橋本多佳子 生前句集及び遺稿句集「命終」未収録作品(35) 昭和三十五(一九六〇)年 二十四句
昭和三十五(一九六〇)年
寒港を見るや軍港下敷に
[やぶちゃん注:「軍港」呉軍港。次の私の注も参照されたい。この句、句集掲載句ではないが、多佳子が亡くなって五ヶ月後の昭和三八(一九六三)年十月に呉市警固屋音戸の瀬戸公園内に、師誓子の、
天耕(てんかう)の峯に達して峯を越す
の句碑とともに師弟句碑として建っている。なお、参照した「ひろしま文化大百科」のこちらの記載に、この誓子の句については、『山口誓子句集「青銅」の』「広島行」と題する昭和三七(一九六二)年作の一連十六句の中の一句であるとし、『「倉橋島」の詞書があるので』、この句碑のある場所の対岸の、『今の音戸公園辺りから島の段々畑を遠望しての感慨か』と推定、さらに、『誓子は後に「自選自解」の中で、「天耕」は造語で「耕して天に至る」をつめたものと語り「倉橋島を裾からてっぺんまで見上げると、すっかり耕されている。それどころか、峯を越して裏側にもおよんでいる。そのような天耕ぶりに私は感動した」と述べている』とある。]
牡蠣割女日射せば老いの眼ひらきゐし
牡蠣割の一隅ほつと乳子泣くこゑ
牡蠣割場に一歩無言につきあたる
牡蠣割女休むゴム手套五指ひろげ
なだれる牡蠣一刀もつて牡蠣割女
[やぶちゃん注:これは年譜から、前年の十二月六日に呉で行われた「『七曜』支部結成記念俳句大会」に出席した折り、矢野町の牡蠣割場を見学した際の詠吟であろう。この時、広島県呉市吉浦新町の峠で『車を止め、旧要塞の監視台跡から呉軍港を望む』とある。]
昼の苦痛に走馬燈からくり見せ
鉄格子土用赤星真直ぐに容れ
[やぶちゃん注:私はこの句、勝手に杉田久女追懐の夢想句と解していたが、恐らくは多佳子の入院中(後注参照)の嘱目吟であろう。それでもそこにはやはり久女の幻影が搖らめいているように私は感じている。
以上、『天狼』掲載分。]
川排尿友禅ざらしの水稼ぎ
めし食ふ火寒川に友禅しつめ
友禅ざらし風花にうつむく職
天地寒むしつみ友禅づかづかふみ
暗くぬくきガラス裡深雪より入る
何を叱咤寒き友禅ざらし工
母へ駆く睦火がみんな暮れ尖り
うぐひすや野は火走りし黒遺し
春枯山引きかへさざる鴉の翼(はね)
春の埠頭こゑぬける鉄管に遊び
艀溜り霞みて汚れて陽と襁褓
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「艀溜り」は「はしけだまり」で、河川・運河などの内陸水路や港湾内に於いて重い貨物を積んで航行するために作られた平底の船舶の係留場のこと、「襁褓」は「むつき」で赤ん坊の「おむつ」である。]
斑猫の誘惑病歩山へかけ
秋さだか重湯(おもゆ)にまじる米の粒
うろこ雲一(ひと)日ベッドになだれなだる
露走り病院ガラスそこが透く
黙つづけ醜きざくろつひに割る
[やぶちゃん注:多佳子はこの年の七月に胆嚢を病んで大阪中之島の大阪回生病院に入院している(三年後の死の直前の開腹手術では肝臓と胆嚢に癌があり、既に周囲リンパ節に転移していたためにそのまま閉腹したことを考えると、この時に既に癌が発症していた可能性が高いかと思われる)が、堀内薫の底本年譜には、この入院を契機として『多佳子俳句の新声、新境地の句』が作られたとして、句集「命終」所載の、
九月来箸をつかんでまた生きる
九月の地蹠(あうら)ぴつたり生きて立つ
を引き、『みずからベッドの上でしゃぼん玉を吹いて遊ぶ』として、同じく「命終」から、
しやぼん玉吹いてみづからふりかぶる
を引く。更に『大喜多冬浪が病気見舞に持参した柘榴を喜ぶ』(大喜多冬浪は「おおきたとうろう」と読む。俳人であること以外は所属など私には不明)として、
紅き実がぎつしり柘榴どこ割つても
深裂けの柘榴一粒だにこぼれず
の二句を同じく引いている(年譜では「割って」もと拗音化してあるが、「命終」に準じた)。この一句もその柘榴の最後の一つででもあったのであろう。
以上、『七曜』掲載分。多佳子、六十一歳。]
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