小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三)
三
出雲の松江から伯耆の境へは汽船でたゞの二時間の旅である。境は島根縣の一番の海港である。不快な臭氣に充ちた見つとも無い小さな町で、たゞ港としてのみ存在して居るのである。何の工業も無く、商店は殆んど一軒も無く、貧小な、そして興味は更に貧小な神社が一つあるだけである。その主な建物は倉庫、水夫の遊び場處、それから四五軒の大きな汚い宿屋で、その宿屋には大阪行き、馬關行き、濱田行き、新潟行き、いろんな他の港 行きの汽船を待つて居る客がいつも一杯に込んで居る。この海岸では汽船は何處へも規則 正しくは通はぬ。汽船の持主は時間通りといふ事に全然何等の營業的價値を置いて居らぬから、客はこんな事があらうとは到底も思はなかつた程長く、いつも待たなければならぬ。それで宿屋は喜んで居る。
だがその港は――出雲の高い陸と伯耆の低い海岸との間の長い海門にあつて――見事なものである。風から完全に蔽遮されて居て、殆んどどんな大きな汽船でもはいれる位に深い。船は家屋に接して碇泊が出來るので、港には和船から最近建造の蒸汽飛脚船に至るまでのあらゆる種類の船がいつも輻湊して居る。
友と自分とは幸にも一番好い宿屋の裏座敷を占めることが出來た。殆んど總ての日本の建物で、裏座敷が一番好い部屋である。境ではその上に、賑やかな埠頭と、その後ろに出雲の山々とが空を背に綠の巨濤の如く起伏して居て、日に光つた入江全體を見渡す更なる便宜がある。見て面白いものが澤山あつた。あらゆる種類の蒸汽船や帆船が宿屋の前に二た列び三列びに重なつて投錨して居て、裸體の船人足がその獨得な方法で以て荷積したり、荷揚したりして居た。そんな男は伯耆や出雲の一等強壯な百姓の中から集めるので、身體の運動毎にその鳶色の背中に筋肉が波打つ程の實際立派な身體をしたものも居た。見たところ十五六歳の男の子が――仕事を習つて居るので、まだ重荷を擔ぐほどには丈夫で無い見習が――幾人か手傳をして居た。殆んどその皆んなが、血管破裂の豫防に、紺布の幅廣い紐を腓(こむら)に捲付けて居るのに自分は氣が付いた。そして皆んな働きながら歌を歌つた。交る交るにやる妙な合唱が一つあつて、船艙に居る男が(英語のホオアヱイ!に當る)『ドツコイ、ドツコイ』と歌つて合圖をすると、艙口に居る男は、下から揚つて來る荷物が見える度毎に、問に合せの文句でそれに應へるのであつた。
ドツコイ、ドツコイ!
女子の子だ。
ドツコイ、ドツコイ!
親だよ、親だよ。
ドツコイ、ドツコイ!
チヨイチヨイだ、チヨイチヨイだ。
ドツコイ、ドツコイ!
松江だ、松江だ。
ドツコイ、ドツコイ!
此奴も米子(よなご)だ。云々。
だが此歌は輕い早い仕事に歌ふものであつた。重い袋や樽を他の男よも強い壯な男の肩へ載せるといふ、もつと苦しいもつと遲い勞働には、前のとは餘程異つた歌が伴なふのであつた。
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヤンヨイ!
ヨイヤサアアノドツコイシ!
いつこ三人で重荷を持上るのである。最初のヤンヨイで皆んな屈む。二度目ので三人ともそれへ手をかける。三度目のは用意が出來たといふつもり。四度目のでその重荷が地を離れる。そしてヨイヤサアアノドツコイシといふ長い掛聲で、それを受取らうと待構へて居る逞しい肩の上へそれが落されるのであつた。
その勞働者の中に能く笑ふ裸體の男の子が一人居た。その八かましい騷ぎの中でも、如何にも愉快げに鳴り響いてきこえる程の、その宿屋で評判になつて居るくらゐの、立派な中音部(ゴントラルト)の聲を有つた子であつた。お客の一人の或る若い女が二階の緣側へ見に出て來て、『あの子の聲は赤い聲だ』と言つた。それを聞いて誰も彼も笑つた。深紅色【譯者註】と喇叭の音とに就いて或る有名な話がある。光と音との性質を今ほど知つて居なかつた時分にその話が可笑しく思へた程には今は可笑しくは思はれぬ。その話を此時想ひ出したけれども、この場合自分はその評語を非常に表現的な言葉だと思つた。
譯者註。ロツクの『人間の悟性』第
三卷第四章第十一節に、『深紅色はど
んなものかとその友人が尋ねたら、
その盲人は喇叭の音のやうですと答
へた』とある。
隱岐通ひの汽船はその日の午後に着いた。埠頭に近寄ることが出來なかつたので、自分は望遠鏡でその船尾の一瞬時の瞥見を得ただけであつた。金の英字でOKI―SAIGOといふ名が讀めた。どの位の大きさかといふ考へを得ないうちに、長崎からの大きな黑い汽船が間へ辷り込んで、丁度それを遮つて投錨した。
自分は日が暮れて皆んなが仕事を止める迄、荷積や荷揚を觀たり、赤い聲の子が歌ふ歌を聽いたりして居た。それから今度はその長崎汽船を觀て見た。幾艘か他の船が出港したため宿の前の埠頭へ寄つて來て、二階の緣側の眞下に居たのである。その船長乘組員はどんな事にも急いで居るとは見えなかつた。みな一緒に前甲板に坐り込んで、其處へ提燈の光りで御馳走が並べられた。藝者が船へ上がつて皆んなと一緒に御馳走を食べて、三味線の音に合せて歌を唄つたり、皆んなと拳を打つたりした。夜遲くまで御馳走と遊興は續いた。そして驚く許りの多量の酒を飮んだのであつたが、亂暴もしなければ騷動もしなかつた。だが酒は飮料のうちで一番眠氣を誘ふものである。だから夜中になると、甲板に居殘つて居るものは三人しか無かつた。そのうちの一人は酒は全く飮まなかつたが、いつまでも物を食ひたがつて居た。その男に仕合な事にはモチの箱を提げて夜商ひのモチ屋が船へ上がつて來た。モチといふは米の粉で造つて地産の砂糖で甘味を附けたケエキである。空腹なその男はそれを皆んな買つて、それしか無いのかと餅屋を恨んだほどであつたが、それでも少しその餅を食へと仲間の者へ差出した。すると初めに勸められた男がまあこんな風な返事をした。
『わしやちや、餅にや、此世界では用はねや。酒さへ、この世にありや、他(だか)にや何んにも要らぬわ』
もう一人の男は斯う言つた。
『わしやちには、女子(をなご)がこの浮世の一番えいもんだ。餅や酒にや、この世の用はわしや有たぬわ』
が、その餅を皆んな平らげてしまつてから、空腹であつた男は餅屋の方へ向いて斯う言つた。
『あゝ餅屋さん。わしやちや、女子や酒にやこの世の用は有たぬわ。餅よりえいもな、 この憂世にやあらせんわ』
[やぶちゃん注:「出雲の松江から伯耆の境へは汽船でたゞの二時間の旅である」虚構。既に述べた通り、ハーンは既に熊本に移つており、起点は松江でなく、しかも、隠岐へ向かう前に松江を訪問もしてはいない。『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』には、『八月、赴任地熊本より、博多、神戸、京都、奈良、門司、境、隠岐、美保の関、福山、尾道に遊ぶ』とあるが、これでは地理がめちゃくちゃでルートが判らぬ。どうも実際、他の論文を見ても、この大周遊旅行、大周遊の割には現在もそのルートがよく分かつていないような印象を持つた。分かつているとおつしゃる方は、是非、御教授あられたい。いろいろ推測するに、この時は少なくとも京都を見た後、丹後を経て鳥取方面から境港へ入つたように私には思われる。
「境は島根縣の一番の海港である」誤り。この時、既に境港は鳥取県である(「既に」と言つたのは以前にも述べたが、実は鳥取県が島根県であつた時期が存在するからである。明治九(一八七六)年八月二十一日に実は鳥取県は島根県に併合された(同時に鳥取に支庁が設置された)が、五年後の明治一四(一八八一)年九月十二日に当時の島根県の内の旧因幡国八郡及び旧伯耆国六郡が鳥取県として分立、再置されている)。田部隆次氏の「あとがき」には、『第三節に『境は島根縣の』とあるは『鳥取縣の』とあるべきであるが、原文の儘に訳して置いた』と特に注意書が記されてある。しかしそこには続けて、『なほ、一二譯者として述べて置いた方がよからうと思ふことは、譯文の途中に譯者註として書いて置いた』とある。失礼乍ら、田部氏はこの件に関しては本文に訳注を附していない。ということは田部氏は「境は島根縣の一番の海港である」というハーンの誤りを重大な誤認として見做していないことを意味する。かつて島根に吸収された鳥取県人としては、これ、とんでもない誤り(と私は思うのである)を田部氏は『譯者として述べて置いた方がよからうと』は思わない、下らぬ瑣末なことと考えておられたということになる。鳥取県民の方々の名誉のため、敢えて注しておきたい。
「貧小な神社が一つあるだけ」境港市栄町(えいまち)にある大港(おおみなと)神社のことかと思われる。海上安全の神として知られ、江戸時代には「八幡宮」と呼ばれて諸国の船主から信仰を集めた由緒ある神社である。ハーンの書きようは、この部分では如何にもひどいが、ウィキの「境港市」によれば、『近年、環日本海時代の一躍を担う国際貿易港としての整備拡充が着実に進んでいる』とある。
「馬關」山口県下関。下関の古称であつた「赤間関(あかまがせき)」を「赤馬関」とも書いたことに由来する。
「濱田」現在の島根県浜田市長浜町にある浜田港。古くから国内のみならず、海外との交易も盛んな港であつた。
「蒸汽飛脚船」原文は“steam packets”。確かに“packet”は狭義には「郵便船」の意味だが、ここでは明らかに複数形で、この訳語は何だかびつくりするほどおかしい感じを受ける。これは単に「貨物船」或いは「定期船」の謂いであり、複数形であるからして単純に「蒸気船」と訳すべきところである。
「輻湊」「ふくそう」と読む。「輻輳」の方が現行では一般的な表記である。車の輻(や:スポーク)が轂(こしき:車軸の端。ハブ。ホイールハブ)に集まる意で、四方から寄り集まることを言う。
「友と自分とは」既に注した通り、「友」とは実は妻セツである。
「血管破裂の豫防に、紺布の幅廣い紐を腓(こむら)に捲付けて居る」「腓」は言わずもがなであるが、脛(すね)の後背側の柔らかい部分。ふくらはぎのことであるが、これはどうも、活動時に脛を保護したり、下肢の鬱血や脚の疲労、こむら返りなどを防ぐための脚絆のことを指しているように思われる。
「英語のホオアヱイ!」原文“yo-heave-ho”。間投詞で、主に古くからの船乗りの掛け声で、錨などを巻き上げる際に水夫がかけた掛け声。「よいとまけ!」「えんやこら!」に相当する。発音記号では【jóuhí vhóu】で、聴くと、「ユゥヒヴォウ!」と聴こえ、このカタカナ音写は原音を伝えていない。
「ドツコイ、ドツコイ!/女子の子だ。/ドツコイ、ドツコイ!/親だよ、親だよ。ドツコイ、ドツコイ!/チヨイチヨイだ、チヨイチヨイだ。/ドツコイ、ドツコイ!/松江だ、松江だ。/ドツコイ、ドツコイ!/此奴も米子(よなご)だ。云々」訳者は省略しているいるが、ハーンはこの労働歌に、
“'Dokoe, dokoe!' 'This is only a woman's
baby' (a very small package). 'Dokoe,
dokoe!' 'This is the daddy, this is the daddy' (a big package). 'Dokoe, dokoe!' ''Tis very small, very
small!' 'Dokoe, dokoe!' 'This is for
Matsue, this is for Matsue!' 'Dokoe,
dokoe!' 'This is for Koetsumo of Yonago,' etc.”
という詳細な注を附している。訳すなら、
「ドッコエ、ドッコエ!」こいつぁ、小(ち)んまい女の赤子(あかご)だけじゃ(如何にも小さな軽い荷の比喩)。「ドッコエ、ドッコエ!」こいつは親父、こいつぁ、これ、親父どん、じゃ(大きな重い荷の比喩)。「ドッコエ、ドッコエ!」こりやぁ、ほんまに小んまい、えろぉ、ちんまい! 「ドッコエ、ドッコエ!」こいつぁ、松江じゃ、松江行きじゃ! 「ドッコエ、ドッコエ!」こいつぁ、米子じゃ、米子行きじゃ! 云々。
といった感じであろう。これは訳としては当然、附されるべきものであると思う。私などは初読時、何か性的な意味でも隠れているのではないかと勘繰ってしまったぐらいであるから。
「ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヤンヨイ!/ヨイヤサアアノドツコイシ!」「ヤンヨイ」のかけ声は特異で聴いたことがない。識者の御教授を乞う。
「中音部(ゴントラルト)」原文は“contralto”でこれは音写するなら「コントラァルト」で音写の「ゴ」はおかしい(誤植か)。音楽用語の「コントラルト」で、alto より低い音域を指し、通常は女性の最低音及びその女性歌手を指すが、ここは少年の声なので問題ない。これは“contra‐+ alto”で、“contra‐”は普通の低音よりも一~二オクターブ低い、という意味である。
「お客の一人の或る若い女が二階の緣側へ見に出て來て、『あの子の聲は赤い聲だ』と言つた」これは実はほぼ間違いなく、妻のセツであると私は信じて疑わない。
「その話を此時想ひ出したけれども、この場合自分はその評語を非常に表現的な言葉だと思つた」これは非常に表現力が豊かで、実に面白い形容であると感じた、と褒めているのである。さりげなく、隠蔽して見せない妻セツを褒めるハーンがいじらしいではないか。
「ロツクの『人間の悟性』第三卷第四章第十一節に、『深紅色はどんなものかとその友人が尋ねたら、その盲人は喇叭の音のやうですと答へた』とある」「近代イギリス経験論の父」と呼ばれる哲学者ジョン・ロック(John Locke 一六三二年~一七〇四年)の主著である“An Essay concerning Human Understanding”(「人間悟性論」「人間知性論」などと邦訳される)。二十年かけて執筆し、一六八九年に出版された。私は未読で所持しないので当該箇所を引用出来ないが、これは音に色を感じており、所謂、共感覚、シナスタジア(synesthesia)の記載とも読める。私のかつての教え子には発音や文字に強共感覚を持つ女性がおり、以前から非常に関心を持っている現象である。
「みな一緒に前甲板に坐り込んで、其處へ提燈の光りで御馳走が並べられた。……」以下、ちょっと不思議なのは五月蠅いのが嫌いなハーンがこれに不快を示さずに、寧ろ、こっそり一部始終を冷静に観察している点である。一つは芸者が歌や踊りを披露し、拳を打ったりはしたものの、「亂暴もしなければ騷動もしなかつた」とあるぐらい、実は喧しいものではなかったからであろうか。或いは、音に敏感なハーンが意識を邪魔されちょっと不快に思ったものの、ここは一つ落ち着かない代わりに、何もかもルポルタージュしてやれと思ったものかも知れない。
「わしやちや」これは普通なら「儂にゃあ」とか「俺にゃ」と訳すところだ。しかし私は今回、ここで一読、ピンと来た!――これは、富山弁だ!――とピンと来たのだ。私は中学・高校の六年間を富山県高岡市伏木で過ごした。そこでは「俺なんかは」と言う時、「わしゃちゃ」と言った(私は遂にそういう謂い方は身につかなかったが)。さても本章の訳者英文学者田部隆次氏は、まさに富山県生まれなのである。]
Ⅲ.
From Matsue in Izumo to Sakai in Hōki is a
trip of barely two hours by steamer. Sakai is the chief seaport of Shimane-Ken.
It is an ugly little town, full of unpleasant smells; it exists only as a port;
it has no industries, scarcely any shops, and only one Shinto temple of small
dimensions and smaller interest. Its principal buildings are warehouses,
pleasure resorts for sailors, and a few large dingy hotels, which are always
overcrowded with guests waiting for steamers to Ōsaka, to Bakkan, to Hamada, to
Niigata, and various other ports. On this coast no steamers run regularly
anywhere; their owners attach no business value whatever to punctuality, and
guests have usually to wait for a much longer time than they could possibly have
expected, and the hotels are glad.
But the harbor is beautiful,— a long frith
between the high land of Izumo and the low coast of Hōki. It is perfectly
sheltered from storms, and deep enough to admit all but the largest steamers.
The ships can lie close to the houses, and the harbor is nearly always thronged
with all sorts of craft, from junks to steam packets of the latest construction.
My friend and I were lucky enough to secure
back rooms at the best hotel. Back rooms are the best in nearly all Japanese
buildings: at Sakai they have the additional advantage of overlooking the busy
wharves and the whole luminous bay, beyond which the Izumo hills undulate in
huge green billows against the sky. There was much to see and to be amused at.
Steamers and sailing craft of all sorts were lying two and three deep before
the hotel, and the naked dock laborers were loading and unloading in their own
peculiar way. These men are recruited from among the strongest peasantry of Hōki
and of Izumo, and some were really fine men, over whose brown backs the muscles
rippled at every movement. They were assisted by boys of fifteen or sixteen
apparently,— apprentices learning the work, but not yet strong enough to bear
heavy burdens. I noticed that nearly all had bands of blue cloth bound about
their calves to keep the veins from bursting. And all sang as they worked.
There was one curious alternate chorus, in which the men in the hold gave the
signal by chanting 'dokoe, dokoe!'
(haul away!) and those at the hatch responded by improvisations on the
appearance of each package as it ascended: —
Dokoe, dokoe!
Onnago no ko da.
Dokoe, dokoe!
Oya dayo, oya dayo.
Dokoe, dokoel
Choi-choi da,
choi-choi da.
Dokoe, dokoe!
Matsue da, Matsueda.
Dokoe, dokoe!
Koetsumo Yonago da, [20] etc.
But this chant was for light quick work. A
very different chant accompanied the more painful and slower labor of loading
heavy sacks and barrels upon the shoulders of the stronger men:—
Yan-yui!
Yan-yui!
Yan-yui!
Yan-yui!
Yoi-ya-sa-a-a-no-do-koe-shi! [3]
Three men always lifted the weight. At the
first yan-yui all stooped; at the second all took hold; the third signified
ready; at the fourth the weight rose from the ground; and with the long cry of yoiyasa no dokoeshi it was dropped on
the brawny shoulder waiting to receive it.
Among the workers was a naked laughing boy,
with a fine contralto that rang out so merrily through all the din as to create
something of a sensation in the hotel. A young woman, one of the guests, came
out upon the balcony to look, and exclaimed: 'That boy's voice is RED',— whereat everybody
smiled. Under the circumstances I thought the observation very expressive,
although it recalled a certain famous story about scarlet and the sound of a
trumpet, which does not seem nearly so funny now as it did at a time when we
knew less about the nature of light and sound.
The Oki steamer arrived the same afternoon,
but she could not approach the wharf, and I could only obtain a momentary
glimpse of her stern through a telescope, with which I read the name, in
English letters of gold,— OKI-SARGO. Before I could obtain any idea
of her dimensions, a huge black steamer from Nagasaki glided between, and
moored right in the way.
I watched the loading and unloading, and
listened to the song of the boy with the red voice, until sunset, when all quit
work; and after that I watched the Nagasaki steamer. She had made her way to
our wharf as the other vessels moved out, and lay directly under the balcony.
The captain and crew did not appear to be in a hurry about anything. They all
squatted down together on the foredeck, where a feast was spread for them by lantern-light.
Dancing-girls climbed on board and feasted with them, and sang to the sound of
the samisen, and played with them the game of ken. Late into the night the
feasting and the fun continued; and although an alarming quantity of sake was
consumed, there was no roughness or boisterousness. But sake is the most
soporific of wines; and by midnight only three of the men remained on deck. One
of these had not taken any sake at all, but still desired to eat. Happily for
him there climbed on board a night-walking mochiya with a box of mochi, which
are cakes of rice-flour sweetened with native sugar. The hungry one bought all,
and reproached the mochiya because there were no more, and offered,
nevertheless, to share the mochi with his comrades. Whereupon the first to whom
the offer was made answered somewhat after this manner: —
'I-your-servant mochi-for this-world-in
no-use-have. Sake alone this- life-in if-there-be, nothing-beside-desirable-is.
'For me-your-servant,' spake the other,
'Woman this-fleeting-life-in the-supreme-thing is; mochi-or-sake-for
earthly-use have-I-none.'
But, having made all the mochi to disappear,
he that had been hungry turned himself to the mochiya, and said:—
'O Mochiya San, I-your-servant
Woman-or-sake-for earthly-requirement have-none. Mochi-than things better
this-life-of-sorrow-in existence-have-not !'
2
'Dokoe, dokoe!' 'This is only a
woman's baby' (a very small package). 'Dokoe,
dokoe!' 'This is the daddy, this is the daddy' (a big package). 'Dokoe, dokoe!' ''Tis very small, very
small!' 'Dokoe, dokoe!' 'This is for
Matsue, this is for Matsue!' 'Dokoe,
dokoe!' 'This is for Koetsumo of Yonago,' etc.
3
These words seem to have no more meaning than our 'yo-heave-ho.' Yan-yui is a cry used by all Izumo and
Hoki sailors.
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