午砲 梅崎春生 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:本作は昭和二三(一九四八)年九月号『文芸』に掲載された「いなびかり」「猫の話」「午砲」の三篇から構成されたアンソロジー「輪唱」の第三篇である(以下、注でも述べるように、私の所持する以下に示す全集には標題及び文中でもルビが打たれていないが、一般にはこれで「ドン」と当て読みする読みが通行している)。「輪唱」全体は後に単行本「B島風物誌」(同昭和二三(一九四七)年十二月河出書房刊)に所収された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第三巻」を用いた。なお、全三篇合わせたPDF縦書版「輪唱」(附やぶちゃん注)も用意した。]
午砲
叔父さんは岬(みさき)の一軒家に、ひとりぼっちで住んでいた。日曜毎に少年は岬へあそびに行った。
芒(すすき)のしげった草丘のかげに、叔父さんの家はひっそりと建っていた。屋根板がひくくかたむいていて、家というより小屋という感じにちかかった。少年が行くと、いつも叔父さんは部屋のなかで、ぼんやり寝ころんでいるか、起きて本をよんでいるかしていた。部星にいないときは、海の方へおりてゆくと、大きな岩のかげでつり糸をたれていた。
叔父さんは背がたかく、大きな掌をもっていた。広い額がすこしおでこになっていて、灰色がかった黒眼がその下にあった。叔父さんの眼はいつもどんよりしていて、遠くを見ているのか、近くを見ているのか、すこしも判らなかった。おでこでかげになるせいだろうと、少年は心できめていた。
岩かげでは、ハゼやドンコが釣れた。叔父さんから竿を借りて、少年はそれを釣ったり、草原の上で宿題の写生をしたりした。写生をしていると、叔父さんがこっそりやってきて、しばらくうしろで眺めたりした。
「海はそんな色かね。そんな色じゃないだろう。もっと黒くてきたない色だよ」
そんなことを叔父さんは言うことがあった。そして自分でクレヨンをとって、少年の絵を塗りなおしたりした。
「あの樹は、そら、こんな色じゃないよ。よく見てごらん。幹だって、ウンコ色だよ」
叔父さんが手を入れて修正すると、色はいつもきたならしくなって、学校へ出すのも恥かしいような絵になった。だから少年は家へかえって、同じ絵をあたらしく書かねばならなかった。絵を直されるのは迷惑だったけれども、少年はこのような叔父さんが好きであった。
岬は腸詰のような形で無雑作に、青黒い海にのびていた。その岬のつけねから、ぽつぽつ家並が始まり、湾曲した海岸線にそって、小さな市街がひろがっていた。だから岬の尖端からみると、抱きこまれた海のむこうに、灰色の市街がよこたわっていた。叔父さんの役目、この岬で午砲を撃つことであった。正午になると砲声が、半里の海をわたって、市街にひびいてきた。すると貧しい市街にすむ人々は、時計の針をなおして十二時に合わせた。
叔父さんはまったくひとりぼっちで住んでいた。叔父さんの部屋には、すすけた吊りランプがかかり、畳は潮風に赤茶けていた。こんなところにひとりで住んでいて、淋しくないかしらと少年は思った。そしてそう訊ねてみた。
「淋しくはないさ」と叔父さんはすぐにこたえた。しかしそう答えたときの叔父さんの姿は、なにか影のように黒くひらたく見えた。だから少年はかさねて言葉をついだ。
「叔父さんは退屈しないの?」
「退屈はしないさ」叔父さんはすぐにそう答えて、大きな掌を少年の頭においた。「退屈しているのはお前だろう。ハゼ釣りにつれてってやろうか」
叔父さんはいろんなことを少年に教えて呉れた。岬に生えている草の名や、鳥や虫の名を叔父さんは指さして教えた。それから部屋のなかで、机につんだ本をひろげて、一部分を読んで聞かせたり、わかりやすく説明して呉れたりした。叔父さんの机の上には、きちんと折りたたんだネルの布に、古風な大きな懐中時計が置いてあった。その竜頭は茸(きのこ)のような形をしていた。叔父さんの声は、近くで話しているくせに、遠くから聞えてくるような響きをもっていた。
ある日曜日、叔父さんとハゼを釣っていたとき、少年は足をすべらせて、岩角でくるぶしを切った。血がたくさん出て、半泣きになっていると、叔父さんは岩の上から、へんに真面目な声になって言った。
「海の水につけるんだ。早く降りてつけなさい」
少年が降りてゆくのと一緒に、叔父さんも岩を降りてきた。片足をつめたい水につっこむと、傷口にじんとしみて、鮮紅色の血がゆらゆらと水に溶けた。岩角に手をかけて、少年は痛みをこらえて、じつとそれを見つめていた。頭の上から叔父さんの声がした。
「そら。きれいだろ」
血が紅い煙のように、揺れながらぼやけていた。そして傷口からまた赤い血が、淡青の水の色にふき出ていた。叔父さんは身体を曲げるようにして、それを灰色の眼でじっと眺めていた。少年は俄かに、恐いようなかなしいような気持になって、半分泣き声でさけんだ。
「まだ入れとくの。まだ?」
叔父さんはその声をきくと、急にやさしい顔になって、少年を抱きあげた。用心しながら岩へ上って、小屋まで抱いたまま歩いて行った。そして薬を戸棚から出して、ていねいに繃帯(ほうたい)をしてくれた。
普通の曜日は、少年は市街にある小学校で午砲の声をきいた。遠くから午砲がひびいてくると、学校の鐘が鳴って、お弁当の時間になるのであった。だから皆はこの午砲のおとをたのしみにしていたが、少年はその時叔父さんを強く思いだし、なにか身体があたたかくなるような、淋しいような気持になった。皆はただ音をきくだけで、それを打つ人のことを何故かんがえないのだろうと、少年はぼんやり思うのであった。
日曜の正午になると、少年は叔父さんが打つ午砲の音をすぐ近くで聞いているわけであった。近くで聞く午砲のおとは、遠くで聞くおととまるでちがっていた。
十二時すこし前になると、叔父さんは机の上の大きな懐中時計をわしつかみにして、芒(すすき)の道をぬけて岬の突端へいそいだ。少年もおくれないように、叔父さんのあとにつづいた。
大砲は岬の尖端の見晴しのいいところにあった。仮小屋のなかに入っていて、砲口は市街の方にむいていた。青黒い砲身はずんぐりと短く、元のところにローマ字がちいさくぐるりと彫られていた。
叔父さんは砲身の栓をぬいて、火薬やぼろ片や藁をいっしょに押しこめた。そしてしばらく身構えて、手にした時計の秒針をにらみつけていた。
海をへだてた彼方には、今日も市街が灰色に沈んでいた。ところどころに煙突がたち、煙が幾筋かでていた。港のところに帆柱がちいさく並んでいるのが見え、海の上に帆船がゆったりと浮んでいた。あたりはしんとしていて、何の物音もしなかった。少年はいつも、身体が内側からふくれ出すような気持になりながら、発射の瞬間を待つのであった。時計をにらむ叔父さんの表情は、平常の顔とはまるで違っていた。そんな叔父さんの顔を、少年は痛いような好奇心で見つめていた。そして少年は、こんな表情をときどき大人がつくることをよく知っていた。受持の先生が便所でおしっこしているときの顔や、お医者さまが注射をするときの顔を、少年はすぐ聯想した。しかし叔父さんの顔は、それともどこかちがっているような気もした。
叔父さんの身体がぱっと動くと、そこだけ空気がすぽっと抜けるような、途方もない大きな音がした。反響もなにもない、からっぽで、そのくせ耳ががんとなるような烈しい音響であった。二三秒間は身体のなかがすっかり空虚になって、すべてのものが停止するような気がした。このじんとしびれるような二三秒間を味わうことが、少年はもっともおそろしかったし、それ故にまた、もっとも待たれるのであった。叔父さんもこれがたのしみで、毎日打っているのかも知れないと、少年はときどき考えた。
煙硝のにおいのする茶色の煙が、潮風に散ってしまうと、少年は叔父さんによりそうようにして、道を戻って行った。そして少年はいつも同じことを叔父さんに問いただそうとするのであった。
「いまの音、お父さんやお母さんにも聞えたかなあ。どうも聞えないような気がして、仕方がないの」
すると叔父さんはいつも、ぼんやりしたような笑いをうかべて、大きな掌を少年の頭にのせた。
[やぶちゃん注:本作は、一九七〇年代後半から一九八〇年代初めにかけて、中学校の国語教科書に採られていたようである。「猫の話」を教授された当時の高校生の一部が梅崎春生の名を聴いて『「どん」だ! 「どん」だ!』と騒いでいたのを覚えている。
「午砲」梅崎春生は一切ルビを振っていないが、一般に通称される「どん」で当て読みしておく。無論、本来は午砲(ごほう)で、時を知らせるために撃たれる空砲の大砲を言い、本邦では歴史的に正午に撃つことが多かったことから、正午の砲、「午砲」と称された。以下、ウィキの「午砲」から引く。『日本では江戸時代末期に行われていたという記録も散見されるが、組織化されたきっかけは』明治四(一八七一)年の『午砲の制により制度化されたことによる。大都市を中心に、午砲台(所)が設置された』。『運営は主に陸軍が行ったが後に海軍や測候所、地方自治体も参画している』)「叔父さん」が民間人であってもおかしくないわけである)。午砲が撃たれる場所午砲台と呼ばれた。この明治四年、『兵部省で「真時正刻は胸臆手記することがはなはだむつかしい」という理由で東京の午砲執行を計画した。すなわち「旧本丸中に於て、昼十二時大砲一発ずつ毎日時号砲執行致し且つ諸官員より府下遠近の人民に至るまで普く時刻の正当を知り易くし以て各所持する時計も正信を取る所これあり候よう致し度、云々」という伺書を兵部省より太政官に提出したところ太政官においてもその必要をみとめ』、『執行させることとなった。すなわち皇城内中央気象台の隣地練兵場に正午所をもうけ、天文台から電信の打ち合わせでその日打ち出した大砲の号砲のひびきは俗に「丸の内のドン」を午砲の代名詞とした。発砲は近衛砲兵におこなわせ』、下士一名、上等兵二名『来所の定めで、東京のほかにも師団所在地で執行された。その後、陸軍省の予算の収縮の結果』、大正一一(一九二二)年九月十五日限りで『これを廃するのやむなきにいたった。東京では東京市でその事業をひきつぎ』、昭和四(一九二九)年五月一日に『電話による正時の通報を得てモーターサイレンによる正時の通報が執行されるまでの号砲機関とした』。明治二一(一八八八)年一月一日に『日本標準時が適用される際、神奈川県では当日午0時に野毛山で号砲を発した』。『午砲台の場所が高台にある都市ではしばしばドン山と命名され、現在でも呼び名が受け継がれている』(下線やぶちゃん)。以上の下線部と、高松の香川洋二氏の個人サイト内のこちらの記載によると、『戦後国内での「ドン」は大阪城天守閣復興60周年記念に撃たれただけで』あるとあり(大阪城天守閣復興六十周年記念は一九九一年のことと推定される)、ここでこの「叔父さん」が「ドン」を打つ異常、これは本篇の作中の時制が戦中でも戦後でもない、戦前のことを意味するとしか考えられない。全篇が平和な雰囲気で包まれており、おぞましい軍靴の音は聴こえてこない。かといって少年は絵をクレヨンで描いており、明治時代ではなく、大正から昭和初期を作品内時代と取り敢えず想起出来るように私には思われる。
「叔父さん」無論、これは一般的な成人男性或いは中年男性を指す「おじさん」とも読め、赤の他人乍ら、寡黙でちょっと不思議なこの天涯孤独な感じの「おじさん」がひどく親しくなるというのも少しもおかしくはない。しかし一方、実際の少年の父母孰れかの親族としての「叔父」で、何故か、こんな岬の一軒屋に世を厭うように離れて住み、ただ「どん」を打つことを仕事としている(但し、実際にこの人物が「どん」を打つ以外に仕事を持っていないかどうかは、少年の目からしか描かれぬ以上、断定は出来ない)と読んでも何ら、不自然ではない。孰れにしても、確かに「不思議なおじさん」ではある。
「ハゼ」条鰭綱棘鰭上目スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei 魚類群の総称。二千百種以上が汎世界的に淡水域・汽水域・浅海水域のあらゆる環境に生息し、もっとも繁栄している魚類の一つで、都市部の河川や海岸にも多く棲息し、多くの人々にとって身近な魚に挙げられ(ここまではウィキの「ハゼ」に拠る)、釣り魚としては面白く鯊釣りは昔から人気がある。但し、種によるが(次のドンコを参照)、食用としては小さく、それほど美味いものではない。
「ドンコ」通常の標準和名のそれはハゼ亜目ドンコ科ドンコ属ドンコ Odontobutis obscura を指すが、本種は『流れが緩やかで底質が砂礫の、河川や湖、池沼、水田、用水路等に生息する。一生を淡水域で過ごす純淡水魚で』海には回遊しない(ウィキの「ドンコ」より引用)。少年は岬の岩礁帯でこれを釣っており、本種ではない。可能性としては「ドンコ」の異名を持ち、浅海域にも棲息するとなると、側棘鰭上目タラ目チゴダラ科チゴダラ属エゾアイナメ Physiculus maximowiczi・側棘鰭上目アシロ目アシロ亜目アシロ科イタチウオ属イタチウオ Brotula multibarbata であるが、どうもここで少年がハゼと一緒に狙う魚種としては私にはピンとこない。本篇のロケーションが不明で(作者梅崎春生の実体験に基づくとすれば生地の福岡博多か学生時代を過ごした熊本、戦中の鹿児島辺りが候補とはなる)、「ドンコ」と呼ぶ地方異名を現認し得ないものの、寧ろ、岬の岩場となると、私のイメージでは私も青年時代に岩場で幾らも釣ったことのある、スズキ目カジカ亜目アイナメ科アイナメ属アイナメ Hexagrammos otakii が相応しいようには思われる。なお、以上の魚類は孰れも食用となり、それぞれに美味い。識者の御教授を乞う。
「岬は腸詰のような形で無雑作に、青黒い海にのびていた。その岬のつけねから、ぽつぽつ家並が始まり、湾曲した海岸線にそって、小さな市街がひろがっていた」不詳。モデルとなったロケ地はあるのであろうか? 幾つかの午砲台跡を調べてみて、『これはもしかしたら「あそこ」がモデルではなかろうか?』(軽々には言えないので場所は伏せるが、「腸詰のような形」の「岬」「その岬のつけねから、ぽつぽつ家並が始まり、湾曲した海岸線にそって、小さな市街がひろがっていた」からはっと思った。「そこ」だとすると、直感的には何か私には激しく腑に落ちたのであったのであるが)と思うものがあったが、そこの午砲台は「岬」ではない。但し、春生の生地博多にも「どん」があり、それは「波奈(はな)砲台」と呼ばれ、実に明治三一(一八九八)年から昭和六(一九三一)年まで鋼鉄砲が撃たれたということが、くま氏の個人ブログ「福岡博多の昔のお話」の「石城,お台場,そしてドン(11)」で確認出来た。位置を見ると、現在は港湾化されているものの、岬であったと思われ、しかも博多市街は海を隔てて約二キロ弱ある。本文には「半里の海をわたって、市街にひびいてきた」とあるのと一致するようにも思われる。同ページには大正六(一九一七)年度に交換したそこの『最終砲が福岡市博物館に現存』するとある。その砲身は「青黒」く「ずんぐりと短く、元のところにローマ字がちいさくぐるりと彫られてい」るだろうか? 識者の御教授を乞うものである。
「竜頭」「りゅうず」。言わずもがなであるが、腕時計や懐中時計のネジを巻くためのつまみのことである。
「聯想」漢字表記はママ。連想に同じい。
「煙硝」「えんしょう」。火薬。
「叔父さんの身体がぱっと動くと、そこだけ空気がすぽっと抜けるような、途方もない大きな音がした。反響もなにもない、からっぽで、そのくせ耳ががんとなるような烈しい音響であった。二三秒間は身体のなかがすっかり空虚になって、すべてのものが停止するような気がした。このじんとしびれるような二三秒間を味わうことが、少年はもっともおそろしかったし、それ故にまた、もっとも待たれるのであった」私はこの部分、「猫の話」の主人公がカロの轢断の瞬間に感ずる「頭のなかが燃え上るような気持で、彼はそれを瞬間に見た。カロの身体がぐしゃっとつぶれる音を、彼はその時全身でありありと感じとった」というシーン、カロの平たくのされた身体が千切られ、毟られて持ち去られるということに気づいた時の、「彼は身体のなかから、何か引きぬかれるような感じがして、凝然と立ちすくんだ」という身体感覚との相似性を遠く感じている。
*
この「叔父さんはまったくひとりぼっちで住んでい」る。「こんなところにひとりで住んでいて、淋しくないかしらと少年」が思うほどに粗末な淋しい小屋である。しかし叔父さんは「淋しくはないさ」と答えるのであった。「しかしそう答えたときの叔父さんの姿は、なにか影のように黒くひらたく見えた」と描写する(下線やぶちゃん)。
これらの表現は、既に前篇の「猫の話」を読んだ読者にとっては、かの「孤独」で「淋し」い主人公の「若者」、そして、かの轢かれて、のされて、「ひらたく」されてゆく「若者」と同じく「孤独」であった猫「カロ」の衝撃的な映像を、これ、直ちに「聯想」させるものではある。少なくともそういう直覚的連想を明らかに強いる確信犯的表現ではある。
しかし、では、
――この「叔父さん」は、あのかつての「若者」なのだろうか?
いや。違う。「午砲」の注で解析したように、
――本篇は前の戦後の昭和初期の二篇の時間から巻き戻された戦前であり
――その前二篇とは異なった時空間
――すこぶる平和で静かな原風景の羊水の中にいる過去時制の少年の原体験
としか読めない。さて、そう考える時、私は、
「叔父さんはいろんなことを少年に教えて呉れた。岬に生えている草の名や、鳥や虫の名を叔父さんは指さして教えた。それから部屋のなかで、机につんだ本をひろげて、一部分を読んで聞かせたり、わかりやすく説明して呉れたりした」
という箇所に立ち戻ってゆく。
この「伯父さん」は、まさに前篇「猫の話」で、主人公の「若者」に、
蟋蟀在堂 歳聿其莫
という、
――「生」の儚さ、空しさを孕んだ「詩経」の詩篇の一節を教えてくれた「伯父さん」ではなかろうか?
「猫の話」の「若者」は言う(下線やぶちゃん)、
「それはむかし、伯父さんから習った文句であった。意味はわからなかったけれども、彼は何とはなく、これを記憶していた。その他伯父さんから、いろいろなことを習ったが、覚えているのはこれだけであった。あとのことは、すべて忘れていた」
「叔父さん」(「午砲」)と「伯父さん」(「猫の話」)の違いなど、最早、問題ではない。寧ろ、春生はそうしたあからさまな連関描写を嫌ったに違いない。既に確信犯で、それは第一篇(「いなびかり」)と第二篇(「猫の話」)に同じ猫「カロ」を登場させるという明確なスピン・オフ演出に於いて充分にやり尽くしている。それ以上やるのは、如何にも臭くなるからである。
さればこそ、
――この「午砲」の主人公である幸福な「死」(但し、それは海の水の中に広がってゆく血に恐ろしげに予兆されてある)も「孤独」も知らぬ天使のような「永遠の少年」(プエル・エテルヌス)は……
――その後
――戦禍によって父母親族一切を失い
――天涯「孤独」となって東京へ流れて来
――そこで邂逅したただ一人の盟友「カロ」をさえも理不尽に消滅させられ
――「死」と「孤独」を聖痕(スティグマ)として身体に刻み込まれてしまった
――「猫の話」の主人公の「若者」であったのである……
と私は読むのである――大方の御批判を俟つ――]