小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (二)
二
しかし時として入港しようと一所懸命になつた船がやはりおくれて十六日の夜遠く沖合に居る事がある。そんな時に精靈が船の𢌞りに高く現れて、長い手をのばして『田籠(タゴ)、田籠おくれ――田籠おくれ』とつぶやく。決してそれを拒んではいけない、しかし桶を渡す前に、底をぬいて置かねばならない。偶然にでも完全な桶を海に落したら、その船に乘り合せた人々こそ災難、――何故と云へば、精靈は直ちにそれに水をみたして船を沈めにかかるのだから。
佛海の時分に、恐ろしい見えない力のある物は精靈ばかりではない。未だ最も强い魔が居る、それから河童が居る。
しかしいつでも游泳者は恐ろしい醜惡な河童を恐れる、河童は水の底から延び上つて人を引き込んで、腸を喰ふ。
ただ腸だけ。
河童に捕へられた人の死體は餘程たつてから岸に打ち上げられる。大きな波のために長い間岩に打たれたり、魚類のために嚙まれたりしなければ、外から見て何の創もない。しかし輕くてうつろで――よく枯れた瓢簞のやうに空虛である。
註。河童は本來海の化け物ではなく
河の化け物である。それで河口に近
い海に出る。
松江から一哩半ばかり、河內川に
臨んだ河內村に河子の宮或は河童の
宮がある。(出雲では一般に『河童』
とは云はないで『河子』と云ふ。こ
の小さい社に河童が書いたと云はれ
る證文が保存してある。話によれば、
昔河內にすむ河童が村の人を澤山、
それから家畜を澤山捕へて殺してゐ
た。ところで或日の事、水を飮みに
河に入つた馬を捕へようとして、馬
の腹帶の下へどうかしたはずみで自
分の頭をねぢ込んだ)驚いた馬は、
水の中から跳び出して河童を野原へ
引きずつて來た。そこで馬の主人と
大勢の農夫は河童を捕へて縛り上げ
た。村中の人が化け物を見に來た、
化け物は頭を地につけて、何か云ひ
ながらお情けを乞ふた。農夫達は卽
座に化け物を殺さうとしたが、馬の
主人は同時に村の庄屋であつたので
云つた。『それよりも河內村の人や
家畜に今後決して手を觸れない事を
誓はせた方がい〻だらう』そこで誓
約の證文を作つて河童に讀んで聞か
せた。河童は字が書けないが、手に
墨をつけて證文の終りに押す事はで
きる。これには異存もなかつたので、
その通りにしてから、河童は赦され
た。それからさき、河內村の住民や
家畜はこの化け物に襲はれる事はな
かつた。
[やぶちゃん注:「註」の丸括弧位置はママ。これは恐らくは「(出雲では一般に『河童』とは云はないで『河子』と云ふ)」で閉じるものと思われるが、そうすると句点も、いじることになるので、そのままにしておいた。読点にも、一箇所、句点とすべきと考えるものがあるが、そのままとした。
「精靈が船の𢌞りに高く現れて、長い手をのばして『田籠(タゴ)、田籠おくれ――田籠おくれ』とつぶやく。決してそれを拒んではいけない、しかし桶を渡す前に、底をぬいて置かねばならない。偶然にでも完全な桶を海に落したら、その船に乘り合せた人々こそ災難、――何故と云へば、精靈は直ちにそれに水をみたして船を沈めにかかるのだから」「田籠」は担桶(たご)。水や肥やしなどを入れて天秤棒で担(にな)う桶(おけ)のこと。たごおけ。ここに記されてあるのは、言わずもがな、「船幽霊」(ふなゆうれい)、所謂、「海坊主」(うみぼうず)のそれである。ウィキの「海坊主」より引く(記号の一部を省略した)。『海に出没し、多くは夜間に現れ、それまでは穏やかだった海面が突然盛り上がり黒い坊主頭の巨人が現れて、船を破壊するとされる。大きさは多くは数メートルから数十メートルで、かなり巨大なものもあるとされるが、比較的小さなものもいると伝えられることもある』。『船幽霊のそれと共に、幻覚談が語り伝えられたと思われるものが多く、両者の区別は明らかではない。「杓子を貸せ」と言って、船を沈めに来る船幽霊と海坊主とは同じとされることもある。しかし、船幽霊が時化と共に出現するのに対して、海坊主の出現には海の異常が伴わないこともあるため(その場合は、大抵海坊主を見てから、天候が荒れ始める、船が沈むといった怪異が訪れる)、何か実際に存在するものを見誤ったという可能性が指摘されている。誤認したものの正体は海の生物の他、入道雲や大波など自然現象などが挙げられている』。『また、海坊主は、裸体の坊主風なものが群れをなして船を襲うといわれることも多く、船体や櫓に抱きついたり、篝火を消すといった行動をとる。時に「ヤアヤア」と声をあげて泳ぎ、櫓で殴ると「アイタタ」などと悲鳴をあげるという。弱点は煙草の煙であり、運悪く出会ってしまった際は』、『これを用意しておけば助かるという『東北地方では漁で最初に採れた魚を海の神に捧げるという風習があり、これを破ると』、『海坊主が船を壊し、船主をさらって行くといわれる。備讃灘』(びさんなだ:備讃瀬戸のこと。讃岐と備前の中間にある瀬戸内海最狭部の瀬戸で、特に最も狭隘な岡山県玉野市日比と香川県大崎鼻間は幅六・七キロメートルしかない。東から小豆島・直島諸島・塩飽(しわく)諸島・笠岡諸島など備讃諸島に属する島々が並び、東西の干満の潮がで合うところでもある。潮流三~四ノット(時速五・六~七・四キロメートル)の瀬戸が多く、大半は水深も三十メートル以下とかなり浅いが、現在でも一日に千五百隻に及ぶ船が航行し、春先から初夏にかけての霧の発生時には海難事故も多い。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った。現在の「備讃瀬戸大橋」の架橋する海域である(グーグル・マップ・データ))に『多いヌラリヒョンは、頭大の玉状のもので、船を寄せて浮かんでいるところを取ろうとすると、ヌラリと外れて底に沈み、ヒョンと浮いてくる。これを何度も繰り返して人をからかうという』。『青森県下北郡東通村尻屋崎では、フカに喰われた人間が「モウジャブネ」になるという。味噌を水に溶かして海に流すと除けられる。静岡県賀茂郡で語られる「ウミコゾウ」は、目の際まで毛をかぶった小僧で、釣り糸を辿って来て、にっこり笑ったという。また蒙古高句麗と当てる紀州神子浜の鼬に似た「モクリコクリ」という小獣は』、三月三日は山に、五月五日は海に出、『人の形だが伸縮自在、現れては消え、麦畑で夜くる人の尻を抜くという。クラゲのような形で、海上を群れて漂うともいう。蒙古襲来の時、水死した霊魂と言われており、蒙古高句麗の当て字がある。愛媛県北宇和郡では、夜、海が白くなって泳いでくるものを「シラミ」、または「シラミユウレン」と呼び、漁師はこれをバカと言う。しかし、バカというのが聞こえると、怒って櫓にすがり、散々な目にあわされると伝えられている。佐渡島の「タテエボシ」は、海から立ち上る高さ』は二十メートルにも及ぶ巨大な怪物で、船目がけて倒れてくるとされる。『海坊主は姿を変えるともいい、宮城県の気仙沼大島では美女に化けて人間と泳ぎを競ったという話がある。岩手でも同様にいわれるが、誘いに乗って泳ぐとすぐに飲み込まれてしまうという。愛媛県宇和島市では座頭に化けて人間の女を殺したという話がある。また人を襲うという伝承が多い中、宇和島では海坊主を見ると長寿になるという伝承がある』。『随筆『雨窓閑話』では桑名(現・三重県)で、月末は海坊主が出るといって船出を禁じられていたが、ある船乗りが禁を破って海に出たところ海坊主が現れ「俺は恐ろしいか」と問い、船乗りが「世を渡ることほど恐ろしいことはない」と答えると、海坊主は消えたという。同様に月末には「座頭頭(ざとうがしら)」と呼ばれる盲目の坊主が海上に現れるという伝承もあり、人に「恐ろしいか」と問いかけ、「怖い」「助けてくれ」などと言って怖がっていると「月末に船を出すものではない」と言って消えるという』。江戸時代の知られた怪談集』「奇異雜談集」の「伊良虞(いらご)のわたりにて、獨り女房、船にのりて鮫にとられし事」には、『伊勢国(現・三重県)から伊良湖岬へ向かう船で、船頭が独り女房を断っていたところへ、善珍という者が自分の妻を強引に乗せたところ、海で大嵐に見舞われた。船主は竜神の怒りに触れた、女が乗ったからだなどと怒り、竜神の欲しがりそうな物を海に投げ込んだものの、嵐はおさまらず、やがて黒入道の頭が現れた。それは人間の頭の』五~六倍ほどもあり、『目が光り、馬のような口は』二尺(約六十センチメートル)ほどもあったとし、『善珍の妻は意を決して海に身を投げたところ、黒入道はその妻を咥え、嵐はやんだという』(私の「奇異雜談集巻第三 ㊄伊良虞のわたりにて獨女房舩にのりて鰐にとられし事」を見られたい)。『このように海坊主は竜神の零落した姿であり、生贄を求めるともいう』。大陸物であるが、清代の王大海の「海島逸志」には「海和尙」『の名で記載されており、人間に似た妖怪だが、口が耳まで裂け、人間を見つけると大笑してみせるものされる。海和尚が現れると必ず暴風で海が荒れるといって恐れられたという。これはウミガメの妖怪視との説もある』。『宝永時代の書『本朝語園』には船入道(ふねにゅうどう)という海坊主の記述があり、体長』六、七尺(一・八二~二・一二メートル)で『目鼻も手足もないもので、同様にこれに遭ったときには何も言わず、見なかったふりをしてやり過ごさなければならず、「あれは何だ」とでも言おうものならたちまち船を沈められるとある。また淡路島の由良町(現・洲本市)では、船の荷物の中で最も大切なものを海に投げ込むと助かるともいう』とある。ハーンの、ここでの記載は、お盆の期間(ここでは十六日)としている点が特異に見えるが(上記の記載には、お盆での特異出現は語られていない)、実際、船幽霊に纏わる伝承を管見すると、お盆に漁に出て、船幽霊に遭遇したことから、お盆の漁が禁忌となった、とするケースが散見される。
「河童」については、妖怪フリークの私は、いろいろなテクストで、たびたび、注を施してきた。ここは、ぐっと堪えて、取り敢えず、その最初期の「耳囊 第一卷 河童の事」の注を参照されたい。
「河童は水の底から延び上つて人を引き込んで、腸を喰ふ」「ただ腸だけ」「外から見て何の創もない。しかし輕くてうつろで――よく枯れた瓢簞のやうに空虛である」前注のリンク先の注で述べたが、河童は伝承では相撲好きでよく子供を相手に相撲をとるとされるが、負けた子供は「尻小玉」(しりこだま)を抜かれるとも言われ、また、水に漬かっている人のそれ(尻小玉)を抜く、ともよく言われる、この「尻小玉」というのは、人間の肛門の内側にあるとされた架空の臓器の名で、これは、水死体の肛門の括約筋が、死後、弛緩して、大きく広がっていたり、そのために起こった脱腸、及び、洩出した腐敗臓器等を目撃した人間の誤認から形成されたものとも考えられている。水死体は多くの水生動物――甲殻類(シャコなど)・頭足類(タコなど)・魚類の餌となるが、主に口腔や肛門から侵入し、消化器官の内側から内臓を食い荒らすのが摂餌上から最も容易であることから、一見、甚だしい外傷や損壊が認められなくても、内臓をごっそり食われている水死体は結構多い(具体的には挙げないが、そうした事実を記した学術的観点から記した書物を私は何冊も持っている)。この叙述は、そうした水死体様態を非常にリアルに述べているとも言える。
「松江から一哩半ばかり、河內川に臨んだ河內村」一マイル半は二・四キロメートルであるが、松江市街からこの距離内で「河內川」(かわちがわ)に臨む「河內村」というのは見つからない。次の「河子の宮或は河童の宮」の位置(後述)から見て、これはどうも、現在の松江市西川津町(にしかわつちょう)のことを指しているものと思われ、そこを流れる、「臨む」川となると、大橋川の北の支流である朝酌(あさくみ)川を指すとしか私には考えられない(「ひなたGIS」のここ)。それにしても何故、こんなに名称が違うのか、不審である。ハーンの聴き取り違いの可能性が疑われる。
「河子の宮或は河童の宮」原文からは「河子」は「かわこ」である。これは現在の西川津町楽山公園東の丘陵の、既出の推恵神社の直近南南東八十メートルに建つ熊野神社(別名市成)と思われる(グーグル・マップ・データ)。その根拠は狛犬を探索されておられる、たっくん氏のブログ「杜を訪ねて」の「熊野神社(松江市西河津町)」に、この神社に就いて『「一成権現」とも』(漢字表記はママ)称し、『昔河童が捕まり社前の石に謝罪文を書かされたことから「河子の宮」とも言われているそうです』という記載があったことによる。また、個人ブログ「出雲国神社めぐり」の「熊野神社(市成)」には、本神社について、『『雲陽誌』には、「何時のことかは定かではないが、古くに諸国の船入りしおり、俄かに大風起こり山より光さし来たりて遂に船沈められることがあった。船頭等が驚いて陸にあがり、里人に尋ねたるところ、子守山に霊験あらたかなる岩船明神という神があり、その咎めであろうとのこと。船頭は急ぎ山に登り、注連縄を曳かれた磐を拝んで社殿建立を祈願。後に日向より材木を取り寄せて、遂に社殿を造立。その時より子守三所権現と社号は改められた」と記されている』とある。
「出雲では一般に『河童』とは云はないで『河子』と云ふ」柳田國男の「山島民譚集(一)」の「河童ニ異名多シ」の箇所に、
『備前備中等ニ於テ之ヲ「コウゴ」ト呼ブハ、出雲(イズモ)ニ於テ河子ト称スルニ同ジク、川ノ子ト云フ義ナルコト疑ナシ。備中ニテモ松山ニテハ「カワコウ」ト云イ、岡田ニテハ「ゴウコ」ト云フ。同国吉備(キビ)郡川辺村ノ川辺川ノ流レニ河子(カワコ)岩アリ。元ノ名ハ吉田岩、元亀年中松山落城ノ際ニ、吉田左京ガ腹ヲ切ッタル岩ナレドモ、後世ニハ「カハコ」ガ出テ引クゾナドト小児ヲ嚇(オド)スヤウニナリテ、終(ツイ)ニ此名ニ改マリシナリ〔備中話十一〕同ジ地名ハイ遠近ノ諸国ニモ亦(マタ)多ク存ス。』
とある(引用はちくま文庫版「柳田國男全集」第五巻に拠る)。【追記】後に「山島民譚集」は全文を電子化注した。当該部は『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(15) 「河童ニ異名多シ」(1)』を見られたい。
「河童が書いたと云はれる證文」しばしば見られる「河童の詫び證文」伝承である。
「水を飮みに河に入つた馬を捕へようとして、馬の腹帶の下へどうかしたはずみで自分の頭をねぢ込んだ」「驚いた馬は、水の中から跳び出して河童を野原へ引きずつて來た」所謂、「河童の駒引き」と呼ばれる伝承パターンである。]
Ⅱ.
But it may happen that some vessel, belated in spite of desperate effort to reach port, may find herself far out at sea upon the night of the sixteenth day. Then
will the dead rise tall about the ship, and reach long hands and murmur: 'Tago, tago o-kure! — tago o-kure!' [1] Never may they be refused; but, before the bucket is given, the bottom of it must be knocked out. Woe to all on board should an entire tago be suffered to fall even by accident into the sea! — for the dead would at once use it to fill and sink the ship.
Nor are the dead the only powers invisible dreaded in the time of the Hotoke-umi. Then are the Ma most powerful, and the Kappa. [2]
But in all times the swimmer fears the Kappa, the Ape of Waters, hideous and obscene, who reaches up from the deeps to draw men down, and to devour their entrails.
Only their entrails.
The corpse of him who has been seized by the Kappa may be cast on shore after many days. Unless long battered against the rocks by heavy surf, or nibbled by fishes, it will show no outward wound. But it will be light and hollow — empty like a long-dried gourd.
1
“A bucket honourably condescend [to give].”
2
The Kappa is not properly a sea goblin, but a river goblin, and haunts the sea only in the neighbourhood of river mouths. About a mile and a half from Matsue,
at the little village of Kawachi-mura, on the river called Kawachi, stands a little temple called Kawako-no-miya, or the Miya of the Kappa. (In Izumo, among the common people, the word 'Kappa' is not used, but the term Kawako, or 'The Child of the River.') In this little shrine is preserved a document said to have been signed by a Kappa. The story goes that in ancient times the Kappa dwelling in the Kawachi used to seize and destroy many of the inhabitants of the village and many domestic animals. One day, however, while trying to seize a horse that had entered the river to drink, the Kappa got its head twisted in some way under the belly-band of the horse, and the terrified animal, rushing out of the water, dragged the Kappa into a field. There the owner of the horse and a number of peasants
seized and bound the Kappa. All the villagers gathered to see the monster, which bowed its head to the ground, and audibly begged for mercy. The peasants
desired to kill the goblin at once; but the owner of the horse, who happened to be the head-man of the mura, said: 'It is better to make it swear never again to touch any person or animal belonging to Kawachi-mura. A written form of oath was prepared and read to the Kappa. It said that It could not write, but that It would sign the paper by dipping Its hand in ink, and pressing the imprint thereof at the bottom of the document. This having been agreed to and done, the Kappa was set free. From that time forward no inhabitant or animal of Kawachi-mura was ever assaulted by the goblin.
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