日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(16) 蜷川式胤の葬儀――谷中にて
図―715
図―716
今日蜷川の葬儀が行われ、私も招かれて参加した。彼は虎列刺(コレラ)で死んだので、その時は公な葬式が許されず、今や、三ケ月後になって、それが行われるのである。私は早くから竹中と一緒に、上野の後方にある墓地へ行き、葬列の来るのを待つ間、墓石を二 つ三つ写生し、そこで葬列が来たらそれをむかえる可く、主要な並木路を見ていた。間もなく葬列が来た。先ず竹竿のさきに新しい、白張の掟灯をつけたのを持った男が十二人、彼等は白い衣服をつけ、絹製の奇妙な形をした、黒い儀式用帽子をかぶっていた(図715)。これに続いて、巨大な花束を持った男が二人、次に六人の男が肩でかついだ長い物、つまり棺。これは勿論からだが、蟻川の死骸を代表している(図716)。これに従うのが送葬者で、蜷川の姉と坊、その他私の知らぬ人が何人か、歩いたり、人力車にのったりして来た。私は屢々このような葬列を往来で見て、本物だろうと思っていたが、その多くが単に名義上の葬式であることを知った。棺架は、四方がひらいた、然し風で前後にはためく白い幔幕でかこまれた、大きな建物の内にはこび込まれた。まったく寒い日で、そこに帽子を脱いで坐っていることは、楽ではなかった。
[やぶちゃん注:「蜷川」既注であるが、彼の葬儀のシークエンスであるので再掲する。モースの陶器収集の師であった蜷川式胤(にながわのりたね 天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)は京都東寺の公人(くにん:社寺に属して雑事に従った職員。)蜷川子賢の子として生まれ、明治二(一八六九)年新政府の制度取調御用掛として上京、太政官権少史・外交大録・文部省博物局御用・内務省博物館掛などを歴任したが、明治十年に病により辞任、この間、明治四年に開催された九段坂上の物産会、翌五年の湯島聖堂に於ける博覧会の開催に尽力、同年には近畿地方の社寺宝物検査に従事してもいる。その際、正倉院宝物調査の記録を残したことでもよく知られる。また、文化財の調査保存や博物館の開設を政府に建議し、日本の古美術を海外に紹介した功も大きい(ここまでは「朝日日本歴史人物事典」に拠る追加)。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、『民法編纂事業に参加してフランス民法を翻訳、同年四月外務省大録』(第十一等官)、『ついで五年から十年まで文部省博物局に在籍して社寺宝物調査に従事、正倉院や伊勢神宮を調査した。当時第一流の好古家で、陶磁器や古瓦などに造詣が深かった』。モースとは『明治十一年の晩秋までにはすでに交流があったと思われる』が、『両者の接触がいちじるしく緊密になるのは明治十二年に入ってからで、『蜷川日記』を見ると、一月から四月までにに約三〇回も会っている』とあり、彼の指導によって『モースの』陶器への『鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった』という。『こうして始まったモースの日本陶器コレクションの大半は、いまボストン美術館に納められており、現存点数は四七四六という。海外はもとより、国内にも単一のコレクションとしては並ぶものがほとんどない』とある。本書でも「第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし」(この陶器は考古学上の土器ではなく、本物の陶磁器のこと)などで、おいおい語られてゆくこととなる。因みに、モースは『漢字が読めなかったが、貝類を分類し同定(種類の識別)するのとまったく同じ流儀で、陶工の銘を子細に識別できた。このような熱心さを知って、師匠の蜷川も本腰を入れて指導したから、モースの鑑別力はめきめき上達して、まもなく専門家を驚かせるまでになった。「めんないちどり」といって、両眼を手拭で覆い、手と指の感触だけで焼物がどの系統の何焼か、誰の作かを当てる競技があるそうだが、蜷川式胤の孫の蜷川親正氏が父から聞いたところでは、モースはこの競技での正解率随一の人だったという』とある。モースが関西旅行中の八月二十一日に蜷川式胤は東京でコレラのために逝去していた。この葬儀の日付は明らかではないが(そもそも多くの蜷川の事蹟記載のコレラという死因説は、何と、本書のモースの記載に拠ったものであることが判った)、モースの「三ケ月後」というのが正確であるとすれば、治一五(一八八二)年の十一月中下旬に行われたということになる。描写の最後でしきりにモースが寒がっていることからも、既に初冬に近いことが判る。
「上野の後方にある墓地」谷中霊園。蜷川式胤の墓もここにある。
「大きな建物」推測であるが、これは現存しない私設の谷中斎場ではないかと思われる。ここは後に森鷗外・芥川龍之助・大杉栄と伊藤野枝などの葬儀も行われている知られた斎場であった。]
図―717
図717は、式が始った時、この建物の内部を、急いで写生したものである。棺架は左方に、二つの支持脚の上に、のっている。花は棺架の端の花入台に入っている。次に漆塗の卓が二個、その一つは他よりも背が低く、大きい方の卓には、蜷川の名前を書いた木の札が立てかけてある。これは葬列が持って来たので、一時的の墓石として使用される。卓には磨き上げた真鍮の盃その他や、黒い漆塗の台にのせた食物や、簡単な木造の燭台に立てた六木の蠟燭等がのっている。
いずれも頭をまるめ鬚(ひげ)を剃った僧侶が、美麗な錦襴の衣を纏って入って来て、写生図に示すような位置に坐った。両側の床几は主な会葬者の坐るところである。私は右側に、一人の高僧の隣に腰をかけた。この人は何等かの理由で他の僧侶達と一緒にならず、只祈りをいい続けた。坐っている僧侶は、祈禱書を開いて自分等の前の床上に置いたが、それはまるで見なかった。頭の僧侶が始めた、低い、つぶやくような音に、追々他の僧侶が加って行った。その昔は、私が何一つ、明晰な語を聞き出すことが出来なかったことから判断すると、恐らくまるで意味が無いのであろうが、興味が無いことは無かった。それは悼歌のように聞えた。このつぶやきがしばし行われた後、一人の僧侶が一対の大きな鐃鈸(ぎょうばつ)を取り上げて数回ガチャンガチャンと鳴らした。すると他の僧侶達は短い祈禱をなし、両手の内で頭をぐるぐる廻し、頭をひょっと動かしてそれをやめ、再び誦経を始めたが、風は寒いし、これが永遠に続きそうな気がした。次に頭の僧侶(写生図に示す彼の頭は、実に正確に書いてある)が、再び鐃鈸が鳴った後で立ち上り、紙を大きく畳んだものを開いて、悲哀に満ちた、葬式的な音調で、蜷川の略歴、つまり彼が何であり、何をなした云々というようなことを、読み上げた。
[やぶちゃん注:蜷川の生家は前に記した通り、京都の東寺の公人であったから、これは真言宗による葬儀式と一応考えておく。
「鐃鈸(ぎょうばつ)」銅製の皿状の物を二枚打ち合わせて音を出すシンバル状の法会の際などに用いる鳴物の仏具。通常は「にょうばつ」「にょうはつ」「にょうはち」と読み、「鐃鉢」とも書くが、この「鐃鈸」の表記が正しい。]
図―718
この時蜷川の姉が立ち上り、図718に “incence”と記してある卓の前に立った。この卓の上には炭火を入れた物があり、その両側に香を入れた小さな容器がある。彼女は先ず両手を握り合せて低くお辞儀をし、左手の箱から香の一片を取って炭の上にのせ、再び低くお辞儀をして、席に戻った。次に甥が同じようなことをすると、驚いたことに、私の隣に坐っている日本人が、私に行けとつつくではないか。私は出来るだけの日本語で、彼に先にやってくれ、あなたのすることを一生懸命に見ているからと囁(ささや)いた。すると彼は、右側の箱から香を取った。いよいよ私が出て行かねばならなかったが、坊主が八人も並んでいる前で手を合わせ、低くお辞儀をし、右手の箱から香を出さねばならぬのだから、多少あわてざるを得なかった。
[やぶちゃん注:あなたはモースのように慌てたことはないか? 私はある。右と左の違いなぞもあるのかないのか気になって、大いに今でも時々私は慌てる。
「“incence”」「香」「香料」の意。]
涙を流すこともなく、その他の悲嘆の情も見えなかったが、この儀式には確かに真面目さと、荘厳ささえもがあった。建物の近くには五、六十人が立っていたが、恐らく帽子をかぶらぬ外国人が、長いアルスター外套を着て、会葬者の中にいるという新奇な光景を、不思議に思った事であろう。焼香が済むと式は終った。蜷川の姉は六十を越した老婦人であるが、私のところへ来て、会葬してくれた親切を謝した。甥も私に感謝した。妻は翌日まで墓地へ行かない。この理由で蜷川夫人はこの式に列しなかつた。図718はこの式の平面略図で、僧侶や会葬者の位置を示すものである。
[やぶちゃん注:「アルスター外套」原文“ulster”。ダブル前で丈長の、ベルト及び着脱式フード及びケープの付いた耐寒耐水性の強い旅行用のコートである。名称は一八六七年頃にアイルランドのアルスター地方に誕生したことに由来するというから、この頃(明治一五(一八八二)年)はまだ比較的新しい製品であったものと考えてよいであろう。ここはサイト「Windsor-Heritage for Gentleman 着こなしの知恵と源流、ウィンザー公へのオマージュ」の「アルスター」に拠ったがそこには、『もともとアイルランドでの旅行用外套がやがて、イングランドでも使われるようになったものである』とし、一八七〇年代の『アルスターは男性用のみならず、旅行となれば女性にも使われたと』も言われ、第二次世界大戦『前までのイギリスでのアルスターは、ごく一般的なコートであった』とある。
「妻は翌日まで墓地へ行かない。この理由で蜷川夫人はこの式に列しなかつた」この異様な葬送儀礼については不学にして私は知らない。識者の御教授を乞うものである。]
図―719
図―720
図―721
図719は仏教の墓石で、これは古い形式である。石にあいている穴は、花を入れるためのものである。仏教の墓には、精神的の名前、即ち死後につける名前を使用する。神道だと、死者の本名と、彼の生涯の略歴とを刻む。神道の墓石は、それを切り出した時の、自然その儘の劈裂面を見せている。720と721の両図は神道の墓石である。
[やぶちゃん注:三基の墓はこの葬儀の折り、谷中にあるものをモースがスケッチしたものであろう。図719には墓石に、
「誓通教願信士(墓?)」
とあり、その下に二行で
「明治□□」「九月□□」
香立(ハーンの花立は誤り)には、
「森八」
(姓にしてはちょっとおかしい気もするが屋号か?)、背後の卒塔婆には、
「一月普現一切」
の文字が判読出来る。これは六祖慧能の法嗣である永嘉真覚(ようかしんかく)の「証道歌」の中の一節(訓読と訳は私の自在勝手版)、
一月普現一切水、一切水月一月攝諸。佛法身入我性、我性還共如來合。
(一月(げつ)普(あまね)く一切の水に現じ、一切の水月、一月に攝(せつ)す。諸佛の法身(はふしん)、我が性(せい)に入り、我が性、還(ま)た如來と合す。:中天の一箇の月は如何なる流れにも遍くその姿を映し、総ての流れに映る諸々の月影は中天の一箇の月に収束される。諸仏のまことの法身は己れの自性(じしょう)のうちに入り、己れの自性もまた如来とともにある。)
のそれの頭と読めるから、この墓主の宗旨は禅宗と思われる。「誓通教願信士」なり戒名の人物は不詳。
図720は一番右が、
「明治十五年二月書之」
二行目は、
「南部藩士」
主碑銘が、
「相馬大作之碑」
で、その左は
「施主 市川右團次」
「同藩士(以下、判読不能)」
と読めるように思う。驚くべきことに、これはかなり知られた人物の顕彰碑であることが判った。文政四(一八二一)年四月二十三日に南部藩(盛岡藩とも呼称)士下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主津軽寧親を襲った暗殺未遂事件の主犯下斗米秀之進の用いた別名がまさに相馬大作で、本事件は相馬大作事件とも呼ばれる。ウィキの「相馬大作事件」によれば、もとは古くからの『弘前藩主・津軽氏と盛岡藩主・南部氏の確執』を遠因とするもので(詳しくはリンク先を参照されたい)、『杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、津軽寧親の暗殺に失敗したため、秀之進は南部藩を出奔した。後に秀之進は幕府に捕らえられ』、翌文政五年八月に『千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられ』たとある。また、『東京都台東区の谷中霊園には招魂碑がある。この招魂碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取ったので』明治一五(一八八二)年二月に『右団次によって建立された』とある(下線やぶちゃん)。初代市川右團次(天保一四(一八四三)年~大正五(一九一六)年)は上方の派手なケレンを得意とした歌舞伎役者として知られる。ネット検索で谷中霊園甲二号五側に現存することが判った。
図721は、墓石に
「淺野善兵衛之墓」
香立に。
「淺野」
とある。「淺野善兵衛」なる人物は不詳。昔だったら、明日にでも谷中に探索に行くところだが。……何方か、代わりに探って下さるまいか?
「劈裂」「ヘキレツ」と音読みしているのであろう。「劈」は訓では劈(つんざく)く・劈(さ)くと読む。]
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