日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(14) 手紙
桜井という、ふとった人のいい友人が、東京へやって来た。私は最初彼に名古屋であったが、その時は権左という名で呼び、同市で陶器をさがし、私を然るべき店へつれて行くことに大きに骨を折ってくれた。彼は瀬戸の初期の陶器に関する書類を持って来たばかりでなく、興味のある品をいくつか持って来て、私の荷づくりを手伝う為、かなりの費用を自分で出して、東京に滞在している。名古屋にいる彼の細君と娘とが、特別便で私に、或は元贇(げんぴん)と証明されるかも知れぬ、古い尾張の茶碗を送って来た。この贈物には片仮名で書いた手紙がついている。竹中が訳したところによると、それは以下の如きものである。
[やぶちゃん注:「桜井」「権左」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(二七六頁)によれば、桜井権三(モース原文からこれで「ごんぞう」ではなく「ごんざ」と読むのかもしれない)。先行する関西旅行の折り、四日間滞在(八月一日夕刻から五日夜まで)した名古屋で知り合った骨董商。
「元贇(げんぴん)」原文“a Gempin”。元贇焼(げんぴんやき)のこと。明からの帰化人であった陳元贇(ちんげんぴん 一五八七年~一六七一年:浙江道虎林出身で拳法家でもあった。本邦の鎖国前の元和五(一六一九)年に明末の動乱を嫌って長崎居留の明人を頼って来日し、浙江道の奉檄(ほうげき)使単鳳翔に従って上洛、京都所司代板倉伊賀守勝重に面会、武将文人の石川丈山らと親交を結んだとされる。詩文・製陶・拳法など多芸多才で、寛永二(一六二五)年(三十九歳)の頃に江戸へ出、福野七郎右衛門らの柔術家と接触、彼らに少林寺系中国拳法や接骨術及び十手使用法を伝授したと伝える。その後、江戸・京都・防長などの各地を流浪したが、晩年は尾張侯徳川義直に招かれて詩書を講ずる傍ら、瀬戸産の土を用いて陶作に妙技を揮った。名古屋にて没(以上は、名古屋情報サイト「えーなも.com」の「清洲越しと街並」に引かれた「大日本百科事典」の渡辺一郎氏の解説を参照した。リンク先では「元贇焼の御深井(おふけ)」の画像が見られる)が寛永(一六二四年~寛文一一(一六四四)年)の頃に名古屋で焼いた陶器。瀬戸産の陶土を用いた素地(きじ)に酸化コバルト系の呉須(ごす)で書画を描き、これに白青色の透明な釉(うわぐすり)を施した安南風の染付陶器。元贇焼と称して珍重されている。
「竹中」竹中成憲。既出既注。
以下は底本では前後一行空けで、全体が一字下げである。]
あなたに手紙を上げます。如何ですか。お達者ですか。私どもは、あなたが今度御丈夫であることをお祝いします。権左はあなたのところへ参り、あなたは彼からいろいろ買って下さいました。彼は私に沢山の金を送りました。私は大変にお礼を申します。私どもはこの茶碗を差上げ、私の感謝の意を表することをよろこびます。私どもはあなたがこれをお国へお持ち帰り下さることを願います。私はこの茶碗を、ある屋敷で手に入れました。これは非常に古いのです。何卒御使用下さい。私どもは、あなたが無事に御帰国になることを、非常に望みます。私どもは、只僅か申上るだけです。私どもは幸福です。私どもはお祝いいたします。
モース様へ
十一月十九日
母 つる
娘 はく
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