アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (九) まがひ海龜の物語
九 まがひ海龜の物語
[やぶちゃん注:「まがひ海龜」原文“THE MOCK TURTLE”。“mock”は形容詞では「偽の、真似事の、紛い(もの)の」の意である。ウィキの「不思議の国のアリスのキャラクター」の「代用ウミガメ」によれば、これは「代用ウミガメ」という仮想されたウミガメの一種で、『「代用ウミガメスープ」(Mock Turtle Soup)をもじったものである。このスープは緑色をしているウミガメスープの代用品で、ウミガメの代わりに子牛の頭を用いて作られる。つまり「代用のウミガメスープ」から本来存在しない「代用ウミガメ」を創作したのである。テニエルの挿絵ではウミガメに牛の頭、後ろ足、尻尾をつけた姿で描かれるが、この姿はキャロルの友人ダックワースの発案であったという』。『涙もろい代用ウミガメと気さくなグリフォンは、涙もろく情に流されやすいオックスフォード人気質を揶揄したキャラクターである』とある。]
「まあ、あなた、お前さんにまた會へて、わたしどんなに嬉しいかお分りないだらうねえ。」と公爵夫人はいつて、アリスの腕をやさしく自分の腕にかかへ込んで、一緒に歩いていきました。
アリスも夫人がこんなに上機嫌なのを知つて、大變嬉しく思ひました。そして、さつき臺所で會つたとき、あんなに亂暴だつたのは多分胡椒(こせう)のせゐだらうと考へました。
「わたしが公爵夫人になつたらごと、アリスは獨(ひとり)ごとを言ひました。(べつにそれを大變のぞましいやうな、調子でもありませんでしたけれども。)「わたし臺所で胡椒なんか全く使はないことにするわ。スープは胡椒がなくたつてかいしく食べられるんだもの。人を癇癪(かんしやく)持ちにさせるのは、多分胡椒かも知れないわ。」と、アリスは新しい法則を見付けだして、大喜びでいひつづけました。「お酢は人を酸つぱい氣にさせるし……カミツレは、にがにがしい氣にさせるし――有平糖(あるへいたう)やその他の甘いか菓子は、子供の氣持を甘くさせるし。世間の人にこれが分るといいんだけれどな。さうなると誰も氣むづかしくはならないわ――。」
[やぶちゃん注:「カミツレ」加密列(かみつれ)はキク目キク科シカギク属カモミール
Matricaria recutita の和名。ウィキの「カモミール」によれば、カモミールの「大地のリンゴ」という意味のギリシア語名のカマイメーロン(chamaímēlon)で、『これは花にリンゴの果実に似た香りがあるためである』とし、和名カミツレは『オランダ語名カーミレ(kamille [kaˑˈmɪlə])の綴り字転写カミッレが語源。旧仮名遣いでは促音の「っ」を大きな「つ」で書いていたためにこのように訛ったものと思われる。また、カミルレとも』言うとある。四千年以上も前の『バビロニアですでに薬草として用いられていたと言われ、ヨーロッパで最も歴史のある民間薬とされている。日本には』十九世紀『初めにオランダから渡来し、その後鳥取や岡山などで栽培が始められた』。カモミールから精製した精油は『安全で効果的なハーブとして、古くからヨーロッパ、アラビアで利用された。中世までは特にフランスなどで』『薬草として用いられ、健胃・発汗・消炎作用があるとして、婦人病などに用いられていた。ハーブ処方の古典、バンクスの本草書には、肝臓の痛み、頭痛、偏頭痛などに効能があり、ワインと共に飲むと良いと書かれている』。『欧州では伝統生薬製剤の欧州指令に従い医薬品ともなっている』。『現在は主に安眠・リラックス作用を目当てに、乾燥花にお湯を注ぎハーブティーとして飲む。複数の似た薬効のハーブをブレンドして飲むこともあり、近年は自家製オリジナルブレンド品を販売する専門店も増えてきており、紅茶葉などとブレンドしたハーブティーも市販されている。こうした飲み方は基本的には漢方薬の煎じたものと同一であり、東西を分けて同じ時代に発展してきたものでもある』。但し、『カモミールはキク科であるため、キク科アレルギーを持つ人には用いない。カモミールティーでアナフィラキシー反応を起こし、死亡した例がある』。『花から水蒸気蒸留法で精油を抽出したものは、抽出が間もないうちは濃紺色をしている。この精油は、濃縮された形のままでは不快な匂いがするが、希釈するとフルーティーで甘いハーブ調の香りがする』。『精油は食品や香水に香料として使われている。アロマテラピーにも用いられるが、学術的研究はほとんどな』いとする。『抗炎症作用を持つと考えられるが、喧伝される精油の薬効の多くは、ハーブとしてのカモミールに伝統的に言われるものである』。『園芸療法で扱われるハーブとしては代表的。カモミールは同じキク科の除虫菊などと同じく、近くに生えている植物を健康にする働きがあるといわれ、コンパニオンプランツとして利用される。たとえば、キャベツやタマネギのそばに植えておくと、害虫予防になり、浸出液を苗木に噴霧すると、立ち枯れ病を防げる。ハーブティーや入浴剤として使用した後の花を土に埋め込めば、カモミールの効果がある土になる』とある。
「有平糖」本邦のそれは、白砂糖と水飴を煮つめて練り棒状としたり、花・鳥・魚など種々の形に作って彩色した砂糖菓子の一種。室町末期にヨーロッパから伝来したもので、現在は主に祝儀・供物用に用いられる。語源としては、ポルトガル語「アルフェロア」(alféloa;糖蜜から作る茶色の棒状菓子)とする説と「アルフェニン」(alfenim:白い砂糖菓子)とする説とがある(語源説はウィキの「有平糖」に拠った)。原文は“barley-sugar”で、これは原義は主に英国で用いられる大麦を煮た汁から精製した大麦糖の意であるが、昔はそれを煮つめ、捩子棒(ねじぼう)などの形に透明な飴菓子に作ったことから、専ら、そうした飴のことを指すようである。なお、現行のそれは普通の砂糖を用いる。]
アリスはこのとき、公爵夫人のことはすつかり忘れてゐたのでした。けれどもアリスの耳許(みみもと)で、夫人の聲が聞えましたので一寸(ちよつと)驚きました。「お前は何(なに)か考へて居るねえ、それでお話をすることを忘れたんだね。わたしは今のところ、それの訓(をしへ)か何であるか分らないけれど、今に、直(ぢ)き思ひだせるよ。」
「多分訓(をしへ)なんかないことよ。」とアリスは勇氣をだしていひました。
「しつ、しつ。」と公爵夫人は言ひました。「何にだつて訓(をしへ)はあるもんだよ。見つけさへすれば。」さういつて夫人は、アリスの側(そば)に身をピツタリと寄せつけました。
アリスは夫人が側にピツタリ寄りそうて居るのが、あまり氣に入りませんでした。第一に公爵夫人は大變醜い顏をしてゐましたし、第二に夫人の背(せい)はアリスの肩位(ぐらゐ)しかありませんでしたので、氣味わるいほど尖(とんが)つて居る顎(あご)をアリスの肩にのせて居たからでした。けれどもアリスは失禮な事を云ひたくありませんでしたから、できるだけ我慢しました。
「勝負は今のところ、うまくいつて居るらしい樣子ですねえ。」と、アリスは少し話をつづけて行くつもりでいひました。
「さうだよ。」と公爵夫人はいひました。「そして、それの訓(をしへ)といふのは――世界を廻轉せしめるものは愛である、愛である。――といふのだ。」
「ある人は、かういふのを言つてよ。」とアリスは低聲(こごゑ)でいひました。「めいめいが自分の仕事に氣をつけてゐれば、何でもできる。――つていふの。」
「ああ、さうだよ、これはそつくり同じだ。」と公爵夫人は尖つた小さい顎でアリスの肩をつつきなから言ひました。「そしてそれの訓(をしへ)といふのは――『感(かん)を氣をつけなさい。すると音(おと)は、それ自(みづか)ら注意を集める』といふのだよ。
[やぶちゃん注:「感(かん)を氣をつけなさい」というのは意味不明である。原文の教え全体は“Take care of the sense, and
the sounds will take care of themselves.”である。訳者は「感じ」「感覚」の意で用いているようだ。これもキャロルの言葉遊びであろうから多重的な「意味」が隠されていると考えるなら、この“sense”は後の“the sounds”に対するものであることは明確だから、これは文字の「発音」に対するところの、その文字列の示す「意味」の謂いではなかろうか? 福島正実氏はここを『意味に気をつけよ、さすれば音は自ずからきまる』と訳しておられ、すこぶる腑に落ちる。]
「この方はいろんなものに、訓(をしへ)を見つけだすことが隨分好きなのねえ。」とアリスは獨(ひとり)で考へました。
「何故(なぜ)わたしが、お前の腰のぐるりに手をかけないのか、不思議だらう。」と公爵夫人は一寸間を置いていひました。「その理由といふのはねえ、わたしはお前の紅鶴(べにづる)の氣質が疑はれるんだよ。ひとつ手をかけて見ようかな。」
[やぶちゃん注:「紅鶴」既注通り、そのまま「フラミンゴ」の方が今や、分かりがいい。]
「かみつくかも知れませんわよ。」とアリスは叮嚀にいひました。そして試してもらふ事を、餘り氣にもかけませんでした。
[やぶちゃん注:最後の一文は意味が採りにくい。原文は“Alice cautiously replied, not
feeling at all anxious to have the experiment tried.”であるから、これは――アリスは用心深く答えました、だってそんな実験を試してもらうなんて、全く以って願い下げ、だったからです。――という意味であろう。]
「ほんとだ。」と公爵夫人はいひました。「紅鶴も芥子(からし)もかみつくからねえ。そしてそれの訓(をしへ)は―――『同じ羽の鳥は集る(類は類をもつて集る)――といふんだよ。」
「でも芥子(からし)は鳥でないわ。」とアリスが言ひました。
「その通りだ。」と公言夫人は言ひました。「お前はよくものごとがはつきり分るねえ。」
「わたしそれは鑛物(くわうぶつ)だと思ひますわ。」とアリスが言ひました。
「無論さうだよ。」公爵夫人は言ひました。夫人はいつもアリスの言つたことは、何ごとでも、賛成する風(ふう)がありました。「この近くに大きな芥子のマイン(鑛山)があるよ。そしてそれの訓(をしへ)といふのは――わたしのものか(Mine(マイン)を鑛山と、「わたしのもの」といふのと一緒にしたのです。)澤山あれあるほど、あなたのものが益益(ますます)少(すくな)くなる。――といふのだ。」
[やぶちゃん字注:「Mine(マイン)」の「マイン」は「Mine」のルビ。なお、訳者は原文の以下の部分をごっそり省略してしまっている。
*
"Oh,
I know!" exclaimed Alice, who had not attended to this last remark,
"it's a vegetable. It doesn't look like one, but it is."
"I
quite agree with you," said the Duchess, "and the moral of that
is—'Be what you would seem to be '—or, if you'd like it put more simply—'Never
imagine yourself not to be otherwise than what it might appear to others that
what you were or might have been was not otherwise than what you had been would
have appeared to them to be otherwise.'"
"I
think I should understand that better," Alice said very politely, "if
I had it written down: but I can't quite follow it as you say it."
"That's
nothing to what I could say if I chose," the Duchess replied, in a pleased
tone.
"Pray
don't trouble yourself to say it any longer than that," said Alice.
"Oh,
don't talk about trouble!" said the Duchess. "I make you a present of
everything I've said as yet."
"A
cheap sort of present!" thought Alice. "I'm glad they don't give
birthday presents like that!" But she did not venture to say it out loud.
*
青空文庫の大久保ゆう氏の訳「アリスはふしぎの国で」から当該箇所を引用させていただく(当該訳は著作権があるが、引用許容の範囲内と判断する。以下、同じ)。
《引用開始》
「あ、わかった!」とさけぶアリス、相手の決めぜりふなんて聞いちゃいない。「野菜やさいね、それっぽくはないけど、きっとそう。」
「そちの言うとおり。」と言い出す御前さま。「そしてそこから学べる教えとは――『そう見えるのならそうなのだ。』――すなわちさらにわかりよう言えば――『おのれのことを、ひとの目にうつるものとはちがうなどとは思わんこと、かつてそうであった、そうであったかもしれない、事実そうであったおのれとはちがうなどとは、それもまたひとの目にはちがってうつるのだから。』」
「たぶん、書き起こしたものがあれば、」とまじめに取り合うアリス、「もっとよくわかると思うんだけど。おっしゃってること、ちょっとついていけなくてよ。」
「こんなもの、ものは言いよう、大したことない。」と返す御前さまはごまんえつ。
「ならもうわざわざしていただかなくてけっこう!」とアリス。
「そんなわざわざだなんて!」と御前さま。「これまでの言葉をみな、そちに進ぜよう。」
「やっすいおくりものね!」と思うアリス。「みんながたんじょう日プレゼントにこんなのくれなくてよかった!」でも思い切って声に出すことはできずじまい。
《引用終了》
これから分かるように、次の「アリスは考へてゐました。」という一文は原文にはない。即ち、訳者が上記の箇所を子供には難解と思ったか、又は忙しくて訳すのが面倒だったか、或いは、訳者(前章の注で記したように、ここからは推定で菊池寛)に失礼乍ら、意味が通るように上手く訳せなかったのか、の孰れかは不明ながら、ともかくも――誤魔化して繋げるために配した一文である――ということである。]
アリスは考へてゐました。「また考へて居るね。」と公爵夫人は尖つた小さい顎で、アリスの肩を突きながら尋ねました。
「わたし考へる權利があるわ。」とアリスは少しうるさく考へましたので、きつく言ひました。
「それは丁度豚に羽があつて、とべる權利があるといふやうなものだ、そしてそれの、お――。」
[やぶちゃん注:「お――」の部分は“and the m—”で前の公爵夫人の言い回しから“moral”の頭文字、本文の「訓(をしえ)」であると推定出来るし、直後でもそれを明示してはいる。しかし訳者は「お――」としている。細かいようだが、ここは「を――」でなくてはならないし、そうなっていて初めて子供たちは、これはここで即座に(直後の文を読まずとも)彼女が「訓(をしへ)」と言おうとしたんだと分かる訳で(そういう想像や推理は子供たちの読書の中では実は非常に大切なことだと私は思っている)、すこぶる意地の悪い、悪訳だとしか私には思われない。]
けれどもこのとき、アリスがひどく驚きましたことには、公爵夫人が大好きな「訓(をいへ)」といふ言葉を半分言ひかけたときに、聲が消えてしまつて、からんで居た腕が、ふるへ始めたのでした。アリスは上を見ました。すると例の女王(ぢよわう)が腕を組み、人道雲のやうなしかめ顏(がほ)をして、二人の前に立つてゐるのでした。
「陛下、よいお天氣でございます。」公爵夫人は低い小さい聲でいひました。
「さあ、わたしはお前に命令をする。」と女王は地團太を踏んで、大聲で言ひました。「お前の身(み)か、それともお前の首か、どつちかをかつとばしてしまはねばならん。さあ、たつた今だ。どつちか一つ選ぶがいい。」公爵夫人は、無論いい方を選んで、直ぐに其場から身を退(しりぞ)いてしまひました。
「さあ勝負をしよう。」と女王はアリスに言ひました。アリスは驚きのあまり、一言(こと)もいへませんでした。けれども、のそのそと女王のあとからついて、球打場(たまうちば)へいきました。外のお客達は、女王のゐないのをいい仕合せにして、樹蔭(こかげ)で休んで居ました。けれども女王を見るや否や、急いで勝負にとりかかえいました。女王はただかういつただけでした。「お前たも一分間でも、のらくらすると一命(めい)がないぞ。」
みんなが勝負をやつて居る間、女王はたえず他の相手と喧嘩(けんくわ)をしてゐて、「あの男は打首(うちくび)にしろ。」とか、「あの女を打首にしろ。」とか言つてゐました。女王が宣告をした人達は、兵士に拘引されました。無論この兵士たちは、罪人や拘引するために、アーチになつてゐるのを、止めなければなりませんでしたから、三十分も經つか經たぬうちに、アーチがなくなつてしまひ、球を打つ者も王樣と女王とアリスを除いた、佳の者は全部拘引されて、死刑の宣告をうけました。
[やぶちゃん注:この間にも訳の省略がある。
*
Then
the Queen left off, quite out of breath, and said to Alice, "Have you seen
the Mock Turtle yet?"
"No,"
said Alice. "I don't even know what a Mock Turtle is."
"It's
the thing Mock Turtle Soup is made from," said the Queen.
"I
never saw one, or heard of one," said Alice.
"Come
on, then," said the Queen, "and he shall tell you his history."
*
同じく大久保ゆう氏の当該箇所を引用しておく。
《引用開始》
そこでクイーンも手をとめて、ぜえはあ言いながら、アリスに一言、「そちはもうウミガメフーミに会うたか?」
「いいえ。」とアリス。「そもそもウミガメフーミが何だかぞんじませんし。」
「ウミガメフーミスープのもとになるものよの。」とクイーン。
「そんなの見たことも聞いたこともなくてよ。」とアリス。
「ならばこちへ。」とクイーン、「さすれば本人がいわれを教えてくれよう。」
《引用終了》
「ウミガメフーミ」は本訳での「まがひ海龜」のこと。]
二人が歩いていきましたとき、アリスは王樣が低い聲で一同にむかつて「お前たちみんな許してやる。」といつて居るのを聞きました。「ああ、よかつた。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。何故ならアリスは女王が、こんなに多勢(おほぜい)のものに死刑を言ひ渡したので、かなしく思つてゐたからでした。
二人は間もなく、グリフオンが日向(ひなた)ぼつこをして、ぐうぐう寢て居るところへやつてきました。(若(も)しグリフオンを知らない人は、繪をごらんなさい)「お起き、なまけ者。」と女王がいひました。「此のお孃さんを擬(まが)ひの海龜のところへお連れして、あれの身の上話を聞かした上げてくれ、わたし戻つて、先きほど命じておいた、死刑の監督をしなければならないのだから。」かういつて女王は、アリスをグリフオンにまかせて去つてしまひました。アリスはこの動物の顏が氣に入りませんでしたけれども、大體に於て、あの野蠻な女王についていくのも、この動物と一緒に居るのも、安全さの程度は似たり寄つたりだと思ひましたので、じつと待つてゐました。
[やぶちゃん注:「グリフオン」(Gryphon:ラテン語ではグリュプス(gryps))は、鷲或いは鷹の翼と上半身で、ライオンの下半身を持つ伝説上の生物。ウィキの「グリフォン」によれば、語源はギリシア語のグリュプス、「曲がった嘴」の意。『このことから、しばしばギリシア神話に登場するといわれることがあるが、これは誤りである。しかし古くから多くの物語に登場しており(ヘロドトスの『歴史』など)、伝説の生物としての歴史は古い』。『鷲の部分は金色で、ライオンの部分はキリストの人性を表した白であるともいう。コーカサス山中に住み、鋭い鈎爪で牛や馬をまとめて数頭掴んで飛べたという。紋章学では、グリフォンは黄金を発見し守るという言い伝えから、「知識」を象徴する図像として用いられ、また、鳥の王・獣の王が合体しているため、「王家」の象徴としてももてはやされた』。『グリフォンには重要な役目が』二つあり、一つは『ゼウスやアポローン等の天上の神々の車を引くことであるが、ギリシャ神話の女神ネメシスの車を引くグリフォンは、ほかのグリフォンと違い身体も翼も漆黒である。馬を目の敵にしており、馬を喰うと言われるが、これは同じ戦車を引く役目を持つ馬をライバル視しているためである』。二つ目は、『黄金を守る、あるいは、ディオニューソスのクラテール(酒甕)を守ることとされる』。『自身が守る黄金を求める人間を引き裂くといわれて』おり、『その地は北方のヒュペルボレイオイ人の国とアリマスポイ人の地の国にあるリーパイオス(Rhipaios))山脈とされるが、エチオピア、インドの砂漠(現在ではパキスタン近辺か)などの異説もある』。なお、『グリフォンは、様々な紋章や意匠に利用されて』いるが、別に『「七つの大罪」の一つである「傲慢」を象徴する動物として描かれることもある』。『ヘロドトスは『歴史』の中で翼のある怪物としてグリフォンに触れ、プリニウスは『博物誌』』の第十巻の七十の『中ですでに伝説の生物として語っている』。十四世紀には『架空の人物であるジョン・マンデヴィル(John Mandeville)によって書かれたとされる『旅行記』(東方旅行記、東方諸国旅行記)によって詳細な描写がなされ』てもいる。『またヨーロッパ中世においては、動物物語集等では悪魔として表されたものの、多くはキリストの象徴とされ、神学者のセビーリャのイシドールスも『語源』(Etymologiae)でその立場をとる。ダンテが「キリストの人性」をグリフォンの部位の色に表したと、ディドロン(Didron)によって解釈されるのは『神曲』「浄化篇」』第二十九曲での、『凱旋車を曳く場面である』とある。なお、本文でキャロル自身が指示しているので、“Wikisource”の“Alice's
Adventures in Wonderland (1866)/Chapter 9”から、ジョン・テニエル(John Tenniel)のグリフォンのイラストを以下に示しておく。
個人的に単体ではいい絵ではあるが、「この話」の「ここ」に相応しいそれかと言われると、やや留保したくなる。]
グリフオンは起(た)ち上つて目をこすりました。それから女王の姿が見えなくなる迄、ヂツと見てゐましたが、それからクツクツ笑ひだしましたで。「なんてかおしろいんだらう。」とグリフオンは半ば獨語(ひとりごと)の樣に、半ばアリスに言ひました。「何がかもしろいの。」とアリスが言ひました。
[やぶちゃん注:読んでいて、突如、次のシーンで「まがひ海龜」が喋り出すので分かる通り、ここも訳が省略されてしまっている。これは、シチュエーションを全く無視したひどい省略で、訳として破綻していると言わざるを得ない。子供たちをなめきっているというべきか。
*
"Why,
she," said the Gryphon. "It's all her fancy, that: they never
executes nobody, you know. Come on!"
"Everybody
says 'come on!' here," thought Alice, as she went slowly after it: "I
never was so ordered about before, in all my life, never!"
They
had not gone far before they saw the Mock Turtle in the distance, sitting sad
and lonely on a little ledge of rock, and, as they came nearer, Alice could
hear him sighing as if his heart would break. She pitied him deeply. "What
is his sorrow?" she asked the Gryphon, and the Gryphon answered, very
nearly in the same words as before, "It's all his fancy, that: he hasn't
got no sorrow, you know. Come on!"
So they
went up to the Mock Turtle, who looked at them with large eyes full of tears,
but said nothing.
"This
here young lady," said the Gryphon, "she wants for to know your
history, she do."
"I'll
tell it her," said the Mock Turtle in a deep, hollow tone: "sit down
both of you, and don't speak a word till I've finished."
So they
sat down, and nobody spoke for some minutes. Alice thought to herself, "I
don't see how he can ever finish, if he doesn't begin." But she waited
patiently.
*
同じく大久保ゆう氏の当該箇所を引用しておく。
《引用開始》
「あの女さ。」とグリフォン。「みんなあいつの思いこみでい、だれひとり処けいなんてされねえってことよ。こっちだ!」
「ここの方々『こっちだ』ばっかり。」と思いつつもアリスはそいつにゆっくりついていく。「生まれてこのかた、そんなふうに言いつけられたこと、なくてよ、なくってよ!」
歩いてほどなく遠くに見えてくるウミガメフーミ、いわおの小さなでっぱりに、ひとり悲しそうにこしかけていてね、近づくにつれ聞こえてくるそのため息、まるでむねがはりさけたみたい。だから心からかわいそうになって、「何が悲しくって?」とグリフォンにたずねたんだけど、グリフォンの答えは、さっきのとほとんど同じような言葉でね、「みんなあいつの思いこみでい、悲しいことなんてべつにありゃしねえ。こっちだ!」
で、ウミガメフーミのところまでたどりつくと、大きな目をうるうるさせて見てくるわりに、ものも言わない。
「こちらの姫君ひめぎみが、」とグリフォン、「おめえのいわれを知りてえんだとさ。」
「そちらに申します。」とウミガメフーミは、消え入りそうな声で、「おふたかたとも、おすわりくだせえ、しまいまでどうかお静かに。」
というわけで、こしを下ろして、しばしのあいだ一同だんまり。そこでアリスは考えごと、「始まらないなら、おしまいも何もないんじゃなくて?」でもじっとこらえる。
《引用終了》]
「むかし。」とまがひ海龜がとうとう、溜息をついて言ひました「わたしはほんとの海龜でした。」
この言葉のあと、又永い間みんな默りこんでしまひました。ただ時時グリフオンがヒツクルーと叫ぶのと。まがひ海龜が始終重くるしく啜(すす)り泣きする聲で、その靜けさが破られるばかりでした。アリスはもう少しで立ち上つて、「面白いか話をして下すつて有難う。」と言ひかけました。が、何かもつと話し出すにちがひないと、思はないわけにいきませんでしたので、靜かに坐つて何も言ひませんでした。
「わたし達が小さかつたとき。」とまがひ海龜は、遂に前よりズツとかとなしくいひつづけました。けれども相變らず時時啜り泣きをしました。
「海の中の學校にいきました。先生は年をとつた海龜でした。――わたし達は先生のことを正覺坊(しやうがくばう)先生、といつもいつてゐました――。」
「何故正覺坊先生といふんです。」とアリスは尋ねました。
「なぜつて小學本(せいがくぼん)(正覺坊)を教へますからさ。」とまがひ海龜は怒つていひました。「ほんとにお前は馬鹿だ。」
[やぶちゃん注:以上の箇所は翻案されている。原文はこうなっている。
*
"When
we were little," the Mock Turtle went on at last, more calmly, though
still sobbing a little now and then, "we went to school in the sea. The
master was an old Turtle—we used to call him Tortoise—"
"Why
did you call him Tortoise, if he wasn't one?" Alice asked.
"We
called him Tortoise, because he taught us," said the Mock Turtle angrily;
"really you are very dull!"
*
ここはキャロルの言葉遊びがよく判る福島正実氏の訳(昭和五〇(一九七五)年角川文庫刊)当該箇所を引用しておく。
《引用開始》
「私たちの子どものときは」と亀もどきがようやくのことでことばを進めました。前よも落ち着いていましたが、まだ時々すすり泣きがまじっていました。「海の中の学校へ行ったもんだ。先生は年とった海亀(タートル)だったが――私たちは陸亀(トートイス)と呼んでいたっけ――」
「なぜ、陸亀(トートイス)じゃないのに陸亀(トートイス)なんて呼んだの?」と、アリスがききました。
「そりゃ、先生が勉強を教えて(トートアス)くれたからからそう呼んだんだよ」と、亀もどきは、腹立たしげにいいました。「まったく、おまえさんは鈍いなあ!」
《引用終了》
以上の( )は総てルビで、最後のそれは「教えて」の部分に振られてある。そして上記の「まったく、おまえさんは鈍いなあ!」の後に福島氏は二行割注を入れておられ、そこには『tortoise(陸亀)と taught us(われわれに教えた)の語呂合わせのしゃれ』と解説しておられる。「陸亀」(land tortoise)は爬虫綱双弓亜綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科リクガメ科 Testudinidae に属する陸生カメ類の総称。総て草食性で、四十一種ほどがヨーロッパ南部・アフリカサハラ砂漠以南・マダガスカル・アジア南部・アメリカ大陸に分布している。大型種が多く,特にリクガメ属Geochelone
にはリクガメ中最大種であるゾウガメ二種(ガラパゴスゾウガメ Geochelone nigra・アルダブラゾウガメ Dipsochelys dussumieri であるが、前者は亜種が多数いる)の甲長一・二メートルを始め、アフリカ産のケヅメリクガメ Geochelone sulcata が甲長七十五センチメートル、ヒョウモンリクガメ Geochelone pardalis が六十五センチメートル、南アメリカ産アカアシリクガメ Geochelone carbonaria などが五十センチメートルにも達する。他方,ギリシアガメ属 Testudo には小型種が多く、北アフリカ産エジプトリクガメTestudo
kleinmanni は甲長十二センチメートルにしかならない。リクガメ類は背甲がドーム状に盛り上がって堅く、重い甲を支える四肢は柱状で太く爪が丸みを帯びる。四肢は堅い鱗で覆われ,頭頸(とうけい)部や四肢を甲内に引っ込めた後の隙間を塞ぐのに役だつ。草原・荒地・砂漠など乾いた場所に棲息し、殆んど水に入らない。ホシガメGeochelone
elegans など、甲羅に美しい斑紋をもつ種も多い(平凡社「世界大百科事典」松井孝爾氏の記載に加筆した)。一方、「海亀」(marine turtle)は四肢が櫂(かい)状に扁平になっている海洋性カメ類の総称で、潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科 Cheloniidae とオサガメ(長亀)科 Dermochelyidae とに分ける(以下、同前の同じ松井氏による記載を同様に処理したが、分類部分はより新しいと思われるウィキの「ウミガメ」で変更を加えた)。世界の熱帯・亜熱帯の海域に広く分布し、日本近海を含む温帯地方にも回遊してくる。完全な海生種で、陸地には産卵期にしか上陸しないが、アオウミガメ Chelonia mydas が日光浴のために無人島の砂浜にやってくることが知られている。現生ウミガメ類の分類には諸説あるが、ウミガメ科Cheloniidaeの方を骨格の違いでアオウミガメ亜科Cheloniinae とアカウミガメ亜科 Carettinae の二グループに分け、前者アオウミガメ亜科にはアオウミガメ属アオウミガメChelonia
mydas・同亜種クロウミガメ Chelonia
mydas agassizii 及びタイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata・ヒラタウミガメ属ヒラタウミガメ Natator depressusを、後者にはアカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta・ヒメウミガメ属ヒメウミガメ Lepidochelys olivacea・ヒメウミガメ属ケンプヒメウミガメLepidochelys
kempii を配する。ウミガメ上科オサガメ科 Dermochelyidae は一属一種でオサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea が置かれる。海洋生活に適応したウミガメ類の甲羅は扁平で、他のカメ類に比すと退化しており、頭部と四肢については甲内に完全には引き込むことが出来ない。甲を覆う鱗板は滑らかで、種によって数や形状が異なる。最も遊泳力の優れたオサガメの甲は軽量で、骨片の集合からなり、鱗板も欠く。櫂状の前肢も他のウミガメ類よりも長く強力で爪も持たない。ウミガメ類はアオウミガメが海藻を主食とする外は雑食性で、海藻・魚類・甲殻類・クラゲ・ウニなどを食べる。通常はアマモ(単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina 。異名「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」は本邦で最も長い植物名として知られる)などが生えた砂地の、波静かな浅い海に棲息するが、産卵期には集団で長距離を大移動し、産卵場に押し寄せる。産卵場は岩礁に囲まれた砂浜が選ばれ、同一個体が一シーズンに二、三回、多い場合は六回も産卵を行うため、その間に休息が必要となり、沖合に休息場所としての浅瀬がある場所が好適地とされる。夜間、♀だけが砂浜に上陸、高潮線よりも上の砂地に前肢で甲が隠れるほどの穴を掘り、次いで、後肢で二十~六十センチメートルほどの深い穴を掘って産卵する。多いものは一度に百五十から二百個ほどのピンポン球のような卵を産み、砂をかけて穴を埋めてから海に帰る。その間は約一時間ほどで卵は八週から十週間ほどで孵化し、夜明け頃、子ガメは一つの集団となって穴から這い出し、海に向かって走る。この際、子ガメが海の方角を知るのは海面の光りの反射に基づくのではないかと考えられている。子ガメは海鳥や魚の餌食となり、成長するのは極めて少数に過ぎない。ウミガメ類はタイマイの鼈甲を始めとして、甲羅や皮が細工物の材料となるため、また、卵が産卵する地域では重要な蛋白源となることから乱獲され、激減してしまった。現在では、総ての種が厳重な保護下に置かれ、人工増殖も世界各地で行われている(特にキューバのそれが知られる)。日本にはアカウミガメが南西諸島から千葉県までの太平洋沿岸に上陸して産卵し、アオウミガメが小笠原諸島・屋久島、タイマイが南西諸島に上陸してくる。現在、本邦では父島や沖繩でアオウミガメの人工増殖が試みられている。]
「こんな易しい事を聽くなんて、恥づかしく思はなければいけない。」とグリフオンはつけ足(だ)して言ひました。それからみんな默りこくつて、可哀さうなアリスをヂツと見ましたので、アリスは地(ち)の中にでも入つていきたいやうな氣がしました。やがてグリフオンは、まがひ海龜に言ひました。「おぢさん、さあつづけて。こんなことに日を暮しなさんな。そこでまがひ海龜は次のやうに言ひ出しました。
「さうです、海の中の學校にいきました。お前さん信じないかも知れないがね――。」
「わたし信じないなんて言やしないわ。」とアリスはさへぎつて言ひました。
「お前さん言つたよ。」とまがひ海龜は言ひました。「おだまり。」とグリフオンはアリスが、又口を出さないうちにいひ加へました。まがひ海龜はつづけて言ひました。
「一番いい教育をうけたよ。――ほんとにわたしたちは、毎日學校にいつたのだ。」
「わたしだつておひるの學校に行つたわ。」とアリスが言ひました。「お前さん、そんなことを、そんなに自慢するに及ばないわ。」
「課外もあつたのかい。」とまがひ海龜は一寸心配さうに訊きました。
「ええ。」とアリスは言ひました。「フランス語と音樂を習つたわ。」
「そして洗濯は。」とまがひ海龜は言ひました。
「そんなもの習はないわ。」とアリスは怒つて言ひました。
「ああ、それぢやか前さんの學校は、ほんとに良い學校ぢやなかつたねえ。」とまがひ海龜は、大層安心したやうに言ひました。「そして、わたしたちの學校では月謝袋の終(しま)ひに、フランス語、音樂及(および)洗濯――其他と書いてあるよ。」「お前さん、そんが課目なんか、さう要らなかつたでせう。」とアリスが言ひました。「海の底にすんでゐるのに。」
[やぶちゃん注:「フランス語、音樂及洗濯――其他」の部分は原文は“'French, music, and washing—extra.'”で「其他」の意ではなく、「特別」「課外講義」「割増料金」の意で、福島正実氏は『別会計』と訳しておられ、直後の「まがひ海龜」の台詞と合致する。]
「ところが習ふことができなかつたんだよ。」とまがひ海龜は、溜息をついて言ひました。「それでわたしは、正課だけをやつたんだよ。」
「それはどんなもの。」とアリスは質(たづ)ねました。
「まづ初めは、勿論、千鳥足(ちどりあし)だの、からだのくねり曲(ま)げさ。」とまがひ海龜は答へました。「それからいろいろな算術に、野心(やしん)術、憂晴(うさばらし)術、醜顏(しうがん)術、それに嘲弄(ちやうらう)術。」
[やぶちゃん注:「算術」“arithmetic”とあるように、以下の変な「術」というのは「割り算」「掛け算」などの「~算(ざん)」に相当するものである。原文を示すと、
*
Reeling
and Writhing, of course, to begin with," the Mock Turtle replied:
"and then the different branches of Arithmetic—Ambition, Distraction,
Uglification, and Derision."
*
ここを福島正実氏は、
《引用開始》
「まずよろめき方(リーリング)にもだえ方(ライジング)はもちろんやった」と亀もどきが答えます。「それから、算数の四つの部門――野心算(アンビジョン)、失意算(デイストラクション)、台無算(アグリフィケーション)、それに嘲弄算(デリジョン)などあったよ」
《引用終了》
ここに割注して、『reeling は reading(読み方) ambition は addition(足し算) distraction は subtraction(引き算) uglification は multiplication(掛け算)derision は division(割り算)のそれぞれもじり』とある。眼から鱗。]
「醜顏術つて、わたし聞いたことがないわ。」とアリスは思ひ切つていひました。「それはなんなの。」
グリフオンは驚いて、前足を二本宙(ちう)に上げました。そして「醜顏術つて聞いた事がないんだつて。」と叫びました。
「お前は美しくするといふことは、知つて居るだらう。」
「ええ。」とアリスは考へ込んで言ひました。
「それは――何でも――もつと綺麗にすることですわ。」
「ふん、それでゐて、お前さん顏を醜くくするといふことが分らないなら、お前さんは阿呆だよ。」
アリスは、もうこれ以上醜顏術について質問する元氣はありませんでした。それだから、まがひ海龜の方を仰いて「外に何を習つたの。」と言ひました。
「神祕學があつた。」とまがひ海龜は、課目を鰭で算へながら答へました。
「さうなんだよ。さうなんだよ。」と今度はグリフオンが溜息をついて言ひました。そしてこの二匹の動物は、前足で二人とも顏をかくしました。
[やぶちゃん注:この会話もおかしい。二人の仕草の意味もそのために分からない。実はやはり、ここにも訳の省略が『「神祕學があつた。」とまがひ海龜は、課目を鰭で算へながら答へました。』と『「さうなんだよ。さうなんだよ。」と今度はグリフオンが溜息をついて言ひました。そしてこの二匹の動物は、前足で二人とも顏をかくしました。』との間にあるのである。当該の前後を入れて、原文を示す。
*
"Well,
there was Mystery," the Mock Turtle replied, counting off the subjects on
his flappers,—"Mystery, ancient and modern, with Seaography: then
Drawling—the Drawling-master was an old conger-eel, that used to come once a
week: he taught us Drawling, Stretching, and Fainting in Coils."
"What
was that like?" said Alice.
"Well,
I can't show it you, myself," the Mock Turtle said: "I'm too stiff.
And the Gryphon never learnt it."
"Hadn't
time," said the Gryphon: "I went to the Classical master, though. He
was an old crab, he was."
"I
never went to him," the Mock Turtle said with a sigh: "he taught
Laughing and Grief, they used to say."
"So
he did, so he did," said the Gryphon, sighing in his turn, and both
creatures hid their faces in their paws.
*
ここも福島正実氏の訳で引く。
《引用開始》
「そうだね、秘密(ミステリー)があったな」と亀もどきはひれで課目を数えながら答えました。「古代秘密と現代秘密だ。それに海理学(シーオグラフィー)それから、のろのろ臥法(ドローリング)もあった。のろのろ臥法の先生は年寄のあなごで週に一度ずつ来たよ。のろのろ臥(ドローリング)と、のびのび臥(ストレッチング)ととぐろ臥(フェインティング・イン・コイル)を教えにね」
「それはどんなものなの?」とアリスがききまもた。
「ああ、私には、ちょっとやっては見せられないんだ」と、亀まがいはいいました。「私はからだがかたいから。それにグリフォンは習ってないし」
「時間がなかったんだ」とグリフォンはいいました。「でも、おれは古典は習ったぜ。古典の先生は、年寄りの蟹だったよ。そうとも」
「私はその先生には習わなかった」と亀もどきはため息をつきながらいいました。「笑い方(ラフィング)と悲しみ方(グリーフ)を教えていたっていう話だけど」「そうだった」とグリフォンが自分もため息をついていいました。そして、二人とも、手で顔をおおいました。
《引用終了》
福島氏は「亀もどき」の「秘密」の長い台詞の最後(①)と、「笑い方(ラフィング)と悲しみ方(グリーフ)を教えていたっていう話だけど」という台詞の後(②)に以下の割注を挟んでおられる。
①『mystery はhistory(歴史) seaography は Geography(地理) drawling は drawing(絵画) stretching は sketching(スケッチ) fainting in coil(とぐろを巻いて気絶する)は paint in oil(油絵)のもじり』
②『laughing は Latin(ラテン語) Grief は Greek(ギリシャ語)のもじり』
またしても、目から鱗、陸から海亀である。]
「そして一日に何時間授業があつたの。」とアリスは話の題をかへようと思つて、思つて、あわてて言ひました。
「第一日は十時間あつたよ。」まがひ海龜は言ひました「第二日目は九時間それから段段と滅つていくのだ。」
「ずゐぶん珍らしいやり方だわねえ。」とアリスは言ひました。
「それが授業(Lesson(レツスン))(レツスン(Lessen)には段段減つていくといふ意味があります、それをしやれたのです)といはれるわけだ。」とグリフオンは言ひました。」「何故つて、毎日毎日レツスン(授業と減つていくといふ二つの意味)していくからさ。」
このことはアリスには初耳でした。それで暫くのあひだ考へこんでゐましたか、やつとかういひだしました。「それでは十一日目はお休み日にちがひないねえ。」
「無論さうだよ。」とまがひ海龜はいひました。「それでは十一日目はどうしたの。」とアリスけ熱心になつて聞きました。
「それでレツスンは終りさ。」とグリフオンは間(あひだ)から目を出して、キツパリと言ひました。「さあ、今度は遊戯の話でもこの子に聞かせてやつてくれ。
« 深夜の耳(村山槐多自筆草稿断片より 附「深夜の耳」やぶちゃん完全復元版) | トップページ | 柳田國男 蝸牛考 初版(14) 單純から複雜へ »