日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (4) 鷹狩その四(終り)
図―744
図―745
図―746
隼を捕えてそれを訓練する方法は興味が深い。隼を捕えるには、真中が大きく、輪を入れてひろげた長い簡形の網の中へ、雀を入れたものを使用する。この両端を杙(くい)にしばりつけて、地面に置くこと、図744の如くする。この簡の網を横切って、極めて細い糸で編んだ、網目の広い大きな網を、二本の竿にかける。その大きさは高さ六フィート、幅八フィートか十フィートで、上方の細い竹竿と、地面にある割竹とから、容易に外すことが出来るようにかけてある(図745)。雀を捕えるには、鷹匠は頭上を雀の群がとんで行くのを見ていて、呼子で隼の鳴声に似た者を立てる。雀は驚いて直ちに地面に舞い下りるから、鷹匠は網を振り廻して容易に数羽を拾える。この一羽を筒形の、網の内に入れ、おとりに使用する。野生の隼は網の上をとんでいて、雀が筒形の網の中にいるのを見つけ、それに向ってサッと舞い下ると、雀は網の他端へ逃げ、これを追う隼は縦網にぶつかって、直ちにこんがらかって了う。鷹匠は網の作用を私に説明する為に、紐をまるめた大きな球を網にぶつけた。すると網は即座に四隅から外れて、球はそれにつつまれた。捕えた隼は暗い部屋に入れ、食物も飲料も与えず、文字通り餓死させられかけ、ひょろひょろになるので、取扱うことが出来る。鷹匠はそこで顔を布でつつんでその部屋に入り、隼を一時間手でつかんだ上、それに雀の肉の少量を与える。これをしばらくの間、毎日くりかえす。
[やぶちゃん注:「高さ六フィート、幅八フィートか十フィート」高さ約一・八三メートル、幅二・四四或いは三メートル。]
最後に彼は、布を取って部屋に入り、徐々に部屋に光線を入れ、一日ごとに光を強くして行く内に、隼は完全に馴れて飼主を覚える。こうなれば隼は、真昼の光線にあててもたじろがず、誰でもそれを持つことが出来る。それは決して逃げようとせず、箱を叩いて合図すると飼主のところへ来てその手にとまり、全体として合理的な、そして行儀のいい鳥である。鷹の訓練には三十日から四十日かかる。この日使用した隼の一羽は、一ケ月ちょっと前までは、野生の鳥であった。鷹狩に適したこの場所は、二百年以上、この目的に使用されて来た。図746は、運河の一つの入口にある、小さな小舎兼見張所である。男は穀物を小さな漏斗に流し入れ、同時に穴から外を見張っている。何個かの木造の囮(おとり)鴨が、他の鴨と一緒に水の上に浮いていたが、如何にもよく似せてあるので、見わけるのが至極困難であった。
[やぶちゃん注:「二百年以上」明治一五(一八八二)年の二百年前は天和二(一六八二)年で、第五代将軍徳川綱吉の頃となる。
「何個かの木造の囮(おとり)鴨が、他の鴨と一緒に水の上に浮いていたが、如何にもよく似せてあるので、見わけるのが至極困難であった」デコイ(decoy)を生物学者のモースがかく言うのである! 当時の日本の匠(たくみ)のレベルの高さを知るべし!]
外国人は、何故日本人が、彼等が鳥に向ってパンパン発砲して廻ることに反対するのか、不思議に思う。発砲すると、広い区域にわたって、鳥が池から恐れて逃げて了う。上述のように、鷹狩をしたり網を用いたりしていれば、いつ迄も狩を続けることが出来る。
これは、たとえ鴨を食卓にのせる為に捕えるにしても、残酷な遊びのように思われた。すべてのことが静かに、いささかの興奮も無くして行われたことは、如何に屢々この遊びが行われるかを示していた。
[やぶちゃん注:モース先生、鉄砲で狩りをするのも、残酷なことに何ら、変わりはありんせん!!!]
我々は、初めて見たこの古い遊びに、大きに面白くなり、ドクタアは国へ帰ったらこれを始めると誓言したりした。
[やぶちゃん注:モース先生、正直! だから好きさ!]
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