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2015/11/17

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語敎師の日記から (十八)

 

       一八

 

 各級に二三人づつある私の好きな學生のうちで、一番誰が好きとは云へない。銘々それぞれの特長がある。しかしこれから書かうとする人々、石原、大谷正信、小豆澤、横木、志田【譯者註一】の姓名や容貌は最も長く自分の記憶にはつきり殘るであらうと思ふ。

 石原は士族で人物が非常にしつかりして居るので級中に甚だ勢力がある。外の人々と比べるといくらか粗暴な無遠慮な風があるが正直な男らしい處があるので人好きがする。何でも思ふ事は皆云つてしまう、そして思ふ通りの調子で云ふので時々相手を迷惑させる程である。たとへば先生の說明の仕方が惡いから、もつと分るやうに云つて下さいと平氣で云ふ。私も時々攻擊されたが、石原が惡いと思つた事はなかつた。私共は互に好いて居る。彼はよく私に花を持つて來てくれる。

 或日、梅花の小枝を二つ持つて來てくれた時、私に云つた、

 『先生は天長節の式に御具影に敬禮をなさいましたのを見ました。先生は先の先生と違ひます』

 『どうして』

 『前の先生は私共を野蠻人だと云ひました』

 『何故』

 『その先生は神樣(その人の神樣)の外に尊い物はない、そして外の物を尊ぶ者は賤しい無學の人民に過ぎないと申しました』

 『どこの國の人です』

 『耶蘇敎の僧侶で、英國の臣民だと申しました』

 『しかし英國臣民なら女王陛下を尊敬しなければならない。英國領事の事務室に入るには脫帽しなければならない』

 『本國でどんな事をなさるか知りません。けれども仰つた事は私の今申した通りでした。ところで私共は陛下を尊敬しなければならないと思ひます。それを本分と思ひます。陛下のために身命を捧げる事のできるのを光榮【註一】と思ひます。しかし先の先生は只[やぶちゃん注:「ただ」。]野蠻人、無智蒙昧な野蠻人だと申しました。先生如何御考ですか』

 『君、私はその人自身こそ野蠻人、野卑な無學な分らずやの野蠻人だと思ふ。陛下を尊敬し、陛下の法律に從ひ、日本のために陛下が召し給ふ時いつでも身命をなげうつ覺悟を有するのは君等の最高の義務だと思ふ。たとへ君自らが外の人々の信ずる事を悉く信じられなくとも、祖先の神々や國家の宗敎を尊敬するのが君等の義務だと思ふ。それから誰が云つたにしても、君から今聞いたやうな野卑な惡口に對して憤慨するのは、國家のため又陛下のため君達のつとめだと思ふ』

    註一。私は色々の級に、作文の題と
    して『最も大切な願』と云ふ問を出
    した。殆んど文句まで一樣に『天皇
    陛下のために』死ぬ事と答へたのが
    約二割あつた。しかしあとの大部分
    にはネルソンの先榮にあやかりたい、
    或は英雄行動犧牲的精神によつて日
    本を第一等の偉大なる國民にしたい
    と云ふ望みが表はれてゐた。この感
    心な精神が日本の靑年の心に生きて
    居る間は日本はその前途に於て恐る
    べき物はない。

 正信は滅多に來ないが來る時はいつでも獨りで來る。細つそりした、女性的な顏形ちの美少年で、控へ目な、全く落着いた樣子で、上品である。大分眞面目な方で笑顏も餘り見せない聲をあげて笑ふのを私は聞いた事はない。級の一番になつて、餘りひどく努力もしないでそこに居るやうである。植物を採集したり分類したりしてひまの大部分を植物學に捧げて居る。彼の家族の男子は皆さうだが彼も音樂家である。西洋では見られも聞かれもしない種々の樂器を奏する、そのうちには大理石の笛もある、象牙の笛もある、不思議な形と音色の竹の笛もある、それから笙と云ふ銳い支那の樂器もある、銀の枠に入れた色色違つた長さの管が十七もある一種の吹く樂器である。彼は始めて大鼓、小鼓、笛、篳篥(ヒチリキ)、それから胴の細長い錘(ツム)のやうな恰好の、小さい鼓の羯鼓(カツコ)と云ふ物を、寺院の音樂で使用する事を私に説明した。大きな佛式のお祭りの時正信と正信の父及び弟等は寺院の樂人となつて皇麞(ワウジヤウ)と拔頭(バツタウ)と云ふ變つた音樂を奏する。こんな音樂は西洋人の耳には始めのうちは何の趣味もないが聞くに隨つて分つて來る、そして一種特別の不思議な興味のある事が分る。正信の來るのはいつでも私の興味のありさうな佛敎か神道のお祭りに參列するやうに招きに來るのである。

 小豆澤と正信は全然別人種かと人が想像する程この二人は似たところが殆んどない。小豆澤は大きい骨つぽい、一見愚なやうな男である、顏は奇妙に北アメリカ印度人に似て居る。家は富んでゐない、只一つ書物を買ふ事を除いては金のかかる娯樂をする事は殆んどできない。その書物を買ふためにも、彼は金を得るためにひまな時に働くのである。彼は本當の衣魚(シミ)である。生れつきの詮索家である。古文書の採集家である、古い寫本や繪本が反古同樣に賣られる寺町やその他の古色蒼然たる古道具屋古本屋を一軒々々徘徊して居る。彼は濫讀家である、絕えず書物を借りる、そして最も價値があると思ふところを寫してのち少しも毀損しないで返してくる。しかし一番好きなのは世界各國に於ける哲學及び哲學者の歷史である。西洋哲學史要略と云ふやうなものは色々讀んだ、それから近世哲學に關するもので、日本語に譯してある物は、スペンサーの原理も加へて、皆讀んだ。私はリユイスとジヨン・フイスク【譯者註三】を紹介してやった、英語で哲學を勉强するのは一通りの骨折でなかったが兩方とも充分に分つた。幸にして彼は非常に强健であるから、どんなに勉强しても身體が惡くなる心配はない。神經は針金のやうに强靭である。しかも彼は全く禁慾家である。客の前に茶と菓子を出すのが日本の習慣であるので、私はいつでもその茶と菓子、殊に菓子は杵築でできる特に上等品で、學生が皆好きであるのを、いつも用意して居る。小豆澤だけはどんな種類の菓子も喰べようともしない、そして云ふ「私は末子ですから直に獨立の生活をしなければなりません。私は大に艱難をしなければならないでせう。それですから今から菓子が好きになつてゐたらかへつて後に困ませう』小豆澤は人間學は中々修めて居る。生れつき注意深いのである、そして不思議な方法で松江にある凡ての人の歷史を知つて居る。彼は古い破れた錦繪を持つて來て校長【譯者註四】が十四年前公開演說で主張した意見と今日の校長の意見とが全然正反對である事を證明した。その事について校長に尋ねると校長は笑つて『勿論それは小豆澤です。しかし小豆澤の方が正しいのです、私は當時極めて若かつたのです』と云つた。そして私は小豆澤がいつか若い時があつたらうかと不思議に思ふのである。

 小豆澤の親友橫木は滅多に來ない、いつでもうちで勉强して居るからである。彼はいつでもその級(三年級)の一番で小豆澤は四番である。彼等二人の交際の始まりの小豆澤の話はかうである『私は橫木が來た時じつと見てゐました、そして餘りしやべらないで、早足で步いて、人の目の處を眞直に見るのを見ました。そこで私はこの男の特色のある事を知りました。私は特色ある人間と交るのが好きです』小豆澤の云ふ事は全く本當である、橫木は至極温和な外貌の下に非常に强い性格を持つて居る。彼は大工の子である、そして兩親はその子を中學校に出す事はできなかつた。しかし小學校で拔群の成績を示したので、富有な人【註二】が感心して學費を出さうと云ひ出した。彼は今學校の花である。彼は殊に長い目の著しく平和な顏と愉快さうな微笑をして居る。敎場ではいつでも銳い質問をする、その質問が餘り奇拔なので何と答へてよいか私は時々非常に困る事がある、そしてその說明が腑に落ちないうちは決して質問を止めない。自分が正しいと思つたら仲間の意見などは構はない。或時全級が物理の新敎師の講義に出る事を拒んだ時、橫木だけは彼等と同一の行動を取る事を拒んだ、先生は理想通りの先生でなくともすぐ止めて貰へさうにはない、又どんなに無經驗でも眞面目に全力をつくして居る先生に不快な念を抱かせる正當の理由がないと論じたのであった。小豆澤は最後に彼に贊成した。この二人だけ講義に出席したので、終に殘りの學生も二週間の後には橫木の意見の正しい事をさとるに到つた。又或時基督敎の宣敎師が卑しい手段を弄して人に改宗を施さうとした時、橫木は大膽にその宣敎師の宅に赴いて彼の仕業の不德義なる事について彼と論じ、遂に彼を沈默さするに到つた。彼の仲間のうちで彼の議論の巧みな事を賞めるものがあつた。彼は答へて『僕は巧みな事はない、道德上不正な事に對して議論するのに何にも巧みである必要はない。こちらが道德上正しい事が充分分つてさへすればよい』少くともこれは小豆澤が橫木の云つた事を飜譯して私にきかせた物に近いのである。

    註二。この種の美はしい義俠的行動
    は日本では珍らしくはない。

 もう一人の訪問者の志田は餘程虛弱な神經質の子供で、心のうちは藝術でみちて居る。繪畫は餘程上手である、古への日本の大家の立派な繪本を一部もつて居る。最後に來た時には私に見せるために珍らしい物――天女、幽靈、などの版畫を持つて來た。私がこの美しい蒼白い顏と物凄い程細い指を見た時彼も又やがて小さい靈になりはしないかと彼のために恐れずには居られなかつた。

 今私は二ケ月以上も彼に遇はない。彼は餘程惡い、醫師が談話を禁じた程肺が惡いのである。しかし小豆澤は彼を訪ふて來て日本の手紙のこの飜譯を持つて來てくれる、その手紙は病氣の少年が書いて寢床の上の壁に糊ではつて置いた物である。

 『わが腦髓足下、足下は我を支配せり。足下の知れる如く今や我、自らを支配する事能はず。我願ふ、速に我を囘復せしめよ。我をして多く話さしむる勿れ。我をして萬事醫師の命に服さしめよ。

 明治二十四年、十一月九日。

          志田の病軀より志田の腦髓へ』【譯者註五】

    譯者註一。醫學博士石原喜太郞、大
    谷正信、小豆澤は工兵大佐藤崎八三
    郞、橫木富三郞、志田昌吉。

    譯者註二。熊本にてこの原書の校正
    を見せられし時、この比べやうはひ
    どいと藤崎氏(小豆澤)が抗議した
    時、決して侮辱ではない、アメリカ
    インド人は世界に於て最も勇敢なる
    人種であると云つてヘルンに慰めら
    れた。藤崎大佐の談話。

    譯者註三。Lewes Ceorge Henry
    
Lewes1817―1878)有名なる女流
    作家 George Eliot の夫、『列傳體哲
    學史』『ゲーテ傳』等著作多し。
    
John Fiske1842―1901)アメリカ
    の人。著作多し、進化論を基とし
    た
る著述もあり『The Idea of God
    『
The Destiny of Man』等あり。

    譯者註四。西田千太郞氏は當時校長
    心得の如き地位にありし故、西田氏
    の事。

    譯者註五。病軀、腦髓の譯は志田の
    原文を知つて居られる小豆澤氏(藤
    崎大佐)の敎示による。

[やぶちゃん注:「石原」訳者注に「醫學博士石原喜太郞」とあるが、調べてみたが、不詳である。識者の御教授を乞う。

「大谷正信」本底本の共訳者(既に述べたが、「あとがき」から本十九章の訳者は田部隆次と推定される)で英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)。松江市生まれ。松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中に、虚子や碧梧桐の影響から、句作を始めて「子規庵句會」に参加、「繞石」(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。

「小豆澤」「工兵大佐藤崎八三郞」以下に見るように、養子に行って姓が変わったのである。「熊本アイルランド協会」公式サイトの「ハーン雑話」に以下のようにある。

   《引用開始》

藤崎八三郎

 旧姓を小豆沢といいます。島根県尋常中学校での教え子で、ハーンの作品『英語教師の日記から』の中に「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」生徒の一人として紹介されています。ハーンが熊本に移った後もハーンを慕って文通を続け、資料提供の手伝いなどをしています。明治26年に卒業しますが、進路についてハーンに相談し熊本に訪ねてきたりもしました。

 明治28年9月、五高に入学しますが前年12月志願兵として入営していたため、出校しないまま休学し、翌年3月に退学しています。結局、陸軍士官学校に入り、職業軍人の道を選びました。この時、藤崎家の養子になっています。

 東京時代のハーンは、毎年のように家族を連れて焼津に海水浴に行き1ヶ月ほど滞在しました。明治30年の夏には藤崎も訪ねていき、ハーンのかねてからの念願であった富士登山に同行します。この登山からは『富士の山』という作品が生まれました。その当時ハーンは身体に少し衰えを感じていたらしく、富士登山はとても無理だと諦めていました。藤崎が「私が一緒に行きますから」といって周到な準備のもと、決行します。藤崎の手記によれば「一人の強力が先生の腰に巻いた帯を引いて、もう一人は後ろより押し上げやっと夕方8合目に到着。一泊して翌朝8時についに頂上に到着した」というような登山だったようです。

 藤崎は東京でもハーンを慕ってよく訪ねています。藤崎夫人ヲトキさんの回想によると、縁談はハーンの助言でまとまり、お見合いも小泉家の座敷で行われたということです。明治37年2月、日露戦争が始まり藤崎は満州に出征することになりますが、ハーンは家族ぐるみで送別会を開いています。9月26日、ハーンは戦場の藤崎に手紙を書き数冊の本とともに発送して、数時間後に心臓発作で亡くなりました。藤崎は「先生の最後となった手紙と贈ってくださった本と、それから先生の亡くなられたという知らせと同時に受け取って悲嘆に耐えなかった」と手記に書いています。この絶筆となった手紙は戦災で焼失しましたが、幸い木下順二氏が写真に撮ってあった原板があり、それを焼き付けたものがこの記念館に展示されています。

 ハーンの没後、上京した藤崎一家がすぐに家が見つからなかったので、小泉家の半分を借りて住んだこともありました。大正12年、熊本で済々黌高校の教師となって英語、地理を教えますが、晩年、本当は文学がやりたかったんだと孫たちに語っていたそうです。小泉時氏のお話では「藤崎さんが上京される際は好物のちらし寿司をつくってお待ちしたものでした」ということでした。

   《引用終了》

「橫木」「橫木富三郞」《以下、ネタバレ注意! 本作を独り真に楽しみたいと思われる方は以下の注を読まれないことを強くお勧めする!》本章の最後で志田を追うように白玉楼中の人となる。これは「二十一」以下で詳細に「実景」描写されるが、それはもう、涙なくしては読めない。なお、私のこの「実景」の括弧書きには、実は「意味」があるのであるが、それはそれ、最後の最後に明らかにしたいと思っている。ヒントはこの私の注の最後に示しておいた)。

「志田」「志田昌吉」《以下、ネタバレ注意! 本作を独り真に楽しみたいと思われる方は以下の注を読まれないことを強くお勧めする!》同じく本章の「二十一」冒頭で、あっけなく冥界へと旅立ってしまうだけに、ここでハーンが「私がこの美しい蒼白い顏と物凄い程細い指を見た時彼も又やがて小さい靈になりはしないかと彼のために恐れずには居られなかつた」と感じたこと、そしてコーダに示される彼が病床に貼りつけた己れの脳髄への手紙が、これから本篇を読み進める者の哀愁を激しく誘うこととなるのである。

「先の先生」このハーンの前任の英語教師とはM・R・タットルなる人物で事実上、松江中学の生徒たちの『悪評のために契約任期半ばで退職させられ』ていた(引用は以下の引用論文から)。これは、今回、ネットを検索する中で知った、成城大学教授で比較文学者の牧野陽子氏の論文「松江のハーン(二)」(PDF)によって判明した(なお、この論文は(一)~(三)がPDFでネット上で閲覧出来る。頗る示唆に富む優れた論文で、向後、精読の上、既電子化部分の注にも追加したいと考えている)。以下、「前任者M・R・タットル」の条から引用させて戴く。

   《引用開始》

このタットルなる人物については、カナダはノバスコシア出身の年若い宣教師だったということ以外、知られていない。だが、生徒をキリスト教に改宗させようとしたり、ことあるごとに日本の風習や信仰の悪口を言って物議をかもしていた。しかも、生徒の回想によれば、大変な寒がりで、特別の部屋でストーブをたき、そこへ生徒を代わる代わる呼んで教えた。そのうち頭巾を被り、やがてストーブの前に毛布を敷いてごろっと横になる。また長い脛で教室の机をまたいで歩いた、というから、生徒側が憤慨したのも無理はない。氏の行状に懲りて、ハーンとの契約文には、生徒に対し宗教活動を行わないという条文が付加されていた。そしてタットルのことをハーンが知るのは、天長節のあと、一人の生徒との会話の中でだった。

   《引用終了》

とされ、この後で石原とハーンの会話を牧野氏の訳で引用された上、『ここで「前の先生」というのは例のタットルのことである。そして一方では東京の第一高等学校の内村鑑三が日本人でありながら拝礼を拒否していわゆる「不敬事件」(一八九四年一月)を起こしたことも聞いていたから、ハーンは自分の生徒に西洋文明に媚びへつらわぬ気骨のあることを知って好ましく感じたのだろう』と注しておられる。キリスト教嫌いのハーンにして、この時石原の述懐に、まさに快哉を叫びたかった気持ちは、十分に理解は出来る(私の後注の「基督敎の宣敎師が卑しい手段を弄して人に改宗を施さうとした時、橫木は大膽にその宣教師の宅に赴いて彼の仕業の不德義なる事について彼と論じ、遂に彼を沈默さするに到つた」も必ず参照されたい)。なお、「タットル」の綴りを“Tuttle”と仮定して調べてみたが、事蹟は不明である。識者の御教授を乞う。

「ネルソンの先榮」「先榮」は原文“the glory”であるから、先行する「光栄」の意。「ネルソン」はイギリス海軍提督であった初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson 一七五八年~一八〇五年)のこと。「アメリカ独立戦争」・「ナポレオン戦争」などで活躍し、「トラファルガー海戦」でフランス・スペイン連合艦隊を破ってナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、自身は戦闘中に戦死した。イギリス最大の英雄とされる(以上はウィキの「ホレーショ・ネルソン(初代ネルソン子爵)」に拠った)。

「この感心な精神が日本の靑年の心に生きて居る間は日本はその前途に於て恐るべき物はない」この精神、この後に軍国主義に利用され、数多の若き命が犠牲になったことを、ハーン小泉八雲が知ったら、どう思ったであろう……私は思わずにはいられない。

「大理石の笛」不詳。縄文遺跡などからも出土する、古代の楽器とされ、「天(あま)の石(磐)笛(いわふ(ぶ)え)」などとも呼称される石笛(ともされるもの)を模して造ったオカリナ様のものか? それとも次の「象牙の笛」と同様に木管でない石製横笛か? 但し、「象牙の笛」(原文は確かに“flutes of ivory”)というのは本当に象牙かどうかは疑わしい。アイボリー色を呈した動物の角製の角笛を広範にかく言うし、私はこう言った場合、今も昔も象牙は高価であるから(現在は稀少性ではなく、おぞましき「ワシントン条約」によってである)、ここは加工を施されて、一見、アイボリーに見えるような、即ち、巻貝に見えないような、法螺貝製の角笛である可能性が高いように思われる。

「不思議な形と音色の竹の笛」尺八。能に始まり、江戸歌舞伎や寄席囃子・祇園囃子で盛んに用いられて、一般の祭り囃子などにも広く普及したものに竹製横笛である「能管」(のうかん)があるが、あれを見て、かく表現は、しない。この表現はまさに「尺八」を見、その音色を聴いた西洋人こそのものである。

「笙と云ふ銳い支那の樂器もある、銀の枠に入れた色色違つた長さの管が十七もある一種の吹く樂器である」言わずもがなであるあるが、雅楽などで使う管楽器「笙」は「しやう(しょう)」と読む。ウィキの「笙」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたと考えられている。雅楽で用いられる笙は、その形を翼を立てて休んでいる鳳凰に見立てられ、鳳笙(ほうしょう)とも呼ばれる。匏(ふくべ)と呼ばれる部分の上に十七本の細い竹管を円形に配置し、竹管に空けられた指穴を押さえ、匏の横側に空けられた吹口より息を吸ったり吐いたりして、十七本のうち十五本の竹管の下部に付けられた金属製の簧(した:リード)を振動させて音を出す。音程は簧の固有振動数によって決定し、竹管で共鳴させて発音する。パイプオルガンのリード管と同じ原理である。いくつかの竹管には屏上(びょうじょう)と呼ばれる長方形の穴があり、共鳴管としての管長は全長ではなくこの穴で決まる。そのため見かけの竹管の長さと音程の並びは一致しない。屏上は表の場合と裏の場合があるが、表の場合は装飾が施されている。指穴を押さえていない管で音が出ないのは、共鳴しない位置に指穴が開けられているためである。 ハーモニカと異なり、吸っても吹いても同じ音が出せるので、他の吹奏楽器のような息継ぎが不要であり、同じ音をずっと鳴らし続けることも出来る(呼吸を替える時に瞬間的に音量が低下するのみ)。押さえる穴の組み合わせを変えることで十一種類の合竹(あいたけ)と呼ばれる和音を出すことができる。通常は基本の合竹による奏法が中心であるが、調子、音取、催馬楽、朗詠では一竹(いっちく:単音で旋律を奏すること)や特殊な合竹も用いる。その音色は天から差し込む光を表すといわれている』。『構造上、呼気によって内部が結露しやすく、そのまま演奏し続けると簧に水滴が付いて音高が狂い、やがて音そのものが出なくなる。そのため、火鉢やコンロなどで演奏前や間に楽器を暖めることが必要である』。『中国には北京語でション(shēng)、広東語でサンという、同じ「笙」の字を書く楽器がある。これは笙より大型で、音域は日本の笙の倍以上あり、素早い動きにも対応している。もともと奈良時代に日本に伝わった時点では、日本の笙もパイプのような吹き口が付属していたが、現在ではそれをはずし、直接胴に口をあてて演奏する形に変わっている』。『ラオス、タイ王国北東部では笙と同じ原理のケーン』『という楽器があり、一説では、これが中国の笙の原型であると言われる』とある。

「大鼓」これは次の「小鼓」との対称性から「たいこ」ではなく、鼓の大型のものを指す「おほつづみ(おおつづみ)」と訓じているはずである(但し、「おほかは(おおかわ)」とも訓ずる)。木部は良質の桜材で、胴長約二十八センチメートル、両端部の直径約十二センチメートル、皮革面の直径は約二十三センチメートルで、胴の両端には鉄製の輪に馬の皮を縫いつけた表革(おもてがわ)と裏革を当てて六ヶ所の穴(調孔(しらべあな)と称する)に「縦調(たてしら)べ」と呼ばれる麻紐の「調べ緒(お)」を交互に通して締めつけ、これを小締め(これは音調節のための横の「調べ緒」ではない)で固く締めつけた後、装飾的に胴繩を掛けてある(諸辞書の記載を綜合した)。

「小鼓」「こつづみ」。大鼓の項を対照参照されたい。桜材を用いて作った長さ二十五~二十六センチメートルの砂時計状の胴の両端に直径約二十センチメートルの鉄の輪に馬皮を糸で縫いつけた膜を当てて、これを「縦調べ」で締めつけ、さらに「横調べ」を巻いてこれを絞めたり緩めたりすることで、皮面に加わる張力を加減し、叩き出す音に変化を加えることが出来る(諸辞書の記載を綜合した)。

「笛」ウィキの「笛」を見ると、ここに出、注で示した以外の固有な和楽器の笛としては、神楽笛(かぐらぶえ・龍笛(りゅうてき:『雅楽で用いられる横笛。催馬楽や大和歌にも用いる』)・篠笛(しのぶえ)・高麗笛(こまぶえ)・歌笛(うたぶえ)・出雲笛(いづもぶえ:『出雲大社の神楽や神事等で使われる竹製桜皮巻の横笛。龍笛に似ており出雲製』)・唐笛(とうてき)・明笛(みんてき)・簫(しょう:「笙」とは別楽器。)・一節切(ひとよぎり:長さ約三十四センチメートルの『管の中央に節が一つある真竹の縦笛。「一節切尺八」とも呼ばれ、尺八と相互に影響があったと思われる』もの)・天吹(てんぷく:『一節切に似た真竹の縦笛』)などがある。詳しくはリンク先を参照されたい。

「篳篥(ヒチリキ)」雅楽や雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う縦笛の一種。ウィキの「篳篥」より引く(一部のアラビア数字を漢数字に代えた)。「大篳篥」と「小篳篥」の二種があるが、『一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す』。『篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に七つ、裏側に二つの孔(あな)を持つ縦笛である。発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる』。『乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。もう一方には管とリードの隙間を埋める為に図紙(ずがみ)と呼ばれる和紙が何重にも厚く巻きつけて作られている。図紙には細かな音律を調整する役割もある。そして図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器のオーボエに近い構造である。リードの責を嵌めた部分より上を「舌」、責から下の部分を「首」と呼ぶ』。『音域は、西洋音階のソ(G4)から一オクターブと一音上のラ(A5)が基本だが、息の吹き込み方の強弱や葦舌のくわえ方の深さによって滑らかなピッチ変化が可能である。この奏法を塩梅(えんばい)と呼ぶ』。『雅楽では、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)と篳篥をまとめて三管と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。篳篥は笙や龍笛より音域が狭いが音量が大きい。篳篥は主旋律(より正しくは「主旋律のようなもの」)を担当する』。篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、和邇部茂光、大石峯良、源博雅、藤原遠理(とおまさ)などがいる。『亀茲が起源の地とされている』(亀茲(キジ/呉音・クシ/漢音・キュウシ/拼音・Qiūzī)はかつて中国に存在したオアシス都市国家で現在の新疆ウイグル自治区アクス地区庫車(クチャ)県付近、タリム盆地の北側の天山南路の途中に位置した。玄奘の「大唐西域記」では「屈支国(くっしこく)」と記されてある。ここはウィキの「亀茲」に拠る)。『植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った芦舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、紀元前一世紀頃から中国へ流入した。三世紀から五世紀にかけて広く普及し、日本には六世紀前後に、中国の楽師によって伝来された。大篳篥は平安時代にはふんだんに使用されていた。「扶桑略記」「続教訓抄」「源氏物語」などの史料、文学作品にも、大篳篥への言及がある。しかし、平安時代以降は用いられなくなった。再び大篳篥が日の目を浴びるのは明治時代であった。一八七八年(明治十一年)、山井景順が大篳篥を作成し、それを新曲に用いた』とある。

「錘(ツム)」“spool”。紡錘(つむ)。狭義の「つむ」は「糸を紡ぎながら巻き取る装置」であるが、この場合は、西洋の、主にアメリカで用いられる現行の「糸巻き」を指す単語である。「羯鼓」(かっこ:「鞨鼓」とも書く。元は雅楽の打楽器で鼓の一種。奏者の正面に横向きに置き、先端を団栗状にしてある桴(ばち)を使って左右両面を打つもの。主に唐楽で使われるが、曲の開始の合図を出す指揮者の役目をも担っており、羯鼓の奏者が桴を手にすることを他の奏者達は演奏開始の合図とする)は、確かに、あの馴染みのリール状の糸巻き枠、スプールによく似ているではないか。

「皇麞(ワウジヤウ)と拔頭(バツタウ)と云ふ變つた音樂」孰れも雅楽の唐楽で舞曲。「皇麞」は平調(ひょうじょう)で新楽の大曲であるが舞は現在伝わっておらず、「拔頭」雅楽。唐楽。太食(たいしき)調で古楽の小曲で林邑(りんゆう)楽の一つ。舞は一人の走舞(はしりまい)。同じ舞の手が続く型で、舞い難いと辞書にはある。

「北アメリカ印度人」「アメリカインド人は世界に於て最も勇敢なる人種」原文“a North American Indian”。アメリカ先住民である北アメリカの諸民族の総称である北米インディアンのこと。これも最早、原文の方が、すんなり読める。

「彼は本當の衣魚(シミ)である」原文は“He is a perfect bookworm”。文字通り、「本の虫」、書痴のこと。本を食うとされた昆虫綱シミ目 Thysanura に属するシミ(紙魚)類に擬えた和訳である。シミ類は、やや偏平で、細長い涙滴形形状や、体表面に銀色の鱗片が一面に並んでいる点、そして古くから本を食害すると思われていたことから「紙魚」と書かれる(英語では“silverfish”)。人家に生息する種は、確かに障子や本・和紙の表面を舐めるように食害はするものの、目立った食痕は残さない。実際に、書物に縦横のトンネル状の孔をあけて食い荒らすのは、鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属するシバンムシ(死番虫)類である(以上は概ねウィキの「シミ目」に拠った。因みに、気になる方のために言っておくと、ウィキの「シバンムシ」によれば、和名「死番虫」は『死の番人を意味するが、これは英名の“death-watch beetleに由来する。ヨーロッパ産の木材食のマダラシバンムシ』属 Xestobium 『の成虫は、頭部を家屋の建材の柱などに打ち付けて「カチ・カチ・カチ……」と発音して雌雄間の交信を行うが、これを死神が持つ死の秒読みの時計、すなわちdeath-watchの音とする迷信があり、先述の英名の由来となった』とある)。なお、最近は、洋の東西を問わず、「心霊写真」は下火になり、代わりに「ポルターガイスト」(ドイツ語:Poltergeist )が、特に西洋では大流行りであるが、私は半分はヤラセで、後の半分は、このシバンムシが正体と思っている。同種の音を外国の動画で視聴したが、驚くべき大きな音を立てることがあるのである。

「スペンサーの原理」これは理論名ではなく、既注のイギリスの哲学者で社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)の著作である“System of Synthetic Philosophy”(全十巻)の中の、一八六二年に刊行された“First Principles”(第一原理)のことであろう。ウィキの「ハーバート・スペンサーによれば、『社会進化論という概念は』彼の主要な『著作から発して』おり、『彼の著作『第一原理』は現実世界の全ての領野に通底する進化論的原理の詳しい説明で』、『ポピュラーな用語「進化」と共に「適者生存 (survival of the fittest) 」という言葉はダーウィンではなく、社会進化論のスペンサーの造語である』とある。

「リユイス」「Lewes Ceorge Henry Lewes1817―1878)有名なる女流作家 George Eliot の夫、『列傳體哲學史』『ゲーテ傳』等著作多し」ジョージ・ヘンリー・ルーイス(George Henry Lewes 一八一七年~一八七八年)はロンドン生まれのイギリス人作家。早くに学校を退学して最初は公証人事務所、次いでロシア商人の商館で働いた後、ドイツに滞在、ロンドンで『ペニー百科事典』などの雑誌に寄稿を始め、『リーダー』誌を編集したり、『隔週評論』を創刊編集した。既に結婚して子供もいたが、一八五四年から女流作家ジョージ・エリオット(George Eliot 一八一九年~一八八〇年)と生涯に亙る関係を持つようになった(ウィキの「ジョージ・エリオット」によれば、一八五一年に先の注に出るハーバート・スペンサーと知り合い、彼の紹介でルイースと知り合ったとある)。著作には悲劇や小説の他、「スペイン演劇」(一八四六年)「ゲーテの生涯と作品」(一八五五年)「生と精神の諸問題」(一八七四年~-一八七九年)などがある(以上は「ウィキまとめ」の「ジョージ・ヘンリー・ルイス」を元にした)。

「ジヨン・フイスク」「John Fiske1842―1901)アメリカの人。著作多し、進化論を基としたる著述もあり『The Idea of God』『The Destiny of Man』等あり」アメリカの哲学者・歴史家で進化論的哲学を宗教と結びつけたジョン・フィスク(一八四二年~一九〇一年)。

「小豆澤は人間學は中々修めて居る」分かりにくい。原文は“Adzukizawa has seen much of human life and character.”。平井呈一氏は『小豆沢は、人間の生活と性格を多分に見てきている男なのだ。』と訳されておられる。

「校長」原文“the director”で、これは「校長・主事」の意ではあり、平井氏も『校長』と訳しておられるのであるが、ここまで一度も、ハーンが親しく松江中学の校長と話すシーンは登場しないし、こうした小豆澤の批判的主張を伝えて気軽に訊ねることが出来る関係であったとは思われない。しかも答えは実に爽快である。これは一読、奇異に感ずる箇所で、私などは無意識にハーンと親しかった「敎頭」の西田として読んでいた。しかしここで訳者が「西田千太郞氏は當時校長心得の如き地位にありし故、西田氏の事」と注されており、まさにまさに目から鱗、当時の校長が皆目分からぬ私には、この訳注こそ注要らずの天の助けなのであった。

「十四年前」明治二四(一八九一)年からの単純計算なら、明治十年で、この人物が西田千太郎ならば、その当時は満二十九歳である。

「富有」「富裕・富祐」に同じい。

「基督敎の宣敎師が卑しい手段を弄して人に改宗を施さうとした時、橫木は大膽にその宣敎師の宅に赴いて彼の仕業の不德義なる事について彼と論じ、遂に彼を沈默さするに到つた」先に示した牧野陽子氏の論文「松江のハーン(二)」には、この箇所への言及がある。

   《引用開始》

 この宣教師がタットルのことか、それとも当時松江で伝道活動に従事していた他の人物のことかは明記されていない。一八九一年四月にはバークレー・F・バクストン(一八六〇-一九四六)という英人宣教師が松江に来て、長く留まることになるのだが、その前にいた人間が問題らしく、ハーンはチェンバレン宛の手紙(一八九三年二月四目)で、松江ではその「けだもの連中」のために、自殺したり発狂したりなどの悲劇的な事件が起きた、と怒りの口調で報告している。

 ハーンはたしかにキリスト教よりもギリシャや日本の多神教の方に心の安らぎを覚えた人である。しかし、晩年まで聖書を大切に持ちつづけ、子供にも聖書を読むように言ったことからもわかるように、必ずしもキリスト教の教え自体を拒否したわけではなく、ただキリスト教が宗教組織として見せる非寛容な排他性と唯我独尊性を憎み、日本の習俗に対する宣教師たちの依怙地なまでの無理解と傲慢さに腹を立てていた。それだけに、横木の毅然とした行動には快哉を送ったに違いなく、ハーンが親しくした何人かの学生の中でもとりわけ横木や石原を愛したといわれるのは、二人の優秀さのみならず、こうしたことが背景にあったと思われる。

   《引用終了》

前段の検証は勿論、後段の解析も非常に示唆に富むものである。

「足下」二人称人代名詞。同等或いはそれ以下の相手に用いる敬称代名詞。貴殿。

「病軀、腦髓の譯は志田の原文を知つて居られる小豆澤氏(藤崎大佐)の敎示による」煩を厭わず、訳文と原文を並置してみる。

   *

   'Thou, my Lord-Soul, dost govern me. Thou knowest that I cannot now govern myself. Deign, I pray thee, to let me be cured speedily. Do not suffer me to speak much. Make me to obey in all things the command of the physician.

   'This ninth day of the eleventh month of the twenty-fourth year of Meiji.

   'From the sick body of Shida to his Soul.'

   *

 わが腦髓足下、足下は我を支配せり。足下の知れる如く今や我、自らを支配する事能はず。我願ふ、速に我を囘復せしめよ。我をして多く話さしむる勿れ。我をして萬事醫師の命に服さしめよ。

 明治二十四年、十一月九日。

          志田の病軀より志田の腦髓へ

   *

「腦髓」は“my Lord-Soul”、「病軀」は“the sick body”で、前者は「わが支配者たる魂」で、流石に、これを「脳髄」と訳すことは。普通なら、しない。まさに藤崎大佐のお蔭で、亡き志田の肉声に我々が触れることが出来ることを、幸いとせねばならぬ。

「明治二十四年、十一月九日」この日付に注意されたい。既に述べた通り、この前の「十七」は冒頭には、

 一八九一年六月一日のクレジット

が、そしてこの次の「十九」の冒頭には、

 一八九一年九月四日のクレジット

がそれぞれはっきりと示されてある。

 一八九一年は明治二十四年

である。

 無論、ここでは愛する教え子の思い出をそれぞれに記しているのであって、時系列に前後が生じたとしても必ずしも不審ではない

 しかし――である。問題はこれより後にある。

 さてもハーンは、この明治二四(一八九一)年の十一月に、出雲の堪え難い寒気を理由(それ以外にも、実は異人の妻となったセツに対する心ない噂や差別なども、理由の一つとしては、有意にあったようである)として熊本第五高等学校に転任しているのであるが、その熊本への転居のために彼が松江を去ったのは「八雲会」の「松江時代の略年譜」から、

 明治二四(一八九一)年十一月十五日の午前九時(大橋西桟橋より汽船にて出発)

であったことが判っている

 さて、以下、読んでいかれると分かるが、「二十二」の冒頭には、

 明治二四(一八九一)年十一月二十六日のクレジット

が示された上、

 翌日(十一月二十七日)には横木が志田の墓の側(そば)に葬られる

とある。いや、それどころか、「二十三」では、

 ハーンは同日(推定)に今生の別れとして横木の「死に顔」をさえ見ている

のである。次の「二十四」の冒頭には、

 明治二四(一八九一)十二月二十三日のクレジット

が示された上で、寺で行われた横木の追悼会(事実は、同じ松江中学生で先に逝った志田や。今一人の生徒を含む合同の追悼会)が描かれるが、そこでは

 現にハーンがその場に参列した者として、現前に確かに見たものとして、その追悼会が描かれてある

のである。

 しかし、確認されたい。

 ハーンは明治二四(一八九一)年十一月十五日に松江を去った

のであって、

 明治二四(一八九一)年十一月二十六日も、十二月二十三日もハーンは既に熊本におり、松江には居なかった

のである。この問題は既に述べた通り、最後の最後、「二十四」の私の注で明らかにしたい。なお、底本には、やはり「二四」に「譯者註」があり、この真相が語られていて、別段、新しい発見ではないのであるが、例えば、平井呈一氏などは一切、この事実ついて触れておられず、それで読んできた私は。今回、初めて、この真相を知らされたのである。私にとってはすこぶる衝撃的な事実であったことを先に告白しておく。]

 

ⅩⅧ.

   Among all my favourite students—two or three from each class—I cannot decide whom I like the best. Each has a particular merit of his own. But I think the names and faces of those of whom I am about to speak will longest remain vivid in my remembrance,—Ishihara, Otani-Masanobu, Adzukizawa, Yokogi, Shida.

   Ishihara is a samurai a very influential lad in his class because of his uncommon force of character. Compared with others, he has a somewhat brusque, independent manner, pleasing, however, by its honest manliness. He says everything he thinks, and precisely in the tone that he thinks it, even to the degree of being a little embarrassing sometimes. He does not hesitate, for example, to find fault with a teacher's method of explanation, and to insist upon a more lucid one. He has criticized me more than once; but I never found that he was wrong. We like each other very much. He often brings me flowers.

   One day that he had brought two beautiful sprays of plum-blossoms, he said to me:

   'I saw you bow before our Emperor's picture at the ceremony on the birthday of His Majesty. You are not like a former English teacher we had.'

   'How?'

   'He said we were savages.'

   'Why?'

   'He said there is nothing respectable except God,—his God,—and that only vulgar and ignorant people respect anything else.'

   'Where did he come from?'

   'He was a Christian clergyman, and said he was an English subject.'

   'But if he was an English subject, he was bound to respect Her Majesty the Queen. He could not even enter the office of a British consul without removing his hat.'

   'I don't know what he did in the country he came from. But that was what he said. Now we think we should love and honour our Emperor. We think it is a duty. We think it is a joy. We think it is happiness to be able to give our lives for our Emperor. [9] But he said we were only savages— ignorant savages. What do you think of that?'

   'I think, my dear lad, that he himself was a savage,—a vulgar, ignorant, savage bigot. I think it is your highest social duty to honour your Emperor, to obey his laws, and to be ready to give your blood whenever he may require it of you for the sake of Japan. I think it is your duty to respect the gods of your fathers, the religion of your country,—even if you yourself cannot believe all that others believe. And I think, also, that it is your duty, for your Emperor's sake and for your country's sake, to resent any such wicked and vulgar language as that you have told me of, no matter by whom uttered.'

   Masanobu visits me seldom and always comes alone. A slender, handsome lad, with rather feminine features, reserved and perfectly self- possessed in manner, refined. He is somewhat serious, does not often smile; and I never heard him laugh. He has risen to the head of his class, and appears to remain there without any extraordinary effort. Much of his leisure time he devotes to botany—collecting and classifying plants. He is a musician, like all the male members of his family. He plays a variety of instruments never seen or heard of in the West, including flutes of marble, flutes of ivory, flutes of bamboo of wonderful shapes and tones, and that shrill Chinese instrument called shō,—a sort of mouth-organ consisting of seventeen tubes of different lengths fixed in a silver frame. He first explained to me the uses in temple music of the taiko and shōko, which are drums; of the flutes called fei or teki; of the flageolet termed hichiriki; and of the kakko, which is a little drum shaped like a spool with very narrow waist, On great Buddhist festivals, Masanobu and his father and his brothers are the musicians in the temple services, and they play the strange music called Ojō and Batto,—music which at first no Western ear can feel pleasure in, but which, when often heard, becomes comprehensible, and is found to possess a weird charm of its own. When Masanobu comes to the house, it is usually in order to invite me to attend some Buddhist or Shintō festival (matsuri) which he knows will interest me.

   Adzukizawa bears so little resemblance to Masanobu that one might suppose the two belonged to totally different races. Adzukizawa is large, raw-boned, heavy-looking, with a face singularly like that of a North American Indian. His people are not rich; he can afford few pleasures which cost money, except one,—buying books. Even to be able to do this he works in his leisure hours to earn money. He is a perfect bookworm, a natural-born researcher, a collector of curious documents, a haunter of all the queer second-hand stores in Teramachi and other streets where old manuscripts or prints are on sale as waste paper. He is an omnivorous reader, and a perpetual borrower of volumes, which he always returns in perfect condition after having copied what he deemed of most value to him. But his special delight is philosophy and the history of philosophers in all countries. He has read various epitomes of the history of philosophy in the Occident, and everything of modern philosophy which has been translated into Japanese,including Spencer's First Principles. I have been able to introduce him to Lewes and John Fiske,—both of which he appreciates,—although the strain of studying philosophy in English is no small one. Happily he is so strong that no amount of study is likely to injure his health, and his nerves are tough as wire. He is quite an ascetic withal. As it is the Japanese custom to set cakes and tea before visitors, I always have both in readiness, and an especially fine quality of kwashi, made at Kitzuki, of which the students are very fond. Adzukizawa alone refuses to taste cakes or confectionery of any kind, saying: 'As I am the youngest brother, I must begin to earn my own living soon. I shall have to endure much hardship. And if I allow myself to like dainties now, I shall only suffer more later on.' Adzukizawa has seen much of human life and character. He is naturally observant; and he has managed in some extraordinary way to learn the history of everybody in Matsue. He has brought me old tattered prints to prove that the opinions now held by our director are diametrically opposed to the opinions he advocated fourteen years ago in a public address. I asked the director about it. He laughed and said, 'Of course that is Adzukizawa! But he is right: I was very young then.' And I wonder if Adzukizawa was ever young.

   Yokogi, Adzukizawa's dearest friend, is a very rare visitor; for he is always studying at home. He is always first in his class,—the third year class,—while Adzukizawa is fourth. Adzukizawa's account of the beginning of their acquaintance is this: 'I watched him when he came and saw that he spoke very little, walked very quickly, and looked straight into everybody's eyes. So I knew he had a particular character. I like to know people with a particular character.' Adzukizawa was perfectly right: under a very gentle exterior, Yokogi has an extremely strong character. He is the son of a carpenter; and his parents could not afford to send him to the Middle School. But he had shown such exceptional qualities while in the Elementary School that a wealthy man became interested in him, and offered to pay for his education. [10] He is now the pride of the school. He has a remarkably placid face, with peculiarly long eyes, and a delicious smile. In class he is always asking intelligent questions,—questions so original that I am sometimes extremely puzzled how to answer them; and he never ceases to ask until the explanation is quite satisfactory to himself. He never cares about the opinion of his comrades if he thinks he is right. On one occasion when the whole class refused to attend the lectures of a new teacher of physics, Yokogi alone refused to act with them,—arguing that although the teacher was not all that could be desired, there was no immediate possibility of his removal, and no just reason for making unhappy a man who, though unskilled, was sincerely doing his best. Adzukizawa finally stood by him. These two alone attended the lectures until the remainder of the students, two weeks later, found that Yokogi's views were rational. On another occasion when some vulgar proselytism was attempted by a Christian missionary, Yokogi went boldly to the proselytiser's
house, argued with him on the morality of his effort, and reduced him to silence. Some of his comrades praised his cleverness in the argument. 'I am not
clever,' he made answer: 'it does not require cleverness to argue against what is morally wrong; it requires only the knowledge that one is morally right.' At
least such is about the translation of what he said as told me by Adzukizawa.

   Shida, another visitor, is a very delicate, sensitive boy, whose soul is full of art. He is very skilful at drawing and painting; and he has a wonderful set of picture-books by the Old Japanese masters. The last time he came he brought some prints to show me,—rare ones,—fairy maidens and ghosts. As I looked at his beautiful pale face and weirdly frail fingers, I could not help fearing for him,—fearing that he might soon become a little ghost.

   I have not seen him now for more than two months. He has been very, very ill; and his lungs are so weak that the doctor has forbidden him to converse. But Adzukizawa has been to visit him, and brings me this translation of a Japanese letter which the sick boy wrote and pasted upon the wall above his bed:

   'Thou, my Lord-Soul, dost govern me. Thou knowest that I cannot now govern myself. Deign, I pray thee, to let me be cured speedily. Do not suffer me to speak much. Make me to obey in all things the command of the physician.

   'This ninth day of the eleventh month of thetwenty-fourth year of Meiji.

   'From the sick body of Shida to his Soul.'


9
   Having asked in various classes for written answers to the question, 'What is your dearest wish?' I found about twenty per cent, of the replies expressed, with little variation of words, the simple desire to die 'for His Sacred Majesty, Our Beloved Emperor.' But a considerable proportion of the remainder contained the same aspiration less directly stated in the wish to emulate the glory of Nelson, or to make Japan first among nations by heroism and sacrifice. While this splendid spirit lives in the hearts of her youth, Japan should have little to fear for the future. 
Beautiful generosities of this kind are not uncommon in Japan.

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