日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十六章 鷹狩その他 (6) 凧について(Ⅱ)(終り)
図718は長さ三フィートもある紙鳶の写生図で、点線はその前面で、糸が紙鳶を支える主な糸に結びつく可くつけられる場所を示す。子供達は合衆国の子供達がすると同じように、紙の円盤を糸にのせて上へあがらせる。我々はこの紙を「使者」と称したが、日本の子供はこれを「猿」と呼ぶ。一つの提灯、屢々二つの提灯を送りあげるが、夜間にはそれに火を入れる。紙鳶から、それをあげる糸に結びつく糸は数が多く、そして非常に長い。これ等の糸は、枠をなす竹の条片が交る点から、上からも下からも出ているらしく、そして大きな紙鳶では、条片が上下左右斜にあるので、それ等の交叉点は沢山ある(図749)。我々の紙鳶あげは日本の方法や装置に比較すると、お粗末極るものである。男の子の群が、その殆どすべてが背中に赤坊をくくりつけて、統鳶をあげているのは、奇妙な光景である(図750)。
[やぶちゃん注:前注で告白した通り、私は凧に冥い。「使者」(原文“messengers”)とか「猿」(原文“monkeys”)とか言われても全く不明である。凧の上げ方をネット見ても、そういう凧上げのプレの手法に行き当たらない。悪しからず。
「三フィート」九十一・四センチメートル。]
図―749[やぶちゃん注:三つあるものの内、一番上の図。]
図―750[やぶちゃん注:三つあるものの、中央にある図。]
図―751[やぶちゃん注:三つあるものの内、一番下の図。]
長崎で普通に見受ける紙鳶は図751に示す。只一本のまっすぐな竹の条片の上部には、それを引っかける鉤があり、頂点から、数インチ下に長さ四フィートの竹の条片を縦の条片に結びつけ、それを弓のように鸞曲させる。この弓の両端を引きしめる二本の糸は、四フィート下で縦の骨に結ばれる。この骨組の上に紙を張りつけ、約五分の一の円欠を形づくる。紐は弓の結び目と、紙鳶の底部とに取りつけ前方へ六フィート出ている。紙鳶の下には、非常に長い尾がぶら下る。
[やぶちゃん注:ウィキの「凧」から歴史と長崎のそれ(長崎では特に凧のことを「ハタ」と呼ぶ)についての記載を引いておく。『日本では、平安時代中期に作られた辞書『和名抄』に凧に関する記述が登場し、その頃までには伝わっていたと思われる』。『日本の伝統的な和凧は竹の骨組みに和紙を張った凧である。長方形の角凧の他、六角形の六角凧、奴(やっこ)が手を広げたような形をしている奴凧など、各地方独特のさまざまな和凧がある。凧に弓状の「うなり」をつけ、ブンブンと音を鳴らせながら揚げることもある。凧は安定度を増すために、尻尾(しっぽ)と呼ばれる細長い紙(ビニールや竹の場合もある)を付けることがある。尻尾は、真ん中に』一本付ける場合と両端に二本付ける場合とがある。『尻尾を付けると回転や横ぶれを防ぐことができ、真上に揚がるように制御しやすくなる』。十四世紀頃からは、『交易船によって南方系の菱形凧が長崎に持ちこまれはじめ』、十七世紀には『出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じたことから、南蛮船の旗の模様から長崎では凧をハタと呼び』、ここに出るような菱形の凧が盛んになった。『これは、中近東やインドが発祥と言われる菱形凧が』十四~十五世紀の『大航海時代にヨーロッパに伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる』とある。『江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだった』。『長崎でも、農作物などに被害を与えるとして幾度となく禁止令が出された』。『競技用の凧(ケンカ凧)には、相手の凧の糸を切るために、ガラスの粉を松ヤニなどで糸にひいたり(長崎のビードロ引き)、刃を仕込んだ雁木をつけたりもした』(これについてもモースは既に「第十五章 日本の一と冬 凧上げ」で子細に記載している)。『明治時代以降、電線が増えるに従い、市中での凧揚げは減っていくが、正月や節句の子供の遊びや祭りの楽しみとして続いた』。
「数インチ」一インチは二・五四センチメートル。
「四フィート」約一・二二メートル。
「円欠」原文は“a segment of a circle”。円弧のこと。
「六フィート」約一・八三メートル。]
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