「笈の小文」の旅シンクロニティ――京まではまだ半空や雪の雲 芭蕉
本日 2015年12月 9日
貞享4年11月 5日
はグレゴリオ暦で
1687年12月 9日
京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲 芭蕉
この前日、芭蕉は「笈の小文」の旅で名古屋に到着、鳴海(現在の名古屋市緑区鳴見町)で酒造千倉(ちくら)屋を営む門人下里知足(しもざとちそく)亭に泊まっていた。
ここまでの行程は、10月25日朝(同月は大の月)出立して、
25日 戸塚宿
26日 小田原宿
27日 箱根宿
28日 吉原宿(現在の静岡県富士市)
*土芳編「蕉翁句集」(蕉翁文集第一冊「風一」・宝永六(一七〇九)年成立)には、この年に配する、
不二(ふじ)
一尾根(ひとおね)はしぐるゝ雲かふじのゆき
の一句を載せる。富士の嘱目吟とするならば、この前後に配することは出来る。
29日 府中宿(現在の静岡市葵区)
30日 金谷宿(現在の静岡県島田市金谷)
ここで11月に入って、
1日 見附宿(現在の静岡県磐田市中心部)
2日 白須賀宿(しらすか:現在の静岡県湖西市白須賀)
3日 藤川宿(現在の愛知県岡崎市藤川町附近)
であった(以上の行程はサイト「俳諧」の「笈の小文」を参考にした)。
そこでこの五日(講談社学術文庫版山本健吉「芭蕉全句」(元版は一九七四年刊)の説)に、現地鳴海の連衆の一人である本陣桝屋主人寺島菐言(てらしまぼくげん)亭で巻いた歌仙の発句がこの句である(但し、サイト「俳諧」の「笈の小文」では七日とする。同歌仙の全容は同サイトのこちらで見られる)。ここは後に掲げる本貞享四年の奥書を持つ如行(じょこう)編の「如行集」の前書に従い、五日と採る。
「笈の小文」では、
鳴海にとまりて
星崎の闇を見よとや啼く千鳥
飛鳥井雅章公の此宿にとまらせ給ひて、都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて、と詠じ給ひけるを、自ら書かせ給ひて賜はりける由を語るに、
京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲
と載せる。恰も、「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」が先で、本句が後に作られたように廃されてあるが、これは文学的操作であって、本句の方が先に創作されている。
中村俊定校注岩波文庫版「芭蕉俳句集」(一九七〇年刊)によれば、「蕉翁句集」には、
鳴海の驛(うまや)に泊りて、飛鳥井
雅章(あすかゐまさあきら)の君、
都(みやこ)を隔(へだつ)とよみて
給はらせけるを見て
と前書し、如行編「如行集」には、
貞享四年卯十一月五日 鳴海寺嶋氏菐
言亭に、飛鳥井亞相の御詠草かゝり侍
し哥を和す
と前する(これを五日の根拠とした)。
□「笈の小文」やぶちゃん注(「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」は後日に廻す)
「飛鳥井雅章」(慶長一六(一六一一)年~延宝七(一六七九)年)は江戸前期の公家で歌人。従一位権大納言。承応元(一六五二)年に権大納言に昇り、寛文元(一六六一)年から寛文一一(一六七一)年まで、十年に亙って武家伝奏(さればこそ東海道を何度も行き来したと考えられ、鳴海に泊まったとしても何らおかしくはない)を勤めた。飛鳥井家家学である和歌に秀で、細川幽斎に学んで後水尾天皇朝の歌壇で活躍、明暦三(一六五七)年には後水尾上皇から古今伝授を受けており、蹴鞠や書にも優れた。また、門弟には芭蕉の師であった北村季吟がいる(ここはウィキの「飛鳥井雅章」を参考にした)。その没年(享年六十九)はこの貞享四年からは僅か八年前のことであった。
「都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて」新潮社日本古典集成版の富山奏校注「芭蕉文集」(昭和五三(一九七八)年刊)には、本歌は「雅章卿詠草」に、
けふは猶都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて
とし、山本健吉「芭蕉全発句」には、文政一〇(一八二七)年の小沢何丸(なにまる)著「芭蕉翁句解参考」に、
うちひさす都も遠くなるみがたはるけき海を中に隔てて
とあるが、前者が正しいようである。下の句は鳴海宿が、隣の熱田宿(一般には「宮の宿」と呼ばれた)から桑名宿の間が、東海道で唯一の海路「七里の渡し」であったことによる。山本氏の「芭蕉全発句」には、この『詠草が菐言邸の座敷にかけてあったので、それに和する心でこの句を詠んだ』とあり、その詠草の掛物が『主人菐言のもてなしであれば、僕言への挨拶となる』と評する。行路のベクトルは逆(雅章のそれは京から江戸へ)ではあるものの、旅の始まりの郷愁という括りの中にあって、「中空」と「雪の雲」の語彙選択は美事と言う外はない。富山奏氏は「芭蕉文集」の本句の解釈で、芭蕉がこの名古屋の地に長く滞在(伊良湖に杜国を訪ねた後の名古屋滞在をも含めると異様に長い)して多くの興行を行っていることを指摘され、『雅章公が王朝の宮廷歌人以来の伝統的意識である京を離れ去り行く悲哀を表白している』のみである『のとは異なり、旅寝もまた庵住と本質的に変るものではないと自覚している芭蕉の吟は、言わば旅情そのものの哀感の表白である』としておられるのは至当と思う。
« 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十八) | トップページ | 小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十九) »