヤからして、何處か金持の家へ納まるべき十圓或いはそれ以上の大きな宮に至るまで、幾百といふ大きい小さい種々な宮がある。かういふ、家の內の宮のほかに、時折、貴重な木材で出來てゐて、漆で塗り金で鍍金した、その價三百圓から千五百圓に至る嵩張つた宮を見ることが出來る。これは家の內の宮では無い。それは祭禮の宮で、ただ富裕な商人の爲めに造るのである。それは神の祭日に出して見せるもので、一年に二回行列をつくつてチヨウサヤ! チヨウサヤ! の叫びに合せて、町をかつぎ𢌞る【註】。各神社の管區にはそんな場合に、歌をうたひ太鼓を打いて、飾り立てて見せあるく大きな擔がれる宮がある。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。古昔は斯うした行列で宮をかつ
ぎ𢌞つた、神道の二大祭禮はトシト
クジンノマツリ、卽ち新年の神の祭
禮と、神武天皇卽位記念の祭日であ
つた。後者は今なほ守られてゐる。
天息の誕生の祝賀がミヤをかつぐ、
他の唯一の場合である。この兩日に
は神道の徽號たる、裝飾のあゐ稻藁
の繩のシメナハと提燈とで街路は
美々しく飾られる。その日に囃す言
葉(チヨウサヤ! チヨウサヤ!)
が何を意味するか、確實に知つて居
る者は今居ない。一說には、トシト
クジンノマツリと殆んど同時節に昔
祝つた――この祭禮は二つも今は廢
れて居るが――サムラヒ共の軍の大
祭の名のサギチヤウの轉訛であると。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]家の內の宮は大多數は廉價な構造のものである。頗る立派なのが二圓ばかりで求められる。が、普通の人の家の中に見らるゝ小さな宮は、大抵は五十錢よりも餘程下のものである。そして精巧な或は高價な家の内の宮は、純な神道の精神に反して居る。眞の宮は純無垢の白いヒノキ【註】で造り、釘を用ひずに合せなければならぬのである。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。學名スヤ・オプトユサ。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]自分が宮店で見た物は多くはその幾多の部分が、ただ米の糊で合はされて居た。が、製作者が熟練して居るからそれで充分であつた。純な神道は宮は鍍金も裝飾も無いものでなければならぬと要求して居る。金持の家に在る小形の美麗な宮は、その藝術的建造と裝飾とに依つて、正當に歎賞の念を起こす。が然し、勞働者やクルマヤの家に在る、無地の白木の、十錢か十三錢の宮の方が眞にこの原始的宗敎の特徴たる、あの質素の精神を現して居るのである。
[やぶちゃん注:以下、底本、及び、原本の附図を示す。画像の質(特に退色や裏の透け)がやや異なるので、最初のもの(1)は底本である国立国会図書館デジタルライブラリーの画像からトリミングして補正(ノンブルを消去)したものを示し、次の(2)は“Project Gutenberg” の“Hearn,Lafcadio, 1850-1904 ¶”の原文の当該箇所の画像をダウンロードして補正した訳本のキャプションは以下に電子化して示した(画像の左から)。なお、前回同様、図キャプションの英文を原文の注の後ろに★を附して電子化しておいた。]
[やぶちゃん注:(1)。底本では原文の図の総見出しである前の図と同じ“SACRED OBJECTS (SHINTŌ).”が訳されていない(ここは平井呈一氏の訳でも省略されている)。「神聖なる対象物(神道)」の謂いである。]
[やぶちゃん注:(2)]
1.スズ、神道の巫女がその神聖な舞に用ふるもの。
[やぶちゃん注:この「鈴」はハーンのお好みだったらしく、複数既出する。既注。]
2.ミヤ、一番廉い種類の家の内の宮。
[やぶちゃん注:この「宮」(神棚)は三枚重ね祀りのタイプ。]
3.ミヤ、富裕な家族の有つ家の內の宮。
[やぶちゃん注:三柱を並列し、しかもそれぞれが別な扉を持つ「宮」(神棚)。中央には「出雲大社」の文字が見え、前章で述べられた諸神具も添えられてある。これら諸神具については「八」以降で詳細に語られる。]
[やぶちゃん注:本篇には何度も金額が出るが、一円は現行の一万五千円から二万円ほどに価値換算をして大きな間違いはないものと思う。各自で暗算されたい。
「ミヤ店」「宮店」。神具店。
「鍍金」老婆心乍ら、「めつき(めっき)」或いは「ときん」と読む。金属や非金属などの材料表面に別に金属(対象が金属の場合は別種の)薄膜を被覆した表面処理法を指す「メッキ」である。現在はカタカナ表記されるために外来語と勘違いされている向きがあるが、これは和製漢語とされる「滅金(めっきん)」(古代に於いて仏像に金で鍍金(めっき)をする際に用いた金のアマルガムのことを「滅金」と呼んだことに由来)で日本語である。
「トシトクジンノマツリ」これ、原文を見ると“the Yoshigami-no-matsuri”とあって「ヨシガミノマツリ」(「吉神の祭」?)で、明らかに訳者による改変がなされていることが判る。訳者と思われる大谷正信は松江市生まれであるから、彼によって現地の正しい呼称に直されたものと推定される。「松江観光協会」公式サイト「水の都 松江」の「左吉兆とんど (さぎちょうとんど)」のページに「左吉兆(左義長)」として『正月には各家庭で歳徳神(としとこさん)を迎えて、一年の豊作にあわせて幸福を祈願する。一方地域では、共同体としての歳徳神を当番宿に祭り、正月の間、鼕(どう)』(太鼓の一種)『を叩き、正月の終わりには、歳徳神の神輿を担いで各地域を練り歩き、歌い、踊り仮装まで登場する賑わいの後、「とんど焼き」で締めくく』り、『この一連の正月行事を「左吉兆」という』とある。「とんど焼き」焼きは、『神木(しんぽこ)となる竹に短冊、つづみ、鯛づくり、大扇面の飾りを付けて立て、根元にしめ飾り吉書その他を山盛りにして焼く』もので、『神木は海岸に間隔をおき神輿の前に東西』二本立て、『当日は夜明け前から鼕を叩き、神の降下を祈り、とんどを組内に知らせ』、夜明けとともに二本同時『に点火し、燃え尽きる前にその年の恵方に倒す』。『神本が倒れると、神輿を担いだ若者が神木の周りを回った後、地区内を練り歩く。新築、新婚の家や漁船は、神輿を迎えて縁起をかつぐ』とある。ただ、問題は、この呼称で、通常、「歳徳神(としとくじん)」というのは「年神(としがみ)」を指し、これは元来は大陸伝来の陰陽道(おんみょうどう)に於いて、その年の福徳を掌るとされる神のことを指し、その年のその神のいる方角を「明きの方」或いは「恵方」(近頃流行りの「恵方巻き」のそれである)と称して、この年中は、万事、この方位を敬すれば、吉を齎すとする信仰であって、ハーンの一連の記載の中で、これを神道の純粋行事として出すには、一見、どうかとは思われるものでは、ある。しかしながら、燃え上がる火の祭儀、祭りの人々の意味不明の語を叫んでは、狂喜乱舞する熱狂、そこにハーンは、古神道や、それ以前の原始信仰の恍惚の純粋形態を見てとったものとも思われ、そうした祝祭のエクスタシーの根源や深層という点に於いては、強ち、誤ってはいないと私は思う。
「サムラヒ共の軍の大祭の名のサギチヤウ」私は大学生時代に、自己研究で、各地の「左義長」をかなり調べたが、この祭が「侍」階級の「軍」(いくさ)の「大祭」を起源とするなどという話は、ハーンに失礼乍ら、一度も聴いたことがない。明らかに、これは、農事の予祝行事であり、農民や町人の祭りであったことは明らかである。ハーンの根拠がどこにあるのか私は不審でならぬ。松江の左義長は武士階級の行事とする特別な伝承があるのだろうか? 識者の御教授を是非とも乞いたいところである。ウィキの「左義長」から引く。『左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事。地方によって呼び方が異なる(後述)。日本全国で広く見られる習俗で』、古く一般には旧暦の一月十四日の夜又は一月十五日の『朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を』三、四本組んで立て、『そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシ』(ミズキ目ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属ヤマボウシ Benthamidia japonica)『の枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い』。『民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている』。『とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている』(下線やぶちゃん)。「弁内侍日記」や「徒然草」に見えることから、『鎌倉時代にはおこなわれていたらしい。起源は諸説あるが、有力なものは平安時代の宮中行事に求めるもの。当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」と言う杖で毬をホッケーのように打ち合う遊びがあり』、小正月(一月十五日)に『宮中で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖』(ぎっちょう:木製の槌(つち)をつけた木製の杖を振るって木製の毬を相手陣に打ち込む遊び。或いはそれに使う杖やそうしたステック状のもの)三本を『結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたという行事があり』、『その年の吉凶などを占ったとされる。すなわち、山科家などから進献された葉竹を束ねたものを清涼殿東庭にたて、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供された。『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒』二人が『笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子』一人が『金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子』二人が『大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。毬杖』三本を『結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれ』、『これが民間に伝わり、現在の形になったとされる。どうして現在一般的な「左義長」という字があてられたのは、不明である』とある。これを信ずるとしても、公家のなんだかなぁのお遊び(ゲームである点では戦闘ではあるが)であってとてものことに武士の模擬戦の大祭儀なんぞとはちょっと結びつかない、と私は思う。
「スヤ・オプトユサ」原文は“ Thuya obtusa ”(音写するなら、「トゥヤ・オブトゥーサ(スーヤ・オブツーサ)」か)。本邦のヒノキは現在、球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa (クプレッソキパリス・オブトゥーサ)であって、種小名は一致するが、属名が異なる。しかも“ Thuya ”という属名の綴りは一般的ではない。但し、仏語のウィキのスギ科クロベ属(マツ綱マツ目ヒノキ科クロベ属 Thuja に相当するページのタイトルには、“ Thuya ”とし、下に“ Thuja ”を併記しているから、単なるシノニムととっておく。にしても、現行では属レベルで異なり、シノニム表示も見出せないので、このハーンの学名は全く無効である。但し、ヒノキ科の、このクロベ属のクロベ(黒檜) Thuja standishii (トゥヤ・スタンディシィ)は日本特産で、別名を「ネズコ」「ゴロウヒバ」「クロベスギ」「クロビ」などとも呼ぶ、「木曽五木」(江戸時代に尾張藩によって伐採が禁止された木曽谷の樹類で、ヒノキ・アスナロ(アスヒ)・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹を指す)の一つで、材は耐腐朽性が高く、建築や器具材に利用されるとウィキの「クロベ」にあり、樹種は異なるものの、これも立派な高級材ではある。この不思議な学名(とは言っても、種小名が合っている以上はハーンは正しく現行のヒノキを指示していると考えるべきである)と同定の誤りはしかし、可能性としては当時の針葉樹分類の限界に基づくものであってハーンの誤認ではないようにも思われる。
「クルマヤ」「俥屋」。言わずもがなであるが、人力車夫のことである。明治二八(一八九二)年当時の彼らが社会の底辺層としてあり、職業としてさげすまされ差別された人々であったという事実を忘れてはならない。]
Ⅵ
A particular feature of Matsue are the miya-shops,―establishments not, indeed, peculiar to the old Izumo town, but much more interesting than those to be found in larger cities of other provinces. There are miya of a hundred varieties and sizes, from the child's toy miya which sells for less than one sen, to the large shrine destined for some rich home, and costing perhaps ten yen or more. Besides these, the household shrines of Shintō, may occasionally be seen massive shrines of precious wood, lacquered and gilded, worth from three hundred even to fifteen hundred yen. These are not household shrines; but festival shrines, and are made only for rich merchants. They are displayed on Shintō holidays, and twice a year are borne through the streets in procession, to shouts of 'Chosaya! chosaya!' [10] Each temple parish also possesses a large portable miya which is paraded on these occasions with much chanting and beating of drums. The majority of household miya are cheap constructions. A very fine one can be purchased for about two yen; but those little shrines one sees in the houses of the common people cost, as a rule, considerably less than half a yen. And elaborate or costly household shrines are contrary to the spirit of pure Shintō The true miya should be made of spotless white hinoki [11] wood, and be put together without nails. Most of those I have seen in the shops had their several parts joined only with rice-paste; but the skill of the maker rendered this sufficient. Pure Shintō requires that a miya should be without gilding or ornamentation. The beautiful miniature temples in some rich homes may justly excite admiration by their artistic structure and decoration; but the ten or thirteen cent miya, in the house of a labourer or a kurumaya, of plain white wood, truly represents that spirit of simplicity characterising the primitive religion.
10
Anciently the two great Shintō festivals on which the miya were thus carried in procession were the Yoshigami-no-matsuri, or festival of the God of the New
Year, and the anniversary of Jimmu Tenno to the throne. The second of these is still observed. The celebration of the Emperor's birthday is the only other occasion when the miya are paraded. On both days the streets are beautifully decorated with lanterns and shimenawa, the fringed ropes of rice straw which are the emblems of Shintō. Nobody now knows exactly what the words chanted on these days (chosaya! chosaya!) mean. One theory is that they are a corruption of Sagicho, the name of a great samurai military festival, which was celebrated nearly at the same time as the Yashigami-no-matsuri,―both holidays now being obsolete.
11
Thuya obtusa.
★
1. SUZU: Instrument used by the Shintō priestess in her sacred dance
2. MIYA, or Shintō household shrine of the cheapest form
3. MIYA, or household shrine of a wealthy family
SACRED OBJECTS (SHINTŌ).
五
殆んど總ての出雲の住宅にカミダナ卽ち『神々の棚』がある。この上へ普通は神々の名の書いてある牌(その牌の少くも一枚は近くの神社が供給したもの)と、その崇拜者を守護してやるとの、或る神の名に依つて爲された約束の書いてあるのが一番多い、オフダ卽ち神聖な文句若しくは護符とが入つて居る、小さな神道の社(ミヤ)が載せてある、宮が無ければ、その牌或はオフダが或る順序に、最も神聖なものを中位に置いて、ただ置いてある。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。カミ卽ち『上に在す方々』」卽
ち『神々』とタナ卽ち「棚」の意。
後の方の初文字タは、トツクリ卽ち
『德利』のトが複合名詞オミキドツ
クリでは、ドツクリになるやう、複
合名詞ではドに變る。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]カミダナに像のあることは極く稀である。それは原始神道は猶太、或は囘々敎の律法の如く像をば堅く排斥したからである。そして神道の神體繪圖は比較的近代の――殊に兩部神道時代の――もので、その起原は佛敎に在ると考へなければならぬ。何か像があるとすれば、それは多分杵築でつい近年造られたやうなものであらう。卽ち杵築の大社に關して前に掲げた一篇の述べた、大國主神と事代主神との、あの小さな對の像であらう。神道の古事記に見えて居る事件を現した掛物は、これまたその起原は近時のもので、この方は神像よりかもつと普通である。通例カミダナが置いてあるその部屋のトコ卽ち床の間を占めて居る。が、より開けた階級の人達の家にはそれは無い。大抵はカミダナの上にはオフダが幾つか入つて居る、質素なミヤのほか何も無い。鏡【註】若しくはゴヘイ――神棚の直ぐ上に吊るしてあるか、或は時にその中ヘミヤを置いて置く箱のやうな、枠組に吊下げてあるかする小さなシメナハに着いて居る、ゴヘイは除いて――のあることは極、極く稀にしか無いことである。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註、鏡は、女神の徽號として、種々
な神社の祕密な一番內部の宮の中に
置いてある。然し神社で一般公衆の
眼の前に普通置いてある、金屬の鏡
は實は神道起原のものでは無くて、
眞言宗の佛心の徽號として日本ヘ輸
入されたものである。鏡が神道では
女神の徽號であるが如くに、劍が男
神の徽號である。が然し、男神或は
女神の眞の徽號はどんな場合と雖も、
人目に曝すことは無い。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]シメナハと紙のゴヘイとが神道の眞の表象で、オフダもマモリも全く近代のものである。家の內の宮の前ばかりでは無い、出雲では殆んど總ての家の門口の上にも、シメナハが吊してある。普通は稻藁の細い綱である。が、高位の神官、例へば杵築の大社の宮司の如き人、の屋敷の前のは、その大きさ重さ驚くべきものがある。出雲を旅する者が必ずその記憶に殘す、第一の不思議な事實の一つは、この徽號的な藁繩が遍く存在して居ることで、時には田のまはりにすら見ることがある。然しこの神聖な徽號が壯大に飾附けられるのは、新年と、神武天皇が日本の帝位に卽き給うた日と、そして天皇の誕生日との大祭の時である。この時は幾哩にわたる街路が、悉く船のケエブルほども太いシメナハで花綵飾される。
[やぶちゃん注:以下、底本及び原本の附図を示す。画像の質(特に退色や裏の透け)がやや異なるので、最初のもの(1)は底本である国立国会図書館デジタルライブラリーの画像からトリミングして補正(ノンブルを消去)したものを示し、次の(2)は“Project Gutenberg” の“Hearn,Lafcadio, 1850-1904 ¶”の原文の当該箇所の画像をダウンロードして補正した訳本のキャプションは以下に電子化して示した(画像の右から)。なお、図キャプションの英文を原文の注の後ろに★を附して電子化しておいた。同電子テクストにはキャプションは含まれておらず、ネット上では本キャプションの原文電子化は行われていない模様である。]
[やぶちゃん注:(1)。底本では原文の図の総見出しである“SACRED OBJECTS (SHINTŌ).”が訳されていない。「神聖なる対象物(神道)」の謂いである。平井呈一氏の訳では『神道の神具』とある。]
[やぶちゃん注:(2)]
1.杵築大社の火鑽。
2.オミキドツクリ。卽ち神に捧ぐる酒を容れる器。
3.クチサシ卽ちオミキドツクリの口止め。(他の表象的なる形式あれども、このもの恐らくは最も普通なると共に最も古きものならん)
4.サムパウ、卽ち神道の神への御供物を載せる臺。三寶はまた家庭にての禮拜に用ひ、また或る種の家庭儀式にも用ふ。
[やぶちゃん注:「カミダナ」「東京都神社庁」公式サイト内の「神棚をおまつりしましょう」の解説に基づいて記す。最初の定義は神棚は神社で受けた神札をまつる神聖な場所である。神を棚にまつる風習は古く、天照大神が父伊邪那岐命より授けられた宝物を棚に祀ったことが神話にも語られているとし(これを起源とするということか)、第二定義は伊勢神宮の神札である「神宮大麻(じんぐうたいま)」(「天照皇大神宮」名義)をまず祀り、次いで地域の氏神、その他各家庭で崇敬する神社の神札を祀るとする(ちょっと驚いたのだがこの三枚(或いは五枚)の札を並べずに重ねて祀ってよいとある)。礼拝は神社の参拝と同じく「二拝二拍手一拝」とあり、現行の鉄則のように記してあるが、伊勢神宮や出雲大社といった古社で行う古作法には「二拝四拍手一拝」もあるようである。ハーンも以下の篇で述べるが、神棚の祀る位置は南向きか東向きで、目線よりも高い位置、座敷・居間・鴨居などを利用して棚を造作し、その中央に神殿を構え、神殿の両側には繁栄の象徴である榊(さかき)を活け、神殿の正面に注連繩(しめなわ)を張って神聖な結界を示す、とある。
「オフダ」「御札」。前注参照。
「ミヤ」「宮」。これは神社のミニチュアのように我々は考えているが、もし、本来の祭祀がハーンの言うように神道の濫觴が家庭内の信仰を起源とし、或いはその起源が神社庁の言うように天照大神の伊耶那岐の御殿内に於ける棚の上への祭祀であったとするなら、寧ろ、これは、単純素朴にして質素に祀られたものの方が原形であり、そこから荘厳(しょうごん)したものが生じ、それが通常の神社のさらなる原型となったと考えたほうがしっくりくるように私には思われる。
「後の方の初文字ト」底本ではこの「ト」が「タ」となっていて、意味が判らない。原文をみれば分かる通り、ここは複合した際に後の“to”が “do”と連濁することを西洋人に説明しているわけで(当該箇所にはただ単に“t”とあるのが訳者の錯誤を誘ったものであろう)、ここは「ト」としないと日本人には意味が通じぬ。例外的に訂した。
「オミキドツクリ」「御神酒德利」。
「猶太」ユダヤ教。
「囘々敎」イスラム教。
「兩部神道」既注。
「前に掲げた一篇の述べた、大國主神と事代主神との、あの小さな對の像」「第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)」を参照されたい。
「ゴヘイ」「御幣」。ウィキの「御幣」をベースに記す。神道の祭祀で用いられる幣帛(へいはく:これは現行では神道祭祀に於いて神に奉献する神饌以外のものを総称するが、実際には神饌をも含む表現と捉えた方が古文献を読む際にはよい。「みてぐら」「幣物(へいもつ)」とも)の一種で、二本の紙垂を竹又は木で出来た幣串(へいぐし)に挟んだものである。幣束(へいそく)・幣(ぬさ)ともいう。『通常、紙垂は白い紙で作るが、御幣にとりつける紙垂は白だけでなく五色の紙や、金箔・銀箔が用いられることもある』。『かつて、神に布帛を奉る時には木に挟んで供えていたが、それが変化したのが今日の御幣である。その由来から、元々は神に捧げるものであったが、後に、社殿の中に立てて神の依代あるいは御神体として、あるいは祓串』(はらいぐし)『のように参拝者に対する祓具として用いるようになった』。『なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か取付けたもののことを、特に梵天(ぼんてん)という。紙が普及する以前は、ヤナギ、ニワトコ、ヌルデ、クルミ、マツなどの木の肌の一部を薄く削ぎ、渦状にちぢらせて残し垂らしておく飾り棒削り掛けも、御幣、幣の古い形の祭具として用いられた』もので、『削り花(削花、ハナとも)、穂垂(ほたれ)、掻垂(かいたれ)とも』称し、『アイヌにも同様のイナウがある』。因みにアイヌのイナウは本当に美しく、私は直に自然の霊気を感ずるものである。
「シメナハ」「注連繩」。ウィキの「注連縄」より引く。『注連縄(しめなわ)は、神道における神祭具で、糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄をさす。標縄・七五三縄とも表記する』。『現在の神社神道では「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を持つ。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓ったりする意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿る印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる』。御旅所(神社の神幸祭に於いて神(一般には神体を乗せた神輿であることが殆んどである)が巡幸の途中に休憩或いは宿泊する場所、或いは神幸のその目的地を指す)や神霊の存在を感じさせる『山の大岩、湧水地(泉水)、巨木、海の岩礁の「奇岩」などにも注連縄が張られる』。『また日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、また、車や自転車などにする注連飾りも、注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが、締めることができる横綱も注連縄である。現在でも水田などで雷(稲妻)が落ちた場所を青竹で囲い、注連縄を張って、五穀豊穣を願う慣わしが各地に残る』。起源としては神話上は『天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのが起源とされ』、『神道の根幹をなす一つであ』る稲作信仰に於いては『縄の材料は刈り取って干した稲藁、又は麻であり、稲作文化と関連の深い風習だと考えられ』これは『古くから古神道にも』認識されている表象である。古神道に於いては『神が鎮座する(神留る・かんづまる)山や森を神奈備といい信仰した。後に森や木々の神籬(ひもろぎ)や山や岩の磐座(いわくら)も、神が降りて宿る場所あるいは神体として祀られ、その証に注連縄がまかれた』。「巻き方・注連方(しめかた)」の項。『縄を綯(な)う=「編む」向きにより、左綯え(ひだりなえ)と右綯えの二通りがある。左綯えは時計回りに綯い、右綯えは逆で、藁束を星々が北極星を周るのと同じ回転方向(反時計回り)で螺旋状に撚り合わせて糸の象形を作る』。『左綯え(ひだりなえ)は、天上にある太陽の巡行で、火(男性)を表し、右綯えは反時計廻りで、太陽の巡行に逆行し、水(女性)を表している。祀る神様により男性・女性がいて、なう方向を使い分ける場合がある』。『大きなしめ縄は、細い縄を反時計回り(又は逆)にまわしながらしめ、それを時計回り(又は逆)に一緒にしていく』。『注連縄・注連飾りには、大根締め、ゴボウ締め、輪飾りなど色々な種類の形式がある。大根締めは両端がつぼまり、ゴボウ締めは片側のみが細い』。本来は『稲や麻などの藁や、葛の茎を煮て抽出した繊維』を用いるが、『神道としては、米を収穫したあとの藁ではなく、出穂前の青々とした稲を刈り取って乾燥させたものが本来の姿である。また、心材としてお米を収穫したあとの藁(芯わら)も使用するが、太さが必要な際には多くの芯わらを使用する。麻と糠を概ね』一対五の『割合で混ぜてよく揉んで油分を抜くことで注連縄に適した材質が生まれる』という。なお、「日本書紀」には、『弘計天皇の項に「取結縄葛者」とあり、葛縄が大変重要な建築資材であったことが記され』、『また、江戸時代に、国学者塙保己一・塙忠宝親子が天帝の葛天氏は葛縄や糸や衣の発明者であったと講談し、葛縄や葛布が神聖視されたことを示した』とある。なお、注連飾りの『本来の意義は、各家庭が正月に迎える年神を祀るための依り代とするものである。現在でも注連飾りを玄関に飾る民家が多く見られる。形状は、神社等で飾られる注連縄の小型版に装飾を加えたもので、注連縄に、邪気を払い神域を示す紙垂をはじめ、子孫の連続を象徴するダイダイの実やユズリハの葉、誠実・清廉潔白を象徴するウラジロの葉などのほか、東京を中心にエビの頭部(のレプリカ)などが添付されることが多い』。『これとは別に、東日本を中心に、長さ』数十センチメートルほどの『細い注連縄を、直径』数センチメートル程度の『輪形に結わえて、両端を垂らした簡易型の注連縄が広く見られる。これは京言葉で「ちょろ」、東京方言などで「輪飾り」、東海地方などで「輪締め」などと呼ばれている。近畿地方では台所の神の前に飾る程度だが、東日本では、門松に掛ける(東京周辺など)、玄関先に掛ける、鏡餅に掛けるなど、非常に広く用いられる。一般家庭では、本来の注連縄の代用とされる場合も多い』とある。これも正直言えば、神社の御大層なものがルーツではなく、農民が田の神に捧げた豊穣祈願の敬虔な藁一本こそが私はプロトタイプだと思う。
「鏡は、女神の徽號として、種々な神社の祕密な一番内部の宮の中に置いてある」「女神」は無論、光りを反射するところから太陽神のシンボルとしての天照大神である。ウィキの「神鏡」によれば、その『意義に関しては、一般的には太陽を鏡で指していると言われる。これは、鏡で日の光を反射した際、それを正面から見ると太陽のように輝いて見える為であり、日本神道では太陽神である天照大神(アマテラスオオカミ)を最上の神として崇め祀るので、太陽を象徴する鏡で以て御神体とし、神社に祀るとされている。『日本書紀』においては、天照大神は孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に、「これらの鏡を私の御魂として、拝するように常に奉りなさい」と記述されている』とするものの、ハーンが述べるように、その起原は大陸とされており、『鏡の発祥は中国に遡ると言われる。中国では日本以上に多数の古代神鏡が出土されており、日本で一番古いと言われる「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が西暦』二三五年『とされるものであるのに比して、中国で最古とされる神鏡は「葉脈文鏡」であり』、紀元前一六〇〇年から七七〇年のものとされていて、『日本と桁違いに古い。また、『魏志倭人伝』によると邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣いを送り、魏から銅鏡百枚を下賜されたとあることからも、日本の神鏡文化は中国からの文化輸入であると考えられる』とあり、『朝鮮においても神鏡は多数出土される』とある。
「男神或は女神の眞の徽號」ハーンが意味深長に述べているのは言わずもがな乍ら、陽物及び陰物、所謂、性器崇拝の秘物を意味しているとしか私には思われない。
「マモリ」御「守」。
「神武天皇が日本の帝位に卽き給うた日」二月十一日。戦前の「紀元節」、現在の「建国記念の日」(戦後占領軍(GHQ)の意向によって祝日から削除されたが、昭和四一(一九六六)年の「国民の祝日に関する法律」の改正により「国民の祝日」に加えられて翌年から適用された)。
「天皇の誕生日」明治天皇の誕生日は十一月三日(旧暦では嘉永五年九月二十二日でグレゴリオ暦で一八五二年十一月三日に相当する)。戦前の「天長節」「明治節」で、現在の「文化の日」(公的には昭和二一(一九四六)年に日本国憲法が公布された日を記念するとしている)。因みに、この十一月三日は私の父(当時の父は日本共産青年同盟の音楽部門の中央合唱団の団員であった。戦時中は少年航空兵として特攻隊を志願したが、辛くも生き残った。現在も健在で隣りに住んでいる)と亡き母の結婚記念日(昭和三〇(一九五五)年一一月三日)でもある。
「幾哩」一マイルは約一・六キロメートルであるから、凡そ四・九キロメートルから九・六キロメートルほどか。
「花綵飾」「はなづなかざり」と訓じたい。「花綵」(はなづな)は植物の花・実・葉などを綱状に編んだもの、或いはそれを模して造った陶器や建築などの装飾を指す。無論、「かさいしよく(かさいしょく)」或いは「かさいかざり」とも読めるが、この読みでは無粋としか私には思えない。訳者の意図とは異なるかも知れぬが、これはいただけない。平井呈一氏はここは『シメナワが、花房のように飾りつけられる』となさっておられ、読んでいてなんともほっこりするのである。
以下、本文に語られていない図のキャプションについて注する。
「火鑽」「ひきり」と読む。複数既出で既注。
「クチサシ卽ちオミキドツクリの口止め」「口差」であるが、これは現行では「神酒口(みきのくち)」と称する方が一般的である。御神酒を入れた古形の瓶子(へいし/へいじ:口縁部が細く窄(すぼ)まった比較的小型の容器)や、それが大きくなった御神酒徳利(「おみきすず」とも呼ぶ)などの口を飾る(後の「八」でハーンが述べるようにこれは神聖性を示す飾りであって栓や蓋ではないので注意されたい)縁起物の神在祭具の一つである。紙・杉・松・檜・竹などを素材とし、現行では祝儀袋の熨斗と全く変わらぬド派手なものも多い。本来は恐らく、常緑樹の小枝を指したものが始めであったように思われ、これは他の御幣や注連繩などの神祭具と同じく、元来は神霊や祖霊の依代(よりしろ)と考えられる。ハーンの「他の表象的なる形式あれども、このもの恐らくは最も普通なると共に最も古きものならん」という謂いは鋭く本質を捉えていると私は思う(こうした形状のものは現在ではそれを製作出来る人が激減しているらしい)。この驚くべきしなやかな形状こそ、神霊の表象である(但し、ハーンは「八」で実はこれを仏教芸術に於ける不動明王の「火炎」や如意「宝珠」の形状辺り(一部は私の推定補足)から借用したものだと断じている。私は、このハーンの見解には異を唱えるものであるが、それはまた再度、そこで注して語りたい)。なお、「神酒口」については「静岡みきのくち保存研究会」というサイトがあり、多様な画像と詳しい解説が読める。必見!
「サムパウ」「三方」(本来的に「三寶(宝)」ではない。「三宝」は純然たる仏教用語であって、仏・法・僧(仏と仏の教えである法とその教えをひろめる僧)という三種の仏法の宝、或いは仏の別名であるので注意されたい。但し、以下の記載に見るように「三宝」とも言うようではある)。ウィキの「三方」から引く。三方(さんぼう/さんぽう)は『神道の神事において使われる、神饌を載せるための台である。古代には、高貴な人物に物を献上する際にも使用された。寺院でも同様のものが使われる。三宝(仏・法・僧)にかけて三宝(さんぽう)と書かれることもある』。『通常は檜などの素木(しらき)による木製で、折敷(おしき)と呼ばれる盆の下に直方体状の台(胴)がついた形をしている。台の三方向に穴があいていることから、「三方」と呼ばれる』。『元々は折敷と台は分離していて使用するときに台の上に折敷を載せており、台に載せずに折敷だけで使用することもあった。今日では折敷と台が完全に結合したものが使用されており、折敷だけで使用するものは三方とは別に用意するようになっている』。『台の穴の意匠に決まりはないが、宝珠の形がよく用いられる』。『折敷には縁の板を留めるための綴り目があるが、これは穴のない側の反対側になるように作られている。神前に供える際は、穴のない側(綴り目の反対側)が神前に向くようにする。神饌が載った三方を持つときは、親指を左右の縁に、その他の指を折敷と台に当て、目の高さに持つ。
しかし、宮中作法では、指を折敷の中に指をかける伝統がある』。『なお、特殊な形状の三方として板足三方や丸三方などが、『また、四方に穴のあるタイプもあり、それを「四方」(しほう)と呼ぶ』とある。]
Ⅴ
In nearly all Izumo dwellings there is a kamidana, [8] or 'Shelf of the Gods.' On this is usually placed a small Shintō shrine (miya) containing tablets bearing the names of gods (one at least of which tablets is furnished by the neighbouring Shintō parish temple), and various ofuda, holy texts or charms which most often are written promises in the name of some Kami to protect his worshipper. If there be no miya, the tablets or ofuda are simply placed upon the shelf in a certain order, the most sacred having the middle place. Very rarely are images to be seen upon a kamidana: for primitive Shintōism excluded images rigidly as Jewish or Mohammedan law; and all Shintō iconography belongs to a comparatively modern era,—especially to the period of Ryobu-Shintō,—and must be considered of Buddhist origin. If there be any images, they will probably be such as have been made only within recent years at Kitauki: those small twin figures of Oho-kuni-nushi-no-Kami and of Koto-shiro-nushi-no-Kami, described in a former paper upon the Kitzuki-no-oho-yashiro. Shintō kakemono, which are also of latter-day origin, representing incidents from the Kojiki, are much more common than Shintō icons: these usually occupy the toko, or alcove, in the same room in which the kamidana is placed; but they will not be seen in the houses of the more cultivated classes. Ordinarily there will be found upon the kamidana nothing but the simple miya containing some ofuda: very, very seldom will a mirror [9] be seen, or gohei—except the gohei attached to the small shimenawa either hung just above the kamidana or suspended to the box-like frame in which the miya sometimes is placed. The shimenawa and the paper gohei are the true emblems of Shintō: even the ofuda and the mamori are quite modern. Not only before the household shrine, but also above the house-door of almost every home in Izumo, the shimenawa is suspended. It is ordinarily a thin rope of rice straw; but before the dwellings of high Shintō officials, such as the Taisha-Guji of Kitzuki, its size and weight are enormous. One of the first curious facts that the traveller in Izumo cannot fail to be impressed by is the universal presence of this symbolic rope of straw, which may sometimes even be seen round a rice-field. But the grand displays of the sacred symbol are upon the great festivals of the new year, the accession of Jimmu Tenno to the throne of Japan, and the Emperor's birthday. Then all the miles of streets are festooned with shimenawa thick as ship-cables.
8
From Kami, 'the [Powers] Above,' or the Gods, and tana, 'a shelf.' The initial 't' of the latter word changes into 'd' in the compound,— just as that of tokkuri, 'a jar' or 'bottle,' becomes dokkuri in the cornpound o-mi kidokkuri.
9
The mirror, as an emblem of female divinities, is kept in the secret innermost shrine of various Shintō temples. But the mirror of metal commonly placed before the public gaze in a Shintō shrine is not really of Shintō origin, but was introduced into Japan as a Buddhist symbol of the Shingon sect. As the mirror is the symbol in Shintō of female divinities, the sword is the emblem of male deities. The real symbols of the god or goddess are not, however, exposed to human gaze under any circumstances.
★
1. Sacred fire-drill of the Great Temple of Kitzuki
2. O-MIKIDOKKURI, or vessel used contain the saké offered the Gods
3. KUCHI-SASHI, or stopper, the o-mikidokkuri. (There are other symbolic forms: this is probably the oldest as well as the most common)
4. SMBŌ, or little stand upon which offerings to the Shintō Gods are placed. The sambō is also used in family workshop, and certain household ceremonies
四
神道の祖先崇拜は、あらゆる祖先崇拜の如くに、ハアバアト・スペンサアがあんなに充分にその源へ跡附けた、宗敎進化のあの一般法則に從つて、疑ふまでも無く埋葬の儀式から發展したものである。そして神道の公の崇拜の初期の形式は――フステル・ド・クウランジユ氏が、その驚嘆すべき『古代の町(ラ・シテ・アンチイク)』といふ書物で、希臘人及び羅馬人間(かん)の宗敎的公共制度は爐邊の宗敎から、發達したものであることを示したやうな風に――それより尙一層古い家庭の崇拜から、發達したものと信ずべき理由がある。實際、目今一管區の神道の宮を意味し、その上またその宮の神をも意味するに用ひられて居る、ウヂガミといふ語は『家庭の神』といふ意味であつて、その現在の形は『家の內の神』或は『家の神』といふ意味のウチノカミの轉訛、又は省略である。尤も神道の解釋家共は、この語を左うで無いやうに說明せんと試み、平田の如きは、アアネスト・サトウ氏が引用したやうに、この名目は共通の祖先卽ち祖先達に、或は同樣の尊敬に値ひするほどそれ程、或る一地方民衆の感謝を受け得べき者にだけ適用すべきであると明言した。それは彼平田の時代に於ける、またそのずつと以前に於ける、この語の正常な使用法は疑ふまでも無く左うであつたのである。が、この語の語原は確に、その起原を家庭の崇拜に有つて居ることを示し、また宗敎制度の進化に關する、近代の科學的信念を確めて居るやうに思はれる。
さて、希臘人幷びに羅馬人のうちにあつて、家庭の祭祀が公な宗敎の、あらゆる發展膨脹の間(あひだ)も、なほ常に續いて存在して居たと丁度同じに、神道の家庭での崇拜は、數限り無いウヂガミでの地方的崇拜と、種々な國又は郡にある有名なオホヤシロでの民衆的崇拜と、そしてまた伊勢幷びに杵築の大社での國民的崇拜と、併立して現在まで繼續し來たつて居る。家庭での祭祀に關聯した物體のうち、確に外國又は近代の起原に屬するものが多くある。だが、その單純な儀式や、その無意識な詩歌はその太古の妙趣を保持して居る。だから、日本人生活の硏究者には、神道の就中最も興味ある方面は、古代西歐人の家庭での禮拜同樣、二重形式で存在して居る、この家內崇拜が提供して吳れるのである。
[やぶちゃん注:「フステル・ド・クウランジユ」ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ(Numa Denis Fustel de Coulanges 一八三〇年~一八八九年)はフランスの中世史の歴史学者。『クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語って』『彼の掲げた史学研究のモットーは、『直接に根本史料のみを、もっとも細部にわたって研究すること』、『根本史料の中に表現されている事柄のみを信用すること』、そして『過去の歴史の中に、近代的観念を持ちこまないこと』であったという。『クーランジュの文献資料に関する知識は当時としては最高であり、その解釈についても他人の追随を許さなかった。しかし、彼は古代作家を無批判に信頼し、原典の信憑性を確認せずに採用した。さらに通説にことさらに反対する傾向があった』。『クーランジュの文体は明晰かつ簡明であり、事実と推理のみをあらわし、当時のフランス史家の悪弊であった「漠然とした概括」や「演説口調の慣用語」から脱却していた』とある。詳細は参照引用したウィキの「フュステル・ド・クーランジュ」を参照されたい。
「古代の町(ラ・シテ・アンチイク)」フュステル・ド・クーランジュが一八六四年に刊行した“ La Cité antique ”(古代都市)。彼の最初期の著作で、上記のウィキによれば、『広い学識を簡明に総合してやさしい形式のもとに表現しようとした時期』の作品である。
「ウヂガミ」ウィキの「氏神」より引く(記号の一部を省略した)。『氏神(うじがみ)は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のこと。同じ氏神の周辺に住み、その神を信仰する者同士を氏子(うじこ)という。現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い。氏神を祀る神社のことを氏社という』。『本来の氏神は、古代にその氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かった。例として、中臣氏は天児屋根命』(あめのこやねのみこと:春日権現・春日大明神に同じい)を、忌部氏(いんべうじ:古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製や宮殿造営を担った氏族)は天太玉命(あめのふとだまのみこと:天児屋命とともに祭祀を司どる神)を祀った。『中世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなった。同じ氏神を祭る人々を「氏子中」、「氏子同」といい、その代表者である氏子総代を中心に神事や祭事が担われている。氏神を祀る神社の周辺には住んでいないが、その神を信仰する者を「崇敬者(すうけいしゃ)」といい、氏子と併せて「氏子崇敬者」と総称する』。『鎮守(ちんじゅ)は、その土地に鎮まりその土地やその土地の者を守る神のことである。平安時代以降になると荘園制が形成され貴族や武士、寺院などの私的領地が確立され、氏族社会が崩壊し氏神信仰は衰退する。荘園領主達は荘園を鎮護する目的でその土地の守護神を祀るようになる。これが鎮守である。室町時代の頃に荘園制が崩壊するとその信仰も衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い』。一方、『産土神(うぶすながみ)はその者が産まれた土地の神であり、その者を一生守護すると考えられている。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と鎮守は同じ神であった。ただし、現在は転居する者が多いため産土神と鎮守神が異なる場合も多い』。『この氏神信仰は七五三などで見ることが出来るが、子供のお宮参りは本来氏神にお参りして、その土地の一員になることを認めてもらうための儀式の一つだった』とある。]
Ⅳ
Shintō ancestor-worship, no doubt, like all ancestor-worship, was developed out of funeral rites, according to that general law of religious evolution traced so fully by Herbert Spencer. And there is reason to believe that the early forms of Shintō public worship may have been evolved out of a yet older family worship,―much after the manner in which M. Fustel de Coulanges, in his wonderful book, La Cite Antique, has shown the religious public institutions among the Greeks and Romans to have been developed from the religion of the hearth. Indeed, the word ujigami, now used to signify a Shintō parish temple, and also its deity, means 'family God,' and in its present form is a corruption or contraction of uchi-no-Kami, meaning the 'god of the interior' or 'the god of the house.' Shintō expounders have, it is true, attempted to interpret the term otherwise; and Hirata, as quoted by Mr. Ernest Satow, declared the name should be applied only to the common ancestor, or ancestors, or to one so entitled to the gratitude of a community as to merit equal honours. Such, undoubtedly, was the just use of the term in his time, and long before it; but the etymology of the word would certainly seem to indicate its origin in family worship, and to confirm modern scientific beliefs in regard to the evolution of religious institutions.
Now just as among the Greeks and Latins the family cult always continued to exist through all the development and expansion of the public religion, so the Shintō family worship has continued concomitantly with the communal worship at the countless ujigami, with popular worship at the famed Oho-yashiro of various provinces or districts, and with national worship at the great shrines of Ise and Kitzuki. Many objects connected with the family cult are certainly of alien or modern origin; but its simple rites and its unconscious poetry retain their archaic charm. And, to the student of Japanese life, by far the most interesting aspect of Shintō is offered in this home worship, which, like the home worship of the antique Occident, exists in a dual form.
昭和二十六(一九五一)年
雪つぶて手ごたへあつて手がしびる
初蝶の宙にて風につきあたる
地に降りしばかりに蝶の翅汚る
雨激し鶯啼くをやめられず
群衆をぬけ出る花火旺んなとき
一木の落葉はげしくちかよれず
地に着きし前の絮のふたたび飛ぶ
地の窪の木の実ら共に日を失ふ
冬雲雀野の池に雲ぎつしりと
鶴群れ鳴く見ればわが頭(づ)も雪ふれる
深雪の下水一徹に鳴りつゞけ
前田旧邸にて
廃園に立つ雛の日の笹さはぐ
[やぶちゃん注:「前田旧邸」不詳。]
鍵入れて雪の鉄扉の裡ひゞく
雉子鳴くや林中に応へるものなく
旅によごれ雪解光りを身に反す
僧身のさへぎる修二会の油火のび
星なくて修二会の闇の天へつゞく
恋猫に山の月光小枝もかくさず
水中に梳らるゝ洗髪
よるひるの枕や夜は地虫啼く
[やぶちゃん注:「地虫啼く」で秋の季語。その鳴き声の正体は直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae の螻蛄(けら)類の、土中で「ジー」と鳴く声であり、古くは俗に「蚯蚓(みみず)が鳴く」と誤認して言われた。]
睡りを待つ地虫のこゑのとぎれもせず
流れに髪浸けて濯ぎて畏れもなし
星集りて梅の莚の上通る
梅莚星を疎らに北の天
電光の触れて消えたるガラスのかけら
滴りのつよさ一壺を満たしくる
夏たんぽゝ手をつけば濤とゞろけり
硬山(ぼた)燃ゆ短夜を寝ねばならず寝る
[やぶちゃん注:「硬山(ぼた)」ボタ山。石炭類の採掘に伴って生ずる捨石(ズリ/ボタ)を捨てた山状を呈した集積場で、特に「ボタ(山)」九州の炭坑での呼称である。これはウィキの「ボタ山」を参照されたいが、因みにそこにも『捨石の中には石炭分が多く含まれることがあるために自然発火することがある』とあるように、そうした景を多佳子は詠んでいるのである。私は中学二年の頃、松本清張の短編「火の記憶」を読んで鮮烈なその映像を幻覚して以来、ずっとこのボタ山の火が自身の経験のように心に刻まれていることを告白しておく。なお、この年譜にはこの年の夏(「短夜」)に福岡に多佳子が行った事実はない。五月に博多で開催された「天狼」三周年記念博多大会に出席し、旧師杉田久女(死後五年)の詠んだ遠賀川などを巡っているが、季が合わない。]
薔夜崩る激しきことの起る如
旅の歩
旅の歩をどんたくしやぎりに切替へる
[やぶちゃん注:「しやぎり」祭りにあって行列が練って行く途中で笛・太鼓・鉦 (かね) などが奏するお囃子或いはその集団を指す。むろんここは五月三日と五月四日(前注参照)に催される博多どんたくのそれである。]
干梅に星がかがやく明日(あす)も生きる
破れ蝶身を以つて高さ持しにけり
水汲女ゐていなづまを浴びどほし
啞蟬のとぶとき不幸見られたる
炎天来る車輪の音にさへ負ける
ほととぎす楽しき顔にかへりたり
洗ふ髪流れにつけてすぐなびく
K氏夫人に数年振りにて会ふ
老いともに西日の電車に袖が透き
[やぶちゃん注:「K氏夫人」不詳。]
何処へかへる群集天の花火轟き
紅毛の子に桔梗の花ゆだねる
一本の桔梗が立つ不幸の中
秋風に身の香なきまで吹かれたる
寝がへりて冥き方なるちゝろ虫
[やぶちゃん注:「ちゝろ虫」蟋蟀(こおろぎ)の古称。]
解纜や寒き船内燈を充たし
[やぶちゃん注:「解纜」複数既出既注。]
逃ぐるとき翡翠の胸緋をかくさぬ
[やぶちゃん注:「翡翠」「かはせみ(かわせみ)」でブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo
atthis 。]
しきりに眠し蟋蟀がこゑとぎらし
寒潮を桶に充たし速歩(はやあし)となる
一羽を憎み刈田の鷺のあらそへり
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
ひとり見て生きる銀漢冬もさだか
時雨日洩らすすなはち童女髪金に
紅失せず手燈(たび)向けられし梅疑(もど)き
「手燈(たび)」手灯は音で「シュトウ」と読めば、狭義には仏道修行の難行苦行の一つである、素手で脂燭(しそく) を掲げたり、掌に油を溜めて灯心を灯したりすることを指すが、ここは手燭及びその灯火である。「手(た)火(び)」とすれば読みの謂いが知れようか。「梅疑(もど)き」バラ亜綱モチノキ目モチノキ科モチノキ属ウメモドキ(梅擬)Ilex
serrata 。和名は葉や花が梅のそれらに似ることに由来する。]
七面鳥雄叫び霏々と雪疾(はや)め
[やぶちゃん注:「霏々と」は通常、雪や雨が降りしきるさまや、細かになった対象物が飛び散るさま(類似性から雲が浮かぶさまも)を形容するが、ここは疳鋭く啼き喚く七面鳥の雄叫びの目に見えぬそれに用いていて実に面白い。]
髪疼(いた)し寒星増えくるとめどなく
雪天にて鷺の細身(ほそみ)の立直る
母と子と鬼追ひしあとしかと締め
悲しきとき頭(づ)勝ちの鳰のすぐ潜る
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「鳰」は古名の「にお」で詠んでいる。無論、鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ Tachybaptus ruficollis のことである。]
雪解雀飛べば一方へ風つよし
野梅ばかりめつむれば昨日(きぞ)梅紅し
紅梅の無言昼となる夜となる
菜穀火燃え吾との間(あひ)の闇ひらく
笑へる雛もつとも低き階につく
[やぶちゃん注:「階」は「きさ」と訓じたい。]
四月盡病みて敷布に蟻はぢく
[やぶちゃん注:「四月盡」は「しがつじん」で、春の最後の月である、本来は旧暦三月最後の日を指す春の季語。]
人へだつともかげろふに透き透きて
粗土(あらつち)を壁がこぼせる牡丹の昼
船ありしあと春潮の隙間なし
青芦原道が断たれてなほゆくべく
薔薇を去る忘れ捨つべき世の如く
衣更さびしき崖の立てりけり
ぶんぶんが夜髪に縋る脚縺らし
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「ぶんぶんが/よがみに すがる/あし もつらし」である。]
夜髪解くや花框の香のまたつよく
[やぶちゃん注:「花框」不詳。そのまま読むなら、「はながまち」となるが、自宅の何処かの花形に化粧彫りした框(かまち)というのは私にはイメージ出来ない。当初は「花椢(はなくぬぎ)」の誤植かと思った。ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima は同じブナ科の栗の花と同じとすればこの句は私には氷解するからである。御存じの方も多いと思うが、ブナ科クリ属クリ Castanea crenata の花の匂いには、男性の前立腺から分泌するスペルミンC10H26N4というポリアミンが含まれており、栗の花はしばしば精液の匂いと同じだとされるからである。私のこれがトンデモ解釈で、「花框」が別物であることを御存じの方は御教授あられたい。]
芍薬を嗅がむとするに咳先だつ
[やぶちゃん注:「芍薬」ユキノシタ目ボタン科ボタン属シャクヤク Paeonia lactiflora 。]
淋しさが目鼻つきぬけ夏蜜柑
[やぶちゃん注:「夏蜜柑」バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ナツミカン Citrus natsudaidai 。]
咳をして遠賀の芦原旅ゆけり
[やぶちゃん注:前に注した通り、これはこの年の五月に博多で開催された「天狼」三周年記念博多大会に出席し、旧師杉田久女(死後五年)の詠んだ遠賀川などを巡った際の感懐吟である。]
髪結ひて祭の坑婦昼眩しむ
青柏蛙が青きゆゑ泰(やす)し
花ジャガタラ蝶がゆきては蝶たゝす
[やぶちゃん注:「花ジャガタラ」初夏に咲くナス目ナス科ナス属ジャガイモ Solanum tuberosum の花のことと思われる。ヒガンバナの異名として「ジャガタラバナ」(愛媛)もあるが前後の句とは季が合わない。]
わが触れし激しき虹を天へ帰す
風荒らく過ぎては嬰栗を散らさずに
夏の風邪蝶に翅音のありにけり
日のひかり月の光蛇の衣(きぬ)透す
[やぶちゃん注:次の句から、「ひの ひかり/つきの ひかり じや(じゃ)の/きぬ とほす(とおす)」と読める。]
蛇の衣青槇よりおろさば砕けむ
日盛りや翅ひゞかせて蜂かへる
手花火の煙上げしを人に知らる
睡き瞳に花火の天がずり落ちる
梅筵沼より星の移りたり
九月の草野鹿没し吾ゆきて没す
[やぶちゃん注:「没し」「没す」は、私は孰れも「もつし(もっし)」「もつす(もっす)」と訓じたい。]
曼珠沙華唐招提寺すでに日なし
友食べて蟷螂斧を舐めあかぬ
[やぶちゃん注:先行する前年の「惨酷に刻たつ蟷螂雌に抱かれ」の句の私の注を参照されたい。]
一つ椅子寒き餐燈の輪を被る
小猫にて蛇も幼し闘へり
翼張り飛ぶ鵜と航(ゆ)きあひてまた冬海
かわせみの遁れんとするかくれなき
きれぎれに在りていづれも蛇の衣
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
子雀とゐて身の細き母雀
扉(と)が雪に押されて開かず旅一夜
雪の上に引出され山羊の汚れはげし
日充つれど冬田毬つく処でなし
いちはやく雪白くなる崖の傷
風に波立つも氷らむとするも沼
氷解くる音立てゝより沼うとまし
旅かへる手袋片手失ひて
神戸港にて
フランス旗も貨物も曇る巣つくる鳩
[やぶちゃん注:以上、『現代俳句』掲載分。]
暁は夕暮に似て白蛾の翅
さんきらい草刈女また傷つきて
[やぶちゃん注:「さんきらい」「山帰来」で、ここでのそれは、単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属サルトリイバラ Smilax china の別称である。同種には棘が所々に生える。]
凩(こがらし)がゆきては星をかき鳴らす
秋燕の一羽一羽のつよき翼
野分渡しつまり難し濁りあふ
翡翠(かわせみ)の濃き彩(いろ)にしてとどまれず
[やぶちゃん注:「翡翠(かわせみ)」のルビはママ。歴史的仮名遣に従うなら「かはせみ」が正しい。本文句集では皆、「かはせみ」と表記してある。不審。]
別々の冬波に乗り漁舟づれ
[やぶちゃん注:「漁舟」「ぎよしう(ぎょしゅう)」と音読みしておく。無論、漁をする小舟の二艘である。]
青と赤の彩(いろ)わかれ独楽(こま)ゆるむ
何もなき冬浜誓子のひとつ燈つく
わが息のみ冬浜の暮れとどまらぬ
[やぶちゃん注:二句ともに現在の三重県鈴鹿市寺家町鼓ヶ浦の山口誓子宅を冬の遅い日暮れに独り海岸の浜辺から多佳子が遠望するという、如何にも意味深長なものである。そこは「何もなき」「わが息のみ」の心象風景としての「冬浜」であり、「誓子」の家のそれは遠くぽつんと孤「燈」としてあってある絶望的な距離感がそこに介在し、その「冬浜の暮れ」は「とどまらぬ」、「暮れ」ゆくある傾斜を「とど」めることが出来ぬと、多佳子は叫んでいる。これを意味深長と言わずして何と言おう。
以上、底本には『文庫版「海彦」より』とある。多佳子、五十二歳。]
昭和二十五(一九五〇)年
橇を引くいつもうつむく声音して
恵方といふ人の歩みの方へゆく
入学の坂流水と駆け下る
一握の砂にて埋む蟻地獄
露によみはじむ荒息知られぬため
冬の金星吾より先に孤児が見て
枯枝拾ふ疑ひもなきけふの吾
冬の旅屋根のクルスのいつまで見え
霜の上鑿またぎしをあとより怖る
凍蝶や大地日当ること忘れ
いなづまの夜の明けはなれ蝶の骸
嫗の死吾との間に桃盛り
海南風衣袂鳴らして夫の死後
牡丹の緋切りてすなはち左手に重し
[やぶちゃん注:「左手」「ゆんで」と訓じておく。]
惨酷に刻たつ蟷螂雌に抱かれ
[やぶちゃん注:これは所謂、昆虫綱蟷螂(カマキリ)目 Mantodea のカマキリ類が交尾行動(実際にはそれ例外の時も起こる)の際に雄を共食いする情景を嘱目、或いは事後のそれを想像した句である。種によって異なるものの、最新の知見ではこの♀による♂の共食いの頻度は必ずしも高くはないという。私は、カマキリの交尾時には、種によっては高い頻度でオスがメスに食われ、それはカマキリが近眼で、交尾時でも通常の際と同様に動くものを反射的に餌として捕食してしまうものと認識していた(実際、私は小学生の時に頭部を交尾をしたカマキリで、一方の(オスの)頭が失われているのを見たことがあったし、サソリのある種ではメスが頭胸部の下方に無数の子供を抱いて保育するが、落下して母親の視界に入ってしまうと、彼らは近眼であるために大事に育てているはずの子供を食べてしまう映像を見たことがある)。また、正上位での交尾ではそのリスクが高まるため、近年、オスのカマキリの中には後背位で交尾をする個体が見られるようになったという昆虫学者の記載を読んだこともあって、かつて教師時代、授業でもしばしばそう話したのを記憶している教え子諸君も多いであろう。しかし、ウィキの「カマキリ」の「共食い」の記載の見ると、そこでは幾分、異なるように書かれてある。一応、以下に引用しておきたい。『共食いをしやすいかどうかの傾向は、種によって大きく異なる。極端な種においてはオスはメスに頭部を食べられた刺激で精子嚢をメスに送り込むものがあるが、ほとんどの種の雄は頭部や上半身を失っても交尾が可能なだけであり、自ら進んで捕食されたりすることはない。日本産のカマキリ類ではその傾向が弱く、自然状態でメスがオスを進んで共食いすることはあまり見られないとも言われる。ただし、秋が深まって捕食昆虫が少なくなると他の個体も重要な餌となってくる』。『一般に報告されている共食いは飼育状態で高密度に個体が存在したり、餌が不足していた場合のものである。このような人工的な飼育環境に一般的に起こる共食いと交尾時の共食いとが混同されがちである。交尾時の共食いも雌が自分より小さくて動くものに飛びつくという習性に従っているにすぎないと見られる。ただしオスがメスを捕食することはなく、遺伝子を子孫に伝える本能的メカニズムが関係していると考えられる(すなわちメスを捕食してはDNAが子孫に伝わらなくなる)。また、このような習性はクモなど他の肉食性の虫でも見られ、特に珍しいことではない』『また、それらの雌が雄を捕食する虫の場合、雄が本能的にいくつもの雌と交尾をし、体力を使いすぎて最後に交尾した雌の餌になっている場合もある』。私の話はカマキリの種によっては誤りではない、と一応の附言はしておきたい。]
群るゝ蝶旅に人の訃追ひ来たる
渦潮に立つ海恋の眼をひらき
露飛び立つ鳥は胸に脚たゝみ
月光より火蛾を聚むる誘蛾燈
白露に硝煙の香の走りたり
蟷螂とゐて盤石の熱(ほて)りはげし
洗ひ髪月明暁にまで及ぶ
二階欲し雪降る天の果て見たく
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
林檎嚙む霧笛は谺あそびして
林檎嚙る母の歯形のところより
一足(そく)の足袋買ふを鏡うつしてをり
懸け大根オリオンの端地より出で
落ちはづむ木の実に誘はれてひろふ
辛夷の天降り来る雪の隙間なし
女(め)の鹿は妊りゐるか枯はげし
寒牡丹傷つく菅紅犇く
霜夜童女わが手のとゞくところにい寝
はや寝つくか凍夜の枕かへしもせず
ものみなの枯れて了ふ今日以後も生く
坂下る春星いでし高さまで
修二会の闇火採男(ひとりを)身より焰をのばす
[やぶちゃん注:多佳子の好んだ東大寺二月堂の修二会、「お水取り」の、そのクライマックスである「お松明(たいまつ)」の嘱目吟であろう。私は見たことがないので、ウィキの「修二会」の「東大寺修二会(お水取り)」の「お松明」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『修二会のシンボルのような行事に二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」がある。この松明は上堂の松明といわれ、本来は、初夜の行を始めるために練行衆が登り廊を登るときに道明かりとして焚かれるもので、一人の童子が松明をかざして、後に一人の練行衆が続き、入堂された後に、その松明を舞台(欄干)に回り、火を振り回すのである。その後、裏に回り水槽で消され、上がってきた登り廊を降りていく。本行の期間中連日行われるが、十二日は一回り大きな籠松明が出るので見応えがある。また、十二日のみ十一本の松明が上堂する。他の日は十本である。十二日以外の日は、新入は先に上堂して準備をしているため十人、十二日だけは準備をしてから一旦下堂するので十一人の上堂となる。この籠松明は長さ八メートル、重さ七十キログラム前後あり、バランスを取るため、根が付けられている。他の日の松明は長さ六~八メートル』、重さは四十キログラムある。『籠松明以外は、使われる日の早朝に担ぐ童子自身が食堂(じきどう)脇で作る。材料は一~二年かけて集める』。(中略)『籠をくくるフジヅルは、滋賀県甲賀市(旧・信楽地区)の江州紫香楽一心講から毎年二百キログラムが寄進されている』『が竹以外は年々調達が難しくなってきている』とある。]
紅梅の一枝を挿して影つよし
梅雨傘をたゝみすなほち波郷の前
てのひらを穂先におかれ泉湧く
藤房の切先揃へ額(ぬか)に来る
負けし子がつかむ黄麦の穂の熱(あつ)く
野分中しづかに言葉うけられて
日盛りや身擦りて匂ふ青柏
まぎれては吾亦紅立つ青野分
息ひそむ野分の蝶蛾と共に住む
老いゆるさず天よりも疾く凌霄灼け
[やぶちゃん注:「凌霄」は「りようせう(りょうしょう)」で凌霄花、落葉性の蔓性木本類であるシソ目ノウゼンカズラ科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora のこと。ウィキの「ノウゼンカズラ」によれば(記号の一部を変更・省略した)、『夏から秋にかけ橙色あるいは赤色の大きな美しい花をつけ、気根を出して樹木や壁などの他物に付着してつるを伸ばす』。『中国原産で平安時代には日本に渡来していたと考えられる。夏の季語』。『古名は「ノウセウ(陵苕)」または「ノセウ」で、それが訛って「ノウゼン」となった。また蔓が他の木に絡み攀じ登るため「カズラ」の名がついた。また古くは「まかやき(陵苕)」とも呼ばれた』。『「ノウセウ」については凌霄(りょうしょう)の朝鮮読み「ヌンソ」の訛りとする説もある』。『漢名の凌霄花は「霄(そら)を凌ぐ花」の意で、高いところに攀じ登ることによる命名。漢詩では他物に絡むため愛の象徴となる。また、「陵苕」(リョウチョウ)も本種を表す』とある。]
露に指しびれ来記憶追いつめる
忌の一(ひと)日其後も秋の蚊帳くゞる
[やぶちゃん注:「忌の一日」は推測でしかないが、これはやはり夫豊次郎(昭和一二(一九三七)年没。享年五十歳)の祥月命日九月三十日であろう。この年は十四回忌に当たった。]
蟻地獄一握の砂にて埋め足る
少年のものにて蠶蛾の産卵つゞく
[やぶちゃん注:「蠶蛾」私は「さんが」と音読みしたい。]
折り持つを里子がしびとばなと囃す
[やぶちゃん注:「しびとばな」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata の異名。私のブログ記事「曼珠沙華逍遙」を参照されたい。同年年譜に、『九月二十三日、大野寺に吟行。室生川に沿うて、密生する曼珠沙華に多佳子は狂喜し、その中に寝ころぶ』とある。「里子」の謂いから、この折りに吟行の可能性が高い。奈良県宇陀市室生大野にある楊柳山大野寺は、室生寺の西の大門にある真言宗室生寺派の寺院で本尊は弥勒菩薩、開基は役小角と伝える。宇陀川岸の自然岩に刻まれた弥勒磨崖仏があることで知られる。室生川はその宇陀川の中流部に注ぐ主支流の一つで、この中流域に室生寺がある。]
冬虹の切れ端として地勁(つよ)し
沖波自ら立ち寒き一湾にも溢る
寒潮にいま安んじて群ら鷗
翁斧うつ年木かつかつ自ら割れ
楽しくて蜜柑の酸ゆき嫗の眉
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
にはたづみわが羅に彩(いろ)そむかず
かなかなや朝髪冷ゆる藻の如く
仰臥する顔草高く露高く
蚊帳の夜末をとめにて吾に遺る
家の中部屋のわかれて虫しげし
露寒し仔鹿跳びても跳びても露
雪原の汽笛みぢかく余響なし
雪原の燈のなき汽車とすれちがふ
旅の松夜空に雪用意して立つ
コートぬぐ虫の端に炉火がもえ
雪構へしてぞ母屋をへだて住む
降る雪の音か枕に耳あつる
汲みて賜ぶ雪の井水のゆげ立つを
若さかくさず炉火に歯皓く論つよし
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「皓く」は「しろく」と読む。]
旅の扉のひらかれストーブくれなゐに
雪嶺を雨に隠され訣るゝ日
かりかりと凍雪を搔く虎落笛
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「虎落笛」は「もがりぶえ」と読む。冬の激しい風が竹垣や柵などに吹きつけて発する笛のような音。]
冬旅のオリオン菓子を買ひてをり
ひとの傘の裡の歩みや雪ふみて
風雪を欲れど捨身の旅にあらず
太白と雪山同じ程に暮る
[やぶちゃん注:「太白」老婆心乍ら、金星のこと。]
雪山に汽笛の谺うちあへり
マスク除(と)る大きく息をつかん為め
死はそこに深夜の林檎戛(かつ)と割る
[やぶちゃん注:以上、『俳句研究』掲載分。多佳子、五十一歳。]
三
近代の神道は、その外的形式に就いては、之を解剖するのは寔に困難である。が、そのまはりに如何にも厚く織り合はされて居る、幾多の外來信仰の込み入つた地合の全體を透(とほ)して、その最も初期の性質を指示するものを今なほ容易に識別することが出來る。その原始的儀式の或る物に、その古代の祈禱に文言にまた表象に、その神道の來歷に、またその最も貧しい崇拜者の飾氣の無い思想の多くの中にも、神道はあらゆる崇拜の形式のうちの最も古いものとしてハアバアト・スペンサアが『あらゆる宗敎の根本』と呼んで居るものとして――死者への敬虔の念として――明らかに示顯されて居るのである。それどころか、神道の大學者、大神學者に幾度も左うと解釋され來たつて居る。神道の神々は亡靈である。死んだ者は悉く神となるのである。靈之眞柱(たまのまはしら)で、かの大註釋者平田は『死せる者共の靈魂は、我等がまはり到る處に存在する不可見世界に猶も在りて、そは悉く性質を異にし、感化の度を異にする神となる。祀られた神に鎭まり居るもあれば、その墓の近くにさまよふもある。そしていづれも、生ける折と同じく、君親妻子に幸(さきは)ふことを歇めぬ』【註一】。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註一。日本亞細亞協會の會報に發表
されたサトウ氏の立派な論文『純な
る神道の復活』より引用。『神』と
いふ語は必ずしも仁慈なカミを意味
しはせぬ。神道には惡魔は無いが、
善い神があると共に『惡い神』があ
る。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]そして死者の靈魂はこれ以上のことをする。人間の生命と行爲とを支配するからである。人間の行爲は悉く『神の御所爲(みしわざ)である』【註二】と平田は言つて居る。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註二。サトウ氏『純なる神道の復活』。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]また純な神道の敎儀の解釋者として平田に劣らず有名な本居は、『人の要する道德觀念は總て皆な神が、その人の胸ヘ植附るので、飢ゑた時に物を食ひ、渇した時に物を飮まざるを得ざらしめる、彼(か)の本能とその性質は同じである』【註三】と書いて居る。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註三。サトウ氏『純なる神道の復活』。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]この直覺の敎儀には十誡の要は無い、固定した倫理法の要は無い。人間の良心が唯一の必要な指導者であると宣べて居る。人間の一々の行爲は『神の御所爲(みしわざ)』であるけれども、然し人間は悉くその心の中に、正しい衝動と正しからぬ衝動とを識別し、善神の感化力と、惡神の感化力とを識別する力を具へて居る。如何なる道德の指導者も、人自(みづか)らの情(こゝろ)が爲すほどの確實な指導を爲すことは出來ぬ。本居は『受行ふべき道(ミチ)なきことはおのづから知かりてむ。其を知るぞ卽ち神の道をうけおこなふはありける』【註】と言つて居る。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。サトウ氏『純なる神道の復活』
より引用。本居の言葉の全體の力强
さは、讀者が『シンタウ』といふ語
は日本ではその起原比較的に新しい
もので、この古來の信仰を佛道と區
別せん爲め、漢字を假り用ひたので
ある事、又、この原始的信仰の昔の
名はカミノミチ卽ち『神の道』であ
る事を知らなければ充分の了解が出
來ぬであらう。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]また平田は『眞の德を行はんと欲するならば、眼見うべからざる世界を恭ひ恐れるが宜い。そすれば惡を行ふことが出來ぬやうにならう。眼見うべからざる世界を支配し給ふ神々に誓を立てて、自分の心に植附られて居る良心(マゴコロ)を養へ。さすれば決して道にさ迷ふことは無からう』と書いて居る。此心靈的自己修養はどうしたら一番能く得られるか、それを該(そ)の偉大な註解者は、殆んど前と同じ簡潔さを以て述べて居る。『祖先の靈に敬虔なることがあらゆる德の源泉である。祖先に對してその義務を果たす者は何人も神に對し、或は己が兩親に對して不敬なるを得ぬ。かゝる人は君主に對しては忠義であり、そして友人に對しては信實であり、妻子に對しては親切温順であらう』と。
この古代の信仰と十九世紀の思想とは、相去ることどの位であるか。我々がその信仰を笑ひ得るほどに遠いものでは確に無い。原始人の信仰と最も哲學な心理學者の知識とが、同じ究極の眞理の門邊で相會して、珍らしくも一致して居ることを見ることもあらう。また一兒童の思想が一スペンサア、或は一シヨオペンハウエルの結論を繰返して居ることもあらう。我々の祖先は眞實我々のカミでは無いか。我々の一々の行爲は、實際我々の內に住まつて居る死者の所爲では無いか。我々の衝動や傾向は、我々の能力や弱點は、我々の勇敢や怯懦は、我々がそれよりして生命といふ不可思議極はまる、遺產を受取つた所の彼(か)の今は世に無き無數の人間が創造したものでは無いか。我々は、それが我々の銘々になつて居る所の、そしてそれを、『自分が』とか、『彼等が』とか、『自我(エゴ)』と呼んで居る所の、あの無限に複雜な或る物に就いて、今なほ考へはせぬか。我々の自負或は彼等が今迄に造り來たつて居る物の裡に存する、眼見るを得べからざるものの自負、或は恥辱のほか何であるか。そして我々の良心といふも、善惡種々樣々の無數の死滅した經驗の遺傳繼承の總額のほか何であるか。我々は人間の神性を公言する所の、今日の彼の鞏固な精神の確信を尊敬すると同時に、死者は總て神と成るといふ神道思想を輕々に排斥は出來ないのである。
[やぶちゃん注:「寔に」老婆心乍ら、「まことに」と読む。
「地合」「ぢあひ(じあい)」と読み、布地の品質や布の地質。布地のことで、原文は“texture”(テクスチャー)。所謂、り織物に於ける織地(おりじ)、生地(きじ)のことである。
「ハアバアト・スペンサア」既注。
「示顯」老婆心乍ら、「じげん」と読む。示し顕(あら)わすこと。
「霊之眞柱(たまのまはしら)」平田篤胤の著書。二巻。文化一〇(一八一三)年刊。小学館「日本大百科全書」によれば、成稿は「古道大意」の翌年であるが、篤胤独自の考えが明確に現れており、平田学の展開方向を決定した重要な著作で、篤胤は貧窮にあり乍ら、四十両もの大金を投じてこれを刊行している。『内容は服部中庸(はつとりなかつね)の「三大考」を下敷きとして、十の図によって天(あめ)・地(つち)・泉(よみ)からなる世界の成り立ちを説明したものであるが、その要は真の道を知って大倭心(やまとごころ)を固めるために「霊(たま)の行方(ゆくえ)の安定(しずまり)を知る」目的から、人は死後、本居宣長(もとおりのりなが)のいうように夜見(よみ)に行くのではなく、大国主(おおくにぬし)神の支配する幽冥(ゆうめい)に行くと説くところにある』(下線やぶちゃん)。
『死せる者共の靈魂は、我等がまはり到る處に存在する不可見世界に猶も在りて、そは悉く性質を異にし、感化の度を異にする神となる。祀られた神に鎭まり居るもあれば、その墓の近くにさまよふもある。そしていづれも、生ける折と同じく、君親妻子に幸(さきは)ふことを歇めぬ』(老婆心乍ら、「歇めぬ」は「やめぬ」と読む)以上の部分を平井呈一氏は訳で「靈之眞柱」の原文を写して下さっていることから、どの箇所かが比較的容易に判明した。これは同書の「下つ卷」の三分の二ほどいった箇所の冒頭である。以下、その冒頭を含む一章を以下に電子化しておく。底本は一九九八年岩波文庫刊子安宣邦校注「霊の真柱」を用いたが、新字な上にルビが現代仮名遣であるため、恣意的に漢字を正字化し、読みは難解なものにのみ歴史的仮名遣で附した。割注は〔 〕で示し。一部に記号を追加した。
*
さてまた、現身(うつそみ)の世の人も世に居るほどこそ如此(かく)て在れども、死にて幽冥に歸(おもむ)きては、その靈魂(たま)やがて神にて、その靈異(くしび)なること、その量々(ほどほど)に、貴き賤き、善き惡しき、剛(つよ)き柔(よは)きの違(たがひ)こそあれ、中に卓越(すぐ)れたるは、神代の神の靈異(くしび)なるにも、をさをさ劣らず功(いさお)をなし、また、事の發(おこ)らぬ豫(まだき)より、其(その)事を人に悟すなど、神代の神に異(こと)なることなく、〔さるは、菅原の神の御稜威(みいつ)などを、見て知るべし。この神の御上(みうへ)を俗の生心(なまごころ)なる輩(やから)など、何くれと論(さだ)め云ふは、すべて信(と)るに足らず。〕其(そ)は、かの大國主神の、隱(かく)り坐(ま)しつゝも、侍居(さもらひ)たまふ心ばへにて、顯世(うつしよ)を幸(さきは)ひ賜ふ理(ことわり)にひとしく、君(きみ)・親(おや)、妻子(めこ)に幸ふことなり。そは黃泉(よみ)へ往(い)かずは、何處(いづこ)に安在(しづ)まりてしかると云ふに、社(やしろ)、また祠(ほこら)などを建(たて)て祭りたるは、其處に鎭(しづ)まり坐(を)れども、然在(しから)ぬは、其(その)墓(おくつき)の上に鎭まり居り、これはた、天地(あめつち)と共に、窮まり盡くる期(とき)なきこと、神々の常磐(とことは)に、その社々(やしろやしろ)に坐しますとおなじきなり。さて、墓所(はかどころ)に葬(かく)すをも、鎭まり坐すと云へる例(ためし)は、倭建命(やまとたけのみこと)の崩(かむあがり)り坐して、伊勢の能煩野(のぼぬ)に葬(かく)し奉(まつり)しを、白鳥(しろとり)に化(な)りて、飛び翔(かけ)り行(い)でまして河內(かはち)の志幾(しき)に留(とど)まり給ひしかば、其處にも御陵(みはか)を作りて、「鎭まり坐さしめき」とある。〔書紀には、能褒野(のぼぬ)の御陵(みはか)より飛び出でまして、大和の琴彈原(ことひきはら)に停(とど)まりたまひしかば、其處に御陵を造り給ひしに、また飛び翔り行(い)でまして、河內の舊市邑(ふるいちむら)に留まり賜へるゆゑ、また其處にも御陵を作れる故、時の人、この三陵を號(なづ)けて、白鳥陵(しらとりのみはか)と云ふとあり。〕此は御靈を其處に留め奉(まつ)りしにて、すべて、古(いにしへ)の墓所(はかどころ)をかまふるは、その魂を其處(そのところ)に留めむとの事(わざ)なること、この倭建命(やまとたけのみこと)を、始め能煩野(のぼぬ)に葬(かく)し奉(まつ)りしが、その御靈の飛び行(い)でましゝ故、またその行(ゆ)き留まり給へる處々(ところところ)に、御陵(みはか)を作れるにて曉(さと)るべし。〔また、この御子(みこ)の后(きさき)、弟橘比賣命(おとたちばなのひめのみこと)の、海に入り坐しゝを、その御櫛(みくし)をとりて、御墓(みはか)を作り、納めたりしも、その御櫛を神體(かみわざ)としてその御魂を留めむとてなり。また、「萬葉集」に、高市皇子命(たかいちのみこのみこと)を、葬(はふ)り奉(まつ)りしことを、〽言(こと)さへく、百濟(くだら)の原ゆ、神葬(かむはふ)りはふりいまして、あさもよし、木上宮(きのへのみや)を、常宮(とこみや)と、定めまつりて、神ながら、安定(しづ)まり坐(ま)しぬ」と詠めるも、墓に葬(おさ)むるを、安定(しづ)むるといへる例(ためし)にて、古(いにしへ)の意にかなへり。此類ひの歌、「萬葉集」にいと多かるを、今はその一(ひとつ)を擧(あげ)つるなり。〕
*
以下、「・」で以上の引用部の注を示す。
・「靈異(くしび)」不思議。神秘。霊妙。
・「菅原の神」強力な御霊となった菅原道真のことであろう。
・「御稜威(みいつ)」神聖で威厳があることを示す「稜威」「嚴(厳)」の尊敬語で、神た天皇の御威光・御威勢。
・「生心(なまごころ)」生半可な分別。
・「論(さだ)め云ふ」議論し言い合う。
・「かの大國主神の、隱(かく)り坐(ま)しつゝも、侍居(さもらひ)たまふ心ばへにて、顯世(うつしよ)を幸(さきは)ひ賜ふ理(ことわり)にひとしく、君(きみ)・親(おや)、妻子(めこ)に幸ふことなり」これが篤胤のオリジナルな真骨頂であって、本書で師宣長に敢然と反旗を翻し(前の下線部参照)、人の霊魂は黄泉の国へなどは行かず、この国土の内の大国主神の支配するところの世界に帰属した、我々には見えない幽冥界に居る、というのである。
・「常磐(とことは)に」「常(とこ)しなへなり」(「長しなへなり」)に同じい。孰れも形容動詞ナリ活用であるが、辞書には「とことはなり」は平安時代までは「とことばなり」であったとするが、本来の上代語としては「万葉集」に用例の見える「としへに」(「とこしへなり」)であったように思われる。
・「伊勢の能煩野(のぼぬ)」「能褒野(のぼぬ)」「のぼの」とも。現在の三重県鈴鹿市内ではあるが、非科学的な陵墓論争の中で実際には限定出来ない気がする。当時の宣長や篤胤らは、現在の鈴鹿市上田町にある白鳥塚(しらとりづか)古墳を能褒野陵として最有力視していた。後、明治九(一八七六)年に新政府の教部省(新制太政官制度に基づき、宗教統制に拠る国民教化の目的で設置された機関であったが、翌年には廃止され、政策の一部は内務省社寺局に移行した)はこの白鳥塚を倭建命の陵墓と治定したものの、三年後の明治十二年には宮内省はそれを覆し、これまで候補にさえ挙がっていなかった現在の三重県亀山市田村町名越(白鳥塚の四・四キロメートル南西)にあった丁子塚(ちょうじづか)を倭建命陵墓に治定、現在の能褒野王塚(のぼのおうつか)古墳(前方後円墳)とされるに至っている。ただ、「能煩野」大きな原であるから、この鈴鹿市上田町及び加佐登町(かさだちょう)から亀山市田村町と比定して問題はあるまい。
・「河內(かはち)の志幾(しき)」これは現在の八尾市に相当するが、現在も過去もここに白鳥伝説の古墳は存在しない。篤胤が述べるように「日本書紀」には、倭建命は能煩野で亡くなると白鳥に変じて飛び立ったが、まず最初に大和の琴弾原(ことひきはら)(現在の御所(ごせ)市富田(とみた)へ降り立ち、また飛び立って次に河内の古市邑(現在の羽曳野市)に舞い降りた後、天高く飛び去ったとしており、そこから、現行ではこの白鳥陵(しらとりのみささぎ)は奈良県御所市富田(琴弾原(ことびきはら)白鳥陵)と大阪府羽曳野市軽里(古市白鳥陵・軽里大塚古墳)の二ヶ所に治定されてはいる(因みに皇子の墳墓を「陵」というのは「古事記」「日本書紀」に於いては倭建命の能褒野陵と二つの白鳥陵のみで稀有の例外である)。即ち、現在の宮内庁は「白鳥塚」を無視して「能褒野墓」を何らの考証的根拠なしに強引に「倭建命陵墓」と公式認定してしまい、にも拘わらず、同時に「日本書紀」の記載通り、二つの「白鳥陵」をも「能褒野墓」に附属するもの、附属する「墓」として認めるという荒業を敢えてしている訳である。しかし、篤胤の謂いを借りれば、神道に於ける墓はまさに「御靈を其處に留め奉りしにて、すべて、古の墓所をかまふるは、その魂を其處に留めむとの事なること、この倭建命を、始め能煩野に葬し奉りしが、その御靈の飛び行でましゝ故、またその行き留まり給へる處々に、御陵を作れるにて曉るべし」であってこれは実は何ら問題ないのである。神道の霊魂(みたま)は三つどころか目に見えないこの世界に遍く存在する、しかもその世界は現行を支配する天孫の強引な国譲りし、姿を隠したところの大黒、暗黒神大国主の支配する目に見えぬ国である、というこの近世の孤独な神道家篤胤の考え方は、一箇の孤高なる思想乍ら、神道本来のプロトタイプに対する優れた解釈として、今の私にはすこぶる共感出来るものであることを密かに告白しておくこととする。
・「弟橘比賣命(おとたちばなのひめのみこと)の、海に入り坐しゝを、その御櫛(みくし)をとりて、御墓(みはか)を作り、納めたり」現在の神奈川県川崎市高津区子母口にある橘樹(たちばな)神社の『社伝によると「日本武尊東征の際海が荒れ、弟橘媛はその身を投じ海を鎮た。やがて入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着した。」とある。また古事記でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えられている』とし、こ神社の裏手の丘にある富士見台古墳を弟橘媛陵とする説があるが、この古墳は六世紀頃に造られたもので、当時のこの地域の有力者の墓であるとする説もある、とウィキの「橘樹神社」にはある。
・「高市皇子命(たかいちのみこのみこと)」高市皇子(たけちのおうじ 白雉五(六五四)年~持統一〇(六九六)年)は後の第四十代天武天皇の第一皇子(但し、母は尼子娘(あまこのいらつめ:筑紫宗像郡の豪族胸形徳善(むなかたのとくぜん)の娘)で、後継としては皇女を母にもつ草壁皇子と大津皇子に次ぐ第三の地位にあった)。「壬申の乱」では父大海皇子(おおおあまのおうじ 後の天武天皇)に着き、軍を統率して大いに活躍、天武天皇が崩御すると、大津皇子(母は天智天皇皇女大田皇女(おおたのひめみこ))は謀反の咎で死罪となり、続いて持統三(六八九)年に草壁皇子が死ぬと、翌年に天武天皇皇后で草壁皇子の母であった鸕野讚良皇女(うのささらのこうじょ)が第四十一代持統天皇として即位、この年、高市皇子は太政大臣となって、以後、天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位となった。没した後は「延喜式」の「諸陵」によれば、墓は「三立岡墓(みたておかのはか)」とし、大和国広瀬郡(現在の奈良県北葛城郡広陵町)とするが、一方ではかの高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある(以上は主にウィキの「高市皇子」とそのリンク先を参考にしつつ纏めた)。
・「言(こと)さへく、百濟(くだら)の原ゆ、神葬(かむはふ)りはふりいまして、あさもよし、木上宮(きのへのみや)を、常宮(とこみや)と、定めまつりて、神ながら、安定(しづ)まり坐(ま)しぬ」「万葉集」の「卷第二」の「挽謌」に載る柿本人麿の「高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首幷短哥(高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのいた)の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首幷びに短哥)」という前書を持つ長歌(百九十九番歌)の最後の方の一節である。原文は(以下、講談社文庫中西進訳注に拠ったが、恣意的に正字化した)、
*
言左敞久 百濟之原從 神葬 〻伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神隨 安定座奴
言(こと)さへく 百濟(くだら)の原ゆ 神葬(かむはふ)り 葬りいませて 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くしまつりて 神(かみ)ながら 鎭(しづ)まりましぬ
*
「言(こと)さへく」は「さへく」は「障(さ)ふ」で、「言葉の通じない」の意で、「百濟」の枕詞的用法。但し、この「百濟」は、かの韓国の百済ではなく、奈良県北葛城郡広陵町(こうりょうちょう)大字百済のこと(グーグル・マップ・データ)。「ゆ」は上代の格助詞で、ここは「~を通って」の意。「神葬(かむはふ)り」貴人を神として埋葬する。「いませて」そこにいらっしゃるように成して。「麻裳(あさも)よし」枕詞。麻が紀伊国の特産であることから、「き」を初音とする地名に係る。枕詞として無視せずに訳す例(底本は『麻の裳もよい紀という』とある)もあるが私は歌の情趣に合わないと思う。「城上(きのへ)の宮」やはり広陵町内の地名とするが、ネットを検索すると異説が多い。「高くしまつりて」底本の中西氏の脚注に『「し」は動詞「す」。ここは造営する。「まつり」は補助動詞。謙譲』とある。諸訳を参考に我流でこの部分を通釈すると、
――鄙にして言葉もうまく通ぜぬような荒れた葛城の百済の原を通り、高市皇子を神として送り葬り申し上げ、城上(きのえ)の宮を皇子の永遠(とわ)の宮として天高く造作(ぞうさ)し申し上げ、皇子は永遠(とわ)なる神、そのままに、この永遠(とわ)の宮にお鎮まりなされた。――
といった謂いである。篤胤がここを引いた意味が、私には、よく判る気がする。
「日本亞細亞協會の會報に發表されたサトウ氏の立派な論文『純なる神道の復活』」既注であるが、再掲する。アーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow)が一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形となった‘ The revival of pure Shin-tau ’(純粋神道の復活)である。
「本居は、『人の要する道德觀念は總て皆な神が、その人の胸ヘ植附るので、飢ゑた時に物を食ひ、渇した時に物を飮まざるを得ざらしめる、彼(か)の本能とその性質は同じである』」本居宣長の著作は私の手元に一冊もなく、ちゃんと読んだことがない。ネットに頼ったが、原典は不明であった。幸い、やはり平井氏が原文らしきものを訳に用いておられるので、それを引く(今回は一部の仮名遣を正し、恣意的に漢字を正字化した)。
『まづ飢て食ひ、渇て飮ムたくひは、人の教へをもまたず、神の御靈によりて、己と自然とによくすること、又禮義を行ふも、人のあるべき限の禮義は、教へをまたず、是も神の御靈によりて、自然に誰も知て行ふ事也。』
原典のお分かりになる方の御教授を切に俟つ。
「この直覺」平井氏は『この「直感」』と訳しておられる。
「神の御所爲(みしわざ)」これはネット検索で、sousiu 氏のブログ「同血社主人の一艸獨語」の「んぞ國つ神に背き他神を敬せむや」に、篤胤の「鬼神新論」(文化二年草稿・文政三年補足)から引いて(一部表記に補正を加えさせて頂いた)、
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「また佛は蕃神なれば、祭るべき謂(いはれ)なしとて、疾(にく)み厭ひ廢(すて)むとする人の有るも、偏(かたくな)にして、眞の神の道を知らざるものなり。凡(すべ)て世の中の事は善も惡きも、本(もと)は神の御所業(みしわざ)によれる事にて、佛道の行はれ、佛神の參渡(まゐわた)りて、其を祭る風俗(ならはし)となりたるも、本は神の御心に因れるにて、則、公(おほやけ)ざまにも立置るゝ事なれば、是も廣(ひろ)けき神の道の中の一ノ道なり。かくて、佛すなはち神なれば、時世に祭る風俗のほどほどに、禮(ゐや)び饗(あへ)しらひ、また由緣ありて、心の向はむ人は、祭もし祈言(のりごと)をせむも、咎むべき事には非ずかし」と。
*
とあって、この中の『神の御所業(みしわざ)』がそれであろうと思われる(「靈之眞柱」にも出そうな表現ではあるが、調べるのが面倒であり、草稿はそれよりも前であるから、問題あるまい)。それにしても、神道ファンダメンタリストである篤胤にして、最後の『心の向はむ人は、祭もし祈言(のりごと)をせむも、咎むべき事には非ずかし』という懐の深さには脱帽せざるを得ない。
「人自(みづか)らの情(こゝろ)」この「自(みづか)らの」のルビは底本では「み」のみである。「み」では読めず、これはしばしば「自」を「みづから」と「おのづから」の訓読を分けるために行われるルビ打ちであろうと判断し、かく付け加えた。大方の御批判を俟つ。
「受行ふべき道(ミチ)なきことはおのづから知かりてむ。其を知るぞ卽ち神の道をうけおこなふはありける」「(ミチ)」は本文でルビではない。同前でネットに頼ったところ、個人ブログ「ものぐさ屁理屈研究室」の「小林秀雄 39」によって、「古事記傳 卷一」の「直毘靈(なほびのみたま)」初出(明和八(一七七一)年成稿。初め、かく「古事記傳」の第一巻の総説に収められたが、後、単行一巻として文政八(一八二五)年に刊行している。表題は、「直毘神(なおびのかみ)の御霊(みたま)により漢意(からごころ)を祓い清める」の意である、と「ブリタニカ国際大百科事典」に載る)の中に以下のように出ることが判った。
「平田は『眞の德を行はんと欲するならば、眼見うべからざる世界を恭ひ恐れるが宜い。そすれば惡を行ふことが出來ぬやうにならう。眼見うべからざる世界を支配し給ふ神々に誓を立てて、自分の心に植附られて居る良心(マゴコロ)を養へ。さすれば決して道にさ迷ふことは無からう』と書いて居る」「(マゴコロ)」は本文でルビではない。出典不詳。ここも平井氏の訳の原文らしき訳を引く(恣意的に漢字を正字化した)。
*
『凡を人その實德を修せむと欲するに。冥幽に愧(ハヂ)恐るゝと云ふ事を心得る時は。決(キハ)めて惡き事の爲(せ)られる道理(コトハリ)なれば。其ノ幽冥の原(モト)をしろし看(メ)す大社の神に誓(ウケ)ひて。其實心(マゴコロ)を琢(ミガ)く時は。大凡(オホヨ)そ道に違ふ事なし。』
*
訳者の「眼見うべからざる世界」の「眼見る」の読みは不明。取り敢えずこれで「眼-見(み)る」と訓じておく。「現に、生(なま)の眼(なまこ)では見ることの出来ない絶対不可視の世界」の謂いであろう。しかしそれにしても、これが原典の「冥幽」界を指してことは一読では、ちと、分かり難い。原典のお分かりになる方の御教授を切に俟つ。
「祖先の靈に敬虔なることがあらゆる德の源泉である。祖先に對してその義務を果たす者は何人も神に對し、或は己が兩親に對して不敬なるを得ぬ。かゝる人は君主に對しては忠義であり、そして友人に對しては信實であり、妻子に對しては親切温順であらう」出典不詳。ここも平井氏の訳の原文らしき訳を引く(恣意的に漢字を正字化した)。
*
『扨まづ先祖をかやうに。大切にすべき謂(イハレ)を心得ては。况(マシ)て天神地祇を。粗略に思ひ奉る人は。決して无(ナ)い筈(ハズ)のこと。今現に今生ておはし坐(マス)親を。粗末にする人は无(ナ)く。神と親を大切にする心得の人は。まづ道の本立(モトダテ)の固き人故。その人必君に仕(ツカ)ヘては忠義を尽し。朋友と交りては。信宲があり。妻子に対しては。慈愛のある人と成(ナ)りたる事は。論は无(ナ)いだに依て。先祖を大切にするが。人とある道の本(ホン)だと云ので厶(ござる)。』
*
「信宲」の「宲」は「實(実)」の古字と思われ、「信實」、真面目で偽りがないことの意の「信実」である。またしても原典のお分かりになる方の御教授を切に俟つ。]
Ⅲ
As to its exterior forms, modern Shintō is indeed difficult to analyse; but through all the intricate texture of extraneous beliefs so thickly interwoven about it, indications of its earliest character are still easily discerned. In certain of its primitive rites, in its archaic prayers and texts and symbols, in the history of its shrines, and even in many of the artless ideas of its poorest worshippers, it is plainly revealed as the most ancient of all forms of worship,―that which Herbert
Spencer terms 'the root of all religions'―devotion to the dead. Indeed, it has been frequently so expounded by its own greatest scholars and theologians. Its divinities are ghosts; all the dead become deities. In the Tama-no-mihashira the great commentator Hirata says 'the spirits of the dead continue to exist in the unseen world which is everywhere about us, and they all become gods of varying character and degrees of influence. Some reside in temples built in their honour; others hover near their tombs; and they continue to render services to their prince, parents, wife, and children, as when in the body.' And they do more than this, for they control the lives and the doings of men. 'Every human action,' says Hirata, 'is the work of a god.' [3] And Motowori, scarcely less famous an exponent of pure Shintō doctrine, writes: 'All the moral ideas which a man requires are implanted in his bosom by the gods, and are of the same nature with those instincts which impel him to eat when he is hungry or to drink when he is thirsty.' [4] With this doctrine of Intuition no Decalogue is required, no fixed code of ethics; and the human conscience is declared to be the only necessary guide. Though every action be 'the work of a Kami.' yet each man has within him the power to discern the righteous impulse from the unrighteous, the influence of the good deity from that of the evil. No moral teacher is so infallible as one's own heart. 'To have learned that there is no way (michi),'[5] says Motowori, 'to be learned and practiced, is really to have learned the Way of the Gods.' [6] And Hirata writes: 'If you desire to practise true virtue, learn to stand in awe of the Unseen; and that will prevent you from doing wrong. Make a vow to the Gods who rule over the Unseen, and cultivate the conscience (ma-gokoro) implanted in you; and then you will never wander from the way.' How this spiritual self- culture may best be obtained, the same great expounder has stated with almost equal brevity: 'Devotion to the memory of ancestors is the mainspring of all virtues. No one who discharges his duty to them will ever be disrespectful to the Gods or to his living parents. Such a man will be faithful to his prince, loyal to his friends, and kind and gentle with his wife and children.' [7]
How far are these antique beliefs removed from the ideas of the nineteenth century? Certainly not so far that we can afford to smile at them. The faith of the primitive man and the knowledge of the most profound psychologist may meet in strange harmony upon the threshold of the same ultimate truth, and the thought of a child may repeat the conclusions of a Spencer or a Schopenhauer. Are not our ancestors in very truth our Kami? Is not every action indeed the work of the Dead who dwell within us? Have not our impulses and tendencies, our capacities and weaknesses, our heroisms and timidities, been created by those vanished myriads from whom we received the all-mysterious bequest of Life? Do we still think of that infinitely complex Something which is each one of us, and which we call EGO, as 'I' or as 'They'? What is our pride or shame but the pride or shame of the Unseen in that which They have made?―and what our Conscience but the inherited sum of countless dead experiences with varying good and evil? Nor can we hastily reject the Shintō thought that all the dead become gods, while we respect the convictions of those strong souls of to-day who proclaim the divinity of man.
2
Quoted from Mr. Satow's masterly essay, 'The Revival of Pure Shintō,' published in the Transactions of the Asiatic Society of Japan. By 'gods' are not necessarily meant beneficent Kami. Shintō has no devils; but it has its 'bad gods' as well as good deities.
3
Satow, 'The Revival of Pure Shintō.'
4
Ibid.
5
In the sense of Moral Path,—i.e. an ethical system.
6
Satow, 'The Revival of Pure Shintō.' The whole force of Motowori's words will not be fully understood unless the reader knows that the term 'Shintō' is of comparatively modern origin in Japan,—having been borrowed from the Chinese to distinguish the ancient faith from Buddhism; and that the old name for the primitive religion is Kami-no- michi, 'the Way of the Gods.'
7
Satow, 'The Revival of Pure Shintō.'
日本人は発明の才を持っていないといわれるが、而も東京をあるいている中に、私は我国の工匠たちが真似てもよいと思われるような、簡単な機械的の装置を沢山見た。今日私は真珠貝を切っている男に気がついた。切断される可き貝の一片は、図711に示す如く、上方にある横木の下で曲げられた、弾力のある竹の条片で押えられる。鋸は挽かる可き片に垂直に置かれ、この作業に使用される砂は然る可き所に置かれる。これは瞬間的に調整され得る万力の簡単な一形式で、竹の条片の強弱によって、押える力を自由に変えることが出来る。桶には水が一杯入っているから、貝殻はすぐ洗える。
[やぶちゃん注:「真珠貝」原文“pearl-shell”。斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ(阿古屋貝)Pinctada
fucata martensii である。現在は真珠母貝として盛んに養殖されるが、人によってはこの貝を細かく切り刻んでどうするのかと訝しむ向きもあるかも知れぬが、本種の貝殻の内側は真珠同様、強く美しい真珠光沢を持っており、古くからアワビの貝片などとともに螺鈿の材料として各種工芸作物の装飾材として使用され、現在も高級ボタンやカフリンクス(cuff links:所謂、「カフス・ボタン」のことであるが、この「カフス・ボタン」は和製英語で、「カフス」(cuffs)は単に衣服の両袖口を指す英語でしかない)、ネクタ・ピン、ネックレスや指輪等の装身具の補助材に使用されている。なお、和名の「阿古屋」は現在の愛知県阿久比町(あぐいちょう)の古称で、昔、この附近のアコヤガイから良質の真珠が採取され、それを「阿古屋珠(あこやだま)」と呼んだことに基づく(かつては真珠のことも「阿古屋」と呼んだ。以上は主にウィキの「アコヤガイ」に拠った)。]
昭和二十四(一九四九)年
虹の天よびし人の名のぼりゆく
風邪髪のはつれに熱き息かかる
旋の硝子隅々までも雪降りて
瀬を越えて来しかば蝶の翅荒き
遠くよりはや胸ひゞく寒の柝
[やぶちゃん注:「柝」は「たく」と読んでいよう。拍子木を打つことである。]
木の葉髪きぞのごとくに手にひらふ
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「木の葉髪」は晩秋から初冬の頃に頭髪が多く抜けることを木の葉が散るのに譬えた語で冬の季語で、「きぞ」は「昨」「昨夜」で昨日、昨夜の意。]
鶴来るや母の手に子のとどまらず
地を翔ちし寒鶴なればや羽ひくゝ
春の森流れを越えしより怖れず
旅長し雪ふる破璃を指にふき
夜の桜さむければつい吾にかへる
相寄るとき夏鹿の斑のあきらかに
炎天や童女毬つく歌は来ず
髪冷ゆるほどこほろぎの冷えゐるか
月と同じ冷たさまでに身の冷えて
鶏頭の炎ゆるを以て冬近し
繩跳び激し少女に冬日もどり来ず
[やぶちゃん注:以上、『天狼』掲載分。]
毛糸編む少女と隣り伊賀駛る
[やぶちゃん注:「駛る」「はせる」と訓じておく。]
藁塚が見てをり道を迷ひをり
師の部屋を涯とす冬の荒磯に
い寝むとす冬濤ちかく師にちかく
師を措きて冬波措きてかへるかな
[やぶちゃん注:底本年譜の同年の条に、『三月二十日、多佳子は堀内薫を同伴、鼓ヶ浦に誓子を訪い、薫を紹介する。二泊』とあるが、三月では季が合わない。年譜にないが、前年の終りにここを訪ねているか。鼓ヶ浦は既注であるが、現在の三重県鈴鹿市寺家町鼓ヶ浦で、伊勢湾の西岸。誓子はこの前年の十月にここに転居していた。]
子を禱るとき金色に枯木立
氷る沼郵便夫現れいそぎけり
寒三日月記憶そこより断ちきられ
祖母死にて少年狐火を怖る
死にければ人亡し倚れる枯木星
[やぶちゃん注:「枯木星」「かれきぼし」は、枯木の上に輝く星の謂いで冬の季語。]
霜の土死の一角の暁けはじむ
紅(べに)さして大寒の日の身をまもる
[やぶちゃん注:「大寒」(だいかん)は二十四節気の最後で旧暦の十二月中であるが、現行の新暦では一月二十日頃に相当する。但し、期間としてならば次の節気の立春までの、新暦一月二十日から二月三日までを指す。]
月光にありし蝶ゐず岩明くる
月光が死蝶を照らす岩と共に
凩や老婢の寝丈よこたはる
[やぶちゃん注:「寝丈」聴かぬ語であるが、布団に包まった伸びた寝姿の意で、「ねだけ」と訓じているのであろう。]
抛りあげし蜻蛉翔りてすぐ落ちぬ
藤懸るを天より地まで見下ろしぬ
春日や墓地に在ればめつむりても墓地
[やぶちゃん注:「春日」は「しゆんじつ(しゅんじつ)」と音読みしていよう。にしても、中も下も、ひどい破調である。]
桜吹雪どこまでも夜の地(つち)平ら
何訴ふる桜の幹を猫爪搔(つまが)き
老いし髪ゆたかに花も散らさずに
思ひ出す燕はみんなこちら向く
一歩にて春潮荒らぶ艀の身
[やぶちゃん注:「艀」老婆心乍ら、「はしけ」と読む。「艀舟(はしけぶね)」の略で、河川や港湾などに於いて大型船と陸との間を往復して貨物や乗客を運ぶ小舟。船幅が広く、平底で、見た目、舟というより、毛の生えた筏みたようなものである。]
夏濤にま向ふ吾はいつまで在る
黴の身に一片の香薫きこむる
蝶三つもつれ落ち来る三つは悲し
[やぶちゃん注:理窟を捏ねる気はなく、その感覚にひどく惹かれる句である。]
母ゆ享けし普門品黴たちのぼる
[やぶちゃん注:「ゆ」上代の格助詞で「~より」「~から」の意。言わずもがな乍ら、「普門品」は「ふもんぼん」で、法華経第二十五品の観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)の略称で通称、観音経と呼ぶ。]
蟇闇に女あるじは句を案ず
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「蟇闇に」は「ひき/やみに」で、「蟇」蛙の居る気配、それが庭の「闇に」ある、その「闇」の夜「に」、である。]
わが通りすぐとき沼に銀河あり
郡山古城跡
いかなる日も古城は悲し青蜥蜴
古城といふ美しきもの崖に蜥蜴
[やぶちゃん注:「郡山古城跡」恐らく、奈良県大和郡山市の郡山(こおりやま)城跡であろう。豊臣政権の中初期には秀吉実弟羽柴秀長の居城で、その領国であった大和・紀伊・和泉百万石の中心地であり、江戸時代には郡山藩藩庁が置かれた(十七世紀初頭に領主増田長盛が改易された後、一時廃城となったが、水野勝成入封時に徳川幕府よって改修を受けている)。参照したウィキの「郡山城」によれば、城跡は明治一四(一八八一)年に旧郡山中学校の校舎が二ノ丸に、旧郡山園芸高校が麒麟曲輪に建設されるなどして大きく姿を変え、長らく城跡としては荒廃していたが、昭和三五(一九六〇)年に本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、その後、昭和五八(一九八三)年に追手門が、翌年に追手東隅櫓が、昭和六二(一九八七)年には追手向櫓が市民の寄付などによって復元され、ニュース記事によれば現在、二〇一三年より天守台の修復が進行中で、来年二〇一六年末には完成予定とある。多佳子が訪れたのはまさに、その放置荒廃の末期(郡山城の発掘調査が始まったのは昭和五四(一九七九)年以降)であったものと思われる。]
土用粥たぎらせ老婦かたくなに
[やぶちゃん注:「土用粥」夏負け防止の土用丑の日の食伝承は数多いが、熱暑に弱った体や胃にはしっかり熱を加えたあつあつ粥はまた、安全で優しかろう。平凡社「世界大百科事典」の「土用」には、この日に『静岡市にはユリの根を入れた土用粥を食べる所もある』とある。]
祭笛里居の老婦はや帰れ
螢籠一夜に人の遠くなる
河渡る夏野騎(の)り来し迅さもて
秋の蝶くきくきとわが髪を過ぐ
[やぶちゃん注:「くきくきと」動きがしっかりとしたパターンを持っている感じを表現したオノマトペイアであろう。]
秋ふたゝび黄蝶に逢ふ瞼やせ
夫十三回忌
海近く一本の曼珠沙華流る
[やぶちゃん注:夫豊次郎(昭和一二(一九三七)年没。享年五十歳)の祥月命日は九月三十日。]
雨の鵙姿を見せて啼き去れり
夕炉火を激しく焚かむ吾とがめそ
いのちなき斑猫(はんめう)の身の彩(いろ)湛え
[やぶちゃん注:「斑猫」既注であるが再掲する。鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科ナミハンミョウ Cicindela
japonica 、所謂、ミチオシエ(道教え)である。背部の彩りが多色で華やかであり、しかもそれが金属的な光沢を持っていて見た目の印象が美しいく、昆虫愛好家の間では日本で最も美しい昆虫とさえ言われる。別名は、人が近づくと一、二メートル程飛んで直ぐ着地するという行動を繰り返し、その過程で度々、後ろを振り返るような動作をする本種の習性に基づくも。なお、「斑猫」全般については、私の「耳嚢 巻之五 毒蝶の事」の注で詳細を述べておいた。是非、参照されたい。]
風花ぐせその時いつも鶲ゐて
[やぶちゃん注:「風花ぐせ」の「風花」「かざはな」「かざばな」は、晴天にちらつく小雪片で、降雪地から山を越えて風に吹かれて飛来してくる小雪を指し、冬の季語である。「ぐせ」はいつもそのようなかんじになることをことを意味する「癖」を接尾語的に用いてそれが濁音化したものと採る。またぞろ、風花がちらついてきそうな気配がすることの謂いと採るということである。大方の御批判を俟つ。
「鶲」は「ひたき」。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ヒタキ科 Muscicapidae に属するヒタキ類を広く指すが、冬の嘱目吟からは同ヒタキ科(ツグミ科 Turdidae ともする)ジョウビタキ Phoenicurus auroreus か。]
身を入れて霧の燈の輪のあたゝかく
うろこ雲煙一筋つき上ぐる
路線よぎる誰の肩にも鱗雲
祭太鼓雨は激しく子をうつて
月光にわが息ばかりあたゝかく
驟雨の香少年の香のバス駛る
[やぶちゃん注:「駛る」ここも「はせる」と訓じておく。「はしる」でも通るが、何か生理的に痩せた感じがして好きでない。]
青髪をずたずたにしていなびかり
真紅のばらゆるされて折るはゞからず
三日月の地の涯死なは逢ふ夫(つま)か
童子林檎嚙る冬日を落しつゝ
繩跳びはげし少女冬日を炎したり
[やぶちゃん注:「炎したり」「もやしたり」と訓じたい。]
ふたり子へ二つの愛や菊赤黄
高架ゆく汽車はつきりに時雨る街
[やぶちゃん注:以上、『七曜』掲載分。]
虫干や美しき帯長く重く
愛さるゝ如油虫ひかり飛ぶ
[やぶちゃん注:この句、その感覚の希有に乾杯!
以上、『現代俳句』掲載分。]
わが前にうしろに野火の炎えて見よ
[やぶちゃん注:これは底本に『「短冊」より』とする一句である。多佳子らしい一句である。多佳子、五十歳。]
二
佛敎の國家關係を斷つて神道を鞏固ならしめやうとした明治時代の先見の明ある爲政者等は、自分等の國家政策と全然一致して居る、或る一信仰に新しい力を與へつつあるのみでは無い、同じくまた、藝術の力の如く全能なものであるのに、日本の知的士壤には決して深い根抵を得なかつた外來の信條よりも、遙かに深奥な生活力を具有して居る、或る一信仰に新しい力を與へつゝあるのである、といふことを疑も無く知つて居たのである。佛敎は千三百年の古昔に、支那から移植されたのであつた、けれども、既に衰頽して居つた。然るに神道は、確にそれよりも數千年古いけれども、時代々々のあらゆる變化を通じて、力を失つたと云ふより、寧ろ力を得たやうに思はれる。神道は、この人種の精神同樣折衷的で、その物質的表明を助け、或はその倫理を强め得るあらゆる種類の外國思想を我が物にして同化したのであつた。佛敎は、恰もそれが以前に婆羅門敎の古昔の神々を吸收したやうに神道の神々を吸收しようと圖つたのであつた。が、神道は、降參するやうに見えて居て、實はその敵手からして力を藉りただけであつた。かくして神道のこの不思議な生活力は、記錄に上つて居ない濫觴よりして、それが發展し來つた長年月のうちに、極はめて古い時代に情(こゝろ)の宗敎となつたもので、表面には見えぬが今なほ依然として情(こゝろ)が宗教であるといふ事實に基くのである。その儀式と傳統との起原は何んであらうと、その倫理的精神は、この人種のあらゆる最も深い、最も善い情緖と同じものとなつて居る。だからして、殊に出雲では、佛敎的神道を創造しようといふ企は、ただ神道的佛敎の形成に終つたのであつた。
それから今日の神道の神祕な生活力――改宗させようとする宣敎師の努力を斥けるあの力――は傳統、若しくは崇拜若しくは儀式よりも遙かに深い、或る物を意味して居るのである。神道は、眞の偉力は失はずに、傳統崇拜儀式總てが亡びても、矢張り生き殘るかも知れぬ。敎育に因つての一般民心の展開と、近代科學の影響とは確に古代の神道思想の多くを變更し、或は放棄するを餘儀なくするには相違無い。が、神道の倫理は屹度永續することであらう。それは神道はより高尙な意義に於ての性格を――勇氣、禮儀、名譽心、それから特に忠義を――意味するからである。神道の精神は孝の精神であり、義務の嗜好であり、何が故にとは一考もせずして、或る主義への早速の生命投與である。それは兒童の柔順性であり、日本婦人の温和である。それはまた保守主義であり、外國の現在を餘りに多く同化しようといふ輕卒な熱誠のあまり、過去全部の價値を棄て去らうとする、國民的傾向への健全な制止である。それは宗敎である――が然し、遺傳的道德的衝動に變形された宗敎であり、――倫理的本能に變質された宗敎である。それはこの人種の情緖生活全部であり――日本の魂である。
子供は生れながらに神道である。家庭の敎と學校の仕附はただ生得な物に表現を與へるに過ぎぬ。新しい種を植ゑるのでは無い。祖先傳來の一特性として傳へられた、倫理觀念をただ覺醒さすだけである。恰も日本の幼兒が西洋人の指では、決して習ひ得られないやうなあんな筆をもち扱ふ才能を繼承するが如くに、我々のとは全然異つた倫理的同感を繼承するのである。一と級の日本學生に――十四歲乃至十六歲の若い學生に――その最も大事とする願望を言うて見よと尋ねて見よ。その學生が若しその質問者に信賴心を有つて居るなら、恐らくその十の九は『天皇陛下の爲めに死ねること』と答へるであらう。そしてその願望は、これまで世に生れた殉敎の如何(どん)な願望もがさうのやうに、純な情(こゝろ)から浮出るのである。この忠義の念が、新しい不可知論により又學生社會に於ける、他の十九世紀思想の迅速な發達に依つて、東京のやうな大中心地ではどの位弱められたか、或は弱められなかつたか、それは自分は知らぬ。が、田舍では兒童にとつて依然とし歡喜と同じく自然なものである。またそれは――より成熟した知識と固定した信念との結果たる、あの我我の忠義感念とは異つて――理由無し――である。日本の靑年は決して自己に何故にとは尋ねない。自己の犧牲の美はしさだけで、十分に滿足な動機である。そんな夢中な忠義心が、その國民生活の一部を成して居る。それは――その小さな共和國の爲めに死ぬる蟻の衝動の如く遺傳的に――その女王への蜂の忠義心の如く無意識に――その血液の中にあるのである。これが神道である。
忠義の爲めに、長者の爲めに、自己の生命を捧げるあの迅速さは、これは近代に在つて、この人種を他の人種と區別する特性となつて居るのであるが、これはまたその人種が獨立して存在するに至つた、最初の時代からしての國民的特徴であつたやうに思はれるのである。封建制度確立の時代、卽ち名譽の自殺が、啻に武士に取つて計りで無く、女子供に取つても、嚴乎たる一儀禮となつた時よりもずつと前に、君主の爲めに己が生命を棄てるといふことは、その犧牲が何の役に立たぬ時すら、神聖な義務と考へられて居たのである。種々な實例を古代の古事記から引用し得られるのであるが、そのうち次記の如きは中々感銘的なものである。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げである。前後に空行を入れた。]
目弱王が、齡僅に七歲の時、その父を殺した者を殺して、都夫良大臣(つぶらおほみ)が家へ逃げ入り給うた。『その時大長谷王(おほはつせのみこ)軍(いくさ)を興してその家を圍みたまひき。射出る矢、葦の來り散るが如くなりき。是(ここ)に圓大臣(つぶらおほみ)、自ら參出で、佩ける兵(つはもの)を解きて、八度拜みて白(まを)しけるは、「先日(さき)に問賜へる女子(むすめ)、訶良比賣(からひめ)は侍(さも)らはむ。また五處の屯宅(みやけ)を副へて獻(たてまつ)らむ賤奴(やつこ)意富美(おほみ)は力を竭(つく)して戰ふとも、更にえ勝ちまつらじ。然れども、己を恃みて賤家(やつこにいへ)に入坐(いりま)せる王子(みこ)は、死ぬとも棄てまつらじ」此く白して、亦其の兵(つはもの)を取りて、還入りて戰ひき。爾(かれ)力窮(つ)き、矢も盡きぬれば、其の王子(みこ)に白しけらく、「僕(あ)は手悉(いたで)傷(お)ひぬ。矢も盡きぬ。今は得戰はじ。如何にせむ」と白しければ、其の王子(みこ)、「然らば更に爲むべなし。今は吾を殺(し)せよ」と答詔(のり)たまひき。故(かれ)刀(たち)以て其の王子を刺殺(さし)せまつりて、乃ち己が頸を切りて死(みう)せき』
これと同樣に鞏固な例證を、より新しい日本歷史から、今現に生きて居る人の記憶のうちにすら起こつた幾多の例證も含めて、幾千と容易に引用が出來る。また死ぬるといふ事が神聖な義務となり得るのは、人の爲めばかりでは無かつた。或る不慮の場合に、全く個人的な信念の爲めに死ぬる事を、前者に殆んど劣らぬ義務と良心は思つた。だから自分でそれを無上に重要と信じて居る或る意見を抱いて居る者は、他の手段の無い折は、自己の信ずる所に注意を呼び、且つその信念の誠實なるを證明せんが爲めに、その意見を訣別の手紙に認めて、そして自ら己が生命を斷つを常とした。現にそんな實例がつい昨年東京で見られた【註】。國民兵の靑年中尉の大原武義(たけよし)といふが、北太平洋に於ける露西亞の力の增大が日本の獨立に及ぼす危險を一般に認知せしめでは措かぬ、その希望をその行爲の理由として書き記した手紙を殘して、西德寺の墓地でハラキリして自殺した。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。この文は千八百九十二年の始に書いたものである。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]が、同年の五月にあつた、それよりも遙かに人の心を動かす犧牲は――最も純粹な最も潔白な忠君の念からの犧牲は――畠山勇子といふ年若い娘のそれであつた。露國皇太子を暗殺しようといふあの企のあつた後、東京から京都へ來て、日本に不面目を與へまた國民の父を――神聖なる天皇陛下を――悲しませ申した彼(か)の出來事に對して、代つて罪を贖はうといふだけのことで、京都府廰の門前で自殺したのである。
[やぶちゃん注:「鞏固」「きようこ(きょうこ)」。「強固」に同じい。「強く固いさま、強堅」の意であるが、主に物質的なものではなく、精神的なものに就いての形容である。
「佛敎は千三百年の古昔に、支那から移植されたのであつた」執筆時は、珍しく、本篇後半に明治二五(一八九二)年と記される。現在、本邦への仏教伝来は宣化天皇三年(五三八)年とされるから単純計算では千三百五十四年前、古くは「日本書紀」に載る、飛鳥時代の欽明天皇一三(五五二)年に、百済の聖明王より釈迦仏の金銅像、及び、経論他が献上された時を仏教の伝来としたが、これだと千三百四十年前となる。
「神道は、確にそれよりも數千年古い」ここでハーンは、神道の発生成立を、仏教伝来の西暦五百年代「よりも數千年古い」と言っていることに着目したい。本章の「一」で、ハーンは「古事記」に示されたような整序された日本神話体系の成立と流布を、古墳時代前期(三世紀中葉から七世紀末に比定)に措定していた。ところが、ここでは、ハーンは日本神話自体の原形発生をずっと遡って比定しているということが判ってくる。通常、「數千年」は二、三千年年から六千年程度を指す。これは、最低でも、紀元前千五百年前から紀元前五千五百年まで軽く遡る神道のプロトタイプの誕生を考えていることになる。そうして、これは、まさしく本邦の縄文時代、今から凡そ約一万六千五百年前(紀元前百四十五世紀)から約三千年前(紀元前十世紀)の後記に比定出来る。永い気の遠くなるようなアニミズムの世界を経てきた縄文人の信仰が弥生人らとの交流によって、一つの形をとり始めたと考えると、すこぶる私にはしっくりとくるのである。
「婆羅門敎」「ばらもんきよう(バラモンきょう)」は古代のヒンドゥー教と理解してよい。
「藉りた」「かりた」(借りた)。
「そんな夢中な忠義心が、その國民生活の一部を成して居る。それは――その小さな共和國の爲めに死ぬる蟻の衝動の如く遺傳的に――その女王への蜂の忠義心の如く無意識に――その血液の中にあるのである。」“Such ecstatic loyalty is a part of the national life; it is in the blood,―inherent as the impulse of the ant to perish for its little republic,―unconscious as the loyalty of bees to their queen.”。訳が、ちょっと逐語的で分かり難い。社会性昆虫による換喩なのであるが、前者が「働き蟻」による、その固有な(inherent)アプリオリな性質の比喩で、そこで、一度、切れて、後者が、アリと全く同様に「働き蜂」によるその無意識の(unconscious)自己投企的行動の比喩となっているのである。平井呈一氏はここを『それは血液のなかにあるのだ。――ちょうど、アリの衝動が、遺伝的に自分たちの小さな王国のために死ぬことであり、ミツバチの忠誠が、意識せずして女王バチのために献身することであるのと同じようなものなのだ。』とすこぶる達意で、しかも、平易なる訳をされておられる。訳が逐語的で厳密な正確な訳であることは、必ずしも良い訳とは言えぬという、よい見本であると私は思う。
「嚴乎」「げんこ」。「儼乎」。儼(いかめ)しい様子。厳(おごそ)かなさま。
「目弱王が、齡僅に七歳の時、その父を殺した者を殺して、都夫良大臣(つぶらおほみ)が家へ逃げ入り給うた。……」以下、本文に出る「古事記」の記載部分は、平井呈一氏の訳注によれば、チェンバレンの「古事記」より引用したものである、とある。事件の動機や展開、及び、描かれる情景が、元と比すと、大幅に不足しているので、長くなるが、以下に「古事記 下つ卷」の安康天皇の条の、「目弱(めよわの)王の変」の箇所の書き下し文を、残らず、引くこととする。底本は今まで通り、昭和五六(一九八一)年刊角川文庫第六版武田祐吉校訂・中村啓信補訂「新訂 古事記」をもとにしつつも、恣意的に漢字を正字化した。さらに今回は、倉野憲司氏の校注になる一九六三年岩波文庫版を参考にして読みを大幅に増補しておいた。また、私の判断で読み易くするために、さらに追加の句読点を打ち、直接話法部分を総て改行することで読み易くした。割注は〔 〕で示した。禁欲的(ハーンがここを示したのは、あくまで最後のパートで、都夫良意美(つぶらのおみ)が意気に感じて目弱(めよわ)の王(みこ)を匿って、さんざんに戦って、自刃するところであり、その都夫良意美の意気にハーンが感じたから、であることをお忘れなく。実は、安康も雄略も、関係ないんである)に附した後注(「・」を頭に附して他の本文注と区別した)を附した。
*
御子(みこ)、穴穗(あなほ)の御子、石(いそ)の上(かみ)の穴穗の宮にましまして、天(あめ)の下、治(しろ)しめしき。
天皇(すめらみこと)、伊呂弟(いろせ)大長谷(おほはつせ)の王子(みこ)のために、坂本(さかもと)の臣(おみ)等が祖(おや)、根(ね)の臣(おみ)を、大日下(おほくさか)の王の許に遣して、詔らしめたまひしくは、
「汝が命の妹(いも)若日下(わかくさか)の王を大長谷の王子に婚(あ)はせむとす。かれ、貢(たてまつ)るべし。」
とのりたまひき。ここに大日下の王、四たび拜(おろが)みて白(まを)さく、
「けだし、かかる大命(おおほみこと)有らむと疑(おそ)りて、かれ、外(と)にも出さずして置きつ。こは(かしこ)し。大命(たいめい)のまにまに奉進(たてまつ)らむ。」
とまをしたまひき。然れども言(こと)もちて白す事、其の禮(ゐや)なしと思ひて、すなはち、その妹の禮物(ゐやしろ)として、押木(おしき)の玉縵(たまかづら)を持たしめて、貢獻(たてまつ)りき。根の臣、すなはち、その禮物(ゐやしろ)の玉縵(たまかづら)を盜み取りて、大日下の王を讒(よこ)しまつりして曰さく、
「大日下の王は勅命(おほみこと)を受けたまはずて、『おのが妹や、等(ひと)し族(うがら)の下席(したむしろ)とならむ』といひて、橫刀(たち)の手上(たがみ)取(とりしば)りて、怒りましつ。」
とまをしき。かれ、天皇、いたく怨(うら)みまして、大日下の王を殺(し)して、その王の嫡妻(むかひめ)長田(ながた)の大郞女(おほいらつめ)を取り持ち來て、皇后(おほきさき)としたまひき。
これより後に、天皇、神牀(かむよこ)に坐しまして、晝寢(ひるみね)したまひき。ここにその后に語らひて、
「汝(いまし)、思ほすことありや。」
とのりたまひければ、答へて曰さく、
「天皇(おほきみ)の敦(あつ)き澤(めぐみ)を被(こがふ)りて、何か思ふことあらむ。」
とまをしたまひき。ここにその大后の先(さき)の子、目弱(まよわ)の王、これ、年七歲(ななとせ)になりしが、この王、その時に當りてその殿(との)の下に遊べり。ここに、天皇、その少(わか)き王(みこ)の殿(との)の下に遊べることを知らしめさずて、大后に詔りたまはく、
「吾は恆(つね)に思ほすことあり。何(な)ぞといへば、汝(いまし)の子、目弱の王、人と成りたらむ時に、吾がその父王(ちちみこ)を殺(し)せしを知らば、還りて邪(きたな)き心あらむか。」
とのりたまひき。ここにその殿(との)の下に遊べる目弱の王、この言(みこと)を聞き取りて、すなはち竊(ひそか)に天皇の御寢(みね)ませるを伺ひ、其の傍(かたへ)なる大刀を取りて、その天皇の頸を打ち斬りまつりて、都夫良意富美(つぶらおほみ)が家に逃げ入りましき。天皇、御年、伍拾陸歲(いとそぢまりむつ)。御陵(みささぎ)は菅原(すがはら)の伏見(ふしみ)の岡(をか)にあり。
ここに大長谷の王、當時(そのかみ)、童男(をぐな)なにましけるが、すなはち、この事を聞かして、慷愾(うれた)み忿怒(いか)りまして、その兄(いそせ)黑日子(くろひこ)の王の許に到りて、
「人ありて天皇を取りまつれり。いかにかもせむ。」
とまをしたまひき。然れども其の黑日子の王、驚かずて、怠緩(おほろか)におもほせり。ここに大長谷の王、その兄を詈(の)りて、
「一つには天皇とまし、一つには兄弟(はらから)とますを、何ぞは恃(たの)もしき心もなく、其の兄を殺(と)りまつれるを聞きつつ、驚きもせずて、怠(おほろか)にませる。」
といひて、その衿(ころもくび)を握(と)りて控(ひ)き出でて、刀を拔きて打ち殺したまひき。また其の兄、白日子(しろひこ)の王に到りまして、狀(ありさま)を告げまをしたまひしに、前(さき)のごと、緩(おほろか)に思ほししかば、黑日子(くろひこ)の王のごと、すなはちその衿(ころもくび)を握(と)りて、引き率(ゐ)て、小治田(をはりだ)に到り來て、穴を堀りて、立ちながらに埋(うづ)みしかば、腰を埋む時に到りて、兩(ふた)つの目、走り拔けて死(う)せたまひにき。
また軍(いくさ)を興して、都夫良意美(つぶらおみ)の家を圍(かく)みたまひき。ここに軍を興して待ち戰ひて、射(い)出づる矢、葦の如く來散(きたりち)りき。ここに大長谷の王、矛を以ちて杖として、その内を臨みて詔りたまはく、
「我が言(かた)らへる孃子(をとめ)は、若し此の家に有りや。」
とのりたまひき。ここに都夫良意美(つぶらおみ)、この詔命(おほみこと)を聞きて、みづからまゐ出(で)て、佩ける兵(つはもの)を解きて、八度(やたび)拜(をろが)みて、白しつらくは、
「先日(さき)に問ひ賜える女子(むすめ)訶良比賣(からひめ)は、侍(さもら)はむ。また、五(い)つ處(どころ)の屯倉(みやけ)を副へて獻(たてまつ)らむ〔いはゆる五村(いつむら)の屯宅(みやけ)は今の葛城(かづらき)の五村の苑人(そのひと)なり〕。然れども、その正身(ただみ)のまゐ向かざる所以(ゆゑ)は、往古(むかし)より今時(いま)に至るまで、臣(おみ)・連(むらじ)の、王(みこ)の宮に隱(こも)ることは聞けど、王子(みこ)の、臣(やつこ)の家に隱りませることは、いまだ聞かず。ここを以ちて思ふに、賤奴(やつこ)意富美(おほみ)は、力を竭(つく)して戰ふとも、更にえ勝つましじ。然れども、おのれを恃(たの)みて陋(いや)しき家に入りませる王子は、死ぬとも棄(う)てまつらじ。」
とかく白して、またその兵(つはもの)を取りて、還り入りて戰ひき。
ここに力窮まり、矢盡きしかば、その王子に白さく、
「僕(あ)は手悉(いたで)傷(お)ひぬ。矢も盡きぬ。今はえ戰はじ。如何にせむ。」
とまをししかば、その王子、答へて詔りたまはく、
「然らば更にせむ術(すべ)なし。今は吾を殺(し)せよ。」
とのりたまひき。かれ、刀(たち)もちて、その王子を刺し殺(し)せまつりて、すなはち、己が頸を切りて死にき。
*
・「穴穗の御子」第二十代安康天皇。第十九代允恭 (いんぎょう) 天皇の皇子。兄で皇太子であった木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を退けて皇位に就いたが、ここに見るように、「根の臣」の讒言を信じ、「大日下の王」(大草香皇子。第十六代仁徳天皇の皇子)を誅殺、翌年、その妃中蒂姫(なかしのひめ 中磯皇女。第十七代履中(りちゅう)天皇皇女)を皇后に立てたが、その中蒂姫の連れ子であった「目弱の王」(眉輪王(まよわのみこ))によって暗殺された。天皇在位は三年余りであったことになる。
・「大長谷の王子」第十六代仁徳天皇の皇子で、後の次代第二十一代雄略天皇。
・「押木の玉縵」大きな木の蔓で玉を貫いて作った頭に載せる髪飾りである美しい玉蔓。
・「おのが妹や、等し族の下席とならむ」俺の可愛い妹を、どうして対等な同族なんぞの使い女(め)などにさせようか、いや、させぬ!
・「目弱の王」ここに記された通りの記載ではあるが、仮定西暦も示されてあるので、ウィキの「眉輪王」より引いておく。眉輪王(まよわのおおきみ 允恭天皇三十九(四五〇)年~安康天皇三(四五六)年八月)は大草香皇子と中蒂姫の子。『記紀によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた』。安康天皇三(四五六)年)八月、年幼くして(「古事記」はご覧の通り「七歲」とする)『楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(眉輪王の変)。その後、坂合黒彦皇子』(さかいのくろひこ 允恭天皇の皇子で安康天皇の兄であったが、これ以前に皇位継承を企む大長谷王子に殺されかかっていた)『と共に円大臣』(つぶらのおおきみ)『の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという』。
・「都夫良意富美」底本脚注には、『雄略記に葛城の円の大臣』とある。「意富美(おほみ)」は「大臣(おほみ)」と同じで大臣であると同時にその尊称でもある。後の「意美(おみ)」も同義。
・「小治田」奈良県高市郡明日香村豊浦や、同村大字雷(いかづち)の雷丘(いかづちのおか)周辺か(リンクは孰れもグーグル・マップ・データ)。飛鳥時代の推古朝及び奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿であったとされる小墾田宮(おはりだのみや 小治田宮)があったとされる場所である詳細はウィキの「小墾田宮」を参照されたい。
・「兩つの目、走り拔けて死せたまひにき」底本は『両眼が飛び出して死んでしまいました』と訳すが、これは眼玉が何かを視ることを忌んで、眼窩から走り逃げた、そして白日子(しろひこ)は結果、死んだ、と私には読める。無論、ここまでのこれらは総て、あらゆる皇位継承者を抹殺した雄略の血塗られた行為を正当化するための粉飾であろうが、そんなことより、脱線乍ら、どうしても言わずにはおれぬのは……「目弱の王」という名……ここで「両の目が忌まわしいもの視ることを拒絶して逃げ去る」という雰囲気……安康天皇と彼が失脚させた兄皇太子軽皇子の孰れもが同母妹との(当時にあっても)インセスト・タブーであった近親相姦の疑いが濃厚であること……目弱の王の不吉な予言的述懐とそれが現実化して、目弱の王「子」が、義「父」安康を殺す「父殺し」のモチーフ……これ、どうも、ギリシャ神話のオィデイプス伝説を想起することを禁じ得ないことを告白しておく。
・「我が言らへる孃子」底本注には、『ことばを交わしたヲトメ。都夫良意美の女訶良比売』(からひめ)とあるが、彼女は娘ではなく妹であるらしく、しかもこの訶良比売後に雄略天皇の后となり、その間に生まれたのが第二十二代清寧天皇とされている。
・「苑人」想像であるが、領地であり穀倉である葛城の五つの村落の全農民の謂いか。
・「正身」私自身。
「現にそんな實例がつい昨年東京で見られた。國民兵の靑年中尉の大原武義(たけよし)といふが、北太平洋に於ける露西亞の力の増大が日本の獨立に及ぼす危險を一般に認知せしめでは措かぬ、その希望をその行爲の理由として書き記した手紙を殘して、西德寺の墓地でハラキリして自殺した」平井呈一氏も『大原武義』とするが不詳。しかし、「自殺データベース(2)明治時代の自殺 (1868-1912) 」に明治二四(一八九一)年四月三日に『陸軍屯田兵中尉、大原武慶が東京府下谷区龍泉町西徳寺の父の墓前にて切腹』とある人物であると思われ、「武慶」の誤りか。
「この文は千八百九十二年の始に書いたものである」明治二五(一八九二)年年初の謂いか。ハーンの誕生日は一八五〇年(本邦は嘉永三年)六月二十七日であるから、未だ満四十一歳、来日は明治二三(一八九〇)年四月四日であるから、二年弱である。既に、前年の十一月に妻セツとともに松江に別れを告げて熊本五高に転任、現在の熊本市中央区手取本町(てとりひんまち)にあった静かな士族屋敷に住まっていた。
「同年の五月にあつた、それよりも遙かに人の心を動かす犧牲は――最も純粹な最も潔白な忠君の念からの犧牲は――畠山勇子といふ年若い娘のそれであつた。露國皇太子を暗殺しようといふあの企のあつた後、東京から京都へ來て、日本に不面目を與へまた國民の父を――神聖なる天王陛下を――悲しませ申した彼の出來事に對して、代つて罪を贖はうといふだけのことで、京都府廰の門前で自殺したのである」まず、「露國皇太子を暗殺しようといふあの企」はやはり本篇執筆の前年である明治二四(一八九一)年五月十一日に発生した「大津事件」を指す。これは当時日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライⅡ世)が滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)で警備に当たっていた警察官津田三蔵に、突然、斬りつけられて負傷した暗殺未遂事件である(但し、コライは右側頭部に九センチメートル近くの傷を負っただけで命に別状はなかった)。参照したウィキの「大津事件」によれば、当時の列強の一つである『ロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職』、六月には『司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任し』ているとし、犯人『津田が斬り付けた理由は、本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことであるという。また事件前、西南戦争で戦死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るというデマがささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田は、もし西郷が帰還すれば自分の勲章も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もある。ただしニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述していたという記録もある。他にも当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もあり、シベリア鉄道もロシアの極東進出政策を象徴するとして国民の反発があったことは確かである』とある。事件翌日の五月十二日夜には早朝に東京を発った明治天皇はニコライの入院している京都に到着、その足で『見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され』、翌日、『天皇はニコライの宿舎である常盤ホテル』『に自ら赴いてニコライを見舞い、さらには』『三人の親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った』。同月十九日に『明治天皇自らが神戸港』『のロシア軍艦を訪問する際には、「拉致されてしまう」と進言する重臣達の反対を振り切って療養中のニコライを再び見舞っ』ている。『天皇が謝罪したものの、ロシア本国からの指示もあってニコライは東京訪問を中止し、艦隊を率いて神戸からウラジオストクへと帰還の途についた』。『ロシアのシェービッチ公使は以前から日本に対して恫喝的な態度をたびたび取っており、この事件に関しても事件の対処にあたった青木周蔵、西郷従道内相らに死刑を強硬に要求し』、アレクサンドルⅢ世『も暗に死刑を求めていた』という。『そこで日本政府は、事件を所轄する裁判官に対し』、旧刑法百十六条に『規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用すべき大逆罪によって死刑を類推適用するよう働きかけた。伊藤博文は死刑に反対する意見がある場合、戒厳令を発してでも断行すべきであると主張した。また松方正義首相、西郷従道内相、山田顕義法相らが死刑適用に奔走した』が、旧刑法の同『条は日本の皇族に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されておらず、法律上は民間人と全く同じ扱いにせざるを得なかった。つまり怪我をさせただけで死刑を宣告するのは法律上不可能であった。ただし裁判官の中でも死刑にすべきという意見は少なくなかった』。『時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙』(これかた)『は「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発した。要するに「国家か法か」という回答困難な問題が発生したのであ』ったが、事件から十六日後の五月二十七日、『一般人に対する謀殺未遂罪』旧刑法二百九十二条が適用され、津田には『無期徒刑(無期懲役)の判決が下された』。『シェービッチ公使は、津田の無期徒刑が決定したことを知ると「いかなる事態になるか判らない」旨の発言をし』たが、『結果的には賠償要求も武力報復も行われなかった』。また、『皇太子の負傷に関しては、皇帝も皇太子も日本の迅速な処置や謝罪に対して寛容な態度を示しており、日本がこの問題を無事解決できた理由の一つにロシアの友好的な姿勢があることは疑いな』く、日記の文面からも後に皇帝となったニコライⅡ世本人も『この事件で日本に対して嫌悪感を抱いたことは無いと言うことが窺える』とある。また、ウィキの「津田三蔵」によれば『津田には精神病歴があった』とし、犯行動機の一説として、『傷害事件の現場は、大津市で琵琶湖が見下ろせるところにあり、かつて明治天皇が軍の演習で腰を下ろしたところでもあった。その腰を下ろした石の上へは、土足で上がることなど出来なかった時代の出来事で、ロシア皇太子が土足で上がれば、巡査としてただ見過ごすことが出来なかったためだ』ったとも挙げ、『無期徒刑の判決を受け』後は、『北海道標茶町にあった釧路集治監に移送・収監されたが』、犯行後の約四ヶ月後の同年九月二十九日に急性肺炎のため、満三十五歳で獄死している。なお、また、ウィキの「大津事件」には、事件直後、『小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は』一万通を『超え、山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した』。五月二十日には、『天皇の謝罪もむなしく皇太子が日本を立ち去ったことを知り、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した』と、ハーンが語る、以下に注する畠山勇子のことも出ている。
「畠山勇子」(慶応元(一八六五)年~明治二四(一八九一)年)については私は全く知らなかったので、ウィキの「畠山勇子」からほぼ全文を引かさせて頂く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。安房国長狭郡鴨川町(かもがわまち)横渚(よこすか)(現在の千葉県鴨川市横渚)に『畠山治兵衛の長女として生まれる。畠山家は鴨川の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。五歳で父を失い、十七歳で隣の千歳村(現南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず二十三歳で離婚。東京に出て華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという』。『そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽神戸港から帰国の途につくことになった。それを知った勇子は、帰郷するからと奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った』。『勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、五月二十日の午後七時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ出血多量で絶命した。享年二十七。当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計十通を遺していた』。『その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた。墓は末慶寺(京都市下京区万寿寺櫛筍上ル)にある。彼女の墓にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やポルトガル領事・モラエスも訪れている。モラエスはまた、リスボンの雑誌『セロエーズ』Serões『に彼女を紹介している』。『彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書やセンセーショナルな新聞の報道などによって国際社会の同情をかい、ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともになし)につながったとの評価もある』とある。
……さても……馬鹿の一つ覚えのウィキペディア引用でまた終りか、なんどとと思うなよ、凡百の自称アカデミスト諸君!……
……さても、だ……私の畏友井上英作氏は――二〇〇七年二月六日(リンク先は当日の私のブログ記事)、
*
やぶさん、ありがとうございました。
男の友情、かくあるべし、そんな付き合いのできる人と出会えて、幸運でした。
私は弱い人間です。小さな人間です。でも強く大きくなることも出来るのです。
それを本当に願いさえすればいいのです。
男が男であるためには、一つのボーダーを越えねばなりません。
こういった考え方自体、否定されつつある現代ですが、
今はまだ、そんな恵まれた時代ではありません。
やらねばならない事を、やるしかないのです。
私はその選択をしました。
本当に、ありがとうございました。
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というメールを最後に、静岡空港建設反対の抗議のため、午前三時五十分頃、ガソリンをかぶって静岡県庁前で焼身自殺した。
彼が示した檄文を以ってこの注を終わる。英作兄のために――
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抗議文
静岡市長、小嶋善吉へ、
私は静岡市民として、吉津地区に野積みし放置してある産業廃棄物や、その焼却灰が何ひとつ撤去される事無く、静岡市民が汚染された水道水を飲む危険性にさらされている事、飛散し直接吸い込む危険さえあるこれらの焼却灰を、住民の長年にわたり、たび重なる撤去要請にも関わらず、放置し、3箇所のうち一つは小学校のすぐそばという非常識であり、あきれ返った住民が、静岡県公害審査会に訴えた事に対しても、審査の事実を公表してはならないと、圧力をかけてきたり、野積みされ、放置されている焼却灰を、保管しているなどと言い換えるに至っては、頭がおかしいとしか言いようが無く、産廃ヤクザとの繋がりさえ見えてきた市長に対して、我が命をもって抗議する。
石川嘉延に物申
貴様は、静岡県民の意思に反して静岡空港建設を推し進め、 今は、農民から無理やり、権力を使って土地を取り上げ、又、反対する多くの支援者をも無視して、力ずくで排除し、 何の必要も無い、永久に税金を無駄遣いする空港を、 嘘八百を並べ立てて、さも役に立つ空港であるかのように偽装し、県民を騙し、犯罪者となんら変わらないゼネコンを使い、癒着し、県民に百年の禍根を残すその所業は赦しがたい。 よって、我が命を捨ててその悪行を糾弾する。
今、地球は危機的な状況にあり、このような環境破壊に金を使うべきではなく、 間近に迫っている温暖化への対策に金を使うべきなのだ。
地球市民 井上英作
*
井上英作に――靜岡空港建設反對を訴へ
二月六日未明靜岡縣廰前に燒身自決せる
畏兄の葬儀の日金時山山巓にて(三句)
捨身(しやしん)して濁世を怒る業火かな
火我捨身(ひがしやしん)靜岡空港(エア・ターミナル)呪詛永し
春の山君を二度燒く火を送る 唯至
*]
Ⅱ
Those far-seeing rulers of the Meiji era, who disestablished Buddhism to strengthen Shintō, doubtless knew they were giving new force not only to a faith in perfect harmony with their own state policy, but likewise to one possessing in itself a far more profound vitality than the alien creed, which although omnipotent as an art-influence, had never found deep root in the intellectual soil of Japan. Buddhism was already in decrepitude, though transplanted from China scarcely
more than thirteen centuries before; while Shintō, though doubtless older by many a thousand years, seems rather to have gained than to have lost force through all the periods of change. Eclectic like the genius of the race, it had appropriated and assimilated all forms of foreign thought which could aid its material manifestation or fortify its ethics. Buddhism had attempted to absorb its gods, even as it had adopted previously the ancient deities of Brahmanism; but Shintō, while seeming to yield, was really only borrowing strength from its rival. And this marvellous vitality of Shintō is due to the fact that in the course of its long development out of unrecorded beginnings, it became at a very ancient epoch, and below the surface still remains, a religion of the heart. Whatever be the origin of its rites and traditions, its ethical spirit has become identified with all the deepest and best emotions of the race. Hence, in Izumo especially, the attempt to create a Buddhist Shintōism resulted only in the formation of a Shintō-Buddhism.
And the secret living force of Shintō to-day―that force which repels missionary efforts at proselytising―means something much more profound than tradition or worship or ceremonialism. Shintō may yet, without loss of real power, survive all these. Certainly the expansion of the popular mind through education, the influences of modern science, must compel modification or abandonment of many ancient Shintō conceptions; but the ethics of Shintō will surely endure. For Shintō signifies character in the higher sense,―courage, courtesy, honour, and above all things, loyalty. The spirit of Shintō is the spirit of filial piety, the zest of duty, the readiness to surrender life for a principle without a thought of wherefore. It is the docility of the child; it is the sweetness of the Japanese woman. It is conservatism likewise; the wholesome check upon the national tendency to cast away the worth of the entire past in rash eagerness to assimilate too much of the foreign present. It is religion—but religion transformed into hereditary moral impulse,―religion transmuted into ethical instinct. It is the whole emotional life of the race,―the Soul of Japan.
The child is born Shintō. Home teaching and school training only give expression to what is innate: they do not plant new seed; they do but quicken the ethical sense transmitted as a trait ancestral. Even as a Japanese infant inherits such ability to handle a writing-brush as never can be acquired by Western fingers, so does it inherit ethical sympathies totally different from our own. Ask a class of Japanese students―young students of fourteen to sixteen――to tell their dearest
wishes; and if they have confidence in the questioner, perhaps nine out of ten will answer: 'To die for His Majesty Our Emperor.' And the wish soars from the heart pure as any wish for martyrdom ever born. How much this sense of loyalty may or may not have been weakened in such great centres as Tōkyō by the new agnosticism and by the rapid growth of other nineteenth-century ideas among the student class, I do not know; but in the country it remains as natural to
boyhood as joy. Unreasoning it also is,―unlike those loyal sentiments with us, the results of maturer knowledge and settled conviction. Never does the Japanese youth ask himself why; the beauty of self-sacrifice alone is the all-sufficing motive. Such ecstatic loyalty is a part of the national life; it is in the blood,―inherent as the impulse of the ant to perish for its little republic,―unconscious as the loyalty of bees to their queen. It is Shintō.
That readiness to sacrifice one's own life for loyalty's sake, for the sake of a superior, for the sake of honour, which has distinguished the race in modern times, would seem also to have been a national characteristic from the earliest period of its independent existence. Long before the epoch of established feudalism, when honourable suicide became a matter of rigid etiquette, not for warriors only, but even for women and little children, the giving one's life for one's prince, even when the sacrifice could avail nothing, was held a sacred duty. Among various instances which might be cited from the ancient Kojiki, the following is not the least impressive:―
Prince Mayowa, at the age of only seven years, having killed his father's slayer, fled into the house of the Grandee (Omi) Tsubura. 'Then Prince Oho-hatsuse raised an army, and besieged that house. And the arrows that were shot were for multitude like the ears of the reeds. And the Grandee Tsubura came forth himself, and having taken off the weapons with which he was girded, did obeisance eight times, and said: "The maiden-princess Kara, my daughter whom thou deignedst anon to woo, is at thy service. Again I will present to thee five granaries. Though a vile slave of a Grandee exerting his utmost strength in the fight can scarcely hope to conquer, yet must he die rather than desert a prince who, trusting in him, has entered into his house." Having thus spoken, he again took his weapons, and went in once more to fight. Then, their strength being exhausted, and their arrows finished, he said to the Prince: "My hands are wounded, and our arrows are finished. We cannot now fight: what shall be done?" The Prince replied, saying: "There is nothing more to do. Do thou now slay me." So the Grandee Tsubura thrust the Prince to death with his sword, and forthwith killed himself by cutting off his own head.'
Thousands of equally strong examples could easily be quoted from later Japanese history, including many which occurred even within the memory of the living. Nor was it for persons alone that to die might become a sacred duty: in certain contingencies conscience held it scarcely less a duty to die for a purely personal conviction; and he who held any opinion which he believed of paramount importance would, when other means failed, write his views in a letter of farewell, and then take his own life, in order to call attention to his beliefs and to prove their sincerity. Such an instance occurred only last year in Tōkyō, [1] when the young lieutenant of militia, Ōhara Takeyoshi, killed himself by harakiri in the cemetery of Saitokuji, leaving a letter stating as the reason for his act, his hope to force public recognition of the danger to Japanese independence from the growth of Russian power in the North Pacific. But a much more touching sacrifice in May of the same year,―a sacrifice conceived in the purest and most innocent spirit of loyalty,―was that of the young girl Yoko Hatakeyama, who, after the attempt to assassinate the Czarevitch, travelled from Tōkyō to Kyōto and there killed herself before the gate of the Kencho, merely as a vicarious atonement for the incident which had caused shame to Japan and grief to the Father of the people,―His Sacred Majesty the Emperor.
1
This was written early in 1892.
第十七章 家の內の宮
一
日本には死者の宗敎が二種類ある――神道に屬するものと、佛敎に屬するものと。前者は原始的な信仰で、普通には祖先崇拜と呼んで居る。が、祖先崇拜といふ言葉は、日本人種の祖先だと信ぜられて居る、古昔の神々に崇敬を拂ふばかりで無く、同じくまた神と祀られた君主英雄諸侯及び著名な人士の大勢にも崇敬を拂ふこの宗敎に對して餘りに局限された言葉のやうに自分には思はれる。例を擧ぐれば、比較的近代のうちに出雲の大きな大名(だいみやう)が神に祀られた。そして島根の百姓共は、今なほ松平(まつだひら)の神社の前に祈を捧げる。その上神道には、希臘や羅馬の信仰の如くに、四大の神があり、あらゆる種々な人事を主宰する特殊の神がある。だから祖先崇拜は、猶、神道の著しい特徴ではあるけれども、それだけでこの國家的宗敎は成つて居るのでは無い。またこの言葉は死者に就いての神道の信仰を――出雲では、日本の他の部分よりか、もつと多くその原始的性質を保留して居る信仰を――十分に述べ現しもしないのである。
で、自分は決して漢學者ではないけれども、國民生活に佛敎よりももつと深い根抵を爲して居る程であるのに、西洋では遙かにより少く知られて居る、その日本の國民的宗敎に就いて――出雲のその古昔の信仰に就いて――此處で敢て少しく語つてもよからう。チエムバレン並びに、サトウ如き博學な人の手になつた特殊の著書――西洋の讀者は、自分が專門家ならむ限り、日本の外に在つてそれに親しめさうには思はれぬ著書――の中には述べてあるけれども、神とは何ぞやの極く乏しい槪念すら與へて居る、神道に就いて英語で書いてあるものは、殆んど全く無いのである。神道の古昔の傳說幷びに儀式に就いて、上に述べたこの兩言語學者の著書から、世にも稀な興味あることを多く知ることが出來る。が然し、サトウ氏が自ら認めて居らる〻やうに、『神道の本性は何か』といふ問に對しての明確な答はやはり與へにくい。神道には六種在ると知られて居て、其うちの或る物は外國の學者がまだ誰一人も、時問が乏しい爲め、或は機會が少い爲め、或は機會が無い爲め、檢べ得ずに居るのであるが、その六種の神道に共通な要素をどう說明するのか。その近代的な表面的な種類に於てすらも、ただ單にその進化發展の夥多の筋道を跡附け、且つその種々樣々な要素、卽ち原始の多神敎と物體禮拜、起原の疑はしい傳說、支那、朝鮮及び他の地方から來た――佛敎と道敎と儒敎とが一緖に混合して居る――哲學的思想の根元を決定するだけにも、歷史家、言語學者及び人類學者の聯合力を要する程に、神道は頗る複雜である。所謂『純なる神道の復活』――外來的特徴を剝奪し、特にその起原の佛敎的な表示徴候悉くを剝奪して、この信仰をその古代の單純さに還さうといふ、政府の援助を受けた、努力――は、その公言した目的だけを思ひ見れば、無限の價値ある藝術を破壞して、しかも起原の謎は依然として、元の如く複雜なるが儘に在るといふ結果を見るに過ぎなかつた。神道は十五世紀間の變化の道途に餘りに深く變化されてしまつて、斯く一片の法令で形成し直すことが出來なくなつて居る。同樣な理由で、單に歷史的幷びに言語的解剖によりて、國民倫理へのその關係を說明せんとする、學者的努力は失敗に終るに相違無い。それが出來る位なら、生命がそれを活動させる身體の要素によつて、生の究極の祕密を說明することが出來よう。が、然しさういふ努力の結果が、日本人の思想と感情の――或る一つの特別階級ので無くて、汎く此國民全體の思想と情操の――深い知識と緊密に結合せられたであらうならば、その時初めて過去、幷びに現在の神道が充分に理解されるかも知れぬ。そして、自分は思ふに、これは歐洲と日本との學者の共同の努力に依つて、成遂げられることであらう。が然し、其信仰の單純な詩美に於て、子供の家庭訓練に於て、祖先の位牌の前での孝行の崇拜に於て、神道は何を意味して居るかといふことは、此國民の中に數年住居して居る間に、其國民同樣の生活をして、其風俗習慣を採用して居る者に依つて、幾らか知られるかも知れぬ。そんな經驗があれば、少くとも自己の神道觀を述べる權利は要求出來よう。
[やぶちゃん注:「比較的近代のうちに出雲の大きな大名が神に祀られた。そして島根の百姓共は、今なほ松平の神社の前に祈を捧げる」現在の松江市殿町の松江城二の丸(天守閣の南直下)にある松江神社の原形(後述)。ここの現在の祭神は松平初代藩主松平直政(慶長六(一六〇一)年~寛文六(一六六六)年)・松江城を建造して本拠をそこに移した松江開府の祖堀尾吉晴(天文一三(一五四四)年~慶長一六(一六一一)年)・第七代藩主松平不昧治郷、及び、徳川家康の四柱という豪華大名メンバーを祀るが、ウィキの「松江神社」によれば、主祭神を松平直政とする楽山神社が原形で、ハーンが述べているのも、それである。楽山神社は明治一〇(一八七七)年に『旧松江藩の有志により、西川津村(現松江市西川津町)楽山に松平直政を御祭神とするとして創建された』もので(現在の松江城東方の既出の推恵神社がある楽山公園附近か)、このハーンの叙述(本書の執筆は明治二四(一八九一)年)から七年後の明治三一(一八九八)年になって、寛永五(一六二八)年に『堀尾忠晴が朝酌村(現・松江市西尾町)に創建した東照宮の御神霊を』『合祀』し、翌年の明治三十二年になって、『現在地の松江城山二之丸に遷座して、神社を松江神社と改めた』とある。さらにそのずっと後の昭和六(一九三一)年に、『松江藩中興の明主として仰がれた七代藩主松平治郷と、松江開府の祖堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀し、今日に至っている』とある。
「四大の神」所謂、地神・水神・火神(雷神)・風神の神々。
「神道には六種在る」私は不勉強にもアーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow)の著作を読んだことがなく、所持もしていないので不詳である。恐らくはm一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形となった“ The revival of pure Shin-tau ”(「純粋神道の復活」)の記載中に現われるのであろう。明治政府に認可された教祖や開祖の宗教的体験に基づく教派神道十四派(神道大教・黒住教・神道修成派・神宮教・出雲大社教・扶桑教・實行教・神道大成教・神習教・御嶽教・神理教・禊教・金光教・天理教。但し、この内、神宮教は明治三二(一八九九)年に財団法人神宮奉賛会となって離脱したため、行政上公認された神道系教団は一般に教派神道十三教派と呼ばれる時代が長く続いた、とウィキの「教派神道」にはある)があるが、ここから六派を選ぶとなると、例えば「神道大教」公式サイト内の「教派神道とは」の中に、『古学的神道である神道大教、大社教、大成教、御嶽教、或は』『教祖神道中三派を除いた修成、實行、扶桑、神理、神習、禊の六派』を選んだ謂いは出るが、どう見てもこれではあるまい。何故なら、引用先を見るに、こ『の六派はいずれも古学的な神道理念を教理の中心としてその祭神奉斎の内容及び祀典等は類似したものである』とあるからである(差異がないものにサトウが興味を示すとは思われない)。そうなると、ここはそれを反転させた一緒くたにしない方、即ち、以上の「六派」でない、神道大教・大社教・大成教・御嶽教・神道大成教・金光教・天理教の七つのうち、後に「神道ではない」として抜けるところの天理教を除いた(これは天理教の方からも文句は言われまい)六つとも数えられるが、どうも座りが悪い。翻って、教派ではなく、祭祀の性格上の有意に大きな差異に基づく分類か、などと勝手に想像しつつ、ウィキの「神道」を見てみたところが、これまた、都合よく、その「分類」の項には皇室神道・神社神道・民俗神道(民間神道)・教派神道(先の神道十三派)・古神道・国家神道の六つが並んでいた(概ね、その語で中身は分かるが、リンク先には、簡単な説明が附されてあるので、それを参照されたい)。しかし、これはどうも、ただの偶然のようにも見える。そのうちにサトウの著作を手に入れたら、ちゃんと注を追加したいと思っている。
「夥多」は「くわた(かた)」と読み、物事が多過ぎるほどあること、夥しいさまの謂いである。
「所謂『純なる神道の復活』」前注に示したサトウの著作の標題“ The revival of pure Shin-tau ”(純粋神道の復活)を受けた表現。
「その起原の佛敎的な表示徴候悉くを剝奪して、この信仰をその古代の單純さに還さうといふ、政府の援助を受けた、努力」「一片の法令」おぞましき廃仏毀釈を齎した一連の神仏分離に関わる法令や政策を指す。狭義の「神佛判然令」は「神佛分離令」とも称し、これは単独の法令ではなく、慶応四年三月十三日(一八六八年四月五日)から明治元年十月十八日(一八六八年十二月一日)迄に発せられた太政官布告・神祇官事務局達・太政官達などとして出された一連の通達の総称である。その後、政府は神道国教化の下準備として、神仏分離政策を盛んに行なったものの、明治五年三月十四日(一八七二年四月二十一日)の神祇省廃止と教部省設置によって事実上、頓挫し、神仏共同布教体制を採ることとなった(以上は主にウィキの「神仏分離」に拠る)。
「十五世紀間の變化の道途」ハーンのこの叙述(一八九一年)の十九世紀から遡る十五世紀前となると三百年代で、現在、学術的に実在の可能性があるとされる最も古い天皇である崇神天皇の仮定没年が三一八年(但し、二五八年説もある)に当たることから、ハーンは「古事記」(和銅五(七一二年)序)に書かれた神道で説かれる神話体系が形成されたのを崇神の頃、即ち、古墳時代前期(古墳時代は現在、三世紀中葉から七世紀末に比定されている)に措定し、それが「古事記」で成文化されるまでの期間を三百年ほどと見ているように読めなくもない。]
ⅩⅦ
THE HOUSEHOLD SHRINE
Ⅰ.
IN Japan there are two forms of the Religion of the Dead―that which belongs to Shintō; and that which belongs to Buddhism. The first is the primitive cult, commonly called ancestor-worship. But the term ancestor- worship seems to me much too confined for the religion which pays reverence not only to those ancient gods believed to be the fathers of the Japanese race, but likewise to a host of deified sovereigns, heroes, princes, and illustrious men. Within comparatively recent times, the great Daimyō of Izumo, for example, were apotheosised; and the peasants of Shimane still pray before the shrines of the Matsudaira. Moreover Shintō, like the faiths of Hellas and of Rome, has its deities of the elements and special deities who preside over all the various affairs of life. Therefore ancestor-worship, though still a striking feature of Shintō, does not alone constitute the State Religion: neither does the term fully describe the Shintō cult of the dead―a cult which in Izumo retains its primitive character more than in other parts of Japan.
And here I may presume, though no Sinologue, to say something about that State Religion of Japan―that ancient faith of Izumo―which, although even more deeply rooted in national life than Buddhism, is far less known to the Western world. Except in special works by such men of erudition as Chamberlain and Satow,―works with which the Occidental reader, unless himself a specialist, is not likely to become familiar outside of Japan,―little has been written in English about Shintō which gives the least idea of what Shintō is. Of its ancient traditions and rites much of rarest interest may be learned from the works of the philologists just mentioned; but, as Mr. Satow himself acknowledges, a definite answer to the question, 'What is the nature of Shintō?' is still difficult to give. How define the common element in the six kinds of Shintō which are known to exist, and some of which no foreign scholar has yet been able to examine for lack of time or of authorities or of opportunity? Even in its modern external forms, Shintō is sufficiently complex to task the united powers of the historian, philologist, and anthropologist, merely to trace out the multitudinous lines of its evolution, and to determine the sources of its various elements: primeval polytheisms and fetishisms, traditions of dubious origin, philosophical concepts from China, Korea, and elsewhere,―all mingled with Buddhism, Taoism, and Confucianism. The so-called 'Revival of Pure Shintō'―an effort, aided by Government, to restore the cult to its archaic simplicity, by divesting it of foreign characteristics, and especially of every sign or token of Buddhist origin―resulted only, so far as the avowed purpose was concerned, in the destruction of priceless art, and in leaving the enigma of origins as complicated as before. Shintō had been too profoundly modified in the course of fifteen centuries of change to be thus remodelled by a fiat. For the like reason scholarly efforts to define its relation to national ethics by mere historical and philological analysis must fail: as well seek to define the ultimate secret of Life by the elements of the body which it animates. Yet when the result of such efforts shall have been closely combined with a deep knowledge of Japanese thought and feeling,―the thought and sentiment, not of a special class, but of the people at large,―then indeed all that Shintō was and is may be fully comprehended. And this may be accomplished, I fancy, through the united labour of European and Japanese scholars.
Yet something of what Shintō signifies,―in the simple poetry of its beliefs,―in the home training of the child,―in the worship of filial piety before the tablets of the ancestors,―may be learned during a residence of some years among the people, by one who lives their life and adopts their manners and customs. With such experience he can at least claim the right to express his own conception of Shintō.
一四
自分は既に自分の住所を少し好(す)き過ぎて來た。每日、學校の自分の勤務から歸つて來て、自分の敎師の制服をそれよりか無限に氣持の宜い、日本着物に改めてから、庭を見渡す日蔭の綠に蹲るといふ單純な快樂に、授業五時間の疲勞を償うて餘りあるものを見る。その崩れた瓦の屋根の下に厚く、苔蒸して居るあの古風な庭壁は、市街生活のつぶやきすら締出して入れぬげに思はれる。鳥の聲、セミの叫び、或はのろい長い間を置いて、水へ飛込む蛙の物淋しいジヤブンといふ音の他には、音は何一つきこえぬ。否、その壁は町の街路以上のものから自分を隱遁さす。壁の外では、電信と新聞紙と蒸汽船との、變化した日本が唸つて居る。內には、悠々たる自然の平和と十六世紀の夢とが住んで居る。空氣そのものにすら古色の妙趣があり、身のまはり總てに眼には見えぬ優しい、或る物が居るといふ仄かな感じがする。その或る物といふは、古い繪本に見る貴婦人のやうな顏をしてゐて、この庭全部が新しかつた時、この家に住まつて居た、今は世に無い、貴婦人どもの靜かな出入(ではいり)では或はなからうか。石の灰色な妙な姿に觸れたり、長く愛好された樹木の枝葉の中を渡つたりする、夏の日の光りにすら靈の優し味がある。此等は過去の庭である。未來は此等の庭をば、ただ夢として、どんな天才もその妙趣を再現することの出來ぬ、忘れられたる藝術の所產として、知るに過ぎぬであらう。
此處ではどんな動物も、人間の借家人を恐れないやうに思はれる。蓮の葉に止まつて居る小さな蛙は、自分が手を觸つても殆んど尻込みせぬ。蜥蜴は手易く自分の手が屆く處で日に當たる。水蛇は恐れ無しに自分の影を辷りよぎる。セミの樂隊はつい自分の頭の上の枝で、その耳を聾する合奏を始める。そして蟷螂は厚かましくも自分の膝の上で姿を構へる。燕や雀は自分ところの屋根に巢を造るばかりでは無い――或る一羽の燕は實際に浴場の天井に巢を造つたほどで――心配無しに家の中へ入(はい)りさへするし、鼬は自分の直ぐの眼の前で何の氣兼ね無しに魚を盜む。野鶯が一羽窓の橫の杉の木に止まつて、美はしの蠻聲を突發して自分の籠の愛鳥を歌の競爭に挑む。そして常に金色の空氣を通して、小松の綠の薄暗がりから、ヤマバトのあの物哀れな愛撫するやうな、美妙な呼び聲が自分の耳へ流れて來る、――
テテ
ポツポオ、
カカ
ポツポオ、
テテ
ポツポオ、
カカ
ポツポオ、
テテ…………
どんな歐羅巴の鳩もこんな啼聲はせぬ。ヤマバトの聲を始めて聽いて、その情(こゝろ)に或る新しい感じを感じ得ない人間は、この幸福な世界に住む價値は殆んど無いのである。
が然し、此等は總て――この古いカチウヤシキもその庭も――必ずや數年を經ずして、永久に消えてしまうであらう。早既に、幾多の、自分のよりももつと廣い、もつと美しい、庭が稻田や竹藪に變つて居る。そしてその古雅な出雲の町も――計畫されて久しい鐡道線路にやがては觸られて――或はこの十年のうちにすら――膨脹し、變化し、平凡となり、此處の地面を工場に製造場に要求するであらう。啻に此處ばかりからでは無い、総ての土地からして古昔の平和と、古昔の妙味とは失せ去るべき運命の下に在るやうに思はれる。無常は、殊に日本に於ては、事物の自然である。そして變化と變化を行ふ者とはまた變化して、末終にそれを容れる餘地無きに至るであらう、――だから悼むのは無駄である。此處の美を造つた今は藝術は、また、我等の非常な慰安となる所の聖句を信じて居る、あの信仰の藝術であつたのである。その聖句は云ふ、
草木國土 皆入涅槃
[やぶちゃん注:「自分は既に自分の住所を少し好(す)き過ぎて來た。」原文は“I have already become a little too fond of my dwelling-lace.”で、『わたしは、すでにこのすまいが、ちと気に入りすぎたようである。』と平井呈一氏は訳しておられる。私が敢えてこんなことを書くのは、どうもこの終章には、妙にしみじみとした、目に涙さえ湛えているようなハーンのある深い哀愁、松江の風物を、公的にも、私的にも、心から惜しみ懐かしむような感懐を強く感じられるからである。そうして、既に注しているのであるが、本書が執筆されたは明治二四(一八九一)年の八月以降と考えられているのであるが(出版自体は三年後の明治二七(一八九四)年九月)、この時から実は、既にして、ハーンは、一度、経験した松江の冬の寒気に耐えられず、熊本五高への転任の働きかけに入っていたか、或いは、それに入ろうと、内心、半ば決めていたのではなかったか、と私は思うからである(実際の転勤は十一月であるが、しばしばお世話になっている「八雲会」公式サイト内の「松江時代の略年譜」には、十月八日に松江中学の教頭にして盟友であった『西田千太郎に熊本への転任の決意を報告』しており、ここで『熊本への転任の決意を報告』という表現からは遅くとも既に九月中には熊本への転勤工作が成され、それが終わっていたと読めるのである。下線はやぶちゃん)。
「十六世紀」ハーンは室町・戦国の松江にまで遡っている点に注意されたい。松江には、室町時代には出雲守護を代々継承した京極家の守護所が置かれたが、戦国時代には京極家分家の尼子家(安来市)が台頭したため、その支配下に置かれた。鎌倉から戦国期にかけてハーンが見上げた松江城のある場所には末次城があった。堀尾吉晴の子堀尾忠氏が関ヶ原の戦功によって松江に入って(この時は月山富田城に入城)、松江藩が成立したのは、まさに十六世紀の最後の年である慶長五(一六〇〇)年のことである(以上はウィキの「松江市」及び「松江城」を参照した)。
「古雅な出雲の町も――計畫されて久しい鐡道線路にやがては觸られて――或はこの十年のうちにすら――膨脹し、變化し、平凡となり、此處の地面を工場に製造場に要求するであらう」既にして、県庁所在地松江の市制施行は、本書の執筆の二年前、ハーン来日の、丁度、一年前に当たる明治二二(一八八九)年四月一日に行われており(島根郡・意宇郡の一部から松江市が発足。ここはウィキの「松江市」に拠った)、官設鉄道が安来駅から延伸して、その終着として「松江驛」が開業するのは、明治四一(一九〇八)年十一月八日で、本書の執筆から十七年後のことであった(ウィキの「松江駅」に拠る)。
「末終に」「すゑ つひに(すえ ついに)」と訓じたい。
「草木國土 皆入涅槃」「さうもくこくど(そうもくこくど) かいにふねはん(かいにゅうねはん)」と音読みする。この世の人は勿論、ありとある草も木といった衆生、そして世界そのものさえも、これ皆、無我にして無心の悟りの境地たる涅槃へと入ることが決定(けつじょう)している――の謂いであろう。ただ、この章句自体は、調べてみた限りでは、直接の出典仏典は存在しない模様である。非常に近い章句として、よく、釈迦が「草木國土悉皆成佛(さうもくこくどしつかいじやうぶつ」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)――草木や国土の如く心を持たぬものであっても、これ、悉(ことごとく)く仏性を持つ故に、必ず一切は成仏する――と言われた、とされるものがあるが、サイト「宗教のときめき」の「二十三」の、やすいゆたか氏の『「山川草木悉皆成仏」と梅原猛』によれば、これさえも、『鎌倉時代の禅宗では釈迦が明星を見て成道したとき、つまり仏になったとき、同時に有情非情草木国土も成道したという解釈を打ち出し、その時に「草木国土悉皆成仏」と釈迦が叫ばれたことになっていますが、その経典からの出典は明らかではありません』とあり、ただ、『この「草木国土悉皆成仏」は、室町時代に始まる能では良く使われているのです。『鵺』『墨染桜』『芭蕉』『杜若』『六浦』『現在七面』『西行桜』『高砂』『定家』などに出てきます。人間だけではなく、怪獣や桜、芭蕉、杜若といった植物や雪なども怨霊となって現われ、鎮魂されて成仏するという設定でなのです』。そして『この語句は『中陰経』より引用とされていますが、現存する『中陰経』にはこの語句は存在しないということです』とある。さて、「草木國土皆入涅槃」「草木國土悉皆成佛」というこれら二つの章句は、別に、しばしば、耳にし、夏目漱石の「こゝろ」でも雑司ヶ谷の墓地のシークエンスでも墓に彫られた文字として登場する(リンク先は私の初出版注附電子テクスト)「一切衆生悉有佛性(いつさいしゆじやうしつうぶつしやう)」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」――総ての生きとし生けるものは仏となるべき仏性を本来、具有している――辺りの章句を元にした、釈論か、禅の公案から生まれた章句かとも思われるのであるが、この「一切衆生悉有佛性」という章句からしてからが、「大般涅槃經(だいはつねはんぎょう)」(略して「涅槃経」。これは釈迦の入滅(大般涅槃)を叙述してその意義を説く多くの経典類の総称であって、単一の経典ではなく、初期仏教の阿含経典から大乗経典まで略称「涅槃経」を名乗る数種の経典類の総称である)が、インドの大乗仏教の中で発展して成立した『大乗の』「大般涅槃經」(この経の編纂には大乗仏教の学派の一つである瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)派が関与したとされ、四世紀の成立と考えられている)の「高貴德王菩薩品(ぼん)」及び「獅子吼菩薩品」に現われる「釋迦牟尼佛言、一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有変易」からの引いたものであって、この経は禅宗では特に重んじられ、「佛祖三經」の一つとしているものの、ハーンがここに添えた「草木國土 皆入涅槃」や「草木國土悉皆成佛」は勿論、この「一切衆生悉有佛性」という章句類は、仏陀の生の言葉であったかどうかは。これ、すこぶる怪しいと言えると私は思っている(序でに言っておくなら、禅宗が好んでこの「佛性」の問題を取り上げるのは、人知を超えた禅の超論理的本質を知らしめる「方便」として都合がいいからだと私は考えている。その証拠に「無門關」の「一 趙州狗子」で、趙州和尚に弟子が「狗子に、還りて、佛性有りや無しや。」と問うと、和尚は即座に「無。」と返している。ところが、この公案の教理的正答は「有」であって、実際、同じ公案に対して別な高僧は「有」と事実、答えている。しかしここで「無。」と答えるところに、禅の公案の公案たる所以、禅の禅たる面目が表象されているのであり、教理を超越して自我が教条を貫いてその先の世界で「無」となるといった強烈な個人主義的大悟の世界が私には感じられ、「無。」の答えの方が遙かに痛快の「真(しん)」として響く。お暇な方は、淵藪野狐禪師訳附きの「無門關 一 趙州狗子」を読まれたい)。但し、言っておくと私は個人的には、「草木國土皆入涅槃」「草木國土悉皆成佛」「一切衆生悉有佛性」の思想にすこぶる惹かれるものである、ということを告白してぐだぐだした呟きの終りとしよう(以上はウィキの「大般涅槃経」及びそこからリンクされた頁も一部参考にした)。
以上を以って、「第十六章 日本の庭」は終わる。]
ⅩⅣ
I have already become a little too fond of my dwelling-place. Each day, after returning from my college duties, and exchanging my teacher's uniform for the infinitely more comfortable Japanese robe, I find more than compensation for the weariness of five class-hours in the simple pleasure of squatting on the shaded veranda overlooking the gardens. Those antique garden walls, high-mossed below their ruined coping of tiles, seem to shut out even the murmur of the city's life. There are no sounds but the voices of birds, the shrilling of semi, or, at long, lazy intervals, the solitary plash of a diving frog. Nay, those walls seclude me from much more than city streets. Outside them hums the changed Japan of telegraphs and newspapers and steamships; within dwell the all-reposing peace of nature and the dreams of the sixteenth century. There is a charm of quaintness in the very air, a faint sense of something viewless and sweet all about one; perhaps the gentle haunting of dead ladies who looked like the ladies of the old picture-books, and who lived here when all this was new. Even in the summer light―touching the grey strange shapes of stone, thrilling through the foliage of the long- loved trees―there is the tenderness of a phantom caress. These are the gardens of the past. The future will know them only as dreams, creations of a forgotten art, whose charm no genius may reproduce.
Of the human tenants here no creature seems to be afraid. The little frogs resting upon the lotus-leaves scarcely shrink from my touch; the lizards sun themselves within easy reach of my hand; the water-snakes glide across my shadow without fear; bands of semi establish their deafening orchestra on a plum branch just above my head, and a praying mantis insolently poses on my knee. Swallows and sparrows not only build their nests on my roof, but even enter my rooms without concern―one swallow has actually built its nest in the ceiling of the bath-room,―and the weasel purloins fish under my very eyes without any scruples of conscience. A wild uguisu perches on a cedar by the window, and in a burst of savage sweetness challenges my caged pet to a contest in song; and always though the golden air, from the green twilight of the mountain pines, there purls to me the plaintive, caressing, delicious call of the yamabato:―
Tété
poppō,
Kaka
poppō
Tété
poppō,
Kaka
poppō,
Tété . . .
No European dove has such a cry. He who can hear, for the first time, the voice of the yamabato without feeling a new sensation at his heart little deserves to
dwell in this happy world.
Yet all this―the old katchiu-yashiki and its gardens―will doubtless have vanished for ever before many years. Already a multitude of gardens, more spacious and more beautiful than mine, have been converted into rice-fields or bamboo groves; and the quaint Izumo city, touched at last by some long-projected railway line,―perhaps even within the present decade,―will swell, and change, and grow commonplace, and demand these grounds for the building of factories and mills. Not from here alone, but from all the land the ancient peace and the ancient charm seem doomed to pass away. For impermanency is the nature of things, more particularly in Japan; and the changes and the changers shall also be changed until there is found no place for them,―and regret is vanity. The dead art that made the beauty of this place was the art, also, of that faith to which belongs the all-consoling text, 'Verily, even plants and trees, rocks and stones, all shall enter into Nirvana.'
一三
庭の後の小山の高い杜は鳥類に富んで居る。野ウグヒス、梟、野鳩、餘りに多い烏、それから夜不思議な音をさせる――深い長いフウフウといふ音を立てる――妙な鳥が一羽棲むんで居る。これはアハマキドリ卽ち『粟蒔き鳥』と呼ばれて居る。百姓がその聲を聞いて粟を蒔く時分だと知るからである。餘程小さなそして鳶色な、極めて臆病な、そして、自分の知り得る限りでは、全然その習慣に於て夜の鳥である。
が稀に、甚だ稀に、それよりもなほ遙か不思議な叫びが、ホトトギスといふ綴音を苦しんで叫ぶ人間の聲のやうな聲が、夜間此邊の街路で聞かれる。その叫び聲とそれを發する者の名と同一不二である、卽ちホトトギスである。
[やぶちゃん注:既注だが、「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。]
これは、それに就いて不思議な話のある鳥である。實は生命ある此世の物では無くて、闇の國からの夜のさまよひ者であると人は言ふからである。冥途ではその棲家はあらゆる靈魂が、審判の場に達する爲めに通らねばならぬ。あの日の光りの無い死出の山のうちにあるといふ。每年一度來る。その來る時節は月の古昔の敎へ方で言つて、五月の末である。百姓はその聲を聽いて互に『さあ米を蒔かねばならんぞ、ジデノタヲサが來たから』と言ふ。タヲサといふ語は、古昔の支配時代のムラ卽ち村の長といふ意味である。が、どうしてホトトギスを死出のタヲサと呼ぶのか自分は知らぬ。靈魂が死の王閻魔の國へのいやな旅路の途中その上で、いつも休息をする死出の山の或る暗い、小村からの靈だと多分思はれて居るのであらう。
その叫び聲はいろいろに解釋されて居る。或る人はホトトギスは、自分の名を實は繰返すのでは無くて、ホンゾンカケタカ(ホンゾン懸けたか【註】)と尋ねるのだといふ。他の人はその解釋を支那人の智慧に置いて、この鳥の言葉は『不如歸』を意味するのだと斷言する。故鄕を離れて遠く旅して、他の遠國でホトトギスの聲を聽く者は、誰も懷鄕の病に罹るといふ事、この事は少くとも眞實である。
註。ホンゾンとは此處では佛の誕生
日卽ち昔の四月の八日だけに寺院で、
一般の人に見せる神聖なカケモノ卽
ち繪の意である。ホンゾンとはまた
佛寺で主たる佛像をも意味する。
その聲はただ夜だけきかれ、それも最も屢々滿月の夜で、そして眼に見えぬほど空高く翔りながら啼くのだと云ふ。そこで或る詩人は、それに就いてかう歌つて居る――
ヒトコヱハ
ツキガナイタカ
ホトトギス
また今一人の詩人はかう書いて居る――
ホトトギス
ナキツルカタヲ
ナガムレバ
タダアリアケノ
ツキゾノコレル
都會の住人は、ホトトギスの聲を聽かずに一生を送ることがあるかも知れぬ。籠に入れると、この小さな鳥は無言で居て死んでしまう。あんなに多くの絕妙な詩歌を鼓吹し來たつて居るその奇異な啼聲を聽かうといふので、日暮から夜明まで、露に濡れて詩人は屢々甲斐無く待つ。が、その聲を聽いたことのある人は、手傷を受けて死ぬる人の叫び聲に、その聲を譬へて居る程にそれを悲しいものと思つた。
ホトトギス
チニナクコヱハ
アリアケノ
ツキヨリホカニ
キクヒトモナシ
出雲の鳥に就いては、自分は自分が敎へて居る、日本人の生徒の一人が物した作文を引用して滿足しよう。
[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では、二行目以降が、総て二字下げである。]
『梟は暗い處でも物の見える嫌な鳥であります。泣く子供は梟が取りに來るぞと嚇されて怖がります。梟は、ホ! ホ! ソロツトコウカ? と啼くからであります。その意味は、「お前!そつと私ははいつて來なければならぬのか」であります。それからまた、ノリツケホセ! ホ! ホ! と啼きます。その意味は「お前は明日洗濯するに使ふ糊をつくるのか」であります。そして女はその啼聲を聽くと、明日は天氣だと知ります。それからまた「トトト」と啼きます。それは「その人は死ぬる」といふことであります。それから「コウトコツコ」と啼きます。それは「その男の子は死ぬる」といふことであります。だから皆此鳥を嫌ひます。それから鴉は之を大變嫌ひますから、鴉を取るのに使ひます。百姓は田地に梟を置いて置きます。すると其處の鴉がみんなそれを殺しに來て、しかと罠に捕へられます。この事は私共は他人に對する嫌惡の念に從つてはならぬといふ事を敎へて居ます』
一日中市街の上を舞うて居る鳶は、近處には棲んで居ない。その巢は靑い峰の上にあるのである。が。魚を捕へたり、裏庭から物を盜んだりして、その時間の大部分を費す。これは囃子や庭に迅速且つ突然の海賊的訪問をする。そしてその――ピイヨロヨロ、ピイヨロヨロといふ――不吉な啼聲が町の上に、夜明から日沒まで、間を置いてきこえる。確かに羽毛(はね)の生えた物總ての中で一番不遜な――その盜賊仲間たる鴉よりも、もつと不遜なぐらゐな――奴である。魚屋の手桶から鯛を、或は子供の手から油揚を盜みに五哩の空からさつと降りて、その窃盜被害者が小石拾ひに屈む間もあらせず、矢の如く雲表に立歸る。だから『鳶に手から油揚【註】を攫はれたやうに吃驚した顏をして居る』といふ譬へがある。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]
註。大豆の粉卽ち豆腐から造つたドオナツトのやうなもの。
[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]その上、鳶はどんな物を盜むのが當り前だと思つて居るか分つたものではない。例を擧げると、自分の近處の下女が、飯粒で造つて巧妙に染めた、一つなぎの小さな眞紅の珠を髮に着けて、この間川へ行つた。と、一羽の鳶がその頭上に下りて、その珠の紐を引ちぎつて呑んだ。が、前の晩係蹄で捕へて、それから水に浸けて殺した鼠か二十日鼠を鳶に食はせるのは非常に面白い。鼠の死骸を見える處へ出すが早いか、鳶は空から飛び降りてそれを持逃げる。時折鴉が鳶の機先を制することがあるが、その鴉はその穫物を自分のものにして置くには、實際非常に迅く林に達し得なければならぬ。子供達は斯んな歌をうたふ――
トビ、トビ、マウテミセ、
アシタ ノ バン ニ
カラス ニ カクシテ
ネズミヤロ。
舞ふと云ふのは、空を飛んで居る時の鳶の翼の、あの美しい運動を云つて居るのである。兩手を伸ばして、その絹の着物の長い廣い袖を振り動かす、マヒコ卽ち舞妓のあの優美な身振に暗示して、その運動を詩的に喩へて居るのである。
自分の家の背後の森には、鴉の數多き小屯營地があるのであるが、鴉軍の大本營は、自分の前側の部屋から見える古昔の城地の松林である。每夕同じ時刻にみんな飛び歸るのを見るのは、興味ある眺めで、民衆の想像心はこれに對しての面白い比較を、慌て急いで火事へ走つて行く人達に見出して居る。この比較が、その巢へと歸り行く鴉に向つて、子供等が歌ふ歌の意味を說明する、――
アトノカラス サキヘイネ、
ワレガイヘガ ヤケルケン、
ハヨインデ ミヅカケ、
ミヅガナキヤ ヤラウゾ、
アマツタラ コニヤレ、
コガナキヤ モドセ。
孔子の敎は鴉に德を見出して居るやうに思はれる。『カラスニハムポノカウアリ』といふ日本の諺がある。鴉はハムポの孝を行ふといふ意味で、もつと文字通りに譯すると『鴉にハムポの孝在り』になる。ハムポとは文字通りに言へば『養を返へす』である。子鴉は自分が丈夫になると、親を養うて親の世話に酬ゆると云ふ。親孝行の今一つの例を鳩が提供して居る。『ハトニサンシノレイアリ』――鳩はその親の三枝下に止まる。もつと文字通りに譯すれば、『行ふ三枝の禮がある』である。
野鳩(ヤマバト)の啼聲は、これは自分は殆んど每日森で鳴くのを聽くが、これまで自分の耳に達した音(ね)のうちで、一番美はしい物哀れなものである。出雲の百姓は此鳥はかうかういふ言葉を述べるのだと言ふが、如何さま百姓が主張する處の綴音を覺えた後で、これを聽くとさうのやうに思へる。――
テ テ
ポ ツ ポ オ、
カ カ
ポ ツ ポ オ、
テ テ
ポ ツ ポ オ、
カ カ
ポ ツ ポ オ、
テ テ…………(突然に止む)
『テテ』はに『父』の、『カカ』は『母』の赤ん坊言葉である。そしてポツポオは幼兒の言葉では「胸【註】」を意味する。
註。パパア及びママアといふ語は、
日本の赤ん坊言葉にある。が、その
意味は我々の或は想像するものとは
全く異ふ。ママア卽ち通例の敬語を
添へてのオマムマは『炊いた米』の
意味である。パパアは『煙草』の意
味である。
野ウグヒスがまた屢々その歌を以てして、我が夏を快よくし、そして多分籠に飼つて居る自分の愛鳥の歌に惹付けられてであらう、時々、家の甚だ近くまで來る。ウグヒスはこの國では極めて普通である。この町附近の何處の林にも神聖な杜にも棲んで居る。暖い季節に自分が出雲を旅行した折、何處か蔭深い處でその鳴く音をきかぬことは無かつた。此處でもウグヒス、其處でもウグヒスである。一二圓で買へる鶯もあるが、能く馴らした、駕籠で育てた歌ひ手は時に百圓を下らざる價を呼ぶことがある。
この華車な動物に就いて妙な或る信仰を始めて聞いたのは、小さな村寺でのことであつた。日本では、屍體を埋葬に運ぶ棺は西洋の棺とは全然異ふ。驚く許り小さな四角な箱で、その中へ死者は坐つた姿勢に置かれる。大人の屍體がどうしてあんな小さな場所に收められるのか、外國人には充分に一個の謎であらう。所謂死後强直(リゴルモルチス)の場合遺骸を棺に收める仕事は、專門のダウシンバウズにさへ困難である。が、敬虔な日蓮宗信者は死後、その遺骸は、全く撓め易いまゝであると主張する。そしてウグヒスの死體は、同樣に決して硬くならぬ、それはこの小鳥は自分等と同じ信仰を抱いて居て、妙法蓮華經を讃美する歌をうたつて、その一生を送るからだと彼等は斷言する。
[やぶちゃん注:「野ウグヒス」スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone の野生のもの。当時は、飼われているものも多かったから、かく区別した。
「梟」狭義にはフクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis を指す。松江であれば、亜種のキュウシュウフクロウ Strix uralensis fuscescens も同定候補となる(ウィキの「フクロウ」などを参照されたい)。さらに言えば、ここでは鳴き声のみでハーンは“owls”と言っており、コノハズク属 Otus・トラフズク属 Asio などのミミズクの類(木兎:フクロウ科の中で羽角(うかく:耳介様の羽)がある種の総称で古くは「ツク」「ズク」とも言った。ウィキの「ミミズク」によれば『英語にはミミズクを総称する表現はない。羽角のあるなしにかかわらずowlと総称する』とある)も含めて考えねばならない。
「野鳩」通常は我々に馴染み深いハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia を指すが、後で、訳文では「野鳩(ヤマバト)」(この「(ヤマバト)」は本文であってルビではない)と出て来るから、どうもハーンの名称認識は、現行のそれとは微妙に異なり、以下も含めて、ここでの鳥類学的な同定とは必ずしも一致しない可能性がある。
「アハマキドリ卽ち『粟蒔き鳥』」これは山鳩、ハト科キジバト属キジバト Streptopelia orientalis とする地方と、郭公(カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus)とする地方があることが判った。しかしハーンは、鳴き声を「フウフウ」(原文は“hoo, hoo”であるから寧ろ「フーフー」「ホーホー」である)、カッコウらしくなく、キジバト Streptopelia orientalis の「ホーホー ホッホー」とよく一致するから、それに同定しておく。但し、「全然その習慣に於て夜の鳥である」とあるが、キジバト(序でにカッコウも)は早朝に鳴くものの、夜行性鳥類ではない。
「ホトトギス」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。
「月の古昔の數へ方で言つて、五月の末」失礼乍ら、如何にもまどろっこしい。陰暦五月の末でよい。逐語的に訳したいなら――日本の伝統的な、月の運行に基づく太陰太陽暦による数え方で言うところの、五月の末――とすれば、よかろうよ。
「ジデノタヲサ」「賤(しづ)の田長(たをさ)」の音変化ともあるが、ホトトギスの「死出の田長」という別称は。平安初期には定着していた。同時期に成立した「伊勢物語」の第四十三段の相聞歌に、既にして「しでの田長(たをさ)」が出るからである(引用は角川文庫版石田穣二訳注を参考に正字化して示した)。
*
昔、賀陽(かや)の親王(みこ)と申すみこおはしましけり。その親王、女を思し召して、いとかしこう惠みつかう給ひけるを、人なまめきてありけるを、われのみと思ひけるを、また人聞きつけて、文(ふみ)やる。ほととぎすの形(かたち)をかきて、
ほととぎす汝(な)が鳴く里のあまたあれば
なほうとまれぬ思ふものから
と言へり。この女、けしきをとりて、
名のみ立つしでの田長(たをさ)は今朝(けさ)ぞ鳴く
いほりあまたとうとまれぬれば
時は五月(さつき)になむありける。男、返し、
いほり多きしでの田をさはなほ賴む
わが住む里に聲し絕えずは
*
この一節はホトトギスが、沢山の田――男――に向って、「田植えをせよ」と勧める声を掛ける――恋のほのめかしをする――という農事を基とした洒落の掛け合いになっていることからも、その伝承の定着が遙かに遡ることを容易に推理出来よう。一説には、ホトトギスの鳴き声を「しでのたをさ」と聴いたともするが、私には逆立ちしてもそうは聴こえないね。
「不如歸」というホトトギスの異名は、とある説には、古代中国に望帝と称する不品行な王がおり、臣下の妻との密通がばれて、遂には退位させられてしまい、復位を望んだものの叶えられず、遂に失意の中で亡くなって、杜鵑と化して「不如歸去」(歸り去(ゆ)くにしかず:帰り行くにこしたことはない・帰った方がよい・帰ったほうがましである)と、血を吐くまで鳴き続けた、それを蜀の人々が聴いて、哀れんだとする故事に由来するとあったが、ウィキの「望帝杜宇」を見ると、この皇帝は名君であって(但し、これは晋代に書かれた偽作とされる「蜀王本紀」の記述に拠るもの)、古代中国の蜀(三国時代の蜀漢と区別して「古蜀」と呼ぶ。紀元前三一六年に秦に滅ぼされたと伝える)の第四代君主望帝杜宇(ぼうていとう)は農政の整備や治水に勤めて善政を敷き、亡くなった後も、その霊魂は西山に隠棲したと考えられ、毎年二月に杜鵑(ほととぎす)が鳴くと、蜀の人々は皆、「これは杜宇の魂が鳴いているのだ」と信じ、人々はさらに農事に励み、今日に至るまで巴蜀の人々は種蒔きの前に杜主君を祭るようなったとある(これでは、しかし、「不如歸」の説明には、ならないと思うがねぇ?)。さらに別なネット記載では、死後に杜鵑に転生した杜宇が、自分の国蜀が滅ぼされたことを知って、「ああ、私の国に帰れるものなら帰りたい」と嘆いたことによるともある。ともかくも。これがホトトギスの音写である証左の一つは、明代の本草書である李時珍の「本草綱目」の「禽部三 杜鵑」の「釋名」に、
*
其鳴若曰不如歸去。
(其れ、鳴くに、「不如帰去」と曰ふがごとし。)
*
とあることで確認出来る。
「懷鄕の病」原文は“ the sickness of longing for home ”で、残念なことに、“ nostalgia ”ではない。ハーンは、「日本人は英語を学ぶ際に一語で表現される如何にも難しい単語を殊更に崇拝する悪い癖がある。」と言っていたらしいから、この平易な文字列を見て、「やっぱ、そうなんだよなぁ……」と感慨すること、頻りであった。
「ホンゾンカケタカ」「本尊、懸けたか?」で旧暦四月八日の釈迦生誕を祝う「灌仏会」(かんぶつえ)に於いて、寺院内に釈迦誕生図を懸けることに連関した音写である。
「その聲はただ夜だけきかれ、それも最も屢々滿月の夜で、そして眼に見えぬほど空高く翔りながら啼くのだと云ふ」ホトトギスは夜行性の鳥ではない。しかし、深夜にしばしば鳴く(私の家の裏山で深夜に実際に聴いたことがある)。ネットを管見すると、繩張り意識が強い彼らは。深夜までそれを主張し続けるのであるとか、南方から日本へ渡って来る折りには、夜中に飛ぶという説があり、更に、先に到着した♂が。自己存在を周囲に認知させるために、夜間も鳴くのではないか、という説が提示されてはいる。また、昼間の鳴きよりも。夜間のそれは、初音ならばこそ、ちょっと驚かされ、奇異に感じることから、後でハーンも引くように、古歌にも多く「夜の鶯」が詠われていることにも影響された事実誤認である。ホトトギスは早朝にも昼間にも鳴くことは知らぬ者はないはずであるのに、こう信じられているところが、何とも冥府の使いらしい呪術的側面だとも言えようか。夜の初音を期待する様子は、かの「枕草子」の物尽くしの章段の一つである第三十八段の「鳥は」にも、
*
郭公は、なほ、さらに言ふべきかたなし。いつしか、したり顏にも聞えたるに、卯(う)の花、花橘(はなたちばな)などに宿りをして、はた隱れたるも、ねたげなる心ばへなり。五月雨(さみだれ)の短き夜に寢覺(ねざめ)をして、いかで人よりさきに聞かむと待たれて、夜深くうち出でたる聲の、らうらうじう愛敬(あいぎやう)づきたる、いみじう心あくがれ、せむかたなし。六月になりぬれば、音(おと)もせずなりぬる、すべて言ふもおろかなり。夜(よる)鳴くもの、何も何もめでたし。ちごどものみぞ、さしもなき。
*
因みに「ねたげなる心ばへ」は批判ではない。「心憎いまでの節操を見せる心映えだ」と讃嘆しているのである。「らうらうじう」は、「巧妙で品位があって優雅で」の意、「愛敬(あいぎやう)づきたる」は文字通り、「可愛らしく魅力的な」の意。ホトトギスの初音が当時のあらゆる情趣の中でも破格のチャンピオンであったことがこれでも知れる。
「ヒトコヱハ/ツキガナイタカ/ホトトギス」この、
一聲は月が鳴いたかほととぎす
は、ネットを調べると、江戸中期の俳人宝暦一二(一七六二)年没の滝瓢水(たき ひょうすい)の句に、
さてはあの月が鳴いたかほととぎす
とあるらしく、それに近い。馬場紘二氏のブログ「轟亭の小人閑居日記」の「福沢の『孤独な心境』」を見ると、『古句に「一声は月が鳴いたかほととぎす」というのがあると、富田正文先生 の『福澤諭吉の漢詩三十五講』(福澤諭吉協会叢書)にある』と記された後に、安政六(一八五九)年板行の端唄集「改正 哇袖鏡(はうたそでかがみ)」に(一部の不自然な空欄を除去させて戴いたが、表記はママ)、
《引用開始》
ひとこえは月がないたか時鳥(ほととぎす)、いつしかしらむ短夜に、まだ寝もやらぬ手枕(たまくら)に、 男心はむぐらしい。おなご心はそふじゃない、かたときあわねばくよくよと、 ぐちな心でないてゐるわいな
《引用終了》
とあると記しておられる。孰れにせよ、滝瓢水のそれも、そのインスパイアのこれも皆、次の知られた和歌の本歌取りであろう。
「ホトトギス/ナキツルカタヲ/ナガムレバ/タダアリアケノ/ツキゾノコレル」これは「百人一首」八十一番歌の後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん:藤原定家の従兄弟藤原実定(保延五(一一三九)年~建久二(千百九十一)年)のこと)のそれで知られる、「千載和歌集」所収の一六一番歌、
「曉聞郭公(曉に郭公を聞く)」といへる心をよみ侍りける
郭公(ほととぎす)鳴きつる方(かた)をながむればただ有明の月ぞ殘れる
である。香川景樹の「百首異見」には「初學云、郭公のそなたに鳴つるはとて見やれば、名殘あとなき空に、有明の月のみあると也、といへり。實にけしきみえて、郭公にとりては、當時最第一の御歌といふべし。」とあって、古来、杜鵑を詠じた名歌とされてきた一首である。
「ホトトギス/チニナクコヱハ/アリアケノ/ツキヨリホカニ/キクヒトモナシ」これは、かの長州藩士で尊王攘夷派の雄で、吉田松陰門下であった久坂玄瑞(天保一一(一八四〇)年)~元治元(一八六四)年)の自刃二年前の一首である。
郭公
ほととぎす血に鳴くこゑはあり明(あけ)の
月より外(ほか)にきく人ぞなき
言わずもがな乍ら、この血を吐く如く、あらん限りの覚悟を以って鳴く孤独な杜鵑とは無論、とりもなおさず、孤槁の士久坂自身の幻像である。なお、「啼いて血を吐く」という表現は、ホトトギスの口中が赤色を呈することに由来する。
『「トトト」と啼きます。それは「その人は死ぬる」といふことであります。それから「コウトコツコ」と啼きます。それは「その男の子は死ぬる」といふことであります』ウィキの「フクロウ目」の「文化」の項には、『日本ではフクロウは死の象徴とされ、フクロウを見かけることは不吉なこととされていた』。『青森県北津軽郡嘉瀬村(現・五所川原市)では、死んだ嬰児の死霊を「タタリモッケ」といって、その霊魂がフクロウに宿るといわれた』とあり、『岩手県和賀郡東和町北成島(現・花巻市)ではフクロウを「しまこぶんざ」といい、子供が夜更かししていると「しまこぶんざ来んど」(フクロウが来て連れて行かれる、の意)といって威す風習があった』という。その他にもフクロウの声は死んだ嬰児の霊の声とする伝承もあるが、この「トトト」が「その人は死ぬる」の、「コウトコツコ」とが「その男の子は死ぬる」の意であるというのは、語の対応関係がよく判らない。出雲出身の方の御教授を乞うものである。
「鳶」タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans 。
「五哩」五マイルは八千六十二・七二メートルであるが、これは何かの間違いである。トビの飛行高度は通常で百メートルから二百メートルで、上昇気流に乗ったとしても、せいぜい三百メートルである。但し、ジェット機並みの高さで飛翔出来ないかというと、そういう訳ではないようで、ツルで八千五百メートル、ハクガン等では九千メートルといった記録があるようでは、ある。
「ドオナツト」原文“ doughnut ”。ドーナツ。
「飯粒で造つて巧妙に染めた、一つなぎの小さな眞紅の珠」原文は“ wearing in her hair a string of small scarlet beads made of rice-grains prepared and dyed in a certain ingenious way ”で、これは充分に乾燥させた屑米を、真紅の染料で染めたものを、ビーズのように糸で繋げた、日本髪の髷の根元に巻きつけて用いる紐状の髪飾りである「根掛(ねが)け」のことと思われる(事実、平井呈一氏は『干飯(ほしい)を器用に染めてこしらえた赤い根がけ』と訳しておられる)。
「係蹄」音は「ケイテイ」であるが、訳者は「わな」(罠)と読んでいる可能性が強いと思う。元は中国の狩猟等のためのトラップで、繩や糸を輪にし、その中に動物の体の一部が入ると、自動的に締めつけて捕捉する「括り罠」(くくりわな)のことであるが、日本語の「わな」「わさ」の起源は、これに推定されている。
「小屯營地」原文は“ a numerous sub-colony ”。「相当数の二次的生物群落(コロニー)」の意。
「カラスニハムポノカウアリ」「鴉に反哺の孝有り」である。「反哺」は口移しで餌を与えることを言う。成長した鴉は自分にして呉れたように口移しで老いた親に餌を与えて己れの恩を返す(「養を返へす」)という「事文類聚」(宋の祝穆(しゅくぼく)編になる類書(字書)。百七十巻。一二四六年成立)などに載る故事に基づくもので、「鴉さえ親の恩に報いる、況や人をや。」という謂い。「慈烏反哺(じうはんぽ)」という四字熟語でも知られる。しばしば次の鳩の譬えと合わせて「鳩に三枝の礼あり、烏に反哺の孝あり」とも言う。但し、そんな習性は、悪党のカラスには、微塵も、ありはしない。
「ハトニサンシノレイアリ」「行ふ三枝の禮がある」「鳩に三枝の禮有り」で、子鳩は育てて呉れた親鳩に敬意を表して、必ず親鳥より三本も下の枝に止まるとする謂い。前の「鴉に反哺の孝有り」と同じく親に対する礼儀と孝行を重んずるべきであるということの譬え。辞書には「学友抄」に基づくとあるが、当該書の書誌を調べ得なかった。識者の御教授を乞う。無論、姿に似合わぬハトには、そんな習性は皆無!
「野鳩(ヤマバト)」既注通り、これはルビではなく本文。
「百圓」現在の百五十万円前後には相当する。
「死後强直(リゴルモルチス)」ルビの「ル」は擦れているので推定で補った。「リゴ」と「モルチス」の隙間から見て「リゴル・モルチス」ではないと判断出来る(原文からは「・」を打ちたいが)。原文は“ rigor mortis ”と斜体になっている。これは医学用語で綴りからお分かりのようにラテン語で(そのために差別化するために斜体化しているのであろう)、“ rigor ”は「硬さ・堅く突っ張らかること」、“ mortis ”は「死」の意。
「ダウシンバウズ」「道心坊主」。通常は「乞食僧・乞食坊主」の謂いで、僧形をして物乞いをする者を卑称する語であるが、ここは寺院に於いて葬儀埋葬など遺体処理に直接関わることを職能とした、死穢に触れる差別された下級階層の者を指しているように読める。]
ⅩⅢ
The high wood of the hill behind the garden is full of bird life. There dwell wild uguisu, owls, wild doves, too many crows, and a queer bird that makes weird noises at night-long deep sounds of hoo, hoo.It is called awamakidori or the 'millet-sowing bird,' because when the farmers hear its cry they know that it is time to plant the millet. It is quite small and brown, extremely shy, and, so far as I can learn, altogether nocturnal in its habits.
But rarely, very rarely, a far stranger cry is heard in those trees at night, a voice as of one crying in pain the syllables 'ho-to-to-gi-su.' The cry and the name of that which utters it are one and the same, hototogisu.
It is a bird of which weird things are told; for they say it is not really a creature of this living world, but a night wanderer from the Land of Darkness. In the Meido its dwelling is among those sunless mountains of Shide over which all souls must pass to reach the place of judgment. Once in each year it comes; the time of its coming is the end of the fifth month, by the antique counting of moons; and the peasants, hearing its voice, say one to the other, 'Now must we sow the rice; for the Shide-no-taosa is with us.' The word taosa signifies the head man of a mura, or village, as villages were governed in the old days; but why the hototogisu is called the taosa of Shide I do not know. Perhaps it is deemed to be a soul from some shadowy hamlet of the Shide hills, whereat the ghosts are wont to rest on their weary way to the realm of Emma, the King of Death.
Its cry has been interpreted in various ways. Some declare that the hototogisu does not really repeat its own name, but asks, 'Honzon kaketaka?' (Has the
honzon [33] been suspended?) Others, resting their interpretation upon the wisdom of the Chinese, aver that the bird's speech signifies, 'Surely it is better to return home.' This, at least is true: that all who journey far from their native place, and hear the voice of the hototogisu in other distant provinces, are seized with the sickness of longing for home.
Only at night, the people say, is its voice heard, and most often upon the nights of great moons; and it chants while hovering high out of sight, wherefore a poet has sung of it thus:―
Hito koe wa.
Tsuki ga naitaka
Hototogisu! [34]
And another has written:―
Hototogisu
Nakitsuru kata wo
Nagamureba,―
Tada ariake no
Tsuki zo nokoreru. [35]
The dweller in cities may pass a lifetime without hearing the hototogisu. Caged, the little creature will remain silent and die. Poets often wait vainly in the dew, from sunset till dawn, to hear the strange cry which has inspired so many exquisite verses. But those who have heard found it so mournful that they have likened it to the cry of one wounded suddenly to death.
Hototogisu
Chi ni naku koe wa
Ariake no
Tsuki yori kokani
Kiku hito mo nashi. [36]
Concerning Izumo owls, I shall content myself with citing a composition by one of my Japanese students:―
'The Owl is a hateful bird that sees in the dark. Little children who cry are frightened by the threat that the Owl will come to take them away; for the Owl cries, "Ho! ho! sorotto koka! sorotto koka!" which means, "Thou! must I enter slowly?" It also cries "Noritsuke hose! ho! ho!" which means, "Do thou make the
starch to use in washing to-morrow"
And when the women hear that cry, they know that to-morrow will be a fine day. It also cries, "Tototo," "The man dies," and "Kotokokko," "The boy dies." So people hate it. And crows hate it so much that it is used to catch crows. The Farmer puts an Owl in the rice-field; and all the crows come to kill it, and they get caught fast in the snares. This should teach us not to give way to our dislikes for other people.'
The kites which hover over the city all day do not live in the neighbourhood. Their nests are far away upon the blue peaks; but they pass much of their time in catching fish, and in stealing from back-yards. They pay the wood and the garden swift and sudden piratical visits; and their sinister cry―pi-yorōyorō, pi-yoroyorō―sounds at intervals over the town from dawn till sundown. Most insolent of all feathered creatures they certainly are more insolent than even their fellow-robbers, the crows. A kite will drop five miles to filch a tai out of a fish-seller's bucket, or a fried-cake out of a child's hand, and shoot back to the clouds before the victim of the theft has time to stoop for a stone. Hence the saying, 'to look as surprised as if one's aburagé [37] had been snatched from one's hand by a kite.' There is, moreover, no telling what a kite may think proper to steal. For example, my neighbour's servant-girl went to the river the other day, wearing in her hair a string of small scarlet beads made of rice-grains prepared and dyed in a certain ingenious way. A kite lighted upon her head, and tore away and swallowed the string of beads. But it is great fun to feed these birds with dead rats or mice which have been caught in traps overnight and subsequently drowned. The instant a dead rat is exposed to view a kite pounces from the sky to bear it away. Sometimes a crow may get the start of the kite, but the crow must be able to get to the woods very swiftly indeed in order to keep his prize. The children sing this song:―
Tobi, tobi, maute mise!
Ashita no ha ni
Karasu ni kakushite
Nezumi yaru. [38]
The mention of dancing refers to the beautiful balancing motion of the kite's wings in flight. By suggestion this motion is poetically compared to the graceful swaying of a maiko, or dancing-girl, extending her arms and waving the long wide sleeves of her silken robe.
Although there is a numerous sub-colony of crows in the wood behind my house, the headquarters of the corvine army are in the pine grove of the ancient castle grounds, visible from my front rooms. To see the crows all flying home at the same hour every evening is an interesting spectacle, and popular imagination has found an amusing comparison for it in the hurry-skurry of people running to a fire. This explains the meaning of a song which children sing to the crows returning to their nests:―
Ato no karasu saki ine,
Ware ga iye ga yakeru ken,
Hayo inde midzu kake,
Midzu ga nakya yarozo,
Amattara ko ni yare,
Ko ga nakya modose. [39]
Confucianism seems to have discovered virtue in the crow. There is a Japanese proverb, 'Karasu ni hampo no ko ari,' meaning that the crow performs the filial duty of hampo, or, more literally, 'the filial duty of hampo exists in the crow.' 'Hampo' means, literally, 'to return a feeding.' The young crow is said to
requite its parents' care by feeding them when it becomes strong. Another example of filial piety has been furnished by the dove. 'Hato ni sanshi no rei ari'―the dove sits three branches below its parent; or, more literally, 'has the three-branch etiquette to perform.'
The cry of the wild dove (yamabato), which I hear almost daily from the wood, is the most sweetly plaintive sound that ever reached my ears. The Izumo peasantry say that the bird utters these words, which it certainly seems to do if one listen to it after having learned the alleged syllables:―
Tété
poppō
Kaka
poppō
Tété
poppō,
Kaka
poppō,
Tété . . . (sudden pause).
' Tété ' is the baby word for 'father,' and 'kaka' for 'mother'; and 'poppō' signifies, in infantile speech, 'the bosom.' [40]
Wild uguisu also frequently sweeten my summer with their song, and sometimes come very near the house, being attracted, apparently, by the chant of my caged pet. The uguisu is very common in this province. It haunts all the woods and the sacred groves in the neighbourhood of the city, and I never made a journey in Izumo during the warm season without hearing its note from some shadowy place. But there are uguisu and uguisu. There are uguisu to be had for one or two yen, but the finely trained, cage-bred singer may command not less than a hundred.
It was at a little village temple that I first heard one curious belief about this delicate creature. In Japan, the coffin in which a corpse is borne to burial is totally unlike an Occidental coffin. It is a surprisingly small square box, wherein the dead is placed in a sitting posture. How any adult corpse can be put into so small a space may well be an enigma to foreigners. In cases of pronounced rigor mortis the work of getting the body into the coffin is difficult even for the professional doshin-bozu. But the devout followers of Nichiren claim that after death their bodies will remain perfectly flexible; and the dead body of an uguisu, they affirm, likewise never stiffens, for this little bird is of their faith, and passes its life in singing praises unto the Sutra of the Lotus of the Good Law.
33
By honzon is here meant the sacred kakemono, or picture, exposed to public view in the temples only upon the birthday of the Buddha, which is the eighth day of the old fourth month. Honzon also signifies the principal image in a Buddhist temple.
34
“A solitary voice! Did the Moon cry? Twas but the hototogisu.”
35
When I gaze towards the place where I heard the hototogisu cry, lol there is naught save the wan morning moon.
36
Save only the morning moon, none heard the hearts-blood cry of the hototogisu.
37
A sort of doughnut made of bean flour, or tofu.
38
Kite, kite, let me see you dance, and to-morrow evening, when the crows do not know, I will give you a rat.
39
O tardy crow, hasten forward! Your house is all on fire. Hurry to throw Water upon it. If there be no water, I will give you. If you have too much, give it
to your child. If you have no child, then give it back to me.
40
The words papa and mamma exist in Japanese baby language, but their meaning is not at all what might be supposed. Mamma, or, with the usual honorific, O-mamma, means boiled rice. Papa means tobacco.
一二
暖い夜にはあらゆる種類の招(よ)びもせぬ、嫌な御客が群を爲して家へ侵入する。二種類の蚊が生活を不快ならしめんと全力を盡す。そして其奴どもはラムプヘ餘り近くは、近寄らぬといふ智慧を有つて居る。が、多勢の面白いそして無害な者共は、その死を炎に求むることを禁じ得ないで居る。そのうち一番數多い犧牲は、これは驟雨の如く密集して來る。サネモリと呼ぶものである。少くとも出雲ではさう呼んで居るもので、發育ざかりの稻に多大の損害を與へる。
さてサネモリといふ名は著名なもので、源氏に屬する古昔の有名な武士の名である。その人が或る敵と馬上で鬪つて居るうちに、自分の馬が辷つて稻田に倒れ、爲めにその相手にねぢふせられて殺されたといふ傳說がある。その武士が稻を食ふ蟲となつたといふので、出雲では今猶、敬つてサネモリサンと呼んで居る。夏の或る夜、其蟲を惹寄せる爲めに稻田で火を焚いて、銅鑼を鳴らし竹笛を吹き、その間『サネモリサン、どうかこつちへ來て下さい』と歌ひはやす。カンヌシが宗敎上の或る式を行つて、馬と騎者とを現した藁人形を燒くか、又は近處の川若しくは掘割へ投げ込むかする。この儀式の爲めに田地にその蟲が居なくなると信ぜられて居る。
この小さな動物は、殆んど全く籾殼の大いさと色のものである。此蟲についての傳說はその身體が、翅とともに、日本の武士の冑に稍々似て居るといふ事實から起こつたものかも知れぬ【註】。
註。胡瓜を食ふ小さな蟲のシワンと
いふのにも似寄つた傳說がある。シ
ワンは甞て醫者であつたが、密通し
て居る處を見付られて一所懸命逃げ
た。が、途中その足が胡瓜の蔓に絡
まつた爲め、倒れて引捕へられて殺
されたので、それでその魂が胡瓜の
蔓を枯らす、一匹の蟲となつたのだ
と言はれて居る。日本の動物神話及
び植物神話には、變形變態(メタモ
フオシス)の古昔の希臘物語に妙に
類似して居る傳說が澤山に在る。が、
然しそんな民間傳說の最も著名なも
ので、その起原が比較的近代なもの
もある。長門に居る、ヘイケガニと
いふ名の蟹の傳說は、その一例であ
る。一一八五年壇ノ浦(今の瀨戶內
海)の大海戰に死滅した平家の武士
共の魂がヘイケガニに變つたのだと
想はれて居る。ヘイケガニの甲は確
かに不思議である。皺が寄つて物凄
い顏に肖たもの、或はむしろ、封建
時代の武士が戰の時に着けたもので、
眉を顰めた顏附のやうな恰好したあ
の鐡製の黑い瞼甲卽ち面(めん)の
一つに正(まさ)しく似たものにな
つて居る。
火の犧牲のうちで數に於て之に次ぐものは蛾で、それには甚だ風變りな、そして美しいのが居る。最も著しいのは、どんな家でもそれの入る家へ、間歇熱病を齎らすといふ迷信的信仰があるが爲めに、俗にオコリテフテフ卽ち『瘧蝶』と呼ばれて居る巨大な奴である。その身體は一番大きな蜂鳥の身體の重さは充分にあり、またそれと殆んど同じ力を有つて手に居るから手に捕へた時、その踠く力に驚かされる。飛んで居る間、一種非常に高いヒユウヒユウいふ音を立てる。自分が檢べた一匹の翅は、擴げて、端から端まで五寸あつた。でも、その重い身體に比べては小さいやうに思はれた。翅は種々濃淡の度を異にした黯んだ褐色と銀色との美しい斑點がある。
が然し、飛翔する夜間來客は多くはラムプを避ける。あらゆる訪問者のうち一番風變りなのは、タウラウ又の名出雲ではカマカケと呼ぶカマキリで、其奴は嚙む力を具へて居るから、子供は非常に怖ろしがつて居る、冴えた綠色の蟷螂である。餘程大きい。長さ六寸以上の標本を見たことがある。カマカケの眼は夜は光りのある黑であるが、日中は身體の他の部分同樣草色に見える。蟷螂は甚だ怜悧で、そして驚く許り喧嘩好きである。自分は元氣な一匹の蛙に攻擊された奴が、容易に敵を敗亡さしたのを見た。それは次に池の他の住者の餌となりはしたが、この異常な蟲を征服するには、數匹の娃の聯合の努力を要した。しかもその時でもそのカマカケを水の中へ引ずり込んで、始めて勝敗が決したのであつた。
他の來訪者は樣々の色をした甲蟲と、『頭に御器をかぶつて居るもの』といふ意味の、ゴキカブリと稱する一種の小さな油蟲(ロオチ)とである。ゴキカブリは人間の眼を食ふ事を好むと言ひ立てられてゐて、その爲めに眼の病を醫し給ふイチバタサマ――一畑の藥師如來――に憎まれて居る敵である。ゴキカブリを殺す事は從つて、またこの佛樣の眼には功德な行爲と考へられて居る。いつも喜び迎へられるのは美しい螢(ホタル)で、これは、全く音無しに入つて來て、直ぐと家中で一番暗い處を探して、その風にゆらぐ一點の火の如くゆるやかに、ちらりちらりと光る。非常に水が好きだと思はれて居る。だから子供等は螢に向つて次のやうな短い歌をうたふ――
ホタルコイ、ミヅ ノマセウ、
アツチ ノ ミヅ ハ ニガイゾ、
コツチ ノ ミヅ ハ アマイゾ。
普通に庭へ能く出て來るのとは全く異つた、灰色の可愛らしい蜥蜴がまた夜現れ出て、天井に沿うて己が餌を探す。時々非常に大きな百足蟲が同じ事を企てるが、蜥蜴ほど成功はせず、しかも一對の火箸で摑まれて、外の暗闇の中へ投げられる。極く稀に、馬鹿に大きな蜘蛛が姿を現す。この動物は無害なやうである。捕へると、自分を見張つては居ないと確かめるまで死んだ風をよそはうて、機會を得ると驚く許り素早く逃げ去る。これは毛の無いので、タランチュラ卽ちフクログモとは餘程異ふ。ミヤマグモ卽ち山蜘蛛と呼ぶのである。此附近に普通な蜘蛛は他に四種ある。テナガグモ卽ち手長蜘蛛、ヒラタグモ卽ち、『平たい蜘蛛』、ヂグモ卽ち『地蜘蛛』、それからトタテグモ卽ち『戶たて蜘蛛』である。蜘蛛は大抵惡い物だと考へられて居る。何處でも夜見た蜘蛛は殺さなければならぬと皆んなが言ふ。暗くなつてから姿を見せる蜘蛛は皆んな化け物で、人が眼を覺まして見て居る間は、そんな動物は身を小さくして居るが、誰も彼も寢靜まると眞の化け物の姿を執つて、異常な大いさになるのだといふ。
[やぶちゃん注:「二種類の蚊」「生活を不快ならしめんと全力を盡す」とあるから吸血するそれと考えてよいから、
双翅(ハエ)目長角(「糸角」・「カ」)亜目カ下目カ上科カ科ナミカ亜科ナミカ族ヤブカ属シマカ亜属ヒトスジシマカ Aedes (Stegomyia) albopictus
の♀、及び、
ナミカ族イエカ属イエカ亜属アカイエカ Culex pipiens pallens
の♀を挙げておけば、問題あるまい。
「サネモリと呼ぶもの」これは通常、狭義には古くから稲の大害虫とされている
カメムシ目ヨコバイ亜目 Homoptera のウンカ(雲霞・浮塵子)類の、特に、セジロウンカ Sogatella furcifera・トビイロウンカ Nilaparvata lugens・ヒメトビウンカ Laodelphax striatellus など
を指す。繁殖力が強く、且つ、大発生を起こす。彼らは稲の葉や茎から汁を吸って枯らし、『水田には丸く穴が空いたように枯れた区画を生じる。これを俗に「坪がれ」と呼』び、他にも、『アブラムシ同様に排泄物が』、『すす病』(寄生生物の分泌物にさらに黒い菌が寄生して葉・実・枝などを黒い菌膜で覆うようになる症状を指す)『を引き起こすことが多い』とウィキの「ウンカ」にはある(同頁には『カメムシ目ヨコバイ亜目の一部のグループで、アブラムシ、キジラミ、カイガラムシ、セミ以外の、成虫の体長が』五ミリメートル程度の『昆虫のいわば典型の一つがウンカであるため、この仲間にはウンカの名を持つ分類群が非常に多い。なお、「ウンカ」という標準和名を持つ生物はいない』とあるので注意が必要。下線やぶちゃん)。田んぼの総合情報サイト「くぼたのたんぼ」の「害虫について」によれば(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)、『ウンカは寒い日本では冬を越すことが出来ず、いなくなります。ところがアジア大陸で冬を越したウンカが、毎年六月から七月に、梅雨前線の気流に乗ってわざわざ飛んできます。雨上がりに田んぼに行くと見られるかもしれません。ご覧のようにセミを小さくしたような形で、体長は約四~六』ミリメートル『ぐらいです』。『ウンカにはセジロウンカ、ヒメトビウンカ、トビイロウンカの三種類がいます。セジロウンカは「夏ウンカは肥やしになる」という諺があるくらいで、そんなに害はありません。やっかいなのが、この写真の』(リンク先参照)『トビイロウンカです。鳥の鳶(とび)によく似た茶色なのでつけられた名前です。秋に繁殖して被害をもたらすことから秋ウンカとも呼ばれています』。『ウンカは江戸時代の享保や天保の大飢饉を引き起こした原因の一つだと言われています。現在では、さまざまなウンカ防除剤が開発されています。現在のような農薬が開発されるまでは、対処法として、鯨油や菜種油などを水面に張り、そこにウンカを叩き落として、油膜で動きや呼吸を封じる方法がとられていたそうです』とある。さてこの「サネモリ」という名であるが、これは、かの名将斎藤別当実盛(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)のことである。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(斎藤実直とも)の子。実盛は越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠としたことから長井別当と呼ばれた。以下、参照したウィキの「斉藤実盛」より引用する(アラビア数字は漢数字に代えた)。『武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は始め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿二年(一一五五年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)』。『実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である』。『保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び』(ここまでの事蹟を以ってハーンは「源氏に屬する」と言っている。原文は“Now the name Sanemori is an illustrious one, that of a famous warrior of old times belonging to the Genji clan.”であって、源家一門に帰属していた武士である。平井呈一氏は、ここを『有名な源氏の大将の名で』と訳しておられるが、実盛は源氏ではないし、後に平氏に就いたのであって、頗る訳としておかしいと言わざるを得ない)、『その後』、『平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承四年(一一八〇年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという』。『寿永二年(一一八三年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた』。『この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため』、『首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず』、『涙にむせんだという。この』「篠原の戦い」『における斎藤実盛の最期の様子は』「平家物語」卷第七に「實盛最期」『として一章を成』す。以下、「史跡・伝承について」の項の「前賢故實」「による斎藤実盛」、『室町時代前期の応永二一年(一四一四年)三月、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)で七日七夜の別時念仏を催した四日目のこと、滞在布教中の時宗の遊行十四世太空のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという』。『これが源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたったため、太空は結縁して卒塔婆を立て、その霊魂をなぐさめたという。この話は、当時京都にまで伝わっており、「事実ならば希代の事也」と、醍醐寺座主の満済は、その日記』「滿濟准后日記」(まんさいじゅごうにっき)『に書き留めている。そしてこの話は、おそらく時宗関係者を通じて世阿弥のもとにもたらされ、謡曲』「實盛」『として作品化されている。以来、遊行上人による実盛の供養が慣例化し、実盛の兜を所蔵する石川県小松市多太神社では、上人の代替わりごとに、回向が行われて現代に至っている』。『実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたために、実盛が稲を食い荒らす害虫(稲虫)になったとの言い伝えがあ』り、そこから稲の害虫として知られる『稲虫(特にウンカ)は実盛虫とも呼ばれ』て怖れられた。享年七十三(下線やぶちゃん)。この最後の伝承は、鎌倉権五郎景政と同様、剛腕の荒武者は死してもそのパワーが残り、祭祀を疎かにすると禍いを起こすというタイプの「御霊(ごりょう)信仰」の類であるが、私は実盛の事蹟を考える時、彼を短絡的にかのおぞましいウンカ(御存じない方が多いが、植物吸汁性ながら人を刺す)如きに喩えたこの習俗としての「虫送り」が、今一つ、好きになれないのであるが、逆に言えば、そうした伝承の中で実盛への民草の畏敬の念は続いていたのでもあったのである。但し、「ウンカ」を「サネモリ」と呼ぶ語源については必ずしも明らかではない。ハーンも述べるように、ウンカ類の独特の体型は横から見ると高く突き出た烏帽子(えぼし)か甲を被った武士の首に似るとし、それが無念の(しかし覚悟の)死を遂げた実盛の御霊(私は怨霊とは言いたくない。私は斎藤別当実盛の大のファンなのである)と見做したともされるが(事実、確かにそのような形に私にも見える)、一説では実盛と全く無関係な古伝承であるところの田の神を送る行事「さのぼり」が訛って「さねもり」となり、それが実盛に附会されたという説さえあるようだ。芭蕉には小松の多田神社で見た実盛の兜を詠んだ名句、
あなむざんやな甲の下のきりぎりす
があるが、私が二〇一四年にやらかした「奥のほそ道」の共時プロジェクトの「今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 66 小松 あなむざんやな甲の下のきりぎりす」では、先に出た「平家物語」巻第七「實盛最期」や、また謡曲の伝世阿弥作「実盛」などの原文をも掲げてあるので、未見の方は是非、お読みあれかし。
「胡瓜を食ふ小さな蟲のシワン」不詳。同定候補としては、
鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ハムシ上科ハムシ科ヒゲナガハムシ亜科 Luperini 族 Aulacophorina 亜族ウリハムシ属ウリハムシ Aulacophora femoralis
を挙げておく。「シワン」から連想されるものに、多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」類がいるが、生のキュウリを食ったりはしないから、あり得ない。
「變形變態(メタモフオシス)」原文“metamorphoses”。音写するなら、“metamorphosis”(メタモルフォシス:変形・変質・変態・変容)の複数形であるから、「メタモルフォゼズ」とルビしたいし、平井も『変形』とされるが、私は個人的には神話中の異類への変身のそれであるから「変身」或いは「変容」と訳したい気がする。
「ヘイケガニといふ名の蟹の傳說」やっと私の領分が登場だ。しかし、私のオリジナル注附電子テクストでは、古いところでは、
・南方熊楠[平家蟹の話」【追記】新しいものでは、『南方熊楠「平家蟹の話」(正字正仮名版・非決定トンデモ版――恣意的な致命的大改竄(多量の削除を含む)による捏造あること、及び、挿絵がないことに拠る――)」もある。
・寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「たけぶんがに/しまむらがに 鬼鱟」の条
・丘淺次郎「生物學講話」の「第六章 詐欺 四 忍びの術(3)」
があり、比較的最近のものでは、
・「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 平家蟹」
もあって、これらをご覧戴ければ、ここに改めて注すべきことは、実は、もう全くないと言えるので、あっさり、これで注を終わらせることとする。悪しからず。
「一一八五年」壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水し、平氏一門が滅亡したのは、元暦二年三月二十四日でユリウス暦一一八五年四月二十五日(グレゴリオ暦換算では五月二日)のことであった。
「肖た」老婆心乍ら、「にた」(似た)と読む。
「封建時代の武士が戰の時に着けたもので、眉を顰めた顏附のやうな恰好したあの鐡製の黑い瞼甲卽ち面(めん)」「瞼甲」は「めんぽほ(めんぽほ)/めんぼほ(めんぼお)」と読み、武具の一つである面頬(めんぽお/めんぼお)のこと。顔面を保護する防御具で目の下頬当て・頬当ての類。
「間歇熱病」一日の体温差が摂氏一度以上あり、高熱期と正常近くに下降する無熱期が交代に現れる広範な熱性疾患を総称する語。回帰熱,周期熱などで見られるが、本邦の近代以前は概ねマラリア(Malaria:この語はイタリア語の“Mal-aria”(悪い空気)に基づく)を指すと考えてよく、古典でも「瘧(おこり)」「瘧病(おこりやまひ(おこりやまい)/ぎやくびやう(ぎゃくびょう))」「瘧病(わらはやみ(わらわやみ))」として登場し、古いところでは作中人物ながら「源氏物語」の光源氏が「若紫」の冒頭、「瘧病(わらはやみ)にわづらひたまひて」北山に加持祈禱を受けに行くことで知られ、「平家物語」の巻第六の「入道逝去」のシークエンスを見ると平清盛の死因もこれと考えられるが、特に私はその前の巻五の「物怪(もつけ)」で清盛が庭に無数の髑髏の見るのはマラリアによる熱性譫妄であると考えている。
「オコリテフテフ卽ち『瘧蝶』と呼ばれて居る巨大な奴」「端から端まで五寸あつた」「翅は種々濃淡の度を異にした黯んだ褐色と銀色との美しい斑點がある」「五寸」は十五・一五センチメートルで、これは私は、
チョウ目ヤママユガ科ヤママユガ亜科ヤママユ属ヤママユ Antheraea yamamai(但し、参照したウィキの「ヤママユ」には Antheraea yamamai yamamai・Antheraea yamamai ussuriensis・Antheraea yamamai yoshimotoi の三種の亜種記載有り)
を同定候補としたい。同ウィキには、前翅長は七センチメートルから八センチ五ミリとするが、ネットで更に調べると、標本として翅を開いた成体では十五センチメートル前後ながら、生きたものが静止している状態の横幅はさらに大きく二十センチメートル近くになる、とあり、ハーンの数値との齟齬はなく、「黯んだ褐色と銀色との美しい斑點」(「黯んだ」は「くろずんだ」(黒ずんだ)と読む)という描写も本種とよく一致すると私は思う。
「タウラウ又の名出雲ではカマカケと呼ぶカマキリ」「蟷螂」昆虫綱カマキリ目 Mantodea のカマキリを指すが、ウィキの「カマキリ」によれば、特に熱帯・亜熱帯地方に種類数が多く、全世界では研究者によって千八百から四千種を数えるとしつつ、本邦には『カマキリ科とヒメカマキリ科に属する』二科九種が棲息するとあり、松江に限定すれば、
カマキリ科 Mantidae のオオカマキリTenodera aridifolia ・チョウセンカマキリ(カマキリ) Tenodera angustipennis ・ウスバカマキリ Mantis religiosa・コカマキリ Statilia maculata ・ハラビロカマキリ Hierodula patellifera ・ヒナカマキリ Amantis nawai、及び、ヒメカマキリ科 Acromantidae のヒメカマキリ Acromantis japonica が同定候補
となるが、ウィキの生態記載を見る限りでは、緑色で夜の明かりに好んで飛来するとなると、分布を『本州、四国、九州、対馬、屋久島、奄美大島』とする、『樹上性で小型のカマキリ』で『緑色型と褐色型が存在。オスの羽は黒っぽく艶があるが、メスは艶があまりなく褐色に濃い褐色の斜めの縞模様がある。後翅が長くて前翅よりも後ろにはみ出し、その両側がとがる特徴がある。この科の幼虫は腹部を持ち上げるような格好で、かなり特徴的な姿である。明かりに飛来する』という(下線やぶちゃん)、
最後のヒメカマキリ科ヒメカマキリ Acromantis japonica
を特に支持したい。体長は♂で二十五~三十三ミリメートル、♀で二十五から三十六ミリメートルとある。但し、本文の「六寸」は十八・一八センチメートルであるが、これは別な場面で、それも「標本」で見たと言っている点と、その標本のサイズの巨大さから、この「標本」のそれというのは「ヒメカミキリ」ではなく、前のカマキリ科に属する、
最大種オオカマキリ Tenodera aridifolia
の可能性が私は高いと思う(それでも同ウィキでは、♂で六・八から九・五センチメートル、性的二性である有意に大きい♀で、七・五から十一センチメートルとするから、乾燥標本とすれば、破格に大きい。が、大きくなければ、一般的な種であるこれを標本化する価値は下がるから、とびっきりの巨大個体の標本として、別段、おかしくないと私は思うし、また、ハーンの言っている全長は高い確率で前肢を伸ばした状態の、その先端から尾部までの長さと思われ、であれば、この異様な長さも、すこぶる納得がいくのである)。
「『頭に御器をかぶつて居るもの』といふ意味の、ゴキカブリと稱する一種の小さな油蟲(ロオチ)」ウィキの「ゴキブリ」によれば、『ゴキブリ(蜚蠊)は、昆虫綱ゴキブリ目(Blattodea) のうちシロアリ』科(Termitidae)『以外のものの総称。シロアリは系統的にはゴキブリ目に含まれるが、「ゴキブリ」に含められることはなく、伝統的には別目としてきた。なお、カマキリ目と合わせて網翅目(Dictyoptera)を置き、Blattodeaをその下のゴキブリ亜目とすることがあるが、その場合、ゴキブリはゴキブリ亜目(のうちシロアリ以外)となる』とある(ゴキブリとシロアリが分類学上で近縁とされていることはあまり知られているとは思われない。しかもこれが古い見解ではなく、二〇〇〇年代の系統解析によってゴキブリ目にシロアリ目を含める意見が強まったのだということは、さらに知られていないことと思う)。同ウィキの「名称について」には、『「御器(食器)をかぶる(かじる)」ことから「御器被り(ごきかぶり)・御器噛り(ごきかじり)」と呼ばれるようになり、明治時代までは「ごきかぶり」だったが、文献の誤植によって「か」の字が抜け落ちたまま広まってしまったのが「ゴキブリ」という名称の直接の由来とされ』、『現在でも地方によっては「ゴキカブリ」「ゴッカブイ」「ボッカブリ」などの方言呼称が残っている』とあり、また、『平安時代には「阿久多牟之(あくたむし)」や「都乃牟之(つのむし)」の古名で呼ばれ、江戸時代には「油虫(あぶらむし)」とも呼ばれた』とある。くどいが、古語の「かぶる」はラ行四段活用の頭の上を覆うの意の他動詞「被る」の方ではなく、同じラ行四段活用の他動詞である「囓(かぶ)る」、かじる、少しずつ嚙むの意で(「かぶる」の原義は「痛む」であってこれらの義にはそれらもあるが、古語辞典(角川書店)の表記から見ると同語源とは見ていないように思われる)、「食器を被(かぶ)る」のではなく、「食器を齧(かじ)る」「食器に齧りつく」のである。私は、まさに家に齧りつくシロアリと同類だ、と勝手に納得したものである。本邦に棲息するゴキブリ類は種が多いが、ハーンの言うのは、
ワモンゴキブリ Periplaneta Americana か、チャバネゴキブリ Blattella germanica か
と思われる。代表種の一つであるヤマトゴキブリPeriplaneta japonica は、参照したウィキの「ゴキブリ」によれば、『本州東部で多くみられ』るとあるので一応、外しておいた。
「ゴキカブリは人間の眼を食ふ事を好むと言ひ立てられてゐて」不詳。これは聴いたことがない。識者の御教授を乞う。ゴキブリは苦手だが、こうなったら――毒を喰らわば皿は勿論――ゴキブリも――の覚悟でお受けする!
「眼の病を醫し給ふイチバタサマ――一畑の藥師如來――」薬師瑠璃光如来本尊を本尊とする島根県出雲市小境町に醫王山(いおうざん)一畑寺(いちばたじ)。複数回既出し、既注でもあるが、「第八章 杵築――日本最古の社殿 (二)」の本文と注が、ここには一番よい。
「螢」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ下目ホタル上科ホタル科 Lampyridae に属するホタル類。恐らく殆んどの一般日本人はゲンジボタル Luciola cruciata (体長一五ミリメートル前後の日本産ホタル類の大型種。成虫の前胸部中央には十字架形の黒い模様が特徴)とヘイケボタル Luciola lateralis(体長八ミリメートル前後)だけしかいないと思っているものと思われるが、ウィキの「ホタル」には、『おもに熱帯から温帯の多雨地域に分布し、世界には』約二千種が棲息『しているとされる。幼虫時代を水中ですごす水生ホタルと陸上の湿地ですごす陸生ホタルが』おり、『日本で「ホタル」といえば、本州以南の日本各地に分布し、五月から六月にかけて孵化するゲンジボタル Luciola cruciata を指すことが多い。日本ではゲンジボタルが親しまれていて、これが全てのホタルの代表であるかのように考えられるが、実際には遥かに多様な種がある。国内には』約四〇種が知られ、『熱帯を主な分布域とするだけに、本土より南西諸島により多くの種がある』とあり、本州に限っても他に上記二種とは別に、ヒメボタル Luciola parvula・オバボタル Lucidina biplagiata 、及び、マドボタル属 Pyrocoelia の数種が普通に棲息していることは更に知られていない。というより、「ホタルが戻れば、自然が戻った。」と短絡的に考えるおぞましい自称「ナチュラリスト」「自然愛好家」どもによって、適応性の強力なゲンジボタルが多くの場所に人為移入されて、「ほたるの里」なぞとおぞましいネーミングでテツテ的にのさばり、弱いヘイケボタルら他の少数種は、本来の棲息地を追われているのだ! こうした「似非ナチュラリスト」は、正しく各地の生態系を知らず知らずのうちに着実に破壊してしまっていることを全く認知しようとしない。「自然に帰れ」という「馬鹿の一つ覚え人間」の傲慢が、それぞれの地域の遺伝子プールを致命的に攪乱し、回復不能な生態系破壊をしているのである。このことを全く認識しない多くの手前勝手に自然崇拝絶対正義を成していると思い込んでいる救い難い下劣な「ナチュラリスト」こそ、実は今の政府に蔓延(はびこ)る確信犯の原発推進悪徳政治家の奴らとほぼ同等に――地球上の全生物群にとって悪しき存在だ――という事実を知る人は、これまた、さらにさらに少ないのである。彼らは自分らが正しいことをしていると信じて疑わない点で私は宗教的ファンダメンタリストと、なんら、全く変わらない、と断言するものである!
「ホタルコイ、ミヅ ノマセウ、/アツチ ノ ミヅ ハ ニガイゾ、/コツチ ノ ミヅ ハ アマイゾ。」一般に「ほたるこい」の標題で知られるわらべ唄で、ネット検索をすると、こここそが、濫觴的な記載をする地域もあるが、実際には、採録地も作詞も作曲も不明であるが、採譜者は鳥取県八頭(やず)郡郡家町(こおげちょう)(現在の八頭町(やずちょう))出身の小学校教員・校長で「小學校唱歌敎授細目の理論と實際」の編集発行に当たった三上留吉(明治三〇(一八九七)年~昭和三七(一九六二)年)とする(鳥取県公式サイト内の「三上留吉」に拠る)から、この歌は、ハーンの身近(みじか)を濫觴としている可能性が極めて濃厚に感じられるのである。
「普通に庭へ能く出て來るのとは全く異つた、灰色の可愛らしい蜥蜴がまた夜現れ出て、天井に沿うて己が餌を探す」これはもう、爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属 Gekko の仲間、或いはニホンヤモリ Gekko japonicus と同定してもおかしくないと思う。
「百足蟲」これで「むかで」と読ませていよう。無論、節足動物門多足亜門ムカデ上綱唇脚(ムカデ)綱整形(ムカデ)亜綱 Epimorphaのムカデ(百足・蜈蚣)の仲間である。原文は“centipede”。これはラテン語の“centi”(百)+“ped”(脚)に由来する。多様な種がいるが、概ね人家に侵入する火箸で挟むほどに有意に大きなものは、オオムカデ目メナシムカデ科アカムカデ亜科アカムカデ属 Scolopocryptops(本属には複数種が含まれ、地理的変異も多い)のアカムカデの仲間や、本邦最大級(通常成体でも八~十センチメートルで二十センチメートルに及ぶ個体もいる。事実、何度もこのスケールの大型個体に遭遇している)であるオオムカデ目オオムカデ科オオムカデ属のトビズムカデ(飛頭百足) Scolopendra subspinipes mutilans、同じ仲間のアカズムカデ Scolopendra multidens・アオズムカデ Scolopendra japonicaなどを挙げておけばまずはよかろうと思う。これらは孰れも我が家に侵入した実績のある強者(つわもの)ばかりだからである。
「馬鹿に大きな蜘蛛が姿を現す。この動物は無害なやうである。捕へると、自分を見張つては居ないと確かめるまで死んだ風をよそはうて、機會を得ると驚く許り素早く逃げ去る。これは毛の無いので、タランチュラ即ちフクログモとは餘程異ふ。ミヤマグモ卽ち山蜘蛛と呼ぶのである」当初は節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria と思ったが、「捕へると、自分を見張つては居ないと確かめるまで死んだ風をよそはうて、機會を得ると驚く許り素早く逃げ去る」という箇所が大いに引っかかった。私の知る限り、こうした仮死行動を彼らはとらないように思ったからである。小型・中型個体なら、ありえなくもない(強い捕捉刺激によって仮死状態になるという仮定で、実際にそういう現場に出くわしたことはない)が、大型個体の場合、こんなことはまずないと言える(私は自宅で、掌大の巨大個体にしばしば遭遇し、かつては寝ている顔の真上を這われたこともあるのである。そうした中でそうした大型個体がそうした仮死状態になるのを一度として私は見たことがないからである)。「ミヤマグモ」や「山蜘蛛」の別称も知らない。但し、他の叙述は一致するようには読めるから、不思議なのである。なお、「タランチュラ卽ちフクログモ」とハーンが言っているのは、クモ目オオツチグモ(大土蜘蛛)科 Theraphosidae の一般呼称「タランチュラ」のそれである。ウィキの「オオツチグモ科」によれば、『オオツチグモ類は北アメリカ南西部から南アメリカ、熱帯アジア、地中海地方、熱帯アフリカ、ニューギニア島、オーストラリアなど、世界の温暖な地域に分布し、大型で全身に毛が生えていて、いかにも恐ろしそうな様子をしている。南北アメリカのオオツチグモは腹部に刺激毛を持ち、自己防衛のためにこれを脚で蹴って飛散させることがあり、目や皮膚につくと痒みのある炎症を起こす。かつて、鳥の巣を襲い鳥を食べるという記事が美しいイラストとともに紹介され、トリトリグモ(鳥取り蜘蛛)あるいはトリクイグモ(鳥喰い蜘蛛)の和名が使われたが、実際には鳥を常食するわけではない。しかし体格が大きいため、小型の脊椎動物は餌の範囲に入り、鳥の雛やカエル、子ネズミなどは好んで捕食する。雄は成熟すると比較的短命であり、雌に食われてしまうこともあるが、雌は飼育下で数十年生きる種類もある』。『サスペンス映画などで、殺人に巨大な毒蜘蛛が使われたりしたことで、知名度が世界的に広がった』が、『実際にはタランチュラの毒による死亡例は知られておらず』、従ってそのための血清さえも存在してはいないのである(太字やぶちゃん)。
「テナガグモ卽ち手長蜘蛛」狭義の和名種は、クモ目サラグモ科サラグモ亜科テナガグモ属テナガグモ Bathyphantes gracilis であるが、近縁種や類似種、及び、類似和名種が多く、これと確定は出来ない(ウィキの「サラグモ科」を参照されたい)。
「ヒラタグモ卽ち、『平たい蜘蛛』」クモ目ヒラタグモ科ヒラタグモ属ヒラタグモ Uroctea compactillis で、ハーンのそれは洒落ではなく、事実、平たいことからかく呼ばれている。平田という人名ではないので注意されたい。但し、彼らは屋内のテント型の巣に籠っており、そこを出て徘徊することはないので、巣を壊さない限り、成体を普通に見ることは極めて稀と言える(ウィキの「ヒラタグモ科」に拠ったが、本邦では上記一種のみが知られる)。
「ヂグモ卽ち『地蜘蛛』」クモ亜目ジグモ科ジグモ属ジグモ Atypus karschi 。以下の近縁のトタテグモ類と同じく、地下に穴を掘って袋状の巣を作って住んで居る(ウィキの「ジグモ」に拠った)。
「トタテグモ卽ち『戶たて蜘蛛』」広義には、クモ亜目カネコトタテグモ科 Antrodiaetidae とトタテグモ科 Ctenizidae に属する種を指すが、通常、我々が「トタテグモ」と言った場合は、後者のトタテグモ科 Ctenizidae に属する種群を指すことが多い。原始的なクモで、トンネル状の巣の入り口に扉を附けることから、その名がある。日本で最も普通の種はトタテグモ科トタテグモ属キシノウエトタテグモ Latouchia typica である(主にウィキの「トタテグモ」に拠った)。本種の習性については私の電子テクスト「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(4)トタテグモ」も是非、参照されたい。因みに、「虫嫌い」の私であるが、実は、特異的に「クモ好き」なんである。]
Ⅻ
Of warm nights all sorts of unbidden guests invade the house in multitudes. Two varieties of mosquitoes do their utmost to make life unpleasant, and these have learned the wisdom of not approaching a lamp too closely; but hosts of curious and harmless things cannot be prevented from seeking their death in the flame. The most numerous victims of all, which come thick as a shower of rain, are called Sanemori. At least they are so called in Izumo, where they do much damage to growing rice.
Now the name Sanemori is an illustrious one, that of a famous warrior of old times belonging to the Genji clan. There is a legend that while he was fighting with an enemy on horseback his own steed slipped and fell in a rice-field, and he was consequently overpowered and slain by his antagonist. He became a rice-devouring insect, which is still respectfully called, by the peasantry of Izumo, Sanemori-San. They light fires, on certain summer nights, in the rice-fields, to attract the insect, and beat gongs and sound bamboo flutes, chanting the while, 'O- Sanemori, augustly deign to come hither!' A kannushi performs a religious rite, and a straw figure representing a horse and rider is then either burned or thrown into a neighbouring river or canal. By this ceremony it is believed that the fields
are cleared of the insect.
This tiny creature is almost exactly the size and colour of a rice-husk.
The legend concerning it may have arisen from the fact that its body, together with the wings, bears some resemblance to the helmet of a Japanese warrior. [31]
Next in number among the victims of fire are the moths, some of which are very strange and beautiful. The most remarkable is an enormous creature popularly called okorichōchō or the 'ague moth,' because there is a superstitious belief that it brings intermittent fever into any house it enters. It has a body quite as heavy and almost as powerful as that of the largest humming-bird, and its struggles, when caught in the hand, surprise by their force. It makes a very loud whirring sound while flying. The wings of one which I examined measured, outspread, five inches from tip to tip, yet seemed small in proportion to the heavy body. They were richly mottled with dusky browns and silver greys of various tones.
Many flying night-comers, however, avoid the lamp. Most fantastic of all visitors is the tōrō or kamakiri, called in Izumo kamakake, a bright green praying mantis, extremely feared by children for its capacity to bite. It is very large. I have seen specimens over six inches long. The eyes of the kamakake are a brilliant black at night, but by day they appear grass-coloured, like the rest of the body. The mantis is very intelligent and surprisingly aggressive. I saw one attacked by a vigorous frog easily put its enemy to flight. It fell a prey subsequently to other inhabitants of the pond, but, it required the combined efforts of several frogs to vanquish the monstrous insect, and even then the battle was decided only when the kamakake had been dragged into the water.
Other visitors are beetles of divers colours, and a sort of small roach called goki-kaburi, signifying 'one whose head is covered with a bowl.' It is alleged that the goki-kaburi likes to eat human eyes, and is therefore the abhorred enemy of Ichibata-Sama,―Yakushi-Nyorai of Ichibata, ―by whom diseases of the eye are healed. To kill the goki- kaburi is consequently thought to be a meritorious act in the sight of this Buddha. Always welcome are the beautiful fireflies (hotaru),
which enter quite noiselessly and at once seek the darkest place in the house, slow-glimmering, like sparks moved by a gentle wind. They are supposed to be
very fond of water; wherefore children sing to them this little song:―
Hotaru kōe midzu nomashō;
Achi no midzu wa nigaizo;
Kochi no midzu wa amaizo.[32]
A pretty grey lizard, quite different from some which usually haunt the garden, also makes its appearance at night, andpursues its prey along the ceiling. Sometimes an extraordinarily largecentipede attempts the same thing, but with less success, and has to be seizedwith a pair of fire-tongs and thrown into the exterior darkness. Very rarely,an enormous spider appears. This creature seems inoffensive. If captured, itwill feign death until certain that it is not watched, when it will run awaywith surprising swiftness if it gets a chance. It is hairless, and verydifferent from the tarantula, or fukurogumo. It is called miyamagumo, or mountain spider. There are four other kinds of spiders common in this neighbourhood: tenagakumo, or 'long-armed spider;' hiratakumo, or 'flat spider'; jikumo, or 'earth spider'; and totatekumo, or 'doorshutting spider.' Most spiders are considered evil beings. A spider seen anywhere at night, the people say, should be killed; for all spiders that show themselves after dark are goblins. While people are awake and watchful, such creatures make themselves small; but when everybody is fast asleep, then they assume their true goblin shape, and become monstrous.
31
A kindred legend attaches to the shiwan, a little yellow insect which preys upon cucumbers. The shiwan is said to have been once a physician, who, being detected in an amorous intrigue, had to fly for his life; but as he went his foot caught in a cucumber vine, so that he fell and was overtaken and killed, and his ghost became an insect, the destroyer of cucumber vines. In the zoological mythology and plant mythology of Japan there exist many legends offering a curious resemblance to the old Greek tales of metamorphoses. Some of the most remarkable bits of such folk- lore have originated, however, in comparatively modern time. The legend of the crab called heikegani, found at Nagato, is an example. The souls of the Taira warriors who perished in the great naval battle of Dan-no-ura (now Seto-Nakai), 1185, are supposed to have been transformed into heikegani. The shell of the heikegani is certainly surprising. It is wrinkled into the likeness of a grim face, or rather into exact semblance of one of those black iron visors, or masks, which feudal warriors wore in battle, and which were shaped like frowning visages.
32
Come, firefly, I will give you water to drink. The water of that. place is bitter; the water here is sweet.
一一
十一種類を下らざる蝶が、過去數年の間にかの蓮池の近所を見舞つた。一番普通な種類は雪白のである。これは殊にナ即ち蕓薹に惹きつけられると想はれて居る。だから小さな女の子はそれを見ると、
テフテフ、テフテフ、ナノハニ トマレ、
ナ ノ ハ ニ アイタラ、テニトマレ、
と歌ふ。
が、然し最も面白い蟲は確かにセミ(シカデイ)である。木に棲む日本の此蟋蟀は、熱帶地方のあの驚くべき蟬(シカデイ)にすら勝る、實に異常な歌ひ手である。それに暖い季節全體に亘つて、殆んど每月、全然異つた歌をうたふ、異つた種類のセミが出るから、煩はしさも遙かに少い。自分の信ずるところでは七種ある。が、自分が能く知つて居るのはただ四種である。自分ところの木で鳴く最初のものは、ナツゼミ卽ち夏蟬で日本語の單綴音ジに似た音を出し、始めは息苦しいゼイゼイ聲である。が、段々高まつて蒸氣を吹く時のやうな漸次强音の叫びになり、次第にうすれて又更に息苦しいゼイゼイ聲になる。このジーイーイーイイイイイイイイは、實に耳を聾する許りで、夏蟬が二三匹窓近くに來ると、自分はそれを追い拂はざるを得ぬ。幸にも夏蟬の後に直ぐミンミンゼミが來る。遙かにより巧妙な樂人で、その名はその驚く可き音(ね)から來て居るのである。『僧侶が御經を讀むやうにうたふ』と言はれて居るもので、實際、始めて聞いた時には、誰しもただの 蟬の音を聽いて居るのだとは殆んど信じられぬ。ミンミンゼミの次には、秋早く、美しい綠色の蟬のヒグラシといふのが出る。カナカナカナカナカナと、小さな鈴を早く振るやうな、特に朗らかな音を出す。然し全體にうちで一番驚くべき訪問者はなほ後に來る、ツクツクバウシ【註一】である。
註一。『バウシ』は『帽子』を意味し、
『ツケル』は『冠る』を意味する。
然しこの語譯は頗る怪しい。
[やぶちゃん注:「綴音」「ていおん」或いは「てつおん」と読み、「二つ以上の単音が結合して生じた音」を指す。]
自分は此動物は全蟬世界の中に、他に匹敵するものを有たぬと思ふ。その音樂は正に鳥の歌である。その名は、ミンミンゼミのそれの如く、擬聲である。が、出雲ではその歌の音は、
ツクツク クイス【註二】
ツクツク クイス
ツクツク クイス
ウイオース
ウイオース
ウイオース
ウイオース・ス・ス・ス・ス・ス・ス・ス
だとされて居る。
註二。『チヨコ・チヨコ・ウイス』だ
といふ人もある。『ウイス』は英語で
いふと、最後のuを無音にした weece
の發音に似て居る。『ウイオース』は
や〻 weece に近い。
が然し、蟬が庭の唯一の樂人では無い。二つの異常な動物がその合奏を助ける。第一は鮮かな綠の美しい螽斯で、日本人にはホトケノウマ卽ち『死者の馬』といふ妙な名で知られて居るものである。この蟲の頭は實際馬の頭に恰好が稍々似て居る――だから斯んな空想が生れたのであらう。妙に狎れ狎れしい動物で、踠きもせずに人手に捕へさせ、屢々家へ入りもするが、家の中でも氣安げに居る。これは甚だ微かな音を立てる。それを日本人はジユンタといふ綴音の反復だと書く。で、その螽斯そのものを時にジユンタと呼ぶ。他の一つの蟲は、これまた綠色の螽斯で、前者よりやゝ大きく、そして前者よりも餘程人に慣れぬものである。
チ ヨ ン
ギ イ ス
チ ヨ ン
ギ イ ス
チ ヨ ン
ギ イ ス
チ ヨ ン………(心まかせに何處までも)
と鳴くその歌の爲めにギイス【註】と呼ばれて居る。
註。殆んど wgeece とやうの發音である。
愛らしいドラゴンフライ(トンバウ)が幾種も暑い晴れやかな日には、小池のあたりをさまよふ。その一種は――これは、言ふに言はれぬ金屬性の色彩に光つてゐて、妖怪的にかぼそいもので、自分がそれまで見た蜻蛉のうちで、一番美しいもので――テンシトムバウ卽ち『天子蜻蛉』と呼ばれて居るものである。今一つ、日本のドラゴンフライ中最も大きなのがある。が、これは稍々稀で、子供がもてあそび物にしようとして追求する。この種類は雌よりも雄の方が數が多いといふ。眞實だと自分が請合へる事は、雌を捕へると、その捕虜を出して置けば、殆んど直ぐと雄が惹きよせられるといふ事である。だからして、子供は雌を手に入れようとする。そして一匹捕へると、それを絲で或る枝に括つて、妙な短い歌をうたふ。その歌の原(もと)のまゝの言葉は斯うである。
コナ【註】 オンジヤウ カウライワウ
アヅマ ノ メトウ ニ マケテ
ニゲル ハ ハヂ デハ ナイカイ
註。『コレナル』の約言。
其意味は『汝、男たる、高麗王よ。東の女王に敗けて逃げるのを恥かしくは思はぬか』である。(この嘲罵は神功皇后の朝鮮征伐の話を仄めかしたものである)出雲では、この原の歌の初七語が訛つて『コナ ウンジヤウ カウライ、アブラ ノ ミトウ』になつて居る。だから雄蜻蛉の名のウンジヤウと、雌蜻蛉の名のミトウは、訛つた言葉の二語から出て來て居るのである。
[やぶちゃん注:最初に申し上げておくと、私は海産生物以外の同定は不得手で、特に昆虫は生理的に苦手なものが多く、チョウやバッタなどでも、急に近くに寄られると慄っとするほど、実は、駄目である。捕捉観察は出来るが、あまりしたくない程度にはダメである。海産無脊椎動物なら如何なるグロテスクな種も平気なのに、自分にもその理由はよく分からぬ(何方かに精神分析を試みて戴きたいぐらい自分でもヘンだと認識している)。されば、ここでの昆虫類の比定もすこぶる自信がない。誤りがあれば、どうかお気軽に御指摘をお願いしたい。
「ナ卽ち蕓薹」「ナ」は「菜」で、「蕓薹」は音では「ウンダイ」であるが、「あぶらな」と当て読みしておく。無論、フウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属ラパ Brassica rapa 変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera 、「菜の花」のことである。但し、アブラナには変種や雑種が多く、人為交配による新種も多数産み出されていることはあまり理解されているとは思われない。ウィキの「アブラナ」を参照されたい。私の拙句。
菜の花や花序を覺えしこともあり 唯至
「一番普通な種類は雪白の」鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科シロチョウ科シロチョウ亜科シロチョウ族モンシロチョウ Pieris rapae 。種名の“Pieris”(ピーエリス/ピエリス)はギリシア神話に登場する音楽と文芸の女神で、種小名“ rapae ”は「カブ」の古名で、彼女らが好んで舞い周ると考えたアブラナの種小名の“ rapa ”も同じで、これがあっての紋白蝶の種小名なのであろう。
「テフテフ、テフテフ、ナノハニ トマレ、/ナ ノ ハ ニ アイタラ、テニトマレ、」のわらべ唄は、多くの人が後半を「桜にとまれ」で覚えていよう。私は永く、この歌詞が不審であった。何故なら菜の花や葉にとまるモンシロチョウは今もよく見るが、桜の花や葉に蝶の舞っているのや、とまっているのを見た記憶がなかったからである(とまるはずがないとは思わないが、見たことは、事実、ないのであるから仕方がない)。今回、この注を附そうとして、むくむくと、その古い木乃伊のようになっていた疑問が、生き生きと再生してきた。そこで見つけたのが、鉄壁の森竹高裕氏の『「ちょうちょう」の謎(野村秋足作詞/スペイン民謡)』である。非常に詳しい。それによれば、『もともとこの歌は、尾張地方で歌われていたわらべ唄「蝶々」で』原型の歌詞は(以下、表記には一部を正字化し、送り仮名を附け加え、片仮名を平仮名にするなどの恣意的な変更を加えてある)、
蝶々とまれ
菜の葉にとまれ、
菜の葉が嫌やなら
この葉にとまれ。
であったことが判る。それを明治時代に旧尾張名古屋藩士で明治元(一八六八)年に藩校明倫堂の教授となった国学者野村秋足(あきたり 文政二(一八一九)年~明治三五(一九〇二)年)が名古屋近辺の童謡を収集する仕事を行い、その際、
蝶々蝶々。菜の葉に止まれ。
菜のに飽いたら。櫻に遊べ。
櫻の花の。榮ゆる御代に。
止まれや遊べ。遊べや止まれ。
と改作された、とある。これは「遊べ」であるから、それほど気にならない。森竹氏によればその後の昭和二二(一九四七)年に文部省が「一ねんせいのおんがく」を発行する際、これがまた改作され(戦後なので、ここは新字新仮名表記とした)、
ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉に とまれ
菜の葉に あいたら 桜にとまれ
桜の花の 花から 花へ
とまれよ 遊べ 遊べよ とまれ
と、「菜の葉に あいたら/桜にとまれ」に変えられた、とある。さても、では桜の花に蝶は来るか? という私の化石の疑問にも、当該頁はちゃんと答えて呉れた。詳細は是非ともリンク先をお読み戴きたいが、結論からいうと、モンシロチョウや他の蝶も虫媒花である桜の花にもとまるし、菜の葉にとまる行動をとるのは産卵のためであるとある。但し、モンシロチョウはあまり高いところを飛ばないため、高い枝の桜などでは見かけないのであるといった主旨の、蝶の専門サイト主からのメールが添えられてある。因みに、森竹氏の記事の中で、この曲には、なんと! 以下の二番があることを私は初めて知った(作詞は「螢の光」の作詞者として知られる文部省音楽取調掛の稲垣千穎(ちかい 弘化四(一八四五)年~大正二(一九一三)年)である)。
起きよ 起きよ ねぐらの すずめ
朝日の光の さし來(こ)ぬ先に
ねぐらを 出でて 梢にとまり
遊べよ すずめ 歌へよ すずめ
ちょっと、声に出して唄ってみたくなった。そこでさらに調べてみると、実はなんと! 明治二九(一八九六)年に追加された三番・四番(作詞者は不明)もあることが判った。ウィキの「ちょうちょう(唱歌)」より引く。
蜻蛉(とんぼ) 蜻蛉 こちきて止まれ
垣根の秋草 いまこそ盛り
さかりの萩に 羽うち休め
止まれや止まれ 休めや休め
燕(つばめ) 燕 飛びこよ燕
古巢を忘れず 今年もここに
かへりし心 なつかし嬉し
とびこよ燕 かへれや燕
同ウィキによれば、戦後の改作、及び、上記の二番以下の廃止は、二番の「榮ゆる御代に」が『GHQが教育現場からの排除を主張していた皇室賛美と取られるフレーズであること』、二番『以下の廃止は表題の「ちょうちょう」と無関係な鳥や昆虫に関する描写を排除して曲の主題を明確にしたものと解されている』とある。なお、森竹氏の頁標題には『スペイン民謡』とあり、事実、この曲は永くそう思われてきたというが、同ウィキによれば、現在は『ドイツの古い童謡「Hänschen klein」(訳:「幼いハンス」)という曲が原曲とされている』ことが明らかにされてある。
「セミ(シカデイ)」「シカデイ」はルビではなく、本文。原文の“cicadae”を音写したものである。英語の「セミ」(cicada)の複数形。なお、ハーン小泉八雲には後に、“Shadowings”(一九〇〇年刊)の“Japanese Studies”に初出する「蟬」があり、これは野次馬集団氏のサイト「バルバロイ!」の「インターネットで蝉を追う」の中のこちらに、「小泉八雲全集」第六巻(昭和六(一九三一)年第一書房刊)の大谷正信訳の全文が電子化されているので参照されたい。
「木に棲む日本の此蟋蟀」「蟋蟀」は音「シツシユ(シッシュ)」で一般に「こおろぎ」と訓じ、ここでも訳者は「こおろぎ」と読ませているとしか思われない。原文は“tree crickets”で、“cricket”だけなら確かに、
直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科Grylloidea に属するコオロギ類
を指す語ではある。実は英語の“tree cricket”は。狭義には、
コオロギ科カンタン亜科Oecanthinae に属するカンタン類
を指すことが英語版ウィキの“tree cricket”で判ったが、これも広義のセミ、
昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea
のセミ類とは全く縁がない。かといって――木に居る蟋蟀みたやうな蟲――という訳をやらかしても、これもまた、如何にもでは、ある。とは言え、この「木に棲む日本の此(この)蟋蟀(こおろぎ)は」ではあまりに訳として人を――というよりハーンを――馬鹿にしているようで何とも不愉快である。平井呈一氏は、ここを『日本の国のこの樹上の音楽家は』と訳しておられる。何て素敵な夢のある訳であろう! インキ臭いアカデミストには逆立ちしても絶対出来ない訳であろうと思う。
「自分の信ずるところでは七種ある。が、自分が能く知つて居るのはただ四種である」後の四種は以下で語られる「夏蟬(ナツゼミ)」(これは後に述べるように「クマゼミ」のこと私は思う)「ミンミンゼミ」「ヒグラシ」「ツクツクバウシ」の四種だからいいとして、ハーンの言う「七種」はその「四種」に何が加わるか? ヒントは一緒くたに誤認している感じのする「夏蟬(ナツゼミ)」の二種で、
半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata
セミ亜科ニイニイゼミ族ニイニイゼミ属ニイニイゼミPlatypleura kaempferi
で、もう一種は、春に成虫が発生し、概ね松林に棲息する小型のセミで晩春から初夏に一番に聴ける、
セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミTerpnosia vacua
を加えればよいのではなかろうか? 因みに、これらの三種は当時の松江にいて、何ら、おかしくない種である。但し、一般にハルゼミは現行のような開発された市街地にはまず出現しないが、後の「蟬」(先に示した野次馬集団氏のサイト「バルバロイ!」の「蝉」参照。引用もそこから)を読むと、最初に「一 ハルゼミ」を挙げ、『種々な小』蟬『が春出る』『これはジーイーイーイーイーイイイイイイと、最初は低いが、段々と苦しい程高い調子に上つて行』き、『鋭いゼイゼイ』聲を立てるとして、春蟬ほど騒々しい蝉は他に無い、と記しているから、ハーンは確かにハルゼミを現認しており、その声も聴いていることが判る。
「ナツゼミ」以下に示された複雑怪奇な鳴き方、及び、ハーンが堪え切れずに追い払うという点から私はこれは、
セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis
と採る。ウィキの「クマゼミ」には、その鳴き方を含めて、『オスは腹を激しく縦に振りながら大きな声で鳴く。鳴き声は「シャシャシャ…」や「センセンセン…」などと聞こえるが、その前後には「ジー…」という長い声が入る。また、オスを捕まえると「ジー」とも「ゲー」とも聞こえる大声を出し続けて』、『もがく。羽を羽ばたかせる力も強力で、近くでは「ブーン」という羽の音が聞こえる。手足の力も強く、素手で捕まえようとすると』、『引っ掻き傷をつけられる可能性があるので注意が必要である』と記す。アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata でないという確証はないものの、一番の手前勝手な根拠は、私が堪え切れなくなるのは、クマゼミの方だからである。大方の御批判を俟つものであるが、実は後の「蟬」(先に示した野次馬集団氏のサイト「バルバロイ!」の「蝉」参照)を読むと、「三 アブラゼミ」の項で、『その耳を貫くやうな鋭い』聲とし、『その鋭い音がガチヤリンガチヤリンときこえるといふ作家もあるが、湯の沸き立つ音にたぐへて居る者も居』り、『大きな低いシイシイといふ』聲が『あらゆる樹々から立ち昇るやうに思はれる』と記しており、その直前のクマゼミと思われる『二 シンネシンネ』の記載と読み比べると、八雲がやりきれなかったのは、実はやっぱりアブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata のようにも感じられなくもない。しかし、再度、この「蟬」を仔細に読むと、別な疑惑が浮かんでもくるのである。それはまさに先に示したハルゼミ Terpnosia vacua の叙述で、そこで八雲は、その鳴き声を『ジーイーイーイーイーイイイイイイと、最初は低いが、段々と苦しい程高い調子に上つて行』き、『銳いゼイゼイ』聲を立てるとし、春蟬ほど騒々しい蝉は他に無い、とまで記しているからある。これは実にこの「始めは息苦しいゼイゼイ聲である。が、段々高まつて蒸氣を吹く時のやうな漸次强音の叫びになり、次第にうすれて又更に息苦しいゼイゼイ聲になる。このジーイーイーイイイイイイイイは、實に耳を聾する」ほど騒々しくて堪えられないという叙述と一致するようにも見えるのである。完全に袋小路にはまってしまった。ともかくも、識者の御教授を切に乞う外はあるまい。
「ミンミンゼミ」セミ亜科ミンミンゼミ族ミンミンゼミ属ミンミンゼミ Hyalessa maculaticollis 。
「ヒグラシ」セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis 。私はこのヒグラシの声(ね)をこそ最も偏愛するものである。私にとって至上の天上の悲哀の調べである。
「ツクツクバウシ」セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera 。
「『バウシ』は『帽子』を意味し、『ツケル』は『冠る』を意味する。然しこの語譯は頗る怪しい」私も当初は怪しいと思ったのだが、個人ブログ「越中富山民謡館」の『富山の方言「ツクツク」~ツクツクボウシの語源?』に、
《引用開始》
富山県民でこの「ツクツク」という言葉が方言だと認識している人は、少ないと思います。
「ツクツク」は、「尖っている」という意味です。
あえて標準語にすると「ツンツン」ですが、若干ニュアンスがちがいます(汗)。
例えば「ツクツクの靴」と言うと「先の尖った靴」の意味です。槍などの突く道具が尖っているところから、「ツク」という言葉自体が尖ったものを指すようになったのだと推測できますね。
ここであえて蝉の「ツクツクボウシ」を富山弁で解釈すると、「先の尖った帽子」という意味になります。つくつく法師が語源という説より、個人的には有力と思います。なぜなら、つくつく法師は自然に読めば「ツクツクホウシ」ですから。
《引用終了》
とあるのを読み、何だか、独り、これに納得してしまった自分がいた。
「螽斯」これで「きりぎりす」と読み、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis に属するもの及び近縁の属も含めた「キリギリス類」の総称で、「キリギリス」の漢名もこれである。
「weece」英語への音写であるが、人名(姓:Weece)には認められる綴りではある。
「weoce」原文は“we-oce”。孰れも調べた限りでは、意味のある綴りや単語ではない。英語への音写と思われる。
「ホトケノウマ」「ジユンタ」これはキリギリス科ウマオイ属のハヤシノウマオイ Hexacentrus japonicus 、或いは、ハタケノウマオイ Hexacentrus unicolor のことと思われる。前者を、私は「スイッチョン」と覚えており、「スィーーーッ・チョン」と長く延して鳴き、後者は「シッチョン・シッチョン」と短く鳴く、とウィキの「ウマオイ」にはある。彼らの御面相は確かに馬っぽく、ネットを調べると「ウマオイ」を出雲では「ホトケノウマ」と言うという記載も現認出来たが、同種の「ジユンタ」(ジュンタ)という名の方はネットでは確認出来なかった。識者の御教授を乞う。
「踠きもせずに」「もがきもせずに」と読む。
「他の一つの蟲は、これまた綠色の螽斯で、前者よりやゝ大きく、そして前者よりも餘程人に慣れぬもの」「ギイスと呼ばれて居る」鳴き方と分布域から見て、本邦のキリギリスの代表的な種であるキリギリス亜科キリギリス属ニシキリギリス Gampsocleis buergeri のように思われる。
「心まかせに何處までも」原文は“ad libitum”(アド・リビトゥム)で、これは音楽用語であり、「演奏者・歌唱者の自由に」の意で、ハーンは、「お好きなだけリフレインなさい」と言っているのであるが、これは一目瞭然、綴りからラテン語であることが判り、その意味も「好みに合わせて」である。因みに、これが「アドリブ」のルーツである。
「geece」やはり辞書には載らない綴りである。英語への音写と思われる。
「その一種は――これは、言ふに言はれぬ金屬性の色彩に光つてゐて、妖怪的にかぼそいもので、自分がそれまで見た蜻蛉のうちで、一番美しいもので――テンシトムバウ卽ち『天子蜻蛉』と呼ばれて居る」蜻蛉(トンボ)目均翅(イトトンボ)亜目 Zygoptera に属するイトトンボの仲間と思われる。実は、ハーン小泉八雲には、後の一九〇一(明治三四)年十月にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“ A JAPANESE MISCELLANY ”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(全六話)の次のパート“ Folklore Gleanings ”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の最初に配された“ Dragon-flies ”(「蜻蛉(とんぼ)」一九九一年)があり、その「一」には、リスト化された三十二の蜻蛉の呼称が網羅されている(カトンボや広義狭義の蜻蛉の総称や異称も含むため、三十二種でもなく、総てが生物学的な正規のトンボ類なわけでもないので注意は必要)が、そこには(平井呈一氏訳の恒文社版作品集を使用)、このハーンが「自分がそれまで見た蜻蛉のうちで、一番美しいもの」とここで断言した「テンシトムバウ」「天子蜻蛉」の呼称が、不思議なことに影も形もないのである。それはハーンが見たまさに天使の御姿ででもあったのだろうか? 【追記】後日電子化注した『小泉八雲 作品集「日本雑録」 / 民間伝説拾遺 / 「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」』を見られたい。
「日本のドラゴンフライ中最も大きなの」これはもう、トンボ目不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii であろう。なお、ハーンは「この種類は雌よりも雄の方が數が多いといふ」と言っているが、こうした性差による有意な個体数差は調べ得なかったし、そうした極端な偏差は、生物の種の保存の観点からは考え難いように思われる。それでもハーンは「眞實だと自分が請合へる事は、雌を捕へると、その捕虜を出して置けば、殆んど直ぐと雄が惹きよせられるといふ事である」と述べているが、これはウィキの「オニヤンマ」にある通り、本種の『オスは流れの一定区域をパトロールし、侵入する同種個体に接触を図る。オスに出会うと激しく追いかけて排除し、メスに出会うと捕まえて交尾をおこなう』というテリトリ―保持と非常に積極的な性愛行動の叙述から肯んずることは出来る。なお、近年の研究によれば、一部のトンボ(観察種は忘れた)では一度、ある♂が交尾したのを見計らって直後に別の♂が再交尾を試み、その前に♀の貯留嚢に入っている前の♂の精子を掻き出してしまった上で、交尾をすると言う、恐るべき事実が発見されていることを附け加えておこう。
「妙な短い歌」「コナ オンジヤウ カウライワウ/アヅマ ノ メトウ ニ マケテ/ニゲル ハ ハヂ デハ ナイカイ」「其意味は『汝、男たる、高麗王よ。東の女王に敗けて逃げるのを恥かしくは思はぬか』である。この嘲罵は神功皇后の朝鮮征伐の話を仄めかしたものである。出雲では、この原の歌の初七語が訛つて『コナ ウンジヤウ カウライ、アブラ ノ ミトウ』になつて居る。だから雄蜻蛉の名のウンジヤウと、雌蜻蛉の名のミトウは、訛つた言葉の二語から出て來て居るのである」ネットを管見した限りでは、歌もその内容も、またこれが蜻蛉釣りの唄であることも確認出来なかった。ただ、先に掲げた「蜻蛉(とんぼ)」の最終章「五」には蜻蛉釣りについての記載があり、ここに出た唄が再録されている(【追記】後日、電子化注した『小泉八雲 「蜻蛉」のその「五」(大谷正信訳)』を見られたい)。平井氏の訳で示す。
《引用開始》
出雲でうたうこの種の歌は、三世紀に神功皇后が朝鮮を征伐したという伝説にゆかりをもっている。雄のトンボにこういって呼びかけるのである。――
「こな、男将(おんじょう)高麗(こうらい)王、東(あづま)の女頭(めとう)に負けて、逃げるは恥ではないかな」
《引用終了》
以下、これら本文の最後の箇所の幾つかの語句や部分について注というか、疑問を附して終りとする。
この内の「オンジヤウ」については、先に掲げた「蜻蛉(とんぼ)」の「一」にリスト化された三十二の呼称の「二十二」に、「ヤンマトンボ」という記載があり、そこにはこの呼称は固有の種を指すのではなく(以下、引用は先に示した平井訳)『大きなトンボのこと』で『これは黒と緑のトンボの名で、出雲ではオンジョウ(雄将)といっている』と記す。ここで八雲の言う『黒と緑のトンボ』とは、私は明らかにオニヤンマ Anotogaster sieboldii を指していると思う。オニヤンマの生体は左右の複眼が鮮緑色を呈し、体色が黒だからである(但し、厳密に言うなら胸部の一部の斜体縞と腹部の節毎に入る一本筋の細い横縞は黄色であるが、自然界で観察すると、この黄色も、やや緑色に偏位しいて私には見える。だから、八雲のこの謂いは、私には、すこぶる肯んずることが出来ると言える)。
さらに、気になるのは、♀の「蜻蛉の名」を「ミトウ」と呼ぶという箇所で、これは原文を見ると「ミトウ」ではなく、「ミト」である。「女頭(みとう)」の訛りなら、それで問題なく落ち着くのであろうが、ここは出雲である。原本を見ると(以下の原文を参照されたい)、ハーンは日本語の音が長音の場合、例えば、“ō”のように、当時としては例外的に長音符を使って区別している箇所があることが判る。すると、これは“mito”で、確かに「みとう」ではなく「みと」なのである。これは「美登の目合(まぐは)ひ」の「みと」、女性(♀)の生殖器の古称を想起させる語ではないか!? ……つまらないことがついつい気になってしまう、私の悪い癖!……
出雲の方で、この蜻蛉釣りの唄や、その他もろもろについて何かご存じの方は、是非、御教授戴けると有り難い。]
Ⅺ
Not less than eleven varieties of butterflies have visited the neighbourhood of the lotus pond within the past few days. The most common variety is snowy white. It is supposed to be especially attracted by the na, or rape-seed plant; and when little girls see it, they sing:―
Cho-cho cho-cho, na no ha ni tomare;
Na no ha ga iyenara, te ni tomare. [26]
But the most interesting insects are certainly the semi (cicadae). These Japanese tree crickets are much more extraordinary singers than even the wonderful cicadae of the tropics; and they are much less tiresome, for there is a different species of semi, with a totally different song, for almost every month during the whole warm season. There are, I believe, seven kinds; but I have become familiar with only four. The first to be heard in my trees is the natsuzemi, or summer semi: it makes a sound like the Japanese monosyllable ji, beginning wheezily, slowly swelling into a crescendo shrill as the blowing of steam, and dying away in another wheeze. This j-i-i-iiiiiiiiii is so deafening that when two or three natsuzemi come close to the window I am obliged to make them go away. Happily the natsuzemi is soon succeeded by the minminzemi, a much finer musician, whose name is derived from its wonderful note. It is said 'to chant like a Buddhist priest reciting the kyo'; and certainly, upon hearing it the first time, one can scarcely believe that one is listening to a mere cicada. The minminzemi is
followed, early in autumn, by a beautiful green semi, the higurashi, which makes a singularly clear sound, like the rapid ringing of a small bell,― kana-kana-kan-a-kana- kana. But the most astonishing visitor of all comes still later, the tsukiu-tsukiu-boshi. [27] I fancy this creature can have no rival in the whole world of cicadae its music is exactly like the song of a bird. Its name, like that of the minminzemi, is onomatopoetic; but in Izumo the sounds of its chant are given thus:―
Tsuku-tsuku uisu , [28]
Tsuku-tsuku uisu,
Tsuku-tsuku uisu;
Ui-osu,
Ui-osu,
Ui-osu,
Ui-os-s-s-s-s-s-s-s-su.
However, the semi are not the only musicians of the garden. Two remarkable creatures aid their orchestra. The first is a beautiful bright green grasshopper, known to the Japanese by the curious name of hotoke-no-uma, or 'the horse of the dead.' This insect's head really bears some resemblance in shape to the head of a horse,―hence the fancy. It is a queerly familiar creature, allowing itself to be taken in the hand without struggling, and generally making itself quite at home in the house, which it often enters. It makes a very thin sound, which the Japanese write as a repetition of the syllables jun-ta; and the name junta is sometimes given to the grasshopper itself. The other insect is also a green grasshopper, somewhat larger, and much shyer: it is called gisu, [29] on account of its chant:―
Chon,
Gisu;
Chon,
Gisu;
Chon . . . (ad libitum).
Several lovely species of dragon-flies (tombō) hover about the pondlet on hot bright days. One variety—the most beautiful creature of the kind I ever saw, gleaming with metallic colours indescribable, and spectrally slender—is called Tenshi-tombō, 'the Emperor's dragon-fly.' There is another, the largest of Japanese dragon-flies, but somewhat rare, which is much sought after by children as a plaything. Of this species it is said that there are many more males than females; and what I can vouch for as true is that, if you catch a female, the male can be almost immediately attracted by exposing the captive. Boys, accordingly, try to secure a female, and when one is captured they tie it with a thread to some branch, and sing a curious little song, of which these are the
original words:―
Konna [30] danshō Korai ō
Adzuma no metō ni makete
Nigeru Wa haji dewa naikai?
Which signifies, 'Thou, the male, King of Korea, dost thou not feel shame to flee away from the Queen of the East?' (This taunt is an allusion to the story of the conquest of Korea by the Empress Jin-gō.) And the male comes invariably, and is also caught. In Izumo the first seven words of the original song have been corrupted into 'konna unjo Korai abura no mito'; and the name of the male dragon-fly, unjo, and that of the female, mito, are derived from two words of the corrupted version.
26
Butterfly, little butterfly, light upon the na leaf. But if thou dost not like the na leaf, light, I pray thee, upon my hand.
27
Boshi means a hat; tsukeru, to put on. But this etymology is more than doubtful.
28
Some say Chokko-chokko-uisu. Uisu would be pronounced in English very much like weece, the final u being silent. Uiosu would be something like ' we-oce.
29
Pronounced almost as geece.
30
Contraction of kore noru.