ブログ・カテゴリ――梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注――始動 / 梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注 (1)
[やぶちゃん注:本作は昭和二一(一九四六)年九月刊の季刊雑誌『素直』創刊号に掲載され、後に昭和二三(一九四七)年三月大地書房から刊行された単行本作品集「桜島」に所収された。但し、以下に示す底本全集別巻の年譜によれば、本篇は敗戦後数ヶ月以内には既に完成しており、それを昭和二〇(一九四五)年十二月に雑誌『新生活』に持ち込んでいる。それが如何なる事情かは不明ながら掲載が滞り、翌年に小説家・文芸評論家であった浅見淵(あさみふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年)の紹介によって『素直』に持ち込まれたことが判る。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第一巻」を用いた。
ブログでは本篇の行空けの行われている箇所を一単位として電子化し、私のオリジナル注はその単位毎に原文の後に附すこととした。因みに、本篇は全十パートに分かれている。傍点「ヽ」はブログでは太字とした。ルビの拗音化は私の判断で行った。
因みに、私は本電子化注と同時に、本作の世界が驚くべき円環を閉じるように見えるところの遺作、「幻化」の電子化附オリジナル注をブログ・カテゴリ『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注』で手掛けている。出来れば是非とも並行してお読み戴きたい。
【2016年1月1日0:03 電子化注始動 藪野直史】]
桜 島
七月初、坊津(ぼうのつ)にいた。往昔、遣唐使が船出をしたところである。その小さな美しい港を見下ろす峠で、基地隊の基地通信に当たっていた。私は暗号員であった。毎日、崖(がけ)を滑り降りて魚釣りに行ったり、山に楊梅(やまもも)を取りに行ったり、朝夕峠を通る坊津郵便局の女事務員と仲良くなったり、よそめにはのんびりと日を過した。電報は少なかった。日に一通か二通。無い時もあった。此のような生活をしながらも、目に見えぬ何物かが次第に輪を狭(せば)めて身体を緊(し)めつけて来るのを、私は痛いほど感じ始めた。歯ぎしりするような気持で、私は連日遊び呆(ほう)けた。日に一度は必ず、米軍の飛行機が鋭い音を響かせながら、峠の上を翔(かけ)った。ふり仰ぐと、初夏の光を吸った翼のいろが、ナイフのように不気味に光った。
或る朝、一通の電報が来た。
海軍暗号書、「勇」を取り出して、私が翻訳した。
「村上兵曹桜島ニ転勤ニ付至急谷山本部ニ帰投サレ度(タシ)」
午後、交替の田上兵長が到着した。
その夜、私はアルコールに水を割って、ひとり痛飲した。泥酔して峠の道を踏んだ時、よろめいて一間ほど崖を滑り落ちた。瞼(まぶた)が切れて、血が随分流れた。窪地(くぼち)に仰向きになったまま、凄(すさ)まじい程冴(さ)えた月のいろを見た。酔って断(き)れ断(ぎ)れになった意識の中で、私は必死になって荒涼たる何物かを追っかけていた。
翌朝、医務室で瞼を簡単に治療して貰い、そして峠を出発した。徒歩で枕崎に出るのである。生涯再びは見る事もない此の坊津の風景は、おそろしいほど新鮮であった。私は何度も振り返り振り返り、その度(たび)の展望に目を見張った。何故(なぜ)此のように風景が活(い)き活きしているのであろう。胸を嚙むにがいものを感じながら、私は思った。此の基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか。たといその中に、訣別(けつべつ)という感傷が私の肉眼を多分に歪(ゆが)めていたとしても――
[やぶちゃん注:本篇は一貫して一人称で語られる。本篇は一貫して一人称で語られる。冒頭の電文「村上兵曹桜島ニ転勤ニ付至急谷山本部ニ帰投サレ度(タシ)」で姓が示されるが、名は最後まで示されない。
「七月初め」昭和二〇(一九四五)年七月。ここで梅崎春生(これは本名である)自身の事蹟を確認してみる(主に底本全集「別巻」の年譜に拠った)。梅崎春生(大正四(一九一五)年~昭和四〇(一九六五)年)は福岡県福岡市簀子(すのこ)町(現在の中央区大手門簀子地区)に陸軍士官学校十六期出身の陸軍少佐梅崎建吉郎の男ばかり六人兄弟の次男として生まれ、昭和二(一九二七)年に旧制修猷館(しゅうゆうかん)中学校(現在の県立修猷館高等学校)に入学、昭和六年には福岡高校を受験するも不合格で(この年、父建吉郎は五十歳で陸軍を退職して麻雀荘を営んだ)、翌七年四月に熊本第五高等学校文化甲類に入ると詩作に耽った(三年次進級時に落第)。昭和十一年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学、同年六月に同人誌『寄港地』を仲間十名と発行、この創刊号に小説「地図」を発表している(同誌は二号で廃刊)。昭和十四年八月号『早稲田文学』「新人創作特集号」に小説「風宴」が掲載された。昭和十五年三月に卒業(自分から一年間留年をしたが、在学中は殆んど大学の授業には出席しなかったと全集年譜にはある。卒論は「森鷗外」八十枚)後、東京市教育局教育研究所に勤務したが、翌昭和一六(一九四一)年の十二月五日に陸軍から召集を受けた(その三日後に日本は真珠湾攻撃を行っている。この召集月日は「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」に拠った。以下の引用もそれ)。『梅崎はドン亀としてついに行動をおこすときがきたと感じて、津島重砲隊に営門をくぐった。ところが、世の中はそういうときにかぎって裏切ってくるもの、気管支カタルだと誤診されて即日帰郷させられてしまった』。『またまた何も行動をおこせなくなった梅崎は、春まで福岡の津屋崎病院にいて、あとは自宅療養をしていた。そこへ弟が蒙古で自殺したという知らせが届いた』(本作の後の方で主人公の「弟はすでに、蒙古で戦死した」とあるのとほぼ合致する。因みにこの弟は後の小説「狂ひ凧」の主人公のモデルとされる)。松岡氏は『梅崎はあてもなく東京に出て、東京市の教育局や東芝の工場に行ったりしているうちに』、昭和十九年を迎えたされるが、底本年譜では明治十九年三月に、『徴用をおそれて東京芝浦電気通信工業支社に転職』し、六月に今度は海軍から召集令状が来た(この時、春生満二十九歳であった(本篇の後半で村上は「生まれて三十年間」と言っているのと合致する)。これ以下は全集第一巻の本多秋五氏の「解題」に詳しいのでそこから引用する(下線やぶちゃん)。『佐世保海兵団に入り、そこから防府の海軍通信学校に派遣され、ふたたび佐世保へよび返されて、こんどは佐世保通信隊に配置』となった。昭和二〇(一九四五)年の初め頃に『最初の実施部隊として指宿(いぶすき)の航空隊の通信科に転勤』、同二十年『五月に海軍二等兵曹に任官』、その後、本篇にも出る谷山基地(薩摩半島東側の旧谷山市内。現在は新制鹿児島市谷山地区で市南部に位置する)『からK基地へ、K基地』(小説「眼鏡の話」に出る)から坊津(「ぼうのつ」と読む。後注する)『へ派遣され、そこから谷山へ帰還を命ぜられ』て『桜島へ赴任したらしい』とある。何故、「らしい」なのかと言えば、実は春生は、この時の体験を後の本作や「幻化」に反映させているにも拘わらず、配属された坊津の特別攻撃隊(後注する)などについては生涯一切語ることがなかったからである(この部分はウィキの「梅崎春生」に拠る)。本多氏はこの謎の『K基地』については『どこかは不明だが、『眼鏡の話』に、そこが吹上浜の真正面にあたるとあるのが、『幻化』のなかで、主人公は「坊津に行く前に、吹上浜の基地を転々とした」とあるのに符合する』と述べておられる。吹上浜は鹿児島県西部の薩摩半島西岸で東シナ海に面した、現在のいちき串木野市・日置市・南さつま市にかけての砂丘海岸で、その長さは凡そ四十七キロメートルに及んでおり、一つの砂丘としての長さでは日本一である。さて一方、先の松岡氏はこの前後については口調がきつい。防府の通信学校で『暗号術の講習を受けさせられて、暗号特技兵になった。けれどもこんな程度の兵務でも俗物の梅崎にはこたえた。そこで、下士官候補の速修を受けて通信科二等兵曹となり、ずるがしこく管理職につくことにした』と述べておられる。そして春生が、自分の実際の兵隊体験の一部を語らなかった、創作に素材化しなかったことについては、講談社文芸文庫の「桜島・日の果て・幻化」の『解説に古林尚が興味深いことをいくつも書いている。そこに、「坊ノ津で梅崎春生を見舞ったであろう残酷な私的制裁については、想像するだに慄然たるものがある」というくだりがある』(古林尚は「ふるばやしたかし」と読む。左派の文芸評論家で梅崎春生とは特に親しかった)。『それを読んでギョッとした。古林は、なぜ『桜島』『幻化』から震洋特攻隊』(後注する)『の存在が“消去”されたのか、その経緯と理由とを見抜いているのだ。梅崎が古林に語ったのではない。梅崎は何も説明しなかった。古林は戦後、何度も梅崎にその点を問いただしたそうだが、梅崎は頑なに口をつぐみつづけたらしい』。『しかし古林にはすべてが見えたようだ。あまりにも屈辱的なことがおこったにちがいない。そうであるからこそ、梅崎は』『作品のなかで復讐をしてみせたのだ』と述べておられる。なかなかに意味深長である。
「坊津(ぼうのつ)」「遣唐使が船出をしたところ」現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊の旧地名で古代に栄えた港の名である。参照したウィキの「坊津」より引く。『古代から薩摩藩政の中盤頃』の享保年間(一七一六年から一七三五年)『の長期に渡って、海上交通上の要地であった。遣唐使船の寄港地としての他、倭寇や遣明船、薩摩藩の密貿易の拠点として栄えた』。『中国明代の文書『武備志』では主要港として、安濃津』(あのうつ/あのつ/あののつ:伊勢国安濃郡(現在の三重県津市)にあった港湾。「安乃津」「阿野津」とも書き、「洞津(あなつ)」とも称した)・『博多津と共に日本三津(さんしん)に挙げられている』。『日本での仏教黎明期の』五三八年に『百済に仕えていた日本人の日羅が、龍厳寺(後の一乗院)を建てる。その後も坊舎や坊主といった仏教と密接な地であったため、「坊津」と呼ばれるようになったと考えられている』。『飛鳥時代から、遣唐使船の寄港地となり、「唐(から)の港」、「入唐道(にっとうどう)」とも呼ばれるようになった』。奈良時代の天平勝宝五(七五三)年十二月二十日にはかの名僧鑑真が渡日六回目にして、近くの『秋妻屋浦(現在の秋目地区)に上陸している』。『室町時代、倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ、琉球や南方諸国とも貿易が活発化した。この頃、先の一乗院も大いに栄えるようになる。また、島津氏の中国(明)・琉球貿易の根拠地ともなっていた』。『伝来したキリスト教とも縁があ』って、天文一八(一五四九)年に『フランシスコ・ザビエルが日本でまず最初に上陸したのはこの地であ』り、『江戸幕府のキリシタン追放令で国を出て、ローマで司祭となって戻ってきたペトロ・カスイ・岐部が』寛永七(一六三〇)年に『上陸したのも同地である』とある。さて、先に引いた「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」に拠れば、実際、梅崎はこの坊津に配属されたのであったが、彼は『自分の任務が何か、ほとんど理解していなかった。行き先に何があるかも知っていなかった。着任してみると、ところが坊津には「震洋」特別攻撃隊の発進基地があったのだ』。『当時すでに艦隊の主力の大半を失っていた海軍軍令部は、アメリカ軍の本土侵攻に備えて、上陸予想地点での魚雷艇部隊の緊急配備に必死になっていた。軍令部のシナリオでは、アメリカ軍は数百隻の輸送船団で大規模な上陸作戦を敢行してくるだろうというものだった。これを迎え撃つには、残る手段は二つしかない』。『ひとつは神風特攻隊が空から体当たりしていくこと、もうひとつは乗員1人か2人の魚雷艇で海から突っ込んでいくことである。この魚雷艇の特攻兵器として考案されたのが「震洋」だった(他に「回天」が別の基地で用意されていた)』。『「震洋」はトヨタのトラック・エンジンを搭載した小型船艇で、ベニヤ板でまわりを固め、艇首に250キロの黒色火薬をつめこんだというだけの自爆兵器である。ちょっとした波にあっというまに横転するような代物だったが、敗戦時まで6000隻が急造された(「回天」も似たようなものだ)。その「震洋」の本土上陸最重要反攻拠点のひとつが、坊津にあったのである』。『梅崎は坊津で異様な日々を体験したあと、谷山基地に戻ったのち、桜島の通信隊に転属していった』のであった、とある。春生が敢えて『消去』したおぞましい、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行するモーター・ボート特攻兵器「震洋」や最初の特攻兵器である人間魚雷「回天」については、春生が『消去』している以上(但し、後でそれぞれ単語としては出る)、ここで注することは控え、ウィキのそれぞれをリンクさせるに止めおく。
「峠」この峠、名を出さなかったのは意図的なもののように思われる。これは恐らく、坊津の東南東一・八キロメートルにある現在の鹿児島県川辺郡坊津町坊の耳取峠(みみとりとうげ:標高百五十メートル)と思われるからである。『かつては遣唐使船の発着港として「唐の湊」と呼ばれ、藩政時代には琉球を介して行なわれた密貿易の湊として栄えた坊津。ここと鹿児島城下を最短距離で結んだ』。明治四二(一九〇九)年に『県道枕崎―坊津線ができ、その峠を耳取峠と呼ぶが、古くは約』五百メートル『北の番屋山山麓を越えるものだった。峠を坊津側に越えると』、宣化天皇三(五三八)年に『開かれ、明治初期まで密教寺院として栄えた一乗院がある』。『耳取という名前の由来は』三つあって、『一つは峠道からの開聞岳の眺めが素晴らしく、「みとれ」てしまうことからという説。一つは海からの風を正面に受けるので「耳がとれるほど寒い」。今一つは密貿易にかかわった罪人の「耳を切り取り追放」したという説があるという』(以上引用は「峠データベース」の「耳取峠」に拠った)。この峠名を出してしまうと、後に出て来る耳のない遊妓が嘘っぽく響いてしまうからではないか? 或いは逆に耳のない彼女はこの峠の名から発想した架空の人物であったのかも知れない。【2016年1月22日追記】後に梅崎春生は「八年振りに訪ねる――桜島――」で(リンク先は私の電子テクスト)、『この作品は場所や風景だけがほんとで、出て来る人物は虚構である。ただ一人、桜島転勤の途中で出合う谷中尉にはモデルがあるが、吉良兵曹長も見張りの兵隊も耳のない妓(こ)も、皆私がつくった。だからあれを実録のように思われては困る』と述べている。
「楊梅(やまもも)」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra 。六月頃、球形で暗赤色を呈した表面に粒状突起を密生する果実は結び、これは甘酸っぱく生で食べることが出来る。横浜翠嵐の教え子諸君はあの正門側の校舎に接して植えてあったあれ、窓の外の庇で発酵してたあれ、と言えば膝を打つであろう。
「勇」当時の海軍暗号書の名。伊・呂・波・登・天(部外)・忠・勇・雑・略語・呼出し符号・部外暗号書が存在したと原勝洋・北村新三「暗号に敗れた日本 太平洋戦争の明暗を分けた米軍の暗号解読」(二〇一四年PHP刊)にある。
「桜島」海軍の桜島の特攻秘密基地。底本解題の本多氏のそこには『桜島の部隊は、本来は震洋と回天の水上特攻基地の部隊であり、主人公の暗号特技兵の属する通信科はそこの所属する、いわば従属的な部隊なのだが、部隊本部のことは小説にも一度も描かれていない。震洋や回天の乗組み員も姿をあらわさない。小説の舞台は、もっぱら通信科の関係する範囲内にかぎられている』とある。先の春生の『消去』が徹底している様子が窺われる。
「泥酔して峠の道を踏んだ時、よろめいて一間ほど崖を滑り落ちた。瞼(まぶた)が切れて、血が随分流れた」「一間」は約一・八メートル。春生夫人梅崎恵津さんの「春生の酒」(昭和四二(一九六七)年一・二月新潮社刊「梅崎春生全集」第三巻・第四巻の月報所収)によれば(底本沖積舎版全集別巻より孫引き)、
《引用開始》
戦争の最末期には、下士官になっていたので、法度になっていた燃料アルコールなどを飲んだ。『桜島』の冒頭にも出てくるが、この燃料用アルコールを水でわって痛飲し、崖からすべり落ちて瞼を切っている。これは事実の事で、あぶないところで失明するとこだったと軍医にいわれたと云っていた。彼の右瞼にはこの時の深い傷あとが眼鏡の下に大きく残っていた。
《引用終了》
とある。
「枕崎」坊津の港からは東に直線で六・八キロメートル。
「生涯再びは見る事もない此の坊津の風景は、おそろしいほど新鮮であった。私は何度も振り返り振り返り、その度(たび)の展望に目を見張った。何故(なぜ)此のように風景が活き活きしているのであろう。胸を嚙むにがいものを感じながら、私は思った。此の基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか。たといその中に、訣別という感傷が私の肉眼を多分に歪めていたとしても――」小説「桜島」の、初読一発、ガツン! とくる、最初にして最も映像的な忘れ難い広角カラーの目に染みる景観映像である。そうしてこれは奇しくも遺作「幻化」で再び我々の眼を射、円環を閉じるところの鮮烈な景色なのである(引用は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第六巻」による。現在、「幻化」は本「桜島」と同時進行で同じくオリジナル注附電子化をブログ・カテゴリ『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注』で行っているのでそちらも参照されたい)。
*
忽然(こつぜん)として、視界がばっと開けた。左側の下に海が見える。すさまじい青さで広がっている。右側はそそり立つ急坂となり、雑木雑草が茂っている。その間を白い道が、曲りながら一筋通っている。甘美な衝撃と感動が、一瞬五郎の全身をつらぬいた。
「あ!」
彼は思わず立ちすくんだ。
「これだ。これだったんだな」
数年前、五郎は信州に旅行したことがある。貸馬に乗って、ある高原を横断した時、視界の悪い山径(やまみち)から、突然ひらけた場所に出た。そこは右側が草山になり、左側は低く谷底となり、盆地がひろがり、彼方に小さな湖が見える。
〈何時か、どこかで、こんなところを通ったことがある〉
頭のしびれるような恍惚(こうこつ)を感じながら、彼はその時思った。場所はどこだか判らない。おそらく子供の時だろう。少年の時にこんな風景の中を通り、何かの理由で感動した。五郎の故郷には、これに似た地形がいくつかある。その体験がよみがえったのだと、恍惚がおさまって彼は考えたのだが――
「そうじゃない。ここだったのだ」
五郎は海に面した路肩に腰をおろし、紙コップに酒を充たした。信州の場合とくらべると、山と谷底の関係は逆になっている。それは当然なのだ。二十年前の夏、五郎は坊津を出発して、枕崎へ歩いた。枕崎から坊津行きでは、風景が逆になる。五郎は紙コップの酒を一口含んだ。
「ああ。あの時は嬉しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」
その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった。坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う。五郎はまだ二十五歳。体力も気力も充実していた。重い衣囊(いのう)をかついで、この峠にたどりついた時、海が一面にひらけ、真昼の陽にきらきらと光り、遠くに竹島、硫黄島、黒鳥がかすんで見えた。体が無限にふくれ上って行くような解放が、初めて実感として彼にやって来たのだ。
〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉
感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと前から、意識の底のものが、五郎をそそのかしていたのだ。それを今五郎はやっと悟った。彼はコップの残りをあおって、立ち上った。
*
山本健吉氏は底本全集の第六巻(昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊)の遺作「幻化」の「解説」中の、本作と「幻化」を対比しながら評されている中で、『風景が人を感動させることがあれば、その風景の近い将来に於ける荒廃が目に見えているか、あるいは、こちらがもはや二度とそれをも見ることのない「末期の眼」で眺めているか、どちらかである。もちろん彼は、この絶望的な戦争に、生き残れると期待していやしなかった』と述べておられる。これ以上の名評を私はここに記すことは出来そうもない。]
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