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2015/11/18

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (二十二)

         二二   一八九一、十一月二十六日

 

 横木は明晩、友人志田の側に葬られるのである。

 貧しい人の臨終に、友人や隣人がその家に來てできるだけの世話をする。遠い親戚へ通知をやる者もある、凡て必要な準備をする者もある、又死んだときまれば僧侶【註一】を迎へに行く者もある。

 

    註一。全然神道の人か或は神佛兩方

    に屬してゐても、葬式は神道の式に

    する人はこの限りでない。松江では、

    高い位地の役人などは、きまつて神

    式で葬式をする。

 

 僧侶は使が行かぬうちに、檀家の人が夜、死ぬのを知つて居ると云はれる、死んだ人の魂が寺の戸を一度ひどくたたくからである。それから寺僧は起きて僧衣をつける、そして使が來る時『承知して居ります、用意して居ります』と答へる。

 その間に屍骸は家の佛壇の前に運ばれて床の上に置かれる。頭には枕が置いてない、拔身の刀は惡魔除けに手足のところに置いてある。佛壇の戸は開かれ先祖代々の位牌の前には蠟燭をともしてある、そして香を焚いてある。親戚友人は皆香を贈る。それ故如何に珍らしく貴くとも、外の時に香を人に贈るのは不吉となつて居る。

 しかし神棚は白紙で見えないやうに隱される。戸口に打ちつけてある神社のお札は凡て忌中はつつみ隱されねばならない【註二】。凡てその間は家人は誰でも神社に近づいたり、神に祈つたり、鳥居をくぐつたりしてはならない。

 

    註二。死者が神式で葬られる場合は

    別。松江では忌は五十日。五十一日

    目に一家殘らず圓城寺灘(圓城寺の

    ある山のふもとの湖岸)ヘ行つて淸

    めの式を行ふ。圓城寺灘の岸に地藏

    の丈の高い石像があゐ。その前でお

    祈りをして、湖の水で手を洗ひ口を

    すすぐ。それから親戚へ行つて朝飯

    を喰べる、淸めの式は、なるべく、

    いつも未明に行はれる。忌中にはう

    ちの人は親戚知り合ひのうちで食事

    をしてはならない。しかし神式で葬

    式をした場合にはこんな儀式を守る

    には及ばない。

 

 屍骸とこの部屋の人口との間に屛風が擴げてある、白紙の一片に書いてある戒名は屛風の上にはつてある。死人がもし若ければ屛風はさかさに立てられねばならぬが老人の場合はさうはされない。

 親戚友人は屍骸の側で祈禱する。そこには一千の祈りをくりかへす間に、數へるための一千の豆粒の入つた箱が置いてある、その不慣れな旅路にある靈魂はこの祈りのために助かると信じられて居る。

 僧が來て讀經をする、それから葬送の準備になる。死體は温湯で洗つて眞白の着物を着せる。しかし死人の着物は左前に合せる。それ故偶然にでも、人の着物を外の場合そんな風に合せるのは不吉と考へられる。

 死體が木の駕籠のやうな物に見える妙な四角な棺に入れられた時、親戚は彼等の血を代表する男女それぞれの髮の毛や爪を切つて少しづつ入れる。そして棺の中へ六厘入れる、六道の辻に立つて居る地藏のためである。

 家で葬列ができる。僧が小さい鈴をならして先導する、童子が新佛の位牌を持つて行く。行列の先驅は全く男子の親戚や友人である。何かの意味を表はせる白い小旗を持つ者もある、花を持つ者もある、一同は提灯を持つ、――これは出雲では成人(オトナ)は夜葬られるからである、子供だけは晝葬られる。つぎに棺が來る、墓を掘つたり、葬式の助けをしたりするのを仕事として居る人々【譯者註】の肩に轎(カゴ)のやうにかつがれて居る。終りに女の會葬者が來る。

 この人々は頭から足まで幽霊のやうに白い頭巾をかむり白い着物を着て居る【註三】。提灯のあかりだけで照らされた出雲の葬式の行列のこの白衣の一群よりもつとまぼろしのやうな物は想像ができない。一度見たら屢々夢に歸つてくる物すごさである。

 

    註三。しかし昔の武家の葬式では婦

    人は黑いなりをした。

 

 お寺で棺は玄關の前の敷石の上に置かれる、そして讀經と悲しげな音樂とで別の佛事が行はれる。それから行列は再びつくられ、お寺の庭を一度廻り、それから墓地に進む。しかし死體は二十四時間の後でなければ埋められない、死んだと思つた人が墓のうちで生きかへる事のない用心である。

 出雲では火葬は殆んどない。この點に於ても外の點に於けると同じく神道情操の有力な事が明らかである。

 

    譯者註。出雲では『山の者』と云ふ。

 

[やぶちゃん注:「一八九一、十一月二十六日」「横木は明晩、友人志田の側に葬られるのである」事実のみを記す。ハーンはこの日附の十一日前の明治二四(一八九一)年十一月十五日に熊本第五高等学校に転任するために松江を去っている。
 
「圓城寺灘(圓城寺のある山のふもとの湖岸)」「圓城寺」松江市栄町(さかえまち)にある臨済宗妙心寺派鏡湖山円成(えんじょう)寺のことと思われる。「松江市雑賀公民館 STAFF BLOG」のそうだ!!堀尾家の菩提所 円成寺に行ってみようによれば、慶長五(一六〇〇)年に当時の藩主堀尾吉晴が富田(現在の広瀬)にあった城安寺を洗合山のふもと(現在の天倫寺の場所)に移してあらたに瑞応寺を菩提寺として建立、と同時に浜松の天徳寺より春龍和尚を迎えた。吉晴の孫にあたる忠晴が寛永一〇(一六三三)年に死去して堀尾家は断絶、その後、京極忠高が藩主となって、寛永一二(一六三五)年にこの瑞応寺を春龍和尚が隠居していた乃木村の元山(現在の栄町)に移し、堀尾忠晴の法号に因んで円成寺と定めたという。堀尾氏三代の菩提寺で堀尾氏所縁の遺品が残されている。初代住職春龍は「松江」という地名の名付親とも言われる。祖師ケ浦の直近(約二百メートル)で嫁ケ島の対岸に当たり、先に出た洞光寺からは西へ三百八十メートルほどの位置にある。

「死人がもし若ければ屛風はさかさに立てられねばならぬが老人の場合はさうはされない」「逆さ屏風」などの「逆さ事(ごと)」という葬送慣習はよく見られ、これは一般には死の世界と生者との棲む世界を遮断する境界機能と考えられている。ここに出る「左前」もその一種とも思われ、他にも例えば、「逆さ水」(湯灌の際などに水にお湯を注いでぬるくする)・帯の「縦結び」(こま結びを縦に結んだもので普通は横に結ぶところを逆にする)・「逆さ着物」死者の衣装を襟を足の方にして着せる)といったものがある(具体例は葬儀関連会社セキセー株式会社の公式サイト「お葬式プラザ」の逆さごとを参考にした。リンク先には図も出ており、分かり易い)。但し、この弱年と老年の違いは不詳。識者の御教授を乞う。

「棺の中へ六厘入れる、六道の辻に立つて居る地藏のためである」所謂、冥銭(めいせん)、「三途の川の渡し賃」などと称する六文銭・六道銭のことである。

「何かの意味を表はせる白い小旗」葬式で用いる、死者の姓名・官位などを記した旗。銘旌(めいせい)。神道式では普通に用いられる。

「成人は夜葬られるからである、子供だけは晝葬られる」不詳。識者の御教授を乞う。

「白い頭巾をかむり白い着物を着て居る」本来、日本の伝統的な喪服は白であった(但し、喪に服さねばならない近親者のみの着用)。

「出雲では火葬は殆んどない」ウィキの「土葬によれば現在は、『「墓地、埋葬等に関する法律」においては火葬も土葬も平等に扱われているが、東京都や大阪府、名古屋市など、条例(東京の場合は「墓地等の構造設備及び管理の基準等に関する条例施行規則」)によって土葬を禁じている自治体があ』り、『条例制定をしていないその他の自治体の大半も内規レベル(土葬用墓地として使用する許可を出さない形)で禁止しており、土葬の習慣が残っているのは主に奈良県や和歌山県の一部等に限られている。許可を出している自治体の許可基準としては、「地下水などの飲用水に影響しない」「住民感情に配慮」「永代にわたり管理できる」等が定められている』とあって、更に『天皇、皇族に関しては基本的には土葬であり、陵(墓)が築かれ埋葬される。しかしながら皇后を除く皇族は』昭和二八(一九五三)年に『薨去した秩父宮雍仁』(やすひと:彼は肺結核で亡くなったが、遺書を残しており、その中で「遺体を解剖に附すこと」・「火葬にすること」・「葬式は如何なる宗教にもよらない形式とすること」を指示していたため、妻の『勢津子妃が勅許を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許可、皇族としては異例の病理解剖が行われた』とウィキ秩父宮雍仁親王にある。なお、葬儀は皇族として最低限の神道形式で行われた後、無宗教での一般告別式が行われたとある)『親王以降、本人の希望で火葬される例が増えている』とある。

「山の者」既出既注。]

 

 

ⅩⅩⅡ.

November 26 1891.

   Yokogi will be buried to-morrow evening beside his comrade Shida.

   When a poor person is about to die, friends and neighbours come to the house and do all they can to help the family. Some bear the tidings to distant relatives; others prepare all necessary things; others, when the death has been announced, summon the Buddhist priests. [12]

   It is said that the priests know always of a parishioner's death at night, before any messenger is sent to them; for the soul of the dead knocks heavily, once, upon the door of the family temple. Then the priests arise and robe themselves, and when the messenger comes make answer: 'We know: we are ready.'

   Meanwhile the body is carried out before the family butsudan, and laid upon the floor. No pillow is placed under the head. A naked sword is laid across the limbs to keep evil spirits away. The doors of the butsudan are opened; and tapers are lighted before the tablets of the ancestors; and incense is burned. All friends send gifts of incense. Wherefore a gift of incense, however rare and precious, given upon any other occasion, is held to be unlucky.

   But the Shintō household shrine must be hidden from view with white paper; and the Shintō ofuda fastened upon the house door must be covered up during all the period of mourning. [13] And in all that time no member of the family may approach a Shintō temple, or pray to the Kami, or even pass beneath a torii.

   A screen (biobū) is extended between the body and the principal entrance of the death chamber; and the kaimyō, inscribed upon a strip of white paper, is fastened upon the screen. If the dead be young the screen must be turned upside-down; but this is not done in the case of old people.

   Friends pray beside the corpse. There a little box is placed, containing one thousand peas, to be used for counting during the recital of those one thousand pious invocations, which, it is believed, will improve the condition of the soul on its unfamiliar journey.

   The priests come and recite the sutras; and then the body is prepared for burial. It is washed in warm water, and robed all in white. But the kimono of the dead is lapped over to the left side. Wherefore it is considered unlucky at any other time to fasten one's kimono thus, even by accident.

   When the body has been put into that strange square coffin which looks something like a wooden palanquin, each relative puts also into the coffin some of his or her hair or nail parings, symbolizing their blood. And six rin are also placed in the coffin, for the six Jizō who stand at the heads of the ways of the Six Shadowy Worlds.

   The funeral procession forms at the family residence. A priest leads it, ringing a little bell; a boy bears the ihai of the newly dead. The van of the procession is wholly composed of men — relatives and friends. Some carry hata, white symbolic bannerets; some bear flowers; all carry paper lanterns,—for in Izumo the adult dead are buried after dark: only children are buried by day. Next comes the kwan or coffin, borne palanquin-wise upon the shoulders of men of that pariah caste whose office it is to dig graves and assist at funerals. Lastly come the women mourners.

   They are all white-hooded and white-robed from head to feet, like phantoms. [14] Nothing more ghostly than this sheeted train of an Izumo funeral procession, illuminated only by the glow of paper lanterns, can be imagined. It is a weirdness that, once seen, will often return in dreams.

   At the temple the kwan is laid upon the pavement before the entrance; and another service is performed, with plaintive music and recitation of sutras. Then the procession forms again, winds once round the temple court, and takes its way to the cemetery. But the body is not buried until twenty-four hours later, lest the supposed dead should awake in the grave.

   Corpses are seldom burned in Izumo. In this, as in other matters, the predominance of Shintō sentiment is manifest.

 

12 Except in those comparatively rare instances where the family is exclusively Shintō in its faith, or, although belonging to both faiths, prefers to bury its dead according to Shintō rites. In Matsue, as a rule, high officials only have Shintō funeral.

13 Unless the dead be buried according to the Shintō rite. In Matsue the mourning period is usually fifty days. On the fifty-first day after the decease, all members of the family go to Enjōji-nada (the lake-shore at the foot of the hill on which the great temple of Enjōji stands) to perform the ceremony of purification. At Enjōji-nada, on the beach, stands a lofty stone statue of Jizō. Before it the mourners pray; then wash their mouths and hands with the water of the lake. Afterwards they go to a friend's house for breakfast, the purification being always performed at daybreak, if possible. During the mourning period, no member of the family can eat at a friend's house. But if the burial has been according to the Shintō rite, all these ceremonial observances may be dispensed with.

14 But at samurai funerals in the olden time the women were robed in black.

 

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