譚海 卷之一 藝州佛巖寺の事
藝州佛巖寺の事
○安藝國に佛巖寺といふあり。寺領六高石程あり。西本願寺末なり。一代かはりに國守の親族住持する寺也。和漢の内典(ないてん)我(わが)朝(てふ)にあるほどのものは藏書せしに、住持三代をへて成就せしとぞ。輪藏(りんざう)三箇所・土藏八箇所に充滿せり。書のあたひは八千兩に及べりといへり。
[やぶちゃん注:「目錄」では次のこの標題に二字空けをした上で次の「加州城中幷家士等の事」が同行に出る。
「佛巖寺」底本の竹内利美氏の注に『現在の広島別院である仏護寺であろう』とある。これは現在の本願寺広島別院と同一(後身)である。ウィキの「本願寺広島別院」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『広島県広島市中区寺町にある浄土真宗本願寺派』(「お西さん」)『の寺院。旧安芸国の安芸門徒と呼ばれる浄土真宗門徒の活動の中心寺院で』、『本願寺広島別院の前身は、長禄三年(一四五九年)、安芸武田氏によって、現在の武田山の麓(現広島県立祇園北高等学校付近)に建立された、龍原山仏護寺である。この寺院は安芸武田氏の影響下にあり、初代住職正信も安芸武田氏一門であった。建立当時は天台宗の寺院であった。しかし、第二世住職円誓は、本願寺の蓮如に帰依して、明応五年(一四九六年)に浄土真宗に改宗した』(竹内氏は創建を長禄元年とするが、「本願寺広島別院」公式サイトの「広島別院・安芸教区について」の記載も長禄三年で誤りである)。『その頃の安芸国は戦乱の日々で、安芸武田氏はその波に揉まれ、第三世住職超順の時代、天文一〇年(一五四一年)に安芸武田氏は大内氏と毛利氏に攻められて滅亡してしまう。仏護寺は堂宇を焼失するなど大きく疲弊するが、信仰心篤い毛利元就の庇護を受け、石山合戦では毛利軍の一員として畿内に出兵した』。『豊臣秀吉の世になると、毛利輝元は広島城の築城に着手。その時の町割によって天正一八年(一五九〇年)、仏護寺は広島小河内(現広島市西区打越町)に移転した。慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は広島を去るが、その後領主となった福島正則によって、慶長一四年(一六〇九年)に、現在の寺町へと移転させられた』。『福島正則の去ったのち広島は浅野氏の支配となるが、そのまま浅野氏の庇護を受けて明治維新を迎えた。明治九年(一八七六年)から約二年間、仮の広島県庁舎がここに置かれている』。その後の『明治三五年(一九〇二年)十一月に、広島別院仏護寺と改称。その六年後の明治四一年(一九〇八年)四月に、現在の名である』「本願寺広島別院」と改称した(下線やぶちゃん)。『太平洋戦争末期の昭和二〇年(一九四五年)八月六日、原子爆弾が広島市に投下され、爆心地からわずか一キロメートル足らずの広島別院は廃墟と化すも、戦後の昭和三九年(一九六四年)十月に本堂が再建され』た。『浄土真宗本願寺派では、全国を三十一の教区、五百三十三の組(そ)に分けられているが、広島別院の管理する広島県西部の地域は安芸教区と呼ばれ、二十五の組に分けられている。教区内には現在五百五十ほどの寺院があるが、門徒の減少、後継者の不足等に悩まされている』とある。
「内典」仏教で仏教の経典を指す。因みに、それ以外の書物は「外典(げでん/げてん)」と称するが、本邦に於いて仏教で「外典」と言う場合は、主に儒学書を指す。
「輪藏」一切経などの大部の経典を収める経蔵(きょうぞう)。]
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