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2015/12/31

幻化へのオマージュ

久住二曹! 只今帰って参りマシタッ! 永いアイダ! 永いアイダ!! 申しわけ!……ありませんでしタ!!……

NHKドラマ「幻化」より)

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (6) 凧について(Ⅱ)(終り)

 
M748

図―718

 

 図718は長さ三フィートもある紙鳶の写生図で、点線はその前面で、糸が紙鳶を支える主な糸に結びつく可くつけられる場所を示す。子供達は合衆国の子供達がすると同じように、紙の円盤を糸にのせて上へあがらせる。我々はこの紙を「使者」と称したが、日本の子供はこれを「猿」と呼ぶ。一つの提灯、屢々二つの提灯を送りあげるが、夜間にはそれに火を入れる。紙鳶から、それをあげる糸に結びつく糸は数が多く、そして非常に長い。これ等の糸は、枠をなす竹の条片が交る点から、上からも下からも出ているらしく、そして大きな紙鳶では、条片が上下左右斜にあるので、それ等の交叉点は沢山ある(図749)。我々の紙鳶あげは日本の方法や装置に比較すると、お粗末極るものである。男の子の群が、その殆どすべてが背中に赤坊をくくりつけて、統鳶をあげているのは、奇妙な光景である(図750)。

[やぶちゃん注:前注で告白した通り、私は凧に冥い。「使者」(原文“messengers”)とか「猿」(原文“monkeys”)とか言われても全く不明である。凧の上げ方をネット見ても、そういう凧上げのプレの手法に行き当たらない。悪しからず。

「三フィート」九十一・四センチメートル。]

M749_m751

図―749[やぶちゃん注:三つあるものの内、一番上の図。]

図―750[やぶちゃん注:三つあるものの、中央にある図。]

図―751[やぶちゃん注:三つあるものの内、一番下の図。]

 

 長崎で普通に見受ける紙鳶は図751に示す。只一本のまっすぐな竹の条片の上部には、それを引っかける鉤があり、頂点から、数インチ下に長さ四フィートの竹の条片を縦の条片に結びつけ、それを弓のように鸞曲させる。この弓の両端を引きしめる二本の糸は、四フィート下で縦の骨に結ばれる。この骨組の上に紙を張りつけ、約五分の一の円欠を形づくる。紐は弓の結び目と、紙鳶の底部とに取りつけ前方へ六フィート出ている。紙鳶の下には、非常に長い尾がぶら下る。

[やぶちゃん注:ウィキの「凧」から歴史と長崎のそれ(長崎では特に凧のことを「ハタ」と呼ぶ)についての記載を引いておく。『日本では、平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に凧に関する記述が登場し、その頃までには伝わっていたと思われる』。『日本の伝統的な和凧は竹の骨組みに和紙を張った凧である。長方形の角凧の他、六角形の六角凧、奴(やっこ)が手を広げたような形をしている奴凧など、各地方独特のさまざまな和凧がある。凧に弓状の「うなり」をつけ、ブンブンと音を鳴らせながら揚げることもある。凧は安定度を増すために、尻尾(しっぽ)と呼ばれる細長い紙(ビニールや竹の場合もある)を付けることがある。尻尾は、真ん中に』一本付ける場合と両端に二本付ける場合とがある。『尻尾を付けると回転や横ぶれを防ぐことができ、真上に揚がるように制御しやすくなる』。十四世紀頃からは、『交易船によって南方系の菱形凧が長崎に持ちこまれはじめ』、十七世紀には『出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じたことから、南蛮船の旗の模様から長崎では凧をハタと呼び』、ここに出るような菱形の凧が盛んになった。『これは、中近東やインドが発祥と言われる菱形凧が』十四~十五世紀の『大航海時代にヨーロッパに伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる』とある。『江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだった』。『長崎でも、農作物などに被害を与えるとして幾度となく禁止令が出された』。『競技用の凧(ケンカ凧)には、相手の凧の糸を切るために、ガラスの粉を松ヤニなどで糸にひいたり(長崎のビードロ引き)、刃を仕込んだ雁木をつけたりもした』(これについてもモースは既に第十五章 日本の一と冬 凧上げで子細に記載している)。『明治時代以降、電線が増えるに従い、市中での凧揚げは減っていくが、正月や節句の子供の遊びや祭りの楽しみとして続いた』。

「数インチ」一インチは二・五四センチメートル。

「四フィート」約一・二二メートル。

「円欠」原文は“a segment of a circle”。円弧のこと。

「六フィート」約一・八三メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (5) 凧について(Ⅰ)

 忙しい最中の紙鳶店は、奇妙な、そして新奇なものである。店の前面はあけはなしで、枠に布を張った大きな其烏賊の形をした、変った看板の、布製の腕は風にゆれ、それ全体があざやかに彩色してある。それを書く字は違うが、紙鳶も烏賊も語は同じなので、烏賊を看板にする。

[やぶちゃん注:「紙鳶も烏賊も語は同じなので、烏賊を看板にする。」原文は“Though different characters are used in writing it, the word for kite and for cuttlefish is the same; hence the use of a cuttlefish for a sign.”である。底本ではこの「烏賊」の直下に石川氏による『〔章魚〕』という割注が入る。しかし石川氏は「紙鳶」で「たこ」と呼んでおられるものと思われるが(だからこそ割注をして訂「正」されたと推理する)、実は辞書を引くと例えば三省堂「大辞林」では「いか」の見出しで「紙鳶・凧」が出、意味として『〔形が烏賊(いか)に似ていたことから〕凧(たこ)。いかのぼり。関西地方でいう。』とあるのである。私も「烏賊幟(いかのぼり)」の呼称を知っているし、それが「凧(たこ)」の別称として認識している。ウィキの「凧」には、『凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、関西の方言では「イカ」「いかのぼり」(紙鳶とも書く)と明治初期まで呼ばれていた江戸時代になると「紙鳶」と書いて「いかのぼり」と読むようになった。「いかのぼり」を売る店もあり、日常的に遊ぶ娯楽になった。しかし「いかのぼり」を揚げている人同士でケンカになったり、通行の邪魔になったり、大名行列の中に落ちたりといった問題も起きていた』。一六五〇年代(慶安三年から万治元・明暦四年まで:徳川家光が慶安四年に死去しているから、ほぼ第四代将軍家綱の治世)に『「いかのぼりあげ禁止令」や「タコノボリ禁止令」などの高札が立ち、この頃から「たこ」という呼び方に変わった。凧が「タコ」や「イカ」と呼ばれる由来は凧が紙の尾を垂らし空に揚がる姿が、「蛸」や「烏賊」に似ているからという説がある』とある(下線やぶちゃん)。私は形状からは寧ろ、烏賊で違和感がない。……そもそも私はもうじき五十九になるが……五十九年の間……幼稚園の時……住んでいた大泉学園の家の隣りの空き地を……泣きながら凧を引きずった哀しい記憶はあっても……ブンブンと凧を楽しく上げた記憶なんど……これ……全く以って皆無という……悲劇的に不幸な元少年なのである……]

M747

図―717

 

 図717は紙鳶屋の一軒を、急いで写生したものである。内部には何百という紙鳶が積み上げてあり、二、三人の男が、もっともあざやかな色で鬼や、神話的のものや、気味の悪いお面や、その他の意匠を描いている。外側には大小とりどりの子供が立ち並び、熱心に紙鳶を見ている。前にいる子供の頭ごしに写生をしていると、一人の老人が気持よく微笑を洩し、別の職人も愛想よく私を見たが、彼等は小さいお客様の相手をするのに多忙を極めていたので、一瞬間たりとも仕事の手を休めなかった。見受けるところ、彼等の一年間の生活は、紙鳶をつくる数週間に集中されているらしい。値段は著しく安いように思われた。あざやかな色彩で、ごてごて装飾された大きな紙鳶が三セント半で売られ、とばせることの出来る小さなのは半セントである。子供が紙鳶を一つ買うと、店の人は糸目をつける。

[やぶちゃん注:先の黒田侯に鷹狩に招待されたのが明治一五(一八八二)年一二月二十四日、モースの離日は翌明治十六年二月十四日で、この年は日本で年越ししている。ここで子らが紙鳶屋(たこや)に凧(たこ)を買いに群がっているのも腑に落ちよう。]

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 臺村

臺村〔駄伊牟良〕 山崎村より分れしと云、されど【北條役帳】にも此地名見えたれば、永祿巳前既に分折せしと知らる、小坂郷に屬せり、江戸より行程十二里、東西十七町餘、南北六町許〔東、山之内村、西、戸部川を隔て岡本村、北、小袋谷村、山崎村、艮、大船村、〕民戸六十一、藤澤より鎌倉への往還村の北方を通ず〔巾二間より四間に至る〕又戸塚より鎌倉への路、小袋谷村より入り〔巾六尺〕村界にて前路に合す、貞享元年國領半兵衞重次檢地す〔右檢地は慶安以前成瀨五左衞門重治改し云〕當村古は松石齋の知行なりしを、松田助六郎・關彌次郎等買得せしこと【北條役帳】に見え〔曰、町田助六郎・買得六十貫三百六十文、臺之村、元松石齋知行、又曰、關彌次郎、買得六十貫三百六十文、臺之内元松石齋知行、〕今石野新左衞門・別所小三郎の知る所なり〔古は御料所、元祿十一年、石野・別所兩氏に頒ち賜ふと云ふ、〕

[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年。室町幕府将軍は第十三代足利義輝・足利義栄(よしひで)・足利義昭。

「十二里」約四十七キロメートル。

「東西十七町餘」東西凡そ二キロメートル。現在の鎌倉市台は北西の柏尾川右岸から南東の山ノ内との境まではまさに二キロメートルある。

「南北六町許」南北凡そ六百五十五メートル。試みに、現在の台の中央部に当たる「台」のバス停付近から山崎小学校裏手の山崎との境までを南北に計測すると六百メートル強ある。

「艮」東北。

「巾二間より四間」道幅三・七メートルから七・二七メートル。

「巾六尺」道幅一・八メートル。これが現行の鎌倉街道であるが、こちらは意外なことに異様に狭いことが判る。

「貞享元年」一六八四年。江戸幕府第五代徳川綱吉の治世。

「國領半兵衞重次」山崎村で既注。当時、藤沢宿代官。

「慶安」一六四八年から一六五一年。第三代将軍徳川家光と第四代家綱の頃。

「成瀨五左衞門重治」やはり山崎村で既注。藤沢宿代官。

「松石齋」不詳。

「松田助六郎」天正十八年は一五九〇年。既に述べた通り、「北條役帳」は「小田原衆所領役帳」のことと思われ、北条氏康が作らせた一族家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳で、後北条氏が永正一七(一五二〇)年から弘治元(一五五五)年にかけて領国内(ここ一帯も北条領であった)に於いて数度の検地を実施し、それに基づいて分限帳が作成されたものと考えられている。ブログ「歴探」の「天正十八北条氏直、松田助六郎に、討死した父右兵衛大夫の名跡を継がせる」に同姓同名の人物が出るが、天正十八年は一五九〇年で時代が合わないから違う。

「關彌次郎」不詳乍ら、本「新編相模国風土記稿」巻之四十六の「村里部 大住郡」の巻之五の「新土村」の項に、

   *

北條氏の頃は關彌次郎知行せり〔役帳曰、【役帳】曰、關彌次郎廿五貫四百文、中郡新土・今里此内十七貫百文、癸卯増分 按ずるに、癸卯は天文十二年なり〕

   *

と出、天文十二年は一五四三年であり、この人物と同一人かと思われる。

「石野新左衞門」不詳。

「別所小三郎」不詳。上記の石野ともに「今」とあるから、幕末の人間でなくてはならない。前者の名前は二件の幕末の古文書目録に見出せるが、同一人物かはどうかは不明。

「元祿十一年」一六九八年。]

 

○高札場二

 

〇小名 △市場〔毎月五日・十日、此所に市立て、諸物を交易す、右は紅花のみを鬻ぎしとなり、按ずるに、足柄下郡板橋村、舊家藤兵衞の家藏、天正十四年十二月、江雪の奉書に、市場新宿と見えしは、此地なるべし、この文書は、藍瓶役の税錢不納により、其村々に課する所にて、地名の次第、原宿、市場新宿粟船とあり共に近隣の地名なり、〕

[やぶちゃん注:「市場」「かまくら子ども風土記」(第十三版・平成二一(二〇〇九)年鎌倉市教育委員会発行・鎌倉市教育センター編集)によれば、現在もこの「市場」という地名が残り、の「市場公会堂」が建つ。そこは『「北鎌倉駅」から山ノ内通りを大船方面に向かって』七百メートルほど『行ったところで』、紅花以外にも『武将の使う優れた馬の市が立つこともあったといわれてい』るとある。因みに、この「かまくら子ども風土記」シリーズは何冊も持っているが、ジャリ版などと侮ってはいけない。「鎌倉市史」に書かれていない事柄が、より最新の知見で書かれているからである。古い版などは私の小学校時代の担任だった先生の名がずらりと並ぶ。

「右は」前に「諸物を交易す」とあるのと矛盾する。これは「古は」(いにしへは)の誤植ではあるまいか?

「紅花」は紅色の染料の原材料となるキク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius である。

「足柄下郡板橋村」現在の神奈川県小田原市板橋地区。箱根登山鉄道「箱根板橋駅」周辺で、早川に面し、旧東海道も通る。

「天正十四年」一五八六年。

「藍瓶」「あいがめ」で藍染めに於いて染料を入れる甕(かめ)、藍壺(あいつぼ)を指す。「役」とは後の税金未納からは染色職人の元締め役を指すか。

「粟船」現在の大船の古称である。]

 

○戸ヶ崎山 隣村山崎村天神山に相對す〔登一町許〕

[やぶちゃん注:現在の「水道山」(台四の附近)のこと。この山の西斜面からは縄文中期から古墳時代後期に至る住居跡が発見されているが、現在は宅地化されてしまった。

「一町」一〇九メートル。]

 

○戸部川 西界を流る〔巾十二間〕橋を架す、戸部橋と唱ふ〔長八間餘古は宮の修理に係る、今は當村・岡本・小袋谷三村の持なり、〕東隣山之内村より來たる一流小袋谷村界を流れ〔幅一間より三間に至る〕西方にて此川に注ぐ、

[やぶちゃん注:柏尾川の別称。既注。

「十二間」二十一・八メートル。氾濫原を含めた川幅であることが次の戸部橋の長さから判る。

「八間餘」十四・五メートル。

「東隣山之内村より來たる一流」鎌倉市山之内西瓜ケ谷附近の住宅地を水源とする小袋谷川(こぶくろやがわ)。戸部橋の直近で柏尾川に合流する。

「幅一間より三間」現在の北鎌倉駅付近で一・八メートル、柏尾川との合流地点で凡そ五・五メートルの謂いで、現在の小袋谷川とほぼ一致するように思われる。]

 

○稻荷社 山神・山王を合祀す、村持下同、

[やぶちゃん注:現在の台の南の、山崎との境界に近い山腹にある。現在は稲荷神のみを祀っている。]

 

〇八幡宮 神明・春日を合祀す、以上二社共に村の鎭神とす、

[やぶちゃん注:これは現在の神奈川県鎌倉市台二〇四四(台地区は横須賀線の東北側に張り出しているが、その線路を渡った向こう側の山ノ内との境にある通称を「小八幡さま」「小八神社」とする八幡神社である。神奈川神社庁公式サイト内のこちらによれば、『元禄十一年(一六九八)、将軍綱吉、小坂郷台村を石野、別所両人に領ち賜う。別所氏の領地は藤沢、鎌倉間。及び戸塚、鎌倉間の要路に当れるを以て、毎月五、十日の両日に市を立て諸物を売買交易し漸時股賑を来たし、小名を市場と称するに至りき、ここに領主別所氏享保二〇年(一七三五)八月十一日を吉日と撰び、字亀井なる高地を神地と定め平素敦く尊信せし石清水八幡宮を勧請し鎮守とす。「相模風土記」に「稲荷社、八幡宮二社ともに村の鎮守とす。とあるは当八幡神社を言えるなり」とある。又「神明、春日を合祀す」とも記されている』。『社殿は関東大震災で全潰し、大正十五年十二月十日、再建し現在に至る』とある。前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、先の市場(直近にあった)の鎮守であったとある。]

 

○神明宮

[やぶちゃん注:現在の台四にある通称「台のお宮さん」「お伊勢さん」と呼ばれる神明神社。前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、戦国時代の元亀年間(一五七〇~一五七三年)に山ノ内で疫病が流行した際、村人が伊勢神宮にお参りして天照大神を移し、疫病退散を祈念したと伝え(別伝承もあり)、旧社殿は慶安元(一六四八)年に火災で焼失、その後承応三(一六四五)年に再建され、嘉永七(一八五四)年に改築されたものとある。]

 

○諏訪社

[やぶちゃん注:岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳(寺社散策)」のによれば、前の神明宮に合祀されたとある。]

 

○第六天社

[やぶちゃん注:同じく前注のサイト記事に、やはり前の神明宮に合祀されたとある。]

 

○東溪院 德藏山と號す、臨濟宗〔足柄下郡湯元村早雲寺末、〕彌陀を本尊とす、

[やぶちゃん注:貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、延宝八(一六八〇)年に豊後の岡藩第三代藩主中川久清(ひさきよ 慶長二〇(一六一五)年~天和元(一六八一)年)に娘の供養のために建てた位牌堂であったが、明治八(一六八〇)年に廃絶されたとある。現在の山ノ内にある光照寺(優れた板碑があり、近年は隠れたあじさい寺なんどとも呼ばれる)の山門はこの寺のそれを移して建てたとも伝えられ、この寺の本尊であった釈迦如来坐像も光照寺にあると記す。]

 

○觀音堂 正觀音を安ず、村持下同、

[やぶちゃん注:前掲の「かまくら子ども風土記」によれば、先に出た「小八幡さま」に登る石段の左側崖下に聖観音を祀ったお堂があり、地蔵菩薩も安置されていたが、藁葺の古い建物で台地区の所有となっていたが、昭和四〇(一九五五)年頃に壊されたとある。]

 

○菴 龜井堂と呼ぶ、彌陀を置、

[やぶちゃん注:現存しない。「鎌倉廃寺事典」の「その他」に、ただ『亀井堂 台、村持。本尊阿弥陀』一行あるのみで、現在の例えばサイト「いざ鎌倉」の「鎌倉郡三十三箇所」にある鎌倉三十三観音霊場には第十三番に「亀井堂」とあるが、そこには所在地が「鎌倉市台(市場公会堂)」となっている。この「龜井堂」には観音菩薩像もあり、それが今、市場公会堂に安置されているということになるようだが、本当にそうだろうか? 寧ろ、前の「觀音堂」の観音像がここに置かれていると考えるのが自然だと思うのであるが?]

 

○地藏堂

[やぶちゃん注:恐らくはこれも現存しない。前掲の「かまくら子ども風土記」にある『台地蔵堂跡(公会堂)』というのがそれであろう。『室町時代の作と見られる地蔵菩薩像が』二体あり、一体は高さ六十八センチメートル、今一体は約三十四センチメートルのもので『現在は鎌倉国宝館に保管されて』おり、現在、この場所は『台公会堂になってい』る(前に出た市場公会堂とは別で、横須賀線(市場公会堂直近)を挟んで南西四百二十メートルの位置にある)とある。]

 

○塚三 熊野塚〔東北陸田間にあり上に松樹生ず〕富士山〔西北山上にあり、〕平塚〔村西にあり、何れも小塚なり、〕と唱ふ

[やぶちゃん注:孰れも不詳で現存しないと思われる。この内、「熊野塚」なるものは「東北陸田間にあり」とあることから、台地区の形状から見て、所謂、現在の小袋谷踏切の東北に張り出す部分、今の「台亀井公園」周辺のどこかとは推理し得る。また「富士山」は「西北山上」とあるのが、現在の地名である「富士見町」と方向も合致するので、この附近のピークかとは推測出来る。或いは、土地の人々が本物の富士の見えるそこに、富士講でミニチュアを作ったものかも知れない。]

芥川龍之介手帳 1―10

《1-10》

 

〇屋上の鷄 鵜船 渡船 牛車(俵をつむ 乞食 屋上の石 山法師 路傍の卒都婆塚 橋下の童子 釣す 洗馬(三人の下人)

○布すだれ 井戸 大刀持 うつぼ 鎧函持 主人 □の下人

[やぶちゃん注:旧全集は判読不能字を含む最後の箇所を「長の下人」とする。「長」ならば村長(むらおさ)などの「をさ(おさ)」であろう。前の「主人」と同一人か。]

○鼻ををたつる人 薪をつむ馬 柳 千鳥 鳥居

○兩がはの人 扇の間より見る人 棧じきに傘さして見る人 下人のさし傘 手に下駄をはくいざり

[やぶちゃん注:旧全集は「棧しき」と濁点がなく、「いざり」は「ゐざり」である。後者は正しい歴史的仮名遣に旧全集編者が訂した可能性が高い。「ゐざり」は足腰が立たない障碍者に対する差別語で、座ったままで尻を下につけたまま、或は、膝頭で進む動作を指すラ行四段活用の自動詞「躄(ゐざ)る」の連用形が名詞化したもの。そうした者で行乞(ぎょうこつ)する者を躄乞食(ゐざりこじき)などと蔑称した。「手に下駄を」履くというのは強烈なリアリズムである。]

○土まんぢうに卒都婆四本

     {岸に一人

○筏びき舟{水に三人

     {はなれて新に一人

[やぶちゃん注:旧全集は「筏ひき舟」と濁点がない。底本では三箇所の「{」は三行に亙る大きな一つの「{」。「筏びき舟」とは引き綱をつけて筏(いかだ)を曳航していく舟。ここに出るように、曳航する舟の引く力が弱かったり、遡上する場合は、岸や河原にあって人力による牽引も合わせて行うのは普通であった。]

○エボシがさ 4艘つなぐ

[やぶちゃん注:意味不詳。烏帽子を四つ合わせて傘に仕立てたものか。「艘」は中・小型の船を数える数詞であるが、烏帽子の形状は船形と言え、烏帽子の数詞に用いるのは如何にも腑には落ちる。]

○窓にひさし戸 下はあじろ 築地の門

[やぶちゃん注:「あじろ」網代。ここでは檜(ひのき)のへぎ板・竹・葦(あし)などを斜め或いは縦横に組んだ垣根を指す。「築地」は「ついぢ(ついじ)」で、「築泥(つきひじ)」の転訛。土を搗き固めて造った土塀、高級なものは瓦などで屋根を葺いてある。新全集にある以下の挿絵から見ると、後者である。]

Tuiji

[やぶちゃん注:新全集にのみにある手書の挿絵。勝手口が描かれてある。]

○およく子兒 田中のかかし 米俵をつけた牛 大きな扇

[やぶちゃん注:旧全集は「およぐ子兒」で意味は通ずる。]

○井戸にふたあり 俵をつむ牛

[やぶちゃん注:以上は、前の《1-9》の続きとすれば、王朝物というより、鎌倉末期(高時の名が出ている)の設定の幻の作品のスケッチの可能性もある。ロケーションからは京のように思われる。]

第一版新迷怪国語辞典 大分(おおいた)

大分(おおいた)

我々が「小学校卒業までに日本の四十七都道府県の名前と位置を身につけることが大切である」という「学習指導要領の目標」によって、何の疑念もなく「おおいた」と訓じている日本国の県名及び同県中央部の県庁所在地の地名及び市名。旧豊前(ぶぜんの)国の一部と旧豊後(ぶんごの)国に相当する。しかし「分」の音は「ブン・フン・ブ」、訓は「わける・わかれる・[国訓]わかる(認識するの意)」であって、「いた」という読みは存在しない。それを一切かっとばして「おおいた」と読むことを不思議に殆んどの日本人が無批判に「おおいた」という難読を受容している不思議な地名である。ウィキ大分の「名称」によれば、『現在の大分県の名は、古来国府が置かれていた大分郡(おおきたのこほり)に由来する。「おおいた」という読みは、「おおきた」が転訛したものである』。『さらに、大分郡の名の由来については、『豊後国風土記』によると、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と感嘆して名づけ、これが後に「大分」と書かれたとされている。しかし、大分平野は広大とは言えないため、実際には、狭くて入り組んだ地形に多くの田が造られている様子を形容した「多き田」が転じて「大分」になったとするのが最近の定説である』とあり、「おおいた」の語源である「おおきた」自体の意味は必ずしも自明とは言えない点でやはり我々が何の気なしに「おおいた」と読んでいるそれは、謎を秘めた地名であることに変わりはないのであるが、しかも日常に於いてそれを気に止める日本人は頗る少ないという、摩訶不思議な地名である。

柳田國男 蝸牛考 初版(14) 單純から複雜へ

       單純から複雜へ

 

 加太豆不利のもとカサツブラから轉靴したことが、かりに辯護の餘地なしと決しても、兎に角にそれが久しい期間、京都の唯一つの用語であつたことは事實である。然るに今日となつては前に示した如く、僅かに記錄と擬古文とに其痕跡を留むる外、全く邊隅に押し遣られて、後に出現した二通りの新語の外側に散點して殘るに過ぎぬといふことは、頗る自分などの主張せんとする方言周圈説を、裏書するに足ると思ふ。而うして此等新舊二名稱の交渉が、必ずしも爭鬪排他を以て終始しなかつたことは、既に澤山の實例があつたのである。即ち少なくとも領分の境堺近くだけでは、幾つかの異名は稍暫らくの間竝び行はれ、徐々に其中の一つが重きを爲す場合もあれば、或は又二つの語が程よく結合せられて、歌になつたり長たらしい語になつて殘らうとした。その目前の例はデンデンムシムシカタツムリもそれであり、又標準語のマイマイツブロも、一つの顯著なる複稱であつたことは、單獨にマイマイとのみ呼ばれる土地が、相應に弘いのを見てもわかる。さうすれば玆にツブロといふ一語が、既に其以前に實在し、それが又倭名鈔の加太豆不利よりも、今一段と古いものであつたことは、大よそ推定して差支へ無いわけである。カタツブリがマイマイ又はデエデエの新たなる波に押遣られて、外の波紋となつて遠く出たことが確かならば、そのツブロも亦同じやうに、どこかの一隅に行つて殘つて居てよいのであるが、果してどの程度にまで我々はその形跡を認めることが出來るだらうか。

[やぶちゃん注:「デエデエ」改訂版では「デェデェ」。]

 

 現在の方言分布に於ても、蝸牛を單にツブロと呼んで居る地方は、搜してみるとまだ決して希有ではない。宇都宮附近の或村にツーボロカイボロといふ童唄があるのは、越中下新川郡の海近くに、ツドロガエドロといふ名前があると同じく、あるいは口拍子の無意識なる變化とも見られるが、岐阜縣では武儀郡洲原村附近にツンブリといふ語が今もあり、その隣の山縣郡などでツンツンと謂つて居るのも、或は「つのつの」の歌がこれを誘ひ出したにしても、是と全く關係無しとは見られぬのである。丹波の福知山の如き京都に近い土地にも、やはりツンブリといふ蝸牛の異名がある。伊豫の吉田町はカタトの領域ではあるが、一種食用に供せられる蝸牛だけを、シマツブリと呼んで居たさうである。それから更に些少の變化を經た九州各地のツグラメ、及び是と同じであつたことが證明し得られる、奧州のクマグラなどを加算するならば、ツブラの領分はやゝ中央から遠いといふのみで、却つてその總面積に於てマイマイを凌駕するかとも思はれるのである。

[やぶちゃん注:「下新川郡」は富山県の郡で、当時は現在含まれている入善町(にゅうぜんまち)と朝日町(あさひまち)以外に、魚津市と黒部市を含んだ広域であった。

「武儀郡洲原村」「むぎぐんすはらむら」と読む。現在の岐阜県美濃市の北東部の長良川沿いにあった村。

「山縣郡」武儀郡(東西に分かれて飛び地状であった西側の板取(いたどり)村・洞戸(ほらど)村・武芸川町(むげがわちょう))の西に接していた。現在は岐阜県山県市。

「伊豫の吉田町」愛媛県の南予地方、宇和島の北方海岸域にあった町。現在は宇和島市の一部。

「一種食用に供せられる蝸牛」ウィキの「カタツムリ」によれば、『日本でもカタツムリを食べる文化は古くからある。例えば飛騨地方ではクチベニマイマイ』(腹足綱有肺目真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科マイマイ属クチベニマイマイ Euhadra amaliae:殻口が赤く、近畿地方・中部地方西部・伊豆諸島に分布する。参照したウィキの「クチベニマイマイ」によれば、『嘗て岐阜県飛騨地方の養蚕農家では、本種の殻を割り、肉に塩を振ってクワの葉に包み、囲炉裏に埋めて焼いたものを子供のおやつにしていた。また本種は湿度が上がると活動が活発になるため、クワの木に登っていると雨が近いとしてクワの葉の取り入れを行うなど天気予報にも活用していた』とある)『が子供のおやつとして焼いて食べられていた』。他にも『喉や喘息の薬になると信じられ、殻を割って生食することも昭和時代まで一部で行われていた(後述にもあるがカタツムリは寄生虫の宿主であることが多く、衛生的に養殖された物を除き生食する行為は危険である)。また殻ごと黒焼きにしたものも民間薬として使用され』、二十一世紀初頭でも『黒焼き専門店などで焼いたままのものや粉末にしたものなどが販売されている』。但し、『種類にもよるがカタツムリやナメクジ、ヤマタニシやキセルガイなどの陸生貝及びタニシ類などの淡水生の巻貝は広東住血線虫などの寄生虫を持っていることがままあり、触れた後にしっかり石鹸や洗剤で手や触れた部分を洗わなければ、直接及び間接的に口・眼・鼻・陰部などの各粘膜及び傷口から感染する恐れがある。また、体内に上記の寄生虫が迷入・感染すると、中枢神経系で生育しようとするために眼球や脳などの主要器官が迷入先である場合が多いので、罹患者は死亡または重い障害が残るに至る可能性が大きい。これら線虫類をはじめ寄生虫の多くは乾燥にも脆弱なので、洗浄後は手や触れた部位の皮膚をしっかりと乾燥させることも確実な罹患予防に繋がる』とある。但し、ここに出る「シマツブリ」の種は同定出来なかった。非常に興味がある。識者の御教授を乞うものである。]

 

 しかし私はその詳細に入つて行く前に、今少しく蝸牛をツブロ又はツブリと謂ふことの、至つて自然であつたわけを述べて見たい。人が最初に此語によつて聯想するのは、圓といふ漢字を日本語のツブラに宛てたことで、なるほどあの蟲の貝も圓いからと、單簡に片付けてしまふ人もないとは言はれぬが、二者の因緣は決してそれだけには止まらぬのであつた。紡績具の錘を北國の田舍などでツンボリと謂ふのは、或は圓いといふ形容詞からこしらへた語とも考へられようが、全體から言つて圓さといふ通念が、個々の圓い物よりも早くから名を持つて居た筈は無い。さうしてツブラ又は之に近い語を以て、言ひ現はされて居る「圓い物」は、今でも幾つかの實例があるのである。最も有りふれて居るのは人間の頭をオツムリといふこと、元はあんまり上品な語とも認められなかつたかも知れぬが、それでもさう新しい變化では無かつたと見えて、沖繩の群島でも北は大島に始まり、南は八重山の端の島に至るまで、ほとんど一樣に頭をツブリ・チブル又はツブルと呼んでいる。歐羅巴の諸國にも例のあることだといふが、日本でもこれは瓢の名から出た一種の隱語若くは異名の如きものであつたらしい。南の島々でも八重山と道の島の兩端では、夕顏をツブルと謂ひ、また時としてはマツブルとも謂ふから、知りつゝこの二つの物に同じ名を付與して居た時代はあつたのである。

[やぶちゃん注:「錘」「つむ」。既出既注。

「さうしてツブラ又は之に近い語を以て、言ひ現はされて居る「圓い物」は、今でも幾つかの實例がある。」の最後の箇所は、改訂版では『実例があって、いずれも一定の約束をもつているのである。』(ここはそのまま引いた)という挿入句が入っている。

「大島」南西諸島の中北部に位置する奄美群島最北の奄美大島のこと。実際に単に「大島」とも呼ぶ。現在の鹿児島県奄美市及び大島郡の龍郷町(たつごうちょう)・大和村(やまとそん)・宇検村(うけんそん)・瀬戸内町(ちょう)の一部(同町は奄美大島最南西端地域の他に加計呂麻島(かけろま)・与路(よろ)島・請(うけ)島などの有人島を町域とするため)からなる。

「ツブリ・チブル又はツブル」ここは底本では実は「ツブル・チブル又はツブル」と「ツブル」が二度出てしまっている。改訂版は最初が「ツブリ」で問題がない。特異的に本文を改訂版で訂して示した。因みに、ウルトラセブン』の第九話「アンドロイド0(ゼロ)指令」に登場する頭でっかちの(というか頭しかない)宇宙人チブル星人の名前のルーツである。脚本の上原正三は沖繩出身である(私は特撮オタクである)。

「歐羅巴の諸國にも例のあることだといふ」これは如何なる具体なものなのかは不明。全くの相同例で、「頭」に相当する単語が「瓢簞(ひょうたん)」を語源とする例なのか(但し、調べてみたがそのような例は発見出来なかった)、別なケースの酷似した例(但し、その場合よっぽど似ているものでないと対照例にならない)というのか? 識者の御教授を乞う。因みに、調べている最中に見つけた、富士敬司郎氏のサイト「たまねぎ地獄」のスプーン Spoonは面白く読んだ。必読!

「瓢」老婆心乍ら、「ひさご」と読む。瓢簞のこと。

「八重山の端の島」「端の島」は単なる一般表現で島の固有名ではない。八重山列島の「端(はし)」となれば最西端の有人島となれば、与那国島(現在の沖縄県八重山郡与那国町)しかない。]

 

 瓢簞は又佐渡の島に於てもツブルであつた。昔の水を汲む器は主として是であつから、今日の所謂釣瓶のツルべを、ツブレと發音する者を嘲笑することは、恥をかくまいと思へばもう暫らくの間見合さなければならぬ。「へ」といふ言葉は大抵は竈に屬して居る。ツルベといふ名稱こそ實はよほど恠しいので、事によると是も一つの「ツブラなる物」であつたかも知れぬ。ヒヨウタンはとにかくに日本語では無かつた。奧州は今でも一般に之をツボケと謂つて居る。ケとカイとコとの區別異同は玆で論じないが、とにかくに三つながら物を容れる器の總名であつた。そうすると土でこしらえた器をツボ、及び土器の製作者を鹿兒島縣などでツボ屋といふのも、共にこの北日本のツボケといふ語と、何等かの聯絡のあつたことが察せられるのである。

[やぶちゃん注:『「へ」』底本には実は鍵括弧は附されていない。読みにくいので私は挿入した。

「竈」老婆心乍ら、「かまど」と読む。

「ツルベといふ名稱こそ實はよほど恠しいので」老婆心乍ら、「恠しい」は「あやしい」と読む。この箇所は改訂版では『ツルベに釣瓶の文字を宛てた知識こそ實はよほど恠しいので』となっている。

「ヨウタンはとにかくに日本語では無かつた」「瓢簞」は現代中国語では「葫芦」で“húlu” (hu2 lu)「フゥールゥー」で表記も音も異なる。しかし、「瓢」は中国でも「ひさご。ふくべ。ひょうたん」の意で、それで作った飲み物を入れるための器(椀或いは柄杓やスプーン様のもの)、「簞」は竹を編んで作った小さな箱や飯櫃・破(わ)り籠(ご)の謂いで、「瓢簞」とは粗末な食器やそれを用いるような質素な食生活或いは衣食住の環境を指す。個人ブログ「ぱちくんとひょうたん」の「ひょうたんの語源の由来は逆だった!?」に、『全日本愛瓢会の湯浅浩史相談役によると、ひょうたんの名は誤解から生まれたそうだ。孔子の愛弟子、顔回(がんかい)は清貧で一汁一菜のような生活を送っていた。そのため食器は汁を入れる瓢(ひょう)とごはんを入れる箪(薄く削った竹を編んだ器)しか持っていない。それを孔子は「一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん」と論語で述べている。後にそれが「箪瓢」になり、平安時代にいつの間にか逆に「瓢箪」と取り違えて解釈してしまったという』とある。これは「論語」の「雍也第六」に出る以下に基づく。

   *

子曰、「賢哉囘也。一簞食。一瓢飮。在陋巷。人不堪其憂。囘也不改其樂。賢哉囘也。

子曰く、「賢なるかな、囘(くわい)や。一簞(いつたん)の食(し)、一瓢(いつへう)の飮(いん)、陋巷(らうかう)に在り。人は其の憂ひに堪えず。囘や、其の樂しみを改めず。賢なるかな、囘や。」と。

   *]

 

 蓋し轆轤といふものゝ使用をまだ知らなかつた時代の人が、土器をツブラする術は渦卷より他には無かつた。即ちツブラといふのは單に蝸牛の貝の如く圓い物といふだけでは無く、同時にまた粘土の太い緒をぐるぐると卷き上げること、恰もかの蟲の貝の構造の如くにしなければならなかつたのである。ツボといふ語がもとツブラといふ語と一つであつたことは、現に地中から出て來る一片の壺のかけを、檢査して見たゞけでもわかることであるが、この上代の製作技術の、今日まで其儘に保存せられて居るのがツグラであつた。ツグラは東北などではイヅメと謂い、またイヅコと謂つて居る。東京では單にオハチイレなどと稱して、今はたゞ冬の日の飯を冷さぬ爲に使用するのみであるが、甲信野越の國々を始めとして、ほとんど日本の田舍の半分以上に於ては、米の飯よりも尚何層倍か大切なもの、即ち人間の幼兒を此中に入れて置いたのである。日本國民の最も強健朴直なるものは、いつの世からとも無く、皆このツグラの中に於て成長したのであつた。それを作るの法は至つて簡單で、何れも破壞以前の陶作りと同樣に、藁の太い繩を螺旋狀に卷き上げて、中うつろなる圓筒形を作るのが即ちツグラであつた。續群書類從に採輯せられ師説自見集には、

   山がつのつぐらに居たる我なれや心せばさをなげくと思へば

     ツグラとはトグラといふ物の事か。わらうだか。五音歟

とも見えている。其ワラウダなるものの製法も略同じで、是も亦昔の日本人の家居生活に、缺くべからざるものであつた。一たび斯ういふ工作の順序を熟視した者ならば、我々の祖先が蝸牛をマイマイと呼び、又はカサパチと名けた以前に、之をツグラまたはツブラと名づけずに居られなかつた事情を、解するに苦しまなかつたことゝ思ふ。土器の工藝に大なる進歩があつて、忽ち是等の語は相互の脈絡を絶ち、個々獨立の符號の如くなつてしまつたけれども、幸ひに其痕跡だけはまだ方々に殘つて居る。たとへば東京などでは、藁のツグラをもう忘れてしまつた人々が、「蛇がトグロを卷く」といふ言葉だけは常に使つて居る。蛇の蟠まつて丸くなつて居ることを、肥前の平戸あたりではツグラ、佐渡の島でもツグラカクと謂つて居た。尾張の戸崎ではワヅクナルといふ。ワダカマルといふ動詞もウヅクマルといふ動詞も、中間にツクネル・ツクナルなどといふ俗言を置いて考へて見ると、やはり此のツグラに關係があつたのである。蛇のトグロを私たちの故郷では、普通には蛇のコシキと謂つて居り、壹岐の島ではコーラキと謂つて居る。豐前の小倉ではサラを卷くと謂ひ、越中でも富山近在ではサラになると謂ふ外に、一方頭の髮の旋毛もサラであつた。他の地方では河童だけにしかサラという語は使はなくなつたが、サラも元はやはり毛の渦を卷いた部分のことであつた。皿も甑も共にその製法が元は圓座などと同一であつたことが、此等の名稱の共通なる原因と見るの外は無いのである。淵の渦卷をサラといふ例は、何處かにあつたやうに記憶するが、今はまだ思ひ出すことが出來ない。奧州の弘前などでは、乃ちこれをツブラと謂つて居るのである。

[やぶちゃん注:「轆轤」老婆心乍ら、「ろくろ」と読む。

「甲信野越」「こうしんやゑつ(こうしんやえつ)」で、甲信越は「甲斐」(山梨県)・「信濃」(長野県)・「越後」(新潟県)だから、「野」は「上野」(群馬県)・「下野」(栃木県)を含むということであろう。

「師説自見集」読みは「しせつじけんしふ(しせつじけんしゅう)」。南北朝から室町前期にかけての武将で歌学者今川了俊(正中三・嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年)。名は貞世。伊予守。遠江守護。足利義詮に仕えて幕府の引付頭人(ひきつけとうにん)を経、応安四(一三七一)年に九州探題となり、九州の南朝方を制圧したが、後に足利氏満との共謀の疑いをかけられて引退した。和歌・連歌に優れた。著作として知られるものに「難太平記」がある)の著した歌論と歌語の注解及び考証を中心とする歌学書。

「山がつのつぐらに居たる我なれや心せばさをなげくと思へば/ツグラとはトグラといふ物の事か。わらうだか。」一首は作者不詳。「わらうだか」の「か」は疑問の終助詞で「わうらだ」は後注の「圓座」を参照。

「五音歟」改訂版のルビに「ごいんか」とある。不詳。もしかするとこれは「師説自見集」の項の「五」の「音歟」で、「歟」は疑問詞であり、前の歌の添書を見ると、語句(語音)の不審を並べたものを指すか。

「蟠まつて」老婆心乍ら、「わだかまつて(わだかまって)」と読む。

「私たちの故郷」前にも述べたが柳田の郷里は現在の兵庫県南西部の旧中播磨の神崎郡福崎町の生まれであった。

「コシキ」後で出る「甑」のことであろう。弥生時代以降に米・豆等を蒸すのに用いた道具で、底に数個の湯気を通す小穴を開けた深鉢形をした土製の調理具である。湯釜の上に載せて用い、奈良期になると木製のものも現れた。後には皆、円形や方形をした木製の蒸籠(せいろう)にとって代わられた。

「圓座」これは「わらふだ(わろうだ)」と読んでおく(改訂版も「わろうだ」とルビを振るからである)。「藁蓋」とも書き、この「藁蓋(わらふた)」の音が転訛したものである。藁・菅(すげ)・藺(い)などで紐を編んでそれを渦巻状に組んだ敷物。「ゑんざ(えんざ)」も同一のものを指しはする。

「淵の渦卷をサラといふ例は、何處かにあつたやうに記憶するが、今はまだ思ひ出すことが出來ない。奧州の弘前などでは、乃ちこれをツブラと謂つて居るのである。」後ろの一文は「淵の渦卷をサラといふ例」としか読めないのであるが? 不審。改訂版でも全く変わっていない。大不審。]

 

 それから尚一つ、衣服の重なり合つて膨らかになつた部分を、フトコロと謂つて居るのも關係があるかと思はれる。九州でも平戸などでは、蛇のツグラに對して此方をフツクラと謂ふが、それから南の方の肥前肥後の各地では、單にツクラと謂へばそれは懷中のことである。但し此ツクラのクは常に澄んで居るやうだが、是も衣類をツブラに卷く故に、さういふ言葉ができたものと見なければ、ツグラの起りは解説のしやうは有るまい。それとよく似た例は昔の男の坐り方、現在の標準語でアグラカクといふ語の地方的變化である。是は後に出て來るタマグラの條下に、もう一度説かねばならぬから簡單に述べて置くが、大體に相近き三つの言ひ方が用ゐられて居る。西京の附近では大和から紀州にかけて、ウタグラ・オタグラカクなどといふのが多いから、或は歌座であらうと獨斷して居る者もあるらしいが、それは少しも理由の無い當て推量である。九州の北部では概してイタグラメ、近江の彦根邊ではイタビラカクと動詞に使ひ、關東ではやゝ弘くビタグラあるいはビツタラなどともいふから、是は「坐」を意味するヰルといふ語の名詞形に、タグラの附加したものと解せられる。豐前小倉ではアビタラクムと謂つて居るのは、更にその上へ脚の語を附けたものであらう。實際胡坐蹲居は足を以てツグラを作ることであつた。それ故に人が樂々と尻を据ゑて居ることを戲れにトグロを卷いて居るなどといふ者もあるので、東京で「どうかおたいらに」などゝいふ辭令も、近畿地方のオタグラといふ語と比べて見て、始めて元の意味が察せられるわけである。伊豆の賀茂郡で之をアヅクラと謂ふなどは、明白に箕坐が足のツグラなることを示して居る。遠江は各郡ともに之をアヅクミ、信州でも上伊那郡までは同じ語がある。所謂飯櫃入れのイヂメ・イヅミ等は、或は「飯詰め」の義であり、イヅコは即ちその東北風の變化の如く思つて居る人があるかも知れぬが、是も亦確かならぬ想像であつて、現に近江の神崎郡などにも、藁で製した此類の畚をイヂコとも謂へば亦ツンダメと謂ひ、信州の東筑摩郡などでは、同じ樣な藁製の容器でも、落葉などを入れる粗造のものをイヂツコと謂つて、嬰兒を入れる方のみをイヅミキと謂つて居た。即ち此方は餘程胡坐のアヅクミに近くなつて居るのである。

[やぶちゃん注:「ウタグラ」小学館「日本国語大辞典」に「うたぐら」を見出しとして出して名詞で方言とし、「あぐら」とある。採集地は三重県南牟婁郡・奈良県・和歌山県南部とある。柳田の「大和から紀州にかけて」という分布と一致している。

「歌座」「うたぐら」と読ませるようであるが、これは本来は神楽歌、神に捧げる歌舞を歌い舞う神社などの神殿の舞殿の座の謂いであろう。それともただの歌会ということか。識者の御教授を乞う。

「ビツタラ」改訂版は『ビッタラ』(そのまま示した)。

「胡坐」老婆心乍ら、「あぐら」と読む。

「蹲居」蹲踞(そんきょ)に同じい。原義は「蹲(うずくま)ること」で、相撲や剣道に於いて爪先立ちで深く腰を下ろして膝を十分に開き、上体を正して重心を安定させる坐姿勢を、また、貴人の通行する際に両膝を折って蹲り頭を垂れて行なった礼式及び後に貴人の面前を通る折りに膝と手とを座につけ、会釈する礼をも指す。

「賀茂郡」現存するが、当時の広義の静岡県賀茂郡は伊豆半島先端から東伊豆の中部附近までを含んでいた。

「上伊那郡」「かみいなぐん」と読む。現存するが、当時は長野県南部東側の広域を指した。ウィキ上伊那郡によれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は』、現在の辰野町(たつのまち)・箕輪(みのわ)町・飯島町・南箕輪村・中川村・宮田(みやだ)村に『伊那市、駒ヶ根市および下伊那郡松川町の一部(上片桐)を加えた区域にあたる。現在でも「上伊那地域(地区)」と総称される場合、伊那市、駒ヶ根市を含むこともある』から、この広域で捉えるべきであろう。

「飯櫃入れ」「めしびついれ」。

「神崎郡」「かんざきぐん」と読む。かつて滋賀県にあった郡。当時は鈴鹿山脈から琵琶湖まで愛知川に沿って東西に細長い地域を占めていた。位置は参照したウィキ神崎郡滋賀県で確認されたい。

「畚」「もつこ(もっこ)」と読む。持籠(もちこ)の転訛。繩を網のように四角に編んで、その中央に石や土などを入れ、四隅を纏めるようにして担いで運ぶ道具。

「東筑摩郡」長野県の中央部にある郡。当時は既に現在の広域を占める松本市は離脱している。

「イヂツコ」改訂版は『イジッコ』(そのまま示した)。]

2015/12/30

アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (九) まがひ海龜の物語

    九 まがひ海龜の物語

 

[やぶちゃん注:「まがひ海龜」原文“THE MOCK TURTLE”“mock”は形容詞では「偽の、真似事の、紛い(もの)の」の意である。ウィキ不思議の国のアリスのキャラクターの「代用ウミガメ」によれば、これは「代用ウミガメ」という仮想されたウミガメの一種で、『「代用ウミガメスープ」(Mock Turtle Soup)をもじったものである。このスープは緑色をしているウミガメスープの代用品で、ウミガメの代わりに子牛の頭を用いて作られる。つまり「代用のウミガメスープ」から本来存在しない「代用ウミガメ」を創作したのである。テニエルの挿絵ではウミガメに牛の頭、後ろ足、尻尾をつけた姿で描かれるが、この姿はキャロルの友人ダックワースの発案であったという』。『涙もろい代用ウミガメと気さくなグリフォンは、涙もろく情に流されやすいオックスフォード人気質を揶揄したキャラクターである』とある。]

 

「まあ、あなた、お前さんにまた會へて、わたしどんなに嬉しいかお分りないだらうねえ。」と公爵夫人はいつて、アリスの腕をやさしく自分の腕にかかへ込んで、一緒に歩いていきました。

 アリスも夫人がこんなに上機嫌なのを知つて、大變嬉しく思ひました。そして、さつき臺所で會つたとき、あんなに亂暴だつたのは多分胡椒(こせう)のせゐだらうと考へました。

「わたしが公爵夫人になつたらごと、アリスは獨(ひとり)ごとを言ひました。(べつにそれを大變のぞましいやうな、調子でもありませんでしたけれども。)「わたし臺所で胡椒なんか全く使はないことにするわ。スープは胡椒がなくたつてかいしく食べられるんだもの。人を癇癪(かんしやく)持ちにさせるのは、多分胡椒かも知れないわ。」と、アリスは新しい法則を見付けだして、大喜びでいひつづけました。「お酢は人を酸つぱい氣にさせるし……カミツレは、にがにがしい氣にさせるし――有平糖(あるへいたう)やその他の甘いか菓子は、子供の氣持を甘くさせるし。世間の人にこれが分るといいんだけれどな。さうなると誰も氣むづかしくはならないわ――。」

[やぶちゃん注:「カミツレ」加密列(かみつれ)はキク目キク科シカギク属カモミール Matricaria recutita の和名。ウィキの「カモミール」によれば、カモミールの「大地のリンゴ」という意味のギリシア語名のカマイメーロン(chamaímēlon)で、『これは花にリンゴの果実に似た香りがあるためである』とし、和名カミツレは『オランダ語名カーミレ(kamille [kaˑˈmɪlə])の綴り字転写カミッレが語源。旧仮名遣いでは促音の「っ」を大きな「つ」で書いていたためにこのように訛ったものと思われる。また、カミルレとも』言うとある。四千年以上も前の『バビロニアですでに薬草として用いられていたと言われ、ヨーロッパで最も歴史のある民間薬とされている。日本には』十九世紀『初めにオランダから渡来し、その後鳥取や岡山などで栽培が始められた』。カモミールから精製した精油は『安全で効果的なハーブとして、古くからヨーロッパ、アラビアで利用された。中世までは特にフランスなどで』『薬草として用いられ、健胃・発汗・消炎作用があるとして、婦人病などに用いられていた。ハーブ処方の古典、バンクスの本草書には、肝臓の痛み、頭痛、偏頭痛などに効能があり、ワインと共に飲むと良いと書かれている』。『欧州では伝統生薬製剤の欧州指令に従い医薬品ともなっている』。『現在は主に安眠・リラックス作用を目当てに、乾燥花にお湯を注ぎハーブティーとして飲む。複数の似た薬効のハーブをブレンドして飲むこともあり、近年は自家製オリジナルブレンド品を販売する専門店も増えてきており、紅茶葉などとブレンドしたハーブティーも市販されている。こうした飲み方は基本的には漢方薬の煎じたものと同一であり、東西を分けて同じ時代に発展してきたものでもある』。但し、『カモミールはキク科であるため、キク科アレルギーを持つ人には用いない。カモミールティーでアナフィラキシー反応を起こし、死亡した例がある』。『花から水蒸気蒸留法で精油を抽出したものは、抽出が間もないうちは濃紺色をしている。この精油は、濃縮された形のままでは不快な匂いがするが、希釈するとフルーティーで甘いハーブ調の香りがする』。『精油は食品や香水に香料として使われている。アロマテラピーにも用いられるが、学術的研究はほとんどな』いとする。『抗炎症作用を持つと考えられるが、喧伝される精油の薬効の多くは、ハーブとしてのカモミールに伝統的に言われるものである』。『園芸療法で扱われるハーブとしては代表的。カモミールは同じキク科の除虫菊などと同じく、近くに生えている植物を健康にする働きがあるといわれ、コンパニオンプランツとして利用される。たとえば、キャベツやタマネギのそばに植えておくと、害虫予防になり、浸出液を苗木に噴霧すると、立ち枯れ病を防げる。ハーブティーや入浴剤として使用した後の花を土に埋め込めば、カモミールの効果がある土になる』とある。

「有平糖」本邦のそれは、白砂糖と水飴を煮つめて練り棒状としたり、花・鳥・魚など種々の形に作って彩色した砂糖菓子の一種。室町末期にヨーロッパから伝来したもので、現在は主に祝儀・供物用に用いられる。語源としては、ポルトガル語「アルフェロア」(alféloa;糖蜜から作る茶色の棒状菓子)とする説と「アルフェニン」(alfenim:白い砂糖菓子)とする説とがある(語源説はウィキの「有平糖に拠った)。原文は“barley-sugar”で、これは原義は主に英国で用いられる大麦を煮た汁から精製した大麦糖の意であるが、昔はそれを煮つめ、捩子棒(ねじぼう)などの形に透明な飴菓子に作ったことから、専ら、そうした飴のことを指すようである。なお、現行のそれは普通の砂糖を用いる。]

 アリスはこのとき、公爵夫人のことはすつかり忘れてゐたのでした。けれどもアリスの耳許(みみもと)で、夫人の聲が聞えましたので一寸(ちよつと)驚きました。「お前は何(なに)か考へて居るねえ、それでお話をすることを忘れたんだね。わたしは今のところ、それの訓(をしへ)か何であるか分らないけれど、今に、直(ぢ)き思ひだせるよ。」

「多分訓(をしへ)なんかないことよ。」とアリスは勇氣をだしていひました。

「しつ、しつ。」と公爵夫人は言ひました。「何にだつて訓(をしへ)はあるもんだよ。見つけさへすれば。」さういつて夫人は、アリスの側(そば)に身をピツタリと寄せつけました。

 アリスは夫人が側にピツタリ寄りそうて居るのが、あまり氣に入りませんでした。第一に公爵夫人は大變醜い顏をしてゐましたし、第二に夫人の背(せい)はアリスの肩位(ぐらゐ)しかありませんでしたので、氣味わるいほど尖(とんが)つて居る顎(あご)をアリスの肩にのせて居たからでした。けれどもアリスは失禮な事を云ひたくありませんでしたから、できるだけ我慢しました。

「勝負は今のところ、うまくいつて居るらしい樣子ですねえ。」と、アリスは少し話をつづけて行くつもりでいひました。

「さうだよ。」と公爵夫人はいひました。「そして、それの訓(をしへ)といふのは――世界を廻轉せしめるものは愛である、愛である。――といふのだ。」

「ある人は、かういふのを言つてよ。」とアリスは低聲(こごゑ)でいひました。「めいめいが自分の仕事に氣をつけてゐれば、何でもできる。――つていふの。」

「ああ、さうだよ、これはそつくり同じだ。」と公爵夫人は尖つた小さい顎でアリスの肩をつつきなから言ひました。「そしてそれの訓(をしへ)といふのは――『感(かん)を氣をつけなさい。すると音(おと)は、それ自(みづか)ら注意を集める』といふのだよ。

[やぶちゃん注:「感(かん)を氣をつけなさい」というのは意味不明である。原文の教え全体は“Take care of the sense, and the sounds will take care of themselves.”である。訳者は「感じ」「感覚」の意で用いているようだ。これもキャロルの言葉遊びであろうから多重的な「意味」が隠されていると考えるなら、この“sense”は後の“the sounds”に対するものであることは明確だから、これは文字の「発音」に対するところの、その文字列の示す「意味」の謂いではなかろうか? 福島正実氏はここを『意味に気をつけよ、さすれば音は自ずからきまる』と訳しておられ、すこぶる腑に落ちる。]

「この方はいろんなものに、訓(をしへ)を見つけだすことが隨分好きなのねえ。」とアリスは獨(ひとり)で考へました。

「何故(なぜ)わたしが、お前の腰のぐるりに手をかけないのか、不思議だらう。」と公爵夫人は一寸間を置いていひました。「その理由といふのはねえ、わたしはお前の紅鶴(べにづる)の氣質が疑はれるんだよ。ひとつ手をかけて見ようかな。」

[やぶちゃん注:「紅鶴」既注通り、そのまま「フラミンゴ」の方が今や、分かりがいい。]

 

「かみつくかも知れませんわよ。」とアリスは叮嚀にいひました。そして試してもらふ事を、餘り氣にもかけませんでした。

[やぶちゃん注:最後の一文は意味が採りにくい。原文は“Alice cautiously replied, not feeling at all anxious to have the experiment tried.”であるから、これは――アリスは用心深く答えました、だってそんな実験を試してもらうなんて、全く以って願い下げ、だったからです。――という意味であろう。]

「ほんとだ。」と公爵夫人はいひました。「紅鶴も芥子(からし)もかみつくからねえ。そしてそれの訓(をしへ)は―――『同じ羽の鳥は集る(類は類をもつて集る)――といふんだよ。」

「でも芥子(からし)は鳥でないわ。」とアリスが言ひました。

「その通りだ。」と公言夫人は言ひました。「お前はよくものごとがはつきり分るねえ。」

「わたしそれは鑛物(くわうぶつ)だと思ひますわ。」とアリスが言ひました。

「無論さうだよ。」公爵夫人は言ひました。夫人はいつもアリスの言つたことは、何ごとでも、賛成する風(ふう)がありました。「この近くに大きな芥子のマイン(鑛山)があるよ。そしてそれの訓(をしへ)といふのは――わたしのものか(Mine(マイン)を鑛山と、「わたしのもの」といふのと一緒にしたのです。)澤山あれあるほど、あなたのものが益益(ますます)少(すくな)くなる。――といふのだ。」

[やぶちゃん字注:「Mine(マイン)」の「マイン」は「Mine」のルビ。なお、訳者は原文の以下の部分をごっそり省略してしまっている。

   *

"Oh, I know!" exclaimed Alice, who had not attended to this last remark, "it's a vegetable. It doesn't look like one, but it is."

"I quite agree with you," said the Duchess, "and the moral of that is—'Be what you would seem to be '—or, if you'd like it put more simply—'Never imagine yourself not to be otherwise than what it might appear to others that what you were or might have been was not otherwise than what you had been would have appeared to them to be otherwise.'"

"I think I should understand that better," Alice said very politely, "if I had it written down: but I can't quite follow it as you say it."

"That's nothing to what I could say if I chose," the Duchess replied, in a pleased tone.

"Pray don't trouble yourself to say it any longer than that," said Alice.

"Oh, don't talk about trouble!" said the Duchess. "I make you a present of everything I've said as yet."

"A cheap sort of present!" thought Alice. "I'm glad they don't give birthday presents like that!" But she did not venture to say it out loud.

   *

青空文庫の大久保ゆう氏の訳「アリスはふしぎの国で」から当該箇所を引用させていただく(当該訳は著作権があるが、引用許容の範囲内と判断する。以下、同じ)。

   《引用開始》

「あ、わかった!」とさけぶアリス、相手の決めぜりふなんて聞いちゃいない。「野菜やさいね、それっぽくはないけど、きっとそう。」

「そちの言うとおり。」と言い出す御前さま。「そしてそこから学べる教えとは――『そう見えるのならそうなのだ。』――すなわちさらにわかりよう言えば――『おのれのことを、ひとの目にうつるものとはちがうなどとは思わんこと、かつてそうであった、そうであったかもしれない、事実そうであったおのれとはちがうなどとは、それもまたひとの目にはちがってうつるのだから。』」

「たぶん、書き起こしたものがあれば、」とまじめに取り合うアリス、「もっとよくわかると思うんだけど。おっしゃってること、ちょっとついていけなくてよ。」

「こんなもの、ものは言いよう、大したことない。」と返す御前さまはごまんえつ。

「ならもうわざわざしていただかなくてけっこう!」とアリス。

「そんなわざわざだなんて!」と御前さま。「これまでの言葉をみな、そちに進ぜよう。」

「やっすいおくりものね!」と思うアリス。「みんながたんじょう日プレゼントにこんなのくれなくてよかった!」でも思い切って声に出すことはできずじまい。

   《引用終了》

これから分かるように、次の「アリスは考へてゐました。」という一文は原文にはない。即ち、訳者が上記の箇所を子供には難解と思ったか、又は忙しくて訳すのが面倒だったか、或いは、訳者(前章の注で記したように、ここからは推定で菊池寛)に失礼乍ら、意味が通るように上手く訳せなかったのか、の孰れかは不明ながら、ともかくも――誤魔化して繋げるために配した一文である――ということである。]

 アリスは考へてゐました。「また考へて居るね。」と公爵夫人は尖つた小さい顎で、アリスの肩を突きながら尋ねました。

「わたし考へる權利があるわ。」とアリスは少しうるさく考へましたので、きつく言ひました。

「それは丁度豚に羽があつて、とべる權利があるといふやうなものだ、そしてそれの、お――。」

[やぶちゃん注:「お――」の部分は“and the m—”で前の公爵夫人の言い回しから“moral”の頭文字、本文の「訓(をしえ)」であると推定出来るし、直後でもそれを明示してはいる。しかし訳者は「お――」としている。細かいようだが、ここは「を――」でなくてはならないし、そうなっていて初めて子供たちは、これはここで即座に(直後の文を読まずとも)彼女が「訓(をしへ)」と言おうとしたんだと分かる訳で(そういう想像や推理は子供たちの読書の中では実は非常に大切なことだと私は思っている)、すこぶる意地の悪い、悪訳だとしか私には思われない。]

 けれどもこのとき、アリスがひどく驚きましたことには、公爵夫人が大好きな「訓(をいへ)」といふ言葉を半分言ひかけたときに、聲が消えてしまつて、からんで居た腕が、ふるへ始めたのでした。アリスは上を見ました。すると例の女王(ぢよわう)が腕を組み、人道雲のやうなしかめ顏(がほ)をして、二人の前に立つてゐるのでした。

「陛下、よいお天氣でございます。」公爵夫人は低い小さい聲でいひました。

「さあ、わたしはお前に命令をする。」と女王は地團太を踏んで、大聲で言ひました。「お前の身(み)か、それともお前の首か、どつちかをかつとばしてしまはねばならん。さあ、たつた今だ。どつちか一つ選ぶがいい。」公爵夫人は、無論いい方を選んで、直ぐに其場から身を退(しりぞ)いてしまひました。

「さあ勝負をしよう。」と女王はアリスに言ひました。アリスは驚きのあまり、一言(こと)もいへませんでした。けれども、のそのそと女王のあとからついて、球打場(たまうちば)へいきました。外のお客達は、女王のゐないのをいい仕合せにして、樹蔭(こかげ)で休んで居ました。けれども女王を見るや否や、急いで勝負にとりかかえいました。女王はただかういつただけでした。「お前たも一分間でも、のらくらすると一命(めい)がないぞ。」

 みんなが勝負をやつて居る間、女王はたえず他の相手と喧嘩(けんくわ)をしてゐて、「あの男は打首(うちくび)にしろ。」とか、「あの女を打首にしろ。」とか言つてゐました。女王が宣告をした人達は、兵士に拘引されました。無論この兵士たちは、罪人や拘引するために、アーチになつてゐるのを、止めなければなりませんでしたから、三十分も經つか經たぬうちに、アーチがなくなつてしまひ、球を打つ者も王樣と女王とアリスを除いた、佳の者は全部拘引されて、死刑の宣告をうけました。

[やぶちゃん注:この間にも訳の省略がある。

   *

Then the Queen left off, quite out of breath, and said to Alice, "Have you seen the Mock Turtle yet?"

"No," said Alice. "I don't even know what a Mock Turtle is."

"It's the thing Mock Turtle Soup is made from," said the Queen.

"I never saw one, or heard of one," said Alice.

"Come on, then," said the Queen, "and he shall tell you his history."

   *

同じく大久保ゆう氏の当該箇所を引用しておく。

   《引用開始》

 そこでクイーンも手をとめて、ぜえはあ言いながら、アリスに一言、「そちはもうウミガメフーミに会うたか?」

「いいえ。」とアリス。「そもそもウミガメフーミが何だかぞんじませんし。」

「ウミガメフーミスープのもとになるものよの。」とクイーン。

「そんなの見たことも聞いたこともなくてよ。」とアリス。

「ならばこちへ。」とクイーン、「さすれば本人がいわれを教えてくれよう。」

   《引用終了》

「ウミガメフーミ」は本訳での「まがひ海龜」のこと。]

 二人が歩いていきましたとき、アリスは王樣が低い聲で一同にむかつて「お前たちみんな許してやる。」といつて居るのを聞きました。「ああ、よかつた。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。何故ならアリスは女王が、こんなに多勢(おほぜい)のものに死刑を言ひ渡したので、かなしく思つてゐたからでした。

 二人は間もなく、グリフオンが日向(ひなた)ぼつこをして、ぐうぐう寢て居るところへやつてきました。(若(も)しグリフオンを知らない人は、繪をごらんなさい)「お起き、なまけ者。」と女王がいひました。「此のお孃さんを擬(まが)ひの海龜のところへお連れして、あれの身の上話を聞かした上げてくれ、わたし戻つて、先きほど命じておいた、死刑の監督をしなければならないのだから。」かういつて女王は、アリスをグリフオンにまかせて去つてしまひました。アリスはこの動物の顏が氣に入りませんでしたけれども、大體に於て、あの野蠻な女王についていくのも、この動物と一緒に居るのも、安全さの程度は似たり寄つたりだと思ひましたので、じつと待つてゐました。

[やぶちゃん注:「グリフオン」(Gryphon:ラテン語ではグリュプス(gryps))は、鷲或いは鷹の翼と上半身で、ライオンの下半身を持つ伝説上の生物。ウィキの「グリフォン」によれば、語源はギリシア語のグリュプス、「曲がった嘴」の意。『このことから、しばしばギリシア神話に登場するといわれることがあるが、これは誤りである。しかし古くから多くの物語に登場しており(ヘロドトスの『歴史』など)、伝説の生物としての歴史は古い』。『鷲の部分は金色で、ライオンの部分はキリストの人性を表した白であるともいう。コーカサス山中に住み、鋭い鈎爪で牛や馬をまとめて数頭掴んで飛べたという。紋章学では、グリフォンは黄金を発見し守るという言い伝えから、「知識」を象徴する図像として用いられ、また、鳥の王・獣の王が合体しているため、「王家」の象徴としてももてはやされた』。『グリフォンには重要な役目が』二つあり、一つは『ゼウスやアポローン等の天上の神々の車を引くことであるが、ギリシャ神話の女神ネメシスの車を引くグリフォンは、ほかのグリフォンと違い身体も翼も漆黒である。馬を目の敵にしており、馬を喰うと言われるが、これは同じ戦車を引く役目を持つ馬をライバル視しているためである』。二つ目は、『黄金を守る、あるいは、ディオニューソスのクラテール(酒甕)を守ることとされる』。『自身が守る黄金を求める人間を引き裂くといわれて』おり、『その地は北方のヒュペルボレイオイ人の国とアリマスポイ人の地の国にあるリーパイオス(Rhipaios))山脈とされるが、エチオピア、インドの砂漠(現在ではパキスタン近辺か)などの異説もある』。なお、『グリフォンは、様々な紋章や意匠に利用されて』いるが、別に『「七つの大罪」の一つである「傲慢」を象徴する動物として描かれることもある』。『ヘロドトスは『歴史』の中で翼のある怪物としてグリフォンに触れ、プリニウスは『博物誌』』の第十巻の七十の『中ですでに伝説の生物として語っている』。十四世紀には『架空の人物であるジョン・マンデヴィル(John Mandeville)によって書かれたとされる『旅行記』(東方旅行記、東方諸国旅行記)によって詳細な描写がなされ』てもいる。『またヨーロッパ中世においては、動物物語集等では悪魔として表されたものの、多くはキリストの象徴とされ、神学者のセビーリャのイシドールスも『語源』(Etymologiae)でその立場をとる。ダンテが「キリストの人性」をグリフォンの部位の色に表したと、ディドロン(Didron)によって解釈されるのは『神曲』「浄化篇」』第二十九曲での、『凱旋車を曳く場面である』とある。なお、本文でキャロル自身が指示しているので、“Wikisource”“Alice's Adventures in Wonderland (1866)/Chapter 9”から、ジョン・テニエル(John Tenniel)のグリフォンのイラストを以下に示しておく。

400pxgryphon

個人的に単体ではいい絵ではあるが、「この話」の「ここ」に相応しいそれかと言われると、やや留保したくなる。]

 グリフオンは起(た)ち上つて目をこすりました。それから女王の姿が見えなくなる迄、ヂツと見てゐましたが、それからクツクツ笑ひだしましたで。「なんてかおしろいんだらう。」とグリフオンは半ば獨語(ひとりごと)の樣に、半ばアリスに言ひました。「何がかもしろいの。」とアリスが言ひました。

[やぶちゃん注:読んでいて、突如、次のシーンで「まがひ海龜」が喋り出すので分かる通り、ここも訳が省略されてしまっている。これは、シチュエーションを全く無視したひどい省略で、訳として破綻していると言わざるを得ない。子供たちをなめきっているというべきか。

   *

"Why, she," said the Gryphon. "It's all her fancy, that: they never executes nobody, you know. Come on!"

"Everybody says 'come on!' here," thought Alice, as she went slowly after it: "I never was so ordered about before, in all my life, never!"

They had not gone far before they saw the Mock Turtle in the distance, sitting sad and lonely on a little ledge of rock, and, as they came nearer, Alice could hear him sighing as if his heart would break. She pitied him deeply. "What is his sorrow?" she asked the Gryphon, and the Gryphon answered, very nearly in the same words as before, "It's all his fancy, that: he hasn't got no sorrow, you know. Come on!"

So they went up to the Mock Turtle, who looked at them with large eyes full of tears, but said nothing.

"This here young lady," said the Gryphon, "she wants for to know your history, she do."

"I'll tell it her," said the Mock Turtle in a deep, hollow tone: "sit down both of you, and don't speak a word till I've finished."

So they sat down, and nobody spoke for some minutes. Alice thought to herself, "I don't see how he can ever finish, if he doesn't begin." But she waited patiently.

   *

同じく大久保ゆう氏の当該箇所を引用しておく。

   《引用開始》

「あの女さ。」とグリフォン。「みんなあいつの思いこみでい、だれひとり処けいなんてされねえってことよ。こっちだ!」

「ここの方々『こっちだ』ばっかり。」と思いつつもアリスはそいつにゆっくりついていく。「生まれてこのかた、そんなふうに言いつけられたこと、なくてよ、なくってよ!」

 歩いてほどなく遠くに見えてくるウミガメフーミ、いわおの小さなでっぱりに、ひとり悲しそうにこしかけていてね、近づくにつれ聞こえてくるそのため息、まるでむねがはりさけたみたい。だから心からかわいそうになって、「何が悲しくって?」とグリフォンにたずねたんだけど、グリフォンの答えは、さっきのとほとんど同じような言葉でね、「みんなあいつの思いこみでい、悲しいことなんてべつにありゃしねえ。こっちだ!」

 で、ウミガメフーミのところまでたどりつくと、大きな目をうるうるさせて見てくるわりに、ものも言わない。

「こちらの姫君ひめぎみが、」とグリフォン、「おめえのいわれを知りてえんだとさ。」

「そちらに申します。」とウミガメフーミは、消え入りそうな声で、「おふたかたとも、おすわりくだせえ、しまいまでどうかお静かに。」

 というわけで、こしを下ろして、しばしのあいだ一同だんまり。そこでアリスは考えごと、「始まらないなら、おしまいも何もないんじゃなくて?」でもじっとこらえる。

   《引用終了》]

「むかし。」とまがひ海龜がとうとう、溜息をついて言ひました「わたしはほんとの海龜でした。」

 この言葉のあと、又永い間みんな默りこんでしまひました。ただ時時グリフオンがヒツクルーと叫ぶのと。まがひ海龜が始終重くるしく啜(すす)り泣きする聲で、その靜けさが破られるばかりでした。アリスはもう少しで立ち上つて、「面白いか話をして下すつて有難う。」と言ひかけました。が、何かもつと話し出すにちがひないと、思はないわけにいきませんでしたので、靜かに坐つて何も言ひませんでした。

「わたし達が小さかつたとき。」とまがひ海龜は、遂に前よりズツとかとなしくいひつづけました。けれども相變らず時時啜り泣きをしました。

「海の中の學校にいきました。先生は年をとつた海龜でした。――わたし達は先生のことを正覺坊(しやうがくばう)先生、といつもいつてゐました――。」

「何故正覺坊先生といふんです。」とアリスは尋ねました。

「なぜつて小學本(せいがくぼん)(正覺坊)を教へますからさ。」とまがひ海龜は怒つていひました。「ほんとにお前は馬鹿だ。」

[やぶちゃん注:以上の箇所は翻案されている。原文はこうなっている。

   *

"When we were little," the Mock Turtle went on at last, more calmly, though still sobbing a little now and then, "we went to school in the sea. The master was an old Turtle—we used to call him Tortoise—"

"Why did you call him Tortoise, if he wasn't one?" Alice asked.

"We called him Tortoise, because he taught us," said the Mock Turtle angrily; "really you are very dull!"

   *

ここはキャロルの言葉遊びがよく判る福島正実氏の訳(昭和五〇(一九七五)年角川文庫刊)当該箇所を引用しておく。

   《引用開始》

 「私たちの子どものときは」と亀もどきがようやくのことでことばを進めました。前よも落ち着いていましたが、まだ時々すすり泣きがまじっていました。「海の中の学校へ行ったもんだ。先生は年とった海亀(タートル)だったが――私たちは陸亀(トートイス)と呼んでいたっけ――」

 「なぜ、陸亀(トートイス)じゃないのに陸亀(トートイス)なんて呼んだの?」と、アリスがききました。

 「そりゃ、先生が勉強を教えて(トートアス)くれたからからそう呼んだんだよ」と、亀もどきは、腹立たしげにいいました。「まったく、おまえさんは鈍いなあ!」

   《引用終了》

以上の( )は総てルビで、最後のそれは「教えて」の部分に振られてある。そして上記の「まったく、おまえさんは鈍いなあ!」の後に福島氏は二行割注を入れておられ、そこには『tortoise(陸亀)と taught us(われわれに教えた)の語呂合わせのしゃれ』と解説しておられる。「陸亀」(land tortoise)は爬虫綱双弓亜綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科リクガメ科 Testudinidae に属する陸生カメ類の総称。総て草食性で、四十一種ほどがヨーロッパ南部・アフリカサハラ砂漠以南・マダガスカル・アジア南部・アメリカ大陸に分布している。大型種が多く,特にリクガメ属Geochelone にはリクガメ中最大種であるゾウガメ二種(ガラパゴスゾウガメ Geochelone nigra・アルダブラゾウガメ Dipsochelys dussumieri であるが、前者は亜種が多数いる)の甲長一・二メートルを始め、アフリカ産のケヅメリクガメ Geochelone sulcata が甲長七十五センチメートル、ヒョウモンリクガメ Geochelone pardalis が六十五センチメートル、南アメリカ産アカアシリクガメ Geochelone carbonaria などが五十センチメートルにも達する。他方,ギリシアガメ属 Testudo には小型種が多く、北アフリカ産エジプトリクガメTestudo kleinmanni は甲長十二センチメートルにしかならない。リクガメ類は背甲がドーム状に盛り上がって堅く、重い甲を支える四肢は柱状で太く爪が丸みを帯びる。四肢は堅い鱗で覆われ,頭頸(とうけい)部や四肢を甲内に引っ込めた後の隙間を塞ぐのに役だつ。草原・荒地・砂漠など乾いた場所に棲息し、殆んど水に入らない。ホシガメGeochelone elegans など、甲羅に美しい斑紋をもつ種も多い(平凡社「世界大百科事典」松井孝爾氏の記載に加筆した)。一方、「海亀」(marine turtle)は四肢が櫂(かい)状に扁平になっている海洋性カメ類の総称で、潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科 Cheloniidae とオサガメ(長亀)科 Dermochelyidae とに分ける(以下、同前の同じ松井氏による記載を同様に処理したが、分類部分はより新しいと思われるウィキの「ウミガメ」で変更を加えた)。世界の熱帯・亜熱帯の海域に広く分布し、日本近海を含む温帯地方にも回遊してくる。完全な海生種で、陸地には産卵期にしか上陸しないが、アオウミガメ Chelonia mydas が日光浴のために無人島の砂浜にやってくることが知られている。現生ウミガメ類の分類には諸説あるが、ウミガメ科Cheloniidaeの方を骨格の違いでアオウミガメ亜科Cheloniinae とアカウミガメ亜科 Carettinae の二グループに分け、前者アオウミガメ亜科にはアオウミガメ属アオウミガメChelonia mydas同亜種クロウミガメ Chelonia mydas agassizii 及びタイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata・ヒラタウミガメ属ヒラタウミガメ Natator depressusを、後者にはアカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta・ヒメウミガメ属ヒメウミガメ Lepidochelys olivacea・ヒメウミガメ属ケンプヒメウミガメLepidochelys kempii を配する。ウミガメ上科オサガメ科 Dermochelyidae は一属一種でオサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea が置かれる。海洋生活に適応したウミガメ類の甲羅は扁平で、他のカメ類に比すと退化しており、頭部と四肢については甲内に完全には引き込むことが出来ない。甲を覆う鱗板は滑らかで、種によって数や形状が異なる。最も遊泳力の優れたオサガメの甲は軽量で、骨片の集合からなり、鱗板も欠く。櫂状の前肢も他のウミガメ類よりも長く強力で爪も持たない。ウミガメ類はアオウミガメが海藻を主食とする外は雑食性で、海藻・魚類・甲殻類・クラゲ・ウニなどを食べる。通常はアマモ(単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina 。異名「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」は本邦で最も長い植物名として知られる)などが生えた砂地の、波静かな浅い海に棲息するが、産卵期には集団で長距離を大移動し、産卵場に押し寄せる。産卵場は岩礁に囲まれた砂浜が選ばれ、同一個体が一シーズンに二、三回、多い場合は六回も産卵を行うため、その間に休息が必要となり、沖合に休息場所としての浅瀬がある場所が好適地とされる。夜間、だけが砂浜に上陸、高潮線よりも上の砂地に前肢で甲が隠れるほどの穴を掘り、次いで、後肢で二十~六十センチメートルほどの深い穴を掘って産卵する。多いものは一度に百五十から二百個ほどのピンポン球のような卵を産み、砂をかけて穴を埋めてから海に帰る。その間は約一時間ほどで卵は八週から十週間ほどで孵化し、夜明け頃、子ガメは一つの集団となって穴から這い出し、海に向かって走る。この際、子ガメが海の方角を知るのは海面の光りの反射に基づくのではないかと考えられている。子ガメは海鳥や魚の餌食となり、成長するのは極めて少数に過ぎない。ウミガメ類はタイマイの鼈甲を始めとして、甲羅や皮が細工物の材料となるため、また、卵が産卵する地域では重要な蛋白源となることから乱獲され、激減してしまった。現在では、総ての種が厳重な保護下に置かれ、人工増殖も世界各地で行われている(特にキューバのそれが知られる)。日本にはアカウミガメが南西諸島から千葉県までの太平洋沿岸に上陸して産卵し、アオウミガメが小笠原諸島・屋久島、タイマイが南西諸島に上陸してくる。現在、本邦では父島や沖繩でアオウミガメの人工増殖が試みられている。]

「こんな易しい事を聽くなんて、恥づかしく思はなければいけない。」とグリフオンはつけ足(だ)して言ひました。それからみんな默りこくつて、可哀さうなアリスをヂツと見ましたので、アリスは地(ち)の中にでも入つていきたいやうな氣がしました。やがてグリフオンは、まがひ海龜に言ひました。「おぢさん、さあつづけて。こんなことに日を暮しなさんな。そこでまがひ海龜は次のやうに言ひ出しました。

「さうです、海の中の學校にいきました。お前さん信じないかも知れないがね――。」

「わたし信じないなんて言やしないわ。」とアリスはさへぎつて言ひました。

「お前さん言つたよ。」とまがひ海龜は言ひました。「おだまり。」とグリフオンはアリスが、又口を出さないうちにいひ加へました。まがひ海龜はつづけて言ひました。

「一番いい教育をうけたよ。――ほんとにわたしたちは、毎日學校にいつたのだ。」

「わたしだつておひるの學校に行つたわ。」とアリスが言ひました。「お前さん、そんなことを、そんなに自慢するに及ばないわ。」

「課外もあつたのかい。」とまがひ海龜は一寸心配さうに訊きました。

「ええ。」とアリスは言ひました。「フランス語と音樂を習つたわ。」

「そして洗濯は。」とまがひ海龜は言ひました。

「そんなもの習はないわ。」とアリスは怒つて言ひました。

「ああ、それぢやか前さんの學校は、ほんとに良い學校ぢやなかつたねえ。」とまがひ海龜は、大層安心したやうに言ひました。「そして、わたしたちの學校では月謝袋の終(しま)ひに、フランス語、音樂及(および)洗濯――其他と書いてあるよ。」「お前さん、そんが課目なんか、さう要らなかつたでせう。」とアリスが言ひました。「海の底にすんでゐるのに。」

[やぶちゃん注:「フランス語、音樂及洗濯――其他」の部分は原文は“'French, music, and washing—extra.'”で「其他」の意ではなく、「特別」「課外講義」「割増料金」の意で、福島正実氏は『別会計』と訳しておられ、直後の「まがひ海龜」の台詞と合致する。]

「ところが習ふことができなかつたんだよ。」とまがひ海龜は、溜息をついて言ひました。「それでわたしは、正課だけをやつたんだよ。」

「それはどんなもの。」とアリスは質(たづ)ねました。

「まづ初めは、勿論、千鳥足(ちどりあし)だの、からだのくねり曲(ま)げさ。」とまがひ海龜は答へました。「それからいろいろな算術に、野心(やしん)術、憂晴(うさばらし)術、醜顏(しうがん)術、それに嘲弄(ちやうらう)術。」

[やぶちゃん注:「算術」“arithmetic”とあるように、以下の変な「術」というのは「割り算」「掛け算」などの「~算(ざん)」に相当するものである。原文を示すと、

   *

Reeling and Writhing, of course, to begin with," the Mock Turtle replied: "and then the different branches of Arithmetic—Ambition, Distraction, Uglification, and Derision."

   *

ここを福島正実氏は、

   《引用開始》

「まずよろめき方(リーリング)にもだえ方(ライジング)はもちろんやった」と亀もどきが答えます。「それから、算数の四つの部門――野心算(アンビジョン)、失意算(デイストラクション)、台無算(アグリフィケーション)、それに嘲弄算(デリジョン)などあったよ」

   《引用終了》

ここに割注して、『reeling reading(読み方) ambition addition(足し算) distraction subtraction(引き算) uglification multiplication(掛け算)derision division(割り算)のそれぞれもじり』とある。眼から鱗。]

「醜顏術つて、わたし聞いたことがないわ。」とアリスは思ひ切つていひました。「それはなんなの。」

 グリフオンは驚いて、前足を二本宙(ちう)に上げました。そして「醜顏術つて聞いた事がないんだつて。」と叫びました。

「お前は美しくするといふことは、知つて居るだらう。」

「ええ。」とアリスは考へ込んで言ひました。

「それは――何でも――もつと綺麗にすることですわ。」

「ふん、それでゐて、お前さん顏を醜くくするといふことが分らないなら、お前さんは阿呆だよ。」

 アリスは、もうこれ以上醜顏術について質問する元氣はありませんでした。それだから、まがひ海龜の方を仰いて「外に何を習つたの。」と言ひました。

「神祕學があつた。」とまがひ海龜は、課目を鰭で算へながら答へました。

「さうなんだよ。さうなんだよ。」と今度はグリフオンが溜息をついて言ひました。そしてこの二匹の動物は、前足で二人とも顏をかくしました。

[やぶちゃん注:この会話もおかしい。二人の仕草の意味もそのために分からない。実はやはり、ここにも訳の省略が『「神祕學があつた。」とまがひ海龜は、課目を鰭で算へながら答へました。』と『「さうなんだよ。さうなんだよ。」と今度はグリフオンが溜息をついて言ひました。そしてこの二匹の動物は、前足で二人とも顏をかくしました。』との間にあるのである。当該の前後を入れて、原文を示す。

   *

"Well, there was Mystery," the Mock Turtle replied, counting off the subjects on his flappers,—"Mystery, ancient and modern, with Seaography: then Drawling—the Drawling-master was an old conger-eel, that used to come once a week: he taught us Drawling, Stretching, and Fainting in Coils."

"What was that like?" said Alice.

"Well, I can't show it you, myself," the Mock Turtle said: "I'm too stiff. And the Gryphon never learnt it."

"Hadn't time," said the Gryphon: "I went to the Classical master, though. He was an old crab, he was."

"I never went to him," the Mock Turtle said with a sigh: "he taught Laughing and Grief, they used to say."

"So he did, so he did," said the Gryphon, sighing in his turn, and both creatures hid their faces in their paws.

   *

ここも福島正実氏の訳で引く。

   《引用開始》

「そうだね、秘密(ミステリー)があったな」と亀もどきはひれで課目を数えながら答えました。「古代秘密と現代秘密だ。それに海理学(シーオグラフィー)それから、のろのろ臥法(ドローリング)もあった。のろのろ臥法の先生は年寄のあなごで週に一度ずつ来たよ。のろのろ臥(ドローリング)と、のびのび臥(ストレッチング)ととぐろ臥(フェインティング・イン・コイル)を教えにね」

 「それはどんなものなの?」とアリスがききまもた。

 「ああ、私には、ちょっとやっては見せられないんだ」と、亀まがいはいいました。「私はからだがかたいから。それにグリフォンは習ってないし」

 「時間がなかったんだ」とグリフォンはいいました。「でも、おれは古典は習ったぜ。古典の先生は、年寄りの蟹だったよ。そうとも」

 「私はその先生には習わなかった」と亀もどきはため息をつきながらいいました。「笑い方(ラフィング)と悲しみ方(グリーフ)を教えていたっていう話だけど」「そうだった」とグリフォンが自分もため息をついていいました。そして、二人とも、手で顔をおおいました。

   《引用終了》

福島氏は「亀もどき」の「秘密」の長い台詞の最後()と、「笑い方(ラフィング)と悲しみ方(グリーフ)を教えていたっていう話だけど」という台詞の後()に以下の割注を挟んでおられる。

mystery history(歴史) seaography Geography(地理) drawling drawing(絵画) stretching sketching(スケッチ) fainting in coil(とぐろを巻いて気絶する)は paint in oil(油絵)のもじり』

laughing Latin(ラテン語) Grief Greek(ギリシャ語)のもじり』

またしても、目から鱗、陸から海亀である。]

「そして一日に何時間授業があつたの。」とアリスは話の題をかへようと思つて、思つて、あわてて言ひました。

「第一日は十時間あつたよ。」まがひ海龜は言ひました「第二日目は九時間それから段段と滅つていくのだ。」

「ずゐぶん珍らしいやり方だわねえ。」とアリスは言ひました。

「それが授業(Lesson(レツスン))(レツスン(Lessenには段段減つていくといふ意味があります、それをしやれたのです)といはれるわけだ。」とグリフオンは言ひました。」「何故つて、毎日毎日レツスン(授業と減つていくといふ二つの意味)していくからさ。」

 このことはアリスには初耳でした。それで暫くのあひだ考へこんでゐましたか、やつとかういひだしました。「それでは十一日目はお休み日にちがひないねえ。」

「無論さうだよ。」とまがひ海龜はいひました。「それでは十一日目はどうしたの。」とアリスけ熱心になつて聞きました。

「それでレツスンは終りさ。」とグリフオンは間(あひだ)から目を出して、キツパリと言ひました。「さあ、今度は遊戯の話でもこの子に聞かせてやつてくれ。

深夜の耳(村山槐多自筆草稿断片より 附「深夜の耳」やぶちゃん完全復元版)

  深夜の耳(村山槐多自筆草稿断片より 附「深夜の耳」やぶちゃん完全復元版)

 

  深夜の耳

 

奇妙な金色の耳が何かしらにじっときき澄まして居る

ぴくぴくと動いて居る。深い深い夜中の闇に、

なる程ある幽かなれど滋味ある物音が傳はって來

るのだ、遠くから、まるで世の果からでも來る樣な

遙けさの、耳はしきりにそれを明にせんとしてもがく、

その物音の端で私は恐ろしい物にさぐりあてた、

そこには一人の力強い男がかよわい女の身体の上に乘り

上がって不思議にも美しい運動をやって居たのであ

る、

 

[やぶちゃん注:県立三重美術館蔵「詩『深夜の耳』」の手書き稿を視認して起こした(リンク先は同美術館公式サイトの拡大画像)。字配もそのままである。使用漢字はなるべくそのままのものを採用したが、「様」「乗」の略字などは正字化した)。なお、標題の「深夜の耳」の前行には「夜」の右手と「の」との間辺りにㇾ点のようなマーキングが二つ続いてある。

これは現行の長詩「深夜の耳の第一連目であるが、驚くべきことに、現行の平成五(一九九三)年彌生書房刊の「村山槐多全集 増補版」では、ここは、

 

奇妙な金色の耳が何かしらにじつときき澄まして居る、ぴくぴくと動いて居る。深い深い夜中の闇に、なる程ある幽かなれど滋味ある物音が傳はつて來るのだ、遠くから、まるで世の果からでも來る樣な遙(はる)けさの、耳はしきりにそれを明にせんとしてもがく、その物音の端では私は恐しい物にさぐりあてた、

そこには一人の力強い男がかよはい女□□□□□□□□□□□□不思議にも美しい□□□□□□□□のである。

 

のように伏字にされてしまっているのである!

 なお他に、

 

「その物音の端で私は」は 全集では「その物音の端では私は」

「恐ろしい物」は 全集では「恐しい物」

「かよはい女」は 全集では「かよわい女」

「運動をやって居たのである、」は 全集では「運動をやって居たのである。」

 

となっている。

さても! 我々は遂に完全なる村山槐多の「深夜の耳」に出逢うことが出来たのである!

無論、上記の異同から、これは草稿であって決定稿ではない可能性もあるが(但し、異同箇所を御覧戴ければ分かる通り、草稿の方がほぼ正しいではないか!)、少なくとも訳の分からない、読もうとする意欲を殺ぐ伏字を除去することがこれで出来る――因みに伏字のマスの数はこの草稿の同箇所と同字数なのである!!――のである!

 ここに伏字を復元した上記と全集の二連以降を恣意的にジョイントして私なりの完全版の「深夜の耳」として、以下に示すこととする(復元第一連の拗音はママとしたが、改行部を全集のそれと比較して繋げておいた。その際、「じっときき澄まして居る」の後は一マス空けた)。

 

  深夜の耳

 

奇妙な金色の耳が何かしらにじっときき澄まして居る ぴくぴくと動いて居る。深い深い夜中の闇に、なる程ある幽かなれど滋味ある物音が傳はって來るのだ、遠くから、まるで世の果からでも來る樣な遙けさの、耳はしきりにそれを明にせんとしてもがく、その物音の端で私は恐ろしい物にさぐりあてた、そこには一人の力強い男がかよわい女の身体の上に乘り上がって不思議にも美しい運動をやって居たのである、

    ×

環状の燈光はわが眼うばひ

撒いた樣に町の上に

荒木町の上に

 

三味線のひびきは耳に

辛いたばこは口に

夜の窓が私は好きだ

 

    ×

わが命は燃えさかる

靑空のかなたに延ぶ

女の股より頭に突拔く

白と赤との境に輝やく

 

ああああ狂ほしくも

幽靈の如く人魂の如し

 

また鐵工場の火花の如し

強く鋭とくあつし

 

音して燃ゆる命よ

音させて投げ

音させて物をくだかん

ダイナマイトの如きわが命

 

戀よ戀よ戀よ

酒よ酒よ酒よ

わが命を消し止めよ

苦し苦し苦し

 

    ×

どうするんだい、

どうするんだい、

 

女がどなる

金切聲でどなる

美しい男をとらへて

怒る樣に泣く樣に

 

腐つたざくろがちぎれておちた、

紫のあぶくが空に浮く

苦しい血つぽい夕ぐれだ、

 

女がどなる

金切聲でどなる

小鳥の樣な男をつかまへて

あまえる樣にいぢめる樣に

 

ああああ

聞く身の辛さよ。

 

    ×

裸の女がうんと

薄着をして神樂坂を歩く

そいつらは香水の瓶の樣に

樣々なにほひを空に殘こす

 

ああ惡鬼、雌の鬼ども

そいつらはそいつらは

眞白い顏には熱がさし

につと薄明りの中に笑ふ

 

笑つてばかり居る

それから瞳だ、ぴくぴくとしだらなく

美しくなまめかしく

氣をそそるではないか、

 

にぎやかな夜の空氣

消えては起る蓄音機のうた

藝者が紫の花をちぎりすてた

すつと女の一群が飛んだ、

 

   *

素晴らしい! 実に素晴らしい! 新しい槐多が蘇生した!

明恵上人夢記 51

51

 建保六年八月十一日、梅尾の舊居を出づ。先づ樋口、樋口より、同十三日、賀茂の宿所に遷り、其の後、圓覺山の地に曳く。其の夜、夢に云はく、一堂を起し立つ。其の名を果海殿(くわかいでん)と曰ふ。普賢菩薩(ふげんぼさつ)を安じ奉る。其の堂の中に女房七八人有りと云々。

[やぶちゃん注:「建保六年」一二一八年。

「梅尾」の「梅」字はママ。底本凡例に慣用表記はそのままとした、とある。

「樋口」底本注に、『五条通の南の小路。明恵の庇護者の一人覚厳法師』『が樋口の名を冠して呼ばれることがある。同人を指すか』とする。

「圓覺山の地」「ゑんがくざん」と読んでおく。底本注に、『賀茂別雷神社の後背地、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊を指すか』とある。賀茂別雷神社は「かもわけいかづちじんじゃ」と読み、現在の京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社の正式名称である。「塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊」というのは現存しないが、論文「郡村誌」からみた明治 16 年(1883)頃の上賀茂村の様子(PDF版)に載る同郡村誌の中に(恣意的に漢字を正字化した)、

   *

佛光山塔尾址<村ノ東北ニアリ、建保六年戌寅賀茂社主能久僧明惠ニ屬シテ創建スト、其後承久ノ役能久官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラル、僧明惠京西栂尾山ニ歸栖シ、其房舍ヲ轉移ス>

   *

と出る。但し、この地名は現在、消失している模様でネット検索に掛からず、国土地理院の地図も見たが見当たらない。従ってこの地名、「とうのお」「とうお」「とおの」などの読みは不明である。この賀茂別雷神社の神主「能久」は松下能久(よしひさ)なる人物で、サイト「京都風光」のページには、一説に賀茂別雷神社は、この前年の建保六(一二一七)年に後鳥羽院からこの松下能久が神託を受けて創建し、上賀茂神社の神主なったという説もあるとある。この松下能久なる人物は論文資料に、後鳥羽院の皇子を預かり、その皇子は後に同神社の上位神主氏久となったとあるから、『官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラ』れたというのも納得がゆく。

「果海殿」この名を「渡海を果たす」と読む時は、明恵がこれまでに少なくとも二度決心し、断念せざるを得なかった(春日明神の神託と病いのためとされる)天竺(インド)渡海の切望の強烈な念が今も明恵の心底に凝結してあるようにも読めるし、逆に、「真理の海へと漕ぎ出ることを果たした」と読むなら、祀るのが普賢菩薩であることからも(老婆心乍ら言い添えておくと「菩薩」とは未だ修行者の謂いである)、まさに無限に満ちている仏菩薩の絶対智の大海原に漕ぎだした仏弟子たる明恵の爽快な心境を表わしているとも読める。後者の解釈はユング派好みではあろう。

「普賢菩薩」サンスクリット語「サマンタバドラ(Samantabhadra)」の漢訳。普(あまね)くあらゆる総ての時空間に現われ、絶対の理性による賢者として功徳を示し、修行者を守護し、仏の「律」を象徴する。仏の絶対「智」の象徴たる文殊菩薩とともに釈迦の脇侍として釈迦三尊の形で造形配置されることが多い。致命的におぞましく穢れた業火「ふげん」や「もんじゅ」とは大違いである。]

 

□やぶちゃん現代語訳

51

 建保六年八月十一日、栂尾(とがのお)の旧居を出た。

 まず、樋口に向かいそこで二泊し、同十三日には、樋口より賀茂の宿所に遷(うつ)り、その後、円覚山(えんがくざん)の地に退いた。

 その夜、こんな夢を見た。

「一堂を創建して竣工させた。その堂の名を「果海殿(かかいでん)」と名づけた。御本尊として普賢菩薩を安じ奉った。ふと見ると、その堂の中に、雅な女房らが、七、八人、いるのであった……。

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅶ) 昭和二(一九二七)年 (全)

  昭和二(一九二七)年

 

 

 

 一月四日 火曜 

何やらむ物音すなり春の海

 

[やぶちゃん注:句の直前に『けふより狂人治療の淨書を初めんと思にたれども小

みたしをかき止む』(「小みたし」は「小見出し」であろう)とある。これは大正一五(一九二六)年に発表した「狂人の解放治療」の改稿作業のことで、これが永い年月を経て「ドクラ・マグラ」に結実することは既に注した。]

 

 

 

 一月二十八日 金曜 

 

雪の野のしづかに呉れて夜に入れば

  松の音はげしく起る

 

ふるさとを遠くはなれて雪の宿

  夢おびたゞし

 

[やぶちゃん注:ここに二行に亙るがあるが(一行目八個・二行目七個)、底本注に『消去』とあり、判読も不能らしく、一字も起されていない。直後に『このうたわれながら不吉なれば消したり。おかし。』とある。夢野久作が不吉とする一首、これはもう、是非とも読んでみたかった。なお、この歌の前の日記は、

   *

 終日雪ふる。夜、松籟おびたゞし。

 胎兒の夢の論文のうち、夢の説明を書き直し、非常に疲れたり。

   *

と記しており、作歌が実景に基づくものであることが判る。なお、この『胎兒の夢の論文』言わずもがな、現行の「ドグラ・マグラ」冒頭から三分の一ほどのところから始まる「胎兒の夢」(約二万字)の、現行の最後の部分、『然らば、その吾々の記憶に殘つてゐない「胎兒の夢」の内容を、具體的に説明すると、大要どのやうなものであらうか』以下のプロトタイプであろうか。]

 

 

 

 一月二十九日 土曜 

 

冬の日のまく照れば遠山の雪白々と見えて

  さながらに童話の中に在る心地す

 

[やぶちゃん注:「」は判読不能字。]

 

妻の寢息子供寢息靜まれば

  床の水仙しみじみ光る

 

來し時と同じ思ひに歸る也

  人の通らぬふるさとの町

 

靴の先の泥を氣にして町を急ぐ

  モダーンボーイの冬の夕ぐれ

 

來年四十四十と思ふうちきつとドキンとするが悲しき

 

[やぶちゃん注:久作は明治二二(一八八九)年一月四日生まれ。]

 

 

 

 一月三十日 日曜 

 

約束を一錢五厘の反古にする。

 

[やぶちゃん注:「一錢五厘」言わずもがな乍ら、当時の葉書の郵便料金。]

 

 

 

 二月二日 水曜 

 

春の夜の電柱に身を寄せ思ふ。人を殺せし人のまごころ

 

[やぶちゃん注:翌年昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

春の夜の電柱に

身を寄せて思ふ

人を殺した人のまごゝろ

 

の初案と思われる。]

 

殺して果てまぶたをそっと閉ぢてやれば木枯しの聲一きわ高まる

 

[やぶちゃん注:同前の「獵奇歌」に出る、

 

殺しておいて瞼をそつと閉ぢて遣る

そんな心戀し

こがらしの音

 

の初案と思われる。歌の前の日記本文末には、『狂人の原稿、次から次へ破綻百出す。』とあり、旧作の苛立ちが伝わってくる。]

 

 

 

 二月四日 金曜 

 

ポケツトに殘り居りたる一戔が

  惡事の動機とわれは思へり

 

[やぶちゃん注:「一戔」はママ。「一箋」の誤記ではあるまいか?]

 

殺すことを何でも無しと思ふほど

  町を歩むが恐ろしくなりぬ

 

 

 

 二月五日 土曜 

 

眞黑なる大樹は風に搖れ搖れて

 粉雪飛ぶ飛ぶ粉雪飛ぶ飛ぶ

 

[やぶちゃん注:繰り返しの三箇所の後半部分は底本では総て「〱」。]

 

 

 

 二月十五日 火曜 

 

ピストルの煙のにほひのみにては何かもの足らず

  手品を見てゐる

 

[やぶちゃん注:翌年昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

ピストルの煙の

にほひばかりでは何か物足らず

手品を見てゐる

 

と、ほぼ相同。]

 

地平線ましろき雲とわがふるき罪の思ひ出と

  さしむかひ佇つ

 

[やぶちゃん注:因みに、この二日前の十三日の日記に『東京に行く決心する』とある。出立は三月八日であった。]

 

 

 

 二月十七日 木曜 

 

ぐみの實の酸ゆく澁さよ小娘は

  も一人の男思ひつゝ佇つ

 

[やぶちゃん注:前文日記中に『狂人の原稿第一回校正終る』と記す。]

 

 

 

 二月十五日 火曜 

 

人體のいづこに針をさしたらば即死するかと

  醫師に問ひてみる

 

[やぶちゃん注:翌年昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

人體のいづくに針を刺したらば

即死せむかと

醫師に問ひてみる

 

と、ほぼ相同。]

 

 

 

 二月二十日 日曜 

 

靑空ののふかさよ人間に

  惡を教ふるのほさよ

 

[やぶちゃん注:二箇所のは判読不能字。次歌のそれも同じ。]

 

探偵は□□あふげり

  わが埋めし死骸の上に立ち止まりつゝ

 

 

 

 二月二十一日 月曜 

 

ひそやかに腐らし合ひてえひゆく果物あり

  瓦斯の火の下

 

わがむかし子供の時に夥しなる小鳥

 

君の眼はあまり可愛しそんな眼の

  小鳥を思はず締めしことあり

 

[やぶちゃん注:二首目の不完全はママ。三首目の上句の初案か。三首目は二年後の昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

君の眼はあまりに可愛ゆし

そんな眼の小鳥を

思はず締めしことあり

 

と、ほぼ相同歌である。]

 

 

 

 二月二十二日 火曜 

 

その胸に十文字かくおさな子の

  心をしらず母はねむれり

 

[やぶちゃん注:「おさな子」はママ。]

 

この夕べ可愛き小鳥やはやはと

  志め殺した腕のうづくも

 

[やぶちゃん注:前日の「君の眼はあまり可愛しそんな眼の/小鳥を思はず締めしことあり」とも似るが、これは翌昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

此の夕べ

可愛き小鳥やはやはと

締め殺し度く腕のうづくも

 

の、ほぼ相同歌である。]

 

ピストルのの手さわりやる

 なや瓦斯の灯光り霧のふる時

 

[やぶちゃん注:「手さわり」はママ。は判読不能字であるが、これは翌昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

ピストルのバネの手ざはり

やるせなや

街のあかりに霧のふるとき

 

に酷似する一首ではある。]

 

 

 

 二月二十四日 木曜 

 

この夫人殺してヂツトみつめつゝ

  捕はれてもたき應接間かな

 

[やぶちゃん注:この六ヶ月後の昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』に載せた「うた」(後の「獵奇歌」に所載)、

 

この夫人をくびり殺して

捕はれてみたし

と思ふ應接間かな

 

と酷似する一首。]

 

 

 

 三月三日 木曜 

 

越智君と大宰府に行きし時の句

 

ひとりぬればチプタツポーと梅が散る。

 

たゞひとり默々として梅見客

 

梅が香や古井戸のぞくふところ手

 

奥に來て灯うれし梅の谷

 

ストーヴのほのほしばらくおしだまり

  又ももの云ふわがひとりなり

 

[やぶちゃん注:日記から、この三日前の二月二十八日に友人六人(底本注に幸流(こうりゅう:能楽小鼓(こつづみ)方の一流派)皷(つづみ)師範とする、謠仲間と思われる越智なる人物が含まれる)と大宰府天満宮に遊んでいる。但し、『山の上ヌカルミいて閉口す。梅早し、余、ヤキモチ十三』とある。久作さんは焼き餅がお好き! なお、最後の一首は、既に出した、後の昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載された「雜詠」に、

 

ストーブのほのほしばらく押しだまり又ももの言ふわれひとりなれば

 

の形で出る。]

 

[やぶちゃん注:この間、詩歌記載なく、前に記した通り、三月八日に東京に発っており、以下は東京でのものとなる。]

 

 

 

 三月二十九日 火曜 

 

もろともにはるかなる世をしたひしか

  今はわれのみわびてのこるよ

 

妻を思ひわが子を思ひ冬の夜の

  都の隅に紅茶すゝるも

 

夜をふかみ妻はかへらず床の間の

  葉蘭のかげをみつゝねむらず

 

 

 

 四月一日 金曜 

 

山をのぼり山を下れば此の思ひ

 今はた更にふかみゆくかな

 

[やぶちゃん注:本歌は既に出した、後の昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載された「雜詠」に、

 

山をのぼり山を下れば此の思ひ今はた更にふかみゆくかな

 

と出る]

 

美しき彼女をそっと殺すべく

 ぢっとみつめて眼をとづるかな

 

[やぶちゃん注:二年後の昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

彼女を先づ心で殺してくれようと

見つめておいて

ソツト眼を閉ぢる

 

の相似歌で、初案か。]

 

 

 

 四月三日 日曜 

 

家古し萩また古し月あかり

 

 

 

 四月九日 土曜 

 

しの崎夫人の死亡広告を見、驚きてゆく。[やぶちゃん注:中略。]

 

よを未だき歌子のきみは逝きましぬ

  その望月の花をかたみに

 

[やぶちゃん注:久作はこの前日に香椎に帰着しており、その八日の日記に『しの崎夫人病篤しときく』とある。「しの崎夫人」は既注の、久作が勤めていた『九州日報』主筆篠崎昇之介の夫人歌子。ともに川柳を遊んだ仲間であった。本歌からも分かる通り、未だ若妻であられたようである。但し、この日の月齢を調べたが、「望月」ではない。]

 

 

 

 四月十八日 月曜 

 

戀人の腹へ馳ケ入りサンザンにその腸を喰うはゞとぞ思ふ。

 

[やぶちゃん注:「サンザン」の後半は底本では「〲」。]

 

ある女の寫眞眼玉に金ペンの赤きインキを注射してみる

 

[やぶちゃん注:後の昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』の「うた」(後の「獵奇歌」に所載)に出る、

 

ある女の寫眞の眼玉にペン先の

赤いインキを

注射して見る

 

の、ほぼ相同歌。]

 

人の名を二つ三つ書きていねいに抹殺をしてすてる心

 

[やぶちゃん注:後の昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』の「うた」(後の「獵奇歌」に所載)に出る、

 

ある名をば 叮嚀に書き

ていねいに 抹殺をして

燒きすてる心

 

と酷似する。初案か。]

 

この夫人を殺して逃げる時は今ぞと思ふ應接間かな

 

[やぶちゃん注:二月二十四日の、

 

この夫人殺してヂツトみつめつゝ

捕はれてもたき應接間かな

 

の改作。]

 

 

 

 四月十八日 月曜 

 

劔仙にせんかうを送るとてうつゝなく

  人を佛になし給へ御佩刀近く香まゐらする

 

[やぶちゃん注:「劔仙」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

みはかせもわが焚く香もありがたや

  斷煩惱のにほひありとは

 

いくばくの刀をにらみ殺したれば

  劔仙どのが香をたくらむ

 

人を殺す刀をにらみ殺し來て

  香焚く人の鼻の高さよ

 

この香ひ天狗の鼻がもげたらば

  どうせん香筒にしたまへ

 

 

 

 四月三十日 土曜 

 

わが胸に邪惡の森あり

 時折りに啄木鳥の來てタゝキ止ますも

 

[やぶちゃん注:「タゝキ」の踊り字はママ。「止ますも」もママ。これは後の昭和二(一九二七)年八月号『探偵趣味』の「うた」(後の「獵奇歌」に所載)に出る、

 

わが胸に邪惡の森あり

時折りに

啄木鳥の來てたゝきやまずも

 

の、ほぼ相同歌である。]

 

 

 

 五月二日 月曜 

 

蛇の仔を生ませたらばとよく思ふ

  取りすましたる少女を見るとき

 

[やぶちゃん注:後の昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

蛇の群れを生ませたならば

………なぞ思ふ

取りすましてゐる少女を見つゝ

 

と酷似する。初案か。]

 

家もあらず妻子も持たぬつもりにて

  後家をからかふ無邪氣なりわれ

 

わが古き罪の思ひ出よみかへる

  ユーカリの葉のゆらぐ靑空

 

[やぶちゃん注:「ユーカリ」オーストラリアの原産のフトモモ目フトモモ科ユーカリ属 Eucalyptus の仲間。多様な品種を持つ。

本歌は既に出した、後の昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載された「雜詠」に、

 

わが古き罪の思ひ出よみがへるユーカリの葉のゆらぐ靑空

 

と出る。]

 

 

 

 五月三日 火曜 

 

頭無き猿の形せし良心が

  女とわれの間に寢て居り

 

[やぶちゃん注:後の昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

頭の無い猿の形の良心が

女と俺の間に

寢てゐる

 

に酷似する。初案か。]

 

このまひる人を殺すにふさはしと

  煉瓦の山の中に來て思ふ

 

[やぶちゃん注:同じく昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

フト立ち止まる

人を殺すにふさはしい

煉瓦の塀の横のまひる日

 

の類型歌。初案か。]

 

 

 

 五月四日 水曜 

 

慾しくなけれどトマトをすこし嚙みやぶり

  赤きしづくをひたすらみる

 

[やぶちゃん注:同じく昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

欲しくもない

トマトを少し嚙みやぶり

赤いしづくを滴らしてみる

 

に酷似。初案か。]

 

 

 

 五月五日 木曜 

 

幽靈のごとくまじめに永久に人を呪ふことが出來たらばと思ふ

 

[やぶちゃん注:同じく昭和四(一九二九)年九月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

幽靈のやうに

まじめに永久に

人を呪ふ事が出來たらばと思ふ

 

の初案か。]

 

 

血々々と机に書いて消してみる、

 そこにナイフを突きさしてみる

 

ある處に骸骨ひとつ横たはれり、

 その名を知れるものはあるまじ

 

 

 

 五月六日 金曜 

 

觀客をあざける心舞ひながら仮面の中で舌出してみせる

 

[やぶちゃん注:謡曲喜多流の教授であった久作ならではの、「妖気歌」である。日記を見ると、毎日のように稽古しているのが判る。例えば次の七日は「小袖曽我」「安宅」である。]

 

 

 

 五月七日 土曜 

 

何かしら打ちこわし度きわが前を

  可愛き小僧が口笛吹きゆく

 

お母樣によろしくと云ひて實と出でぬ

  心の底の心恐れて

 

何かしら追ひかけられる心地して

  横町に曲り足を早むる

 

何故に草の芽生えは光りを慕ひ

  こころの芽生えは闇を戀ふらむ

 

[やぶちゃん注:後の昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

何故に

草の芽生えは光りを慕ひ

心の芽生えは闇を戀ふのか

 

の初案か。]

 

 

 

 五月八日 日曜 

 

◇星の光り數限り無き恐ろしき

  罪を犯して逃げてゆくわれ

 

 

 

 五月九日 月曜 

 

殺したくも殺されぬこの思ひ出よ

  闇から闇へ行く猫の聲

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

殺したくも殺されぬ此の思ひ出よ

闇から闇に行く

猫の聲

 

のほぼ相同歌。]

 

よく切れる剃刀を見て鏡見て

  わざと醜くあざわらひみる

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年六月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

よく切れる剃刀を見て

鏡をみて

狂人のごとほゝゑみてみる

 

の類型歌。初案か。]

 

落ちたらば面白いがと思ひつゝ

  煙突をのぼる人をみつむる

 

つけ火したき者もあらむと思ひしが

  そは吾なりき大風の音

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

放火したい者もあらうと思つたが

それは俺だつた

大風の音

 

という、口語化されたものの初案か。]

 

セコンドの音に合はせて一人が死ぬといふ

  その心地よさ

 

 

 

 五月二十四日 火曜 

 

眼の前に斷崖峙つ惡の主なり

 ひて笑へるごとく

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

眼の前に斷崖が立つてゐる

惡念が重なり合つて

笑つて立つてゐる

 

という口語体の初案か。]

 

善人は此世になかれ此世をば

  ぬかるみのごと行きなやまする

 

泥沼の底に沈める骸骨を

  われのみひとの夢に見居るか

 

獸のごとく女欲りつゝ神のごとく

  火口あたりつゝあくびするわれ

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

獸のやうに女に飢ゑつゝ

神のやうに火にあたりつゝ

あくびする俺

 

の初案か。にしても「火口あたりつゝ」は不詳で、「ほくち」でもおかしい。この後の口語体のそれから察するに、底本編者に失礼乍ら、これは、

 

獸のごとく女欲りつゝ神のごとく

  火にあたりつゝあくびするわれ

 

の誤判読或いは誤植ではなかろうか?]

 

淸淨の女が此世にありといふか

  影なき花の世にありといふか

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

淸淨の女が此世に

あると云ふか……

影の無い花が

此世にあると云ふのか

 

の初案か。]

 

 

 

 五月二十五日 水曜 

 

村に住む心うれしも村に住む

  心悲しも五月晴れの空

 

[やぶちゃん注:本歌は先に出した、昭和四(一九二九)年九月二十日発行の詩歌雑誌『加羅不彌(からふね)』に掲載された「雜詠」に、

 

村に住む心うれしも村に住む心悲しも五月晴れの空

 

と出る。]

 

聖書の黑き表紙の手ざはりよ

  血つふれば赤き血したゝる

 

[やぶちゃん注:「血つふれば」不詳。]

 

ぐるぐると天地はめぐるか子がゆえに

  眼くるめき邪道にも入れ

 

[やぶちゃん注:「ゆえ」はママ。「ぐるぐる」の後半は底本では「〱」。この一首は昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

ぐるぐるぐると天地はめぐる

だから俺も眼がくるめいて

邪道に陷ちるんだ

 

の初案か。]

 

 

 

 五月三十日 月曜 

 

ばくちうつ妻も子も無き身をひとつ

  ザマアみろとやあさけりて打つ

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、

 

ばくち打つ

妻も子もない身一つを

ザマア見やがれと嘲つて打つ

 

の初案か。]

 

心てふ文字の形の不思議さよ

  短劒の繪を書き添えてみる

 

惡心のまたもわが身にかへり來る

  電燈の灯の明るく暗く

 

警察が何だと思ひ町をゆく

  わがふところのあばら撫でつゝ

 

ぬすびとのこゝろを持ちて町をゆく

  月もおほろに吾が上をゆく

 

 

 

 五月三十一日 火曜 

 

村に住むことが嬉しも村に住むことが悲しも

  五月晴れの空

 

[やぶちゃん注:五月二十五日に、『村に住む心うれしも村に住む/心悲しも五月晴れの空』で出ているものの改作案らしいが、よくない。そちらで注したように久作も前作を後に採っている。]

 

バイブルの黑き表紙の手ざわりよ

  まなこつぶれば赤き血したゝる

 

[やぶちゃん注:「手ざわり」はママ。五月二十五日の意味不明の『聖書の黑き表紙の手ざはりよ/血つふれば赤き血したゝる』の改稿。腑に落ちる。先の「血」は単に久作の「眼」の誤字か。]

 

その時の妄想またもよみがへる

  日記の白き頁をみれば

 

新聞の記事讀むごとくしらじらと

  女のうらみきゝ居れり冬

 

 

 

 六月七日 火曜 

 

眼も見えぬ赤子に幟見上げさせ

 

子供だから仕方が無いと子供云ひ

 

 

 

 六月八日 水曜 

 

子を抱いた奴は洗はず湯に這入り

 

生れたが不思議のやうに子を眺め

 

ほとゝぎす歌にはちつとみしか過ぎ

 

歌にならむ句にならむ鼻毛拔きはじめ

 

助かり度い一心でよむ歌もあり

 

衣通姫小町今では晶子と來(き)

 

[やぶちゃん注:「衣通姫」「そとほり(そとおり)ひめ/そとほし(そとおし)ひめ)は記紀にて伝承される女性。ウィキの「衣通姫」より引く。『衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される』。「古事記」では、『允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する』。「日本書紀」では、『允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮(奈良県橿原市)に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移り住み、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという』とする。『紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊、神功皇后と共に合祀されている』。より具体な伝承がウィキの「衣通姫伝説に出るので参照されたい。]

 

 

 

 六月二十三日 木曜 

 

火消壺叱られながら思ひ出し

 

壺すみれなぞと芭蕉が小便し

 

[やぶちゃん注:スミレ目スミレ科スミレ属ツボスミレ Viola verecunda 。この下世話な川柳は芭蕉の「野ざらし紀行」の、

 

 山路來て何やらゆかしすみれ草

 

に、「小便」「壺」に、植物名の「菫」と「芭蕉」を対峙させて滑稽を狙ったものであろうが、どうも下品でよろしくない。]

 

砂糖壺一番高い棚に上げ

 

糞壺でもがいてゐたらめがさめた

 

骨壺をのぞいては泣く芝居也

 

骨壺を楯に乘り合ひ追拂ひ

 

壺なぞを作つて天才飯を食ひ

 

朝鮮は壺で名高い國になり

 

長紐から小壺まで賣れぬ覺悟也

 

[やぶちゃん注:意味不詳。識者の御教授を乞う。]

 

骨壺が遺留が殖える世ち辛さ

 

[やぶちゃん注:欲二十四日の日記に、夜、川柳の原稿書き』とあり、以下に見るように、ここに始まる「壺」題の川柳群がしばらく続いている。因みに、この前日には例の友人篠崎の亡き歌子夫人の追悼川柳会が行われ、久作が参加していることが日記からも判る。この時の詠んだ川柳は先に出した(私のブログ版では「夢野久作川柳集)。]

 

 

 

 六月二十八日 火曜 

 

思ふまま壺ニヤリニヤリとわきを向き

 

[やぶちゃん注:「ニヤリニヤリ」の後半は底本では「〱」。]

 

思ふ壺大上段に打ち

 

[やぶちゃん注:は判読不能字。]

 

毒藥を入れた壺だと黑いこと

 

跡の小便壺とと露知らず

 

[やぶちゃん注:は判読不能字。]

 

大古の小便壺を掘り出し

 

[やぶちゃん注:「大古」はママ。]

 

貯金壺いろんなものでかきまはし

 

[やぶちゃん注:面白い。]

 

小姑は小壺まで□□ろげてゐる

 

[やぶちゃん注:は判読不能字。この句、バレ句の可能性が高いように思われる。]

 

 

 

 六月二十九日 水曜 

 

壺燒屋はゐっても又讀んでゐる

 

吾事のやうに壺皿ポンとあけ

 

壺燒は熱くなくても紙をしき

 

 

 

 

 六月三十日 木曜 

 

春の雨、沖合遠、煙吐舷いつまでも動かむとせず。

 

[やぶちゃん注:面白い。]

 

 

 

 七月一日 金曜 

 

仔細らしく時計や音をつまむでゐ

 

[やぶちゃん注:面白い。]

 

暑いこと向家も電氣まだ消さず

 

壺燒は熱くなくても紙をしき

 

 

 

 七月十五日 金曜 

 

橋渡しけふも白足袋穿いてくる

 

橋へ乘つてる奴がイツキ釣り

 

[やぶちゃん注:「イツキ」は「居付き」で、回遊せずに海底の岩の根などに棲みついている魚類の謂いか。]

 

けふも又あの狂人が町を行き

 

 

 

 八月一日 月曜 

 

父母の歸らす時の過ぐるまで

  机に凭りて腕くみて居り

 

この夜では吾あしかむ父母の床を

  ひとりこもればまた忘れつる

 

夜の風に鼻赤くして芝居より

  歸らす父よ長生ましませ

 

父と母と夕餉の箸を揃へつゝ

  ものもえ云はす笑みたまひけり

 

 

 

 八月二日 火曜 

 

禿頭の父は老いたりまばらなるこめかみ肉いたく落ちます

 

水汲まんと父呼ばします夕近くたゝみの上に汗ばみて居り

 

 

 

 八月十六日 火曜 

 

毛斷はボンノクボから風邪を引き

 

[やぶちゃん注:「毛斷」は恐らく「モダン」或いは「モーダン」と読み、大正期のモガの、ショートカットのことを指すように思われる。]

 

まあ辛抱してみろとといふ風が吹き

 

筥松まで風邪引いてねと記者が云ひ

 

[やぶちゃん注:「筥松」これは「はこまつ」で、現在の福岡市東区箱崎に鎮座する日本三大八幡宮(後の二つは京都府八幡市の石清水八幡宮と大分県宇佐市の宇佐神宮)の一つである筥崎宮(はこざきぐう)にある「筥松」のことであろう。同神社の楼門の右手に朱の玉垣で囲まれてある松の木で、神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣(えな)を箱に入れてこの地に納め、印として植えたとも、また、応神天皇が埋納したという戒定慧(かいじょうえ)の三学(さんがく)の箱が埋められているとも伝えられる神木である。三学とは、「涅槃経」の「獅子吼菩薩品」に説かれた、仏道修行に於いて修めるべき基本的な修行である戒学(戒律:身口意(しんくい)の三悪(さんまく)を止めて善を修すること)・定学(禅定:心の乱れを去ること)・慧学(智慧:煩悩を去って総ての実相を見極めること)の三つを指す(ウィキの「筥崎宮」及び「三学」を参照した)。]

 

鷄が風邪を引くほど世が進み

 

 

 

 八月十七日 水曜 

 

つむじ風乞食は平氣で通り拔け

 

風上に置かれぬ奴と手酌也

 

筥入りが或る夜ひそかに風邪を引き

 

[やぶちゃん注:前の「筥松」をさらに茶化したか。]

 

汽車の中で風邪引いたと噓を吐き

 

[やぶちゃん注:これも何となく艶笑川柳っぽい気がする。]

 

 

 

 八月十八日 木曜 

 

乞食風吹かせて人を睨むでゐ

 

乞食風立派な人をよけさせる

 

大學風看護婦がイツテ吹かせてゐ

 

施療患者大學風にんずる

 

[やぶちゃん注:判読不能字は「甘」か。]

 

 

 

 八月十九日 金曜 

 

女中風御用聞には吹かせてゐ

 

上は役の風が吹き止む笛が鳴り

 

橋の風忘れたものを思ひ出し

 

上官風奥樣風に寄りつけず

 

 

 

 八月二十日 土曜 

 

風を喰ひ喰ひ諸國を渡るスゴイ奴

 

[やぶちゃん注:「喰ひ喰ひ」の後半は底本では「〱」。]

 

無い風に吹きまはされて無心に來

 

女中風勝手口だけ吹かせてゐ

 

 

 

 八月二十一日 日曜 

 

煽風機行司のやうに首を振り

 

振り袖に一パイの風持てあまし

 

白切符風を喰った奴が買ひ

 

[やぶちゃん注:旧日本国有鉄道の三等級制時代に於ける最上級の一等車の乗車券。客車の帯の色に基づく呼称であるが、実際の切符の色は黄色であった(二等は「青切符」、三等は「赤切符」と呼ばれた。ここはウィキの「一等車」に拠った)。]

 

玄關の風を喰って奥へ逃げ

 

 

 

 九月六日 火曜 

 

外道祭文キチガヒ地獄

 

[やぶちゃん注:前の日記文に『終日、狂人原稿書き』とある。ここまで同じような記載が散見され、「ドグラ・マグラ」への産みの苦しみが良く分かる。示したそれについても、底本の杉山龍丸氏の註解には、『「ドグラ・マグラ」の中にある一篇、精神病院や社会での狂人扱いに多くの不詳事件があることを明らかにした章』とある。確かに「ドグラ・マグラ」の最初のブットビのクライマックスの作品内「標題」として無論、私も分かっているのであるが、この頭の『』は、久作は日記内では一貫して詩歌の頭に配しているそれであること、決定稿の「ドクラ・マグラ」ではそれは『キチガヒ地獄外道祭文』となっていることから、私は以上を一種の川柳様の一句として採ることとした。因みに、翌九月七日の日記には、『外道祭文を書く』と記されてある。大方の御批判を俟つものではある。]

 

 

 

 十月四日 火曜 

 

オホツクの海に春來り、雪解けぬれば、

南風に帆を孕ませてゆく帆綱を鳴らす風の音に

夢を破られて舳に立てば黑潮の碎くるたまさかに

わがくろ髮を濡らすあはれノーザンクルスの冷たき冴え

 

[やぶちゃん注:当日の日記の最後の一行を除いて引いた。明らかに自由詩の形式をとっており、この日記の中ではすこぶる特異点であるからである。この後には一行空けて、何時もの日記のように、『母里君來る。豚を食ひ、懷舊談をする。』というメモランダの記載をして終わっている。

 なお、以下、次の十二月二十三日までの日記中には、詩歌と認められるものは記されていない。]

 

 

 

 十二月二十三日 水曜 

 

秋深し皷に觸る袖の音

 

 

 

 十二月十日 土曜 

 

吾嬉しき夢を祕して他人の嬉しき夢をきゝたがり乙女心のおもしろさ

 

十九の娘雪の夜の怪をきゝワツと云はれてハツと眼を押へたる刹那白皚々たる雪景眼の前に展開したりと

 

[やぶちゃん注:「皚々たる」「がいがいたる」と読む。霜や雪などが一面に白く見えるさまをいう。さても「白皚々たり」を有意に「しろがいがいたり」と読むように示すネット・ページが多いが、私は従えない。これは「はくがいがいたり」と読むべきであろう。花咲か爺さんの犬じゃねえんだって。]

 

 

 十二月二十一日 水曜 

 

 猩々の囃子しらべ――

 夜節季の話をする。空晴れ、夕日キラキラと沈み、靜かなる冬の一日なりき。

 

 雲一つみかんの畠をよぎりゆきて

   靜かなる冬の日は暮れにけり

 

[やぶちゃん注:日記全体を示した。言わずもがな、「猩々」は謡曲の名である。「キラキラ」の後半は底本では「〱」。なお、これまで述べてこなかったが、底本では殆んど総ての詩歌全体が各日記内では一字分、下がっている。ここだけそれを再現しておいた。この短歌が昭和二(一九二七)年の日記中の最後の詩歌である。]

2015/12/29

飯田蛇笏 山響集 昭和十四(一九三九)年 冬(Ⅲ) 上高地と白骨 白骨篇

  白骨篇

 

[やぶちゃん注:当時の長野県南安曇郡安曇村(現在長野県松本市安曇地区)の白骨(しらほね)温泉。]

 

強霜におしだまりたる樵夫かな

 

[やぶちゃん注:「強霜」「つよしも」多くおりた霜を指す本来は冬の季語。]

 

手にとりて深山の秋の玉ほたる

 

秋螢山勢に水ほとばしる

 

[やぶちゃん注:「山勢」「さんせい」。山の姿。]

 

霧ながれ花壇の巖は不言(ものいはず)

 

歸燕とび湯女菜園に濯ぎ干す

 

秋やこの熊蠅とびてラヂヲ鳴る

 

[やぶちゃん注:「熊蠅」大型の蠅の謂いであろうが、特異な種ではなく、野外性で夏よりも秋に出現する所謂、普通の双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目イエバエ上科イエバエ科イエバエ亜科イエバエ属イエバエ、Musca domestica の大型個体かも知れぬ。但し、高原性で温泉近くとなると、二センチメートルもある大型のハエ・アブ(孰れも短角(ハエ)亜目 Brachycera に属するが、所謂「ハエ」は環縫短角(環縫)群 Cyclorrhaphous に、アブは直縫短角(直縫)群 Orthorrhaphous にそれぞれ分類される)の種も多くおり、中には吸血性のものもあるので(登山や高地の温泉で私は散々刺された経験を持つ。私の体臭が彼らの好みであるらしい)、それらの孰れかか、複数種を指す可能性もある。蛇笏の呼称する「熊蠅」、或いは、白骨で「熊蠅」と呼称する種が判る方がおられれば、御教授を乞うものである。]

 

風あらぶ臥待月の山湯かな

 

[やぶちゃん注:「臥待月」寝待月に同じい。狭義にはだいたい午後九時以降に出る陰暦十九日の夜の月の称であるが、十九日の後の二十日の更待月(ふけまちづき)や宵闇月(午後十時以降に月の出)をも含む場合もある。]

 

谿邃く湯氣たちまよひ薄もみぢ

 

[やぶちゃん注:「邃く」「ふかく」と読む。奥深いの意。]

 

露日夜歸路の浴客相踵ぎぬ

 

[やぶちゃん注:「相踵ぎぬ」「あひつぎぬ」で、皆、後を追うの謂いであろう。]

 

   谿谷の露天湯

 

暾ゆたかにさす木の間より露の娘ら

 

[やぶちゃん注:「暾」は「ひ」で、朝日の謂い。蛇笏の好きな用字である。]

 

湯治づれ草履してふむ秋の土

 

湯氣こめて巖の野菊を咲かしむる

 

露天湯に雲あかねして天翔ける

 

夕影や脱衣をあるく女郎蜘蛛

 

[やぶちゃん注:「女郎蜘蛛」節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata 。恐らく大型のであろう(ジョロウグモは性的二形が甚だしく成体個体の体長はが十七~三十ミリメートルであるのに対し、は六~〜十三ミリメートルとの半分以下)。秋は樹皮や建物壁面などに白色の卵嚢を産む産卵期であるからである。]

 

ふぐり垂る素裸にさす秋日かな

 

[やぶちゃん注:「ふぐり」男子の陰嚢のこと。ネットの「語源由来辞典」によれば、『語源は「フクラグ(脹)」の意味、「フクレククリ(脹括)」の意味などあるが、「フクロ(袋・嚢)」の意味であろう。ふぐりの語源には、「フクラグ(脹)」の意味、「フクレククリ(脹括)」の意味などあるが、「フクロ(袋・嚢)」の意味であろう。「ふぐり」は形や色が「クリ(栗)」に似ていることから、「フクログリ(袋栗・嚢栗)」とする説も良い』とある。]

 

湯氣舞うて男神女神に露の秋

 

[やぶちゃん注:無論、裸形の男女の浴客を譬えたものであろうが、白骨辺りには道祖神も多い。それらをダブらせてて濃艶な句を狙ったものと私は詠む。]

 

   吾子と共に一日登高をこゝろむ

 

秋寒く山窪ゆけば地(つち)音す

 

秋ふかき岨路を行けば雲の聲

 

[やぶちゃん注:「岨路」「そはぢ(そわじ)」と読んでおく(単語としては「そだぢ(そだじ)」「そはみち(そわみち)」「そばみち」とも読む)。嶮しい山道。

「雲の聲」がすこぶるよい。登山経験者ならこの語のリアルさが判る。]

 

子と連るゝ奧嶺の遊山(ゆさん)高西風す

 

[やぶちゃん注:「高西風」で「たかにし」と読む。関西地方以西で十月頃、特に高い所で急に強く吹く西風を指す。]

 

橡ひろふ杣を見かけし焚火かな

 

[やぶちゃん注:「橡」バラ亜綱ムクロジ目トチノキ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata の実。栃の実。初秋に実果する。椿(ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ(藪椿)Camellia japonica)の実に似、熟すにつれて厚い果皮が割れて少数の種子を落とす。種子は栗(ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata)に似て色が濃く、球状を成す。渋抜きして食用に供する。参照したウィキの「トチノキ」によれば、『デンプンやタンパク質を多く含』み、『食用の歴史は古く、縄文時代の遺跡からも出土している』が、渋抜きは小楢(ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata)や水楢(コナラ属ミズナラ Quercus crispula)などの果実(ドングリ)よりも手間がかかり、長期間流水に浸す、大量の灰汁で煮るなど高度な技術が必要だが、かつては耕地に恵まれない山村ではヒエやドングリと共に主食の一角を成し、常食しない地域でも飢饉の際の食料(飢救作物)として重宝され、天井裏に備蓄しておく民家もあった。積雪量が多く、稲作が難しい中部地方の山岳地帯では、盛んにトチの実の採取、保存が行われていた。そのために森林の伐採の時にもトチノキは保護され、私有の山林であってもトチノキの勝手な伐採を禁じていた藩もある。また、各地に残る「栃谷」や「栃ノ谷」などの地名も、食用植物として重視されていたことの証拠と言えよう。山村の食糧事情が好転した現在では、食料としての役目を終えたトチノキは伐採され木材とされる一方で、渋抜きしたトチの実をもち米と共に搗いた栃餅(とちもち)が現在でも郷土食として受け継がれ、土産物にもなっている』。『粉にひいたトチの実を麺棒で伸ばしてつくる栃麺は、固まりやすく迅速に作業しなければならないことから、慌てること、また慌て者のことを栃麺棒と呼ぶようになり、「栃麺棒を食らう」が略されて「面食らう」という動詞が出来たとされている』とある。因みに夏目漱石の「吾輩は猫である」の迷亭絡みの会話に出る奇体な「トチメンボー」のルーツは、これである。]

 

懸巣翔け雲うごきなき谿間かな

 

秋の嶽咫尺す啄木(けら)に日照雨せり

 

[やぶちゃん注:「咫尺」は「しせき」で、「咫」は中国の周の制度で八寸(周代のそれの換算で十八センチメートル)、「尺」は十寸(同前で二十二・五センチメートル)を言い、原義は、距離が非常に近いことを指す。ここではそこから派生した、貴人の前近くに出て拝謁することを、高嶺に鳴くキツツキ(後注参照)に洒落て言ったもの。

「啄木(けら)」鳥綱キツツキ目キツツキ亜目キツツキ科 Picidae のキツツキ、啄木鳥の古語。初夏によく鳴く昆虫綱直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ、螻蛄ではないので注意。

「日照雨」「そばへ(そばえ)」天気雨。一見晴れているのに、ある所だけ雨が降っている状態を指す。片時雨(かたしぐれ)。古語の甘えてふざける、じゃれつく、風雨が軽く吹き降るの謂いの「そばふ」(戲ふ(戯ふ))の連用形が名詞化したもの。]

 

露の巖乙女の草鞋結ばせぬ

 

我を待つよき娘に露の閾(しきゐ)かな

 

   一日アルプスの蒼天を飛行機過ぐ

 

午後三時秋雲を出し機影見ゆ

 

機影見え湯女らの叫(おら)び谺せり

 

機影ゆき秋雲の端に輕雷す

 

桐一葉湯女病む閨は西日滿つ

 

橡みのり温泉の裏嶽雲垂るる

 

[やぶちゃん注:「温泉の裏嶽」は「いでゆのりがく」と読んでいるか。]

 

高原光花壇は土の鎭まれる

 

高原光ピンポンの球ひそむ秋

 

[やぶちゃん注:最近は置かれる温泉宿も少なくなったが、我々の世代から上は温泉と言えば卓球である。なぜ温泉といえば卓球なのかを卓球の専門家に聞いてみたをリンクしておく。]

 

音のして花壇の零餘子霜枯れぬ

 

[やぶちゃん注:「零餘子」「むかご」。珠芽とも書く。ウィキによれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。]

 

露の香や暾あたる嶺草撓むさま

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「つゆのかや/ひあたるみねくさ/たはむさま」である。]

 

秋の温泉に暮雲のいざる大嶺空

 

[やぶちゃん注:「温泉」「ゆ」と訓じ、「大嶺空」は「ダイレイクウ」と音で読んでおく。]

 

温泉の花壇をとめの貌をつぶらにす

 

むかご生り花圃のダリヤは咲き溢る

 

[やぶちゃん注:「生り」は「なり」。]

 

日を厭ひ球屋のをとめダリヤ剪る

 

[やぶちゃん注:「球屋」温泉街にありがちだったスマート・ボールか。推測なので、引用しないがウィキの「スマートボール」をリンクさせておく。]

 

花卉あふれ秋の墓石露滴るゝ

 

   歸路の鵞湖

 

秋鷺翔け繭町の湖鏡なす

 

[やぶちゃん注:「鵞湖」は「がこ」。諏訪湖の別称。句は「しふろ(しゅうろ)かけ/まゆまちのうみ/かがみなす」であろう。「繭町」は養蚕集落を指す造語であろう。諏訪湖周辺では古くから養蚕業が行われていた。信州の養蚕・製糸は明治期、上州を追い抜いて日本一から世界一にまでなった歴史がある。]

2015/12/28

北條九代記 卷第七 將軍御上洛 竝 鎌倉御下向

       ○將軍御上洛  鎌倉御下向

嘉禎四年十一月二十三日、曆仁元年と改めらる。正月二十日、將軍家、御上洛の御門出(おんかどいで)として、秋田城介義景が、甘繩(あまなは)の家に入御あり。同二十八日酉刻に、鎌倉を立ち給ふ。同二月十六日には、江州野路(のぢ)の驛に著き給ふ。翌日子刻、六波羅に著御(ちやくぎよ)あり。路次(ろじ)の行粧(かうさう)、美々敷(びゝしき)こと目を驚かす見物なり。諸國の武士、我も我もと召に應じて、供奉せらる。その出立、壯麗(きらびやか)に、行列亂らず、靜かに打てぞ通られける。駿河前司義村、先陣として、家子(いへのこ)三十六人を隨兵とす。その次には、大河戸(おほかうど)、大須賀、佐原、三騎打竝び、一番より、十二番に連りて、打たれたり。將軍家の御隨兵(ごずゐひやう)、百九十二騎、これも三騎打竝び、各歩立(かちだち)、三人を倶して、小林兄弟、眞壁(まかべ)を先とて、六十四番靜(しづか)に歩ませ、その次には、甲胄、小具足、引馬一疋、歩走(かちはしり)の衆三十人、其次は御乘替(のりかへ)、次に御輿、御簾(みす)を揚げられ、布衣(ほい)に折烏帽子(をりえぼし)を召されたり。その跡には、水干(すゐかん)の人々六番に分ち、是も三騎ぞ打竝びける。第六番は、左京權大夫泰時、隨兵三十人、侍十八人其跡の打籠(うちごみ)の人數は幾何(いくら)と云ふ數を知らず。後陣は修理大夫時房、隨兵二十人、侍十人、その外打籠の輩、數知らず。濟々(せいせい)として通らるゝ。見物の諸人、遠近の輩(ともがら)、野路(のじ)より六波羅まで、道の兩方、垣(かき)の如く充満(みちみち)て、幾千萬とも數を知らず。同二十二日には、將軍賴經公、先(まづ)大相國の御亭に參向し、次に一條殿へ参り向ふ。先駈(せんく)の沙汰には及ばざれども、行列の次第は定められ、先陣は、右馬權〔の〕頭政村、次に將軍は大八葉(はちえふ)の御車、大名十人直衣(なほし)に劍を帶して、御車の左右に歩寄(かちよ)り供奉せらる。次に衞府八人、次に四番の騎馬を打(うた)せ、次に扈從(こしよう)の殿上人、その粧(よそほひ)を正しくし給ふ。同二十三日は、賴經公參内あり。夜に入りて小除目(こぢもく)行はれ、將軍家權中納言に任じ、右衞門督を兼ぜしめ、同二十六日に、検非違使別當(けんびいしのべつたう)に補(ふ)せらる。二十八日に、中納言の拜賀を行はる。三月七日、權大納言に任ぜられ、右衞門督、檢非違使溺當を辭し給ふ。四月七日、大納言の拜賀あり。同十八日に御辞退、同二十五日、一條殿御出家、御戒師は飯室(いひむろ)の前大僧正良快なり。五月十六日、將軍家を、右大臣良實公の亭に請ぜられ、御遊興かぎりなし。福王公(ふくわうぎみ)と申すは、賴經公の御舍弟にて、一條殿の御息(おんそく)なり。去ぬる四月十日、仁和寺御室(おむろ)に入室ありけるが、今日右府の亭へ参り給ひ、御遊(ぎよいう)半(なかば)に福王公の飼ひ給ふ小鳥の、籠より出でて、庭前の橘の梢に留(とま)る。若公深く惜(をし)ませ給ふ。「將軍家の御供に、弓の上手あるべし、死なざる樣に、この小鳥、射取りて參(まゐら)すべし」とあり。賴經公即ち上野十郎朝村(ともむら)に仰含(おほせふく)めらる。朝村、畏(かしこま)つて、引目(ひきめ)の目柱(めばしら)二つを削缺(けづりか)きて挿(さしはさ)み、樹(き)の本(もと)に立寄(たちよ)りけるが、此木、枝葉茂りて、小鳥の姿、葉の下に少(すこし)見ゆる、諸人、瞬(またたき)もせずして守見(まもりみ)る所に、朝村、彼方此方(かなたこなた)、立廻(たちめぐ)りて、遂に矢を發(はな)つ。小鳥は囀る聲を止(とゞ)め、矢は庭上に落ちたりけり。朝村、その矢を取りて奉る。小鳥は引目の中へ射込(おこめ)られてあり。目柱を削(けづり)て缺きたるは、このためなり。小鳥をいだして、籠に入らるゝに、羽打ちて、囀る事、元の如し。堂上、堂下、感ずる聲、暫(しばし)は止(やま)ざりけり。將軍家、御感の餘(あまり)、御衣を給へば、右府は喜悦に堪兼(たへか)ね給ひて、御劍をぞ下されける。六月五日には、將軍家、春日に社參(しやさん)あり。行列の躰(てい)、嚴重なり。翌日、六波羅に還御あり。洛中警固の爲、辻々に篝(かゞり)を燒(たく)べき由、御家人等に充催(あてもよほ)さる。七月十六日、將軍家、本座の宣旨を蒙り給ふ、石淸水、賀茂、祇園、北野、吉田等に、御社參あり。この間に、西國諸公事、悉く仰(おほせ)定められ、六波羅の守護に記渡(しるしわた)さる。同九月九日寅刻に、太白星(たいはくせい)は太微(たいび)を犯(をか)し、熒惑星(けいこくせい)は、軒轅(かんゑん)を犯し、月又歳星(さいせい)を犯す。流星ありて、色白く赤うして、飛ぶ事、數を知らず。同十三日、今夜の明月、殊に雲もなく、一天霽(は)れて隈(くま)もなし。古(いにしへ)は、八月十五夜の月計(ばかり)を賞しけるに、菅丞相(かんしやうじやう)、今夜の月を賞し給ひけるより、今に傳へて、詠(ながめ)ある事に定めらる。或殿上人の御許より、右京權大夫泰時の御方へ、かくぞ詠みてまゐらせられける。

  都にて今も變らぬ月影に昔の秋をうつしてぞ見る

同十月十三日寅刻に、將軍家、關東御下向、前後の陣、供奉の行粧(かうさう)、行列の次第、御上洛の時よりも猶はなやかに出立ちて、目を驚かす計なり。大相國禪閣(ぜんかく)は、四の宮河原に棧敷(さんじき)をうたせて御見物あり。堀河大納言具實(ともざね)卿は大津の浦に車を立てらる。その外、卿相雲客(けいしやううんかく)の車は、所狹(せ)く隙もなし。諸方の貴賤男女は面(おもて)を竝べて垣とし、飽(いや)が上に集ひて是を見る。京都の御逗留御下向の路次(ろじ)すがら、事故(ことゆえ)なく、同二十九日に、鎌倉の御所に著き給ふ。めでたかりける事共なり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻三十二の嘉禎四(一二三八)年正月二十日・二十八日、二月十六日・十七日・二十二日・二十三日・二十六日・二十八日。三月七日、四月七日・十日・十八日・二十五日、五月十六日、六月五日・六日、七月十六日、九月九日・十三日、十月十三日などに基づく。従う御家人の名が多数出るが、既に注した人物も多く、必要と思われる者以外は注さなかった。

「將軍家」藤原頼経(建保六(一二一八)年~康元元(一二五六)年)は当時数えで二十一歳。

「江州野路(のぢ)の驛」現在の滋賀県草津市野路町。平安から鎌倉までは野路宿として栄えたが江戸時代になって宿駅から外されて寂れてしまった。

「一番より、十二番に連りて」増淵勝一氏の訳ではこの「一番」を「二番」の誤りとしているが、「吾妻鏡」を見るとこれで正しい。不審。

「眞壁(まかべ)を先とて」これは「眞下(ましも)」の誤り。「吾妻鏡」には随兵三騎並びの「一番」には『小林小次郎 小三郎』の次には『眞下右衞門三郎』と出る。

「御乘替」将軍が輿を乗り換える際の添え役。

「布衣」狩衣(かりぎぬ)。

「打籠(うちごみ)」軍兵。元は「討ち込み」で、敵味方入り乱れて戦うことからか。

「濟々(せいせい)と」多くて盛んなさま。威儀が整ったさま。

「野路より六波羅まで」大まかな実測でも二十キロメートルはある。

「大相國」太政大臣の唐名であるが、ここは頼経の母方の祖父西園寺公経(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)を指す。但し、彼は貞応元(一二二二)年に太政大臣になったが、翌貞応二年に従一位に昇進した後に太政大臣を辞任しているが、その後も婿の九条道家(次注参照)とともに朝廷の実権を握った親幕派。

「一條殿」頼経の父九条道家(建久四(一一九三)年~建長四(一二五二)年)。頼経は公経の娘倫子と彼の間の子である。この前年の嘉禎三(一二三七)年三月に就いていた摂政及び藤原氏長者を辞していおり、本文に出る通り、この二ヶ月後の四月二十四日には准三宮宣下を固辞し、翌日に出家して法名行恵と名乗ったが、以後も禅閤(ぜんこう:摂政又は関白の職を子弟に譲った太閤が出家した場合の呼称)として権勢を誇った。義父公経とは公経の晩年には不仲となっていたらしい。親幕派であったが、後の宮騒動で当時の執権北条時頼によって頼経が将軍職を廃されると、道家はも関東申次の職を罷免されて失脚した。

「先駈の沙汰には及ばざれども」それらの参向の際には、流石に仰々しい先駆けを配するところまではしなかったものの。

「大八葉(はちえふ)の御車」牛車(ぎっしゃ)の「八葉」の車の一つ。「八葉」は「網代車」(あじろぐるま:車の屋形に竹または檜の網代を張ったもので、四位・五位・少将・侍従は常用とし、大臣・納言・大将は略儀や遠出用とした)の一種で、車の箱の表面に八葉の紋をつけたもの。大臣・公卿から地下人(じげにん)まで広く用いられ、紋の大小によって「大八葉車」と「小八葉車」の別があった。「大八葉車」は箱に描かれた八葉の文様が大きいもので、高位の者が用いたもの。「おおはちえふ(おおはちよう)」「だいはちえふ(だいはちよう)」孰れにも読む。

「扈從(こしよう)」「こじゆう(こじゅう)」とも読む(「しょう」は漢音)。貴人につき従うお供の者。

「參内」当時の天皇は四条天皇(寛喜三(一二三一)年~仁治三(一二四二)年:在位は貞永元(一二三二)年から没するまで)。当時、数えでも僅か八歳であった。

「小除目(こぢもく)」定例の春秋の除目の他に臨時に行われた任官式を指す。

「權中納言に任じ」頼経は天福元(一二三三)年一月二十八日に権中納言になっているから、これは如元(もとのごとし)である。

「飯室(いひむろ)の前大僧正良快」(文治元(一一八五)年~仁治三(一二四三)年)は九条兼実の子で天台宗僧。尊忠に学び,、円に灌頂を受けた。京の青蓮院門跡となり、寛喜元(一二二九)年、天台座主。大坂四天王寺別当を経て、比叡山飯室谷(いいむろだに)に籠った。

「右大臣良實」頼経の実兄二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)。但し、父道家は彼を愛さず、不仲であった。

「福王公(ふくわうぎみ)」増淵氏の割注に『後の准三后法助。頼経の養子となる』とある。これは九条道家五男で良実や頼経の実弟に当たる人物で、後に真言僧となった法助(ほうじょ 嘉禄三年(一二二七)年~弘安七(一二八四)年)のことである。ウィキの「法助」には(アラビア数字を漢数字に代えた)、『非皇族で初めて仁和寺門跡となり、僧侶として初めて准后とな』った人物とある(准后(じゅごう/じゅんこう)は朝廷に於いて太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者を言い、准三后(じゅさんごう)・准三宮(じゅさんぐう)とも称した。勘違いしてはいけないのはこれは男女関係なしである)。実はこのエピソードの翌月、嘉禎四(一二三八)年六月二十三日に『十二歳で出家して京都仁和寺の道深法親王に学び、同年に東大寺戒壇院において満分戒を受ける。延応元(一二三九)年七月二十六日に『に一身阿闍梨の宣下を受け、翌二十七日に准后宣下を受ける。寛元元年』(一二四四年)には「八大師御影」を図し、翌年十二月には『観音院において道深法親王より伝法潅頂を受ける。建長元年(一二四九年)、皇胤以外で初めて仁和寺第ⅹ世を継承して教説を講ずる。正嘉二年(一二五八年)門跡の地位を辞して性助入道親王に譲り、乙訓郡』(おとくにのこおり:現在の京都府内)『開田院に隠退。開田准后・開田御室と号す。文永元年(一二六四年)八月孔雀法を修す。弘安七年(一二八四年)五十八歳で示寂した』とある。但し、本文では出家はこの前月「四月十日、仁和寺御室に入室ありけるが、今日右府の亭へ参り給」うたとあるのとは矛盾する。「吾妻鏡」に六月二十三日とあるので、これは筆者の誤認である。そもそも少年とはいえ、殺生戒を守るべき出家者が籠で小鳥を飼っているというのはちょっと解せないと思ったわい。

「上野十郎朝村」結城朝村(生没年未詳)。弓の達人として知られる結城朝光(ともみつ 仁安三(一一六八)年~建長六(一二五四)年)の子。康元元(一二五六)年に出家している(講談社「日本人名大辞典」に拠る。同辞典にはこのシーンのことがメインに書かれてある)。

「引目(ひきめ)」既出。射る対象を傷つけないように鏃を使わず、鏑に穴をあけたものを装着した矢のこと。通常は邪気を払うためにも、音を発して放たれる。

「目柱(めばしら)二つを削缺(けづりか)きて挿(さしはさ)み」ここではその鏑に開いている二つ孔(増淵氏の割注によれば、それを「目」と呼ぶ。私は孔は一つだけと思っていたが、これを読む限りでは孔は複数個開いているらしい)を大きく削り取って開け、そこにすっぽり小鳥が入るように加工したのである。

「堂上」殿上人。清涼殿殿上の間に昇ることの出来る四位・五位以上の者。六位の蔵人(くろうど)はメッセンジャー・ボーイとして昇殿出来たが、殿上人ではないので注意。

「堂下」地下人。殿上の間に昇ることの出来ない六位以下の者。

「右府」右大臣良実。

「洛中警固の爲、辻々に篝(かゞり)を燒(たく)べき由、御家人等に充催(あてもよほ)さる」「吾妻鏡」によれば、これは六波羅還御の十三日後の六月十九日のことである。

「七月十六日、將軍家、本座の宣旨を蒙り給ふ」鎌倉へ戻てよいという宣旨を有り難くお受けになられた、の意。但し、以下を見るように、直ぐに出立するわけではなく、実際の出立はぴったり三ヶ月後の十月十三日であった。

「太白星(たいはくせい)」金星。

「太微(たいび)」古代中国天文学において天球上を三区画に分けた三垣(さんえん)の一つ。今風に言うなら星座の名である。主に現在の獅子座の西端付近の十星に相当する。

「熒惑星(けいこくせい)」火星。

「軒轅(かんゑん)」読みはママ。多くの資料は「けんゑん」と読んでいる。やはり獅子座の一部。

「歳星(さいせい)」木星。

「同十三日、今夜の明月、殊に雲もなく、一天霽れて隈もなし。古は、八月十五夜の月計を賞しけるに、菅丞相、今夜の月を賞し給ひけるより、今に傳へて、詠ある事に定めらる」「菅丞相」は言わずもがな、菅原道真であるが、この伝承、甚だ怪しい(以下の泰時の話は確かに「吾妻鏡」の嘉禎四年九月十三日の条に出るが、この箇所は筆者がしたものである)。ししばしば御厄介になっている水垣久氏のサイト「やまとうた」内の九月十三夜で水垣氏は、九月に限って何故十三夜なのだろう? という疑問を示され、『菅原道真が大宰府で九月十五日夜に詠んだ詩が、誤って十三日の作として伝えられたため、とする説など』があり、『これは江戸時代の学者の説だそうだが、根拠は薄弱である。現代の民俗学者は、農耕儀礼との深い関係を指摘する。しかし「なぜ十三日なのか」を納得させてくれる説を私はいまだ知らない』と記しておられる。

「右京權大夫泰時」「左京權大夫泰時」の誤り。

「或殿上人の御許より、右京權大夫泰時の御方へ、かくぞ詠みてまゐらせられける。/都にて今も變らぬ月影に昔の秋をうつしてぞ見る」「吾妻鏡」嘉禎四 年九月十三日の条を引く。本篇とはシチュエーションが異なっていて、この歌は泰時が旧知の親しい人物へ贈った贈答歌となっている。

   *

〇原文

十三日乙酉。今夜明月得霽。左京兆先年御在京之時。有令對面給之人。御懇志于今不等閑。以月興爲媒。被遣一首御歌。

  みやこにていまもかはらぬ月かけに昔の秋をうつしてそみる

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日乙酉。今夜の明月、霽(はれ)を得たり。左京兆、先年御在京の時、對面せしめ給ふの人有り。御懇志、今に等閑(なほざり)ならず。月の興を以つて媒(なかだち)として、一首の御歌を遣はさる。

  みやこにていまもかはらぬ月かげに昔の秋をうつしてぞみる

   *

なお、増淵氏は「北條九代記」の方の、この前書様の箇所に割注されて、この和歌は「続後撰和歌集」の『巻十六「雑歌上」一〇七一に「平泰時朝臣」が「久しく年経て都に帰りのぼ」って、「昔物申しける人の許に遣し」歌とされている。泰時は承久の變〈一二二一〉の際上京して以来、今度の頼経の里帰りに随行して、十八年ぶりに再上京したわけである』と記しておられ、『都でも今も昔も変わらずに照っている月の光を眺めていると、かつてのなつかしい秋のことが思い出されることです』という現代語訳を本歌に附しておられる。今一度、表記を改め、掲げておきたい。

 

  都にて今も變らぬ月欠けて昔の秋を寫してぞ見る

 

「堀河大納言具實」堀川具実(建仁三(一二〇三)年~建治三(一二七七)年)。「吾妻鏡」こうなっているが、当時は権大納言で、大納言に転じたのは、この三年後の仁治元(一二四〇)年である。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ――磨ぎ直す鏡も淸し雪の花 芭蕉

本日  2015年12月28日

     貞享4年11月24日

はグレゴリオ暦で

    1687年12月28日

 

  熱田御(み)修覆

磨ぎ直(なほ)す鏡も淸し雪の花

 

「笈の小文」より。平凡ではあるが、祝祭句というものはそれでこそよいと私は思う。熱田神宮のこの時の修復は前年の貞享三年で、芭蕉はこの三年前の貞享元年にも「野ざらし紀行」の旅で熱田を参拝しているが、その時は荒廃の限りを尽くしており、同書では、

   *

 

   熱田に詣づ

 

 社頭大いに破れ、築地(ついぢ)はたふれて草むらにか隱る。かしこに繩を張りて小社の跡をしるし、ここに石を据ゑえて其神と名乘る。よもぎ、しのぶ、心のままに生(お)たるぞ、なかなかにめでたきよりも心とどまりける。

 

  しのぶさへ枯て餠(もち)かふやどりかな

 

   *

詠歎している。かく二句を並列して味わうと、芭蕉の視線が読む者に神妙にシンクロしてくるではないか。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (4) 鷹狩その四(終り)

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 隼を捕えてそれを訓練する方法は興味が深い。隼を捕えるには、真中が大きく、輪を入れてひろげた長い簡形の網の中へ、雀を入れたものを使用する。この両端を杙(くい)にしばりつけて、地面に置くこと、図744の如くする。この簡の網を横切って、極めて細い糸で編んだ、網目の広い大きな網を、二本の竿にかける。その大きさは高さ六フィート、幅八フィートか十フィートで、上方の細い竹竿と、地面にある割竹とから、容易に外すことが出来るようにかけてある(図745)。雀を捕えるには、鷹匠は頭上を雀の群がとんで行くのを見ていて、呼子で隼の鳴声に似た者を立てる。雀は驚いて直ちに地面に舞い下りるから、鷹匠は網を振り廻して容易に数羽を拾える。この一羽を筒形の、網の内に入れ、おとりに使用する。野生の隼は網の上をとんでいて、雀が筒形の網の中にいるのを見つけ、それに向ってサッと舞い下ると、雀は網の他端へ逃げ、これを追う隼は縦網にぶつかって、直ちにこんがらかって了う。鷹匠は網の作用を私に説明する為に、紐をまるめた大きな球を網にぶつけた。すると網は即座に四隅から外れて、球はそれにつつまれた。捕えた隼は暗い部屋に入れ、食物も飲料も与えず、文字通り餓死させられかけ、ひょろひょろになるので、取扱うことが出来る。鷹匠はそこで顔を布でつつんでその部屋に入り、隼を一時間手でつかんだ上、それに雀の肉の少量を与える。これをしばらくの間、毎日くりかえす。

[やぶちゃん注:「高さ六フィート、幅八フィートか十フィート」高さ約一・八三メートル、幅二・四四或いは三メートル。]

 

 最後に彼は、布を取って部屋に入り、徐々に部屋に光線を入れ、一日ごとに光を強くして行く内に、隼は完全に馴れて飼主を覚える。こうなれば隼は、真昼の光線にあててもたじろがず、誰でもそれを持つことが出来る。それは決して逃げようとせず、箱を叩いて合図すると飼主のところへ来てその手にとまり、全体として合理的な、そして行儀のいい鳥である。鷹の訓練には三十日から四十日かかる。この日使用した隼の一羽は、一ケ月ちょっと前までは、野生の鳥であった。鷹狩に適したこの場所は、二百年以上、この目的に使用されて来た。図746は、運河の一つの入口にある、小さな小舎兼見張所である。男は穀物を小さな漏斗に流し入れ、同時に穴から外を見張っている。何個かの木造の囮(おとり)鴨が、他の鴨と一緒に水の上に浮いていたが、如何にもよく似せてあるので、見わけるのが至極困難であった。

[やぶちゃん注:「二百年以上」明治一五(一八八二)年の二百年前は天和二(一六八二)年で、第五代将軍徳川綱吉の頃となる。

「何個かの木造の囮(おとり)鴨が、他の鴨と一緒に水の上に浮いていたが、如何にもよく似せてあるので、見わけるのが至極困難であった」デコイ(decoy)を生物学者のモースがかく言うのである! 当時の日本の匠(たくみ)のレベルの高さを知るべし!]

 

 外国人は、何故日本人が、彼等が鳥に向ってパンパン発砲して廻ることに反対するのか、不思議に思う。発砲すると、広い区域にわたって、鳥が池から恐れて逃げて了う。上述のように、鷹狩をしたり網を用いたりしていれば、いつ迄も狩を続けることが出来る。

 

 これは、たとえ鴨を食卓にのせる為に捕えるにしても、残酷な遊びのように思われた。すべてのことが静かに、いささかの興奮も無くして行われたことは、如何に屢々この遊びが行われるかを示していた。

[やぶちゃん注:モース先生、鉄砲で狩りをするのも、残酷なことに何ら、変わりはありんせん!!!]

 

 我々は、初めて見たこの古い遊びに、大きに面白くなり、ドクタアは国へ帰ったらこれを始めると誓言したりした。

[やぶちゃん注:モース先生、正直! だから好きさ!]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (3) 鷹狩その三


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 図742これに使用する網の形で、図743は鷹匠の身体つきを示している。腕を大きく振り、鳥が手から離れる時までにその速度を増して行って隼を投げるには、技術を必要とする。投げようが速すぎると、恰も競走している子供を後から押すような具合になり、鳥は前にのめって了う。あまり激しく押すと子供がころぶのと同じ訳である。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (2) 鷹狩その二

 しばらく番小舎で待っていると鈴が鳴り、我々は遊域へ行くのだといわれた。我々の後から一人の鷹匠が、美事な、ほっそりした隼(はやぶさ)を左手に支えてやって来た。鳥はいささかも恐怖のさまを見せず、黄色で黒い瞳の眼を輝かし、非常にまっすぐに、期待するところあるらしく立っていた。我々が入って行った場所には、両側に高い土手を持つ狭い通路がいくつか切り込んであり、土手の上には竹が密生している。我々は一方が竹の林、他方が同様な竹を上にのせた土手の間に、いくつかの入口のある、長い、ひらいた場所へ入った。これ等の竹の林や縁は、人を野鴨からかくして、それが吃驚(びっくり)するのを防ぐようにしたのであるが、日本の野生の鳥は、如何なる種類の隠蔽物をも必要としない位よく人に馴れている。

[やぶちゃん注:「野鴨」ウィキカモによれば、野生のカモ目カモ亜目カモ科 Anatidae に属する鳥類の中でも、雁(カモ科マガン属マガン Anser albifrons などのカモ科の中型種)『に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)では雄と雌で色彩が異なるものをいう。カルガモのようにほとんど差がないものもある。分類学上のまとまった群ではない』とあるが、一応、マガモ属 Anas に属する野生種を概ね称していると考えてよいようではある(マガモ属のタイプ種はマガモ Anas platyrhynchos)。]
 
 

M740

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 だが、先ず主要な沼と、この沼から来ている鴨をおびき込んで、そこから彼等がとび立つ時、場合に応じて変な形の網や鷹でそれを捕える運河とについて語らねばならぬ。鴨が必ず下降する、相当な大きさの池を選ぶなり、人工的につくるなりする。これを密生した竹叢で、ぐるりと取りまき、何人なりとも、たった二人が入れる丈の大きさの小舎に通ずる狭い路以外を通って、そこに近づくことは許されない。この小舎には小さな穴が二つあいていて、そこから池が見える。竹の密林によって、ぎっしり取りかこまれた平穏な水面を、チラリと見、何百という小さな太った鴨の背中に太陽が照り輝き、鴨のあるものは泳ぎ廻り、他のものは日陰にある薄い氷の上で休み、池の真中の小島では大きな鷺(さぎ)が、安心しきって長閑(のどか)に一本脚で立っているのを見た時は、面白いなと思った。所々他の辺に黒く陰になっているのは、そこに鴨をおびき入れる運河である。図740は池と見張所と、池から入っている三本の運河とを示し、図741は運河の断面図である。これ等の運河は、幅は三フィート、あるいはそれ以上で、深さ四、五フィート、運河の両側は一フィート半ばかりの低い土手になり、それから十五フィートほどの空地を置いて高い土手になること、切断面図に示す如くである。この高い土手には竹が密生している。運河にはとびもしなければ、鷹を恐れもしない、馴れた鴨が飼ってある。それ等は屢々餌を貰うから、大きい池へ出て行かぬ。野生の鴨は、然しながら、運河に入って来るので、その末端にある見張所の小さな穴から見ていると、野鴨が入って来たかどうかが判る。

[やぶちゃん注:「見張所」原文“the lookout”。図740に手書きで記されてある。

「三フィート」九十一・四四センチメートル。

「四、五フィート」一・三~一・五三メートル。

「一フィート半」四十五・七二センチメートル。

「十五フィート」四・五七メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (1) 鷹狩その一

 

 第二十六章 鷹狩その他

 

 この前の日曜日(十二月二十四日)ドクタア・ビゲロウと私とは、黒田侯に招れて、東京の郊外にある彼の別荘へ、鷹狩の方法を見に行った。我々は八時半その家へ着き、直ちに狩番小舎ともいう可き場所へ行った。これは広い、仮小舎みたいな物で、北風を避けて太陽に開き、中央には炭火を充した大きな四角い穴があり、人々はここで手足をあたためる。そこには卓子(テーブル)と椅子とがあり、葉巻、茶菓等が置いてあった。近くにある鴨の遊域とこことの間には、電気の呼鈴がかかっている。別の部屋には召使いがおり、鷹匠達は外側に住んでいる。長い托架には、長い竿のついた奇妙な形の網がいくつもあり、一方側には数箇の区ぎりのある小さな建物があって、そこには鷹が飼ってあった。

[やぶちゃん注:「鷹狩」タカ目タカ科のイヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos・ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis・ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus や、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus などを調教し、鳥類や兎・狼・狐などの哺乳類を捕らえさせる狩猟法。ウィキの「鷹狩」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。彼らが捕えたものは用意した餌とすり替えるもので、主人の『元に運んでくるというのは俗信である』。『鷹を扱う人間は、鷹匠(たかじょう)と呼ばれる。日本語の古語においては鳥狩(とがり)』などと称し、『鷹を訓練する場所は鷹場(たかば)と称される』。『日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。日本書紀には仁徳天皇の時代(三五五年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令/主鷹司(養老令)が置かれた。正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。平安時代に入ると新設の蔵人所にも鷹飼が置かれ、主鷹司が天皇の鷹狩を、蔵人所が贄調達のための鷹狩を管轄するようになる。だが、仏教の殺生禁止の思想の広まりにより鷹狩に否定的な考えが生まれて鷹の飼育や鷹狩に対する規制が取られるようになり、清和天皇は真雅や藤原良相の助言を受け入れる形で、貞観二年(八六〇年)に主鷹司の廃止と蔵人所の鷹飼の職の廃止が行われ、以降鷹の飼育に関する規制が強化された。次の陽成天皇の元慶六年(八八二年)に蔵人所の鷹飼のみ復活され、蔵人所が鷹狩を管掌する』。『奈良時代の愛好者としては大伴家持や橘奈良麻呂が知られ、平安時代においては、初期の桓武天皇、嵯峨天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として『新修鷹経』を編纂させている(八一八年)。現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で二番目に古い。中期以降においても、一条天皇、白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られ、源信は鷹狩の途中で事故死したと伝えられている』。『鷹狩は文学の題材ともなり、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔物語』等に鷹狩にまつわるエピソードがある。和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である』。『古代の鷹狩は仏教の殺生禁止の思想と神道における贄献上の思想(天皇についてはこれに王土王臣思想が加わる)のせめぎ合いの中で規制と緩和が繰り返されてきたが、最終的には天皇と一部貴族による特権とされるようになった。また、鷹狩の規制は鷹の飼育や狩りで生活をしてきた蝦夷の生活を圧迫し、平安時代前期の蝦夷の反乱を原因の一つになったとする見方もある』。『中世には武家の間でも行われ始め、一遍上人絵伝や聖衆来迎寺六道絵の描写や『吾妻鏡』・『曽我物語』の記述に鎌倉時代の有様をうかがうことができる。室町時代の様子は洛中洛外図屏風各本に描かれている。安土桃山時代には織田信長が大の鷹好きとして知られる。東山で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことが『信長公記』に記載されている。また、朝倉教景(宗滴)は、オオタカの飼育下繁殖に成功しており、現在判明している限りでは世界最古の成功記録である(『養鷹記』)。公家及び公家随身による鷹狩も徳川家康による禁止まで引き続き行われ、公卿の持明院家、西園寺家、地下の下毛野家などが鷹狩を家業とし、和歌あるいは散文形式の技術書(『鷹書』)が著されている。近衛前久は鷹狩の権威者として織田信長と交わり、また豊臣秀吉と徳川家康に解説書『龍山公鷹百首』を与えている。一方、武家においても、諏訪大社や二荒山神社への贄鷹儀礼と結びついて、禰津流、小笠原流、宇都宮流等の鷹術流派が現れ、禰津信直門下からは、屋代流、荒井流、吉田流などが分派した』。『戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。三代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。五代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、八代将軍・吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、伊達重村、島津重豪、松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館や島根県立図書館等に収蔵されている』。『鷹は奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は一据十両、中期では二十~三十両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった』(「据」は鷹狩用の鷹を数える際の数詞のようである。鷹は腕に「据える」ことに由来するものであろう)。『明治維新後、鷹狩は大名特権から自由化され』、このモースの体験の十年後の明治二五(一八九二)年の勅令『「狩猟規則」及び一八九五年の「狩猟法」で九年間免許制の下に置かれたが』、明治三四(一九〇一)年の『改正「狩猟法」以後、狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として今日に至る。明治天皇の意により、宮内省式部職の下で鷹匠の雇用・育成も図られたが、第二次世界大戦後、宮内庁による実猟は中断している』とある。

「十二月二十四日」明治一五(一八八二)十二月二十四日日曜日である(確認済)。磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の二八二頁に以下のようにある。『ビゲローとともに黒田長溥(ながひろ)元福岡藩主の別荘に招待され、別荘内の大きな池で鴨猟と鷹狩を見学』。『この別荘は赤坂福吉町』(ふくよしちょう。現在の赤坂二丁目で国会議事堂の西南五百メートル強)『南部坂』(赤坂二丁目と六本木二丁目の境界にある坂道。国会議事堂の西南一キロ強)『の脇にあった、いまの衆議院議員宿舎』(国会議事堂西南八百メートル弱)のやや南に当る』(現在の六本木通りの北直近)。『こんな都心で鴨猟や鷹狩が行われていたのだ!』と磯野先生、珍しく感嘆符まで附しておられる。場所が場所だけに(といっても私は六本木通りを歩いたことはない)私も吃驚!

「黒田侯」前注の引用で判る通り、黒田長溥(文化八(一八一一)年~明治二〇(一八八七)年)。筑前福岡藩第十一代藩主(最後の藩主ではない。最後の第十二代は彼の嗣養子の黒田長知)。以下、ウィキの「黒田長溥」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。養父斉清(なりきよ)と『同じく蘭癖大名であり藩校修猷館を再興させた事で知られる幕末の名君である』。『薩摩藩主・島津重豪と側室・牧野千佐との間に重豪の十三男として生まれる。千佐は家臣の家で働く身分の女性だったが、重豪も圧倒されるほどの大柄で大酒飲みだったと言われ、惚れ込んだ重豪の求めによって側室となった。そんな母の血を継いだ長溥もまた大柄であった。二歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲であったという』。『文政五年(一八二二年)、第十代福岡藩主・黒田斉清の娘、純姫と婚姻。婿嗣子となり、養父同様、将軍徳川家斉の偏諱を賜って黒田斉溥と称した(家斉は斉溥からみて養父の伯父、また姉の広大院が家斉の御台所であることから義兄にあたる)』。天保五(一八三四)年十一月に『養父の隠居により、家督を相続した。就任後は実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。現在は歓楽街で有名な中洲の一部である博多岡崎新地に、精練所と反射炉を建設した。次いで見込みのある藩士を積極的に出島に派遣し、西洋技術の習得に当たらせた。藩士たちの一部から福岡県で最初の時計屋や写真館を開く者が現れた。蘭癖と称された斉溥の西洋趣味はこれに留まらず、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだ。他にも医術学校の創設や種痘の実施、領内での金鉱・炭鉱開発を推進したが、鉱山関連に関しては、様々な困難や妨害、当時の日本における石炭を使った産業を育成しようとしたが、当時は技術がそれほど進んでおらず道半ばであった』。『嘉永元年(一八四八年)十一月、伊勢津藩主・藤堂高猷の三男・健若(のち慶賛、長知)を養嗣子とする。嘉永三年(一八五〇年)、実家島津家の相続争い(お由羅騒動)に際し、斉彬派の要請に応じて、老中・阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平慶永らに事態の収拾を求め、翌嘉永四年(一八五一年)、その仲介につとめ、斉彬の藩主相続を決着させた』。『嘉永五年(一八五二年)十一月、福岡藩・佐賀藩・薩摩藩は、幕府からペリー来航予告情報を内達される。福岡・佐賀は長崎警備の任にあり、薩摩は琉球王国を服属させていたことから、外交問題に関係が深かったためである。情報を受けた斉溥は同年十二月、徳川幕府に対して建白書を提出した。それは幕府の無策を批判し、ジョン万次郎の登用や海軍の創設を求めるものであった。一大名が堂々と幕府批判を行うということは、前代未聞の行動であった。結局建白書は黙殺され、その主張が採用されることはなかったが、斉溥や藩家老黒田増熊が処分を受けることもなかった』。『嘉永六年(一八五三年)七月、ペリー艦隊の来航を受けた幕府の求めに応じ再度建白書を提出。この中で、蒸気船を主力とした海軍による海防の強化、通商を開き欧米から先進技術を導入すること、アメリカ・ロシアと同盟すればイギリス・フランスにも対抗し得ることなどを主張している』。『安政六年(一八五九年)には、再来日したシーボルトによる解剖学の講義を受け、死体を直接手にとった事もある』。『元治元年(一八六四年)、参議となり筑前宰相と呼ばれ』た。『斉溥は斉彬と同様、幕府に対しては積極的な開国論を述べている。慶応元年(一八六五年)、藩内における過激な勤王志士を弾圧した』(乙丑(いっちゅう)の獄)。『しかしその後は薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を務めるなど、幕末の藩主の中で大きな役割を果たしている。斉彬派だったために様々な辛苦を受けた西郷隆盛は、斉溥に助けられた一人である。弾圧事件の前後から月代を剃らなくなり、また顎鬚も伸ばし放題にしていた』。『明治初期頃、名を長溥(ながひろ)と改めた。明治二年(一八六九年)二月五日には隠居して、養嗣子の長知に家督を譲っている。長知が岩倉使節団に随って海外留学する際に、金子堅太郎と團琢磨を出し、長知に随行させた。團は、かつて長溥が行った種痘の実験で長男を死なせた側近・神屋宅之丞の四男で、無残な結果を悔やんだ長溥の、神屋に対する詫びとしての指名だったとも言われている』。このモース来訪の三年後の明治一八(一八八五)年には『金子堅太郎の献策を採用し旧福岡藩士との協議の末、黒田家の私学・藤雲館の校舎・什器一切を寄付し、旧福岡藩校修猷館を福岡県立修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)として再興』している。この当時、数え七十二歳。彼の経歴から、モースを招待したのも腑に落ちる。]

甲子夜話卷之一 47 森武藏守戰死のときの甲冑所在の事

47 森武藏守戰死のときの甲冑所在の事

予在勤のとき、森右兵衞佐〔赤穗城主〕と屢相會す。其時語たる中に、彼先の武藏守は、世に鬼武藏と稱たるにて、長久手に於て戰死す。其時着したる具足、今に家傳す。黑糸威の鎧なるが、小兵と覺えて、胴小くして某には合はずと。此右兵衞佐もさほど大兵にはなければ、彼鬼武藏と云しは、世の沙汰には似ず小兵と見えたり。又曰、其時着したりし兜は、家には傳らず。聞に永井の家に有りと語れり。

■やぶちゃんの呟き

「森武藏守」戦国から安土桃山期にかけての武将で大名の森長可(もりながよし 永禄元(一五五八)年~天正一二(一五八四)年)。長一と言い、武蔵守を称した。織田信長に仕えて武田攻略で功を立て、信濃川中島城主となって北信四郡を領した。本能寺の変後、豊臣秀吉に従う。天正一二(一五八四)年の秀吉と織田信雄及び徳川家康との小牧・長久手の戦いでは、舅(しゅうと)池田恒興(つねおき)とともに秀吉方についた。以下は具体性に優れたウィキ森長可より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。関・遠藤両名と合流した長可は尾張へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。三月十六日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は十五日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら五千人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、十七日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開』いた(羽黒の戦い)。『奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など三百人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した』。『後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第二陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った』。『しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第三陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が二陣と三陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となって』、『もはや決戦は不可避となり』、『池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成の家臣・水野太郎作清久の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した』。享年二十七の若さであった。なお、同ウィキの「逸話」の項には、『武蔵守の由来については次のような伝説がある。信長が京都に館を構えた頃、近江の瀬田に関所を設けて諸国大名の氏名を記し通行させた。長可が関所に差し掛かると関守に下馬して家名を名乗るように言われたが、長可は急いでいるとして下馬せずに名乗って通ろうとした。立ちふさがる関守を「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事」と斬り捨て、止め立てすれば町を焼き払うと叫んだので、木戸は開かれた。長可がこの一件を話し裁定を仰ぐと、信長は笑って、昔』、『五条橋で人を討った武蔵坊弁慶がいたが、長可も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵守と改めよと言ったという』とある。

「在勤」藩主江戸詰めの際に登城すること。

「森右兵衞佐」播磨赤穂藩第七代藩主で赤穂藩森家十三代の森忠賛(ただすけ 宝暦八(一七五八)年~天保八(一八三七)年)。但し、赤穂藩森家は森家主家の傍系である。静山より二歳年上であった。

「彼先の」「かの/せんの」。

「鬼武藏」ウィキ森長可の「人柄」の項に、父可成(よりなり)『と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。筋骨たくましい偉丈夫として戦場での勇ましさを伝える逸話も多い』とある。

「黑糸威」「くろいとをどし(くろいとおどし)」。

「小兵」「こひやう(こひょう)」。小柄。体つきが小さいこと。

「大兵」「だいひやう(だいひょう)」大柄。体つきが大きいこと。

「永井家」戦国から江戸初期に活躍した大名で上野小幡藩主・常陸笠間藩主・下総古河藩初代藩主であった永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)を宗家初代とする永井家か。但し、永井直勝は家康の家臣となって長久手の戦いでは当の森長可の舅である池田恒興を槍で討ち取った人物ではある。なおそれでも、文禄三(一五九四)年に、亡き恒興の次男であった池田輝政が家康の次女督姫を娶った際には、輝政の求めに応じ、長久手の戦いでその恒興を討ち取った際の事を語ってもいる(ここは主にウィキ永井直勝に拠った)。

譚海 卷之一 藝州佛巖寺の事

 藝州佛巖寺の事

○安藝國に佛巖寺といふあり。寺領六高石程あり。西本願寺末なり。一代かはりに國守の親族住持する寺也。和漢の内典(ないてん)我(わが)朝(てふ)にあるほどのものは藏書せしに、住持三代をへて成就せしとぞ。輪藏(りんざう)三箇所・土藏八箇所に充滿せり。書のあたひは八千兩に及べりといへり。

[やぶちゃん注:「目錄」では次のこの標題に二字空けをした上で次の「加州城中幷家士等の事」が同行に出る。

「佛巖寺」底本の竹内利美氏の注に『現在の広島別院である仏護寺であろう』とある。これは現在の本願寺広島別院と同一(後身)である。ウィキの「本願寺広島別院」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『広島県広島市中区寺町にある浄土真宗本願寺派』(「お西さん」)『の寺院。旧安芸国の安芸門徒と呼ばれる浄土真宗門徒の活動の中心寺院で』、『本願寺広島別院の前身は、長禄三年(一四五九年)、安芸武田氏によって、現在の武田山の麓(現広島県立祇園北高等学校付近)に建立された、龍原山仏護寺である。この寺院は安芸武田氏の影響下にあり、初代住職正信も安芸武田氏一門であった。建立当時は天台宗の寺院であった。しかし、第二世住職円誓は、本願寺の蓮如に帰依して、明応五年(一四九六年)に浄土真宗に改宗した』(竹内氏は創建を長禄元年とするが、「本願寺広島別院」公式サイトの広島別院・安芸教区についての記載も長禄三年で誤りである)。『その頃の安芸国は戦乱の日々で、安芸武田氏はその波に揉まれ、第三世住職超順の時代、天文一〇年(一五四一年)に安芸武田氏は大内氏と毛利氏に攻められて滅亡してしまう。仏護寺は堂宇を焼失するなど大きく疲弊するが、信仰心篤い毛利元就の庇護を受け、石山合戦では毛利軍の一員として畿内に出兵した』。『豊臣秀吉の世になると、毛利輝元は広島城の築城に着手。その時の町割によって天正一八年(一五九〇年)、仏護寺は広島小河内(現広島市西区打越町)に移転した。慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は広島を去るが、その後領主となった福島正則によって、慶長一四年(一六〇九年)に、現在の寺町へと移転させられた』。『福島正則の去ったのち広島は浅野氏の支配となるが、そのまま浅野氏の庇護を受けて明治維新を迎えた。明治九年(一八七六年)から約二年間、仮の広島県庁舎がここに置かれている』。その後の『明治三五年(一九〇二年)十一月に、広島別院仏護寺と改称。その六年後の明治四一年(一九〇八年)四月に、現在の名である』「本願寺広島別院」と改称した(下線やぶちゃん)。『太平洋戦争末期の昭和二〇年(一九四五年)八月六日、原子爆弾が広島市に投下され、爆心地からわずか一キロメートル足らずの広島別院は廃墟と化すも、戦後の昭和三九年(一九六四年)十月に本堂が再建され』た。『浄土真宗本願寺派では、全国を三十一の教区、五百三十三の組(そ)に分けられているが、広島別院の管理する広島県西部の地域は安芸教区と呼ばれ、二十五の組に分けられている。教区内には現在五百五十ほどの寺院があるが、門徒の減少、後継者の不足等に悩まされている』とある。

「内典」仏教で仏教の経典を指す。因みに、それ以外の書物は「外典(げでん/げてん)」と称するが、本邦に於いて仏教で「外典」と言う場合は、主に儒学書を指す。

「輪藏」一切経などの大部の経典を収める経蔵(きょうぞう)。]

「笈の小文」の旅シンクロニティ――薬吞ムさらでも霜の枕かな 芭蕉

本日  2015年12月28日

     貞享4年11月24日

はグレゴリオ暦で

    1687年12月28日

 

   翁心地あしくて欄木起倒子へ藥の事い

   ひ遣(つかは)すとて

薬吞ムさらでも霜の枕かな

 

「如行集」。「笈の小文」には載らない。欄木起倒子は「らんぼくきたうし(らんぼくきとうし)」と読み、名古屋星崎(現在の名古屋市南区星崎)の医師欄木三節の俳号。芭蕉は長逗留した知足亭を十一月二十一日に出て、熱田蕉門の林桐葉(はやしとうよう 林七左衛門)の邸宅へと移り、同月二十五日には名古屋の荷兮(かけい)亭へ赴いている。山本健吉氏は「芭蕉全発句」で、本句はこの二十一日から二十五日の閉区間の間で作句されたものとしており、さらに二十四日附寂照(知足)宛書簡から、

 

持病心氣(ごころき)ざし候處、又咳氣いたし藥給(たべ)申候

 

と引くことから、それに基づいて取り敢えずここに本句を配することとした。「熱田皺筥物語(あつたしわばこものがたり)」(東藤編・元禄八(一六九五)年跋)には、

 

   一とせ此所にて例の積聚(しやくじゆ)

   し出て、藥のこと醫師起倒子三節にいひ

   つかはすとて

 

と前書する。「積聚」は所謂「差し込み」で胸部から腹部にかけての強い痛みを指す。山本氏二よれば「如行集」のこの句には脇句として「昔忘れぬ草枯の宿  起倒」が録されている、とある。この起倒子の名は二年前の貞享二年の、

 

    其起倒子が許(もと)にて、盤齋(ば

    んさい)老人のうしろむける自畫の像

    に

 團扇(うちは)もてあふがむ人のうしろつき

 

の句の前書に登場している、かねてよりの馴染みの医師でもあった(「盤齋」は摂津出身の僧で古典学者であった加藤盤斎。俳諧にも長じた。隠逸漂泊を好み、晩年は熱田に住んで延宝二年に五十四歳で没した文壇の著名人。この事蹟は田中空音氏の「芭蕉全句鑑賞」を参照した)。

2015/12/27

生物學講話 丘淺次郎 第十七章 親子(4) 二 子の保護(Ⅲ)

Tatu_youji

[たつのおとしご(左)  やうじうを(右)]

Tamagowoharani

[腹に卵を著ける魚]

Togeuo

[とげうを]

[やぶちゃん注:以上、三図は総て国立国会図書館国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えた。]

 

 魚類も殆ど悉く卵を産み放すだけで、親が子を保護するやうな種類は滅多にない。しかしよく調べて見ると、全くないこともなく、しかも意外な方法で子を保護するものがある。例へば「たつのおとしご」や「やうじうを」の雄は、雌の産んだ卵を自分の腹の外面にある薄い皮の囊に受け入れ、幼魚が孵化して出るまでこれを保護する。兩方ともに殘い海底の藻の間に住む魚類で、別に珍しいものでもないが、一寸變つた形をして居るから、見慣れぬ人には珍しく見える。「たつのおとしご」の雄の腹の囊を開いて見ると、中に赤い卵が四五十粒もあるが、普通の魚類が一度に幾十萬の卵を産むのに比べると、頗る少いといはねばならぬ。「やうじうを」のは幾らか多いが、それでもなほ少い。海藻の間に居る魚には雌の腹鰭が左右寄つて囊の如き形となり、その内に卵を入れて保護する種類もある。また「はぜ」に似た魚で、卵を體の腹面に附著せしめて保護するものもあり、外國産の魚には雌の産んだ卵を雄が口中に銜ヘて保護するものさへある。巣を造つてその内に卵を産むものは魚類には甚だ稀であるが、その中で、淡水産の「とげうを」類が最も名高い。この類は恰も鰹を小さくした如き形の魚で、諸處の水の綺麗な池や川に居るが、産卵期になると雄は腎臟から出る粘液を用ゐて、水草の莖などを寄せ集めて圓い巣を造り、雌を呼び來つてその内に卵を産ませ直にこれを受精して、その後は絶えず近邊に留まつて番をして居る。なかなか勇氣のある魚で、指で巣に觸れでもすると、直に脊の棘を立てて攻めて來る。親魚の大きさに比べると割合に大さな卵で僅に百か百五十位より生まれぬ。

[やぶちゃん注:「たつのおとしご」「やうじうを」孰れも同所に既注

「海藻の間に居る魚には雌の腹鰭が左右寄つて囊の如き形となり、その内に卵を入れて保護する種類もある」これは幾種かが考えられるが、育児囊が腹鰭の変形によるものであること、藻場或いはそれに準ずる海域を生息域とすることから、

新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ上科カミソリウオ科カミソリウオ属 Solenostomus

を挙げておく。和名カミソリウオは細長い体型に由来するものと思われ、参照したウィキの「カミソリウオ科」によれば、科名 Solenostomidae の由来は、『科名の由来は、ギリシア語の「solen(パイプ)」と「stoma(口)」から』とある。カミソリウオ科はカミソリウオ属一属で構成され、総て熱帯性沿岸魚で、四乃至五種が記載されている。日本近海には、

 カミソリウオ Solenostomus cyanopterus

 ニシキフウライウオ Solenostomus paradoxus

 ホソフウライウオ Solenostomus leptosoma

の三種が棲息する。は『腹部に変形した腹鰭によって形成された育児嚢をもち、受精卵を保護する習性があ』り(下線やぶちゃん)、近縁のヨウジウオ科(以下に記載)では育児嚢を持つのは雄であるが、『本科では逆になっている』とある。なお、上記のヨウジウオ上科ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus の育児嚢はが若い頃から形成が始まり、これは体の左右の皮褶(ひしゅう)が腹部正中線で完全に合わさって形成されたもので、その先端に小孔が開いている。一方、ゲウオ目ヨウジウオ科ヨウジウオ属ヨウジウオ Syngnathus schlegeli のそれは、卵の周囲に表皮が被さるように形成される被服型であって、タツノオトシゴのように袋状に閉鎖していない。また、先のリンク先の注で「海藻魚」に同定したヨウジウオ科ヨウジウオ亜科 Phycodurus 属リーフィー・シー・ドラゴン Phycodurus eques の場合は育児嚢は未発達で、尾の近くの表皮上に卵を載せて接着させるだけで、卵自体はは露出している。ここは「上智大学分子進化学研究室」公式サイト内の「繁殖戦略はどのように進化したのか?」を参考させて頂いた。

『「はぜ」に似た魚で、卵を體の腹面に附著せしめて保護するもの』図にでるものであるが、同定し得なかった。描かれた魚体からは条鰭綱ナマズ目 Siluriformes のようにも見える。識者の御教授を乞う。

『外國産の魚には雌の産んだ卵を雄が口中に銜ヘて保護するものさへある』これは所謂、口内保育、マウスブルーディング(mouth brooding)をする魚類で、こうした特異な育児法を採る生物をマウスブルーダー(mouthbrooder)と呼ぶ。両生類ではチリやアルゼンチンの森林の小川に棲息する無尾目カエル亜目ダーウィンガエル科ハナガエル属ダーウィンハナガエル Rhinoderma darwinii が知られる(本種はウィキの「ダーウィンハナガエル」によれば、メスは約三十個の『卵を産み、オスは卵が孵化するまで、おおよそ』二週間、『それを守る。その後、オスは鳴嚢の中で生き残った全ての子供を育てる。オタマジャクシは卵黄を食べながら、袋状の顎の皮膚の中で成長する。オタマジャクシが』一・二七センチメートル程度まで『成長すると、口の中から飛び出て泳ぎ去る』とある)。マウスブルーディングをする魚類は意外に多く、ウィキの「マウスブルーダー」によれば、『淡水魚・海水魚問わず様々な種類の魚がそれぞれ異なる進化の過程で口内保育を行うようになり、その保育形態もいくつかのパターンに分かれる』とし、『口の中に卵があれば、外敵に卵を食べられる恐れはなく、仔魚になってからも、周辺に危険が迫ると口の中に隠れることで、捕食される確率は大幅に下がる。ただし、卵および子供の総量は親の口腔内部の大きさで制限される。また、親はその間の採餌が困難になる』。『托卵する魚の中にはマウスブルーダーに托卵することにより自身の卵を守らせ、そして托卵した魚の稚魚を餌に成長していくものもいる』。タンザニア西端にある淡水湖タンガニーカ湖に生息する条鰭綱ナマズ目サカサナマズ科シノドンティス属シノドンティス・マルチプンクタータス(Synodontis multipunctatus) 『がその代表例』とし、彼らは、マウスブルーダーである

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目カワスズメ(シクリッド)科 Cichlidae のシクリッド類(タンガニーカ湖産の Cyphotilapia  Cyphotilapia frontosa などか)

に自らの卵を寄託する托卵を行うとある。本邦産のマウスブルーダーとしては、

スズキ目スズキ亜目テンジクダイ科テンジクダイ亜科テンジクダイ属テンジクダイ Apogon lineatus

が最も知られるものの一種であろう。ウィキの「テンジクダイ」によれば、『日本など太平洋北西部を中心に分布する。分布域は広く北海道噴火湾以南から台湾、中国、フィリピンなどに分布が広がる。この種は内湾から水深』百メートル付近の『砂泥底に生息し、あまり浅いところや岩礁域、漁港などではあまり見られない。大きな大群で沖合いを回遊しながら生息していると思われる。そのため、一般の人が目にする機会が少ない種であるが、意外なことに東京湾内は本種が生息している』。『関西、岡山・広島県の備後地方では「ねぶと」(広島県の備後地方以外「ねぶとじゃこ」)とよばれ、他に「いしもち」(岡山、香川)、「めぶと」(岡山県の一部地域)、「めんぱち」(広島県の一部地域)などがある』。『最大体長』十センチメートルほどの夜行性の小型魚類で、淡黄色の体色を持ち、『体側に暗色の細い横帯が』十本『近くある。背びれ棘の上縁部が暗色』、同類のテンジクダイ属ネンブツダイ Apogon semilineatusと比べると、『色合いが地味で目立ちにくく、意外と数も多く捕獲されているが知らない人も多い。比較的沖合いの深い所を好むため目にすることが少ない。そのためか、生きている姿も普段見ることもない』。『親魚が受精卵を孵化するまで口にくわえて保護する、いわゆるマウスブルーダーを行う。卵の保護は雄が行うと推測されている』(下線やぶちゃん)。

「とげうを」条鰭綱トゲウオ目トゲウオ亜目トゲウオ科 Gasterosteidae に属する魚類群。ウィキの「トゲウオ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『トゲウオ類はすべての種が、雄による巣作りと卵塊の保護を行う。海産種は海藻を、淡水産種は水草または水底を利用した巣を形成する。本科魚類は進化学・遺伝学・動物行動学・生理学の研究対象として古くから利用され、多くの業績が導かれている。オランダの動物行動学者であるニコ・ティンバーゲンは、イトヨの本能行動を詳細に解析した研究により、一九七三年のノーベル生理学・医学賞を受賞している『トゲウオ類、特にイトヨ属の雄が示す繁殖行動の特徴として、鮮やかな婚姻色、分泌物を利用した巣作り、求愛のダンス、および卵の世話が挙げられる。繁殖期を迎えた雄の腹部は赤色を呈し、水底に縄張りを形成するようになる。腎臓から分泌される特殊な粘液状の物質(グル)を使って巣作りをし、ジグザグに泳ぐ独特なダンスによって雌を呼び込む。背鰭の棘条で突き上げる仕草(ブリッキング)によって巣に誘導された雌は、数十秒かけて産卵した後ただちに雄から追い立てられ、子育てに参加することはない』。『こうして何匹かの雌に卵を産ませると、雄は巣をグルによってさらに固め、卵塊を保護する。雄は鰭を使って卵に新鮮な水流を送り(ファニング)、胚発生が進むにつれて徐々に巣を壊し、充分な酸素が供給されるようにする。孵化した仔魚はしばらく巣にとどまり、離れた仔魚を雄が口に入れて連れ戻す姿が観察される』。『本科の中で最も原始的な群とされるウミトゲウオでは、繁殖行動はやや単純化されている。海産の本種は藻場に縄張りをもち、海藻の根元に鳥の巣に似た巣を形成する。雄は求愛のダンスはせず、巣に近づくものは雌雄を問わず攻撃する。産卵の意思をもつ雌は攻撃にひるまず、これを確認した雄は吻を巣に突っ込んだり、雌の尾柄をかんだりして巣に誘導する。産卵と受精が済むと、イトヨと同じように雌は雄の攻撃によってすぐに巣から追い払われる。これを何度か繰り返した後、雄はファニングで新鮮な水を卵塊に送り、胚の成長につれてその頻度が増加する』。『ウミトゲウオの雄は他の巣に産み付けられた卵を奪い、元親に代わって育てるという特異な習性も知られている。この習性の意義はよくわかっていないが、繁殖経験を有する(強い)雄であることを雌にアピールしている可能性が指摘されている』とある。本邦産はイトヨ属の二種、

 イトヨ Gasterosteus aculeatus

 ハリヨGasterosteus microcephalus

及びトミヨ属の五種、

 トミヨ Pungitius sinensis

 エゾトミヨ Pungitius tymensis

 キタノトミヨ(イバラトミヨ)Pungitius pungitius

 ムサシトミヨ Pungitius sp.(学名未定)

 ミナミトミヨ Pungitius kaibarae

の計二属七種が報告されているが、この内、ムサシトミヨは『埼玉県の一部(熊谷市)にしか生息しない日本の固有種で』、『関西地方に分布していたミナミトミヨ』は残念ながら一九六〇年代までに『絶滅したとみられている』。『日本のイトヨには陸封型と降海型の二グループが存在する。生涯を淡水域で送る陸封型は北海道(阿寒湖など)と本州(福島県・福井県など)の内陸部に、海で成長して産卵期に河川に遡上する降海型は北海道・本州の平野部に分布する。これに加えて、イトヨは日本海型と太平洋型という遺伝的に異なる二型にも分けられ、両者に生殖的隔離が存在することが明らかにされている。ハリヨは滋賀県ならびに岐阜県に分布し、後者の生息地はトゲウオ科魚類の南限の一つとみなされている』。『トミヨ属の残る三種は、エゾトミヨが北海道、トミヨとイバラトミヨはそれぞれ福井県以北、新潟県以北の河川に分布する。このうちイバラトミヨは秋田県雄物川水系と山形県のみに生息する「雄物型」』(おものがた:イバラトミヨ(通称ハリザッコ)と呼ばれていた五センチメートルほどのトゲウオ科の淡水魚で、秋田県内にはトミヨ属淡水型もいるが、雄物型は分布が雄物川水系に限定される希少種である。環境省の「レッドデータブック」では絶滅危惧1A類(近い将来、絶滅の危険性が極めて高いグループ)に指定されている。ここは『朝日新聞』の「キーワード」の解説に拠った)『と、「淡水型」および「汽水型」に分けられ、それぞれが独立種である可能性が指摘されている。それぞれ単独の種として記載されておらず、いまだ学名をもたない』とある。]

例えばこんなのがマニアックな僕の注だ……

どんな注をつけてるかって? 梅崎春生の「幻化」の今さっきつけた注を見せようか?

『「君もその鼻髭、剃ったらどうだい。あまり似合わないよ」/「あの日から剃らないんですよ」/左の人差指でチョビ髭をなで、丹尾は沈んだ声で言った。/「髭を立てたんじゃない。その部分だけ剃らなかっただけだ。記念というわけじゃないけどね」』「あの日」は言わずもがな、「一箇月前に」「妻子を交通事故でうしなってしまった」日から、である。丹尾なりの亡き妻子への哀傷の印、彼の聖痕(スティグマ)なのである。無論、こんな分かり切ったことを注しようとしたのではない。何故、梅崎はここで丹尾の自分で「立てた」ように見える「チョビ髭」を嫌ったのかが私には気になるからである。ウィキ口髭に以下のようにある。『近代では、口髭は軍人に好まれた。多くの国々において、部隊や階級ごとに様々なスタイルやバリエーションが見られた。一般的に、若い下級の兵士は、比較的小さな、あまり手の込んでいない口髭を立てる。やがて昇進していくと、口髭はより分厚くなり、さらには全てのひげを伸ばすことが許されるようになる』と。五郎は丹尾の髭に戦時中のおぞましい軍人らの髭を思い出したからではなかろうか?

「誰だって他の人とは関係ないさ」

「誰だって他の人とは関係ないさ」――
「他の人と何か関係があると思い込む。そこから誤解が始まるんだ」――

(梅崎春生「幻化」の五郎の台詞)

停滞にあらず

2016年1月1日0:01以降の梅崎春生テクスト電子化注釈を夥しく作成、公開予約中也――

2015/12/24

小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の「あとがき」(附やぶちゃん注・訳者分担表附き)

[やぶちゃん注:これは Lafcadio Hearn “ Glimpses of Unfamiliar Japan の全訳(落合貞三郎・大谷正信・田部隆次分担訳)の三氏による「あとがき」と奥附(画像)である。各「あとがき」には個別な標題はないで、分り易くするために間に「*   *   *」を入れた。底本は本文同様、大正一五(一九二六)年八月第一書房刊「小泉八雲全集 第三卷」(全篇が本作)を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で視認した(リンク先は「あとがき」本文冒頭)。踊り字「〱」は正字化した。注は各人の記載の後に附してある。★なお、この底本では、最後の奥付で「著作者」に落合氏の姓名のみが記されてあるが、この「あとがき」に大谷・田辺両氏の解説があることから、この「知られぬ日本の面影」は落合・大谷・田部三氏の分担訳であると私はずっと推定して、一貫して標題に「落合貞三郎他訳」と前振りを新字で置いてきた。今回、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年の後刊版『小泉八雲全集』「第三卷」のここに、分担表があったので、それが確定出来た。ここで、その表を電子化しておく。リンク先を見られれば、判る通り、訳者名は大きく、下方に二段で各章が均等配置されてあるが、その配置は再現せず、判るように、並べておいた。

   *

小泉八雲全集第三卷本譯分擔

落合貞三郞

 第一章 私の極東に於ける第一日

 第二章 弘法大師の書

 第三章 お地藏さま
       
 第四章 江ノ島巡禮

 第五章 盆市にて    

 第六章 盆 踊

 第七章 神國の首都――松江

 第八章 杵築――日本最古の社殿  

 第九章 子供の精靈窟――潜戶

 第十章 美保の關にて

 第十一章 杵築のことども

 第十二章 日ノ御崎にて

 第十三章 心 中

 第十四章 八重垣神社

 第十五章 狐

 第廿章 二つの珍しい祝日

 第廿二章 舞妓について

 

大 谷 正 信

 第十六章 日本の庭

 第十七章 家の內の宮

 第十八章 女の髮について

 第廿三章 伯耆から隱岐ヘ

 第廿七章 サヤウナラ

 

田 郡 隆 次

 第十九章 英語敎師の日記から

 第廿一章 日本海に沿うて

 第廿四章 魂について

 第廿五章 幽靈と化け物について

 第廿六章 日本人の微笑

   *] 

 

 あとがき 

 

 明治二十三年四月の或る晴れた朝、ヴァンクーバーから十餘日の波路を蹴つて、今しも橫濱へ着せんとする汽船の甲板上に立てる一人の外客は、遠く春の空にまだ雪を戴いた冨士を仰いで頻りにその麗容雄姿を歎賞し、近く船客が投ずるパン屑に群がる人馴れた海鷗に興じ、親子の水夫が腕も股も露はに櫓を漕いで過ぎ行く艀舟(サンパン)の中に、七輪に炭火を起して簡易な朝食の鍋がかけてあるのを眺めて珍しがつた。しかしこの外客は單なる觀光の客となつて、日光鎌倉京都の皮相的見物に終始して去り行くものとはならなかつた。

 彼は世界に知られぬ方面の日本を見た。彼は日本の心を見た。彼は歸化して小泉八雲となつた。

 

 この國に見る一切のものが、奇異で、また美はしく、呼吸する空氣も一種淸凉快爽の味を含み、蒼空の色さへ西洋のそれと異つて柔かな光を帶びて感ぜられ、下駄の音までも心地よく聞かれた。世界を放浪し來つたへルン先生は、ここに始めて東海の一隅に蓬萊の樂境を見出したのであつた。して、かかる氣分の橫溢せる日本渡來當時の先生の日本印象記が、本書である。

 本書の原名を Glimpses of Unfamiliar Japan といふ。上下二卷、收むる處、上卷十五章下卷十二章。一八九四年(明治二十七年)米國がボストン市にて出版された。橫濱を振出しに、鎌倉、江ノ島に遊び、中國山脈を越えて鳥取街道に出で、伯耆國下市に盆踊を見、松江を中心として、出雲の名所、杵築、美保の關、潜戶、日ノ御崎、八重垣神社を訪ねたる紀行の間に、日本の風景、歷史、美術、宗敎、迷信、風俗、殆ど日本についてのあらゆる方面に觸れざる處はない。

 松江は遂にこの流浪の客に安住の心境を與へ、四十歲にして始めてホームを作らしめた。高天原を去り、韓土にさすらひ、孤劍飄然出雲に來りし素尊が、稻田姬を娶つて詠まれた歌の「八雲」なる文字が、半生數奇の運を經て、遂に出雲で良緣を結ばれた先生の、日本人としての名であることは、いかにも適はしい。この神國出雲の土地に於て、いよいよ先生の日本內地の眞硏究は始まつた。橫濱時代は眞鍋晃といふ靑年佛敎學生が通譯であつたが、松江時代の輔助者としては小泉夫人、これに加ふるに、中學敎頭西田千太郞先生と學生大谷繞石君があつた。これから遂に最後の『神國日本』なる日本に關する卒業論文と稱すべき名著が書かれ、遺著『天河の緣起そのほか』の出版さるるまで、十四卷の勞作に對して、本書は序說または總論と見倣さるべきものである。先生の日本に關する著書を讀むには、日本禮讚の大殿堂の參道に立てるこの堂々たる鳥居を潜らねばならない。


落合貞三郎    

[やぶちゃん注:「明治二十三年」西暦一八九〇年。

「四月の或る晴れた朝」四月四日。

「艀舟(サンパン)」ウィキの「サンパンより引く。『サンパン(広東語:舢舨、英語:Sampan)は、中国南部や東南アジアで使用される、平底の木造船の一種』。『サンパンは、港や川岸から比較的低速・安全に人や少量の荷物を輸送するのに適した形状に作られた、全長』五メートル『程度の小型船である。現在は香港や広東省の漁村でよく目にし、湾内でいわゆる水上タクシーとして客を対岸・水上レストラン・釣り場などに輸送したり、湾内観光などに用いられている』。『ほかに、台湾の台南やマレーシア・インドネシア・ベトナムなど東南アジアの華僑・華人が多い漁港などでも使用されている』。『従来は、船尾に取り付けた』二~三メートルの『長さの艪を手で操って進ませ』るもので、『来はかまぼこ型の低い屋根を備えていたものが多かった』。『中国との交流が盛んであった明治時代の長崎県長崎市でも、小型の通船をサンパンと呼んでいた。黒船に似た屋形を供え、舳先は尖って中国船のように彩色されていた』とある。

「四十歲にして始めてホームを作らしめた」ハーンは一八五〇年六月二十七日生まれ(本邦では嘉永三年に相当する。因みに旧暦では五月十八日である)であるから、来日した年に四十歳になっている。小泉セツとの事実婚の関係は、セツが住み込み女中となった翌年の一月か二月以降と推定されるから、彼が「ホームを作」ったとする年齢は、すこぶる正確と言える。

「韓土」通常は朝鮮を指す語であるが、ここは「高天原」に対する異国としての地上、ひいては、大八州、原型の日本を指すようである。

「孤劍」ただ一振りの剣。他の武器を持たぬこと。

『素尊が、稻田姬を娶つて詠まれた歌の「八雲」なる文字』高天原を追放されて出雲国に降った須佐之男尊が八俣の大蛇から櫛名田姫を救って妻として迎えた際、須賀(すか)の地に新妻のための宮を建てたと「古事記」「日本書紀」に伝え、この時に詠んだ歌が、

 八雲立つ

 出雲八重垣

 妻籠(つまごみ)に

 八重垣作る

 その八重垣を

と伝えられる。「小泉八雲」の名の由来である。セツとの邂逅・結婚に見事に繋がるのが、素敵だ!

「眞鍋晃」複数既出既注。

「西田千太郞」複数既出既注。

「大谷繞石」本記事の最後に出る訳者大谷正信。複数既出既注。

「神國日本」“ Japan: An Attempt at Interpretation (日本:一つの解明)。没した明治三七(一九〇四)年九月十九日の翌十月刊。次は、この小泉八雲の寿命を縮めた労作であるこれの電子化注に取り掛かる予定である。

「天河の緣起そのほか」“ The Romance of the Milky Way and other studies and stories (「天の川」のロマンスそしてその他の物語及びその研究)。没年の翌明治三十八年刊。

「十四卷の勞作」前掲二作の他の来日後の主要刊行書は、

“ Out of the East (東方より:明治二八(一八九五)年刊)

“ Kokoro (心:明治二十八年)

“ Gleanings in Buddha-Fields (仏陀の畑の落穂:明治三十年)

“ Exotics and Retrospectives (異国情緒と回想:明治三十一年)

“ In Ghostly Japan (霊的なる日本にて:明治三十二年)

“ Shadowings (翳:明治三十三年)

“ A Japanese Miscellany (日本雑記:明治三十四年)

“ Kotto (骨董:明治三十五年)

“ Kwaidan (怪談:没年の明治三十七年)

が主要作だが、これでは前掲の二作を加えても、十一作にしかならない。他に長谷川武次郎が刊行した日本昔噺シリーズ“ Japanese Fairy Tale の中の五作品、

“ The boy who drew cats (猫を描いた少年:明治三十一年)

“ The goblin spider (化け蜘蛛:明治三十二年)

“ The old woman who lost her dumpling (自分の団子をなくしたお婆さん :明治三十五年)

“ Chin Chin Kobakama (ちんちん小袴:明治三十五年)

の四作を加えると、逆に十五作品になってしまう。但し、一般に、この四作品(後に“ The Fountain of Youth (若返りの泉)が大正一一(一九二二)年に加えられている)は刊行された明治三十五年の一冊で数えられているようであるから、それだと、やっぱり十二作にしかならない。この落合氏の「十四卷」という数字は上記十一作以外に何を三作と数えているのであろう? 識者の御教授を乞うものである。

「落合貞三郞」(明治八(一八七五)年~昭和二一(一九四六)年)は英文学者で郷里島根県の松江中学及び東京帝大に於いてラフカディオ・ハーン小泉八雲に学んだ。卒業後はアメリカのエール大学、イギリスのケンブリッジ大学に留学、帰国後は岡山の第六高等学校、学習院教授を勤めた(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。]

 

*   *   *

 

 『英語敎師の日記から』

 松江に赴任してからへルンの眼に映じた日本學生生活を敍した物である。『小泉八雲の著作について』と題する坪内逍遙博士の論文のうちに『出雲中學の敎師としての日記の如きを讀んでは誰しも愛敬の心を生ぜざるを得ない。如何に深切な優しい人柄が浮上つて見える、如何に心性を直覺することに秀でた人で、如何に觀察が穿細であるかが見える』とあるのは卽ちこの篇の事である。内容は殆んど全部へルンの直接の見聞に基づいて居るが、最後に學生の葬式追悼會等に關する記事はヘルンが熊本へ轉任の後に起つた事であるから全部聞きがきを基として多少の想像を加へて居る。ヘルンがこれ等學生中の二秀才、志田、橫木の死を悲しんだところ、殊に橫木が最後の思ひ出に學校を見に行く一章(二一)の如きは讀む度每に新しい淚を誘はれる。

 

 『日本海に沿うて』

 へルンは明治二十三年八月の末、松江に赴任のため眞鍋晃を通譯兼從者として、山陰道を通過した時の事と、翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時の事とを合せてこの記事を作つた。そのうちにある鳥取の蒲團の話、出雲の捨子の話は何れも夫人が始めてヘルンに話した怪談であつた。 

 

 『魂について』

 金十郞と云ふ名は熊本にゐた植木屋の名であつたが、この魂の話は夫人の養母(稻垣とみ子)がヘルンに話した物であつた。その始めに一つの挿話のやうに『世界の向ふ側に無數の魂を有せる』婦人を書いて居るが、これはヘルンがその友ヱリザベス、ビスランド女史の事を考へながら書いたのであらう。ヱリザベス女王は三千着の衣裳をもつてゐたと傳へられるが、へルンはこのヱリザベス、ビスランド女史の事を戲れのやうに『一萬の魂の淑女』卽ち『無數の魂の婦人』と呼んでゐたのであつた。 

 

 『幽靈と化け物について』

 祭りの夜、見せ物を見て𢌞つたのは熊本の町で、同行者は金十郞でなく夫人であつた。ただ最後にある二つの話は共に夫人の話した松江の物であつた。  

 

 『日本人の微笑』

 少し以前『太西洋評論』に出た時から喧傳された名高い論文であつた。ヘルンが純粹に日本人の心理硏究の論文を發表したのはこれが始めでであつた。ヘルンの日本人の微笑の解釋は當時の一般外人を非常に啓發した物であつたが、その後幾星霜を經て日本人の微笑も多少の變化を受けて居る、しかしヘルンがこの論文で啓發してくれた點は今なほ變らないと思はれる。 

 

     大正十五年七月


 田部隆次           

[やぶちゃん注:ここで語られている内容・人物等については、既にその当該章の中で注しているものが殆んどなので、そうしたものは、原則、注から外してある。各章の私の注をお読み戴きたい。

『「小泉八雲の著作について」と題する坪内逍遙博士の論文』逝去の年の明治三七(一九〇四)年十二月に発表された「故小泉八雲氏の著作につきて」が正しい。田部氏の引用は、ほぼ正確であるが、引用箇所を含む少し前から引用すると(底本は国立国会図書館デジタルコレクションの坪内逍遙「文藝瑣談」明治四〇(一九〇七)年春陽堂刊)の当該部を視認した。左ページの後ろから四行目下部からの「部分」である)、

   *

“ Glimpses ”を讀んだ時から、個人としての同氏が慕はしくなつた。それまで只名文家として愛讀してゐたに過ぎない。「グリムプセス」は日本にての著作中の最も古いものゝ一つだが、最初の感じが寫されてあるだけに一しほの味ひがある。かの出雲中學の敎師としての日記(ダイリイ)の如きを讀んでは、誰しも愛敬の心を生ぜざるを得ない。如何に深切な優しい人柄が浮上つて見える、如何に心性を直覺することに秀でた人で、如何に觀察が穿細であるかが見える。就中、「盆踊」の一升は絕妙です、近代の畫家などに話して畫にかゝせて見たい。

   *

「眞鍋晃」複数既出既注。

「山陰道を通過した時」明治二三(一八九〇)年八月下旬。松江着は八月三十日午後四時。

「翌二十四年夫人と共に島根鳥取を旅行した時」明治二四(一八九一)年八月十四日から同月三十日までの十六日に及ぶもので、私が本電子テクストで最後までお世話になった「八雲会」の「松江時代の略年譜」によれば、これはセツとの新婚旅行であった(但し、事実婚の――である。同年十一月の熊本転任の際して学校側に提出した公文書には、妻は『無』と記していることは既に述べた)。

「太西洋評論」当該章の最終章に英文抄訳される、後に「時事談」となる初出論文の掲載された雑誌と思われるが、書誌不詳である。それともこれは、ハーンも多く投稿した『アトランティック・マンスリー』(The Atlantic Monthly:アメリカのボストンで一八五七年に創刊された文学・芸術・政治総合雑誌。現在も続くアメリカの雑誌で最古のものの一つ)のことで、それに英訳全文が載ったことを意味するのか? しかしThe Atlantic Monthlyを「太西洋評論」と邦訳するだろうか?(と疑問に思ったが、どうもそんな臭いはする) 識者の御教授を乞う。なお、次の大谷も同じ雑誌名を冒頭の『日本の庭』で示してもいる。

「田部隆次」(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)英文学者。富山県生まれで、東京帝国大学英文科でハーンに学び、後にはハーン研究と翻訳で知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈、「ヘルン文庫」を作った。女子学習院教授を勤めた。] 

 

*   *   * 

 

 『日本の庭』(この篇は以前『太西洋評論』に出た)の冒頭に記してある『大橋川のほとりの自分の小さな二階家』は今は無い。末次本町の東西に通じて居る街路の中ほどに、南側に小さな路次がある。その路次を行詰まで行つて左へ折れると、四五步にしてまた右へ折れる。十步ばかりで狹い石段を下りると湖水に達せられる。其處は右側には家が無く、左側たゞ一軒あつた。それがこの家であつた。今、難波館といふ旅館のある處である。轉居された『今度の家は』北堀町字鹽見繩手の、祿高百石の根岸といふ『サムラヒ』の屋敷で、持主根岸干夫氏は當時郡長として郡部にゐたので、その家を借りて住まつてゐたのであつた。

 原文の未尾にある

    Verily, even plants and trees, rocks and stones, all shall enter into Nirvana. 

の後半は普通の『悉皆成佛』とせずに、原文どほり『皆入涅槃』と譯して置いた、かゝる庭園も亦無くなる、といふことを原著者は言はうとして居るのだから。

 

 『家の內の宮』の第二節の終に書かれて居る畠山勇子に就いては『東の國から』別に一文が掲げられて居る。 

[やぶちゃん注:「『東の國から』別に」は「『東の國から』に別に」の脱字であろう。

 

 『女の髮について』の起筆に「家の妹娘の髮は」とあるが、これは「自分の妻の髮は」とあつても差支無いもの、といふことは讀者も想像さる〻であらう。第五節の『老武士たる縣知事』は撃劍の好きなそして槍術の達人であつた籠手田安定といふ人であつた。 

 

 『伯耆から隱岐へ』は明治二十五年の七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た。同行者は夫人だけであつた。

 第三節に『境は島根縣の』とあるは『鳥取縣の』とあるべきであるが、原文の儘に譯して置いた。なほ一二譯者として述べて置いた方がよからうと思ふことは、譯文の途中に譯者註として書いて置いた。 

 

 『サヤウナラ』。松江出立は明治二十四年十一月十五日であつた。原著者が所謂『たゞ旅券を待つて居る』頃、譯者は氏を訪問したことがある。その時『先生はこれまでどういふことをして來られた方なのですか』と尋ねたものだ。『書いてあげよう、待つておいで』と言つて、次の室へ行つて、書簡用紙一枚に、表裏に、例の初は細かく後ほど太い字で、書いたのを吳れられた。序にこ〻ヘ紹介してもよからう。斯う書いてある。

[やぶちゃん注:以下、ハーンの英文及び大谷に訳文、底本では全体が日本文の二字相当の下げになっている。英文は字空けなどをなるべく底本通りに復元するように心掛けたつもりであるが、幾つかの箇所では、行送りが、おかしくなる部分があることから、補正してある)。読み易くするために、英文と訳文それぞれの前後を一行空けておいた。底本には、この行空けはない。]

 

   I was born in the town of Leucadia in Santa Maura, which is one of the Ionian Islands, in 1850. My mother was a Greek woman of the neighbouring island of Cerigo. My father was an army-doctor attached to the 76th English Regiment of the Line. The Ionian Islands were at that time under British rotection, ―― because the Turks had been killing all the Greeks there.

   My Parent took me to England when I was only five or six years old. I spoke Romaic ―― which is modern Greek and Italian; but no English. My father went to Russia some years after, and then to India.  Myself and brother were brought up by rich relations and educated at home. My father and his wife died in India of fever.

   When l was about 15 years of age, I was sent to France to learn French and spent several years there.  I was eighteen years of age, when my friends lost all their Property; and I was obliged to earn my own living.  I wont to America in ’69, and learned the Printing business.  After some there years more, I gave up printing to become a newspaper reporter.  I reported for several large papers in Ohio for eight years.  Then I went South to become literary editor or the chief paper of New Orleans;  and remained there ten years.  In the meantime I had begun to publish some books, ―― novels, translations,  and literary sketches. In l887,  I became
tired of writhing for newspapers,  and I wont to the French West Indies,  and to South America,  to write a book about the tropics.  I returned America two years later, and after publishing my books, resolved to go to Japan.

  And then I became a teacher.

 

〔自分は一八五〇年に、アイオニア群島の一つの、サンタ・モーラのリュウカディアの町で生れた。母はその近くのセリゴといふ島の希臘女であつた。父は英國步兵第七十六聯隊附の軍醫であつた。アイオニア諸島は――土耳古人が其處の希臘人を殺しつつあつたから――當時英國の保護の下に在つたのである。

 兩親は自分がやつと五つ六つの頃英國へ連れて行つた。自分は――近代の希臘語であり伊太利語である――ロマイツク語をしてゐて、英語は話さなかつた。父は數年後に露西亞へ行き、それから印度へ行つた。自分と弟とは富裕な親類に養育され本國で敎育を受けた。父とその妻とは熱病に罹つて印度で死んだ。

 自分は十五ばかりの時に、佛蘭西語を覺えに、佛蘭西へ送られ、其地に幾年かを送つた。十八歲の時、自分の友達はその財產全部を失くした。そこで自分は自分で食つて行かなければならぬことになつた。六九年に亞米利加へ行つて、印刷業を教はつた。それから三年ばかりして印刷を止めて新聞通信員になつた。八年間オハイオの夥多の大新聞に通信した。それからニユウ・オルリアンズの一番大きな新聞の文學記者になることになつて南部へ行つて、其地に十年居た。その間幾つか書物を――小說、飜譯並びに文學的スケツチを――出版しはじめたのであつた。一八八七年に新聞の爲めに文を書くことに飽いて、熱帶について書物一册書かうと、佛領西印度と南亞米利加とへ行つた。二年經つて亞米利加へ歸つて、書物を出版してから、日本へ行かうと決心した。

  そして敎師になつた。〕

 第五節の「西田」は『東の國から』の獻呈を受けて居るあの西田千太郞で、當時中學校の主席敎師として英語を擔任してゐた人である。現九州大學敎授工學博士西田精氏の令兄である。

 同船して宍道湖(しんじ)まで見送つたものは中學校長木村牧、中學校敎員中村鐡太郞、師範學校敎員中山彌一郞、及び譯者であつた。

 

     大正十五年七月

 

 大谷正信    

[やぶちゃん注:田部氏のケースと同様、ここで語られている内容・人物等については既にその当該章の中で注しているものが殆んどなのでそうしたものは、原則、注から外してある。各章の私の注をお読み戴きたい。

「難波館」現存しない模様である。

「根岸干夫」「ねぎしたてお」と読む。彼は簸川(ひかわ)郡長を務めており、八雲は彼の留守宅を借りていた。個人サイト「ぶらり重兵衛の歴史探訪」の「小泉八雲旧居(ヘルン旧居)」によれば、当時の屋敷は、この『根岸干夫の先代、根岸小石の手によって明治元年につくられたもので』、「第十六章 日本の庭」でハーンが細敍するように、『規模こそ小さいものの、この庭は枯山水の鑑賞式庭園としては水準を抜くものとして高い評価を受けて』いる。『八雲と根岸家との関わりは、家主干夫の長男磐井が松江中学、旧制五高、東京帝大で教わった師弟の関係でもあり』、『東大卒業後、磐井は日銀に就職し』たものの、『東大時代の友人上田敏、小山内薫、柳田国男らの勧めもあり、八雲が愛した旧居の保存の為に』、大正二(一九一三)年に『松江に帰り、一部改築されていた家を元通りに復原し、記念館設立などにも力を尽くし』、『磐井の没後も、旧居は代々根岸家の人々の手によって、八雲が住んでいたままの姿を変えることなく保存され現在に至ってい』るとある。彼が郡長を勤めた簸川郡というのは、郡制の施行によって明治二九(一八九六)年四月一日附で旧の出雲郡・楯縫(たてぬい)郡・神門(かんど)郡を一行政区画として発足した新しい郡で、当時の郡域は現在の出雲市の大部分と大田市の一部、即ち、島根半島西三分の一と南西方域の相当する広域であった。郡役所は中央の今市町(現在の出雲市役所附近)に設置されたが、松江から今市は宍道湖の西と東で、直線でも二十九キロメートル強あり、鉄道のない当時はとても通える距離ではない。

「畠山勇子に就いては『東の國から』別に一文が掲げられて居る」“ Out of the East の最終章が丸ごと“ Yuko: A Reminiscence ”(勇子――一つの追憶)として彼女に捧げられている。平井呈一氏のそれを引きたいところだが、相応の量があり、引用で許容される分量ではないので諦める。“ Internet Archive ”こちらの原書画像で、原文ならば読むことが出来る。【2025年3月11日追記】後に「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 勇子――追憶談 (戸澤正保訳)」で電子化注してある。

「『伯耆から隱岐へ』は明治二十五年の七月の末に行つたのであつた。八月の十六日に美保ノ關へ歸つて來た」『小泉八雲の没後100年記念の掲示 「ヘルンの見た美保関」そのころを知る』によれば、この大谷の記載とは著しく日程が異なる。そこでは隠岐の滞在は明治二五(一八九二)八月十日から二十三日までの十三日間とし、境港へ二十四日に着き、翌八月二十五日には美保の関へ行っている、とある。

「一八五〇年」既に注したが、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)は一八五〇年六月二十七日木曜日生まれで、本邦では嘉永三年の旧暦五月十八日に相当する。ギリシャ正教の洗礼を受け、パトリキオス・レフカディオス・ヘルン(Patricios Lefcadios Hearn)が出生台帳の登録名であった。彼は次男であったが、長兄ジョージ・ロバート・ハーン(George Robert Hearn)はこの年に一歳で亡くなっている。

「アイオニア群島の一つの、サンタ・モーラのリュウカディアの町」ギリシャ西部のイオニア海にある「アイオニア群島」=イオニア諸島(Ionian Islands)の島の一つ、「リュウカディア」=レフカダ(レフカス)島(Lefkáda/英語:Lefkas/イタリア語:Leucade)のレフカダの町。ハーンの言う“Santa Maura”は、この島の中世にはギリシャ語で「アヤ・マウラ」島と呼ばれたが、この島は歴史上は永くヴェネツィア共和国やオスマン帝国がその統治を争い、イタリア人たちは「サンタ・マウラ」(イタリア語: Santa Maura)、トルコ人たちは「アヤマウラ」(トルコ語:Ayamavra)の名で呼んだことによる。なお、「ラフカディオ」の名はこの島の名“Lefkáda”から採られている。ウィキの「レフカダ島」によれば、イオニア諸島では四番目に大きな島で、『島の北東端に、島で最大の都市であるレフカダの市街が位置しており、狭い水路によって本土と区切られている』とあるので、島と市街を明確に区別して大谷に分かり易くしようと、「サンタ・モーラ」島「のリュウカディアの町」“the town of Leucadia in Santa Maura”と表現したものであろう。同ウィキによれば、希臘語の古語であるカサレヴサでは「レフカス島」と表記され、古名はレウカス島(Leukás)とし、『この地名は、ギリシャ語で「白」を意味する「レフコス」、あるいは「白い岩」を意味する「レフカタス」に由来する』とある。ハーンが白という色に独特の玄妙なものを感じ、独自の“ghost-white”という語を用いるのも、実は彼自身がギリシャの「白」という名を背負っていたからでもあろう。

「母」同じイオニア諸島にある「セリゴといふ島」=キティラ(ケリゴ)島(Kythira/英語: Cerigo/イタリア語:Cerigo)出身のギリシャ人の母ローザ・アントニウ・カシマティ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二三年~一八八二年)の旧家の娘であった(上田年譜ではマルタ島出身とも、『アラブの血がまじっているとも伝えられる』とある)。以下、ハーンの事蹟については諸資料を参照したが、今回は上田和夫氏の年譜(昭和五〇(一九七五)年新潮文庫刊「小泉八雲集」)に加え、ハーンの曾孫であられる民俗学者小泉凡(ぼん 昭和三六(一九六一)年生)氏監修になる平井呈一訳「対訳 小泉八雲作品抄」(一九九八年恒文社刊)の年譜も参考にさせて戴いた。前者を「上田年譜」、後者を「小泉年譜」と略称する。

「父」アイルランド人(当時は英国籍)でギリシャ駐屯イギリス陸軍のノッティンガムシャー歩兵第四十五連隊附き軍医補であったCharles
Bush Hearn
(チャールズ・ブッシュ・ハーン 一八一八年~一八六六年)。

「土耳古人が其處の希臘人を殺しつつあつた」ハーンはかく、トルコ人が当地のギリシャ人島民を虐殺行為を働いていたのを監視するためにイギリス軍が駐屯していたと述べているのであるが、ウィキの「レフカダ島」によれば、一七九七年にナポレオン一世『によってヴェネツィア共和国は終焉を迎え、レフカダ島を含むイオニア諸島はフランス領イオニア諸島となった』。一七九九年には『ロシア海軍が諸島を占領』、一八〇〇年に『ロシアとオスマン帝国が設立した共同保護国・七島連合共和国(イオニア七島連邦国)の一部となった』ものの、一八〇七年の『ティルジット条約によってイオニア諸島はフランス帝国の支配下に戻されたが』、一八〇九年以降は『イギリスの攻勢にさらされ』、レフカダ島は一八一〇年に『イギリスによって占領されている』とあり、一八一五年の『第二次パリ条約によって、イギリスの保護国としてイオニア諸島合衆国』『が樹立され、レフカダ島もその一部となった』とある。ハーンが後で述べるように、ハーン出生当時のレフカダ島は「當時英國の保護の下に在つた」わけである。ウィキの「イオニア諸島」でも記載似たり寄ったりで、一八〇九年十月に『英国艦隊がザキントス沖でフランス艦隊を破った。イギリスは同年のうちにケファロニア島・キティラ島・ザキントス島を』、翌一八一〇年には『レフカダ島を占領』、フランスは一八一四年に『ケルキラ島を放棄し』、イオニア諸島合衆国『がイギリスの保護国として樹立された。イオニア諸島合衆国では憲法の制定が認められ、住民からなる』定数四十の『議会が設けられるとともに、英国の高等弁務官に助言をおこなうことが認められた』とあって、ハーンの言うようなトルコの深刻な攻勢や殺戮は語られていない。その後もトルコ軍の小規模な侵犯がたびたびあったということあろうか? それともハーンの認識違いであろうか? 識者の御教授を乞う。因みに、一八六四年六月二日に『イオニア諸島はギリシャ王国に引き渡され』ている。

「兩親は自分がやつと五つ六つの頃英國へ連れて行つた」事実と異なる生まれた翌一八五一年年末、ハーン一歳の時、父の西インドへの転属に伴い、『母と通訳代りの女中にともなわれて、アイルランドの父の生家に向い、パリをへて、翌年』一八五二年の『八月、ダブリンに着』(上田年譜)いているから、これは一、二歳の頃である。日本の数えであるとしても合わない。

「近代の希臘語であり伊太利語である――ロマイツク語をしてゐて」「をしてゐて」は「を話してゐて」の謂いであろう。ここは現代のギリシアの現地語(現代ギリシャ語)である“Romaic”(ロメィイク語)とイタリア語を話したけれども、英語は分からなかったという謂いである。しかし、実年齢から考えると、ややおかしい気がする。

「父は數年後に露西亞へ行き、それから印度へ行つた」ハーンの父チャールズのクリミア戦役出征は一八五四年四月であるが、この前後――ハーンは、ここに記していないのであるが――前年に父チャールズが黄熱病に罹患して帰国後、『しだいに父母の中が冷却』し、母ローザはハーンの弟ダニエル(後述)出生後(推定)にハーンと乳飲み子のダニエルをおいて、独り、故郷のキティラ(ケリゴ)島に帰国してしまっているのである。未だハーンは三歳であった。また、チャールズがインドに赴いたのは、ハーン六歳の一八五六年のことであったが、ここでもハーンは、その前(小泉年譜では、これらを翌一九五七年の出来事とする)に父が、ローザとの結婚婿無効の申し立てをして父母が正式に離婚したこと、父チャールズは離婚後直ちにアルシア・ゴスリン・クロゥフォード(Alicia Goslin Crawford ?~一八七一年:こちらの資料による。他でもこの生没年データを採用した)なる女性と結婚したことを、述べていない

「自分と弟とは富裕な親類に養育され本國で敎育を受けた」「弟」ジェームズ・ダニエル・ハーン(James Daniel Hearn 一八五四年~一九三三年:小泉年譜に八月十二日誕生とする)と言い、上田年譜には『のちアメリカで農業を営んでいる』とある。母が失踪してしまった彼等は、小泉年譜では、一八五五年に『大叔母サラ・ブレナンのもとで生活をはじめる』とするが、上田年譜の表記はサリー・プレネーンで彼女に引き取られたのは一八五四年と読める。

「父とその妻とは熱病に罹つて印度で死んだ」この「妻」がハーンの母ではないことは、文脈から、大谷には分かったであろう。但し、これも調べた限りでは事実と異なる父チャールズは一八六六年、ハーン十六歳の十一月、インドからの帰国の途次、スエズで病死している(上田年譜)が、先に示したデータが正しければ、彼の後妻アルシアの没年は一八七一年であるからである。

「十五ばかりの時に、佛蘭西語を覺えに、佛蘭西へ送られ、其地に幾年かを送つた」上田年譜によれば、ハーンは一八六三年十三歳の時、『イギリス本土ダラム州アッショーにあるカトリック系聖カスパート校に入学』(ここ在学中、遊んでいる最中に誤って左目を失明している)したが、『大叔母の破産のため』に中退した(この中退した年は上田年譜では一八六六年とし、小泉年譜では一八六七~一八六八年とあり、ずれる)。その後、一八六七年にはフランスのイヴートにあるカトリック系神学校に入学するも、またもや一年余りで退学、『ハーン家の使用人一家を頼ってロンドンに渡』(小泉年譜)った。

「十八歲の時、自分の友達はその財產全部を失くした」十八は満なら一八六八年である。この「友達」とは、実は「大叔母」のことを指しているか。としても、やはり微妙に事実と遅滞的ズレがある(上田・小泉ともに、である)。

「六九年に亞米利加へ行つて、印刷業を敎はつた」一八六九(本邦は明治二年相当)年の上田年譜には、『大叔母から旅費をもらい、アメリカに渡り、ニューヨークをへて、オハイオ州シンシナティに向』い、『ホテルのボーイ』、『校正、広告取り、煙突掃除など、窮迫した生活をつづけながら、図書館で読書にふけ』ったが、『印刷業者ヘンリー・ワトキンスを知り、生涯の友となる』とある。小泉年譜も、『リヴァプールから移民船でニューヨークに渡り、さらに汽車でシンシナティへ向か』い、『そこで終生の父とも慕う印刷屋ヘンリー・ワトキンと出会う』とある。当時、ハーン、十九歳。

「それから三年ばかりして印刷を止めて新聞通信員になつた」小泉年譜によれば、一九六九年から三年後になる一八七二年の十一月、『シンシナティ・トレイド・リスト』誌の『創刊にあたり、編集者レオナード・バーニーの編集助手となる』一方、『シンシナティ・インクワイラー』紙の『有力な投稿者とな』ったとある。附言しておくと当時の、雑誌投稿者というのは今の有象無象の雑誌投稿なんどとはわけが違う。投稿記事や文章(エッセイや小説も含まれた)が当たれば、投稿者は即、現代の流行作家やエッセイスト、ジャーナリストと同等の地位に祭り上げられたからである。ハーンは一八七四年の秋(上田年譜)には遂に正式な『シンシナティ・インクワイラー』社の正社員となっている(三年後の一八七七年には同社を退職、シンシナティ・コマーシャル社に転職している)。そこでは『下層社会、ことに黒人の風俗を好んで書き、世評』が高まったという(上田年譜)。因みに、この年、ハーンは『下宿先の炊事婦、混血黒人のマッティー・フォリー』(上田年譜表記。以下は小泉年譜でダブらせてジョイントする)『アルシア・フォリー(マティー)と結婚式を挙げるが、白人と黒人の結婚を禁止する州法に反するため、さまざまな困難を招』き、三年後の一八七七年十月に『結婚生活が破綻し、マティーは町を出』た、とある。これは余り知られている事実とは思われないので、敢えて記しおくこととする。

「八年間オハイオの夥多の大新聞に通信した」「ニユウ・オルリアンズの一番大きな新聞の文學記者になることになつて南部へ行つて、其地に十年居た」ニューオリンズに向かったのは一八七七年で、シンシナティ(オハイオ州南西端)で記者になったのが、一八七二年であるから、足掛け五年程度であって、八年は、ちとドンブリである。数値に正確なハーンが、かく誤るとも思えず、やや自己肥大的なものを感じがしないでもない。ニューオリンズでは『ニューオリンズ・アイテム』社の副編集人から『タイムズ・デモクラット』社の文芸部長を勤め、そこを退職してニューヨークへ向かったのが一八八七年(本邦は明治二十年)であるから、「十年」は正確。

「その間幾つか書物を――小說、飜譯並びに文學的スケツチを――出版しはじめた」ハーンはこの間、一八八二年(三十二歳)にゴーチェの翻訳、

“ One of Cleopatra's Nights and Other Fantastic Romances (クレオパトラの一夜 その他 幻想的ロマンス集:五編からなる短編集)

一八八四年には『エジプト、エスキモー、インド、フィンランド、アラブ、ユダヤなどの民俗伝承に材をとった二十七編の短編からなる』(上田年譜)、

Stray Leaves From Strange Literature(異文学遺文集)

一八八五年に、

“ Historical Sketch Book and Guide to New Orleans (ニューオーリンズ周辺の歴史スケッチと案内)

クリオールの俚諺集である、

“ Gombo Zhèbes (ゴンボ・ゼーベス)

や、

“ La Cuisine Créole (クレオール料理法)

一八八七年二月には、

“ Some Chinese Ghosts (中国怪談集)

を出版している。

「一八八七年に新聞の爲めに文を書くことに飽いて、熱帶について書物一册書かうと、佛領西印度と南亞米利加とへ行つた」小泉年譜によれば、一八八七年(本邦の明治二十年)に『タイムズ・デモクラット社を退職してニューヨークへ移り、音楽研究家クレイビールの家に滞在』、『ハーバー社の編集長オールデンに面会し』て『西インド諸島紀行文執筆の取り決めをし、マルティニーク島へ向か』った(マルティニーク島は当時も現在もフランス領)。その後(一度、アメリカに短期の戻ってはいる)は上田年譜によれば、同年十月以降、『一年半、サン・ピエール』(西インド諸島のフランス領マルティニークにある村)『に住み、紀行、見聞記を「ハーバーズ・マンスリー」誌に発表するかたわら、『チタ』『ユーマ』などの小説を書き続け』た。

「二年經つて亞米利加へ歸つて、書物を出版してから、日本へ行かうと決心した」マルティニークを訪れて約二年弱の後の一八八九年の五月にサン・ピエールを発って、『ニューヨークを経て、フィラデルフィアの友人宅に落着き、執筆にはげむ。九月に『チタ――ラスト島物語』(ハーバー社)を出版』とある(以上は上田年譜)。小泉年譜によれば、この友人は『眼科医グールド』とある。上田年譜にはこの年の十月に『ニューヨークにもどち、級友クレービールの紹介で、「ハーバーズ・マンスリー」誌の美術主任パットンと』知り合い(しかし、実際には前記のように同誌にはハーンは馴染みであった)、『日本文学・美術について語り合い、挿絵画家ウェルドンに従って、二カ月の予定で日本に特派されることとな』った、とある。

「そして敎師になつた」上記のような特派員として、ハーンは明治二三(一八九〇)年四月四日に横浜に到着したが、『ウェルドン中心の契約に不満を抱き』、たった一ヶ月後の『五月、ハーバー社と絶縁』、この間に本書が捧げられているところの、在日アメリカ海軍主計監ミッチェル・マクドナルドの『紹介で知り合った東京帝国大学教授』で、やはり本書で献辞されているバジル・ホール。チェンバレン及び『文部省普通学務局長の地位にある服部一三の斡旋で、島根県立松江中学校の英語教師とな』ったのであった(上田年譜)。大事なことは、御雇外国人教師のように、懇請されて英語教師となったわけではなく、取り敢えず専ら口を凌ぐために「敎師になつた」のである。そこを押さえておく必要がある。この大谷へ送った自己事蹟は、ある意味――『あなた方が英語教師として私を尊敬して呉れることはとても有り難い。しかし、私は恥ずかしながら、そのような教育者としての覚悟や教化のために日本に来たのでないのです。私の天職は「作家」であり、「ジャーナリスト」なのです』と大谷に訴えている――ように私には読めるのである。

「現九州大學敎授工學博士西田精氏」「山陰ケーブルビジョン株式会社」公式サイト内のここに、『九州帝国大学教授で西田千太郎の弟である西田精は各地の上下水道の調査設計を手掛け、その権威としても知られ』、『松江市水道の拡張工事にも尽力し』たとある。名の読みは不詳。人名の読みらしきものとしては「あきら」「きよし」「くわし」「しげ」「すぐる」「ただし」「つとむ」「ひとし」「まこと」「まさし」など多数ある。

「中學校長木村牧」ママ。本篇最後の「第二十七章 サヤウナラ(五)で注したように、私が調べた限りでは、彼は「木村収」で、しかも「収」の異体字・正字は「收」であることから、私はこれは「木村收」の誤りではあるまいかと深く疑っている。識者の御教授を乞う。

「中學校敎員中村鐡太郞」ラフカディオ・ハーンの島根県私立教育会での講演録を訳した人物として名が出る(サイト「八雲会」の)から、英語教師の同僚であったものと思われる。

「師範學校教員中山彌一郞」既注。

「譯者」この後書の筆者である大谷正信。]

 

[やぶちゃん注:以下、奥付を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で示して終りとする。私は電子化する価値を認めないので画像のみで、悪しからず。一つ指摘しておくと、発行月日は、もと『八月拾日發行』となっていたものに、手書きで字を加えて『八月二拾五日』に訂してあることが判る。印刷後、十五日も遅れた理由は不明であるものの(この前後に特に社会的な重大事件は起きていない。帰化人とはいえ、外国人の著作であり、しかも国家神道に関わる箇所も散見されることから、内務省の内密の検閲が長引いた可能性は充分あり得そうな気はする)、何部印刷されたものかは知らないが、この狭い箇所への書入れは、これ、なかなかに大変で、作業する出版社の担当者の溜息が聴こえてくる。] 

 

Yakumozen3okuduke

 

「笈の小文」の旅シンクロニティ――面白し雪にやならん冬の雨 芭蕉

本日  2015年12月24日

     貞享4年11月20日

はグレゴリオ暦で

    1687年12月24日

 

   鳴海出羽守氏雲(うぢくも)宅にて

面白し雪にやならん冬の雨

 

「俳諧 千鳥掛」(知足編・正徳二(一七一三)年序)より。「笈の小文」には載らない。この貞享4年11月16日、芭蕉は知多の杜国訪問を終え、名古屋鳴海の知足亭に戻った。その四日後の11月20日、刀鍛冶で鳴海六俳仙の一人であった自笑(岡島佐助。「氏雲」は刀匠としての号)亭で芭蕉・自笑・知足と三吟三つ物(発句・脇・第三)をものした。

 

 面白し雪にやならん冬の雨   桃靑

   氷をたゝく田井の大鷺   自笑

 船繫ぐ岸の三股荻かれて    寂照

 

寂照は知足の法名。「如行子」には、

 

   同二十日の日なるみ鍛冶出羽守饗(まうけ)に

 

という前書がある。但し、同「如行子」では「面白や雪にやならん冬の雨」で載るが、採らない。

2015/12/23

小泉八雲 落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の献辞及び「序」(附やぶちゃん注)

[やぶちゃん注:これは Lafcadio Hearn Glimpses of Unfamiliar Japanの全訳(落合貞三郎・大谷正信・田部隆次分担訳)の献辞と序である。底本は本文同様、大正一五(一九二六)年八月第一書房刊「小泉八雲全集 第三卷」(全篇が本作)を国立国会図書館デジタルライブラリーの画像で視認した。訳文の後に、“Project Gutenberg” “Hearn, Lafcadio, 1850-1904 ¶”から、書名以降は総て当該箇所の原文を後に附した(私の注がある場合は、その後ろに)。但し、先の英文データには不審な箇所が多くあるので、“Internet Archive”の原本画像と校合し、字配及びフォントも原本に近いものした。

 以下、献辞部分に到るまでの底本の体裁を、簡潔に示す。見開き(左)に、黒地の短冊様の中に、白抜き縦書で、

 

 小泉八雲全集 

 

次のに、左に、

小泉八雲全集

第三卷

 

とあって、ここに原書の扉にあるのと酷似した(但し、そちらでは黒地)鷺のデザインのマークが入り(画像補正をした)、

Tobirasagi

東京高輪

第一書房刊行

とある。但し、以上は、総てが、右から左への横書である。] 

 

知られぬ日本の面影 

 

GLIMPSES

OF

UNFAMILIAR JAPAN

BY

LAFCADIO HEARN

 

譯者

落合貞三郞

大谷 正信

田部 隆次

 

[やぶちゃん注:訳本のここと、ここ。「譯者」が「大谷」上部中央にあり、凡て縦書である。] 

 

私の東洋に於ける滯留を、全くその厚意によりて、成さしめたる友人――

米國海軍主計監ミチエル・マクドナード君、竝に東京帝國大學名譽敎授

 ベズル・ホール・チエムバリン君に、

愛情及び感謝の記念として、この二卷を捧ぐ。

 

[やぶちゃん注:中央やや上寄りに上記の字配りで配されてある献辞。ポイントは本文と同じ。

「米國海軍主計監ミチエル・マクドナード」ミッチェル・マグドナルド(Mitchell MacDonald 一八五三年~大正一二(一九二三)年)は横浜海軍病院に勤務していた米国海軍主計官。風呂鞏(ふろかたし)氏の「八雲と震災との切れぬ縁、また一つ」(住吉神社発行の月刊『すみよし』所載)によれば、日本でのハーンの面倒を当初から見た人物で、『ハーン没後も小泉家の遺稿並びに版権の管理者として対外的な連絡折衝に当たり、実の家族のように遺族の面倒をみた。まさに小泉家の恩人である。退役後は横浜グランドホテル社長に就任したが、一九二三年九月一日、関東大震災が発生。マクドナルドはホテルから一度は避難したものの、燃え上がるホテルの内部にアメリカ人女性が残されたらしいという噂を聞き、再び建物に戻り、そのまま帰らぬ人となった。享年七十一歳。遺体はその日のうちに米艦の乗組員たちの手で瓦礫の下から運び出され、そのまま米極東艦隊の軍艦に乗せられて本国に運ばれ、ワシントン郊外の国立アーリントン墓地に埋葬された。小泉家では、マクドナルド氏の供養を行い、浄院殿法興密英居士の戒名をもらい、先祖の諸霊とともに過去帳に記載し、今でも毎日お経をあげているという』とある)。ハーンに彼を紹介したのは『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』新聞社記者時代の同僚で友人であったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)である。彼女については本「第二十四章 魂について」の私の冒頭注を参照されたい。

「東京帝國大學名譽敎授」「ベズル・ホール・チエムバリン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)。「第一章 私の極東に於ける第一日 序/(一)」の私の「英國人の教授」の注を参照されたい。本書刊行の明治二七(一八九四)年九月当時は東京帝国大学英語教師であった彼は明治四四(一九一一)年に離日したが、この時に東京帝大名誉教師となっているので、この肩書は後から書き換えたものか?

「二卷」“ Glimpses of Unfamiliar Japan は二巻本で、原本では“ Vol. I ”、及び、“ Vol. II ”となっている。底本邦訳では「上卷」「下卷」と訳している。]

 

 

TO THE FRIENDS

WHOSE KINDNESS ALONE RENDERED POSSIBLE

MY SOJOURN IN THE ORIENT,―

TO

PAYMASTER MITCHELL McDONALD,
U.S.N.

AND

BASIL HALL CHAMBERLAIN, ESQ.

 

Emeritus
Professor of Philology and Japanese in the

 

Imperial
University of Tokyō

 

I DEDICATE THESE VOLUMES

IN TOKEN OF

AFFECTION AND GRATITUDE

 

 

  序

 

 一八七一年、ミツトフオード氏は、あの面白い『舊日本物語』の緒言に、つぎの如く書いた。『輓近日本に關して書かれた書籍は、單に官廰の記錄から編纂したものか、或は通り一遍の旅客の簡素なる印象を内容としたものに過ぎない。日本人の内的生活に就ては、世界一般は殆ど知つてゐない。日本人の宗敎、日本人の迷信、日本人の事物の考へ方、日本人の行爲の裏面に隱れたる動機――すべて是等は未だ神祕である』

 ミツトフオード氏が說き及んで居る、この内的生活は、卽ち『世界にあまり知られぬ日本』であつて、それを私は幾らか覗き得たのである。讀者は私の瞥見したものの數の乏しいのに失望するかも知れない。それは、この國民の中に入つて――しかも國民の風俗習慣を採用しようと試みてさへ――四ケ年ほどの居住では、外人をしてこの奇異の別世界に於ては、そろそろ落着いた氣分を起させるにも足らぬからである。誰人も本書の成果のいかに貧弱にして、然かも殘れる事業のいかに多大なるかを、著者以上に痛感することは出來ない。

 新日本の知識階級は、本書に述べたる俗間の佛敎思想――殊に佛敎より發したるもの――及び奇異なる迷信を殆ど有しない。一般抽象的思想、殊に哲學的思索に對して冷淡であるといふ特徴を除けば、今日の西洋化された日本人は、殆ど修養ある巴里人或はボストン人の智的平面上に立つてゐる。しかし彼は一切の超自然に關する觀念を過度に蔑視する傾向を有し、且つ現代の宗敎的大問題に對する態度は、全然無關心のそれである。大學に於ける近代哲學の修業が、彼に何等社會學的又は心理學的諸關係の獨立硏究を促がすことも稀である。彼に取つては迷信は單に迷信である。迷信と國民の情的性質の關係は、彼に何等の興味をも與へない。〔此冷淡に對して、顯著なる對象は、鳥尾子爵の堅固にして合理的、且つ遠大の見地に立てる保守主義である――一個の崇高なる例外。〕して、これは彼がよく國民を了解してゐるからのみでなく、また彼の屬する階級が、無理解にも――全く當然ではあるが――舊い信仰を恥辱と思つてゐるからである。現今不可知論者と自稱する我々の多數は、佛敎に比して遙かに不合理的なる信仰から新たに解放を得た時代に、我々がいかなる感情を以て祖先の陰慘なる神學を見返へしたかを覺えてゐるだらう。日本の知識階級は、僅々二三十年間に不可知論者となつた。して、この智的進展の急速が、佛敎に對する優秀階級の現今の態度の主要なる――全部でなくとも――原因を說明する。目下の處では、その態度は實に不寬容に近い。しかも、迷信と劃然區別せる宗敎に對する感情が、かやうである以上は、宗敎と區別せる迷信に對する感情は、更に甚しいものに相違ない。

 しかし日本人の生活の稀有なる魅惑――一切諸他の國のとは非常に異つた――は、その歐化された範圍に見出さるべきではない。それはすべての國に於ける如く、日本に於て國民的美德を代表し、且つ今猶その樂しい舊習、華かな服裝、佛像、家庭の神棚、美はしく、また哀れにも殊勝な祖先崇拜を固守する大民衆の間に見出さるべきである。これこそ外國の觀察者が、もし、それに深入りするほどに幸運、且つ同情的であれば、決して倦むことの出來ぬ生活である――時としては、彼をしてその傲然得意になつてゐる西洋文明の進路は、果して精神的發達の方へ向つてゐるかを疑はしめる生活である。年經るにつれて、日每にこの生活の中に、ある奇異な、思ひもよらぬ美が、彼に顯はされてくるであらう。いづこも同じこと、ここにも暗黑方面はある。それでも西洋生活の暗黑方面と較べて見れば、これは寧ろ光明である。この生活も弱點、愚劣、惡德、殘酷を有つてゐる。が、此生活に接すること多きに隨つて、ますますその異常なる善良、奇蹟的の忍耐、いつも渝らぬ慇懃、單純素朴の情、直覺的の慈愛に驚嘆させられる。して、いかに東京に於ては輕蔑されてゐても、その最も普通の迷信さへ、西洋の一層博大なる見解に取つては、日本人の生活に於ける希望、恐怖、その善惡に對する經驗――幽界の謎に對する解決を見出さんとするその原始的努力――の書籍に載らぬ文學の斷片として、最も珍重すべき價値がある。いかばかり民衆の比較的輕快柔和なる迷信が、日本人の生活の美を增してゐるかは、長く內地に住んだ人によつてのみ理解される。稀に邪惡な信仰もある――例へば狐憑のやうな信仰で、それは一般の敎育によつて、急速に滅んで行つてゐる。しかし、大多數のものは、空想の美に於て、今日最高の詩人も猶ほその中に感激を發見する希臘神話とさへも比肩すべきものである。またその他、不幸の人々に對する同情、動物に對する親切を促がす幾多の信仰は、ただ道德的最好果を齎らすばかりである。家畜の可笑げな得意顏、幾多の野獸が人間の前で比較的平然と怖氣の無さ、喰べ屑の施しを當てに、入り船每に群がり寄る鷗の白雲、參詣者が撒き散らす米を拾ふため神社の檐端より舞ひ下る鳩の旋風、古い公園の人慣れた鶴、菓子と愛撫を待つ神社の鹿、人影水に映る時、神聖なる蓮池より顏を擡げる鯉――是等及びその他いろいろの美はしい光景は、たとひ迷信的と呼ばるる空想に起因するにせよ、それらの空想は、萬有生命の渾一といふ高尙なる眞理を、最も簡易の形式で懇切示敎してゐるのだ。して、是等のものほどに興味のない信仰――その奇怪さ加減、一笑を禁ぜざらしめるやうな迷信――を考察するに當つても、公平なる觀察者は宜しく史家レツキーの語を念頭に浮ぶべきである。

 『多くの迷信は神に對する卑屈なる恐怖といふ希臘的觀念と一致するものに相違ない。して、述べ盡くせぬほど不幸な結果を人類に及ぼしたのもある。が、また異つた傾向の種類も頗る多い。迷信は吾人の恐怖に訴へると同じく、吾人の希望にも訴へる。それは屢〻心情最奧の憧憬に合致して、滿足を與へる。それは理性がただ出來さうなこと、有りさうなことを提供するに過ぎない場合に、確實を惠んで呉れる。それは想像の材料として玩ぶに好ましい想念を供給する。それは時としては、道德的眞理に新しい是認を與へることさへある。それによつてのみ滿足を得らるる要求を創造し、且つ、それのみが鎭め得る恐怖を起して、それは幸福の要素となること屢〻である。して、慰安が最も必要とせらるる倦怠或は煩悶の際、その慰安力の効驗は最も多く感ぜられる。吾人は吾人の知識に負ふ處よりも、吾人の幻覺に負ふ方が多い。思索の方面にては主として批評的、且つ破壞的なる理性よりも、全然建設的なる想像力こそ吾人の幸福に貢献する處、恐らくは多大であらう。危險又は困苦に臨んで、野蠻人が信賴して、しかと胸に抱きしめる粗末な守り札、賤が伏屋に神神しい保護の光明を注ぐと信ぜらるる聖畫は、人生の惱みの最も暗き際に於て、哲學の最も崇高なる學說によつて與へ得られるよりも、一層現實な慰安を與へることが出來る。……批判的精神が普及する時には、好ましい信仰がすべて殘つて、痛ましいもののみ滅びるだらうと想像するのは、これほど大きい間違いはない』

 國民の質朴にして幸福なる信仰を破壞して、これに代ふるに、西洋では智的に夙に時世後れとなつた殘酷なる迷信――宥恕せぬ神と永遠の地獄といふ空想――を以てせんとする頑迷外人の努力に向つて、近代化された日本の批判的精神は、今や反抗よりも寧ろ間接の援助をなしつつあるのは、實に遺憾とせねばならぬ。百六拾年以上も昔に、ケンペルは日本人について、『道德の實行、生活の淸潔と信仰の儀禮に於て、彼等は遙かに歐州人に優つてゐる』と書いた。して、開港場に於ける如く、固有の風儀が外來の汚染を蒙つてゐる土地を除けば、この語は今昔の日本人に關しても實際である。私自身、竝に幾多公平にして、且つ一層經驗ある日本生活の觀察者の確信によれば、日本は基督敎に歸依することによつて、道德的にも、その他の點にも、何等得る處無く、却つて失ふ處が頗る多い。 

 

 本書上下二卷の内容二十七篇に就て、四篇はもと數個の新聞組合に買收されたのを、大いに改竄を加へて、ここに再錄せるもの。また、六篇はアトランチツク・マンスリー雜誌(一八九一―九三年)に發表されたるもの。その他、本書の大部分を成す諸篇は、新らたに書いたものである。

               一八九四年五月 日本九州熊本にて

                   ラフカディオ・ヘルン

[やぶちゃん注:本序では、例外的に二行割注によって原注が本文に挟み込まれてある(本文はこうした形式は原則として、とっていない)。本テクストでは同ポイントとして、〔 〕で挟んだのがそれである。なお、末尾のクレジット行の「一八九四年五月 日本九州熊本にて」は底本では、実は「一八九四年五月日 本九州熊本にて」となっている。これはどう見てもおかしいので例外的に訂した。或いはしばしば日本では古えから見られるクレジット法式であるところの、日附部分を打たない「一八九四年五月日 日本九州熊本にて」のつもりかも知れないが、原文(“KUMAMOTO, KYŪSHŪ, JAPAN. May, 1894.”)に照らし、その可能性は皆無と断じ、かく改変した。

「一八七一年」明治四年相当。

「ミツトフオード氏」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在した。ウィキの「アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード(初代リーズデイル男爵)」によれば、慶応三(一八六六)年十月に来日(当時二十九歳)し(着任時に英国大使館三等書記官に任命)、明治三(一八七〇)年一月一日に離日している。『当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため』、『横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ』『と隣り合って住むこととなった』。約一ヶ月後、『火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った。ミットフォードは当初公使館敷地内に家を与えられたが、その後サトウと』二人で『公使館近くの門良院に部屋を借りた。サトウによると、ミットフォードは絶えず日本語の勉強に没頭して、著しい進歩を見せている。また住居の近くに泉岳寺があったが、これが後』に、「昔の日本の物語」(次注)を執筆し、『赤穂浪士の物語を西洋に始めて紹介するきっかけとなっている』とある。また、彼は慶応四(一八六八)年二月四日に起った『備前藩兵が外国人を射撃する神戸事件に遭遇し』ており、『事件の背景や推移には様々な見解があるが、ミットフォードはこれを殺意のある襲撃だったとしている。なお、この事件の責任をとり、滝善三郎が切腹しているが、ミットフォードはこれに立会い、また自著『昔の日本の物語』にも付録として記述している』とある。

「舊日本物語」離日した翌年の「一八七一年」に刊行されたミットフォードの“ Tales of Old Japan。前注の「昔の日本の物語」と同じい。Internet archive”の原本を見ると、これは完全に同書本篇部分の冒頭箇所である(ページ“B”)。

「輓近」「ばんきん」で「近頃・最近・近年」の意。

「四ケ年ほどの居住」本書は一八九四年九月にアメリカのホートン・ミフリン社(Houghton, Mifflin and Company, Boston and New York)から刊行された。ハーンの来日は明治二三(一八九〇)年四月四日(横浜現着)である。先のミットフォードの“ Tales of Old Japan ”刊行の十九年後になる。

「巴里人」老婆心乍ら、「パリ人(じん)」である。無論、フランスのパリの市民である。

「鳥尾子爵」鳥尾小弥太(とりおこやた 弘化四(一八四八)年~明治三八(一九〇五)年)は陸軍中将正二位勲一等子爵で政治家。以下、ウィキの「鳥尾小弥太」より引く。『号は得庵居士、不識道人など』。『萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれ』、安政五(一八五八)年に『父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ』。万延元(一八六〇)年に帰藩して家督を相続、文久三(一八六三)年にかの長州「奇兵隊」に入隊したが、あまりに乱暴者であったために『親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた』(後の「エピソード」に諸説が載る)。『長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦する。戦後は和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している』。『維新後は兵部省に出仕して陸軍少将、のち陸軍中将に昇進した。西南戦争では、大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。陸軍大輔、参謀局長、近衛都督などの要職を歴任』したが、明治一三(一八八〇)年に『病気のために一切の職を辞し、君権と民権が互いに尊重しあう状態を理想とする『王法論』を執筆した』。『陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流派を形成』、明治一四(一八八一)年の『開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の三浦梧楼・谷干城・曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。その後は枢密顧問官や貴族院議員などを勤めたものの、再び陸軍の要職に就くことはなかった』。明治一七(一八八四)年には『維新の功により子爵を授けられ』た。その後、欧州視察に出て、帰国後の明治二一(一八八八)年には東洋哲学会を、翌明治二二(一八八九)年には『山岡鉄舟や川合清丸、松平宗武らによる日本国教大道社、貴族院内における保守党中正派の結成』するなど、『国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた』。明治三一(一八九八)年には『大日本茶道学会の初代会長に就任』、明治三四(一九〇一)年に青少年教育を目的に「統一学」なるものを起こし、翌明治三五(一九〇二)年には施設教育機関「統一学舎」を設立した。『晩年は一切の職を辞し、仏教を信奉する参禅生活に入った』。以下、「政治姿勢」の項。『貴族院内においては、懇話会・月曜会に属しながらも、常に藩閥政府への対抗姿勢を貫いた。自由党と立憲改進党を論敵と見なし、政府の西欧化政策、キリスト教への批判を展開した。また佐々木高行や元田永孚ら宮廷派、谷ら陸軍反主流派を合して保守党中正派を結成した。民権運動や議会主義を批判して藩閥政府に反対的な立場を取るなど、保守中正を唱えて機関誌『保守新論』を発行した』。『小弥太の政治論は儒教に由来し、易姓革命を容認するがそれが日本の国体(天皇制)と矛盾することを見逃している。彼は法律家や理論家ではなく、個人の心術のみを重んじ意見の当否を問題にしない、と鳥谷部春汀は評している』。以下、「エピソード」の項。『幕末の奇兵隊時代、変名として「鳥尾小弥太」を称した。隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い「中村」では人間違いで困ると話したところ、系図に詳しい一人が、中村姓の本姓には「鳥尾」姓があるとしてこれを選び、さらに武張った印象を与えるとして「小弥太」を選んだ。これは一夜の冗談のつもりだったが、翌日、ある隊士が隊長へ提出する連署の書面に「鳥尾小弥太」と悪戯で署名したので、これを契機として変名を名乗ったと伝わる。長州藩主・毛利敬親から「鳥尾小弥太」宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名したとも、また、勤王活動の累が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗った、などの説が伝わっている』。『現在の東京都文京区関口付近に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって鳥尾坂と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱』『が残っている』。『統一学舎を設立した鳥尾は、京都の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの高台寺内に同学舎による顕彰碑が建立されている』。『幕末期、当時奇兵隊少年隊の陣屋であった松林寺(山口県下関市吉田)に駐屯していた隊長の鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、仏教が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として激昂し、隊士を引き連れて法専寺(山口県下関市吉田)境内にあった』六体の『地蔵の首を切り落としている。(首切り地蔵)なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントで首をつないで補修がなされている』これは地蔵好きのハーンは知らなかったのであろう。知っていれば、彼の扱いは大分、変わった気がする。それとも……ハーンはそれを知っていたのであろうか?……そもそもが、本篇の冒頭は愛らしい「地蔵」のシチュエーションから始まっているのである……。明治六(一八七三)年の『第六局長時代、「東京湾海防策」を建議して同湾を囲繞する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に海堡の建設がなされた』。『日清戦争当時、日本軍の後背を脅かした清国騎兵に対抗するため、満州の馬賊への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される』。『明治期の教育者・下田歌子に禅学を教授している』。『旧幕臣の中根香亭とは書画骨董の趣味を同じくし、『香亭雅談』には好事家として言及されている』。『封建制度の終焉となった廃藩置県は、鳥尾と野村靖』(吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒した、同じ旧長州藩士。維新後は宮内大丞・外務大書記となって岩倉使節団の一員として渡欧した)『による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある』。明治三三(一八九〇)年の帝国議会の際には、『司法大臣・山田顕義がフランス人法律家の任用を可能とする改正案を提議したところ、当初、鳥尾は強硬に反対したものの、翌日の議会では賛成に転じた。この変節には他の議員も驚いたが、山田が涙を揮って苦心を説いたことが変節の理由であり、これに動かされて変節するに及んだという。実際、このような話は他にも沢山あったらしい』。『当時の日本人の外国における面白エピソード集』である「赤毛布(あかげっと)」(明治三十三年)には『「鳥尾小弥太の苺代」という項がある。欧州外遊中の鳥尾がパリにて季節はずれの苺を散々食べ散らかし、請求された予想外の代金に驚愕するエピソードが収められている』。『墓所は兵庫県加古川市に存するが、これは父が参勤交代の途次、加古川の旅館菊屋で死亡したためである。維新後に墓参に訪れた際、父の最期を看取った旅館の老婦人から、「他は何も気にかかることはないが、江戸に残してきた息子のことが気にかかる」との遺言を聞かされた鳥尾は、「自分の死後は父の墓に埋葬せよ」と遺言している』とある。ハーンは「第二十六章 日本人の微笑(五)」で彼の論文(英訳されたものの抄出)をかなり長く引いており、そこでハーンは彼の主張の核心の一部には賛同出来ないとしながらも、彼を非常に高く評価している。

「渝らぬ」「かはらぬ(かわらぬ)」と読む。「変わらぬ」である。

「擡げる」老婆心乍ら、「もたげる」と読む。

「渾一」老婆心乍ら、「こんいつ」と読む。多くのものが融け合って一つになること。但し、「渾身」の「渾」は「総て」の意であるが、この場合は第一原義の「混じる」の意味であるので注意されたい。

「示敎」「じけう(じきょう)/しけう(しょう)」で、具体的に示しながら教えること。「教示」に同じい。

「史家レツキー」アイルランドの歴史家ウィリアム・エドワード・ハートポール・レッキー(William Edward Hartpole Lecky 一八三八年~一九〇三年)のことであろう。ダブリン生まれでダブリンのトリニティ・カレッジに学び、アイルランド・イギリスさらにはヨーロッパに於ける宗教・道徳に関する研究を相次いで発表、科学や合理思想の発展を中世から辿った。以下の引用は文字列の検索によって、彼の一八六九年刊の“History of European morals from Augustus to Charlemagne”の第一巻からのものであることが判った。

「宥恕」老婆心乍ら、「いうじよ(ゆうじょ)」と読み、寛大な心で許すこと、見逃してやることを指す。

「百六拾年以上も昔に、ケンペルは日本人について、『道德の實行、生活の淸潔と信仰の儀禮に於て、彼等は遙かに歐州人に優つてゐる』と書いた」「ケムペル」はドイツ人医師で博物学者であったエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer 一六五一年~一七一六年)のこと。ヨーロッパにおいて日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の著者として知られる。以下、ウィキの「エンゲルベルト・ケンペル」より引用する。北部ドイツの『レムゴーに牧師の息子として生まれた。ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている』。この二つの『経験が、後に平和や安定的秩序を求めるケンペルの精神に繋がったと考えられる。故郷やハーメルンのラテン語学校で学んだ後、さらにリューネブルク、リューベック、ダンツィヒで哲学、歴史、さまざまな古代や当代の言語を学ぶ。ダンツィヒで政治思想に関する最初の論文を執筆した。さらにトルン、クラクフ、ケーニヒスベルクで勉強を続けた』。一六八一年には『スウェーデンのウプサラのアカデミーに移る。そこでドイツ人博物学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフの知己となり、彼の推薦でスウェーデン国王』カール十一世が『ロシア・ツァーリ国(モスクワ大公国)とサファヴィー朝ペルシア帝国に派遣する使節団に医師兼秘書として随行することになった。彼の地球を半周する大旅行はここに始まる』。一六八三年十月二日、『使節団はストックホルムを出発し、モスクワを経由して同年』十一月七日に『アストラハンに到着。カスピ海を船で渡ってシルワン(現在のアゼルバイジャン)に到着し、そこで一月を過ごす。この経験によりバクーとその近辺の油田について記録した最初のヨーロッパ人になった。さらに南下を続けてペルシアに入り、翌年』三月二十四日に『首都イスファハンに到着した。彼は使節団と共にイランで』二十ヶ月を『過ごし、さらに見聞を広めてペルシアやオスマン帝国の風俗、行政組織についての記録を残した』が、『その頃ちょうどバンダール・アッバースにオランダの艦隊が入港していた。彼はその機会を捉え、使節団と別れて船医としてインドに渡る決意をする。こうして』一年ほど『オランダ東インド会社の船医として勤務した。その後東インド会社の基地があるオランダ領東インドのバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたがうまくいかず、行き詰まりを感じていた彼に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった。こうして彼はシャム(タイ)を経由して日本に渡』った。元禄三(一六九〇)年に『オランダ商館付の医師として』約二年間も『出島に滞在した。元禄四年と五年には『連続して、江戸参府を経験し徳川綱吉にも謁見した。滞日中、オランダ語通訳今村源右衛門の協力を得て精力的に資料を収集した』。この元禄五年に『離日してバタヴィアに戻り』、一六九五年に実に十二年振りで『ヨーロッパに帰還した。オランダのライデン大学で学んで優秀な成績を収め医学博士号を取得。故郷の近くにあるリーメに居を構え医師として開業した。ここで大旅行で集めた膨大な収集品の研究に取り掛か』り、多大な困難を乗り越え、一七一二年に「廻国奇観」Amoenitates Exoticae)『と題する本の出版にこぎつけた。この本について彼は前文の中で、「想像で書いた事は一つもない。ただ新事実や今まで不明だった事のみを書いた」と宣言している。この本の大部分はペルシアについて書かれており、日本の記述は一部のみであった。『廻国奇観』の執筆と同時期に『日本誌』の草稿である「今日の日本」(Heutiges Japanの執筆にも取り組んでいたが』、『ケンペルはその出版を見ることなく死去し』た。『彼の遺品の多くは遺族により』、三代に亙ってイギリス国王に『仕えた侍医で熱心な収集家だったハンス・スローンに売られた』。一七二七年、『遺稿を英語に訳させたスローンによりロンドンで出版された『日本誌』The History of Japan)は、フランス語、オランダ語にも訳された。ドイツの啓蒙思想家ドーム(Christian Wilhelm von Dohm)が甥ヨハン・ヘルマンによって書かれた草稿を見つけ』、一七七七年から一七七九年に『ドイツ語版(Geschichte und Beschreibung von Japan)を出版した。『日本誌』は、特にフランス語版(Histoire naturelle, civile, et ecclestiastique de I'empire du Japonが出版されたことと、ディドロの『百科全書』の日本関連項目の記述が、ほぼ全て『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡し、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し』、これが十九世紀の『ジャポニスムに繋がってゆく。学問的にも、既に絶滅したと考えられていたイチョウが日本に生えていることは「生きた化石」の発見と受け取られ、ケンペルに遅れること』約百四十年後に『日本に渡ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも大きな影響を与えた。シーボルトはその著書で、この同国の先人を顕彰している』。『ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、『日本誌』出版後、ヨーロッパのみならず、日本にも影響を与えることとなった。また、『日本誌』のオランダ語第二版(De Beschryving Van Japan)』(一七三三年)を底本として、志筑忠雄は享和元(一八〇一)年に『この付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した』とある。ハーンが引用しているのは、この一七二七年英訳版「日本誌」からのものであろう。

「四篇はもと數個の新聞組合に買收されたのを、大いに改竄を加へて、ここに再錄せるもの」推定であるが、これは、冒頭の四篇「第一章 私の極東に於ける第一日」・「第二章 弘法大師の書」・「第三章 お地藏さま」・「第四章 江ノ島巡禮」(邦題は総て本訳書のもの。次注も同じ)ではあるまいかと考えている。これは新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」年譜の明治二三(一八九〇)年の来日直後の四月の箇所に、『鎌倉、江の島に遊び、紀行を送る』とあるのに基づく類推である。この時送った先は彼が特派員となっていたニューヨークの『ハーバーズ・マンスリー』誌一社のように読めるが、この直後に彼は同誌との契約に不満を持ち、翌五月には、同ハーバー社と絶縁しているから、それらが勝手に他の新聞などに転載買収された可能性は大いにあるように思われる。

「六篇はアトランチツク・マンスリー雜誌(一八九一―九三年)に發表されたるもの」“Atlantic Monthly”は一八五七年にアメリカのボストンでJ..ローエル編集で創刊された月刊誌で、誌名をつけた定期寄稿者O.W.ホームズのエッセー・シリーズ「朝食のテーブルの独裁者」その他が好評を博した。当初はニューイングランドを中心とした文芸雑誌の性格が強かったが,南北戦争の頃から政治・時事問題を扱い始め、戦後はオハイオ生れのW.D.ハウエルズが主筆(一八七一年~一八八一年在任)となり、文化的広がりを与えた。二十世紀に入ってからは文学的個性は少なくなり、時局ものに重きを置いている(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」年譜の明治二四(一八九〇)年の条に、『秋、「アトランティック・マンスリー」誌に日本印象記を連載、好評を博する』とある。また同年の条のこの前の八月の箇所に、『杵築の出雲神社、日御崎神社、加賀浦、美保の関に遊ぶ。『知られぬ日本の面影』はこの頃書かれた』とはある(下線やぶちゃん。但し、全部ではない)。この時に同誌に連載されたのが、どの章かは不明である。順列通りならば、「第五章 盆市にて」・「第六章 盆踊」・「第七章 神國の首都――松江」・「第八章 杵築――日本最古の社殿」「第九章 子供の精靈の――潜戶(くけど)」・「第十章 美保の關にて」となるが、この内、松江に着いてからの章には、やや疑問が残る。ただ、下巻部分の多くは、この明治二十四年秋以降から翌年にかけての体験(有体に言うと、熊本での体験を松江にすり替えた「改変物」が散見されるのである)に基づくものが実は多いことは事実である。

「一八九四年五月 日本九州熊本にて」彼が熊本第五高等学校(現在の熊本大学)に転任するために松江を去ったのは、明治二四(一八九一)年十一月十五日である(「八雲会」の「松江時代の略年譜」に拠る)。本書刊行は明治二七(一八九四)年九月であるから、この序文はその四ヶ月前に認められたものということになり、これが本篇決定稿執筆の下限となることが判る。]

 

 

 

PREFACE.

――

   In the Introduction to his charming Tales of Old Japan, Mr. Mitford wrote in 1871:'The books which have been written of late years about Japan have either been compiled from official records, or have contained the sketchy impressions of passing travelers. Of the inner life of the Japanese the world at large knows but little: their religion, their superstitions, their ways of thought, the hidden springs by which they move, all these are as yet mysteries.'

   This invisible life referred to by Mr. Mitford is the Unfamiliar Japan of which I have been able to obtain a few glimpses. The reader may, perhaps, be 
disappointed by their rarity; for a residence of little more than four years among the people ― even by one who tries to adopt their habits and customs
carcely suffices to enable the foreigner to begin to feel at home in this world of strangeness. None can feel more than the author himself how little has been 
accomplished in these volumes, and how much remains to do.

   The popular religious ideas ― especially theideas derived from Buddhism ― and the curious superstitions touched upon in these sketches are little shared by the educated classes of New Japan. Except as regards his characteristic indifference toward abstract ideas in general and metaphysical speculation in particular, the Occidentalized Japanese of to-day stands almost on the intellectual plane of the cultivated Parisian or Bostonian. But he is inclined to treat with undue contempt all conceptions of the supernatural; and toward the great religious questions of the hour his attitude is one of perfect apathy. Rarely does his university training in modern philosophy impel him to attempt any independent study of relations, either sociological or psychological. For him, superstitions are simply 
superstitions; their relation to the emotional nature of the people interests him not at all. [1] And this not only because he thoroughly understands that people, but because the class to which he belongs is still unreasoningly, though quite naturally, ashamed of its older beliefs. Most of us who now call ourselves agnostics can recollect the feelings with which, in the period of our fresh emancipation from a faith far more irrational than Buddhism, we looked back upon the gloomy theology of our fathers. Intellectual Japan has become agnostic within only a few decades; and the suddenness of this mental revolution sufficiently explains the principal, though not perhaps all the causes of the present attitude of the superior class toward Buddhism. For the time being it certainly borders upon intolerance; and while such is the feeling even to religion as distinguished from superstition, the feeling toward superstition as distinguished from religion must be something stronger still.

   But the rare charm of Japanese life, so different from that of all other lands, is not to be found in its Europeanized circles. It is to be found among the great common people, who represent in Japan, as in all countries, the national virtues, and who still cling to their delightful old customs, their picturesque dresses, their Buddhist images, their household shrines, their beautiful and touching worship of ancestors. This is the life of which a foreign observer can never weary, if fortunate and sympathetic enough to enter into it,― the life that forces him sometimes to doubt whether the course of our boasted Western progress is really in the direction of moral development. Each day, while the years pass, there will be revealed to him some strange and unsuspected beauty in it. Like other life, it has its darker side; yet even this is brightness compared with the darker side of Western existence. It has its foibles, its follies, its vices, its cruelties; yet the more one sees of it, the more one marvels at its extraordinary goodness, its miraculous patience, its never-failing courtesy, its simplicity of heart, its intuitive 
charity. And to our own larger Occidental comprehension, its commonest superstitions, however condemned at Tōkyō have rarest value as fragments of the 
unwritten literature of its hopes, its fears, its experience with right and wrong,
its primitive efforts to find solutions for the riddle of the Unseen flow much the lighter and kindlier superstitions of the people add to the charm of Japanese life can, indeed, be understood only by one who has long resided in the interior. A few of their beliefs are sinister,― such as that in demon-foxes, which public education is rapidly dissipating; but a large number are comparable for beauty 
of fancy even to those Greek myths in which our noblest poets of today still find inspiration; while many others, which encourage kindness to the unfortunate and kindness to animals, can never have produced any but the happiest moral results. The amusing presumption of domestic animals, and the comparative fearlessness of many wild creatures in the presence of man; the white clouds of gulls that hover about each incoming steamer in expectation of an alms of crumbs; the whirring of doves from temple- eaves to pick up the rice scattered for them by pilgrims; the familiar storks of ancient public gardens; the deer of holy shrines, awaiting cakes and caresses; the fish which raise their heads from sacred lotus- ponds when the stranger's shadow falls upon the water,― these and a hundred other pretty sights are due to fancies which, though called superstitious, inculcate in simplest form the sublime truth of the Unity of Life. And even when considering beliefs less attractive than these,― superstitions of which the grotesqueness may provoke a smile,― the impartial observer would do well to bear in mind the words of Lecky:
 

    Many superstitions do undoubtedly answer to the Greek conception of slavish "fear of the Gods," and have been productive of unspeakable misery to 
mankind; but there are very many others of a different tendency. Superstitions appeal to our hopes as well as our fears. They often meet and gratify the inmost longings of the heart. They offer certainties where reason can only afford possibilities or probabilities. They supply conceptions on which the imagination loves to dwell. They sometimes impart even a new sanction to moral truths. Creating wants which they alone can satisfy, and fears which they alone can quell, they often become essential elements of happiness; and their consoling efficacy is most felt in the languid or troubled hours when it is most needed. We owe more to our illusions than to our knowledge. The imagination, which is altogether constructive, probably contributes more to our happiness than the reason, which in the sphere of speculation is mainly critical and destructive. The rude charm which, in the hour of danger or distress, the savage clasps so confidently to his breast, the sacred picture which is believed to shed a hallowing and protecting influence over the poor man's cottage, can bestow a more real consolation in the darkest hour of human suffering than can be afforded by the grandest theories of philosophy. . . . No error can be more grave than to imagine that when a critical spirit is abroad the pleasant beliefs will all remain, and the painful ones alone will perish.' 

   That the critical spirit of modernized Japan is now indirectly aiding rather than opposing the efforts of foreign bigotry to destroy the simple, happy beliefs of the people, and substitute those cruel superstitions which the West has long intellectually outgrown, the fancies of an unforgiving God and an everlasting hell,― is surely to be regretted. More than hundred and sixty years ago Kaempfer wrote of the Japanese 'In the practice of virtue, in purity of life and outward devotion they far outdo the Christians.' And except where native morals have suffered by foreign contamination, as in the open ports, these words are true of the Japanese to-day. My own conviction, and that of many impartial and more experienced observers of Japanese life, is that Japan has nothing whatever to gain by conversion to Christianity, either morally or otherwise, but very much to lose. 

 

   Of the twenty-seven sketches composing these volumes, four were originally purchased by various newspaper syndicates and reappear in a considerably altered form, and six were published in the Atlantic Monthly (1891-3). The remainder forming the bulk of the work, are new.

 

L.H.

 

   KUMAMOTO, KYŪSHŪ, JAPAN. May, 1894. 

 

1
   In striking contrast to this indifference is the strong, rational, far-seeing conservatism of Viscount Tōrio — a noble exception.

[やぶちゃん注:以下、底本は総目次標題として「小泉八雲全集第三卷目次」とある。又目次の各項の下のリーダと頁数字(漢数字)は本電子化では意味がないので省略した。その代り、底本には明記されていない各章の担当訳者を、「後書」からの推定で【 】で各章の後に附した(新字体で)。あくまで推定であることに注意されたい。] 

 

 知られぬ日本の面影 上 

第 一 章  私の極東に於ける第一日     【落合貞三郎】

第 二 章  弘法大師の書          【落合貞三郎】

第 三 章  お地藏さま           【落合貞三郎】

第 四 章  江ノ島巡禮           【落合貞三郎】

第 五 章  盆市にて            【落合貞三郎】

第 六 章  盆踊              【落合貞三郎】

第 七 章  神國の首都――松江       【落合貞三郎】

第 八 章  杵築――日本最古の社殿     【落合貞三郎】

第 九 章  子供の精靈の――潜戶(くけど) 【落合貞三郎】

第 十 章  美保の關にて          【落合貞三郎】

 十一 章  杵築のことゞも          【落合貞三郎】

 十二 章  日ノ御崎にて           【落合貞三郎】

 十三 章  心中               【落合貞三郎】

 十四 章  八重垣神社            【落合貞三郎】

 十五 章  狐                【落合貞三郎】

 

 

 知られぬ日本の面影 下

 十六 章  日本の庭            【大谷正信】

 十七 章  家の內の宮           【大谷正信】

 十八 章  女の髮について         【大谷正信】

 十九 章  英語敎師の日記から       【田部隆次】

 二十 章  二つの珍しい祝日        【落合貞三郎】

第二十一章  日本海に沿うて         【田部隆次】

第二十二章  舞妓について          【落合貞三郎】

第二十三章  伯耆から隱岐へ         【大谷正信】

第二十四章  魂について           【田部隆次】

第二十五章  幽靈と化け物について      【田部隆次】

第二十六章  日本人の微笑          【田部隆次】

第二十七章  サヤウナラ           【大谷正信】

[やぶちゃん注:以下同様に、原本にある“VOLI.”“CONTENTS.”のリーダとページ・ナンバーを省略し、別に“Vol. II”にあるCONTENTS.を同じ処理をして後に繋げた。“Vol. II”“CONTENTS.”の終りには“INDEX.”(「語句索引」)があるが、底本邦訳ではそれ自体が完全に省かれているのでカットした。字配とポイントはなるべく原書に近くなるように電子化した。] 

 

CONTENTS.

―――

VOLI.


I.     M
Y FIRST DAY IN THE ORIENT

II.      THE WRITING OF KŌBŌDAISHI

III.      JIZŌ

IV.       A PILGRIMAGE TO ENOSHIMA

V.      AT THE MARKET OF THE DEAD

VI.      BON-ODORI

VII.      THE CHIEF CITY OF THE PROVINCE OF THE GODS

VIII.     KITZUKI: THE MOST ANCIENT SHRINE IN JAPAN

IX.      IN THE CAVE OF THE CHILDREN'S GHOSTS

X.        AT MIONOSEKI

XI.      NOTES ON KITZUKI

XII.      AT HINOMISAKI

XIII.     SHINJU

XIV.     YAEGAKI-JINJA

XV.      KITSUNE

 

 

CONTENTS.

―――

Vol. II

XVI.     IN A JAPANESE GARDEN

XVII.   THE HOUSEHOLD SHRINE

XVIII.  OF WOMEN'S HAIR

XIX.     FROM THE DIARY OF AN ENGLISH TEACHER

XX.      TWO STRANGE FESTIVALS

XXI.     BY THE JAPANESE SEA

XXII.   OF A DANCING-GIRL

XXIII.  FROM HŌKI TO OKI

XXIV.   OF SOULS

XXV.    OF GHOSTS AND GOBLINS

XXVI.  THE JAPANESE SMILE

XXVII. SAYŌNARA!

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (五)/「知られぬ日本の面影」本篇~了

まさか、たった半年で完成出来るとは思ってもみなかった。

「八雲会」を始めとしてエールを送って下さった皆さんに、この場を借りて心より感謝申し上げます。

 


 
 
       

 

 到頭旅券が來た。自分は出立しなければならぬ。

 中學校とその隣の小學校とは虎列拉が來たので閉鎖されて居る。で自分は病毒が染みて居る川の岸近く寒い朝風に曝される危險を彼等の爲めに恐れて、自分を見送りに生徒が集まることをしないやうにと斷つた。が、自分の謝絕はただ愉快な笑を以て迎へられるだけであつた。昨夜校長は總ての級長へ使を送つた。だから、日出後一時間にして、二百人許りの生徒が敎師と共に、小さな汽船が其處で待つて居るあの長い白い橋の近くの埠頭まで自分を護衞しに門前に集つて居る。そして自分共は出かける。

 他の生徒共は既に埠頭に集つて居る。そして彼等と共に自分が知つて居る人達の大群集が待つて居る。友人や親しい顏見知り、生徒の父母や親戚、いつか極僅かな惠を與へたことを自分が思ひ出せるもの悉く、それに報ずる機會を終に自分が有たずにしまつた恩を自分が受けたことのある數多くの人々――自分の爲めに働いた人達、自分がその家で一寸した物を買ひ求めた商人共、にこにこ御辭儀をする親切な無數の顏がそれである。知事は丁寧な口上を述べさせにその祕書をよこす。師範學校の校長は握手しに一寸の間急いでやつて來る。師範の生徒はその家庭へ歸つて居るが、その敎師は少からず來て居る。自分は一番西田が居らぬのを心殘りに思ふ。肺の出血で長の二た月臥せつて居るのである。が、その病床で認めた極めて鄭重な送別の手紙と美くしい記念の品いくつかをその父が持つて來る。

 ところで自分は身のまはりのその愉快な顏總てを見ると斯う自問せざるを得ぬ。『他のどんな邦ででもこれと同じ長さの月日の間これと同じ職業を勤めて暮らして、そしてこれに似た絕間なしの人間の深切の經驗を味はひ得たであらうか』と。此等の人達の悉くから自分はただ懸切と慇懃とだけ受け來たつて居る。一人として。不注意の故を以てしても、これまで自分に寬大ならぬ言葉を唯の一つも言ひかけたものは無い。五百に餘る子供と大人との敎師として、自分は嘗て自分の忍耐力を試されたことが無い。斯んな經驗はただ日本に於てのみ可能であるのかと自分はあやしむ。

 

 が小蒸汽は乘客をせきたてて叫ぶ。自分は多くの手を――恐らくはかの雄々しい深切な師範學校々長の手を最も堅く――握つてから乘船する。ジンジヤウチユウガクカウの校長、兩校の敎員二三、それから自分の氣に入りの生徒の一人が隨行する。次の港まで、其處から自分は廣島へ山越しして行くのだから、其處まで自分に伴なはうといふのである。

 冬の初寒(はつざむ)が身に沁みる淡靄のかかつた麗はしい朝であった。小さな甲板の上から自分は最後の眺の眼を向ける、長い白い橋が架つて居る大橋川(おおはしがは)の古風な見通しに――その脚を鏡の如き水に浸して込み合うて居る、屋根の尖つた懷しい古い奇妙な家屋の群集(むれ)に――朝日に金色(こんじき)染めた和船の帆に――昔ながらの山々の美しい奇妙な恰好に。

 この土地の魅力は、本當に神が住んで居る土地の如くに、實に魔術的である。その土地の色彩の妖異な美妙さが實に美はしい――その土地の雲の形と交じり合うて居るその土地の山の形が實に美はしい――就中、その土地の高い物をば空に懸つて居るやうに思はせるあの長い霞の搖曳が實に美はしい。現實と幻との區別が出来かねるほどに、――一切の物が將に消えなんとする蜃氣樓かと思へるほどに――天と地とが不思議に混じり合うて居る土地。噫、自分にはそれが永久に消えんとして居るのである。

 小蒸汽船は再び叫び、ブツフと蒸汽を噴き、中流に後戾りし、あの長い白い橋に艫(とも)を向ける。すると、其灰色の波止場が後すさりするにつれて、長い『アアアアアアアアアア』といふ聲が制服をつけた隊列から起こつて、總ての帽子がその眞鍮の漢字を閃めかせて浪と搖れる。自分はその小さな甲板船室の屋根へ登つて、帽子を振つて英語で『グッドバイ、グッドバイ!』と叫ぶ、と『マンザイ、マンザイ』(君に萬歲を、萬歲を)といふ叫聲が漂ひ歸る。が早それは遙か遠くから微かに來る。その小動船は河口を辷り出で、靑い湖水へ突き進み、松影の或る岬を曲る。と人顏も、人聲も、波止場も、長い白い橋も、懷出となつてしまつた。

 でも、その廣い湖水の無言の中へと進み行く時、暫くの間振り返つて眺めると、松が群れ茂つて居る、壯大な高地を抽んづる古城の嶺、――美くしい庭がある自分の家の在り場、――學校の靑い屋根、それが左手にあと退りして行くのが見える。が、それも亦迅速に視界を去る。すると見えるものはただ靑い仄かな水面、靑い仄かな霞、遠さを異にして朦乎と浮いて居る靑い或は綠の或は鼠色の仄かな峰々、そして何よりも、東の方に靈と白く聳えて、あの見事な大山(だいせん)の妖姿、それだけである。

 すると、別れの次の刹那に人の心にいつも群がり來るあの生き生きした懷出――處や物に附隨する總てについての懷出――の突進に遭うて自分の心は一寸の間沈む。記憶に殘つて居る笑顏。出て行く敎師にその日の幸を祈つて朝々古いヤシキの敷居際に集つて吳れた人達。その歸宅を喜び迎へて吳れた夕べ夕べの人達。いつもの時刻に門邊に待つて居た犬。蓮の花が咲き鳩の聲が聞こえた庭。杉の杜から響き來る寺の鐘の調子の好い音。遊んで居る子供等の唄。種々な色どりの街路の夕影。御祭の夜の長く續いて居る提燈の灯。湖水に踊る月の影。出雲の太陽に敬禮しての川岸での拍手。風つよい橋の上の何時までも絕えぬ愉快氣な下駄の音。――總て此等のまた他の幾百もの樂しい記憶が殆んど心が苦しいほどに生き生きと自分に蘇つて來る――と同時に一方では、尊い名を有つて居る遠くの山々は徐ろにその靑い肩をそむけ、我が小蒸汽は、この神の國から絕えず遠く遠くへと、次第に迅く迅く、自分を運んで行く。

[やぶちゃん注:本篇を以って Lafcadio Hearn Glimpses of Unfamiliar Japan、落合貞三郞・田部隆次・大谷正信譯「知られぬ日本の面影」の本文は、その全篇を終る。

「校長」松江尋常中学校校長。以前に注したが、ハーン就任当時とは校長が変わっており、当時の校長は私には不詳であったが、今回、先の師範学校校長校斎藤熊太郎(この場にもコレラ騒ぎの多忙の中、駈けつけている)を検索している最中、「東洋大学 国際哲学研究センター」公式サイト内の井上円了関連のデータ(円了の日記「館主巡回日記」)で『〔明治二十四年〕五月三十日』の条に『中学校長木村収』とあるのを発見した。彼と思われる。因みに、以前に注したように、この時、円了はハーンを訪問している(リンク先の日記、すこぶる残念なことに、その記録はない)。

「あの長い白い橋」大橋川に架橋された大橋。来松以来の、松江の町のハーンの原風景のシンボルである。

「知事」既に何度も出て注した籠手田(こてだ)安定である。

「西田」既に何度も出て注した松江尋常中学校校長心得で英語教師あったハーンの盟友西田千太郎である。彼は既に肺結核に罹患していた。この後も、ハーンと親しく交友を続けたが、この六年後の明治三〇(一八九七)年三月十五日に満三十四歳で亡くなっている。彼は文久二年九月十八日(グレゴリオ暦一八六二年十一月九日)の生まれであるから、ハーンより十二年下であった。因みに、この松江を離れた当時のハーンは満四十一(ハーンの生年月日は一八五〇年六月二十七日。本邦では嘉永三年五月十八日相当)であった。

「自分の氣に入りの生徒の一人が隨行する」底本「あとがき」によって、先に送辞を述べた、そして本章の訳者でもある大谷正信であることが判る。

「抽んづる」最期の最後の老婆心乍ら、「ぬきんづる」と読む。古語のダ行下一段活用の自動詞「ぬきんづ」の連体形。「抜き出づ」の音変化で「抜きん出る」「擢んづる」とも漢字表記する。「ひときわ高く出る・聳える」の意。

「靈と」原文は“ghost-white”。ハーン独特の単語。“ghostwhite”という英語の色名はあり、「分るか分からないぐらい灰色がかった白」を指すが、この大谷氏のそれは、名訳であると私は思う(平井呈一氏は単に『白く』と訳されている)。これは、ただの色を示す名詞や形容詞ではない。確かにまさしく「霊のような玄妙な妖しく白い」の謂いの形容詞であると英語の冥い私でも思うのである。

「尊い名を有つて居る遠くの山々」この時のハーンの目には南(約十キロメートル)に、須佐之男命が八岐大蛇を退治した後に稲田姫とともに宮造りをした伝説の残る八雲山(標高・四百二十四・一メートル。現在の島根県雲南市大東町及び松江市八雲町に跨る)が見えていたに違いない(ネット上の検索で八雲山山頂から宍道湖は見える)。ハーンは、この松江に別れを告げた四年後(本書刊行の翌年)の明治二八(一八九五)年の秋には、妻子の将来を考えて帰化手続をし、「小泉八雲」と改名した(帰化手続完了は翌明治二十九年二月であるから戸籍上の正式な改名は、その時には、なる)。……ハーンはこの時、その眼底に映った「尊い名を有つて居る遠くの山」の一つの名と同じ名に自身が名乗ることとなることを知っていただろうか…… 

 

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   At last my passport has come. I must go.

   The Middle School and the adjacent elementary schools have been closed on account of the appearance of cholera, and I protested against any gathering of the pupils to bid me good-bye, fearing for them the risk of exposure to the chilly morning air by the shore of the infected river. But my protest was received only with a merry laugh. Last night the Director sent word to all the captains of classes. Wherefore, an hour after sunrise, some two hundred students, with their teachers, assemble before my gate to escort me to the wharf, near the long white bridge, where the little steamer is waiting. And we go.

   Other students are already assembled at the wharf. And with them wait a multitude of people known to me: friends or friendly acquaintances, parents and relatives of students, every one to whom I can remember having ever done the slightest favor, and many more from whom I have received favors which I never had the chance to return, persons who worked for me, merchants from whom I purchased little things, a host of kind faces, smiling salutation. The Governor sends his secretary with a courteous message; the President of the Normal School hurries down for a moment to shake hands. The Normal students have been sent to their homes, but not a few of their teachers are present. I most miss friend Nishida. He has been very sick for two long months, bleeding at the lungs but his father brings me the gentlest of farewell letters from him, penned in bed, and some pretty souvenirs.

   And now, as I look at all these pleasant faces about me, I cannot but ask myself the question: 'Could I have lived in the exercise of the same profession for the same length of time in any other country, and have enjoyed a similar unbroken experience of human goodness?' From each and all of these I have received only kindness and courtesy. Not one has ever, even through inadvertence, addressed to me a single ungenerous word. As a teacher of more than five hundred boys and men, I have never even had my patience tried. I wonder if such an experience is possible only in Japan.

   But the little steamer shrieks for her passengers. I shake many hands ― most heartily, perhaps, that of the brave, kind President of the Normal School
and climb on board. The Director of the Jinjo-Chūgakkō a few teachers of both schools, and one of my favorite pupils, follow; they are going to accompany me as far as the next port, whence my way will be over the mountains to Hiroshima.

   It is a lovely vapory morning, sharp with the first chill of winter. From the tiny deck I take my last look at the quaint vista of the Ohashigawa, with its long white bridge, at the peaked host of queer dear old houses, crowding close to dip their feet in its glassy flood, at the sails of the junks, gold-coloured by the early sun,― at the beautiful fantastic shapes of the ancient hills.

   Magical indeed the charm of this land, as of a land veritably haunted by gods: so lovely the spectral delicacy of its colors, so lovely the forms of its hills blending with the forms of its cloud, so lovely, above all, those long trailings and bandings of mists which make its altitudes appear to hang in air. A land where sky and earth so strangely intermingle that what is reality may not be distinguished from what is illusion, that all seems a mirage, about to vanish. For me, alas! it is about to vanish forever.

   The little steamer shrieks again, puffs, backs into midstream, turns from the long white bridge. And as the grey wharves recede, a long Aaaaaaaaaa rises from
the uniformed ranks, and all the caps wave, flashing their Chinese ideographs of brass. I clamber to the roof of the tiny deck cabin, wave my hat, and shout in English: 'Good-bye, good- bye!' And there floats back to me the cry: 'Manzai, manzai!' [Ten thousand years to you! ten thousand years!] But already it comes faintly from far away. The packet glides out of the river-mouth, shoots into the blue lake, turns a pine-shadowed point, and the faces, and the voices, and the wharves, and the long white bridge have become memories. 

   Still for a little while looking back, as we pass into the silence of the great water, I can see, receding on the left, the crest of the ancient castle, over grand shaggy altitudes of pine, and the place of my home, with its delicious garden,― and the long blue roofs of the schools. These, too, swiftly pass out of vision. Then only faint blue water, faint blue mists, faint blues and greens and greys of peaks looming through varying distance, and beyond all, towering ghost-white into the east, the glorious spectre of Daisen. 

   And my heart sinks a moment under the rush of those vivid memories which always crowd upon one the instant after parting, memories of all that make attachment to places and to things. Remembered smiles; the morning gathering at the threshold of the old yashiki to wish the departing teacher a happy day; the evening gathering to welcome his return; the dog waiting by the gate at the accustomed hour; the garden with its lotus-flowers and its cooing of doves; the musical boom of the temple bell from the cedar groves; songs of children at play; afternoon shadows upon many-tinted streets; the long lines of lantern-fires upon festal nights; the dancing of the moon upon the lake; the clapping of hands by the river shore in salutation to the Izumo sun; the endless merry pattering of geta over the windy bridge: all these and a hundred other happy memories revive for me with almost painful vividness, while the far peaks, whose names are holy, slowly turn away their blue shoulders, and the little steamer bears me, more and more swiftly, ever farther and farther from the Province of the Gods.

 

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (四)

 

        

 

 が、自分は彼等を再び見るの愉快を有たぬであらう。彼等は總て遙か遠くへ行つて居る――或る者は彼(あ)の世へ。でも自分が師範學校でのその送別宴會に出席してからたつた四日經つ! 或る殘酷な天降がその門を鎖ぢその生徒を國內に四散させたのである。

 二た晩前に、支那船が日本へ齎らしたと想はる〻虎列拉がこの市の方々に、しかも、あるが中にも師範學校內にも發生した。それに襲はれてから閒も無く絕命した生徒と教師が數人もあり、今も生死の境を彷徨して居るものが少からぬ。他の者共はその溫泉で有名な玉造といふ健康地の小村へ行軍して行つた。が、其處でも虎列拉がまた彼等の間に發生したので、生存者をそれぞれその家庭へ解散することに決定された。何の周章も無かつた。軍隊風の規律は依然として破られずに居た。敎師も生徒もその位置に居て斃れた。その大きな枚舍は醫務當局者が管理を引受けて、今なほ消毒衞生の事業を行うて居る、恢復期にある者と大體なサムラヒ校長齋藤熊太郞とだけ殘つて居る。總ての人の生命安全と見るまで沈み行く己が船を去るを潔しとせざる船長の如くに、校長は危險の中心に蹈止つて、病める生徒を看護し、衞生事業を監督し、部下の者は危難の初の一刻に迅速に立ち去らせたので常はその數多い部下に委せる事務一切を躬ら處理して居る。彼は生徒が二人助かつたのを見て喜んで居る。

 今一人の生徒で昨夜葬られたのに就いて自分は斯んな話を聞く。死ぬるほん少し前、それも最も親切なる反對を推して、その生徒は校長が己が病床に近寄るのを見ると、臂を突いて起きて軍隊式の敬禮を行ふ體力を見出した。そして雄々しい人に對してのその雄々しい挨拶と共に彼は大なる沈默へ入つて行つたと。

[やぶちゃん注:「自分が師範學校でのその送別宴會に出席してからたつた四日經つ」明治二四(一八九一)年十一月十四日。既に述べた通り、ハーンが松江を発つ前日である。

「虎列拉」「コレラ」。既注。幾つかの資料を管見したが、この折りの島根でのコレラ流行の記録物は発見出来なかった。

「健康地の」原文“healthy”。「コレラ感染者が発生していない地の」という謂いと思われる。

「周章」「しうしやう(しゅうしょう)」慌(あわ)てふためくこと。周章狼狽。

「敎師も生徒もその位置に居て斃れた」原文“Students and teachers fell at their posts.”。「教師達も生徒達も、その彼等の出先で斃れた」の謂いである。

「齋藤熊太郞」詳細事蹟は不詳であるが、ウィキの「根師範学校(後身)で島根県尋常師範学校校長を明治二三(一八九〇)年八月五日より明治二九(一八九六)年六月十一日まで勤めていることが判る。即ち、ハーン着任時(明治二十三年九月)からの校長であるから、懇意の人物であったものとは思われ、ここの記載も、そうした侍(サムライ)校長へのオマージュが感じられる。但し、ここまでの本書では、一度も、描かれていない。英語が殆んど話せなかったのかも知れない。

「躬ら」「みづから(みずから)」。自ら。] 

 

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   But I shall not have the pleasure of seeing them again. They are all gone far away ― some to another world. Yet it is only four days since I attended that farewell banquet at the Normal School! A cruel visitation has closed its gates and scattered its students through the province.

   Two nights ago, the Asiatic cholera, supposed to have been brought to Japan by Chinese vessels, broke out in different parts of the city, and, among other places, in the Normal School. Several students and teachers expired within a short while after having been attacked; others are even now lingering between life and death. The rest marched to the little healthy village of Tamatsukuri, famed for its hot springs. But there the cholera again broke out among them, and it was decided to dismiss the survivors at once to their several homes. There was no panic. The military discipline remained unbroken. Students and teachers fell at their posts. The great college building was taken charge of by the medical authorities, and the work of disinfection and sanitation is still going on. Only the convalescents and the fearless samurai president, Saito Kumataro, remain in it. Like the captain who scorns to leave his sinking ship till all souls are safe, the president stays in the centre of danger, nursing the sick boys, overlooking the work of sanitation, transacting all the business usually intrusted to several subordinates, whom he promptly sent away in the first hour of peril. He has had the joy of seeing two of his boys saved.

   Of another, who was buried last night, I hear this: Only a little while before his death, and in spite of kindliest protest, he found strength, on seeing his president approaching his bedside, to rise on his elbow and give the military salute. And with that brave greeting to a brave man, he passed into the Great Silence.

2015/12/22

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (三)


       


 師範學校の生徒はその大廣間で送別の宴會を開いて吳れた。自分は彼等とは一年の間ほん僅か――約定の一週六時間より少いぐらゐ――しか一緖に居なかつたことであるから、そ
の外國人敎師に對して大した愛情を感じようとは想像もし得なかつた。ところが自分は自分の日本生徒に就いて知らねばならぬことがまだ多くあるのである。その宴會は甚だ愉快であつた。各級の級長が用意して來た短い送別の辭を英語で順番に讀んだ。支那や日本の昔の詩人から得た比喩や感情の文句で美しくされてゐたその面白い文章のうち常に自分の記憶に殘ると思ふもの一にして止まらなかった。それから生徒は自分の爲めに校歌をうたひ、また宴會の終に『オオルド・ラング・サイン』の日本語譯を吟誦した。そしてそれから皆んなが、軍隊行列で、自分を家まで護衞して、門の處で『マンザイ!』『グツドバイ!』『御出かけの時は汽船まで先生と一緖に行軍します』と叫んで、訣別の喝采をした。

[やぶちゃん注:「ほん僅か」ママ。

「約定の一週六時間より少いぐらゐ」先に示した通り、ハーンは「第十九章 英語教師の日記から(二)」では『四時間』の授業を受け持っていたと述べている。これは着任直後の記載であるから、それよりも後に増えたものかと考えていたのであるが、この記載を見ると、実は契約上は「一週六時間」持つはずだったのであるが、実際にはカリキュラム上の配慮か、師範学校側の時間割作成上或いは何らかの不明な、例えば師範学校内の管理職の方針や英語科内のでの諸事情から、中学の方に二時間を割いていた可能性が高い。それは実務上の非公式の操作であった故に、ハーンが島根県の教育担当官庁などからの批判指摘などを配慮して、六時間足らずという濁した言い方をしたものかも知れない。

「オオルド・ラング・サイン」「蛍の光」。既注

「マンザイ!」無論、「萬歲(万歳)!」である。「萬歲」は呉音では「マンザイ」、漢音では「バンゼイ」で、我々が現行で感動詞と使用する「ばんざい!」は実は「バン」は漢音、「サイ」は呉音という、本来は、おかしな発音なのである。因みに、現代中国語では「ワンスイ」「ワンソェー」、現代朝鮮語では「マンセー」「マンセ」であり、ウィキ万歳によれば、「バンザイ」と『発音するようになったのは大日本帝国憲法発布の日』、明治二二(一八八九)年二月十一日に『青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという』。『最初の三唱は「万歳、万歳、万々歳」と唱和するものであったが、最初の「万歳」で馬車の馬が驚いて立ち止まってしまい、そのため二声目の「万歳」は小声となり、三声目の「万々歳」は言えずじまいに終わった』とあり、『当初は文部大臣森有礼が発する語として「奉賀」を提案していたが、「連呼すると『ア・ホウガ(阿呆が)』と聞こえる」という理由から却下された。また、「万歳」として呉音の「マンザイ」と読む案もあった(それまでの奉祝の言葉としては漢音の「バンセイ」あるいは「バンゼー」)が、「マ」では「腹に力が入らない」とされたため、謡曲・高砂の「千秋楽」の「千秋楽は民を撫で、萬歳楽(バンザイラク)には命を延ぶ」と合わせ、漢音と呉音の混用を問わずに「万歳(バンザイ)」とした』とある(下線やぶちゃん)。本篇のシチュエーションは、その最初の日本の「バンザイ」から僅か二年後の、先に示した明治二四(一八九一)年十一月十日の「中原俱樂部」での送別会であるから、これはハーンが「ばんざい!」を「まんざい!」に聴き違えて誤記したのではなく、実際に一同、「まんざい!」と唱和したのだと私は思う。 

 

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   The students of the Normal School gave me a farewell banquet in their hall. I had been with them so little during the year less even than the stipulated six hours a week ― that I could not have supposed they would feel much attachment for their foreign teacher. But I have still much to learn about my Japanese
students. The banquet was delightful. The captain of each class in turn read in English a brief farewell address which he had prepared; and more than one of
those charming compositions, made beautiful with similes and sentiments drawn from the old Chinese and Japanese poets, will always remain in my memory. Then the students sang their college songs for me, and chanted the Japanese version of 'Auld Lang Syne' at the close of the banquet. And then all, in military
procession, escorted me home, and cheered me farewell at my gate, with shouts of 'Manzai!' 'Good-bye!' 'We will march with you to the steamer when you go.'

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (二)

 

       

 

 親愛なる先生。――

 先生は私共がこれまで就きました最も善いまた最も情深い教員の一人でありました。先生の最も懇切な授業に依つて獲ました知識に對して私共は衷心御禮を申上げます。我が校の生徒はいづれもせめて三年は御とゞまり下さうことを希望致して居りました。で、先生が九州へ御出のことに御決心になつたと知りました時、私共は皆な悲しさに氣落致したのであります。先生をお止め申す方法が、何か無いかと校長に願ひましたが、それは出來ないことを知りました。今この告別の際私共は私共の感情を言ひ現はす言葉を有ちません。私共は私共の記念の品として日本刀を差上げました。まことにつまらない見つともない物てあります。ただ私共の感謝の印(しるし)として御氣に留めていたゞけるかと考ヘただけであります。私共は先生の最も懇切な授業を決して忘れません。そして私共一同先生が永久に健康で幸福であられんことを願ひます。

  島根縣尋常中學校生徒一同を代表しまして

              大谷正信 

 

 我が親愛なる生徒諸君。――

 自分は諸君の贈物を――銀のカラシシがその鞘の上に跳ね躍り、或はその驚くべき欛の絹の紐を通して腹這うて居るあの美しい刀を――どんな感情を以て受取つたか諸君に語ることは出來ぬ。少くとも總てを諸君に語ることは出來ぬ。が、自分は諸君の贈物を見た時、不圖諸君の昔の諺を想ひ浮べた。刀はサムラヒの魂であるといふ諺である。それから、此高雅な記念品のその選擇に諸君は諸君自らの魂の或る物を表象したのであるといふ氣がした。といふのは、我々英國人も亦、刀劔に關した有名な格言や諺を有つてゐる。我々の詩人は立派な刀身を『確かな(トラステイ)』とか『忠實な(トルウ)』とか呼ぶ。そして我々の最善の友をば『あれは鋼(スチイル)の如くに忠實だ』と言ふ。鋼(スチイル)といふのは古い意義での、申分無しの刀の鋼(スチイル)――武士たるものがその鍛へに自己の名譽と自己の生命とを託し得る鋼――といふ意味である。そして丁度そのやうに諸君のこの贈物。それは自分は一生大切に保存するが、諸君のこの絕好な贈物に自分は諸君の眞心と愛情との表象を見出すのである。自分は諸君が諸君の心の裡に、自分がそれを能く能く、知るやうになつた、そして諸君の贈物がこの美はしい徽號として永久に存するであらうところ、彼(か)の寬大と深切と忠實との衝動をば、常に新しく蓄へ居らるゝやうにと希ふのである。

 そしてこれは敎師に對する生徒としての諸君の愛情と忠實との徽號であるばかりで無く、諸君の多くが、最も慕はしい願として、自分に作文に書かれた時表明された、あの他の美はしい義務感念、卽ち陛下の爲めに、諸君の天皇の爲めに、身命を捧げたいとの願望の徽號でもあるのである。その願望は神聖である。それは諸君に分つて居るよりも恐らくはもつと深い意味を、諸君がもつと年とつてもつと賢くならるゝまでは或は分らぬ深い意味を有つて居る。今の時代は大なるまた迅速なる變化の時代である。諸君の多くは、大きくならるゝと、諸君の祖先が諸君より前に信じて居た事悉くを信ずることは出來なくなることもあらう。尤も自分は、恰も諸君が今猶、諸君の祖先の靈を尊むが如くに、諸君の祖先の信仰を少くとも相變らず常に尊まる〻ことを眞實信ずる差るものである。が、新日本の生活が諸君の身邊に如何に多く變らうとも、諸君自らの思想が時世と共に如何に多く變らうとも、諸君が自分に表明したあの尊い願望を諸君の精神から失(な)くならせてはならぬのである。その願望は、諸君の家庭のお宮の前に輝く小さな燈明の炎の如くに、明らかにまた淨らかに、常に燃やして置かなければならぬのである。

 恐らく諸君の或る者はその願望を果たさる〻かも知れぬ。諸君の多くは軍人にならねばならぬのである。士官とならる〻人もあらう。帝國を海で護るといふ大任の準備に海軍兵學校へ入らる〻人もあらう。そして諸君の天皇と諸君の國家は諸君の血を要求することすらあるであらう。が然し諸君のうちの大多數は他の途を執る運命を有つて居られて、――或る國家的な大危險、そんな事を日本が知ることは無いと自分は信ずるが、或る國家的な大危險の時を恐らくは除いて――肉體的自己犧牲をさる〻そんな機會は有たれぬかも知れぬ。ところが、それに劣らぬ高尙な、そして軍人でない、官吏でない生活を營んで居て諸君がそれを果し得る今一つの願望がある。それは、國家の爲めに死ぬことは出來んでも、國家の爲めに生きるといふことである。諸君の祖先の最も親切な最も賢明なものの如くに、諸君の政府は、この科學的世紀が與へ得る最前の敎育をば、他の如何なる文明國もが同一の利益を與へ得るより遙かに少い費用で受け得られるやう、あらゆる便宜を具へて居る立派な學校を諸君に供給して居る。そしてこれは、諸君の各〻をして、諸君の國家をそれが過去に於てあつたよりも一層賢明に一層富裕に一層强大にするのに手傳はしめんが爲めである。そして如何なる實務的家業或は學問的職業にあつても、その家業或は職業の品位を高めまた發達せしむるに最善の力を注ぐ人は如何なる人も、義務で死ぬる陸海軍人に劣らず眞に陛下の爲めにまた國家の爲めにその生命を捧ぐるものである。

 思ふに自分は、諸君が自分の去るを見て悲しむに劣らず、諸君を後にして去るを悲しむものである。自分は日本の學生の心情を知れば知るほど、層一層その國を愛するやうになつた。が然し、自分は松江へ歸ることは無いけれども、諸君の多くに再び會ふことと思ふ。或る方々には今後の夏に何處かで出會うであらうと殆んど確信して居る。或る方々には自分が行かうとして居る官立學校で今一度敎へる希望を抱けさへするかも知れぬ。が、再び會はうが會ふまいが、自分の生涯が諸君を知ることによつて一層幸福になつたこと、自分は常に諸君を愛する事、これを信じて貰ひたい。では、諸君の美しい贈物に對して重ねて感謝の意を述べて、左樣なら!

[やぶちゃん注:本章の訳者は底本の「あとがき」から本文に送辞が出る大谷正信氏御自身である。大谷氏については何度も注しているが、再掲しておく。英文学者大谷正信(明治八(一八七五)年〜昭和八(一九三三)年)は松江市生まれで、底本の共訳者である落合貞三郎同様、松江中学のハーンの教え子で、東京帝大英文科入学後もハーンの資料収集係を勤め、後に金沢の四高の教授などを勤めた(室生犀星は彼の弟子とされる)。また、京都三高在学中には、虚子や碧梧桐の影響から、句作を始めて「子規庵句會」に参加、「繞石」(ぎょうせき)の俳号で子規派俳人として知られる。 

 

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   DEAR TEACHER: You have been one of the best and most benevolent teachers we ever had. We thank you with all our heart for the knowledge we obtained through your kindest instruction. Every student in our school hoped you would stay with us at least three years. When we learned you had resolved to go to Kyūshū, we all felt our hearts sink with sorrow. We entreated our Director to find some way to keep you, but we discovered that could not be done. We have no words to express our feeling at this moment of farewell. We sent you a Japanese sword as a memory of us. It was only a poor ugly thing; we merely thought you would care for it as a mark of our gratitude. We will never forget your kindest instruction; and we all wish that you may ever be healthy and happy.

MASANABU OTANI,   

Representing all the Students of the Middle School of Shimane-Ken.

 

   MY DEAR BOYS: I cannot tell you with what feelings I received your present; that beautiful sword with the silver karashishi ramping upon its sheath, or crawling through the silken cording of its wonderful hilt. At least I cannot tell you all. But there flashed to me, as I looked at your gift, the remembrance of your ancient proverb: 'The Sword is the Soul of the Samurai.' And then it seemed to me that in the very choice of that exquisite souvenir you had symbolized something of your own souls. For we English also have some famous sayings and proverbs about swords. Our poets call a good blade 'trusty' and 'true'; and of our best friend we say, 'He is true as steel' signifying in the ancient sense the steel of a perfect sword, the steel to whose temper a warrior could trust his honor and his life. And so in your rare gift, which I shall keep and prize while I live, I find an emblem of your true-heartedness and affection. May you always keep fresh within your hearts those impulses of generosity and kindliness and loyalty which I have learned to know so well, and of which your gift will ever remain for me the graceful symbol!

   And a symbol not only of your affection and loyalty as students to teachers, but of that other beautiful sense of duty you expressed, when so many of you wrote down for me, as your dearest wish, the desire to die for His Imperial Majesty, your Emperor. That wish is holy: it means perhaps even more than you know, or can know, until you shall have become much older and wiser. This is an era of great and rapid change; and it is probable that many of you, as you grow up, will not be able to believe everything that your fathers believed before you;― though I sincerely trust you will at least continue always to respect the faith, even as you still respect the memory, of your ancestors. But however much the life of New Japan may change about you, however much your own thoughts may change with the times, never suffer that noble wish you expressed to me to pass away from your souls. Keep it burning there, clear and pure as the flame of the little lamp that glows before your household shrine.

   Perhaps some of you may have that wish. Many of you must become soldiers. Some will become officers. Some will enter the Naval Academy to prepare for the grand service of protecting the empire by sea; and your Emperor and your country may even require your blood. But the greater number among you are destined to other careers, and may have no such chances of bodily self-sacrifice,― except perhaps in the hour of some great national danger, which I trust Japan will never know. And there is another desire, not less noble, which may be your compass in civil life: to live for your country though you cannot die for it. Like the kindest and wisest of fathers, your Government has provided for you these splendid schools, with all opportunities for the best instruction this scientific century can give, at a far less cost than any other civilized country can offer the same advantages. And all this in order that each of you may help to make your country wiser and richer and stronger than it has ever been in the past. And whoever does his best, in any calling or profession, to ennoble and develop that calling or profession, gives his life to his emperor and to his country no less truly than the soldier or the seaman who dies for duty.

   I am not less sorry to leave you, I think, than you are to see me go. The more I have learned to know the hearts of Japanese students, the more I have learned to love their country. I think, however, that I shall see many of you again, though I never return to Matsue: some I am almost sure I shall meet elsewhere in future summers; some I may even hope to teach once more, in the Government college to which I am going. But whether we meet again or not, be sure that my life has been made happier by knowing you, and that I shall always love you. And, now, with renewed thanks for your beautiful gift, good-bye!

梅崎春生「午砲」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約

さても今度は、梅崎春生の三篇からなるアンソロジー「輪唱」中の、「猫の話」の後に配された「午砲」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約した。これで「輪唱」全部を読むことが出来る。なお、全部を繋げた「輪唱」完全テクストも用意してある。
……僕と一緒に「猫の話」を読んだ教え子諸君……あなたは今度はそこで……再び「猫の話」の「若者」に出逢うことになるのである!……乞うご期待!……
なお、私の梅崎春生の電子テクスト類は同日午前0:01から始動させる――

梅崎春生「いなびかり」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約

梅崎春生の三篇からなるアンソロジー「輪唱」中の、「猫の話」の前に配された「いなびかり」(附やぶちゃん注)を2016年1月1日に公開予約した。
……僕と一緒に「猫の話」を読んだ教え子諸君……あなたはそこで……再び「カロ」に出逢うことになるのである!……乞うご期待!……

2015/12/21

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十七章 サヤウナラ (一)

 

 第二十七章 サ ヤ ウ ナ ラ  

 

         

 

 自分は去らうとして居る、――遙か遠くへ。敎師としての地位は既に辭して、今はただ旅券を待つて居るのである。

 親しい顏が隨分多く此世から消えて行つたから、此地を去るのを遺憾に思ふ念は、六ケ月前に感じたであらうよりも今は少い。とは言ふもの〻、この古い雅致のある町は慣習(なれ)と聯想とで自分に如何にも懷(なつか)しいものになつて居るから、二度とまた此町を見ぬのだとの考は自分はそれを頭に浮べることをようし得ない程である。自分は蔭多い北堀町にあるこの美しい古い家へいつか歸ることがあるかも知れぬと努めて信じようとして居る。過去の經驗に依ると、さういふ想像は永遠の別離の前にいつも出て來たものだといふことを始終痛ましくも承知してゐながら。

 事實は、一切の事物がこの神の國では永久のものでは無いといふ事、寒さが酷烈であるといふ事、遙か南の、降雪の稀な、九州の大きな官立學校から招聘を受けて居るといふ事である。その上に自分は餘程身體を傷めて居た。それでもつと溫暖な氣候の處といふ前途の望が自分の決心を形つくるのに大なる力があつたのである。

 

 ところが名殘の昨今四五日は極めて嬉しい不意の出來事に充ちて居る。己が義務の履行に對しての單純な滿足以上のことを期待する權利が無い處に感謝の意外の示現を見る事、ただ厚意の存するあるのみと想つて居る處に愛情を見出す事、――これは確に非常に氣持の好い經驗である。

 兩校の敎師が自分に餞別を吳れた。淡紅色の妙な蟹が這うて居る磯邊へ垂れ下つて居る花盛の樹と、鳥と描いた模樣が一面にある、高さ三呎許りの、素ばらしく見事な花瓶一對――昔の封建時代の樂山(らくざん)で造つた花瓶――出雲の絕好の記念品である。この驚嘆すべき花瓶に添へて贈呈者三十二人の氏名を漢字で書いた卷物があつた。その三十二人のうち三人は婦人の――師範學校の三人の女贈師の――名である。

 ジンジヤウチユウガクカウの生徒も亦自分に贈物を――松江に於ける自分の最も幸福な多くの記憶への二百五十一名の生徒の最後の貢獻を――して吳れた。それはダイミヨウ時代の日本刀である。出雲の黃金の眼を有つた銀のカラシシ――神道の獅子――がその深紅の朱漆塗の鞘の上に群れて居り、またその巧妙な欛のあたりに腹這うて居る。そしてその美しい品物を自分の家へ持つて來た委員が、昔の慣習に從つて、生徒が自分に別を告げる爲め皆んな待つて居る學校の講堂へ直ぐに一緖に來て吳れと自分に乞うた。

 そこで自分はそれへ行つた。互に述べた事は次に書き記す。

[やぶちゃん注:既注の通り、ハーンは明治二四(一八九一)年の十一月に、出雲の堪え難い寒気を理由(それ以外にも、実は異人の妻となったセツに対する心ない噂なども理由の一つとしてはあった)として熊本第五高等学校(現在の熊本大学)に転任しているのであるが、その熊本への転居のために彼が松江を去ったのは「八雲会」の「松江時代の略年譜」から、

 明治二四(一八九一)年十一月十五日の午前九時

(大橋西桟橋より汽船にて出発)であったことが判っている。松江でのハーンの生活は、僅か凡そ十四ヶ月と半月で終わった。因みに、それ直前のデータも同リンク先より示しておくと、前月の、

 十月  八日 盟友で松江中学校教頭心得の西田千太郎に熊本への転任の決意を報告。

 十月二十六日 中学校で最後の授業を行う。

 十一月 十日 中原倶楽部で送別会。

とある(「中原倶楽部」は不詳。「中原」は松江城の南西の宍道湖に近い松江市中原町の地名で、そこの料亭か何かか?)。

「旅券」内国旅券。外国人滞在者で私的な旅行ではなく、就労目的の長期の転居であり、しかもハーンの場合、今までは地方県立中学校の一外国人英語教師であったものが、文部省管轄の官立高等中学校の教授職となるのであるから、新たな旅券、現在でいう査証(ビザ)に相当するパスポートを再発行して貰う必要があったものであろう。
 
「北堀町」「第十六章 日本の庭(一)」及び私の注を参照されたい。ハーンがこの偏愛した武家屋敷(現地では「甲冑(かちゅう)屋敷」と呼ぶ。ここで生徒が来訪するのも無論、ここ)に移ったのは、明治二十四年の六月二十二日(大澤隆幸氏「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」に拠る)のことであった。この本文ばかりでなく、かの「第十六章 日本の庭」で偏愛したこの屋敷には、実は半年ばかりしかハーンは住まなかったのであった。

「この神の國」松江(及び杵築から出雲(島根)全体)を一応、指す。

「一切の事物がこの神の國では永久のものでは無いといふ事」原文は“The facts are that all things are impermanent in the Province of the Gods;”一見、仏教の無常観の表明のように読めるのだが、これは以下の並列理由から見て、平井呈一氏の『正直のはなし、この神々の国』の都松江『では、すべてのことが永続きしないこと』といった訳でいいのではあるまいか? 『永続きしない』はハーン自身の行動や信念、他者のハーンやセツに対する認識や受け入れ方というプラグマティクなニュアンスを私は強く感ずるからである。ただ、それを「無常」のオブラートに包んで、なるべく見えぬようにするという意識(というか、松江の愛すべき人々への気配り)は働いているようには読める。

「九州の大きな官立學校から招聘を受けて居る」当時の五高の校長は、かの「柔道の父」と呼ばれる柔道家で教育家であった嘉納治五郎(万延元(一八六〇)年昭和一三(一九三八)年)であった。嘉納は柔道の達人であったばかりでなく、教育者としても尽力しており、明治一五(一八八二)年から学習院教頭、明治二〇(一八八七)年には前章で最後に出た井上円了が開いた「哲學館」(現在の東洋大学の前身)で講師となって倫理学科目を担当、同科の「哲學館講義錄」を共著で執筆している。明治二四(一八九一)年に第五高等中学第三代校長に就任した。後、明治二六(一八九三)年からは通算二十五年間ほどに亙って、東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長並びに東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務め、文部省参事官・普通学務局長・宮内省御用掛なども兼務した。一方で、明治一五(一八八二)年に英語学校「弘文館」を南神保町に創立したり、明治二九(一八九六)年には、清国からの中国人留学生の受け入れに努め始め、明治三二(一八九九)年に牛込にその受け入れ先としての教育機関「弘文學院」(校長は松本亀次郎)を開いている。ここでは、後の文学革命の旗手となった魯迅が学び、治五郎に師事した(以上は主にウィキの「嘉納治五郎」に拠った)。ハーンは、ここでこう述べているが、幾つかの資料を見たが、嘉納治五郎側から、ハーンに積極的なアプローチあった事実は確認出来ないでいる。識者の御教授を乞うものである。

「兩校」「縣立島根県尋常中學校松江中學校」(改称は明治一九(一八八六)年。現在の島根県立松江北高等学校)、及び、「島根縣立松江師範學校」(改称は明治九(一八七六)年十月。県立島根大学教育学部の前身)。既に見てきた通り、ハーンは師範学校でも数時間(第十九章 英語教師の日記から(二)には『四時間』とある)の授業を受け持っていた。

「三呎」九一・四センチメートル。

「樂山で造つた花瓶」楽山焼(「第二十三章 伯耆から隱岐ヘ(三十四)の私の「其處で出來る光つた黃色い陶器」の注を参照)である。

「二百五十一名の生徒」当時の尋常中学校は五年生であるから一学年五十人前後か。

「欛」「つか」と読む。柄(つか)に同じい。] 

 

ⅩⅩⅦ

 

SAYŌNARA!

 

.

 

   I am going away, very far away. I have already resigned my post as teacher, and am waiting only for my passport.

   So many familiar faces have vanished that I feel now less regret at leaving than I should have felt six months ago. And nevertheless, the quaint old city has become so endeared to me by habit and association that the thought of never seeing it again is one I do not venture to dwell upon. I have been trying to persuade myself that some day I may return to this charming old house, in shadowy Kitaborimachi, though all the while painfully aware that in past experience such imaginations invariably preceded perpetual separation.

   The facts are that all things are impermanent in the Province of the Gods; that the winters are very severe; and that I have received a call from the great Government college in Kyūshū far south, where snow rarely falls. Also I have been very sick; and the prospect of a milder climate had much influence in shaping my decision. 

 

   But these few days of farewells have been full of charming surprises. To have the revelation of gratitude where you had no right to expect more than plain satisfaction with your performance of duty; to find affection where you supposed only good-will to exist: these are assuredly delicious experiences.

   The teachers of both schools have sent me a farewell gift, a superb pair of vases nearly three feet high, covered with designs representing birds, and flowering-trees overhanging a slope of beach where funny pink crabs are running about, vases made in the old feudal days at Rakuzan,― rare souvenirs of Izumo. With the wonderful vases came a scroll bearing in Chinese text the names of the thirty-two donors; and three of these are names of ladies,― the three lady-teachers of the Normal School.

   The students of the Jinjō-Chūgakkō have also sent me a present, the last contribution of two hundred and fifty-one pupils to my happiest memories of
Matsue: a Japanese sword of the time of the daimyo. Silver karashishi with eyes of gold
in Izumo, the Lions of Shintō ― swarm over the crimson lacquer of the sheath, and sprawl about the exquisite hilt. And the committee who brought the beautiful thing to my house requested me to accompany them forthwith to the college assembly-room, where the students were all waiting to bid me good-bye, after the old-time custom.

   So I went there. And the things which we said to each other are hereafter set down.

1月1日電子テクスト公開予約完了

来年の私の入魂の梅崎春生のテクストの2016年1月1日ブログ公開予約をほぼ完了した。これで僕に何かあっても、以前からの梅崎春生の1月1日の約束だけは守れる。――

……カロ……「猫の話」と復元した授業案は読み易いPDF縦書版も用意してある(これも1月1日にはそれぞれの記事からダウンロード可能にさせてある)。

予測した通り、「桜島」と「幻化」は注がトンデモなく長いものになった。恐らくは向後も誰も「桜島」や「幻化」には注しないような注が永く果てしない砂浜のように続いている……これが……僕の――鬼――である……乞うご期待!――

2015/12/19

バク

昨日はかみさんの誕生日(満60で還暦。僕まだ58)だった。
大きなバクの縫いぐるみをプレゼントした。

――因みに、昔から金属アレルギーで宝飾類には今や全く興味がなくなり、両足が不自由なためにバッグや装身具も選べない。花は喜ばず(かつて3万円の花束を贈ったが世話は総て私がやった)、足の関係で太れないことから食事もプレゼントにならない。――高価な贈り物を喜ぶ相手というのも何だが、選ぶものが極めて限られる相手というのもこれ難しいものがある――

今朝、カウチに寝っころがっているそのバクをよく見てみたら――これ――しっかり目を閉じているではないか!?

バクは起きて居てこそ悪い夢を喰うんだろ!

こら! バク! 寝るな!!

梅崎春生「猫の話」語注及び授業案  藪野直史 (本文省略版)

 梅崎春生「猫の話」語注及び授業案   藪野直史

 

[現在のやぶちゃん注:私は正直、本作は朗読するだけでよかったと思っている。くだくだしい分析など、いらなかったと思っている。事実、何人かの生徒が、私が朗読し終ったとき、鼻をすすったのをよく覚えている。それでも、私の懐かしい思い出のために、これを電子化しておきたい(因みに、三年前に再会した十年前の教え子の男子が私の授業のノートを見せてくれたが、そこには私が喋った雑談まで克明に記されてあって、涙がでそうになるほど嬉しかった)。

 

 私は五十五で早期退職した際、三十三年間総て残してきた段ボール二箱あった紙ベースの自分がオリジナルに作った教材や授業案及び関連資料の殆んど総てを断捨離した(例外的に残した中島敦の「山月記」の原典「人虎傳」のダイジェスト・プリント(中島敦「山月記」授業ノート 藪野直史内の)や、「こころ」の「先生」の家(以上はブログ版。サイト版は心 先生の遺書(一)~(三十六)やぶちゃんの摑みの(十六))や下宿の推定作画(以上はブログ版。サイト版は先生の遺書(五十五)~(百十)やぶちゃんの摑み」の(六十五))などは既に公開済である)。電子データの中には残っているものの、その内の2/3は最早廃棄した旧ワープロで作成したもので、文字列だけしか復元出来ない。本授業案では生徒に絵コンテを描かせる試みなどもしたことから、表形式で作ったシナリオなどの箇所もあるが、ワードでそれを再現するのは労多き割に私の限られた時間の有意な浪費となるため諦めた。なお、語注は高校生向けのものであるから、成人した諸君には言わずもがなの注も含まれるのは悪しからず。]


 

【本文省略。あと12日待っててね! 純粋な本文だけのテキスト及び完全版授業案は2016年1月1日に公開します。】

 

〇語注及び授業案

第【】段 若者と猫

・板廂(いたびさし):木の板で葺いた粗末な庇(ひさし)。建物の窓などの上部に張り出させた片流れの日除け・雨除け・雪除けを目的とした小さな屋根。軒(のき)。

 

運送屋で一階はガレージも兼ねているかも知れぬが、くれぐれもその総体が木造の粗末な造作であることを十全にイメージさせる。二階であるにも拘わらず、コオロギが多く侵入してくるというのは、壁も古い土壁のような構造を説明した方が腑に落ちる。その壁が古くなって外側も内側も一部の土が剥落し、格子状の枠(木舞(こまい))がちょっとのぞいているような感じを想起させる。

 

・蟋蟀(音は「シッシュ」)直翅(バッタ)目剣弁亜(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科の昆虫類或いはその下のタクソンのコオロギ亜科 Gryllinae の、

 フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma

 コオロギ亜科 Modicogryllini 族オカメコオロギ属ハラオカメコオロギ(オカメコオロギ)Loxoblemmus campestris

 オカメコオロギ属ミツカドコオロギ Loxoblemmus doenitzi

 Modicogryllini 族ツヅレサセコオロギ属ツヅレサセコオロギ Velarifictorus micado

 Modicogryllini Gryllodes 属カマドコオロギ(イエコウロギ) Gryllodes sigillatus

などが代表的な種である。鳴き声は種によってかなり異なり、一般には、

エンマコオロギ 「コロ、コロ、コロ」「ヒヨ、ヒヨ、ヒヨ」

オカメコオロギ・ミツカドコオロギ 「リッ、リッ、リッ」

ツヅレサセコオロギ 「リィ、リィ、リィ」

カマドコオロギ 「キリ、キリ、キリ」「チリ、チリ、チリ」

などと音写されるようである。個人的なSE(サウンド・エフェクト)としてはエンマコオロギか。[現在のやぶちゃん注:この注は原授業案では『蟋蟀(音は「シッシュ」)』のみであったのを、今回、追加した。「兵庫県立人と自然の博物館」公式サイト内のこちらで各種コオロギ鳴き声を聴ける。]

 

・外食券食堂:第二次世界大戦中の昭和一六(一九四一)年から戦後にかけて、主食の米の統制のため、政府が外食者用に食券を発行し(発券に際しては米穀通帳を提示させた)、その券を持つ者に限り、食事を提供した食堂。というより、これ以外の飲食店には主食は原則、一切配給されなかった。

[現在のやぶちゃん注:授業ではここで、確か、古本屋で入手した昭和二〇年(一九四五)年十月の戦後最初の『文芸春秋』復刊号の編集後記に記された、調理人の手洟や蛆が鍋の中で煮えているという凄絶な外食券食堂の不潔さを具体に訴える内容を読み上げた。書庫のどこかに現物が埋まっているはずだが、見出せない。発見したら追記する。追加しておくと、小学館の「日本大百科全書」梶龍雄氏の「外食券食堂」によれば、外食券は闇値で取引されることも多くなり、昭和二二(一九四七)年入浴料が二円の当時、一食一枚分の闇値が十円もしたという例もある。しかし昭和二五(一九五〇)年ごろより食糧事情が好転、外食券利用者は激減し、飲食店が事実上、主食類を販売するようになってからは形骸化して、昭和四四(一九六九)年には廃止されたとある。因みに、私は昭和三十二年生まれであるが、券も食堂も記憶にはない。]

 

時代背景(以上から)

 敗戦後数年経った昭和二十年代前半の東京 

敗戦直後ではないと思われるが、本作(本作は昭和二三(一九四八)年九月号『文芸』に掲載された「いなびかり」「猫の話」「午砲」の三篇からなる「輪唱」の第二篇目)初出時期と外食券食堂の雰囲気から見ると、昭和二十二・二十三年辺りと考えてよい。

 

「若者」について

・孤独な猫に愛着を感じる「彼も孤独」であった

 

 平凡ですこぶる純真な若者像

 

段落「夜になると猫は彼に身体をすり寄せて寝た。」

 

  猫に対する対等な強い共感表現に着目 

 

・粗末なおんぼろの狭い(推定)蟋蟀が入ってくるような「運送屋の二階」に部屋を借りている

・貧しい生活

  定職なし (推定)

 

作中、主人公は猫と対峙し続け、仕事に出るシーンが全くないことに気づかせる。

 

猫について(第段落)

 皮膚が茶色のぶち・耳が薄く鋭く立っている・尻尾が長く垂れている 

耳について《伏線》

 敏捷さ・鋭敏さの暗示 

 

直後の蟋蟀を捕獲するシーン(第段落)の描写への伏線《だけではない!》

 すっかりやせている・(しかし)眼だけは澄んで光っている・好物は蟋蟀 

身体つきと眼について

 若者自身と同様に、貧しい(貧弱である)が、そこに純真なものを感じさせる 

 

 若者と猫の重層性の暗示 

 

蟋蟀を捕獲する猫の描写(第段落)

 真剣な眼つき 

「何かに満ちていて、眺めていると、自分が蟋蟀をねらっているような錯覚に彼はおちた

 「猫の」飢え  「若者」自身が現実の生活の中で痛烈に実感しているところの飢え 

当時の敗戦国日本の食糧事情の劣悪さを具体的な例を挙げて解説する。

 逆に「猫」と「若者」の

 本能としての「生」のエネルギ-生命の強い存在感 

としてもそれが立ち現われれてくることに注意!

 同時に

 若者と猫の重層性の明示 

 

段落

これが実は不吉な伏線あることに気づかせる

「細い剣のような触角が畳の上に散らばっていた。それが足の裏にざらざら触れる

 

第【】段第段落の描写

「カロの死骸が」「分割され、」「タイヤに」「付着して、東京中をかけめぐ」る

 

漢詩について(第段落)

 

蟋蟀在堂 蟋蟀(しつしゆ)堂(だう)に在(あ)り

歳聿其莫 歳(とし)聿(ここ)に其(そ)れ莫(く)れん

(しっしゅどうにあり、としここにそれくれん)

中国最古の詩集「詩経」唐風(現在の山西省の歌謡で周王朝の重要な位置を占めた晋(しん)国の歌群)にある詩「蟋蟀」の冒頭の二句(全三章構成で後で二度冒頭でリフレインされる)。「莫」は「暮」に同じ。「こおろぎが家の中で鳴く季節となった。まさに今年も暮れようとしている。」という意味で、詩全体は『時の過ぎゆくのは速い、人の命は短い、今を楽しまないと取り返しがつかないよ』といった内容。

[現在のやぶちゃん注:授業では一切、原詩を示さなかったので、今回はオリジナリティを出すために全部を引いておく。底本は一九五八年刊岩波中国詩人撰集吉川幸次郎注「詩経國風 下」に拠った。下の訓読は吉川氏によるものを参考にしつつ、私が独自に附した。何故なら、底本の訓読文は納得出来ない新字現代仮名遣だからである。また、読みは振れるもののみとした。

 

  蟋蟀

 

蟋蟀在堂   蟋蟀 堂に在り

聿其莫   歳 聿に 其れ 莫れん

今我不樂   今 我れ 樂しまずんば

日月其除   日月(じつげつ) 其れ 除(さ)らん

無已大康   已(はなは)だ大いに康(たの)しむ無く

職思其居   職(つと)めて其の居(つと)めを思へ

好樂無荒   樂(たの)しみを好むも荒(すさ)む無く

良士瞿瞿   良士は瞿瞿(くく)たり

 

蟋蟀在堂   蟋蟀 堂に在り

聿其逝    聿に 其れ 逝かん

今我不樂   今 我れ 樂しまずんば

日月其邁   日月 其れ 邁(ゆ)かん

無已大康   已だ大いに康しむ無く

職思其外   職めて其の外(そと)を思へ

好樂無荒   樂しみを好むも荒む無く

良士蹶蹶   良士は蹶蹶(けいけい)たり

 

蟋蟀在堂   蟋蟀 堂に在り

役車其休   役車(えきしや) 其れ 休(や)まん

今我不樂   今 我れ 樂しまずんば

日月其慆   日月 其れ 慆(す)ぎん

無已大康   已だ大いに康しむ無く

職思其憂   職めて其の憂ひを思へ

好樂無荒   樂しみを好むも荒む無く

良士休休   良士は休休(きうきう)たり

 

底本の吉川氏の注には、本詩篇について『朱子は、勤倹な晋の人民が適宜な快楽をお互いにすすめあう唄とする』という一解釈を載せる。「除」は「去る」の意。「無已大康」は『といってむやみに遊びすぎずに』と訳されてある。「職」は副詞の「つとめて」で心を集中しての意で「職思其居」は『せいぜい任務のことを考えよう』と訳され、「居」は、一説にこればかりは従わねばならない「国中の政令」の意であるらしい。「好樂無荒」の訳は『遊びずきだがはめははずさない』。「良士」はよき若者。「瞿瞿」は気配り、細かなとろこまで行き届いた心遣い。「外」周囲の外の人や出来事。「蹶蹶」は擬態語で、動きがきびきびしていることを言うとある。「役車」は『百姓が農具をのせて野良へゆく車』で、それが「休」むというのは『冬の農閑期に』なったことを言うとある。「休休」やはり擬態語で、のびのびとしていることを指すとある。]

 

 時間の無情な流れ人間存在の孤独性や徒労が匂わされた主題 

 

 ひいては今の生の快楽から近い将来の死というイメージを内包した不吉な伏線 

 

段落の意味

「この詩の一節だけを記憶していた」~ 読者への強い意味深長な印象付け 

 

実際、この小説を読むと、訳が分からん、と感じるのは、この白文の漢詩箇所だけである。さればこそ、この作品のテーマを解く秘密の鍵がこの詩片に隠されていると、多くの読者は思うはずである。

但し、この訓点もない「詩経」の一片から、以上の生の無常感を感じとることの出来た当時の食うことに精一杯だった読者は、必ずしもそんなにはいなかったのではないかとは思われる。作者梅崎春生も、そうした読者にとって顕在的で自明であるような伏線として、この詩片をここに伏線として配置した訳ではないように思われる。実際、春生の体験や記憶(本文にあるような実際の伯父――戦死した臭いが漂う――にこの詩を教えて貰ったというような)への個人的なオマージュであった可能性なども否定は出来ないであろう。

[現在のやぶちゃん注:てなことを黒板に書き、補足説明したのであるが、寧ろ、この解釈や解説は生徒には牽強付会とさえ思われてしまったかも知れない。されば、コオロギからこの「蟋蟀」(詩題自体が「蟋蟀」)が引き出され、それが、「秋」から「人生の秋」そして「死」という連想の意味合いで翳を落しているという程度に留めて構わなかったのでは、と今となっては思っている。]

 

擬音語擬声語擬態語(オノマトペ:onomatopee フランス語)の効果1(第段落)

「ぱっと」「ばりばりと」「ざらざら」「ぐったり」「ぐりぐりと」

平易なリアリズムの表現~猫の存在が極めてリアルに浮かび上がる効果

オノマトペの多用は逆に安っぽい日本文にも見えてしまう弱点も指摘。

 

なぜ「それを叱るすべもない」のか?(第段落)

 若者が持ってくる残飯では、到底、猫が満足するはずもないことが分かっているが、かといって、彼は貧しく、十分な餌を与えることはできないから。

 

命名(第段落)

 カロ ~名づけることによって、猫の存在感と現実感がぐっとアップする

その構成上の位置の上手さを指摘する。

 

   *   *   *

 

第【】段 カロの死

擬音語擬声語擬態語の効果2(第段落)

「ふらふら」「ひょろひょろ」「あっと」「ひょろひょろ」「ぐしゃっと」「がくがく」「ごろごろ」

 轢死の瞬間の奇妙にして鮮烈な生と死のリズム感 

カロが轢死する場面を、実感的に表現しようとする意図と共に、凄惨な雰囲気から場面が過度に重くならぬよう、多少の軽さを配慮の意も果たしていよう。

 

段落

「何かへんにふらふらした歩き方で、いつものような確かさがなかった。」

 これは

段落「ものを盗んでいるところを見付けられ、どこかをしたたかなぐられた」に繋がり、餌を十分に与えられなかった自分にもカロの死の責任の一端はあると若者は考えていることが明らかとなる。だからこそ、

「新しく涙が垂れた」

のである。

 

切迫した(不吉な)予感

カロと若者の一体化(第段落)

「カロの身体がぐしゃっとつぶれる音を、彼はその時全身でありありと感じとった」

カロと若者の強烈にして凄惨な生と死の皮肉な一体性第【】段第段落との共鳴

 

映像的手法のよる場面処理(第段落)~映像化の試み

監督やカメラマンにクロース・アップさせるためのシナリオの書法を解説する(実際のシナリオには、カメラ・ワークやショット数などを書き込んだり指定してはならないし、実際にしないことを断わっておく)。「長回し」について例を挙げて述べ、現代の映画のショット数の多さについて補足する。私がカラーにしない理由を述べる。

《モノクロで。1シークエンス3ショットの例》

暗い空。(下にパンして)

左の方へ小さくなったなっていく黒い自動車。(ロング・ショットからズーム・イン)

広い車道の真ん中。カロ。そのぼろ布のように、ころがっている、つぶれた死骸。(ミディアム・ショット)【長回しの1ショット】

若者の眼!(クロース・アップ)【1ショット】

窓枠の、若者のがくがくと震える指!(同)(F.O.)【1ショット】

[現在のやぶちゃん注:何度かは、この前後の絵コンテを生徒に自由に描かせた。私は、文学作品の一場面を映像シナリオ風に授業したり、生徒に絵コンテやピクトリアル・スケッチに描き起させるのが好きであった。一番やったのが横光利一「蠅」で、私の映像シナリオは『横光利一「蠅」の映像化に関わる覚書/シナリオ』で公開しており、生徒の描いた優れた何枚かは、例外的に現在も保存している。その中でも私の最後の教え子(当時、藤沢総合高等学校三年の女子生徒)の「蠅」からのものを本人の許諾を得て、画像で公開している。未見の方は、是非、ご覧あれ。絵もすこぶる上手く、撮り方も絶妙で実に素敵だ!]

 

段落

「カロをこんなに愛していたとは、今まで意識しないことであった」

段落での無意識のカロとの一体感~事件を契機として覚醒した感覚

 「カロ」という「生」の実体存在を把握した若者 

 

「猫の話」第二段第段落~映像化の試み

ショットとSE(音響効果)

1シークエンス10ショットの例(《 》はSE)

先に述べた通り、実際のシナリオはこんあものではあり得ないことを再指摘しておく。カット・バックを解説し、フラッシュ・バック(凡そ二コマ〇・五秒切りかえし)との違いを説明する。

(モノクロで)

裸電球。(クロース・アップ)《嗚咽〈クレッツェンド〉》【1ショット】

若者の部屋。蒲団にもぐって泣いている若者。(フル・ショット)【1ショット】

布団の中。その顔。(クロース・アップ)【1ショット】

生前のカロのいろいろなショット。(カット・バック)【3ショットほどでよろしく】

布団の中。さらに激しく泣く若者の顔。(クロース・アップ)【1ショット】

蒲団にもぐって泣いている若者。(ミディアム・ショット)

《雨、降り始めている。雨音〈クレッツェンド〉。(オフで)》

《雨、だんだん激しく、板廂をはじく。板廂をはじく雨音。〈クレッツェンド〉(オフで)》【長回しの1ショット】

板廂をはじく雨。(クロース・アップ)【1ショット】

蒲団にもぐって泣いている若者。(ミディアムからゆっくりフルへ)

《遠い雷の音。近くの雷の音。》

《雷、小さく、突然大きく。》

若者の部屋。まだ泣いている若者。

近くの雷光、一閃! 電球、消える。停電。

《自動車が水をはねて疾走する音。(オフで)》

雷。部屋の中を一瞬照らす。

《自動車の水切り音〈断続的に〉(F.O.)》【長回しの1ショット】

[現在のやぶちゃん注:これが生徒に配布したものでは、これは確か三段(場面・音響・ショット数)に分けたチャートになっていた。]

 

カロの死を実感し、その悲しみにくれる若者の嗚咽を、

 雨音 

 

 板廂をはじく音 

 

 遠く/近くで鳴る雷の音 

 

 断続する自動車の水切り音 

といった順で、音響が追いながら、彼の悲哀に満ちたウエットな心象風景を本文に即して切なく撮ってみた私の例である。本文自体がカロの回想をカット・バックの映像的手法で浮かび上がらせ、蒲団にもぐった若者の涙を誘う辺り、極めて映像的である、優れたシーンを構成していると思う。

 

翌朝(第段落)

 内向していく感傷 ~泣くだけ泣いてしまって一種の放心状態にいる若者

 

カロの死骸の描写~何度も轢かれたカロ

「板のようにうすっぺらになって」いる。

「舗道に平たく貼りついてい」る。

「猫の身体のかたちのまま、面積は生きている時の五倍にもひがってい」る。

 

乾いた客観的な表現ながら強烈なリアリティを持つ存在

 

見ることをやめる若者~無惨さに耐えられない

 実際に見てもカロの死をどこかで認めたくない

 

*前文「やはり夢ではなかった」

 

往来する自動車の音だけを聞いている若者(第段落)

 しかし、その心はさらにさらに平べったくのされていくカロを心の眼で見る苦しみに満ちている

 

その翌日~轢死後二日(第段落)

再び「見る」ことを始める若者

・カロの死骸の変化

 乾燥した、カロの死骸への奇妙な感覚の変化を「かわく」を四度繰り返すことで示している。

「猫の死骸という感じではな」い

「猫の形をしたよごれた厚紙」

「四囲の部分が」「めくられ、ひらひらと動いてい」る

 

段落

カロの回想とカロの轢かれた身体の無惨に強いられる変化(立体から平面へ)との対比

〔「ぼろ布」第段落〕

 

〔「板」第段落〕

 

〔「よごれた厚紙」第段落〕

 

〔「よごれた紙」第段落〕

それが、

〔生前のかわいらしいカロの仕草表情〕とカット・バック

され、

 生き生きとしたかわいらしいカロ 

 

「胸をかきむしりたくなるような悲哀感」

 

 無機質化され実体を失った「物」にされてしまったカロ 

 

存在を否定されることへの強烈な怒りがあるが、それはどこへぶつけようもないという現実

 

カロの死について現実的な解釈を考える若者

 ここでは確かに激烈な悲しみは既に収まっているとは言えるが、カロの死の責任の一端が自分にもあると考えている若者にとって、悲哀はさらにさらに重く哀しいものとなっていくことに着目せねばならない。

 

「新しく涙」を「垂」らす若者

 

   *   *   *

 

第【】段 消滅するカロ(轢死後三日(第段落)

「見続けること」を始める若者

 カロの死骸の更なる変化~少しずつ、その身体を理不尽にも持ち去られていくカロ

「何かに引き抜かれるような感じ」

 

 再び襲ってくる悲痛な一体感 

 

「何か言いようのない深い哀しみ」

 

それは、『たとえ薄っぺらい紙のようになっても、カロは存在感を主張し続けている』と若者は「思いたい」「思わずにいられようか」

 ゆえにこそ

「一日中通りを」=カロを「見張っていた」

~「カロ」と表現しているところに注意(「死骸」ではなく)

~「どうしてもほおっておけない気持」

ここに限らず、カロが轢かれた直後のシーンから既に生徒の中には、何故、若者はカロを道から移して葬ってやらないのか、という疑問を持つ者も多くいるであろう。しかし、では、それは小説になるか? そうしたシーン展開を君が作家としてした場合、その作品はどんなものになり、どんなことを読者に訴えるものとなるかを考えて見てほしい、と問いかけたい。それは、批判ではない。寧ろ、本作のテーマを考えるよすがと実は、なる。

 

 カロの死と向き合うことの決意する若者 

 

霊柩車の皮肉

 死を悼み、遺体を鄭重に運ぶべき霊柩車が、遺体を轢いて、しかもその一部を持ち去る~ 一種の非情なパラドックス 

 

段落「夕方になると、カロは半分になっていた」~痛烈な一行(一文単独段落にしている手法に着目)

 

轢死後四日(第段落)

「見張ること」に徹する若者(「昨日から、ずっと」)

 カロの死骸の極端な変質

・確認

「ぼろ布」【】「板」「よごれた厚紙」【「よごれた紙」【

が、遂にここでは、

「一尺」(三〇・三センチメートル)「四方ぐらいの、白茶けた」襤褸(ぼろ)

とされてしまう。

そして、それは、カロのどの部分だったのか?

頭部~第段落「顔の部分はまだ残っていた」

 

段落

「薄い鋭い耳たぶの形を思い出して」(第【】段第段落)~伏線の強化

 

声を出してうめいた」= 同一体としての激烈な痛み 

 

轢死後四日の夕方(第段落)

「手帳ほどの大きさ」

「カロの顔の部分」

~が最後まで残っている

~それは僕は『カロなんだ!』という存在の証しへの執念の叫びのようなもの

 

「異様な緊張を持続しながら」見守り続ける若者

 カロの執念を共有する存在としての若者 

 

段落

「祈願」~ 「若者」=「カロ」の神への祈りに等しい叫び 

カロにとって=若者にとって

 唯一の実在した証し 

であり、

 存在証明(レゾン・デートル)であり、最後の尊厳であるもの 

raison d'être :フランス語。「存在理由」「存在意義」「生き甲斐」などとも訳される。

 

最後の瞬間(第段落)

・擬音語擬声語擬態語の効果3

「ぼろぼろ」「ごとごと」「あっという間もなく」「ぺろりと」「がたごと」「一目散に」

 

酔っぱらいの乗った、ぼろぼろのタクシーに持ち去られねばならない〈最後のカロ〉

 

まるで冗談か喜劇のような幕切れ

 馬鹿げた理不尽なものによって〈カロ〉の実在が否定されるゆえにこそ、救いようのない哀しみがダメ押しで強調される対位法的手法

音楽用語の対位法から、映像的なそれについて説明する。

 

その直後~泣く若者(第段落)

「カロがすっかり行ってしまったことが、深い実感として彼に落ちた」

*ここも「カロ」であって「カロの死骸」でないことに注意。

 

「カロの死骸が、いまや数百片に分割され、タイヤにそれぞれ付着して、東京中を駆けめぐっていると考えた」時、「さらに声を高めて泣」く若者

 

エピローグ~その夜(第段落)〔カロの死後四日〕

 カロがいなくなったから、蟋蟀は安心して何匹も部屋の「すみに、安心してとまっい」る

 

「本箱のかげにいたその一匹が、その時触角をかすかに慄わせながら、畳みの上にはい出してきた。そして」/「いい音を出して」/「一声」/「高く」/「泣いた。」

 

 蟋蟀とカロ 

 の哀しい連想~余韻

 蟋蟀の触角とカロの薄い鋭い耳たぶのオーバー・ラップ 

 

存在を完全に消し去られてしまうということの恐怖と怒り

 

風化する「カロ」(消滅させられつつあるカロという存在)=現実の世界の中でのちっぽけで無力な存在としての主人公の「若者」

 

若者のカロに寄せる感情は、同情ではないということをはっきりと認識することが必要であろう。現実世界で、若者が自分の存在理由をはっきりさせることが出来ないように、カロも「生」を持つものとして実体が在ったにもかかわらず、結局、存在そのものさえ理不尽に否定されてしまうことへの深い哀しみという、強い同一化が行なわれているのである。〔若者とカロのアイデンティティの問題〕

 

現実世界の「生」に対する不条理性への言いようのない怒りと哀しみという主題

[現在のやぶちゃん注:「存在を完全に消し去られてしまうということの恐怖と怒り」以下は、言わずもがなで今の私には不快以外の何物でもない。授業単元終了勝利の狼煙といった塩梅のクソの糞の部分である。こうしたキリは、受験教育に特化した私の国語の授業のまさに腐臭部分であるが、私はこの夏、前頭葉を損傷して嗅覚も失ったことで、臭い臭いもしなくなったことだし、ともかくも過去の私自身への批判指弾の意味も込めて、敢えて曝し残すこととしたい。]

2015/12/18

ブログ・カテゴリ「梅崎春生」創始

昨夜より2016年1月1日に向けて梅崎春生関連テクスト作業を開始した。まず、1月1日公開は恐らく私の教え子らには懐かしい「猫の話」。勿論、僕の授業案も添えて――

 
なお、現在の目論みとしては「猫の話」を含む三篇構成の「輪唱」の電子化注の公開、さらに春生の円環的代表作である初期の「桜島」と、遺作となった「幻化」の沖積舎全集版での電子化と、それぞれのオリジナル詳細注を1月1日から開始する予定でいる。後二作の注、特に「桜島」の注は既に膨大になることが予想されているため、ブログ上で読み易くするために、それぞれ単独のブログ・カテゴリ
 
――梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注――
 
――梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注――
 
を別に作って公開してゆくこととする。

さてもさても! 乞う、御期待!

2015/12/17

では

本日これより脳CT再検査なればごきげんよう――

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十六章 日本人の微笑 (五) / 第二十六章~了

――遂に私の「知られぬ日本の面影」電子化注は、残り一章のみとなった。

  
 
        

 

 私がこんな事を書いて居ると、或京都の一夜の事が幻のやうに浮んで來る。名は思出せないが、どこか不思議に人ごみのする、明るい道を亙つて居る間に、私は大層小さいお寺の入口の前の地藏を見にわきへ曲つた。その像は美はしいお寺の皺僧の形であつた、そしてその微笑は神々しい寫實の物であつた。私は眺めながら立つて居ると、多分十歲程幼い少年が私のわきへ走りよつて、その像の前に小さい手を合せ、頭を下げてしばらく默禱した。幾人かの朋友から離れて來たばかりで遊びの樂しさ面白さが未だ顏に殘つてゐた。その無意識の微笑は石の雛僧の微笑と不思議に似て居るので、その小兒は地藏と双生兒のやうに見えた、そこで私は考へた、『唐金や石の微笑はただの寫生ではない、それによつて佛師の象徴して居るものはこの種族の微笑の意味であるに相違ない』

 

 それは昔の事であつた、しかしその當時浮んだ考は今もやはり私には本當と思はれる。佛敎美術の源は如何に日本の土地に親しみがなくとも、それでも日本人の微笑は菩薩の微笑と同じ思想、卽ち、自己抑制と自己征服から生ずる幸福を表はして居る。『戰場に於て千々の敵に克つよりは獨り己に克つもの、彼こそ最上の戰勝者なれ』『天も魔王も梵天もこの常に己を御し自ら制する人の勝利を轉じて敗亡となすこと能はず』【註四】こんな佛敎の文句は澤山ある、そしてこんな文句は日本人の性格の最高の美點である道德的傾向を創造したと假定する事はできぬが、たしかに表はして居る。そして日本人種の道德的理想主義は凡て鎌倉のあの驚くべき大佛の像になつて居るやうに思はれる、あの容貌は『深い靜かな水のやうに落ちついて』【註五】人間の手でできたどんな外の作品も表はす事のできぬやうに『寂滅に勝れる樂あるなし』【註六】と云ふ永久の眞理な表はして居る。東洋の向上心はその無限の平靜の方へ向つて居るのである、そして無上の自己征服の理想を自分の理想として居る。今日でも表面は、早晩根抵までも動かすに相違ない新影響のために動搖して居るが、日本人の心は西洋の思想と比べては驚くべき平靜を保つて居る。日本人は私共が最も氣にして居る究極の抽象的問題をたとへ念頭に置いて居るにしてもそれは極めて少い。なほ又私共が會得される事を望むやうに、日本人は私共のそれ等の問題に關する興味を會得しない。或日本の學者は一度私に云つた。『君が宗敎的硏究に無頓着で居られないのは、全く自然であるが、私共がそれに對して餘り心を勞しないのも同じく自然である。佛敎の哲學は君達の西洋の神學よりも遙かにすぐれた深さをもつてゐて、私共はそれを硏究して居る。私共は思想の深さを測つて、その深い底の下に測り知られない深さのある事を見出すばかりである。私共は思想の力で達し得べき最も遠い境まで航海したが、地平線が永久に退却する事を見出すばかりである。しかし、君達は、何千年以來、海を知らないで、いつも川の中で遊んで居る子供等のやうである。只君達は今私共の途と違つた途でその岸に達した、そしてその渺茫たる物は、君達にとつては新しい驚異である。そして君達は、人生の砂の上の無窮を見たから、無何有之鄕へ航海するであらう』

    註四。Dhammapada. 法句經、
    
この譯文は國譯大藏經による。
    註五。Dammikkasutta. 法行經。
    註六。Dhammapada. 法句經。

 千年以上の昔、日本は支那の文明を消化して、しかも、特有の思想感情の法式を保存したやうに、西洋の文明を消化する事はできるであらうか。一つ著しく有望な事實がある。それは日本人の西洋の物質的優勝に對する讃嘆は西洋の道德までは決して及んでゐない事である。東洋の思想家は機械的の進步と倫理上の進步とを混同したり、私共の自慢の文明の道德的弱點を認めなかつたりするやうな重大な誤りはしない。或日本の記者は西洋の事物に關する判斷を、もとの讀者よりももつと廣い範圍の讀者に讀まれる價値があるやうな風に書いて居る、――

 

 『一國民の秩序と不秩序とは空から下る物や地から出る物によるのではない。それはその人民の氣質によつて定まるのである。公衆の氣質が秩序と不秩序の方へ向ふその要は、他利的及ひ自利的動機の分れる點である。もし公衆が重に他利的の考慮によつて動かされる場合には、秩序は保たれるが、自利的であれば、亂雜は免れない。他利的考慮とは正しく義務を守る念を起させるやうな考慮を云ふ、それが行はれると家庭にあつても、社會にあつても、國家にあつても、平和と繁榮を來す。自利的考慮とは利己的な動機から出て來る考慮である。それが力を得ると、爭亂と紛擾は避け難い。家庭の一員としては、私共の義務はその家庭の善福を求むる事であり、國家の一員としては、國家のために働く事である。私共の家族に對してそのためになるやうにとの考を以て家族の事を考へる事、國家に對して、そのためになるやうにとの考を以て國家の事を考へる事、――これは適當に私共の義務を果し、公共的の念慮によつて導かれる事になる。それに反して、國家の事を自分の家庭の事のやうに考へる事、――これは自己的な動機に動かされて、義務の途から離れる事になる。……

 『利己主義は生れつき誰にでもある、それに自由に耽る事は動物になる事である。それ故聖人は義務と中庸と正義と道德の道を說いて、利己の目的を抑へる事と公共の念を勵ます事を敎へたのである。……私共は西洋文明について知つて居る所では、その文明は數百年の間亂雜な狀態で悶えながら進んで、最後に多少の秩序ある狀態に達したのであるが、この秋序と雖も君主と臣下、親と子の間の自然の不變の區別とそれに伴ふ權利義務の原理に基礎を置いてゐないから、人間的野心と目的の發達と共にたえざる變化に影響され易い。利己的野心によつてその人の行爲が支配されるやうな人には至極適當して居るので、日本に於て或種類の政治家が、この制度を採用しようと努めたのは當然である。淺薄な見方から云へば、西洋の社會の形は非常に好もしい、卽ち昔から人間の欲望の發達の結果であるから、その社會の形は奢侈と贅澤の丁度極端を表はして居る。略言すれば、西洋で到達する事物の狀態は人類の利己に義を充分に發揮する事を基として居る、それでその性質を充分に發揚して始めて達せられる。社會の不穩は西洋では念頭に置かれない、しかも、それが直ちに現在の惡い社會狀態の證據であり、又要素でもある。……西洋事物を好む日本人は、同一の條件で日本の歷史を書きたいと主張するのであらうか。彼等は本氣でその國を西洋文明の實驗の新天地としようと考へて居るのであらうか。……

 『東洋では昔から、その國の政府は仁を基として、人民の安寧幸福をはかる事に心を使つた。如何なる政治上の信條を有する者も、野卑無學を利用するために智力を磨くべきだと考へた者はなかつた。……この帝國の住民の大多數は手の勞働で整形を營んで居る。如何に勤勉でも日々の缺乏を充たすだけの儲けは容易には得られない。彼等は平均一日に二十錢ばかりを儲ける。立派な着物を着よう、宏壯な家に住まう、と望む事は問題にならない。名譽評判の地位に達する事は望めない。これ等の貧しい人々は、さらに西洋文明の利益を享けられない事は如何なる罪を犯したためであらうか。……彼等に欲望があつて彼等を向上させる事にならないからだと云ふ臆說で彼等の境遇を說明する者がある。こんな想像は不道理である。彼等も欲望はある、しかしそれを滿足させる力に限りがある、人間としての彼等の義務はそれを制限する、そして肉體的に人間に可能な勞働の分量はそれを限つて居る。機會の許す限り彼等は澤山の物を仕上げる。彼等の勞働の最上最優の物は富める人々のために保留して、最劣最下の物は自らの使用として殘す。しかも人類社會に於て勞働のおかげで存在しない者はない。一人の贅澤な人の欲望を滿足させるためには千人の勞働を必要とする。勞働のおかげで、彼等の文明から思ひついた快樂を享けて居る人人はそのおかげを忘れて勞働者を同胞人類でないやうな取扱をする事は全く奇怪千萬である。しかし西洋の解釋によれば、文明はただ大きな欲望の人々を滿足させる事になるだけである。それは大多數の人々のためにならない、ただ野心家がその目的を果すために競爭する制度に過ぎない。……西洋の制度は國の平和や秩序をひどく亂す物である事は眼ある人に見え、耳ある人に聞える事である。こんな制度の下に日本を置く事は私共をして心配にたへざらしめる。倫理と宗敎が人間の野心に副ふやうに作られる主義を基とした制度は當然利己的な人間の欲望と一致して居る。そして自由平等と云ふ近代の信條に含まれたやうな說は社會のきまつた關係を破壞し禮儀禮節を滅却する。……絕對の自由絕對の平等は得られないから、權利と義務で定めた制限を置くやうに考へられて居る。しかし銘々ができるだけ多くの權利を求めて、できるだけ少い義務を負擔しようとするから、その結果はたえざる諍論と法律上の爭になる。自由平等の主義は、社會階級の區別を覆へして凡ての人々を一つの名ばかりの水平線にもつて行く事で、國家の組織を變へる事に成功するかも知れない、しかし、その主義は決して富と財產の平分をする事はできない。アメリカを見れば分る。……人及びその身分の權利が、富の程度によるやうに作られて居る時には、多數の人々は貧しいから、その權利を確立する事はできない、しかるに富んだ少數の人々はその權利を主張して、社會の認可の下に、仁義道德の命を顧みないで貧しい人々に對して壓制的な義務を要求するであらう。日本に於てこの自由平等の主義を採用する事は善良平和な風俗を害し、人民一般の氣質を苛酷不人情ならしめ、結局大多數の人には不幸の源となるものであらう。……

 『利己的欲望を滿足させる事に實際適して居るから一見して西洋文明は好もしく見えるが、しかしその根本は、人間の願望は自然の法則であると云ふ臆說に基して居るから、結局失望と道德頽癈に終るに相違ない。……西洋の諸國民は、最も深刻な種類の爭亂と興敗を經て、今日の狀態となつて居る、そしてその爭鬪を續けるのがその運命である。丁度今彼等の動機となる要素は幾分平均を保つて居るので、社會狀態は多少秩序を保つて居る。しかし一旦この危い平均の亂れる事があれば、新しい爭鬪と苦惱の時期を經たのち、一時の平靜がもう一度得られるまで、もう一度混亂と變動に陷るであらう。現在の貧しい人々や無力な人々は將來の富んだ人々强い人々となつて、その反對の人々はその逆になるであらう。永久の動亂は彼等の運命である。平和な平等は滅亡した西洋諸國の廢墟と絕滅した西洋の人々の屍の間に建てられるまでは決して到達される事はない』【註七】

    註七。 これは鳥尾(小彌太、得庵)
    子爵の名高い保守的論文を、一八九
    〇(明治二十三年)十一月十九日、
    『ジヤパン・メイル』が飜譯しての
    せし物の抄であるが、全體の力と論
    理が充分に表はれてゐない。その論
    文は全部引用するには長すぎる、そ
    して、『メイル』の立派な飜譯をど
    う云ふ風に拔いての文章の色々な部
    分
を結合しても、その拔いたために、
    その文章の色々な部分を結合して居
    る倫理的宗敎的及び哲學的推埋の鎖
    が弱くなる。さらにこの論文は西洋
    思想に全然影響されない、日本の學
    者の發表した物として注目に値する。
    彼は新しい議會の開會以來日本に起
    つた社會上政治上の動亂を正しく豫
    言した。鳥尾子爵は又佛敎哲學者と
    して名高い。日本陸軍では高い位地
    の人である。 

 

 たしかに、このやうな知覺を以て、日本は自分を嚇かす社會的危險を幾分避けられるであらう。しかし日本に將に來らんとする變化は、道德的衰亡を來す事は避けられないやうに思はれる。その文明が愛他主義に基づいてゐない諸國民と、大きな產業上の競爭をせねばならなくなつたので、日本は、これまでそれが比較的少い事が全く日本生活の不思議な美點となつてゐた凡ての惡德を、結局養成して行かねばならない。國民性はもう惡化しかけて來たが、引續き變化せねばならない。しかし古い日本は、物質的には十九世紀の日本よりも劣つてゐたが、道德的には餘程進んでゐた事を忘れてはならない。日本は道德を合理的にしたあとで、それを本能的にしてゐた。日本は私共の思想家が最も幸福な最も高尙な社會狀態と考へる物を色々、狹い範圍に於てであるが、實現してゐた。複雜な社會の凡ての階級を通じて、日本は公の及び私の義務を會得して實行する事を養成して來たが、その風は西洋ではその比を見出す事はできない。日本の道德的弱點でも、凡ての進んだ宗敎が一致して美德と賞讃して居る物――卽ち家族、團體、及び國家のために一身を犧牲にする事――が極端に進んだ結果であつた。それはパーシヴアル・ロウヱルが、その『極東の魂』【註八】――極東の多少の實際的智識がなければ、その完全な天才が充分に評價ができないその書物――に示してある弱點であつた。日本が社會道德の方面でなした進步は、私共自身の進步より大きいけれども、重に相互にたより合ふと云ふ方面であつた。それで日本の將來の義務は、その人の哲學を日本が賢くも採用したその偉大なる思想家【註九】の敎を忘れない事である――その教は、『最も高い獨居は最も大きな相互依存と伴はれねばならない』と云ふ事、それから一見如何にも相反するやうに見える文句ではあるが、『進步の法則は完全なる別居と同時に完全なる協同の方へ向ふ』と云ふ事である。

    註八。 この名著に對しては私は熱
    心なる賞讃を表はすけれども、その
    結論の多くの物殊に最終の物は、そ
    の同題に對する私自身も信ずる事と
    極端に反して居ゐる事を私は公言せ
    ねばならない。私は日本人は個性を
    もたないとは思はない。ただ日本人
    の個性は西洋人の個性程表面的に現
    はれない、又現はれ方も遙かに遲い。
    私は私共が西洋で『人格』及び『品
    性の力』と云つて居る物の多くは、
    多少修養で變裝された原始的な攻擊
    的傾向の殘存と承認を表はすに過ぎ
    ないと信じて居る。スペンサー氏の
    所謂最高の獨居は單に攻擊的目的に
    應用された力の異常な發達を含んで
    ゐない、しかし西洋の個性が最も普
    通に容易に表はれるのは、他の方法
    よりはむしろこの方法によりはむし
    ろこの方法によるのである。見たと
    ころ、日本の智力界の弱點と人に思
    はせる物は、自我、想像的思想、最
    高種類の認識力の比較的に缺乏して
    居る事である。恐らくさう見える缺
    點は人種的である、極東の人々は、
    歷史を通じて、創造的でなくて、感
    受的であつたらしい。とにかく私は
    佛敎――元來マリヤン種族の信仰―
    ―はそれに對して責任があるとは證
    明されないと思ふ。普通敎育から佛
    敎の勢力を全然除外すゐ事は奨勵す
    べきではなかつたらう、古い佛敎哲
    學者の方がやはり、帝國大學の普通
    の卒業者の才能よりも廣く考へる方
    の遙かに優れた才能を示して居る。
    實際私は佛敎の智力的復活――近代
    科學の最良最高の敎とその高い方の
    信仰とを調和した物――は日本に取
    つても最も重大な結果を及ぼすであ
    らうと信ずる。井上圓了氏と云ふ日
    本の學者は東京に、全くこの目的で
    哲學の專門學校哲學錄、現在の東
    洋大學の前身)を創立した、その學
    校は今のところ有力な學校となるら
    しい。
    註九。 ハーバート・スペンサー。 

 

 日本の靑年は今輕蔑の風を示して居るその過去に對して、日本はいつかは必ず囘顧する事、丁度私共自身が古いギリシヤの文明を囘顧するやうであらう。簡易な樂しみに對する才能の忘れられた事、人生の純な喜びに對する感性のなくなつた事、自然との古い愛すべき聖い親密な交際、それを反映して居る今はない驚くべき藝術、を惜むやうになるであらう。その當時世界が如何に遙かにもつと輝いて美しく見えたかを想ひ出すであらう。古風な忍耐と、犧牲、古い禮讓、古い信仰の深い人間の詩――日本は悔むべき物が澤山あらう。日本は多くの物を見て驚くであらうが、又殘念に思ふであらう。恐らく最も驚く物は昔の神々の顏であらう、何故なればその微笑は一度は自分の微笑であつたのだから。

[やぶちゃん注:「京都」ハーンが最初に京都を訪れたのは、熊本時代の、明治二五(一八九二)年八月と思われる。本篇の執筆時期の上限(本書刊行は明治二十七年九月)がここから推定出来るが、ここでハーンは、このエピソードを「それは昔の事であつた、しかしその當時浮んだ考は今もやはり私には本當と思はれる」と述べている点に注意されたい。刊行直前に執筆したとしても、たかだか二年前のことで、およそ「昔の事」ではない。仮に、これが、実は、京都ではなく、来日直後の横浜での体験であったとしても四年前である(無論、その間の鎌倉や松江での体験の可能性もある。多少とも日本を知る欧米人には「京都」をロケーションとした方が表面上のリップ・サーヴィスとなる気もする)。これは多分に文学的操作とも言えようが、この辺り、ハーンの欧米読者に対する、『自分は、ある種の日本精神を、諸君よりもよく知っている』という優越感の肥大を垣間見ることが出来るようにも私には思われるのである。

「私は大層小さいお寺の入口の前の地藏を見にわきへ曲つた」底本の国立国会図書館蔵本は、昔の不届きな閲覧者による書き込みが甚だしくあるが、その人物によって、この「に」には削除線が引かれて右に「て」と訂正がなされてある(ここの左ページの後ろから四行目)。しかし、そうだろうか? これは「に」でよい。その地蔵像を見つけて、その表情に、ぐっと引かれ、それを――とくと見るため「に脇へ曲つた」――のである。「見て」では、地蔵が単に曲がるための起点の意にも採れてしまい、以下の地蔵の描写とジョイントが逆に悪くなる。この図書館の本に書き込みをした不届き者の日本語のレベルの低さが良く分かるというのものだ。まさか、数十年も経た後に、このネット上で、この一介の藪「野人」たる私に、その書き込みと知的レベルの低さを指弾されるとは、彼は夢にも思っていないであろう。さても……この不届き者が今も生きていて、この私の注を読んだら……と思うと、これ、すこぶる愉快ではある。反論があるなら、それが「この書き込み」をした「あなた」なら、住所氏名及び人物を明かして私に手紙を寄越したまえ。それで「あなた」が書き込みをしたことが判明する。その時は速やかに国立国会図書館に書き込みをした「あなた」を不届き者として、それらの情報を総て通告しよう

「戰場に於て千々の敵に克つよりは獨り己に克つもの、彼こそ最上の戰勝者なれ」注に示されたように「法句經」(「ほつくぎやう(ほっくぎょう)」:パーリ語「ダンマパダ」(Dhammapada))。原始仏典の一つで釈迦の指針的な語録の形式を取った経典で標題は「法(真理)についての句(言葉)」といった意味を持つ。原始仏典の最古層の基礎経典)の「述千品法句第十六十有六章」の中の(引用底本は「CBETA
漢文大藏經」の「大正新脩大藏經」の「第一巻」
を用いたが、一部の漢字を変更した。以下同)、

   *

千千爲敵 一夫勝之 未若自勝 爲戰中上

   *

に基づく。平井呈一氏の訳を一部参考にしながら訓読すると、

   *

千千(せんせん)を敵と爲(な)し、一夫(いつぷ)にて之れに勝つも、未だ自(みづか)ら勝つの、戰中の上(じやう)たるに、若(し)かず

   *

である。因みに、青空文庫版荻原雲來訳註「法句經」(底本・昭和一〇(一九三五)年岩波文庫刊)には、「第八 千の部」「一〇三」に、

   *

戰場に於て千々の敵に克つよりも、一の己に克つ人こそ實に戰士中の最上と云ふべけれ。

   *

と訳されてある。

「天も魔王も梵天もこの常に己を御し自ら制する人の勝利を轉じて敗亡となすこと能はず」同じく「法句経」の前掲注の箇所に続いて、

   *

千千爲敵 一夫勝之 未若自勝 爲戰中上

自勝最賢 故曰人雄 護意調身 自損至終

雖曰尊天 神魔梵釋 皆莫能勝 自勝之人

   *

と出る。同じく平井呈一氏の訳を一部参考にしながら、当該箇所だけを訓読すると、

   *

尊天(そんてん)・神(じん)・魔(ま)・梵(ぼん)・釋(しやく)と曰ふと雖(いへど)も、皆(みな)能(よ)く、自勝(じしよう)の人に勝つ莫(な)し。

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である。同前の青空文庫版荻原雲來訳註「法句經」では同「一〇五」として(漢字の一部を正字化した)、

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神も健闥婆も亦魔羅も及び梵も、斯かる人の勝利には反抗する能はず。

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と訳す(因みに、提示したその前の箇所「自勝最賢 故曰人雄 護意調身 自損至終」の部分は荻原は「一〇四」とし、『己に克つを勝れたりとす、他の諸人に克つに非ず、自己を從へ、所行常に節制ある人の勝利には』とこの後の句に続くように書かれてある)。

「深い靜かな水のやうに落ちついて」注に示された「法行經」とは愛読する「松岡正剛の千夜千冊」の千四百三十六夜の「礪波護『隋唐の仏教と国家』」に、『西晋の王浮が著した『老子胡化経』に対して、仏教側が偽作したのは東晋時代の『清浄法行経』である。老子・孔子・顔回はそれぞれ菩薩の権現だったとするもので、これまたとんでもなくあやしい』とある、それか? 当該経の本文を見出せないが、検索の結果、「現代語訳長阿含經」の「註解索引」のページに、「深淵澄靜清明vol. 2, p. 263, n. 59 DĀ 4, 闍尼沙經), 『月刊アーガマ』issue 65.という酷似の文字列があるのは見出せた。平井呈一氏の訳では『譬(たと)へば深淵(じんえん)の、澄浄心清明(ちょうじょうしょうみょう)なるが如(ごと)き』とある。

「寂滅に勝れる樂あるなし」平井氏の訳『此(これ)滅(めつ)するを楽(らく)となす』に從うなら、これはやはり先に出た「法句経」の冒頭、無常品第一二十有一章」の、

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無常品者 寤欲昏亂 榮命難保 唯道是眞

睡眠解寤 宜歡喜思 聽我所

撰記佛言 所行非常 謂興衰法

夫生輙死 此滅爲樂 譬如陶家

埏埴作器 一切要壞 人命亦然

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と出る中の「此滅爲樂」(此れ滅するを樂と爲す)である。ただ、ハーンは「法句経」とするものの、これは「涅槃経」の知られた、

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諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂

   *

「諸行無常偈」の最後の句と言った方が通りがよいように思われる。

「無何有之鄕」通常なら、訓じて「むかうのさと」と読むものが知られる。原文“Nowhere”(どこにもない場所/どこでもないところ)。訳語の方は「莊子」の「逍遙遊第一」に出る語で、道家の無為自然の理想郷(ユートピア)を指す。

「註四。Dhammapada. 法句經、この譯文は國譯大藏經による。」ここは「註四。Dhammapada. 法句經。(譯者註。この譯文は國譯大藏經による。)」でなくてはおかしい

「鳥尾(小彌太、得庵)子爵」鳥尾小弥太(とりおこやた 弘化四(一八四八)年~明治三八(一九〇五)年)は陸軍中将正二位勲一等子爵で政治家。以下、ウィキの「鳥尾小弥太」より引く。『号は得庵居士、不識道人など』。『萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)・中村宇右衛門敬義の長男として生まれ』、安政五(一八五八)年に『父とともに江戸へ移り、江川英龍に砲術を学ぶ』。万延元(一八六〇)年に帰藩して家督を相続、文久三(一八六三)年にかの長州「奇兵隊」に入隊したが、あまりに乱暴者であったために『親から勘当され、自ら鳥尾と名を定めた』(後の「エピソード」に諸説が載る)。『長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦する。戦後は和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している』。『維新後は兵部省に出仕して陸軍少将、のち陸軍中将に昇進した。西南戦争では、大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。陸軍大輔、参謀局長、近衛都督などの要職を歴任』したが、明治一三(一八八〇)年に『病気のために一切の職を辞し、君権と民権が互いに尊重しあう状態を理想とする『王法論』を執筆した』。『陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流派を形成』、明治一四(一八八一)年の『開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の三浦梧楼・谷干城・曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。その後は枢密顧問官や貴族院議員などを勤めたものの、再び陸軍の要職に就くことはなかった』。明治一七(一八八四)年には『維新の功により子爵を授けられ』た。その後、欧州視察に出て、帰国後の明治二一(一八八八)年には東洋哲学会を、翌明治二二(一八八九)年には『山岡鉄舟や川合清丸、松平宗武らによる日本国教大道社、貴族院内における保守党中正派の結成』するなど、『国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた』。明治三一(一八九八)年には『大日本茶道学会の初代会長に就任』、明治三四(一九〇一)年に青少年教育を目的に「統一学」なるものを起こし、翌明治三五(一九〇二)年には施設教育機関「統一学舎」を設立した。『晩年は一切の職を辞し、仏教を信奉する参禅生活に入った』。以下、「政治姿勢」の項。『貴族院内においては、懇話会・月曜会に属しながらも、常に藩閥政府への対抗姿勢を貫いた。自由党と立憲改進党を論敵と見なし、政府の西欧化政策、キリスト教への批判を展開した。また佐々木高行や元田永孚ら宮廷派、谷ら陸軍反主流派を合して保守党中正派を結成した。民権運動や議会主義を批判して藩閥政府に反対的な立場を取るなど、保守中正を唱えて機関誌『保守新論』を発行した』。『小弥太の政治論は儒教に由来し、易姓革命を容認するがそれが日本の国体(天皇制)と矛盾することを見逃している。彼は法律家や理論家ではなく、個人の心術のみを重んじ意見の当否を問題にしない、と鳥谷部春汀は評している』。以下、「エピソード」の項。『幕末の奇兵隊時代、変名として「鳥尾小弥太」を称した。隊士が集まった夜話の際に、同姓者が多い「中村」では人間違いで困ると話したところ、系図に詳しい一人が、中村姓の本姓には「鳥尾」姓があるとしてこれを選び、さらに武張った印象を与えるとして「小弥太」を選んだ。これは一夜の冗談のつもりだったが、翌日、ある隊士が隊長へ提出する連署の書面に「鳥尾小弥太」と悪戯で署名したので、これを契機として変名を名乗ったと伝わる。長州藩主・毛利敬親から「鳥尾小弥太」宛の感状を拝領するにおよんで正式に改名したとも、また、勤王活動の累が家族に及ぶことを畏れた父が勘当したので変名を名乗った、などの説が伝わっている』。『現在の東京都文京区関口付近に本邸を構えていた鳥尾は、西側の鉄砲坂があまりに急坂で通行人の難渋する様子を実見し、私財を投じて坂道を開いた。感謝した地元の人々によって鳥尾坂と名づけられ、坂下には坂名を刻んだ石柱』『が残っている』。『統一学舎を設立した鳥尾は、京都の別荘・一得庵に関西支部の設置を準備したものの、実現させることなく死去した。現在、旧別荘近くの高台寺内に同学舎による顕彰碑が建立されている』。『幕末期、当時奇兵隊少年隊の陣屋であった松林寺(山口県下関市吉田)に駐屯していた隊長の鳥尾は、「我が国は神国であるにもかかわらず、仏教が年に盛んになって、石地蔵までが氾濫しているのはけしからん」として激昂し、隊士を引き連れて法専寺(山口県下関市吉田)境内にあった』六体の『地蔵の首を切り落としている。(首切り地蔵)なお、現在は地蔵の首の中心に鉄棒を打ち込み、セメントで首をつないで補修がなされている』(これは地蔵好きのハーンは知らなかったのであろう。知っていれば、彼の扱いは大分、変わった気がする。それとも……ハーンはそれを知っていたのであろうか?……そもそもが、本篇の冒頭は愛らしい「地蔵」のシチュエーションから始まっているのである……)。明治六(一八七三)年の『第六局長時代、「東京湾海防策」を建議して同湾を囲繞する沿岸の砲台建設を提言している。これにより同湾の富津沖に海堡の建設がなされた』。『日清戦争当時、日本軍の後背を脅かした清国騎兵に対抗するため、満州の馬賊への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される』。『明治期の教育者・下田歌子に禅学を教授している』。『旧幕臣の中根香亭とは書画骨董の趣味を同じくし、『香亭雅談』には好事家として言及されている』。『封建制度の終焉となった廃藩置県は、鳥尾と野村靖』(吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒した、同じ旧長州藩士。維新後は宮内大丞・外務大書記となって岩倉使節団の一員として渡欧した)『による会話を山縣に提起したことが発端とする説がある』。明治三三(一八九〇)年の帝国議会の際には、『司法大臣・山田顕義がフランス人法律家の任用を可能とする改正案を提議したところ、当初、鳥尾は強硬に反対したものの、翌日の議会では賛成に転じた。この変節には他の議員も驚いたが、山田が涙を揮って苦心を説いたことが変節の理由であり、これに動かされて変節するに及んだという。実際、このような話は他にも沢山あったらしい』。『当時の日本人の外国における面白エピソード集』である「赤毛布(あかげっと)」(明治三十三年)には『「鳥尾小弥太の苺代」という項がある。欧州外遊中の鳥尾がパリにて季節はずれの苺を散々食べ散らかし、請求された予想外の代金に驚愕するエピソードが収められている』。彼の『墓所は兵庫県加古川市に存するが、これは父が参勤交代の途次、加古川の旅館菊屋で死亡したためである。維新後に墓参に訪れた際、父の最期を看取った旅館の老婦人から、「他は何も気にかかることはないが、江戸に残してきた息子のことが気にかかる」との遺言を聞かされた鳥尾は、「自分の死後は父の墓に埋葬せよ」と遺言している』とある。

「名高い保守的論文」この全原文は現在、鳥尾の文集である「得庵全書」に「時事談」という標題で掲載されており、国立国会図書館近代デジタルライブラリーのこちらの画像で全文を読むことが出来る。平井氏は、ここの訳注で、その鳥尾の『諤々清直の文勢は、よく当時の思潮の動向を伝えるものと思われる』として、同論文のここでハーンが引いている最初の部分(原論文の第一節の途中にある)を引用しておられる。私も平井氏に準じて、同箇所を先のリンク先を底本として視認して引いておくことにする(平井氏のそれは新字カタカナ交りの文で、その底本は私の底本としたものよりもより元には近いものであろうが、以下とは微妙に違う)。

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一國の治亂は、天より降り來るにも非ず、地より湧き出づるにも非ず、全く一國の人心が、亂るれば亂となり。一國の人心が、治まれば治となる。其の人心治亂の機は、公心と私心との別れのみ。人々私心を主として働けば、亂るゝなり。人々公心を主として行へば、治まるなり。私とは、身欲身勝手の心を言ふ。此身欲身勝手の心、即ち私心は、家に居ては必らず家を亂る。郷に居ては、必らず鄕を亂る。國に居ては、必らず國を亂ること請合なり。公心とは、義を取るの心をいふ。此の義を取るの心、即ち公心は、家に居ては家を利し、郷に居ては鄕を利し、國に居ては國を利す。夫れ人、家をなす、其家を思ふの心あるは當然なり。夫れ人、國をなす、其國を思ふの心あるは當然なり。乃ち其家を思ふの心を以て家事に從ひ、其國を思ふの心を以て、國事に從ふは、是れ公義なり。是故に家事を以て、家事とするは、公心なり。其國事を以て家事とするに至ては、不義なり。私心なり。私心を以ての故に、國事を以て家を利せんとす。是れこれを義を棄つるといふ。況や一己自身の身欲身勝手の心を以て、國事を自在にせんと欲するものをや。當に知るべし、國に大亂の起る、悉く此の因緣に由來せざるは無きことを。

   *

「パーシヴアル・ロウヱル」アメリカ人天文学者にして日本研究者であったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)。ウィキの「パーシヴァル・ローウェル」より引く。『ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家であったが、数学の才能があり、火星に興味を持って天文学者に転じた。当時屈折望遠鏡の技術が発達した上に、火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が当時高まっていた流れもあった。私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込んだ。火星人の存在を唱え』、一八九五年の『Mars」(「火星」)など火星に関する著書も多い。「火星」には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されている。運河の一部は二重線(平行線)からなっていた』。三百枚に近い『図形と運河を識別していたが、火星探査機の観測によりほぼすべてが否定されている』。『最大の業績は、最晩年の』一九一六年に『惑星Xの存在を計算により予想した事であり』、一九三〇年に『その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより冥王星が発見された。冥王星の名』“Pluto”には、ローウェルのイニシャルである“P.L.”『の意味もこめられている』とある。一八八九年から一八九三年(明治二十二年から二十六年で、ハーンは明治二十三年に来日しているから、殆んどハーンと同時期の日本を体験している)にかけて、明治期の日本を五回も訪れ、通算約三年間、滞日したことになる。『来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い』(下線やぶちゃん。以下同じ。因みに、私はモースの『日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』を電子化注しているが、フェノロサとビゲローは、モースによって来日したと言ってもよい)。しかし、『日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた』とあるものの、『日本語を解するバジル・ホール・チェンバレンはこの説に批判的であり、ローウェルの『極東の魂』を読んで日本に興味を持ったラフカディオ・ハーンもこの没個性論には否定的だった』と注にあって、ハーンの批判の核心が、頗るよく読める。

「極東の魂」ローウェルが一八八八 年に刊行した“The Soul of the Far East”。

「スペンサー」「ハーバート・スペンサー」既注

「マリヤン種族」原文“an Aryan race”。アーリア人のこと。広義のインド北西部を出自とした民族を指す。仏教の原型であるバラモン教を信仰した。

「井上圓了」(安政五(一八五八)年~大正八(一九一九)年)は仏教哲学者で教育家。ウィキの「井上円了」より引く。『多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、後に東洋大学となる哲学館を設立した。また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著した。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた』。『越後長岡藩領の三島郡来迎寺村(現・新潟県長岡市、合併前は新潟県三島郡越路町)にある真宗大谷派の慈光寺に生まれ』、十六歳で『長岡洋学校に入学、洋学を学』び、明治一〇(一八七七)年に『京都・東本願寺の教師学校に入学。翌年、東本願寺の国内留学生に選ばれて上京し、東京大学予備門入学。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ』。明治一八(一八八五)年、『同大学を卒業し、著述活動を開始する。また、哲学普及のため、哲学館(本郷区龍岡町、現在の文京区湯島にある麟祥院内。その後哲学館大学を経て現在は東洋大学として現存)および哲学館の中等教育機関として京北中学校(第二次世界大戦後に東洋大学から独立、学校法人京北学園となり、現在は東洋大学の附属校)を設立』した。明治三八(一九〇五)年に『哲学館大学学長・京北中学校校長の職を辞し、学校の運営からは一歩遠ざか』り、『その後は、中野にみずからが建設した哲学堂(現・中野区立哲学堂公園)を拠点として、生涯を通じておこなわれた巡回講演活動が井上による教育の場としてあり続けた』。『遊説先の満州・大連において、脳溢血のため』に『急死するまで、哲学や宗教についての知識をつたえるとともに、迷信の打破をめざして活動した』気骨ある学者であった。『円了は、あらゆる学問の基礎である哲学を学ぶことが日本の近代化にとって重要であるとの観点から、その教育に大きな力を注いだ。「諸学の基礎は哲学にあり」という教育理念のもと』、明治二〇(一八八七)年に『麟祥院にて哲学館を創立し、これは哲学館大学を経て東洋大学となった。円了が生涯をかけておこなった全国巡回講演は、哲学館に専門科を設け高等教育機関としていくための寄付を募る活動として始められたものでもあった』。なお、実は明治二四(一八九一)年五月三十日に井上円了は松江に来訪し、ハーンを訪ねており(西田千太郎同道)、顔見知りであった(「八雲会」の「松江時代の略年譜」に拠る)『哲学者として著名な円了であるが、近代的な妖怪研究の創始者としても知られ、オカルティズムを廃した科学的見地から研究を行』い、『円了は『妖怪学』『妖怪学講義』などで』、『それぞれの妖怪についての考察を深め、当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類し、例えば』、『仮怪を研究することは自然科学を解明することであると考え、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至った』。『こうした研究から、円了は「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれた。彼の後の体系的な妖怪研究は、江馬務、柳田國男の登場を待つこととな』るが、『いわゆる「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明したのも彼である』。円了によれば、「妖怪」は、

 「實怪」と「虛怪」

に分類され、「實怪」はさらに、

   「眞怪」

   「假怪(かくわい)」

に、「虛怪」はさらに、

       「僞怪」

       「誤怪」

にそれぞれ分けられるとする。そして、

   「眞怪」は「超理的妖怪」

であり、宇宙の万物で「妖怪」でないものは無く、水も小石も火も水も「妖怪」であるとし、

   「假怪」は「自然的妖怪」

で、さらにそれが、

     「物理的妖怪」(人魂や狐火など)

     「心理的妖怪」(幽霊や憑霊など)

とに分かれるとする。一方、

       「僞怪」は「人爲的妖怪」

であって、利欲その他のために人間が作り上げた妖怪と規定し、洒落のように、

       「誤怪」は「偶然的妖怪」

であるとする。これは現代のシミュラクラで、例えば、暗夜に見る石地蔵を「鬼」、枯尾花を「幽霊」とする類いの「妖怪」に相当するものとした。そうして、世間で称するところの妖怪は、

「僞怪」五割/「誤怪」三割/「假怪」二割

であるとして、この三種、妖怪現象全体の八割は科学的に説明が出来るとし、残る二割の「眞怪」の研究に依って宇宙絶対の秘密が悟得出来る、とした。

 なお、『哲学による文明開化を志向していた円了は、様々な理由で大学教育を受けられない「餘資なく、優暇なき者」でも学べる場を作るべきであるという考え方から』明治二一(一八八八)年(年)に『館外員制度」を設け、「哲学館講義録」を発行していた。これは日本における大学通信教育の先駆けである。また、哲学館事件』(同ウィキをリンクさせておく)『を経て、円了は西洋のように学校教育が終了した後も自由に学問を学ぶことが重要であるとの考え方から日本全国を行脚し、各地で哲学と妖怪学の講演会を行うようになった。これは生涯教育の提唱であり、波多野完治の提唱よりも早い段階での実践であった。円了の提唱した生涯教育は「哲学館講義録」と連携して、日本各地のみならず中国大陸などにも「館外員」を増やすこととなった』とある。ここでウィキの引用に止めおくのは、本当はオリジナルに書き出したら止まらないから。私は多分、あなたより妖怪学教授井上円了のファンだから、である。

「日本は悔むべき物が澤山あらう。日本は多くの物を見て驚くであらうが、又殘念に思ふであらう。恐らく最も驚く物は昔の神々の顏であらう、何故なればその微笑は一度は自分の微笑であつたのだから」……この言葉はまさに真実であったと私は痛感する。私たち日本人は自分の「微笑する笑顔」こそ忘れてしまったのである…… 

 

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   As I pen these lines, there returns to me the vision of a Kyōto night. While passing through some wonderfully thronged and illuminated street, of which I cannot remember the name, I had turned aside to look at a statue of Jizō, before the entrance of a very small temple. The figure was that of a kozō, an acolyte,— a beautiful boy; and its smile was a bit of divine realism. As I stood gazing, a young lad, perhaps ten years old, ran up beside me, joined his little hands before the image, bowed his head and prayed for a moment in silence. He had but just left some comrades, and the joy and glow of play were still upon his face; and his unconscious smile was so strangely like the smile of the child of stone that the boy seemed the twin brother of the god. And then I thought: 'The smile of bronze or stone is not a copy only; but that which the Buddhist sculptor symbolizes thereby must be the explanation of the smile of the race.'

   That was long ago; but the idea which then suggested itself still seems to me true. However foreign to Japanese soil the origin of Buddhist art, yet the smile of the people signifies the same conception as the smile of the Bosatsu,— the happiness that is born of self-control and self- suppression. 'If a man conquer in battle a thousand times a thousand and another conquer himself, he who conquers himself is the greatest of conquerors.' 'Not even a god can change into defeat the victory of the man who has vanquished himself.' [4] Such Buddhist texts as these — and they are many — assuredly express, though they cannot be assumed to have
created, those moral tendencies which form the highest charm of the Japanese character. And the whole moral idealism of the race seems to me to have been
imaged in that marvelous Buddha of Kamakura, whose countenance, 'calm like a deep, still water' [5] expresses, as perhaps no other work of human hands can
have expressed, the eternal truth: 'There is no higher happiness than rest.' [6] It is toward that infinite calm that the aspirations of the Orient have been turned; and the ideal of the Supreme Self-Conquest it has made its own. Even now, though agitated at its surface by those new influences which must sooner or later move it even to its uttermost depths, the Japanese mind retains, as compared with the thought of the West, a wonderful placidity. It dwells but little, if at all, upon those ultimate abstract questions about which we most concern ourselves. Neither does it comprehend our interest in them as we desire to be comprehended. 'That you should not be indifferent to religious speculations,' a Japanese scholar once observed to me, 'is quite natural; but it is equally natural that we should never trouble ourselves about them. The philosophy of Buddhism has a profundity far exceeding that of your Western theology, and we have studied it. We have sounded the depths of speculation only to fluid that there are depths unfathomable below those depths; we have voyaged to the farthest limit that thought may sail, only to find that the horizon for ever recedes. And you, you have remained for many thousand years as children playing in a stream but ignorant of the sea. Only now you have reached its shore by another path than ours, and the vastness is for you a new wonder; and you would sail to Nowhere because you have seen the infinite over the sands of life.'

   Will Japan be able to assimilate Western civilization, as she did Chinese more than ten centuries ago, and nevertheless preserve her own peculiar modes of thought and feeling? One striking fact is hopeful: that the Japanese admiration for Western material superiority is by no means extended to Western morals. Oriental thinkers do not commit the serious blunder of confounding mechanical with ethical progress, nor have any failed to perceive the moral weaknesses of our boasted civilization. One Japanese writer has expressed his judgment of things Occidental after a fashion that deserves to be noticed by a larger circle of readers than that for which it was originally written: 

 

   'Order or disorder in a nation does notdepend upon some-thing that falls from the sky or rises from the earth. It isdetermined by the disposition of the people. The pivot on which the public disposition turns towards order or disorder is the point where public and private motives separate. If the people be influenced chiefly by public considerations, order is assured; if by private, disorder is inevitable. Public considerations are those that prompt the proper observance of duties; their prevalence signifies peace and prosperity in the case alike of families, communities, and nations. Private considerations are those suggested by selfish
motives: when they prevail, disturbance and disorder are unavoidable. As members of a family, our duty is to look after the welfare of that family; as units of a nation, our duty is to work for the good of the nation. To regard our family affairs with all the interest due to our family and our national affairs with all the interest due to our nation,— this is to fitly discharge our duty, and to be guided by public considerations. On the other hand, to regard the affairs of the nation as if they were our own family affairs,— this is to be influenced by private motives and to stray from the path of duty...

   'Selfishness is born in every man; to indulge it freely is to become a beast. Therefore it is that sages preach the principles of duty and propriety, justice and morality, providing restraints for private aims and encouragements for public spirit... What we know of Western civilization is that it struggled on through long centuries in a confused condition and finally attained a state of some order; but that even this order, not being based upon such principles as those of the natural and immutable distinctions between sovereign and subject, parent and child, with all their corresponding rights and duties, is liable to constant change according to the growth of human ambitions and human aims. Admirably suited to persons whose actions are controlled by selfish ambition, the adoption of this system in Japan is naturally sought by a certain class of politicians. From a superficial point of view, the Occidental form of society is very attractive, inasmuch as, being the outcome of a free development of human desires from ancient times, it represents the very extreme of luxury and extravagance. Briefly speaking, the state of things obtaining in the West is based upon the free play of human selfishness, and can only be reached by giving full sway to that quality. Social disturbances are little heeded in the Occident; yet they are at once the evidences and the factors of the present evil state of affairs.... Do Japanese enamored of Western ways propose to have their nation's history written in similar terms? Do they seriously contemplate turning their country into a new field for experiments in Western civilization? ...

   'In the Orient, from ancient times, national government has been based on benevolence, and directed to securing the welfare and happiness of the people.
No political creed has ever held that intellectual strength should be cultivated for the purpose of exploiting inferiority and ignorance... The inhabitants of this empire live, for the most part, by manual labor. Let them be never so industrious, they hardly earn enough to supply their daily wants. They earn on the average about twenty sen daily. There is no question with them of aspiring to wear fine clothes or to inhabit handsome houses. Neither can they hope to reach positions of fame and honor. What offence have these poor people committed that they, too, should not share the benefits of Western civilization? ... By some, indeed, their condition is explained on the hypothesis that their desires do not prompt them to better themselves. There is no truth in such a supposition. They have desires, but nature has limited their capacity to satisfy them; their duty as men limits it, and the amount of labor physically possible to a human being limits it. They achieve as much as their opportunities permit. The best and finest products of their labor they reserve for the wealthy; the worst and roughest they keep for their own use. Yet there is nothing in human society that does not owe its existence to labor. Now, to satisfy the desires of one luxurious man, the toil of a thousand is needed. Surely it is monstrous that those who owe to labor the pleasures suggested by their civilization should forget what they owe to the laborer, and treat him as if he were not a fellow-being. But civilization, according to the interpretation of the Occident, serves only to satisfy men of large desires. It is of no benefit to the masses, but is simply a system under which ambitions compete to accomplish their aims.... That the Occidental system is gravely disturbing to. the order and peace of a country is seen by men who have eyes, and heard by men who have ears. The future of Japan under such a system fills us with anxiety. A system based on the principle that ethics and religion are made to serve human ambition naturally accords with the wishes of selfish individuals; and such theories as those embodied in the modem formula of liberty and equality annihilate the established relations of society, and outrage decorum and propriety.... Absolute equality and absolute liberty
being unattainable, the limits prescribed by right and duty are supposed to be set. But as each person seeks to have as much right and to be burdened with as little duty as possible, the results are endless disputes and legal contentions. The principles of liberty and equality may succeed in changing the organization of nations, in overthrowing the lawful distinctions of social rank, in reducing all men to one nominal level; but they can never accomplish the equal distribution of wealth and property. Consider America.... It is plain that if the mutual rights of men and their status are made to depend on degrees of wealth, the majority of the people, being without wealth, must fail to establish their rights; whereas the minority who are wealthy will assert their rights, and, under society's sanction, will exact oppressive duties from the poor, neglecting the dictates of humanity and benevolence. The adoption of these principles of liberty and equality in Japan would vitiate the good and peaceful customs of our country, render the general disposition of the people harsh and unfeeling, and prove finally a source of calamity to the masses....

   'Though at first sight Occidental civilization presents an attractive appearance, adapted as it is to the gratification of selfish desires, yet, since its basis is the hypothesis that men' 's wishes constitute natural laws, it must ultimately end in disappointment and demoralization.... Occidental nations have become what they are after passing through conflicts and vicissitudes of the most serious kind; and it is their fate to continue the struggle. Just now their motive elements are in partial equilibrium, and their social condition' is more or less ordered. But if this slight equilibrium happens to be disturbed, they will be thrown once more into
confusion and change, until, after a period of renewed struggle and suffering, temporary stability is once more attained. The poor and powerless of the present may become the wealthy and strong of the future, and vice versa. Perpetual disturbance is their doom. Peaceful equality can never be attained until built up among the ruins of annihilated Western' states and the ashes of extinct Western peoples.'[7]

 

   Surely, with perceptions like these, Japan may hope to avert some of the social perils which menace her. Yet it appears inevitable that her approaching transformation must be coincident with a moral decline. Forced into the vast industrial competition of nation's whose civilizations were never based on altruism, she must eventually develop those qualities of which the comparative absence made all the wonderful charm of her life. The national character must continue to harden, as it has begun to harden already. But it should never be forgotten that Old Japan was quite as much in advance of the nineteenth century morally as she was behind it materially. She had made morality instinctive, after having made it rational. She had realized, though within restricted limits, several among those social conditions which our ablest thinkers regard as the happiest and the highest. Throughout all the grades of her complex society she had cultivated both the comprehension and the practice of public and private duties after a manner for which it were vain to seek any Western parallel. Even her moral weakness was the result of an excess of that which all civilized religions have united in proclaiming virtue,— the self-sacrifice of the individual for the sake of the family, of the community, and of the nation. It was the weakness indicated by Percival Lowell in his Soul of the Far East, a book of which the consummate genius cannot be justly estimated without some personal knowledge of the Far East. [8]    The progress made by Japan in social morality, although greater than our own, was chiefly in the direction of mutual dependence. And it will be her coming duty to keep in view the teaching of that mighty thinker whose philosophy she has wisely accepted [9],— the teaching that 'the highest individuation must be joined with the greatest mutual dependence,' and that, however seemingly paradoxical the statement, 'the law of progress is at once toward complete separateness and complete union.

 

   Yet to that past which her younger generation now affect to despise Japan will certainly one day look back, even as we ourselves look back to the old Greek civilization. She will learn to regret the forgotten capacity for simple pleasures, the lost sense of the pure joy of life, the old loving divine intimacy with nature, the marvelous dead art which reflected it. She will remember how much more luminous and beautiful the world then seemed. She will mourn for many things,— the old-fashioned patience and self-sacrifice, the ancient courtesy, the deep human poetry of the ancient faith. She will wonder at many things; but she will regret. Perhaps she will wonder most of all at the faces of the ancient gods, because their smile was once the likeness of her own. 

 

4
   Dhammapada.

5
   Dammikkasutta.

6
   Dhammapada.

7
   These extracts from a translation in the Japan Daily Mail, November 19, 20, 1890, of Viscount Torio's famous conservative essay do not give a fair idea of the force and logic of the whole. The essay is too long to quote entire; and any extracts from the Mail's admirable translation suffer by their isolation from the singular chains of ethical, religious, and philosophical reasoning which bind the Various parts of the composition together. The essay was furthermore remarkable as the production of a native scholar totally uninfluenced by Western thought. He correctly predicted those social and political disturbances which have occurred in Japan since the opening of the new parliament. Viscount Tōrio is also well known as a master of Buddhist philosophy. He holds a high rank in the Japanese army.

8
   In expressing my earnest admiration of this wonderful book, I must, however, declare that several of its conclusions, and especially the final ones, represent the extreme reverse of my own beliefs on the subject. I do not think the Japanese without individuality; but their individuality is less superficially apparent, and reveals itself much less quickly, than that of Western people. I am also convinced that much of what we call 'personality' and 'force of character' in the West represents only the survival and recognition of primitive aggressive tendencies, more or less disguised by culture. What Mr. Spencer calls the highest individuation surely does not include extraordinary development of powers adapted to merely aggressive ends; and yet it is rather through these than through any others that Western individuality most commonly and readily manifests itself. Now there is, as yet, a remarkable scarcity in Japan, of domineering, brutal, aggressive, or morbid individuality. What does impress one as an apparent weakness in Japanese intellectual circles is the comparative absence of spontaneity, creative thought, original perceptivity of the highest order. Perhaps this seeming deficiency is racial: the peoples of the Far East seem to have been throughout their history receptive rather than creative. At all events I cannot believe Buddhism
originally the faith of an Aryan race ― can be proven responsible. The total exclusion of Buddhist influence from public education would not seem to have been stimulating; for the masters of the old Buddhist philosophy still show a far higher capacity for thinking in relations than that of the average graduate of the Imperial University. Indeed, I am inclined to believe that an intellectual revival of Buddhism a harmonising of its loftier truths with the best and broadest teachings of modern science would have the most important results for Japan. A native scholar, Mr. Inouye Enryō, has actually founded at Tōkyō with this noble object in view, a college of philosophy which seems likely, at the present writing, to become an influential institution.

9
   Herbert Spencer.

2015/12/16

俺は

くだらねえ鬱面なんざ、してるわけにはいかねえ! ってこった!

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十六章 日本人の微笑 (四)

 

         

 

 しかし日本人の微笑を、永久に魂の假面としてついて居る『冷笑』の一種と想像してはならない。行狀に關するその他の事と同じく、社會の種々の階級と共に變化する作法によつてこの微笑も加減されて居る。一般に、昔の武士は凡ての場合に微笑して居ると云ふわけには行かなかつた、長上及び近親に對するために愛嬌を保留して置いた、そして目下に對しては、嚴しき無口を守つてゐたやうに思はれる。神官のいかめしい事は誰も知つて居る、それから數百年間孔子の敎の嚴肅なる事は種々の役人の儀容禮節によく見えてゐた。昔から貴族は更に一層の無口を裝ふてゐたそして位に伴ふいかめしさは次第に階級の上位に達する程濃厚になつて、遂に、何人も見てはならない天子樣の畏れ多い周圍の處まで達してゐた。しかし私的生活に於ては如何に高位の人の行狀にもそれぞれ愛想のよいくつろぎがあつた、そして今日でも、お話しにならぬ程近代化して居る人の多少の例外はあるが、貴族、判事、高僧、尊い大臣、將校、何れも勤めの合間に、家では古への丁寧な愛すべき風習に歸るのである。

 會話を明るくする微笑は、それ自身では丁寧な禮儀の一箇條に過ぎない、しかしその微笑が表はして居る精神はたしかにその大部分をなして居る。讀者がもし凡ての點に於て眞に日本人であり、又その性格は新しい利己主義と外國の影響とに感化されないで居る敎養ある日本人の友人をもつてゐたら、讀者は多分その友人から全日本の社會的特性、その友人の場合に於て美妙に强くなり又磨かれた特性、を學ぶ事を得よう。讀者はその友人は、きまって、自分の事は決して云はない事、そして細かい個人的質問に對して、感謝の丁寧なお辭儀と共にできるだけ曖昧に、できるだけ曖昧に答へる事を認めよう。しかしそれに反して、君については澤山の質問をするであらう、君の意見、君の考、君の日常生活の些細なる話までも、その友人に取つては深い興味があるやうに見える、そして君はその友人が君に關して聞いた事は何事も忘れない事に氣のつく場合が多分あらう。しかし彼の親切な好奇心にも又彼の注意にさへも、或嚴重な境がある、彼は不快な、或は痛ましい事に決して云ひ及ぶ事はない、そしてもし君に風變りな處や或は一寸した弱點などあれば、そんな事は見ないふりをするであらう。君の前で君を賞める事は決してない、しかし嘲つたり批評がましい事は決してしない。實際君は彼が決して人を批評する事はしない、只結果に表はれた行爲だけを批評する事が分る。個人的助言者として、彼は自分の賛成しない計畫を直接に批評する事さへしない、ただ何かこんなやうな用心深い言葉で新しい計畫を云つて見る方である、『こんな風にする方が或は君の直接の利益にかへつてなりはしないだらうか』他人の事を餘儀なく云ふ時は、彼はその人の事を一枚の繪をつくる程に充分に特色のある事件を引出して結び合せて、不思議にもつて𢌞つた風に云ひ及ぶ。しかしその場合に、話された事件は殆んど必ず人の興味をひいて好もしい印象を起す性質の物である。話を傳へるこの間接の方法は眞に孔子の方法である。『たとへ信じて疑はなくとも、自分の云ふ事を自分の意見らしく見えないやうにせよ』と禮記【譯者註二】に出て居る。それから君はその友人に、それを理解するには支那の古代文學の多少の智識を要するやうなその外澤山社會的特性のあるのに氣がつく事は充分ありさうである。しかし彼の他人に對する丁寧なる思慮と念入りに自我を征服して居る事を君が知るためには別にそんな知識も必要でない。他の如何なる文明人種の間にも、日本人の間に於ける程、人生の幸福の祕訣がそれ程充分に會得されて居る處はない、人生に於ける私共の幸福は私共の周圍の人々の幸福如何によらねばならない、隨つて私共の心に無我と忍耐の修養如何によらねばならないと云ふ眞理が如何なる人種に於てもそれ程博く理解されて居る處はない。その理由によつて、日本の社會には、諷刺、反語、殘酷な機智を弄すると云ふ事はない。上品な社會にはそれ等は存在しないと云ふ事も大方できよう。個人的失敗は嘲りや非難の目的とはされない、風變りは惡口のたねとされない、無意識のまちがひは笑を招かない。

 古風の支那の保守主義によつて幾分固くなつたために、この倫理系統は人の思想を固定させると云ふ極端まで行つて、しかも個性を犧牲にして支へられて居る事は事實である。それでも、もし社會的必要の一層博大なる理解によつて調節されたら、もし智力的進化に必要なる自由を學術的に了解する事によつて擴げられたら、正しくこの道德方針はそれによつて最も高き又最も幸福な效果の得らるべき方針である。しかし實際行はれた處ではそれは獨創力のためにはならなかつた。むしろ今も行はれて居るが意見や想像の温良なる平凡と云ふ事を强くする傾向があつた。それ故內地に住んで居る外國人は時々西洋生活のもつと大きな樂しみと苦しみ、それからもつと博大な同情のある銳い、常規を逸した不平等(フビヤウダウ)を望まざるを得ない。しかしこれは只時々である、それは智力上の損失は社會的美點によつて全く十二分に償はれるからである。そして日本人を幾分しか了解しない人の心にも日本人はその間に入つて生活するにはやはり世界最良の人種であるとの考が疑もなく殘るのである。

    譯者註二。『直而勿有』を James Legge がかく譯した。

[やぶちゃん注:「『冷笑』」原文のsourire figé はフランス語で、“ sourire は「微笑する」という動詞、“ figé ”は形容詞で「動かない」「凍えた」の意であるが、連語で男性名詞である。 
「『たとへ信じて疑はなくとも、自分の云ふ事を自分の意見らしく見えないやうにせよ』と禮記に出て居る」「『直而勿有』を
James Legge がかく譯した」これは、「禮記(らいき)」の「曲禮(きよくらい)」の「上」に、

   *

賢者狎而敬之、畏而愛之。愛而知其惡、憎而知其善。積而能散、安安而能遷。臨財毋苟得、臨難毋苟免。很毋求勝、分毋求多。疑事毋質、直而勿有。

   *

と出るのに基づく。自在勝手に訓読する。

   *

賢者は狎(な)れ而(しか)も之に敬し、畏(おそ)れて而も之(これ)を愛す。愛して而もその惡を知り、憎みて而もその善を知る。積みて而も能(よ)く散じ、安きに安じて而も能く遷(うつ)る。財に臨みては苟(いやしく)も得んとすること毋(なか)れ、難に臨みて苟も免れんとすること毋れ。很(あらそ)ひには勝たんことを求むること毋れ、分(わか)つには多からんことを求むること毋れ。疑事は質(ただ)すこと毋かれ、直(ちよく)にして而も有(いう)すること勿かれ。

   *

「疑事毋質、直而勿有」の箇所は「ある対象に疑いを覚えても、それを直ちにあからさまに厳しく糾弾してはならない、そしてそれに率直な感懐を述べる際には、決して独りよがりの独善に陥って自己主張に堕してはならない。」の謂いか。「James Legge」はイギリスの宣教師で中国学者ジェームズ・レッグ(中国語名/理雅各 一八一五年~一八九七年)のこと。当初、“An-glo-Chinese College”(英華書院)院長としてホンコンに住んだが、後にオックスフォード大学の中国学教授となった。儒教や道教の経典の古典的英訳を行なったほか、「佛國記」(東晋の西域インド求法僧法顕による旅行記)や「大秦景敎流行中國碑」(明末に長安の崇聖寺の境内で発掘された古碑でキリスト教ネストリウス派(景教:後にアッシリア東方教会が継承)の教義や中国への伝来などを刻してある。唐の七八一年に中央アジア出身の修道士伊斯(いし:マル・イズドブジド。長安での景教の司祭にして副僧正。中国に於ける最初のキリスト教伝道者の一人)が建立、碑文は景浄(ペルシャ人。唐の長安義寧坊にあった大秦寺の景教僧で本名は Adam 。中国語に通じ、勅命により景教の経典三十種を漢訳したり、また仏教経典の漢訳を助けたりした)のよるもの。古代キリスト教関連古碑として世界的に有名なもので、現在は西安碑林博物館蔵)の訳も完成している。] 

 

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   But the Japanese smile must not be imagined as a kind of sourire figé, worn perpetually as a soul-mask. Like other matters of deportment, it is regulated by an etiquette which varies in different classes of society. As a rule, the old samurai were not given to smiling upon all occasions; they reserved their amiability for superiors and intimates, and would seem to have maintained toward inferiors an austere reserve. The dignity of the Shinto priesthood has become proverbial; and for centuries the gravity of the Confucian code was mirrored in the decorum of magistrates and officials. From ancient times the nobility affected a still loftier reserve; and the solemnity of rank deepened through all the hierarchies up to that awful state surrounding the Tenshi-Sama, upon whose face no living man might look. But in private life the demeanor of the highest had its amiable relaxation; and even to-day, with some hopelessly modernized exceptions, the noble, the judge, the high priest, the august minister, the military officer, will resume at home, in the intervals of duty, the charming habits of the antique courtesy.

   The smile which illuminates conversation is in itself but a small detail of that courtesy; but the sentiment which it symbolizes certainly comprises the larger part. If you happen to have a cultivated Japanese friend who has remained in all things truly Japanese, whose character has remained untouched by the new egotism and by foreign influences, you will probably be able to study in him the particular social traits of the whole people,— traits in his case exquisitely accentuated and polished. You will observe that, as a rule, he never speaks of himself, and that, in reply to searching personal questions, he will answer as vaguely and briefly as
possible, with a polite bow of thanks. But, on the other hand, he will ask many questions about yourself: your opinions, your ideas, even trifling details of your daily life, appear to have deep interest for him; and you will probably have occasion to note that he never forgets anything which he has learned concerning you. Yet there are certain rigid limits to his kindly curiosity, and perhaps even to his observation: he will never refer to any disagreeable or painful matter, and he will seem to remain blind to eccentricities or small weaknesses, if you have any. To your face he will never praise you; but he will never laugh at you nor criticize you. Indeed, you will find that he never criticizes persons, but only actions in their results. As a private adviser, he will not even directly criticize a plan of which he disapproves, but is apt to suggest a new one in some such guarded language as: 'Perhaps it might be more to your immediate interest to do thus and so.' When obliged to speak of others, he will refer to them in a curious indirect fashion, by citing and combining a number of incidents sufficiently characteristic to form a picture. But in that event the incidents narrated will almost certainly be of a nature to awaken interest, and to create a favorable impression. This indirect way of conveying information is essentially Confucian. 'Even when you have no doubts,' says the Li-Ki, 'do not let what you say appear as your own view.' And it is quite
probable that you will notice many other traits in your friend requiring some knowledge of the Chinese classics to understand. But no such knowledge necessary to convince you of his exquisite consideration for others, and his studied suppression of self. Among no other civilized people is the secret of happy living so thoroughly comprehended as among the Japanese; by no other race is the truth so widely understood that our pleasure in life must depend upon the happiness of those about us, and consequently upon the cultivation in ourselves of unselfishness and of patience. For which reason, in Japanese society, sarcasm irony, cruel wit, are not indulged. I might almost say that they have no existence in refined life. A personal failing is not made the subject of ridicule or reproach; an eccentricity is not commented upon; an involuntary mistake excites no laughter.

   Stiffened somewhat by the Chinese conservatism of the old conditions, it is true that this ethical system was maintained the extreme of giving fixity to ideas, and at the cost of individuality. And yet, if regulated by a broader comprehension social requirements, if expanded by scientific understanding of the freedom essential
to intellectual evolution, the very same moral policy is that through which the highest and happiest results may be obtained. But as actually practiced it was not favorable to originality; it rather tended to enforce the amiable mediocrity of opinion and imagination which still prevails. Wherefore a foreign dweller in the interior cannot but long sometimes for the sharp, erratic inequalities Western life, with its larger joys and pains and its more comprehensive sympathies. But sometimes only, for the intellectual loss is really more than compensated by the social charm; and there can remain no doubt in the mind of one who even partly understands the Japanese, that they are still the best people in the world to live among.

特別に僕の恋人の写真を……

Jyanu

心朽窩主人敬白

今日明日は連日通院検査のため更新遅滞致す 心朽窩主人敬白

2015/12/15

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十六章 日本人の微笑 (三)

 

        

 

 日本人の微笑を會得するためには、少し日本の古い、自然の、民衆生活に入る事ができなければならない。近代化した上流社會からは學ぶべき物は何にもない。高等敎育の結果によつて人種的相違の深い意義は每日一層深く說明されるのである。高等敎育は感情の融和にはならないで、かへつて東西洋の間の疎隔を一層深くするだけのやうに思はれる。外人の中には、高等敎育は或潜伏した特色――殊に一般人民の間には殆んど認められない隱れた唯物主義――を非常に擴大する事になるので、さうなると云ふ人もある。この說明には私は充分同意できないが、とにかくこの事だけは否定できない。卽ち西洋風に高い敎育を受ければ受ける程、その日本人は心理的に私共と遠ざかつて行くと云ふ事である。新しい敎育を受けると、その性格は妙に冷酷な物に、そして西洋洋事物の觀察はとにかく妙に不透明な物に、結晶するらしい。情緖的には、日本の子供の方が日本の數學者よりも、農夫の方が政治家よりも、はるかに私共に近いやうである。全く近代化した日本人の最も高い階級と西洋の思想家との間には智力的同情らしい物は成立しない、日本人側ではただ冷(ツメ)たいそして完全な禮儀となつて居る。外の國々では高尙な情緖を發達させるために最も有力な物と思はれる物は、ここではそれを抑壓するのに非常な效果のある物らしい。外國では私共は情緖的敏感と智力的博大とを聯想する事に慣れて居るが、この規則を日本に應用する事は悲しむべき誤であらう。普通の學校に於ける外國敎師でも、年々、その生徒が、級から級へと進む每に、自分から離れて行く事を感ずる、色々の高い程度の學校では、この離れ方は一層早くなつて、卒業に近い學生は敎授に取つてはただ偶然の知り合ひ同樣になる。この謎は、或は幾分は、科學的說明を要する心理上の問題である。しかしその解決は第一に人生及び想像に關する祖先以來の習慣に求められねばならない。その自然の原因が理解される時に始めて、この問題が充分に論ぜられるが、これは、簡單ではないと思はれる。或人は論じて、日本の高等敎育は、高尙なる情緖を西洋の程度に刺激する力が未だないから、その開發力は一樣に又賢明に發揮されてゐないで、ただ、特別の方向にのみ向けられるから、性格の方面で損失を免れないと云ふ。しかしこの論には性格は敎育によつて造り出されると云ふ許容し難い傳說が入つて居る、そして如何なる制度の敎育によるよりも、以前から存する性癖嗜好を利用する機會を與へた方が最良の結果を得られると云ふ事實を無視して居る。

 この現象の原因は、人種性格に求められねばならない。そして高等敎育が遠き將來に於て如何なる結果を生ずるにしても、元來の性質を改造する物とは期待されない。しかし現在に於て或よい方の傾向を萎縮させる事になつてゐないだらうか。私は必ずさうなつて居ると思ふ、その單なる理由は、現在の狀況では高等敎育の要求によつて道德的精神的の力が過重の負擔を課されるからである。古への社會的道德的、或は宗敎的精神主義の方へ向けられた義務、忍耐、犧牲の驚くべき國民性は悉く、高等敎育の訓練のために、その全部の活動を要求するのみならず、さらに疲勞させる或目的の方へ集中されねばならない。その目的通りを苟くも果すためには、西洋の學生が滅多に出遇はないそして容易に理解のできないやうな困難に面してから、漸くその目的は果されるのである。古い日本人の性格を感嘆すべき物としたそれ等の德性は、今日の日本學生をして、世界に於て最も堅忍不拔な最も從順な、最も大望のある者とならしめた物とたしかに同一の德性である。しかしその德性は、同時に日本學生をして本來の力以上の努力をさせて、その結果往々精神的道德的衰弱を來たさせる。この國民は過度の智力的緊張の時期に蹈み込んで居る。意識してか或は無意識にか、不意の必要に迫られて、日本は精神的膨脹を現在の最高標準まで無理に押上げると云ふ恐ろしい仕事を正にやり出した、そしてこれは神經系統を無理に發達させようとする事になる。僅か數代のうちに、望み通りの智力的變化を仕遂げようとする事は、恐るべき損害なしには決して行はれない生理的變化を必ず起させる。換言すれば、日本の計畫は多大に過ぎる、しかし現在の事情では、それよりも小さい計畫をする事はできなかつたらう。幸にして日本の貧困者中の最も貧困者の間にでも、政府の敎育方針は驚くべき熱心を以て助けられて居る、國民全體は學問に熱中して居る、その熱心の程度はこの小さい論文でこの適當な槪念を傳へる事はできない程である。それでも私は一つ感動すべき例を書かう。一八九一(明治二十四年)の恐ろしい地震のすぐあとで、岐阜愛知の破壞された都市の兒童は、名狀のできない恐怖と災禍に取卷かれえて、寒い、飢ゑた、家もない時でも、石板の代りに彼自身の燃えた家の瓦を使ひ、石筆の代りに針金のちぎれを使つて、大地が未だ足の下で動いて居る間【註二】でも、やはり彼等の小さい勉學を續けた。こんな事實が表はす意志の驚くべき力から將來どんな奇蹟が正しく期待される事であらう。

    註二。次第に囘數と强さか減じたの
    ではあるが、この地震は、その大災
    害ののち六ケ月續いた。

 しかし高等敎育の結果は今の處全然好結果を來してゐない事は事實である。古風の日本人の間には、如何に感嘆しても及ばない程の禮儀と、無私と、純粹なる善良から來る品位とを見る。新時代の現代化した人々のうちにはこれ等のものは殆んど見られない。淺薄な懷疑の平凡と模倣の野卑以上に脫する事もできないで、古い時代と古い習慣を罵倒する靑年の一階級を人はよく見る。彼等が祖先から異傳した筈の高尙な、そして愛すべき性質はどうなつたのであらう。その性質の最上の物は形を變へてただの努力――性格を消粍しつくして、重さもなく釣合も取れない物にしてしまつた程、そんなに法外な努力だけになつた事はあり得べき事であらうか。

 

 西洋と東洋の人種的感情及び情緖的表情に於ける或外面的相違の意味をさがさねばならぬところは、未だ流れ動く自然の平民社會の狀態に存するのである。生、愛、及び死に對して同じく微笑するそれ等の溫和な、親切な、心のやさしい人々と、單純な自然物に對して感情の交りを樂しむ事がでるのである、そして親しみと同情とによつて彼等の微笑の理由を知る事ができる。

 日本の子供は生れながらにしてこの傾向をもつて居る、そしてこの傾向は家庭敎育の凡ての時期を通じて養成される。しかしそれは庭樹の自然の傾向を養成して行く時に示されると同じ程度の綿密さで養成される。微笑はお辭儀と同じく、平身低頭と同じく、長上に對する挨拶のつぎに喜悅のしるしとして息を少しすつと吸ひ込む事と同じく、凡て古への禮儀の細密なそして美はしい作法と同じく、敎へられる。明かな道理で高笑は奬勵されない。しかし微笑は長上に或は同輩に話しかける時、凡て愉快な場合に用ひられる。そして愉快でない場合にも用ひられる、それは行儀の一部分である。最も愉快な顏はにこにこした顏である、そしてできるだけ最も愉快な顏を兩親、親戚、敎師、友人、好意を有せる人々に示すのは生活の法則である。そしてその上たえず外界に幸福の態度を表はし、他人にできる限りの愉快な印象を與へるのは、生活の法則である。たとへ胸の張り裂ける場合でも、勇敢に微笑するのは社會的義務である。それに反してしかつべらしく不機嫌な顏をするのは無禮である、これは私共を愛する人々に心配や苦痛を與へる事になるから、同時に又愚な事である、私共を愛しない人々の方で不親切な好奇心を起させる事になるから。幼兒時代から義務として養成されて居るから微笑はやがて本能的になる。最も貧しい農夫の心にも、自分だけの悲しみ苦しみ或は怒りを表はす事は餘り役に立たない。そしていつでも不親切であると云ふ自信が生きて居る。それ故他の國に於けると同じく日本に於ても自然のの悲歎に自然の出口がなければならないが、長上や客の面前に於て抑制なしに淚を流す事は無禮である、そして如何に無學な田舍女でも、そんな場合に神經が負けてしまつたあとでいつもきまつて始めに云ふ言葉は『實に我儘勝手で失禮致しました、お赦し下さい』である。その微笑の理由はただ道德的であるだけではない事も又注意すべきである、それは或程度まで美的である、ギリシヤ美術に於て苦痛の表情を調整したと同じ思想を幾分表はして居る。しかし美的であるよりも道德的である方が遙かに多い、それについてやがて述べる。

 この微笑の第一の作法から第二の作法が發達して來て居る、それを守る事が外國人をして屢〻日本人の感受性に關して最も殘酷な誤解を抱かしむるやうになつたのである。痛ましき又は恐るべき事を云ふべき場合に、その話はその苦しみ恐ろしさを受けた人によつて微笑しながら話される【註三】のが日本の習慣である。その問題が重大であればある程その微笑は重大になる、そしてその事がそれを話す人に甚だ不快な時にはその微笑はよく低い穩やかな笑ひ聲に變る。初生兒を失つた母が葬式の時どれ程烈しく泣いたとしても、奉公に出て居る場合ならその不幸を話す時には多分微笑をもつてするであらう、傳道者【譯者註一】のやうに泣く時あり笑ふ時ありと彼女は思ふて居る。人々が愛してゐたと信ぜられる者のこの頃歿くなつ事を、その人々が私に笑つて話す事のできる事が私自身にも中々了解できなかつた。しかしその笑は克己の極端まで進んだ禮儀であつた。かう云ふ意味である。『これはあなたは不幸な事件とお考になるでせうが、どうかそんなつまらない事に御心を惱さないで下さい、そして一體止むを得ずこんな事を云つて、禮儀を破る事になつた事をお赦し下さい』

    註三。勿論同情する方からは、その
    反對になるのがきまりである。卽ち
    こちらは悲しい表情で對せねばない。

 最も理解のできない微笑の祕密の鍵は日本人の禮儀正しさである。過失のために解雇を宣告された從者は平伏してそして微笑して容赦を願ふ。その微笑は無感覺や無禮の正反對である、『はい、たしかに御宣告の正しい事に私滿足して居ります、そして私の過失の大きい事が今よく分りました。しかし私の悲しみと必要から無理な我儘な御願を申し上げ實に失禮とは存じますが御勘辨を御願する事を御赦し頂きたい』と子供らしい涙を流す年齡以上に達した少年少女は何かの過失のために罰せられた時には微笑してその罰を受ける、その微笑はこんな意味である『私の心に何の惡感情も起りません、私の過失はもつとひどい罰を受ける價値があります』そして私の橫濱の友人の鞭で打たれた車夫は同じ道理で微笑したのであつた、それを私の友人が直覺したに相違ない、その微笑は直ちに彼を和らげたから。『私は大層惡かつた、それであなたの怒りは當然です、私は打たれる價値があります。それだから惡感情は抱きません』

 しかし如何に貧しい身分の賤しい日本人でも無理の前には從頃でない事も理解して置くべきである。彼の表面の柔順性は重に彼の道德觀念から起つて居る。戲れに日本人をなぐつて見る外國人は當然重大なる過失をした事に氣がつくだらう。日本人は愚弄さるべきでない、そして日本人を愚弄しようと亂暴にも試みた人で、そのつまらない生命をなくした者は幾人もある。

 以上の說明をしたあとでも、日本の乳母の事件は未だ不可解に見えるやうだ、しかしこれは話した人がこの場合或事實を削除したか、或は見逃したからだと私は信ずる。その話の前半は完全によく分る。夫の死を報告する時その若い召使はすでに云つた日本の形式に隨つて微笑した。全く信じ難い事は、彼女が自ら進んでその瓶卽ち骨壺にある物を彼女の主人に見せようとしたなどと云ふ事である。彼女の夫の死を報告するのに微笑を以てする程日本の禮儀を心得て居るのなら、こんな過ちを犯すに到らないだけの心得がたしかにあつた筈である。實際の命令であつたか、命ぜられたと想像したか。それに隨つて始めてその骨壺とその中にある物とを示したのであらう、そしてさうする時彼女は苦しい義務を止むを得ず行ふ時か、或は苦しい陳述をせん方なく發言する時、それに伴ふ低い柔かな笑を發した事は如何にもありさうである。私自身の意見では彼女は徒らな好奇心を滿足さねばならなくなつたのであらう。彼女の微笑或は笑はこんな意味であつたらう『つまらぬ私のために御心を痛めないで下さい、たとへ御求めであつても、私の悲しみのやうなそんなつまらぬ事を申し上げるのは本當に甚だ失禮でございます』

    訳者註一。舊譯聖書(傳道の書)
    (ダビデの子、エルサレムの王、
    傳道者の言)第三章第四章の文
    句。

[やぶちゃん注:「一八九一(明治二十四年)の恐ろしい地震」同年十月二十八日に濃尾地方で発生した日本史上最大の内陸直下型の濃尾地震。震源は岐阜県本巣郡西根尾村(現在の本巣市)付近で、マグニチュードは現在では八・〇と推定されている。参照したウィキ濃尾地震によれば、震源である岐阜県と損害の大きかった愛知県ははもとより、近隣の滋賀県や福井県にも被害は及んだ。明治時代では最大規模の地震であり、宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』によると』、死者七千二百七十三名・負傷者一万七千百七十五名・損壊家屋十四万二千百七十七戸とある。『震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、はげ山になったなどと伝えられる。また岐阜市と周辺では火災が発生し被害を大きくした。岐阜の壊滅を伝える新聞記者の第一報は、「ギフナクナル(岐阜、無くなる)」だったという』。『建築物では、伝統的な土蔵の被害は比較的軽かったが名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被害は言うまでもなく、欧米の技術で作られた近代建築でさえ、長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなかった橋梁や煉瓦の建築物などが破壊されたため、この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が進展する契機となった。また、この地震後に震災予防調査会が設置された』とある。『この地震によって、地質学者の小藤文次郎は断層の地震との関係を確信し、断層地震説を主張』し、また、『地震学者大森房吉は、この地震の余震を研究し、本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す大森公式を発表している』とし、ハーンがここで述べる不安を惹き起こす余震の問題に初めて科学のメスが入った地震でもあったことが判る。いや、それどころか、驚くべきことに(これはウィキにも記されているのであるが)、「日本地震学会」広報紙『ないふる』(一九九九年五月刊・第十三号)によれば、『物理過程では、原子核の崩壊のように、指数関数で減衰するものが多いのですが、「改良大森公式」に従って減衰する余震は、本震直後の減り方は指数関数より速く、後に長く尾をひくという特徴があります』と述べた後、ハーンの「その大災害ののち六ケ月續いた」どころじゃあ、なく! 実に百二十四年も前に『発生した濃尾地震の余震活動は、一世紀以上たった現在でも続いています』として、一八九一年濃尾地震から一九九四年末までの岐阜における有感地震発生率(一日当たり)が示され、それが確かに濃尾地震の確かな余震であり続けていることを示すデータだ、とあるのである!!(下線やぶちゃん)。

「傳道者のやうに泣く時あり笑ふ時あり」「舊譯聖書(傳道の書)(ダビデの子、エルサレムの王、傳道者の言)第三章第四章の文句」原文は“like the Preacher, she holds that there is a time to weep and a time to laugh.”。「旧約聖書」の「伝道の書」は「コヘレトの言葉」「コーヘレト書」とも呼ばれ、ユダヤ教の「ハーメーシュ・メギッロート」(英語:The Five Scrolls:「五つの巻物」の意。「旧約聖書」中の「諸書」に属するところの五つの書物、本「コヘレトの言葉」と「雅歌」「哀歌」「ルツ記」「エステル記」を指す)の一つである。「コヘレト」とは、ヘブライ語で「伝道者」を意味するので「伝道の書」とも呼ばれているが、冒頭で「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあって、これは古代イスラエル王国第三代の王ソロモンであることが仄めかされてある。旧約聖書中でも名言の宝庫とされる一書である(ここまではウィキコヘレトの言葉を参照した)。本第三章は「天の下の総てには季節があり、総て成される業(わざ)には時がある」と始まり、続く第二章は「生まるるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを引く抜くに時があり」、第三章は「殺すに時があり、癒やすに時があり、壊すに時があり、建つるに時があり」と来て、その第四章が、「泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり」と続いている(ここはウィキソース伝道の書口語訳を参考にしつつ、やや訳文に勝手に手を加えさせて貰った)。ネット上の英訳の一つを示す。“a time to weep, and a time to laugh; a time to mourn, and a time to dance;”。] 

 

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   To comprehend the Japanese smile, one must be able to enter a little into the ancient, natural, and popular life of Japan. From the modernized upper classes nothing is to be learned. The deeper signification of race differences is being daily more and more illustrated in the effects of the higher education. Instead of creating any community of feeling, it appears only to widen the distance between the Occidental and the Oriental. Some foreign observers have declared that it does this by enormously developing certain latent peculiarities,— among others an inherent materialism little perceptible among fife common people. This explanation is one I cannot quite agree with; but it is at least undeniable that, the more highly he is cultivated, according to Western methods, the farther is the Japanese psychologically removed from us. Under the new education, his character seems to crystallize into something of singular hardness, and to Western observation, at least, of singular opacity. Emotionally, the Japanese child appears incomparably closer to us than the Japanese mathematician, the peasant than the
statesman. Between the most elevated class of thoroughly modernized Japanese and the Western thinker anything akin to intellectual sympathy is non-existent:
it is replaced on the native side by a cold and faultless politeness. Those influences which in other lands appear most potent to develop the higher emotions seem here to have the extraordinary effect of suppressing them. We are accustomed abroad to associate emotional sensibility with intellectual expansion: it would be a grievous error to apply this rule in Japan. Even the foreign teacher in an ordinary school can feel, year by year, his pupils drifting farther away from him, as they pass from class to class; in various higher educational institutions, the separation widens yet more rapidly, so that, prior to graduation, students may become to their professor little more than casual acquaintances. The enigma is perhaps, to some extent, a physiological one, requiring scientific explanation; but its solution must first be sought in ancestral habits of life and of imagination. It can be fully discussed only when its natural causes are understood; and these, we may be sure, are not simple. By some observers it is asserted that because the higher education in Japan has not yet had the effect of stimulating the higher emotions to the Occidental pitch, its developing power cannot have been exerted uniformly and wisely, but in special directions only, at the cost of character. Yet this theory involves the unwarrantable assumption that character can be created by education; and it ignores the fact that the best results are obtained by affording opportunity for the exercise of pre-existing inclination rather than by any system of teaching.

   The causes of the phenomenon must be looked for in the race character; and whatever the higher education may accomplish in the remote future, it can scarcely be expected to transform nature. But does it at present atrophy certain finer tendencies? I think that it unavoidably does, for the simple reason that, under existing conditions, the moral and mental powers are overtasked by its requirements. All that wonderful national spirit of duty, of patience, of self-sacrifice, anciently directed to social, moral, or religious idealism, must, under the discipline of the higher training, be concentrated upon an end which not only demands, but exhausts its fullest exercise. For that end, to be accomplished at all, must be accomplished in the face of difficulties that the Western student rarely encounters, and could scarcely be made even to understand. All those moral qualities which made the old Japanese character admirable are certainly the same which make the modern Japanese student the most indefatigable, the most docile, the most ambitious in the world. But they are also qualities which urge him to efforts in excess of his natural powers, with the frequent result of mental and moral enervation. The nation has entered upon a period of intellectual overstrain. Consciously or
unconsciously, in obedience to sudden necessity, Japan has undertaken nothing less than the tremendous task of forcing mental expansion up to the highest
existing standard; and this means forcing the development of the nervous system. For the desired intellectual change, to be accomplished within a few
generations, must involve a physiological change never to be effected without terrible cost. In other words, Japan has attempted too much; yet under the
circumstances she could not have attempted less. Happily, even among the poorest of her poor the educational policy of the Government is seconded with an astonishing zeal; the entire nation has plunged into study with a fervor of which it is utterly impossible to convey any adequate conception in this little essay. Yet I may cite a touching example. Immediately after the frightful earthquake of 1891, the children of the ruined cities of Gifu and Aichi, crouching among the ashes of their homes, cold and hungry and shelterless, surrounded by horror and misery unspeakable, still continued their small studies, using tiles of their own burnt dwellings in lieu of slates, and bits of lime for chalk, even while the earth still trembled beneath them. [2] What future miracles may justly be expected from the amazing power of purpose such a fact reveals!

   But it is true that as yet the results of the higher training have not been altogether happy. Among the Japanese of the old regime one encounters a courtesy, an unselfishness, a grace of pure goodness, impossible to overpraise. Among the modernized of the new generation these have almost disappeared. One meets a class of young men who ridicule the old times and the old ways without having been able to elevate themselves above the vulgarism of imitation and the commonplaces of shallow skepticism. What has become of the noble and charming qualities they must have inherited from their fathers? Is it not possible that the best of those qualities have been transmuted into mere effort,— an effort so excessive as to have exhausted character, leaving it without weight or balance?

 

   It is to the still fluid, mobile, natural existence of the common people that one must look for the meaning of some apparent differences in the race feeling and emotional expression of the West and the Far East. With those gentle, kindly, sweet-hearted folk, who smile at life, love, and death alike, it is possible to enjoy community of feeling in simple, natural things; and by familiarity and sympathy we can learn why they smile.

   The Japanese child is born with this happy tendency, which is fostered through all the period of home education. But it is cultivated with the same exquisiteness that is shown in the cultivation of the natural tendencies of a garden plant. The smile is taught like the bow; like the prostration; like that little sibilant sucking-in of the breath which follows, as a token of pleasure, the salutation to a superior; like all the elaborate and beautiful etiquette of the old courtesy. Laughter is not
encouraged, for obvious reasons. But the smile is to be used upon all pleasant occasions, when speaking to a superior or to an equal, and even upon occasions
which are not pleasant; it is a part of deportment. The most agreeable face is the smiling face; and to present always the most agreeable face possible to parents, relatives, teachers, friends, well-wishers, is a rule of life. And furthermore, it is a rule of life to turn constantly to the outer world a mien of happiness, to convey to others as far as possible a pleasant impression. Even though the heart is breaking, it is a social duty to smile bravely. On the other hand, to look serious or unhappy is rude, because this may cause anxiety or pain to those who love us; it is likewise foolish, since it may excite unkindly curiosity on the part of those who love us not. Cultivated from childhood as a duty, the smile soon becomes instinctive. In the mind of the poorest peasant lives the conviction that to exhibit the expression of one's personal sorrow or pain or anger is rarely useful, and always unkind. Hence, although natural grief must have, in Japan as elsewhere, its natural issue, an
uncontrollable burst of tears in the presence of superiors or guests is an impoliteness; and the first words of even the most unlettered countrywoman, after the nerves give way in such a circumstance, are invariably: 'Pardon my selfishness in that I have been so rude!' The reasons for the smile, be it also observed, are not only moral; they are to some extent aesthetic they partly represent the same idea which regulated the expression of suffering in Greek art. But they are much more moral than aesthetic, as we shall presently observe.

   From this primary etiquette of the smile there has been developed a secondary etiquette, the observance of which has frequently impelled foreigners to form the most cruel misjudgements as to Japanese sensibility. It is the native custom that whenever a painful or shocking fact must be told, the announcement should be made, by the sufferer, with a smile. [3] The graver the subject, the more accentuated the smile; and when the matter is very unpleasant to the person speaking of it, the smile often changes to a low, soft laugh. However bitterly the mother who has lost her first-born may have wept at the funeral, it is probable that, if in your
service, she will tell of her bereavement with a smile: like the Preacher, she holds that there is a time to weep and a time to laugh. It was long before I myself could understand how it was possible for those whom I believed to have loved a person recently dead to announce to me that death with a laugh. Yet the laugh was politeness carried to the utmost point of self-abnegation. It signified: 'This you might honorably think to be an unhappy event; pray do not suffer Your Superiority to feel concern about so inferior a matter, and pardon the necessity which causes us to outrage politeness by speaking about such an affair at all.'. The key to the mystery of the most unaccountable smiles is Japanese politeness. The servant sentenced to dismissal for a fault prostrates himself, and asks for pardon with a smile. That smile indicates the very reverse of callousness or insolence: 'Be assured that I am satisfied with the great justice of your honorable sentence, and that I am now aware of the gravity of my fault. Yet my sorrow and my necessity have caused me to indulge the unreasonable hope that I may be forgiven for my great rudeness in asking pardon.' The youth or girl beyond the age of childish tears, when punished for some error, receives the punishment with a smile which means: 'No evil feeling arises in my heart; much worse than this my fault has deserved.' And the kurumaya cut by the whip of my Yokohama friend smiled for a similar reason, as my friend must have intuitively felt, since the smile at once disarmed him: 'I was very wrong, and you are right to be angry: I deserve to be struck, and
therefore feel no resentment.'

   But it should be understood that the poorest and humblest Japanese is rarely submissive under injustice. His apparent docility is due chiefly to his moral sense. The foreigner who strikes a native for sport may have reason to find that he has made a serious mistake. The Japanese are not to be trifled with; and brutal attempts to trifle with them have cost several worthless lives.

   Even after the foregoing explanations, the incident of the Japanese nurse may still seem incomprehensible; but this, I feel quite sure, is because the narrator either suppressed or overlooked certain facts in the case. In the first half of the story, all is perfectly clear. When announcing her husband's death, the young servant smiled, in accordance with the native formality already referred to. What is quite incredible is that, of her own accord, she should have invited the attention of her mistress to the contents of the vase, or funeral urn. If she knew enough of Japanese politeness to smile in announcing her husband's death, she must certainly have known enough to prevent her from perpetrating such an error. She could have shown the vase and its contents only in obedience to some real or fancied command; and when so doing, it is more than possible she may have uttered the low, soft laugh which accompanies either the unavoidable performance of a painful duty, or the enforced utterance of a painful statement. My own opinion is that she was obliged to gratify a wanton curiosity. Her smile or laugh would then have signified: 'Do not suffer your honorable feelings to be shocked upon my unworthy account; it is indeed very rude of me, even at your honorable request, to mention so contemptible a thing as my sorrow.' 

 

2
   The shocks continued, though with lessening frequency and violence, for more than six months after the cataclysm.

3
   Of course the converse is the rule in condoling with the sufferer.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十六章 日本人の微笑 (二)

 

        

 

 日本人の微笑を誤解した事が度々甚だしく不快な結果を來して居る、たとへば以前橫濱商人であつた――の場合に起つたやうな。T ――は何かの資格で(幾分日本語の敎師としてと私は思ふ)立派な老さむらひを雇入れた、その人はその時代の習慣としてまげを結ふて大小さしてゐた。今日でも英人と日本人とは、相互に甚だよく理解して居るとは云へない、しかし今話した時代には一層理解が少かつた。初めのうち日本の召使は丁度えらい日本人に使へるやうなやり方【註一】をした。そしてこの無邪氣な誤りは澤山の侮辱と殘忍を招くに到つた。最後に日本人を西印度の黑奴のやうに待遇する事は甚だ危險である事が發見された。幾人かの外國人は殺されて、よい道德上の效果があつた。

     註一。讀者はミス・ベーコンの
     『日本人の少女と歸人』のうち、
     『奉公』と題する一章を參考に
     されるとよい。それには男女の
     召使に關するこの問題の面白い、
     又正しい說明がある。しかし詩
     的方面は取扱つてない。――ク
     リスト敎的見地から書いて居る
     人は同情しては書けないやうな
     宗敎的信仰と非常に關係して居
     るからでらあらう。昔の奉公は
     宗敎によつて形を變へると共に
     調節された、それに關する宗敎
     的情操の力は、今もなほ行はれ
     て居る佛敎の諺からも推しはか
     られる――親子は一世。夫婦は
     二世、主從は三世。

 

 しかしこれは脇道である。――はこの老さむらひが中々氣に人つた、もつともその東洋風の禮儀、その平身低頭、それから全くT ――にはちんぷんかんである微妙な丁寧さで時々もつて來てくれた小さい贈物の意味は全く分らなかつた。或日老人はお願があると云つて來た。(私はその日は大晦日の晩であつたと思ふ。その日にはここに書いて居られない理由で誰でも金が要る時だから)その願は老人の大小のうち大の方を抵當にして金を少し貸して貰ひたいと云ふのであつた。それは甚だ綺麗な武器であつた、そしてその商人にもやはり甚だ貴重である事が分つたので直ちにそれだけの金を貸した。數週後に老人はその刀を取り戾す事ができた。

 それから起つた不快の初まりは何であつたか今誰も覺えてゐない。多分T ――の神經は狂つたのであらう。とにかく或日彼は老人に對して非常に怒り出した、老人は彼の憤怒の表情に對してお辭儀と微笑を以て服してゐた。これが彼をして一層怒らせた、そして彼は極端な罵倒を浴せた、しかし老人はやはりお辭儀をして、微笑してゐた、それで老人はその家を去る事を命ぜられた。しかし老人は引續いて微笑してゐた、そこでT ――はすつかり自省の力を失つて老人をなぐつた。そしてその時T ――は突然恐ろしくなつた、と云ふのは長い刀は不意に鞘を離れて、自分の頭上を渦卷いて、そして老人は老人とは思はれなくなつたからであつた。ところで、その使用法を知つて居る人の手にかかつたら、兩手で扱はれる剃刀のやうな日本刀の刄は、極めて無造作に人の頭をはねる事ができる。しかしT ――の驚いた事には、その老さむらひは殆んど同時に熟練なる劔士の素早さでその刀身を鞘に納めて、踵をかへして、退いた。 

 

 それからT ――は不思議に思つて、坐り込んで考へた。彼は老人に關する色々の良い事、賴みもしないのにしてくれたが返禮もしてやらなかつた澤山の親切な行爲、珍らしい小さい贈物、非難の餘地なき正直さ、を思ひ出して來た。T ――は恥づかしくなつて來た。彼はかう考へて自分で慰めようとした、『まあい〻、あれが惡いんだ、おれが怒つて居る事を知つてゐておれを笑ふやつがあるものか』實際T ――は機會のあり次第埋合せをしようとさへ決心してゐた。 

 

 しかしその機分は決して來なかつた、何故なれば丁度その晩老人はさむらひ風に切腹をしたから。老人はその理由を說明した甚だ見事に書いた手紙を遺した。さむらひとしては無法な打擲を受けて復讐しない事は忍ぶべからざる屈辱である。彼はそんな打擲を受けた。外の場合ならそれに對し、復讐する事も出來たであらう。しかし今度の場合では事情は餘程奇態な物であつた。老人の名譽に關する道德法は、一度必要に迫られて金錢のためにその刀を抵當にしたその人に對して、それを使用する事を許さない。そこでその理由から刀を使用する事ができないとすれば、老人、にとつては二つのうち、ただ名譽ある自殺の一法が殘つて居るだけであつた。 

 

 この話を餘り不快な物としないために、讀者は、T ――は甚だ遺憾に思つて、老人の遺族に對し金錢上の助力を充分にした事を想像してもよい。しかし何故老人は侮辱と悲劇の原因となつたあの微笑をしたか、その理由をT ――が考へる事ができたと讀者は想像してはならない。

[やぶちゃん注:「ミス・ベーコンの『日本人の少女と歸人』」旧会津藩国家老山川尚江重固(なおえしげかた)の末娘山川捨松をホームステイさせたことでも知られるアメリカ人女性教育者のアリス・メイベル・ベーコン(Alice Mabel Bacon 一八五八年~一九一八年)が一八九一年にボストンで刊行した“ Japanese Girls and Women (現行の邦訳題では「日本の女たち」)。ウィキアリス・ベーコンによれば、『父はコネチカット州 ニューヘイブンの牧師であったレオナルド・ベーコン、母はキャサリン。キャサリンは後妻で、アリスは』十四人兄弟の末娘であった。『父・レオナルドは牧師のほかイェール大学神学校の教師も務め、南北戦争の時、いち早く奴隷制に反対する論陣を張るなど、人望が厚く地元の名士であった。子沢山であったため生活は非常に苦しかったという』。一八七二年(明治五年)に『日本から来た女子留学生の下宿先を探していた森有礼の申し出に応じて山川捨松を引き取ったのは日本政府から支払われる多額の謝礼が目当てであったといわれる。しかし、レオナルド夫妻は捨松を娘同様に扱い、特に年齢の近かったアリスとは姉妹のように過ごした』。『アリスは地元の高校・ヒルハウスハイスクールを卒業したものの、経済的な事情で大学進学をあきらめた。しかし』一八八一年に『ハーバード大学の学士検定試験に合格し学士号を取得』、二年後の一八八三年には『ハンプトン師範学校正教師とな』ったが、翌一八八四年(明治十七年)に『大山捨松や津田梅子の招聘により華族女学校(後の学習院女学校)英語教師として来日』、来日中の一年間の手紙を纏めたものを一八九四年(彼女の英語版ウィキでは一八九三年とする)に“ Japanese Interior (邦訳題は「華族女学校教師が見た明治日本の内側」)『として出版し反響を呼ぶ。帰国後はハンプトン師範学校校長となっていたが』、明治三十三年四月には再び、『大山捨松と津田梅子の再度の招聘により東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)と津田梅子が建てた女子英学塾(現・津田塾大学)の英語教師として赴任』し、明治三五(一九〇二)年四月の任期満了の帰国『まで貢献した。特に女子英学塾ではボランティアで教師を務め、梅子にかわって塾の家賃を代わりに支払うなど貢献は大であった』。『帰国後も教育に身を捧げ、一生独身であった。ただし、渡辺光子と一柳満喜子というふたりの日本女性を養女とした。一柳満喜子は女子英学塾の教師になることを期待されていたが、帰国後ウィリアム・ヴォーリズと結婚した』。『先述した『日本の内側』、その後に著した『日本の女性』(日本語訳題『明治日本の女たち』)は明治時代の日本の女性事情を偏見無く書いた史料として貴重であり、ルース・ベネディクトが『菊と刀』を執筆するときに参考文献とした。ちなみに『日本の女性』の前書きには「生涯の友人・大山捨松に捧げる」という一文が添えられ、捨松とは死ぬ直前まで文通を交わしていた』とある。私は未読で、指示箇所の内容は不明である。悪しからず。

「親子は一世。夫婦は二世、主從は三世」誤解している向きがあるので、老婆心乍ら、述べておくと「親子」の「一世(いつせ(いつせ))」は現世(げんせ)でよいが、後の「二世(にせ)」は前世と現世、「三世(さんぜ)」は前世・現世・来世である。] 

 

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   Miscomprehension of the Japanese smile has more than once led to extremely unpleasant results, as happened in the case of T―― a Yokohama merchant of former days. T―― had employed in some capacity (I think partly as a teacher of Japanese) a nice old samurai, who wore, according to the fashion of the era, a
queue and two swords. The English and the Japanese do not understand each other very well now; but at the period in question they understood each other much
less. The Japanese servants at first acted in foreign employ precisely as they would have acted in the service of distinguished Japanese; [1] and this innocent mistake provoked a good deal of abuse and cruelty. Finally the discovery was made that to treat Japanese like West Indian negroes might be very dangerous.  
 A certain number of foreigners were killed, with good moral consequences.

   But I am digressing. T―― was rather pleased with his old samurai, though quite unable to understand his Oriental politeness, his prostrations or the meaning of the small gifts which he presented occasionally, with an exquisite courtesy entirely wasted upon T――. One day he came to ask a favor. (I think it was the eve of the Japanese New Year, when everybody needs money, for reasons not here to be dwelt upon.) The favor was that T―― would lend him a little money upon one of his swords, the long one. It was a very beautiful weapon, and the merchant saw that it was also very valuable, and lent the money without hesitation. Some weeks later the old man was able to redeem his sword.

   What caused the beginning of the subsequent unpleasantness nobody now remembers Perhaps T――'s nerves got out of order. At all events, one day he became very angry with the old man, who submitted to the expression of his wrath with bows and smiles. This made him still more angry, and he used some extremely bad language; but the old man still bowed and smiled; wherefore he was ordered to leave the house. But the old man continued to smile, at which T――, losing all self-control struck him. And then T―― suddenly became afraid, for the long sword instantly leaped from its sheath, and swirled above him; and the old man ceased to seem old. Now, in the grasp of anyone who knows how to use it, the razor-edged blade of a Japanese sword wielded with both hands can take a head off with extreme facility. But, to T――'s astonishment, the old samurai, almost in the same moment, returned the blade to its sheath with the skill of a practiced
swordsman, turned upon his heel, and withdrew.

   Then T―― wondered and sat down to think. He began to remember some nice things about the old man,— the many kindnesses unasked and unpaid, the curious little gifts, the impeccable honesty. T―― began to feel ashamed. He tried to console himself with the thought: 'Well, it was his own fault; he had no right to laugh at me when he knew I was angry.' Indeed, T―― even resolved to make amends when an opportunity should offer.

   But no opportunity ever came, because on the same evening the old man performed hara-kiri, after the manner of a samurai. He left a very beautifully written letter explaining his reasons. For a samurai to receive an unjust blow without avenging it was a shame not to be borne, He had received such a blow. Under any other circumstances he might have avenged it. But the circumstances were, in this instance, of a very peculiar kind, His code of honor forbade him to use his sword upon the man to whom he had pledged it once for money, in an hour of need. And being thus unable to use his sword, there remained for him only the alternative of an honorable suicide.

   In order to render this story less disagreeable, the reader may suppose that T―― was really very sorry, and behaved generously to the family of the old man. What he must not suppose is that T―― was ever able to imagine why the old man had smiled the smile which led to the outrage and the tragedy.

 

1
   The reader will find it well worth his while to consult the chapter entitled 'Domestic Service,' in Miss Bacon's Japanese Girls and Women, for an interesting and just presentation of the practical side of the subject, as relating to servants of both sexes. The poetical side, however, is not treated of,
― perhaps because intimately connected with religious beliefs which one writing from the Christian standpoint could not be expected to consider sympathetically. Domestic service in ancient Japan was both transfigured and regulated by religion; and the force of the religious sentiment concerning it may be divined from the Buddhist saying, still current:

                     Oya-ko wa is-se,

                     Fufu wa ni-se,

                     Shuju wa san-se.

   The relation of parent and child endures for the space of one life only; that of husband and wife for the space of two lives; but the relation between master and servant continues for the period of three existences.

たんぽぽ悼

たんぽぽ悼――

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十六章 日本人の微笑 (一)

 

 

      第二十六章 日本人の微笑 

 

        

 

 世界及びその珍奇な事に關する考を重に小說や傳奇で定める人々は、今でも、東洋は西洋よりも眞面目であると云ふ信仰を何となしに抱いて居る。もう少し高い立脚地から物事を判斷する人々はそれに反して、現在の狀況では、西洋は東洋よりも眞面目である筈だと云ふ、それから眞面目くさつて居る事でも、又その反對らしい事でも、ただ流行として存し得る物だと云ふ。しかし事實は、この事に關して、凡て外の問題に於けると同じく、人類のどちらの半分にも應用のできるやうな正確な規則は作られない。科學的には、今の處どうしてそんな物が出て來るか、その非常に複雜な原因を滿足に說明しようと思はないでただ一般にその對照をなせる結果だけを硏究するより外はない。特別に興味のあるこんな對照を示せる一事は英人と日本人とによつて提供された物である。

 英國人は眞面目な人種、表面ばかり眞面目でなく、人種性格の根抵で眞面目であると云ふのが普通である。それと同じく、英國人程眞面目でない人種と比べても、日本人は表面からも根柢からも甚だ眞面目とは云へないと云ふ事も殆んど間違ひはない。それから少くとも眞面目でないと同じ程度に、日本人はもつと氣樂である、日本人は恐らくやはり文明世界に於て、最も氣樂な人種である。私共西洋の眞面目な者は自分で氣樂だとは云へない。實際私共はどれ程眞面目だか充分知らない、そして產業生活のたえず增大する壓迫のために、どれ程益々眞面目になりさうだか分つて見れば、恐らく驚かずには居られないだらう。私共の氣分を最もよく知る事のできるのは私共程しかつめらしくない人種の間に長く生活するに限るやうだ。私は日本內地は三年近く住んだあとで開港場の神戶で數日間英國流の生活に歸つた時、この確信が甚だ强く私に起つた。もう一度英國人の話す英語を聞いてとてもありさうにない程の感動を受けた。しかしこの感情はほんの暫らく續いただけであつた。私の目的は或必要な買物をする事であつた。私のつれの日本の友人があつた、その人に取つては凡て外國風の生活は、全く新しい不思議な物であつた、そしてその人は私にこんな奇妙な質問をした、『どうしてあの外國人は笑はないのでせう。あなたはあの人達に物を云ふ時、にこにこしてお辭儀をなさるが、あの人達はにこつともしない。何故でせう』

 實際私は全く日本人の風俗習慣になつてしまつて、西洋風と離れてゐたのであつた、そしての私の友人の質問によつて始めて私はよほど妙な事をやつ居る事に氣がついた。それが又二つの人種の間の相互の了解の困難な事のよい例だと思はれた。銘々が他の人種の習慣や動機を自分の習慣や動機で判斷するのは如何にも自然だが又如何にも誤り易いから。日本人は英國人のしかつべらしい事で困れば、英國人も又とにかく日本人の輕薄な事で困るのである。日本人は外國人の『顏が怒つて』居る事を云ふ。外國人は日本人のにこにこ顏をひどく輕蔑して云ふ、彼等はそれが不眞面目を表はして居ると疑ふ、實際不眞面目以外の意味はないと公言する者もある。只少數のもつと注意深い人は硏究の價値ある謎であると認めて居る。私の橫濱の友人の一人は、極めて愛すべき人で、東洋の各開港場で半生以上をすごした人だが、私の內地に出發する丁度前に私に云つた、『君は日本人の生活を硏究するのだから、多分僕のために一つ發見する事ができよう。僕は日本人のにこにこ顏が分らない。澤山經驗あるが一つ云つて見よう。僕が或日山の手から馬に乘つて下りて來た時、僕はその曲り道の間違つた側から登つて來る空車を見た。馬を引き止めようとしても丁度間に合はなかつたらう。しかし大した危險もないと思つて止めて見もしなかつた。僕はただあちら側へ行くやうにと日本語でその車夫にどなつた、ところがその車夫はさうはしないで只曲り道の低い方にある塀に車をよせて梶棒を外側へむけた。僕の乘つて居る速さでは橫道によける間がなかつた、それで直ぐそのつぎに車の梶棒が一つ馬の肩にあたつた。車夫は少しも怪我はしなかつた。僕は馬が出血して居るのを見てムラムラとして、僕の鞭の太い方の端でその男の頭の上からなぐりつけた。その男は僕の顏を見てにつこり笑つて、それからお辭儀をした。そのにつこりが今でも見える。僕はたたきつけられたやうな氣がした。そのにこにこで僕はすつかり參つてしまつて、怒りがすぐに飛んで行つてしまつた。全く、それは丁寧なにこにこであつた。しかし何の意味だつたらう。一體全體あの男はどんなわけで笑つたのだらう。それが分らない』

 私もその當時分らなかつた、しかしその後もつと遙かに分らない微笑の意味が私には分つて來た。日本人は死に面して微笑する事ができる。そして事實いつも微笑する。しかしその時微笑するのも、その外の場合に微笑するのも同じ理由である。その微笑には輕侮や僞善はない。又弱い性格と聯想されがちの病的あきらめの微笑と混雜してはならない。それは念入りの、長い間に養成された禮法である。それは沈默の言語である。しかし人相上の表情に關する西洋風の考からそれを解釋しようと試みるのは、漢字を普通の事物の形に實際似て居る、又は似て居ると想像する事で解釋しようとするのと殆んど同じく成功しさうにない。

 第一印象は重に本能的であるから學術的に幾分信ずべき物と認められて居る、そして日本人の微笑によつて起される第一印象それ自身は事實大してまちがつてゐない。外國人は日本人の顏の大槪嬉しさうな、にこにこした特色に氣がつかない事はない。そしてこの第一印象は大槪非常に愉快である。日本人の微笑は初めのうちは人を喜ばせる。人が始めて疑ふやうになるのはもつとあとの事で、格段な場合、卽ち苦痛、恥辱、失望の場合に、それと同じ微笑を見るに到つた時である。その微笑の一見不適當な事が時として烈しい怒りを起させる事になる。實際外國の居留民と日本人の從者との間の悶着の多數は、この微笑の故である。よい從者は眞面目くさつて居るべきだと云ふ英國の傳說を信じて居る人は、皆彼の「ボーイ」のこの微笑を辛抱して居られさうにはない。しかし現今西洋の風變りなこの特別の點は追々日本人にもよく認められるやうになつて來た、そして普通の英語を話す外國人は微笑を好まないで、とかくそれを侮辱的だと考へ勝ちである事を知るやうになつて來た、それだから開港場に於ける日本の使用人は大槪微笑しなくなつた、そして無愛相な風を裝ふて居る。

 今ここで橫濱の或婦人がその日本の女中の一人について物語つた妙な話を思ひ出した。『私の日本人の乳母が先日何か大變面白い事でもあつたやうににこにこしながら私の處ヘ來て、夫が死んで葬式に行きたいから許してくれと云つて來ました。私は行つてお出でと云ひました。火葬にしたやうです。ところで晩になつて歸つて來て、遺骨の入つた瓶を見せました、(そのうちに齒が一本見えました)、そして「これが私の夫ですよ」と云ひました。そしてさう云つた時實際聲を上げて笑ひました。こんな厭な人間をあなた聞いた事ありますか』

 彼女の召使の態度は不人情であるどころでなく、烈女的であつたのかも知れない、そして甚だ感動すべき說明ができたのかも知れない事を、この話をした婦人に納得させる事は全く不可能であつたらう。淺薄皮相でない人でもこんな場合には表面だけで誤られ易い。しかし開港場の外國居留者の多數は全く淺薄皮相の徒である、そして敵となつて批評する以外には彼等の周圍の人生の表面を離れて見ようとは少しもしない。私に車夫の話をした橫濱の友人の考はそれと違つて居る、この人は表面で物を判斷する事の誤りを認めた。

[やぶちゃん注:この「橫濱の或婦人がその日本の女中の一人について物語つた妙な話」は如何にもあり得そうもない「妙な話」と日本人なら感ずる。ハーンも実は本章の「三」で、それを如何にも「妙な話」として再度、採り上げて検証推理している。 
 
「しかつべらしい」「しかつめらしい」に同じい(「鹿爪らしい」は当て字)。小学館「日本国語大辞典」の「しかつめらしい」には通常の意味項の二つともに、

『いかにも道理にかなっているようである。もっともらしい。しかつべらしい。』

『固苦しくまじめくさった感じがする。まじめぶっている。形式ばっている。ものものしい。しかつべらしい。』

とした上で、『語源説』の箇所に「大言海」他から『シカツベラシの訛』と寧ろ、この口語形容詞の古語である「しかつめらし」の元が「しかづべらし」の転訛とする説が挙げられている。

 しかも、同辞典では、別に見出しとして「しかつべ」「しかつべしい」「しかつべらしい」の三語を総て独立した見出し語とて掲げてある(もう一件、「鹿都部真顔」(しかつべまがお)なる江戸後期の江戸の戯作者(戯作名義は「恋川好町」)で狂歌師のペンネームが載る)。

 その、

「しかつべ」は形容動詞とし、「しかつべらしい」の略から造語された語

とし、使用例に梅亭金鵞(ばいていきんが)『寄笑新聞』寄笑新聞(明治八(一八七五)年刊の維新後の世相を諷刺し皮肉った雑誌。全十一冊)最終号から

『問ひ來し人は眞面眼(シカツベ)に、賣人は買人より利を取りて』(引用は恣意的に漢字を正字化した。以下の例引用部は同様に処理した)

と引く。

 一方、「しかつべしい」は、形容詞の口語とし、

『(「しかつべらしい」の変化した語か)まじめくさっている。もったいぶっている。しかつめらしい。』

とあって、使用例は集成本狂言の「泣尼(なきあま)」から、

『なる程弟子共も數多ござれども。しかつべしい檀林へ學問登し』

とする。この狂言は近世の成立と考えてよい。

 また、「しかつべらしい」は形容詞口語で、古語形容詞シク活用「しかつべらし」を元とするとし、

『「しかつめらしい(鹿爪)に同じ。』

として引用例は歌舞伎「毛抜」で『お勅使へしかつべらしう言譯なでもなることかと聞いて居れば』を引く)歌舞伎十八番の一つである「毛抜」の初演は寛保二(一七四二)年の大坂佐渡嶋長五郎座に於ける安田蛙文(あぶん)作「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」三幕目である)。二つ目の例として講義本「風流志道軒」の序から、『若此書を取て、しかつべらしく讀むものあらば、それこそ眞のたはけにあらずや』と引く(風来山人(平賀源内のペン・ネーム)作の滑稽本「風流志道軒」初板行は宝暦一三(一七六三)年である)。続いて、

『「しかつめらしい(鹿爪)に同じ。』

とし、浄瑠璃「神霊矢口渡」の「一」の、『あいと返事に中居が三絃、しかつべらしく差向ひ』や、二葉亭四迷の「浮雲」の「第一編 第三囘 餘程風變な戀の初峯入 下」から『まづ重くろしく折目正敷居すまって、しかつべらしく思いのたけを言ひ出だそうとすれば』(同小説の発表開始は明治二〇(一八八七)年)他江戸期の俳諧書からと内田魯庵の「社会百面相」の二例を引いて、その後の『語源説』には「大言海」及び前田勇の「上方語源辞典」から『シカリツベクアラシの略』とする。

 以上から、本篇で用いられている「しかつべらしい」は標準語として通用することが判る。近代以前の書物では、しばしば、見かけてきたから知ってい入るが、但し、私は聴き言葉としては、物心ついてから、一度も、耳にしたことは、残念ながら、ない。無論、私も、今まで、自作の文章で、一度も使ったことはない。さればこそ、この長々しい注を附したく思ったのである。

「私のつれの日本の友人」不詳。可能性としては「第十九章 英語教師の日記から(二)に出る、松江の師範学校の同僚であった中山彌一郎が考えられるか。彼は後のハーンの神戸時代(明治二七(一八九四)年十一月に第五高等学校英語教師の契約切れとともに著作に専念するために神戸市の「神戸クロニクル社」に就職して神戸に転居した。その二年後の明治二十九年八月に東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職するまで神戸に住んでいる)まで交際を続けていたことから、つい連想してしまったが、違うかも知れない。少なくとも、この「つれ」「友人」という言い方は、かの眞鍋晃では、ない。

「私の横濱の友人の一人は、極めて愛すべき人で、東洋の各開港場で半生以上をすごした人」最後に「表面で物を判斷する事の誤りを認めた」とハーンが記すこの人物は相応のアメリカの高官か商人のように思われるが、不詳。識者の御教授を乞う。

「僕は日本人のにこにこ顏が分らない。」原文は“I can't understand the Japanese smile.”である。さればここは「僕は日本人のにこにこ顏が分らない。」、「分らない」に傍点を附すべきところである。本章の執筆意図からもここには傍点が必要である

「山の手から馬に乘つて下りて來た時」これは「第一章 私の極東に於ける第一日(九)で私が注した横浜の山手にあった「外人遊歩道」である。リンク先の一部が接続不能となっているが、サイト「ルート・ラボ」の地図豆氏の投稿「外国人遊歩道」 をたどるでルートを容易に確認出来る。ここでのロケーションは、この内から何箇所かを比定出来るが、確定は不能である。

「それで直ぐそのつぎに車の梶棒が一つ馬の肩にあたつた」ここは実は底本では「それで直ぐそのつぎに車の梶棒が一つ馬の肩にあつた」となっている。確かに原文は“and the next minute one of the shafts of that kuruma was in my horse's shoulder.”であるから、誤訳ではない。誤訳ではないが、これを日本語として読むと、どうしても激しく躓く。全く動的な活写になっていないからで、読者は必ず百人が百人、ここで流れが何かに「ぶつかって」今一度、紙面を読み直すはずである。ここは、私は、梶棒が馬の肩に「あつた」(在つた)ではなく、激しく「あたつた」(當つた/打つた/中つた)=「ぶつかつた」でなくては、正しい日本語としては成立しないと考える訳者(「あとがき」から田部隆次氏と推定される)は確信犯でかく訳したとしても、それは間違いであると私は思う。されば、ここは極めて例外的に「あたつた」と「た」の脱字と勝手に判断して「あたつた」と電子化した。大方の御批判を俟つものではある。因みに、平井呈一氏は、このシーンをどう訳されているか、拝見しようではないか。カタストロフだけではなく、この友人の直接話法総てを引くので比較対照されたい(太字はやぶちゃん。平井氏は訳文では傍点を好まれない傾向があると感じている。しかし、ここでも「どうにも」と冠した上に「解(げ)せない」とルビを振って目立たせ、しかも「のだ」と強く断定して、原文の“I can't understand the Japanese smile.”の斜体を美事、日本語に写しておられるのである。それは最後の「ぼくにはかいもく解(げ)せんのだよ」の「かいもく」とルビにさえ作用してmカチッとした額縁とさえなっていることに注意されたい)。

   《引用開始》

「君はこれから日本人の生活を研究しようという人だから、ぼくのためも何か発見してくれるものがあると思うが、ぼくはね、じつをいうと日本人のあのにこにこ顔がどうにも解(げ)せないのだ。いろいろ経験したなかから一例をあげてみると、ある日、ぼくが馬にのって山手(ブラフ)から下りてくると、からの人力車が一台、坂道の曲がり道の反対側を登つてくるのさ。こっちはあわてて馬を止めようとしたが、もう間に合わんし、べつに危いとも思わなかったから、そのまま馬を止めずに、その車夫に、そっち側へ寄れ! と日本語でどなりつけてやった。ところが、車夫のやつ、反対側へ寄りもせずに、平気なつらをして、曲がり道の低い偶の塀ぎわに車を寄せてからに、梶棒を往来の方へつん向けたものだ。こっちは君、パカパカ飛ばして行ったんだから、たまらないやね、よける暇も何もあったもんじゃない。あっというまに、梶棒の片っぽが馬の肩にぶつかってさ、車夫はべつにどこも怪我はしなかったけれども、見ると馬の肩から血がふきだしてるじゃないか。こっちはカッと腹が立ったから、いきなり持ってた鞭の握りで、車夫の頭を殴りつけてやった。するとね、車夫のやつ、ぼくの顔をまじまじと見上げて、にこにこ笑いながら、しきりと頭を下げるんだな。そのにこにこ顔は、いまだに目先に残ってるよ。ぼくは、なんだかふいに背負い投げを食ったような気がしてね。そのにこにこ顔には、すっかり兜をぬいじゃったよ。――腹の立ったのも、いっペんにどこかへすっ飛んじゃってさ。それがね君、じつにまたいんぎんな笑顔なんだ。ありゃあ一体、どういうつもりなのかなあ? なんでにこにこ笑ったのか、ぼくにはかいもく解(げ)せんのだよ

   《引用終了》

この全体こそが、正しい臨場的な名「活」訳である、と私は信じて疑わぬのである。

「私もその當時分らなかつた、しかしその後もつと遙かに分らない微笑の意味が私には分つて來た。」原文は“Neither, at that time, could I; but the meaning of much more mysterious smiles has since been revealed to me.”この訳文もイラっと来る。すんなりはんなり読める平井先生の訳を掲げておく。『そのときは、わたくしにもその意味はわからなかった。しかし今ではわたくしも、その時から思えば、もっと複雑な微笑の意味もわかるようになっている。』。

「敵となつて批評する」老婆心乍ら、この「敵」は「かたき」と訓じているはずである。] 

 

ⅩⅩⅥ

 

THE
JAPANESE SMILE

 

.

 

   THOSE whose ideas of the world and its wonders have been formed chiefly by novels and romance still indulge a vague belief that the East is more serious than the West. Those who judge things from a higher standpoint argue, on the contrary, that, under present conditions, the West must be more serious than the East; and also that gravity, or even something resembling its converse, may exist only as a fashion. But the fact is that in this, as in all other questions, no rule susceptible of application to either half of humanity can be accurately framed. Scientifically, we can do no more just now than study certain contrasts in a general way, without hoping to explain satisfactorily the highly complex causes which produced them. One such contrast, of particular interest, is that afforded by the English and the
Japanese.

   It is a commonplace to say that the English are a serious people,— not superficially serious, but serious all the way down to the bed-rock of the race character. It is almost equally safe to say that the Japanese are not very serious, either above or below the surface, even as compared with races much less serious than our own. And in the same proportion, at least, that they are less serious, they are more happy: they still, perhaps, remain the happiest people in the civilized world. We serious folk of the West cannot call ourselves very happy. Indeed, we do not yet fully know how serious we are; and it would probably frighten us to learn how much more serious we are likely to become under the ever-swelling pressure of industrial life. It is, possibly, by long sojourn among a people less gravely disposed that we can best learn our own temperament. This conviction came to me very strongly when, after having lived for nearly three years in the interior of Japan, I returned to English life for a few days at the open port of Kobe. To hear English once more spoken by Englishmen touched me more than I could have believed possible; but this feeling lasted only for a moment. My object was to make some necessary purchases. Accompanying me was a Japanese friend, to whom all that foreign life was utterly new and wonderful, and who asked me this curious question: 'Why is it that the foreigners never smile? You smile and bow when you speak to them; but they never smile. Why?'

   The fact was, I had fallen altogether into Japanese habits and ways, and had got out of touch with Western life; and my companion's question first made me aware that I had been acting somewhat curiously. It also seemed to me a fair illustration of the difficulty of mutual comprehension between the two races,— each quite naturally, though quite erroneously, estimating the manners and motives of the other by its own. If the Japanese are puzzled by English gravity, the English are, to say the least, equally puzzled by Japanese levity. The Japanese speak of the 'angry faces' of the foreigners. The foreigners speak with strong contempt of the Japanese smile: they suspect it to signify insincerity; indeed, some declare it cannot possibly signify anything else. Only a few of the more observant have recognized it as an enigma worth studying. One of my Yokohama friends — a thoroughly lovable man, who had passed more than half his life in the open ports of the East — said to me, just before my departure for the interior: 'Since you are going to study Japanese life, perhaps you will be able to find out something for me. I can't understand the Japanese smile. Let me tell you one experience out of many. One day, as I was driving down from the Bluff, I saw an empty kuruma coming up on the wrong side of the curve. I could not have pulled up in time if I had tried; but I didn't try, because I didn't think there was any particular danger. I only yelled to the man in Japanese to get to the other side of the road; instead of which he simply backed his kuruma against a wall on the lower side of the curve, with
the shafts outwards. At the rate I was going, there wasn't room even to swerve; and the next minute one of the shafts of that kuruma was in my horse's shoulder. The man wasn't hurt at all. When I saw the way my horse was bleeding, I quite lost my temper, and struck the man over the head with the butt of my whip. He looked right into my face and smiled, and then bowed. I can see that smile now. I felt as if I had been knocked down. The smile utterly nonplussed me,— killed all my anger instantly. Mind you, it was a polite smile. But what did it mean? Why the devil did the man smile? I can't understand it.'

   Neither, at that time, could I; but the meaning of much more mysterious smiles has since been revealed to me. A Japanese can smile in the teeth of death, and usually does. But he then smiles for the same reason that he smiles at other times. There is neither defiance nor hypocrisy in the smile; nor is it to be confounded with that smile of sickly resignation which we are apt to associate with weakness of character. It is an elaborate and long-cultivated etiquette. It is also a silent language. But any effort to interpret it according to Western notions of physiognomical expression would be just about as successful as an attempt to interpret Chinese ideographs by their real or fancied resemblance to shapes of familiar things.

   First impressions, being largely instinctive, are scientifically recognized as partly trustworthy; and the very first impression produced by the Japanese smile is not far from the truth The stranger cannot fail to notice the generally happy and smiling character of the native faces; and this first impression is, in most cases, wonderfully pleasant. The Japanese smile at first charms. It is only at a later day, when one has observed the same smile under extraordinary circumstances,— in moments of pain, shame, disappointment,— that one becomes suspicious of it. Its apparent inopportuneness may even, on certain occasions, cause violent anger.
Indeed, many of the difficulties between foreign residents and their native servants have been due to the smile. Any man who believes in the British tradition that
a good servant must be solemn is not likely to endure with patience the smile of his 'boy.' At present, however, this particular phase of Western eccentricity is becoming more fully recognized by the Japanese; they are beginning to learn that the average English-speaking foreigner hates smiling, and is apt to consider it insulting; wherefore Japanese employees at the open ports have generally ceased to smile, and have assumed an air of sullenness.

   At this moment there comes to me the recollection of a queer story told by a lady of Yokohama about one of her Japanese servants. 'My Japanese nurse came to me the other day, smiling as if something very pleasant had happened, and said that her husband was dead, and that she wanted permission to attend his funeral. I told her she could go. It seems they burned the man's body. Well, in the evening she returned, and showed me a vase containing some ashes of bones (I saw a tooth among them); and she said: "That is my husband." And she actually laughed as she said it! Did you ever hear of such disgusting creatures?'

   It would have been quite impossible to convince the narrator of this incident that the demeanour of her servant, instead of being heartless, might have been heroic, and capable of a very touching interpretation. Even one not a Philistine might be deceived in such a case by appearances. But quite a number of the foreign residents of the open ports are pure Philistines, and never try to look below the surface of the life around them, except as hostile critics. My Yokohama friend who told me the story about the kurumaya was quite differently disposed: he recognized the error of judging by appearances.

2015/12/14

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について (七)/ 第二十五章~了

 

         

 

 『あゝ、金十郞さん』私は歸るみちすがら云つた、『私はこれまで死人が歸つて來る日本の話を澤山讀んだり聞いたりして居る。それから君自身からも死人が歸ると云ふ事が今でも信じられて居る事實とその理由を聞いて居るが、讀んだ事と、君から聞いたところから考へると、死人の歸つて來るのは望ましい事ではない。つまり憎いから、妬ましいから、或は悲しくて落ちつけないから歸つて來る。しかし惡意でなく歸つて來る話は――どこかに書いてないかね。實際そんな話は普通恐ろしい事や無道な事ばかりで綺麗な事や眞面目な事は何にもない』

 さてこんな事を云つたのは、彼を誘ひ出すためであつた。そこで私がこれから書く話をしてくれたから丁度私の注文通りの返事をしてくれた事になる、―― 

 

 『昔、何とか名前は忘れたが或大名の時分にこの昔からの町に大層仲の好い男と女がありました。名前は殘つてゐませんが話は殘つてゐます。小さい時から許嫁になつてゐました、そして双方の兩親は隣り同志でしたから、子供の時に一緖に遊びました。そして大きくなるに隨つてお互にいつも益々好きになるばかりでした。

 『男の方が一人前にならないうちに、兩親がなくなりました。しかし彼は、高い身分の役人でこの靑年のうちの友人である富有な武士に仕へる事ができました。そしてこの保護者はすぐに彼を引立てて、禮儀正しく、賢く、そして武術にすぐれるやうに世話をしました。それでこの靑年は自分の許嫁と結婚のできるやうな地位にぢきに達せられさうに思はれました。ところが北と東に戰爭が起つたので、彼は突然主人に隨つて戰場に赴くやうに召集されました。しかし出發の前に女に遇ふ事ができました。そして女の兩親の前で誓約を取交(かは)しました。そして生きてゐたら、その日から一年以內に結婚するために許嫁の處ヘ歸つて來る事を約束しました。

 行つてから餘程になりましたが、戰地から便りがありません、今日のやうな郵便がその當時なかつたからでした、女の方で戰爭の運と云ふ事ばかり大層心配しましたので、そのあげくすつかりやせて血色がなくなつて弱りました。それからやうやく軍隊の方から大名の方へ來た使から男の噂を聞きました、それからもう一度別の使から手紙が屆きました。それからさき何の沙汰もありません。待つ身になると一年は長いものです。その一年は過ぎましたが、彼は歸つて參りませんでした。[やぶちゃん注:前後に二重鍵括弧がないのはママ。次の次の段落も同じくないので、これは附け忘れではなく、時間経過を感じさせたり、一種の語りへの誘いを効果的にするためか、とも思われる。]

 『いくつかの季節が過ぎましたが、歸つて參りません。それで女は男を死んだものと思ひ込みました、それで病氣になつて、床について、死んで、葬られました。外に子供のない年老いた兩親は大層悲しんで、うちが淋しくなつたので嫌ひになました。暫らくして二人は持つてゐる物を皆賣拂つて千箇寺に出ようと決心しました。日蓮宗の千箇寺をするには長年かかります。それで小さい家と、家の中の物を一切賣拂ひました。先祖の位牌と、賣つてはならない聖い物と、葬られた娘の位牌だけは別にして旦那寺に預けて行きました、さうするのが、鄕里を去る人々の習慣です。このうちは日蓮宗でお寺は妙高寺でした。

 兩親が旅に出てから四日しかたたない日に、娘の許嫁が歸つて參りました。主人の許しを得て、約束を果す事を工夫してゐたのです。しかし途中の國々は到る處戰爭ぐで通りや峠は軍勢で固められてゐました、それで色々の難儀で歸りが長引いたのです。それから自分の不幸を聞いて悲しみの餘り病氣になりました、そして死にかけて居る人のやうに、長い間人事不省になつてゐました。

 『しかし力が出て來ると、色々の苦しい記憶が又歸つて來て、自分も死ななかつた事を殘念に思ひました。それから許嫁の墓の前で自害しようと決心しました、それから人に見られないやうになるとすぐに、刀を取つて少女の葬られた墓地へ參りました。そこの妙高寺の墓地は淋しい場所です。そこで女の墓を見つけて、その前に脆いて、祈りかつ泣いて、これから自害する事を彼女にささやきました。すると不意に彼は女の聲が「あなた」と叫んで、女の手が彼の手に觸れるのを感じました、そこでふり向いて見ると彼のわきに彼女がニコニコにて跪いて居るのを見ましたが、昔通り綺麗で、只少し色が靑ざめて居るだけでした。その時彼の心臟は躍つて、今の不思議と疑ひと嬉しさで言葉が出ませんでした。ところが、女は云ひました『疑がつちやいけません。本當に私です。私死んだのではありません。皆間違です。私死んだと思はれて葬られましたの――早まつて葬られましたの。それで兩親も私を死んだものと早合點して巡禮に出ちまつたのです。でも御覽の通り私死んぢやゐません、――幽靈ぢやありません。私です、疑がつちやいやですよ。そして私、あなたの心、よく分りました、それで苦しんで待つてゐたかひがありました。……とにかく、さあ、すぐに外の町へ行きませう、さうしないと人がこの事を聞きつけてうるさいから、皆私を未だ死んだ者と思つてゐますからね』

 『それで二人は誰にも見られないで、出かけました。そして甲斐國身延村までも出かけました。そこに日蓮宗の名高いお寺があるからです。女はかねて申しました、「私の兩親がきつと巡禮の間に身延に參詣なさると思ひますから、そこに居ると見つかつて皆又一緖になれます」そこで身延に來てから女は「小さい店を開きませう」と申しました。そこで聖い場所へ行く廣い道で、小さい喰べ物店を開いて、子供等のために菓子やおもちやを賣り、巡禮のために食物を賣りました。二年の間そんなにして暮らしましたが店は繁昌しました、それから男の子が一人生れました。

 『ところで子供が一年と二ケ月になつた時、妻の兩親が巡禮の道すがら身延に參りました、そして食物を買ひに小さい店に立寄つて、そこで娘の許嫁を見て、驚き叫んで、泣いて、色々の事を尋ねました。それから男は兩親に入つて貰つて、二人の前でお辭儀をして、かう云つて二人を驚かせました「實はお孃さんは死んぢやゐません、今私の妻になつてゐます、そして私共の間にむすこがあります。どうか行つて喜ばせてやつて下さい、もうかねがねお遇ひする時を待つてゐましたから』

 『子供はゐましたが、母の方は見えません。ほんの一寸出かけたやうで、枕が未だ暖かでした。長い間待つてゐました、それからさがし始めましたが、どうしても分りません。

 『それから、母と子供を蔽ふてあつた蒲團の下に、以前妙高寺に預けて置いた覺えのある物――死んだ娘の位牌――を發見した時に始めて、彼等はさとりました』 

 

 話がすんでから、私は考込んだやうに見えたに相違ない、それは老人は、かう云つたから、――

 『多分、旦那はこの話をばかばかしいとお考へなさるでせう』

 『いや、金十郞さん、この話は私の胸にこたヘました』

[やぶちゃん注:類話は仏教説話に散在しているが、本話の確実な原話が知りたい。識者の御教授を乞うものである。

「實際そんな話は普通恐ろしい事や無道な事ばかりで綺麗な事や眞面目な事は何にもない」ここの原文は“Surely the common history of them is like that which we have this night seen: much that is horrible and much that is wicked and nothing of that which is beautiful or true.”で、明らかに省略があって日本語としてうまく通じていない。平井呈一氏の訳がよい。『ふつう、そういう話はきまって今夜見た話のようなものばかりで、凄味や非道なことが多いかわりに、美しさや真実味がすこしもありません。』。

「千箇寺」辞書類では「せんがじまゐり(せんがじまいり)」と濁っているが、日蓮宗宗門関連の公式サイト内には「せんかじまいり」と清音の表記も見かける。「千社参り」(神道の神社参りであるが、後には寺院巡礼でもかく呼んだ)や「六十六部」(「法華經」を六十六部書写して日本全国六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った廻国僧、及び、そうした巡礼法で、鎌倉時代から流行し始めたが、江戸期になると、白衣に手甲脚絆草鞋履きで、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を背負い、六部笠を被った姿で、諸国の寺社に参詣する巡礼や遊行聖(ゆぎょうひじり)となり、果ては、そうした風体(ふうてい)で、米銭を請い歩くことを目的とした乞食をも、かく言うようになった)などから生じた日蓮宗徒の巡礼法。多くの日蓮宗の寺を巡礼参詣し、自身の生国や名前を記した納札を寺の柱や扉に貼って巡礼した。

「日蓮宗」「妙高寺」不詳。松江市寺町に日蓮宗の妙興寺という寺は現存するが、これを指しているかどうかは全く不明である。

「自分の不幸」ちょっと判り難いが、娘が亡くなってしまい、その両親も千箇寺参りに出て行ったことを聴いたのである。

「『疑がつちやいけません。本當に私です。……皆私を未だ死んだ者と思つてゐますからね』」この前後の二重鍵括弧はママ。誤植とも思ったが、敢えてそのままにしておいた。或いは、(」』)を「五月蠅い」と田部氏は思ったのかも知れない。

「日蓮宗の名高いお寺」現在の山梨県南巨摩郡身延町身延にある日蓮宗総本山身延山久遠寺。日蓮の遺言に従って遺骨はこの身延山に祀られてある。

「『子供はゐましたが、母の方は見えません。ほんの一寸出かけたやうで、枕が未だ暖かでした。長い間待つてゐました、それからさがし始めましたが、どうしても分りません。」この最後の二重鍵括弧がないのは、ママ。誤植というより、私は、時空間が断ち斬れる瞬間であり、田部氏の確信犯のようにも思われるので、ママとした。

「いや、金十郞さん、この話は私の胸にこたヘました」これは真実(まっこと)、ハーンの述懐である。……この話は間違いなく、記憶にさえないハーン自身の空想の中の思い出をフラッシュ・バックさせずにはおかぬからである…… 

 

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   'O Kinjurō,' I said, as we took our way home, 'I have heard and I have read many Japanese stories of the returning of the dead. Likewise you yourself have told me it is still believed the dead return, and why. But according both to that which I have read and that which you have told me, the coming back of the dead is never a thing to be desired. They return because of hate, or because of envy, or because they cannot rest for sorrow. But of any who return for that which is not evil — where is it written? Surely the common history of them is like that which we have this night seen: much that is horrible and much that is wicked and nothing of that which is beautiful or true.'

   Now this I said that I might tempt him. And he made even the answer I desired, by uttering the story which is hereafter set down:

 

    'Long ago, in the days of a daimyō whose name has been forgotten, there lived in this old city a young man and a maid who loved each other very much. Their names are not remembered, but their story remains. From infancy they had been betrothed; and as children they played together, for their parents were neighbors. And as they grew up, they became always fonder of each other.

   'Before the youth had become a man, his parents died. But he was able to enter the service of a rich samurai, an officer of high rank, who had been a friend of his people. And his protector soon took him into great favor, seeing him to be courteous, intelligent, and apt at arms. So the young man hoped to find himself shortly in a position that would make it possible for him to marry his betrothed. But war broke out in the north and east; and he was summoned suddenly to follow his master to the field. Before departing, however, he was able to see the girl; and they exchanged pledges in the presence of her parents; and he promised, should he remain alive, to return within a year from that day to marry his betrothed.

   'After his going much time passed without news of him, for there was no post in that time as now; and the girl grieved so much for thinking of the chances of war that she became all white and thin and weak. Then at last she heard of him through a messenger sent from the army to bear news to the daimyō and once again a letter was brought to her by another messenger. And thereafter there came no word. Long is a year to one who waits. And the year passed, and he did not return.

   'Other seasons passed, and still he did not come; and she thought him dead; and she sickened and lay down, and died, and was buried. Then her old parents, who had no other child, grieved unspeakably, and came to hate their home for the lonesomeness of it. After a time they resolved to sell all they had, and to set out upon a sengaji,— the great pilgrimage to the Thousand Temples of the Nichiren-Shū, which requires many years to perform. So they sold their small house with all that it contained, excepting the ancestral tablets, and the holy things which must never be sold, and the ihai of their buried daughter, which were placed, according to the custom of those about to leave their native place, in the family temple. Now the family was of the Nichiren-Shu; and their temple was Myōkōji.

   'They had been gone only four days when the young man who had been betrothed to their daughter returned to the city. He had attempted, with the permission of his master, to fulfil his promise. But the provinces upon his way were full of war, and the roads and passes were guarded by troops, and he had been long delayed by many difficulties. And when he heard of his misfortune he sickened for grief, and many days remained without knowledge of anything, like one about to die.

   'But when he began to recover his strength, all the pain of memory came back again; and he regretted that he had not died. Then he resolved to kill himself upon the grave of his betrothed; and, as soon as he was able to go out unobserved, he took his sword and went to the cemetery where the girl was buried: it is a lonesome place,— the cemetery of Myōkōji. There he found her tomb, and knelt before it, and prayed and wept, and whispered to her that which he was about to do. And suddenly he heard her voice cry to him: "Anata!" and felt her hand upon his hand; and he turned, and saw her kneeling beside him, smiling, and beautiful as he remembered her, only a little pale. Then his heart leaped so that he could not speak for the wonder and the doubt and the joy of that moment. But she said: "Do not doubt: it is really I. I am not dead. It was all a mistake. I was buried, because my people thought me dead,— buried too soon. And my own parents thought me dead, and went upon a pilgrimage. Yet you see, I am not dead,— not a ghost. It is I: do not doubt it! And I have seen your heart, and that was worth all the waiting, and the pain. . . . But now let us go away at once to another city, so that people may not know this thing and trouble us; for all still believe me dead."

   'And they went away, no one observing them. And they went even to the village of Minobu, which is in the province of Kai. For there is a famous temple of the Nichiren-Shū in that place; and the girl had said: "I know that in the course of their pilgrimage my parents will surely visit Minobu: so that if we dwell there, they will find us, and we shall be all again together." And when they came to Minobu, she said: "Let us open a little shop." And they opened a little food-shop, on the wide way leading to the holy place; and there they sold cakes for children, and toys, and food for pilgrims. For two years they so lived and prospered; and there was a son born to them.

   'Now when the child was a year and two months old, the parents of the wife came in the course of their pilgrimage to Minobu; and they stopped at the little shop to buy food. And seeing their daughter's betrothed, they cried out and wept and asked questions. Then he made them enter, and bowed down before them, and astonished them, saying: "Truly as I speak it, your daughter is not dead; and she is my wife; and we have a son. And she is even now within the farther room, lying down with the child. I pray you go in at once and gladden her, for her heart longs for the moment of seeing you again."

   'So while he busied himself in making all things ready for their comfort, they entered the inner, room very softly,— the mother first.

   'They found the child asleep; but the mother they did not find. She seemed to have gone out for a little while only: her pillow was still warm. They waited long for her: then they began to seek her. But never was she seen again.

   'And they understood only when they found beneath the coverings which had covered the mother and child, something which they remembered having left years before in the temple of Myōkōji,— a little mortuary tablet, the ihai of their buried daughter.' 

 

   I suppose I must have looked thoughtful after this tale; for the old man said:

   'Perhaps the Master honourably thinks concerning the story that it is foolish?'

   'Nay, Kinjurō, the story is in my heart.'

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について (六)

 

        

 

 武士と鬼のこのまぼろしは金十郞に一つ妙な話を思ひ出させた、それを幻燈がすむと同時に語り出した。こんな見世物のあとでは、どんなに物凄い話でも平凡になり易い、しかし金十郞の話は、殆んどどんな場合にでも、それを語るだけの價値がある程いつも奇拔な物である。今それで私は寒さを忘れて熱心にそれを聞いた、―― 

 『昔、昔、妖怪や女に化けた狐がこの國に出た頃、兩親と共に都へ來た武士の娘があつた、大層綺麗で見る程の男は皆心を奪はれた。それで數百人の若い侍(さむらひ)が彼女と結婚する事を望んで、その兩親にこの事を申込んだ。日本では結婚は兩親によつて取りきめられるのが習慣であつたから。しかし凡ての習慣に例外がある。この少女の場合もそんな例外であつた。彼女の兩親は、娘に自分の夫を選ぶ事を許すつもりである事、それから彼女を得ようと思ふ者は彼女に直接申込む事勝手たるべき事を宣言した。

 高位高官の人や大金持の人が澤山求婚者として、その家に入る事を許された、銘々その得意な方法で彼女の愛を得ようとした、――贈物をもつてする者、甘言をもつてする者、彼女を讚美する歌をもつてする者、永久に變らない誓約をもつてする者、色々であつた。銘々に彼女は程よく又見込みのありさうな返事をした、しかし彼女は妙な條件をもち出した。どの求婚者にも武士としての名譽の言䈎に誓つて、彼女は固く約束させた、それは求婚者が彼女に對する愛情の試驗をうけて、さてその試驗の如何なる物であるかは何人にも決して洩らさない事であつた。そこでこれには誰も異存はなかつた。

 ところが最も自信のある求婚者でも試驗を受けてからは、突然その懇願を止めた、さうして皆、何か非常に恐怖した事があるらしかつた。實際その町から逃げ出して友人からどれ程歸る事を勸められても承知しない者も、僅かではなかつた。しかし何人もその理由を暗示するだけの事をした者もなかつた。それでその祕密を何にも知らない人々はその綺麗な少女は妖狐か鬼女かに違ひないとささやいてゐた。

 さて、高位高官の求婚者達が皆その申込みを捨てた頃に、刀の外に何一つ財產のない武士が現れた。善良にして義に篤い、それから愛想のよい男であつた、女の方でも好きであつたらしい。それでも彼女はやはり外の人と同じやうに誓はせた、そのあとで或晩再び來て貰ふ事を約束した。

 その晩になると、彼はその家でその少女だけに迎へられた。人手を借らないで自分ひとりで彼の前へ食膳を運んで接待した、それからおそくなつて一緖に出かけようと云つた。彼は喜んで承諾して、何處へ行きたいかと尋ねた。この問に對して彼女は何の答もしないで、突然默り込んで、やうすが變になつた。暫らくして彼女は彼をひとり置いてその部屋から退いた。

 眞夜中すぎて餘程たつてから漸く女は戾つた、幽靈のやうに眞白の裝束をして、一言も物を云はないで、彼女のあとから來るやうに合圖した。全市が眠つて居る間に家を出て二人は急いだ。所謂『朧月夜』であつた。いつもこんな夜に幽靈が出ると云はれる。女は足早に案內した、女が足早に通る時、犬が吠えた、町を離れて大きな樹の影になつて居る小さい丘のある場所に達した、そこには古い墓地があつた。そこへ女は――白い影が暗黑の中へ――すつと入つた。不思議に思ひながら彼は續いた、刀に手をかけながら。それから彼の眼はその暗黑に慣れて、そして見えて來た。

 新しい墓の側で女は止まつて、彼に待つやうに合圖した。墓掘りの道具は未だそこに置いてあつた。それを一つ取つて女は不思議な早さと力で必死になつて掘り始めた。たうとう女の鍬が棺の蓋に當つてブーンと音がした、すぐ新しい白木の棺が露出した。蓋を破つて、その中の死骸――子供の死骸――を出した。お化けのやうな身振で死體の腕を一本もぎ取つて、二つに折つた。そこで坐つて、上の方の半分を喰べ出した。それからあと半分を彼女の愛人の前に投げて『私を愛するとおつしやるなのなら、これをめし上れ、これが私の喰べ物です』と叫んだ。

 ただ少しのためらひもなく、彼は墓の向側に坐つて、腕の半分を喰べた、それから『結構、どうかもう少し下さい』と云つた。その腕は京都製の最上等の菓子でできたものであつたから。

 その時少女はふき出して跳び上つて叫んだ、『私の勇敢な求婚者のうち、逃げ出さない者はあなただけでした。私は恐れない夫がほしかつた。私あなたとなら結婚します、あなたなら愛します、あなたこそ男です』

[やぶちゃん注:実は、底本末の本章の訳者と思われる田部隆次氏の「あとがき」によれば、この「六」と次の「七」に現われる、この二つの怪談話(この「六」は実際には擬似怪談であるが)は『共に夫人の話した松江の物であつた』とある。さればこそ、この冒頭の「しかし金十郞の話は、殆んどどんな場合にでも、それを語るだけの價値がある程いつも奇拔な物である。今それで私は寒さを忘れて熱心にそれを聞いた」とあるのは、さりげない、密かな――セツへのオマージュ――なのである。なお、私は本話の原話について不学にして知らない。識者の御教授を乞うものである。] 

 

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   The vision of the samurai and the goblin reminded Kinjurō of a queer tale, which he began to tell me as soon as the shadow-play was over. Ghastly stories are apt to fall flat after such an exhibition; but Kinjurō's stories are always peculiar enough to justify the telling under almost any circumstances. Wherefore I listened eagerly, in spite of the cold:

 

   'A long time ago, in the days when Fox-women and goblins haunted this land, there came to the capital with her parents a samurai girl, so beautiful that all men who saw her fell enamoured of her. And hundreds of young samurai desired and hoped to marry her, and made their desire known to her parents. For it has ever been the custom in Japan that marriages should be arranged by parents. But there are exceptions to all customs, and the case of this maiden was such an exception. Her parents declared that they intended to allow their daughter to choose her own husband, and that all who wished to win her would be free to woo her.

   'Many men of high rank and of great wealth were admitted to the house as suitors; and each one courted her as he best knew how,— with gifts, and with fair words, and with poems written in her honor, and with promises of eternal love. And to each one she spoke sweetly and hopefully; but she made strange conditions. For every suitor she obliged to bind himself by his word of honor as a samurai to submit to a test of his love for her, and never to divulge to living person what that test might be. And to this all agreed.

   'But even the most confident suitors suddenly ceased their importunities after having been put to the test; and all of them appeared to have been greatly terrified by something. Indeed, not a few even fled away from the city, and could not be persuaded by their friends to return. But no one ever so much as hinted why. Therefore it was whispered by those who knew nothing of the mystery, that the beautiful girl must be either a Fox-woman or a goblin.

   'Now, when all the wooers of high rank had abandoned their suit, there came a samurai who had no wealth but his sword. He was a good man and true, and of pleasing presence; and the girl seemed to like him. But she made him take the same pledge which the others had taken; and after he had taken it, she told him to return upon a certain evening.

   'When that evening came, he was received at the house by none but the girl herself. With her own hands she set before him the repast of hospitality, and waited upon him, after which she told him that she wished him to go out with her at a late hour. To this he consented gladly, and inquired to what place she desired to go. But she replied nothing to his question, and all at once became very silent, and strange in her manner. And after a while she retired from the apartment, leaving him alone.

   'Only long after midnight she returned, robed all in white,— like a Soul,— and, without uttering a word, signed to him to follow her. Out of the house they hastened while all the city slept. It was what is called an oborozuki-yo — 'moon-clouded night.' Always upon such a night, 'tis said, do ghosts wander. She swiftly led the way; and the dogs howled as she flitted by; and she passed beyond the confines of the city to a place of knolls shadowed by enormous trees, where an ancient cemetery was. Into it she glided,— a white shadow into blackness. He followed, wondering, his hand upon his sword. Then his eyes became accustomed to the gloom; and he saw.

   'By a new-made grave she paused and signed to him to wait. The tools of the grave-maker were still lying there. Seizing one, she began to dig furiously, with strange haste and strength. At last her spade smote a coffin-lid and made it boom: another moment and the fresh white wood of the kwan was bare. She tore off the lid, revealing a corpse within,— the corpse of a child. With goblin gestures she wrung an arm from the body, wrenched it in twain, and, squatting down, began to devour the upper half. Then, flinging to her lover the other half, she cried to him, "Eat, if thou lovest me! this is what I eat!"

   'Not even for a single instant did he hesitate. He squatted down upon the other side of the grave, and ate the half of the arm, and said, "Kekkō degozarimasu! mo sukoshi chōdai." [3] For that arm was made of the best kwashi [4] that Saikyō could produce.

   'Then the girl sprang to her feet with a burst of laughter, and cried: "You only, of all my brave suitors, did not run away! And I wanted a husband: who could not fear. I will marry you; I can love you: you are a man!"' 

 

3
   'It is excellent: I pray you give me a little more.'

4
   Kwashi: Japanese confectionery.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について (五)

 

          

 

 地獄から出て、もつと大きい、それからずつともつと寒い建物にある幻燈の方へ行つた。日本の幻燈は殆んどいつでも、色々な點で興味があるが、西洋の發明を東洋趣味に適合させた日本人の天才を實際に見せて居る點で或は特別に興味があらう。日本の幻燈は全く劇的である。臺詞(せりふ)は見えない人物が述べる、役者と背景はただ明るい影になつて見えると云ふ芝居である。それで凡ての種類の妖怪變化の物に特に適して居るから幽靈の出る芝居は好題目になる。この小屋はひどく寒いので、私は一つ見るだけしか待てなかつた、――つぎはその梗槪である。――

 

 第一場。――甚だ綺麗な田舍娘とその老母がうちで一緖に坐つて居る。母は身を悶えて烈しく泣く。その盛んなすすり泣きの間からとぎれて聞える狂氣の言葉で察すると、娘はどこか山中の淋しい社の神樣に人身御供となる事にきまつて居る。その神樣は惡神である。一年に一囘、その神樣が喰べるための少女が欲しいと云ふ合圖にどこか農家の藁屋根に矢を射る。少女をすぐに送らないと、神樣は收穫物や牛をなくしてしまふ。母は泣き叫んで、白髮をかきむしりながら退場。娘は頭を垂れて、やさしくあきらめたやうすで退場。 

 

 第二場――道ばたの茶屋の前、櫻花滿開。人足が駕籠のやうにしてその中に娘が居る筈の大さな箱をかついで來る。箱をおろして、飮食するために入る、おしやべりの主人に話をする。兩刀をさした立派な武士が入場。箱について尋ねる。おしやべりの主人は人足から聞いた話をくり返へす。武士は烈しい憤怒を表はして神樣は善良で、――少女を喰べる筈はないと斷言する。その所謂神樣は鬼であると宣言する。鬼は退治すべき物と云ふ。箱を開けと命ずる。娘をうちへ歸してやる。自分が代つて箱に入る、それから人足に、命が惜しければ、その社へ直ち運べと命ずる。

 

 第三場。――森を通つて夜、社へ人足が近づいて來る。人足は恐れる。箱を落して逃げる。人足退場。暗がりに箱だけ殘る。覆面した眞白の物入場。その物は氣味の惡いうなり聲を出し、恐ろしい叫び聲を發する。箱はやはりそのまま。その物覆面を取つてその顏を見せる、――光つた眼をした骸骨であつた。〔見物は一時に『アアアアアア』の音を立てる〕その物はその手を出す、――大きな猿のやうな手で、鷲のやうな爪がある。〔見物は又『アアアアアア』と叫ぶ〕その物は箱に近づく、それにさはる、箱を開く。勇ましい武士がとび出す。格鬪になる、太鼓が戰爭らしくどろどろと鳴る。勇ましい武士は柔術を巧みに使ふ。鬼を投げ倒し、蹈みつけて、首をはねる。首は不意に大きくなつて、家の大きさになる、武士の頭をかみ取らうとする。武士は刀でそれに斬りつける。首はうしろへころがつて、火を吹いて、消える。終り。一同退場。

[やぶちゃん注:これは知られた岩見重太郎の狒々(ひひ)退治である。私の電子テクスト芥川龍之介岩見重太郞附やぶちゃん注釈の注などを参照されたい。 

 

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   Out of hell, we found our way to a magic-lantern show being given in a larger and even much colder structure. A Japanese magic-lantern show is nearly always interesting in more particulars than one, but perhaps especially as evidencing the native genius for adapting Western inventions to Eastern tastes. A Japanese magic-lantern show is essentially dramatic. It is a play of which the dialogue is uttered by invisible personages, the actors and the scenery being only luminous shadows. 'Wherefore it is peculiarly well suited to goblinries and weirdnesses of all kinds; and plays in which ghosts figure are the favorite subjects. As the hall
was bitterly cold, I waited only long enough to see one performance—of which the following is an epitome:

   SCENE . — A beautiful peasant girl and her aged mother, squatting together at home. Mother weeps violently, gesticulates agonisingly. From her frantic speech, broken by wild sobs, we learn that the girl must be sent as a victim to the Kami-Sama of some lonesome temple in the mountains. That god is a bad god. Once a year he shoots an arrow into the thatch of some farmer's house as a sign that he wants a girl — to eat! Unless the girl be sent to him at once, he destroys the crops and the cows. Exit mother, weeping and shrieking, and pulling out her grey hair. Exit girl, with downcast head, and air of sweet resignation.

   SCENE II. — Before a wayside inn; cherry-trees in blossom. Enter coolies carrying, like a palanquin, a large box, in which the girl is supposed to be. Deposit box; enter to eat; tell story to loquacious landlord. Enter noble samurai, with two swords. Asks about box. Hears the story of the coolies repeated by loquacious landlord. Exhibits fierce indignation; vows that the Kami-Sama are good,— do not eat girls. Declares that so-called Kami-Sama to be a devil. Observes that devils must be killed. Orders box opened. Sends girl home. Gets into box himself, and commands coolies under pain of death to bear him right quickly to that temple.

   SCENE III. — Enter coolies, approaching temple through forest at night. Coolies afraid. Drop box and run. Exeunt coolies. Box alone in the dark. Enter veiled figure, all white. Figure moans unpleasantly; utters horrid cries. Box remains impassive. Figure removes veil, showing Its face—a skull with phosphoric eyes. [Audience unanimously utter the sound 'Aaaaaa!'] Figure displays Its hands—monstrous and apish, with claws. [Audience utter a second 'Aaaaaa!'] Figure approaches the box, touches the box, opens the box! Up leaps noble samurai. A wrestle; drums sound the roll of battle. Noble samurai practises successfully noble art of ju-jutsu. Casts demon down, tramples upon him triumphantly, cuts off his head. Head suddenly enlarges, grows to the size of a house, tries to bite off head of samurai. Samurai slashes it with his sword. Head rolls backward, spitting fire, and vanishes. Finis. Exeunt omnes.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について (三)・(四)

 

       

 

 化け物に見切りをつて、私共は二人の少女の踊りを見に小さい野外劇場へ行つた。しばらく踊つたあとで、一人の少女が劔を出して今一人の少女の首を切り落して、テイブルの上に置く、そこでその首が口を開けて、歌ひ出した。これは皆鮮やかにできたが、私の心は化け物で未だ一杯になつてゐた。それで私は金十郞に尋ねた、――

 『金十郞さん、あの化け物の人形を私共が見たが、――人はあれが本當にあるものと信じて居るのでせうか』

 『もう信じませんね』――金十郞は答へた、――『とにかくこの町の人の間では信ずる者はありません。田舍の方ではさうでないかも知れません。私共は佛樣を信じます、昔の神樣を信じます、それから死んだ人が殘酷な事を復讐に、或は正しい行を是非させるために、諮つて來る事を信ずる人も澤山ありさうです。しかし昔の人が信じたやうな事は悉く信ずると云ふ事はありません。……旦那』私共は別の妙な見世物の處へ來た時、附け加ヘて云つた、『旦那がおいやでなければ、地獄へ只一錢で行つて見られます……』

 『宜しい』私は答ヘた。『二錢出して、二人で地獄へ行かう』 

 

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   Forsaking the goblins, we visited a little open-air theatre to see two girls dance. After they had danced awhile, one girl produced a sword and cut off the other girl's head, and put it upon a table, where it opened its mouth and began to sing. All this was very prettily done; but my mind was still haunted by the goblins. So I questioned Kinjurō:

   'Kinjurō, those goblins of which we the ningyō have seen,— do folk believe in the reality, thereof?'

   'Not any more,' answered Kinjurō,— 'not at least among the people of the city. Perhaps in the country it may not be so. We believe in the Lord Buddha; we believe in the ancient gods; and there be many who believe the dead sometimes return to avenge a cruelty or to compel an act of justice. But we do not now believe all that was believed in ancient time. . . .Master,' he added, as we reached another queer exhibition, 'it is only one sen to go to hell, if the Master would like to go' —  

   'Very good, Kinjurō,' I made reply. 'Pay two sen that we may both go to hell.'

 

 

       

 

 そこで幕のうしろへ行つて妙にカチカチキイキイ音のする大きな部屋へ入つた。この音はこの部屋の三方を取卷いて居る胸程の高さの、幅の店い臺の上で澤山の人形を動かす車輪や滑車の音であつた。この人形は生人形でなく甚だ小さい人形――操人形であつた。それが地獄の一切の物を表はしてゐた。

 私が見た第一の物は亡者の着物を取ると云ふ三途の川の婆であつた。着物はうしろの木にかけてあつた。婆は背が高く、碧い眼を𢌞して長い齒を囓み鳴らしてゐたが、小さい白い亡者が震へるのは蝶の身震ひのやうであつた。向うに物凄くうなづいて居る閻魔大王が見えた。大王の右手には三脚架の上に『かぐ鼻』『見る目』の證人達の首が車輪の上にでも居るやうに𢌞つてゐた。左手には一人の鬼が一人の亡者を鋸でひき割つてゐたが、その鋸は日本の大工のやり方――卽ち押さないで引くやうに使つてゐた。それから亡者の苛責の色々の見世物があつた。うそつきは柱に縛られて――徐々に技巧的なぬき方で――鬼に舌をぬかれゐたが、もうすでにその舌は亡者の體よりも長かつた。又一人の鬼は別の亡者を臼に入れて、如何にも强さうな力で搗いて居るので、その物音はこのからくりの響き以上に聞えた。少しさきの方で、一人の男が女の顏をした二匹の蛇に生きながら呑まれかかつてゐたが、一匹の蛇は白く、一匹は靑かつた。白いのは妻で、靑いのは妾であつた。中世の日本に知られてゐたあらゆる苛責拷問は別の處で大勢の鬼によつて巧みに實行されてゐた。それを見てから私共は賽の河原へ行つて子供を一人抱いて居る地藏を見た、それからその𢌞りには、一群の子供が、棍棒をふり上げ齒を鳴らして居る鬼共から逃げやうとして早く走つてゐた。

 しかし地獄は極端に寒い處であつた、それで私が地獄の雰圍氣のうちに處々不釣合な點のある事を考へて居る間に、地獄に關する普通の佛敎の繪本のうちには寒さの苛責の繪を一つも見ない事を思ひついた、實際印度の佛敎は氷の地獄の存在を敎へて居る。たとへば人の唇が氷るので『あゝたた』としか云へない――それであたたと呼ばれる地獄がある。それから舌が氷るので『あゝばば』としか云へないからあばばと呼ばれる地獄がある。それから大白蓮地獄がある、そこでは寒氣にさらされた骨は『白蓮の花の咲くやう』である。金十郞は日本の佛敎に氷の地獄がある筈だと思ふが、たしかには覺えないと云ふ。私は寒氣の考は日本人に非常に恐ろしい物になれるとは思はない。日本人は一般に、寒い事が好きである事を告白して居る、それから氷や雪の愛すべき事を漢詩などに作る。

[やぶちゃん注:この最後の「私は寒氣の考は日本人に非常に恐ろしい物になれるとは思はない。日本人は一般に、寒い事が好きである事を告白して居る」が非常に面白く思われる。たった一年一ヶ月半で松江を去った公的に知られている理由は、当地の厳寒さに閉口したからであるからである。いや、セツのことを蔭でラシャメンと呼んだ幾たりかの人々の「冷たい」言葉も大きな理由の一つではあった。それもまた「心」の「寒さ」ではあった。

「三途の川の婆」奪衣婆(だつえば)。三途(さんず)川(葬頭(そうず)河)の渡し賃六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取るという老婆体(てい)の鬼。脱衣婆・葬頭河婆(そうづかば)・正塚婆(しょうづかのばば)・姥神(うばがみ)・優婆尊(うばそん)とも称する。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は懸衣翁(けんえおう)という老爺体(てい)の鬼によって衣領樹(えりょうじゅ)に懸けられるが、その衣領樹に掛けた亡者の衣の重さがその亡者の生前の罪の重さを表わして枝が撓って垂れ下がり、それが死後の処遇を決める目安となるともされる。以上はウィキの「奪衣婆」「懸衣翁」を参照した。

「三脚架の上に『かぐ鼻』『見る目』の證人達の首」「浄玻璃」(じょうはり)と並ぶ、私の偏愛する閻魔のアイテム、「人頭杖」(にんずじょう/にんとうじょう)であろう。「檀拏幢」(だんだとう)とも呼ばれる。本物は、脚、或いは、台の上に棒状の直立する支えがあり、その上に円盤状の皿、或いは、蓮花があって、そこに通称、「見る目」「嗅ぐ鼻」と呼ばれる男女の首が載る。私の大好きな鎌倉円応寺蔵鎌倉国宝館寄託のそれでは、怒髪天を衝く忿怒相三眼の男が「見る目」、双鬟(そうかん/総角(あげまき))の目を瞑った少女が「嗅ぐ鼻」で、一般には意想外に、恐ろしげな前者が亡者の生前の善行を、可憐な後者が悪行を語り出すとされるのである。

「唇が氷るので『あゝたた』としか云へない――それであたたと呼ばれる地獄」頞听陀(あただ)地獄(Atata)。仏教の八寒地獄の第三で、あまりの寒さに「あたた!」と叫び続ける極寒地獄の一つ。

「舌が氷るので『あゝばば』としか云へないからあばばと呼ばれる地獄」前同様、八寒地獄第四に臛臛婆(かかば)地獄(Hahava)があり、ここでは寒さによって「ははば!」という悲鳴を上げるばかりのそれが、また、同第五に虎々婆(ここば)地獄(Huhuva)があって、ここでは「ふふば」とばかり叫び続けるとされる。

「大白蓮地獄」これはハーンの聴き違いか、話者の誤認で、八寒地獄第八とされる最も広大な「摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄」(Mahapadma)のこと。意訳で「大紅蓮(だいぐれん)地獄」とも呼ばれる。「摩訶」とは、サンスクリット語の「大きいこと」を意味する語の音写で、ここに落ちた者は「紅蓮地獄」(八寒地獄第七の「鉢特摩(はどま)地獄」Padma)のこと。「鉢特摩」(はどま)はサンスクリット語の「蓮華」を意味する語の音写で、ここでは極寒によって皮膚が裂け破れて流血してその姿が紅色の蓮の花に似るからと言われる)を超える寒さによって、亡者の身体が断裂して流血、紅色の大蓮の花に似るからという。以上三つの注はウィキの「八大地獄」を参照したが、それによれば、八寒地獄は、第一の「頞部陀(あぶだ)地獄」(Arbuda:寒さのあまり鳥肌が立ち、身体に痘痕(あばた)を生ずる)に始まり、第二が「刺部陀(にらぶた)地獄」(Nirarbuda:鳥肌が潰れて全身に皸(あかぎれ)が生ずる)で、以下、「頞听陀(あただ)地獄」・「臛臛婆(かかば)地獄」・「虎々婆(ここば)地獄」と続き、第六が「嗢鉢羅(うばら)地獄」(Utpala:全身が凍傷のために罅割れて青い蓮のようにそれが捲(めく)れ上がる事から「青蓮(せいれん)地獄」とも称す)・「鉢特摩(はどま)地獄」・「摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄」の順となる、とある。

「日本の佛敎に氷の地獄がある筈だ」以上見たように、八寒地獄があるから金十郎(実はセツ夫人)の謂いは正しいが、しかし、本邦の地獄思想・地獄信仰にあっては、専ら「八大地獄」はイコール。ひたすら、熱気で責め苦しめられる、温度のステージ上昇(苦痛は基本が各十倍増しであるが、後の方では、以下、全下位綜計の十倍となったりするのは、お笑いである)で区分される「八熱地獄」であって、確かに、極寒はオーソドックスとは言えぬ。簡単に八熱地獄をウィキの「八大地獄」から引いて示す(それがハーンの見たフィギアのそれの説明ともなるからである)。第一の等活地獄の罪業は殺生。ここに堕ちた亡者は『互いに害心を抱き、自らの身に備わった鉄の爪や刀剣などで殺し合うという。そうでない者も獄卒に身体を切り裂かれ、粉砕され、死ぬが、涼風が吹いて、また獄卒の「活きよ、活きよ」の声で等しく元の身体に生き返る、という責め苦が繰り返されるゆえに、等活という』。第二の黒繩(こくじょう)地獄の罪業は殺生・偸盗。獄卒によって熱く焼けた鉄の地面に伏し倒され、『同じく熱く焼けた縄で身体に墨縄をうち、これまた熱く焼けた鉄の斧もしくは鋸(のこぎり)でその跡にそって切り、裂き、削る。また左右に大きく鉄の山がある。山の上に鉄の幢(はたほこ)を立て、鉄の縄をはり、罪人に鉄の山を背負わせて縄の上を渡らせる。すると罪人は縄から落ちて砕け、あるいは鉄の鼎(かなえ)に突き落とされて煮られる』という。第三が衆合(しゅごう)地獄で罪業は殺生・偸盗・邪淫。『相対する鉄の山が両方から崩れ落ち、圧殺されるなどの苦を受ける。剣の葉を持つ林の木の上に美人が誘惑して招き、罪人が登ると今度は木の下に美人が現れ、その昇り降りのたびに罪人の体から血が吹き出す』。これは私の好きな話で、「刀樹林(とうじゅりん)」という。また『鉄の巨象に踏まれて押し潰される』とも言われる。第四は叫喚地獄。罪業は先に+飲酒。『熱湯の大釜や猛火の鉄室に入れられ、号泣、叫喚する。その泣き喚き、許しを請い哀願する声を聞いた獄卒はさらに怒り狂い、罪人をますます責めさいなむ。頭が金色、目から火を噴き、赤い服を着た巨大な獄卒が罪人を追い回して弓矢で射る。焼けた鉄の地面を走らされ、鉄の棒で打ち砕かれる』。第五は大叫喚地獄。罪業は先に+妄語。『叫喚地獄で使われる鍋や釜より大きな物が使われ、更に大きな苦を受け叫び喚(な)く』という。因みに例えばここで受ける処罰期間は人間界の時間で六千八百二十一兆千二百億年に相当するとある。第六が焦熱地獄で罪業は先に+邪見(仏教の教えとは相容れぬ考えを説いたり、それを実際に行うことを指す)。『常に極熱で焼かれ焦げる。赤く熱した鉄板の上で、また鉄串に刺されて、またある者は目・鼻・口・手足などに分解されてそれぞれが炎で焼かれる。この焦熱地獄の炎に比べると、それまでの地獄の炎も雪のように冷たく感じられるほどであり、豆粒ほどの焦熱地獄の火を地上に持って来ただけでも地上の全てが一瞬で焼き尽くされるという』とある。第七が大焦熱地獄。罪業は先に+犯持戒人(尼僧や童女などへの強姦罪)。『また更なる極熱で焼かれて焦げる』とするが、上位ステージに上がるほど、苦痛が具体な表現は不可能になってしまい抽象化されて実は面白くない。最後の第八が地獄の最下層にある最悪の阿鼻(無間(むけん))地獄で、罪業は先に+父母・阿羅漢(聖者)の殺人罪。『この地獄に到達するには、真っ逆さまに(自由落下速度で)落ち続けて』二千年『かかるという。前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として、大阿鼻地獄の苦』、千倍もあるとする。『剣樹、刀山、湯などの苦しみを絶え間(寸分・刹那)なく受ける』。創造を絶する巨大な六十四もの『目を持ち火を吐く奇怪な鬼がいる。舌を抜き出されて』百本の『釘を打たれ、毒や火を吐く虫や大蛇に責めさいなまれ、熱鉄の山を上り下りさせられる』。この地獄での亡者の寿命は人間界時間で三四九京二千四百十三兆四千四百億年に当たるともいう。『いずれにせよ、この地獄に落ちた者は気が遠くなるほどの長い年月にわたって、およそ人間の想像を絶する最大の苦しみを休みなく受け続けなければならない』(最後に妙に具体化してお茶目)。因みに馬鹿馬鹿しいことに気づいたが、科学的には絶対零度以下は存在しないから責め苦としては科学的に無際限の高熱地獄に比べると極寒地獄は高が知れているということになろうか。因みに、ハーンが実際に意識内で対象したのは、ダンテの「神曲」の「地獄篇」の究極の、最も重い罪えある裏切をした者の堕ちる氷結地獄である第九圏「コキュートス」(Cocytus:「嘆きの川」)が頭を過ぎったからであろう。そこはまさに「あゝたた」「あゝばば」とどころか声も出ぬ。『裏切者は首まで氷に漬かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす』のである(参照と引用はウィキの「神曲」に拠る)。] 

 

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   And we passed behind a curtain into a big room full of curious clicking and squeaking noises. These noises were made by unseen wheels and pulleys moving a multitude of ningyō upon a broad shelf about breast- high, which surrounded the apartment upon three sides. These ningyō were not iki-ningyō, but very small images,— puppets. They represented all things in the Under-World.

   The first I saw was Sozu-Baba, the Old Woman of the River of Ghosts, who takes away the garments of Souls. The garments were hanging upon a tree behind her. She was tall; she rolled her green eyes and gnashed her long teeth, while the shivering of the little white souls before her was as a trembling of butterflies. Farther on appeared Emma Dai-O, great King of Hell, nodding grimly. At his right hand, upon their tripod, the heads of Kaguhana and Mirume, the Witnesses, whirled as upon a wheel. At his left, a devil was busy sawing a Soul in two; and I noticed that he used his saw like a Japanese carpenter,— pulling it towards him instead of pushing it. And then various exhibitions of the tortures of the damned. A liar bound to a post was having his tongue pulled out by a devil,— slowly, with artistic jerks; it was already longer than the owner's body. Another devil was pounding another Soul in a mortar so vigorously that the sound of the braying could be heard above all the din of the machinery. A little farther on was a man being eaten alive by two serpents having women's faces; one serpent was white, the other blue. The white had been his wife, the blue his concubine. All the tortures known to medieval Japan were being elsewhere deftly practised by swarms of devils. After reviewing them, we visited the Sai-no-Kawara, and saw Jizō with a child in his arms, and a circle of other children running swiftly around him, to escape from demons who brandished their clubs and ground their teeth.

   Hell proved, however, to be extremely cold; and while meditating on the partial inappropriateness of the atmosphere, it occurred to me that in the common Buddhist picture-books of the Jigoku I had never noticed any illustrations of torment by cold. Indian Buddhism, indeed, teaches the existence of cold hells. There is one, for instance, where people's lips are frozen so that they can say only 'Ah-ta-ta!' — wherefore that hell is called Atata. And there is the hell where tongues are frozen, and where people say only 'Ah-baba!' for which reason it is called Ababa. And there is the Pundarika, or Great White-Lotus hell, where the spectacle of the bones laid bare by the cold is 'like a blossoming of white lotus-flowers.' Kinjurō thinks there are cold hells according to Japanese Buddhism; but he is not sure. And I am not sure that the idea of cold could be made very terrible to the Japanese. They confess a general liking for cold, and compose Chinese poems about the loveliness of ice and snow.

「笈の小文」の旅シンクロニティ――芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる

本日  2015年12月14日

     貞享4年11月10日

はグレゴリオ暦で

    1687年12月14日

 

この貞享4年11月10日に芭蕉は名古屋蕉門の有力者であった愛弟子坪井杜国を侘び住まいの知多伊良湖崎の保美(ほび)村に訪ねた。彼は名古屋の米穀商であったが、当時、空米(からまい)売買(米の先物取引)で罰せられてここに流謫されていた。

 芭蕉は陰暦のこの11月10日から14日(グレゴリオ暦1687年12月18日)日までの五日間をこの杜国訪問にかけており、短いながら「笈の小文」の印象的な最初のクライマックスであると言える。

 私は既に2013年12月12日に不正確なシンクロニティとして芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」公開しているので、そちらを参照されたい。但し、リンク先は分量膨大に附き、ご覚悟あれかし。

2015/12/13

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について (二)

 

       

 

 お宮へ行く往來の兩側は聖いしるしのある提灯の列で照らされて居る、社殿の大きな廣場は假小屋、店、芝居小屋の小都會と變つて居る。寒さも厭はず、集つた人の數は驚くきものであつた。いつもお祭りに人を喜ばせる普通の物は悉くある上、普通でない物も中々あつた。ありふれた見世物のうちで、生きた蛇の帶をした娘のゐない事だけが物足りなかつた、多分季節が蛇にはさむすぎるのであらう。占や手品や、輕業や踊りがあつた、砂で繪をかく男もあれば、アウストラリヤ產のエミユや、色々の藝を仕込んである琉球產の大蝙蝠の二つがひのある動物園あつた。私は神社に參詣してから、何か不思議なおもちやを買つて、それから化け物探險に出かけた。こんな特別な場合に、見世物屋に賃貸するためにできた大きな永久建築物の中に納まつてゐた。

 入口の看板に書いてあつた『生人形』と云ふ大きな文字は幾分この見世物の性質をほのめかしてゐた。生人形は私共西洋の『蠟細工』にやや相當する、しかしそれと同じやうに寫實的であるこの日本の創作はずつと安價な材料でできて居る。銘々一錢で木の札を買ふてから、私共は入場した、それから幕のうしろへ行くと長い廊下へ出た、それには小さい部屋程の疊敷の仕切のある假屋がいくつかならんでゐた。それぞれこの題目に相應な背景で裝飾されたその場所には等身大の人物のいくたりかがゐた。人目に最も近いものは三味線を彈いて居る二人の男と踊つて居る二人の藝者を表はしたものであつたが、私には云ふまでもなく人形と思はれた、しかし金十郞がその前の小さい掲示を飜譯してくれたのによれば一人だけは本物の人間であると云ふ事であつた。私共はまたたきか身震ひがあるだらうと待つて見たが駄目であつた。不意に三味線彈きの一人が大きな聲で笑ひ出して、頭振つて三味線を彈いて歌ひ出した。私共は完全にだまされた。

 あとのものは全部で二十四あつたが、大槪は名高い人氣のある傳說とか又は聖い神話などを表はした物で、それぞれ强い印象を與へた。それを思ひ出すと日本人の胸がとどろかずにはゐないと云ふ封建時代の英雄的行動、親孝行の傳說、佛敎の奇蹟、天皇の物語などが題目のうちにあつた。しかし時々その寫實が殘忍な事もあつた、たとへば或場面では頭を刀でたち割られて、血の溜りに倒れて居る女の死骸がある。つぎの部屋へ行くとその女が奇蹟的に蘇生して日蓮宗の寺へ御禮參りをして、何か不思議な事件で偶然そこへ行つた自分の殺害者に出遇つて、その男を改宗させては居るが、そのためにこの不快な事が全然ぬぐひ去られる事はない。

 廊下の終りに黑い幕がかかつてゐて、そのうしろから叫び聲が聞える。それから黑幕の上の方に掲示があつて、平氣で向うまでこの祕密の場所を通りぬける事のできる人には褒美を出すと云ふ約束が書いてあつた。

 『旦那、化け物はこの中に居ります』と金十郞は云つた。

 私共は幕を上げて中へ入ると、そこは生垣の間の小徑(こみち)のやうになつてゐた。それから生垣のうしろに墓があつた。私共は墓地へ來て居るのであつた。本當の草や樹木があつた、それから卒塔婆もあり墓もあつたがその印象は全く自然であつた。その上屋根が甚だ高いのと、光線を巧みに鹽梅してそれを見えなくしてあるので、一切うす暗くなつてゐた、それでこれが人に夜、外に出て居る感じを與へた、その上空氣がつめたいので一層その感を深くした。それから處々に大槪超人間的の高さの、氣味の惡い物が見えた、或物は暗い處で待つて居るやうで、又或物は墓の上に浮かんで居るやうであつた。すぐ私共の近くに右の方の生垣の上の方に、私共に背中を向けてずつと聳えて居る坊さんがゐた。

 私は金十郞に尋ねた、『山法師かね』

 『いや』金十郞は答へた、『脊の高い事を御覽なさい。狸坊主にちがひないと思ひます』

 狸坊主は日暮れてから未だ旅をして居る人を誘ひ込んで殺すために、狸が僧侶の姿に化けた物である。私共は進んでその顏を見上げた。見ると魘されるやうな顏であつた。

 『全く狸坊主です』金十郞は云つた。『旦那樣はそれをどう御考ですか』

 返事をしないで、私はとび退(の)いた、その巨大な物は突然生垣の上へのり出して、呻き聲を上げて私につかみかかつたからであつた。それから搖ぎながら、軋る音をたててもとヘ戻つた。見えない絲で操(あやつ)られるのであつた。

 『金十郞さん、これはいやな恐ろしい物だと思ふね。……しかし褒美を要求する事は止めた』

 私共は笑つた、それから進んで三目入道を見る事にした。三目入道も夜油斷して居る人をさがして居る。顏は佛の顏のやうに柔和で微笑して居るが、剃髮した頭の頂上に恐ろしい眼がある、その眼を見たらためにならないと云ふ時に始めて分る眼である。この三目入道は金十郞につかみかかつてびつくりさせた、丁度狸坊主が私をびつくりさせたやうに。

 それから山姥を見た。山姥は子供を取つて來て暫らく養つてから喰つてしまふ。顏には口がないが、頭の頂上の髮の下に口がある。この山姥は可愛い小さい男の子を今手にもつて喰べかけやうとしてゐたので、私共につかみかかる暇がなかつた。この子供の方は見物人の印象を强くするために特別に綺麗にしてあつた。

 それから墓の上を大分離れて空中に浮かんで居るので、やや安心して見た女の幽靈があつた。眼はなかつた、長い髮は亂れて、白い着物は煙のやうに輕く浮いてゐた。私は私の生徒の一人が幽靈の事を作文に書いた一節を思ひだした、『一番大きな特色は足のない事である』それから私は又飛び退いた、その物は、全く音を立てずに、しかし甚だ急に空を橫ぎつて私の方へ來たから。

 それからあと墓の間の道中は同じやうな經驗の連續に過ぎなかつた、しかしそれが婦人の叫び聲や、自分等を驚かした物が外の人々にどんな效果を與へるか、見たいばかりにためらつて居る人々のふき出し笑のために面白くされた。

[やぶちゃん注:これ、実際のセツ夫人の様子を活写して呉れていたら、もっともっと面白いものになったであろうに。至極、残念である。

「砂で繪をかく男」大道芸の一つである砂絵師。私の電子テクスト『日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 35 砂絵師』の私の注をご覧あれ。

「アウストラリヤ產のエミユ」鳥綱ダチョウ目ヒクイドリ科エミュー属エミュー Dromaius novaehollandiaeウィキの「エミュー」より引く。エミュー(Emu)は『オーストラリア全域の草原や砂地などの拓けた土地に分布している。周辺海域の島嶼部にも同種ないし近縁種が生息していたが、現生種の』一種のみを『除いて絶滅したとみられている』。『オーストラリアの非公式な国鳥』。体高は約一・六~二メートル程度で体重は四〇~六〇キログラム程度。体高は『鳥類の中ではダチョウに次いで高いが、体重はヒクイドリに及ばない。見た目はダチョウに似るが、ややがっしりした体躯で、頸から頭部に掛けても比較的長い羽毛が生えている。また、趾(あしゆび)は』三本で、『先に丈夫な爪を備えている。幼鳥の羽毛には縞模様があるが、成長すると縞が消える。成鳥はオス、メスいずれも同様に全身の羽毛が灰褐色になるが、所々に色が剥げたり濃くなったりしている箇所があり、泥で汚れているかのように見える。エミューの羽は、鳥類では唯一』二本が一対であるという『特徴を持っている』。『性格はヒトに対しては温厚であるが、雷・金属音・子供の甲高い声などに反応し走り回ることがある。犬などの動物に対しては警戒心が強く、場合によっては蹴りで相手を攻撃する。蹴りは、前方』九〇度の『範囲程度であれば容易に繰り出す。また、繁殖時期になると多少警戒心が強くなる。性別でみると、オスの方が比較的おとなしい』。『鳴き声はオスとメスで違い、オスは「ヴゥー」と低い鳴き声を出し、メスは「ボン……ボボン」とドラムのような鳴き声を出す。メスの鳴き声は繁殖時期が近づく頃がもっとも盛んになる』。『翼は体格に比してきわめて小さく、深い羽毛に埋もれているために外からはほとんど視認できない。ダチョウ、ヒクイドリ、レアなどと比べると、最も退化した形であり、長さは』約二〇センチメートルで、先端には一本の爪が附属する。『卵はアボカドのような深緑色で、長さは』一〇センチメートル程で、重量は約五五〇~六〇〇グラムある。抱卵は十個程度の産卵後にが約二ヶ月の間飲まず食わずで行う。『食性は雑食性で、主に昆虫、果実、種子、下草などを餌にする。砂漠化しつつあるような土地でも生息可能で、繁殖力も強く基本的には丈夫な鳥であるが、この食性により、農地を荒らす害鳥として駆除の対象となったため、ダチョウ目の他の種と同様、頭数が激減している』。『丈夫で飼いやすいためか飼育している動物園は多く、人に慣れやすく危険性も低いことから、入園者が直接触れられるようにしているところもある』。また本邦でも一九九六年から、『北海道下川町一の橋地区に個人により導入され、国内初の畜産を軸とした飼育が始まっ』ており、北海道下川地域で同人により一九九五年から『試験的飼育が展開され、アメリカ・モンタナ州より生後』六ヶ月の『オス・メスのペアーが導入された。そのエミューペアーは現在』十三歳八ヶ月(二〇〇九年一月現在)『であるが、繁殖を続けている』とある。

「琉球產の大蝙蝠」現在、脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera の内、南西諸島産の大型のオオコウモリ類には、大沢夕志・大沢啓子氏のサイト「オオコウモリの世界へようこそ」の「日本に生息するオオコウモリ」によれば、

クビワオオコウモリPteropus dasymallus(鹿児島県口永良部島以南の琉球列島に分布。)

エラブオオコウモリ Pteropus pselaphon dasymallus(鹿児島県口永良部島とトカラ列島に分布。口永良部島は世界のオオコウモリ類の北限で、以下の四亜種中では体が最も大型。)

オリイオオコウモリ Pteropus pselaphon inopinatus(沖縄本島とその周辺の小島に分布。)

ダイトウオオコウモリ Pteropus pselaphon daitoensis(北大東島と南大東島に分布。)

ヤエヤマオオコウモリ Pteropus pselaphon yayeyamae(宮古島から西の多良間島・石垣島・黒島・小浜島・西表島・鳩間島・波照間島・与那国島など八重山諸島の殆んどの島に分布。日本に棲息するクビワオオコウモリ四亜種中では一番体が小型。)

とあり、さらに以前は、

オキナワオオコウモリ Pteropus lochoensis

『が沖縄本島にいたようですが』、明治三(一八七〇)年に『新種として発表されて以来捕まったことがないので絶滅したと思われます。イギリスの大英博物館に標本が二つあるのみです』とある(画像や分布域詳細及び特徴はリンク先を参照されたい)。ハーンがこのオオコウモリを見たのは明治二五(一八九二)年か翌年のことと思われるから(本書の刊行は明治二七(一八九四)年九月)、残念ながら、このオキナワオオコウモリ Pteropus lochoensis の可能性は殆んど全くないと言える。有意に大きい「大蝙蝠」で「琉球產」というのがガセでないとすれば、以上の分布と大きさからは、クビワオオコウモリPteropus dasymallus の可能性が高くなるように思われる。

「頭を刀でたち割られて、血の溜りに倒れて居る女の死骸がある。つぎの部屋へ行くとその女が奇蹟的に蘇生して日蓮宗の寺へ御禮參りをして、何か不思議な事件で偶然そこへ行つた自分の殺害者に出遇つて、その男を改宗させては居る」私の全くの直感に過ぎないが、これは所謂、三遊亭圓朝の怪談噺「眞景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」(安政六(一八五九)年初演)で人口に膾炙する累の物語を模したものではあるまいか? 無論、ここでハーンの述べる筋書きとは必ずしも一致しないが、無惨に殺される女――蘇生――日蓮宗の寺――というのは、仔細は省略するが、どうも私にとっては累に重なるのである。なお、私はその最初の物語とされる元禄三(一六九〇)年に板行された仮名草子本「死靈解脫物語聞書」を親しく読んでおり、その評論である高田衛氏の「江戸の悪魔祓い師(エクソシスト)」(一九九一年筑摩書房刊)なども愛読書である。【2025年3月10日追記】私は、ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で、「死靈解脫物語聞書」を2023年に電子化し、オリジナル注を附してあるので、見られたい。

「三目入道」「みつめにゆうだう(みつめにゅうどう)」と読む。額に三つめの眼を持った僧形の妖怪で江戸期以降の妖怪画の定番キャラクターである(因みに私は妖怪フリークでもあり、かなりの妖怪関連書と画集を所持している)。ウィキの「三つ目入道」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『明治時代、東京府(現・東京都)神田区の神田元柳原町に三つ目入道が出現した事例が、錦絵新聞『東京日日新聞』第四百四十五号に記事として報じられている。一八七三年八月四日(明治六年)午前三時頃、梅村豊太郎という男が地震で目が覚めた後に寝つけずにいたところ、一緒に寝ていた子供が突然激しく泣き出した。何事かと思ったところ、枕元に三つ目の怪僧が立っており、しかも次第に巨大化し、天井を突き破るほどの大きさとなった。しかし度胸の据わった豊太郎は怪僧の裾を引っ張って力任せに倒したところ、その正体は古狸だったという』。『また長野県東筑摩郡の教育委員会の調査による資料では、同郡に伝わる妖怪として「人前で踊るもの」とされているが、それ以外の記述はなく、詳細な特徴などは不明』である。『江戸時代後期の黄表紙においては見越し入道の一種として、首の長い三つ目の妖怪がしばしば描かれている』とある。]

 

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   Each side of the street leading to the miya was illuminated with a line of paper lanterns bearing holy symbols; and the immense court of the temple had been transformed into a town of booths, and shops, and temporary theatres. In spite of the cold, the crowd was prodigious. There seemed to be all the usual attractions of a matsuri, and a number of unusual ones. Among the familiar lures, I missed at this festival only the maiden wearing an obi of living snakes; probably it had become too cold for the snakes. There were several fortune-tellers and jugglers; there were acrobats and dancers; there was a man making pictures out of sand; and there was a menagerie containing an emu from Australia, and a couple of enormous bats from the Loo Choo Islands—bats trained to do several things. I did reverence to the gods, and bought some extraordinary toys; and then we went to look for the goblins. They were domiciled in a large permanent structure, rented to showmen on special occasions.

   Gigantic characters signifying 'IKI-NINGYŌ,' painted upon the signboard at the entrance, partly hinted the nature of the exhibition. Iki-ningyō ('living images') somewhat correspond to our Occidental 'wax figures'; but the equally realistic Japanese creations are made of much cheaper material. Having bought two wooden tickets for one sen each, we entered, and passed behind a curtain to find ourselves in a long corridor lined with booths, or rather matted compartments, about the size of small rooms. Each space, decorated with scenery appropriate to the subject, was occupied by a group of life-size figures. The group nearest the entrance, representing two men playing samisen and two geisha dancing, seemed to me without excuse for being, until Kinjurō had translated a little placard before it, announcing that one of the figures was a living person. We watched in vain for a wink or palpitation. Suddenly one of the musicians laughed aloud, shook his head, and began to play and sing. The deception was perfect.

   The remaining groups, twenty-four in number, were powerfully impressive in their peculiar way, representing mostly famous popular traditions or sacred myths. Feudal heroisms, the memory of which stirs every Japanese heart; legends of filial piety; Buddhist miracles, and stories of emperors were among the subjects. Sometimes, however, the realism was brutal, as in one scene representing the body of a woman lying in a pool of blood, with brains scattered by a sword stroke. Nor was this unpleasantness altogether atoned for by her miraculous resuscitation in the adjoining compartment, where she reappeared returning thanks in a Nichiren temple, and converting her slaughterer, who happened, by some extraordinary accident, to go there at the same time.

   At the termination of the corridor there hung a black curtain behind which screams could be heard. And above the black curtain was a placard inscribed with the promise of a gift to anybody able to traverse the mysteries beyond without being frightened.

   'Master,' said Kinjurō, 'the goblins are inside.'

   We lifted the veil, and found ourselves in a sort of lane between hedges, and behind the hedges we saw tombs; we were in a graveyard. There were real weeds and trees, and sotoba and haka, and the effect was quite natural. Moreover, as the roof was very lofty, and kept invisible by a clever arrangement of lights, all seemed darkness only; and this gave one a sense of being out under the night, a feeling accentuated by the chill of the air. And here and there we could discern sinister shapes, mostly of superhuman stature, some seeming to wait in dim places, others floating above the graves. Quite near us, towering above the hedge on our right, was a Buddhist priest, with his back turned to us.

   'A yamabushi, an exorciser?' I queried of Kinjurō.

   'No,' said Kinjurō; 'see how tall he is. I think that must be a Tanuki-Bōzu.'

   The Tanuki-Bōzu is the priestly form assumed by the goblin-badger (tanuki) for the purpose of decoying belated travelers to destruction. We went on, and looked up into his face. It was a nightmare,— his face.

   'In truth a Tanuki-Bōzu,' said Kinjurō.
'What does the Master honorably think concerning it?'
   Instead of replying, I jumped back; for the monstrous thing had suddenly reached over the hedge and clutched at me, with a moan. Then it fell back, swaying and creaking. It was moved by invisible strings.

   'I think, Kinjurō, that it is a nasty, horrid thing. . . . But I shall not claim the present.'

   We laughed, and proceeded to consider a Three-Eyed Friar (Mitsu-me-Nyūdō). The Three-Eyed Friar also watches for the unwary at night. His face is soft and smiling as the face of a Buddha, but he has a hideous eye in the summit of his shaven pate, which can only be seen when seeing it does no good. The Mitsu-me-Nyūdō made a grab at Kinjurō, and startled him almost as much as the Tanuki-Bozu had startled me.

   Then we looked at the Yama-Uba,— the 'Mountain Nurse.' She catches little children and nurses them for a while, and then devours them. In her face she has no mouth; but she has a mouth in the top of her head, under her hair. The YamaUba did not clutch at us, because her hands were occupied with a nice little boy, whom she was just going to eat. The child had been made wonderfully pretty to heighten the effect.

   Then I saw the spectre of a woman hovering in the air above a tomb at some distance, so that I felt safer in observing it. It had no eyes; its long hair hung loose; its white robe floated light as smoke. I thought of a statement in a composition by one of my pupils about ghosts: 'Their greatest Peculiarity is that They have no feet.' Then I jumped again, for the thing, quite soundlessly but very swiftly, made through the air at me.

   And the rest of our journey among the graves was little more than a succession of like experiences; but it was made amusing by the screams of women, and bursts of laughter from people who lingered only to watch the effect upon others of what had scared themselves. 

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十五章 幽靈と化け物について (一)


      第二十五章 幽靈と化け物について
  

 

       

 

  法華經によれば、『夜叉の形を以て得度すべき者には、夜叉の形を現じてまで法を經く』佛があつたと云ふ。それから同じ經に、佛にこんな約束がある、『彼がその荒野に淋しく住んで居る間に、自分は彼と交際させるために夜叉を大勢送るつもり』この約束は、菩薩をも又送らうと云ふ證言で餘程その恐ろしさが緩和されて居る。しかし私が僧侶になる事があつても、荒野に住む事は注意して避けたい、私は日本の化け物を見て、それを嫌ふからである。

 昨夜、金十郞は私にその化け物を見せた、その化け物は氏神の祭禮に町へ來た、祭りの夜に見られるやうな珍らしいものが澤山あるので、私共は日が暮れてから神社の方へ出かけた、金十郞は家の紋をつけた提燈をもつて伴をした。

 朝のうちひどく雪が降つたが、もう天(そら)も、刺すやうに寒い靜かな空氣、ダイアモンドのやうに澄み渡つて居る、それから脆い雪は步く時足の下で快くばりばり音を立てる、それで私は思ひついて云ふ。『金十郞さん、雪の神樣と云ふ物はありますか』

 『分りません』金十郞は答へた。『私の知らない神樣は澤山あります、神樣の名を殘らず知つて居る人はありません。しかし雪女と云ふ物はあります』

 『それはどんな物です』

 『眞白な物で、雪の中で色々變な顏をして見せます。別に害を加へる事はないが、ただ恐ろしがらせるだけです。晝のうちは顏を上げて、獨り旅の人をおどかすだけですが、夜になると時々樹よりも高くなつて暫らくあたりを見𢌞してから、急に雪になつて降つて來ます』【註一】

    註一。日本の他の地方では、私の聞
    くところでは、雪女は甚だ綺麗な女
    となつて現れ、若い男を淋しい場所
    へ誘つて、血を吸ふと云はれて居る。

 『どんな顏をしてゐますか』

 『白い――眞白です。非常に大きな顏です。それから淋しい顏です』

〔金十郞の云つた言葉は淋しいであつたが、私の考では、それは『陰氣な氣味の惡い』と云ふ意味であつた〕

 『金十郞さんあなたは見た事がありますか』

 私は見た事はありません。しかし私の父が子供の時分に、外の子供と遊ぶつもりで、雪の中を隣りのうちへ行かうと致しますと、途中で、雪の中から大きな白いが出て淋しさうにあたりを見𢌞したさうです、恐ろしさの餘り聲を出して逃げて歸つたと申します。そこでうちの人が皆出て見ると何にもない、雪ばかり、それで皆がこれは雪女を見たのだとさとりました』

 『ところで、金十郞さん、この節、人は雪女を見ますか』

 『はい。大寒の時節に、やぶ村へ參詣する人は、時々見ます』

 『やぶ村に何かありますか』

 『やぶ神社があります、それはやぶ天皇さんと云ふ風の神の名高い古い神社です。松江から九里ばかりの山のずつと上にあります。その神社の大祭は二月の十日と十一日にあります。それでその日には妙な事があります。ひどい風を引いて居るものがやぶ神社の神樣になほるやうにお祈りをして、その大祭の日に神社へ裸參りを致しますと誓ひます』

 『裸ですか』

 『さうです、わらぢをはいてふんどしや、ゆもじ一つでお參りを致します。それで大勢の人は、その頃雪が深いのですが、神社の方へ雪の中を裸で行くのです。それから男は銘々御幣と拔身の刀を泰納します、女は銘々鏡を奉納します。それから神社では、神主がその人々を迎へて妙な儀式を行ひます。古式によつて、神主は病人のやうななりをして、寢てうなります、それから漢方で處方致します草根木皮のくすりを飮みます』

 『寒さで死ぬ人はありませんか』

 『ありません、出雲の農夫は達者です。その上早く走りますから神社へ着く頃は熱い程です。それから歸る前に厚い暖い着物を着ます。しかし時々途中で雪女を見ます』

[やぶちゃん注:既に前章に登場した「金十郞」が松江ではなく熊本の植木職人であつたように、本章も操作が加えられてある。底本末の本章の訳者と思われる田部隆次氏の「あとがき」には、本編に就いて、『祭りの夜、見せ物を見て𢌞つたのは熊本の町で、同行者は金十郞ではなく夫人であつた』とある。

「法華經によれば、『夜叉の形を以て得度すべき者には、夜叉の形を現じてまで法を經く』佛があつたと云ふ」これは、鳩摩羅什(くまらじゅう)漢訳になる「妙法蓮華經」の中でも知られた「觀世音菩薩普門品第二十五」の一節(読みは私が勝手に附した)、

    *

應以(わうい)、天龍・夜叉・乾闥婆(けんだつぱ)・阿修羅・迦樓羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)・人非人等(とう)身(しん)得度者(とくどしや)、卽(そく)皆(かい)現之(げんし)、而爲(にゐ)說法、應以、執金剛神(しふこんがうしん)身得度者、卽現執金剛神、而爲說法。

(やぶちゃんの自在勝手訓読文:應に、天龍・夜叉・乾闥婆(けんだつぱ)・阿修羅・迦樓羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらか)・人非人(にんぴにん)等(とう)の身(しん)を以つて得度すべき者には、卽ち皆(みな)、之に現(げん)じて、爲(ため)に法を說き、應に、執金剛神(しふこんがうしん)の身を以つて得度すべき者には、卽ち執金剛神に現じて爲に法を說く。)

   *

と出る部分を略したものである。

「同じ經に、佛にこんな約束がある、『彼がその荒野に淋しく住んで居る間に、自分は彼と交際させるために夜叉を大勢送るつもり』」これも「妙法蓮華經」の中の「法師品第十」の一節、

   *

若說法者。在空閑處(くふげんしよ)。我時廣遣。天龍鬼神。乾闥婆。阿修羅等(とう)。聽其(ちやうし)說法。

(やぶちゃんの自在勝手訓読文:若し、說法者、空閑(くふげん)の處に在らば、我れ、時に廣く、天・龍・鬼神・乾闥婆・阿修羅等を遣はし、其の說法を聽かしめん。)

   *

に基づく。

「雪女は甚だ綺麗な女となつて現れ、若い男を淋しい場所へ誘つて、血を吸ふと云はれて居る」最後の部分、私は聴いたことがないが、冷気を「吹き」つけて血を凍らせ死に至らせる、或いは、美女で男の精を「吸い」つくして殺す(後の引用を参照)、といった話を「血を吸う」と誤認したのかも知れない。或いは、凍死した青白い死体から吸血されたという連想は容易には出来る。また「血」との絡みでは、後で引用する下半身血だらけの妖怪「産女(うぶめ)」との親和性があるとは言える。しかし、どうも、この部分、西欧の吸血鬼伝承と恣意的に結び付けようとする外国人ハーンの確信犯的なゴシック・ホラーの側面が窺われるように感じられる。いや、或いは、もっとプラグマティクに――欧米圏読者向けのリップ・サーヴィスのようにも私には感じられる――と正直言っておきたい。何故なら、後のハーンの知られた「雪女」のそれは、吸血性ではないからである。彼が、この吸血の強い印象を持っていたなら、あれに使わないはずはないからである。尤も、雪女が吸血するという古伝承があるのであれば、是非とも御教授を乞うものではある。以下、ウィキの「雪女から引く。雪女は『「ユキムスメ」、「ユキオナゴ」、「ユキジョロウ(雪女郎)」、「ユキアネサ」、「雪オンバ」、「雪ンバ」(愛媛)、「雪降り婆」とも呼ばれる』。『「ツララオンナ」、「カネコリムスメ」「シガマニョウボウ」など、氷柱に結びつけて呼ばれることも多い』。『雪女の起源は古く、室町時代末期の連歌師・宗祇法師による『宗祇諸国物語』には、法師が越後国(現・新潟県)に滞在していたときに雪女を見たと記述があることから、室町時代には既に伝承があったことがわかる』。『呼び方は違えど、常に「死」を表す白装束を身にまとい男に冷たい息を吹きかけて凍死させたり、男の精を吸いつくして殺す』(☜:ここは吸血性との親和性はある)『ところは共通しており、広く「雪の妖怪」として怖れられていた』。『雪女は『宗祇諸国物語』をもとにした小泉八雲の『怪談』「雪女」の様に、恐ろしくも美しい存在として語られることが多く、雪の性質からはかなさを連想させられる』。『伝承では、新潟県小千谷地方では、男のところに美しい女が訪ね、女は自ら望んで男の嫁になるが、嫁の嫌がるのを無理に風呂に入れると姿がなくなり、男が切り落とした細い氷柱の欠片だけが浮いていたという。青森県や山形県にも同様の話があり「しがま女房」などと呼ばれる』。『山形県上山地方の雪女は、雪の夜に老夫婦のもとを訪ね、囲炉裏の火にあたらせてもらうが、夜更けにまた旅に出ようとするので、翁が娘の手をとって押し止めようとすると、ぞっとするほど冷たい。と、見る間に娘は雪煙となって、煙出しから出ていったという。また、姑獲鳥』(うぶめ/産女:死んだ妊婦をそのまま埋葬するとこの妖怪に変ずるとされた)『との接点も持っており、吹雪の晩に子供(雪ん子)を抱いて立ち、通る人間に子を抱いてくれと頼む話が伝えられる。その子を抱くと、子がどんどん重くなり、人は雪に埋もれて凍死するという』。『頼みを断わると、雪の谷に突き落とされるとも伝えられる。弘前では、ある武士が同様に雪女に子供を抱くよう頼まれたが、短刀を口に咥えて子供の頭の近くに刃がくるようにして抱いたところ、この怪異を逃れることができ、武士が子供を雪女に返すと、雪女は子供を抱いてくれたお礼といって数々の宝物をくれたという』。『次第に増える、雪ん子の重さに耐え抜いた者は怪力を得るともいう』。『長野県伊那地方では、雪女を「ユキオンバ」と呼び、雪の降る夜に山姥の姿であらわれると信じられている。同様に、愛媛県吉田では、雪の積もった夜に「ユキンバ」が出ると言って、子供を屋外に出さない様にする。また、岩手県遠野地方では』小正月の一月十五日或いは月の半ばの『満月の夜には、雪女が多くの童子をつれて野に出て遊ぶので、子供の外出を戒めるという。この様に、雪女を山姥と同じものとして扱うところも多く、多くの童子を連れるという多産の性質も、山姥のそれに類似している。和歌山県伊都地方では、雪の降り積む夜には一本足の子どもが飛び歩くので、翌朝に円形の足跡が残っているといい、これを「ユキンボウ」と言うが』、一本足の『童子は山神の使いとされている。鳥取県東伯郡小鹿村(現・三朝町)の雪女は、淡雪に乗って現れる時に、「氷ごせ湯ごせ」(「ごせ」とは「(物を)くれ、下さい」という意味の方言)と言いながら白幣を振り、水をかけると膨れ、湯をかけると消えるという。奈良県吉野郡十津川の流域でいう「オシロイバアサン」、「オシロイババア」も雪女の一種と思われ、鏡をジャラジャラ引きずってくるという。これらの白幣を振るという動作や、鏡を持つという姿は、生産と豊穣を司る山神に仕える巫女としての性格の名残であると考えられる。実際に青森では、雪女が正月三日に里に降り、最初の卯の日に山に帰ると云われ、卯の日の遅い年は作柄が変わるとされていた』。『岩手県や宮城県の伝承では、雪女は人間の精気を奪うとされ、新潟県では子供の生き肝を抜き取る、人間を凍死させるなどといわれる。秋田県西馬音内では、雪女の顔を見たり言葉を交わしたりすると食い殺されるという。逆に茨城県や福島県磐城地方では、雪女の呼びかけに対して返事をしないと谷底へ突き落とされるという』。『福井県でも越娘(こしむすめ)といって、やはり呼びかけに対して背を向けた者を谷へ落とすという』。『岐阜県揖斐郡揖斐川町では、ユキノドウという目に見えない怪物が雪女に姿を変えて現れるという。山小屋に現れて「水をくれ」と言うが、求めに応じて水を与えると殺されてしまうので、熱いお茶を出すべきとされる。またこのユキノドウを追い払うには「先クロモジに後ボーシ、締めつけ履いたら、如何なるものも、かのうまい」と唱えると良いという』。『正月元旦に人間界に雪女が来て帰っていく青森県弘前市の伝承や岩手県遠野市の、小正月または冬の満月の日に雪女が多くの子を連れて遊ぶという伝承から見ても、このような人間界を訪れる日から雪女の歳神(としがみ)的性格を窺うことができる。吹雪の晩に雪女を親切にもてなしたところ、翌朝、雪女は黄金と化していたという、「大歳の客」系の昔話の存在も雪女の歳神的性格と無縁ではない』。『雪女は子供をつれて出現することも多い。同じような子連れの妖怪、産女(うぶめ)の伝承とも通い合う。山形県最上郡では産女を雪女だと伝えている』。『異類婚姻譚の類型の物語に登場することも多く、小泉八雲の「雪おんな」のように、山の猟師が泊り客の女と結ばれ子供が生まれ、嫁にうっかり雪女と結んだタブーを口にしたため、女は自分こそ雪女だと明かすが男との間に生まれた子がいたため殺さず、子に万一の事があったら只では済まさぬと告げて姿を消すタイプの昔話のパターンは新潟県、富山県、長野県に伝承があり、その発端は山の禁(タブー)を破ったために山の精霊に殺されるという山人の怪異譚に多い。雪女の伝説は、山人の怪異譚と雪女の怪異譚の複合により生まれたとする説もある』。『雪女の昔話はほとんどが哀れな話であり、子のない老夫婦、山里で独り者の男、そういう人生で侘しい者が、吹雪の戸を叩く音から、自分が待ち望む者が来たのではと幻想することから始まったといえる。そして、その待ち望んだものと一緒に暮らす幸せを雪のように儚く幻想した話だという。それと同時に畏怖の感覚もあり、『遠野物語』にもあるように吹雪が外障子を叩く音を「障子さすり」と言い、雪女が障子を撫でていると遅寝の子を早く眠らす習俗もある。障子さすりのようなリアルな物言いにより、待ち望むものの訪れと恐怖とは背中合わせの関係であるといえる。また冬などの季節は神々の訪れであり、讃めなければひどいことになりかねず、待ち望むといってもあまり信用してはならない。なんにせよ季節の去来と関係した話といえる。風の又三郎などとも何処かで繋がるのではないかと、国文学者・古橋信孝は述べている』。『雪女の正体は雪の精、雪の中で行き倒れになった女の霊などと様々な伝承がある。山形県小国地方の説話では、雪女郎(雪女)は元は月世界の姫であり、退屈な生活から抜け出すために雪と共に地上に降りてきたが、月へ帰れなくなったため、雪の降る月夜に現れるとされる』。『江戸時代の知識人・山岡元隣は雪女は雪から生まれるという。物が多く積もれば必ずその中に生物を生ずるのが道理であり、水が深ければ魚、林が茂れば鳥を生ずる。雪も陰、女も陰であるから、越後などでは深い雪の中に雪女を生ずることもあるかも知れぬといっている』。『日本の伝統文化の中で、雪女は幸若の『伏見常磐』などに見られ、近世には確認できる。近松門左衛門の「雪女五枚羽子板」がありだまされ惨殺された女が雪女となり復讐する話である。雪女の妖艶で凄惨な感じがうまく使われている。昔話・伝承では青森、山形、秋田、岩手、福島、新潟、長野、和歌山、愛媛などで確認されている』。以下、八雲の“ KWAIDAN のシノプシスが示される。『この話は武蔵の国、西多摩郡調布村の百姓が私に語ってくれたものである』。『武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という』二人の『樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった』。『ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう』。『女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった』。『それから数年して、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出会う。二人は恋に落ちて結婚し』、十人の『子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった』。『ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」』『巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」』『次の瞬間、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった』。以下、その「原典」の項。『小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、ここ数年研究が進み、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている(英語版の序文に明記)』。『この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は相当な確度を持っていると考えられ』、話柄時間の十九世紀当時は『気候が非常に異なり、中野から西は降れば大雪であったことから、気象学的にも矛盾しない』とある。

「金十郞の云つた言葉は淋しいであつたが、私の考では、それは『陰氣な氣味の惡い』と云ふ意味であつた」原文は“The word Kinjurō used was samushii. Its common meaning is 'lonesome'; but he used it, I think, in the sense of 'weird.”である。この「淋しい」には「天」なんぞに「そら」なんて下らぬルビは振らなくていいから、「淋(さむ)しい」というルビだけは振って欲しかった。平井呈一氏は漢字を使わず、『さむしい』と訳しておられる。

「やぶ村」「やぶ神社」不詳。不思議なことに孰れも検索にかかってこない。ハーンの設定からは、どう考えても松江近在でなくてはならないが、この名称も奇体なる裸神事も、これ、全く見当たらない。ハーンは、まず、全く虚構のでっち上げを行うタイプの作家ではないと思うので、これは、必ず、元になった神社や神事があったはずである。識者の御教授を乞う。

 

 

ⅩⅩⅤ

 

OF GHOSTS AND GOBLINS. 

 

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   THERE was a Buddha, according to the Hokkekyō who 'even assumed the shape of a goblin to preach to such as were to be converted by a goblin.' And in the same Sutra may be found this promise of the Teacher: 'While he is dwelling lonely in the wilderness, I will send thither goblins in great number to keep him
company.
' The appalling character of this promise is indeed somewhat modified by the assurance that gods also are to be sent. But if ever I become a holy man, I shall take heed not to dwell in the wilderness, because I have seen Japanese goblins, and I do not like them.

   Kinjurō showed them to me last night. They had come to town for the matsuri of our own ujigami, or parish-temple; and, as there were many curious things to be seen at the night festival, we started for the temple after dark, Kinjurō carrying a paper lantern painted with my crest.

 

   It had snowed heavily in the morning; but now the sky and the sharp still air were clear as diamond; and the crisp snow made a pleasant crunching sound under our feet as we walked; and it occurred to me to say: 'O Kinjurō, is there a God of Snow?' 

   'I cannot tell,' replied Kinjurō. 'There be many gods I do not know; and there is not any man who knows the names of all the gods. But there is the Yuki-Onna, the Woman of the Snow.'

   'And what is the Yuki-Onna?'

   'She is the White One that makes the Faces in the snow. She does not any harm, only makes afraid. By day she lifts only her head, and frightens those who journey alone. But at night she rises up sometimes, taller than the trees, and looks about a little while, and then falls back in a shower of snow.' [1]

   'What is her face like?'

   'It is all white, white. It is an enormous face. And it is a lonesome face.'

   [The word Kinjurō used was samushii. Its common meaning is 'lonesome'; but he used it, I think, in the sense of 'weird.']

   'Did you ever see her, Kinjurō?'

   'Master, I never saw her. But my father told me that once when he was a child, he wanted to go to a neighbour's house through the snow to play with another little boy; and that on the way he saw a great white Face rise up from the snow and look lonesomely about, so that he cried for fear and ran back. Then his people all went out and looked; but there was only snow; and then they knew that he had seen the Yuki-Onna.'

   'And in these days, Kinjurō, do people ever see her?'

   'Yes. Those who make the pilgrimage to Yabumura, in the period called Dai-Kan, which is the Time of the Greatest Cold, [2] they sometimes see her.'

   'What is there at Yabumura, Kinjurō?'

   'There is the Yabu-jinja, which is an ancient and famous temple of Yabu-no-Tenno-San,— the God of Colds, Kaze-no-Kami. It is high upon a hill, nearly nine ri from Matsue. And the great matsuri of that temple is held upon the tenth and eleventh days of the Second Month. And on those days strange things may be seen. For one who gets a very bad cold prays to the deity of Yabu-jinja to cure it, and takes a vow to make a pilgrimage naked to the temple at the time of the matsuri.'

   'Naked?'

   'Yes: the pilgrims wear only waraji, and a little cloth round their loins. And a great many men and women go naked through the snow to the temple, though the snow is deep at that time. And each man carries a bunch of gohei and a naked sword as gifts to the temple; and each woman carries a metal mirror. And at the temple, the priests receive them, performing curious rites. For the priests then, according to ancient custom, attire themselves like sick men, and lie down and groan, and drink, potions made of herbs, prepared after the Chinese manner.'

   'But do not some of the pilgrims die of cold, Kinjurō?'

   'No: our Izumo peasants are hardy. Besides, they run swiftly, so that they reach the temple all warm. And before returning they put on thick warm robes. But sometimes, upon the way, they see the Yuki-Onna.'

1
   In other parts of Japan I have heard the Yuki-Onna described as a very beautiful phantom who lures young men to lonesome places for the purpose of
sucking their blood.

2
   In Izumo the Dai-Kan, or Period of Greatest Cold, falls in February.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について (全)

[やぶちゃん注:本章は本「知られぬ日本の面影」の中で特異的に一章一篇構成で数字を附したパートに分かれていない(他にはこのような章はない)。しかも――松江時代に時計が巻き戻され(但し、後述するように事実は異なる)――ロケーションは、松江のハーンが愛した寓居の、かの愛した庭で――新しく登場する嘗て武士であった愛すべき金柑頭の植木職人金十郎の告白体――プロローグ・インターミッションのカメラの戻り・エピローグといったロケーションのマッチングの妙などなど――非常に優れた掌編小説ともいうべきものである。されば注は私にとって必要と考えた最小限に留め、当該各段落の後に附した。「チヱンバレン敎授の『日本事物』」「籠手田知事」「直政」といった既注のものの指示なども、ここでは総て省略した。禰宜がトランス状態に入って本心を語るというエピソードなども、小さな村落社会にあっては宗教者は最も内密の情報などでも簡単に得られぬものと考えられ、現実的な真相検証などもしたくなったのだが、ここは、ぐっと、こらえて本作鑑賞の邪魔にならぬ配慮をしたつもりであるが、ハーンの注箇所については、どうしても長い注を附さざるを得なかった。目障りとあらば、飛ばしてお読みあれ。なお、底本の本篇の訳者と推定される田部隆次(既にルビを振っているが、「田部」は「たべ」ではなく、「たなべ」と読む)氏の「あとがき」に、本作に就いては、『金十郞と云ふ名は熊本にゐた植木屋の名であつたが、この魂の話は夫人の養母(稻垣とみ子)がヘルンに話した物であつた』と真実を明かしている。以下、『その始めの一つの揷話のやうに『世界の向ふ側に無數の魂を有せる』婦人を書いて居るが、これはヘルンがその友ヱリザベス、ビスランド女史の事を考へながら書いたのであらう。ヱリザベス女王は三千着の衣裳をもつてゐたと傳へられるが、ヘルンはこのヱリザベス、ビスランド女史の事を戱れのやうに『一萬の魂の淑女』卽ち『無數の魂の婦人』と呼んでゐたのであつた』ともある(後者は私の注で再掲する)。しかも本篇には、それ以外にも、妖しい文学的虚構が施されてあるのである。私の最初の注は、それを幾分かは解き明かしたものとなっているはずである。] 

 

      第二十四章 魂について

 

 象牙の玉のやうに頭の光る老人の植木屋金十郞は、いつも彼のために置いてある火鉢で煙草を吸ひに私の書齋の外側の板の間の端にしばらく腰をかけた。そして煙草を吸つて居る間に手傳の小僧を叱らねばならなくなつた。小僧は何をしてゐたか私はよく分らなかつた。ただ私は金十郞がを一つ以上もつて居る人らしくなるやうにせよと云つて居るのを聞いた。それでその言葉が面白かつたので私は出て行つて金十郞の側に坐つた。

 『金十郎さん』私は云つた『私は自分では魂が一つあるかもつとあるか知らない。しかしあなたはいくつもつて居るのか聞かせて下さい』

 『私はやつと四つもつて居ります』と金十郞は動かす事のできない自身をもつて、答ヘた。

 『四つ』と私は分らなかつたやうな氣がして反響のやうに云つた。

 『四つです』彼はくりかへした。『しかしあの小僧は一つしかもてません。それ程辛抱が足りません』

 『そしてどうしてあなたは四つある事が分りましたか』私は尋ねた。

 『賢い人があります』小さい銀きせるから吸殼を落しながら彼は答へた「こんな事を知つて居る賢い人があります。それからそんな事を書いた古い本があります。人の年齡と生れた時と天の星とで魂の數が判じられます。しかしこれは昔の人の知つて居る事で、西洋の事を學んで居る今の若い人は信じません』

 『それから金十郞さん、あなたよりもつと澤山をもつて居る人は今ゐますか』

 『ゐますとも。五つもつて居る人も、六つの人も、七つの人も、八つの人もゐます。しかしどんな人でも九つ以上は神樣がお許しになりません』 

 

 〔ところでこれは、一般の事としては、私は信じられない。何にしろ世界の向う側にはを無數有して、それを皆使用する事を知つて居る婦人を記憶して居るから。外の女が着物を着るやうに、そして一日に幾度もそれを着換へるやうに、この婦人は自分の魂を取換へてゐた。そしてヱリザベス女王の簞笥の中の着物の數でもこの不思議な人の魂の數と比べては物の數でもない。その理由で彼女は二度と同じに見えた事はない、そして考や聲を魂と共に變へた。どうかすると南部の人となつて眼が茶色になつた、又再び北部の人になつて眼は灰色になつた。時として十三世紀の人になつたり、時として十八世紀の人になつたりした、それで人がこれを見て、皆自分の感覺を疑つた、そして皆彼女から寫眞を何枚か貰つてそれを比較して見て、眞相を發見しようとした。ところで寫眞師は、彼女が非常に綺麗なので喜んで寫眞をとつた。が、やがて彼女が二度と同じでない事を發見して、彼等も困つてしまつた。そこで彼女に最も感嘆してゐた人でも彼女を愛するなどと云ふ氣になれなくなつた。それは愚かな事だから。彼女は要するに魂は餘り多くあり過ぎた。それで私の書いたこの事を讀んだ方のうちでこれが本當である事を保證して下さる方があるだらう〕

[やぶちゃん注:昔、ここを平井呈一氏の訳で読んだ若き日の私は、この近代の霊媒師について、幾つかの心霊関連の蔵書を調べて見たのだが、どうもこの内容にぴったりくる人物がいなかった。多数の過去現在の死者の霊を憑依させ、しかも虹彩の色まで変化する、写真を撮っても一枚として同じ人物に見えない(という女性霊媒師というのは如何にも魅力的であったから調べたことを告白しておく)というのは、この一八〇〇年代当時ならば、相当に有名な霊能者のはずだが、行き当たらなかった。ところが、今回、底本の田部隆次氏の後書きを読むに及んで、そこに本件に就いて、この婦人は『ヘルンがその友ヱリザベス、ビスランド女史の事を考へながら書いたのであらう。エリザベス女王』(エリザベス一世(一五三三年~一六〇三年)『は三千着の衣裳を持つてゐたと傳へられるが、ヘルンはこのエリザベス、ビスランド女史の事を戲れのやうに『一萬の魂の淑女』卽ち『無數の魂の婦人』と呼んでゐたのであつた』とあるのに「やられた!」と思わず叫んでしまった。エリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)は、ハーンの女友達であったアメリカのジャーナリスト・編集者である。以下、ウィキの「エリザベス・ビスランド」より引く。一八八九年から一八九〇年にかけて同じアメリカの女性記者ネリー・ブライ(Nellie Bly:但し、これはペンネームで、本名はエリザベス・ジェーン・コクラン(Elizabeth Jane Cochran 一八六四年~一九二二年)である。但し、後に姓を「コクレーン」(Cochrane)に変えている)と『争った世界一周レースで世界から注目を集めた。日本においては、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と親交を持ち、八雲の没後に英語による伝記を執筆したことで知られる』。『ビスランドはルイジアナ州セントメアリー郡のファイアファックス農場に』生まれたが、『南北戦争中、フォート・ビスランドの戦い』『に先立ち疎開している。家族が農場に戻ってからの生活は困難を極め、彼女が』十二歳の『時に、父が相続した実家のある同じルイジアナ州のナッチェズ』に転居している。ビスランドは十代で『その文筆家としての経歴をニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット(タイムズ=ピカユーンの前身の一つ)に「BLRDane」の筆名で詩を投稿することから始め』、『ひとたび執筆活動が家族や新聞の編集者に知られると稿料が支払われ、ほどなく彼女はニューオーリンズに赴いてニューオーリンズ・タイムズ・デモクラットで働くようにな』ったが、『この新聞社にはラフカディオ・ハーンが在職しており、ハーンと親交を結んだ』。一八八七年頃、『ビスランドはニューヨークに移り』、雑誌『『ザ・サン』から現地での最初の仕事を得』、一八八九年まで彼女は『ニューヨーク・ワールド』を含む、多くの出版社で働い』たが、その後、『雑誌『COSMOPOLITAN』の編集者になり、その一方で』、『アトランティック』や『ノースアメリカン・レビュー』といった雑誌にも投稿していた。一八八九年十一月に『ニューヨーク・ワールド』社は、『ジュール・ヴェルヌの小説「八十日間世界一周」の主人公・フィリアス・フォッグ』による八十日間の『空想旅行を上回る試みとして、ネリー・ブライ記者を世界一周に派遣すると発表した。この耳目を集める宣伝を受け、創刊から』三年しか『経っていない雑誌『コスモポリタン』を買収したばかりのジョン・ブリスベン・ウォーカー』は、対抗してビスランドを、急ぎ、旅行に派遣することに決め、実にビスランドは呼び出されて六時間後には『ニューヨークから西へと出発した。一方、ブライは蒸気船に乗って』一八八九年十一月十四日(ビスランドと同じ日か?)『に東向きに出発した。彼女たちの旅行は熱心に報じられたが、ブライは人気があったニューヨーク・ワールドでセンセーショナルに取り上げられる支援を受けた(ビスランドは同紙ではほとんど無視された)ことで、ビスランドおよび月刊誌に過ぎない上に上品な『コスモポリタン』よりも多くの注目を集めるようになった』。八十日間の『期限に挑んでいたブライは』、十二月二十五日に香港に到着するまで、実は『ライバルの存在を知らなかった。その地でオクシデンタル&オリエンタル汽船会社の社員が、ビスランドが』三日先に通ったのでブライは負けるだろうと告げた』ことで知ったとする。『しかし最終的にブライはビスランドに打ち勝った。イングランドでは、雑誌社が船会社に金品を贈って船の出発を遅らせたにもかかわらず、予定していたドイツの高速汽船「エムス」に乗り遅れてサウサンプトンに取り残されたと言われて(おそらくは信じられて)いた。彼女が故意に欺かれたのかどうかは不明である』。『ビスランドは速度の遅い「ボスニア」に乗ることを余儀なくされ』、一月十八日に『アイルランドのクイーンズランド(コーヴ)から出発したが』、この時既に『ブライは優位に立って』おり、『ブライはその間、特別仕立ての列車に乗ってアメリカ大陸を横断』、一八九〇年一月二十五日午後三時五十一分に『終着点のニュージャージー州に到着し』、七十二日と六時間十一分『(雑誌『ワールド』が彼女の到着時間を当てるコンテストを実施したため、正確な時間が測定された)で世界一周旅行を達成した。ビスランドの船は』一月三十日までに『ニューヨークに到達しなかった』ものの、結局七十六日半で『旅行を完遂し、フォッグによる架空の記録は上回った』。『ビスランドは『コスモポリタン』誌に旅行記を連載し』、これは後にハーンが来日した翌年に単行本“ In Seven Stages: A Flying Trip Around The World ”(一八九一年)として刊行されている。『ビスランドの文章は、世界一周レースへの参加という題材から受ける印象よりも、ずっと文学的な範疇のもの』でブライが旅行を綴った「七十二日間世界一周」の『勢いが先走ったスタイルとは明確な対照をなしていた』。実際、一九二九年に『ニューヨーク・タイムズ』が掲載したビスランドの『死亡記事には旅行すら言及がなく』、『「世界一周競争」後の彼女は執筆活動をよりまじめな題材に集中させた』。一九〇六年(ハーン小泉八雲の没年は明治二七(一九〇四)年)には“ The Life and Letters of Lafcadio Hearn ”(ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡)『を刊行して好評を得』ている。『ビスランドは法律家のチャールズ・ホイットマン・ウェットモアと』一八九一年に結婚したが、『旧姓で著作の出版を続けた』。ハーンより十一年下で、新潮文庫上田和夫訳「小泉八雲集」の上田氏の年譜には、一八八二年(明治十五年)に『知友』として彼女の名が挙がり、来日に際しても、明治二三(一八九〇)年『四月四日、横浜到着。ただちにグランド・ホテルにビスランド嬢の紹介でミッチェル・マクドナルドを訪問』とある。しかし、どこにも、彼女が霊を憑依させ、虹彩の色を変え、姿形を千変万化するとはどこにも書いてない。これはハーンのお遊びなのであった。それに真面目に付き合ってこの驚くべき、ありもしない霊媒を探した若き日の私は、いい面の皮だったのであった。そういう目に、この電子テクストを読む方が遭わぬように、敢えて細かく注することとした。因みに、彼女が紹介した、米国海軍主計官で横浜海軍病院に勤務していたミッチェル・マグドナルド(Mitchell MacDonald 一八五三年~大正一二(一九二三)年)は、風呂鞏し)「八雲と震災との切れぬ縁、また一つ」(住吉神社発行の月刊『すみよし』所載)によれば、日本でのハーンの面倒を当初から見た人物で、『ハーン没後も小泉家の遺稿並びに版権の管理者として対外的な連絡折衝に当たり、実の家族のように遺族の面倒をみた。まさに小泉家の恩人である。退役後は横浜グランドホテル社長に就任したが、一九二三年九月一日、関東大震災が発生。マクドナルドはホテルから一度は避難したものの、燃え上がるホテルの内部にアメリカ人女性が残されたらしいという噂を聞き、再び建物に戻り、そのまま帰らぬ人となった。享年七十一歳。遺体はその日のうちに米艦の乗組員たちの手で瓦礫の下から運び出され、そのまま米極東艦隊の軍艦に乗せられて本国に運ばれ、ワシントン郊外の国立アーリントン墓地に埋葬された。小泉家では、マクドナルド氏の供養を行い、浄院殿法興密英居士の戒名をもらい、先祖の諸霊とともに過去帳に記載し、今でも毎日お経をあげているという』とある)。

 最後に一言。「が、やがて彼女が二度と同じでない事を發見して、彼等も困つてしまつた。そこで彼女に最も感嘆してゐた人でも彼女を愛するなどと云ふ氣になれなくなつた。それは愚かな事だから。彼女は要するに魂は餘り多くあり過ぎた」と書くハーン、実は彼女エリザベス・ビスランドを愛していたのかも知れないと、あなたは、ちらっと、思われないだろうか? 私は、そう、思う。ぶっ飛びの烈女見たような新進気鋭の新時代の女性ジャーナリストは、確かに十一年上のハーンには、ちょっと無理――という気はする。しかし……因みに……エリザベス・ビスランドってチャーミング(リンク先は“Elizabeth Bisland’s Race Around the World _ The Public Domain Review”の画像附ページ)なんである(!)…… 

 

 『金十郎さん、この神國ではあなたの云ふ事は本當でせう。しかし、黃金でつくつた神樣しかない國が外にあります、そんな國では、物事がさうよく整つてゐません、それでそこの人々はの病で惱んでゐます。と云ふのは、半分しかがない人があつたり、全くのない人があつたりするかと思ふと、又それぞれ仕事、仕事も滋養も與へてやれない程澤山があり餘る程持ち込まれて居る人もあります。それでこんなやうなはその持主を殊の外苦しめます。つまり、これは西洋の魂ですが、しかし一つ二つでなく、もつと澤山の魂をもつてゐて何になるのですか、どうか、それを聞かせて下さい』

 『旦那、もし皆が同じ數や性質のをもつてゐたら、きつと皆が同じ心になるのでせう。しかし人は皆お互に違ふ事が分ります、それでその違ふのはの數や性質が違ふからです』

 『そしてを少しでなく、澤山もつて居る方がよいのですか』

 『い〻のです』

 『そしてたつた一つ魂をもつて居る人は不完全な人ですか』

 『大層不完全です』

 『それでも大層不完全な人で完全な先祖をもつて居る人もあるでせうね』

 『さうです』

 『それぢや今日たつた一つのをもつて居る人で九つのをもつた先祖から出て居る人もありませう』

 『はい』

 『それでは先祖にはあつたが子孫にはないと云ふ外の八つのはどうなつたでせう』

 『あ〻それは神樣の仕業です。神樣だけが私共銘々のために魂の數をきめて下さいます。えらい人々には澤山、つまらない人には少し』

 『それなら兩親からが傳はるわけぢやないね』

 『い〻え、大へん古いものです魂と云ふものは、その年數は數へられません』

 『そしてこんな事を承りたい、人はを分ける事ができますか。たとへば京都に一つ、東京に一つ、松江に一つ、皆同時にもつて居られますか』

 『できません、いつでも皆一緖です』

 『どうして。一つの中に又外のがある、丁度印籠のいくつもあるあの漆を塗つた小さい箱のやうにですか』

 『い〻え、それは神樣でなければ分りません』

 『そして魂は決して分れませんか』

 『時々分れる事もあります。しかし人のが分れたら、その人は狂人になります。狂人は魂を一つなくした人です』

 『しかし死んだらはどうなります』

 『やはり一緖になつてゐます。……人が死ぬとが家の屋根に上ります。そして四十九日の間屋根の上に停まつてゐます』

 『屋根のどこにです』

 『屋根の棟にがとまつてゐます』

 『見えますか』

 『い〻え、魂は空氣のやうです。小さい風のやうに屋根の棟の上をあちこち動きます』

 『何故四十九日でなく、五十日の間屋根にゐないのでせうか』

 『魂が去つてしまはねばならぬその前に七週間と云ふのが與へられた時間です、七週間で四十九日になります。しかし何故かうなるのだか私に分りません』

 私は死人の魂は家の屋根にしばらく停まつて居るものと云ふ昔の信仰を知らないではなかつた、それは多くの日本の芝居、殊に人を泣かせる加賀見山と云ふ芝居に充分明瞭に出て居るからである。しかし私は前に三重又は四重或はそれ以上のの事は聞いた事はなかつた、それで私は金十郞に彼の信仰の基づいて居る處を知らうと思つて聞いて見たが駄目であつた。祖先傳來の信仰、彼の知つて居る事はそれだけであつた。

[やぶちゃん注:「加賀見山」これは「草履打ち」で知られる歌舞伎「鏡山舊錦繪(かがみやまこきやうのにしきゑ)のことと思われる(歌舞伎版の作中時代は鎌倉初期。リンク先は、以下、それぞれのウィキ)。これは容楊黛(ようようたい)作の人形浄瑠璃「加々見山舊錦繪(かがみやまこきやうのにしきゑ)」(天明二(一七八二)年江戸外記(げき)座初演。本作は、この上演の四十年程前に加賀藩で起きた加賀騒動を素材とするが、時代は室町にずらされてある)の一部を歌舞伎に脚色したもの。現行では文楽と同じく「加賀見山舊錦繪」の外題で上演されることもある。通称「鏡山」であるが、ウィキの「鏡物」によれば、人形浄瑠璃初演の翌年、『江戸森田座において同名の外題で歌舞伎として上演され大当たりを取った。ただしこの時は原作の浄瑠璃の内容を増補改変して上演して』おり、その後の寛政二(一七九〇)年の春、江戸中村座に於いて「春錦伊達染曾我(はるのにしきだてぞめそが)」の三番目に『この鏡山物を出したが、これは初代桜田治助によって定例の曽我物の世界に脚色されたものであった』。『本来、「加々見山」(鏡山)とは加賀騒動をほのめかしたものだが、この』寛政二年の『上演以降、江戸の芝居では岩藤・尾上・お初の出る場面が原作の加賀騒動からは離れ、曽我物や隅田川物、また清玄桜姫物などとない交ぜにして上演されている。清玄桜姫物と同様、当時一日かけてする芝居の内容としてはこれだけでは足らなかったからである。従って鏡山物とは、加賀騒動物という意味ではない。繰り返し上演された鏡山物のなかで、特に注目すべきは上にあげた『春錦伊達染曽我』の三番目と』文化一一(一八一四)年三月に『市村座で初演された『隅田川花御所染』であり、原作の浄瑠璃にはない「竹刀打ち」という場面を加えるなど、これらの内容や演出が今に伝わる歌舞伎の『鏡山旧錦絵』の基本となった』とある。ただ、私は文楽好きではあるものの、「加々見山舊錦繪」は見たことがなく、床本も持ち合わせていない。しかも私は大の歌舞伎嫌いであるためにインスパイアされた「鏡物」には全く冥い。されば、ハーンが、ここで「死人の魂は家の屋根にしばらく停まつて居るものと云ふ昔の信仰」が「加賀見山と云ふ芝居に充分明瞭に出て居る」と言っている箇所が残念なことに全く判らない。識者の御教授を乞うものである。] 

 

    註一。あとで私にこの老人が、それ
    を充分證明するためには大き本にな
    るやうな或種類の信仰――支那の占
    星學に基づいて居るが佛敎や神道の
    說で附加修正されて居るらしい信仰
    をただ云つてゐた事が分つた。この
    複雜な魂の考は支那の十二宮と十の
    天體系の間の星學上の關係の豫備知
    識がなければ說明ができない。チヱ
    ンバレン敎授の『日本事物』と云ふ
    立派な、小さい本の『時』と云ふ不
    思議な文を讀めば多少會得ができよ
    う。この關係が分つたとして、支那
    の星學上の系統では每年は『五行』
    ――木、火、土、金、水、のどれか
    に支配を受ける。そして誕生の日と
    年によつて、人の氣質は天體的にき
    まる。記憶し易いやうしてある日本
    の歌に、五行の何れかに配すべき魂
    或は性質の數が詠み込んである、
    卽ち木に九つ、火に三つ、土に一つ、
    金に七つ、水に五つの魂がある、
    ―
    『きくからに、祕密の山に、土一つ、
    七つ金とぞ御推量あれ』
     銘々が『長』『幼』と分れるから、
    五
行が十の天體系となる、その影響
    が
十二支と混交して、――それが皆、
    時、所、生命、幸、不幸、等に關係
    して來る。しかしこんな事を云つて
    見ても、この問題は實際如何に非常
    に複雜して居るか分らない。
     老植木屋の云つた書物――歐洲の
    どの國にもある占の本のやうに日本
    で普く知られて居る本は三世相であ
    る。これは今でも求められる。しか
    し、かう云ふ事に通じて居る人の說
    では、金十郞の意見と反對で、魂を
    餘り澤山もつて居るのは餘り少いの
    と同じく惡いと云ふ事である。九つ
    の魂をもつて居るのは『氣がおほす
    ぎる』に事になつて――正しい目的
    がない事になる、一つしかないのは
    早い智惠が缺けて居る。支那の占星
    學によれば、『天性』『性格』と云
    ふ方、この場合『魂』と云ふ言葉よ
    りも或はもつと正確であらう。こん
    な信仰から生れ出た奇妙な想像が澤
    山
ある。數百のうちから一つ例を引
    け
ば、火の性の人は水の性の人と結
    婚
してはならない。それでどうして
    も
一度和合しない二人の事を『火と
    水
のやう』と云ふ俚言がある。

 

[やぶちゃん注:ここでハーンが説明しているのは古代中国を濫觴とする「九星」(きゅうせい)という民間信仰を指す(詳しくはウィキの「九星」を参照されたい)。私はその生れた年月日の九星と干支・五行を組合わせた占術の内容から、当初、「九星気学」(きゅうせいきがく)」のことと一人合点していたが、「九星気学」は、九星術を元に明治四二(一九〇九)年に園田真次郎が起こしたものであって、それは本篇時制時(明治二四(一八九一)年)の後であることが判ったことを附記しておく。但し、陰陽五行説も、十干十二支も、そして恐らくは七星も、中国の古代哲学に於いては、元来、純粋な記号であって、九星が九つの魂を意味するなどという意味は本来的にはないと私は思う。

「三世相」これは「さんぜさう(さんぜそう)」と読むが、「本」と言っても、書誌学上、こうした書名の唯一冊の書物が存在するわけではないので注意されたい。「三世相」自体が、生年月日の干支や人相などを仏教の因縁説、及び、陰陽五行説の相生相剋説などを援用合成して、個人の過去・現在・未来の因果・吉凶などを易断することを指し、またそれについて、庶民に分かるように平易に解説した書物群をも指すもので、ここは後者の謂いである。なお、この語には「人の吉凶禍福などが循環して定まらぬこと」の意もある。] 

 

 大槪の出雲人のやうに、金十郞は神道の信者であると共に佛敎の信者でもあつた。佛敎では禪宗、神道では出雲大社に屬してゐた。しかも彼の本質論はどちらの物でもないやうに思はれた。佛敎では、人のは複雜にいくつもあると云ふ說は敎へない。一般の人には分らない古い神道の書物がある、それには金十郞の說と甚だ隔りはあるが似寄つた說をのべてある、しかし金十郞はそれを見た事はない。その書物によれば人間には皆二つの魂がある、一つは執念深い荒魂(アラタマ)、一つは寬大なる和魂(ニギタマ)である。その上人間には大禍津日神(オホマガツビノカミ)の魂も、又それと反對の力ある大直昆神(オホナホビノカミ)の魂もついて居る。これは正しく金十郎の考ではない。しかし私は金十郞が魂の分れる事があると云つたので平田の書いた事を思ひ出した。平田の敎では人の靈魂はその肉體を離れ、その人の姿となつて、本人の知らないうちに憎んで居る敵を亡ぼす事があると云ふのである。そこで私はそれについて金十郞に尋ねた。金十郞は荒魂や和魂のことは聞いた事がないと云つた、しかし私にこんな事を告げた。

[やぶちゃん注:「その書物によれば人間には皆二つの魂がある、一つは執念深い荒魂(アラタマ)、一つは寬大なる和魂(ニギタマ)である。その上人間には大禍津日神(オホマガツビノカミ)の魂も、又それと反對の力ある大直昆神(オホナホビノカミ)の魂もついて居る」「・」で分割して注する(といっても私は国学院大学出身乍らm神道に滅法冥いので、ほぼウィキの引用である)。

・前半の「その書物」の最古のものは「日本書紀」で、「神功皇后攝政前紀」に新羅征討の際に神功皇后に「和魂(にぎみたま)は王身(みついで)に服(したが)ひて寿命(みいのち)を守らむ。荒魂は先鋒(さき)として師船(みいくさのふね)を導かむ」という神託があったとする箇所であろうと思われる(ウィキの「一霊四魂(いちれいしこん)」に拠る)。

・「荒魂」「和魂」ウィキの「荒魂・和魂」によれば、『荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである』。『荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている』。『和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる』。『江戸時代以降、復古神道がさかんとなり、古神道の霊魂観として、神や人の心は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と』四つの『魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられるようにな』った、とあるので、続けてウィキの「一霊四魂(いちれいしこん)」から引用する。『一霊四魂のもっとも一般的な解釈は、神や人には荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)の四つの魂があり、それら四魂を直霊(なおひ)という一つの霊がコントロールしているというもので』、『和魂は調和、荒魂は活動、奇魂は霊感、幸魂は幸福を担うとされる』。但し『一般に、「一霊四魂」は古神道の霊魂観として説明されるが、実際には中世や近世になってから唱えられた概念であり、古典上の根拠は必ずしも十分ではな』く、古記録から『神には四魂があり、それらは別個に活動することがあるとまではいえるが、人にも四魂があるとまではしがたく、一霊四魂説は、神の魂を人にあてはめようとした、神学的な解釈から生み出されたとみることもできる』。なお、『本居宣長は、「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」に、三輪山の神は大国主命の和魂だとあることなどを根拠に、四魂には大きく荒魂と和魂の』二種があり、『和魂にはさらに幸魂と奇魂の働きがあるとしており、四魂を並列的にみるようなことはしていない』。『近世になって復古神道がさかんになると、一霊四魂は古神道の霊魂観として重視され、本田親徳や出口王仁三郎らによって、構造や機能が詳述されていくこととなる』とある。ハーンの謂いはこの一霊四魂説に基づく謂いと考えてよかろう。

・「大禍津日神(オホマガツビノカミ)の魂」の「大禍津日神」とは神名で(以下、ウィキの「禍津日神」より引用。下線やぶちゃん)、『禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意味になる』。『神産みで、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で、『古事記』では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二神、『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)としている』。『これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている』。『神話では、禍津日神が生まれた後、その禍を直すために直毘神(なおびのかみ)二柱と伊豆能売が生まれている』。『なお、『日本書紀』同段第十の一書ではイザナギが大綾津日神を吹き出したとして』おり、『これが穢れから生まれたとの記述はないが、大綾は大禍と同じ意味であり、大禍津日神と同一神格と考えられている』。『後に、この神を祀ることで災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除けの守護神として信仰されるようになった』が、『この場合、直毘神が一緒に祀られていることが多い』。後の国学者『本居宣長は、禍津日神を悪神だと考え』、『禍津日神は人生における不合理さをもたらす原因だという』。『この世の中において、人の禍福は必ずしも合理的に人々にもたらされず、誠実に生きている人間が必ずしも幸福を享受し得ないのは、禍津日神の仕業だとし』、『「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」(『直毘霊』)と述べている』。『一方、平田篤胤は禍津日神を善神だとし』、『禍津日神は須佐之男命の荒魂であるという』。『全ての人間は、その心に禍津日神の分霊と直毘神(篤胤は天照大神の和魂としている)の分霊を授かっているのだという』。『人間が悪やケガレに直面したとき、それらに対して怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは、自らの心の中に禍津日神の分霊の働きによるものだとした』。『つまり、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だと』言い、『またその怒りは直毘神の分霊の働きにより、やがて鎮められるとした』とある。個人的には平田説を支持する。

・「大直昆神(オホナホビノカミ)の魂」「大直昆神」も神名。ウィキの「直毘神から引く(下線やぶちゃん)。『穢れを払い、禍(まが)を直す神とされる』。『日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。『古事記』では八十禍津日神・大禍津日神が成った後に神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おほなほびのかみ)と伊豆能売』(いづのめ)『の三柱が成ったとしている。『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神が成った後に神直日神(かみなほひのかみ)大直日神(おほなほひのかみ)の二柱の神が成ったとしている。同段第十の一書では少し異なっており、イザナギが禊の際に大直日神を生み、その後に大綾津日神(大禍津日神と同一神格)を生んだとしている』。『ナホは禍を直すという意味である。ビは神霊を意味するクシビのビとも、「直ぶ」の名詞形「直び」であるともいう。いずれにしても、直毘神は凶事を吉事に直す神ということである。ナホ(直)はマガ(禍、曲)と対になる言葉であり、折口信夫はナホビの神はマガツヒの神との対句として発生した表裏一体の神であるとしている。また、直毘神は穢れを祓う神事を行う際の祭主であり、伊豆能売は巫女であるとも考えられる』。

「金十郎が魂の分れる事があると云つたので平田の書いた事を思ひ出した。平田の敎では人の靈魂はその肉體を離れ、その人の姿となつて、本人の知らないうちに憎んで居る敵を亡ぼす事があると云ふのである」平田篤胤の当該記載箇所を捜し得ない。識者の御教授を乞う。]

 

 『旦那、人が妻に内證で他に愛して居るものがある事を妻にさとられると、その隱女は時々どんなお醫者でも直せない病氣になる事があります。そのわけはその人の妻の魂が一つ、餘程の腹立ちで、その女のからだにのりうつつてその女を殺さうとするのです。しかし妻の方でも魂が一つなくなつたから病氣になるか、或は暫く狂氣になります。

 『それから日本の私共には知られて居るが、西洋のあなた方がお聞きになつた事のないもつと不思議な事がもう一つあります。神樣の力で、正しい目的で時々魂がそのからだから暫く離れて、その最も祕密にして居る思ひを云ふやうになる事があります。しかしからだにはその時何の苦痛も起りません――そしてその不思議な事はこんな風に起ります――

 『或男が或女を愛してゐます、結婚する事も自由ですが、その女の方でも自分を愛してくれて居るかどうかは分りません。男は神社の神主に遇ふて、その疑を話し、神樣【註二】の力を借りてその疑を解かうと致します。そこで神主はその男の名は聞かないが、年齡と生れた年月日時刻分聞いて神樣に分るやうに記します、そして七日たつて又神社へもどつて來るやうに申します。

    註二。普通稻荷堂。大きな神社で
        はこんな事は行はれない。

 『そしてその七日の間に神主はその疑の解けるやうに神に祈りを致します、それから一人の神主は每朝冷い淸い水で沐浴して食事每に神の火で煮焚した物だけを喰べます。そして八日目にその男は神社へ歸つて來て、神主の迎へてくれる奧の一室へ入ります。

 『儀式が行はれて、何か御祈禱が始まります、それがすんで皆默つて待つてゐます。それから齋戒沐浴をしてゐた神主の全身が不意に烈しく震ひ出します、丁度大熱で震ひ出して居る人のやうです。ところでこれは神樣の力で、その愛して居るかどうか分らぬと云ふ女の魂が神主のからだへ、全くおづおづと入つたからです。女は知りません、その時どこにゐても、すつかり眠つてゐてどうしたつて起す事ができないのですから。しかしその女の魂は神主のからだへ呼び込まれてゐて、本當の事をしか云へないのです、そして思つて居る事を皆云ふやうになります。そして神主は自分の聲でなく、女の魂の聲で申します、そしてその魂になつて、少しも僞りなく『好きです』とか『嫌です』とか申します、それも女の言葉で。もし嫌ならばその嫌の理由を申します、しかし、もしその答が好きな方のなら、云ふ程の事はありません。そしてそこで神主の身ぶるひは終ります、それは魂が神主から去つたからです、そして死んだやうに俯向きになつて倒れて、長くそのままになつてゐます』 

 

 こんな不思議な話が皆すんだあとで私は尋ねた、『金十郞さん、あなたは神樣の力で魂が離れて、神主の心にのりうつつた事を知つて居るのなら、聞かせて下さい』

 『はい、私は自分で分つた事があります』

 私は默つて待つてゐた。老人はきせるをたたいて、火鉢の側へなげ出して、手を組んで、それから話す前にしばらく蓮の花を眺めた。それからにつこりして云つた――

 『旦那、私は大層若い時に結婚しました。長い間子供がありませんでした、それからお仕舞に妻が悴を一人產んで、そして佛になりました。しかし忰は死なないで大きくなつて立派に達者になりました、そして西南戰爭の時天子樣の軍隊に入りました、そして九州の南の方の大戰爭で男らしく討死致しました。私には可愛い忰でした、忰が天子樣のために討死ができたと聞いた時私は嬉し泣きに泣きました、さむらひの忰にとつてこれより立派な死に方はないのですから。そこであの立派な城のある、名高い都の熊本近くの或山の上に忰が葬られました。そこで私もその墓を綺麗にするために參りました。しかしここでも二の丸にある記念碑に忰の名はやはり彫つてあります、その記念碑【譯者註一】は天子樣のために忠義と名譽の戰爭に倒れた出雲の人々のために建ててあるのです。そして私は忰の名をそこで見ますと嬉しくなります、そして忰と話します、さうすると大きな松【譯者註二】の樹の下で忰が又私の側を歩いて居るやうな氣が致します……しかしそれは別の事です。

[やぶちゃん注:「西南戰爭」は、明治一〇(一八七七)年であるから、虚構の本作品内時間(明治二四(一八九一)年)からは十四年前となる。冒頭に注したように、これがセツの養母からの聴き書きとするならば、ストリー上での操作が全くないと仮定すると、それは恐らくもっと短い、ほんの数年前となることになる。金十郎の追懐の雰囲気は、確かにそんな気が私はするのである。]

 

 『私は妻のために悲しみました。一緖にゐた間、私共は何一つ厭な事を云ひ合つた事はありませ。そして妻が死んだ時、私はもう二度と結婚はしまいと思ひました。ところが二年たつてから兩親は家に娘が欲しくなりました、そしてその事を私に云つて、貧乏だが家柄のよい綺麗な娘の話を致しました、その家は私の親戚で、その娘が一人で一家を支ヘて居るのでした、娘は絹の着物、木綿の着物を織つて、それで極僅かの金を儲けてゐました。それでその娘が親孝行で美しいのとその家の運が惡いのとで、私の兩親はその娘を貰つてその家の人達を助けるやうに思つたのです、その頃は私共も少し米の收入もあつたものですから。それでいつも兩親の云ふ通りになつてゐましたから、私は兩親の一番よいと思ふ通りに任せました。そこで仲人を呼んで、婚禮の準備に取りかかりました。

 『娘の兩親の家で、私は二度娘を見る事ができました。そして始めて見た時には自分は幸福だと思ひました、娘は大層綺麗で若かつたからです。しかし二度目に娘が泣いて居るのと、その眼が私の眼を避けて居るのに氣がつきました。そこで私は力を落しました、それは、私は娘に嫌はれて居る、それから皆が娘を强いてこんな事にしたのだ、と思つたからです。そこで私は神樣に聞いて見ようと決心しました、そして婚禮を延ばして貰ふやうにして、材木町の柳の稻荷樣【譯者註三】へ參りました。

[やぶちゃん注:「材木町」現在の松江市末次本町附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。ハーンが最初に住まった旅館富田屋の北直近であった。]

 

 『そしてからだが震ひ出すと、神主に娘の魂がのりうつつて話し出して、私にかう白狀しました「私の心はあなたを嫌ひます、そして顏を見ても病氣になります、外に私の好きな人があるからです、そしてこの婚禮は私に强いられたのだからです。しかし私の心ではあなたは嫌でも、兩親は貧乏で年寄て、私獨りでは長く長く續いて兩親を養ふ事ができない程私の仕事が苦しいから、あなたと結婚しなければなりません。しかしどれ程私が忠實な妻にならうとしても、私のためにあなたのうちは少しも良い事はありません、それは私の心は中々執念深くあなたを嫌つて居るからです、そしてあなたの聲を聞いても胸が惡くなります、それから顏を見ると死にたくなります』

 『こんな風に眞相が分つて、私は兩親にそれを云ひました、そして私は娘に知らないで迷惑をかけた事を赦して貰ひたいと丁寧な手紙をやりました、そして世間の口に上らないで婚禮の破談になるやうに長い間假病を使ひました、そしてその家へ贈物を致しました、そして娘は喜びました。娘はその後愛して居る若い男と添ふ事ができたからです。兩親は再び妻帶を强いませんでした、兩親が亡くなつてから獨りでくらしてゐます……あゝ旦那、あの小僧の實にいけない事を御覽なさい』

 

 私共の話込んで居るのに乘じて、金十郞の若い助手は竹の棒と絲切れと卽成釣竿とし老人の煙草入れから盜んだ煙草を小さい玉にしてその絲の端につけて置いた。この餌で彼は蓮池で釣をしてゐた、そして一匹の蛙がそれを呑んで小石のずつと土に高くさがつてゐた。大の字になつてぐるぐる𢌞りながら癇癪と絕望の餘り狂亂の痙攣で蹴つてゐた。

 『梶』と植木屋は呼んだ。

 小僧は笑つて釣竿を落して、平氣な顏をして私共の處へ走つて來た、蛙の方は煙草を吐き出して蓮池の方へぶくぶくかへつた。たしかに梶は叱られる事を恐れてゐなかつた。

 『後生が惡い』老人は象牙頭をふりながら云つた。『おい、梶、お前の後生はよくないぞ、心配だ。蛙にやるための煙草ぢやないよ。旦那、この小僧は一つしかもちませんと申したのは本當でせう』

    譯者註一。二の丸、松江の舊城。こ
    の記念碑は故籠手田知事が以前島根
    縣官民に說き、十年戰爭の島根縣出
    身死者のため、銅を鑄て建てしもの、
    もと二の丸にありしが數年前天守閣
    の入口の邊へ遷した。
    譯者註二。記念碑の二の丸にありし
    時に、その附近に直政公手植松と稱
    する二本の亭々たゐ巨松ありしが、
    一本は今も老幹依然聳えて壯觀をな
    せども一本は枯れた。ここではこの
    松のことを云つて居る。
    譯者註三。この稻荷は數年前まで存
    在せしが、『新大橋』架設の際、道
    路
新設のためと小さい神社併合実施
    の
ためとで、今は鍛冶町の船玉稻荷
    と
併合された。松江の人は『柳稻荷』
    と
呼んでゐたのは社の背後に老柳あ
    り
しため。

[やぶちゃん注:「『新大橋』架設」初代新大橋の架設は大正三(一九一四)年で、本底本の刊行は大正一五(一九二六)年である。]

 

 

ⅩⅩⅣ

 

OF SOULS.

 

  KINJURŌ, the ancient gardener, whose head shines like an ivory ball, sat him down a moment on the edge of the ita-no-ma outside my study to smoke his pipe at the hibachi always left there for him. And as he smoked he found occasion to reprove the boy who assists him. What the boy had been doing I did not exactly know; but I heard Kinjurō bid him try to comport himself like a creature having more than one Soul. And because those words interested me I went out and sat down by Kinjurō.

   'O Kinjurō,' I said, 'whether I myself have one or more Souls I am not sure. But it would much please me to learn how many Souls have you.'

   'I-the-Selfish-One have only four Souls,' made answer Kinjurō, with conviction imperturbable.

   'Four? re-echoed I, feeling doubtful of having understood 'Four,' he repeated. 'But that boy I think can have only one Soul, so much is he wanting in patience.'

   'And in what manner,' I asked, 'came you to learn that you have four Souls?'

   'There are wise men,' made he answer, while knocking the ashes out of his little silver pipe, 'there are wise men who know these things. And there is an ancient book which discourses of them. According to the age of a man, and the time of his birth, and the stars of heaven, may the number of his Souls be divined. But this is the knowledge of old men: the young folk of these times who learn the things of the West do not believe.'

   'And tell me, O Kinjurō, do there now exist people having more Souls than you?'

   'Assuredly. Some have five, some six, some seven, some eight Souls. But no one is by the gods permitted to have more Souls than nine.'

 

    [Now this, as a universal statement, I could not believe, remembering a woman upon the other side of the world who possessed many generations of Souls, and knew how to use them all. She wore her Souls just as other women wear their dresses, and changed them several times a day; and the multitude of dresses in the wardrobe of Queen Elizabeth was as nothing to the multitude of this wonderful person's Souls. For which reason she never appeared the same upon two different
occasions; and she changed her thought and her voice with her Souls. Sometimes she was of the South, and her eyes were brown; and again she was of the North,
and her eyes were grey. Sometimes she was of the thirteenth, and sometimes of the eighteenth century; and people doubted their own senses when they saw these
things; and they tried to find out the truth by begging photographs of her, and then comparing them. Now the photographers rejoiced to photograph her because
she was more than fair; but presently they also were confounded by the discovery that she was never the same subject twice. So the men who most admired her could not presume to fall in love with her because that would have been absurd. She had altogether too many Souls. And some of you who read this I have written will bear witness to the verity thereof.]
 

 

   'Concerning this Country of the Gods, O Kinjurō, that which you say may be true. But there are other countries having only gods made of gold; and in those countries matters are not so well arranged; and the inhabitants thereof are plagued with a plague of Souls. For while some have but half a Soul, or no Soul at all, others have Souls in multitude thrust upon them, for which neither nutriment nor employ can be found. And Souls thus situated torment exceedingly their owners. . . . That is to say, Western Souls. . . . But tell me, I pray you, what is the use of having more than one or two Souls?'

   'Master, if all had the same number and quality of Souls, all would surely be of one mind. But that people are different from each other is apparent; and the differences among them are because of the differences in the quality and the number of their Souls.'

   'And it is better to have many Souls than a few?' 'It is better.'

   'And the man having but one Soul is a being imperfect?'

   'Very imperfect.'

   'Yet a man very imperfect might have had an ancestor perfect?'

   'That is true.'

   'So that a man of to-day possessing but one Soul may have had an ancestor with nine Souls?'

   'Yes.'

   'Then what has become of those other eight Souls which the ancestor possessed, but which the descendant is without?'

   'Ah! that is the work of the gods. The gods alone fix the number of Souls for each of us. To the worthy are many given; to the unworthy few.'

   'Not from the parents, then, do the Souls descend?'

   'Nay! Most ancient the Souls are: innumerable, the years of them.'

   'And this I desire to know: Can a man separate his Souls? Can he, for instance, have one Soul in Kyōto and one in Tōkyō and one in Matsue, all at the same time?'

   'He cannot; they remain always together.'

   'How? One within the other,— like the little lacquered boxes of an inrō?'

   'Nay: that none but the gods know.'

   'And the Souls are never separated?'

   'Sometimes they may be separated. But if the Souls of a man be separated, that man becomes mad. Mad people are those who have lost one of their Souls.'

   'But after death what becomes of the Souls?'

   'They remain still together. . . . When a man dies his Souls ascend to the roof of the house. And they stay upon the roof for the space of nine and forty days.'

   'On what part of the roof?'

   'On the yane-no-mune,— upon the Ridge of the Roof they stay.'

   'Can they be seen?'

   'Nay: they are like the air is. To and fro upon the Ridge of the Roof they move, like a little wind.'

   'Why do they not stay upon the roof for fifty days instead of forty- nine?'

   'Seven weeks is the time allotted them before they must depart: seven weeks make the measure of forty-nine days. But why this should be, I cannot tell.'

   I was not unaware of the ancient belief that the spirit of a dead man haunts for a time the roof of his dwelling, because it is referred to quite impressively in many Japanese dramas, among others in the play called Kagami-yama, which makes the people weep. But I had not before heard of triplex and quadruplex and other yet more highly complex Souls; and I questioned Kinjurō vainly in the hope of learning the authority for his beliefs. They were the beliefs of his fathers: that was all he knew. [1]

   Like most Izumo folk, Kinjurō was a Buddhist as well as a Shintōist. As the former he belonged to the Zen-shū, as the latter to the Izumo-Taisha. Yet his ontology seemed to me not of either. Buddhism does not teach the doctrine of compound-multiple Souls. There are old Shinto books inaccessible to the multitude which speak of a doctrine very remotely akin to Kinjurō's; but Kinjurō had never seen them. Those books say that each of us has two souls,— the Ara-tama or Rough Soul, which is vindictive; and the Nigi-tama, or Gentle Soul, which is all-forgiving. Furthermore, we are all possessed by the spirit of Oho-maga-tsu-hi-no- Kami, the 'Wondrous Deity of Exceeding Great Evils'; also by the spirit of Oho-naho-bi-no-Kami, the 'Wondrous Great Rectifying Deity,' a counteracting influence. These were not exactly the ideas of Kinjurō. But I remembered something Hirata wrote which reminded me of Kinjurō's words about a possible separation of souls. Hirata's teaching was that the ara-tama of a man may leave his body, assume his shape, and without his knowledge destroy a hated enemy. So I asked Kinjurō about it. He said he had never heard of a nigi-tama or an ara-tama; but he told me this:

   'Master, when a man has been discovered by his wife to be secretly enamoured of another, it sometimes happens that the guilty woman is seized with a sickness that no physician can cure. For one of the Souls of the wife, moved exceedingly by anger, passes into the body of that woman to destroy her. But the wife also sickens, or loses her mind awhile, because of the absence of her Soul.

   'And there is another and more wonderful thing known to us of Nippon, which you, being of the West, may never have heard. By the power of the gods, for a righteous purpose, sometimes a Soul may be withdrawn a little while from its body, and be made to utter its most secret thought. But no suffering to the body is then caused. And the wonder is wrought in this wise: 

   'A man loves a beautiful girl whom he is at liberty to marry; but he doubts whether he can hope to make her love him in return. He seeks the kannushi of a certain Shinto temple, [2] and tells of his doubt, and asks the aid of the gods to solve it. Then the priests demand, not his name, but his age and the year and day and hour of his birth, which they write down for the gods to know; and they bid the man return to the temple after the space of seven days.

   'And during those seven days the priests offer prayer to the gods that the doubt may be solved; and one of them each morning bathes all his body in cold, pure water, and at each repast eats only food prepared with holy fire. And on the eighth day the man returns to the temple, and enters an inner chamber where the priests receive him.

   'A ceremony is performed, and certain prayers are said, after which all wait in silence. And then, the priest who has performed the rites of purification suddenly begins to tremble violently in all his body, like one trembling with a great fever. And this is because, by the power of the gods, the Soul of the girl whose love is doubted has entered, all fearfully, into the body of that priest. She does not know; for at that time, wherever she may be, she is in a deep sleep from which nothing can arouse her. But her Soul, having been summoned into the body of the priest, can speak nothing save the truth; and It is made to tell all Its thought. And the priest speaks not with his own voice, but with the voice of the Soul; and he speaks in the person of the Soul, saying: "I love," or "I hate," according as the truth may be, and in the language of women. If there be hate, then the reason of the hate is spoken; but if the answer be of love, there is little to say. And then the trembling of the priest stops, for the Soul passes from him; and he falls forward upon his face like one dead, and long so—remains.

 

   'Tell me, Kinjurō,' I asked, after all these queer things had been related to me, 'have you yourself ever known of a Soul being removed by the power of the gods, and placed in the heart of a priest?'

   'Yes: I myself have known it.'

   I remained silent and waited. The old man emptied his little pipe, threw it down beside the hibachi, folded his hands, and looked at the lotus- flowers for some time before he spoke again. Then he smiled and said:

 

   'Master, I married when I was very young. For many years we had no children: then my wife at last gave me a son, and became a Buddha. But my son lived and grew up handsome and strong; and when the Revolution came, he joined the armies of the Son of Heaven; and he died the death of a man in the great war of the South, in Kyushu. I loved him; and I wept with joy when I heard that he had been able to die for our Sacred Emperor: since there is no more noble death for the son of a samurai. So they buried my boy far away from me in Kyūshū, upon a hill near Kumamoto, which is a famous city with a strong garrison; and I went there to make his tomb beautiful. But his name is here also, in Ninomaru, graven on the monument to the men of Izumo who fell in the good fight for loyalty and honour in our emperor's holy cause; and when I see his name there, my heart laughs, and I speak to him, and then it seems as if he were walking beside me again, under the great pines. . . . But all that is another matter.

   'I sorrowed for my wife. All the years we had dwelt together no unkind word had ever been uttered between us. And when she died, I thought never to marry again. But after two more years had passed, my father and mother desired a daughter in the house, and they told me of their wish, and of a girl who was beautiful and of good family, though poor. The family were of our kindred, and the girl was their only support: she wove garments of silk and garments of cotton, and for this she received but little money. And because she was filial and comely, and our kindred not fortunate, my parents desired that I should marry her and help her people; for in those days we had a small income of rice. Then, being accustomed to obey my parents, I suffered them to do what they thought best. So the nakodo was summoned, and the arrangements for the wedding began.

   'Twice I was able to see the girl in the house of her parents. And I thought myself fortunate the first time I looked upon her; for she was very comely and young. But the second time, I perceived she had been weeping, and that her eyes avoided mine. Then my heart sank; for I thought: She dislikes me; and they are forcing her to this thing. Then I resolved to question the gods; and I caused the marriage to be delayed; and I went to the temple of Yanagi-no-Inari-Sama, which is in the Street Zaimokuchō.

   'And when the trembling came upon him, the priest, speaking with the Soul of that maid, declared to me: "My heart hates you, and the sight of your face gives me sickness, because I love another, and because this marriage is forced upon me. Yet though my heart hates you, I must marry you because my parents are poor and old, and I alone cannot long continue to support them, for my work is killing me. But though I may strive to be a dutiful wife, there never will be gladness in your house because of me; for my heart hates you with a great and lasting hate; and the sound of your voice makes a sickness in my breast (koe kiite mo mune ga waruku naru); and only to see your face makes me wish that I were dead (kao miru to shinitaku naru)."

   'Thus knowing the truth, I told it to my parents; and I wrote a letter of kind words to the maid, praying pardon for the pain I had unknowingly caused her; and I feigned long illness, that the marriage might be broken off without gossip; and we made a gift to that family; and the maid was glad. For she was enabled at a later time to marry the young man she loved. My parents never pressed me again to take a wife; and since their death I have lived alone. . . . O Master, look upon the extreme wickedness of that boy!'

 

   Taking advantage of our conversation, Kinjurō's young assistant had improvised a rod and line with a bamboo stick and a bit of string; and had fastened to the end of the string a pellet of tobacco stolen from the old man's pouch. With this bait he had been fishing in the lotus pond; and a frog had swallowed it, and was now suspended high above the pebbles, sprawling in rotary motion, kicking in frantic spasms of disgust and despair. 'Kaji!' shouted the gardener.

   The boy dropped his rod with a laugh, and ran to us unabashed; while the frog, having disgorged the tobacco, plopped back into the lotus pond. Evidently Kaji was not afraid of scoldings.

   'Goshō ga warui!' declared the old man, shaking his ivory head. 'O Kaji, much I fear that your next birth will be bad! Do I buy tobacco for frogs? Master, said I not rightly this boy has but oneSoul?'

 

1
   Afterwards I found that the old man had expressed to me only one popular form of a belief which would require a large book to fully explain,
a belief
founded upon Chinese astrology, but possibly modified by Buddhist and by Shinto ideas. This notion of compound Souls cannot be explained at all without a prior knowledge of the astrological relation between the Chinese Zodiacal Signs and the Ten Celestial Stems. Some understanding of these may be obtained from the curious article 'Time,' in Professor Chamberlain's admirable little book, Things Japanese. The relation having been perceived, it is further necessary to know that under the Chinese astrological system each year is under the influence of one or other of the 'Five Elements'
Wood, Fire, Earth, Metal, Water; and according to the day and year of one's birth, one's temperament is celestially decided. A Japanese mnemonic verse tells us the number of souls or natures corresponding to each of the Five Elemental Influences, namely, nine souls for Wood, three for Fire, one for Earth, seven for Metal, five for Water:

                       Kiku karani

                       Himitsu no yama ni

                       Tsuchi hitotsu

                       Nanatsu kane to zo

                       Go suiryo are.

   Multiplied into ten by being each one divided into 'Elder' and 'Younger,' the Five Elements become the Ten Celestial Stems; and their influences are commingled with those of the Rat, Bull, Tiger, Hare, Dragon, Serpent, Horse, Goat, Ape, Cock, Dog, and Boar (the twelve Zodiacal Signs), all of which have relations to time, place, life, luck, misfortune, etc. But even these hints give no idea whatever how enormously complicated the subject really is.

   The book the old gardener referred to once as widely known in Japan as every fortune-telling book in any European country was the San-ze-sō, copies of which may still be picked up. Contrary to Kinjurō's opinion, however, it is held, by those learned in such Chinese matters, just as bad to have too many souls as to have too few. To have nine souls is to be too 'many-minded', without fixed purpose; to have only one soul is to lack quick intelligence. According to the
Chinese astrological ideas, the word 'natures' or 'characters' would perhaps be more accurate than the word 'souls' in this case. There is a world of curious fancies, born out of these beliefs. For one example of hundreds, a person having a Fire-nature must not marry one having a Water-nature. Hence the proverbial saying about two who cannot agree,
'They are like Fire and Water.'

2
   Usually an Inari temple. Such things are never done at the great Shintō shrines.

2015/12/12

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三十五)/ 第二十三章~了


      三五

 

 歸航の途、再び自分は隱岐西鄕の船室の屋根の上に――今度は幸にも西瓜の邪魔を交らずに――坐つて、その荒れた島の海岸が靑白い海のかなたに、一條の白い地平線へと消え行くのを見た時の陰欝の念を自分と自分に說明して見ようとした。一つには自分が決して二度とは會へぬ多くの人達から受けた親切の追懷が起こしたに相違無い。一つにはまた、その古い土地そのものとの自分の親しみと、物の恰好と場所との懷ひ出が――島と島との間の水路を通る時の長い靑い奇異な觀物、石の多い入江に隱れて居る仄かな灰色を帶びた漁村、小さな原始的な町の狹い街路の魑魅的な珍妙さ、日々に親しんで可愛くなつた峰や谿の形と色合、神祕な長い名を有つ神を祀つた木蔭深い社殿への曲りくねつた壞れた小徑、未知な地平線のあかるみから蝶と漂ふ黃色な帆船の懷ひ出が――起こしたに相違無い。だが自分は考へるに、それは恰も或る山水の景が朝の光りに浸つて、その種々な色に和められるが如くに、あらゆる記憶がそれに浸りそれに和められる一種特別な感じに――自分が熱帶の北でこれ迄入つたことのある何處よりかも、いろんな狀態が自然の情(こゝろ)に近いのである、西洋生活の言語道斷な機械世界を遠く離れて居るのである、といふ感じに――一層多く基づいて居たと思ふ。それで――鳥賊の臭にも拘らず――日本の他の處では感じたことの無い、遠くへ手を伸ばす、彼の高壓文明の力から免れることの充分の喜悅を、其處で感じた爲めに――少くとも島前では、人生の人工的なもの總ての範圍を餘程超越して、自己といふものを知るの歡喜を其處で感じた爲めに――主として、その爲めに自分は隱岐を好むのだ、といふやうに自分には思はれた。

[やぶちゃん注:……ハーン先生、私もただ一度、四年前に訪れただけですが、隠岐を愛しています――

 

 

ⅩⅩⅩⅤ.

 

   Once more, homeward bound, I sat upon the cabin-roof of the Oki-Saigo,— this time happily unencumbered by watermelons,— and tried to explain to myself the feeling of melancholy with which I watched those wild island- coasts vanishing over the pale sea into the white horizon. No doubt it was inspired partly by the recollection of kindnesses received from many whom I shall never meet again; partly, also, by my familiarity with the ancient soil itself, and remembrance of shapes and places: the long blue visions down channels between islands,— the faint grey fishing hamlets hiding in stony bays,— the elfish oddity of narrow streets in little primitive towns,— the forms and tints of peak and vale made lovable by daily intimacy,— the crooked broken paths to shadowed shrines of gods with long mysterious names,— the butterfly-drifting of yellow sails out of the glow of an unknown horizon. Yet I think it was due much more to a particular sensation in which every memory was steeped and toned, as a landscape is steeped in the light and toned in the colours of the morning: the sensation of conditions closer to Nature's heart, and farther from the monstrous machine-world of Western life than any into which I had ever entered north of the torrid zone. And then it seemed to me that I loved Oki — in spite of the cuttlefish,— chiefly because of having felt there, as nowhere else in Japan, the full joy of escape from the far-reaching influences of high-pressure civilization,— the delight of knowing one's self, in Dōzen at least, well beyond the range of everything artificial in human existence.
 

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三十四)

 

       三四

 

 樂山(らくざん)といふは、其處で出來る光つた黃色い陶器と、其處に在る小さな神社とで知られて居るだけで、松江から小一里の、廣い稻田の向うの、木の茂つた小山の麓に眠つて居る小村である。そしてその樂山神社の祭神は家康の孫であり、松江の大名の祖先たる、直政である。

 松平家の人のうち、月照寺の古い実に立派な庭で、石の龜や獅子に護られて、佛敎の土地に永眠して居らる〻方がある。然し、その長い家系の元祖の直政は樂山に祀られて居る。そして出雲の百姓共は今猶、その宮の前で柏手打つて拜んで、その慈悲と庇護と願つて居る。

 さて以前は樂山神社の每年のマツリ卽ち祭禮にその村社(むらやしろ)から松江の城へ直政のミヤを持つて來るのが慣習(ならひ)であつた。おごそかな行列を立てて、城の地域の中心にある――石の獅子や狐が居る、その崩れさうな庭が巨大な樹木で日蔭になつて居る、御城內稻荷大明神と楠松平(くすのきまつひら)稻荷大明神といふ――あの妙な古い一族守護の神社へそれを運び來たつたものである。神道の式事が兩方の社殿で營まれてから、そのミヤは樂山(らくざん)へ行列で持ち歸るのであつた。そしてこの年々の儀式はミユキ又はトギヨ、卽ち先祖來の家への祖先の『御幸』と呼ばれて居つた。

    譯者註。樂山神社は松江城內千鳥公
    園に移され、松江神社と改稱。楠松
    平稻荷大明神の社は壞たれて今は無
    い。

 ところがかの革命は一切のものを變じた。大名は無くなり、城は荒廢に陷り、サムラヒ階級は廢止されて所領を奪はれた。そこで直政公のミヤは三十年以上も松平(まつだいら)の家へ御幸をしなかつた。ところが少し前のこと松江の或る老人達がラクザンマツリの舊慣を古に復へさうと考へた。そこでミユキがあつた。

 直政公の宮は裝飾をし、幕を張つた傳馬船の中に安置し、川と掘割とを通つて、古昔大名が江戶へその年々の參勤に出かけたり、それから歸つたりする時、その松蔭道を通(とほ)つた昔の松原街道の東端まで運ばれた。その傳馬船を漕いだものは總て、若い時分に出雲の最後の殿樣松平出羽守の御座船を始終漕いだ老年のサムラヒであつた。いづれも昔の封建時代の衣裳を着けて居た。そして其古風な船歌を――オフナウタを――歌はうとした。だが最後にそれを歌つてから一代以上の年月が經つて居るのであつた。中には齒を失くしてしまつて言葉の發音が旨く出來ぬものもあつた。また、みんな年を取つて居たから、櫓を漕ぐ努力に直ぐと息を切らせた。それにも拘らず御座船を所定の場處まで漕いだ。

 其處からして宮は松原街道の橫の或る地點まで擔ぎ運ばれた。その地點といふはこの國の大名か將軍の都から歸る時、いつも休息し、また列を爲して必ず出迎に來る忠實な家來に接見した、オチヤヤ卽ち御茶屋が古昔あつた處である。御茶屋は今は無い。だが、舊慣に從つて、宮とその護衞の者共とは其處で、野花や松の木の間で、待つた。ところがその時不思議な光景が眺められた。

 といふのはこの大殿樣(おほとのさま)の靈を迎へんが爲めに、これ亦靈かと思はれる姿の者が――墓場の土から立現れた姿の者が――長い行列を立てて出て來たからである。前立(まへだて)の附いた冑を冠り、鐡の面を着け、鋼の胸甲をよろひ、腰に二本の刀をさした武士が出て來、頭に髷をつけた鎗持が出て來、カミシモを着た家來が出て來、ハサミバコを肩にした男が出て來たのである。だが、それ等は靈では無くて、最後のダイミヨウに仕へて物の其を身に着けたことのある松江の老年のサムラヒであつた。そしてそのうちには、その生存して居る大臣卽ち年とつたカロウの姿も見えた。そして行列が町の方へ向ふと、是等の人はその古昔の名譽の位置を執つて、年で腰は曲つて居るが、宮の前に立つて雄々しく行進した。

 その行列がどんな印象を他の外國人に與へたか自分は知らぬ。自分には、その老人達各各の身の上が幾分分つて居るので、その光景は、忘れられた古昔の慣習のその物語とは別な、封建時代の行列としてのその興味とは別な、或る意義を有つて居つた。今日はその老サムラヒ共は一人殘らず悉く言ふに言へぬほど貧乏して居る。彼等の美くしい屋敷はとつくの昔に失くなり、彼等の庭園は稻田と變つて居り、彼等の家寶は無慙にも賣却され、開港場の外國人へ高價で轉賣しに、骨董屋の手に殆んど無代で買はれたのであつた。しかもなほ、賣れば隨分の金が得られる物を、彼等には何の役に劣たたなくなつた物を、彼等は貧困と屈辱の中にあつて大事に抱へ來て居るのであつた。前よりも苦しい新規な生活狀態の下に在つて、どんな悲慘な缺乏に迫られても、その甲冑と刀劔とは彼等は決して之を手離す氣になり得なかつたのである。

 川岸も、街路も、緣側も、靑瓦の屋根も、人で堆まつて居た。行列が通る時は非常に靜かであつた。年の若い人は、將來に於てはたゞ繪本で、そして古めかしい日本芝居で見るよりほかない物を現に目のあたり見るといふこの機會の稀有な價値を思うて、靜まりかヘつて眺めて居つた。そして年老いた人は、その靑年時代を懷ひ起こして、無言で泣いて居つた。

 かの古昔の思想家が『如何なる物もたゞ一日のものなり、憶ふ者も、憶はるゝ者も』と述べたのは名言である。

[やぶちゃん注:初めから感動を殺ぐ注で恐縮だが、私はこの「直政さま」(原文参照。田部氏は「直政のミヤ」で田部氏の訳は訳として忠実でない)の渡御再現をハーンは実際に本当に見ているのだろうか? という疑念を抱いている――本文は本書の中でも有数の圧巻のシークエンスで、私も、すこぶる心うたれる箇所であり――その細部のSE(サウンド・エフェクト)などの描出に到るまで、圧倒的なリアルさで私たちを感動させてやまぬものであることは重々承知の上で――である。「その行列がどんな印象を他の外國人に與へたか自分は知らぬ。自分には、その老人達各各の身の上が幾分分つて居るので、その光景は、忘れられた古昔の慣習のその物語とは別な、封建時代の行列としてのその興味とは別な、或る意義を有つて居つた」というのは確かに一見、実見した者の謂いではある――但し、実は私の不審はこの箇所にこそある。「その行列がどんな印象を他の外國人に與へたか自分は知らぬ」とは、その行列を「他の外國人」が見ているのを見たということであろう。であれば、当時の松江であったなら、ハーン、或いは、向こうから接触を持ち、感想を聴くことも容易であったはずである。そう考えるのが自然である。そもそもこんなことは言わずもがなである。何故、こんな言わずもがなの謂いを、段落冒頭に記したのか? それは――ハーンがこうした行列があったことを、誰かから、手紙や話などで聴き、それを、まざまざとリアルに想起した際、「私がその場に居たなら絶対に外の外国人では感じ得ない深い感慨を持ったぞ!」という激しい感情が沸き起こったからに違いない、と私はここを読んだのである――

 閑話休題。

 ハーンが松江に居たのは、たった一年二ヶ月と半月であるが、詳細な事蹟を追跡した論文類を見ても、この間にここに書かれた「ような直政さま」渡御の神行祭を実見したという事実が、どこにも記されていないのである。

 ハーンを離れても、この復元された神行祭が行われた年月日は、郷土史家の方ならば判っておられるはずである。是非、お教え頂きたいのである。

 ハーンは実見したのであって欲しいとは言える。しかし、再度申し上げておくと――そうでなかったとしても――本篇は本書中の白眉の一つであることに私の中では何ら、変更は行われぬのである。

「其處で出來る光つた黃色い陶器」島根県松江市観光公式サイト「水の都松江」の「楽山焼 (らくざんやき)」によれば、御山(おやま)焼とも呼び、現在も同所松江市西川津町の楽山公園の一角に窯元がある。既に注してきた通り、ここ楽山は松江藩松平家第二代藩主綱隆以来、藩主の別荘地であった場所で、「御山(おやま)」とも称された。『ここの窯は、松江藩祖の松平直政のころに開かれたと伝えられるが、楽山焼の名は三代目綱近が、長州毛利氏に依頼し』、延宝五(一六七七)年に『倉崎権兵衛重由を招いて以来のこと』と言う。この人物は、当時の朝鮮からの帰化人であった『李敬(初代高麗左衛門)の高弟で』あった日本人(文脈から推定補足した)陶工で、『松江市西川津町市成(いちなり)にある熊野神社の花瓶一対は、権兵衛が献納したものだといわれる』。天明六(一七八六)年に『楽山窯はいったん中絶したが、七代藩主松平治郷(不昧)は、玉湯町の布志名窯にいた長岡住右衛門貞政を起用し、楽山窯を再興した。住右衛門は茶陶にすぐれ、楽山焼五代目となった。六代目空斎以降は茶陶のほか京焼風の色絵陶器をさかんに作り、その後九代空右など多くの名工を生み出した』。『現在、楽山焼十一代長岡空権が伝統を守っている。茶陶、ことに伊羅保(いらぼ)系は茶人の間で愛好されている』。昭和五九(一九八四)十月には「島根県ふるさと伝統工芸品」に指定されている、とある(リンク先には『「島根観光辞典(島根県観光連盟発刊)より引用』とある)。

「樂山神社」前の「三三」の私の詳細考察をした注を必ず参照されたい。「樂山神社の每年のマツリ卽ち祭禮にその村社(むらやしろ)から松江の城へ直政のミヤを持つて來るのが」維新以前に於いては「慣習であつた」という辺りにハーンの一部誤認があると私は考えているからである。ハーンのそれが誤認であるというのは「直政公のミヤ」(即ち本文に即して言うなら明らかに「樂山神社」)「は三十年以上も松平の家へ御幸をしなかつた」という部分である。本篇の執筆は隠岐旅行(明治二五(一八九二)年八月)以降で本書刊行(明治二十七年九月)以前となり、「明治元年」以降、三十年を経過していない。ということは、この楽山からの「直政さま」の渡御は維新以前に行われていたということになり、実際、後に出る復元されたそれは、明らかに江戸時代の古式に外ならない。ところが、前の「三三」の注で指摘した通り、これでは、明治一〇(一八七七)年に旧松江藩の有志によって西川津村楽山(現在の松江市西川津町。現在の松江城東方の推恵神社がある楽山公園附近)に造られた松江藩松平家初代藩主松平直政を祭神とする「樂山神社」からの渡御という謂いは、どうみても、おかしいのである。

「月照寺」既注

「御城內稻荷大明神」これはハーンが偏愛した、旧松江城内の北に位置する現在の松江市殿町(とのまち)にある城山(じょうざん)稲荷神社のことであろう。松江の情報誌などによれば、現在、この神社には十二年に一度(嘗ては十年毎)行われる五穀豊穣を祈る「ホーレンヤ」(豐來榮彌)という独特の神事があり、その折りはその祭神を南東八・六キロメートルも離れた東出雲町出雲郷にある阿太加夜(あだかや)神社に船を用いて「渡御」し、「還御」、その中で行われる神行を助けた漁民がその喜びを表わしたとされる境内に於いて櫂を持って舞う「櫂伝馬(かいてんま)踊り」というのが祭りのクライマックスの一つであるとあって、神事形態としては酷似するものがある。渡御還御するのが城山稲荷神社の御神体であること、楽山とは位置も方向も異なるなど、神事の核心部は全く異なるのであるが、「伝馬船(てんません:荷物などを運ぶ艀舟(はしけぶね)。甲板がなく木製で小型のもの)」との絡みと言い、どこか妙にどこか共通したルーツを持つ祭事の匂いがしてならない。地元の郷土史家の方の御教授を乞うものである。

「楠松平稻荷大明神」訳注以外の、この特異な名や位置や何故に廃されたのかといった他の情報を知り得なかった。叙述からは存在したのは現在の城山稲荷神社の境内内であろうとは推測され、特異な名は稲荷が南北朝の武将楠木正成の守護神であったことを関わるものか。因みに、この田部先生の、

『譯者註。樂山神社は松江城內千鳥公園に移され、松江神社と改稱。楠松平稻荷大明神の社は壞たれて今は無い。』

と比べると、失礼乍ら、平井呈一先生、あなたの恒文社版「日本瞥見記(下)」の、全く同一の位置に配された、

『訳者注。――楽山神社はその後松江城趾の千鳥公園に移されて、松江神社と改称された。楠木松平稲荷大明神の社は廃されて、今は無い。』

は偶然にしては似過ぎています。新しいオリジナルな情報が一つも附加されておらず――安易に剽窃したのでは?――と勘繰られても仕方がない部類の訳者注であると、残念ながら私は思います。

「松原街道」「松江市雑賀公民館 STAFF BLOG2」の「12月のウォーキングを行いました。」によれば、松原街道とは、松江城の南方の現在の津田町からその東に当たる西津田町・東津田町にかけて存在した、「津田の松原」と呼ばれた四百本以上の『黒松の松並木街道で、松江藩の殿様が江戸への往復で通った道だ』ったとあり、昭和一二(一九三七)年に『「松江藩道津田松並木」として国の天然記念物に指定され』たが、『自然災害や伐採などで現在は』残念ながら一本も残っていない、とある。西津田町のやや北、或いは、東津田町が大橋川の右岸に当たる。現在、地図上では「津田街道」とあるのが、それのようである(グーグル・マップ・データ)。

「最後の殿樣松平出羽守」松江藩第十代最後の藩主となった松平定安(天保六(一八三五)年~明治一五(一八八二)年)。彼は明治二(一八六九)年に出羽守から出雲守に遷任され、同年六月十七日に版籍奉還によって松江の知藩事となったが、明治四(一八七一)年七月十四日には廃藩置県で免官されている。

「前立」兜の鉢や眉庇に取り付ける飾り縅(おどし)。中世には鍬形(くわがた)が多く用いられた。

「鐡の面」面頰(めんぼお/めんぽお)。顔面保護の防御具で目の下の頬当(ほおあて)や左右の頬当てなどを指す。

「胸甲」本邦の武具としては胴と呼ぶ。

「如何なる物もたゞ一日のものなり、憶ふ者も、憶はるゝ者も」軍事よりも学問を好み、ストア哲学などの学識も深く、良く国を治めたことから、ネルウァ・トラヤヌス・ハドリアヌス・アントニヌスに並ぶ五賢帝の一人に数えられる第十六代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus 一二一年~一八〇年)の著作「自省録」の一節。原文は“ Everything is only for a day, both that which remembers, and that which is remembered. 。平井呈一氏は、『思いいだすも、いださるるも、わずか一日のことなり』と訳しておられる。] 

 

ⅩⅩⅣ.

 

   The hamlet of Rakuzan, known only for its bright yellow pottery and its little Shintō temple, drowses at the foot of a wooded hill about one ri from Matsue, beyond a wilderness of rice-fields. And the deity of Rakuzan-jinja is Naomasa, grandson of Iyeyasu, and father of the Daimyō of Matsue.

   Some of the Matsudaira slumber in Buddhist ground, guarded by tortoises and lions of stone, in the marvelous old courts of Gesshoji. But Naomasa, the founder of their long line, is enshrined at Rakuzan; and the Izumo peasants still clap their hands in prayer before his miya, and implore his love and protection.

   Now formerly upon each annual matsuri, or festival, of Rakuzan-jinja, it was customary to carry the miya of Naomasa-San from the village temple to the castle of Matsue. In solemn procession it was borne to .those strange old family temples in the heart of the fortress-grounds,— Go-jō- naiInari-Daimyōjin, and Kusunoki-Matauhira-Inari-Daimyōjin,— whose mouldering courts, peopled with lions and foxes of stone, are shadowed by enormous trees. After certain Shintō rites had been performed at both temples, the miya was carried back in procession to Rakuzan. And this annual ceremony was called the miyuki or togyo,— 'the August Going,' or Visit, of the ancestor to the ancestral home.

   But the revolution changed all things. The daimyo passed away; the castles fell to ruin; the samurai caste was abolished and dispossessed. And the miya of Lord Naomasa made no August Visit to the home of the Mataudaira for more than thirty years.

   But it came to pass a little time ago, that certain old men of Matsue bethought them to revive once more the ancient customs of the Rakuzan matauri. And there was a miyuki.

   The miya of Lord Naomasa was placed within a barge, draped and decorated, and so conveyed by river and canal to the eastern end of the old Mataubara road, along whose pine-shaded way the daimyo formerly departed to Yedo on their annual visit, or returned therefrom. All those who rowed the barge were aged samurai who had been wont in their youth to row the barge of Matsudaira-Dewa-no-Kami, the last Lord of Izumo. They wore their ancient feudal costume; and they tried to sing their ancient boat-song,— o-funa-uta. But more than a generation had passed since the last time they had sung it; and some of them had lost their teeth, so that they could not pronounce the words well; and all, being aged, lost breath easily in the exertion of wielding the oars.  Nevertheless they rowed the barge to the place appointed.

   Thence the shrine was borne to a spot by the side of the Mataubara road, where anciently stood an August Tea-House, O-Chaya, at which the daimyō, returning from the Shogun's capital, were accustomed to rest and to receive their faithful retainers, who always came in procession to meet them. No tea-house stands there now; but, in accord with old custom, the shrine and its escort waited at the place among the wild flowers and the pines. And then was seen a strange sight.

   For there came to meet the ghost of the great lord a long procession of shapes that seemed ghosts also—shapes risen out of the dust of cemeteries: warriors in created helmets and masks of iron and breastplates of steel, girded with two swords; and spearmen wearing queues; and retainers in kamishimo; and bearers of hasami-bako. Yet ghosts these were not, but aged samurai of Matsue, who had borne arms in the service of the last of the daimyō. And among them appeared his surviving ministers, the venerable karō; and these, as the procession turned city-ward, took their old places of honour, and marched before the shrine valiantly, though bent with years.

   How that pageant might have impressed other strangers I do not know. For me, knowing something of the history of each of those aged men, the scene had a significance apart from its story of forgotten customs, apart from its interest as a feudal procession. To-day each and all of those old samurai are unspeakably poor. Their beautiful homes vanished long ago; their gardens have been turned into rice-fields; their household treasures were cruelly bargained for, and bought for almost nothing by curio-dealers to be resold at high prices to foreigners at the open ports. And yet what they could have obtained considerable money for, and what had ceased to be of any service to them, they clung to fondly through all their poverty and humiliation. Never could they be induced to part with their armor and their swords, even when pressed by direst want, under the new and harder conditions of existence.

   The river banks, the streets, the balconies, and blue-tiled roofs were thronged. There was a great quiet as the procession passed. Young people gazed in hushed wonder, feeling the rare worth of that chance to look upon what will belong in the future to picture-books only and to the quaint Japanese stage. And old men wept silently, remembering their youth.

   Well spake the ancient thinker: ' Everything is only for a day, both that which remembers, and that which is remembered. '

2015/12/11

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三十三)

 

       三三 

 

 松江の昔のサムラヒで、今隱岐の島に暮して居るものがある。彼(か)の武人の大階級が癈された時、その少數の機敏な者共は、風俗が昔のま〻古風であつて、土地が低廉なこの小群島で運試しをやつて見ようと決心した。幾人も成功した――この島では人間が心底から正直で風俗が淳朴な爲めであつたらう。といふのは、經驗のある商賣人と競爭しなければならぬといふと、他處ではどんな商賣にもサムラヒは滅多に成功し得なかつたからである。失敗した者もあるが、暮して行けるほどの種々な卑しい職業に從事することは出來た。

 封建時代のそんな老生存者のほかに、この帝國の斯んな非常に僻遠な貧乏な地方で、新たな生活狀態に雄々しくも面と向つて居る、嘗ては高貴な家族の子達が――有名な家系の若樣やお孃樣が――幾人も隱岐に居るといふことを自分は知つた。一市の住民が嘗ては頭を下げた人の息女が稻田での苦しい勞働を敎はつて居つた。時代が異つて居たなら要職を望み得られた若人が、隱岐ヘイミンの忠實な下男となりて居つた。それからまた或る者は警官となつて自己を幸運だと正當にも思惟して居るのであつた。

    註。日本の警官は殆んど全郡、今に名
    をシゾクと呼ぶサムラヒ階級のもので
    ある。自分は世界で一番完全な警官だ
    と考へてよろしいと思ふ。が、現今そ
    れに目立つて見えて居るあの素ばらし
    く立派な性質を一代經つた後、保持し
    て居るであらうかどうか、それは疑は
    しい。大切なのはそのサムラヒ氣質で
    ある。

 基督敎國の銃劔が、利得といふ聖い動機の爲めに、日本に强ひた文明の彼(か)の大變化は、最近の社會崩解の種々な危險よりも、もつと大きな種々な危險に陷らないやうに、此帝國をまだ救ふことは疑を容れぬ。が然し、その變化は無慙なほど突然なものであつた。英吉利の地面有ちの上流社會がその收入を奪はれた結果を想像して見ても、それと似寄つた剝奪が日本のサムラヒに及ぼした結果は、之を精確に理解することは出來なからう。といふ譯は古昔の武士階級は禮儀の道と戰爭の術とだけしか知つて居なかつたからである。

 それでそんな話を聞いて自分は、樂山神社(らくざんじんじや)の出雲での最後の大祭にあつた奇異な行列のことを考へずには居られなかつた。

[やぶちゃん注:本篇で語られる士族の商法による士族没落の一般論には、この時、唯一の同行者であった妻セツの過去の辛い実体験が強く関わっていると考えられる。既注であるが、再掲しておく。小泉セツは慶応四(一八六八)年生まれであるが、生まれると直ぐ稲垣家の養女となっている。明治一九(一八八六)年、十九の時、稲垣家は前田為二という士族の次男坊を婿養子としてセツと娶せたが、稲垣家は士族の商法で失敗して負債を抱えることとなり、三年後(別情報では一年も満たないうちであったともする)、夫為二は大阪に出奔、明治二十三(一八九〇)年一月に正式な離婚届が受理され、セツは稲垣家を去って、実家小泉家へと戻った。セツがハーンの住み込み女中となった時(推定で明治二十四(一八九一)年年初)、セツは数え二十四であった。何をか言わんや、であろう。

「隱岐ヘイミン」字面では判り難いので老婆心乍ら述べておくと「ヘイミン」で一語、「平民」である。

「利得といふ聖い動機」「聖い」は通常なら「きよい」と訓ずる。それで訳者も読んでいるものとは思う(聖しこの夜、の「きよし」である)。但し、可能性としては「たふとい(とうとい)」と訓ずることも不可能ではない。原文は“holy”で、神聖な、の意である。そうして言わずもがなであるが、「利得」(原文“gain”)を主たる目的とする動機であるとし、それにキリスト教嫌いのハーンが「基督敎國の銃劔が」と添える時、強烈な皮肉な「聖なる潔癖さを持った」「貴(とうと)い」「尊(たっと)い」「神聖なる」の謂いであることにお気づきになられることであろう。「銃劔」は西洋列強キリスト教国の日本を食い物にしようとする「狼の牙」に他ならない。ハーンのような異邦人がこの時代にかく指弾していることを我々は重く捉えねばならぬ。さても因みに、“gain”とはフランス古語が語源であり、その原義は「食物を獲得する」の意であるのである。

「樂山神社」「第十七章 家の內の宮(一)」の冒頭に注した中に出るが、このハーンの謂いから考えると、やや厳密性を欠くように読めてしまうように思われるので再度、注することにする(いちいち記さないがネット上で確認出来る複数の記載を綜合してまず誤りでないと思われる記載を心掛けた)。まず、

このハーンの呼称する「樂山神社」なるものは、実は甚だ新しいもので、明治一〇(一八七七)年に旧松江藩の有志によって西川津村楽山(現在の松江市西川津町。現在の松江城東方の推恵神社がある楽山公園附近)に造られた松江藩松平家初代藩主松平直政を祭神とする「樂山神社」

を指す。但し、次の「三四」の訳者注でも述べられているが、

この「樂山神社」は明治三二(一八九九)年に旧松江城二の丸内に遷座され、

その際、寛永五(一六二八)年に初期の松江藩の堀尾家第三代藩主堀尾忠晴が朝酌(あさくみ)村西尾(現在の松江市西尾町)に創建した徳川家康を祀る東照宮を合祀するとともに、

同時に社名を「松江神社」と改称している

のである。因みに、この「松江神社」はさらに昭和六(一九三一)年、

松江開府の祖とされる堀尾家初代藩主堀尾吉晴(彼ではなくその子堀尾忠氏を堀尾家初代松江藩主とする説もある)

及び

松江藩中興の名君とされる松平家第七代藩主松平不昧治郷を配祀して

今日に至っている。即ち、松江神社は見た目は小さな境内ではあるものの、以上から判る通り、

実在した超弩級の名君四柱を祭祀

し、本殿は寛永五(一六二八)年の、拝殿は寛文元(一六六一)年の権現造、手水舎は寛永十六(一六三九)年と頗る古いものなのである。

さて話を戻すと、ともかくも、

「楽山公園内」には「樂山公園」には現在は存在しない

ので、まずは注意されたい。

しかし、そうなると、

次の「三四」の叙述と齟齬を生ずる

ことになる。

何故なら、「三四」では、明治維新以前に、ここ楽山にあった「樂山神社」から、松平直政の神霊「直政さん」(訳文には出ないが原文にそうある)が、松江城内の社(現行の「松江神社」附近ではなく、最北の現在の「城山(じょうざん)稲荷神社」付近のように読める)へ『御幸』(訳文より引用)したと書いてあるから

である。そこで調べてみると、

このハーンの「樂山神社」とは、

ここ楽山の地に庭園を造った松江藩松平家第二代藩主松平綱隆が、そこに天満宮や松平家初代藩主で父である松平直政の信仰が厚かった稲荷神社などの社を設けたものを指して「樂山神社」と呼んでいる

のではないかと私には推理されるのである。即ち、厳密にはハーンの誤認ということになるというのが私の推理である。私は現地の社史には詳しくない。とんでもない誤認をしているかも知れない。大方の御批判を俟つものではある。

「出雲での最後の大祭にあつた奇異な行列」以下、次の「三四」で実に印象的に語られることになる。] 

 

ⅩⅩⅩⅢ.

 

   Some of the old samurai of Matsue are living in the Oki Islands. When the great military caste was disestablished, a few shrewd men decided to try their fortunes in the little archipelago, where customs remained old-fashioned and lands were cheap. Several succeeded,— probably because of the whole-souled honesty and simplicity of manners in the islands; for samurai have seldom elsewhere been able to succeed in business of any sort when obliged to compete with experienced traders, Others failed, but were able to adopt various humble occupations which gave them the means to live.

   Besides these aged survivors of the feudal period, I learned there were in Oki several children of once noble families — youths and maidens of illustrious extraction — bravely facing the new conditions of life in this remotest and poorest region of the empire. Daughters of men to whom the population of a town once bowed down were learning the bitter toil of the rice-fields. Youths, who might in another era have aspired to offices of State, had become the trusted servants of Oki heimin. Others, again, had entered the police, [17] and rightly deemed themselves fortunate.

   No doubt that change of civilization forced upon Japan by Christian bayonets, for the holy motive of gain, may yet save the empire from perils greater than those of the late social disintegration; but it was cruelly sudden. To imagine the consequence of depriving the English landed gentry of their revenues would not enable one to realise exactly what a similar privation signified to the Japanese samurai. For the old warrior caste knew only the arts of courtesy and the arts of war.

   And hearing of these things, I could not help thinking about a strange pageant at the last great Izumo festival of Rakuzan-jinja. 

 

17
   The Japanese police are nearly all of the samurai class, now called shizoku. I think this force may be considered the most perfect police in the world; but
whether it will retain those magnificent qualities which at present distinguish it, after the lapse of another generation, is doubtful. It is now the samurai blood that tells.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三十二)

 

          三二 

 

 日本人の生活には内密といふことが、どんな種類のものも殆んど全く無い。實際この國民間には、我々西洋人が内密と呼んで居るものが存在して居ないのである。人と人との生活を仕切る紙の壁があるだけであり、戶は無くして橫に辷る目隱があるだけであり、日中使用する錠も閂も無く、天氣が宜いと家の表側が、いや橫側すらも、文字通りに取外づされて、家の內部が廣く空氣にも光線にも公衆の環視にも開放されるのである。富裕な人でも日中其表門を鎖しはせぬ。宿屋の中で、或は普通の住宅でも、他人の部屋へ入る前に誰も戶を敲くといふ事をせぬ。障子又は襖のほかに敲くべき物が何も無いので、それは敲けば必ず壞れる。そして紙の壁と日光との此世界では、誰も一緖に居る男や女を憚りもせず、恥づかしがりもせぬ。爲す事は總て、或る意味に於て、公に爲すのである。個人的慣習、特癖(もしあれば)、弱點、好き嫌ひ、愛するもの惡むもの、悉く誰にも分らずには居らぬ。惡德も美德も隱す事が出來ぬ。隱さうにも隱すべき場所が絕對に無いのである。そし此狀態がずつとの太古から續き來たつて居る。少くとも普通の幾百萬といふ人達には、人に見られずに暮すといふ事は考へも及ばぬ事であつたのである。日本では、人生に關する一切の事件を公衆の耳目に公開するといふ條件の下に初めて、氣持よくまた幸福に暮して行けるのである。といふ事は西洋には全く存在して居ないやうな、異常な道德狀態であるといふ譯になるのである。日本人の性格の異常な妙味を、一般人民の無限に親切であることを、その本能的に禮儀正しいことを、批評嘲笑皮肉又は諷刺に耽る如何なる傾向も日本人には無いことを、身自(みづか)ら經驗して知つで居る者にだけ、これは完全に了解が出來るのである。自分の同輩を貶して自己の個性を發展せしめやうと努めるものは一人も無い。自己をえらい者のやうに見せようと試みるものは一人も無い。銘々の弱點が萬人に知られて居り、何物も隱すことも佯ることも出來ず、そしてつくり飾は一種の輕い氣狂としか人に思はれない社會にあつては、そんなことをしても何の效もないことであらう。

[やぶちゃん注:「身自(みづか)ら」読みは「み みづから」である。底本は既に述べたように「自」に「み」のみのルビを振ってあるが、読みがおかしいので、かく、読んだ。

「佯る」「いつはる(いつわる)」と読む。この「佯る」の「いつわる」は狭義に区別するなら、「佯狂」(ヨウキョウ:狂人や愚者のふりをすること、或いはそのように見せかけている人)という熟語で明らかなように――上辺(うわべ)を繕ってそれらしく見せかける――の意であり、我々が普段用いている「偽る」の方は広く――ある目的を持って自然に逆らって愚かにも人為的にわざと騙したり欺く――の謂いが強いとは言えよう。

「氣狂」「きぐるひ」と訓じておく。] 

 

ⅩⅩⅩⅡ.

 

   There is very little privacy of any sort in Japanese life. Among the people, indeed, what we term privacy in the Occident does not exist. There are only walls of paper dividing the lives of men; there are only sliding screens instead of doors; there are neither locks nor bolts to be used by day; and whenever weather permits, the fronts, and perhaps even the sides of the house are literally removed, and its interior widely opened to the air, the light, and the public gaze. Not even the rich man closes his front gate by day. Within a hotel or even a common dwelling-house, nobody knocks before entering your room: there is nothing to knock at except a shōji or fusuma, which cannot be knocked upon without being broken. And in this world of paper walls and sunshine, nobody is afraid or ashamed of fellow-men or fellow-women. Whatever is done, is done, after a fashion, in public. Your personal habits, your idiosyncrasies (if you have any), your foibles, your likes and dislikes, your loves or your hates, must be known to everybody. Neither vices nor virtues can be hidden: there is absolutely nowhere to hide them. And this condition has lasted from the most ancient time. There has never been, for the common millions at least, even the idea of living unobserved. Life can be comfortably and happily lived in Japan only upon the condition that all matters relating to it are open to the inspection of the community. Which implies exceptional moral conditions, such as have no being in the West. It is perfectly comprehensible only to those who know by experience the extraordinary charm of Japanese character, the infinite goodness of the common people, their instinctive politeness, and the absence among them of any tendencies to indulge in criticism, ridicule, irony, or sarcasm. No one endeavors to expand his own individuality by belittling his fellow; no one tries to make himself appear a superior being: any such attempt would be vain in a community where the weaknesses of each are known to all, where nothing can be concealed or disguised, and where affectation could only be regarded as a mild form of insanity.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三十一)

 

       三一

 

 菱浦へ二度目に行つた折には、自分は約八日滯在した。だが、浦鄕にはたゞ三日居た。浦鄕は行つて見たら滯在するには面白味の少い處であつた、――其處の臭が西鄕のよりも少しでも强いからといふ爲めでは無くて、やがて述べる他の理由の爲めであつた。

 西鄕へ寄港した外國軍艦は一艘だけでは無く幾艘もあつたもので、英吉利や露西亞の海軍士官は、その姿をその町で幾度も見せて居るのである。丈が高く、髮毛が美しく、巖疊であつたから、隱岐の者は、西洋人は誰も彼も同じ身長で同じ顏色だと今も思つて居る。自分はその町で唯の一と晩でも泊つた最初の外國人であつて、しかも二週間も滯在してゐたのである。が、自分は身體(からだ)が小さいし色は黑いし、おまけに日本人のやうな服裝(なり)をしてゐたから、普通の人達の間に餘り注意を惹き起さなかつた。日本の何處かの邊鄙から來た、妙な顏附の日本人だと皆んな思つてゐたのであり。菱浦でも同じ考が暫く行はれて居て、自分が外國人だといふ事實が一般に知れ渡つた後でも、其處の人達は全然何等の迷惑をも自分に感ぜしめなかつた。街路を步き𢌞つたり、入江を泳ぎ渡つたりする自分を見慣れてしまりたからであつた。ところが西鄕では事が全く別であつた。自分が最初其處へ上陸した時は、日本着物を着てゐたし、半ば顏を敞ひ隱す非常に大きな出雲風の帽子にをかぶつて居たしで、どうにか人目を逃れ了せたのである。自分が西鄕へ向けで去つた後(あと)で、西洋人が――島前へは本當に初めての西洋人が――實際來て居たのを知らずに居たのだと知つたに相違無い。といふのは自分の二度目の訪問は、加賀浦外、何處ででも一度も自分が起こしたことの無い程の、大騷ぎを起こしたからである。

 宿屋へ入る間も無く街路は、自分を見ようとする驚く計りの群集に全く塞がれてしまつた。その宿屋は不幸にも町角にあつたから直ぐに兩側から包圍された。自分は二階の大きな裏座敷へ案內された。すると疊の上へ坐るや否や、その大勢の者が、皆んな草履を階段の下で脫いで、少しも音を立てずにそつと二階へ上り始めた。禮儀正しいから部屋へ入りこみははしない。だが、四五人のものが入口から一度に顏を出し、お辭儀をし、にこりと笑ひ、じつと見で、それから階段に後から一杯詰めかけて居る者に讓る爲めに引き退るのであつた。召使の者が自分に晝食を運んで來るのは容易な業ではなかつた。そのうち、街路を隔つた向側の家の二階座敷が見物人で詰つた計りでは無い、自分の部屋が見渡される――北と東と南との――屋根といふ屋根が悉く無數の男と男の子とに占められた。それからまた多勢の少年が、自分の窓の下の廊下の上の狹い廂へ(どういふ風にしてか自分には想像も出來なかつたが)登りもし、三方にある自分の部屋の入口はどれもこれも人の顏で一杯になつた。すると瓦がずつて、いくたりか男の子が下へ落ちたが、誰も怪我したものは無かつたやうである。そして奇怪極はまる事は、そんな素敵な體操の藝當を演じて居る間、死の靜けさがあつた事である。その群集を現に眼で見て居なかつたなら、街路に人つ子一人居ないのだと自分は想つたかも知れぬ。

 亭主は叱りだした。が、叱つても無駄と知つて巡査を呼んだ。巡査は、此處の人達は一度も外國人を見たことが無いのだから許してやつて吳れと自分に乞うて、街路から追つ拂つて欲しいかと自分に尋ねた。しようと思へば小指一本上げただけで巡査は左う爲し得たことであらう。だが、その光景が面白かつたから、その人達に去れとは命じないやう、然し、早や少しそれを損じもした程であるから、日蔽の上へはをらないやう子供等に言つ貰ひさへすれば、と自分は賴んだ。巡査は非常に低い聲で話して、皆んなへ極めて有效に言つてきかせた。自分がそれから浦鄕に居た間、誰一人その日蔽に近寄ることもようしなかつた。一體日本の巡査はどんな新規なことにも一度以上口をきくことは決してしないで、それでゐで口をきけばいつも必ず效果を奏する。

 が然し、一般の好奇心は少しも減ぜずに三日間續いた。浦鄕から自分が逃げ出さなかつたならもつと續いたであらう。外出をするといつも後から大勢の者が、濱の砂利をゆすぶる波の音のやうにガラガラと下駄の音を立てて、跟いて來る。が、その特殊の音のほかには、何の音もきこえなかつた。一ことも物を言ふものはなかつた。これは心的能力全部が見たいといふ念の激しさに緊張して口をきくことが不可能になつた爲めかどうか、それは自分は斷定することは出來ぬ。だがそんなにも激しい好奇心に少しも亂暴といふ點は無かつた。許可無くして自分の部屋へ上がつて來るといふことを除いては、無禮に近いやうなことも決して無かつた。部屋へ入つて來るのも、如何にもおとなしく入つて來るので、その侵入者を咎めて欲しくない程であつた。とは言ふものゝ、三日に亙るそんな經驗は苦しかつた。暑さにも拘らず、眠つて居る間人に見て居て貰はぬやう、戶や窓を閉めなければならなかつた。自分の所有品に就いては全然心配は無かつた。窃盜は此島には無いからであつた。だが自分の身のまはりに斯く絕えず無言な群集を見る事は、しまひにはうるさいよりももつと惡るいものになつた。無邪氣ではあつたが、薄氣味が惡るかつた。自分が幽靈になつたやうな――聲の無い者共に取卷かれて、冥途へ新たに來たのでは無いかといふやうな――氣持にされたのである。

[やぶちゃん注:本章冒頭の「一」で紹介した、大澤隆幸氏「焼津からみたラフカディオ・ハーンと小泉八雲――基礎調査の試み(2)」によれば、ハーンは隠岐を訪れた最初の西洋人であるとあると述べたが、この描写から厳密に言うならば、隠岐島前を訪れた最初の西洋人或いは、隠岐に純粋な旅行目的で来島し、その島の中の各所の旅館に滞在した初めての西洋人というのが正しいようである。軍艦で来て、島後西郷に上陸した連中は実質、物見遊山の気持ちはあったとしても、名目上は私事旅行ではなく、しかも彼等は、ほぼ間違いなく、軍艦に戻ってキャビンで寝、そうして高い確率で鯣の匂いに辟易して、補給を終えると、そそくさと立ち去ったであろうから。

「非常に大きな出雲風の帽子」円形に編んだものを中央で折った、前後にぺたんとしたタイプの強い陽光や海面からの反射を避けるための深編笠であろう。

「跟いて來る」老婆心乍ら、「ついてくる」と訓ずる。] 

 

ⅩⅩⅩⅠ.

 

   I remained nearly eight days at Hishi-ura on the occasion of my second visit there, but only three at Urago. Urago proved a less pleasant place to stay in,— not because its smells were any stronger than those of Saigo, but for other reasons which shall presently appear.

   More than one foreign man-of-war has touched at Saigo, and English and Russian officers of the navy have been seen in the streets. They were tall, fair-haired, stalwart men; and the people of Oki still imagine that all foreigners from the West have the same stature and complexion. I was the first foreigner who ever remained even a night in the town, and I stayed there two weeks; but being small and dark, and dressed like a Japanese, I excited little attention among the common people: it seemed to them that I was only a curious-looking Japanese from some remote part of the empire. At Hishi-ura the same impression prevailed for a time; and even after the fact of my being a foreigner had become generally known, the population caused me no annoyance whatever: they had already become accustomed to see me walking about the streets or swimming across the bay. But it was quite otherwise at Urago. The first time I landed there I had managed to escape notice, being in Japanese costume, and wearing a very large Izumo hat, which partly concealed my face. After I left for Saigo, the people must have found out that a foreigner — the very first ever seen in Dōzen — had actually been in Urago without their knowledge; for my second visit made a sensation such as I had never been the cause of anywhere else, except at Kaka-ura.

   I had barely time to enter the hotel, before the street became entirely blockaded by an amazing crowd desirous to see. The hotel was unfortunately situated on a corner, so that it was soon besieged on two sides. I was shown to a large back room on the second floor; and I had no sooner squatted down on my mat, than the people began to come upstairs quite noiselessly, all leaving their sandals at the foot of the steps. They were too polite to enter the room; but four or five would put their heads through the doorway at once, and bow, and smile, and look, and retire to make way for those who filled the stairway behind them. It was no easy matter for the servant to bring me my dinner. Meanwhile, not only had the upper rooms of the houses across the way become packed with gazers, but all the roofs — north, east, and south — which commanded a view of my apartment had been occupied by men and boys in multitude. Numbers of lads had also climbed (I never could imagine how) upon the narrow eaves over the galleries below my windows; and all the openings of my room, on three sides, were full of faces. Then tiles gave way, and boys fell, but nobody appeared to be hurt. And the queerest fact was that during the performance of these extraordinary gymnastics there was a silence of death: had I not seen the throng, I might have supposed there was not a soul in the street.

   The landlord began to scold; but, finding scolding of no avail, he summoned a policeman. The policeman begged me to excuse the people, who had never seen a foreigner before; and asked me if I wished him to clear the street. He could have done that by merely lifting his little finger; but as the scene amused me, I begged him not to order the people away, but only to tell the boys not to climb upon the awnings, some of which they had already damaged. He told them most effectually, speaking in a very low voice. During all the rest of the time I was in Urago, no one dared to go near the awnings. A Japanese policeman never speaks more than once about anything new, and always speaks to the purpose.

   The public curiosity, however, lasted without abate for three days, and would have lasted longer if I had not fled from Urago. Whenever I went out I drew the population after me with a pattering of geta like the sound of surf moving shingle. Yet, except for that particular sound, there was silence. No word was spoken. Whether this was because the whole mental faculty was so strained by the intensity of the desire to see that speech became impossible, I am not able to decide. But there was no roughness in all that curiosity; there was never anything approaching rudeness, except in the matter of ascending to my room without leave; and that was done so gently that I could not wish the intruders rebuked. Nevertheless, three days of such experience proved trying. Despite the heat, I had to close the doors and windows at night to prevent myself being watched while asleep. About my effects I had no anxiety at all: thefts are never committed in the island. But that perpetual silent crowding about me became at last more than embarrassing. It was innocent, but it was weird. It made me feel like a ghost,— a new arrival in the Meido, surrounded by shapes without voice.

「笈の小文」の旅シンクロニティ――星崎の闇を見よとや啼く千鳥   芭蕉

本日  2015年12月11日
         貞享4年11月 7日
はグレゴリオ暦で
     1687年12月11日

星崎の闇を見よとや啼く千鳥   芭蕉

 講談社学術文庫版山本健吉「芭蕉全発句」には、鳴海滞在中のこの日、先の寺島菐言の分家であった根古屋寺島安信亭で巻いた歌仙の発句がこの句であるとする(但し、サイト「俳諧」の「笈の小文」では九日とする。同歌仙の全容は同サイトのこちらで見られる)。ここは後に掲げる本貞享四年の奥書を持つ如行(じょこう)編の「如行集」の前書に従い、七日と採る。
 「笈の小文」では、既に述べた通り、この句を前にし、二日前に読まれた「京までは」を後に回すという文学的操作が行われている。

   鳴海にとまりて

 星崎の闇を見よとや啼く千鳥

飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて、と詠じ給ひけるを、自ら書かせ給ひて賜はりける由を語るに、

 京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲

 中村俊定校注岩波文庫版「芭蕉俳句集」(一九七〇年刊)によれば、如行編「如行集」には、

   貞享四年卯十一月七日鳴海

とする(これを七日の根拠とした)とあり、さらに「伊良湖崎」(子礼編・宝暦九(一七五九)年自序)には、

   笠寺

と前書するとある。この「笠寺」とは一般に「笠寺観音」の通称で知られる、尾張四観音の一つである、愛知県名古屋市南区笠寺町にある真言宗智山派の天林山笠覆(りゅうふく)寺を指す。さらに山本氏の「芭蕉全発句」によれば、「如行集」の別写本とされる「如行子」には、

   ね覺は松風の里、よびつぎは夜明てから、
   かさ寺はゆきの降(ふる)日

と前書するとあり、『松風の里・呼続・笠寺・星崎は、すべて鳴海附近の地名で、おそらく連衆の間での座談に出た諧謔であろう。前書』の「鳴海にとまりて」『から続けて、星崎は星さえ見えない闇の夜がよい、と言ったの』であるとする。「闇を見よ」というのは私には芭蕉の公案と思えてならない。

□「笈の小文」やぶちゃん注(「飛鳥井雅章」以下、「京まではまだ半空や雪の雲」の評釈はブログ・カテゴリ松尾芭蕉」の前記事を参照されたい)

「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」新潮社日本古典集成版の富山奏校注「芭蕉文集」(昭和五三(一九七八)年刊)の評釈には『鳴海は千鳥の名所であるが、単なる歌枕ゆえの吟ではなく、「闇を見よとや」の語には、古歌の類型的抒情(じょじょう)を踏み越えた切実な寂寥感(せきりょうかん)は表白されていると記す。

2015/12/10

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (三十)


       三〇

 自分は流罪になられた後鳥羽天皇の御墓參りをしようと思つて、菱浦から中の島の海士村へ船で行つた。途中の景色は美くしく、また自分が初めてこの群島を通り拔けた時に見たよりも輪廓が和らかであつた。海の中から突つ立つて居る小さな岩礁には海鷗や鵬が悲鵜が一杯に止つて居た。それが、櫂の長さも距離の無いくらゐ近く寄つても、船を殆んど何んとも思つて居なかつた。野育ちの禽獸が斯く人を恐れぬといふことは、獵銃を携へた觀光客がまだ訪はない、日本の斯んな僻遠の地を旅しての、一番氣持のい〻印象の一つである。日本での初期の歐羅巴及び亞米利加の狩獵者は、單に物を殺すといふ我儘勝手な快樂の爲めに生き物を殺して、彼等が『獵鳥獵獸(ゲエム)』だと考へて居る物を其處いら中から絕滅するのに何等の困難を見出さず、また何等悔恨の念を感じなかつたやうである。その手本を『靑年日本』が今や眞似しつ〻あるので、鳥類の絕滅は狩獵法でやつと不完全に阻止されて居るのである。幸ひにも政府は或る種の狩獵不穩を防止する爲め干渉を爲して居る。燕が日本の家の中で巢を作る習慣に眼を留めた或る畜生共が、昨年、何千羽といふ燕の皮をば誘惑的な代價で買ひ求めようと申出た。その廣告の效果は頗る殘酷なものであつた。が、警官はその殺害を止めるやうに早速通牒を受け、それを實行した。それと殆んど同じ頃、橫濱の或る洋字新聞紙上に、ある『改宗した』漁師が、その漁師の仲間で佛敎を信じて居る者共が生命を助けてやれと賴んだのに、龜を一匹殺せと外國人傳道者に勸められて殺したことをば、基督敎感念の勝利だと公言してある、聖職に在る或る人からの手紙が載つて居た。

 海士村は、極めて小さな村で、海から一聯の小丘に至る間の狹い野原の稻田の中に在る。上陸場から村まで約一哩の四分の一。それへ通じて居る狹い路は、村のはづれの處で、松の木に蔽はれた小山の裾を𢌞る。その小山に中々美くしい神社がある。小さくはあるが見事な建築で、石段と石敷きの步道とを通つて行け達せられるのである。例の石の唐獅子と燈籠とがあり、社前には紙と女の髮毛との普通な簡單な供物がある。ところがその奉納物のうちに、今迄出雲で見たことの無い妙な物があるのに氣が付いた。それは竹で器用に造つた、綱も竿もちやんと附いて居る小さな小さな井戶釣瓶であつた。百姓が雨乞をする時かういふのを此神社へ持つて來るのだと船頭が言つた。そこの神樣は諏訪大明神といふのであつた。

 後鳥羽天皇が長者助九郞の屋敷にお住居になつて居たと稱せられて居るのは、この諏訪大明神が其處の氏神であるらしく思へる隣村であつた。助九郞の屋敷は殘つて居て、今なほその長者の後裔の所有(もの)であるが、その後裔なるものは頗る貧乏になつて居る。流罪になられた天皇が御使用になつたといふ茶碗や、此家族が保存して居るといふ御滯在の他の記念品を拜見したいと自分は乞うた。が、家に病人があつたが爲めその家へ入れて貰ふことは出來なかつた。そこでその家の庭を――一つの名所になつて居る、有名な池のある庭を――一瞥しただけであつた。

 池は助九郞ノ池と呼ばれて居る。そして七百年の間その池の蛙が鳴くのを耳にしたものは無いといふ話である。

 といふ理由(わけ)は、後鳥羽天皇が或る夜その池の蛙が鳴くので御眠になれなかつたので、起きて外へ御出ましになつて『だまれ』と御命じになつた。そこでその蛙は今日に至るまで幾世紀の久しき、依然として無言で居るのである。

 池の近くにその當時大きな松の木が一本あつた。風の夜のその颯々の音が天皇の安眠を擾したてまつつた。そこで天皇はその松の木に向つて『靜かにせよ』と仰せになつた。その爲めそれからといふもの、その木は一度も颯々の音を立てない、暴風の折にも【譯者註】。

    譯者註。增鏡に「潮風のいとこちた
    く吹き來るを聞こしめして『我こそ
    はにひしまもりよおきの海のあらき
    なみ風心して吹け』。『同じ世にま
    た
すみのえの月や見ん今日こそよそ
    に
おきの島守」年もかへりぬ。所所
    浦々あはれなる事をのみ思しなげく』
    とある。

 だがその木は無くなつて居る。殘つて居るものとしはその木材と皮との破片少しだけで、それに隱岐の古老が遺物として大切に保存して居る。その破片の一つを自分は西鄕の醫者の――他の處でその人の親切に就いて自分が述べたあの醫者の――客間の床で見せて貰つた。

 

 天皇の御墓は村から步いて十分許りの距離にある小山の山腹に在るのである。松江の月照寺の壯大な古い庭にある松平家の墳墓の一番小さなものよりも、壯大といふ點に於て遙かに劣つては居るが、恐らくは貧乏な小さな隱岐の國が提供し得る最上のものであつたらう。だが、これは御墓の本來の在り場所では無い【譯者註】ので、明治六年に勅命によつて現今の位置へ移轉されたのである。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]

    譯者註。御墓はもと此處にあつたの
    である。明治六年御遺骨を攝津國水
    無瀨宮に遷され、今に此處は御火葬
    場址と稱せられ居る。

[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]黑く塗つた高い塀が、いや塀といふよりか太い杙の栅が、長さ百五十呎、幅五十呎許りの三段の平地に、卽ち三段の低い臺地(テレエス)に、なつて居る地面を取圍んで居る。その中は松の木で暗くなつて居る。この小さな最後の一番高い臺地の中央に御墓はあるので、水平に置いてある灰色の大きな平たい一枚石である。臺地から臺地へ石階を三四段登るので、門から御墓まで石敷の狹い歩道がついて居る。その門口、これは一年にたつた一度參詣者に開くのであるが、その門口を少し入つた處に御墓に面して鳥居が一つあつて、一番上の臺地の前に石燈籠が一對ある。總じて頗る質素である。が、一種の感銘を與へる力を有つて居る。其處の靜けさを破るものはたゞ蟬の疳高い叫びと、あの奇妙な小さな蟲の――その啼聲は巫女がその神舞(かみまひ)に打ち振る小さな鈴のチリンチリンといふ音と丁度同じな鈴蟲の――リンリン響く音とだけである。

[やぶちゃん注:「後鳥羽天皇の御墓」既注

「獵鳥獵獸(ゲエム)」の「ゲエム」は「獵鳥獵獸」のルビ。

「狩獵法」ハーンが指すのは「野生生物保護法の制定をめざす全国ネットワーク」内の「鳥獣法制度の変遷表」及び「日本野鳥の会」公式サイト内の「鳥獣保護法の歴史」によれば、明治六(一八七三)年の「鳥獣猟規則」が最初とされるが、これは規制対象を銃猟にのみ限定したもので、単に銃猟を免許鑑札制として職猟と遊猟とに区分、可猟地域・狩猟期間・猟法の制限等を記しただけの極めてお粗末なものであって、これではハーンの「不完全」どころの騒ぎではない。そこでさらに見てみると、ハーンがまさに隠岐へ赴いた、即ち、本書公刊の前年である明治二五(一八九二)年に「狩猟規則」なるものが発せられており、そこでは、ツル各種・ツバメ各種・ヒバリ・シジュウカラ・ホトトギス・キツツキ・ムクドリなどが「保護鳥獣」として指定されている。但し、このスタンスは、これらの『一部の例外を除いて』野鳥は『原則狩猟していい』(後者リンク先より引用)というやはり「不完全な」狩猟天国であったのであった(太字下線やぶちゃん)。その後、明治二八(一八九五)年の旧「狩猟法」によって初めて鳥獣類保護が正式に法制化、その後の大正七(一九一八)年に施行して改正が続けられて現在に至る「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」と、平成四(一九九二)年に制定された「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」の両輪で鳥獣類の保護は一応、図られてはいる。ただ、ウィキの「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律」によれば、昭和三八(一九六三)年の「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」の改正時になって初めてこれまでの「狩猟の適正化」という文々に加えて、『「鳥獣の保護」の精神も法律に反映された』とあるから、ハーンの憂鬱が形の上でも晴れるのには、まだ七十年以上が必要であったのであった。

「燕が日本の家の中で巢を作る習慣に眼を留めた或る畜生共が、昨年、何千羽といふ燕の皮をば誘惑的な代價で買ひ求めようと申出た」私は未だ嘗て燕の羽や羽毛を用いた工芸品と言うのを見たことがない(あってもおかしくはないとは思う)。御存じの方は、是非、御教授を乞うものである。

「龜を一匹殺せと外國人傳道者に勸められて殺した」この原記事を見たい。何故なら――何故に――この「外國人傳道者」は「龜」(淡水産のカメなのか? 海産のウミガメか?)を「一匹殺せと」「漁師」(漁師とは川漁・海漁孰れの漁師か?)に「勸め」、そして遂にその漁師がどのような具体的方法によって「殺した」のか?――といったあらゆる細部が判らず、シチュエーション自体が容易に想起出来ないからである。何らかの理由によって――子供の悪戯か大人(その漁師の)の悪意か、或いは、その漁師の漁の最中に起った、たまたま偶然の事故かによって死にかけて苦しんでいるところの息絶え絶えのカメを、見るに絶えず、「救ッテオ上ゲナサイ!」と懇願した外国人宣教師のそれに、仏教の殺生戒から必要以上の殺生を嫌うであろうはずの漁師が、多くの漁師が龍宮の使いと信ずるところの亀を、「確かに可哀想じゃ」と思うて、命を断ったとするなら、そのシークエンスの印象はかなり違うものとして解釈出来るからである。原資料をご存じの方は是非、御紹介下されたい。

「一哩の四分の一」凡そ四百メートル。

「諏訪大明神」長野県の諏訪湖近くの諏訪大社を総本社とする諏訪信仰の祭祀神社。諏訪大社の祭神諏訪大明神は大国主の御子神とされる建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妃八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受けるが、これは諏訪大社の山神としての性格を表している(ここはウィキの「諏訪神社」に拠った)。因みにこの直近、ハーンが上陸した海岸のある湾は諏訪湾と言う。

「長者助九郞」既注

「池は助九郞ノ池と呼ばれて居る。そして七百年の間その池の蛙が鳴くのを耳にしたものは無いといふ話である」「といふ理由は、後鳥羽天皇が或る夜その池の蛙が鳴くので御眠になれなかつたので、起きて外へ御出ましになつて『だまれ』と御命じになつた。そこでその蛙は今日に至るまで幾世紀の久しき、依然として無言で居るのである」「池の近くにその當時大きな松の木が一本あつた。風の夜のその颯々の音が天皇の安眠を擾したてまつつた。そこで天皇はその松の木に向つて『靜かにせよ』と仰せになつた。その爲めそれからといふもの、その木は一度も颯々の音を立てない、暴風の折にも」この前者の池は現在、「勝田の池」と呼ばれており、火葬塚の上方に治定されている後鳥羽上皇行在所(旧源福寺跡。源福寺は大伽藍の寺院であったが、明治二(一八六九)年の廃仏毀釈によって完膚なきまでに焼き尽くされてしまった)の脇にある。「勝田」は、この行在所のあった小さな丘を「勝田山」或いは「苅田山」のに由来し、以下の和歌でも「勝田」ではなく「苅田」と表記するものも多い。呉羽長氏の論文「後烏羽院在隠岐詠歌伝説の構造」(PDF)では、『近世において島側の後鳥羽院をめぐる話を採録した文献・資料』の中でも『後鳥羽院の在島詠歌伝説を網羅的に記述している』とされる「増補補隠州記」(松岡長政著?・貞享二(一六八五)年刊)に(恣意的に漢字を正字化し、読みを附した)を引用されておられるが、その中に、

   *

蛙(かはづ)の聲、松風ノ音を聞召(きこしめし)、侘(わび)て、

 蛙なく勝田の池の夕たたみ聞(きか)ましものハ松風の音

それより勝田池に蛙ありて、今も鳴(なく)事なし、松風の音も吟(ぎん)敷(しく)なかりしとなり

   *

本首の「夕たたみ」は「夕涼(ゆふすず)み」の誤記とも言われるが、私は、夕暮れ時に「畳(たた)む」(の連用形と採る)ように「五月蠅く蛙の鳴いている様子」の意としたい。この本文の「吟(ぎん)敷(しく)なかりし」の「敷(しく)」は自動詞カ行四段活用の「頻(し)く」で、ハーンの言うところの「暴風の折」りであっても、松は五月蠅くしきりには松籟を鳴らすことはなくなった、の謂いであろう。無論、孰れも後鳥羽院の悲愁を察して、である。

「增鏡に……」以下の訳者(推定田部隆次氏)の引用は、南北朝期に成立した歴史物語「增鏡」(作者は二条良基などが候補として挙げられているが不詳)の東京帝国大学資料編纂所所蔵本を底本とした和田英松校訂「增鏡」(昭和六(一九三一)年岩波文庫刊)では、「上」の「第二 新島もり」に載る。「住のえ」は「住江」で摂津の歌枕。現在の大阪市住吉区の和歌の神として崇敬される住吉大社附近の入り江。以下に整序した読み易い形で、ここまで本文と注で出した、後鳥羽院の詠歌を掲げてその哀感を孕んだ伝説に共時しておきたい。

   *

 蛙(かはづ)なく勝田の池の夕だたみ聞かましものは松風の音

 われこそは新(にひ)島守よ隱岐の海のあらき波風心して吹け

 同じ世にまた住(すみ)の江の月や見む今日こそよそに隱岐の島守

   *

「西鄕の醫者の――他の處でその人の親切に就いて自分が述べたあの醫者」「第二十三章 伯耆から隱岐ヘ(十五)参照。

「松江の月照寺」ハーン遺愛の寺。既注

「明治六年」西暦一八七三年。この年、明治天皇の命により、後鳥羽院の遺骨は大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に合祀されました。翌七年に祀殿は取り壊され、山陵はその後、後鳥羽天皇御火葬塚として宮内庁で管理されるようになった。

「百五十呎」四十五・七二メートル。

「五十呎」十五・二四メートル。

「臺地(テレエス)」「テレエス」はルビ。原文の複数形“terraces”“terrace”は「台地・高台」や地質学上の「段丘」、そしてお馴染みの「家に接して庭などに設けたテラス」のこと。これは実は元はフランス語の古語の「盛り上がった土」に由来する語である。従って強いて音写するなら「テラス」でも「テレエス」でもなく、「テェルレェス」であろう。

「その門口、これは一年にたつた一度參詣者に開く」私は参詣したが、門を迂回した記憶がない。私の思い違いか? 識者の御教授を乞う。] 

 

ⅩⅩⅩ.

 

   I went by boat from Hishi-ura to Amamura, in Nakanoshima, to visit the tomb of the exiled Emperor Go-Toba. The scenery along the way was beautiful, and of softer outline than I had seen on my first passage through the archipelago. Small rocks rising from the water were covered with sea-gulls and cormorants, which scarcely took any notice of the boat, even when we came almost within an oar's length. This fearlessness of wild creatures is one of the most charming impressions of travel in these remoter parts of Japan, yet unvisited by tourists with shotguns. The early European and American hunters in Japan seem to have found no difficulty and felt no compunction in exterminating what they considered 'game' over whole districts, destroying life merely for the wanton pleasure of destruction. Their example is being imitated now by 'Young Japan,' and the destruction of bird life is only imperfectly checked by game laws. Happily, the Government does interfere sometimes to check particular forms of the hunting vice. Some brutes who had observed the habits of swallows to make their nests in Japanese houses, last year offered to purchase some thousands of swallow-skins at a tempting price. The effect of the advertisement was cruel enough; but the police were promptly notified to stop the murdering, which they did. About the same time, in one of the Yokohama papers, there appeared a letter from some holy person announcing, as a triumph of Christian sentiment, that a 'converted' fisherman had been persuaded by foreign proselytisers to kill a turtle, which his Buddhist comrades had vainly begged him to spare.

   Amarnura, a very small village, lies in a narrow plain of rice-fields extending from the sea to a range of low hills. From the landing-place to the village is about a quarter of a mile. The narrow path leading to it passes round the base of a small hill, covered with pines, on the outskirts of the village. There is quite a handsome Shintō temple on the hill, small, but admirably constructed, approached by stone steps and a paved walk. There are the usual lions and lamps of stone, and the ordinary simple offerings of paper and women's hair before the shrine. But I saw among the ex-voto a number of curious things which I had never seen in Izumo,— tiny miniature buckets, well-buckets, with rope and pole complete, neatly fashioned out of bamboo. The boatman said that farmers bring these to the shrine when praying for rain. The deity was called Suwa- Dai-Myōjin.

   It was at the neighboring village, of which Suwa-Dai-Myōjin seems to be the ujigami, that the Emperor Go-Toba is said to have dwelt, in the house of the Chōja Shikekurō. The Shikekurō homestead remains, and still belongs to the Chōja's descendants, but they have become very poor. I asked permission to see the cups from which the exiled emperor drank, and other relics of his stay said to be preserved by the family; but in consequence of illness in the house I could not be received. So I had only a glimpse of the garden, where there is a celebrated pond,— a kembutsu.

   The pond is called Shikekurō's Pond,— Shikekurō-no-ike. And for seven hundred years, 'tis said, the frogs of that pond have never been heard to croak.

   For the Emperor Go-Toba, having one night been kept awake by the croaking of the frogs in that pond, arose and went out and commanded them, saying: 'Be silent!' Wherefore they have remained silent through all the centuries even unto this day.

   Near the pond there was in that time a great pine-tree, of which the rustling upon windy nights disturbed the emperor's rest. And he spoke to the pine-tree, and said to it: 'Be still!' And never thereafter was that tree heard to rustle, even in time of storms.

   But that tree has ceased to be. Nothing remains of it but a few fragments of its wood and hark, which are carefully preserved as relics by the ancients of Oki. Such a fragment was shown to me in the toko of the guest chamber of the dwelling of a physician of Saigo,— the same gentleman whose kindness I have related elsewhere.

   The tomb of the emperor lies on the slope of a low hill, at a distance of about ten minutes' walk from the village. It is far less imposing than the least of the tombs of the Matsudaira at Matsue, in the grand old courts of Gesshōji; but it was perhaps the best which the poor little country of Oki could furnish. This is not, however, the original place of the tomb, which was moved by imperial order in the sixth year of Meiji to its present site. A lofty fence, or rather stockade of heavy wooden posts, painted black, incloses a piece of ground perhaps one hundred and fifty feet long, by about fifty broad, and graded into three levels, or low terraces. All the space within is shaded by pines. In the centre of the last and highest of the little terraces the tomb is placed: a single large slab of grey rock laid
horizontally. A narrow paved walk leads from the gate to the tomb; ascending each terrace by three or four stone steps. A little within this gateway, which is opened to visitors only once a year, there is a torii facing the sepulchre; and before the highest terrace there are a pair of stone lamps. All this is severely simple, but effective in a certain touching way. The country stillness is broken only by the shrilling of the semi and the tintinnabulation of that strange little insect, the suzumushi, whose calling sounds just like the tinkling of the tiny bells which are shaken by the miko in her sacred dance.

2015/12/09

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十九)

 

       二九 

 

 死を話題にして居る間だから、隱岐にも出雲にも在る原始的ではあるが、人心を動かす或る習慣に就いて――死後直ぐとその死者の名を呼ぶといふ習慣に就いて――語つても宜からう。呼ぶ理由(わけ)は、その呼ひ聲が去り行く魂に聞こえるかも知れず、その爲め時には歸つて來ようといふ氣になるかも知れぬ、考へられて居るからである。だからして母親が死ぬると、その子供が先づ第一にその母親の名を呼ばねばならぬ、それも子供みんなのうちで一番若いのが(その子を一番可愛がつて居たから)眞つ先きに呼ばねばならぬ。それからその夫(をつと)、それからその死者を愛して居た者皆んなが順番にその名を呼ぶのである。

 それから氣絕したり、又は何かの原因で無感覺になる者の名を聲高く呼ぶのがまた習慣である。そしてこの習慣の根抵を爲す奇妙な信仰がある。

 殊に心痛或は悲嘆の餘り失神する者のうち、死の間際まで近寄るものが隨分多數あるもので、それ等の人はいつも同じ經驗をするといふ話である。この信仰についての自分の問に答へて或る人が斯う言つた、『突然何處か他所へ行つて居て――たゞ疲勞はして居るが――非常に愉快だ、といふ氣持がします。そして餘程遠方にある或るお寺へ參りたいといふ心になつて居ります。やがてのことそのお寺の前庭の門へ着きますと、門內にそのお寺が見えますが、それは驚くほど大きな美しいお寺であります。それからその門を潛つてお寺へ參らうと、その前庭に入ります。ところが突然、友人が遙か後ろの方から自分の名を――それも非常に非常に熱心に――呼ぶ聲がきこえます。そこで後戾りすると、ひよいと正氣に返るのであります。少くとも自分の心で生きたいと思ふと、今申したやうになります。然し實際生きて行くことに飽いた者は、呼ぶ聲には耳を藉さずに、お寺の中へはいり込みます。その寺でどんな事が出來(しゆつたい)するものか、誰も知つて居りません、そのお寺へ入るもので、その友人の處へ歸つて來るものはありませんから。

 『だから大聲立てて呼ぶのであります、氣絕した者の耳の穴へ。

 『ところが、死ぬる者は皆んな、冥途へ行く前に、長野縣の信濃の國にある、善光寺といふ大きな寺ヘ一度お參りするといふことであります。ところがそのお寺のぼんさんが說敎をされる時にはいつも、その說敎を聽きに本堂へ集つて居る、みんなの頭へ白い右片(きれ)を附けて居る靈魂がそのぼんさんには見えるといひます。だから氣絕した者の眼に見えるお寺は善光寺かも知れません。だが私には分りません』

[やぶちゃん注:ここで語られている風俗は古く「魂呼(たまよ)ばひ」(魂呼ばい)、「魂呼(たまよ)び」と呼ばれるものである。ここでは頻繁に日常的に頻回で失神や仮死状態に陥るヒステリー症状を呈する者に対しても行われているが、一般には危篤状態に陥っている者や臨終間際及びその直後にその人物の名を大声で呼び叫んで蘇生させようとする臨死に応じた呪法及び葬送儀礼の一種としての習俗である。柳田國男監修民俗學研究所編「民俗學辭典」の「魂呼び」によれば(同辞典は新仮名でありながら漢字は正字表記というおかしな表記である)

(1)『枕もとで死者に向って呼ぶもの』(後で『本能的なものであろう』と評している)

(2)『屋根または高い所へあがってよぶもの』

(3)『山・海・井戸などに向つて呼ぶもの』

『以上の三つの形式があり、屋根の上で呼ぶものには、棟に穴をあけるとか、瓦をはぐという類を作法をともなつている場合もある』とし、自然な行為として腑に落ちる(1)に対し、わざわざ『屋根で遠くへ去ろうとするものを呼びかえすような態度は明らかに呪術である』とする。『死ぬということは、靈魂が遊離して、ふたたび戻つてこない狀態であると考え、それをよびかえすことによつて蘇らせ得ると信じられていた』ことに基づく『のであろう。呼びかえすには聲を聲をあげて名前をよぶほか、桝(ます)の底をたたいたり、死者の衣服を振つたり、笠や箕(み)でまねきかえそうとするものがある。迷子や人探しの場合にも、これと類似の方法がおこなわれている』とある(最後に参考文献として『民間傳承』(『十ノ一』)の倉田一郎「葬制の諸問題」が掲げられてある)。

 しかし、ここで私が不思議に思うのは(2)についてで、呼び返すことが目的であるのにも拘わらず、何故に場合によっては『棟に穴をあけ』『瓦をはぐ』のであろう、という素朴な疑問である。寧ろこれは、「魂呼ばひ」という見かけ上の行動とは反対に、死者の魂を迷うことなく送り出すためとは、反定立的行為を。無意識のうちに、同時に、それを為しているようにも見えるのである。「一度出た魂を戻し易くするために空隙を開けるのだ」という解釈で反論される向きもあるかも知れぬが、それは帰還しようとする魂への助力以上に、邪悪なる有象無象の別な悪しき魂が骸(むくろ)へ侵入する可能性の方を危ぶむべき頗る危険な行為である(これは最も忌むべき最大の虞れとして、本邦に限らず、原始信仰から一般・新興の宗教に限らず、汎世界的に存在するタブーである)と私は再反論しておく。

 ウィキの「魂呼ばいでは、以下の三箇所が目を引く。『現代日本では死体は火葬に付されるのが一般的で復活の観念は生じにくいが、後世火葬が完全に定着するまでには長い時間を要し、それまでは土葬が主流であった。特に古代では埋葬する前に殯(もがり)という一定期間を設け、復活への望みを託したとされる』。『魂呼ばいが記録に残っている例としては、平安』中期の公卿藤原実資(さねすけ 天徳元(九五七)年~永承元(一〇四六)年)の日記「小右記」の万寿二(一〇二五)年八月の条に『藤原道長の娘尚侍が死亡した夜行われた例が見える。このことからも当時の貴族の間にも儀式の慣習が残っていたことがうかがえる』。『沖縄では「魂込め(マブイグウミ)」「魂呼び(タマスアビー)」などの呼称があり、久高島では「マンブカネー(魂を囲い入れる、というような意味)」と呼ばれる。マンブカネーで興味深いのは、儀式から魂の出入り口が両肩の後ろ辺りに想定されていると思われる点である』とある部分である。

 (2)のケースは、大学時代、唯一人、尊敬出来た、今年の二月に亡くなられた漢文学の吹野安先生が、出身地であられる茨城県西茨城郡大原村(現在の笠間市)で、小さな頃に見た、屋根の上に登って西に向かって亡くなった人の衣服をばたばたと振っては名を呼んでいた記憶を、授業中にリアルな大声と身振りで演じて下さったの忘れられぬ。(3)のケースは言わずもがな、黒澤明の「赤ひげ」(一九六五年)で少女おとよと女たちが皆して「ちょーう坊ーぅ!」と一家心中で死にかけている少年長次の名を井戸の底に向って叫ぶ強烈なシーンで忘れられぬ。あの井戸の底に下りて行くカメラ・ワークは素晴らしいと思っているが、あれは私は密かに、偏愛する映像詩人アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキイ Андрей Арсеньевич Тарковский の「僕の村は戦場だった」( Иваново детство :イワンの少年時代)(一九六二年)夢の井戸のシークエンスのインスパイアだと思っている。

「善光寺」あまり理解されているとは思われないので最初に述べておくと、日本最古と伝えられる阿弥陀如来(正式には一光三尊阿弥陀如来と称する)を本尊とする長野県長野市元善町の定額山(じょうがくさん)善光寺自体は無宗派の単立寺院である。但し、ウィキの「善光寺」によれば、その護持・運営は山内にある天台宗の「大勧進」と称する二十五院及び浄土宗の「大本願」と称する十四坊によってなされており、『「大勧進」の住職は「貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている』とあり、『特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済』も特徴の一つとして挙げられるとある。ここに出るように、本邦に於いて広汎に死者が最初に善光寺に参るという話は私も聴いたことがあり、実際に善光寺の僧自身から、ハーンがここに記すように「説教を聽きに本堂へ集つて居る、みんなの頭へ白い右片(きれ)を附けて居る靈魂がそのぼんさんには見える」という話も実は大学生の時に訪れて聴いた記憶がある。小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」の「死霊(しれい)」の大藤時彦の「民俗」の解説には、死者の霊魂は四十九日の間、屋根の『棟(むね)にとどまっているとか、屋敷の周りにいるとかいう。沖縄では四十九日までは家と墓所とを行き来しているという所がある』(これは本書の「第二十四章 魂について」で松江の植木職人金十郎によって語られる)。『四十九日を過ぎると山へ行くという例が多い。福島県などでは村里近くの葉山(はやま)という山へ行くといわれる。そしてそこで死霊が浄(きよ)まると、さらに月山(がっさん)、羽黒山などの霊場に行って鎮まるという』しつつ、『人が死ぬとすぐ死霊が信州(長野県)の善光寺参りに行くという信仰をもっている土地が多い。このため死去するとすぐ「死に弁当」をつくって死者に供える。それを持って死霊は善光寺参りをするという。関西方面では那智(なち)(和歌山県)の妙法山とか、伯耆(ほうき)(鳥取県)の大山(だいせん)へ参るという所もある。村里近くの山が開発されて霊の鎮まる場所としては不適当となってきたことも考えられる』とある。隠岐や出雲の例としてここで語る人物が何故、ここに出るような那智や大山でないのか? ハーンにこの話をした人物がたまたま知っていた一つの例としての死者の善光寺参りの話をしたに過ぎないのか? 識者の御教授を乞うものではある。] 

 

ⅩⅩⅨ.

 

   While on the subject of death I may speak of a primitive but touching custom which exists both in Oki and Izumo,— that of calling the name of the dead immediately after death. For it is thought that the call may be heard by the fleeting soul, which might sometimes be thus induced to return. Therefore, when a mother dies, the children should first call her, and of all the children first the youngest (for she loved that one most); and then the husband and all those who loved the dead cry to her in turn.

   And it is also the custom to call loudly the name of one who faints, or becomes insensible from any cause; and there are curious beliefs underlying this custom.

   It is said that of those who swoon from pain or grief especially, many approach very nearly to death, and these always have the same experience. 'You feel,' said one to me in answer to my question about the belief, 'as if you were suddenly somewhere else, and quite happy, — only tired. And you know that you want to go to a Buddhist temple which is quite far away. At last you reach the gate of the temple court, and you see the temple inside, and it is wonderfully large and beautiful. And you pass the gate and enter the court to go to the temple. But suddenly you hear voices of friends far behind you calling your name — very, very earnestly. So you turn back, and all at once you come to yourself again. At least it is so if your heart cares to live. But one who is really tired of living will not listen to the voices, and walks on to the temple. And what there happens no man knows, for they who enter that temple never return to their friends.

   'That is why people call loudly into the ear of one who swoons.

   'Now, it is said that all who die, before going to the Meido, make one pilgrimage to the great temple of Zenkōji, which is in the country of Shinano, in Nagano-Ken. And they say that whenever the priest of that temple preaches, he sees the Souls gather there in the hondo to hear him, all with white wrappings about their heads. So Zenkōji might be the temple which is seen by those who swoon. But I do not know.'

「笈の小文」の旅シンクロニティ――京まではまだ半空や雪の雲   芭蕉

本日  2015年12月 9日

     貞享4年11月 5日

はグレゴリオ暦で

    1687年12月 9日

 

京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲   芭蕉

 

 この前日、芭蕉は「笈の小文」の旅で名古屋に到着、鳴海(現在の名古屋市緑区鳴見町)で酒造千倉(ちくら)屋を営む門人下里知足(しもざとちそく)亭に泊まっていた。

 ここまでの行程は、10月25日朝(同月は大の月)出立して、

 25日  戸塚宿

 26日 小田原宿

 27日  箱根宿

 28日  吉原宿(現在の静岡県富士市)

*土芳編「蕉翁句集」(蕉翁文集第一冊「風一」・宝永六(一七〇九)年成立)には、この年に配する、

 

  不二(ふじ)

一尾根(ひとおね)はしぐるゝ雲かふじのゆき

 

の一句を載せる。富士の嘱目吟とするならば、この前後に配することは出来る。

 29日  府中宿(現在の静岡市葵区)

 30日  金谷宿(現在の静岡県島田市金谷)

ここで11月に入って、

  1日  見附宿(現在の静岡県磐田市中心部)

  2日  白須賀宿(しらすか:現在の静岡県湖西市白須賀)

  3日  藤川宿(現在の愛知県岡崎市藤川町附近)

であった(以上の行程はサイト「俳諧」の「笈の小文」を参考にした)。

 そこでこの五日(講談社学術文庫版山本健吉「芭蕉全句」(元版は一九七四年刊)の説)に、現地鳴海の連衆の一人である本陣桝屋主人寺島菐言(てらしまぼくげん)亭で巻いた歌仙の発句がこの句である(但し、サイト「俳諧」の「笈の小文」では七日とする。同歌仙の全容は同サイトのこちらで見られる)。ここは後に掲げる本貞享四年の奥書を持つ如行(じょこう)編の「如行集」の前書に従い、五日と採る。

 「笈の小文」では、

 

        鳴海にとまりて

      星崎の闇を見よとや啼く千鳥

 

飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて、と詠じ給ひけるを、自ら書かせ給ひて賜はりける由を語るに、

 

      京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲

 

と載せる。恰も、「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」が先で、本句が後に作られたように廃されてあるが、これは文学的操作であって、本句の方が先に創作されている。

 中村俊定校注岩波文庫版「芭蕉俳句集」(一九七〇年刊)によれば、「蕉翁句集」には、

 

   鳴海の驛(うまや)に泊りて、飛鳥井

   雅章(あすかゐまさあきら)の君、

   都(みやこ)を隔(へだつ)とよみて

   給はらせけるを見て

 

と前書し、如行編「如行集」には、

 

   貞享四年卯十一月五日 鳴海寺嶋氏菐

   言亭に、飛鳥井亞相の御詠草かゝり侍

   し哥を和す

 

と前する(これを五日の根拠とした)。

 

□「笈の小文」やぶちゃん注(「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」は後日に廻す)

「飛鳥井雅章」(慶長一六(一六一一)年~延宝七(一六七九)年)は江戸前期の公家で歌人。従一位権大納言。承応元(一六五二)年に権大納言に昇り、寛文元(一六六一)年から寛文一一(一六七一)年まで、十年に亙って武家伝奏(さればこそ東海道を何度も行き来したと考えられ、鳴海に泊まったとしても何らおかしくはない)を勤めた。飛鳥井家家学である和歌に秀で、細川幽斎に学んで後水尾天皇朝の歌壇で活躍、明暦三(一六五七)年には後水尾上皇から古今伝授を受けており、蹴鞠や書にも優れた。また、門弟には芭蕉の師であった北村季吟がいる(ここはウィキの「飛鳥井雅章」を参考にした)。その没年(享年六十九)はこの貞享四年からは僅か八年前のことであった。

「都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて」新潮社日本古典集成版の富山奏校注「芭蕉文集」(昭和五三(一九七八)年刊)には、本歌は「雅章卿詠草」に、

 

 けふは猶都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて

 

とし、山本健吉「芭蕉全発句」には、文政一〇(一八二七)年の小沢何丸(なにまる)著「芭蕉翁句解参考」に、

 

 うちひさす都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて

 

とあるが、前者が正しいようである。下の句は鳴海宿が、隣の熱田宿(一般には「宮の宿」と呼ばれた)から桑名宿の間が、東海道で唯一の海路「七里の渡し」であったことによる。山本氏の「芭蕉全発句」には、この『詠草が菐言邸の座敷にかけてあったので、それに和する心でこの句を詠んだ』とあり、その詠草の掛物が『主人菐言のもてなしであれば、僕言への挨拶となる』と評する。行路のベクトルは逆(雅章のそれは京から江戸へ)ではあるものの、旅の始まりの郷愁という括りの中にあって、「中空」と「雪の雲」の語彙選択は美事と言う外はない。富山奏氏は「芭蕉文集」の本句の解釈で、芭蕉がこの名古屋の地に長く滞在(伊良湖に杜国を訪ねた後の名古屋滞在をも含めると異様に長い)して多くの興行を行っていることを指摘され、『雅章公が王朝の宮廷歌人以来の伝統的意識である京を離れ去り行く悲哀を表白している』のみである『のとは異なり、旅寝もまた庵住と本質的に変るものではないと自覚している芭蕉の吟は、言わば旅情そのものの哀感の表白である』としておられるのは至当と思う。

2015/12/08

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十八)

 

       二八 

 

 佛敎には西洋人の信仰には全く無いところの不思議にも美くしい或る慰藉がある。

 その初めての子を亡(な)くする年若い母親は、死んだその夜からして、その子が歸つて來る事を――夢だけにでは無く、再び人間に身を現(げん)じて戻つて來る事を――少くとも祈り得るのである。斯く祈りながら、その死んだいとし子の名の初めの一と文字を、その小さな死骸の手の裡に書くのである。

 幾月か經つて女はまた母親になる。急いでその赤ん坊の花と柔かな手を檢べて見る。果して! だ。自分が書いたと同じ文字がそれに――その柔かな掌に薔薇と美しい母斑となつて――在る。そして戻つて來た魂が、生れた計りのその子の眼で、過ぎし昔の日のやうな眼附をして、母親を見る。

 

ⅩⅩⅧ.

 

   There are in Buddhism certain weirdly beautiful consolations unknown toWestern faith.

   The young mother who loses her first child may at least pray that it will come back to her out of the night of death,— not in dreams only, but through reincarnation. And so praying, she writes within the hand of the little corpse the first ideograph of her lost darling's name.

   Months pass; she again becomes a mother. Eagerly she examines the flower-soft hand of the infant. And lo! the self-sameideograph is there,— a rosy birth-mark on the tender palm; and the Soul returned looks out upon her through the eyes of the newly-born with the gaze ofother days.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十七)


       二七

 

 菱浦には鳥賊が無いし、いやな臭も全く無かつたから、自分は隱岐の他の何處よりも此處が面白かつた。だが、兎も角、菱浦は西鄕よりも興味があつたらうと思ふ。その綺麗な小さな町の生活が特に古風であり、また機械といふものが輸入されて出雲や他の地方では殆んど減びて居る古風な家庭產業が、今なほ菱浦には殘つて居る。仕事が大儀になると互に代り合つて、木綿の著物や絹の著物を織つている、薔薇色の娘達を見て居るのは愉快であつた。そんな平穩な古風な生活が總て開放されて人の見るに任してあるのだから、自分は好んでそれを眺め見た。それから他にも愉快な事があつた。それは其處の入江は水泳に絕好な場處であり、その海岸の興味ある處、何處へでも直ぐに乘せて行つて吳れる小船がいつも居るからであつた。夜はまた海風が自分の占めて居る部屋を氣持よく涼しくして呉れるし、緣側からは波止場の石段へ緩やかな冷たい光りと砕ける入江の浪を――美くしい燐光――眺めることが出來、また隱岐の母親がその赤ん坊を寢かさうとて、世界で一番古いねんねこ歌の一つを歌ふ聲を聞くことが出來るのであつた。斯う歌ふ、――

 

    ねんねこ、お山の

        兎の子、

    なぜまたお耳が

        長いやら、

    おつかさんのおなかに

        居る時に、

    枇把の葉笹の葉

        喰べたそな、

    それでお耳が

        長いそな

 

 その節(ふし)が特に美はしくまた哀調を帶びて居て、出雲や日本の他の地方で、それと同じ言葉で歌ふ節(ふし)とは全く異つて居つた。

 或る朝、自分は別府へ行かうと思つて船を一艘僦つて、その日だけその宿屋を出ようとする間際に、宿の老主婦が自分の腕に觸つて叫んだ。『一寸お待ちなさい。葬式に行き違ふのは善くありません』自分は角(かど)を振返つて見たら、岸に沿うてその行列の來るのが見えた。神葬で、子供の葬式であつた。年の行かぬ子供が眞つ先きに神道の徽號を――小さな白い旗と、神木サカキの枝とを――手にして來た。そして棺の後にその母が步んで居つた。若い百姓女で、大聲出して泣いて、そのお粗末な紺の著物の長袖で眼を拭いて居つた。すると自分の橫に居た宿の老婦が斯う囁いた。『悲しんで居りますが、まだ年が若う御座ますから、屹度あの子はあの人の處へ戾つて來ませう』それは、自分のその善良な老主婦は信心深い佛敎者であつたから、その葬式は神道で營まれて居たのに、その母の信仰は自分のと同じだと屹度思つて居たからであらう。

[やぶちゃん注:『悲しんで居りますが、まだ年が若う御座ますから、屹度あの子はあの人の處へ戾つて來ませう』底本は「あの子は」を除く部分は太字部分は総て「ヽ」の傍点で、下線を引いた太字「あの子は」の部分は「○」傍点である。これは原文にない、訳者の心遣いの箇所で、非常に好ましい手法であると私は思う。

ねんねこ、お山の」「兎の子、……」「島根県立古代出雲歴史博物館」公式サイト内の山陰民俗学会会長酒井董美(ただよし)氏の収録・再話になるわらべ歌2 ねんねんよ ころりんよに、島根県の最西端内陸に位置する鹿足(かのあし)郡吉賀町(よしかちょう)柿木(かきのき)で採取された子守り歌が載る(リンク先では録音された唄も聴ける! 私はこのハーンの採録した子守唄の同系統のそれを今、この瞬間に聴けることを、心から幸せに感じた!)。唄は明治三一(一八九八)年生まれの女性によるもので、昭和三七(一九六二)年七月三十一日採集録音になる貴重なものである。

   《引用開始》

    ねんねんよ ころりんよ

    ねんねがお守りは どこ行た

    野越え 山越え 里行(い)た 里のみやげに なにもろた

    でんでん太鼓に笙(しょう)の笛 でんでん太鼓をたたいたら

    どんなに泣く子もみな眠る

    笙の笛をば吹いたなら どんなに泣く子もみなだまる

    ねんねんよ ころりんよ

    おととのお山のお兎は なしてお耳がお長いの

    おかかのおなかにいたときに 椎(しい)の実 榧(かや)の実 食べたそに

    それでお耳がお長いぞ

    ねんねんよ ころりんよ

   《引用終了》

これについて、酒井氏は『とてものどかな節回しである。そしてその歌い出しは「ねんねんころりよ、おころりよ」でよく知られ、日本古謡としての子守歌の骨格が前半部に見られるが、後半部の「おととのお山のお兎は」からは、実はまた別な童話風物語が付属したスタイルになっている』。とされた上で、『伝承わらべ歌の特徴として、詞章の離合集散はよく見られる現象である。ある地方で二つ以上になる歌が、ほかのところでは一つに統合されている例はいくらでもある。この歌がまさにそれであった』と述べられている。その後に、まさにこのハーンの本篇での採集唄が掲げられた後、本子守唄の同系のものは『鳥取県でも知られていた模様で、米子地方のものとして』、松本穰葉子氏著になる「ふるさとの民謡」(昭和四三(一九六八)年鳥取郷土文化研究会刊)に『以下の歌が出ている』と指示されて、

   《引用開始》

    ねんねこやまの

    兎の耳はなぜ長い

    わしの おかさんが

    つわりの時に

    びわの葉なんぞを

    食べたので長い

   《引用終了》

を引かれ、『幼子を相手に大人たちは、兎の耳の長い理由を童話風なわらべ歌の詞章に託して、うたっていたのであった。現在の母親たちには、もうこのような子守歌は伝えられてはいないのではなかろうか』(最後の一文中の衍字と思われる箇所を除去させて戴いた)としみじみと結んでおられる。……ハーンは……この菱浦の哀調を帯びた子守唄に――遂に記憶から永遠に去ってしまった自らの母が赤子のハーンに唄ったその子守唄を――確かに聴いたのだ――と思うのである…………

 

ⅩⅩⅦ.

 

   Because there were no cuttlefish at Hishi-ura, and no horrid smells, I enjoyed myself there more than I did anywhere else in Oki. But, in any event, Hishi-ura would have interested me more than Saigo. The life of the pretty little town is peculiarly old-fashioned; and the ancient domestic industries, which the introduction of machinery has almost destroyed in Izumo and elsewhere, still exist in Hishi-ura. It was pleasant to watch the rosy girls weaving robes of cotton and robes of silk, relieving each other whenever the work became fatiguing. All this quaint gentle life is open to inspection, and I loved to watch it. I had other pleasures also: the bay is a delightful place for swimming, and there were always boats ready to take me to any place of interest along the coast. At night the sea breeze made the rooms which I occupied deliciously cool; and from the balcony I could watch the bay-swell breaking in slow, cold fire on the steps of the 
wharves—a beautiful phosphorescence; and I could hear Oki mothers singing their babes to sleep with one of the oldest lullabys in the world:

Nenneko,

O-yama no

Usagi. no ko,

Naze mata

O-mimi ga

Nagai e yara?

Okkasan no

O-nak ni

Oru toku ni,

Biwa no ha,

Sasa no ha,

Tabeta sona;

Sore de

O-mimi ga

Nagai e sona. [16]

   The air was singularly sweet and plaintive, quite different from that to which the same words are sung in Izumo, and in other parts of Japan.
   One morning I had hired a boat to take me to Beppu, and was on the point of leaving the hotel for the day, when the old landlady, touching my arm, exclaimed: 'Wait a little while; it is not good to cross a funeral.' I looked round the corner, and saw the procession coming along the shore. It was a Shinto funeral,— a child's funeral. Young lads came first, carrying Shinto emblems,— little white flags, and branches of the sacred sakaki; and after the coffin the mother walked, a young peasant, crying very loud, and wiping her eyes with the long sleeves of her coarse blue dress. Then the old woman at my side murmured: 'She sorrows; but she is very young: perhaps It will come back to her.' For she was a pious Buddhist, my good old landlady, and doubtless supposed the mother's belief like her own, although the funeral was conducted according to the Shintō rite. 

 

16
   Which words signify something like this:
'Sleep, baby, sleep! Why are the honourable ears of the Child of the Hare of the honourable mountain so long? 'Tis because when he dwelt within her honoured womb, his mamma ate the leaves of the loquat, the leaves of the bamboo-grass, That is why his honourable ears are so long.'

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十六)


       二六


 隱岐では、出雲でと同じで、小學校が古い迷信の多くを徐々ではあるが、確實に滅ぼしつ〻ある。漁師ですらその新時代の者はその父祖が信じて居たものを笑ふのである。自分が通譯を通じて燒火山の靈火のことに就いて質問した、或る利發な若年の水夫から次記のや〻侮辱的な答を受けたのにはいさ〻か驚いた。――『え〻、私共が野蠻人であつた時代には、そんな事を信じてゐたものでありますが、私共は今は開けて居ります!』

 だが此男は幾分か時世に先んじで居たのそある。その男の村には、出雲の何處にも殆んど匹敵を見ぬ程度にまで狐の迷信が流行つて居ることを自分は發見した。その村の來歷は餘程妙であつた。記憶の及ばぬ太古からして、其處はキツネモチの部落だと評判されて居たのである。言ひ換へると、其處の住民は悉く魔力を有つた狐の持主であると一般に信じられて居り、また多分自分もさう信じて居たのである。それで皆んなが同樣に狐持なのだから、一諸に飮み食ひも出來、困らずに御互同志の間で嫁婿の取り泣遣りが出來たのであつた。近處の百姓共は彼等を氣味わるく恐ろしがつて、理窟に叶つたことでも叶はぬことでも、彼等の要求に從つた。狐持は非常に繁昌した。ところが二十年許り前に出雲からの他國者が彼等の村に住みついた。その男は根氣が好く、怜悧で、また多少の資本金を有つて居つた。地面を買ひ、いろんな事に拔け目なく資本を投じて、驚く許り短日月のうちに其處での一番の金持になつた。頗る立派な神社を建てて之をその村へ寄附した。だが、本當に人望のある人になることを妨げる故障がたつた一つあつた。狐持では無く、また狐は嫌だと言つたことさへあつたからである。他の者共と異つて居るといふ此事が村に不和を生む惧れとなつた。殊に此男はその子供を他國共へ片附け、斯くて非狐持部落といつたやうなものを狐持共の眞ん中へ造り出したからである。

 そこで餘程前から狐持共はその過剩な魔物を、此男に無理に有たせようとして居る。月の無い夜、此男の住宅の門のあたりに影が忍びあるいて、斯う小聲で言ふ、――『歸れ! 今日から此處へ來るだ!』すると、上の障子が手荒く開かれて、怒つたその家の持主の聲が斯うきこえる。――『此處は嫌ひだ!歸れ!』するとそのは逃げて行く。

    註。千八百九十二年東京發行の一日
    本新聞紙は、島根をたづねた或る醫
    師の言を典據として、隱岐の人は人
    狐を信じて居りはせぬ、犬神を信じ
    て居るのだと述べて居る。これは島
    根で殊に石見で屢〻使ふイヌガミモ
    チといふ言葉を文字通りに考へて起
    きた間違である。それはキツネモチ
    といふことを婉曲に言つただけのこ
    とである。イヌガミは卽ちヒトギツ
    ネで、これはいろんな動物の姿に身
    を現ずるものとも言はれて居る。

[やぶちゃん注:「今日から此處へ來るだ!」「來るだ!」はママ。原文がそうなっている。方言か? 後に附された原文英文は、「此處へ來るな!」「去れ!」「行つちまへ!」である。

「千八百九十二年」明治二十五年で、ハーンが隠岐を訪問したその年である。

「犬神」「イヌガミモチ」ウィキの「犬神」より引く(記号の一部を省略した。下線やぶちゃん)。『犬神(いぬがみ)は、狐憑き、狐持ちなどとともに、西日本に最も広く分布する犬霊の憑き物(つきもの)。近年まで、大分県東部、島根県、四国の北東部から高知県一帯においてなお根強く見られ、キツネの生息していない四国を犬神の本場であると考える説もある。また、犬神信仰の形跡は、島根県西部から山口県、九州全域、さらに薩南諸島より遠く沖縄県にかけてまで存在している。宮崎県、熊本県球磨郡、屋久島ではなまって「インガメ」、種子島では「イリガミ」とも呼ばれる。漢字では「狗神」とも表記される』。『犬神の憑依現象は、平安時代にはすでにその呪術に対する禁止令が発行された蠱術(こじゅつ:蠱道、蠱毒とも。特定の動物の霊を使役する呪詛で、非常に恐れられた)が民間に流布したものと考えられ、飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使う方法が知られる』。『また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときにその頸を切ると、頭部は飛んで食物に食いつき、これを焼いて骨とし、器に入れて祀る。すると永久にその人に憑き、願望を成就させる。獰猛な数匹の犬を戦い合わせ、勝ち残った』一匹に『魚を与え、その犬の頭を切り落とし、残った魚を食べるという方法もある。大分県速見郡山香町(現・杵築市)では、実際に巫女がこのようにして犬の首を切り、腐った首に群がった蛆を乾燥させ、これを犬神と称して売ったという霊感商法まがいの事例があり、しかもこれをありがたがって買う者もいたという』。『しかし、犬神の容姿は、若干大きめのネズミほどの大きさで斑があり、尻尾の先端が分かれ、モグラの一種であるため目が見えず、一列になって行動すると伝えられている。これは、犬というより管狐やオサキ』(オサキギツネ。キツネの憑き物)『を思わせ、純粋に蠱道の呪法(『捜神記』の犬蠱のような)を踏襲した伝承というわけではないと考えられる。むしろ狐霊信仰を中心とする 呪詛の亜流が伝承の中核を成していると考えられる。また容姿はハツカネズミに似て、口は縦に裂けて先端が尖っているともいい、大分県ではジネズミ(トガリネズミの一種、モグラの近縁種)に似ているといい、大分の速見郡豊岡町では白黒まだらのイタチのようという。前述の山口の相島では犬神鼠(いぬがみねずみ)ともいい、長い口を持つハツカネズミのようで、一家に』七十五匹もの『群れをなしているという。徳島県三好郡祖谷山では犬神の類を「スイカズラ」といい、ネズミよりも少し大きなもので、囲炉裏で暖をとっていることがあるという』。国学者岡熊臣(おかくまおみ 天明三(一七八三)年~嘉永四(一八五一)年)の「塵埃(じんあい)」によれば(リンク先には同書の犬神図も載る)、体長一尺一寸(三十三・三三センチメートル)の蝙蝠に似た姿であるとあるという。『犬神の発祥には諸説あり、源頼政が討った鵺の死体が』四つに『裂けて各地に飛び散って犬神になったとも、弘法大師が猪除けに描いた犬の絵から生まれたともいう。源翁心昭が殺生石の祟りを鎮めるために石を割った際、上野国(現・群馬県)に飛来した破片がオサキになり、四国に飛び散った破片が犬神になったという伝説もある』。以下、「犬神持ち」の項。『犬神は、犬神持ちの家の納戸の箪笥、床の下、水甕(みずがめ)の中に飼われていると説明される。他の憑き物と同じく、喜怒哀楽の激しい情緒不安定な人間に憑きやすい。これに憑かれると、胸の痛み、足や手の痛みを訴え、急に肩をゆすったり、犬のように吠えたりすると言われる。人間の耳から体内の内臓に侵入し、憑かれた者は嫉妬深い性格になるともいう。徳島県では、犬神に憑かれた者は恐ろしく大食になり、死ぬと体に犬の歯型が付いているという。人間だけでなく牛馬にも、さらには無生物にも憑き、鋸に憑くと使い物にならなくなるともいう』。『犬神の憑きやすい家筋、犬神筋の由来は、これらの蠱術を扱った術者、山伏、祈祷者、巫蠱らの血筋が地域に伝承されたものである。多くの場合、漂泊の民であった民間呪術を行う者が、畏敬と信頼を得ると同時に被差別民として扱われていたことを示している。というのも、犬神は、その子孫にも世代を追って離れることがなく、一般の村人は、犬神筋といわれる家系との通婚を忌み、交際も嫌うのが普通である。四国地方では、婚姻の際に家筋が調べられ、犬神の有無を確かめるのが習しとされ、これは同和問題と結びついて問題になる場合も少なくはない』。『愛媛県周桑郡小松町(現・西条市)の伝承では、犬神持ちの家では家族の人数だけ犬神がおり、家族が増えるたびに犬神の数も増えるという。これらの犬神は家族の考えを読み取って、欲しい物があるときなどにはすぐに犬神が家を出て行って憑くとされる。しかし必ずしも従順ではなく、犬神持ちの家族の者を噛み殺すこともあったという』。『犬神による病気を患った場合には医者の療治で治ることはなく、呪術者に犬神を落としてもらう必要があるという。種子島では「犬神連れ(いぬがみつれ)」といって、犬神持ちとされる家の者がほかの家の者に犬神を憑かせた場合、もしくは憑かせたと疑われた場合、それが事実かどうかにかかわらず、食べ物などを持って相手の家へ犬神を引き取りに行ったり、憑いた者が治癒するまで郊外の山小屋に隠棲することがあり、その子孫が後にも山中の一軒家に住み続けているという』。『犬神持ちの家は富み栄えるとされている。一方で、狐霊のように祭られることによる恩恵を家に持ち込むことをせず、祟神として忌諱される場合もある』。] 

 

ⅩⅩⅥ.

   In Oki, as in Izumo, the public school is slowly but surely destroying many of the old superstitions. Even the fishermen of the new generation laugh at things in which their fathers believed. I was rather surprised to receive from an intelligent young sailor, whom I had questioned through an interpreter about the hostly fire of Takuhizan, this scornful answer: 'Oh, we used to believe those things when we were savages; but we are civilized now!'

   Nevertheless, he was somewhat in advance of his time. In the village to which he belonged I discovered that the Fox-.superstition prevails to a degree scarcely paralleled in any part of Izumo. The history of the village was quite curious. From time immemorial it had been reputed a settlement of Kitsune-mochi: in other words, all its inhabitants were commonly believed, and perhaps believed themselves, to be the owners of goblin-foxes. And being all alike kitsune-mochi, they could eat and drink together, and marry and give in marriage among themselves without affliction. They were feared with a ghostly fear by the neighboring peasantry, who obeyed their demands both in matters reasonable and unreasonable. They prospered exceedingly. But some twenty years ago an Izumo stranger settled among them. He was energetic, intelligent, and possessed of some capital. He bought land, made various shrewd investments, and in a surprisingly short time became the wealthiest citizen in the place. He built a very pretty Shinto temple and presented it to the community. There was only one obstacle in the way of his becoming a really popular person: he was not a kitsune-mochi, and he had even said that he hated foxes. This singularity threatened to beget discords in the mura, especially as he married his children to strangers, and thus began in the midst of the kitsune-mochi to establish a sort of anti-Fox-holding colony.

   Wherefore, for a long time past, the Fox-holders have been trying to force their superfluous goblins upon him. Shadows glide about the gate of his dwelling on moonless nights, muttering: 'Kaere! kyo kara kokoye: kuruda!' [Be off now! from now hereafter it is here that ye must dwell: go!] Then are the upper
shōji violently pushed apart; and the voice of the enraged house owner is heard: 'Koko Wa kiraida! modori!' [Detestable is that which ye do! get ye gone!] And the Shadows flee away.[15]
 

 

15
   In 1892 a Japanese newspaper, published in Tōkyo stated upon the authority of a physician who had visited Shimane, that the people of Oki believe in ghostly
dogs instead of ghostly foxes. This is a mistake caused by the literal rendering of a term often used in Shi-mane, especially in Iwami, namely, inu-gami-mochi. It is only a euphemism for kitsune-mochi; the inu-gami is only the hito-kitsune, which is supposed to make itself visible in various animal forms.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十五)

 

       二五

 

 ホトケ(これはヌレボトケ【註】、ガキボトケとかいふやうな複合詞ではボトケとなる)に就いては言ふも不思議な事がある。

    註。ヌレボトケレ『濡れ佛』。雨風に曝されて居る佛像をいふ。

 ホトケといふ語は佛陀を意味する。

 ホトケといふ語はまた――立派な生涯を送れば死者の靈は佛陀の道に入るか、或は佛陀に成るかすると信ぜられて居るから――死者の靈をも意味する。

  ホトケといふ語は、婉曲な言ひ方から、その上また死骸をも意味するやうになつて居る。だからホトケヅクリといふ動詞は『物凄い顏をして居る』、死んで長い間經つた人のやうな顏をして居る、といふ意味を有つて居る。

 それからホトケサンといふ語は――ホトケサンは『佛樣』――眼の瞳子に映つて見える顏の映像に與へて居る名である。法華經の佛世尊では無く、我々銘々の中に住まつて居られる彼の小さな――卽ち靈【註】――である。

    註・民間佛敎に據れば、神或は龍の
    子は左右とも眼に佛が二つづつ見え
    る。日本の物語歌の或るものに見え
    る。それに詠まれて居る、勇士が眼
    に四つ佛を有つてゐたとあるのは、
    その眼が左右とも二重瞳子であつた
    ことをいふのである。

 ロゼッテイは『眺めて我は汝(な)が心、汝(いまし)眼(まなこ)の影に見ぬ』と歌つた。東洋思想は正しくその逆である。日本の戀人は『眺めて汝(いまし)が眼の影に、我が有つ佛を我は見ぬ』と言つたであらう。

 斯くも奇妙な信仰【譯者註】に關しての心靈學說は何うであるか。斯うでもあらうかと自分は思ふ。卽ち、はそれ自(みづか)らの體內に在つてはいつも眼に見えずに居るものであるが、妖術者の鏡に映るが如くに、他人の眼にその姿を映すことはある。己が愛する女の眼を凝視して、その女の魂を見分けようとしても無益である。その眼には、透明(す)いて己が魂の影だけ見えるのである。その向(さき)はたゞ全く神祕で――無窮に達する。 

 が、斯ういふ事は眞理では無いか。自我は、シヨオペンハウエルが驚嘆すべくも述べて居るやうに、意識の暗黑點なので、恰も視神經が眼に入る點は、物が見えぬのと同じである。我々は自己を他人でだけ見るのである。他人を通じて初めて我々は我々の如何なるものたるかを朧氣に察するのである。それで、他の者を最も深く愛して居るといふことに於て、つまり自分自身を愛して居るのでは無いか。我々の人格と稱するもの、個性と稱するのは普遍なる實在の無限無數の震動に他ならぬのでは無いか。我々は總て、不可知的な究極に於ては一つのものでは無いか。思慮すべからざる過去を有つて居る一つのものでは無いか。永遠の未來を有つて居る一つのものでは無いか。

    譯者註。アアトマンの思想が恐らく
    多くの讀者の心の中に起こるであら
    う。(アアトマンとは、個々の靈が
    そ
れから出て來る最高の大靈の名)

[やぶちゃん注:「ホトケヅクリといふ動詞」これは「仏づく」で「そのような状態になってくる」の意の動詞を作る接尾語「づく」の誤認だと思っていたが、小学館の「日本国語大辞典」に「仏造(ほとけづく)る」というラ行四段活用の自動詞が載り、「仏像を作る」以外に「死相が現われる。死に顔になる」という見出し語があり、「ほとけづくり」(仏造)という名詞も見出し語にあって仏師の意の他に死相の現われることの意を示す。但し、この名詞の後者の意の引用例は「改正増補和英語林集成」で、『Hotokezukuri ホトケヅクリ』として訳が『死人のように見えること』とするから、決して古い用語とは思われないし、一般的に使用する動詞ではない。実際、私は「ほとけづく」も「ほとけづくる」も聴いたことも見たこともなく、使ったこともない。それとも当時の松江では日常的に用いた語だったのだろうか?

「ホトケサンは『佛樣』――眼の瞳子に映つて見える顏の映像に與へて居る名」これは遠い昔に誰かの「人の瞳の中には仏さまが皆いらっしゃる」と語るのを実際に私は聴いた記憶がある。……それが誰だったのか、思い出せずにいるのだが。――小学館の「日本国語大辞典」の「ほとけ」の項には意味の九番目として、『ひとみ。瞳孔。めぼとけ』と載せ、後の方言欄でも「ひとみに写った人影」(兵庫県)、「瞳孔。ひとみ」(山形・茨城・千葉・新潟・岐阜・兵庫・広島・熊本・大分)が挙がっている。さらに同辞典の見出し語「ほとけさん」(「仏様」と漢字表記)の方言欄には「日月」や「太陽」の意の次の三番目に「瞳孔。ひとみ」と挙げて、佐渡と福井・愛知・和歌山・鳥取・母衣島・愛媛・徳島(「ほとけはん」)・鹿児島(「ほどけどん」)の各県と京都府・大阪市を挙げあるから、地方の方言としても極めて広範に見られることが判り、しかも西日本での使用例が圧倒的であるから、松江では日常的に「瞳孔・瞳」のことをこう呼称していた可能性が高く、それはまさに兵庫県(赤穂郡小河とあるが、これは現在の相生市の内)の例のように「ひとみに写った人影」のようなもの――それが仏の姿なのだ――ということであろう。ハーンの本篇最後の部分での恐るべき収束画像の哲学的感懐にも、私は大いに共鳴するものである。何と、しかししみじみとしたシミュラクラではないか。なお、「国立沖縄青少年交流の家」公式サイト内の「所長室の窓」の所長服部英二氏の瞳(ひとみ)とミーヌシン(心を映し出す鏡)によれば、『この目の中の瞳のことをウチナー口(沖縄方言)で「ミーヌシン」といいます。語源を辿ると元々は「目の芯」「目の心」に由来しているとのことです』。『また、一方、この瞳のことを、全国各地の方言で見てみると「めぼとけ」「おほとけ」「めのかみさま」などと呼ぶ言い方もあ』り、『そうすると、ミーヌシンも「目の神」の方が、より相応しいように思います』。『古代(いにしえ)の人達は、目の中にある澄んだ瞳に対して、「ほとけ」とか「かみ」と名付け、当時、人影を映す「鏡に霊力が宿る」と信じたように、目の中心にある不思議な瞳の力に対しても畏敬の念を抱き崇め敬い、そのように呼び現したのかもしれません』という興味深い記事を見出した。かく考えてみると「ひとみ」という語自体が物理的な人を見るの謂いではなく、その瞳孔の中に人(ひと)形の神・仏・霊を見(み)るの謂いの「ひとみ」であるようにも思えてきて、とてもさらに快い気がしてきたのである。無論、こういう思いつきはガチガチの国語学者連中からは一笑に附されるとしても――である。

「民間佛敎に據れば、神或は龍の子は左右とも眼に佛が二つづつ見える」「日本の物語歌の或るものに見える」「それに詠まれて居る、勇士が眼に四つ佛を有つてゐたとある」これらの、「二重瞳子」、重瞳(ちょうどう)について、

本邦民間の仏教説話に於いて天部などの仏法守護の神や龍の子供が重瞳であるとする具体な伝承例

本邦(中国だったら、舜やら、項羽やら、私でも知っている。以下のウィキにもゴマンと出る)の「物語歌」(長歌か民謡か?)で、英雄が重瞳であったと詠み込まれているという具体的な書名歌集名或いは民謡名

を、さても、私は不学にして知らぬ。ウィキその他を見ると、豊臣秀吉・水戸光圀・由井正雪などが重瞳であったと海音寺潮五郎は言っているらしいが、どうも彼等は「勇士」とも思われず、彼等を主人公にし、しかも「重瞳」をはっきりと詠み込んだ「物語歌」がありそうにも思われぬのだが。識者の御教授を乞うものである。なお、重瞳については私は大真面目になって考証したことが既にある。興味のあられる方は耳囊 卷之十 四瞳小兒の事及び「耳囊 卷之十 白龜の事」を参照されたい。前者のそれが本格的なものであるが、後者は、ここで架空とはいえ、爬虫類に分類し得る「龍」なれば、亀の重瞳例としてリンクさせておきたい。

「ロゼッテイは『眺めて我は汝(な)が心、汝(いまし)眼(まなこ)の影に見ぬ』と歌つた」原文は“Sang Rossetti: 'I looked and saw your heart in the shadow of your eyes.' Exactly converse is the Oriental thought. ”。私の愛するイギリスのラファエル前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti  一八二八年~一八八二年)の詩“Three Shadows”の一節(引用は“PoemHunter com.”を用いた)。現在では画家としての方が有名であるが、彼は詩人でもあった。

   *

   Three Shadows

I LOOKED and saw your eyes

In the shadow of your hair,

As a traveller sees the stream

In the shadow of the wood;

And I said, “My faint heart sighs,

Ah me!

to linger there,

To drink deep and to dream

In that sweet solitude.”

I looked and saw your heart

In the shadow of your eyes,

As a seeker sees the gold

In the shadow of the stream; 

And I said, “Ah me! what art

Should win the immortal prize,

Whose want must make life cold

And Heaven a hollow dream?”

I looked and saw your love 

In the shadow of your heart,

As a diver sees the pearl

In the shadow of the sea;

And I murmured, not above

My breath, but all apart,—

“Ah! you can love, true girl,

And is your love for me?”

   *

平井呈一氏は『君がまなこの影ふかく、君が心をわれは見ぬ』と訳しておられる。

「日本の戀人は『眺めて汝(いまし)が眼の影に、我が有つ佛を我は見ぬ』と言つたであらう」原文は“A Japanese lover would have said: 'I looked and saw my own Buddha in the shadow of your eyes.”。平井呈一氏は『君がまなこの影ふかく、おのが仏をわれは見ぬ』と訳しておられる。

「自我は、シヨオペンハウエルが驚嘆すべくも述べて居るやうに、意識の暗黑點なので、恰も視神經が眼に入る點は、物が見えぬのと同じである」この「暗黑點」は瞳孔から始まって眼球・視神経・「物が見えぬ」とある以上、平井氏のように『盲点』(盲點)と訳すのが相応しい。

「アアトマン」「アアトマンとは、個々の靈がそれから出て來る最高の大靈の名」アートマン(ātman)はサンスクリット語で、インド哲学に於ける「自我」に相当するものを指す語。「我(が)」と漢訳された。以下、平凡社「世界大百科事典」の前田専学氏の記載を引く(コンマを読点に代えた)。原義については諸説があるが、『本来は〈呼吸〉を意味したが、転じて生命の本体としての〈生気〉〈生命原理〉〈霊魂〉〈自己〉〈自我〉の意味に用いられ、さらに〈万物に内在する霊妙な力〉〈宇宙の根本原理〉を意味するに至ったと、一般に考えられている。インドにおいては、すでに《リグ・ベーダ》の時代から、宇宙の原因が執拗に追求され、多くの人格神や諸原理が想定された。ウパニシャッドの時代になると人格神への関心はうすれ、もっぱら非人格的な、抽象的な一元的原理が追求されるようになった。この結果到達された諸原理のうち、最も重要なものはブラフマンとアートマンである。ウパニシャッドの哲人たちは、個人の本体であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)とは同一である、すなわち〈梵我一如〉であると説いた。ウパニシャッド以来、アートマンの問題はインド哲学の主要な問題の一つとされ、インド哲学史には、アートマンの存在を認める流れと認めない流れとの二大思潮がある。前者の代表は正統バラモンの哲学体系の一つであるベーダーンタ哲学であり、その中でもとくに、梵我一如の思想を発展させた不二一元論によれば、アートマンすなわちブラフマン以外の一切はマーヤー(幻影)のように実在しないという。サーンキヤ哲学とヨーガ哲学においては、アートマンすなわちプルシャを、宇宙の質料因としての根本物質プラクリティから全く独立した純粋に精神的原理とみなし、二元論の立場をとった。後者の代表は、縁起説の立場から無我説を主張した仏教である。唯物論者もまた、精神的原理としてのアートマンの存在を否定した。有我説の立場においては、肉体は死とともに滅するが、アートマンは不滅であり、死後は輪廻の主体となって、過去の業(ごう)にふさわしい身体を得て、再生すると信じられている』とある。以上からお分かりの如く、ここではハーンが謂うのは、そのアートマンとブラフマン(brahman)の「梵我一如(ぼんがいちにょ)」、等価同一の意識体に基づくものである。] 

 

ⅩⅩⅤ.

   Of the word hotoke (which becomes botoke in such compounds as nure-botoke, [12] gaki-botoke) there is something curious to say.

   Hotoke signifies a Buddha.

   Hotoke signifies also the Souls of the Dead,— since faith holds that these, after worthy life, either enter upon the way to Buddhahood, or become Buddhas.

   Hotoke, by euphemism, has likewise come to mean a corpse: hence the verb hotoke-zukuri, 'to look ghastly,' to have the semblance of one long dead.

   And Hotoke-San is the name of the Image of a Face seen in the pupil of the eye,— Hotoke-San, 'the Lord Buddha.' Not the Supreme of the Hokkekyō, but that lesser Buddha who dwelleth in each one of us,— the Spirit. [13]

   Sang Rossetti: 'I looked and saw your heart in the shadow of your eyes.' Exactly converse is the Oriental thought. A Japanese lover would have said: 'I looked
and saw my own Buddha in the shadow of your eyes.

   What is the psychical theory connected with so singular a belief? [14] I think it might be this: The Soul, within its own body, always remains viewless, yet may reflect itself in the eyes of another, as in the mirror of a necromancer. Vainly you gaze into the eyes of the beloved to discern her soul: you see there only your own soul's shadow, diaphanous; and beyond is mystery alone — reaching to the Infinite.

 

   But is not this true? The Ego, as Schopenhauer wonderfully said, is the dark spot in consciousness, even as the point whereat the nerve of sight enters the eye is blind. We see ourselves in others only; only through others do we dimly guess that which we are. And in the deepest love of another being do we not indeed love ourselves? What are the personalities, the individualities of us but countless vibrations in the Universal Being? Are we not all One in the unknowable Ultimate? One with the inconceivable past? One with the everlasting future?

 

12
Nure-botoke, 'a wet god.' This term is applied to the statue of a deity left exposed to the open air.

13
According to popular legend, in each eye of the child of a god or a dragon two Buddhas are visible. The statement in some of the Japanese ballads, that the hero sung of had four Buddhas in his eyes, is equivalent to the declaration that each of his eyes had a double-pupil.

14
The idea of the Atman will perhaps occur to many readers.
 

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十四)

 

        二四 

 

 自分がオコリ(瘧卽ち間歇熱)、その輕い種類のは或る季節に或る地方に流行るが、そのオコリの原因に就いての異常な迷信を初めて耳にしたのは隱岐に居た時であつた。がこの妙な信仰は、出雲及び山陰道の多くの地方に、古くからある信仰だといふことを、後に知つた。これはあらゆる神祕を說明するのに佛敎を用ひた、その用ひ方の珍らしい一例である。

 オコリはガキボトケ卽ち飢餓に苦しんで居る精靈が起こすのだと言はれて居る。嚴密に云へばガキボトケは印度佛敎のプレタで、卽ち永久の飢渇の苦界たる餓鬼道に止まるやう處罰された靈魂である。が、日本の佛敎では、ガキといふ名は、生存者中にそのものを記憶して居る者が一人も無い、從つておきまりの食物や茶の供物をして吳れる者の無い靈魂にも與へられて居る。

 さういふ靈魂は苦しいから、生者の體內へ入つて暖みと滋養とを得ようとする。ガキに這入られる人は、ガキは冷たいものだから、初め非常に寒く感じて震へる。が、その寒氣(さむけ)の次に餓鬼が暖くなると、烈しい熱を感ずる。自分では嫌に思つて居る、その宿主のお蔭で暖たまつで滋養を吸ひ取つてしまうとその餓鬼は出て行く。で、熱は一時(いつとき)歇む。だが別な日に、丁度同じ刻限に、餓鬼は歸つて來るので、その犧牲者はその取つ附く奴が暖くなつて、その餓を滿足してしまふ迄は震へたり燃えたりしなければならぬ。その患者へ每日遣つて來る餓鬼もあり、一日置きに或はもつと間遠に遣つ來る餓鬼もある。筒單に言へば、如何なる種類の間歇熱も、その發作は餓鬼が居るからで、發作々々の間はそれが居ないからだと說明されて居るのである。

[やぶちゃん注:「オコリ(瘧即ち間歇熱)」「第十六章 日本の庭(一二)で既注。熱性マラリア。

「ガキボトケ」「プレタ」第八章 杵築――日本最古の社殿(二)で既注。ハーン小泉八雲は、好んでこの名を記す。

「オコリはガキボトケ卽ち飢餓に苦しんで居る精靈が起こす」これは例えば、既に鎌倉時代の橘成季の「古今著聞集」(原型は建長六(一二五四)年に成立)の「卷第十七 變化」の日本古典文学大系通し番号の第「五九六」話の「水餓鬼、五宮の御室の許にあらはれたる事」にそれを永遠に喉の渇き続ける餓鬼の一種である水餓鬼(みずがき)自らが語っている(下線部)。新潮日本古典集成版を恣意的に正字化して示す。

   *

 五宮の御室、しづかなる夕(ゆふべ)、ただいま御手水(てうづ)めして、ただ一所おはしましけるに、御簾をかゝげて、長(たけ)一尺七八寸ばかりなるものゝ、足一(ひと)つあるが、かほ・すがたさすが人のやうなりながら、かはほりのつらに似たる參りて、御前に候ひけるを、「あれはなにものゝ容態(ようだい)ぞ」と仰られければ、「をのれは餓鬼にて候ふなり。水にうゑたる事たへがたく候。世間に人のわづらひあひ候ふおこり心地と申し候ふ事は、おのれがいたす事に候。われと水を求め候へば、いかにも得がたく候ひて、人につきてそれが飮み候ふに飢ゑをやすめ候ふなり。しかあるをもろもろの人、君に申し候ひて、御手跡にても御念珠にてもをたまはり候ひて、身にふれ候ふものは、われにをかさるる事候はず。まして御加持など候ひぬれば、あたりへだにもよらず候。これにより候ひて水のほしう候ふ事たへしのぶべくも候はず。たすけさせおはしませ」と申ければ、いとをしくおぼしめして、「まことに聞くがごとくならば、不便なる事也。これより後こそ其心を得め」とて御盥(たらひ)にみづから水を入させ給ひてたまはせければ、うちうつぶきて、よによげにすばずばとみな飮みてけり。「なほほしきか」と問はせ給へば、「すべてあくときなく候」と申しければ、水生の印を結ばせ給ひて、御指を一口にさしあてさせ給へば、うれしげに思ひて、すいつき參らせけり。さるほどに、その御指より次第に御苦痛ありて御身までせきのぼれば、はらひすてさせ給て、火印をむすばせたまひければ、御心地もとのごとくならせ給にけり。

   *

この「五宮の御室」とは「ごみやのおむろ」と読み、平安後期の鳥羽天皇第五皇子で仁和寺第五世門跡となった覚性(かくしょう)入道親王(大治四(一一二九)年~嘉応元(一一六九)年)であるから、こうした瘧の餓鬼起因説は、既にして平安の後記には、一般的であったと考えてよかろう。「長一尺七八寸」背丈(但し、一本足)凡そ五十二~五十四・五センチメートルほど。「水生」(「すいしやう(すいしょう)」と読んでおく)及び「火印(くわいん)」は、真言密教に於いて。それぞれ、水と火熱を自在に操る印形(いんぎょう)。ここに出る「水餓鬼」なる変化(へんげ)は、しばしば、説話集や怪奇談の中に出、驚くべき量の水を飲んで飽きることがないと記され、諺にも「餓鬼の目に水見えず」(餓鬼は常に咽喉が渇き過ぎていて判断力を喪失しており、逆に側に水があっても気づかないという伝承から、熱望する余り却って求めるものが身近にあることに気づかぬことの譬えとして用いられるように、永遠の咽喉の飢渇というのが極めて一般的な「餓鬼」全体の属性であることが判る。ウィキ餓鬼には「水餓鬼」の記載はないが、「正法念処経」に載る三十六種の餓鬼を挙げている中に、「食水(じきすい)」餓鬼がおり、『水で薄めた酒を売った者、酒に蛾やミミズを混ぜて無知な人を惑わした者がなる。水を求めても飲めない。水に入って上がってきた人から滴り落ちるしずく、または亡き父母に子が供えた水のわずかな部分だけを飲める』とあり「曠野(こうや)」餓鬼は、『旅行者の水飲み場であった湖や池を壊し、旅行者を苦しめた上に財物を奪った者がなる。猛暑の中、水を求めて野原を走り回る』とある。他にも「無食(むじき)」餓鬼と称し、『自分の権力を笠に着て、善人を牢につないで餓死させ、少しも悔いなかった者がなる。全身が飢渇の火に包まれて、どんなものも飲食できない。池や川に近づくと一瞬で干上がる、または鬼たちが見張っていて近づけない』という悩ましい餓鬼の具体な個別罪因と、またまた、具体な処罰内容が記されている。実に面白い。お読みあれ。] 

 

ⅩⅩⅣ.

 

   It was in Oki that I first heard of an extraordinary superstition about the cause of okori (ague, or intermittent fever), mild forms of which prevail in certain districts at certain seasons; but I have since learned that this quaint belief is an old one in Izumo and in many parts of the San-indō. It is a curious example of the manner in which Buddhism has been used to explain all mysteries.

   Okori is said to be caused by the Gaki-botoke, or hungry ghosts. Strictly speaking, the Gaki-botoke are the Pretas of Indian Buddhism, spirits condemned to sojourn in the Gakidō, the sphere of the penance of perpetual hunger and thirst. But in Japanese Buddhism, the name Gaki is given also to those souls who have none among the living to remember them, and to prepare for them the customary offerings of food and tea. 

   These suffer, and seek to obtain warmth and nutriment by entering into the bodies of the living. The person into whom a gaki enters at first feels intensely cold and shivers, because the gaki is cold. But the chill is followed by a feeling of intense heat, as the gaki becomes warm. Having warmed itself and absorbed some nourishment at the expense of its unwilling host, the gaki goes away, and the fever ceases for a time. But at exactly the same hour upon another day the gaki will return, and the victim must shiver and burn until the haunter has become warm and has satisfied its hunger. Some gaki visit their patients every day; others every alternate day, or even less often. In brief: the paroxysms of any form of intermittent fever are explained by the presence of the gaki, and the intervals between the paroxysms by its absence.

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(31) 土蔵の効用/箕作佳吉結婚披露宴出席 / 第二十五章~了

 土蔵の内容は、屋根部屋や小屋のそれとよく似ていて、古い箱、笊、乾燥中の穀物、家の廃物等を、いつかは役に立つこと もあろうという倹約心から、棄てずに置いた物である。火事が起ると家の内容――それは要するに僅かな品になる――を、急いで土蔵に入れる。寝台、椅子、長椅子等は無く、書物がすこしある丈で、大切な絵や骨董品は常に土蔵に入っているのだから、これはすぐに出来る。すると戸を閉し、泥で空気の入らぬように密封する。泥は常々桶に入れて手近に置く。時として、商業区域などでは、店の前の地下に仕舞っておき、小さな揚蓋からそれを取るようにしてある。

 

 私は特別学生の一人、佐々木氏を訪問した。彼は数ヶ月前結婚したのだが、私は今日までそれを知らなかった。結婚ということは、日本人が決して喋舌らぬ出来ごとらしく、誰かが結婚したことは、必ず後で聞いて吃驚する事柄である。二日前、私は箕作氏に一軒の料理屋へ招かれた。彼の奥さんと、数名の友人とにあう為なのである。私は今や日本の生活に馴れ切って了って、それが我国の生活と違っていることを、容易に感じないようになった。この料理屋の大きな広々とした部屋には、家具が全然置いてなく、只両側と一端とに四角い箱が一列に並んでいる丈であった。箱の中では灰の中に炭火があり、箱一つについて一枚ずつ、やわらかい四角な座布団が置かれた。この上に人が坐るのである。部屋に入ると入口の左に箕作夫人が、多数の人と一緒にいた。私は膝をつき、両手を前に出し、頭を畳につけた。私にとってはこうすることが、完全に自然的に思われ、彼女も同じことをした。一人一人、到着すると名前が呼び上げられ、一人一人、花嫁にお辞儀をした。私は殆どすべての人を知っていた。そして、かかる会合の多くに於ると同じく、私が唯一の外国人であることに気がついた。やがてお膳にのった食物が出ると、芸者や小さな女の子達がお膳をくばり、酒を注ぎ、踊り、歌い、そして万事を愉快にした。退出する時、食物の手をつけなかった部分が、家へ持って帰るように、この上もなく清潔な箱に入って我々に与えられた。

[やぶちゃん注:この段、ちょっと判り難いが、「特別学生の一人、佐々木氏」が「数ヶ月前結婚した」ことと、その後の「二日前」にモースが「箕作氏」の結婚披露宴である「一軒の料理屋へ招かれた」こととは別記事である点に注意されたい。前者の「佐々木」は不詳(モースのかつての教え子で愛弟子であった佐々木忠二郎では「特別学生」という謂い方が気になり、違う人物のように私には思われる)。後者は明治一五(一八八二)年十二月二十三日にモースが招待された(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」二八二頁)、「後で聞いて吃驚」した、箕作佳吉の結婚披露宴に招待された折りのエピソードなのである。]
 

 
これを以って「
日本その日その日」E.S.モース(石川欣一訳)は残り、「第二十六章 鷹狩その他」一章を残すのみとなった。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(30) 東京女子師範学校全焼す

M739

図―739

 

 高嶺氏が校長をしている女子師範学校が焼け、古い支那学校に近い美しい会堂も焼けて了った。支那学校は幸にして助かった。この火事の熱は恐しい程で、消防夫が近づいて仕事をすることが出来なかった。消防夫が示す勇気は無限ではあるが、いくら勇気があっても、使用する適当な武器が無くては、何にもならぬ。図739は、この火事の時急いでした写生図である。

[やぶちゃん注:モース先生は正直、火事場がお好きで、即座に現場に趣き(消火後の火事場後整理も含まれる)、何枚も消火活動をスケッチされておられる。但し、ここにあるように火消しの勇気を讃えはするものの、龍土水のパワーの無さや、日本の延焼防止を主とした家屋破壊型の消火作業に対しては概ね前近代的で改良の余地がかなりあるといったスタンスを持っておられる。

「女子師範学校」現在の東京都文京区湯島にあった東京女子師範学校。明治七(一八七四)年に設立された官立師範学校で、この後の明治一八(一八八五)年に東京師範学校に統合され、その後の明治二三(一八九〇)年に女子高等師範学校として分離改組され、更に明治四一(一九〇八)年には東京女子高等師範学校に改称された、現在のお茶の水女子大学の旧制前身校である。

「支那学校に近い美しい会堂」東京に冥い私には不詳。識者の御教授を乞う。

「古い支那学校」湯島にあった旧孔子廟、湯島聖堂。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(29) アイヌの民具その他

 六百年にも近い、古い巻物で、ある寺院の立面図をパノラマ式に書いたものを見ると、食物をのせるための皿は、漆器である。これは古代、土陶工芸が、何故一向に進歩しなかったかの説明になる。この時代には、極めて貧困な人々だけが陶器を使用した。釉をかけぬ、旋盤(ろくろ)で廻した、あるいは手でこねた陶器は、埋葬場で供物用に用いられた。

[やぶちゃん注:この「六百年にも近い、古い巻物で、ある寺院の立面図をパノラマ式に書いたもの」はどこの寺院か不詳。明治一五(一八八二)年から単純逆算すると、一二八二年は元と高麗軍が対馬壱岐に来襲した弘安の役が起った鎌倉後期の弘安五年となる。識者の御教授を乞うものである。]

 

 アイヌの布や衣類をさがしていたら、永代橋の向うにある、ある場所へ行くといいといわれた。長い時間をついやし、何度も路を聞いた上、その家を見出すと、人々は私にアイヌの前掛その他を見せてくれた。値段を聞くと、只でくれるといって聞かぬ。それ等はピーボディ博物館へ行くのだといっても、同じことである。更に彼等は、十二月十九日に来れば、別のアイヌの品も見せるといった。それで今日また行くと、彼等はアイヌの着物と、脛(すね)当てと、針箱と、もう一つの前掛とを出して見せた。が、又しても彼等は断じて売ろうとせず、それ等を私に、ピーボディ博物館への贈物としてくれた。私は彼等につまらぬ贈物をし、日曜日に彼等を大学の博物館へ招き、その後私の気楽な寓居でお茶と酒とを出すことにした。この人々を私はまるで知っていない。これによっても、日本人が如何に大まかであるかが知られる。

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図―733

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図―734

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図―735

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図―736

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図―737

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図―738

 

 そこには、アイヌの錨の模型(図733)、本物の舟の水くみ(図734)、柄の長さが十五フィートの重くて不細工なアイヌのしやくい網(図735)、それからアイヌの漁船の模型(図736)があった。これ等はすべて上野公園の教育博物館へ行くものである。舟で奇妙なことは、各片を木造の釘でとめ合わせずに、紐でかがり合わせたことである。これは私が函館や小樽内で見たものと、大きに違っている。私の見たのは、日本の舟を真似てつくつたのだからである。図737は、アイヌが舟から荷造場まで魚を運んで行く籠を示す。これは簡単な籠を板に取りつけた丈のもので、この板をまた、漁夫の背中に結びつける。私は鮭の皮でつくったアイヌの靴(図738)を一足貰った。脚部が非常に大きいので、足部が非常に小さく見える。脚部にも足部にも藁をつめ、足をあたたかくするとのことである。これ等の靴は、石狩川でアイヌが使用する。

[やぶちゃん注:「十五フィート」四・五七メートル。

「しやくい網」杓取り網。

「小樽内」ウィキの「小樽には、『おたる」の地名はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」(砂浜の中の川)に由来する』。『しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではなく、現在の小樽市と札幌市の境界を流れる星置川の下流、小樽内川(現在の札幌市南区にある小樽内川とは別)を示していた。河口に松前藩によってオタルナイ場所(場所請負制を参照)が開かれたが、冬季に季節風をまともに受ける地勢ゆえに不便な点が多かったため、風を避けられ、船の係留に適当な西方のクッタルウシ(イタドリが生えるところ)に移転した。しかしオタルナイ場所の呼称は引き続き用いられ、クッタルウシと呼ばれていた現在の小樽市中心部が、オタルナイ(小樽内、尾樽内、穂足内)と地名を変えることになる。現在の小樽市域にはこの他、於古発(オコバチ)川以西のタカシマ場所、塩谷以西のヲショロ場所も開かれていた。これら三場所は、後にそれぞれ小樽郡、高島郡、忍路郡となっている。また、これら三場所と渡島国や道外の間には北前船の航路も開かれていた』とあるが、モースの謂いは現在の小樽市中心部を指していると考えてよいであろう。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(28) モース先生、義太夫節を鑑賞す

 今日(十二月十六日、日曜日)、私は矢田部教授の招待によって、日本音楽、講談その他を聞きに、川の向うの古屋敷の会館へ行った。この三月、八十人ばかりの会員を有する倶楽部が設立され、社交的の会合に、はじめて淑女と紳士とを一緒にすることを目的とするのである。入って行って畳の上に坐ると、三十人ばかり、私の知っている人が、それぞれお辞儀をした。私の日本人の友人の多くが会員で、その中には高嶺夫人、高嶺若夫人、菊池夫人、菊池教授の小さい妹、服部、外山、小泉、松原、箕作の諸教授等もいる。会員は一人ずつお客様を招く権利を持っているので、その結果百人にあまる気持のいい、愉快な人々――はきはきした、教養のある男女と、少数の可愛らしい子供達――が、一堂に会したのである。会場は広い、がらりとした部屋で、聴衆は畳の上に坐り、お茶を飲んだり煙草を吸ったりした。会場の一端には、僅に上げた演壇、というよりむしろ長くて低い机に、赤い布をかぶせた物が置かれ、この上に演技者が坐ることになっている。第一が音楽で、琴二つ、三味線一つ、笛に似た楽器が一つ。次が話し家で、私には時々彼の言葉が判った丈であるが、話の中の異る人々を表現する彼の各種の身振は、見ていても面白かった。まごついた男は指を組み合わせる。田舎者の表情、絶間なく我鳴(がな)り立てる老婆――それ等は実に完全に表現され、皆を笑わせた。異った声の真似が、実に強く、そして即座になされるので、目を閉じていると三人の、別々な人が話をしているように思われる。時々、広場にある大きな天幕(テント)の横を通り過ぎると、その内から、まるで何人かが議論しているような音が聞えて来ることがある。内を見ると話し家が一人、周囲には一語も聞き落すまいとして、時々驚いて哄笑する聴衆が、彼の話に聞きほれている。婦人や娘達は、決してかかる場所へ行かぬ。我国でも弁士的の行商人を取りまく群衆中に、絶対に、あるいは極く稀にしか、婦人を見ぬと同じく、かかる場所へ行くことは、婦人に適さぬことになっている。

[やぶちゃん注:「十二月十六日、日曜日」誤り。明治一五(一八八二)年十二月十六日は土曜日である。この日は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」には『東京生物学会に出席』とある。ここに描かれるのは、その日の夜に行われた宴会か或いは翌十七日日曜のそれか。浄瑠璃の太夫や囃方、講談師や噺家も来ている様子である。

「矢田部教授」既出既注の植物学者で詩人でもあった東京大学植物学教授矢田部良吉。以下多くは既出既注の人物なので、肩書と姓名のみを記すこととする。

「川の向うの古屋敷の会館」川向うとは隅田川の向こうとしか考えられぬが、東京に冥い私には不詳である。識者の御教授を乞う。

「はじめて淑女と紳士とを一緒にすることを目的とする」「社交的の会合」不詳。識者の御教授を乞う。

「高嶺夫人、高嶺若夫人」これは誤ってダブって書いてしまったものか、或いは、東京師範学校校長高嶺秀夫の夫人は若くて美しく、英語も喋ることが出来て、恐らくモースも好感を抱いていた人物であるから、かくも衍字的に表現してしまったに過ぎないものと思う。或いは単に前の方は“Mr.”の誤りかも知れぬ。

「菊池教授」東京大学理学部数学教授菊池大麓。

「服部」東京大学幹事服部一三。

「外山」東京大学心理学及び英語教授外山正一。

「小泉」不詳。本書の過去の記載にも、「小泉姓」の東大教育関係者はおらず、磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の「人名索引」にも「小泉」姓は掲載しない。識者の御教授を乞う。

「松原」駒場農学校水産学教授松原新之助か。当時、彼は東大助教授でもあった可能性がある。

「箕作」東京大学生物学教授箕作佳吉。

「笛に似た楽器」原文は“a flute-like instrument”であるから、次段からの推定であるが、浄瑠璃囃子方の篠笛であろうか。]

M732

図―732

 

 これが済むと、日本では非常に一般的な、一種異様な話が始った。これでは語り手は、彼の一部分を話し、一部分を歌う。もう一人の演技家が三味線で伴奏を弾くが、それにまた、話の役割に適した、奇妙な咽喉声や、短い音や、高いキーキー声や、畷泣の音や、吃驚したような叫び声に至る迄を含む、実に並外れなかけ声が加わる。変ではあるが人々は、この種の哀れな話を聞いて、涙を流す程感動させられる。この形式の講釈を聞く人は、それがこの上もなく莫迦げているという印象を受ける。馴れるに従って、どうやら、苦痛、怒、失望その他の情をあらわす声の助演の理由が判って来るが、それを記述することは、とても出来ない。三味線もまた、絃を震動させながら指を上下に動かすことによって、漸強音、畷泣、突発的な調子、気味の悪い調子等の、あらゆる音を出すので、大切な助奏器を構成する役を持っている(図732)。この礼儀正しく、教養ある聴衆が、かくもしとやかに、静粛に、そして讃評的であったことは、興味も深く、また気持よかった。彼等は一人ずつ入って来ると、畳の上に坐り、あちらこちらお辞儀をした。

[やぶちゃん注:これは明らかに浄瑠璃(浄瑠璃語り)の太夫(現行の文楽(文楽節)では「大夫」と表記)と三味線である江戸末期から明治にかけては一般庶民の間でも義太夫節を習うのは流行った。なお、文楽(人形浄瑠璃)の方は江戸初期には成立したと考えられ、太夫では竹本座を大坂に開いた竹本義太夫、作者では近松門左衛門や紀海音といった人気作家が次々と名作を発表、一時は歌舞伎を凌ぐ人気を誇り、平賀源内(筆名は福内鬼外)らによって江戸浄瑠璃も生れたりしたものの、江戸後期になると歌舞伎に押されて衰亡しかけた。それを初世植村文楽軒(宝暦元(一七五一)年~文化七(一八一〇)年が高津橋南詰(現在の大阪市中央区)に人形浄瑠璃専用の一座を作って再興、三世(四世とも)植村文楽軒(後の文楽翁 文化一〇(一八一三)年~明治二〇(一八八七)年)が明治五(一八七二)年に松島(現在の大阪市西区)にこれを移して「文楽座」を名乗った(後の明治一七(一八八四)年には御霊(ごりょう)神社(現在の大阪市中央区淡路町)境内に移る)。但し、文楽座も後継者を育成出来ず、明治四二(一九〇九)年には松竹株式会社経営が移譲されている。この頃(明治末期)には、この文楽座が唯だ一つの人形浄瑠璃専門の劇場となっており、その存亡の危機を迎えてもいたのである(以上は主にウィキの「文楽」を参考にした)。]

2015/12/05

暫く

お別れする――

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十三)

 

       二三 

 

 外國人の眼には出雲の住宅すら盜人に對するその防禦は馬鹿げて見える。この帝國の東部の諸市では竹の棒で造つた忍びがへし(シユボオ・ド・フリイズ)が廣く用ひられて居るが、出雲ではこれは餘り見かけぬし、またそれが設けられて居る建物の眞に弱點たる處を守りはせぬ。外側の壁や垣についていへば、それはゞ目隱しか裝飾的境界の用を爲すだけで、誰でもその上へ登れるのである。その上また尋常普通の日本家屋へは、誰でも懷小刀一挺で道を切開いて入つて行くことが出來る。アマドは柔い木で造つた橫へ辷る薄い目隱しで、ただの一擊で容易く破れるものであるし、出雲の大抵な家では力强い一と引つ張りに抵抗の出來る錠は無いのである。尤も日本人自らもその木造の板壁が夜盜に對して無效な事を充分知つて居るから、その費用の出せる者は皆んなクラを建てる。クラといふは非常に厚い土の壁があり、素敵に大きな海老錠で締まる狹い重い戶があり、屋根に近く高い處に、鐡棒の棧のある非常に小さな窻が一つある、火に耐へ且つ(日本では)殆んど夜盜に耐へる重い小さな建物である。クラは白く塗つてあつて外觀は甚だ小綺麗である。が然し黴び易くもあり、暗くもあるから住宅には使用出來ないもので、たゞ貴重品の貯藏所たる用を爲すだけである。クラの物を盜むのは容易では無い。

 が、邸內に立派な番犬が居でもすればいざ知らず、出雲の住家へ『どろばうに』入るには骨は折れぬ。盜人はその計畫の途に橫たはる困難は、入(は)いり終せた後に遭遇しさうな事柄だけだといふことを知つて居る。その困難を考へて居るから、盜人は普通刀を携へて居る。

 が然し、盜人は刀の使用を必要とするやうな危地に身を置くことは欲しない。そこでそんな不快な萬一を避けんが爲めに魔法の助を藉りる。

 邸內をあるき𢌞つてタラヒ――一種のタツプ――を探す。一つ見つけると、庭の或る處で口にしがたい或る動作をやつて、裏返しにした盥で其處を蔽ふ、これが出來れば不思議な眠がその家の者總てを襲ひ、自分の好きなどんな物でも、音も聞かれず姿も見られずに、持逃げることが出来ると信じて居る。

 が、出雲の家では誰もその魔法をほどく魔法を知つて居る。每晩、休む前に、用心深い家婦はハウチヤウ(臺所用のナイフ)が臺所の床板の上に置いてあつて、それヘカナダラヒ(金屬製の洗ひ鉢)がかぶせてあつて、その裏返しにされた底の上にザウリといふ音を立てぬ藁製のサンダルが片足分、これ亦裏返しにして載せてあるかどうかを確める。この一寸した魔術は盜人の魔力を無效ならしめるのみならず、盜人に――假令や姿を見られず音を聞きつけられずに家に入り終せても――何物も特ち去ることを得ざらしめるものと家婦は信じて居る。が、實際非常に疲れてでも居なければ、家婦は晩に雨戶を締める前に、盥が家の中へ取入れてあるかどうかをも注意して見るのである。

 さういふ(善良な家婦が主張する所の豫防の)手段を怠つたが爲めに、若しくはさういふ手段を講じたにも拘らず、一家の者が眠つて居る間にその家へ盜人が入ると、翌朝早くその夜盜の足跡の穿鑿をして、その足跡一つ一つへ灸【註】をすゑる。斯うやると、その夜盜の足が遠くへ走れぬ程に痛くなり、容易く警官に捕へられると望まれ、或は信じられて居る。

    註。モクサは英語のマグワアト・プ
    ラントの日本名モエクサ卽ちモグサ
    (燃える草)の訛である。その纎維
    の小さく圓錐形にしたのをつて漢方
    に據つて燒物に用ひるのである。そ
    の小さな圓錐形を患者の皮膚の上ヘ
    置いておいて、火をつけ、盡きるま
    で燃ゆるに委す。その結果は深い痕
    になる。モクサは醫治に用ふるのみ
    ならずいたづら子の罰にも用ひる。
    これに就いてはチエンバレン敎授の
    『日本のことども』のうちにあるあ
    の興味深い註を一讀されたい。

[やぶちゃん注:「忍びがへし(シユボオ・ド・フリイズ)」の「シユボオ・ド・フリイズ」はルビ。原文はChevaux-de-frise。これは、フランス語で、“Chevaux”は「馬」の意の“Cheval”の複数形、“frise”は柱の上部構造の一部である「小壁」を意味するが、フランス語の辞書では“Cheval de frise”で軍事用語の拒馬(きょば)・防柵、移動可能の鉄条網の類とあり、本来は木枠に取り付けた有刺鉄線や釘から成る移動可能な障害物で出来た、主に敵の通過を防ぐために道路などの封鎖目的に用いる防御構造器具を指す語である。本邦では可動式のそれは「拒馬」と称し、戦国時代に作られた移動出来ないそうした目的の柵は特に「馬防柵(ばぼうさく)」と呼ばれた。敢えて音写するなら、「シュヴォゥ・ドゥ・フルィーズ」であろう。

「口にしがたい或る動作」御存じとは思うが――脱糞――である。これは泥棒に入った盗人の迷信として古くから本邦にあるジンクスで、「自分のひった糞が温かいうちは捕まらない」というものである。 これはプラグマティクには、盗みに入った場合、つい欲が出て長時間に亙って物色しがちでになるが、家に忍びこんだら、家人が目を覚まさぬうちに、即ち、ひった大便が冷めないうちに、手早く短時間で仕事を済まるのが得策という極めて現実的な戒めがルーツであったらしい。誰の書いたものであったか、忘れてしまったが、ごく近代の作家の作品に(実は、書物も作者も、ほぼ想定がされているのだが、書庫の藻屑となって沈み、取り出せないだけであるのだが)、家が貧しく、そこに馬鹿な盗人が入り、盗むものがなく、腹いせに部屋の真ん中に糞がしてあったのを子供時代に見て、訳が分からない乍ら、ひどく哀しい思いをしたという叙述を読んだことがあった。読んだ遠い昔、見もしないのに、その情景と臭いが確かに浮かんではかおってきて……確かに――それはほんに哀しい――という気がしたことを……私は、思い出した……

「タツプ」タブ。バスタブの「タブ」である。最早、原音の方が判りが良くなった。

「マグワアト・プラントの日本名モエクサ卽ちモグサ」キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii。この訳は、これまでの本書での訳基準からは、まるで、学名のカタカナ表記のように読めてしまい、よろしくない。原文は“the mugwort plant”で、「ヨモギ類の植物」とすべきところである。“mugwort”は音写「マグワァート」で、キク科ヨモギ属 Artemisia に属するところの、西洋に於ける数種を含む雑草の一般的総称名に過ぎない。さらに、ウィキモグサ(これは狭義の本邦で「艾(もぐさ)」の用いられるヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii についての記載ページである)には、『英語では Japanese mugwort とも呼ばれるが英語の mugwort とは異なることがあるので注意が必要』とわざわざ記載さえあるである。ウィキには(前の狭義の植物の「モグサ」とは異ない、ヨモギの葉の裏にある繊毛を精製した主に灸に使用されるものを解説したページなので注意)『西洋語にも moxa として取り入れられている』とし、五月から八月頃に『よく生育したヨモギの葉を採集し、臼で搗(つ)き、篩にかけ、陰干しする工程を繰り返して作られる。点灸用に使用される不純物(夾雑物)のない繊毛だけの艾を作るには、多くの手間暇がかかるため、大変高価である。高級品ほど、点火しやすく、火力が穏やかで、半米粒大のもぐさでは、皮膚の上で直接点火しても、心地よい熱さを感じるほどである』とし、その主成分は『毛茸(葉裏の白い糸、T字形をしているのでT字毛とも呼ばれる)と線毛(芳香成分として精油(テルペン、シネオール、ツヨン、コリン、アデニン)、タール)』及び凡そ、十一%の水分・六十七%の線維・十一%の蛋白質等の有機物・四~五%の類脂質(脂肪)・四~六%の無機塩類(灰分)・ビタミンB・ビタミンCなどで構成される、とある。因みに私は、残念なことに、御灸の実際経験は、ない。] 

 

ⅩⅩⅢ.

 

   To foreign eyes the defences of even an Izumo dwelling against thieves seem ludicrous. Chevaux-de-frise of bamboo stakes are used extensively in eastern
cities of the empire, but in Izumo these are not often to be seen, and do not protect the really weak points of the buildings upon which they are placed. As for outside walls and fences, they serve only for screens, or for ornamental boundaries; anyone can climb over them. Anyone can also cut his way into an ordinary Japanese house with a pocket-knife. The amadō are thin sliding screens of soft wood, easy to break with a single blow; and in most Izumo homes there is not a lock which could resist one vigorous pull. Indeed, the Japanese themselves are so far aware of the futility of their wooden panels against burglars that all who can afford it build kura,— small heavy fire-proof and (for Japan) almost burglar-proof structures, with very thick earthen walls, a narrow ponderous door fastened with a gigantic padlock, and one very small iron-barred window, high up, near the roof. The kura are whitewashed, and look very neat. They cannot be used for dwellings, however, as they are mouldy and dark; and they serve only as storehouses for valuables. It is not easy to rob a kura.

   But there is no trouble in 'burglariously' entering an Izumo dwelling unless there happen to be good watchdogs on the premises. The robber knows the only difficulties in the way of his enterprise are such as he is likely to encounter after having effected an entrance. In view of these difficulties, he usually carries a sword.

   Nevertheless, he does not wish to find himself in any predicament requiring the use of a sword; and to avoid such an unpleasant possibility he has recourse to magic.

   He looks about the premises for a tarai,— a kind of tub. If he finds one, he performs a nameless operation in a certain part of the yard, and covers the spot with the tub, turned upside down. He believes if he can do this that a magical sleep will fall upon all the inmates of the house, and that he will thus be able to carry away whatever he pleases, without being heard or seen.

   But every Izumo household knows the counter-charm. Each evening, before retiring, the careful wife sees that a hōcho, or kitchen knife, is laid upon the kitchen floor, and covered with a kanadarai, or brazen wash- basin, on the upturned bottom of which is placed a single straw sandal, of the noiseless sort called zōri, also turned upside down. She believes this little bit of witchcraft will not only nullify the robber's spell, but also render it impossible for him—even should he succeed in entering the house without being seen or heard—to carry anything whatever away. But, unless very tired indeed, she will also see that the tarai is brought into the house before the amado are closed for the night.

   If through omission of these precautions (as the good wife might aver), or in despite of them, the dwelling be robbed while the family are asleep, search is made early in the morning for the footprints of the burglar; and a moxa [11] is set burning upon each footprint. By this operation it is hoped or believed that the burglar's feet will be made so sore that he cannot run far, and that the police may easily overtake him.

 

11
   Moxa, a corruption of the native name of the mugwort plant: moe-kusa, or mogusa, 'the burning weed.' Small cones of its fibre are used for cauterizing, according to the old Chinese system of medicine,
the little cones being placed upon the patient's skin, lighted, and left to smoulder until wholly consumed. The result is a profound scar. The moxa is not only used therapeutically, but also as a punishment for very naughty children. See the interesting note on this subject in Professor Chamberlain's Things Japanese.

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(27) アイヌその他の煙管

M731

図―731

 

 私は松浦竹四郎が私にくれた、蝦夷と樺太の煙管(きせる)の写生図を、ここに出す。彼がつくったそれ等の略図を、私は正確に写した。朝鮮の煙管は、日本やアイヌのそれに比較して、余程雁首が大きいが、それ以外の点は大きに似ている。三百年も前の日本の版画を見ると、日本人が非常に一般的に使用し、その後の版画にはくりかえして出ている煙管がまるで出て来ない。これは面白いことである(図731のAは鉄製の古い日本の煙管。B、Cはアイヌ。Dは満洲。Eは樺太)。

[やぶちゃん注:モース先生、悪筆なれば、老婆心乍ら、注しておくと、一番上の左右に長い煙管が「B」、一番下左右に並ぶ二種の煙管先が樺太の「E」。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(26) 拳遊び

M730

図―730

 

 私は子供達が非常な勢で、両手を使ってする遊びをしているのを見た。駄句を奴鳴り終えると、彼等は手を三度叩いて、「裁判官」「狐」「狩人」の身振をする。私は彼等にその文句をゆっくりいって貰って書き取り、手のいろいろな形を写生した。私の聞き得た程度で、文句は次の如きものである――

[やぶちゃん注:以下、底本の字配を操作した。]

 イッケン キ ナ セイ      (一度遊ぼう)

 チョ ビスケ サン        (小さいさん。小指を意味する)

 ジャノメ ノ カラカサ      (蛇目の傘)

 サン ガイ エ デ        (家の第三階)

 シチ ク デッポー ゴ サイ ナ (?)

 ム チッポー デ         (鉄砲無し)

 ヨイ! ヤ! ナ!        (?)

 図730はこれをいいながらする手の形を、ざっと写生したものである。

[やぶちゃん注:『彼等は手を三度叩いて、「裁判官」「狐」「狩人」の身振をする』これは狐拳(きつねけん)と呼ばれる、じゃんけんなどと類似した、狐・猟師・庄屋の三すくみの関係を用いた拳遊びの一種。藤八拳(とうはちけん)・庄屋拳(しょうやけん)・在郷拳(ざいきょうけん)とも呼ばれる。庄屋の権力が生活上行政上では消失したため、近代化して「裁判官」になったものである(以下、「庄屋」を「裁判官」に読み換えられたい)。ウィキの「狐拳」によれば、『狐は猟師に鉄砲で撃たれ、猟師は庄屋に頭が上がらず、庄屋は狐に化かされる、という三すくみの関係を、腕を用いた動作で合わせて勝負を決する』。『通常は二人が向かい合い、正座して行なう。それぞれの手の姿勢は』、

・「狐」は『掌を広げ、指を揃えて頭の上に相手に向けて添え、狐の耳を模する』もの

・「猟師」は『両手で握り拳を作り、鉄砲を構えるように前後をずらして胸の前に構える』もの

・「庄屋=裁判官」は『正座した膝の上に手を添える』もの

で、『互いに思う手を出し合い、猟師は狐に勝ち、狐は庄屋に勝ち、庄屋は猟師に勝ちとなる。また狐拳には「狐、猟師、鉄砲」のバージョンもある』。『狐拳が登場する有名な作品として、十返舎一九の東海道中膝栗毛などがある』とある。

「図730はこれをいいながらする手の形を、ざっと写生したものである」これは十本の指の出し方で六種の異なる符号を意味する形態を表わしているから、恐らくは拳遊びの中でも、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に『長崎を通じて中国より伝来し酒席で遊ばれ、天保年間』(一八三一年~一八四四年)『に盛んになったといわれる』。「本拳(ほんけん)」と呼ばれる遊びの一変種であろう。それは『向かい合って座った二人の人がそれぞれに片手の五本の指の開縮で六変化をあらわし、二人の合計数をゼロから』十までの『中国語ですばやく答えあう』ものである(以上の引用はウィキの「本拳」から)。但し、モースが採取した拳遊びの掛け声は、現行のジャンケンの三すくみ系やそれ以外の派生的に生まれた各種じゃんけん(日本には数拳(本拳・球磨拳・箸拳など)及び三すくみ拳(虫拳・蛇拳・狐拳・虎拳など)がある)のそれを含んでいるように思われる。詳しくはウィキの「じゃんけん」及びそのリンク先を参照されたい。ともかくも、モースは一般的な「じゃんけん」に相当する英語の“Scissors Paper Stone”“Rock-paper-scissors”という語を原文に登場させておらず、子供らのそれらが、彼の知っているしれらとは異なった遊びだと思ったと考えた方がよく、それは恐らく、単純な三すくみ系を越えたものが多かったか、或いはそうモースには認識されたからと思われる。幾つかの、掛け声は聴き取りに不備があるように思われる。正確なものを復元出来る方は是非、御教授を乞うものである。]

ブログ760000アクセス記念は行いません――

先の11月23日に発生した意味不明の

一日で15623アクセス

によって、来週の頭には、
 
2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、760000アクセスを突破することとなると思われるが(近年、一日のアクセス数が有意に増加していることは事実で、ほぼ200から300、時に500超を示す)

今回の異常アクセスは、推定、ボットによるものであって、非常に不快である。
 
さらに来週は私用により、珍しく忙しい。されば、今までのキリ番記念テクストは行わないことに決した。悪しからず。

【2015年12月7日夜追記】本日、760000アクセスを突破していた(出先より帰宅後、これを記載す)。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(25)

 宮岡が泊りに来た。そしていろいろな話の間に、昔は、そして今でも迷信的な人は、人間が眠る時には、その魂がふらふら出て行くものと信じているといった。だから子供が眠る前には、彼が咽喉(のど)が渇いていようといまいと、とにかく水を一杯飲ませ、彼の魂がさまよい歩く間に咽喉を渇して、腐った水を飲むことを防ぐようにする習慣があると。

 

 私は宮岡に、彼の個人的経費について聞いた。彼の炭と油とを含む賄料は、一ケ月五ドル五十セントだとのことである。食物とては飯と野菜と魚とばかりであることは事実だが、それにしても、我国の物価にくらべると、何と安いではないか。高嶺氏の話によると、師範学校の使用人の多くは、家族を持っていながら、一日十五セントの日給で働いているそうである。

[やぶちゃん注:「宮岡」前段のみでなく、何度も出て来る既注のモースお気に入りの少年で、私的な助手兼通訳であった宮岡恒次郎(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)。彼はしばしば出て来る既注の竹中成憲の実弟で、当時の「根岸の里」(現在の日暮里)の竹中家に生まれたがその後、埼玉川越の宮岡家に養子に出た。明治一五(一八八二)年年末当時は満十七歳、彼は明治二十年東京帝国大学法科大学を卒業して外交官となっているから、この当時はまだ同予備門の最終学年か。]

 

 先日箕作(みつくり)教授と一緒に大学の構内から出て来ると、小便の一人が丁寧にお辞儀をして行き過ぎた。箕作氏は、この男は一八六八年の維新までは、武士よりも高く、大名のすぐ下に位する位置にいたのだと語った。維新の結果、彼は全然食って行けなくなり、只下男の役をつとめること丈しか出来なくなった。箕作教授は、これは封建制度のある点が如何に莫迦(ばか)げているかを示すいい例であり、同時に、これ等の人々が屢々、諦めと卑下とを以て奴僕の位置につく、辛抱強い態度を示し、また金を貰ったり借りたりするよりは、働いた方がいいと思っていることを、よく現しているといった。私は、人力車夫になった武士もあるということを聞いた。勿論高級な武士でなかったことは事実だが、それにしても彼等が働くというそのことは、我々の民族間に存在する、いつわりの誇が無いことを示している。私の実験室の雑役夫は一日に二十五セントを取り、それで神さんと、音楽の稽古をしている娘一人とをやしなっている。

[やぶちゃん注:「箕作教授」二度目のモースの帰国後に東京帝国大学理科大学最初の日本人動物学教授となった箕作佳吉(みつくりかきち 安政四(一八五八)年~明治四二(一九〇九)年)。津山藩藩医であった箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三男。既出の数学者で教育行政家の菊池大麓(だいろく)は兄である。江戸津山藩邸で生まれ、明治三(一八七〇)年に慶應義塾大学に入学、明治六(一八七三)年に渡米、ハートフォード中学からレンセラー工科大学で土木工学を学び、後にイェール大学からジョンズ・ホプキンス大学(この在学中の一八八〇年(明治十三年)春にモースは東大首脳から依頼されていたと思しい東大教授を箕作に勧めているが、この時点では固辞している。ここは磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」(二七二~二七三頁)に拠った)に転じて動物学を学んだ後、イギリスのケンブリッジ大学へ留学、帰国後に東京帝国大学理科大学に於ける日本人最初の動物学教授となり、明治二一(一八八八)年には理学博士となり、その後、東京帝国大学理科大学長を務めた。また、明治一六(一八八三)年五月からは母校慶應義塾大学に於いて理学講習会を持ち、教授もした。動物分類学・動物発生学専攻でカキ養殖・真珠養殖に助言するなど、水産事業にも貢献した(以上はウィキの「箕作佳吉」に拠る)。彼の縁者については「第十一章 六ケ月後の東京 1 モース、再来日す」の私の注で詳述してある。

「一八六八年」慶応三年十二月七日~慶応四年九月八日(「一世一元の詔」(慶応四年九月八日(グレゴリオ暦一八六八年十月二十三日)に慶応四年を改めて明治元年とするとともに天皇一代に元号一つという「一世一元の制」を定めた詔。「明治改元の詔」ともいう)によって慶応四年一月一日が明治元年一月一日に改元)され、旧暦慶応四年一月一日が遡って明治元年一月一日(グレゴリオ暦一八六八年一月二十五日)となった。明治の初めは旧暦が使用されたために明治元年の十二月は二十九日(小の月)で終り、これはグレゴリオ暦一八六九年二月十日に相当する。旧暦から新暦への移行が布告されたのは明治五年十一月九日で(グレゴリオ暦一八七二年十二月九日)、実際移行は二十三日後の、旧暦明治五年十二月三日=グレゴリオ暦一八七三年一月一日=明治六年一月一日となった。即ち、この年の旧暦の十二月(大の月)の十二月三日から三十日までの二十七日間は、日本の公的な暦上は存在しないことになったと言える。]

 

 昨日私は、ある町を通行した。そこからは五フィート以下の小さな路地が、いくつか横に入っていて、その路地の両側には住宅が立ち並んでいる。私にはそれが如何にもむさくるしく思われ、箕作は、そここそ東京で最も下等な最も貧しい区域だといった。私はゆっくり歩いて、順々にそれぞれの路地を検査した。私は声高い叫びも、呶鳴(どな)る声も聞かず、目のただれた泥酔者も、特に不潔な子供も見なかった。そして、この細民窟(スラム)ともいう可き場所――もっともここは細民窟ではない――で、手当り次第にひろい上げた百人の子供に就て、私は彼等がニューヨークの第五街の上で手当り次第にひろい上げる百人の子供よりも、もっと丁寧で物腰はしとやかに、より自分勝手でなく、そして他人の感情を思いやることが遙かに深いと敢ていう。

[やぶちゃん注:「五フィート」約一・五メートル。

「ニューヨークの第五街」ニューヨークの裕福さのシンボルで、永く世界で最も賃貸料の高い通りの一つとされるマンハッタン中央五番街“5th Avenue”(フィフス・アヴェニュー)のこと。]

 

 日本で生活していた間に、私はたった一度しか往来での喧嘩を見なかったが、それのやり方と環境とが如何にも珍しいので、私は例の如く、それを米国に於る同様のものと比較した。我国の往来喧嘩を記述する必要はあるまい。誰でも知っている通り、老幼が集って環をなし、興奮した興味を以て格闘を見つめ、ぶん撲れば感心し、喧嘩が終るか、巡査が干渉するかすれば、残念そうに四散する。日本の喧嘩では、二人が単に頭髪の引張り合いをする丈であった! 見物人は私一人。他の人々はいずれもこのような不行儀さに、嫌厭の情か恐怖かを示し、喧嘩している二人は、人々が事実避けて行くので、広い場所を占領していた。

 

 都会の家はたいてい瓦葺きだが、杮(こけら)葺きの家も多く、一歩出ると藁葺きの屋根も沢山ある。屋根が燃えやすいので、東京では大火事が度々ある。柿板はトランプの札みたいに薄く、藁葺屋根は火薬のように火を引きやすい。

[やぶちゃん注:「杮葺」は日本古来の伝統的な屋根葺手法の一つで、木材の薄板を用いて施工する板葺屋根のこと。狭義のそれは最も薄く、板の厚さは二~三ミリメートルの杮板(こけらいた)を用いたもののみに冠する(板厚が四~七ミリメートルのものは「木賊葺(とくさぶき)」、更に厚い十~三十ミリメートルのものは「栩葺(とちぶき)」と呼ぶ。)。因みに「杮(こけら)」と「柿(かき)」は全くの別字であるので注意されたい(私の教えて来た時代の高校生諸君は書道を習っていない者の殆んどが、「杮落とし」(こけらおとし)の「杮」を書かせると、「柿」(かき)の字と同じように書き、しかも同じ字であると思い込んでいる者が多数いたので、ここで特に注しておきたい)。「杮」(こけら)の字の方は(つくり)が「市」(いち)の字ではなく、「市(いち)」の一画目に相当する点が点ではなく、字全体を縦に貫く縱画なのである(「杮」(こけら)の書き順では最後の第八画目に相当する)。これに対し、「柿」(かき)では第五画目の点と最終九画目のその第五画の点から下へ提げる縦画の二箇所から(つくり)の縦状箇所を形成している。即ち、「杮」(こけら)は総画数八画、「柿」(かき)は総画数九画とで、画数も異なるのである。]

 

 私は数回柏木氏を訪れたが、今日はドクタア・ビゲロウと一緒に行った。彼は蒐集中の古い漆器の箱に、大きに興味を持った。はじめて土蔵の二階へ行って見たが、そこには時代のついた箱や、戸棚やその他の品が、一杯つまっていた。柏木氏は私が日本であった最も気持のいい人の一人である。彼はある質問に対しては、彼がそのことを知らぬというのを恐れず、また蜷川が何物にも正確な年代を与えようとつとめることに、賛成しない。柏木氏は古物に関する知識をすこぶる豊富に持っていて、先日懸物(かけもの)の上部から下っている二本の錦繡の帯に就て、最も合理的な説明をしてくれた。以前懸物は宗教的な意味を持っていた。それをかける時には、枠によって支持し、長い帯が後方にたれ、短い帯は前方にたらした。そしてまく時には、これ等の帯でしばったのである。社寺はあけっばなしで風が吹き通すから、懸物も枠から外すことなしにまかなくてはならなかった。今日懸物をまくには、それを取り外し、そして常に入れて仕舞っておく。彼は同じような帯で慢幕をしぼり上げた絵の入っている、古い本を私に見せた。長い帯は無くなったが、前面の短い帯は、上衣の後にある釦と同じように残っている。この説明が正確であることの証拠として、これ等の帯は「ふうたい」とも「かぜおび」ともいわれる。後者は風の帯を意味する。

[やぶちゃん注:掛軸の各部名称については、古美術商「高美堂」公式サイト内の掛軸各部名称取り扱い 掛軸のかけ方・しまい方・保管方法・取り扱いが画像付きで非常に分かり易い。

「錦繡」「きんしゅう」美しい錦(にしき)と刺繡(ししゆう)を施した美しい織物。「綾羅(りょうら)錦繡」(「綾」は綾絹(あやぎぬ)・「羅」は薄絹・「錦」は錦(にしき)・「繡」は刺繡を施した織物を指し、孰れも高貴な人が着る美しい衣服の素材)の四字熟語で用いることが多い。なお、美麗な衣服全体をも指し、また、紅葉や詩文の美しさの比喩形容にも用いる)。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(24)

 先夜私は、屋敷の召使いの子供である小さな女の子を二人連れて、お祭が行われつつある本郷通を歩いた。私は彼等に、銅貨で十銭ずつやった。どんな風にそれを使うかに興味を持ったのである。それは我国で、同様な場合、子供に一ドルをバラ銭でやったのと同じ様であった。子供達は、簪を売る店に、一軒一軒立ち寄り、一本五厘の品を一つか二つしか買わぬのに、あらゆる品を調べた。地面に坐って、悲しげに三味線を弾いている貧しい女――即ち乞食――の前にさしかかると、子供達は、私が何もいわぬのに、それぞれ一銭ずつを彼女の笊(ざる)に落し入れた。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(23) 洗い張り

 往来を歩いていると、よく女の人が、家や垣根に寄せかけた細長い板の上に、布を引きのばしているのを見受ける。この板の表面は非常にすべっこい。それは先ず、この目的で売られる、水に濡らすと寒天状の物質を出す、海藻でこする。湿った布をこの板の上に引きのばし、太陽で乾かす。板からはがすと、布は鏝(こて)をかけたように平に、糊をつけたようにピンとしている。我国で湿った手布(ハンカチーフ)を窓硝子(ガラス)に張りつけるのと同じ考である。また柄のついた、底を磨き上げた金属製の皿みたいな物もある。これには炭火を入れ、我々が平鉄を使用するようにして使用する。染め上げた布を乾かすには、両端を突起でとがらせた小さな竹の条片を使用して、二本の棒の間にかけた布を引き離す。単一な布に、これを非常に沢山使用する。

[やぶちゃん注:和服の洗い張りの解説。

「柄のついた、底を磨き上げた金属製の皿みたいな物」とは、和服伸ばしの火熨斗(ひのし)である。これは江戸中期に中国から入ったものであって近代の炭火アイロン(訳文の「平鉄」。原文の“flatiron”)以前からあった。

「両端を突起でとがらせた小さな竹の条片を使用して、二本の棒の間にかけた布を引き離す」これは「伸子(しんし)」或いは「籡(しんし)」(「しいし」とも)と呼ばれる布や反物を洗い張り或いは染織する際に用いる布幅を一定に保つ道具のことを指しているようでる。ウィキの「伸子」にれば、『形状は、両端を尖らせた、あるいは針を植えた細い竹棒(木棒)で』、『左右両端にぴんと張った布を固定、布を縮ませず、幅を保たせるように支える』とある、なお、『「籡」は国字(和製漢字)である』とある。]

近日二夢

二日前に見た夢――

僕には「青貝(あおがい)」という名の今二十代の教え子の女性がいる。
[やぶちゃん注:そんな教え子はいない。そんな姓の知り合いもおらぬ。「青貝」は青貝(螺鈿)細工のそれで、鮑・栄螺・真珠貝等の貝殻内面に真珠光沢を持つものを指す。直近で附注電子テクスト化作業をしているハーン小泉八雲の「知られぬ日本の面影」の前日のそれに「眞珠母の物品」の注で記したばかりであった。]

彼女は僕のことが好きだったらしく、今も結婚していない。
[やぶちゃん注:くどいが、実際にそんな独身の教え子はいない。]

彼女には目の見えない余命幾許もない祖母がいる。
靑貝が僕を訪ねて来て、僕に
「――祖母のために私と結婚式の真似事をして下さい――」
と懇願する。

僕は承諾してタキシードを着てウェディング・ドレスの青貝と教会で結婚式の真似事をする。
[やぶちゃん注:実際の私は結婚式を挙げておらず、タキシードを着用したことものない。]

青貝と一緒に彼女の祖母の前に二人で行き、僕は声をかけて握手をする――すると……

私の声は若き日の声に変わっていて、しかもその彼女の祖母と握手するために差し出した掌だけが、若い青年の手に変じていたのであった……

そのお婆さんは見えない目から嬉し涙を流して悦んでおられる…………

 
 

今朝の夢――

僕は昭和天皇の大葬の儀の祭詞奏上の式の場にあってその読み上げられた祝詞を一字一句洩らさぬように書き写す職務に携わっている。

[やぶちゃん注:調べてみると、新宿御苑で平成元(1989)年2月24日(1月8日改元)に執行された「大喪の礼」では祭官長を勤めた昭和天皇学友で侍従次長・掌典長であった永積寅彦氏が祭詞を読んでいる。]
 
神主の述べているその祝詞は異様に長いもので、しかもそれは暗誦されているものなのである。その前半部は僕の大学時分の友人が手掛けており、後半に入ってそれが僕の前に回されてきた。
[やぶちゃん注:実際は無論、書かれたもので、飯間浩明氏のサイト「ことばのページ」の「過ぎゆく月日も定かならで」によれば、古式の大和言葉で書かれたものであるらしい(全原文見ることは出来ないらしい)。]
 
ところが前半を見ると、漢字表記だけでその読みが全く附されておらず、これでは今上陛下と皇后さまがお読みになるのに、これでは親切でないと感じた。

しかも、誤った箇所を現今の白光沢の強い修正テープで多数直しており、筆者用の和紙に目立ってしまい、とても見苦しいのである。

ともかくも読みの振れる虞れのある表記部分には総て読みを振るべきだと僕は判断し、その作業にとりかかり出した。
 
しかし、どんどん祭詞は読み上げられてしまうのである。
 
僕は絶望的な気持ちになり乍らも、自分の脳にそれらを一字一句違わぬように記憶せねばならぬと、まさに悲愴な覚悟の中で筆を執っているのであった――(但し、毛筆でなく鉛筆であったところが如何にもちゃすかったのを覚えている)
[やぶちゃん注:この読みへのこだわりは、やはり現在進行中の小泉八雲の落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の注での僕の拘りの反映である。この電子化している底本には極めてルビが少ない。ところが、出現する地名などの中には、凡そルビを附さなければ読めない/百人が九十九人読み違える可能性の頗る高い語が頻繁に出現する(例えばあなたは、隠岐中ノ島の後鳥羽天皇の火葬塚「隠岐海士町陵」を「おきあまちょうのみささぎ」とすらすらと読めるか? 隠岐島後(どうご)にある「津井の池」の「津井」を「つい」ではなく「さい」と読めるか? 後醍醐天皇を祭神と祀る西ノ島別府の黒木神社を「くろぎじんじゃ」と読めるか? 四年前に隠岐に行く以前の僕どころか、今回電子化をするつい先日までの僕は凡そ読めなかったのである)。この夢は天皇の大葬などというご大層なシチュエーションも含め、この「知られぬ日本の面影」の「第二十三章 伯耆から隱岐ヘ」が頗る強く影響していることが、以上の僕の注から想像されるであろう。]
 

2015/12/04

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十二)

 

       二二 

 

 隱岐見物に行く餘程以前に、竊盜といふやうな犯罪は、その小群島の人達は知つてゐない、品物を仕舞ひ込んで置く事は未だ嘗て必要と思はれたことが無い、天氣さへ好ければ住民はその家を天つ風に開放して眠る、といふ事を自分は聞いてゐたのであつた。

 ところが注意深い硏究の後、この驚くべき叙述は餘程の程度まで眞實であることを知つた。少くとも島前の群島には盜人は一人も居ない、そして、實際に犯罪は一つも無い。三萬〇百九十六人といふ人目のある島前島後全體を取締るのに十人の巡査で充分である。巡査一人々々が數多の村をその監督の下に有つて居て、それを日を決めて規則正しく訪ねるのである。ところが、どんなに長い間そのうちの或る村に居ないでも、それに乘ずる者はあつたためしがないやうである。巡査の仕事は大抵は衞生法規を勵行することと、報告書を書くことに限られて居る。村の者は喧嘩もこれまで殆んどしないのだから、拘引の必要を見ることは減多に無い。

 島後の島だけにはこれまで一寸した竊盜があるので、隱岐のうちでも此處ばかりは盜人に對する用心をする。以前には監獄は無かつたので、竊盜といふことは嘗て耳にしかことはなかつたのである。で、今も島後の者は、そんな罪を犯して此島で拘引された少數の者も隱岐生れの者では無くて、本土から來た他國者だと主張して居る。西鄕の港が現時の如き重要な地位を占めないうちは、竊盜は隱岐に無かつたものといふ事は全く眞實らしい。西部日本の全商業が、帝國の他の部分との蒸汽船の交通の迅速な發展の爲め、增進をした。そして西鄕港はその新狀態の爲めに、商業上には利する所あつたが、道德上には損したらしく思へるのである。

 でも國法の犯罪は、西鄕に於てすら、今なほ驚く許りに少い。西鄕には監獄がある。自分がその町に滯在中に其處に入つてゐたものはあつた。が、その在監者は(その如何なる形式のものも日本の國法で嚴禁してある)賭博とか、或はもつと輕い法令に違犯したとかいふやうな輕罪に處せられたものだけであつた。重罪を犯すと、その犯罪者は隱岐では罰しないで、出雲の松江にある大監獄へ送るのである。

 が然し、島前は申分無しの正直といふ古昔ながらの評判を完全に維持して居る。その三つの島のうちでは、人間が記憶して居る範圍內では、盜人はこれ迄一人も無い。また大した口論も無く、喧嘩も無く、どんな人間にも人生を悲慘ならしめることが何一つ無い。土地は未開で荒涼たるものであるが、誰も彼も頗る氣持よく暮して行くことが出來る。食物は廉くて澤山あり、風俗習慣はその原始的單純を保つて居る。

 

ⅩⅩⅡ.

 

   Long before visiting Oki I had heard that such a crime as theft was unknown in the little archipelago; that it had never been found necessary there to lock things up; and that, whenever weather permitted, the people slept with their houses all open to the four winds of heaven.

   And after careful investigation, I found these surprising statements were, to a great extent, true. In the Dōzen group, at least, there are no thieves, and practically no crime. Ten policemen are sufficient to control the whole of both Dōzen and Dōgo, with their population of thirty thousand one hundred and ninety-six souls. Each policeman has under his inspection a number of villages, which he visits on regular days; and his absence for any length of time from one of these seems never to be taken advantage of. His work is mostly confined to the enforcement of hygienic regulations, and to the writing of reports. It is very seldom that he finds it necessary to make an arrest, for the people scarcely ever quarrel.

   In the island of Dōgo alone are there ever any petty thefts, and only in that part of Oki do the people take any precautions against thieves. Formerly there was no prison, and thefts were never heard of; and the people of Dōgo still claim that the few persons arrested in their island for such offences are not natives of Oki, but strangers from the mainland. What appears to be quite true is that theft was unknown in Oki before the port of Saigo obtained its present importance. The
whole trade of Western Japan has been increased by the rapid growth of steam communications with other parts of the empire; and the port of Saigo appears to
have gained commercially, but to have lost morally, by the new conditions.

   Yet offences against the law are still surprisingly few, even in Saigo. Saigo has a prison; and there were people in it during my stay in the city; but the inmates had been convicted only of such misdemeanors as gambling (which is strictly prohibited in every form by Japanese law), or the violation of lesser ordinances. When a serious offence is committed, the offender is not punished in Oki, but is sent to the great prison at Matsue, in Izumo.

   The Dōzen islands, however, perfectly maintain their ancient reputation for irreproachable honesty. There have been no thieves in those three islands within the memory of man; and there are no serious quarrels, no fighting, nothing to make life miserable for anybody. Wild and bleak as the land is, all can manage to live comfortably enough; food is cheap and plenty, and manners and customs have retained their primitive simplicity.

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(22) 変わった袖垣のある家

M729

図―729

 図729【*】は、私が毎日大学へ行く途中でその前を通る、一軒の賤しい家に就て行ったものである。この家の住人が、私に見せ度い陶器を持っているというので、それを箱から出している間に、私はこの写生をした。古い難破船の大きな破片が、一般的の効果の中に利き目をあらわしている興味ある方法は、一寸類が無い。材木の濃い灰色、鉄錆のあたたか味を帯びた赤い染、ふなくい虫があけた小さな孔、古色……それ等はすべて日本人が愛好する点なのである。すぐ後に便所の戸があるので、この舟の破片は袖垣の役をしている。私は屢々、縁側あるいは家の横から出た、長さは四、五フィートを越したことの無い、一種異様な垣根を見た。それは縁側から目ざわりになる物をかくすので、我々が真似しても役に立つ。それはソデガキと呼ばれる。カキは「垣根」で、音便でガキと変ったもの。ソデは「袖」、日本の衣服の袖に似た形をしているからである【**】。

 

 

* この絵は『日本の家庭』に出ているのだが、それが日本趣味の特質を示すものとして、そのもとの写生図をここに出さざるを得なかった。

** 私はこの袖垣を沢山出した日本の本を何冊か持っている。また『日本の家庭』には、日本の家庭で写生した袖垣がいくつか出してある。

[やぶちゃん注:この箇所、ある理由から原文を総て引いておく(注記記号を変更した)。

   *

   Figure 729 * is taken from a humble house that I passed every day on my way to the University. The occupant had some pottery he wished to show me, and while he was taking the pieces from the boxes I made the sketch. The interesting way in which a large fragment of an old shipwreck is worked into the general effect is unique. The rich, gray color of the wood with warm, red stains of iron rust, the little holes bored by Teredos, and the appearances of age are all features which the Japanese admire. The door of the latrine is just beyond and this ship fragment takes the place of the sode-gaki. I have often observed a peculiar fence which projects from the veranda, or from the side of a house, never more than four or five feet. It hides some objectionable features from the veranda, and we might adopt it with advantage. It is called sode-gaki. Kaki means "fence" and is changed to gaki for euphony; sode means "sleeve," it being shaped like the sleeve of a Japanese dress. **

 

* I cannot resist reproducing the original sketch, a drawing of which appeared in Japanese Homes, as most characteristic of Japanese taste.

** I have Japanese books giving many of these sleeve-fences, and in Japanese Homes I have figured a number of them drawn from the gardens here.

   *

「ふなくい虫」軟体動物門斧足綱真弁鰓目ニオガイ上科フナクイムシ科 Teredinidae に属する海産二枚貝の一種。多数の種がある。かつて高校教師時代の物理の教師でさえ、この穿孔痕を見て貝類だと私が言っても信じなかったぐらいだから、敢えて注しておきたい。以下、まずはウィキの「フナクイムシ」より。『水管が細長く発達しているため、蠕虫(ぜんちゅう)状の姿をしているが、二枚の貝殻が体の前面にある。貝殻は木に穴を空けるために使われ、独特の形状になっている』。『その生態は独特で、海中の木材を食べて穴を空けてしまう。木材の穴を空けた部分には薄い石灰質の膜を張りつけ巣穴にする。巣穴は外界に通じる開口部を持ち、ここから水管を出して水の出し入れをする。危険を感じたときは、水管を引っ込めて尾栓で蓋をすれば何日も生きのびることができる』。『体内の特殊な器官「デエー腺」(gland of Deshayes)内に共生するバクテリアの分泌する酵素によって、木のセルロースを消化することができる』以下、波部忠重先生の「続 原色日本貝類図鑑」(昭和三六(一九六一)年保育社刊)より。そこには日本産は十一属二十二種とある。殻の『球状角頭は小さな』三角形を成し、『それと殻體前部とは細い肋があってその上は鋸歯状で』、『殻体と殻翼ろは喰違って殻の内側に後内棚をつくる。殻頂の下から棒状突起が出ている。石灰質の棲管をつくり』、『種として木材に穿孔するが』、軟体部は細長く、『穿孔口の水管の出るところに栓の役をする尾栓』を持っており、この形状(矢羽状・麦穂状等)によって分類されてきた。同波部図鑑五種を挙げてあるが、その内でも、

 ヤツフナクイムシ Lyrodus siamensis

 フナクイムシ Teredo navalis

の二種が本邦産の『最も普通なフナクイムシで』木造船や木製桟橋等を食害するとある。

「四、五フィート」凡そ一・二から一・五メートル。

「この絵は『日本の家庭』に出ている」繰り返し出てくるJapanese Homes and Their Surroundings(一八八五年刊)の第二章の日本の「家屋の形態」の中の第四十九図に相当するものを指す。実際には本図よりもより緻密に描かれており、奥の景色もより明確に分かる。しかも当該図を語る本文も本書よりも遙かに詳細である。以下、原文と図(冒頭に配した。キャプションは“HOUSE IN TOKIO.”。図は二〇〇二年八坂書房刊の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」のものを用いた)を示す。

   *

Jh49

   In the cities nothing is more surprising to a foreigner than to go from the dust and turmoil of a busy street directly into a rustic yard and the felicity of quiet country life. On one of the busy streets of Tokio I had often passed a low shop, the barred front of which was never opened to traffic, nor was there ever any one present with whom to deal. I used often to peer between the bars ; and from the form of the wooden boxes on the step-like shelves within, I knew that the occupant was a dealer in old pottery. One day I called through the bars several times, and finally a man pushed back the screen in the rear of the shop and bade me come in by way of a narrow alley a little way up the street. This I did, and soon came to a gate that led me into one of the neatest and cleanest little gardens it is possible to imagine. The man was evidently just getting ready for a tea-party, and, as is customary in winter, the garden had been liberally strewn with pine-needles, which had then been neatly swept from the few paths and formed in thick mats around some of the shrubs and trees. The master had already accosted me from the verandah, and after bringing the customary hibachi, over which I warmed my hands, and tea and cake, he brought forth some rare old pottery.

   The verandah and a portion of this house as it appeared from the garden are given in fig. 49; At the end of the verandah is seen a narrow partition, made out of the planks of an old ship ; it is secured to the side of the house by a huge piece of bamboo. One is greatly interested to see how curiously, and oftentimes artistically, the old worm-eaten and blackened fragments of a shipwreck are worked into the various parts of a house, — this being an odd fancy of the Japanese house-builder. Huge and irregular-shaped logs will often form tlie cross-piece to a gateway ; rudder-posts fixed in the ground form the support of bronze or pottery vessels to hold water. But fragments of a shipwreck are most commonly seen. This wood is always rich in color, and has an antique appearance, — these qualities commending it at once to the Japanese eye, and rendering it,

with its associations, an attractive object for their purposes.

   In the house above mentioned a portion of a vessel's side or bottom had been used bodily for a screen at the end of the verandah, — for just beyond was the latrine, from the side of which is seen jutting another wing, consisting of a single weatherworn plank bordered by a bamboo-post. This was a screen to shut out the kitchen-yard beyond. Various stepping-stones of irregular shape, as well as blackened planks, were arranged around the yard in picturesque disorder. The sketch conveys, with more or less accuracy, one of the many phases of Japanese taste in these matters.

   The wood-work from the rafters of the verandah roof above, to the planks below, was undefiled by oil, paint, wood-filling, or varnish of any kind. The carpentry was light, yet durable and thoroughly constructive ; while outside and inside every feature was as neat and clean as a cabinet. The room bordering this verandah is shown in fig. 125.

   *

 続いて、前掲末尾にある第三部の「家屋の内部」の125図(冒頭に配した。キャプションは“GCEST-ROOM OF DWELLING IN TOKIO.”。底本は同前)と当該図解説の原文をも示す。

   *

Jh125

   In fig. 125 is shown a room of the plainest description ; it was severe in its simplicity. Here the tokonoma, though on that side of the room running at right angles with the verandah, was in the corner of the room, while the chigai-dana was next to the verandah. The recesses were quite deep, — the chigai-dmia having a single broad shelf, as broad as the depth of the recess, this forming the top of a spacious closet beneath. In the partition dividing these two recesses was a long narrow rectangular opening. The little bamboo flower-holder hanging to the post of the toko-hashira had, besides a few flowers, two long twigs of willow, which were made to bend gracefully in front of the tokonoma. The character of this room indicated that its owner was a lover of the tea-ceremonies.

   *

 これらと上記の本書の原文を比較されれば分かる通り、その情報量はこのJapanese Homes and Their Surroundingsの方が圧倒的に多く、より詳細、より正確であると私は判断する。ここではモースはこの家を「賤しい家」としか述べていないのであるが、そちらでは実はこの家の主人は素人ではなく、古い陶磁器を商う古物商であり、店舗もあることが判るのである。しかも、モースが逢った際、彼は「茶の湯」の用意をしていたとあって、ここで単に「賤しい家」と称するようなものではないことを判ってくるのである。縁側に座ったモースにこの主人は古い陶磁器の逸品を見せて呉れ、その時、その縁側から見えた客間のスケッチが125図である。この「賤しい家」に、あなたは、簡素乍らも、この実に落ち着いた『どこを見てもこぎれい』(斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」より)な座敷を果たして想像出来たであろうか?(私は出来なかったのである) 更に、125図の解説中には、『この部屋の』如何にも質素乍らも実に細かな部分で風流の行き届いた『特徴から察するに、この家の主人は茶の湯の嗜(たしな)みのある人と見受けられた』(引用は同前)と結んでいるのである。まさに「賤しい家」は都会の中にひっそりとある隠れた「風趣の家」であり、この主人も確かに貧しいに違いないものの、俗界にあって驚くべき風趣の中に生きている好人物であることが、これらの描写を読んでみて初めて判るのである。さればこそ、冒頭で英文全文を引いた。本来なら、斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」の当該箇所を総て引きたいところであるが、著作権侵害になる分量にも思えるので涙を呑んで控えたのである。

「『日本の家庭』には、日本の家庭で写生した袖垣がいくつか出してある」これは“Japanese Homes and Their Surroundings”の第五章の日本家屋の「エントランスとアプローチ」(入口とそこまでの通路)の中に、三枚の絵が載るものを指す。解説原文と三枚の図(キャプションは。総て“SODE-GAKI.”である。画像底本は同前)を示す。但し、原文の最後の、本件とは異なる、張り出しの格子窓の叙述部分はカットしてあるので、悪しからず。

   *

図259

Jh259_3

図260

Jh260

図261

Jh261

   In the sode-gaki, or sleeve-fence, the greatest ingenuity in design and fabrication is shown ; their variety seems endless. I have a Japanese work especially devoted to this kind of fence, in which are hundreds of different designs, — square tops, curving tops, circular or concave edges, panels cut out. and an infinite variety shown in the minor . details. This kind of fence is always built out from the side of the house or from a more permanent fence or wall. It is rarely over four or five feet in length, and is strictly ornamental, though often useful in screening some feature of the house that is desired to be concealed.

  Fig. 259 represents a fence in which cylindrical bundles of rush are bound together by a black-fibred root, and held together by bamboo pieces. Little bundles of fagots are tied to each columns as an odd feature of decoration. In fig. 260 cylindrical bundles of rush and twigs are affixed in pairs on each side of bamboo ties, which run from the outer post to the wooden fence from which the sode-gaki springs. In still another form (fig. 261) the upper portion consists of a bundle of stout reeds tied by broad bands of the black fibre so often used in such work. From this apparently hangs a broad mass of brown rush, spreading as it reaches the ground. Such fences might be added to our gardens, as the materials — such as reeds, rush, twigs, etc. — are easily obtained in this country.

   *

斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」の訳を参考にすると、図259のそれは藺草(いぐさ)を棕櫚繩で円筒状に束ねたものを細い割竹を使って並べ合わせた袖垣で、図260は『藺と小枝の円筒状の束が、それぞれ二本一組で、支柱から板塀に向って伸びている繋材としての二本の竹の両面に、交互に結えつけられている』もの、図261のそれは上部が太い葦を黒い棕櫚繩で束ねたもの、とある。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(21)

 私は竹中に、米国の男の子は、非常に小さい時には、人形や紙の兵隊を持って遊ぶと話した。彼は、武士の男の子供達は、断じて人形やそんな様な物を持って遊ぶことは許されず、彼等の教育は、彼等を武士とすることを目的として行われ、他の人々が笑う時でも真面目でなくてはならぬのだといった。食事の時には、男の子達は、若し話をするにしてもそれは極めて稀で、だから外国人が食事中喋舌(しゃべ)り続けることが、非常に妙に感じられる。彼等にとっては、我々の冗談のある物を了解することが困難であり、我々が「茶化す」と称するところのものは彼等にはまったくわからない。

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十一)

 

       二一 

 

 後醍醐天皇の御靈を祀つた神社は西の島の別府にある。別府は半月形に連なつた小山の裾の、入江を緣取つて居る草葺田舍家の長い一本街路から成つて居る繪に見るやうな美くしい漁村である。此處の風俗の純朴と保健的な全くの貧窮とは、隱岐にしても、實に珍らしい程である。他國人を泊める旅籠屋風の家が一軒ある。其處では茶を出さずに素湯を出し、菓子を出さずに乾豆を出し、米を食はせずに黍を食はす。が然し、茶が無いといふ事は米が無いといふ事よりも意味が深い。が、別府の者は、その强壯な容貌が實地證明して居るやうに、相當な滋養に事缺いでは居らぬ。船が海へ出て居る間に女や子供が耕やす小さな庭で出來る野菜が澤山あるし、それに魚類は豐富だからである。佛寺は一宇も無いが、氏神の社がある。

 後醍醐天皇の神社は入江の一端の黑木山(くろきざん)と呼ぶ小山の頂上に在る。その小山は高い松の木に蔽はれて居て、そこへの途は甚だ嶮しいから、自分は辷ることの無い草鞋を穿くが宜からうと考へた。登つて見ると神社は小さな木造のミヤで、高さはやつと三呎、年月の爲めに黑くなつて居る。その橫の茂みの中に、もつと古い、他の宮の遺跡がある。何んの形にも刻んでない、そして何んの文字も彫つてない大きな石が二つ此前に置いてある。覗きこんで見たら、ぼろぼろに崩れさうな金屬の鏡と、竹を細くへいだものへ附けた煤けた紙の御幣と、赤い陶器の小さい御神酒德利が二つと、それから一厘錢が一つ見えた。そこの大きな松の幹の間からして、その神々しい暗がりを貫き射す靑い暖かい光りで見える、海岸と山と峰との愉快な瞥見があるだけで、他には何も見るものは無かつた。

 かの善良な天皇が隱岐の百姓共の間に、御滯留になつて居たことを記念するものはこの見すぼらしい宮だけである。が、鳥取縣の米子(よなご)近くの五千石村(ごせんごくむら)といふ小村に、父君を慕うて配處へ供しようとして歿せられた天皇の御姫君ヒナコ内親王【譯者註】の記念に、目下義損金でもつて立派な石の記念碑が建設中である。[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]

    譯者註。ヒナコ內親王に非ず。瓊子
    內親王なり。五千石村大字福市の安
    養寺は同內親王の開基と傳へらる。

[やぶちゃん注:同前字注。段落の途中。]內親王御永眠の場處近くに有名な栗の樹が一本ある。それに就いて斯んな話がある。天皇のこの姬君が御病氣の折栗をと乞ひ給うたので、幾つか奉つた。が、一つだけ手に取つて、それを一寸囓んで御捨てになつた。それが根附いて堂々たる大木になつた。ところがその木に生る栗は皆んな小さな齒の痕のやうな痕がある。日本の傳說では、樹木すら君に對して忠であつて、その忠誠の念を無言な色々な優しい方法で以て示さうと力めるからである。そしてその木はハガタノクリ卽ち『齒形の栗の木』と呼ばれて居る。

[やぶちゃん注:「後醍醐天皇の御靈を祀つた神社」既注の西ノ島町別府の黒木(くろぎ)神社(前に注したが、現行では少なくとも神社名は「くろぎ」と濁っている)。ここも実は底本は「中の島の別府」とあるが、原文をご覧になれば判る通り、「西の島」の誤訳である。例外的に訂した。さらに……非常に言い難いことであるが……平井呈一氏の一九七五年恒文社刊第一版「日本瞥見記(下)」「第二十三章 伯耆から隠岐へ」でも――同じく――『中の島の別府』――と誤訳しているのである。……その訳文を愛し、非常に尊敬する平井先生ではあるが……これはどうみても……この部分――先行する田部氏の訳文を無意識のうちに流用してしまった結果の誤訳としか思われない――のであるが、如何? 画像は山下信弘氏のサイト「九州神社旅行」の黒木神社(くろぎ) 島根県西ノ島町がよい。同サイトの黒木神社解説ページ

「保健的な全くの貧窮」原文は確かに“the honest healthy poverty”であるが、これはまさに「何とも言えず好ましい清貧さ」といった感じのように私には思われる。少なくとも、失礼乍ら、この訳は意味不明で如何にもヘンではないか? 大学の一般教養の英語の試験でかく訳したら多分、バツである。因みに平井氏は『飾りけのない健康な貧しさ』と訳されておられ、これはすんなり読める。

「事缺いでは居らぬ」底本は拡大して精査してみても明らかに「事缺いでは居らぬ」で「て」ではなく「で」である。暫くママとする。

「佛寺は一宇も無い」現在の国土地理院の地図を確認すると、西ノ島町内には全部で五つの寺院(卍記号)を確認出来る。

「三呎」九十一・四四センチメートル。

「五千石村」鳥取県の旧西伯(さいき)郡(現行でも郡自体は縮小して残存)の旧五千石村(ごせんごくそん)。現在は米子市福市(ふくいち)。訳者注にある「五千石村大字福市の安養寺」は同内親王の開基と傳へられる。

「天皇の御姬君ヒナコ内親王」訳者注にある通り、「ヒナコ內親王」ではなくて「瓊子內親王」(正和五(一三一六)年~暦応二/延元四(一三三九)年八月一日)。「瓊子」は「たまこ」と読む。後醍醐天皇の皇女。母は二条為世の娘で権大納言局藤原為子(いし)。隠岐配流の天皇を追って同島に渡ろうとしたが果せず、伯耆の守護佐々木氏に預けられた。後に遊行僧一鎮に就いて尼となり、同地に先の時宗会見山西月院安養寺を建立した。享年二十四。法号は安養尼。なお、父後醍醐天皇は、この半月後の八月十六日、吉野金輪王寺で、前日に譲位した後村上天皇に朝敵討滅と京都奪回を遺言、満五十歳で崩御している。奈良の藤原氏の投稿記事であるのページに、『後醍醐天皇皇女瓊子(たまこ)内親王の開基。北条高時に追われた内親王は遊行五代安国上人の弟子となり西月院宮安養尼と称し、父の開運を祈りその後天皇の勅願所として安養寺を建立した。内親王の墓所、内親王座像など後醍醐天皇ゆかりの品々を伝える。寺門の瓦などには、菊の御紋が刻まれ皇族墓所としてのたたずまいをしのばせている』とあり、さらにハーンが綴った「歯形栗」説話の載る。以下に引用させて戴く(行空けを省略した。下線はやぶちゃん)。

   《引用開始》

王政復古をめざして失敗した第96代後醍醐天皇が、隠岐へ流されることになり、京都を発たれたのは、1332年(元弘2年)3月7日で、中宮にさえ逢わしてもらえず、その時に中宮が詠まれた御歌は、

   この上の 思いはあらじつれなさの 命よさらばいつを限りぞ

で、天皇の主なる供は三名、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、それに三位の局、後は、警護の千葉介貞胤ら甲冑の武士六百騎と徒士を加えた千余名。此の内に16歳の皇女・瓊子(たまこ、母は藤原為子)内親王が女官に身を変えて従いついて行きましたが、一行が隠岐へ渡る直前に身元がばれて、米子へ残された内親王は、出家し時宗の「安養寺」を開きました。また、後醍醐天皇のために備前の忠臣・児島高徳が桜の木に書いた歌の一首は、

   天勾賤(てんこうせん)を空しゅうすること勿(なか)れ

         時に范(はん)れい無きにしも非ず

[やぶちゃん注:かの呉を滅ぼした覇者越王勾践と、彼をそこまで押し上げた勇猛果敢な第一の忠臣范蠡(はんれい)を、天皇と児島自身に擬えた一首である。]

で、そして、内親王は父帝の帰還を祈り、栗をかじって「もし我が願いかなうならば、芽を出し、木となれ」と云って、その栗を植えると、見事に芽を吹き、木となり、実を付けましたが、どうした事かその実は、歯形の付いた栗でした。

なお、島流しになった後醍醐天皇は翌年、隠岐ノ島を抜け出して、反幕勢力の糾合に成功し、京都に帰られる時、共に帰京の誘いを内親王にもされましたが、内親王は拒否なさり、その後24歳で遷化されて、米子で余生を送られました。

また、「安養寺」には今でも「歯形栗」の木は有りますが、現在のは4代目で、歯形もめっきり薄くなり、歯形と云われればその様にもに見えますが、2代目までは、実ったほとんど全ての栗に、はっきりとした歯形が有ったそうです。

   《引用終了》

ハーンの話は「日本の傳説では、樹木すら君に對して忠であつて、その忠誠の念を無言な色々な優しい方法で以て示さうと力めるからである。そしてその木はハガタノクリ卽ち『齒形の栗の木』と呼ばれて居る」とか事大主義的に言ってはいるけれど、省略に過ぎて、気まぐれ娘のエピソードみたようにしか読めず、「だから何?!」と言いたくなってしまう代物だが、この方の語りを読まさせて戴いて初めて、確かな霊力の説話として腑に落ちたものである。

「齒の痕」「歯痛」祈願の「腮無地蔵」の次は今度は「歯型」! 何だか、因縁染みている感じがしてくるではないか。] 

 

ⅩⅩⅠ.

 

   The shrine dedicated to the spirit of the Emperor Go-Daigo is in Nishinoshima, at Beppu, a picturesque fishing village composed of one long street of thatched cottages fringing a bay at the foot of a demilune of hills. The simplicity of manners and the honest healthy poverty of the place are quite wonderful even for Oki. There is a kind of inn for strangers at which hot water is served instead of tea, and dried beans instead of kwashi, and millet instead of rice. The absence of tea, however, is much more significant than that of rice. But the people of Beppu do not suffer for lack of proper nourishment, as their robust appearance bears witness: there are plenty of vegetables, all raised in tiny gardens which the women and children till during the absence of the boats; and there is abundance of fish. There is no Buddhist temple, but there is an ujigami.

   The shrine of the emperor is at the top of a hill called Kurokizan, at one end of the bay. The hill is covered with tall pines, and the path is very steep, so that I thought it prudent to put on straw sandals, in which one never slips. I found the shrine to be a small wooden miya, scarcely three feet high, and black with age. There were remains of other miya, much older, lying in some bushes near by. Two large stones, unhewn and without inscriptions of any sort, have been placed before the shrine. I looked into it, and saw a crumbling metal-mirror, dingy paper gohei attached to splints of bamboo, two little o-mikidokkuri, or Shinto sake-vessels of red earthenware, and one rin. There was nothing else to see, except, indeed, certain delightful glimpses of coast and peak, visible in the bursts of warm
blue light which penetrated the consecrated shadow, between the trunks of the great pines.

 

   Only this humble shrine commemorates the good emperor's sojourn among the peasantry of Oki. But there is now being erected by voluntary subscription, at the little village of Gosen-goku-mura, near Yonago in Tottori, quite a handsome monument of stone to the memory of his daughter, the princess Hinako-Nai-Shinnō who died there while attempting to follow her august parent into exile. Near the place of her rest stands a famous chestnut-tree, of which this story is told: While the emperor's daughter was ill, she asked for chestnuts; and some were given to her. But she took only one, and bit it a little, and threw it away. It found root and became a grand tree. But all the chestnuts of that tree bear marks like the marks of little teeth; for in Japanese legend even the trees are loyal, and strive to show their loyalty in all sorts of tender dumb ways. And that tree is called Hagata-guri-no-ki, which signifies: 'The Tree-of-the-Tooth-marked-Chestnuts.'

2015/12/03

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(20) モース先生、松浦竹四郎を訪ねる


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図―727

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図―728

 

 かなり有名な古物蒐集家松浦竹四郎を訪問したところが、非常に親切にむかえてくれた。彼は最近、古物に関する二巻の、全紙二つ折の本を出版し、それには彼の蒐集中の貴重な品物の素晴しい絵が入っている。私は、大学の副総理服部氏の紹介状を持って行った。召使いが箱をいくつか持ち出すと、松浦氏は大きな束になっている鍵で、それ等の箱をあけた。鍵には一つ一つ、象牙の札がついている。彼が箱をあけている最中、下女が物立台を三個持って来て、それを床間に置いた。彼はそこで長い糸を通した玉――それは主としてコンマ形の石である曲玉(まがたま)、その他の石英、碧玉、及び他の鉱物でつくったもの――を取り出し、それを物立台にかけた(図727)。それ等の多くは非常に古く、大部分日本のもので、そしてすべて模糊たる歴史的過去時代に属する。これ等は皆埋葬場や洞窟から発掘されたので、中には土器の壺の中で発見されたのもある。曲玉は、南方琉球諸島から北日本にまで散布している。松浦氏は、曲玉が蝦夷や支那で発見されたことは聞いたことが無いが、支那では別種の石製の玉が発見される。彼はこれ等の品物の、日本一の蒐集を持っているので、小シーボルトの『日本の古物』に出ている材料は、すべて松浦竹四郎の蒐集から絵をかいたものである。彼はまだ曳出(ひきだし)に沢山の玉を持っている。私はその若干を写生した(図728)。

[やぶちゃん注:「松浦武四郎」(文化一五(一八一八)年~明治二一(一八八八)年)は好古家で蝦夷地を探査して「北海道」という名前も考案した人物。彼は安政二(一八五五)年に幕府の「蝦夷御用御雇」に抜擢されて蝦夷地を正式に踏査し(二度目。最初は私的な踏査であったが、アイヌの人々とも親しく接し、その探査は択捉島や樺太にまで及んでいる)、明治二(一八六九)年には新政府の開拓判官となるも、翌明治三年に開拓使及び新政府のアイヌ融和政策を批判して辞職した。なお、モースは彼の名を“Matsura Takashiro”と綴っている。

「古物に関する二巻の、全紙二つ折の本」明治一〇(一八七七)年刊の二巻からなる撥雲余興つうきょう)」か?(リンク先は国立国会図書館近代デジタルライブラリー)。

「大学の副総理服部氏」既出既注の服部一三(はっとりいちぞう 嘉永四(一八五一)年~昭和四(一九二九)年)モース初来日の明治一〇(一八七七)年には浜尾新とともに法理文三学部綜理補であった(予備門主幹を兼任)が、ウィキの「服部一三によれば、この明治一五(一八八二)年当時は『東京大学幹事』であったとある(この「幹事」職なる者の職掌は私にはよく判らないが、ともかくも総理・副総理・総理心得・総理補助・幹事の四職四人が当時の東京大学首脳であった)。

「小シーボルト」原文は“younger Siebold”。かのドイツの医師で博物学者のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)の次男であり、オーストリア(ドイツ出身であるが、後に外交官としての功績が認められてオーストリア=ハンガリー帝国の国籍を得た)の外交官で考古学者でもあったハインリヒ・フォン・シーボルト(Heinrich von Siebold 一八五二年~一九〇八年)のこと。ウィキの「ハインリヒ・フォン・シーボルト」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、二度の来日を終え、三度目の『来日を準備する父の研究資料整理を手伝ったことで、ハインリヒは日本に強い興味と憧れを覚え』とある。『父の死により、親子揃っての来日は叶わなかったが、父が幕府外交顧問として再来日した際に同行し、父の帰国後も日本での職務についていた』兄アレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルト(Alexander George Gustav von Siebold 一八四六年~一九一一年)『が徳川昭武使節団に同行し帰国。その兄の再来日に同行して一八六九年(明治二年)初来日を果たす。日本では兄と共に諸外国と日本政府との条約締結などの職務に着手、その合間に父の手伝いする中で学んだことを活かし様々な研究活動を始める』。『勤務先となったオーストリア=ハンガリー帝国公使館では通訳、書記官を経て代理公使を務め、後にその功績を称えられて同国の国籍を得る』。『日本が初の正式参加となったウィーン万国博覧会では、政府の依頼により出品の選定に関わり、同万博には通訳としても帯同、シーボルト兄弟が関わった日本館は連日の大盛況で、成功を収める。その際に選定に共に関わった町田久成、蜷川式胤らとはその後も親交を続けた』。『彼らとは好古仲間として、幾度も古物会を開催し、参加者の中には九代目市川團十郎などもその名を並べた。この頃の日本ではいわゆる考古学という学問が成立をしておらず、ただ古物愛好家達が珍品を収集、交換し、それぞれの品に特別な名前をつけて楽しんでいる程度であったが、蜷川たちはここでハインリヒと交流することで当時最先端であった欧州の考古学を学び、またハインリヒはここで彼らとより先史時代の遺物の名称や、どこに遺跡があるかなどを学んだ』。彼は『日本橋の商家の娘岩本はなと結婚し、二男一女を儲けるが長男はハインリヒがウィーン万国博覧会に帯同中に夭折。その際の夫婦のやり取りを綴った手紙は子孫である関口家に保存されている(二〇〇八年、ハインリヒの没後百年に開かれた記念展で公開された)。その手紙には我が子を失った悲しみと共に、当時共に暮らしていた異母姉楠本イネに対して、憔悴しきっているであろう愛妻はなへの心配も綴られている』。『その後、生まれた男子・於菟(オットー)は日本画家を目指し、岡倉覚三(天心)らの開いた上野の東京美術学校に見事一期生として合格するが、創作活動の中、体調を崩して二十五歳の若さで没した』。『ハインリヒの妻、岩本はなは芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われる。当時学習院の院長であった乃木希典はその宿舎主一館の躾け担当として若くして子供を亡くしたはなを指名することとなる。また後には福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務めた。ハインリヒの娘の蓮もその指導を受け、長唄の杵屋流、琴の生田流の免許皆伝を受けている』。その後、晩年になって『重病を患ったハインリヒは、公使館の職を辞して帰国』し、『南チロル地方フロイデンシュタイン城にてその生涯を終え』た。以下、ハインリヒが日本に残した功績について一項があり、『日本において、ハインリヒが残した功績は数多い。兄が父の外交的才能を受け継いだのに対し、ハインリヒは父の研究分野においての才能を色濃く受け継いだ』。『考古学の分野においては、大森貝塚を始め多くの遺跡を発掘。考古説略を出版し日本に始めて考古学という言葉を根付かせた。エドワード・S・モース博士との大森貝塚発掘、アイヌ民族研究などの競い合いは日本の考古学を飛躍的に発展させた。しかし、一八七八年から一八七九年に日本での考古学的活動を終えている』。『兄と共に、父の大著「日本」の完成作業を行い、当時欧州で人気であった欧州王家の日本観光に随行し、彼らの資料蒐集に関わったことも後のジャポニズムブームの起点にもなった。現在欧州に散らばるシーボルト・コレクションはその数、数万点にも及び、その約半数は小シーボルトこと、ハインリヒの蒐集したものであると言われている』とある(下線やぶちゃん)。

「日本の古物」原文は“Japanese Antiquities”であるが、これがハインリヒ・フォン・シーボルトの著作のどれを指しているのかは不詳である。識者の御教授を乞うものである。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(19)

 今日私は、伏見宮殿下から、上野精養軒へ正餐にお呼ばれした。来餐は二十一人で、殆ど全部が県知事であった。そこで私は、数年前私が長崎で曳網をした時、非常に親切にしてくれた長崎の知事にあった。私は殿下の右手に坐ったが、殿下は日本水産会の会長をしておられるので、この正餐は数ヶ月前、この委員会に向ってやった、私の講演に対するお礼なのであろうと思う。

[やぶちゃん注:「伏見宮殿下」東伏見宮依仁親王(慶応三(一八六七)年~大正一一(一九二二)年)のこと。

「私の講演」第十九章 一八八二年の日本 大日本水産会での講演を参照。モースは先立つ明治一五(一八八二)年七月五日に大日本水産会の招待で大日本水産会の招待で、農商務省の議事堂において「水産の緊要」と題し、欧米の水産事業と人工養殖について講演した。同会の会頭は東伏見親王であり、この折り、モースは同会の名誉会員に選ばれている。

「数年前私が長崎で曳網をした時、非常に親切にしてくれた長崎の知事」第十六章 長崎と鹿児島とへ 長崎到着の注で示した内海忠勝(天保一四(一八四三)年~明治三八(一九〇五)年)である。この当時もまだ長崎県令在任中であった。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(18) 好古家柏木貨一郎邸訪問

 

 私は、かつては高官であったが、過度の飲酒のために職を失い、今は破産人であるところの、一人の陶器に関する権威者を見つけ出した。彼は貧困がありありと見える、みすぼらしい家に住み、そして彼の状態は憐れなものであった。頸には大きな腫瘍があり、はげしく咳をし、家は取りちらしてあって、布団が敷いてあるところから見ると、彼はそれ迄横になっていたのに相違ないが、而も彼は躊躇せず、また弁解等もせずに、私を招き入れた。私はいろいろな陶器の権威者に就て質問した。彼は古筆氏はいいといい、また柏木氏への手紙をくれた。

[やぶちゃん注:この人物は不詳である。

「古筆氏」好古家古筆了仲。既出既注。

「柏木氏」磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」上記頁記載から好古家として知られた柏木貨一郎(天保一二(一八四一)年~明治三一(一八九八)年)のことと推定される。ウィキ柏木貨一によれば、『江戸(東京)出身。神田和泉橋の糸屋・辻家に生まれる。幕府の大工棟梁・柏木家の養子となり』、九代目を『継ぐが、まもなく幕府が倒れた。明治維新後は文部省に勤務し、町田久成らとともに正倉院をはじめ古社寺の宝物調査にあたった。町田が博物館行政から離れた後、官職を辞したようである』。『古美術の鑑定家、収集家として知られ』、『また、三井集会所』や渋沢栄一邸などの『和風建築や茶室の設計を行った。著作に「集古印史」などがある』とある。]
 
  
 

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725

 

 もう六時に近く、そして暗かったが、私――私の車夫がともいえる――は柏木氏の住所をさがし、遂に広辻の一角に、三軒の蔵を発見した。高さ十五フィートの竹の垣根にある低い入口を通りぬけると、蔵(図725)の一に招じ入られた。柏木氏は私を三人の男に紹介したが、三人とも古物蒐集家であった。彼は非常に親切で、私にいくつかの興味ある品を見せてくれ、私は即座にそれ等を写生した。また彼は、それに関する知識を持っているらしい数種の陶器に就て、面白い話を沢山してくれた。彼は「薩摩の花装飾」が八十年以前からあるというような考は、愚劣なものだといった。陶器に関する彼の言葉は、私の陶器覚書に訳してある。彼は、日本の古銭の最も珍稀な蒐集や、一千年も前の陶器や、稀な絵画や、その他いろいろな物を持っている。この部屋にある物は一つ残らず古くて珍しかった。火鉢も非常に古く、その下半分は真珠貝を象嵌した漆塗で、装飾の主題は馬の銜(はみ)であった。

[やぶちゃん注:「十五フィート」四・五七メートル。

「薩摩の花装飾」これは以下の柏木の批判的な言い方から見て、「白薩摩」(「白もん」とも)のような真正の薩摩焼ではなく、『幕末から明治初期に掛けての京都で、欧米への輸出用に、より伝統的な日本のデザインを意識し、絵付けされた京薩摩が作られた。横浜や東京で絵付けされ、横浜港から輸出されたものは横浜薩摩と呼ばれた』(ウィキ薩摩焼より引用)ものを指しているのではあるまいか? 陶器には疎いのでとんでもない誤りかも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。

「私の陶器覚書」一九〇一年刊のCatalogue of the Morse Collection of Japanese Pottery(モース日本陶器コレクション)のことか。

「一千年も前の陶器」明治一五(一八八二)年から単純計算するなら、平安前期に相当する。

「真珠貝を象嵌した漆塗」螺鈿細工木製台座に陶器の火鉢が載せられてあるものと思われ、かなり凝った高級な火鉢であることが窺える。

「銜(はみ)」轡(くつわ)の馬の口に銜(くわえ)えさせる部分。]
 
 

M726

726

 

 私はまた家について、新しい点を知った。日本人が、防火建築の大きな、寒い、納屋みたいな部屋を、気持のいい場所に変えてそこに住む方法は、図726に示す通りである。部屋の形と同じな、然しそれより小さい、四角な竹製の枠を立て、部屋の壁と枠との間には三フィート半の通路を残しておく。この枠は僅かに色をつけた布で覆ってある。この枠は部屋よりも小さいので、人はこの布と部屋の壁との間を通ることが出来る。彼は一七〇〇年に発行された古い本を見せたが、それにはこの枠の構造、布のかけ方等の、こまかいやり方が書いてあった。これは明かに古くからある思いつきで、かかる防火建築が居住の間(ま)として利用されたことを示している。今迄に何度も蔵の内へ入ったが、このような装置を見たのはこれが最初である。夏にはこの部屋は涼しくて気持がいいことだろう。蔵の壁には本棚や置戸棚が並び、柏木氏はそこに書物や宝物を仕舞っておく。幔幕をかかげると出入口が出来る。彼はさがす物があるとそこからもぐり込むのであるが、布を通じてかすかに輝く蠟燭の光によって、私は彼がどの辺を動いているのか知ることが出来た。

[やぶちゃん注:四方枠を持つのでこれは几帳(きちょう)ではない。御簾(みす)の一種か?

「三フィート半」一メートル二一センチメートル。

「一七〇〇年」元禄十三年。]

 

 先日増田氏が、私にある古物蒐集家の話をして、一度あって貰い度いのだがといった。私は増田氏と、その人の家へ行く約束をしようと思っていた。昨晩私はまた柏木氏の家へ行ったが、彼は留守だった。しばらく待っていると、彼は増田氏と一緒に来た。増田氏は、私がいたので驚きもし、よろこびもして、私がどうしてこの家を見つけ出したかと、不思議がっていた。七、八人の古物蒐集家が集って来たので、柏木氏が持ち出す陶器その他の貴重な品に就て、彼等と会話を交え、意見をたたかわすことは、誠に愉快だった。私は陶器や古物の話を容易になし得る程度の日本語を会得しているので、通弁を必要としない。これ等の古い品物の鑑賞眼は何人も具えている。そして学者達は、あらゆる種類の物に就て意見を交換する為に会合する。これは彼等の長期にわたる、かつ高い文明を示す、幾百の例証の一である。

[やぶちゃん注:本章の前の方で出てきた「長井嬢」(不詳)「の兄さんである増田氏」(不詳)と同一人物らしい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(17) 「ゆがけ」

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図―722[やぶちゃん注:上図。]

図―723[やぶちゃん注:下図。]

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図―724

 

 葬式が終ると、私は高嶺の家へ急いだ。彼は、私が矢を引く時の手の有様を写生することが出来るように、北国の弓術家を招き、私のために矢を射させることにした。支那人は弓を引くのに拇指環を用いて弦をひっかける。日本人は手首の長い手袋で、指が二本か三本と、大きに厚くした拇指とがついている物を使用する。その底部には弦をひっかける溝があり、革紐によって手袋は手首にしっかりまきつけられる。722、723の両図は、弓を引く時の手の形であり、図724は弓術用の手袋を示す。放射法はかなりむずかしいが、弦を三本の指のさきで引く我々の方法と同様に、力強いものである。

[やぶちゃん注:「拇指環」既出。「ぼしかん」と音読みしておく。原文“a thumb-ring”この単語は「サムリング」と外来語表記し、弓洋弓の弦を引っ掛ける親指保護用の指輪(装具名)である。なお、以下の図に出る和弓に於ける弓を引く際の保護具は「弓懸(ゆがけ)」(「弽」「韘」などとも表記)と呼ばれる鹿革製の手袋状のものである。ウィキの「ゆがけ」によれば、『原則として弓は左手、ゆがけは右手にはめ、弦は親指根に掛けて弓を引くが、その際弦から右手親指を保護するために使う』。これは『日本の射法に合わせて独自に発展した道具で』、『時代ごとの流派や射術、弓射のあり方の変遷に伴い、ゆがけもその時代ごとに改良が重ねられ、現在の形に至る。今日使われているゆがけは中世に武士が使用していたものとは基本的な作りから異なり、一般的には「三ツガケ」あるいは「四ツガケ」と呼ばれる親指(帽子)と手首(控え)が固めてあるものが使用されている』。『ゆがけをはめることを、「ゆがけを挿す」という。原則として「正座をしてゆがけを挿す・外す」「弓射以外の作業を行う際は必ずゆがけを外す」ことが基本的な作法である。ゆがけを挿す際、下に「下ガケ」と呼ばれる木綿等の薄い生地でできた肌着のようなものを付けるが、これは手汗を吸い取り湿気からゆがけを保護するためのもので、手汗をかいた場合はこまめに取り替えるのが好ましい』。『三ツガケは親指・人差指・中指、四ツガケは親指から薬指までを覆い、親指には木(あるいは水牛等の角)を指筒状にくり抜いたものが親指全体を覆うように仕込まれている。さらに親指根から手首部分が固めてあり、ゆがけを挿してカケ紐で手首を適度に巻き締めることにより、手首から親指までは動きの自由度がほとんどなくなる。このため、ゆがけを挿したままでは物をつかむなどの行為が困難になるため、弓射以外の作業を行う際はゆがけを外すことになっている』(モースの「指が二本か三本と、大きに厚くした拇指とがついている物」という叙述は正確にこの「三ツガケ」「四ツガケ」を述べてある)。『ゆがけの親指根には弦が引っかかる程度の浅い段差(弦枕)が付けられており、ここに弦を掛けて三ツガケは中指、四ツガケなら薬指を親指先に掛け、手首に適度なひねりを加えることによって弦は保持される。滑り止めに「ギリ粉(ぎりこ:松脂を煮詰めて乾燥、粉末状に砕いたもの)」を中指から人指し指まで、または薬指から人指し指までと親指先にまぶし、なじませて使用する』。『弓射において、ユガケの作りの良し悪しは行射の良し悪しに直接関わる極めて重要な要素であるとともに、長年使い込まれて射手の手になじんだゆがけは簡単に新調できるものではない。良い作りのユガケは、適切な手入れを行っていれば一生涯もつと言われている。これらのことから、ゆがけは大切に扱うことが大事であるとされるうえ、(言語学的根拠に乏しいが)「カケ、変え」から転じて「かけがえのない」という言葉の語源だと、弓道家の間でしばしば言われている』。「素材」の項。『ゆがけの親指には指筒状にくりぬかれた木、または水牛等の角(総称して「角」と呼ばれる)が入り、控え(手首部分)には牛革が固めのために入っている。親指を角に入れ固めることによって、弦の圧力から親指を保護し、控えを固めることによって手首の負担を軽減、また控えによって機械的なバネの効果を持たせ“離れ”の際に有利に働くようになっている』。『革には原則として鹿革が使用される。これは柔軟性・吸湿性・耐久性・きめが細かく肌触りがよいという点から鹿革が最も適しているためである。まれに装飾目的で別の革が使用される場合もあるが、装飾においても多くは印伝等の鹿革由来のものが使われる』。『鹿革は「燻革(ふすべかわ)」に加工したものを使う。これはなめした鹿革を藁を燃した煙でいぶしヤニを付ける(いぶし染め)ことによって茶色に染めたものだが、いぶし染めを施すことで防菌、防虫効果を高め、また革を柔らかくしている。鹿革をその他の色に染める場合も、いぶし染めを施してから染められている。ゆがけの縫い目は一般的な縫製品に比べ非常に細かく、特に名人とされる弓懸師・弽師(ゆがけし・かけし)の手縫いは精緻を極める』。『鹿革には「大唐(おおとう)」「中唐(ちゅうとう)」「小唐(ことう)」「チビ小唐(ちびことう)」といったグレード分けがされており、大唐は大人、小唐は子鹿と言ったように鹿の年齢からなる。若い革の方がきめが細かく柔らかいためゆがけには最適だが、高価である』。一枚の『鹿の革の中で最適な厚みやきめ、傷の有無など、一番良い所から革を取るため、鹿一頭からは』実に「ゆがけ」一つ分の『革しか取れない。鹿革はすべて中国等外国からの輸入品であるが、近年養鹿業は採算が合わないとして数が減りつつあり、将来的な供給が危ぶまれている』とある。以下、リンク先では「ゆがけ」の各部の詳しい名称と解説が載るので参照されたい。]

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十)

 

       二〇

 

 自分は津井(さゐ)の池と玉若酢神社とへは、この二つの名所は船で行かれるから、行つた。ところが津井の池は大いに自分を失望させた。其處への路は、殆んど全く垂直な絕壁を爲して居る恐ろしく危險な海岸に沿うて居るので、極く穩やかな天氣の折で無ければ行かれぬ。が、海は見事に澄んでゐて、水面下非常な深さの處にある物體を眼で見分けることが出來る。絕壁に隨いて一時間許り行くと、そこの濱邊は全く小さな圓い漂石だけで成つて居る入江のやうな處に着く。その漂石は長い畝になつて居て、その畝の外側の緣は、寄せては引く浪の度每に小銃の一齊射擊の如きガチヤガチヤといふ音を立ててあちこちと轉がつて、いつも動いて居る。動く石の球のこの浪の上へ登るのは頗る氣持が惡るい。が、上がつてからたゞ二十碼ばかり步きさへすれば、三方水の茂つた小山に取圍まれて津井の池が見える。淡水の大きな水溜りといつた程のもので、幅は五十碼はあらうか、別に驚くべき點は何も無い。水底は――たゞ泥土と小石とだけで――岩は一つも見えぬ。この池の何處かが仔馬一匹溺らすに足る程いつか深かつたとは信じ難い。自分は深さを試しに向小岸まで泳いで見たかつたが、そのことを言ひ出しただけで早や船頭達の感情を害した。此池は神樣の池で、眼に見えぬ怪物が守護をして居るから、それへ入るのは不敬であり危險であるといふのである。自分は之に對して地方的觀念を尊重せざるを得む氣がしたから馬蹄石は何處にあるのかと訊ねるだけで甘んじた。船頭共は池の西側の小山を指さした。その指示は傳說とは符合しないのである。その天然その儘の山の橫腹には何等人間の勞働の痕跡を發見することが出來なかつた。確に其處から數哩以內には人間の住み家は無かつた。それは見るも忌はしい荒涼を極めた場處【註】であつた。

    註。互に遠く距てずに池が二つある。
    自分が行つむのは、ヲイケ卽ち『雄
    池』で、も一つのはメイケ卽ち『雌
    池』といふのであつた。

 日本を旅行する人には名所の評判を當てにして多くを期待するのは愚である。名所の大多數に附隨して居る興味は全く想像力の行使に賴る。そして、そんな想像力を行使する能不能はまた此國の歷史と神話とに通じて居るか居ないかに賴る。圓岡や岩石や樹木の根株が、幾百年間、單にそれに關する地方傳說の爲めに、百姓共の崇敬の目的物となり來たつて居るのである。毀れた鐡の釜だとか、綠靑に蔽はれた唐金の鏡だとか、錆びた刀の身の破片だとか、赤い陶器のかけらだとかが、それが保存されて居る社寺へ幾代の巡禮者の足を惹ひ來たつて居るのである。自分が參詣した方々の小さな寺で、そこの寺寳はと見ると、お盆一杯に載せた小石であつた。初めてそんな小石を見た時自分は、その小石一個一個に本字で貼札がしてあつたから、其處の僧侶が地質學か鑛物學を硏究して居るのだらうと思つた。能く見て見ると、その石そのものは、たゞその附近の岩石の標本としても、絕對に無價値なのであつた。然し其處の僧侶や子僧がその石總ての一つ一つに就いて語り得る物語は面白いどころのものでは無かつた。その石は、實際、佛敎的傳說の連禱を吟誦するに使ふ粗末な數珠玉の用を爲して居るのであつた。

 津井(さゐ)の池の經驗後自分は下西村(しもにしむら)で何等異常な物を目にしようと期待する理由(わけ)は無かつた。ところが今度は自分は考違をしてゐたので愉快であつた。下西村といふは西鄕から船で一時間足らずで行ける小綺麗な漁村である。船は荒れては居るが美くしい海岸に沿うて行くと、古昔はその上に堅固な城があつた、御城山(おしろやま)といふ、角(かど)を截り取つた妙な形の小山の前を通る。其處には今はただ松の木に取圍まれた小さな神社があるだけである。下西村といふその小村から玉若酢神社までは、步いて二十分、稻田と野菜畠の間の非常にでこぼこな途を通つて行かねばならぬ。だがその神社の位置は、その神聖な木立に取卷かれて、色んな色の山脈が緣(ふち)取して居る風景の中心にあつて、うつとりする程印象的である。その建物は嘗ては佛寺であつたらしく思はれる。今は隱岐で一番大きな神社である。その門前に、高さは著しいものではないが、周圍は實に驚くべき有名な杉の木がある。地面から二碼の處でその周圍が四十五呎ある。その杉がこの聖地へその名を與へて居るのである。すなはち隱岐の百姓は決して玉若酢神社とは言はずに、ただ『オホスギ』(大杉)と言つて居る。

 口碑の言ふ所に據ると、此木は八百餘年前或る尼が植ゑたのである。そしてこの木の材木で造つた箸で物を食ふ者は決して齒痛を病まず、且つ非常な高齡まで生きるといふ。

    註。或る木は齒痛を治す力があると
    想はれて居ることに就いて言へば、
    柳の木に就いて妙な迷信がゐること
    を書いてもよからう。齒痛を病む者
    は柳の木へ時々針を刺す。その木の
    靈が痛いので齒痛治醫の力を行はざ
    るを得ぬやうになると信じてである。
    しかし隱岐で之を實行して居るとい
    ふ記錄は自分は一つも發見し得なか
    つた。

[やぶちゃん注:「津井(さゐ)の池」「玉若酢神社」前者は「一七」の「島後の或る深い池」の、後者は「一八」の「下村(しもむら)の玉若酢神社の前の大杉」の私の注を参照されたい。

「二十碼」既出であるが、「碼」は「ヤード」と読む。一ヤードは九一・四四センチメートルであるから、十八・二八八メートル。

「五十碼」四十五・七二メートル。

「馬蹄石は何處にあるのか」既注であるが、この池に纏わる馬(母とも仔とも言う)の伝承(既に述べた通り、それが後の名馬生食(いけづき)とする説も有る)では、池の端にその馬の踏みつけた馬蹄の後が石に残っているとされる。

「船頭共は池の西側の小山を指さした。その指示は傳說とは符合しないのである。その天然その儘の山の橫腹には何等人間の勞働の痕跡を發見することが出來なかつた。確に其處から數哩以內には人間の住み家は無かつた。それは見るも忌はしい荒涼を極めた場處であつた」このハーンの否定的言辞は、その伝承の馬が、この池の近くの人間に飼われていた母子馬であった(野生馬ではなかった)、という前提によるものらしい。但し、ハーンのこれ以前の叙述の中にも、そんな設定は記されておらず、私の調べた限りでも、この伝承の馬が、そのようなもと飼育馬であったことを感じさせるものは、あまりないように思われる・馬を捕縛しようとして失敗して逃げるというシチュエーションはあるが、寧ろ、その手におえない悍馬のさまは、如何にも「野生の馬」の雰囲気が濃厚に漂っていると私は思う。

「圓岡」「ヱンカウ(エンコウ)」と音読みしておく。使用されている単語は“knoll”で「ノール」、小山・円丘・塚のことを指す。

「自分が參詣した方々の小さな寺で、そこの寺寳はと見ると、お盆一杯に載せた小石であつた」この寺についての情報(日本の何処で現存するかどうかだけで構わない)をお持ちの方は是非とも御教授を乞うものだが、思うに、これは、経を書いた「経石」のことであろうと思う。

「下西村」玉若酢神社の所在地。

「下西村といふは西鄕から船で一時間足らずで行ける」現在は整備された道路で、西郷からすぐに行ける。「荒れては居るが美くしい海岸に沿うて行く」は「荒磯ではあるが美しい海岸線に沿うて行く」という謂いであって、海が荒れているのではないので注意されたい。そもそもが、ここへ船で向かうとなら、西郷のある湾の西方に延びる深い入り江を入って行き、その湾奥の手前を北に上陸するというコースをとった(外洋には全く出ない)はずだからである。

「御城山(おしろやま)」これは玉若酢神社の東南東六百メートルほどの位置にある標高百三十二・二メートルの山で、中世の隠岐氏の城砦跡であり、現在、隠岐の国府跡は、この城山西麓、玉若酢命神社社前の台地(現在の西郷町下西字甲野原)に推定されている。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「その建物は嘗ては佛寺であつたらしく思はれる」ハーンは恐らく、玉若酢神社の独特の古式の建物から、こう思わず推測してしまったのではないかと推理する。母屋造茅葺きの左右に随神像を安置する随神門や、切妻造茅葺きの本殿は正面に檜皮葺きの片流れの向拝を付けるという特殊な隠岐造(おきづくり)という、切妻屋根と庇屋根が一体化していない別構造のものであるからである(ここはウィキ玉若酢神社を参照した。江戸以前の神仏習合時代に別当寺が設けられていた可能性は否定は出来ないものの、同ウィキの沿革記載を見ても、そのような痕跡は認められない)。この変わった感じが、私の胸を打ったのである。前にも述べた通り、とても素敵な神社なのである。

「實に驚くべき有名な杉の木」「一八」の「下村(しもむら)の玉若酢神社の前の大杉」の私の注を参照されたい。

「地面から二碼の處でその周圍が四十五呎」地上一メートル八十三センチメートルの位置で幹周十三・七メートル。現行のデータでは、総樹高約三十メートル、幹周は約十一メートルとある。Kigiyamabo 氏のサイト「樹々山坊」の玉若酢命神社の八百杉の解説と画像がよい。

「此木は八百餘年前或る尼が植ゑた」植えたのは人魚の肉を食って不死となってしまった八百比丘尼で、その名をハーンは「八百年」と聴き違えたものであろう。

「齒痛」腮無地蔵に次いで、又も、歯痛である。一島の中に、二つも、歯痛祈願の対象物があるというのは特異的である。これは所謂、野菜類の不足する嘗つての島生活で、ビタミンCの欠乏からくる壊血病によって生じる歯肉の出血、及び、それに伴う歯の脱落などの歯科的症状と関係するのではないかと私は推理する。

「齒痛を病む者は柳の木へ時々針を刺す。その木の靈が痛いので齒痛治醫の力を行はざるを得ぬやうになると信じてである」ここに書かれたような伝承は不学にして聴いたことがない。識者の御教授を乞うものである。なお、柳の医療効果的実用性については、個人サイト「ain Relief―痛みと鎮痛の基礎知識」のシロヤナギ、サリシン、アスピリン、NSAIDsの年表」の中に、紀元前に、既に『中国でも歯痛には、ヤナギの小枝で歯間をこすって治療していたらしい』とあり、一八三〇年に、フランスの薬学者Henri Leroux(アンリ・ルルー)がキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属セイヨウシロヤナギ Salix alba から『活性物質を分離し、salicin(サリシン)命名した。しかしサリシンは実際に純薬として使われることはなかった。サリシンは内服できないほどひどく苦かったからである。サリシンを含むヤナギの樹皮の煎液も苦く、欧州人は何世紀もの間その鎮痛作用を求めてひたすら苦さに耐えてきたのであった』とし(これから分離されたのが、鎮痛効果を持つサリチル酸で、副作用として胃穿孔や腹膜炎を起すその強い酸性度を弱めたものが、鎮痛剤の「アスピリン」(アセチルサリチル酸)である)、安政四(一八五七)年には、この『サリシンの話は江戸時代の日本にも伝わった。堀内適斎(米沢藩の医師)が自書の『医家必携』でヤナギの皮の効用にふれ、「この薬、苦味・収斂・解熱の効あり。近世、柳皮塩あり、撤里失涅(さりしん)といふ」と記した』とある。]

 

ⅩⅩ.

 

   I went to the Sai-no-ike, and to Tama-Wakasu-jinja, as these two kembutsu can be reached by boat. The Sai-no-ike, however, much disappointed me. It can only be visited in very calm weather, as the way to it lies along a frightfully dangerous coast, nearly all sheer precipice. But the sea is beautifully clear and the eye can distinguish forms at an immense depth below the surface. After following the cliffs for about an hour, the boat reaches a sort of cove, where the beach is entirely corn posed of small round boulders. They form a long ridge, the outer verge of which is always in motion, rolling to and fro with a crash like a volley of musketry at the rush and ebb of every wave. To climb over this ridge of moving stone balls is quite disagreeable; but after that one has only about twenty
yards to walk, and the Sai-no-ike appears, surrounded on sides by wooded hills. It is little more than a large freshwater pool, perhaps fifty yards wide, not
in any way wonderful You can see no rocks under the surface,— only mud and pebbles That any part of it was ever deep enough to drown a foal is hard to
believe. I wanted to swim across to the farther side to try the depth, but the mere proposal scandalized the boat men. The pool was sacred to the gods, and
was guarded by invisible monsters; to enter it was impious and dangerous I felt obliged to respect the local ideas on the subject, and contented myself with
inquiring where the bateiseki was found. They pointed to the hill on the western side of the water. This indication did not tally with the legend. I could discover no trace of any human labor on that savage hillside; there was certainly no habitation within miles of the place; it was the very abomination of desolation. [9]

   It is never wise for the traveler in Japan to expect much on the strength of the reputation of kembutsu. The interest attaching to the vast majority of kembutsu depends altogether upon the exercise of imagination; and the ability to exercise such imagination again depends upon one's acquaintance with the history and mythology of the country. Knolls, rocks, stumps of trees, have been for hundreds of years objects of reverence for the peasantry, solely because of local traditions relating to them. Broken iron kettles, bronze mirrors covered with verdigris, rusty pieces of sword blades, fragments of red earthenware, have drawn generations of pilgrims to the shrines in which they are preserved. At various small temples which I visited, the temple treasures consisted of trays full of small stones. The first time I saw those little stones I thought that the priests had been studying geology or mineralogy, each stone being labelled in Japanese characters. On examination, the stones proved to be absolutely worthless in themselves, even as specimens of neighboring rocks. But the stories which the priests or acolytes could tell about each and every stone were more than interesting. The stones served as rude beads, in fact, for the recital of a litany of Buddhist legends.

   After the experience of the Sai-no-ike, I had little reason to expect to see anything extraordinary at Shimonishimura. But this time I was agreeably mistaken. Shimonishimura is a pretty fishing village within an hour's row from Saigo. The boat follows a wild but beautiful coast, passing one singular truncated hill, Oshiroyama, upon which a strong castle stood in ancient times. There is now only a small Shinto shrine there, surrounded by pines. From the hamlet of Shimonishimura to the Temple of Tama-Wakasu-jinja is a walk of twenty minutes, over very rough paths between rice-fields and vegetable gardens. But the situation of the temple, surrounded by its sacred grove, in the heart of a landscape framed in by mountain ranges of many colors, is charmingly impressive. The edifice seems to have once been a Buddhist temple; it is now the largest Shinto structure in Oki. Before its gate stands the famous cedar, not remarkable for height, but wonderful for girth. Two yards above the soil its circumference is forty-five feet. It has given its name to the holy place; the Oki peasantry scarcely ever speak of Tama-Wakasu-jinja, but only of 'Ō-Sugi,' the Great Cedar. 

  Tradition avers that this tree was planted by a Buddhist nun more than eight hundred years ago. And it is alleged that whoever eats with chopsticks made from the wood of that tree will never have the toothache, and will live to become exceedingly old.[10]

 

9
There are two ponds not far from each other. The one I visited was called 0-ike, or 'The Male Pond,' and the other, Me-ike, or 'The Female Pond.'

10
Speaking of the supposed power of certain trees to cure toothache, I may mention a curious superstition about the yanagi, or willow-tree. Sufferers from
toothache sometimes stick needles into the tree, believing that the pain caused to the tree-spirit will force it to exercise its power to cure. I could not, however, find any record of this practice in Oki.

2015/12/02

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十九)

 

       一九

 

 自分は名所のうちの或る物を實地見る上に於て色々な困難があることを知つた。隱岐全體に、唯々山路があるだけで、道路といへる道路は全く無い。從つてまた、西鄕一帶の醫者が輸入した、街路でだけ使用の出來る一臺を除いて、人力車は一臺も無い。籠さへ、これもその醫者が使用する一挺を除いて、他には無いのである。强壯な百姓が言ふ處に據つても、路は恐つそろしくでこぼこで、それにまた遠さが、殊に一年のうちで一番暑い今、うんざりさせる。小馬は僦へる。出雲西部の此處と似寄つた未開地での自分の經驗が、たゞ瀧一つ見るだけのことに、辷り易い壑を通り早瀨の床に沿ひ、松が一杯生えて居る小山を幾つも越えての長の苦しい乘馬をしたところで、愉快も利益も得られはせぬと思はせた。自分は檀鏡の瀧見物の念は放棄した。が。出來ることなら、顎無し地藏は見ようと決心した。

 

 自分は、その苦痛は深さ幾百哩かと思へるあの齒痛に――時間空間の觀念を亂すあの齒痛に――惱まされて居た折、初めて松江で顎無し地藏のことを聞いたのであつた。その時思ひ遣りの深い或る友が斯う言つた。――

 『齒痛を病む者は顎無し地藏に祈願する。顎無し地藏は隱岐に居られるが、出雲の人達はそれへ祈願する。治ると、宍道湖か、川か、海か、或は流れ川へ行つて、梨子(ナシ)を十二、十二ケ月の月々に一つづつ流す。水の流れがそれを皆んな海を越えて隱岐へ持つて行つて吳れると信じて居る。

 『ところで、アゴナシヂザウといふは顎の無い地藏といふことである。といふのは、その地藏はその或る前生に下顎に非常な齒痛を病まれ、苦しさの餘りその顎を裂取り、それを投げ棄て、そして死んでしまはれたといふことだから。それからその地藏は菩薩になられた。それで隱岐の者共は顎の無いその像を造つた。そして齒痛を病む者はみんな隱岐のその地藏に祈願する』

 この話は面白かつた。自分は、それに必要な勇氣と現世の後累に對する虛心とを缺いては居るが、顎無し地藏がされたやうにしたいといふ强い希望は一度ならず感じたからであつた。その上、この傳說は齒痛に對して如何にも人情のある甚深な理解を示し、またその犧牲者に對して如何にも廣い同情をほのめかして居るので、自分は幾分か慰められた氣がした。

 

 にも拘らず自分は顎無し地藏を見には行かなかつた。見ようにも顎無し地藏はもう居られぬといふことが判つたからである。その消息は、或る晩、友人が齎らしたのである。それは松江の士族で、今隱岐に居着いて暮して居る年の若い警察官と、その細君であつた。二人は夜明け前に出發して、途中三十二個處も早瀨を渉つて、自分等に會ひに島を橫斷して歩いで來たのであつた。細君はやつと十九で非常にほつそりした可愛らしい女であつたが、それでもその長の非道い旅行に疲れた樣子はして居なかつた。

 その有名な地藏に就いて知つた事は斯うであつた。顎無し地藏といふ名はその本當の名のアゴナホシヂザウ卽ち「顎治ほし地藏」を俗民が言ひ訛つたのである。その像の安置してあつた小寺は火事で焚けて、その像も一緖に焚けてしまつた。たゞその像の下の方の一と破片(かけ)だけ、或る年寄の百姓女が今恭しく保存して居る。佛敎が國敎で無くなつた爲めに、隱岐の國でのその信仰の資源が全く絕やされたので、その寺を再建することが出來ぬ。だが都萬目里の百姓共はそのお寺の在つた處へ、その前へ鳥居を立て、小さな神道のミヤを建てた。そしてその宮で今でも皆んな顎無し地藏への祈願をする。

 この最後の奇妙な事實は加賀の潛戶で、地藏の像の前に建つて居るのを見た小さな鳥居を懷ひ出させた。西部日本の斯ういふ遠隔な地方では、古昔日本の他の部分で佛敎が神道の諸神を併呑したと丁度同じに、今は神道が佛敎の通俗な諸佛を我がものにして居るのである。

[やぶちゃん注:「檀鏡の瀧」「顎無し地藏」については、前の「一八」の私の諸注をも、必ず、参照されたい。但し、ここに語られる地蔵菩薩が菩薩となる前の歯痛の話は初耳である。弥勒菩薩でよく見られる半跏思惟の手つきを、歯痛に転じた、トンデモ解釈と私は見た。

「僦へる」は「やとへる」(雇える)と読む。

「宍道湖か、川か、海か、或は流れ川へ」原文は“to Lake Shinji, to the river, to the sea, or to any running stream,”で「流れ川」とは、川というほどではないが勢いのある小流れ、小川、といった謂いか。

「梨子(ナシ)」この「(ナシ)」はルビではなく、本文。梨の「ナシ」は腮「無し」、歯痛「無し」に通ずるからか。

「現世の後累」「今の世の私を継ぐべき若い世代」の意かと思われるが、どうも日本語として半可通である。原文は“indifference to earthly consequences”で、これは――現実の結果に対して無関心なこと――の謂いであるが、それでも半可通。平井呈一氏は『世間体などはいっこう構わぬという恬然とした気持ち』と訳しておられて、素直に腑に落ちた。

「加賀の潛戶で、地藏の像の前に建つて居るのを見た小さな鳥居を懷ひ出させた」「第九章 子供の精靈の――潜戶(六)を参照。

「都萬目里」前篇で出たように、「つばめのさと」と読む。] 

 

ⅩⅨ.

 

   I found there were various difficulties in the way of becoming acquainted with some of the kembutsu. There are no roads, properly speaking, in all Oki, only mountain paths; and consequently there are no jinricksha, with the exception of one especially imported by the leading physician of Saigo, and available for use only in the streets. There are not even any kago, or palanquins, except one for the use of the same physician. The paths are terribly rough, according to the testimony of the strong peasants themselves; and the distances, particularly in the hottest period of the year, are disheartening. Ponies can be hired; but my experiences of a similar wild country in western Izumo persuaded me that neither pleasure nor profit was to be gained by a long and painful ride over pine-covered hills, through slippery gullies and along torrent-beds, merely to look at a waterfall. I abandoned the idea of visiting Dangyotaki, but resolved, if possible, to see Agonashi-Jizō.

 

   I had first heard in Matsue of Agonashi-Jizo, while suffering from one of those toothaches in which the pain appears to be several hundred miles in depth,— one of those toothaches which disturb your ideas of space and time. And a friend who sympathised said: —

   'People who have toothache pray to Agonashi-Jizo. Agonashi-Jizo is in Oki, but Izumo people pray to him. When cured they go to Lake Shinji, to the river, to the sea, or to any running stream, and drop into the water twelve pears (nashi), one for each of the twelve months. And they believe the currents will carry all these to Oki across the sea.

   'Now, Agonashi-Jizō means 'Jizō-who-has-no-jaw.' For it is said that in one of his former lives Jizō had such a toothache in his lower jaw that he tore off his jaw, and threw it away, and died. And he became a Bosatsu. And the people of Oki made a statue of him without a jaw; and all who suffer toothache pray to that Jizo of Oki.'

   This story interested me for more than once I had felt a strong desire to do like Agonashi-Jizō, though lacking the necessary courage and indifference to earthly consequences. Moreover, the tradition suggested so humane and profound a comprehension of toothache, and so large a sympathy with its victims, that I felt myself somewhat consoled.

 

   Nevertheless, I did not go to see Agonashi-Jizō, because I found out there was no longer any Agonashi-Jizo to see. The news was brought one evening by some friends, shizoku of Matsue, who had settled in Oki, a young police officer and his wife. They had walked right across the island to see us, starting before daylight, and crossing no less than thirty-two torrents on their way. The wife, only nineteen, was quite slender and pretty, and did not appear tired by that long rough journey.

   What we learned about the famous Jizō was this: The name Agonashi-Jizō was only a popular corruption of the true name, Agonaoshi-Jizō, or 'Jizō-the-Healer-of-jaws.' The little temple in which the statue stood had been burned, and the statue along with it, except a fragment of the lower part of the figure, now piously preserved by some old peasant woman. It was impossible to rebuild the temple, as the disestablishment of Buddhism had entirely destroyed the resources of that faith in Oki. But the peasantry of Tsubamezato had built a little Shinto miya on the sight of the temple, with a torii before it, and people still prayed there to Agonaoshi-Jizō.

   This last curious fact reminded me of the little torii I had seen erected before the images of Jizō in the Cave of the Children's Ghosts. Shintō, in these remote districts of the west, now appropriates the popular divinities of Buddhism, just as of old Buddhism used to absorb the divinities of Shintō in other parts of Japan.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十八)

 

        一八 

 

 松江で出版された或る小さな本に據ると、隱岐の國のメイシヨは、その四つの主もな島の三つの間に分けられて居る。知夫里島だけが特に興味のあるものを何一つ有つて居ないのである。數代の間、島後での人引きつけ場處は、都萬目里(つばめざと)の頤無し地藏の寺と、油井(ゆゐ)村にある瀧(檀鏡瀧)と、下村(しもむら)の玉若酢神社の前の大杉と、それから其處に馬蹄石があるといふ津井の池といふ小さな湖水とであつた。中の島には、海士(あま)村に、流罪になり給ふた後鳥羽天皇の御墓と、時折其處に御住みになつて居た、そして今日に至るまで御遺物が保存されて居る、助九郞といふ古昔の長者の邸宅とがある。西の島は、別府に、流罪になり給うた後醍醐天皇記念の神社と、無雲の日には其處から此群島全體の壯觀を眼にすることが出來るといふ、燒火山の頂上の、あの權現樣の神社とを有つて居る。

 知夫里島は名所は無いけれども、知夫里といふ貧乏小村は――隱岐通ひの汽船が西鄕ヘの途中必ず寄港するあの知夫里村は――此群島の傳說總てのうち恐らくは最も興味あるものの舞臺である。

 五百六十年前、配流の後醍醐天皇は警護者の眼を脫れて西の島から知夫里へどうかかうか逃げ終せられた。するとその小村の色黑の水夫共は、必要あらば生命を賭しても、天皇に仕へ申さうと申出た。皆はその船へ、多分その子孫が今も出雲や伯耆へ持出すのと同じ干烏賊であつたらう、『乾たる魚』を積込んで居る處であつた。天皇は首尾能く伯耆か出雲へ上陸させて吳れゝばお前等を忘れまいとお約束になつた。そこで皆の者は天皇を或る小船にお乘せ申した。

 處が出船して少ししか行かないうちに追手の船が見えた。そこで天皇に向つて橫に臥てお出でになるやう申上げ、玉體の上へ高く乾魚を積み上げた。追手の者は船へ乘込んで搜索したが、非道い臭の鯣は手を觸れようとも思はなかつた。そして知夫里の者共は訊問されると、話をこしらへて、虛僞(うそ)の手掛を天皇の敵に話してきかせた。斯くして鯣のお蔭でこの善良なる天皇は遠島を免れ得給うたのである。

[やぶちゃん注:「都萬目里(つばめざと)の頤無し地藏の寺」島後の西部寄り中央附近にある現在の隠岐の島町都万目(つばめ)地区に「腮無(あごなし)地蔵堂」として、「取り敢えず」、堂としては、現存するものを指している(鍵括弧及び勿体ぶった謂い方をしているのかは後で判る)。「しまね観光ナビ」の「あごなし地蔵堂」の地図を見られたい。後述するが、ここには伴桂寺という曹洞宗の寺があったらしい。個人ブログ「隠岐での日々」の「隠岐の紅葉 あごなし地蔵尊と小野篁②」がよい。リンク先の同地蔵堂に掲げられてある「腮無地蔵堂略縁記」の写真を拡大して読まれると、この地蔵(二体あるとする)は小野篁自らが彫ったものであること、その一体はここの近くの茶屋の娘で「腮が落ちん」ばかりの激しい歯痛に悩んでいた「阿古那(あこな)」のそれを癒やした地蔵像であったこと(「あごなし」とは元は娘の名を冠した「阿古那(あこな)地蔵」であったものが歯痛効験の地蔵尊という絡みで訛ったものと思われる)、篁とその阿古那が結ばれ、子も産まれたが二歳で夭折、篁も帰京することとなり、亡くなった子を象って二体目の地蔵を彫って阿古那に授けて去ったこと、その後この二体の地蔵歯痛のみでなく、諸病に効験ありとして信仰されたこと、最後に『明治二年廃仏思想伝わるや地蔵尊堂も火を放たるところとなる 役人の去るを待ち井上角四郎火中に飛込み危く焼失せんとした尊像を拝持ちし自家へ移しまつる 後年同郷の人々と力を協せ本堂を建立し安置せるものなり』とある(クレジットは昭和三一(一九五六)年八月二十八日とし、「腮無地蔵奉賛会」という組織名が記されてはある)。……しかし、である。……記事の方の後ろのコメントを読んでみて戴きたいのである。……そこには管理人の方とコメントした方との間で以下のような不思議な会話が載るのである。……

 

   *

 

『あごなし地蔵様というのは今はお堂がきれいになっているのですか。拝観はできるのですか』。『私が隠岐島後に居た頃は、島後に来て2年になる者が、「島後にきて2年になるが一度もお地蔵さんを拝観したことがない」と言ったところ、その近くに住んでいる女の人が「私は此の地に嫁にきて42年になるがまだいちどもお地蔵さんをみたことがない」と言っていたそうです』。『それを聞いて島後生活2年の者は、「42年も暮らしていてまだお顔を拝していないのだから自分のように2年やそこらの者が拝観できないのは当たり前かもしれない。」と言っていました『また島後の人たちは、願満寺のことを「ガマジ」と「都万目」のことを「ツバメ」発音していますね』……

『さて、拝観についてすが私が行ったときは本堂の戸が開いていて中まで見れましたが、どこにその像があるのかはわかりませんでした。もしかしたら奥のほうにしまってあるのか、いつも見れる状態にはなっていないのかもしれません』……

『お堂は年中開いていますので』『いつでも入ることが出来ますが、仏像2体は扉が閉まり見ることはできません。旧歴7月23日の二十三夜という祭りの日に1年1回だけ扉が開かれますが、幕が掛かっており直接は見えない状態です』。『ちなみに、2体の仏像は廃仏毀釈で焼かれ黒こげ状態で』『輪郭はあるものの彫刻の状態はわかりません』……

『お堂はいつも開いているのですね。一度、地元の方が開けて中に入っていくのを見かけました』。『仏像は基本的に見れないのですね。廃仏毀釈の爪痕が隠岐では大きく残っていますね』……

   *

……お気づきになられたであろうか?……

……この管理人の方もコメントされた方も……

……いや……

……島後に来て二年になる方も四十二年も暮らしている方も……

……誰も……

――この地蔵を見たことがない――

……と言っておられるのである……

……年に一度だけ扉が開かれるが……

……幕が掛かっていて二体の地蔵は直接には見ることが出来ぬ……

……しかも二体とも黒焦げで彫像と認識出来るような代物ではない……

……というのである。

ミステリアスにしてホラーの焦げ臭い臭いが漂ってくるではないか?!

隠岐でのおぞましいかの廃仏毀釈が苛烈なものであったことは幾つかの記載で知っていたが、寺ごと焼き払うというのはまさにイスラムのファンダメンタルな過激派みたようだ。ここまで酷かったとは知らなかった。そこでさらに調べてみた。

……すると……

……どうも……

実はここには――地蔵像は「ない」のではないか?――という疑惑が浮上してきたのである!!!

それは、大阪府豊中市南桜塚にある曹洞宗仏日山吉祥林東光院の公式サイトの「由緒と歴史」の中の「隠岐島のあごなし地蔵尊の遷座」が目に止まったからである。そこには「あごなし地蔵大菩薩三尊像」と称する左右に二童子を配した坐像地蔵尊を写真で拝める(これは同寺でも秘仏とされ五十年に一度(!)しか開帳されないとある)が、そこには歯痛平癒の霊験あらたかで、全国的に信仰を集めているとあり、その縁起は『伝来する古文書と地蔵堂移築落慶の棟札により考証され』るとあって、その隠岐にあった伴桂寺という寺の祖芳という僧の書いた『「あごなし地蔵尊伝来本縁起(でんらいほんえんぎ)」』なるものには、『平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が』承和五(八三八)年十二月に『隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました』。『その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています』とあって、明らかにこの隠岐の「腮無地蔵」伝承と根っこが同じであることが判るのである。当該頁にはこの東光院にこの地蔵が持ち込まれた経緯を以下のように記してある(字配はママ)。

   《引用開始》

 廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる明治2年、隠岐島の伴桂寺が廃仏に遭いました。

伴桂寺の最後の住職となった聯山祖芳(れんざんそほう)大和尚は、当時の当院住職大雄義寧禅師の弟子でした。伽藍、仏像、経巻、什宝を悉く焼却破棄する未曽有の暴挙に遭った祖芳和尚は、千年にわたって全国的に厚い信仰を集めていた小野篁(おののたかむら)卿正作のあごなし地蔵尊像を命を賭してお護りし、師寮寺である東光院へ逃げてきたのです。

この霊像の再興を図る祖芳和尚は、義寧禅師に当山での永世護持をこいねがい、尽[やぶちゃん注:「ついには」と訓じているか。]には許されて我が国最古級のこの由緒深き[やぶちゃん注:引用元は「探き」であるが訂した。]地蔵尊像は、当山に連座されることとなりました。
そこで当山は、明治4年9月、この引き取ったあごなし地蔵尊像を安置する堂宇の建立を大阪府に申請しますが、新築は不許可となります。しかし、義寧の猛烈な護法運動の結果、翌年正月に申請した旧川崎東照宮の本地仏と本地堂の引取りが認められました。

そこで急遽本地堂をその地蔵堂として上棟することとなり、明治5年(1872)5月、鴻池善右衛門をはじめとする大阪の豪商たち、伴桂寺祖芳、東照宮関係者、数多くの講中各位が列するなか、あごなし地蔵尊は艱難辛苦の末、当山に永代鎮座されたのです。

   《引用終了》

――隠岐の「腮無地蔵」を誰も見たことがないのは当然で――実はそれは一体だけであって――しかもそれは隠岐ではなく――この大阪の東光院にある――のではなかろうか?……しかし乍ら、先の隠岐の二体の地蔵伝承はどうみても近代に創られたものではあるまい。とすれば、廃仏毀釈の嵐の中で、内心、仏閣や仏具・仏像を容赦なく焼き捨てたことを傷ましく思った村人たちが、焼け跡のそれらしき物体を二体の地蔵として再祭祀したものとも思われなくもない。なお、これについては、実は、ハーンも、次の「一九」で聞き書きを記しているのである。ともかくも何か、如何にも哀しい話ではある。……

「油井(ゆゐ)村にある瀧(檀鏡瀧)」原文を見て頂くと分かる通り、これは「だんぎょうたき」と読んでいる。島後の南西部山中にある滝である。ウィキの「壇鏡の滝から引く。『壇鏡の滝(だんぎょうのたき)は、隠岐諸島の島後島(島根県隠岐郡隠岐の島町)にある横尾山を源流とする那久川の滝である』。『岩壁に立つ壇鏡神社の両側に落差約』四十メートルの『雄滝と雌滝があり、雄滝は滝を裏側から見ることのできる「裏見の滝」となっている』。『地元では、長寿の水、勝者(女神)の水、火難防止の水として名が知られており、島の行事に出場する関係者は必ずこの水で清めて行事に臨む慣習が続いている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「下村(しもむら)の玉若酢神社の前の大杉」正しくは「玉若酢命神社」(たまわかすみことじんじゃ)で。現在の隠岐の島町下西(しもにし)にある創建の年代不詳の神社である。ここ(グーグル・マップ・データ)。私も訪れたが、西郷に、ごく近いが、とても雰囲気の落ち着いた、よい神社である(私は実は神社嫌いであるが、ここは、とても気に入った)。ウィキ玉若酢命神社によれば、『玉若酢命は、この島の開拓にかかわる神と考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる』が、『玉若酢命は記紀には全く登場しない地方神で、その語義は明らかではない』が、『島内北西部にある水若酢神社と鎮座地の地理的・歴史的条件が極めて似ていることから、両社祭神に共通する「ワカス」は、この島の開拓に係わる重要な意味を持つ語であったと推測されている』とある。ハーンの言う「大杉」は今も「八百杉(やおすぎ)」という名で残っており、ウィキによれば、境内にある杉の巨木で樹齢は千年とも二千年以上とも称され、若狭国からきた八百比丘尼が参拝の記念に植えたもので、八百年の後に『再訪を約束したことから八百杉と呼ばれるようになったと伝えられる』。文政六(一八二三)年に書かれた「隠岐古記集」には『同様の伝承を持つ杉が』三本あったが、一本は天明年間(一七八一年~一七八八年)に大風で倒れてしまい、もう一本も近年倒れたので現在は一本『しか残っていないとの記述がある。また、根元に棲んでいた大蛇が、寝ている間に生きたまま木の中に閉じ込められ、今でも幹に耳をあてると大蛇のいびきが聞こえるとの伝承がある』とある(これは知らず、耳を当てなかったことが悔やまれる。昭和四(一九二九)年に国天然記念物に指定されている)。

「馬蹄石があるといふ津井の池」前に注したが、原文を見れば判る通り、この「津井」は「さい」と読む。何故、訳者はルビを振らないのだろう? 誰もこれを「さい」とは読めないのに!?! 島後の南東の海の直近にあり、「男池」と「女池」の二つから成る。一七の「島後の或る深い池」の私の注を参照されたい。ここ(「ひなたGIS」)。

「流罪になり給ふた後鳥羽天皇の御墓」現在の海士町の「隠岐海士町陵」(おきあまちょうのみささぎ)と通称される火葬塚のこと。公式な陵は京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵(おおはらのみささぎ)であるが、私は四年前の夏、この海士町の塚で、かの異形の男の遺香と霊を妙に感じたことを思い出す。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「助九郞といふ古昔の長者の邸宅」中ノ島の現在の海士町にある隠岐神社の近くにある村上家のこと(隠岐神社は現在、前注の後鳥羽院の火葬塚に隣接する。ウィキの「隠岐神社」によれば、万治元(一六五八)年に松江藩初代藩主松平直政が火葬塚に併設して『廟殿を造営し、明治まで維持に努めたが』、明治二(一六八九)年に『廃仏毀釈の影響で源福寺は廃寺』となってしまった(後に復興)。但し、『海士町の後鳥羽院資料館に所蔵される絵図(江戸末期の様子)には、この火葬塚の場所に「後鳥羽院神社」(創建不詳)が描かれており、江戸末期には、島民によりここで祭祀が行われていたといわれている』。しかし、明治六(一八七三)年に『法皇の御霊を大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮に奉遷したため、翌』明治七年には『後鳥羽院神社も取り払われ』てしまった。『なお、神社が取り払われての後も、祭祀が続けられていたといわれる。後に、この神社を中心とした旧源福寺境内地は、後鳥羽天皇の隠岐の御陵「御火葬塚」とされた』。即ち、ハーンが来訪した時には現行のような神社は存在しなかったのである。隠岐神社は、昭和一五(一九四〇)年の『紀元二千六百年の奉祝事業の一つとして』、同十四(一九三九)年に島根県が創建完成したもので、同十八年には『県社に列せられ』た。『鎮座地は「御火葬塚」に隣接している』とある)村上家は承久の乱で配流となった後鳥羽上皇に公文(くもん:村役人代表)として忠誠を尽くし、上皇崩御後も現在に至るまで火葬塚の守部を務めている、古くから「森屋敷」と呼ばれた隠岐の豪族である。村上家当主は代々「助九郎」を名乗っているが、これは慶長一三(一六〇八)年に徳川家康によってこの島に流されていた飛鳥井雅賢(あすかいまさかた 天正一三(一五八五)年~寛永三(一六二六)年):江戸初期の朝臣で従四位下左近衛少将。慶長一四(一六〇九)年に発生した猪熊(いのくま)事件で後陽成天皇の女官と密通した遊蕩の罪により隠岐国中之島(現在の海士町)へと配流されここで没した)から蹴鞠の免状を授かった折りに命名されたものと伝えられている。現当主は四十八代目に当たる(以上は主に「しまね観光ナビ」の「和歌の世界を散策」の村上家を参照した)。ここ(グーグル・マップ・データ)で、現在は資料館になっており、親しく観た。

「別府」現在の西ノ島町別府(グーグル・マップ・データ)。隠岐諸島島前地域に於ける西ノ島の玄関口としての役割を有する別府港がある。

「後醍醐天皇記念の神社」彼は「元弘の乱」によって鎌倉幕府に捕縛され、元弘二/正慶元(一三三二)年に隠岐島に流されたが、実はウィキ隠岐によれば、『隠岐での後醍醐天皇の行在所と伝えられる土地は二箇所あり、島根県西ノ島町の天皇山には天皇の行在所と伝えられる黒木御所址や黒木神社、寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡が存在し、古文書も保管されている。一方』、『国分寺の存在した隠岐の島町にも行在所があったと伝えられている』とある。脱出するまでの凡そ一年を隠岐で過ごしている。ここで言う「神社」は後醍醐天皇を祭神とする黒木神社(グーグル・マップ・データ)のこと。なお、調べてみると、少なくとも神社名は「くろぎ」と濁るようである。

「燒火山の頂上の、あの權現樣の神社」現在の焼火(たくひ/たくび)神社。ウィキ焼火神社によれば、『焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが』、『後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した』とある(下線やぶちゃん)。七」の「燒火山(たくひざん)」の私の注を参照されたい。ここ(グーグル・マップ・データ)。当時は連れ合いが足が悪かったため、行っていない。

「知夫里島は名所は無いけれども」赤壁とアカハゲ山の景観は絶景!! 必ず、行くべし!!!

「五百六十年前」ハーンの訪問は明治二五(一八九二)年であるから、単純逆算だと一三三二年で、ほぼ正確と言える。

「玉體の上へ高く乾魚を積み上げた。追手の者は船へ乘込んで搜索したが、非道い臭の鯣は手を觸れようとも思はなかつた」後醍醐天皇、これ、よくぞ、生乾きの鯣の臭気で悶絶しなかったものである。嫌いな天皇だが、可哀想な気が、ちょっとだけ、した。] 

 

ⅩⅧ.

 

   According to a little book published at Matsue, the kembutsu of Oki-no- Kuni are divided among three of the four principal islands; Chiburishima only possessing nothing of special interest. For many generations the attractions of Dōgo have been the shrine of Agonashi Jizō, at Tsubamezato; the waterfall (Dangyo-taki) at Yuenimura; the mighty cedar- tree (sugi) before the shrine of Tama-Wakusa-jinja at Shimomura, and the lakelet called Sai-no-ike where the
bateiseki is said to be found. Nakanoshima possesses the tomb of the exiled Emperor Go-Toba, at Amamura, and the residence of the ancient Chōja, Shikekurō,
where he dwelt betimes, and where relics of him are kept even to this day. Nishinoshima possesses at Beppu a shrine in memory of the exiled Emperor
Go-Daigo, and on the summit of Takuhizan that shrine of Gongen-Sama, from the place of which a wonderful view of the whole archipelago is said to be
obtainable on cloudless days.

   Though Chiburishima has no kembutsu, her poor little village of Chiburi — the same Chiburimura at which the Oki steamer always touches on her way to Saigo — is the scene of perhaps the most interesting of all the traditions of the archipelago.

   Five hundred and sixty years ago, the exiled Emperor Go-Daigo managed to escape from the observation of his guards, and to flee from Nishinoshima to Chiburi. And the brown sailors of that little hamlet offered to serve him, even with their lives if need be. They were loading their boats with 'dried fish,' doubtless the same dried cuttlefish which their descendants still carry to Izumo and to Hoki. The emperor promised to remember them, should they succeed in landing him either in Hōki or in Izumo; and they put him in a boat.

   But when they had sailed only a little way they saw the pursuing vessels. Then they told the emperor to lie down, and they piled the dried fish high above him. The pursuers came on board and searched the boat, but they did not even think of touching the strong-smelling cuttlefish. And when the men of Chiburi were questioned they invented a story, and gave to the enemies of the emperor a false clue to follow. And so, by means of the cuttlefish, the good emperor was enabled to escape from banishment.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十七)

 

       一七 

 

 日本には殆んど何(ど)の郡何(ど)の町にも其處のメイブツ或は其處のメイシヨがある。或る場處のメイブツといふのは、天產物であらうが人工品であらうが、其處の特別な物產である。或る町或は郡のメイシヨといふのは其處の觀處(みどころ)で――何か宗敎的、傳說的、歷史的或は愉樂的の理由で――訪ねて行つて見る價値のある場所である。社寺や庭園、異常な樹木や奇妙な岩、それがメイシヨである。其處からして美くしい景色が眺められる場所、又は、春は櫻の花とか、夏の夜は螢のちらつく光りとか、秋は楓の紅葉とか、或は支那の詩人がそれヘキンリヨウ(金龍)とい面白い名を與へて居る水上のあの蛇のやうな長い月光の漾とかいふやうな、愉快な光景を眺め樂しむことが出來る場所も、同樣にまたメイシヨである。

    この一章の原文にケムブツとあるの
    は、メイシヨケムブツといふ言葉か
    らして、原著者が誤つてケムブツを、
    メイシヨを意味する語のやうに思つ
    て用ひたものに相違無いから、譯文
    ではそれを訂して置いた。(譯者識)

 隱岐の大名物(めいぶつ)は日御崎の大名物と同じで――鯣である。これは支那にも日本にも大いに需用のある食料品である。隱岐と日御崎と美保關との烏賊はいづれもイカ(セピアの一種)と稱せられて居る。が、美保關で獲れるのは白くまた長さが普通十五吋あるのに、隱岐と日御崎とのは十二吋を越すのは稀で且つ色も赤味を帶びて居る。美保關と日御崎との漁業は殆んど世に知らてゐない。隱岐の漁業は日本全國はおろか、支那、朝鮮にも名がきこえて居る。この島が繁榮を來たし、且り又その極く僅かの部分しか全く耕作の出來ない海岸に、三萬の生靈を支持し來たつて居るのは、全く海の耕作に由つてである。非常に多額の鳥賊を船で本土へ運ぶ。が、隱岐にとつて此產物の最上の顧客は支那人であると聞いて居る。この供給がいつか絕えでもすれば、その結果は想像も及ばぬ不幸なものであらう。だが、今のところ、この漁業は數千年行はれ來たつて居るけれども、無盡藏のやうに思はれる。幾百噸といふ烏賊を捕り、貯臟し、每月々々輸出し、そして幾百英町の地面がその臟腑や殘物で肥沃にされて居るのである。この漁穫に就いて警察の或る役人が自分に色んな事を語つてきかせた。西鄕の東北海岸ではたゞの一と晩に二千尾以上の烏賊を捕ることは敢て珍らしい事では無いといふ。網數四五度の獲物の重さで船がはちされたことがあるから、積入れるのに用心しなければならぬといふ。が然し、このセピアのほかに、同じく食用の重要物產を供給して呉れる別種のカトル・フイシユがこの海岸に群集して居る。それはあの恐ろしいタコ卽ちオクトパスである。一匹の重さ十五貫卽ち殆んど百二十五英斤の章魚を時々中村の漁場近くで捕る。そんな化け物のやうな動物にこれまで人が危害を蒙つた記錄が無いと知つて自分は驚いた。

 隱岐の今一つの名物は――知られて居て然るべきであるのに餘り世に知られてゐない――バテイセキ卽ち『馬蹄石』といふ美くしい眞黑な石である。島後にだけ在るもので、しかも大きな塊になつては居らぬ。重さは燧石ぐらゐで、且つまた燧石のやうに殺(そ)げる。がこれは磨きの效く石で、磨くとその光澤は瑪瑙のやうである。紋理も斑點も全く無い。その强度な黑色は決して變らぬ。いろんな美術品を馬蹄石で造る。硯、盃、小笛、小さなダイ卸ち花瓶や小さな肖像を載せる臺など。此材料は出雲の湯町の美くしい瑪瑙同樣に細工が出來るから、飾玉すら造られる。そんな品物はその製造元でも割合高價である。

 馬蹄石の起原に就いて妙な傳說がある。馬蹄石は、その色か、或は屢〻その天然狀態に於て見られる所の、又曲線を爲して殺(そ)げ易い傾向があるので生ずる所の半圓形の痕かが、思ひ樣によつては馬の蹄に何處か似て居るのでその名があるのである。が、傳說に據ると、或る神馬の――源氏の勇士佐々木高綱のあの驚く可き牝馬の――蹄が觸つて出來たのだといふ。その牝馬には子があつたが、島後の或る深い池へ落ちて死んだ。牝馬は水に映つた己が頭の影に欺かれて自分もその池へ飛び込んだ。が、子は見つからなかつた。長い間徒に探して歎いた。が然し堅い岩さへその牝馬に同情して、その蹄が水の下で觸つた處が馬蹄石に變つた、といふのである。

 殆んど馬蹄石に劣らず美しい、そして同じく黑い、今一つの隱岐名物がある。それはウミマツ卽ち『海松』と呼ぶ珊瑚性の海產物である。煙管筒や筆立や他の小さな品物をそれで製造する。そして、磨くと黑漆で塗つたやうである。海松で造つた品物は稀で且つ高價である。

 ところが眞珠母の物品は隱岐では甚だ廉い。そしてそれがまた別種の隱岐名物になつて居る。アハビ卽ち『鮑(シイ・イア)』の貝殻を、これは西部日本の此邊の海では驚く許りの大きさに達するが、それを巧に磨きまた切り斷つて、その表面の虹色の光りが恰も百通りの色の火がきらめくやうに見える不思議な皿や鉢や盃や、その他の器物に變へて居る。

[やぶちゃん注:「支那の詩人がそれヘキンリヨウ(金龍)とい面白い名を與へて居る水上のあの蛇のやうな長い月光の漾」誰を指すのか、不詳。識者の御教授を乞う。老婆心乍ら、「漾」は「ただよひ(ただよい)」と訓ずる。

「イカ(セピアの一種)」原文“ika (a kind of sepia)”。この“sepia”は、

 軟体動物門頭足綱鞘形亜綱十腕形上目コウイカ目 Sepiida

のイカ類、或いはそれ以下のタクソン、

 コウイカ目Sepiina 亜目コウイカ科 Sepiidae

に属する種群、或いはその中でも、

 コウイカ属 Sepia

に属する種、狭義には種としての

 コウイカ Sepia (Platysepia) esculenta

を指すところの一般的な英単語と考えられる。学術用語の「コウイカ属」を指すのであるなら、頭文字の“s”は大文字でなくてはならないし、全体を斜体にせねばならぬ。ハーンは既に別の箇所で生物の学名をローマン斜体で示しているからである。

「美保關で獲れるのは白くまた長さが普通十五吋あるのに、隱岐と日御崎とのは十二吋を越すのは稀で且つ色も赤味を帶びて居る」「十五吋」「十二吋」一インチは二・五四センチメートルであるから、前者は約三十八センチメートル、後者は約三十センチメートル強。「美保關で獲れるのは白くまた長さが普通十五吋ある」というのは、島根県で「しろいか」(白烏賊)、同島根県東部で「まいか」(真烏賊)と呼称される、

 十脚形上目ツツイカ目開目亜目ヤリイカ科ヤリイカ属ケンサキイカ Uroteuthis edulis

を指すか。それに対し、「隱岐と日御崎とのは十二吋を越すのは稀で且つ色も赤味を帶びて居る」というのは、ハーンも名物として出す「鯣(するめ)」の主たる素材となる(但し、最も上等の鯣とされるのは御存じのように、前に出したケンサキイカのそれで、特に「一番鯣」とさえ呼ばれる)、

 十脚形上目ツツイカ目閉眼亜目アカイカ科スルメイカ亜科スルメイカ属スルメイカ Todarodes pacificus

か、或いは鳥取で「あかいか」(赤烏賊)、島根で「べにいか」(紅烏賊)、隠岐では「あかいか」「どーたりいか」(西ノ島。語源不詳。体の「胴」と同じぐらい大きいから、或いは釣ったらどたっとして動かないから、古く日本海では樽流し釣りの漁法で大きな烏賊を獲ったことから「タル」が「タレ」「タリ」となって「ドータリイカ」になったという三説が「西ノ島町観光協会」発行のこちら(PDF)に掲載されてあった。鳥取県では本種を「たるいか」(樽イカ)と称しており、私は「胴樽」(大型個体の胴が樽のように大きい)が語源では? と考えた)などと称される、

 十脚形上目ツツイカ目閉眼亜目ソデイカ科ソデイカ Thysanoteuthis rhombus の若年個体

かとも思われる。ソデイカ Thysanoteuthis rhombus の方を「若年個体」としたのは、実際には成長したソデイカの個体の中には胴長八十五センチメートルに及ぶ恐るべき巨大なものもあるからである(なお、和名の「袖烏賊」は、第三腕の口器側の保護膜が広く、且つ、支持肉柱が多数あるために「袖」のように見えることに由来する)。

「三萬の生靈」原文“thirty thousand souls”「三」の最後に『全島の人口は三萬〇百九十六人』と引用している。……いや、訳者と思われる大谷正信さん……分からなくはないんだけど……ここはやっぱ、「三萬の島民」辺りでよいんでは、ありますまいか?

「幾百英町」「英町」は「エーカー」と読んでおく。原文“many hundreds of acres”“acre”は面積の単位の「エーカー」である。一エーカーは約四千四十七平方メートルであるから、二百四十万平方メートル前後になる。島後の島面積は二百四十一・六四平方キロメートルであるから、ぴったし! ハーン先生は恐ろしく数字に強い!

「別種のカトル・フイシユ」と言いながら「タコ卽ちオクトパス」としているのは、原文通りである。この“cuttlefish”は通常、イカの中でも体の短い先に出したコウイカやカミナリイカを指す単語で(カミナリイカ(雷烏賊)は頭足綱コウイカ目コウイカ科コウイカ属カミナリイカ Sepia lycidas。西日本での異名「もんごういか」(紋甲烏賊)の方が知られるが、現行では輸入物の大型のコウイカ類に広く使われるようになってしまっており、本種の和名としては用いない方が無難である)、因みに、体の細長い先のスルメイカやアカイカなどは“squid”と言うが、実は一般的な欧米人は、現代でも、島国で海産生物に古えより馴染んできた日本人と異なり、これに限らず、魚類や甲殻類・貝類などの普通の海産物の個別種どころか、上位タクソンでの区別すら出来ない人が圧倒的に多いのである。即ち、大方の西洋の人々にとっては、タコもイカも一緒くたであって、気味の悪い触手(テンタクル)の惡魔、化け物に過ぎぬのである。但し、ハーンはその点では博物学的には精通しているから、ここは寧ろ、欧米読者のレベルまで――わざと――自分を下げて、かく表記したものと私は思う。因みに、この蛸は、その巨大さと重量から、

頭足綱八腕形目マダコ科ミズダコ属ミズダコ Enteroctopus dofleini

に同定してよかろう。本種の大型個体は、腕足を広げた体長が三~五メートルにも及び、体重も十~五十キログラム、最大個体では体長九・一メートルで、体重二百七十二キログラムの記録がある、とウィキの「ミズダコ」にはある。現行の隠岐では「丸カゴ」と呼ばれる漁具を用いて捕獲しているらしい。「隠岐の島ものづくり学校」の「ミズダコ漁」をご覧あれ。まさにここは、ハーンの言う「中村」(グーグル・マップ・データ)の漁港である。それを見ると、現在、大物は一匹一万円で取引されるとある。

「十五貫卽ち殆んど百二十五英斤」「英斤」は「ポンド」と読んでおく。「十五貫」は五十六・二五キログラム、「百二十五」ポンドは凡そ五十六・六九九キログラム。

「中村」現在の隠岐の島町大字中村。島後の北の中央東部寄りに位置する。「武良(むら)」とも呼ばれる。ウィキの「中村(隠岐の島町)によれば、『戦後の中村は現在より店の数が多く、地区内に時計屋、映画館などがあった時代もあったらしい』。『地区唯一の浜辺・中村海水浴場は海の透明度が有名であり毎年多くの観光客でにぎわっているが』、『昔は出店・民宿がたくさんあり今よりだいぶ賑わっていた。しかし現在』、『民宿はほとんど機能しておらず、その代わり毎年キャンプ客でにぎわっている』とあり、『隠岐三大祭の一つである武良祭りが』二年毎の十月十九日に『行われる。鎌倉時代に中村に訪れた佐々木定綱により五穀豊穣を太陽の神と月の神に願い開催されたと伝えられている』とある。この幕府御家人佐々木定綱は「一六」に出た佐々木高綱の兄に当たり、佐々木氏の棟梁である父佐々木秀義の嫡男で、事実、鎌倉初期に隠岐守護となっている。

「バテイセキ卽ち『馬蹄石』」「一五」の私の「バテイセキ」の注を参照されたい。

「紋理も斑點も全く無い」中にはそうしたものもあるが、品質として下品とされる。

 「出雲の湯町」現在の島根県松江市玉湯町(たまゆちょう)湯町(ゆまち)。ここは玉湯町玉造(たまつくり)の玉造温泉(「枕草子」にも出る平安この方の名泉)で知られる。ウィキの「玉造温泉」には、この「玉造」という地名で判るように、『この地にある花仙山で良質の青瑪瑙が採掘できたために、この地の人々が玉造を生業としていたことに由来していると考えられる。三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)によってこの地で造られたと言われている。玉作湯神社にはその櫛明玉命を祀っており、多数の勾玉や管玉が社宝として保管されている』とある。詳しくは「いずもまがたまの里伝承館」公式サイトを参照されたい。ここ(グーグル・マップ・データ)。【2025年3月9日】昨年末の山陰の旅で、泊まった。紅葉が、非常に美しかった!

「佐々木高綱」「一五」の私の「佐々木高綱」の注を参照されたい。

「あの驚く可き牝馬の――蹄が觸つて出來たのだといふ」「ブリタニカ国際大百科事典」に馬蹄石について(コンマを読点に代えた)、『馬のひづめの跡があるという石にまつわる伝説。古くは神が馬に乗って、遠方から降臨するという信仰から、石に凹凸のあるのをその降臨された証拠として語り伝えてきたもの。のちに神降臨の信仰が薄れると、貴人や武将が馬に乗った話になってくる』とある。これは洋の東西を問わぬ記載と思われるが、本邦の諸地方の「馬蹄石」なるものをネット上で見てみると、実は黒曜石に限定される謂いではなく、牡蠣(カキ)の化石層が化石床を形成した自然物のシミュラクラであったり(香川県まんのう町木戸土器川河床)、大岩に穿たれた馬蹄形の穿孔(自然のものも人為的なものもあろう)が古代の磐座の一種とされたり、前記のような後の貴人・武将奇譚へと変化したりしたものの方が多いように思われる。

「島後の或る深い池」サイト「離島 com. 隠岐の島」内の「伝説の池・津井の池 男池」によって、これが西郷町犬来から南方へ一キロばかり行った池尻にある二つの池、「津井(さい)の池」であることが判った。そこに書かれてある「隠岐の池月伝説」によれば、ハーンのストーリーとは異なり、池に落ちて死んだのは母馬となっており、それを慕った子馬が長じて、人の捕まえようとするのから逃れるために、『島後から海を泳いで島前の西ノ島に逃げた。この島の一番東の集落を宇賀というが、そこから西の倉ノ谷との間の海辺に大きな「瀬戸の岩」がそそり立っている。その大岩の絶壁を、この馬が蹴飛ばしたという』(馬蹄石!)。『西ノ島からはまた海を越えて、隣の中ノ島に渡った。ここでは、金光寺さんの』『近くにある愛宕山に駆け上って、一休みした。それでこの山の頂上と唯山の頂上とを結ぶ鞍部の岩盤には、直径二、三十センチの蹄のあとが五つ六つ残る』という(また馬蹄石!)。『一説に、この馬は、西ノ島から知夫里島に泳いで渡ったともいう。すでにそのころはすこぶるたくましくなっていたので、人々の追うのを振り切って赤禿山を駆け登り、こり島の西端スンズの断崖絶壁に蹄の跡を残している』(またまた馬蹄石!)。『そしてその後は、日本海の波涛を越えて、島根半島の加賀の浦(雲津の馬見山ともいう)に泳いで渡った。こうして、いくつかの奇跡を示したこの馬は、後に雲州の人によって捕えられ、希代の名馬としての折紙がついた。それが、鎌倉の頼朝に献上されて「生食」と名づけられ、宇治川先陣争いに「磨墨」を出し抜いて誉れを後世に残したのである。それも、これも、幼時、母馬に恋い焦がれて「津井の池」に飛び込んだからのことであった』(「一五」で私が浪漫的に妄想した通りの展開!!!)。『今でもこの池のそばを歩くと、珍しい黒曜石が見つかる。馬蹄形の流紋が見えるところがら、これを一名「馬蹄石」というが、一説に、これが出土するのは、名馬「生食」の足が触れたからだといわれている』(ダメ押しの馬蹄石!!)。

「ウミマツ卽ち『海松』と呼ぶ珊瑚性の海產物」「一五」の私の「黑珊瑚」の注を参照されたい。

「眞珠母の物品」「しんじゆぼ(しんじゅぼ)」は、ある種の軟体動物(特に貝類)が外套膜から分泌する炭酸カルシウムを主成分とした光沢物質である真珠層のこと。原文は“Nacre wares”“Nacre”が「真珠層」で、“wares”はその真珠層を素材とした「製品」で、以下を読めば分かる通り、所謂、青貝細工・螺鈿細工の工芸品を指す。

「アハビ卽ち『鮑(シイ・イア)』」“sea-ear”は文字通り「海の耳」であるが、これもいい加減な欧米人にとっては、耳の形に似た貝殻を持つ貝類(概ね腹足類(巻貝))はこれ、十把一絡げに「海の耳」なんである。何を言いたいかというと、異なった種(同属ではある)である鮑と床臥(とこぶし。「常節」とも書く。後で掲げるように正確にはセイヨウトコブシと称し、本邦産のトコブシはその亜種である)を区別しないのである。通常の一般名詞でも鮑は“abalone”であるが、床臥は何だかなの、“small abalone”という為体(ていたらく)である。アワビは、

 腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis

に属し、本邦の代表種としては(本邦産は凡そ九種とされる)、

 クロアワビ Haliotis discus discus

 メガイアワビ Haliotis gigantean

 マダカアワビ Haliotis madaka

 エゾアワビ Haliotis discus hannai(クロアワビ北方亜種。同一種とする説もある)

 トコブシ Haliotis diversicolor aquatilis(日本固有亜種)

 ミミガイ Haliotis asinina

などが挙げられる(ここはウィキアワビを参照した)。これら大型種の貝殻の内側に形成される真珠層部分を抜き打って装身具に加工したり、ごく薄く小さく切り出したチップ状のものを木彫りなどの工作物に嵌め込んで作られた工芸品が螺鈿細工である。但し、言っておくと、西洋種のトコブシは、種が異なり、

 セイヨウトコブシHaliotis tuberculata

である。これはイギリス海峡のチャンネル諸島附近に多く棲息するとされるが、実はこれには別に“ormer”という単語があるのであるが、何ともいい加減なことに、辞書を引くと、二番目の意味に「アワビ類」とあって、開いた口が塞がらぬのである。]

 

 

ⅩⅦ.

 

   Almost every district and town in Japan has its meibutsu or its kembutsu. The meibutsu of any place are its special productions, whether natural or artificial. The kembutsu of a town or district are its sights,— its places worth visiting for any reason,— religious, traditional, historical, or pleasurable. Temples and gardens, remarkable trees and curious rocks, are kembutsu. So, likewise, are any situations from which beautiful scenery may be looked at, or any localities where one can enjoy such charming spectacles as the blossoming of cherry-trees in spring, the flickering of fireflies in summer nights, the flushing of maple-leaves in autumn, or even that long snaky motion of moonlight upon water to which Chinese poets have given the delightful name of Kinryō, 'the Golden Dragon.'

   The great meibutsu of Oki is the same as that of Hinomisaki,— dried cuttlefish; an article of food much in demand both in China and Japan. The cuttlefish of Oki and Hinomisaki and Mionoseki are all termed ika (a kind of sepia); but those caught at Mionoseki are white and average fifteen inches in length, while those of Oki and Hinomisaki rarely exceed twelve inches and have a reddish tinge. The fisheries of Mionoseki and Hinomisaki are scarcely known; but the fisheries of Oki are famed not only throughout Japan, but also in Korea and China. It is only through the tilling of the sea that the islands have become prosperous and capable of supporting thirty thousand souls upon a coast of which but a very small portion can be cultivated at all. Enormous quantities of cuttlefish are shipped to the mainland; but I have been told that the Chinese are the best customers of Oki for this product. Should the supply ever fail, the result would be disastrous
beyond conception; but at present it seems inexhaustible, though the fishing has been going on for thousands of years. Hundreds of tons of cuttlefish are caught, cured, and prepared for exportation month after month; and many hundreds of acres are fertilized with the entrails and other refuse. An officer of police told me several strange facts about this fishery. On the north-eastern coast of Saigo it is no uncommon thing for one fisherman to capture upwards of two thousand cuttlefish in a single night. Boats have been burst asunder by the weight of a few hauls, and caution has to be observed in loading. Besides the sepia, however, this coast swarms with another variety of cuttlefish which also furnishes a food-staple,— the formidable tako, or true octopus. Tako weighing fifteen kwan each, or nearly one hundred and twenty-five pounds, are sometimes caught near the fishing settlement of Nakamura. I was surprised to learn that there was no record of any person having been injured by these monstrous creatures.

   Another meibutsu of Oki is much less known than it deserves to be,— the beautiful jet-black stone called bateiseki, or 'horse-hoof stone.' [7] It is found only in Dōgo, and never in large masses. It is about as heavy as flint, and chips like flint; but the polish which it takes is like that of agate. There are no veins or specks in it; the intense black color never varies. Artistic objects are made of bateiseki: ink-stones, wine-cups, little boxes, small dai, or stands for vases or statuettes; even jewelry, the material being worked in the same manner as the beautiful agates of Yumachi in Izumo. These articles are comparatively costly, even in the place of their manufacture.

   There is an odd legend about the origin of the bateiseki. It owes its name to some fancied resemblance to a horse's hoof, either in color, or in the semicircular marks often seen upon the stone in its natural state, and caused by its tendency to split in curved lines. But the story goes that the bateiseki was formed by the touch of the hoofs of a sacred steed, the wonderful mare of the great Minamoto warrior, Sasaki Takatsuna. She had a foal, which fell into a deep lake in Dōgo, and was drowned. She plunged into the lake herself, but could not find her foal, being deceived by the reflection of her own head in the water. For a long time she sought and mourned in vain; but even the hard rocks felt for her, and where her hoofs touched them beneath the water they became changed into bateiseki. [8]

   Scarcely less beautiful than bateiseki, and equally black, is another Oki meibutsu, a sort of coralline marine product called umi-matsu, or 'sea-pine.' Pipe-cases, brush-stands, and other small articles are manufactured from it; and these when polished seem to be covered with black lacquer. Objects of umimatsu are rare and dear.

   Nacre wares, however, are very cheap in Oki; and these form another variety of meibutsu. The shells of the awabi, or 'sea-ear,' which reaches a surprising size in these western waters, are converted by skillful polishing and cutting into wonderful dishes, bowls, cups, and other articles, over whose surfaces the play of iridescence is like a flickering of fire of a hundred colors.

 

7
   It seems to be a black, obsidian.

8
   There are several other versions of this legend. In one, it is the mare, and not the foal, which was drowned.

2015/12/01

私は

私はただ、母と一緒に、いたいだけである――

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十六)

 

       一六 

 

 日本のどの國にも特有の方言がある。隱岐の方言は、斯く孤立して居る邦では豫期し得らるゝ如くに、殊に際立つて居る。が然し西鄕では出雲の方言が廣く用ひられて居る。其處の町民は風俗も習慣も餘程出雲の田舍人に似て居る。出雲人が澤山交じつて居るし、大きな商賣は大抵他國人の手に依つて營まれて居るのである。女は出雲の女ほどに人目を惹くやうには思へなかつた。中々美くしい女を隨分と見かけたが、それは他國者であつた。

 が然し、或る國民の肉體的特徴を正當に硏究の出來るのはたゞその內地に於てである。隱岐の島人の肉體的特徴は――その多くを自分は訪れた――漁村で一等能く認めることが出來る。到る處で立派な强壯な男と元氣な女とを見た。そしてその强健には氣候と不斷の運動とが拘つて力あるのであらうが、滋養になる食物が非常に豐富で低廉なことが同じく與つて力あるのだと自分は思つた。實際、隱岐で生活するのは非常に樂(らく)で、他の海岸の人で生活に困難を感ずる者は、働く機會を得さへすれば、報酬は前より少くても、隱岐へ移住して來るほどである。自分に面白かつた光景は、天氣が好いと、日沒二時間前にいつも海へ突進し始める漁船の盛んな行列であつた。筋骨逞しい漕ぎ手が――女が多い――その輕い船を推して行く驚く可き迅さは、數代の根氣强い經驗に依つて初めて得られた熟練を語つて居るのであつた。も一つ驚いた事は船の數であつた。或る晩、沖合に、自分は三百と五つの松明を視界に數へることが出來た。松明一つは一と乘組を示すのである。そして此處の海岸の四十五ケ村の殆んど何の村からでも同時にこれと同じ光景を見ることが出來ると知つた。人民の大部分は、實際、夏の夜は海で暮すのである。漁期中脚の迅い汽船で夜、出雲から濱田へ旅しても意外の光景に接する。百哩の間、地平線は松明で燃えて居る。一と海岸の勞役が、その偉大なイルミネエシヨンに示されて居るのである。

 そこの人間はこの不毛な地にあつて、强壯さを減じたといふより寧ろ增したやうに思はれるけれども、此國の牛馬は退化したやうである。著しく小形である。出雲の小牛よりも大して大きからぬ牛や、山羊の大きな程の小牛を自分は見た。馬否、むしろ小馬は隱岐がむしろ自慢をして居る特別な品種のものであつて――至つて小さいが丈夫である。もつと大きな馬が居るとは聞いた。が、一匹も目にしなかつたし、またそれは輸入されたものかどうか分らなかつた。自分が隱岐の小馬を初めて見た時、佐々木高綱の軍馬が――クログルウの物語唄に見えるカイラツトといふ馬に劣らず日本の物語に有名な馬が――隱岐の產であつたとこの島人が明言するのが自分には奇妙に思ヘた。ところがその馬は嘗て隱岐から美保關まで泳いだといふ口碑がある。

[やぶちゃん注:「或る晩、沖合に、自分は三百と五つの松明を視界に數へることが出來た」ハーン先生! よくぞ数えられましたね!

「百哩」約百六十一キロメートル。試しに、出雲の大社町沖から海岸に近い場所を浜田まで計測してみたが、八十キロメートル弱であったが、境からで計ると、まさに百六十キロメートルぴったりあった。ハーン先生、漁火の数と同じく、驚くべき正確さでした!

「地平線」くどいが、「水平線」の謂い。

「牛」ハーンは不思議なことに、隠岐の「牛突き」については言及していない。配流となった後鳥羽上皇が小牛が角を突き合わせる姿を見て喜んだことから始まったとされるから、当時、廃されていたとは思えない。時期的に「牛突き」は見られないと思うが、「牛突き」用に養っている牛を見ることは出来たはずである(私も島後で見せてもらい、触らせても貰った。角の立派な巨体の黒牛であった)。但し、ハーンは「牛突き」を嫌悪しそうな気もしないではない。さてもまた、近年は幻の「隠岐牛」として高価に取引もされている。松坂牛なども実は、ここで育てた牛を松坂へ持って行くのだ、という話を土地の人から聴いたりした。但し、肉食牛の畜産は、牛肉食が本邦でも一般的になる、もっとずっと後になってからのことだろうとは推測するが、私は知夫里島で、放牧されている隠岐牛や野生馬を、沢山、見、そこの宿で、特注して隠岐牛も食した(文句なしに非常に美味かった)。少なくとも、ここでハーンが「此國の牛馬は退化したやうである」というのは誤認としか思われない(馬が小型の種であることは次の注を参照されたい)。これについては、当時の隠岐での畜産史が私には不明であるので、これ以上は語れない。識者の御教授を乞うものである。

「馬否、むしろ小馬は隱岐がむしろ自慢をして居る特別な品種のものであつて――至つて小さいが丈夫である」絶滅させられてしまった隠岐馬である。「島根大学汽水域研究センター」公式サイト内の「隠岐馬 骨格標本」によれば、『隠岐馬は、奇蹄目の日本馬の一種で、体高が低い隠岐在来の矮小馬である。足は細く、蹄が強いため蹄鉄を打たなくてもよく、首は太く、たてがみは直毛で弾力があり、毛色は鹿毛(茶褐色)や青色(純黒色)が多かった。また、神経質で性急にして怒りやすく、ややもすれば人を噛んだり、蹴ったりすることもあり、御しがたい性質の馬であった』。しかし、明治三九(一八九九)年と昭和一一(一九三六)年の二回にわたる『日本馬政局の馬政計画の実施により、隠岐馬の雄はすべて去勢され、絶滅し』てしまった。リンク先で見られる氏満大学教育学部蔵のそれは、『隠岐馬の骨格標本としては国内で唯一のもので』、明治二一(一八八八)年三月に『松江市にあった獣医学講習所において、家畜解剖学研究のため、獣医佐藤清明氏の手により解剖、組み立てられ、以来、島根師範学校、教育学部に受け継がれた』貴重なものである。十二才の『雄馬で、生体の毛色は青、丈は』一メートル十八センチメートルであったとある。是非、リンク先を見られたい。なんという、愚劣な仕儀かッツ!

「佐々木高綱の軍馬」「佐々木高綱」(永暦元(一一六〇)年~建保二(一二一四)年)は近江国の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁佐々木秀義四男で、頓にこの名馬「生食」(いけづき/いけずき)との関わりで、「平家物語」の梶原景季との「宇治川の先陣争い」で美事に一番乗りを果たすエピソードとして知られる、源頼朝の石橋山合戦からの直参の御家人である。この生食(他に「生唼」「生咬」「池月」「生月」「生喰」などとも書く)は頼朝に献上された馬で、宇治川の戦いの際に頼朝から直々に佐々木高綱に与えられた。その奇体な漢字表記(生食・生唼・生咬・生喰)は生き物を咬み食らうほどの猛々しい馬の謂いとされる、池月は池に映る月に由来することから、立場の違いに起因する異字と考えられる。生食の産地には東北から九州まで諸説あり、ウィキの「生食(ウマ)」によれば、『古くから下総台地(北総台地。下総国南東部地域。現在の行政区分では、おおよそ千葉県北西部の、船橋市、鎌ケ谷市、松戸市、柏市、白井市と周辺地域にあたる)は馬牧(馬の放牧)に適しており、軍馬の生産が行われて』おり、『平安末期に八幡神の使いと信じられるほどの名馬が下総国葛飾郡内の牧(江戸幕府直轄の小金牧の前身となる牧場。現・柏市市内)で生まれ、「生食」と呼ばれて信仰を集めていた』し、そこの産とする下総説、『源頼朝が再起の折、鎌倉へ向かう途中』、現在の『東京都大田区の千束八幡神社』の附近『に陣を張っていたところ、どこからか現れた野馬がおり、これを郎党が捕らえ』、『頼朝に献上した。身体に浮かぶ白い斑点が池に映る月影のようだったことから「池月」と名付け、自らの乗馬としたという』。千束八幡神社池月発祥説、そして、『山陰地方(いまの鳥取県や島根県)はかつて日本の代表的な馬産地の一つであり、各地に生食(池月)の生産地とする伝承があ』り、『鳥取市と岩美町の境にあたる駟馳山(しちやま)もその一つで、山裾にはその石碑がある。ここでの伝承によると、幼いころに母馬を失い、母を探して山野を駆けまわったことで鍛えられた池月が頼朝に献上されたというものである。山はもともと「七夜山」(しちやま)と書いたが、池月にちなんで馬編の漢字があてられて「駟馳山」となったという』という隠岐の近場である山陰説があるとする。ハーンの言うように、「その馬は嘗て隱岐から美保關まで泳いだといふ口碑がある」とすれば、実は――隠岐から亡き母を探して海を渡って駟馳山までやってきたのだ……――と浪漫的に考えるのも一興ではある。但し、私は生食は南部馬であったとする説を支持するものである。ここでそれを語り出すときりがないので、私の電子テクスト「北條九代記 將軍實朝民部大夫が家に渡御 付 行光馬を戲する歌」の「奥州二戶」の私の注と引用文を参照されたい。

「クログルウの物語唄に見えるカイラツトといふ馬」原文は“the horse Kyrat in the ballads of Kurroglou”“the ballads of Kurroglou”はペルシャの民謡らしいが、不詳。識者の御教授を乞う。

「隱岐の產であつたとこの島人が明言するのが自分には奇妙に思ヘた」いいや! ハーン先生! 鎌倉時代の馬はね、ポニーぐらい小さいんですぜ! 

 

ⅩⅥ.

 

   Every province of Japan has its own peculiar dialect; and that of Oki, as might be expected in a country so isolated, is particularly distinct. In Saigo, however, the Izumo dialect is largely used. The townsfolk in their manners and customs much resemble Izumo country-folk; indeed, there are many Izumo people among them, most of the large businesses being in the hands of strangers. The women did not impress me as being so attractive as those of Izumo: I saw several very pretty girls, but these proved to be strangers.

   However, it is only in the country that one can properly study the physical characteristics of a population. Those of the Oki islanders may best be noted at the fishing villages many of which I visited. Everywhere I saw fine strong men and vigorous women; and it struck me that the extraordinary plenty and cheapness of nutritive food had quite as much to do with this robustness as climate and constant exercise. So easy, indeed, is it to live in Oki, that men of other coasts, who find existence difficult, emigrate to Oki if they can get a chance to work there, even at less remuneration. An interesting spectacle to me were the vast processions of
fishing-vessels which always, weather permitting, began to shoot out to sea a couple of hours before sundown. The surprising swiftness with which those light
craft were impelled by their sinewy scullers — many of whom were women — told of a skill acquired only through the patient experience of generations. Another matter that amazed me was the number of boats. One night in the offing I was able to count three hundred and five torch-fires in sight, each one signifying a crew; and I knew that from almost any of the forty-five coast villages I might see the same spectacle at the same time. The main part of the population, in fact, spends its summer nights at sea. It is also a revelation to travel from Izumo to Hamada by night upon a swift steamer during the fishing season. The horizon for a hundred miles is alight with torch-fires; the toil of a whole coast is revealed in that vast illumination.

   Although the human population appears to have gained rather than lost vigour upon this barren soil, the horses and cattle of the country seem to have degenerated. They are remarkably diminutive. I saw cows not much bigger than Izumo calves, with calves about the size of goats. The horses, or rather ponies, belong to a special breed of which Oki is rather proud,— very small, but hardy. I was told that there were larger horses, but I saw none, and could not learn whether they were imported. It seemed to me a curious thing, when I saw Oki ponies for the first time, that Sasaki Takatsuna's battle-steed — not less famous in Japanese story than the horse Kyrat in the ballads of Kurroglou — is declared by the islanders to have been a native of Oki. And they have a tradition that it once swam from Oki to Mionoseki.

タンポポに愛を

この子はちょっとばっかり元気がないんです――どうか――みんなで元気をあげて下さい!――

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小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十五)

 

       一五

 

 西鄕へ到着の翌日の朝、或る若年の醫師が自分を訪問して、その家で食事を共にして吳れと乞うた。西鄕に泊つた外國人は自分が初めてであるから、自分を見るの好機會を有てば一家の者も自己も甚だ愉快とするといふことを頗る率直に說明した。が、その人の生得の慇懃が、他國人の好寄心に滿足を與へてやるのに自分が感じたかも知れない、如何なる躊躇にも打ち克つた。自分はその人の美くしい邸宅で非常に愛想よく待遇された許りでは無い、そのうち多くは斷らうと力めても斷り切れなかつた數々の贈物を實際背負ひ込んで送り出されたのであつた。が、然したゞ一つ自分は、先方の感情を害する惧れがあつても、頑として聽かなかつた。それは驚くべきバテイセキ(この品物に就いては後に話さう)の贈物であつた。啻に非常に高價なだけでは無い、非常に稀なものだといふことを知つてゐたから、自分は頑張つて受納を拒んだ。主人は到頭屈したが、後(あと)で私(ひそ)かにより小さいのを二つ自分の宿へ送り屆けて吳れた。是は日本の禮儀として返戾することが出來なかつた。西鄕を去る迄に自分はこの紳士から他の數々の思掛け無い親切を蒙つた。

 其後間も無く西鄕小學校の敎師の一人が自分を訪ねて吳れた。自分が隱岐に興味を有つて居ることを耳にして、手製の此島の美くしい地圖二枚、西鄕のことを書いた小さな本一册、それから贈物として今の人が作つた隱岐の蝶類昆蟲類の蒐集を持參したのであつた。全くの他國人に純粹な厚意の斯んな驚くべき表明に出遇ひさうなことはたゞ日本だけでのことである。

 今一人の訪間者で、自分の友に會ひに來たのは、前述のと同じやうな日本人獨得な行爲を演じたが、これは自分に少からぬ苦痛を味はしめた。三人は坐つて一緖に煙草をふかした。その男は目立つて美くしい煙草入と、小さな銀の煙管の入つて居る煙管筒とを帶から取出して、煙草を吸ひ始めた。その煙管筒は黑珊瑚のやうなもので出來てゐて、珍らしい彫がしてあつて、そして透明な瑪瑙の玉を通した三色絹糸組合せの重い紐でタバコイレ(パウチ)に着けてあるのであつた。自分がそれを賞めるのを見ると、突然袂から小刀を取出して、自分が止め得ないうちに、その煙管筒を煙草入から切り離して、それを自分に進上すると言つた。自分は、その驚歎すべき紐を切つた時、その男自らの神經を切り斷ちでもしたやうな氣持がした。でも、一旦切つてしまつた後でその贈物を斷るのは極めて失禮であつたらう。自分は返禮に或る贈物を受けさせた。が、この經驗後自分は、隱岐に居る間は、どんなものでもその持主の面前ではもう賞めぬやうに用心した。

[やぶちゃん注:「西鄕に泊つた外國人は自分が初めてである」一」の注の冒頭で述べた通り、西郷どころか、ハーンは隠岐諸島に来訪した初めての西洋人であった。

「バテイセキ」ガラス質の火成岩である黒曜石のこと。一般には黒色のものが多く、ガラス光沢を有し、貝殻状の断面を示す。「島根県」公式サイトの「しまねの伝統工芸」の「工芸品一覧」にある「隠岐黒耀石細工」に、『黒耀石を割った際、馬のひずめの形に割れるところから「馬蹄石」ともよばれる。全国でも産地は数カ所しかなく、なかでも隠岐産の黒耀石は純度が高く純黒の色沢の優美さで知られ、県内外から珍重されている。純黒であるがゆえに仕上げの研磨ではより高度な技術を要する。従来からある硯・置石などの製作に加え、最新のデザインを取り入れたネクタイピンやネックレスなどのアクセサリー類の製作にも取り組』みが進んでいるとあり、また、「隠岐の島町」公式サイトの「町の歴史」には「黒曜石の島」と題して、『黒曜石は、ガラス成分を含む岩石で、隠岐島後の各地で産出され、石器の材料として利用されました。隠岐では、その割れ目の模様が馬の蹄に似ていることから馬蹄石とも呼ばれます』。『旧石器時代から鏃などの石器に加工され、近世の隠岐では、硯や根付などにも使われました。現在は、久見地区の八幡黒曜石店が唯一、隠岐産黒曜石の加工を行なっています』と記されてある。ハーンが注しているように、これについては、「十七」で詳しく語られることになる。

「返戾」老婆心乍ら、「ヘンレイ」と音読みする。返し戻すこと。

「今一人の訪間者で、自分の友に會ひに來たのは」実際の同伴者が妻セツであることを殊更に隠蔽し、架空の男の友達をリアルに意識させるハーンの意図が見え見えの箇所である。

「黑珊瑚」は他の知られた所謂、宝石サンゴ(花虫綱八方サンゴ亜綱ヤギ目サンゴ科 Coralliidae に属するParacorallium属のアカサンゴ  Paracorallium japonicum や、Corallium 属のベニサンゴ Corallium rubrum・モモイロサンゴ Corallium elatius・シロサンゴ Corallium konojoi 等)類とは異なり、六放珊瑚亜綱ツノサンゴ目ウミカラマツ科Antipathidae の属する種のうち、

 ウミカラマツ Antipathes japonica

 サビカラマツ Myriopathes lata

 ネジリカラマツ Cirripathes  spiralis

の三種のみを指す。なお、これら黒珊瑚は現在(二〇〇六年十月以降)ではワシントン条約によって輸入が禁止されている。] 

 

ⅩⅤ.

 

   On the morning of the day after my arrival at Saigo, a young physician called to see me, and requested me to dine with him at his house. He explained very frankly that as I was the first foreigner who had ever stopped in Saigo, it would afford much pleasure both to his family and to himself to have a good chance to see me; but the natural courtesy of the man overcame any scruple I might have felt to gratify the curiosity of strangers. I was not only treated charmingly at his beautiful home, but actually sent away loaded with presents, most of which I attempted to decline in vain. In one matter, however, I remained obstinate, even at the risk of offending,— the gift of a wonderful specimen of bateiseki (a substance which I shall speak of hereafter). This I persisted in refusing to take, knowing it to be not only very costly, but very rare. My host at last yielded, but afterwards secretly sent to the hotel two smaller specimens, which Japanese etiquette rendered it impossible to return. Before leaving Saigo, I experienced many other unexpected kindnesses from the same gentleman.

   Not long after, one of the teachers of the Saigo public school paid me a visit. He had heard of my interest in Oki, and brought with him two fine maps of the islands made by himself, a little book about Saigo, and, as a gift, a collection of Oki butterflies and insects which he had made. It is only in Japan that one is likely to meet with these wonderful exhibitions of pure goodness on the part of perfect strangers.

   A third visitor, who had called to see my friend, performed an action equally characteristic, but which caused me not a little pain. We squatted down to smoke together. He drew from his girdle a remarkably beautiful tobacco-pouch and pipe-case, containing a little silver pipe, which he began to smoke. The pipe-case was made of a sort of black coral, curiously carved, and attached to the tabako-ire, or pouch, by a heavy cord of plaited silk of three colors, passed through a ball of transparent agate. Seeing me admire it, he suddenly drew a knife from his sleeve, and before I could prevent him, severed the pipe-case from the pouch, and presented it to me. I felt almost as if he had cut one of his own nerves asunder when he cut that wonderful cord; and, nevertheless, once this had been done, to refuse the gift would have been rude in the extreme. I made him accept a present in return; but after that experience I was careful never again while in Oki to
admire anything in the presence of its owner.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十四)

 

       一四

 

 決して一度も、西部日本の何處ででも西鄕に居た時ほど居心地よかつたことは無い。薦められて行つた宿屋には、客は友と自分と二人きりであつた。二人が占めた二階の、天井の高い廣い部屋は一方には大通りを見渡し、一方には宿の庭の橫を流れて居る八尾川の河口の向うの美くしい山の風光を恣にすることが出來るのであつた。海風が晝も夜も吹き斷えぬので、暑い季節には客へ侑めるのが日本の習慣(はらはし)の、あの綺麗な扇子が不用であつた。

 食物は驚く許り上等で、珍らしい程變化に富んで居て、欲しければセイヤウレウリ(西洋の料理)を――フライにした馬鈴薯添へてのビフテキ、ロオスト・チキン其他――注文して宜いと言はれた。自分は旅行中は純日本式食事を守つて手數を避けることに決めて居るから、その申出を利用はしなかつた。が、住民五千の他の日本都市では何處だつて得ること殆んど不可能なものを西鄕で申出を受けようとは少からぬ驚異であつた。が然し浪漫的見地からしては此發見は失望であつた。日本全國のうちで一番原始的な土地へ遣つて來たのだから、近代化する總ての勢力の範圍外はるか遠くに自分を見出すことと想像してゐたのであつた。だからフライにした馬鈴薯添へてのビフテキを懷ひ出させられたのは幻滅であつた。此島には新聞も電信も無いといふその後の發見も充分には自分の慰安にならなかつた。

 ところが如上の樂(たのしみ)を味はふことを妨げる重大な障害が一つあつた。それは、何物にも浸徹する、到る處に存在する、重くるしい非道い臭氣――肥料として使用する、魚の腐る臭氣であつた。幾噸といふ烏賊の臟腑を八尾川の向側の田畠に使用するので、何處の家ヘもその惡臭を眠ること無き海風が吹いて來る。暑さの折は大抵な家では香(かう)を焚きつゞけて居るが駄目である。三四日續けて町の中に居ると、前(せん)よりかその臭氣に堪へ得るやうになる。が、たゞの二三時間でも町を去ると、歸つて來た折、自分の鼻が習慣の爲めにどんなに麻痺して居たか、町を出た爲めにどんなに力が恢復したか、を知つて驚く。

[やぶちゃん注:「侑める」「すすめる」。]

 

ⅩⅣ.

 

   Never, in any part of Western Japan, have I been made more comfortable than at Saigo. My friend and myself were the only guests at the hotel to which we had been recommended. The broad and lofty rooms of the upper floor which we occupied overlooked the main street on one side, and on the other commanded a beautiful mountain landscape beyond the mouth of the Yabigawa, which flowed by our garden. The sea breeze never failed by day or by night, and rendered needless those pretty fans which it is the Japanese custom to present to guests during the hot season. The fare was astonishingly good and curiously varied; and I was told that I might order Seyōryōri (Occidental cooking) if I wished,— beefsteak with fried potatoes, roast chicken, and so forth. I did not avail myself of the offer, as I make it a rule while travelling to escape trouble by keeping to a purely Japanese diet; but it was no small surprise to be offered in Saigo what is almost impossible to obtain in any other Japanese town of five thousand inhabitants. From a romantic point of view, however, this discovery was a disappointment. Having made my way into the most primitive region of all Japan, I had imagined myself far beyond the range of all modernizing influences; and the suggestion of beefsteak with fried potatoes was a disillusion. Nor was I entirely consoled by the subsequent discovery that there were no newspapers or telegraphs.

   But there was one serious hindrance to the enjoyment of these comforts: an omnipresent, frightful, heavy, all-penetrating smell, the smell of decomposing fish, used as a fertilizer. Tons and tons of cuttlefish entrails are used upon the fields beyond the Yabigawa, and the never- sleeping sea wind blows the stench into every dwelling. Vainly do they keep incense burning in most of the houses during the heated term. After having remained three or four days constantly in the city you become better able to endure this odor; but if you should leave town even for a few hours only, you will be astonished on returning to discover how much your nose had been numbed by habit and refreshed by absence.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十三)

 

       一三

 

 西鄕は一大驚異であつた。見るであらうと期待して居た大きな漁村では無くて、行つて見ると境よも遙かに大きく美しく且つあらゆる點に於てもつと近代的な町であり、立派な商店に充ちた長い街路のある町であり、勝れた公共建物のある町であり、全體の樣子が商業の繁榮を示して居る町であつた。建物の大多數は商人の二階建の手廣い住宅で、物すべてが晴々した新しい觀を呈して居つた。家々の塗(ぬり)がして無い木造部は、まだ黑ずんで灰色になつては居らず、屋根瓦の靑い色はまだ生ま生まして居つた。それはこの町が大火後近い頃建ちなほり、それも前よりか大きい美くしい設計で建ちなほつたからだと知つた。

 西鄕は實際よりかも大きく見える。家數は千軒ばかり、それは西部日本のどんな地方に於ても少くとも五千の人口を意味するのであるが、西  鄕ではそれよりも餘程多くの人口を意味するに相違無い。千軒ばかりのこの人家が三つの長い街路、ニシマチ、ナカマチ、ヒガシマチ(それぞれ西町、中町、東町といふ意味の名)を成してゐて、それを數多くの橫丁と路次が區分して居る。此處を不釣合なほど大きく見せるのは、その街路が妙に捩ぢれて居るからで、海岸の不規則な出入に隨いて曲つて、重なり合ひさへもして居て、或る地點から眺めると、在りもせぬ深さがあるやうに思はせるからである。それは西鄕は、結構な地位ではあるけれども、奇態な地位に在るからである。八尾(やび)川といふ川の河口に近くその兩岸を綠取つて居て、その上に色んな出張つた陸地へ延び出して居るほかに又その見事な入江の內側の大部分に沿うて擴がつて居るのである。が、外觀よりか小さくはあるけれども、その蛇とうねうねし居る街路を皆んな步くのはたつぷり半日仕事である。

 八尾川で區分されて居るほかに、此町は橋が澤山に架つて居るいろんな水路で切斷されて居る。背復の丘陵には大きな建物が數々立つて居て、そのうちには三百の生徒を容れる設備のある小學校があり、富裕な或る市民の寄進に係る(ま新しい)綺麗な佛寺が一宇あり、監獄があり、大ささの割には隱岐どころか島根縣中での一番美くしい日本建築だといふ評判に背かぬ病院があり、また小さくはあるが甚だ立派な庭園が數々ある。

 港はといふと、夏の日なんかは、船の碇泊して居るのを三百以上數へることが出來る。不平家は、殊に今なほ木の錨を用ひて居るやうな種類の不平家は、深いと言つて零す。が、軍艦は何んとも言はぬ。

[やぶちゃん注:「大火」sabasaba13氏のブログ「散歩の変人の「隠岐編(12):大城遺跡(10.9)」に、ハーン来訪の四年前の明治二一(一八八八)年に水害を伴う大火があり、『大きな被害が出た』とある。

「ニシマチ、ナカマチ、ヒガシマチ(それぞれ西町、中町、東町といふ意味の名)」前条の注で示した通り、ハーン来訪の十三年前の明治一二(一八七九)年一月十二日に郡区町村編制法の島根県での施行によって行政区画としての周吉郡が発足した際、それまでの「西鄕港町」は分割され、「西町」「中町」「東町」となっていた。

「小學校」現在の隠岐の島町西町大城にある西郷小学校(グーグル・マップ・データ)。

「佛寺」現在、西郷には複数の寺院があるが(グーグル・マップ・データ)、私には特定出来ない。] 

 

ⅩⅢ.

 

   Saigo was a great surprise. Instead of the big fishing village I had expected to see, I found a city much larger and handsomer and in all respects more modernized than Sakai; a city of long streets full of good shops; a city with excellent public buildings; a city of which the whole appearance indicated commercial prosperity. Most of the edifices were roomy two story dwellings of merchants, and everything had a bright, new look. The unpainted woodwork of the houses had not yet darkened into grey; the blue tints of the tiling were still fresh. I learned that this was because the town had been recently rebuilt, after a conflagration, and
rebuilt upon a larger and handsomer plan.

  Saigo seems still larger than it really is. There are about one thousand houses, which number in any part of Western Japan means a population of at least five
thousand, but must mean considerably more in Saigo. These form three long streets,— Nishimachi, Nakamachi, and Higashimachi (names respectively
signifying the Western, Middle, and Eastern Streets), bisected by numerous cross-streets and alleys. What makes the place seem disproportionately large is the queer way the streets twist about, following the irregularities of the shore, and even doubling upon themselves, so as to create from certain points of view an impression of depth which has no existence. For Saigo is peculiarly, although admirably situated. It fringes both banks of a river, the Yabigawa, near its mouth, and likewise extends round a large point within the splendid bay, besides stretching itself out upon various tongues of land. But though smaller than it looks, to walk through all its serpentine streets is a good afternoon's work.

   Besides being divided by the Yabigawa, the town is intersected by various water-ways, crossed by a number of bridges. On the hills behind it stand several large buildings, including a public school, with accommodation for three hundred students; a pretty Buddhist temple (quite new), the gift of a rich citizen; a prison; and a hospital, which deserves its reputation of being for its size the handsomest Japanese edifice not only in Oki, but in all Shimane-Ken; and there are several small but very pretty gardens.

  As for the harbor, you can count more than three hundred ships riding there of a summer's day. Grumblers, especially of the kind who still use wooden anchors,
complain of the depth; but the men-of-war do not.

小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十二)

 

       一二

 

 隱岐群島の主島たる島後は、時にはそれを『隱岐』と呼び名するのであるが、島前諸島の東北八哩離れて非常に危險な漫々たる海の向うに在るのである。船は浦鄕を去ると、直ぐそれへ向けて進んだ。その大海へ出て行くには、中の島と西の島との間にある狹い妙な海峽を通る。其處は絕壁が非常に大きな城塞の――層を爲して高まつて居る稜堡や堡壘の――形を爲して居る。古昔は唯一つの塊でゐたものが何か驚天動地の大衝擊を受けて分れたやうに見える巨大な岩が三つ、その水路の口近く深い海から、壞れた塔の如くにそゝり立つて居る。そして船がそれを左舷にして通る西の島の最後の海角は、これは赤裸々の赤い大きな岩で、鳥帽子岩と呼ばれて居る程あつて、如何にも妙な恰好をした一點となつて地平線上に浮ぶ。

 船が海のうねりへ辷り出ると、大海の深底から立ち現はれて居る他の異常な形をしたものが見える。地平線を後ろに突兀たる半面影像になつて見える『蝙蝠』といふのは、大きな穴が一つ突き拔けてゐて、その穴が眼のやうにぎらぎら光つて居る。その先きに大きな岩が二つある。曲つて、尖んがつて、上の處で殆んどつながつて居るから、蟹がその挾み爪をげて居るのに怪しくも似て居る。それからまた、極く近くへ寄るまでは、船を漕いで居る人間の姿かと思はれる小さな黑い岩が見える。その先にまた島が二つある。人の住まつてゐない、近寄れもせぬ、そしてその邊には警戒を要するうねりが何時もある松島と、それよりも高いぐらゐで、赤味を帶びた巨大な絕壁のなつて海の中から飛び出して居る大森島とである。その忌はしげな巨岩には何か物凄い力が――その橫を通る時自分等の船をゆるめかせ震はせる何か不可思議な力が――あるやうに思はれた。が、自分は大森島のその恐ろしい絕壁の下に驚嘆すべき或る色彩を見た。その絕壁が傾く入日に照らされて居たので、輝やかしいその岩の光りが水に落ちて居る處は、その濃藍色の漣が一つ一つ唐金の光りを閃めかせてゐた。自分は金屬性の菫色インキの海のことを考へた。

 島前から、天氣が惡るくない折は、島後の絕壁を判然と見ることが出來る。その絕壁には、此處其處に白墨の白さの線條がついて居て、霞のかかつた日にもその靑色の中に拔け出て見えるのである。その絕壁の上に大きな山が一つ見える。それは伯耆の船乘には目標(ポワン・ド・ルプエル)の、大滿寺山である。尤も島後は山々の大きな一と塊りなのである。

 その絕壁はずんずん綠色に變つて行つた。そして自分等の船はそれに隨(つ)いて東の方へ半時間許り走つた。するとその絕壁が思ひがけ無く且つ大きく開けて、遙かに陸地の方へ廣うなつて居る、小山が四方を圍んで居る、そして船が一杯に居る、素敵に見事な入江を見せた。ごちやごちやした帆柱の向うに、長く灰色の一線を爲した家並の正面が、半圓形の絕壁の麓に、そつと眼に映つて來た。西鄕町なのである。そして軈てのこと船は石の波止場に着いた。そこで自分は隱岐西鄕に一と月の別を告げた。

[やぶちゃん注:「巨大な岩が三つ、その水路の口近く深い海から、壞れた塔の如くにそゝり立つて居る」菱浦の北東部にある、それぞれ接近して海中から独立してそそり立つ大・中・小の三つの鋭角状の粗面玄武岩の岩塊で、現行では「三郎岩」(現在、隠岐郡海士町(あまちょう)所属)と呼称するものと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「そして船がそれを左舷にして通る西の島の最後の海角」底本では「西の島」は「中の島」となっているが、何とはなしに位置関係におかしさを覚えた(地図を見ていて、自分が、この船に乗っていたらという机上感覚的なもので論理的・現実的なものではない)ので原文を見たところ、“And the last promontory of Nishinoshima”となっていて「西の島」の誤訳であることが判明した。これでは実景としてもおかしいと私は思う。島前から島後に向う現行の就航航路では、地図上で判断するに「最後の海角」と意識されるのは「中の島」ではなく、「西の島」であり、それは「左舷」に見えるからである。因みに私は島後から島前への航路経験しかないので、これは既に述べた通り全くの地図上のシュミレーションである。されば例外的に訂した。なお、老婆心乍ら言い添えておくと、「それ」は後の「西の島」(原文は「中の島」)を指すのであって、前の「三郎岩」を指示するものではない。三郎岩は航路の右舷にある。なお、「最後の海角」に相当するのは「西ノ島」(現行表記は「ノ」である)の宇賀(うか)の半島部である(グーグル・マップ・データ)。

「鳥帽子岩」恐らくこれは、その名称の類似性から考えて、西ノ島の宇賀の東北端に極く本島に接近してある「冠島(かんむりしま)」(現在、西ノ島町所属の無人島)のことではないかと推定する(グーグル・マップ・データ)。

「突兀」老婆心乍ら、「とつごつ」と読み、高く突き出て聳えるさまを言う。

「半面影像」意味不明。原文は“a ragged silhouette”「ギザギザした、デコボコしたシルエット」でいいじゃん、こんなの!

「『蝙蝠』といふのは、大きな穴が一つ突き拔けてゐて、その穴が眼のやうにぎらぎら光つて居る」原文から――「こうもり」岩、或いは「こうもり」島と呼ばれる海面上に出た部分に、それなりの大きさの貫通孔を持つ大きな岩礁――と読めるが、ネット検索では網に掛からない。暗礁に乗り上げた……と諦めかけ……地図を見て居たら……見っけ~たゾ!!! これって! 航路の右舷に見えるはずの「小森島(こもりしま)」(現在、海士町所属)のことなんじゃないんか?! 識者の御判断を仰ぐ! 小森島は現行の島前島後航路に近い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「その先きに大きな岩が二つある。曲つて、尖んがつて、上の處で殆んどつながつて居るから、蟹がその挾み爪を擡げて居るのに怪しくも似て居る」これは二本の鋭角的突出という形状から考えると、「二股島」(現在、海士町所属)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、この島は現行の航路では、左舷に見え、前で私が推定同定した「蝙蝠」、小森島とは直線で二・二キロメートル離れている。但し、指標となるものが見えにくい海上の視認印象では、この、「蝙蝠」に続いて近くの位置で同方向に二股状の岩が見えたように読めてしまう叙述は、私は、必ずしもおかしいとは思わないと言い添えておく。二股島は現行の島前島後航路に近い。

「松島」現在、海士町所属の無人島。ここ。「海士町」公式サイト内の「松島」によれば、中ノ島海士町豊田地区から東の沖合約三キロにある無人島で、現在、『周囲の海域はニホンアワサンゴやアミメサンゴなどの日本の生息域北限であるため、環境庁により海中公園に指定されました。大山隠岐国立公園の一部でもあります。切り立った海食崖に囲まれ照葉樹林が鬱蒼と生い茂り、海岸植物イワタイゲキやカゴノキ、ホウライカズラ、アリドオシといった珍しい植物が生き延びています。太古の自然が残っているのです。江戸時代には対岸の知々井岬とともに幕府の御林地であり、代官が公用伐採を命じる時以外は斧を入れることができなかったとのこと。当時の記録からも「目通り五六尺より一丈あまりの大松数百本、島前一の大山林であった」と残るほどです。戻れなくなったイカ釣り漁船乗組員がここでイカを食べてしばらく暮らしたとの逸話も』あると記す。引用中の生物についてのデータを以下に追記しておく。

・刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目ハマサンゴ科アワサンゴ属ニホンアワサンゴ(日本泡珊瑚) Alveopora japonica

・イシサンゴ目アミメサンゴ科アミメサンゴ属アミメサンゴ(網目珊瑚) Psammocora profundacella

・双子葉植物綱キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ属イワタイゲキ(岩大戟)Euphorbia jolkinii

・モクレン目クスノキ科カゴノキ属カゴノキ(鹿子の木)Litsea lancifolia

・リンドウ目マチン科ホウライカズラ属ホウライカズラ(蓬莱蔓)Gardneria nutans

・キク亜綱アカネ目アカネ科アリドオシ属アリドオシ(蟻通し)Damnacanthus indicus

なお、「目通り」は「めどおり(歴史的仮名遣は「めどほり」)」と読み、目の高さで測った立木の太さ(直径)を表わす語で、「五六尺より一丈あまり」は一・五~一・八メートルから三メートル前後で、太いものはとんでもない巨木であったことが知れる。

「大森島」先の松島の北北東二・二キロメートルの位置にある、現在は隠岐郡隠岐の島町所属の無人島。現行の島前島後航路に近い。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「その忌はしげな巨岩には何か物凄い力が――その横を通る時自分等の船をゆるめかせ震はせる何か不可思議な力が――あるやうに思はれた」幻想ハーン節が炸裂!!!

「此處其處に白墨の白さの線條がついて居て」この「白墨の」の原文は“chalky”であるから、私なら、

――此處其處にチヨウクのやうな白さを持つた線條樣の紋があつて――

と訳す。これは「白墨」ではなく、その原材料になる「チョーク」、所謂、「白亜・白堊」(はくあ)層のことを指しているからである。チョークは北西ヨーロッパに分布する細粒の白色を呈する石灰岩で、中生代最後の白亜紀(今から約一億四三〇〇万年前から約六五〇〇万年前までの凡そ七八〇〇万年間)の地層で主に石灰質プランクトンの遺骸からなる。特にイングランド南東部のそれがよく知られている。

「目標(ポワン・ド・ルプエル)」“ point-de-repère 。フランス語。 “repère”(目印・符標・測量の基準線)の“point”(点)の意であるが、「大型機械機材などを組み立る際の指標、測量に於ける水準基線」、「トーキー映画で台詞を同調させるためにフィルムに打たれたシンクナイジング・マーク」などを意味し、そこから、「再度、ある場所に集合する際の目印」などの意や、広く「指針」「目安」の意となり、フランス語の俗語としては「生涯の一時期を画す大きな事件」の意味も持つ。ここは英語の“landmark”と同義である。強いて音写するなら「ポヮン・ドゥ・ルゥぺェルゥ」である。

「大滿寺山」島後の東中央部、現在の隠岐の島町の西郷と布施の境にある標高六百七・七メートルの山で、隠岐諸島中の最高峰。ここ(グーグル・マップ・データ)。山名は中腹にる曹洞宗摩尼山大満寺の名に由来し、「隠岐富士」の別名を持つ。

「西鄕町」(さいがうちやう)原文は“the city of Saigo”で現在の「隠岐の島町」の通称の複数の場所を含む「西郷」地区である。ここは恐らく誰もが何の躊躇もなく読み過ごすところであるが、実は「おかしい」のである。何が? と言えば、この訳の「西郷町」は、厳密に言うと当時は存在していないからである。どうしても「~町」と表記したいのであれば、

当時ならば、周吉(すき)郡の「西郷港町」とするのが正しい

行政上の町名だからである。何故なら、

公式には、「西郷町」というのは、ハーンが訪れた十二年も後の明治三七(一九〇四)年四月一日に島嶼町村制施行に伴って周吉郡西町・中町・東町の区域が合併して初めて発足している町名

だからである。実は、

明治七(一八七四)年に、島後の鳥取県矢尾村・目貫村・東郷村の一部が(総て単体の行政区画で上位の郡はない)が合併して「西郷港町」が発足した

ものの、

明治一二(一八七九)年一月十二日に「郡區町村編制法」の島根県での施行により、行政区画としての周吉郡が発足した際、何故か、「西郷港町」が分割されて「西町」「中町」「東町」となっている

からである。即ち、

この二十五年の間は「西鄕町」は存在しなかった

のであり、

ハーン訪問の明治二五(一八九二)年には――「西郷」の町は確かに存在したが、「西郷町」は存在しなかった――

のである。ここは主にウィキの「周吉郡」を参考にさせて貰った。

「そこで自分は隱岐西鄕に一と月の別を告げた」くどいが、「隱岐西鄕」は「隱岐西鄕丸で船名。先から鍵括弧が必要だと私が言ってる意味がお分かり戴けるものと思う。] 

 

.

 

   Dōgo, the main island of the Oki archipelago, sometimes itself called 'Oki,' lies at a distance of eight miles, north-east of the Dozen group, beyond a stretch of very dangerous sea. We made for it immediately after leaving Urago; passing to the open through a narrow and fantastic strait between Nakanoshima and Nishinoshima, where the cliffs take the form of enormous fortifications,— bastions and ramparts, rising by tiers. Three colossal rocks, anciently forming but a single mass, which would seem to have been divided by some tremendous shock, rise from deep water near the mouth of the channel, like shattered towers. And the last promontory of Nishinoshima, which we pass to port, a huge red naked rock, turns to the horizon a point so strangely shaped that it has been called by a name signifying 'The Hat of the Shinto Priest.'

   As we glide out into the swell of the sea other extraordinary shapes appear, rising from great depths. Komori, 'The Bat,' a ragged silhouette against the horizon, has a great hole worn through it, which glares like an eye. Farther out two bulks, curved and pointed, and almost joined at the top, bear a grotesque resemblance to the uplifted pincers of a crab; and there is also visible a small dark mass which, until closely approached, seems the figure of a man sculling a boat. Beyond these are two islands: Matsushima, uninhabited and inaccessible, where there is always a swell to beware of; Omorishima, even loftier, which rises from the ocean in enormous ruddy precipices. There seemed to be some grim force in those sinister bulks; some occult power which made our steamer reel and shiver as she passed them. But I saw a marvelous effect of color under those formidable cliffs of Omorishima. They were lighted by a slanting sun; and where the glow of the bright rock fell upon the water, each black-blue ripple flashed bronze: I thought of a sea of metallic violet ink.

   From Dōzen the cliffs of Dōgo can be clearly seen when the weather is not foul: they are streaked here and there with chalky white, which breaks through their blue, even in time of haze. Above them a vast bulk is visible—a point-de-repère for the mariners of Hōki,— the mountain of Daimanji. Dōgo, indeed, is one great clusterof mountains.

   Its cliffs rapidly turned green for us, and we followed them eastwardly for perhaps half an hour. Then they opened unexpectedly and widely, revealing a superb bay, widening far into the land, surrounded by hills, and full of shipping. Beyond a confusion of masts there crept into view a long grey line of house-fronts at the base of a crescent of cliffs,— the city of Saigo; and in a little while we touched a wharf of stone. There I bade farewell for a month to the Oki-Saigo.

眼からホッキ!

本日の「青空文庫」新規公開より――



   ホッキ巻   知里真志保
 
 北海道名産の一つに北寄貝がある。標準和名はウバ貝であるが、今はホッキ貝というのが通り名になってしまった。この名の語源については、北の海にしかない貝だから北寄貝だと思っている人もある様だが、北方特産の動植物の名称によくある様に、これももとはアイヌ語から来た名称である。アイヌ語ではこれをポッキセイ(pok-sei)と云い、ポッキは女性の象徴、セイは貝のことである。半開きになった貝殻の間から俗にサネと称する舌状物を突き出している時の様子がすこぶる女性の何かを思わせるものがあるというのでこの名がある。そう云えば日本語のウバ貝なども案外語原はその辺に胚胎しているのかもしれない。この貝は罐詰になって東京辺のデパートにも出ている様だが、ホッキの味は何と云っても生肉の刺身が一番だということになっている。
 ホッキ貝は東北から北海道樺太にかけて寒海に分布し外洋に面した砂泥の浅海に棲息する。これを獲るには、マンガンと称する木の胴に鉄の爪を植え並べた熊手の親分みたいな器械を磯舟に積んで沖へ出ていき、適当な場所を選んでそれを海中に投下し長いロープで海底をひくのである。すると鉄の爪が海底の泥の中から貝を掻き集め、掻き集めた貝は、マンガンの進行に連れて後方に取りつけてある網袋の中へ自分から飛びこんで行く様な仕掛になっている。マンガンは重いのでそれを動かすために舟の上で轆轤ろくろを巻く。ホッキ漁のことを一般に漁師はホッキまきと云っているが、それは轆轤を巻いてホッキを獲るからである。
 夏から秋にかけて室蘭線を汽車で通ると、鷲別幌別あたりの沖に点々と黒豆を撒いた様に浮んでいるのはホッキまきの磯舟である。ホッキまきは例年8月15日に始まって翌年の4月15日に終ることになっている。
 
〈『北海道風物誌』楡書房 昭和31年8月〉
 

 
知里真志保、なかなかやな! 「この貝は罐詰になって東京辺のデパートにも出ている様だが、ホッキの味は何と云っても生肉の刺身が一番だということになっている。」これが前文を受けると、スゴ過ぎ!

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